若僧(にゃくそう)円位は北嶺を出で奥羽に遊び、その後に高野山に至りてはや幾年なれど、心のうちより曇り消え去ること未だ能わず、ただ人気ない庵に寂々とした焦慮を食むばかりの日々を送っている。
釈尊がごとき曇りなき境地は幾夜の果てか。あるいは恋か、さらには魔羅かの権化と化していたかつての自らに対する諸仏百万の思し召しが、斯様な苦悩のことであるのかと悔恨に至ったこと一度や二度ではない。朝に起きれば雀の声を聞きながら苔の混じった水を飲み、夜に伏せれば鵺鳥(とらつぐみ)の狂奔におののきながら土を食む。妻を棄て子を蹴倒して山野に遊んだ果てがこの怯懦(きょうだ)であることかと、痩せこけた頬を涙が伝う。なれど、人恋うとても辺りには円位を覗いて人影もない。鞍馬山に置き伏したころにはよくよくまどろみのさなかに見た、天狗や何かさえ居らないのだ。世の滅びがすべて集まったとしか思われぬ静寂(しじま)に沈み、彼はじゃあらじゃあらと数珠を鳴らして読経をしては、己が未熟を呪ったのである。
そのような出口なき寂しき日々が幾ら続いたか、それまで剃髪のゆえに汗の露を宿すばかりだった彼の頭にも、薄らと髪の毛が戻ってきた。痩せて骨格の出っ張り始めた頬にも、青々とした髭が生え始めていた。数珠越しにその髭を撫でながら、むふと円位はひとり笑う。理由のない笑いだった。意味さえない笑いだったかもしれない。世を儚んで仏を志した自分が、誰とも交われぬことをこうまで怖ろしく思っていることが、狂おしいまで可笑しい。そういう風に、無体な理由をつけなければ承りかねる狂気の縁に、彼はまさしく陥っていたのかもしれなかった。鼠さえその歯を削ることをためらうぼろの庵のただなかで、円位は壁をざりりと引っ掻いた。木の板の棘が爪のあいだに刺さり、血が流れた。否応なしに、彼は生きていることを実感しなければならなかった。
さらに数日が経った。
相も変わらず鳥々の呻きに鞭打たれながら土を食む日々で、円位のする読経はすっかり皮肉の意味を帯びている。自分を嗤うかのように上空を旋回する野鳥の群れを、逆に意のなかで弄ぶかのようないら立ちであった。ある夜、彼はついに狂気の瞬きに魅入られたのか、庵の外まで、数少ない財産のひとつであった数珠を投げ捨てた。それから狭苦しい庵のなかに寝転がり、してやったりと高笑いをした。数刻、不貞寝までした。けれど眼が醒めれば、相変わらず天は暗く朝は遠い。にわかに後悔が襲ってくる。いったいどういうわけなのか、この数刻ばかり消え去っていた信心が、再び噴き上がってきたのである。ほとんど四ツ足の獣のようになって、円位は庵から這い出した。近くの沢の岩の根に、数珠は水の流れに攫われることもなく引っ掛かっていた。
果たして彼の狂気は方向を変えた。この数月の不信心を自ら打ち砕いて糧にするかのように、一心不乱に経を唱えることばかりした。苔の混じった水も飲まなかった。土竜(もぐら)の耕した土も食まなかった。仏に帰依して人恋う気持ちを薄れさせることばかりが、今の彼にとっては至上のことだった。なれば、虫魚禽獣も斯様なことには三舎を避けると申すべきか、夜ごとやかましき鵺鳥も今は静か。またぞろ伸びて不格好な童子のようになった髪の毛にも煩わされることなく、円位はただ読経を続けていたのである。
さても、斯様の信心がいかなる縁を結びつけたのか――、今となっては誰も知る者はない。けれどもある払暁の頃、経を唱うるにも疲れが背筋を上り始めた円位の庵に、ひとり、“客”が訊ね来た。
「もし」
「誰(たれ)か……」
と、つい返してしまったのは、やはり未だ彼の心が俗界のそれに浸っていたからなのかもしれなかった。そも、一心に読経ばかりをくり返すというのも、ことさら孤独を遠ざけ自らの狂気を怖れてのこと。明けていく夜のなかで円位はじわと眼を剥いた。黄色く汚れた歯を軋る。乾ききった舌が水を探して唾を飲む。庵のなかから、彼はぐんと身を乗り出した。顔を隠す薄い紗の布の向こうから、痩せ細った法体(ほったい)を見下ろしているのは、ひとりの女なのである。
はッ! と、ばかり、円位は悔いる気持ちがあった。何の香を焚き染めたものか、女の身からは山野のにおいをはるかに超える香気が絶えることなく漂っている。紗の向こうに映える白い肌に、いま差し込む暁天の日を写し取ったようにほの赤い唇が膨らんでいる。そんな女のうつくしさに比べれば、自分はあまりにもみすぼらしく、薄汚い坊主ではなかったか。
「何者にござる。この私に」
身体をかすかに屈めながら、円位は答える。二十三の歳に出家剃髪をしてより久方ぶりに、魔羅(マーラ)の欲求が彼の身に覆いかぶさってきたからである。にこりと女は笑った。円位の、そんな失態を始めから見越していたかのような笑みであった。釣られて円位も笑った。笑うしかなかった。じいと見入ることしかできなかった。女の香気かうつくしさに中てられたからではなし。小袖から伸びる女の右腕が、およそその根からぐるりと白布に覆われていたからである。
「茨木とお呼びください」
と、女は言った。
茨木、と、円位は応ずる。満足げに女がうなずくのが解った。と同時に、彼の魔羅は急速に力を喪って死んでいく。よもや、“これ”は鬼ではあるまいか、未熟の自分を惑わして、頭から喰ろうてしまう鬼ではあるまいか。怖れがむくむくと湧きあがってくる。いちどは乗り出したわが身体を、彼は再び庵のなかまで引っ込めた。茨木は追っては来ない。ただやはり、じいと円位を見下ろしていた。
「御懸念には及びませぬ。何もあなたを襲うというのではなし」
「やはり鬼か、それとも蛇か」
「いずれにても良いではありませぬか。此度、わたしが庵に参ったは、あなたに頼みあってのこと」
さて、頼みとは。
顎をしゃくって円位は怪訝を呑み込んだ。女は鬼であることを否とせず。蛇であることもまた同じである。やはり化生の類にやあらん。山川草木、虫魚禽獣に根差せし魑魅魍魎の一種にやあらん。元をただせば、円位の祖とても大百足をびしりと射抜き、坂東乱せし平小次郎を討ち参らせた豪傑ではある。邪悪に打ち勝つ血脈は、現在(いま)のごときみすぼらしさのなかにも確かに宿っているはずであった。だけれど、いま勝っているのは血筋を嘉する(よみする)剛勇ではなく、一個の人としての好奇心だった。かてて加えて、数年ぶりに他人(ひと)とまともな話ができるという無上の喜びに違いない。いつか彼の眼に流れていた涙が、その証たるもの。
「頼みとは」
「人を蘇らせていただきたい。死したる人を」
「なに」
いちどきに、円位の涙も止まった。
「其はいずれの外法なりや。生死流転の無常を詠む、仏道の徒に問うべきことか」
「あなたの人恋う心持ちを見込んでのこと。蘇らせたい人は、わが友。この茨木の無二の友」
「なれど、私はあくまで人の身。斯様な外法のすべなど知らぬ」
「わたしが教えて差しあげる」
「なに」
「鬼の秘術。神仙の秘法。いずれも仏法にては外法の類なれど」
飢えた魚のように、円位は唇をぱくぱくとさせることしかできはしない。
仏道の徒たる自らに、あくまでこの茨木なる女は鬼の秘術で神仙の秘法で、死者蘇生をやらせようと目論んでいる。流れる汗はもはやほとんど氷のごときものである。何よりも、まず死人が生き返るというその一事がいかなる道理に反せしか。命がいつか終わるという、天意そのものに叛き奉ることになりはせぬかと。かつて旅路の途中、白蓮某とかいう尼僧が妖怪変化を扇動したがため、天魔怪魔の所業として捕らえられ、何処(いずこ)かに封じられたという噂を聞いたことがある。天地の道理に反するは、かほどに重きことである。
「茨木、そなたがやれば良いではないか。鬼や神仙の法を心得ておる、そなたが」
至極当然の円位の問いを、しかし、茨木はふるとかぶりをふって否という。紗の布の向こうで、暁色の唇がにわかに歪む。
「これ、この右腕をご覧なされませ。これの中身は空なのです。骨や肉さえ通らぬのです。わたしには右腕がありませぬ。それというのも、わが友の屍は朽ちてより長き時が経ってしまったため、右腕が喪われてしまいました。その喪われたものに代えるため、自ら斬り落としたがゆえのこと。斯様な身体では、いかなる術法にてもできるものではありませぬ」
「そうまでして……そうまでして蘇らせたきご友人か」
「ええ、とても。羅城の門にて出会うたときより。羅城の門にて、友が吟ずる詩を聞いてより」
ううんと円位は唸り込んだ。
まがりなりにも出家法体たる仏僧の身で、外道の術法に身を染むは甚だ恐るべき仕儀である。あるのは、やはり逡巡であった。なれどそこに逡巡の余地があるということは――すなわち、いま彼の意は事態の是非曲直はまず問わず、この話を受けるか否かを考えているということでもあるのだ。茨木の声が、蟲惑の色もて彼の理性をくすぐるのである。いちどは退いた魔羅の誘いのせいではなかった。寂々とした人気なき沈黙に、耐えかねていた円位である。死んだ人間を生の御許に呼び返すとなれば、いっときとはいえ寂しさも薄らぐ。ましてや、この茨木という女にもまた会える。
不格好に伸びた前髪を振り乱しながら、円位は再び身を乗り出す。せめても、御仏に対する申しわけのように、馬手(めて)には数珠を握り締めている。何度か唇を舐め、彼は首を縦に振った。紗の向こうで、茨木の嬉しげな微笑。
――――――
「“三千世界は眼前に尽き、十二因縁は心裏に空し”……」
ごくりと円位は唾を飲んだ。
唾を飲んで、それから器に汲み取っておいた水を口に含んだ。しかし、喉の奥まで飲み干すことはできなかった。驚愕と歓喜とが彼の喉をまったく塞いでしまったかのようである。器を庵の床――ほとんどが剥き出しの土でしかない――に置き、眼の前にて詠う者をじろと見た。裸体(はだか)のつくりは常人と変わらない。土と垢にまみれた円位自身の身体からすると、痩せて青白いその肉体の方が、皮肉げな生命の感を宿しているようにさえ見える。波打つ黒髪が頬に掛かり、その表情を少しだけ昏い色に見せる。“彼女”の眼は所在なさげに、と言うよりも、ただ動くものを負うばかりのつまらぬ獣のように、庵のなかを飛び回る幾匹かの羽虫を追いかけていた。身体の節々が固くて上手く動かぬのか、ときおり腕を指し伸ばして羽虫たちを捕まえようと試みるが、立ち上がるさえ“彼女”の身体では困難の一語、すぐに姿勢は崩れて倒れ込んでしまう。
そのたび、円位はその身を抱き起こしてやった。
先ほどから、何かの詩をしきりに誦しているのに反して、その身体はいやに冷たい。雪氷でできた骨を宿しているかのごとく。やはり、死体なのだと円位は思った。未だ立ち歩くことさえ上手くはできず、赤ん坊のように這って歩くことしかできはしない。何度払ってもしつこく円位にまとわりついてくる蚤や虱といった虫たちも、“彼女”にだけは、何があってもいっこう、近づこうとしないのであった。血の通うことなき、蘇った屍であるこの少女にだけは。
「“三千世界は眼前に尽き、十二因縁は心裏に空し”……」
同じ詩を、何度も何度も少女はくり返している。
深更に、あの茨木より教わった術法を幾十度目か試してようやく成った人の形。手足を備え、ものを喋る人の形。円位は嬉しくなった。あらかじめの取り決めでは、十日後の払暁に茨木がやって来るはずである。この少女を引き取りに来るのだ。周りには、少女以外の誰も居ない。そして、少女は詠うことにばかり専心して、円位のことは気にも留めていなかった。だから彼はほくそ笑んだ。否、ほくそ笑んだという言い方は、彼の名誉のためにはならないかもしれない。とにかく、彼は嬉しかったのである。鬼か神仙かの術法を己がものとしたことに。何より、もう直ぐ茨木に再会できるということに。
茨木がやって来るまでのあいだを、円位は少女と共に過ごすことになった。
もともと、彼がひとりで暮らすために結んだ庵であるから、男ひとりと少女ひとりが身を置くにしては少々手狭だ。それでも円位は何も不満を覚えることなく、狭いと感ずるぶんはむしろ自分が除ければ良いという考えのもと、寝るにしてもものを食べるにしても、少女に場を譲ってやった。
それから毎晩毎朝、彼には新しいひとつの習慣ができた。
朝夕の読経が済んだ後、いつもいつでも眠たげな顔ばかりしている少女に向けて、自分の身の上をぽつりぽつりと話し始めたのである。北家藤原の支流の出にしてその九代目であること、都に居たころは帝を御守りする誉れある役職についていたこと。しかし、妻子ある身でありながら、帝の傍近く侍る貴き女性(にょしょう)に懸想をしてしまい、その果てに恋破れて俗界を離れたこと。出家に際し、烏帽子を棄てて髻(もとどり)を晒し、それを切り取ったときの妻の泣き顔。取りすがるわが娘を突き飛ばし、出家の道を選んだことの辛さ。しかして、そうまでして選んだ仏道において、いま光明を失いかけていたこと。朝夕、ひとつずつ、彼は自分が何者かを、円位なる若僧が何であるかを少女に語った。そのたび、円位に対しての応え(いらえ)のように少女は歌を吟じた。三千世界は眼前に尽くると。細く、暗く、幽玄な声は、尽き去った三千世界の果てが、この狭い庵であるかのような幸福を、円位に抱かせるのだった。
そうして、茨木が再び参上するまでの数日が瞬く間に過ぎていった。
人恋しい寂しさのあまり、ほとんど死したるものと化していた円位の心も、今は明るい。庵に設けた、窓というには足りないくらいの小さな穴からは、金色に満ち満ちた月がぽっかりと夜天に浮かんでいるのが見える。寝巻さえなく、薄墨に染めた衣の上から、円位は茣蓙をひっ被って寝に入る。だが、数刻が経っても寝つけなかった。眠ろう眠ろうと思うたび、焦りばかりが募ってよけいに眠れなかった。たぶん……心底では解っていたせいだろう。この夜が終われば茨木が来て、少女が彼女の元に行ってしまうということが。それが、何より怖ろしかったのだろう。
たまらず、彼は跳ね起きた。
相も変わらず蚤のたかる頭をくしゃくしゃと掻きむしり、隣で眠っているはずの少女を見遣った。だが、そこに少女は居ない。ずり落ちたもう一枚の茣蓙だけが、月の光に照らされている。焔の爆ぜるみたいに、巨大な不安に駆られた円位である。よもや、茨木が約を違えて夜が明ける前に連れ去ってしまったのではないか。向こうは鬼や神仙の術を能くする相手である。それは十分にあり得ることという気がする。すっかり履き潰した草鞋を突っかけ、円位は急ぎぼろぼろの庵から飛び出した。もう彼の脳裏には、わずか十日ほどとはいえ、自分の寂しさを滅してくれた少女の姿しか刻まれてはいなかった。茨木のことももうどうでも良かった。いやむしろ、あれほど会いたいと思っていた茨木にさえ、少女を渡したくはなかったのだ。少女を生き返らせたのは円位である。今まで過ごしてきたのも円位である。今さらになって、他人に渡したくはない。
庵から少しの場所に、ちょっとした崖みたいに山肌が切り立った場所がある。沢まで水を汲みに行くとき、普段であれば足を滑らせぬよう気を払うそんな所さえ、今の円位にはもう眼に入っていなかった。全力で走るあまり、苔むした岩場に足を滑らせ、崖からその身を転ばした。おッ、と……悲鳴にもならぬ悲鳴が喉の奥から漏れ、岩に地面にぶつかる身体がきしりと痛む。血の流れたような熱さもある。崖下の地面にようやく落着したとき、円位の姿勢はまるで嬰児(みどりご)であった。手足や胴を折り畳み、この夜の不安からわが身を護る嬰児であった。
眼を見開き、円位は息荒く辺りを見回す。大小の岩を踏み越えながら、少女の姿を探していた。――居た。少女は、存外と直ぐに見つかった。やはり裸体のまま、沢の緩やかな流れに身を浸し、一心にその水を手で掬っている。降り注ぐ月光が、一条の矢のように沢の水に突き立っているのである。彼女は水面(みなも)に浮かぶ金色の痕跡へと、何度も何度も手を差し入れていた。
「何をしておる」
「月、きれい」
「そこに在るは、水に映った月。正真のものではない」
「空の月は取れない。水の上の月は、取れるかもしれない。手が届くから」
円位が少女を陸(おか)まで連れ戻したのは、その言葉を聞きも終わらぬうちであった。自身の着物が濡れるのも構わず、少女の胴に腕を回して半ば無理やり引きずり帰った。彼女は「ああ」とか「うう」とかいった意味のない呻きを漏らし、なおも沢の水面を――というよりも、水面に映った幻の月を惜しがっている。ろくに動かぬ腕を振り回し、月の光を探している。
「私じゃ。私が解るか。おまえに人の形が成るよう、術を為した者ぞ」
と、円位は呼びかける。
すると。
「円位。円位。円位、円位……」
幾度も幾度も、少女は円位の名を呟いた。
朝夕に彼女が、決まって吟じていた詩文のように。はっきりと、円位の名を呼んだ。
愛おしさに、円位は裸体のままの少女を抱きしめた。濡れそぼった水の滴の冷たさが、円位自身の命の熱を際立たせた。少女の身体の冷たさも、それはもはや自分のつくり主の持つ熱を、盛んに欲しているのではないかと思えるほどに。
肋(あばら)の浮き上がった薄い筋肉の上に、少女の乳房はあった。
幾許かの躊躇いを踏み越えさえたものが、少女に対する愛惜か、それとも単なる黒く燃える欲求だったのだろうか。若僧は少女の乳房を口に含んだ。そうしてぷくりと膨らんだその先を舌で舐め取った。乳飲み子が母を乞い求めるかのようにして、円位は少女を求めたのである。熱望する情欲に煽られながら、少女を岩場の上に横たえる。――どこからかかすかに、死にかけた獣のようなにおいが漂ってきた。
――――――
夜が明けた。
ついに払暁となった。
約を違えず茨木はやって来た。やはり鬼の秘術か神仙か、それまで一切の気配も感じさせることなく、彼女は円位の庵まで姿を現す。「円位どの」と、彼女は声を掛けた。庵のなかから、円位は耳だけそばだてて様子を窺う。「円位どの」と、また聞こえた。二度目でようやく、彼も胡乱な眼をして起き上がる。横には、他ならぬあの少女である。
「茨木どのか」
「約を違えず、参上しました。十日の猶予のその後に、果たしてわが友の姿は如何」
「……御披見あるべし」
少女は円位の隣で、すでに眼を醒ましている。
いつも眠たげに目蓋を下ろしかけた顔つきだが、今日はよりいっそうのまどろみを食んでいるようにも見える。それが、せめても自分との別れを惜しむものであって欲しいと円位は思うのだが。円位に手を引かれ、少女はずるずると引きずられるかのように庵の口までやって来る。そうして、見慣れぬものをその眼に入れ、驚きにわずか眼を見開いた。果たして、それは茨木の方でも同じであった。それまで顔を覆っていた紗の布を持ち上げると、もう片方の手――白布を巻いていない弓手(ゆんで)の方だ――で少女の右手をひしと握った。自分が少女に譲り渡した、その右の手が、確かに繋がっているというのを確かめんとするようにである。
「芳香」
茨木が、少女の名を呼ぶ。
「わたしが解りますか、芳香。羅城の門で出会うて以来の、あなたが友たる者ですよ」
茨木の両の眼は潤み、今しも涙を流そうとしている。
そして握り締めた少女の腕に、ぎゅうと力を込めた。もう離しはすまいと。
「“三千世界は眼前に尽き、十二因縁は心裏に空し”……」
応えてか、芳香と呼ばれた少女は誦して見せた。
空になった己がうちへと、はじめは言葉を満たそうと試すかのように。茨木はついに涙をあふれさせ、芳香をわが元まで抱きしめようとした。そのときであった。
「おまえ、だれ……」
――――――
円位は、芳香を棄てた。
いつでも、彼女を自分のものにできたにもかかわらず。いやそもそも、茨木自身がまず芳香を離れたのである。ひとことで言えば、失望であった。確かに人の形は成った。言葉を話す。歩きもする。かつて羅城の門で誦せる詩も口にする。しかし、それだけであったのだ。他には何もできはしなかった。言うなれば芳香は、人の姿としてつくられたに過ぎぬ、単なる“ぼろ”の袋だったのだ。ぼろの袋に中身はない。中身を加えても、また直ぐにこぼれ落ちてしまう。
「芳香、ねえ芳香……」
幾度、茨木は呼びかけたことか。
だけれど彼女の声を是とすることも、否、自分がかつて芳香という名前の少女であったことさえも、彼女はまるで憶えてはいなかった。むろん、茨木のこともである。茨木の頬を伝う涙は、歓喜のそれから悲嘆へ変わる。程なくして、自らの間抜けたぬか喜びを恥ずるかのように、いちどは持ち上げた紗の布を再び下ろし、彼女は円位を一瞥せんとした。相も変わらずの髭面が、きゅうと心苦しさに縮みこむ怖気。だが茨木は、何もしてはこなかった。術法の失敗せるを悟ったところで、彼女が円位に残していったものはただ、深く深く晴れぬ悲嘆のみだったのである。「邪魔を、しました」と、それだけ言って茨木は去る。もはや円位に彼女を引き留める理由はない。にわかに山風が吹き渡り、茨木の掲げる紗の布を翻した。その頭に二本ばかり、ごく短い角が生えているように、円位には見えた。
呆然と依頼の主を見送った円位は、またいつもがごとく蝶だの羽虫を眼で追いかける芳香に駆け寄った。昨晩、情を通じた女。人恋うが果てに自ら成さしめた少女。自分を忘れてしまうはずがない。そういう、男としての矜持みたいなものが円位を支えるばかりだと、彼ほどに恋知る者なら薄々に気づいていたはずなのだ。それだというのに。
「芳香」
彼は呼びかける。
茨木が口にしていたのと同じ呼び名で。
「私のことは知っておろうよ。円位じゃ。おまえに人の形を与えた円位じゃ」
芳香は、二度と円位の呼びかけには気づかなかった。
もう彼女にとっては野山を飛ぶ虫々ばかりが気を惹く対象であり、肉の繋がりを持った男など、足の裏を擦る小石の粒ほども意味なき者でしかなかったのである。円位は、ようやくすべてを悟った。その日のうちに芳香の手を引き、峰ひとつ越えたところに芳香を放った。牧(まき)に飼い馬を放つがごとく。
飢えたる山の獣たちが、その身を喰ろうてくれるだろうと乞い願うことをしながら、彼は自らの庵まで踵を返す。ぼろ草鞋の道行きは、旅の山歩きには慣れた身とはいえ幾歩も行けば直ぐに明瞭な疲れがやって来る。まして、世捨て人のように閑とした生活(くらし)の円位である。痩せたその身に活力は少ない。ほうほうと、夕暮れに梟の音がいつしか高い。ひとりの道行きは、かほどに怖ろしいものであったかと彼は辺りを見回した。背の高い木々の群れが頭を伸ばし、あるいは尾たるところの根を伸ばし、聖も邪もなく等しく暗と陰とのなかにすべてを没せしめようと目論んでいる。山際に狼の群れが走る。通る者を嘲り笑う、姿なき悪意の端緒を感ずる。
芳香、と、気づけば彼は呟いていた。
「芳香、芳香――っ!」
峰の向こうへ、円位は駆ける。
木の根に転ばされようが、慌てて大地に突いた手のひらに血の珠が滲んでしまおうが。ただひたすらに円位は駆けた。けれど、ついさっきまで確かに、あの芳香という少女が蝶とか野の花と遊んでいた峰の向こうには、もう誰も、何も、居なかった。太陽が夜に融けて亡くなっていくかのように、野草や花を踏み越えた跡の他には、何の形跡もなく、一切が途絶えているだけだったのである。
寂しいと、円位は心からそう思った。
寂しいと思うままに、己の罪の深きを覗き、ただ、その場でおうと泣き続けた。
――――――
余人の口の端に、その年、ひとつの他愛もない噂が立った。
高野山の上空を一枚の薄絹がひらと舞い飛んでいるというのである。ある者は妖異の仕業であろうと言い、ある者は瑞兆であろうと言った。しかしいずれにせよ高野山は、空海上人による金剛峯寺開基以来の霊山霊場である。斯様なところなれば、不可思議なことも起ころうよと。
そんな噂にほくそ笑みながら、霍青娥は今日も日本国中の仏寺を見定め、宙に遊ぶことをする。邪仙なる異名を奉ぜられたも今や懐かし、隙あらば仏寺仏閣に火でも掛けんと目論見しが、とは申せ、ついぞ実行に移したことはない。極めて、彼女は自らの欲求を満たすための“戯れ”については、一種の天才を有していた。
その朝も――、彼女が幾年ぶりかに高野山に飛来したのである。
空海とかいう坊主の手になる、大それた寺でも久しぶりに見物しようと思っていたのだ。すでに北嶺の首領たる叡山は、鬼門を封ずる国家鎮護の要という本来の役目を忘れたかのごとく、僧兵数多を囲い込み、時に及びて王法に対し強訴(ごうそ)を図る、物騒な集団と化している。仏法と王法の相克たる闘争の兆しが、今やこの日本国では始まっているのである。これは、廟のうちにて眠りたる豊聡耳太子の復活もまた、遠からず現実のものとなるだろう。そうも思わば、彼女はますます愉しくなるのだ。
――と、青娥はなかば夢のうちなる愉しみを能くするように、高野山の山肌を見た。人もほとんど立ち入らぬ山には仏の威容を畏れてか、禽獣でさえの姿も見えぬものと思われる。こうなれば、彼女は少しく面白くない。元より退屈を嫌う性分であるゆえに。
しかし、今度ばかりは。
その青娥の退屈を除けんとする者が、ひとつ、山肌を歩いていた。
「女の子……?」
山中の道なき道を、ふらふらと、ひとりの少女が歩いていたのである。
途端、青娥は否応なしに好奇心を誘われた。人々の噂の的たる薄絹――仙女の羽衣を翻し、直ぐさま地上に降り立った。少女は服を着ていない。裸である。それに、肌の色艶に生者の気配がない。尸(しかばね)かと、見立ての末に当たりをつけた。天地自然の道理を曲げて、無理やりに蘇らされた者に特有の、白痴めいた様子を少女は放っていたから。
「女の子ひとりでの山歩きは危ないですわよ。怖ぁい盗人(ぬすびと)に、ろくでもない目に合わされてしまうかも」
もっとも、私に捕まってもろくでもない目に合わされるのだけれど。
という本音は、努めて隠す青娥である。
「初めましてね。私は霍青娥。唐人(からひと)よ。あなたのお名前も、教えてくれるかしら」
「芳、香…………?」
「そう、芳香。芳香はどこから来たの。家族は? 友達は?」
少女は、何も答えない。
いや、答えられるほど人としての考えが充足していないのである。
問うだけ無駄かと、今度は声に出す青娥。むろん、少女はぼうと呆けて野の草花を追うているばかり。
「質問を変えましょうか。あなたのご主人さまはだあれ?」
少女は何も答えない。
「あなたを“つくった”のは?」
目蓋を、ツいと上げる気配があった。
おお、と、青娥は息を呑む。
「円位……」
「ああん。仏僧の名前ね。連中がするみたいな、法名と俗名と分けるようなやり方、めんどくさくて嫌いなのよね。俗名……本当の名前を知っているかしら」
再び顔をうつむけて、少女は何かをためらうような様子だった。
言うまでもなく、そんなものは青娥の錯覚である。尸にまともな感情などあるはずがない。あったとしても、それは統合を忘れて千々に乱れた、人格の残骸なのだ。
紫色の唇をゆっくりゆっくりと持ち上げて、少女は短く息を吐いた。それから青娥の顔をじいと見、
「義清。佐藤義清(さとうのりきよ)」
とだけ、呟いた。
釈尊がごとき曇りなき境地は幾夜の果てか。あるいは恋か、さらには魔羅かの権化と化していたかつての自らに対する諸仏百万の思し召しが、斯様な苦悩のことであるのかと悔恨に至ったこと一度や二度ではない。朝に起きれば雀の声を聞きながら苔の混じった水を飲み、夜に伏せれば鵺鳥(とらつぐみ)の狂奔におののきながら土を食む。妻を棄て子を蹴倒して山野に遊んだ果てがこの怯懦(きょうだ)であることかと、痩せこけた頬を涙が伝う。なれど、人恋うとても辺りには円位を覗いて人影もない。鞍馬山に置き伏したころにはよくよくまどろみのさなかに見た、天狗や何かさえ居らないのだ。世の滅びがすべて集まったとしか思われぬ静寂(しじま)に沈み、彼はじゃあらじゃあらと数珠を鳴らして読経をしては、己が未熟を呪ったのである。
そのような出口なき寂しき日々が幾ら続いたか、それまで剃髪のゆえに汗の露を宿すばかりだった彼の頭にも、薄らと髪の毛が戻ってきた。痩せて骨格の出っ張り始めた頬にも、青々とした髭が生え始めていた。数珠越しにその髭を撫でながら、むふと円位はひとり笑う。理由のない笑いだった。意味さえない笑いだったかもしれない。世を儚んで仏を志した自分が、誰とも交われぬことをこうまで怖ろしく思っていることが、狂おしいまで可笑しい。そういう風に、無体な理由をつけなければ承りかねる狂気の縁に、彼はまさしく陥っていたのかもしれなかった。鼠さえその歯を削ることをためらうぼろの庵のただなかで、円位は壁をざりりと引っ掻いた。木の板の棘が爪のあいだに刺さり、血が流れた。否応なしに、彼は生きていることを実感しなければならなかった。
さらに数日が経った。
相も変わらず鳥々の呻きに鞭打たれながら土を食む日々で、円位のする読経はすっかり皮肉の意味を帯びている。自分を嗤うかのように上空を旋回する野鳥の群れを、逆に意のなかで弄ぶかのようないら立ちであった。ある夜、彼はついに狂気の瞬きに魅入られたのか、庵の外まで、数少ない財産のひとつであった数珠を投げ捨てた。それから狭苦しい庵のなかに寝転がり、してやったりと高笑いをした。数刻、不貞寝までした。けれど眼が醒めれば、相変わらず天は暗く朝は遠い。にわかに後悔が襲ってくる。いったいどういうわけなのか、この数刻ばかり消え去っていた信心が、再び噴き上がってきたのである。ほとんど四ツ足の獣のようになって、円位は庵から這い出した。近くの沢の岩の根に、数珠は水の流れに攫われることもなく引っ掛かっていた。
果たして彼の狂気は方向を変えた。この数月の不信心を自ら打ち砕いて糧にするかのように、一心不乱に経を唱えることばかりした。苔の混じった水も飲まなかった。土竜(もぐら)の耕した土も食まなかった。仏に帰依して人恋う気持ちを薄れさせることばかりが、今の彼にとっては至上のことだった。なれば、虫魚禽獣も斯様なことには三舎を避けると申すべきか、夜ごとやかましき鵺鳥も今は静か。またぞろ伸びて不格好な童子のようになった髪の毛にも煩わされることなく、円位はただ読経を続けていたのである。
さても、斯様の信心がいかなる縁を結びつけたのか――、今となっては誰も知る者はない。けれどもある払暁の頃、経を唱うるにも疲れが背筋を上り始めた円位の庵に、ひとり、“客”が訊ね来た。
「もし」
「誰(たれ)か……」
と、つい返してしまったのは、やはり未だ彼の心が俗界のそれに浸っていたからなのかもしれなかった。そも、一心に読経ばかりをくり返すというのも、ことさら孤独を遠ざけ自らの狂気を怖れてのこと。明けていく夜のなかで円位はじわと眼を剥いた。黄色く汚れた歯を軋る。乾ききった舌が水を探して唾を飲む。庵のなかから、彼はぐんと身を乗り出した。顔を隠す薄い紗の布の向こうから、痩せ細った法体(ほったい)を見下ろしているのは、ひとりの女なのである。
はッ! と、ばかり、円位は悔いる気持ちがあった。何の香を焚き染めたものか、女の身からは山野のにおいをはるかに超える香気が絶えることなく漂っている。紗の向こうに映える白い肌に、いま差し込む暁天の日を写し取ったようにほの赤い唇が膨らんでいる。そんな女のうつくしさに比べれば、自分はあまりにもみすぼらしく、薄汚い坊主ではなかったか。
「何者にござる。この私に」
身体をかすかに屈めながら、円位は答える。二十三の歳に出家剃髪をしてより久方ぶりに、魔羅(マーラ)の欲求が彼の身に覆いかぶさってきたからである。にこりと女は笑った。円位の、そんな失態を始めから見越していたかのような笑みであった。釣られて円位も笑った。笑うしかなかった。じいと見入ることしかできなかった。女の香気かうつくしさに中てられたからではなし。小袖から伸びる女の右腕が、およそその根からぐるりと白布に覆われていたからである。
「茨木とお呼びください」
と、女は言った。
茨木、と、円位は応ずる。満足げに女がうなずくのが解った。と同時に、彼の魔羅は急速に力を喪って死んでいく。よもや、“これ”は鬼ではあるまいか、未熟の自分を惑わして、頭から喰ろうてしまう鬼ではあるまいか。怖れがむくむくと湧きあがってくる。いちどは乗り出したわが身体を、彼は再び庵のなかまで引っ込めた。茨木は追っては来ない。ただやはり、じいと円位を見下ろしていた。
「御懸念には及びませぬ。何もあなたを襲うというのではなし」
「やはり鬼か、それとも蛇か」
「いずれにても良いではありませぬか。此度、わたしが庵に参ったは、あなたに頼みあってのこと」
さて、頼みとは。
顎をしゃくって円位は怪訝を呑み込んだ。女は鬼であることを否とせず。蛇であることもまた同じである。やはり化生の類にやあらん。山川草木、虫魚禽獣に根差せし魑魅魍魎の一種にやあらん。元をただせば、円位の祖とても大百足をびしりと射抜き、坂東乱せし平小次郎を討ち参らせた豪傑ではある。邪悪に打ち勝つ血脈は、現在(いま)のごときみすぼらしさのなかにも確かに宿っているはずであった。だけれど、いま勝っているのは血筋を嘉する(よみする)剛勇ではなく、一個の人としての好奇心だった。かてて加えて、数年ぶりに他人(ひと)とまともな話ができるという無上の喜びに違いない。いつか彼の眼に流れていた涙が、その証たるもの。
「頼みとは」
「人を蘇らせていただきたい。死したる人を」
「なに」
いちどきに、円位の涙も止まった。
「其はいずれの外法なりや。生死流転の無常を詠む、仏道の徒に問うべきことか」
「あなたの人恋う心持ちを見込んでのこと。蘇らせたい人は、わが友。この茨木の無二の友」
「なれど、私はあくまで人の身。斯様な外法のすべなど知らぬ」
「わたしが教えて差しあげる」
「なに」
「鬼の秘術。神仙の秘法。いずれも仏法にては外法の類なれど」
飢えた魚のように、円位は唇をぱくぱくとさせることしかできはしない。
仏道の徒たる自らに、あくまでこの茨木なる女は鬼の秘術で神仙の秘法で、死者蘇生をやらせようと目論んでいる。流れる汗はもはやほとんど氷のごときものである。何よりも、まず死人が生き返るというその一事がいかなる道理に反せしか。命がいつか終わるという、天意そのものに叛き奉ることになりはせぬかと。かつて旅路の途中、白蓮某とかいう尼僧が妖怪変化を扇動したがため、天魔怪魔の所業として捕らえられ、何処(いずこ)かに封じられたという噂を聞いたことがある。天地の道理に反するは、かほどに重きことである。
「茨木、そなたがやれば良いではないか。鬼や神仙の法を心得ておる、そなたが」
至極当然の円位の問いを、しかし、茨木はふるとかぶりをふって否という。紗の布の向こうで、暁色の唇がにわかに歪む。
「これ、この右腕をご覧なされませ。これの中身は空なのです。骨や肉さえ通らぬのです。わたしには右腕がありませぬ。それというのも、わが友の屍は朽ちてより長き時が経ってしまったため、右腕が喪われてしまいました。その喪われたものに代えるため、自ら斬り落としたがゆえのこと。斯様な身体では、いかなる術法にてもできるものではありませぬ」
「そうまでして……そうまでして蘇らせたきご友人か」
「ええ、とても。羅城の門にて出会うたときより。羅城の門にて、友が吟ずる詩を聞いてより」
ううんと円位は唸り込んだ。
まがりなりにも出家法体たる仏僧の身で、外道の術法に身を染むは甚だ恐るべき仕儀である。あるのは、やはり逡巡であった。なれどそこに逡巡の余地があるということは――すなわち、いま彼の意は事態の是非曲直はまず問わず、この話を受けるか否かを考えているということでもあるのだ。茨木の声が、蟲惑の色もて彼の理性をくすぐるのである。いちどは退いた魔羅の誘いのせいではなかった。寂々とした人気なき沈黙に、耐えかねていた円位である。死んだ人間を生の御許に呼び返すとなれば、いっときとはいえ寂しさも薄らぐ。ましてや、この茨木という女にもまた会える。
不格好に伸びた前髪を振り乱しながら、円位は再び身を乗り出す。せめても、御仏に対する申しわけのように、馬手(めて)には数珠を握り締めている。何度か唇を舐め、彼は首を縦に振った。紗の向こうで、茨木の嬉しげな微笑。
――――――
「“三千世界は眼前に尽き、十二因縁は心裏に空し”……」
ごくりと円位は唾を飲んだ。
唾を飲んで、それから器に汲み取っておいた水を口に含んだ。しかし、喉の奥まで飲み干すことはできなかった。驚愕と歓喜とが彼の喉をまったく塞いでしまったかのようである。器を庵の床――ほとんどが剥き出しの土でしかない――に置き、眼の前にて詠う者をじろと見た。裸体(はだか)のつくりは常人と変わらない。土と垢にまみれた円位自身の身体からすると、痩せて青白いその肉体の方が、皮肉げな生命の感を宿しているようにさえ見える。波打つ黒髪が頬に掛かり、その表情を少しだけ昏い色に見せる。“彼女”の眼は所在なさげに、と言うよりも、ただ動くものを負うばかりのつまらぬ獣のように、庵のなかを飛び回る幾匹かの羽虫を追いかけていた。身体の節々が固くて上手く動かぬのか、ときおり腕を指し伸ばして羽虫たちを捕まえようと試みるが、立ち上がるさえ“彼女”の身体では困難の一語、すぐに姿勢は崩れて倒れ込んでしまう。
そのたび、円位はその身を抱き起こしてやった。
先ほどから、何かの詩をしきりに誦しているのに反して、その身体はいやに冷たい。雪氷でできた骨を宿しているかのごとく。やはり、死体なのだと円位は思った。未だ立ち歩くことさえ上手くはできず、赤ん坊のように這って歩くことしかできはしない。何度払ってもしつこく円位にまとわりついてくる蚤や虱といった虫たちも、“彼女”にだけは、何があってもいっこう、近づこうとしないのであった。血の通うことなき、蘇った屍であるこの少女にだけは。
「“三千世界は眼前に尽き、十二因縁は心裏に空し”……」
同じ詩を、何度も何度も少女はくり返している。
深更に、あの茨木より教わった術法を幾十度目か試してようやく成った人の形。手足を備え、ものを喋る人の形。円位は嬉しくなった。あらかじめの取り決めでは、十日後の払暁に茨木がやって来るはずである。この少女を引き取りに来るのだ。周りには、少女以外の誰も居ない。そして、少女は詠うことにばかり専心して、円位のことは気にも留めていなかった。だから彼はほくそ笑んだ。否、ほくそ笑んだという言い方は、彼の名誉のためにはならないかもしれない。とにかく、彼は嬉しかったのである。鬼か神仙かの術法を己がものとしたことに。何より、もう直ぐ茨木に再会できるということに。
茨木がやって来るまでのあいだを、円位は少女と共に過ごすことになった。
もともと、彼がひとりで暮らすために結んだ庵であるから、男ひとりと少女ひとりが身を置くにしては少々手狭だ。それでも円位は何も不満を覚えることなく、狭いと感ずるぶんはむしろ自分が除ければ良いという考えのもと、寝るにしてもものを食べるにしても、少女に場を譲ってやった。
それから毎晩毎朝、彼には新しいひとつの習慣ができた。
朝夕の読経が済んだ後、いつもいつでも眠たげな顔ばかりしている少女に向けて、自分の身の上をぽつりぽつりと話し始めたのである。北家藤原の支流の出にしてその九代目であること、都に居たころは帝を御守りする誉れある役職についていたこと。しかし、妻子ある身でありながら、帝の傍近く侍る貴き女性(にょしょう)に懸想をしてしまい、その果てに恋破れて俗界を離れたこと。出家に際し、烏帽子を棄てて髻(もとどり)を晒し、それを切り取ったときの妻の泣き顔。取りすがるわが娘を突き飛ばし、出家の道を選んだことの辛さ。しかして、そうまでして選んだ仏道において、いま光明を失いかけていたこと。朝夕、ひとつずつ、彼は自分が何者かを、円位なる若僧が何であるかを少女に語った。そのたび、円位に対しての応え(いらえ)のように少女は歌を吟じた。三千世界は眼前に尽くると。細く、暗く、幽玄な声は、尽き去った三千世界の果てが、この狭い庵であるかのような幸福を、円位に抱かせるのだった。
そうして、茨木が再び参上するまでの数日が瞬く間に過ぎていった。
人恋しい寂しさのあまり、ほとんど死したるものと化していた円位の心も、今は明るい。庵に設けた、窓というには足りないくらいの小さな穴からは、金色に満ち満ちた月がぽっかりと夜天に浮かんでいるのが見える。寝巻さえなく、薄墨に染めた衣の上から、円位は茣蓙をひっ被って寝に入る。だが、数刻が経っても寝つけなかった。眠ろう眠ろうと思うたび、焦りばかりが募ってよけいに眠れなかった。たぶん……心底では解っていたせいだろう。この夜が終われば茨木が来て、少女が彼女の元に行ってしまうということが。それが、何より怖ろしかったのだろう。
たまらず、彼は跳ね起きた。
相も変わらず蚤のたかる頭をくしゃくしゃと掻きむしり、隣で眠っているはずの少女を見遣った。だが、そこに少女は居ない。ずり落ちたもう一枚の茣蓙だけが、月の光に照らされている。焔の爆ぜるみたいに、巨大な不安に駆られた円位である。よもや、茨木が約を違えて夜が明ける前に連れ去ってしまったのではないか。向こうは鬼や神仙の術を能くする相手である。それは十分にあり得ることという気がする。すっかり履き潰した草鞋を突っかけ、円位は急ぎぼろぼろの庵から飛び出した。もう彼の脳裏には、わずか十日ほどとはいえ、自分の寂しさを滅してくれた少女の姿しか刻まれてはいなかった。茨木のことももうどうでも良かった。いやむしろ、あれほど会いたいと思っていた茨木にさえ、少女を渡したくはなかったのだ。少女を生き返らせたのは円位である。今まで過ごしてきたのも円位である。今さらになって、他人に渡したくはない。
庵から少しの場所に、ちょっとした崖みたいに山肌が切り立った場所がある。沢まで水を汲みに行くとき、普段であれば足を滑らせぬよう気を払うそんな所さえ、今の円位にはもう眼に入っていなかった。全力で走るあまり、苔むした岩場に足を滑らせ、崖からその身を転ばした。おッ、と……悲鳴にもならぬ悲鳴が喉の奥から漏れ、岩に地面にぶつかる身体がきしりと痛む。血の流れたような熱さもある。崖下の地面にようやく落着したとき、円位の姿勢はまるで嬰児(みどりご)であった。手足や胴を折り畳み、この夜の不安からわが身を護る嬰児であった。
眼を見開き、円位は息荒く辺りを見回す。大小の岩を踏み越えながら、少女の姿を探していた。――居た。少女は、存外と直ぐに見つかった。やはり裸体のまま、沢の緩やかな流れに身を浸し、一心にその水を手で掬っている。降り注ぐ月光が、一条の矢のように沢の水に突き立っているのである。彼女は水面(みなも)に浮かぶ金色の痕跡へと、何度も何度も手を差し入れていた。
「何をしておる」
「月、きれい」
「そこに在るは、水に映った月。正真のものではない」
「空の月は取れない。水の上の月は、取れるかもしれない。手が届くから」
円位が少女を陸(おか)まで連れ戻したのは、その言葉を聞きも終わらぬうちであった。自身の着物が濡れるのも構わず、少女の胴に腕を回して半ば無理やり引きずり帰った。彼女は「ああ」とか「うう」とかいった意味のない呻きを漏らし、なおも沢の水面を――というよりも、水面に映った幻の月を惜しがっている。ろくに動かぬ腕を振り回し、月の光を探している。
「私じゃ。私が解るか。おまえに人の形が成るよう、術を為した者ぞ」
と、円位は呼びかける。
すると。
「円位。円位。円位、円位……」
幾度も幾度も、少女は円位の名を呟いた。
朝夕に彼女が、決まって吟じていた詩文のように。はっきりと、円位の名を呼んだ。
愛おしさに、円位は裸体のままの少女を抱きしめた。濡れそぼった水の滴の冷たさが、円位自身の命の熱を際立たせた。少女の身体の冷たさも、それはもはや自分のつくり主の持つ熱を、盛んに欲しているのではないかと思えるほどに。
肋(あばら)の浮き上がった薄い筋肉の上に、少女の乳房はあった。
幾許かの躊躇いを踏み越えさえたものが、少女に対する愛惜か、それとも単なる黒く燃える欲求だったのだろうか。若僧は少女の乳房を口に含んだ。そうしてぷくりと膨らんだその先を舌で舐め取った。乳飲み子が母を乞い求めるかのようにして、円位は少女を求めたのである。熱望する情欲に煽られながら、少女を岩場の上に横たえる。――どこからかかすかに、死にかけた獣のようなにおいが漂ってきた。
――――――
夜が明けた。
ついに払暁となった。
約を違えず茨木はやって来た。やはり鬼の秘術か神仙か、それまで一切の気配も感じさせることなく、彼女は円位の庵まで姿を現す。「円位どの」と、彼女は声を掛けた。庵のなかから、円位は耳だけそばだてて様子を窺う。「円位どの」と、また聞こえた。二度目でようやく、彼も胡乱な眼をして起き上がる。横には、他ならぬあの少女である。
「茨木どのか」
「約を違えず、参上しました。十日の猶予のその後に、果たしてわが友の姿は如何」
「……御披見あるべし」
少女は円位の隣で、すでに眼を醒ましている。
いつも眠たげに目蓋を下ろしかけた顔つきだが、今日はよりいっそうのまどろみを食んでいるようにも見える。それが、せめても自分との別れを惜しむものであって欲しいと円位は思うのだが。円位に手を引かれ、少女はずるずると引きずられるかのように庵の口までやって来る。そうして、見慣れぬものをその眼に入れ、驚きにわずか眼を見開いた。果たして、それは茨木の方でも同じであった。それまで顔を覆っていた紗の布を持ち上げると、もう片方の手――白布を巻いていない弓手(ゆんで)の方だ――で少女の右手をひしと握った。自分が少女に譲り渡した、その右の手が、確かに繋がっているというのを確かめんとするようにである。
「芳香」
茨木が、少女の名を呼ぶ。
「わたしが解りますか、芳香。羅城の門で出会うて以来の、あなたが友たる者ですよ」
茨木の両の眼は潤み、今しも涙を流そうとしている。
そして握り締めた少女の腕に、ぎゅうと力を込めた。もう離しはすまいと。
「“三千世界は眼前に尽き、十二因縁は心裏に空し”……」
応えてか、芳香と呼ばれた少女は誦して見せた。
空になった己がうちへと、はじめは言葉を満たそうと試すかのように。茨木はついに涙をあふれさせ、芳香をわが元まで抱きしめようとした。そのときであった。
「おまえ、だれ……」
――――――
円位は、芳香を棄てた。
いつでも、彼女を自分のものにできたにもかかわらず。いやそもそも、茨木自身がまず芳香を離れたのである。ひとことで言えば、失望であった。確かに人の形は成った。言葉を話す。歩きもする。かつて羅城の門で誦せる詩も口にする。しかし、それだけであったのだ。他には何もできはしなかった。言うなれば芳香は、人の姿としてつくられたに過ぎぬ、単なる“ぼろ”の袋だったのだ。ぼろの袋に中身はない。中身を加えても、また直ぐにこぼれ落ちてしまう。
「芳香、ねえ芳香……」
幾度、茨木は呼びかけたことか。
だけれど彼女の声を是とすることも、否、自分がかつて芳香という名前の少女であったことさえも、彼女はまるで憶えてはいなかった。むろん、茨木のこともである。茨木の頬を伝う涙は、歓喜のそれから悲嘆へ変わる。程なくして、自らの間抜けたぬか喜びを恥ずるかのように、いちどは持ち上げた紗の布を再び下ろし、彼女は円位を一瞥せんとした。相も変わらずの髭面が、きゅうと心苦しさに縮みこむ怖気。だが茨木は、何もしてはこなかった。術法の失敗せるを悟ったところで、彼女が円位に残していったものはただ、深く深く晴れぬ悲嘆のみだったのである。「邪魔を、しました」と、それだけ言って茨木は去る。もはや円位に彼女を引き留める理由はない。にわかに山風が吹き渡り、茨木の掲げる紗の布を翻した。その頭に二本ばかり、ごく短い角が生えているように、円位には見えた。
呆然と依頼の主を見送った円位は、またいつもがごとく蝶だの羽虫を眼で追いかける芳香に駆け寄った。昨晩、情を通じた女。人恋うが果てに自ら成さしめた少女。自分を忘れてしまうはずがない。そういう、男としての矜持みたいなものが円位を支えるばかりだと、彼ほどに恋知る者なら薄々に気づいていたはずなのだ。それだというのに。
「芳香」
彼は呼びかける。
茨木が口にしていたのと同じ呼び名で。
「私のことは知っておろうよ。円位じゃ。おまえに人の形を与えた円位じゃ」
芳香は、二度と円位の呼びかけには気づかなかった。
もう彼女にとっては野山を飛ぶ虫々ばかりが気を惹く対象であり、肉の繋がりを持った男など、足の裏を擦る小石の粒ほども意味なき者でしかなかったのである。円位は、ようやくすべてを悟った。その日のうちに芳香の手を引き、峰ひとつ越えたところに芳香を放った。牧(まき)に飼い馬を放つがごとく。
飢えたる山の獣たちが、その身を喰ろうてくれるだろうと乞い願うことをしながら、彼は自らの庵まで踵を返す。ぼろ草鞋の道行きは、旅の山歩きには慣れた身とはいえ幾歩も行けば直ぐに明瞭な疲れがやって来る。まして、世捨て人のように閑とした生活(くらし)の円位である。痩せたその身に活力は少ない。ほうほうと、夕暮れに梟の音がいつしか高い。ひとりの道行きは、かほどに怖ろしいものであったかと彼は辺りを見回した。背の高い木々の群れが頭を伸ばし、あるいは尾たるところの根を伸ばし、聖も邪もなく等しく暗と陰とのなかにすべてを没せしめようと目論んでいる。山際に狼の群れが走る。通る者を嘲り笑う、姿なき悪意の端緒を感ずる。
芳香、と、気づけば彼は呟いていた。
「芳香、芳香――っ!」
峰の向こうへ、円位は駆ける。
木の根に転ばされようが、慌てて大地に突いた手のひらに血の珠が滲んでしまおうが。ただひたすらに円位は駆けた。けれど、ついさっきまで確かに、あの芳香という少女が蝶とか野の花と遊んでいた峰の向こうには、もう誰も、何も、居なかった。太陽が夜に融けて亡くなっていくかのように、野草や花を踏み越えた跡の他には、何の形跡もなく、一切が途絶えているだけだったのである。
寂しいと、円位は心からそう思った。
寂しいと思うままに、己の罪の深きを覗き、ただ、その場でおうと泣き続けた。
――――――
余人の口の端に、その年、ひとつの他愛もない噂が立った。
高野山の上空を一枚の薄絹がひらと舞い飛んでいるというのである。ある者は妖異の仕業であろうと言い、ある者は瑞兆であろうと言った。しかしいずれにせよ高野山は、空海上人による金剛峯寺開基以来の霊山霊場である。斯様なところなれば、不可思議なことも起ころうよと。
そんな噂にほくそ笑みながら、霍青娥は今日も日本国中の仏寺を見定め、宙に遊ぶことをする。邪仙なる異名を奉ぜられたも今や懐かし、隙あらば仏寺仏閣に火でも掛けんと目論見しが、とは申せ、ついぞ実行に移したことはない。極めて、彼女は自らの欲求を満たすための“戯れ”については、一種の天才を有していた。
その朝も――、彼女が幾年ぶりかに高野山に飛来したのである。
空海とかいう坊主の手になる、大それた寺でも久しぶりに見物しようと思っていたのだ。すでに北嶺の首領たる叡山は、鬼門を封ずる国家鎮護の要という本来の役目を忘れたかのごとく、僧兵数多を囲い込み、時に及びて王法に対し強訴(ごうそ)を図る、物騒な集団と化している。仏法と王法の相克たる闘争の兆しが、今やこの日本国では始まっているのである。これは、廟のうちにて眠りたる豊聡耳太子の復活もまた、遠からず現実のものとなるだろう。そうも思わば、彼女はますます愉しくなるのだ。
――と、青娥はなかば夢のうちなる愉しみを能くするように、高野山の山肌を見た。人もほとんど立ち入らぬ山には仏の威容を畏れてか、禽獣でさえの姿も見えぬものと思われる。こうなれば、彼女は少しく面白くない。元より退屈を嫌う性分であるゆえに。
しかし、今度ばかりは。
その青娥の退屈を除けんとする者が、ひとつ、山肌を歩いていた。
「女の子……?」
山中の道なき道を、ふらふらと、ひとりの少女が歩いていたのである。
途端、青娥は否応なしに好奇心を誘われた。人々の噂の的たる薄絹――仙女の羽衣を翻し、直ぐさま地上に降り立った。少女は服を着ていない。裸である。それに、肌の色艶に生者の気配がない。尸(しかばね)かと、見立ての末に当たりをつけた。天地自然の道理を曲げて、無理やりに蘇らされた者に特有の、白痴めいた様子を少女は放っていたから。
「女の子ひとりでの山歩きは危ないですわよ。怖ぁい盗人(ぬすびと)に、ろくでもない目に合わされてしまうかも」
もっとも、私に捕まってもろくでもない目に合わされるのだけれど。
という本音は、努めて隠す青娥である。
「初めましてね。私は霍青娥。唐人(からひと)よ。あなたのお名前も、教えてくれるかしら」
「芳、香…………?」
「そう、芳香。芳香はどこから来たの。家族は? 友達は?」
少女は、何も答えない。
いや、答えられるほど人としての考えが充足していないのである。
問うだけ無駄かと、今度は声に出す青娥。むろん、少女はぼうと呆けて野の草花を追うているばかり。
「質問を変えましょうか。あなたのご主人さまはだあれ?」
少女は何も答えない。
「あなたを“つくった”のは?」
目蓋を、ツいと上げる気配があった。
おお、と、青娥は息を呑む。
「円位……」
「ああん。仏僧の名前ね。連中がするみたいな、法名と俗名と分けるようなやり方、めんどくさくて嫌いなのよね。俗名……本当の名前を知っているかしら」
再び顔をうつむけて、少女は何かをためらうような様子だった。
言うまでもなく、そんなものは青娥の錯覚である。尸にまともな感情などあるはずがない。あったとしても、それは統合を忘れて千々に乱れた、人格の残骸なのだ。
紫色の唇をゆっくりゆっくりと持ち上げて、少女は短く息を吐いた。それから青娥の顔をじいと見、
「義清。佐藤義清(さとうのりきよ)」
とだけ、呟いた。
文章カッコ良いです。
でも群像劇の中途だけ抜粋した様なとりとめのなさ。あと作者エロい。
ただ個々の人物達が結局どうなったか、どうしたかったかがイマイチ伝わらず、心動かされるような描写がなかったのが残念。円位・華仙・芳香の過去がもう少し見えてたら良かったかも(円位は調べればいいだけですが)
というラストの驚きもさることながら、ここまで小難しい(といっては失礼かもしれませんが)文章ながら読者に読み込ませてしまうその技量に感服です。
いいね!
元ネタに独自の解釈を加えて文章に落としこんでいると思います。
芳香ちゃんの書き方が好き。白痴っ娘が好きなんだ