1
「スカーレットの面目を保たねばならない」
さすがの咲夜も自分の主人が目の前で喋っていることをすぐに把握できなかった。たしかに抽象的な言葉だったが、何よりも困惑するのはレミリアが全裸であるという目の前の事実だった。
「おっしゃっていることがわかりません。何で裸なんです?」
咲夜は思っていることをそのまま口に出した。レミリアは不敵に笑って再び喋りだした。
「従者よ。私はその愚かさを許すよ。寛容な私はもう一度わかりやすく説明してやろう。つまり、多くの者は着衣が当たり前のことだと思っているけど、夜の王たる私は違うということだ。私は騙されない。大多数の常識は必ずしも正義ではないのだ。私はその事実に早くも気づいた。服を着ないという発想、優れた者だけがこれに注目することができる」
「つまり、他の人が当たり前に服を着ているから、自分はいやだと」
「夜の王レミリア・スカーレットの卓越を示すためだよ」
「よかった、いつものお嬢様でした」
咲夜は何となく事情がわかったので安心した。しかしこのまま全裸でいつまでも過ごさせるわけには行かない。常識的に考えてスカーレットの面目が落ちないわけが無い。全裸はまずいだろう。さすがに全裸は。できれば外部の者に見られる前に飽きて欲しいところだった。
「期間を決めましょう。いつまで裸で過ごすことにします?」
「とこしえに」
レミリアは何を馬鹿なと言わんばかりに即答した。咲夜は少しだけ心が傷ついた。
「わかりました。それでは明日中にお嬢様の服を片付けておきますわ」
「好きにするがいい。もはやこの偉大な私に服なんて不要である」
レミリア・スカーレットの口調は威厳に満ちていた。だが全裸だった。色々と乏しい感じがどこか哀れさを思わせるが、その尻は満月のように丸く白々と高貴な輝きを放っていた。別に紅くはなかった。
2
それから一週間が経った。レミリアは相変わらず全裸で館を闊歩闊歩していたが、紅魔館の迷宮的な性質が幸いし、外部の者がその裸身を目撃する事例は発生しなかった。魔理沙はパチュリーの図書館までの往来が容易なの気づき妙だと思ったが、レミリアとの遭遇を避けるためにそれとなく咲夜が誘導していることまでは思い至らなかった。咲夜の空間操作の巧みさはある意味極まっており、外部の者どころか紅魔館の住人さえも、主たるレミリア・スカーレットに遭遇しないよう配慮されていた。
レミリアは不満を抱えていた。考えられないことだったが、ひょっとして自分はかなり馬鹿なことをしているのではないか、という考えがちらと浮かんだからだった。
「私は偉大なスカーレットの一列であるからまさか判断に誤りようもないのだ。そわそわそわ」
レミリアはそう確信しているつもりだったが、どうしても、もしかしたら、という気持ちが湧き起こる。何より一番忠実な従者が最近異常に冷たいというかそっけない。どうもレミリアの素晴らしい行いを無言で非難しているようなのだ。
「これは確認してみたほうがいいかもしれないな。そわそわ」
レミリアはついにそこまで疑いを推し進め、実行することにした。
「咲夜、ちょっと来なさい」
「なんでしょう、今ちょっと忙しいんですが。いつも仕事が多くて大変なんです」
「い、いいから近くに来なさい。大事な話がある」
廊下の隅でしゃがんで本を読んでいた咲夜がため息を吐いてレミリアの傍らにやって来た。夜の王は偉大だったので、あえて、考えられる最上級の威厳をもって一言こう命令した。
「咲夜もそろそろ服を脱ぎなさい」
主従の間に何か硬く冷たい風が吹き抜けた。やがて咲夜は花咲く乙女の素敵な笑顔を浮かべた。レミリアの顔にも笑みがうつる。微笑みって素晴らしい。主従の間のわだかまりもこの通り雲散霧消というわけだ。
「いやですわ」
レミリアはここで目を逸らせ体を震わせる。やはり自分は間違っていたのか。全裸はまずかったのか。いいや、そんなはずはない、全裸こそすべて、全裸こそ至福であるはず。相反する主張の葛藤に目頭を熱くしつつも、全ての裸の信奉者の義を守るため、スカーレットの勝利を守るため、レミリアは一歩も退くわけにはいかなかった。
「これは命令だ。おとなしく服を脱ぎなさい! 今すぐ!」
「無理です。すみませんね」
「主人が服を着ていないのに、その従僕が着衣のままとはおかしいと思わないのか?」
「思いませんね。残念です」
咲夜のにこやかな鉄壁に涙を浮かべたレミリアは、もはや許しておけぬとばかりに逆上し、メイド服の襟に手をかけ、てへへあわわと激しく組み合った。
「脱がぬのなら、脱がしてみせよう、メイド長!」
「あ、何するんですか旦那様じゃなかったお嬢様」
常には恭しい咲夜も今日ばかりは必死で抵抗する。まあ当然である。主人が意味不明な理屈で服を脱がせてくるのだから、この抵抗は明らかに間違っていない。しかし正しさが力の優劣を覆すわけではなく、数秒と経たぬ間に、咲夜は生まれたままの美しい姿にされてしまった。両腕で体を抱きかかえ羞恥に涙を浮かべているその姿はあまりにも憐れだった。
従者が強引に服を剥ぎ取られ泣いているのを、レミリアは気まずい思いで一瞥し、冷や汗と共に目を逸らした。しかし間の悪いことに廊下の背後から何かばさばさと物を落とす音と、ごほごほとむせる声。
「あなた……たち……。いったい何を……」
「え? 何もしてないよ。咲夜の具合が悪いというからとりあえず服を」
そう言うレミリアの顔は笑っているものの、あからさまに青ざめている。
「邪魔するつもりはないわ。いいの。気にしないで。私は気にしてないわ。ごほごほ。どうぞごゆっくり。私はちょっと図書室にこもるから永久に話しかけないでね。ごほごほ」
激しく咳き込みながらパチュリーはいそいそと落とした本を拾い集め、元来た道を躓きながらのろのろと戻っていった。レミリアは固まっていたせいで初動が遅れ、はっとしたときにすでにパチュリーの姿は無かった。実は廊下を曲がったところで転んでいるのだが、レミリアはそれを知らない。
「あ、パチェ、違う、これは違うぞ。何というわけではないがとにかく違う!」
羞恥に包まれた紅魔館の主は愛くるしいと評判のレミリア走法で廊下を駆け抜け、そのまま日が暮れたばかりの野天に飛び出し、大声で泣きながらいずこへかと走り去った。
3
――博麗神社
霊夢は御祓いの出前を終えて神社に帰宅した。裏手に回ると軒先で動くものがあった。お札の発光を強めて照らしてみると、どうやらお燐(猫状態)が中を覗っているようだった。
「あら、何してるのよ?」
お燐は恐る恐る霊夢を見上げ、怪しむように視線をまた屋内に転じた。居間の隅に何か小さな人影が蹲っているようだった。霊夢はさっと駆け込み人影に近付くき、お札の光を最大にして叫んだ。
「むむ、怪しい奴。そこで何をしている!」
「ぎゃーっ!」
「ぎゃーっ!」
「あーっ!」
「あーっ!」
突然光を向けられた人影は、両手を上げ、被っていた毛布を空中に投げ捨て、力の限り絶叫して驚きを表した。さらにそれに驚いた霊夢の声が重なり、それに驚いた人影が叫び、霊夢がそれに驚き、というように数度これが繰り返された。
「って、あんたレミリアじゃない」
霊夢が指差した先、何故か全裸でぷるぷる震えているのはレミリア・スカーレットだった。相手が霊夢と知って安心したのか、レミリアは余裕を取り戻したようだった。
「そろそろ人類を始末しようと思ってな」
「その格好で? 偉いわね」
レミリアは沈黙した。霊夢は特に言うことが無かったので立ち上がり、室内に明かりを灯した。
「私は何も見なかった。さて晩御飯の仕度をしよう」
「しくしく、しくしく」
その背後で文字通りしくしくと泣き声がするので仕方なく振り返ると、予想通りレミリアが再び毛布を首まですっぽり被って泣いていた。
「あーもーうざったいわね。何なのよ一体」
「咲夜に服を取られた」
「あーへー咲夜にねえ……ってあんたの従者じゃなかったっけ?」
「無論だ」
「あなた負けたの?」
「違う。違うけど、私の服は奴の手中に捕われている」
「早く帰りなよ」
「追い出されたんだよ。すべて咲夜が悪い」
「何でそんなことになったか……いいや。どうせ大したことじゃなさそうだからそれは聞かないでおくわ。むしろ何でここにいるのかが不思議ね。何で? ねえ何でここにいるの?」
「お前って時々すごく冷たいよね」
「物の怪に優しくしても仕方ないし。お賽銭くれるわけでもないし」
「……もしくれるとしたらどうする?」
「くれるの?」
「近うよれ」
レミリアが毛布を開いて招きよせるのを、霊夢はあまり気が進まなかったがそれに応じた。二人はひたと顔をくっつけ、ごにょごにょと怪しい密談を始めた。やがて霊夢は立ち上がりぱんと掌を打ちあわせた。
「決まりね。いいわ、あなたに協力してあげる」
「ふっ、我々が手を組めば怖いものはない」
「腹が鳴るわ。ちがった。腕が鳴るわ」
「存分に暴れるがいい。そしてそろそろ私に紅茶を供するがいい、ふっ」
「ずうずうしいわね。まあいいわ。パトロンだもの。青汁でも出してあげる」
霊夢は手荷物を放り投げ、鼻歌交じりのにこやかさで夕飯の準備を始めた。レミリアは調理の間、やはり毛布にくるまり「くくっ」と意味も無く笑うなどして遊んでいた。いつの間にか入ってきたお燐がそれを珍しそうに横目で見ていた。
4
翌朝、二つの人影が氷精の住む湖の岸に姿を現した。要するに紅魔館の前にということである。ざっ、と地面が踏み鳴らされる。逆行で顔が見えないがさぞや精悍な面構えだろう。
「霊夢、この服少し大きいな。変じゃないかな」
「裸に比べればかなりまともだから大丈夫よ」
「似合ってる?」
「似合ってるわ(棒読み)」
「かわいい?」
「すごくかわいい(棒読み)」
「じゃあ、これからもずっと面倒見てくれる?」
吸血鬼に抱きつかれた霊夢が無言で投げた陰陽玉は、巫女装束のレミリアの顔にえぐい感じでめり込んだ。家を追い出された心細さからか昨晩は始終霊夢につきまとい、風呂場で寝室で同じように陰陽玉を食らったというのに依然として学習しない。さすがは思考に頭を使わないことで定評がある、と霊夢は感心しないでもなかった。
「門番がいるんじゃない? どうする?」
「今の時間は美鈴は寝てるはず」
「その門番は役に立ってない気がする」
「何が起こっても美鈴が寝ている間はまだ安心なんだ」
「どんな災害予報よ」
果たして美鈴は寝ていた。すうすうと可愛らしい寝息をたて、姿勢正しく怠けている。レミリアの言う通り、この世の平穏を一身で表したようで美しくさえある。
「霊夢。そっとだよ、そっとね」
レミリアは傘を下げて顔を隠すようにし、中腰で門番の脇を通り過ぎた。続いて霊夢がしのび足で通過しようとしたとき、美鈴が急に大声で笑いだした。
「うはっ。私にどーんと任せろって! うは、うははっ。大船よ、おーぶね」
霊夢の体がびくっと跳ねた。慌てて美鈴に向き直るが、どうも今のはただの寝言だったらしく、門番は涎を垂らして眠り続けていた。
霊夢は安堵してレミリアを見た。
両手で頭を抱えてしゃがみ込んでいた。涙目で震えていた。
「あんたどれだけ気が弱いのよ!」
「え、あれ? こ、この門番、主に対して反抗的だな!!」
レミリアは全力で拳を美鈴の頭に振り下ろした。その体が激しく吹っ飛んで門に衝突した。完全にのびている様子で、もはや夢も見ていないことだろう。彼女にとって世の中の不条理の何割かは身内のせいである。
「あーもーびっくりした。いやになるな、ほんとに!」
「はいはい。遊んでないで中に入るわよ」
霊夢は美鈴に同情しつつも、レミリアの蛮行を華麗にスルーした。
二人は壁を背にして、ある種の周到な昆虫のようにかさかさと機敏に動き回り、ついに紅魔館の中に潜入開始した。とはいえ思いっきり正面から入っているので取って付けたように隠密ぶってもあまり意味はなかった。潜入直後に妖精やら自動警備の本やらが襲い掛かってきた。
「ちょと、何であなた主なのに攻撃されてるのよ!」
「妖精だからねえ。いつもと違う服装だから気づかないんじゃないかな」
「そっか。妖精だから仕方ないのね」
「そうなんだ。妖精だから仕方ないんだ」
二人は仕方なく、浅薄不敏で愛くるしい妖精たちを全力で狩って進んだ。と、急に霊夢の目の前にナイフが出現した。
「ぎゃ、ちょっと、やだ」
「きゃーきゃー何でこっちに跳ね返すんだよ。刺さってる、刺さってる!」
霊夢が弾いたナイフがレミリアの頭にしっかりと刺さった。頭に刃物を刺した巫女服の吸血鬼は、非常にアンバランスで何やら趣さえ感じられる。
と、そこで廊下の奥に現れた人影が口を開いた。
「誰かと思えば博麗神社の巫女じゃない。そちらのお連れさんはお友達かしら?」
「十六夜、咲夜。裏切り者め。主たる私を忘れたのか!」
「はて、我が主レミリア・スカーレット様は威厳に相応しい姿でいると仰ってました。今も元気に裸で過ごしていらっしゃるはずですわ」
「えっ」
咲夜はそ知らぬ顔で霊夢に向けてナイフをちらつかせている。霊夢は腕を組んで目を細め、今生まれたばかりの疑いを口に出した。
「なんか怪しいわね。レミリア、あなたひょっとして何か嘘ついてた?」
「ふむ、私には何だかよくわからないな」
レミリアは急にまじめな顔になった。怪しかった。
「霊夢。あなたにどんな風に話が伝わってるのかしら?」
「メイドが幼女の裸に並々ならぬ興味を持っていて、ついに主をひん剥いて服を全て隠してしまったと聞いているわ」
「そうだったのですか。それは嘘です。お嬢様は、他の下賤な者と違うから違う格好をすると言って裸で過ごすことに決めたのです。私は手伝いをしただけですわ」
「そうだったんだ」
「そうだったのです」
人間二人の冷たい視線がレミリアに向けられた。レミリアはあてにしていた霊夢に事情がばれてかなり動揺していた。誤魔化せないだろうか。何とか最低限の体面を保つことは出来ないものか。しかしいい案が全く考え付かなかった。いっそ幻想郷を燃え上がらせて帳尻を合わせようかとも考えたが、不幸なことに天敵たる朝の陽ざしが不夜城レッドを許さない。レミリアは実に突然にうーうーしたい衝動に駆られた。困ったとき、大抵のことはうーうーすれば何とかなるものである。紅魔の主はそうして500年の時を生きてきたのだ。
しかし一手遅かった。霊夢は懐から証文を取り出す。レミリアは目を逸らした。
「くだらないことに付き合ったんだから、約束のこれは補償でもらっとくわよ?」
霊夢へ
さくやのふくをぬがせたら
ひゃくまんえんあげる
レミリア・スカーレット
∇ ∇
おお呪われた悪魔の証文。指紋代わりの歯型が何と愛らしい。咲夜がきっと目を吊り上げた、かと思うとため息をつき一転して哀しそうにする。こういうのはレミリアの心を深くえぐる。まあ咲夜もわかってやっているのだが。
「そんな約束……そんな約束したんですか、お嬢さま?」
「だってだって、私は身一つで外にほっぽり出されて生きるために必死に」
「そういうの何て言うんだっけ? 自業自得?」
「うるさいな! お前がひとかけらでも優しさがあればこんな約束しなくても」
霊夢の眼差しがさらにさらに冷たくなった。これはまずい。軽率だった。せめて証文に都合のいい条件をつけておくべきだった。せめて「あげる」を漢字にすべきだった。せめて自分の名前を間違えて書いておくべきだった。サインの練習なんてするんじゃなかった。レミリアの後悔は先に立たない。しかし悪魔を追い詰めてはいけない。手負いの悪魔は黙示録の獣よりも災厄に満ちて禍々しいのである。
レミリアの瞳が真紅に輝く。
「きゃっ」
咲夜が悲鳴をあげた。レミリアの鋭利な爪がメイド服のスカートを切り裂いたのだ。霊夢は懐に手を入れて警戒している。
「ふふ。私の願いはお前に一矢報いることだ。スカーレット当主に辱められる栄誉を存分に喜ぶがいい。脱がす! スカーレットの名にかけて!!」
「何て恐ろしい悪魔なの!」
巫女が叫ぶ。レミリアの意図が大体わかった霊夢は、険しい表情はそのままに、内心とばっちりが来なさそうでよかったと思っていた。適当に盛り上げてやれば満足するだろう。ついでに、ひゃくまんえんは手に入らなさそうだが後でお詫びといって何かせびればいい、と清心及ばぬ考えを抱いていた。どうもこの辺りお友達の悪影響が垣間見える。
咲夜は涙目で抵抗するが、以前もそうであったように本気になったお嬢様はまさに悪魔である。けだものである。幸薄いメイドさんの衣服は一枚、また一枚と破壊されてゆく。すでにしてレミリア本人も全裸である。いつのまに脱いだのかミステリーだがここが幻想郷なので多少の不思議は仕方ない。もしこの場に紳士と呼ばれる貞潔な生き物がいたら、さぞや目を輝かせ生きる歓びを謳い上げたことだろう。しかしこの場には当事者の他にはもう帰る気まんまんの巫女しかいない。
いや、廊下を駆けてくる誰かの足音がする。これは時代の足音なのか。革命の軍靴なのか。前進進! のコミカルな歌で有名な国の薫陶かぐわしき名前の門番が姿を現した。
「お嬢様ー! 大変です侵入者です!! 油断していたとはいえ、私が一撃でやられました。かなりの手練に違いありません!! みなさん無事で……す……か……」
美鈴は見た。悪魔が穏健派の仮面を投げ捨て、自らに忠実なメイドさんの服を容赦なく切り裂いているのを。
美鈴は見た。従者が涙に溺れつつも嬉しそうに頬を染めて、抵抗すると見せつつも悪魔の手をにぎにぎするのを。
美鈴は見た。結界を守る巫女が退屈そうに鼻の穴に指を……、いやこれは見なかったことにしよう。美鈴は何も見なかった。
「なにやってるんですか」
思わず美鈴の口から漏れた一言が時間を止めた。咲夜の世界……いや主人とメイドの禁断の世界を垣間見たことで美鈴は新しい能力に目覚めたのか。もちろん違った。時はすぐさま動き出す。レミリア・スカーレットの絶叫と共に。
「うわああああぁぁぁぁぁぁんんん!!!!」
幼女は逃げ出した。羞恥に耐え切れなかったのである。愛くるしいと巷で評判のレミリア走法で廊下を駆け抜け、広間を駆け抜け、玄関から外へまっしぐらに飛び出した。
「お嬢様!!」
呆然たる他の者が気づいたときには既に遅かった。なんたる悲劇だろうか。レミリア・スカーレットは全裸のまま太陽の光を全身に浴びて、ちょっと描写をはばかられるような壮絶な情況になっていた。表現を抑えたとしても分解して紅霧化してるとしか言いようが無い。その足元には砂のようなものが溜まっている。駆けつけた咲夜の悲痛な声が響き渡る。
「お嬢様お嬢様お嬢様、お嬢様ー!!!!!!」
5
「ニュク・エオム・エオム・エラアン・ウキシオ・エラアン・ウキシオ」
"Nuyk Eom Eom Eraan Ukisio Eraan Ukisio"
レミリアの寝所に置かれた棺にレミリアの灰が入れられ、レミリアの復活を導く魔法の呪文がパチュリーの口から静かに響く。詠唱が終わった。
「蓋をして三分待ちましょう。それで駄目なら……仕方ないわ。諦めなさい」
パチュリーは紅魔館の誰よりも真っ赤な目をした咲夜に話しかけた。咲夜の泣き腫れた眼差しは尋常でない。狂気と紙一重の絶望が溢れ出ていた。
「復活しなかったら……私はあなたを許しません」
咲夜ははっきりとそう呟いた。パチュリーは肩をすくめた。時を操る咲夜には、今までに長い三分が幾度もあった。停止した時空でたった一人で世界を見つめていると、もう世界は終わったのではないかと思えるほど時が重たく感じられる。しかし今この場の三分はそれらのどんな終末よりも緩慢だった。偽の満月の夜よりもはるかに永い三分だった。
チンッ!――棺が音をたてた。咲夜は時間の底から再び現実へ戻ってきた気がした。しかし気が遠くなる。棺までの距離が、一歩進むだけの距離があまりにも遠い。
しかし気づいたとき咲夜は棺の蓋を外していた。紅い煙が立ち昇る。咲夜はそれを手で払い、棺の中を確かめた。棺の底には――
なにもなかった。
咲夜の世界が崩れてゆく。記憶も未来もただ霧の向こうに揺らぐ影のように消えてゆく。全てが時の波に攫われてゆく。ナイフを突き立てられた砂の城のように。攫われてゆく。
嗚咽なのか叫びなのか境界もなく、悲哀そのものの慟哭のような果てしない感情が咲夜から迸る。どこまでも迸る。巨大で終わりの無い激情。そう、迸る――。
パチュリーは思いっきり引いていた。レミリアは紅い煙が集まって、咲夜の背後ですでに形をなしていた。レミリアもちょっと何と言っていいかわからず逡巡していた。
咲夜が全てを出し尽くしたのか、叫びに終止符を打ちその場に膝をつく。その目はもう何も見ていない。レミリアはいちおう声をかけてみる。
「おーい。そんなに気を落とすなって」
「私はだめだ、だめな従者だ、私の生涯はすべてあやまち……圧倒的浪費……」
「うん、まあお前はだめだめだけど、まあでも、そこまで言うほどではない気が」
「あなたに何がわかる、あなたに何が……あなたに……あな……ん?」
「ん?」
「んんん?」
主従の目が合った。二人で目をぱちくりさせ顔をじっと見つめ合う。やがて咲夜の瞳が大きく大きく見開かれ命が灯る。レミリアは冗談が過ぎたと思い、ナイフの一本二本の覚悟を決めた。
「お、お嬢様ーーー!!!!」
怒られる! レミリアはナイフが飛んでくると思って咄嗟にしゃがみガードした。しかしレミリアの体に触れたのは冷たいナイフではなく、温かく柔らかな人間の体だった。自分よりでかい体に目一杯に抱きつかれてレミリアは辟易した。出会った頃、咲夜は自分のことを一本のナイフだとか言ってたっけ。レミリアは何となく思い出した。それから、こいつはいつまで経っても子供だなあ、と呆れてしまった。抱きつく力が異常に強いので、こいつ私を殺す気か、と頭を殴ってやろうかとレミリアは思った。
しかし――子供だから仕方ない。レミリアはどうも至らない従者を抱きしめた。愚行を愛するのもまたスカーレットの誉れ、レミリアはそう信じていたからだ。
美鈴はそんな二人を見ながら冷や汗を流していた。賢いパチュリーは響いてくる爆音を、もうあまり考えないことにした。
ただいま紅魔館某所では面白そうなことを求めて出てきてしまったフランちゃんと伏魔殿なのに油断してた霊夢さんが大変な死闘を繰り広げているのである。
「スカーレットの面目を保たねばならない」
さすがの咲夜も自分の主人が目の前で喋っていることをすぐに把握できなかった。たしかに抽象的な言葉だったが、何よりも困惑するのはレミリアが全裸であるという目の前の事実だった。
「おっしゃっていることがわかりません。何で裸なんです?」
咲夜は思っていることをそのまま口に出した。レミリアは不敵に笑って再び喋りだした。
「従者よ。私はその愚かさを許すよ。寛容な私はもう一度わかりやすく説明してやろう。つまり、多くの者は着衣が当たり前のことだと思っているけど、夜の王たる私は違うということだ。私は騙されない。大多数の常識は必ずしも正義ではないのだ。私はその事実に早くも気づいた。服を着ないという発想、優れた者だけがこれに注目することができる」
「つまり、他の人が当たり前に服を着ているから、自分はいやだと」
「夜の王レミリア・スカーレットの卓越を示すためだよ」
「よかった、いつものお嬢様でした」
咲夜は何となく事情がわかったので安心した。しかしこのまま全裸でいつまでも過ごさせるわけには行かない。常識的に考えてスカーレットの面目が落ちないわけが無い。全裸はまずいだろう。さすがに全裸は。できれば外部の者に見られる前に飽きて欲しいところだった。
「期間を決めましょう。いつまで裸で過ごすことにします?」
「とこしえに」
レミリアは何を馬鹿なと言わんばかりに即答した。咲夜は少しだけ心が傷ついた。
「わかりました。それでは明日中にお嬢様の服を片付けておきますわ」
「好きにするがいい。もはやこの偉大な私に服なんて不要である」
レミリア・スカーレットの口調は威厳に満ちていた。だが全裸だった。色々と乏しい感じがどこか哀れさを思わせるが、その尻は満月のように丸く白々と高貴な輝きを放っていた。別に紅くはなかった。
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それから一週間が経った。レミリアは相変わらず全裸で館を闊歩闊歩していたが、紅魔館の迷宮的な性質が幸いし、外部の者がその裸身を目撃する事例は発生しなかった。魔理沙はパチュリーの図書館までの往来が容易なの気づき妙だと思ったが、レミリアとの遭遇を避けるためにそれとなく咲夜が誘導していることまでは思い至らなかった。咲夜の空間操作の巧みさはある意味極まっており、外部の者どころか紅魔館の住人さえも、主たるレミリア・スカーレットに遭遇しないよう配慮されていた。
レミリアは不満を抱えていた。考えられないことだったが、ひょっとして自分はかなり馬鹿なことをしているのではないか、という考えがちらと浮かんだからだった。
「私は偉大なスカーレットの一列であるからまさか判断に誤りようもないのだ。そわそわそわ」
レミリアはそう確信しているつもりだったが、どうしても、もしかしたら、という気持ちが湧き起こる。何より一番忠実な従者が最近異常に冷たいというかそっけない。どうもレミリアの素晴らしい行いを無言で非難しているようなのだ。
「これは確認してみたほうがいいかもしれないな。そわそわ」
レミリアはついにそこまで疑いを推し進め、実行することにした。
「咲夜、ちょっと来なさい」
「なんでしょう、今ちょっと忙しいんですが。いつも仕事が多くて大変なんです」
「い、いいから近くに来なさい。大事な話がある」
廊下の隅でしゃがんで本を読んでいた咲夜がため息を吐いてレミリアの傍らにやって来た。夜の王は偉大だったので、あえて、考えられる最上級の威厳をもって一言こう命令した。
「咲夜もそろそろ服を脱ぎなさい」
主従の間に何か硬く冷たい風が吹き抜けた。やがて咲夜は花咲く乙女の素敵な笑顔を浮かべた。レミリアの顔にも笑みがうつる。微笑みって素晴らしい。主従の間のわだかまりもこの通り雲散霧消というわけだ。
「いやですわ」
レミリアはここで目を逸らせ体を震わせる。やはり自分は間違っていたのか。全裸はまずかったのか。いいや、そんなはずはない、全裸こそすべて、全裸こそ至福であるはず。相反する主張の葛藤に目頭を熱くしつつも、全ての裸の信奉者の義を守るため、スカーレットの勝利を守るため、レミリアは一歩も退くわけにはいかなかった。
「これは命令だ。おとなしく服を脱ぎなさい! 今すぐ!」
「無理です。すみませんね」
「主人が服を着ていないのに、その従僕が着衣のままとはおかしいと思わないのか?」
「思いませんね。残念です」
咲夜のにこやかな鉄壁に涙を浮かべたレミリアは、もはや許しておけぬとばかりに逆上し、メイド服の襟に手をかけ、てへへあわわと激しく組み合った。
「脱がぬのなら、脱がしてみせよう、メイド長!」
「あ、何するんですか旦那様じゃなかったお嬢様」
常には恭しい咲夜も今日ばかりは必死で抵抗する。まあ当然である。主人が意味不明な理屈で服を脱がせてくるのだから、この抵抗は明らかに間違っていない。しかし正しさが力の優劣を覆すわけではなく、数秒と経たぬ間に、咲夜は生まれたままの美しい姿にされてしまった。両腕で体を抱きかかえ羞恥に涙を浮かべているその姿はあまりにも憐れだった。
従者が強引に服を剥ぎ取られ泣いているのを、レミリアは気まずい思いで一瞥し、冷や汗と共に目を逸らした。しかし間の悪いことに廊下の背後から何かばさばさと物を落とす音と、ごほごほとむせる声。
「あなた……たち……。いったい何を……」
「え? 何もしてないよ。咲夜の具合が悪いというからとりあえず服を」
そう言うレミリアの顔は笑っているものの、あからさまに青ざめている。
「邪魔するつもりはないわ。いいの。気にしないで。私は気にしてないわ。ごほごほ。どうぞごゆっくり。私はちょっと図書室にこもるから永久に話しかけないでね。ごほごほ」
激しく咳き込みながらパチュリーはいそいそと落とした本を拾い集め、元来た道を躓きながらのろのろと戻っていった。レミリアは固まっていたせいで初動が遅れ、はっとしたときにすでにパチュリーの姿は無かった。実は廊下を曲がったところで転んでいるのだが、レミリアはそれを知らない。
「あ、パチェ、違う、これは違うぞ。何というわけではないがとにかく違う!」
羞恥に包まれた紅魔館の主は愛くるしいと評判のレミリア走法で廊下を駆け抜け、そのまま日が暮れたばかりの野天に飛び出し、大声で泣きながらいずこへかと走り去った。
3
――博麗神社
霊夢は御祓いの出前を終えて神社に帰宅した。裏手に回ると軒先で動くものがあった。お札の発光を強めて照らしてみると、どうやらお燐(猫状態)が中を覗っているようだった。
「あら、何してるのよ?」
お燐は恐る恐る霊夢を見上げ、怪しむように視線をまた屋内に転じた。居間の隅に何か小さな人影が蹲っているようだった。霊夢はさっと駆け込み人影に近付くき、お札の光を最大にして叫んだ。
「むむ、怪しい奴。そこで何をしている!」
「ぎゃーっ!」
「ぎゃーっ!」
「あーっ!」
「あーっ!」
突然光を向けられた人影は、両手を上げ、被っていた毛布を空中に投げ捨て、力の限り絶叫して驚きを表した。さらにそれに驚いた霊夢の声が重なり、それに驚いた人影が叫び、霊夢がそれに驚き、というように数度これが繰り返された。
「って、あんたレミリアじゃない」
霊夢が指差した先、何故か全裸でぷるぷる震えているのはレミリア・スカーレットだった。相手が霊夢と知って安心したのか、レミリアは余裕を取り戻したようだった。
「そろそろ人類を始末しようと思ってな」
「その格好で? 偉いわね」
レミリアは沈黙した。霊夢は特に言うことが無かったので立ち上がり、室内に明かりを灯した。
「私は何も見なかった。さて晩御飯の仕度をしよう」
「しくしく、しくしく」
その背後で文字通りしくしくと泣き声がするので仕方なく振り返ると、予想通りレミリアが再び毛布を首まですっぽり被って泣いていた。
「あーもーうざったいわね。何なのよ一体」
「咲夜に服を取られた」
「あーへー咲夜にねえ……ってあんたの従者じゃなかったっけ?」
「無論だ」
「あなた負けたの?」
「違う。違うけど、私の服は奴の手中に捕われている」
「早く帰りなよ」
「追い出されたんだよ。すべて咲夜が悪い」
「何でそんなことになったか……いいや。どうせ大したことじゃなさそうだからそれは聞かないでおくわ。むしろ何でここにいるのかが不思議ね。何で? ねえ何でここにいるの?」
「お前って時々すごく冷たいよね」
「物の怪に優しくしても仕方ないし。お賽銭くれるわけでもないし」
「……もしくれるとしたらどうする?」
「くれるの?」
「近うよれ」
レミリアが毛布を開いて招きよせるのを、霊夢はあまり気が進まなかったがそれに応じた。二人はひたと顔をくっつけ、ごにょごにょと怪しい密談を始めた。やがて霊夢は立ち上がりぱんと掌を打ちあわせた。
「決まりね。いいわ、あなたに協力してあげる」
「ふっ、我々が手を組めば怖いものはない」
「腹が鳴るわ。ちがった。腕が鳴るわ」
「存分に暴れるがいい。そしてそろそろ私に紅茶を供するがいい、ふっ」
「ずうずうしいわね。まあいいわ。パトロンだもの。青汁でも出してあげる」
霊夢は手荷物を放り投げ、鼻歌交じりのにこやかさで夕飯の準備を始めた。レミリアは調理の間、やはり毛布にくるまり「くくっ」と意味も無く笑うなどして遊んでいた。いつの間にか入ってきたお燐がそれを珍しそうに横目で見ていた。
4
翌朝、二つの人影が氷精の住む湖の岸に姿を現した。要するに紅魔館の前にということである。ざっ、と地面が踏み鳴らされる。逆行で顔が見えないがさぞや精悍な面構えだろう。
「霊夢、この服少し大きいな。変じゃないかな」
「裸に比べればかなりまともだから大丈夫よ」
「似合ってる?」
「似合ってるわ(棒読み)」
「かわいい?」
「すごくかわいい(棒読み)」
「じゃあ、これからもずっと面倒見てくれる?」
吸血鬼に抱きつかれた霊夢が無言で投げた陰陽玉は、巫女装束のレミリアの顔にえぐい感じでめり込んだ。家を追い出された心細さからか昨晩は始終霊夢につきまとい、風呂場で寝室で同じように陰陽玉を食らったというのに依然として学習しない。さすがは思考に頭を使わないことで定評がある、と霊夢は感心しないでもなかった。
「門番がいるんじゃない? どうする?」
「今の時間は美鈴は寝てるはず」
「その門番は役に立ってない気がする」
「何が起こっても美鈴が寝ている間はまだ安心なんだ」
「どんな災害予報よ」
果たして美鈴は寝ていた。すうすうと可愛らしい寝息をたて、姿勢正しく怠けている。レミリアの言う通り、この世の平穏を一身で表したようで美しくさえある。
「霊夢。そっとだよ、そっとね」
レミリアは傘を下げて顔を隠すようにし、中腰で門番の脇を通り過ぎた。続いて霊夢がしのび足で通過しようとしたとき、美鈴が急に大声で笑いだした。
「うはっ。私にどーんと任せろって! うは、うははっ。大船よ、おーぶね」
霊夢の体がびくっと跳ねた。慌てて美鈴に向き直るが、どうも今のはただの寝言だったらしく、門番は涎を垂らして眠り続けていた。
霊夢は安堵してレミリアを見た。
両手で頭を抱えてしゃがみ込んでいた。涙目で震えていた。
「あんたどれだけ気が弱いのよ!」
「え、あれ? こ、この門番、主に対して反抗的だな!!」
レミリアは全力で拳を美鈴の頭に振り下ろした。その体が激しく吹っ飛んで門に衝突した。完全にのびている様子で、もはや夢も見ていないことだろう。彼女にとって世の中の不条理の何割かは身内のせいである。
「あーもーびっくりした。いやになるな、ほんとに!」
「はいはい。遊んでないで中に入るわよ」
霊夢は美鈴に同情しつつも、レミリアの蛮行を華麗にスルーした。
二人は壁を背にして、ある種の周到な昆虫のようにかさかさと機敏に動き回り、ついに紅魔館の中に潜入開始した。とはいえ思いっきり正面から入っているので取って付けたように隠密ぶってもあまり意味はなかった。潜入直後に妖精やら自動警備の本やらが襲い掛かってきた。
「ちょと、何であなた主なのに攻撃されてるのよ!」
「妖精だからねえ。いつもと違う服装だから気づかないんじゃないかな」
「そっか。妖精だから仕方ないのね」
「そうなんだ。妖精だから仕方ないんだ」
二人は仕方なく、浅薄不敏で愛くるしい妖精たちを全力で狩って進んだ。と、急に霊夢の目の前にナイフが出現した。
「ぎゃ、ちょっと、やだ」
「きゃーきゃー何でこっちに跳ね返すんだよ。刺さってる、刺さってる!」
霊夢が弾いたナイフがレミリアの頭にしっかりと刺さった。頭に刃物を刺した巫女服の吸血鬼は、非常にアンバランスで何やら趣さえ感じられる。
と、そこで廊下の奥に現れた人影が口を開いた。
「誰かと思えば博麗神社の巫女じゃない。そちらのお連れさんはお友達かしら?」
「十六夜、咲夜。裏切り者め。主たる私を忘れたのか!」
「はて、我が主レミリア・スカーレット様は威厳に相応しい姿でいると仰ってました。今も元気に裸で過ごしていらっしゃるはずですわ」
「えっ」
咲夜はそ知らぬ顔で霊夢に向けてナイフをちらつかせている。霊夢は腕を組んで目を細め、今生まれたばかりの疑いを口に出した。
「なんか怪しいわね。レミリア、あなたひょっとして何か嘘ついてた?」
「ふむ、私には何だかよくわからないな」
レミリアは急にまじめな顔になった。怪しかった。
「霊夢。あなたにどんな風に話が伝わってるのかしら?」
「メイドが幼女の裸に並々ならぬ興味を持っていて、ついに主をひん剥いて服を全て隠してしまったと聞いているわ」
「そうだったのですか。それは嘘です。お嬢様は、他の下賤な者と違うから違う格好をすると言って裸で過ごすことに決めたのです。私は手伝いをしただけですわ」
「そうだったんだ」
「そうだったのです」
人間二人の冷たい視線がレミリアに向けられた。レミリアはあてにしていた霊夢に事情がばれてかなり動揺していた。誤魔化せないだろうか。何とか最低限の体面を保つことは出来ないものか。しかしいい案が全く考え付かなかった。いっそ幻想郷を燃え上がらせて帳尻を合わせようかとも考えたが、不幸なことに天敵たる朝の陽ざしが不夜城レッドを許さない。レミリアは実に突然にうーうーしたい衝動に駆られた。困ったとき、大抵のことはうーうーすれば何とかなるものである。紅魔の主はそうして500年の時を生きてきたのだ。
しかし一手遅かった。霊夢は懐から証文を取り出す。レミリアは目を逸らした。
「くだらないことに付き合ったんだから、約束のこれは補償でもらっとくわよ?」
霊夢へ
さくやのふくをぬがせたら
ひゃくまんえんあげる
レミリア・スカーレット
∇ ∇
おお呪われた悪魔の証文。指紋代わりの歯型が何と愛らしい。咲夜がきっと目を吊り上げた、かと思うとため息をつき一転して哀しそうにする。こういうのはレミリアの心を深くえぐる。まあ咲夜もわかってやっているのだが。
「そんな約束……そんな約束したんですか、お嬢さま?」
「だってだって、私は身一つで外にほっぽり出されて生きるために必死に」
「そういうの何て言うんだっけ? 自業自得?」
「うるさいな! お前がひとかけらでも優しさがあればこんな約束しなくても」
霊夢の眼差しがさらにさらに冷たくなった。これはまずい。軽率だった。せめて証文に都合のいい条件をつけておくべきだった。せめて「あげる」を漢字にすべきだった。せめて自分の名前を間違えて書いておくべきだった。サインの練習なんてするんじゃなかった。レミリアの後悔は先に立たない。しかし悪魔を追い詰めてはいけない。手負いの悪魔は黙示録の獣よりも災厄に満ちて禍々しいのである。
レミリアの瞳が真紅に輝く。
「きゃっ」
咲夜が悲鳴をあげた。レミリアの鋭利な爪がメイド服のスカートを切り裂いたのだ。霊夢は懐に手を入れて警戒している。
「ふふ。私の願いはお前に一矢報いることだ。スカーレット当主に辱められる栄誉を存分に喜ぶがいい。脱がす! スカーレットの名にかけて!!」
「何て恐ろしい悪魔なの!」
巫女が叫ぶ。レミリアの意図が大体わかった霊夢は、険しい表情はそのままに、内心とばっちりが来なさそうでよかったと思っていた。適当に盛り上げてやれば満足するだろう。ついでに、ひゃくまんえんは手に入らなさそうだが後でお詫びといって何かせびればいい、と清心及ばぬ考えを抱いていた。どうもこの辺りお友達の悪影響が垣間見える。
咲夜は涙目で抵抗するが、以前もそうであったように本気になったお嬢様はまさに悪魔である。けだものである。幸薄いメイドさんの衣服は一枚、また一枚と破壊されてゆく。すでにしてレミリア本人も全裸である。いつのまに脱いだのかミステリーだがここが幻想郷なので多少の不思議は仕方ない。もしこの場に紳士と呼ばれる貞潔な生き物がいたら、さぞや目を輝かせ生きる歓びを謳い上げたことだろう。しかしこの場には当事者の他にはもう帰る気まんまんの巫女しかいない。
いや、廊下を駆けてくる誰かの足音がする。これは時代の足音なのか。革命の軍靴なのか。前進進! のコミカルな歌で有名な国の薫陶かぐわしき名前の門番が姿を現した。
「お嬢様ー! 大変です侵入者です!! 油断していたとはいえ、私が一撃でやられました。かなりの手練に違いありません!! みなさん無事で……す……か……」
美鈴は見た。悪魔が穏健派の仮面を投げ捨て、自らに忠実なメイドさんの服を容赦なく切り裂いているのを。
美鈴は見た。従者が涙に溺れつつも嬉しそうに頬を染めて、抵抗すると見せつつも悪魔の手をにぎにぎするのを。
美鈴は見た。結界を守る巫女が退屈そうに鼻の穴に指を……、いやこれは見なかったことにしよう。美鈴は何も見なかった。
「なにやってるんですか」
思わず美鈴の口から漏れた一言が時間を止めた。咲夜の世界……いや主人とメイドの禁断の世界を垣間見たことで美鈴は新しい能力に目覚めたのか。もちろん違った。時はすぐさま動き出す。レミリア・スカーレットの絶叫と共に。
「うわああああぁぁぁぁぁぁんんん!!!!」
幼女は逃げ出した。羞恥に耐え切れなかったのである。愛くるしいと巷で評判のレミリア走法で廊下を駆け抜け、広間を駆け抜け、玄関から外へまっしぐらに飛び出した。
「お嬢様!!」
呆然たる他の者が気づいたときには既に遅かった。なんたる悲劇だろうか。レミリア・スカーレットは全裸のまま太陽の光を全身に浴びて、ちょっと描写をはばかられるような壮絶な情況になっていた。表現を抑えたとしても分解して紅霧化してるとしか言いようが無い。その足元には砂のようなものが溜まっている。駆けつけた咲夜の悲痛な声が響き渡る。
「お嬢様お嬢様お嬢様、お嬢様ー!!!!!!」
5
「ニュク・エオム・エオム・エラアン・ウキシオ・エラアン・ウキシオ」
"Nuyk Eom Eom Eraan Ukisio Eraan Ukisio"
レミリアの寝所に置かれた棺にレミリアの灰が入れられ、レミリアの復活を導く魔法の呪文がパチュリーの口から静かに響く。詠唱が終わった。
「蓋をして三分待ちましょう。それで駄目なら……仕方ないわ。諦めなさい」
パチュリーは紅魔館の誰よりも真っ赤な目をした咲夜に話しかけた。咲夜の泣き腫れた眼差しは尋常でない。狂気と紙一重の絶望が溢れ出ていた。
「復活しなかったら……私はあなたを許しません」
咲夜ははっきりとそう呟いた。パチュリーは肩をすくめた。時を操る咲夜には、今までに長い三分が幾度もあった。停止した時空でたった一人で世界を見つめていると、もう世界は終わったのではないかと思えるほど時が重たく感じられる。しかし今この場の三分はそれらのどんな終末よりも緩慢だった。偽の満月の夜よりもはるかに永い三分だった。
チンッ!――棺が音をたてた。咲夜は時間の底から再び現実へ戻ってきた気がした。しかし気が遠くなる。棺までの距離が、一歩進むだけの距離があまりにも遠い。
しかし気づいたとき咲夜は棺の蓋を外していた。紅い煙が立ち昇る。咲夜はそれを手で払い、棺の中を確かめた。棺の底には――
なにもなかった。
咲夜の世界が崩れてゆく。記憶も未来もただ霧の向こうに揺らぐ影のように消えてゆく。全てが時の波に攫われてゆく。ナイフを突き立てられた砂の城のように。攫われてゆく。
嗚咽なのか叫びなのか境界もなく、悲哀そのものの慟哭のような果てしない感情が咲夜から迸る。どこまでも迸る。巨大で終わりの無い激情。そう、迸る――。
パチュリーは思いっきり引いていた。レミリアは紅い煙が集まって、咲夜の背後ですでに形をなしていた。レミリアもちょっと何と言っていいかわからず逡巡していた。
咲夜が全てを出し尽くしたのか、叫びに終止符を打ちその場に膝をつく。その目はもう何も見ていない。レミリアはいちおう声をかけてみる。
「おーい。そんなに気を落とすなって」
「私はだめだ、だめな従者だ、私の生涯はすべてあやまち……圧倒的浪費……」
「うん、まあお前はだめだめだけど、まあでも、そこまで言うほどではない気が」
「あなたに何がわかる、あなたに何が……あなたに……あな……ん?」
「ん?」
「んんん?」
主従の目が合った。二人で目をぱちくりさせ顔をじっと見つめ合う。やがて咲夜の瞳が大きく大きく見開かれ命が灯る。レミリアは冗談が過ぎたと思い、ナイフの一本二本の覚悟を決めた。
「お、お嬢様ーーー!!!!」
怒られる! レミリアはナイフが飛んでくると思って咄嗟にしゃがみガードした。しかしレミリアの体に触れたのは冷たいナイフではなく、温かく柔らかな人間の体だった。自分よりでかい体に目一杯に抱きつかれてレミリアは辟易した。出会った頃、咲夜は自分のことを一本のナイフだとか言ってたっけ。レミリアは何となく思い出した。それから、こいつはいつまで経っても子供だなあ、と呆れてしまった。抱きつく力が異常に強いので、こいつ私を殺す気か、と頭を殴ってやろうかとレミリアは思った。
しかし――子供だから仕方ない。レミリアはどうも至らない従者を抱きしめた。愚行を愛するのもまたスカーレットの誉れ、レミリアはそう信じていたからだ。
美鈴はそんな二人を見ながら冷や汗を流していた。賢いパチュリーは響いてくる爆音を、もうあまり考えないことにした。
ただいま紅魔館某所では面白そうなことを求めて出てきてしまったフランちゃんと伏魔殿なのに油断してた霊夢さんが大変な死闘を繰り広げているのである。
蘇った彼女はこのあと従者に美味しく頂かれました、と。
>「早く帰りなよ」
と言う台詞に、「関わりたくない」とか、「面倒くさい」とか、「何やってんだ」とかその他諸々の感情がにじみ出てて、そこで爆笑してしまい申した