季節の変わり目には天気が荒れるというが、昨日まで三日三晩降り続けた雷雨はまさにそれだったのだろう。バケツをひっくり返したかのような土砂降りとすわ天神のお怒りかというような雷は、わずかばかりに残っていた春の名残を完全に吹き飛ばした後、嘘のようにピタリと止んだ。そして今日、幻想郷はこれまた嘘のような素晴らしい快晴となり、唐突に夏の装いを見せ始めたのだ。
暑くなりそうだ。蘇我屠自古は居間から外を眺めると、ぎらぎらと照りつける太陽に目を細めた。
屠自古達、豊聡耳神子の一派が暮らしている神霊廟は外界とは異なる空間に存在する。しかし、まるで外の様子が分からないのは不便ということで、何ケ所かの窓は外界のどこかしらに繋がっている。現在屠自古がいる居間の窓は、どこかの空き地に繋がっているらしい。窓の外には草が伸びっぱなしの地面と、どこまでも広がる青い空が見て取れた。
廟には庭がないのでいっそのことこの荒れ地を庭にしてしまってはどうだろうか。などとぼんやりしていると、横からくすくすとおかしそうな笑い声と乾いた嘲笑が聞こえた。
「屠自古、手が止まっていますよ」
「何を呆けておる」
豊聡耳神子と物部布都である。
今、三人は揃って衣服の整理をしている。いわゆる衣替えだ。
いち早く夏の訪れを察知した神子の提案で、皆で一緒にやりましょうということになったのだ。
朝早くから始まった衣替えはきゃいきゃいと姦しくも順調に進んだ。後は洗濯を終えた夏服を折り畳んでそれぞれの箪笥に収納するだけだったが、いささか作業に飽きてきた屠自古は気分転換に窓を眺めたのだ。
「何を考えていたの?」
「いえ、太子様の言う通りずいぶん暑くなりそうだなと。このような身で暑いも何もありませんが」
くりくりとした目で楽しそうに聞いてくる神子に、屠自古は笑った。
亡霊となってからというもの気温の変化をほとんど感じなくなった、にも関わらず『暑くなりそうだ』などと思った自分がおかしかったのだ。
神子はそんな屠自古の意を察したのか、屠自古と同じようにくすくすと笑っていたが、やがて笑いを収めて言った。
「気温を感じなくとも、目が、鼻が、耳が、生前の記憶が、夏の暑さをしっかりと屠自古の体に伝えているのかもしれませんね」
なるほど、と呟き屠自古は再び窓を見た。
真っ青な空に、照りつける太陽、それに向かって伸びる緑の雑草。さすがにまだ蝉の声は聞こえないが、微かに漂う空気の臭いはまさしく夏のそれだった。そして、それら季節の装いは確かに屠自古には感じられないはずの熱を伝えていた。
あぁ、今日は暑くなりそうだ。
屠自古は改めてそう思った。
そんな感慨に老けている時だった。
ごめんくださぁい、と声がしたので振り返れば、馴染みの客である霍青娥と宮古芳香が勝手に居間に上がってきた。何とも図々しい振る舞いであるが今さら誰も気にとめない。作業中ではあったが客人を放っておくのも何なので茶を出し、一息つくことにした。簡単な挨拶を終えると青娥はこれから皆さんで出かけませんかとにこやかに告げた。
「堅物の仙人様とお昼をご一緒しますの。よろしければ皆さんも如何ですか?」
堅物の仙人。というと茨木華扇のことであろう。
直接の面識はないがその名はよく知っていた。青娥は華扇のことをいたく気に入っており、よく話を聞かされていたからだ。一緒に昼食を取るほど親しい仲ではなかったはずだが、そこは霍青娥である。あの手この手で約束を取り付けたのだろう。あまり詮索しない方が身の為だ。
いずれにせよこの申し出は廟の者にとって、とりわけ神子にはありがたいものだった。
神子は同じ仙道を歩むものとして、ぜひ一度華扇と会ってみたいと以前から言っていたのだ。
そのことを知っていた青娥が気を利かせたのか単なる気まぐれかは知らないが、神子は大いに喜んだ。
「それはありがたい。しかし、ご覧の通り衣替えの最中でしてね。どうしたものか」
神子は畳に広がる衣服の山を見て困った顔をした。
夏服はまだ結構な量がある。これを全部片付けてからでは昼食には間に合わないだろう。
とはいえ自分から言いだして始めた作業である。中途半端にほっぽりだして後回しにするのも如何なものかといった表情だ。
何より、洗ったばかりの衣服をこのままにしておいては皺になってしまう。
屠自古は苦笑した。飄々としているようで神子は変なところで真面目だ。この程度のことは悩むような問題ではない。
「太子様、布都と二人で行ってきて下さい。後の片付けは私がやっておきます」
「しかし、屠自古。あなたも華扇さんの話は聞きたいでしょうに」
「私はまだそれほど仙道を修めておりません。今、華扇様の話を聞いても理解できるかどうか。私より太子様と布都で行くのが適当でございましょう。何、今後いくらでもお会いする機会はありますとも」
屠自古の申し出を聞いた神子はなおも申し訳なさそうな顔をしていたが、やがてそれではお留守番お願いしますと言った。
変な気を使ってくれるな、という屠自古の意思が届いたのだろう。
「決まりですわね、それではさっそく出発致しましょう」
屠自古と神子の話が終わるのを見計らって、青娥が立ち上がった。
しかし、ここで予想外のことが起きた。
「私も行かない。ここで待ってる」
芳香が留守番を申し出たのだ。
なんとも妙なことになった。
屠自古の目の前で、芳香がぎこちなく服を折り畳んでいる。
正座はとても無理なので不恰好に足を広げて座り、悪戦苦闘しつつもなんとかかんとか作業を続けている。
結局、屠自古は芳香と二人で留守番をすることになった。
芳香の留守番宣言を聞いた時、青娥は非常に狼狽した様子だった。
芳香ちゃんどうしてだとかお出かけが嫌なのだとかぎゃあぎゃあわめいていたが、理由を聞くとあっさり引き下がり芳香を屠自古に託して出発した。
芳香が華扇邸に行きたがらないのはとても単純な理由だった。
以前、華扇のもとを訪れた際に華扇の使役する鷲だかカラスだかが誤って芳香を噛んだらしい。
なるほど、動き、話せるとしても芳香の体は死体のそれだ。仙人に仕えていようがいまいが鳥である。芳香の体が美味そうに見えてしまっても不思議はないのかもしれない。
そのことがあって芳香は珍しく、青娥に反抗して留守番を志願したということだ。
よほど噛まれたのが嫌だったのだろう。
「屠自古。これでいいか?」
芳香が折り畳まれて小さくなった服を屠自古に見せてきた。
芳香が担当しているのは布都の分である。華奢に見えて芳香は結構な力持ちだ。いきなり神子の服を担当して何かの拍子で破られでもしたらたまらない。
「おう、丁寧に畳めているな。何もそこまで小さく折り畳むことはないが、まぁ、布都のだから別に良いか」
キョンシーの怪力でもってハンカチくらいの大きさまで折り畳まれた布都の衣服には、後日くっきりとみっともない折り目が残るであろう。布都には後で騒がれるだろうがどうでもよかった。屠自古は芳香がそれなりに頑張ってくれていることにほっとしていた。
考えてみればこれまで芳香と二人きりになったことなど全くと言っていいほどなかったのである。
幻想郷に復活してからというもの、青娥、芳香とは何度も顔を合わせている。しかし屠自古にとって芳香は常に「青娥の部下」以上のものでは無かったし、芳香にとってもそれは同様だろう。そもそも芳香は神子の名前を憶えてるかどうかも怪しい節がある。
だから青娥達が出発したあと「屠自古、私も手伝う」と言われた時は驚くと同時に、なかなか嬉しいものがあった。
常にぼうっとしている印象しかなかったが、こうしてぎくしゃくと頑張っている様子を見ていると、なるほど青娥が芳香を溺愛するのも分からなくはない。健気で愛嬌がある。
「太子様の服は、綺麗だな」
「どれも極上の布を使ってるからな。最近は変なマントに憧れておるようだが……」
「布都の服は小さくて可愛いな」
「本人に言ってやれ。きっと面白い顔が見られる」
「屠自古、その半袖ワンピース可愛い。似合いそう」
「そ、そうだろうか? 少し派手じゃなかろうか」
そんな風に時折言葉を交わしながら作業は続いた。
神子たちが居なくなりさぞかし退屈な作業になるだろうと思っていたが、芳香との作業は思いのほか楽しかった。
服を畳み終わり箪笥に収納し終えると、思った以上に自分が疲れていることに気が付いた。
正直、芳香が手伝ってくれて助かった。一人で黙々とこの作業を行っていたら疲労は倍になっていただろう。
労いの意味も込めて、簡単な昼食を作って一緒に食べることにした。
「素麺でいいか」
「素麺好き」
「折角だ。外で食べようか」
「おう、いいなそれ」
居間の食卓は二人で囲むには広すぎる。折角の天気だし、たまには良かろうと提案すると芳香も乗り気のようだ。屠自古は芳香に御座を持たせると自分は調理した素麺やら露やらを盆に載せて居間の窓から『庭』に出た。ここが幻想郷のどこなのかは分からないが、荒れっぱなしの様子から見て誰かの所有地という訳でもないだろう。庭化計画の一旦、というわけでもないが自由に使わせてもらうとしよう。
青空の下、御座を敷いて二人並んで座り、素麺を啜る。
ほとんど手をかけていない手抜き料理だったが、なかなかどうして、これがとても美味く感じられた。
亡霊とキョンシー。およそ人間離れした二人だが一丁前に青空の下で素麺なんぞを啜っている。
屠自古はおかしくて仕方なかった。
今朝方交わした神子とのやりとりが思い出される。
相変わらず体は何も感じなかったが、屠自古はどうしようもなく夏を感じている。
少し早めの夏を、満喫している。
それを、口にせずにはいられなかった。
「あぁ、今日は暑いなぁ」
思わず出た、何気ない言葉。
まったく意味をなさない亡霊の一人言であったが、何故か隣のキョンシーがびくりと反応した。
「え、今日は暑いのか?」
思わぬ反応に屠自古は困惑した。
芳香は素麺を啜っていた箸を止めて、妙に狼狽している。
今の言葉の何が気になったのだろうか。
「私は何も感じないが、まぁこの天気だからな。先程の青娥殿も少し汗をかいていたようだし」
「そうか。暑いのか。汗を掻くほど暑いのか」
そう言うと芳香は慌ただしく素麺を平らげて、そそくさと居間に戻ってしまった。
残された屠自古はぽかんとするしかなかった。
居間は静まり返っていた。
先程までの朗らかな雰囲気はどこへやら、芳香は部屋のすみっこで体育座りをしている。
当然、屠自古は何事かを問うたのだが芳香は何も言わず、それどころかどうにも屠自古を避けている様子さえ見せた。
何か気に障ることをしたのであろうか?
最初はそう思って作業が嫌だったのかだとか、素麺がまずかったのかだとか色々聞いてはみたのだが芳香はどれにもぶんぶんと首を振るだけだった。となると庭で虫にでもイタズラされたのか、何か良くないことがあったのかと聞いてみたのだが、これにも芳香は何も答えなかった。
そうなるともう心当たりは無い。『暑い』という言葉を聞いてから芳香がおかしくなったような気がするが、それでなぜ自分が避けられるのか皆目見当もつかなかった。
しばらく、あれやこれやと悩んでいたが埒があかない。
青娥達が返ってくる様子もないし、屠自古はあまり気が長くはない。無理矢理問い詰めても良かったのだがそれもまたみっとも無い。
まいったなとガリガリ頭を掻いた後、屠自古はとりあえず気分転換を図ることにした。
このままここで悩んでいても仕方がないし、頭を掻いた際に一枚の葉っぱが頭から落ちてきたのが気になった。昼食の時に風で飛んできたのであろう。それに若干肌が土埃っぽい気がする。ひと風呂浴びて心身共にすっきりしようと思ったのだ。
「芳香、私はこれから風呂に行く。何かあったら呼べ」
屠自古はそう言うと芳香の反応を待たずに、風呂に向かおうとした。
しかし芳香は屠自古のその言葉聞くと、突然立ち上がり屠自古の服の袖を掴んだ。
「あの、ごめん。私もお風呂入りたい」
屠自古の頭はいよいよ疑問で埋め尽くされた。
廟の風呂はそれなりに広い。
部屋全体が檜で作られ上品な雰囲気を醸し出している。湯船は五、六人の大人が余裕で手足を伸ばせるような大きさで、洗い場も複数用意されている。金を取って解放すればたちまち人気スポットになってもおかしくない。無論、そんなことは誰も考えないが。
屠自古は亡霊だが湯浴みが好きだ。ここの風呂の雰囲気も非常に気に入っている。
そんなお気に入りの風呂の洗い場で体を流していると、少し遅れて芳香がやってきた。
手には桶をもっており、その中にはいつの間に持ってきたのか自前の化粧品のようなものがいれられていた。
「屠自古、隣いいか?」
「あぁ、構わんが」
屠自古が許可を出すと芳香は屠自古の隣に座り、桶に湯を溜め始めた。
先程までのそっけない態度はどこへやら、今はとても上機嫌で体を洗っている。
とても慎重な手つきで青白い肌を傷つけぬように気を使っているのがよく分かった。
「肌は繊細なものだからな」
芳香は自分に言い聞かせるように呟き、手に付けた液状の石鹸を肩から、腕、上半身から下半身へと撫でつけていく。
屠自古は見たことが無い色をしたその石鹸が気になった。
「綺麗だなその石鹸」
「うん。青娥が作ってくれた私用のやつなのだ」
見れば化粧品の器には、おそらく青娥のものであろう筆字でそれぞれに名前が書かれていた。
『芳香ちゃん用すべすべボディソープ』『芳香ちゃん用すっきりシャンプー』『芳香ちゃん用きらきらリンス』
といった具合だ。シャンプーやリンスは幻想郷に来てから屠自古も使っているが、芳香は他にも屠自古の知らない色々な化粧品を持っていた。なにやら肌の調子を整えるあれやこれがあるらしく芳香は楽しそうに説明してみせた。
会話が弾んだところで、屠自古は今なら先ほどまで芳香の様子がおかしかった理由が聞き出せるかもしれないと思った。
また機嫌が悪くなってしまう可能性もあったが分からないままなのは気持ちが悪い。
思い切って尋ねてみた。
すると芳香は、一瞬体を洗う手を止めた。
失敗したかと屠自古は顔をしかめたが今度は芳香が沈黙することはなかった。
何故か少し顔を赤らめて、たどたどしく話し始めた。
「その、私はキョンシーだし簡単に腐ったりはしないんだがな。肌にはいつも気を使っているし、だけど、やっぱり死んでるからな。まめに手入れしないとな、今日みたいな『暑い』……らしい日は気になるんだ」
匂いとかが、と恥ずかしそうに語る芳香に屠自古はとても驚いた。
前々から肌のケアがどうとか口にしているのは聞いたことがあるがここまで真剣だったとは。
思えば先ほどの衣替えの最中もそうだった。新しい服を手にするたびに可愛いだとか、綺麗だとかきゃいきゃいはしゃいでいた。
芳香は屠自古が思っているよりずっとずっと、繊細でお洒落さんだったのだ。
芳香も屠自古同様、気温の変化には鈍感なのであろう。
そして屠自古ほど季節の空気を敏感に感じ取ることが出来なかった。屠自古の発言を聞くまで唐突な気温の変化に気づいていなかったのだ。だから、特別なケアは必要ないと思っていた。おそらく普段は自分なりに何か対策をしているのだろう。青娥が汗ばむ程の暑さだというのを聞いて急に不安になってしまったというところか。
「普段も臭ったりはしないし、そんなに心配することない気がするけど」
ひとしきり驚いたあと、屠自古は酷く脱力した。
そんな乙女チックな悩みでコロコロと態度を変えていた芳香が愛おしくもあり、呆れもした。
何より、それに振り回された自分を思うとがっくりと力が抜けた。
だからという訳でもないが、思わずそんな憎まれ口めいた言葉が口から出た。
すると芳香はそれじゃ駄目だと、じとりとした目で屠自古を睨んだ。
「屠自古、せっかくきれいなんだから。もっと気を使って、普段から肌とか髪とか大切にするべきだ」
屠自古は舌を巻いた。
これでも生前はそれなりの身分であったし、身だしなみにもしっかりと気を使っていた。
幻想郷に来て亡霊となってからも疎かにしたつもりはないが、芳香ほど気を配っているかと言われればそれは疑問だった。
そもそも今、屠自古や芳香が使っている化粧品は自分たちの時代には無かったのだ。
よもやキョンシ―から身だしなみについて、説経を受けるとは。
途端に屠自古は芳香の使っている様々な化粧品が気になりだした。
屠自古の使っているシャンプーやリンスは人里から適当に買ってきたものであり特別なものでは無い。
得体が知れないが見るからに質のよさそうな芳香の化粧品が少し羨ましく思えた。
なんせ死体である芳香をバッチリケアする代物だ。霍青娥渾身の作品に違いない。
それを芳香に伝えると、芳香は快く化粧品を使わせてくれた。
屠自古は柄にもなくわくわくした気持ちでそれらを使って体を洗い、大変満足した。
見立て通り、芳香の化粧品はどれもこれも上質で髪も肌もさらさらつやつやになったのだ。
風呂から上がり髪を梳いていると、芳香がにこにことまたしても色々な化粧品を持って近寄ってきた。
「屠自古、せっかくだから化粧をしてみないか」
今度芳香が持ってきたのは先程までのケア要素的な物ではなく、口紅や頬紅といったより美しさを演出するための化粧だった。
屠自古は普段化粧をしない。自分達の時代のそれとは勝手が違ってやり方が分からなかったし、暑苦しい気がしてもともとあまり好きではないのだ。
しかし屠自古と一緒に風呂で色々と話せたのが楽しかったのか、自分の化粧品を披露できるのが楽しいのか、芳香はとても浮かれていて断れる雰囲気ではなかった。
あまり派手にならないようにな、と言いつつも不安な心持ちで屠自古は目を閉じた。
しばらくしてから目を開けて良いと言われ、鏡を見た屠自古は我が目を疑った。
特別に何かが変わったわけではない、しかし、確実に何もかもが違っていた。
芳香は化粧を青娥から教わったという。青娥の技術にはまだまだ及ばないらしいが、屠自古にはとてもそうは思えなかった。
亡霊故の青白い肌は生身の人間の様にほんのりとした自然な赤みを帯びていた。
紅を塗られた唇は下品にならない程度に色味が増し、つややかな色っぽさを出していた。
目もとは普段よりもぱっちりと大きく見え、屠自古の釣り目がちの力強い瞳は、その輝きを増していた。
髪にも手を加えられたらしく、くせ毛はあいからわずだったがふんわりと自然にまとめられていた。
「どうだ。きちんとできたか?」
「ああ。いやこれは参ったな。自分の顔だからどう評したら良いのか、上手い言葉が見つからないが」
間違いなく。あくまで自分を基準にした場合ではあるが、普段より何倍も綺麗になったと言ってもいいだろう。
己の姿に、芳香の腕に、屠自古はまたしても驚かされた。
しばらく夢見心地でぼうっとしていると、芳香が仕上げだと言って屠自古の前に一着のワンピースを差し出した。
先程の衣替えで出したばかりの、爽やかな薄緑色をした夏のワンピース。
屠自古が派手すぎないかと評したものだ。
「派手じゃない。屠自古に良く似合う。屠自古夏モード」
そう言って芳香は有無を言わさずワンピースを着せようとしてきた。
さすがに恥ずかしいと抵抗したが腕力では芳香に敵わない。そうでなくとも色々と今の屠自古はいっぱいいっぱいなのだ。
抵抗空しく、屠自古はワンピースを着せられた。
一連の作業は脱衣所の鏡の前で行われたため、否が応でも屠自古は今の己の姿を目にしなければならない。
屠自古は恥ずかしくて仕方がなかった。
今の自分はどこからどうみても、夏を謳歌する浮かれ者だ。
決して嫌な気持ちでなないが脱衣所でバッチリ決めている意味が分からなかったし、どう考えても柄じゃない。
芳香は色々と褒めてくれるが、戸惑うことしかできなかった。
そうしてしばらく芳香と騒いでると、おもむろに居間の方が騒がしくなった。
どうやら神子達が帰ってきたらしい。屠自古と芳香を探しているようだ。
「太子様達が戻ってきたな。もう良いだろう。さぁ化粧を落とすのを手伝ってくれ」
さすがにこの姿を神子や布都、それから青娥に見られるのは勘弁願いたかった。何を言われるか分かったものでは無い。
芳香に向かって若干焦り気味に言うと、芳香は分かったと答えた。
そして顔の化粧から落とすから、また目をつぶってくれと言った。
屠自古は素直に芳香の指示に従ったが、その時に気づくべきであった。
せっかく美しくドレスアップしたお人形を、制作者が誰にも見せずに壊すわけがないのだ。
「おい。まだか? 急がないと太子様達が来てしまう」
なかなか作業を始めない芳香に郷を煮やした屠自古は目を開けた。
そこには芳香に案内されて来た神子達の姿があった。
始めに動いたのは神子だった。
固まっている屠自古の肩をぐいと引き寄せると、触れ合うばかりに顔を近づけた。
「太子様、御戯れを」
心臓が飛び出るほど驚きながらかろうじて発した声は、しかし神子には届いていないようだ。
ヘッドフォンの文字がいつもの『和』から『欲』に変わり、耳のような髪はぺたんと垂れさがっている。
これは神子が何も聞きたくない時に使う技。すなわち、豊聡耳神子完全防音の型である。
髪を垂らす意味は分からない。
「今の私には何も聞こえません。戯れは、これからじゃ」
そう言って迫ってくる神子に屠自古は危機感を覚えて少しだけ乱暴に神子の束縛から逃れた。
今の神子は完全にトランス状態だ。目が据わっている。何をされるか分かったものではない。
嫌ではない。嫌ではなかったが皆が見ているこんな状況ではさすがに御免だ。
「おい、布都。太子様の様子が変じゃ。何とかするぞ」
まずは神子を落ち着かせなければ。布都とてこの状況をだまって見過ごすことはできないだろう。
とりあえず、布都と二人がかりで押さえればなんとかなるだろう。
しかし声をかけられた布都は協力するそぶりも見せずに、顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。
「おかしいのはお前じゃ! なんだそのような可愛い……ではなくてけったいな恰好をしおって! 惚れる……訳が無く不気味であるとは言わないが可愛いではないか!」
どうやら布都も錯乱しているらしい。
褒め言葉なのか嘲りなのかよく分からない言葉を叫ぶ布都に、屠自古は両手で突き飛ばされた。
何をする、と詰め寄ろうとしたが今度は両手首を背後からがっちり掴まれた。
振り返るとそこには舌なめずりをする、霍青娥の顔があった。
そしてぼそりと、屠自古だけに聞こえる声量で呟いた。
「やってやんよ」と。
屠自古は今こそ本物の邪仙を見た気がした。
そして自分の口癖は状況一つ、言い方一つでこうも如何わしいものになるのだということを知った。気をつけなければいけない。
正面にはうつろな瞳の豊聡耳神子。
屠自古の言葉は届かない。
右手には何かを怒鳴り散らしながら、涙目で近寄ってくる物部布都。
屠自古には何がしたいのか分からない。
後ろには妖艶な笑みを浮かべた霍青娥。
屠自古は勝てる気がしない。
そして、左手の離れた位置でにこにこしている元凶、宮古芳香。
屠自古は心の中でささやいた「今日は色々ありがとう」と。
精一杯の本音と皮肉を込めて。
屠自古は助けが無いことを覚り、観念し、心の中で皆に謝罪した。
これから少々手荒な手段を取ることを。
どうやら今の神子達の興奮を静めるには強烈な一撃が必要なようだ。
春を一掃した初夏の雷の如き、強烈な一撃が。
神霊廟の脱衣所に、夏モードの屠自古による雷が炸裂した。
暑くなりそうだ。蘇我屠自古は居間から外を眺めると、ぎらぎらと照りつける太陽に目を細めた。
屠自古達、豊聡耳神子の一派が暮らしている神霊廟は外界とは異なる空間に存在する。しかし、まるで外の様子が分からないのは不便ということで、何ケ所かの窓は外界のどこかしらに繋がっている。現在屠自古がいる居間の窓は、どこかの空き地に繋がっているらしい。窓の外には草が伸びっぱなしの地面と、どこまでも広がる青い空が見て取れた。
廟には庭がないのでいっそのことこの荒れ地を庭にしてしまってはどうだろうか。などとぼんやりしていると、横からくすくすとおかしそうな笑い声と乾いた嘲笑が聞こえた。
「屠自古、手が止まっていますよ」
「何を呆けておる」
豊聡耳神子と物部布都である。
今、三人は揃って衣服の整理をしている。いわゆる衣替えだ。
いち早く夏の訪れを察知した神子の提案で、皆で一緒にやりましょうということになったのだ。
朝早くから始まった衣替えはきゃいきゃいと姦しくも順調に進んだ。後は洗濯を終えた夏服を折り畳んでそれぞれの箪笥に収納するだけだったが、いささか作業に飽きてきた屠自古は気分転換に窓を眺めたのだ。
「何を考えていたの?」
「いえ、太子様の言う通りずいぶん暑くなりそうだなと。このような身で暑いも何もありませんが」
くりくりとした目で楽しそうに聞いてくる神子に、屠自古は笑った。
亡霊となってからというもの気温の変化をほとんど感じなくなった、にも関わらず『暑くなりそうだ』などと思った自分がおかしかったのだ。
神子はそんな屠自古の意を察したのか、屠自古と同じようにくすくすと笑っていたが、やがて笑いを収めて言った。
「気温を感じなくとも、目が、鼻が、耳が、生前の記憶が、夏の暑さをしっかりと屠自古の体に伝えているのかもしれませんね」
なるほど、と呟き屠自古は再び窓を見た。
真っ青な空に、照りつける太陽、それに向かって伸びる緑の雑草。さすがにまだ蝉の声は聞こえないが、微かに漂う空気の臭いはまさしく夏のそれだった。そして、それら季節の装いは確かに屠自古には感じられないはずの熱を伝えていた。
あぁ、今日は暑くなりそうだ。
屠自古は改めてそう思った。
そんな感慨に老けている時だった。
ごめんくださぁい、と声がしたので振り返れば、馴染みの客である霍青娥と宮古芳香が勝手に居間に上がってきた。何とも図々しい振る舞いであるが今さら誰も気にとめない。作業中ではあったが客人を放っておくのも何なので茶を出し、一息つくことにした。簡単な挨拶を終えると青娥はこれから皆さんで出かけませんかとにこやかに告げた。
「堅物の仙人様とお昼をご一緒しますの。よろしければ皆さんも如何ですか?」
堅物の仙人。というと茨木華扇のことであろう。
直接の面識はないがその名はよく知っていた。青娥は華扇のことをいたく気に入っており、よく話を聞かされていたからだ。一緒に昼食を取るほど親しい仲ではなかったはずだが、そこは霍青娥である。あの手この手で約束を取り付けたのだろう。あまり詮索しない方が身の為だ。
いずれにせよこの申し出は廟の者にとって、とりわけ神子にはありがたいものだった。
神子は同じ仙道を歩むものとして、ぜひ一度華扇と会ってみたいと以前から言っていたのだ。
そのことを知っていた青娥が気を利かせたのか単なる気まぐれかは知らないが、神子は大いに喜んだ。
「それはありがたい。しかし、ご覧の通り衣替えの最中でしてね。どうしたものか」
神子は畳に広がる衣服の山を見て困った顔をした。
夏服はまだ結構な量がある。これを全部片付けてからでは昼食には間に合わないだろう。
とはいえ自分から言いだして始めた作業である。中途半端にほっぽりだして後回しにするのも如何なものかといった表情だ。
何より、洗ったばかりの衣服をこのままにしておいては皺になってしまう。
屠自古は苦笑した。飄々としているようで神子は変なところで真面目だ。この程度のことは悩むような問題ではない。
「太子様、布都と二人で行ってきて下さい。後の片付けは私がやっておきます」
「しかし、屠自古。あなたも華扇さんの話は聞きたいでしょうに」
「私はまだそれほど仙道を修めておりません。今、華扇様の話を聞いても理解できるかどうか。私より太子様と布都で行くのが適当でございましょう。何、今後いくらでもお会いする機会はありますとも」
屠自古の申し出を聞いた神子はなおも申し訳なさそうな顔をしていたが、やがてそれではお留守番お願いしますと言った。
変な気を使ってくれるな、という屠自古の意思が届いたのだろう。
「決まりですわね、それではさっそく出発致しましょう」
屠自古と神子の話が終わるのを見計らって、青娥が立ち上がった。
しかし、ここで予想外のことが起きた。
「私も行かない。ここで待ってる」
芳香が留守番を申し出たのだ。
なんとも妙なことになった。
屠自古の目の前で、芳香がぎこちなく服を折り畳んでいる。
正座はとても無理なので不恰好に足を広げて座り、悪戦苦闘しつつもなんとかかんとか作業を続けている。
結局、屠自古は芳香と二人で留守番をすることになった。
芳香の留守番宣言を聞いた時、青娥は非常に狼狽した様子だった。
芳香ちゃんどうしてだとかお出かけが嫌なのだとかぎゃあぎゃあわめいていたが、理由を聞くとあっさり引き下がり芳香を屠自古に託して出発した。
芳香が華扇邸に行きたがらないのはとても単純な理由だった。
以前、華扇のもとを訪れた際に華扇の使役する鷲だかカラスだかが誤って芳香を噛んだらしい。
なるほど、動き、話せるとしても芳香の体は死体のそれだ。仙人に仕えていようがいまいが鳥である。芳香の体が美味そうに見えてしまっても不思議はないのかもしれない。
そのことがあって芳香は珍しく、青娥に反抗して留守番を志願したということだ。
よほど噛まれたのが嫌だったのだろう。
「屠自古。これでいいか?」
芳香が折り畳まれて小さくなった服を屠自古に見せてきた。
芳香が担当しているのは布都の分である。華奢に見えて芳香は結構な力持ちだ。いきなり神子の服を担当して何かの拍子で破られでもしたらたまらない。
「おう、丁寧に畳めているな。何もそこまで小さく折り畳むことはないが、まぁ、布都のだから別に良いか」
キョンシーの怪力でもってハンカチくらいの大きさまで折り畳まれた布都の衣服には、後日くっきりとみっともない折り目が残るであろう。布都には後で騒がれるだろうがどうでもよかった。屠自古は芳香がそれなりに頑張ってくれていることにほっとしていた。
考えてみればこれまで芳香と二人きりになったことなど全くと言っていいほどなかったのである。
幻想郷に復活してからというもの、青娥、芳香とは何度も顔を合わせている。しかし屠自古にとって芳香は常に「青娥の部下」以上のものでは無かったし、芳香にとってもそれは同様だろう。そもそも芳香は神子の名前を憶えてるかどうかも怪しい節がある。
だから青娥達が出発したあと「屠自古、私も手伝う」と言われた時は驚くと同時に、なかなか嬉しいものがあった。
常にぼうっとしている印象しかなかったが、こうしてぎくしゃくと頑張っている様子を見ていると、なるほど青娥が芳香を溺愛するのも分からなくはない。健気で愛嬌がある。
「太子様の服は、綺麗だな」
「どれも極上の布を使ってるからな。最近は変なマントに憧れておるようだが……」
「布都の服は小さくて可愛いな」
「本人に言ってやれ。きっと面白い顔が見られる」
「屠自古、その半袖ワンピース可愛い。似合いそう」
「そ、そうだろうか? 少し派手じゃなかろうか」
そんな風に時折言葉を交わしながら作業は続いた。
神子たちが居なくなりさぞかし退屈な作業になるだろうと思っていたが、芳香との作業は思いのほか楽しかった。
服を畳み終わり箪笥に収納し終えると、思った以上に自分が疲れていることに気が付いた。
正直、芳香が手伝ってくれて助かった。一人で黙々とこの作業を行っていたら疲労は倍になっていただろう。
労いの意味も込めて、簡単な昼食を作って一緒に食べることにした。
「素麺でいいか」
「素麺好き」
「折角だ。外で食べようか」
「おう、いいなそれ」
居間の食卓は二人で囲むには広すぎる。折角の天気だし、たまには良かろうと提案すると芳香も乗り気のようだ。屠自古は芳香に御座を持たせると自分は調理した素麺やら露やらを盆に載せて居間の窓から『庭』に出た。ここが幻想郷のどこなのかは分からないが、荒れっぱなしの様子から見て誰かの所有地という訳でもないだろう。庭化計画の一旦、というわけでもないが自由に使わせてもらうとしよう。
青空の下、御座を敷いて二人並んで座り、素麺を啜る。
ほとんど手をかけていない手抜き料理だったが、なかなかどうして、これがとても美味く感じられた。
亡霊とキョンシー。およそ人間離れした二人だが一丁前に青空の下で素麺なんぞを啜っている。
屠自古はおかしくて仕方なかった。
今朝方交わした神子とのやりとりが思い出される。
相変わらず体は何も感じなかったが、屠自古はどうしようもなく夏を感じている。
少し早めの夏を、満喫している。
それを、口にせずにはいられなかった。
「あぁ、今日は暑いなぁ」
思わず出た、何気ない言葉。
まったく意味をなさない亡霊の一人言であったが、何故か隣のキョンシーがびくりと反応した。
「え、今日は暑いのか?」
思わぬ反応に屠自古は困惑した。
芳香は素麺を啜っていた箸を止めて、妙に狼狽している。
今の言葉の何が気になったのだろうか。
「私は何も感じないが、まぁこの天気だからな。先程の青娥殿も少し汗をかいていたようだし」
「そうか。暑いのか。汗を掻くほど暑いのか」
そう言うと芳香は慌ただしく素麺を平らげて、そそくさと居間に戻ってしまった。
残された屠自古はぽかんとするしかなかった。
居間は静まり返っていた。
先程までの朗らかな雰囲気はどこへやら、芳香は部屋のすみっこで体育座りをしている。
当然、屠自古は何事かを問うたのだが芳香は何も言わず、それどころかどうにも屠自古を避けている様子さえ見せた。
何か気に障ることをしたのであろうか?
最初はそう思って作業が嫌だったのかだとか、素麺がまずかったのかだとか色々聞いてはみたのだが芳香はどれにもぶんぶんと首を振るだけだった。となると庭で虫にでもイタズラされたのか、何か良くないことがあったのかと聞いてみたのだが、これにも芳香は何も答えなかった。
そうなるともう心当たりは無い。『暑い』という言葉を聞いてから芳香がおかしくなったような気がするが、それでなぜ自分が避けられるのか皆目見当もつかなかった。
しばらく、あれやこれやと悩んでいたが埒があかない。
青娥達が返ってくる様子もないし、屠自古はあまり気が長くはない。無理矢理問い詰めても良かったのだがそれもまたみっとも無い。
まいったなとガリガリ頭を掻いた後、屠自古はとりあえず気分転換を図ることにした。
このままここで悩んでいても仕方がないし、頭を掻いた際に一枚の葉っぱが頭から落ちてきたのが気になった。昼食の時に風で飛んできたのであろう。それに若干肌が土埃っぽい気がする。ひと風呂浴びて心身共にすっきりしようと思ったのだ。
「芳香、私はこれから風呂に行く。何かあったら呼べ」
屠自古はそう言うと芳香の反応を待たずに、風呂に向かおうとした。
しかし芳香は屠自古のその言葉聞くと、突然立ち上がり屠自古の服の袖を掴んだ。
「あの、ごめん。私もお風呂入りたい」
屠自古の頭はいよいよ疑問で埋め尽くされた。
廟の風呂はそれなりに広い。
部屋全体が檜で作られ上品な雰囲気を醸し出している。湯船は五、六人の大人が余裕で手足を伸ばせるような大きさで、洗い場も複数用意されている。金を取って解放すればたちまち人気スポットになってもおかしくない。無論、そんなことは誰も考えないが。
屠自古は亡霊だが湯浴みが好きだ。ここの風呂の雰囲気も非常に気に入っている。
そんなお気に入りの風呂の洗い場で体を流していると、少し遅れて芳香がやってきた。
手には桶をもっており、その中にはいつの間に持ってきたのか自前の化粧品のようなものがいれられていた。
「屠自古、隣いいか?」
「あぁ、構わんが」
屠自古が許可を出すと芳香は屠自古の隣に座り、桶に湯を溜め始めた。
先程までのそっけない態度はどこへやら、今はとても上機嫌で体を洗っている。
とても慎重な手つきで青白い肌を傷つけぬように気を使っているのがよく分かった。
「肌は繊細なものだからな」
芳香は自分に言い聞かせるように呟き、手に付けた液状の石鹸を肩から、腕、上半身から下半身へと撫でつけていく。
屠自古は見たことが無い色をしたその石鹸が気になった。
「綺麗だなその石鹸」
「うん。青娥が作ってくれた私用のやつなのだ」
見れば化粧品の器には、おそらく青娥のものであろう筆字でそれぞれに名前が書かれていた。
『芳香ちゃん用すべすべボディソープ』『芳香ちゃん用すっきりシャンプー』『芳香ちゃん用きらきらリンス』
といった具合だ。シャンプーやリンスは幻想郷に来てから屠自古も使っているが、芳香は他にも屠自古の知らない色々な化粧品を持っていた。なにやら肌の調子を整えるあれやこれがあるらしく芳香は楽しそうに説明してみせた。
会話が弾んだところで、屠自古は今なら先ほどまで芳香の様子がおかしかった理由が聞き出せるかもしれないと思った。
また機嫌が悪くなってしまう可能性もあったが分からないままなのは気持ちが悪い。
思い切って尋ねてみた。
すると芳香は、一瞬体を洗う手を止めた。
失敗したかと屠自古は顔をしかめたが今度は芳香が沈黙することはなかった。
何故か少し顔を赤らめて、たどたどしく話し始めた。
「その、私はキョンシーだし簡単に腐ったりはしないんだがな。肌にはいつも気を使っているし、だけど、やっぱり死んでるからな。まめに手入れしないとな、今日みたいな『暑い』……らしい日は気になるんだ」
匂いとかが、と恥ずかしそうに語る芳香に屠自古はとても驚いた。
前々から肌のケアがどうとか口にしているのは聞いたことがあるがここまで真剣だったとは。
思えば先ほどの衣替えの最中もそうだった。新しい服を手にするたびに可愛いだとか、綺麗だとかきゃいきゃいはしゃいでいた。
芳香は屠自古が思っているよりずっとずっと、繊細でお洒落さんだったのだ。
芳香も屠自古同様、気温の変化には鈍感なのであろう。
そして屠自古ほど季節の空気を敏感に感じ取ることが出来なかった。屠自古の発言を聞くまで唐突な気温の変化に気づいていなかったのだ。だから、特別なケアは必要ないと思っていた。おそらく普段は自分なりに何か対策をしているのだろう。青娥が汗ばむ程の暑さだというのを聞いて急に不安になってしまったというところか。
「普段も臭ったりはしないし、そんなに心配することない気がするけど」
ひとしきり驚いたあと、屠自古は酷く脱力した。
そんな乙女チックな悩みでコロコロと態度を変えていた芳香が愛おしくもあり、呆れもした。
何より、それに振り回された自分を思うとがっくりと力が抜けた。
だからという訳でもないが、思わずそんな憎まれ口めいた言葉が口から出た。
すると芳香はそれじゃ駄目だと、じとりとした目で屠自古を睨んだ。
「屠自古、せっかくきれいなんだから。もっと気を使って、普段から肌とか髪とか大切にするべきだ」
屠自古は舌を巻いた。
これでも生前はそれなりの身分であったし、身だしなみにもしっかりと気を使っていた。
幻想郷に来て亡霊となってからも疎かにしたつもりはないが、芳香ほど気を配っているかと言われればそれは疑問だった。
そもそも今、屠自古や芳香が使っている化粧品は自分たちの時代には無かったのだ。
よもやキョンシ―から身だしなみについて、説経を受けるとは。
途端に屠自古は芳香の使っている様々な化粧品が気になりだした。
屠自古の使っているシャンプーやリンスは人里から適当に買ってきたものであり特別なものでは無い。
得体が知れないが見るからに質のよさそうな芳香の化粧品が少し羨ましく思えた。
なんせ死体である芳香をバッチリケアする代物だ。霍青娥渾身の作品に違いない。
それを芳香に伝えると、芳香は快く化粧品を使わせてくれた。
屠自古は柄にもなくわくわくした気持ちでそれらを使って体を洗い、大変満足した。
見立て通り、芳香の化粧品はどれもこれも上質で髪も肌もさらさらつやつやになったのだ。
風呂から上がり髪を梳いていると、芳香がにこにことまたしても色々な化粧品を持って近寄ってきた。
「屠自古、せっかくだから化粧をしてみないか」
今度芳香が持ってきたのは先程までのケア要素的な物ではなく、口紅や頬紅といったより美しさを演出するための化粧だった。
屠自古は普段化粧をしない。自分達の時代のそれとは勝手が違ってやり方が分からなかったし、暑苦しい気がしてもともとあまり好きではないのだ。
しかし屠自古と一緒に風呂で色々と話せたのが楽しかったのか、自分の化粧品を披露できるのが楽しいのか、芳香はとても浮かれていて断れる雰囲気ではなかった。
あまり派手にならないようにな、と言いつつも不安な心持ちで屠自古は目を閉じた。
しばらくしてから目を開けて良いと言われ、鏡を見た屠自古は我が目を疑った。
特別に何かが変わったわけではない、しかし、確実に何もかもが違っていた。
芳香は化粧を青娥から教わったという。青娥の技術にはまだまだ及ばないらしいが、屠自古にはとてもそうは思えなかった。
亡霊故の青白い肌は生身の人間の様にほんのりとした自然な赤みを帯びていた。
紅を塗られた唇は下品にならない程度に色味が増し、つややかな色っぽさを出していた。
目もとは普段よりもぱっちりと大きく見え、屠自古の釣り目がちの力強い瞳は、その輝きを増していた。
髪にも手を加えられたらしく、くせ毛はあいからわずだったがふんわりと自然にまとめられていた。
「どうだ。きちんとできたか?」
「ああ。いやこれは参ったな。自分の顔だからどう評したら良いのか、上手い言葉が見つからないが」
間違いなく。あくまで自分を基準にした場合ではあるが、普段より何倍も綺麗になったと言ってもいいだろう。
己の姿に、芳香の腕に、屠自古はまたしても驚かされた。
しばらく夢見心地でぼうっとしていると、芳香が仕上げだと言って屠自古の前に一着のワンピースを差し出した。
先程の衣替えで出したばかりの、爽やかな薄緑色をした夏のワンピース。
屠自古が派手すぎないかと評したものだ。
「派手じゃない。屠自古に良く似合う。屠自古夏モード」
そう言って芳香は有無を言わさずワンピースを着せようとしてきた。
さすがに恥ずかしいと抵抗したが腕力では芳香に敵わない。そうでなくとも色々と今の屠自古はいっぱいいっぱいなのだ。
抵抗空しく、屠自古はワンピースを着せられた。
一連の作業は脱衣所の鏡の前で行われたため、否が応でも屠自古は今の己の姿を目にしなければならない。
屠自古は恥ずかしくて仕方がなかった。
今の自分はどこからどうみても、夏を謳歌する浮かれ者だ。
決して嫌な気持ちでなないが脱衣所でバッチリ決めている意味が分からなかったし、どう考えても柄じゃない。
芳香は色々と褒めてくれるが、戸惑うことしかできなかった。
そうしてしばらく芳香と騒いでると、おもむろに居間の方が騒がしくなった。
どうやら神子達が帰ってきたらしい。屠自古と芳香を探しているようだ。
「太子様達が戻ってきたな。もう良いだろう。さぁ化粧を落とすのを手伝ってくれ」
さすがにこの姿を神子や布都、それから青娥に見られるのは勘弁願いたかった。何を言われるか分かったものでは無い。
芳香に向かって若干焦り気味に言うと、芳香は分かったと答えた。
そして顔の化粧から落とすから、また目をつぶってくれと言った。
屠自古は素直に芳香の指示に従ったが、その時に気づくべきであった。
せっかく美しくドレスアップしたお人形を、制作者が誰にも見せずに壊すわけがないのだ。
「おい。まだか? 急がないと太子様達が来てしまう」
なかなか作業を始めない芳香に郷を煮やした屠自古は目を開けた。
そこには芳香に案内されて来た神子達の姿があった。
始めに動いたのは神子だった。
固まっている屠自古の肩をぐいと引き寄せると、触れ合うばかりに顔を近づけた。
「太子様、御戯れを」
心臓が飛び出るほど驚きながらかろうじて発した声は、しかし神子には届いていないようだ。
ヘッドフォンの文字がいつもの『和』から『欲』に変わり、耳のような髪はぺたんと垂れさがっている。
これは神子が何も聞きたくない時に使う技。すなわち、豊聡耳神子完全防音の型である。
髪を垂らす意味は分からない。
「今の私には何も聞こえません。戯れは、これからじゃ」
そう言って迫ってくる神子に屠自古は危機感を覚えて少しだけ乱暴に神子の束縛から逃れた。
今の神子は完全にトランス状態だ。目が据わっている。何をされるか分かったものではない。
嫌ではない。嫌ではなかったが皆が見ているこんな状況ではさすがに御免だ。
「おい、布都。太子様の様子が変じゃ。何とかするぞ」
まずは神子を落ち着かせなければ。布都とてこの状況をだまって見過ごすことはできないだろう。
とりあえず、布都と二人がかりで押さえればなんとかなるだろう。
しかし声をかけられた布都は協力するそぶりも見せずに、顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。
「おかしいのはお前じゃ! なんだそのような可愛い……ではなくてけったいな恰好をしおって! 惚れる……訳が無く不気味であるとは言わないが可愛いではないか!」
どうやら布都も錯乱しているらしい。
褒め言葉なのか嘲りなのかよく分からない言葉を叫ぶ布都に、屠自古は両手で突き飛ばされた。
何をする、と詰め寄ろうとしたが今度は両手首を背後からがっちり掴まれた。
振り返るとそこには舌なめずりをする、霍青娥の顔があった。
そしてぼそりと、屠自古だけに聞こえる声量で呟いた。
「やってやんよ」と。
屠自古は今こそ本物の邪仙を見た気がした。
そして自分の口癖は状況一つ、言い方一つでこうも如何わしいものになるのだということを知った。気をつけなければいけない。
正面にはうつろな瞳の豊聡耳神子。
屠自古の言葉は届かない。
右手には何かを怒鳴り散らしながら、涙目で近寄ってくる物部布都。
屠自古には何がしたいのか分からない。
後ろには妖艶な笑みを浮かべた霍青娥。
屠自古は勝てる気がしない。
そして、左手の離れた位置でにこにこしている元凶、宮古芳香。
屠自古は心の中でささやいた「今日は色々ありがとう」と。
精一杯の本音と皮肉を込めて。
屠自古は助けが無いことを覚り、観念し、心の中で皆に謝罪した。
これから少々手荒な手段を取ることを。
どうやら今の神子達の興奮を静めるには強烈な一撃が必要なようだ。
春を一掃した初夏の雷の如き、強烈な一撃が。
神霊廟の脱衣所に、夏モードの屠自古による雷が炸裂した。
協力でしょうか
クッソかわいい屠自古をありがとうございました。
これで暑い夏も乗り切れます。
神霊廟好きにはたまらない作品でした
二人の新たな魅力を発見できました、ありがとうございます。
というのが共通点ですね
良かったです
最近、屠自古の可愛いさが広く認識されて来たようで何より。
普段は化粧っ気がないのに、いざすると華麗に変身する屠自古も良いですね
みんなで仲良くなってしまえばよかったのに(ボソッ
>やってやんよ
だめえええ
乙女ちっく芳香と屠自古の組み合わせの破壊力がここまでとは。
とても素敵なよいお話でした。
神子のヘッドホンチェンジは笑ってしまったw
青娥さんの「やってやんよ」が、それまでの子煩悩キャラからのギャップを感じさせて好きです。
梅雨時ながらも、清々しく爽快な夏の空気を感じることが出来ました。ありがとうございます。
邪仙の「やってやんよ」にすべてを持っていかれた
GJ。
何をそんなことと言わんばかりのこのSS。
良いもの読ませて頂きました。
楽しませて頂きました。ありがとうございます。