家の軒先を見上げると、射命丸 文はきまって懐古に耽り、しばしの沈黙を余儀なくされる。
庭に面したそこには、古めかしくも美しい鳥籠がひとつかかり、そのわきには野鳥の巣が寄り添うように築かれている。すでに双方には何重もの蜘蛛の巣が張られていて、空き家としての時間を漂わせる一方で、入れ子じみた滑稽さも宿っている。
この奇妙な取り合わせは、文にとって縁起物のようなものだが、それでいて、ありとあらゆる干渉を長年にわたり拒みつづけている。ふたつの鳥巣は戒めと楔であり、さらには喪服でさえあるのだ。事実、文はひとつの手入れをすることもなく、ただ見守ることしかしていない。そのため、風雨をしのげる軒先の下といえども、ふたつの鳥巣には綻びが目立っており、わけても野鳥の巣などは、今に落ちても不思議ない有様である。
……これらの由縁は、もはや幾年過ぎたことになる。
母屋の軒先につがいの燕が巣くった。けたたましいとはいえぬが、早朝から「ピーヒョロロ」と夫婦して鳴いている。繁殖期の真っ直中ということで、雌鳥の機嫌が悪いにちがいない。しきりに甲高い声で鳴いている。これに対する雄鳥の声は、情けなくも弱々しい響きをしている。気弱なのか甲斐性がないのか、嫁の尻にすっかり敷かれているらしかった。いわゆる恐妻家というやつである。おかしくも生意気なことに、野鳥のくせして夫婦円満の秘訣にならっているようだった。
つがいは夫婦円満の秘訣は知っていても、しかし巣くった軒先の持ち主は知らなかった。そこは文の住処である。文は烏天狗である。烏、すなわち燕の天敵だといえる。その住処に巣を作るとは、大胆なのかそれとも夫婦そろって鳥頭なのか。普通に考えれば愚行としかいえない。取って食われても自業自得であろう。彼らが餌とする夏の羽虫とて、もう少し知恵と警戒心がある。
そういった風に酷評しつつも、文に燕の夫婦を襲う気など露ほどもなかった。文は烏天狗であって、本物の烏ではない。連中には乏しい理性というものがある。しかも、燕の巣は息災をもたらすという。文は縁起をかついで軒先を貸すことを決めた。さっそく巣の真下に古新聞を敷いて、糞で家が汚れないようにしたが、これには燕らを外敵から秘匿する意味合いもあった。
ここまで格別の心づかいをしたというのに、けれど、この燕の夫婦は外敵に晒された。外敵の正体は、また別の意味での燕であった。文の家の居候、犬走 椛である。
居候の身でありながら椛は、生意気にも狼らしい縄張り意識を持っている。普段は甘えん坊のくせして、文が黙って私室に踏み込むと、にわかに機嫌を悪くする。わけても枕や布団のことになると、鋭利な牙を露わに威嚇までしてみせる。寝床は椛にとって特別な場所であった。
それでいて雨風が強く雨戸を叩く夜には、文の胸元を寝床にするのだから、やはり甘えん坊というほかない。とはいえ、椛は孤児であるうえに生家まで失っている。生き別れの時期は定かではないが、椛が生家を焼いたのは数カ月前のことになる。秋刀魚を焼いたら家まで焼けたのだ。それゆえに、椛の甘えん坊ぶりと寝床への執着心は、ある意味で仕方のないことであった。
文にすらそうなのだ。椛が燕たちに寛容であるはずがなかった。縄張りを犯された気になるか、椛は燕の鳴き声ひとつに気を立て、糞が軒先に落ちて溜まるのを嫌った。神経質からは縁遠い普段の気質も、こういう時だけは鋭敏に反応するらしかった。軒先を険しい目でにらんだのも、一度や二度のことではない。
そして、ついに椛は若夫婦たちの新居を落とそうと画策した。ある日、いきり立ったかと思えば、箒を持って庭に出たのだ。異変に感付いた文が寸前のところで止めなければ、巣は地に落ちたにちがいなかった。
燕の巣は息災をもたらす一方で、それを壊すことは忌避される。壊すと家が火事になるという。まさかこの伝承とは無関係だろうが、前述したように椛の生家は火事で焼けている。二の舞になるのは勘弁であった。文は厳しい物言いで椛を叱ったあと、ゆっくりと次のように語りかけた。後年は自ら否定することになるが、この時はまだ飴と鞭の配分に特別の自信があった。
「椛、巣のなかに親鳥がいるのは見える?」
「見えます」
「先から全然動いていませんよね。椛が箒で脅かしたのに。それはどうしてだかわかる?」
「そんなことわからないです」
「そう、それなら教えてあげる。あのなかにはもう卵があるの。親鳥はそれをあたためている最中なの」
「卵ですか」
「もうまもなく孵るでしょうね」
すでに燕たちは卵を産んでいた。それを教えてやると、椛はすんなり箒を納めた。
それからしばらくして、燕の巣には雛が孵った。燕は一度に三から七の卵を産むというが、文の家で無事に産まれた雛鳥は一羽だけだった。餌を欲していよいよけたたましく鳴く声は、常にひとつだけである。親鳥もたった一羽の子を愛おしく思うのだろう。日がな一日餌を捕まえては、雛鳥のもとへと運んでいる。
椛もまたこの雛を、いたく気に入ったようだった。それまで邪険にしていたのが嘘のように、この三羽の家庭を気にかけるようになった。暇さえあれば庭先に出て、軒先の巣を見上げるのだ。そして、なにかあるたびに文を呼んでは、燕の通訳を頼むのだった。
「射命丸様、射命丸様。この子たち、なんと言っているの?」
むろん、文に燕の言葉はわからないが、椛の頭上を飛ぶ親鳥たちは不安気である。言葉はわからずとも、こればかりは通訳ならぬ代弁もできた。文は苦笑まじりに椛を諭してやる。
「あまり巣に近付かないでと、言っていますね。燕は臆病な鳥なのよ」
「餌をあげてはだめ? あの子、いつも口を開けているから」
「そんなのもってのほか、とのことです。臆病ということは、警戒心も強いの。椛がお節介を焼く必要はありません。見て見ぬふりで見守るのが一番なの」
「なかなか可愛げのないやつらですね。だけど、わかりました。離れて見ます」
「そうしておきなさい」
このように椛は、平時であっても燕たちに過干渉気味であった。これが風の強い夜ともなれば、燕の巣が壊れてしまうと、文に風を治めるよう懇願するのだった。文の胸元にもぐりこんでのそれは、さながら親鳥に抱かれる雛鳥の倨傲に満ちていた。
「放っておいても平気よ。軒先の一等丈夫なところを貸しているのだからね」
文は椛のそうした願いを決まって断っていた。自然へのいたずらな干渉は、めぐりめぐって自らに返ってくる。文は千年を生きる身として、その理を知悉していた。実際に痛い目にあったこともあるし、血の流れたこともある。椛のあたたかな肉感に抱雛を想像しようとも、それを失念することはなかった。
けれども、椛はどうだったのか。おそらくは、年端の乏しさに相応しいほどしか理解していなかった。いかんせん経験不足であるから、理屈ではない理を解せるはずもない。椛は文の胸につつまれながらも、その言葉の肝を見落としていた。そして、文もまた椛を抱いていながら、その無理解を見落としていた。こうした見落としや思いこみの蓄積が、後の禍根になるとは、この時の二人は想像すらしなかった。
……その日は燕が地面を飛んでいた。取材から帰った文が、玄関土間で下駄を脱いでいると、なにやら庭で騒ぐ気配があった。何事かと駆けつけて見れば、そこには箒でしきりに空を突く半べその椛と、その頭上を半狂乱に飛びまわる燕の夫婦がいた。事態は一目瞭然である。巣を取り壊そうとする椛に対して、若夫婦は果敢にも挑んでいるのだ。それは生き物として当然の抵抗に思えた。
「やめなさい、椛」
すかさず文は張り上げた声で椛を止めた。ふりかえった椛の顔は、複雑に青ざめていた。
「でも、射命丸様」
「早く箒を置きなさい。自分のしていること、わかっているの?」
「だけど、こいつら」
「約束しましたよね、もう燕たちをいじめないと」
「だってね、だってね」
「言い訳は聞きません。部屋で頭を冷やしなさい」
「……わかりました」
うなだれる椛を、文は部屋まで連れた。自室での謹慎は、遊び盛りの椛にもっとも効果的で、なにより反省を促すことができた。常なら椛もこの罰を素直に受け入れるのだが、この日は珍しく往生際が悪く、文の袖を掴んで離さなかった。
文がそれを振り払うと、椛はようやく観念したようであった。部屋の襖は一寸の隙間なく閉められた。文の閉じた襖は文だけが開けられる。そういう決まりになっている。
こうして帰宅後の一仕事を終えた文は、燕の巣の安否を確かめるべく庭先に出た。いつの間にか崩れた曇天は、水針の細やかなのをこぼしはじめていた。文は自慢の緑の髪をしっとりと濡らしながら、まるで雨宿りをするかのように軒下に歩み寄った。すると、椛が半べそだった理由がわかった。巣の真下には痩せこけた雛鳥の死骸が落ちていた。蟻にたかられていた。ついこの前まで、餌だったはずの虫たちに雛鳥は食われていたのだ。それから軒先の巣を見上げれば、親鳥たちが警戒心を露わにしていた。
文は椛の直面したものを瞬時に悟った。椛は何かのはずみで巣から落ちた雛鳥を、自らの手で巣に帰したにちがいなかった。しかも、それは文の羽繕いを手伝う時の繊細な手付きで、うやうやしく優しげに雛鳥をかかげたのだろう……。雛鳥の死骸のうえに、その光景がありありと思い浮かべられた。そして、文は頬が燕の喉のように紅潮していくのを自覚して、押っ取り刀で椛の部屋と向かった。
おそるおそる椛の部屋をのぞくと、椛は部屋のすみで小さくなっていた。わずかにふるえる肩が荷造りをしているように見えて、文の胸はざわめきだった。椛は自分も巣から追われると、そう考えているかもしれないのだ。
「椛、雛鳥を助けたの?」
文の問いかけに、椛は小さくうなずいた。
「巣から落ちて鳴いていました。ずっとふるえていました」
「だから、巣に帰してあげたのよね?」
「そうです。それなのにあいつらは、自分たちの子なのに……」
文はとっさに椛を背越しに抱きすくめた。平静さを取り繕った声音も、堪えきれず細いものに変わる。
「……ごめんね、椛」
「どうして射命丸様が謝るのですか」
「大切なことを話しそびれていました」
「大切なこと?」
「燕はね、いえ、燕だけでなく野鳥は、みんな警戒心が強いの。だから、においが付くとだめなの……」
ここまで口にしたところで、文は先を話すことをためらった。自分が今まさにしていることが、燕らのそれと同じ行為に思えたのだ。けれど、文には贖罪まじりの義務がある。親鳥たちの弁明をして、椛の持った誤解をなくすために、それは必要な処置であった。
「たとえ自分の雛鳥でも、他の生き物のにおいが付くと、警戒して世話をしなくなるの。時には巣から落として、雛鳥を殺してしまうことだってあるの」
「そんな、それなら私のしたことは……、あの子は私のせいで……」
みなしごの椛にとって、雛鳥の死は二重の苦しみである。自らの手で同類を生んだあげくに、そしてそれを死なせるという苦しみ。死んだ雛鳥はもちろんのこと残された親鳥に対しても、椛は格別の罪悪感をおぼえるのだろう。
「ちがいます。椛は雛鳥を助けようとした、それだけでしょう?」
「だけど、あの子は死んでしまいました。ほんの少し前までは、あんなに、元気だったのに……」
「……もっと早くに教えるべきでした。ごめんね、椛」
椛もまた堪えがきかなくなったらしい。嗚咽の漏れるのが文の腕に直に伝わった。
それでいて椛は文を責めなかった。ただ、さめざめと泣くだけである。
……つい先までは細やかだった雨粒も、今では椛の落涙に呼応するかのように玉となって降りしきっていた。しげる雨音の合間に、燕たちの寂しげな声が聞こえた。臆病さにかられながらも、やはり慈しみも深いらしく、雛鳥の死を悼んでいるらしかった。それにひとしおの涙する椛を、文は何も言わず慰めつづけた。
椛の見せた篠突く雨に、文は燕の高く飛ぶ日は遠いと予想した。けれど、成長の途中にある椛の精神は、その肉体がそうであるように新陳代謝を盛んにしているらしかった。燕尾のように伸びていた暗い影は、数日を経ずしてあからさまでなくなり、椛は何事もなかったかのごとく気丈に振る舞いはじめた。
それと時を同じくして、庭先に小さな墓標が立ったこととは決して無関係であるまい。雛鳥は地に還ったのだ。いつかまた生まれるために。きっと椛はそう受け止めたのだろう。依然として口数はやや乏しいままだが、概ね普段の生活に戻れたことに、文はそっと胸を撫でおろした。
落ち着きを取り戻したのは、なにも天狗二人だけではない。燕らもまた元の生活に戻っていた。雛鳥を悼む悲しげな鳴き声は、いつしかの機嫌の悪そうな声と、弱々しい声に巻き戻っていた。
やはりこの夫婦は、良くも悪くも鳥頭なようである。事情はともあれ二度にわたり椛に襲われているのに、引っ越しを考える気はないらしかった。むしろ以前より馴れ馴れしくなって、心持ち飛び立ち距離も縮んでいるようにさえ思えた。わけても山から穫ってきた魚や兎を、椛が庭先で焼くときなどは、おこぼれを狙ってか興味深げに眺めるのだ。
こうした時、椛の燕の夫婦を見る目は、いわば油膜をはった水たまりであった。澄みわたる瞳のうえに、複雑な感情が起伏しては鈍く光るのである。そこには罪悪感と後悔にくわえて、わずかな怒りと恨みが見て取れた。椛は自らの軽率さを省みながらも、親鳥たちの不注意を呪うらしかった。
実のところ、文を安堵させたのは、反省の心よりも逆恨みの方であった。過剰な自省心は卯の花腐しとひとしく、大切なものを台無しにしかねない。どんなことであれ、ほどほどが一番である。このように文の関知せぬところで、椛の内部は確実に変容していたのだった。
椛と燕に大きな転機が訪れたのは、事件から数週間を経た頃であった。その日の前夜は風が鳴っており、文の布団は椛の寝息に上下していた。けれど、翌朝に文が目覚めると、布団のなかに椛の姿はなかった。まず寝ぼけを疑った文だが、ためしに寝間着の胸元に手をやると、わずかに別の体温と湿りをはらんでいた。これは椛の寝息と涎によるもので、椛を抱いて寝た朝はいつもこうである。
また、部屋の隅には古新聞が折られている。夜に椛の爪を整えてやったのだ。椛の爪は狼らしく神経が通っているらしく、自らの爪を自らで切ろうとしない。文に切るよう頼むのが常である。夜分に爪を整えるのは不吉というが、もとより親なし子の椛には今さらがすぎる。本人もそう考えているのか、爪切りを持ってくるのは就寝前が多かった。
「射命丸様、射命丸様」
文が洗濯の段取りを考えていると、部屋の襖が乱暴に開けられた。やたらと上機嫌な狼藉者は、そのまましきりに文の袖を引っ張った。
「朝から騒がしいわよ。少し落ち着きなさい」
「いいから、こっちに来てくださいな」
「理由を言いなさい」
「雛鳥です、雛鳥です」
「えっと、なんの話かしら」
「だから、燕の雛鳥なんです」
突拍子のない呼びつけに、文は椛の錯乱を疑った。事実、椛の浮かれようは錯乱じみており、文は押されるように軒先まで連れられた。すると、軒先が近付くにつれて、けたたましい鳴き声が聞こえはじめた。今まで気付けなかったのが不思議なほど、それは燕の雛鳥のものであった。
「あら、ほんとうじゃない」
「ほらね、ほらね。今度はたくさんいます」
「そうみたいだけど、たしかに大所帯ね」
軒先の巣には、一羽、二羽と数えられるだけでも五羽の雛鳥が、赤い喉を競って並べていた。影になって見えないだけで、奥にあと二羽ほどいてもおかしくない。それほどまでの盛況さである。
「珍しいこともあるのね。野鳥の産卵は一年に一度だけが普通なのに」
「そうなのですか」
「少なくとも烏はそうだったはず。極希に例外はあるみたいだけど」
「だとすれば、これは奇跡みたいなもの?」
「奇跡は言いすぎかもしれないけど、希有なことにまちがいないわ」
この時、文は野鳥が同じ年に二度目の産卵をするとは、なかなか珍しい特別なことに思えた。けれど、日をあらため調べてみたところ、燕には比較的よくみられる習性だと知りえた。
ただし、このことは興ざめにほかならず、椛に伏せたのは言うまでもない。事実、椛のよろこびようは、例えん方のないものであったのだから。
「本当ですか、本当にとても珍しいことなのですね」
「うそは言いませんよ」
「少しだけ寂しいけど安心しました。あの子がまた鳴いているようです」
「そっか。なんにせよ、当分はにぎやかになるわね」
椛の浮かれ気分に調子をあわせた文だが、その一方で椛がふたたび燕たちに過干渉しないか不安であった。けれども、幸いなことにこの不安は杞憂に終わった。椛は以前とちがい節度をもって、燕たちと関わりはじめたのである。
親鳥たちに落ち度がないか遠巻きに監視して雛鳥たちの成長を見守る姿は、いっぱしの鳥飼のようでもあり、文をたいへん和ませる光景であった。
……しかしながら、椛はともかく燕の夫婦らはやはり鳥頭らしかった。危機管理がなってなかった。兄弟たちに押し負けたのか、それとも巣が欠陥住宅なのか、原因はともかく五羽いる雛鳥のうちの一羽が、ふたたび巣から落ちたのだ。そして、この落ちた雛鳥を発見したのは今回もまた椛であった。ただ、それは日頃の心配りが実を結んだわけではなく、ほとんど偶然であった。
事件の日、椛は山中を駆けまわり、雄の雉を追い立てた。文が取材のために遊んでもらえず、暇つぶしに山中を散策していたところ、この運の悪い雉に出会った。雉は鳥のくせして飛ぶのが下手で長く飛ぶことができない。しかも、飛ぶというより滑空に近いものであるから、追い立てるうちに勝手に墜落してしまうことも珍しくない。この雉もまた例にもれず、逃げまわるうちに落ちて首を折った。はじめ椛を見たときには、生意気にも母衣打ちまでしてみせたのが、幕切れはあっけないものだった。
手早く血抜きをすませた椛は、新鮮な獲物を捌いてもらうため、友人の河童のもとへと向かった。けれども、河童はなかなか業つく張りであった。尾羽の立派な一羽を捕まえたはずが、椛の手元に残ったのは足一本分だけであった。肉はおろか綺麗な羽すらも手間賃として取られたのだ。あきらかにぼったくりであるが、自分では捌けないのだから、しぶしぶ承伏するほかなかった。
そうして持ち帰った雉肉を、椛は文の居ぬ間に食おうと庭先に出た。本音を言えば、鍋にしたかったのだが、鳥肉嫌いの文に調理を頼むわけにもいかず、七輪で串焼きにしようと考えた。文は椛が鳥肉を食うのをえらく嫌うのである。焼失をまぬがれた唯一の家財である七輪を、椛は急いで庭に運んで慣れた手つきで着火した。軒先近くに腰をおろして、いそいそと竹串に刺した雉肉に味噌をぬっていると、雛鳥たちの喧騒が耳にとどいた。ふと見上げると、物欲しそうな真っ赤な口が並んでいた。
椛は肉片を投げてやろうとしたが、前回の苦い経験を思い出してやめた。下手な干渉は御法度である。生焼けの肉は自分の口へと放って処分した。濃い血の味と独特の風味に舌を慰められた。
軒先だけではなく地べたからも鳴き声が聞こえたのは、まさにこの時であった。不思議に思い視線を向けた椛は、驚きのあまり食べかけの肉片を吐いた。落ちた雛鳥は、こういった具合で発見された。椛の食い意地が雛鳥を救ったのである。
かくて胆を抜かした椛が、それでいて冷静な判断をくだしえたのは、ひとえに前回の教訓によるものであった。
慌てず騒がずひとまず七輪を遠ざけ、文の帰りを待つことにしたのだという。
「こっちです、射命丸様。庭に来てください」
そして、文が帰宅するやいなや、椛はすぐさま駆け寄って手を引いたのだった。
椛から事情を聞いた文は、自室の押し入れから鳥籠を取ってくるよう命じた。雛鳥を入れるさい新品の菜箸でつまんだのは、においを付けぬための配慮であったが、効果のほどに自信はなかった。言ってしまえば、賭けみたいなものである。結果として文はこの賭けに勝つことになるが、当時は分が悪いように思えて、ふたたび椛が落ち込まないか不安でならなかった。
文のそうした不安をよそに、椛は鳥籠の雛鳥を見てこう問うた。
「綺麗な鳥籠ですね。でも、なんで鳥籠があるのですか?」
「どうしてかしらね。さて問題はここからよ、この子をどうしたものか」
椛の疑問をよそに、文は雛鳥の処遇をどうするべきか頭を悩ませた。箸でつまんで雛鳥を巣に戻すことも一考するも、やはり前回のこともあって決心がつかなかった。下手を打てば雛鳥が全滅しかねないからである。かといって、燕の雛鳥をこのまま手元に置くわけにはいかなかった。飼育の方法などつゆとして知らないのだから。
軒先の巣をふと見れば、雛鳥の兄弟が真っ赤な口を開けて餌を催促している。一羽の兄弟の安否よりも、旺盛な食欲を優先するらしい。先から親鳥たちが帰ってこないのは、この真っ赤な口によるものなのだろうか。
……あまり考えたくはないうえに、はたして燕にそういった習性があるのか不明だが、文の脳裏には口減らしという言葉がよぎった。
こうして様々な可能性を考慮して悩んだ末に、文は鳥籠を巣の近くに吊るすことにした。運が良ければ、親鳥たちが世話をすると踏んだのだ。そのむねを伝えようと椛に視線をやると、椛は雛鳥に菜箸で餌を与えようとしていた。
「ほら、雉だぞ、美味しいぞ。ほら、食べてみろ」
「……やめなさい、椛」
「どうして? 味噌だから? においが付くの?」
「あのね、よく考えてごらん。おかしいでしょ?」
「あっ、突っつきはじめた。そうだぞ、喰わず嫌いは良くないぞ」
「だから鳥に鳥を食べさせないの。いいからやめなさい」
文は椛を引きはがすと、素早く鳥籠を巣の近くにかけた。
「これで大丈夫なの? ちゃんと世話してもらえるの?」
「手でふれていないのなら、おそらくは平気でしょう」
「お味噌のにおいは平気?」
「いえ、知りません。不安に思うなら、やらなければよかったのに。まぁ、あとは神だのみです」
「なんまいだ、なんまいだ」
「……まぁ、それと似たようなものです」
椛のでたらめな読経が終わったのち、二人は家に入ろうと踵を浮かせた。軒先から離れて玄関へと向かう角を曲がったおりに、ちょうど燕の夫婦の鳴き声が耳朶に届いた。どことなく幸運を思わせる入れちがいに、二人して角から遠目に軒先の方を覗くと、夫婦らは鳥籠に注意を払っている様子であった。
はじめ燕らは突如巣の近くにあらわれた鳥籠を警戒するように訝しげにしていた。巣のふちにつかまり雛鳥を守っているようでもあった。けれど、すぐに鳥籠に雛鳥がいることに気付いたらしく、恐る恐るだが格子にかぎ爪を引っかけて、鳥籠の様子を探りはじめた。
そして、文は賭けに勝った。
「あの子、ちゃんとご飯もらえています」
「基準がよくわからないけど、味噌は平気らしいわね」
「これで食細りせずにすみそうです」
「そう、そうはけっこうですね。だけど、椛に晩御飯ありません」
「どうしてですか」
「雉肉、食べていましたよね。それも私の家で」
「庭で焼いただけです。家のなかには持って入っていません」
「私が鳥食をどう思っているのか。忘れたとは言わせませんよ」
恨めしげに文の顔を見上げると、そこには怒るでもなく誇らしげにする顔があった。不条理を押し付けることに酔っているようである。これにはじめての反感をおぼえる椛だが、燕らのことを思って抑えることにした。少なくとも、燕らが無事に巣立つまでは……。
しかしながら、椛が巣立ちに立ち会うことはなかった。梅雨がすぎて夏の香りがただいはじめた頃、ふと気が付けば鳥籠はもぬけのからで、そこには抜けた羽毛と糞に汚れた古新聞だけが残されていた。
前触れのない濁った巣立ちに、椛は置き去りを思わされて、小さな胸に一抹でない寂しさを感じ入った。その後の数日間は、やたらと文に甘えついて離れようとせず、不安気な面持ちで文の袖を掴むことが増えた。置き去りのこともあるが、ひそかな反感を知られて追い出されることを恐れたのである。
そうとは知らぬ文はこれに気を良くして、ただ椛が寂しさのあまり甘え付いていると曲解した。そして、素直で従順な椛をながく楽しもうと、あえて燕が来年には帰って来ることを教えずいた。
この見当ちがいのたくらみは、短期的には一応の成功をおさめるたが、長期的にみると自らの首をしめることになった。しだいにではあるが、椛の心は文のもとから離れていったのだ。
文が以前のように椛を甘やかそうとしても、椛が文に甘えることはなくなった。ただ鬱陶しそうにするだけで、そのような態度を文は生意気だと罵った。かくして、ほんの少しのすれちがいが、口げんかに発展することも多くなった。
心離れが明確になったのと同時期に、毎年の巣戻りをみせていた燕らが、ある年になってからまるで絶えてしまった。気になった文が原因を調べたところ、基本的に巣戻りするのは親鳥だけで、雛鳥たちは巣戻りをせずに別の巣を作ると知りえた。このことは遠回しに、あの親鳥が空に還ったことを意味していた。野鳥の寿命はみじかいうえに、なかんずく燕は機敏なだけで強い鳥ではない。鴉にでも襲われたのだろう。もはや軒先の巣は帰り人も待ち人も永遠に失ったのである。
文はこの不吉を椛に伝えるべきか。おおいに迷った。けれど、その機会はついぞ得られなかった。この時、すでに椛の関心は燕らのうえになかった。もっと別のものにうつっていた。精神の旺盛な新陳代謝は、いつの間にか、椛を内面から別の存在に作り変えてしまっていたのだ。
文はこの変化を怖れるだけでなく、さらには疎ましく思えた。いさかいは日常的なものとなりつつあった。激昂した文が声を荒げることも珍しいことでなくなった。
いさかいが絶えぬようになってから間もなくの頃、椛もまた文のもとから去ってしまった。それは巣立ちというよりも、燕が鴉を避けるような逃避であった。正式な哨戒任務を与えられるようになり数カ月が過ぎた頃に、椛は新たな住処を見つけて居を移したのである。この出奔はひとつの前兆もなく、文がそれを知りえたのは当日だった。数枚の装束とわずかな日用品を風呂敷につつんだ椛は、なにも言わないまま敷居をまたいで文の前から去っていった。
葉桜のしげる季節であった。灯りの絶えた家のなかで一晩、二晩と文は椛の帰りを待ったが、火が油皿に灯されることはなかった。残されたものといえば、宿代のつもりなのか、何本かの銭の束だけである。乏しい給与から捻出したものらしく、忌憚なく言えば手切れ金である。三日目の朝にして、椛の帰らぬことを認めた文は、残された銭束を床に叩きつけて一時の憂さ晴らしを得た。落ちた花弁を踏みにじるように、そこから三日三晩にわたり、椛の不義理を呪いつづけた。
綿々とした呪詛の後にひかえていたのは、はてしない倦怠感だけであった。落としどころのない悔しさは、文の肉体と精神の二柱を黒蟻のように蝕み、砂糖菓子のくずれるように崩壊させしめた。
かくて、不貞腐れたあげくに疲れきった文は、七日目の晩に、何をするでもなく無気力のまま寝床に就いた。気怠さに満ちた肉体は、またたく間に泥のような眠りへと落ちたが、枕にはどうしてか意識だけが置き去りにされた。そこで文の見たものは、いつしかの日に椛とした口げんかの明晰夢であったが、翌朝は、じっとりとした嫌な汗を全身にかいて目を覚ました。かつては椛の呼気の残り香だったものは、過ちの証明となっていた。
夢のなかの文は、口げんかのさなか激した感情のままに、椛に家から出て行けと口走っていたのだ。
この一言が椛の出奔を決意させたことは疑いようもない。ひと一倍縄張り意識が強く、なかんずく身寄りのない椛にとって、追放の言葉はこれ以上ない残酷な仕打ちである。それをこの時分になって、ようやく思い出しえた。
にわかな自省の念が椛の捜索を求めたが、理性はそれを拒否した。椛とは早かれ遅かれこうなっていたと、諦観している自分を見つけてしまったのだ。椛の出奔の根は、もっと深いところにある。そこまでわかっていても、椛を呼び戻す術もなければ、なにをどう謝ればいいのかもわからない。ひとつの方策も打てないまま、時間だけが矢のように過ぎていった。季節が移り変わる頃には、椛のいない生活にも慣れた。心持ち家が広くなり静かになった。つまるところ、それだけであった。椛ほど活発ではないけれど、文の精神も一応の新陳代謝を備えていたのだ。
……だが、今でも文の家の軒先には、燕の巣と古い鳥籠が今も寄り添っている。
いつかまた軒先の古巣に赤い喉が並ぶとき、椛もまた帰ってくる。そう信じて文は、縁起をかついでいるのだ。
庭に面したそこには、古めかしくも美しい鳥籠がひとつかかり、そのわきには野鳥の巣が寄り添うように築かれている。すでに双方には何重もの蜘蛛の巣が張られていて、空き家としての時間を漂わせる一方で、入れ子じみた滑稽さも宿っている。
この奇妙な取り合わせは、文にとって縁起物のようなものだが、それでいて、ありとあらゆる干渉を長年にわたり拒みつづけている。ふたつの鳥巣は戒めと楔であり、さらには喪服でさえあるのだ。事実、文はひとつの手入れをすることもなく、ただ見守ることしかしていない。そのため、風雨をしのげる軒先の下といえども、ふたつの鳥巣には綻びが目立っており、わけても野鳥の巣などは、今に落ちても不思議ない有様である。
……これらの由縁は、もはや幾年過ぎたことになる。
母屋の軒先につがいの燕が巣くった。けたたましいとはいえぬが、早朝から「ピーヒョロロ」と夫婦して鳴いている。繁殖期の真っ直中ということで、雌鳥の機嫌が悪いにちがいない。しきりに甲高い声で鳴いている。これに対する雄鳥の声は、情けなくも弱々しい響きをしている。気弱なのか甲斐性がないのか、嫁の尻にすっかり敷かれているらしかった。いわゆる恐妻家というやつである。おかしくも生意気なことに、野鳥のくせして夫婦円満の秘訣にならっているようだった。
つがいは夫婦円満の秘訣は知っていても、しかし巣くった軒先の持ち主は知らなかった。そこは文の住処である。文は烏天狗である。烏、すなわち燕の天敵だといえる。その住処に巣を作るとは、大胆なのかそれとも夫婦そろって鳥頭なのか。普通に考えれば愚行としかいえない。取って食われても自業自得であろう。彼らが餌とする夏の羽虫とて、もう少し知恵と警戒心がある。
そういった風に酷評しつつも、文に燕の夫婦を襲う気など露ほどもなかった。文は烏天狗であって、本物の烏ではない。連中には乏しい理性というものがある。しかも、燕の巣は息災をもたらすという。文は縁起をかついで軒先を貸すことを決めた。さっそく巣の真下に古新聞を敷いて、糞で家が汚れないようにしたが、これには燕らを外敵から秘匿する意味合いもあった。
ここまで格別の心づかいをしたというのに、けれど、この燕の夫婦は外敵に晒された。外敵の正体は、また別の意味での燕であった。文の家の居候、犬走 椛である。
居候の身でありながら椛は、生意気にも狼らしい縄張り意識を持っている。普段は甘えん坊のくせして、文が黙って私室に踏み込むと、にわかに機嫌を悪くする。わけても枕や布団のことになると、鋭利な牙を露わに威嚇までしてみせる。寝床は椛にとって特別な場所であった。
それでいて雨風が強く雨戸を叩く夜には、文の胸元を寝床にするのだから、やはり甘えん坊というほかない。とはいえ、椛は孤児であるうえに生家まで失っている。生き別れの時期は定かではないが、椛が生家を焼いたのは数カ月前のことになる。秋刀魚を焼いたら家まで焼けたのだ。それゆえに、椛の甘えん坊ぶりと寝床への執着心は、ある意味で仕方のないことであった。
文にすらそうなのだ。椛が燕たちに寛容であるはずがなかった。縄張りを犯された気になるか、椛は燕の鳴き声ひとつに気を立て、糞が軒先に落ちて溜まるのを嫌った。神経質からは縁遠い普段の気質も、こういう時だけは鋭敏に反応するらしかった。軒先を険しい目でにらんだのも、一度や二度のことではない。
そして、ついに椛は若夫婦たちの新居を落とそうと画策した。ある日、いきり立ったかと思えば、箒を持って庭に出たのだ。異変に感付いた文が寸前のところで止めなければ、巣は地に落ちたにちがいなかった。
燕の巣は息災をもたらす一方で、それを壊すことは忌避される。壊すと家が火事になるという。まさかこの伝承とは無関係だろうが、前述したように椛の生家は火事で焼けている。二の舞になるのは勘弁であった。文は厳しい物言いで椛を叱ったあと、ゆっくりと次のように語りかけた。後年は自ら否定することになるが、この時はまだ飴と鞭の配分に特別の自信があった。
「椛、巣のなかに親鳥がいるのは見える?」
「見えます」
「先から全然動いていませんよね。椛が箒で脅かしたのに。それはどうしてだかわかる?」
「そんなことわからないです」
「そう、それなら教えてあげる。あのなかにはもう卵があるの。親鳥はそれをあたためている最中なの」
「卵ですか」
「もうまもなく孵るでしょうね」
すでに燕たちは卵を産んでいた。それを教えてやると、椛はすんなり箒を納めた。
それからしばらくして、燕の巣には雛が孵った。燕は一度に三から七の卵を産むというが、文の家で無事に産まれた雛鳥は一羽だけだった。餌を欲していよいよけたたましく鳴く声は、常にひとつだけである。親鳥もたった一羽の子を愛おしく思うのだろう。日がな一日餌を捕まえては、雛鳥のもとへと運んでいる。
椛もまたこの雛を、いたく気に入ったようだった。それまで邪険にしていたのが嘘のように、この三羽の家庭を気にかけるようになった。暇さえあれば庭先に出て、軒先の巣を見上げるのだ。そして、なにかあるたびに文を呼んでは、燕の通訳を頼むのだった。
「射命丸様、射命丸様。この子たち、なんと言っているの?」
むろん、文に燕の言葉はわからないが、椛の頭上を飛ぶ親鳥たちは不安気である。言葉はわからずとも、こればかりは通訳ならぬ代弁もできた。文は苦笑まじりに椛を諭してやる。
「あまり巣に近付かないでと、言っていますね。燕は臆病な鳥なのよ」
「餌をあげてはだめ? あの子、いつも口を開けているから」
「そんなのもってのほか、とのことです。臆病ということは、警戒心も強いの。椛がお節介を焼く必要はありません。見て見ぬふりで見守るのが一番なの」
「なかなか可愛げのないやつらですね。だけど、わかりました。離れて見ます」
「そうしておきなさい」
このように椛は、平時であっても燕たちに過干渉気味であった。これが風の強い夜ともなれば、燕の巣が壊れてしまうと、文に風を治めるよう懇願するのだった。文の胸元にもぐりこんでのそれは、さながら親鳥に抱かれる雛鳥の倨傲に満ちていた。
「放っておいても平気よ。軒先の一等丈夫なところを貸しているのだからね」
文は椛のそうした願いを決まって断っていた。自然へのいたずらな干渉は、めぐりめぐって自らに返ってくる。文は千年を生きる身として、その理を知悉していた。実際に痛い目にあったこともあるし、血の流れたこともある。椛のあたたかな肉感に抱雛を想像しようとも、それを失念することはなかった。
けれども、椛はどうだったのか。おそらくは、年端の乏しさに相応しいほどしか理解していなかった。いかんせん経験不足であるから、理屈ではない理を解せるはずもない。椛は文の胸につつまれながらも、その言葉の肝を見落としていた。そして、文もまた椛を抱いていながら、その無理解を見落としていた。こうした見落としや思いこみの蓄積が、後の禍根になるとは、この時の二人は想像すらしなかった。
……その日は燕が地面を飛んでいた。取材から帰った文が、玄関土間で下駄を脱いでいると、なにやら庭で騒ぐ気配があった。何事かと駆けつけて見れば、そこには箒でしきりに空を突く半べその椛と、その頭上を半狂乱に飛びまわる燕の夫婦がいた。事態は一目瞭然である。巣を取り壊そうとする椛に対して、若夫婦は果敢にも挑んでいるのだ。それは生き物として当然の抵抗に思えた。
「やめなさい、椛」
すかさず文は張り上げた声で椛を止めた。ふりかえった椛の顔は、複雑に青ざめていた。
「でも、射命丸様」
「早く箒を置きなさい。自分のしていること、わかっているの?」
「だけど、こいつら」
「約束しましたよね、もう燕たちをいじめないと」
「だってね、だってね」
「言い訳は聞きません。部屋で頭を冷やしなさい」
「……わかりました」
うなだれる椛を、文は部屋まで連れた。自室での謹慎は、遊び盛りの椛にもっとも効果的で、なにより反省を促すことができた。常なら椛もこの罰を素直に受け入れるのだが、この日は珍しく往生際が悪く、文の袖を掴んで離さなかった。
文がそれを振り払うと、椛はようやく観念したようであった。部屋の襖は一寸の隙間なく閉められた。文の閉じた襖は文だけが開けられる。そういう決まりになっている。
こうして帰宅後の一仕事を終えた文は、燕の巣の安否を確かめるべく庭先に出た。いつの間にか崩れた曇天は、水針の細やかなのをこぼしはじめていた。文は自慢の緑の髪をしっとりと濡らしながら、まるで雨宿りをするかのように軒下に歩み寄った。すると、椛が半べそだった理由がわかった。巣の真下には痩せこけた雛鳥の死骸が落ちていた。蟻にたかられていた。ついこの前まで、餌だったはずの虫たちに雛鳥は食われていたのだ。それから軒先の巣を見上げれば、親鳥たちが警戒心を露わにしていた。
文は椛の直面したものを瞬時に悟った。椛は何かのはずみで巣から落ちた雛鳥を、自らの手で巣に帰したにちがいなかった。しかも、それは文の羽繕いを手伝う時の繊細な手付きで、うやうやしく優しげに雛鳥をかかげたのだろう……。雛鳥の死骸のうえに、その光景がありありと思い浮かべられた。そして、文は頬が燕の喉のように紅潮していくのを自覚して、押っ取り刀で椛の部屋と向かった。
おそるおそる椛の部屋をのぞくと、椛は部屋のすみで小さくなっていた。わずかにふるえる肩が荷造りをしているように見えて、文の胸はざわめきだった。椛は自分も巣から追われると、そう考えているかもしれないのだ。
「椛、雛鳥を助けたの?」
文の問いかけに、椛は小さくうなずいた。
「巣から落ちて鳴いていました。ずっとふるえていました」
「だから、巣に帰してあげたのよね?」
「そうです。それなのにあいつらは、自分たちの子なのに……」
文はとっさに椛を背越しに抱きすくめた。平静さを取り繕った声音も、堪えきれず細いものに変わる。
「……ごめんね、椛」
「どうして射命丸様が謝るのですか」
「大切なことを話しそびれていました」
「大切なこと?」
「燕はね、いえ、燕だけでなく野鳥は、みんな警戒心が強いの。だから、においが付くとだめなの……」
ここまで口にしたところで、文は先を話すことをためらった。自分が今まさにしていることが、燕らのそれと同じ行為に思えたのだ。けれど、文には贖罪まじりの義務がある。親鳥たちの弁明をして、椛の持った誤解をなくすために、それは必要な処置であった。
「たとえ自分の雛鳥でも、他の生き物のにおいが付くと、警戒して世話をしなくなるの。時には巣から落として、雛鳥を殺してしまうことだってあるの」
「そんな、それなら私のしたことは……、あの子は私のせいで……」
みなしごの椛にとって、雛鳥の死は二重の苦しみである。自らの手で同類を生んだあげくに、そしてそれを死なせるという苦しみ。死んだ雛鳥はもちろんのこと残された親鳥に対しても、椛は格別の罪悪感をおぼえるのだろう。
「ちがいます。椛は雛鳥を助けようとした、それだけでしょう?」
「だけど、あの子は死んでしまいました。ほんの少し前までは、あんなに、元気だったのに……」
「……もっと早くに教えるべきでした。ごめんね、椛」
椛もまた堪えがきかなくなったらしい。嗚咽の漏れるのが文の腕に直に伝わった。
それでいて椛は文を責めなかった。ただ、さめざめと泣くだけである。
……つい先までは細やかだった雨粒も、今では椛の落涙に呼応するかのように玉となって降りしきっていた。しげる雨音の合間に、燕たちの寂しげな声が聞こえた。臆病さにかられながらも、やはり慈しみも深いらしく、雛鳥の死を悼んでいるらしかった。それにひとしおの涙する椛を、文は何も言わず慰めつづけた。
椛の見せた篠突く雨に、文は燕の高く飛ぶ日は遠いと予想した。けれど、成長の途中にある椛の精神は、その肉体がそうであるように新陳代謝を盛んにしているらしかった。燕尾のように伸びていた暗い影は、数日を経ずしてあからさまでなくなり、椛は何事もなかったかのごとく気丈に振る舞いはじめた。
それと時を同じくして、庭先に小さな墓標が立ったこととは決して無関係であるまい。雛鳥は地に還ったのだ。いつかまた生まれるために。きっと椛はそう受け止めたのだろう。依然として口数はやや乏しいままだが、概ね普段の生活に戻れたことに、文はそっと胸を撫でおろした。
落ち着きを取り戻したのは、なにも天狗二人だけではない。燕らもまた元の生活に戻っていた。雛鳥を悼む悲しげな鳴き声は、いつしかの機嫌の悪そうな声と、弱々しい声に巻き戻っていた。
やはりこの夫婦は、良くも悪くも鳥頭なようである。事情はともあれ二度にわたり椛に襲われているのに、引っ越しを考える気はないらしかった。むしろ以前より馴れ馴れしくなって、心持ち飛び立ち距離も縮んでいるようにさえ思えた。わけても山から穫ってきた魚や兎を、椛が庭先で焼くときなどは、おこぼれを狙ってか興味深げに眺めるのだ。
こうした時、椛の燕の夫婦を見る目は、いわば油膜をはった水たまりであった。澄みわたる瞳のうえに、複雑な感情が起伏しては鈍く光るのである。そこには罪悪感と後悔にくわえて、わずかな怒りと恨みが見て取れた。椛は自らの軽率さを省みながらも、親鳥たちの不注意を呪うらしかった。
実のところ、文を安堵させたのは、反省の心よりも逆恨みの方であった。過剰な自省心は卯の花腐しとひとしく、大切なものを台無しにしかねない。どんなことであれ、ほどほどが一番である。このように文の関知せぬところで、椛の内部は確実に変容していたのだった。
椛と燕に大きな転機が訪れたのは、事件から数週間を経た頃であった。その日の前夜は風が鳴っており、文の布団は椛の寝息に上下していた。けれど、翌朝に文が目覚めると、布団のなかに椛の姿はなかった。まず寝ぼけを疑った文だが、ためしに寝間着の胸元に手をやると、わずかに別の体温と湿りをはらんでいた。これは椛の寝息と涎によるもので、椛を抱いて寝た朝はいつもこうである。
また、部屋の隅には古新聞が折られている。夜に椛の爪を整えてやったのだ。椛の爪は狼らしく神経が通っているらしく、自らの爪を自らで切ろうとしない。文に切るよう頼むのが常である。夜分に爪を整えるのは不吉というが、もとより親なし子の椛には今さらがすぎる。本人もそう考えているのか、爪切りを持ってくるのは就寝前が多かった。
「射命丸様、射命丸様」
文が洗濯の段取りを考えていると、部屋の襖が乱暴に開けられた。やたらと上機嫌な狼藉者は、そのまましきりに文の袖を引っ張った。
「朝から騒がしいわよ。少し落ち着きなさい」
「いいから、こっちに来てくださいな」
「理由を言いなさい」
「雛鳥です、雛鳥です」
「えっと、なんの話かしら」
「だから、燕の雛鳥なんです」
突拍子のない呼びつけに、文は椛の錯乱を疑った。事実、椛の浮かれようは錯乱じみており、文は押されるように軒先まで連れられた。すると、軒先が近付くにつれて、けたたましい鳴き声が聞こえはじめた。今まで気付けなかったのが不思議なほど、それは燕の雛鳥のものであった。
「あら、ほんとうじゃない」
「ほらね、ほらね。今度はたくさんいます」
「そうみたいだけど、たしかに大所帯ね」
軒先の巣には、一羽、二羽と数えられるだけでも五羽の雛鳥が、赤い喉を競って並べていた。影になって見えないだけで、奥にあと二羽ほどいてもおかしくない。それほどまでの盛況さである。
「珍しいこともあるのね。野鳥の産卵は一年に一度だけが普通なのに」
「そうなのですか」
「少なくとも烏はそうだったはず。極希に例外はあるみたいだけど」
「だとすれば、これは奇跡みたいなもの?」
「奇跡は言いすぎかもしれないけど、希有なことにまちがいないわ」
この時、文は野鳥が同じ年に二度目の産卵をするとは、なかなか珍しい特別なことに思えた。けれど、日をあらため調べてみたところ、燕には比較的よくみられる習性だと知りえた。
ただし、このことは興ざめにほかならず、椛に伏せたのは言うまでもない。事実、椛のよろこびようは、例えん方のないものであったのだから。
「本当ですか、本当にとても珍しいことなのですね」
「うそは言いませんよ」
「少しだけ寂しいけど安心しました。あの子がまた鳴いているようです」
「そっか。なんにせよ、当分はにぎやかになるわね」
椛の浮かれ気分に調子をあわせた文だが、その一方で椛がふたたび燕たちに過干渉しないか不安であった。けれども、幸いなことにこの不安は杞憂に終わった。椛は以前とちがい節度をもって、燕たちと関わりはじめたのである。
親鳥たちに落ち度がないか遠巻きに監視して雛鳥たちの成長を見守る姿は、いっぱしの鳥飼のようでもあり、文をたいへん和ませる光景であった。
……しかしながら、椛はともかく燕の夫婦らはやはり鳥頭らしかった。危機管理がなってなかった。兄弟たちに押し負けたのか、それとも巣が欠陥住宅なのか、原因はともかく五羽いる雛鳥のうちの一羽が、ふたたび巣から落ちたのだ。そして、この落ちた雛鳥を発見したのは今回もまた椛であった。ただ、それは日頃の心配りが実を結んだわけではなく、ほとんど偶然であった。
事件の日、椛は山中を駆けまわり、雄の雉を追い立てた。文が取材のために遊んでもらえず、暇つぶしに山中を散策していたところ、この運の悪い雉に出会った。雉は鳥のくせして飛ぶのが下手で長く飛ぶことができない。しかも、飛ぶというより滑空に近いものであるから、追い立てるうちに勝手に墜落してしまうことも珍しくない。この雉もまた例にもれず、逃げまわるうちに落ちて首を折った。はじめ椛を見たときには、生意気にも母衣打ちまでしてみせたのが、幕切れはあっけないものだった。
手早く血抜きをすませた椛は、新鮮な獲物を捌いてもらうため、友人の河童のもとへと向かった。けれども、河童はなかなか業つく張りであった。尾羽の立派な一羽を捕まえたはずが、椛の手元に残ったのは足一本分だけであった。肉はおろか綺麗な羽すらも手間賃として取られたのだ。あきらかにぼったくりであるが、自分では捌けないのだから、しぶしぶ承伏するほかなかった。
そうして持ち帰った雉肉を、椛は文の居ぬ間に食おうと庭先に出た。本音を言えば、鍋にしたかったのだが、鳥肉嫌いの文に調理を頼むわけにもいかず、七輪で串焼きにしようと考えた。文は椛が鳥肉を食うのをえらく嫌うのである。焼失をまぬがれた唯一の家財である七輪を、椛は急いで庭に運んで慣れた手つきで着火した。軒先近くに腰をおろして、いそいそと竹串に刺した雉肉に味噌をぬっていると、雛鳥たちの喧騒が耳にとどいた。ふと見上げると、物欲しそうな真っ赤な口が並んでいた。
椛は肉片を投げてやろうとしたが、前回の苦い経験を思い出してやめた。下手な干渉は御法度である。生焼けの肉は自分の口へと放って処分した。濃い血の味と独特の風味に舌を慰められた。
軒先だけではなく地べたからも鳴き声が聞こえたのは、まさにこの時であった。不思議に思い視線を向けた椛は、驚きのあまり食べかけの肉片を吐いた。落ちた雛鳥は、こういった具合で発見された。椛の食い意地が雛鳥を救ったのである。
かくて胆を抜かした椛が、それでいて冷静な判断をくだしえたのは、ひとえに前回の教訓によるものであった。
慌てず騒がずひとまず七輪を遠ざけ、文の帰りを待つことにしたのだという。
「こっちです、射命丸様。庭に来てください」
そして、文が帰宅するやいなや、椛はすぐさま駆け寄って手を引いたのだった。
椛から事情を聞いた文は、自室の押し入れから鳥籠を取ってくるよう命じた。雛鳥を入れるさい新品の菜箸でつまんだのは、においを付けぬための配慮であったが、効果のほどに自信はなかった。言ってしまえば、賭けみたいなものである。結果として文はこの賭けに勝つことになるが、当時は分が悪いように思えて、ふたたび椛が落ち込まないか不安でならなかった。
文のそうした不安をよそに、椛は鳥籠の雛鳥を見てこう問うた。
「綺麗な鳥籠ですね。でも、なんで鳥籠があるのですか?」
「どうしてかしらね。さて問題はここからよ、この子をどうしたものか」
椛の疑問をよそに、文は雛鳥の処遇をどうするべきか頭を悩ませた。箸でつまんで雛鳥を巣に戻すことも一考するも、やはり前回のこともあって決心がつかなかった。下手を打てば雛鳥が全滅しかねないからである。かといって、燕の雛鳥をこのまま手元に置くわけにはいかなかった。飼育の方法などつゆとして知らないのだから。
軒先の巣をふと見れば、雛鳥の兄弟が真っ赤な口を開けて餌を催促している。一羽の兄弟の安否よりも、旺盛な食欲を優先するらしい。先から親鳥たちが帰ってこないのは、この真っ赤な口によるものなのだろうか。
……あまり考えたくはないうえに、はたして燕にそういった習性があるのか不明だが、文の脳裏には口減らしという言葉がよぎった。
こうして様々な可能性を考慮して悩んだ末に、文は鳥籠を巣の近くに吊るすことにした。運が良ければ、親鳥たちが世話をすると踏んだのだ。そのむねを伝えようと椛に視線をやると、椛は雛鳥に菜箸で餌を与えようとしていた。
「ほら、雉だぞ、美味しいぞ。ほら、食べてみろ」
「……やめなさい、椛」
「どうして? 味噌だから? においが付くの?」
「あのね、よく考えてごらん。おかしいでしょ?」
「あっ、突っつきはじめた。そうだぞ、喰わず嫌いは良くないぞ」
「だから鳥に鳥を食べさせないの。いいからやめなさい」
文は椛を引きはがすと、素早く鳥籠を巣の近くにかけた。
「これで大丈夫なの? ちゃんと世話してもらえるの?」
「手でふれていないのなら、おそらくは平気でしょう」
「お味噌のにおいは平気?」
「いえ、知りません。不安に思うなら、やらなければよかったのに。まぁ、あとは神だのみです」
「なんまいだ、なんまいだ」
「……まぁ、それと似たようなものです」
椛のでたらめな読経が終わったのち、二人は家に入ろうと踵を浮かせた。軒先から離れて玄関へと向かう角を曲がったおりに、ちょうど燕の夫婦の鳴き声が耳朶に届いた。どことなく幸運を思わせる入れちがいに、二人して角から遠目に軒先の方を覗くと、夫婦らは鳥籠に注意を払っている様子であった。
はじめ燕らは突如巣の近くにあらわれた鳥籠を警戒するように訝しげにしていた。巣のふちにつかまり雛鳥を守っているようでもあった。けれど、すぐに鳥籠に雛鳥がいることに気付いたらしく、恐る恐るだが格子にかぎ爪を引っかけて、鳥籠の様子を探りはじめた。
そして、文は賭けに勝った。
「あの子、ちゃんとご飯もらえています」
「基準がよくわからないけど、味噌は平気らしいわね」
「これで食細りせずにすみそうです」
「そう、そうはけっこうですね。だけど、椛に晩御飯ありません」
「どうしてですか」
「雉肉、食べていましたよね。それも私の家で」
「庭で焼いただけです。家のなかには持って入っていません」
「私が鳥食をどう思っているのか。忘れたとは言わせませんよ」
恨めしげに文の顔を見上げると、そこには怒るでもなく誇らしげにする顔があった。不条理を押し付けることに酔っているようである。これにはじめての反感をおぼえる椛だが、燕らのことを思って抑えることにした。少なくとも、燕らが無事に巣立つまでは……。
しかしながら、椛が巣立ちに立ち会うことはなかった。梅雨がすぎて夏の香りがただいはじめた頃、ふと気が付けば鳥籠はもぬけのからで、そこには抜けた羽毛と糞に汚れた古新聞だけが残されていた。
前触れのない濁った巣立ちに、椛は置き去りを思わされて、小さな胸に一抹でない寂しさを感じ入った。その後の数日間は、やたらと文に甘えついて離れようとせず、不安気な面持ちで文の袖を掴むことが増えた。置き去りのこともあるが、ひそかな反感を知られて追い出されることを恐れたのである。
そうとは知らぬ文はこれに気を良くして、ただ椛が寂しさのあまり甘え付いていると曲解した。そして、素直で従順な椛をながく楽しもうと、あえて燕が来年には帰って来ることを教えずいた。
この見当ちがいのたくらみは、短期的には一応の成功をおさめるたが、長期的にみると自らの首をしめることになった。しだいにではあるが、椛の心は文のもとから離れていったのだ。
文が以前のように椛を甘やかそうとしても、椛が文に甘えることはなくなった。ただ鬱陶しそうにするだけで、そのような態度を文は生意気だと罵った。かくして、ほんの少しのすれちがいが、口げんかに発展することも多くなった。
心離れが明確になったのと同時期に、毎年の巣戻りをみせていた燕らが、ある年になってからまるで絶えてしまった。気になった文が原因を調べたところ、基本的に巣戻りするのは親鳥だけで、雛鳥たちは巣戻りをせずに別の巣を作ると知りえた。このことは遠回しに、あの親鳥が空に還ったことを意味していた。野鳥の寿命はみじかいうえに、なかんずく燕は機敏なだけで強い鳥ではない。鴉にでも襲われたのだろう。もはや軒先の巣は帰り人も待ち人も永遠に失ったのである。
文はこの不吉を椛に伝えるべきか。おおいに迷った。けれど、その機会はついぞ得られなかった。この時、すでに椛の関心は燕らのうえになかった。もっと別のものにうつっていた。精神の旺盛な新陳代謝は、いつの間にか、椛を内面から別の存在に作り変えてしまっていたのだ。
文はこの変化を怖れるだけでなく、さらには疎ましく思えた。いさかいは日常的なものとなりつつあった。激昂した文が声を荒げることも珍しいことでなくなった。
いさかいが絶えぬようになってから間もなくの頃、椛もまた文のもとから去ってしまった。それは巣立ちというよりも、燕が鴉を避けるような逃避であった。正式な哨戒任務を与えられるようになり数カ月が過ぎた頃に、椛は新たな住処を見つけて居を移したのである。この出奔はひとつの前兆もなく、文がそれを知りえたのは当日だった。数枚の装束とわずかな日用品を風呂敷につつんだ椛は、なにも言わないまま敷居をまたいで文の前から去っていった。
葉桜のしげる季節であった。灯りの絶えた家のなかで一晩、二晩と文は椛の帰りを待ったが、火が油皿に灯されることはなかった。残されたものといえば、宿代のつもりなのか、何本かの銭の束だけである。乏しい給与から捻出したものらしく、忌憚なく言えば手切れ金である。三日目の朝にして、椛の帰らぬことを認めた文は、残された銭束を床に叩きつけて一時の憂さ晴らしを得た。落ちた花弁を踏みにじるように、そこから三日三晩にわたり、椛の不義理を呪いつづけた。
綿々とした呪詛の後にひかえていたのは、はてしない倦怠感だけであった。落としどころのない悔しさは、文の肉体と精神の二柱を黒蟻のように蝕み、砂糖菓子のくずれるように崩壊させしめた。
かくて、不貞腐れたあげくに疲れきった文は、七日目の晩に、何をするでもなく無気力のまま寝床に就いた。気怠さに満ちた肉体は、またたく間に泥のような眠りへと落ちたが、枕にはどうしてか意識だけが置き去りにされた。そこで文の見たものは、いつしかの日に椛とした口げんかの明晰夢であったが、翌朝は、じっとりとした嫌な汗を全身にかいて目を覚ました。かつては椛の呼気の残り香だったものは、過ちの証明となっていた。
夢のなかの文は、口げんかのさなか激した感情のままに、椛に家から出て行けと口走っていたのだ。
この一言が椛の出奔を決意させたことは疑いようもない。ひと一倍縄張り意識が強く、なかんずく身寄りのない椛にとって、追放の言葉はこれ以上ない残酷な仕打ちである。それをこの時分になって、ようやく思い出しえた。
にわかな自省の念が椛の捜索を求めたが、理性はそれを拒否した。椛とは早かれ遅かれこうなっていたと、諦観している自分を見つけてしまったのだ。椛の出奔の根は、もっと深いところにある。そこまでわかっていても、椛を呼び戻す術もなければ、なにをどう謝ればいいのかもわからない。ひとつの方策も打てないまま、時間だけが矢のように過ぎていった。季節が移り変わる頃には、椛のいない生活にも慣れた。心持ち家が広くなり静かになった。つまるところ、それだけであった。椛ほど活発ではないけれど、文の精神も一応の新陳代謝を備えていたのだ。
……だが、今でも文の家の軒先には、燕の巣と古い鳥籠が今も寄り添っている。
いつかまた軒先の古巣に赤い喉が並ぶとき、椛もまた帰ってくる。そう信じて文は、縁起をかついでいるのだ。
が、燕の巣と文椛の決別に関連が見つけられず、物語がちぐはぐに思えました。
もう少し構成面の工夫が必要だったかなと思います。
椛は巣立ったのか、烏に追われたのか。どちらでもあるんでしょうかね。
あとから振り返って前者であったと言えるようなあやもみだったらいいなと思いました。
全体的に良かったですが一点。燕はピーヒョロロとは鳴きません。それだけが気になってしょうがない。