私は本を読むのが好き。
なにしろ部屋の隣があのパチュリーの大図書館なんだから、本の世界にどっぷりと嵌まってしまうのも、すごく自然な流れなんだと思う。
いろんな種類の本のどれも私は好きなんだけど、中でも探偵小説、つまりミステリは私の大好物だ。
不思議で理不尽とも思える謎が、頭脳明晰な探偵たちの美しいロジックによって解き明かされていく様は、私に心からの驚きと喜びを与えてくれる。
ちょっとだけ幼稚な妄想なのだけれど、私の目の前にも不思議で理不尽な謎が現れて欲しい。それを私自身の頭脳で解き明かしてみたい。いつしか私はそう願うようになっていた。
それはどれほど素敵なことなのだろうか。
私のささやかな、けれどもきっと実現できなさそうな願望は、ある日突然にあっさりと叶えられてしまった。
山から来たという緑色の巫女によって。
図書館のテーブルに着いているのは五人。主のパチュリーとそのお手伝いの小悪魔がいるのは勿論だけど、普段はお姉様の世話だったり館の家事だったりで忙しそうに飛びまわってる咲夜が腰を落ち着けているのは珍しかった。
あとは、事件をこの図書館に持ち込んだ山の巫女早苗と、私。これで五人。
五人はさっきから一言も口を利かず、テーブルに置かれた水色の封筒に注目している。
それは沈黙や静寂というよりも困惑や当惑といったほうが似合う様子だった。私も戸惑っている。事件を持ってきた早苗以外は、みんな戸惑っている。
封筒には綺麗に折り畳まれた便箋が一枚。その便箋の中央に、繊細な文字でこう書かれていた。
幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
殺害した犯人は東風谷早苗でした。
たった三行、文字数にすれば64文字。
そこには事件の概要も、被害者の名前も特徴も、事件の起きた場所すら書かれていない。
それだけならまだしも、あろうことか犯人の名前がはっきりと書かれている。
しかも早苗が言うには、この64文字は、これでも事件の全てを表しているんだそうな。
……とてもそうは思えないのだけど。
確かに不思議で理不尽な謎だと思う。ミステリならたくさん読んだが、こんなヘンテコリンな謎は記憶に無い。でも……。
「なに、これ?」
思わずそんな言葉を呟いてしまった。
えーっと……私のささやかな願望って、こんなのだったっけ?
―― Locked room Tea party
―― 5月4日 14時30分
その日たしか私は、読み終わった本を返しに図書館を訪れたんだった。
いつものとおり図書館の扉を開いたところで、いつもと違う、なんだか険悪な雰囲気を感じた。
原因はすぐにわかった。閲覧のテーブルにパチュリーと早苗。二人はお互いを見ないように露骨に顔をそらして、間で小悪魔がそわそわと戸惑っている。
見たところ喧嘩の真っ最中なんだろうか。
「ああ、フランドールさま」
声のしたほうを見ると、咲夜が渋い顔をしていた。
「どうしたの、あれ」
「それが、みなさんでお茶をしていたのですが、早苗さんがうっかりミステリのことに触れてしまって」
「あぁ……」
うっかり地雷を踏み抜いたわけか。
早苗はなんでも社会勉強の一環だとかで幻想郷中のいろんな所を訪れては、簡単なアルバイトをして回っているらしい。
うちには先週から来るようになって、本人の希望らしいけど図書館で小悪魔の手伝いをしている。
だからきっと知らなかったんだ、パチュリーにミステリが禁句だってことを。
「パチュリーさま、いい加減に早苗さんと仲直りしてくださいよ」
「何で私が謝らないといけないのかしら。まず早苗が謝るべきじゃなくて?」
「私は悪くありません!」
激高する二人の間で、小悪魔はおろおろとうろたえていた。少し不憫で同情しそうになる。
「小悪魔さんが魔法についての講釈をしてたのですが、それを聞いて早苗さんが、魔法とミステリって何だか似てますね。と言ってしまわれたのです」
「なるほど、言ってしまわれたんだ」
それならパチュリーが怒るのもわかる。
パチュリーが生涯を捧げている魔法とパチュリーがおもいっきり蔑んでいるミステリを同じに語られたのなら、起爆スイッチが入ったとしてもおかしくない。
「パチュリーなら、ミステリのような稚拙な子供騙しと魔法を同列に語るだなんて聞き捨てならない、とか言いそう」
「まさにそう言われました」
そっか、そう言われたんだ。
「早苗さんのほうもミステリの尊厳を汚されたと、売り言葉に買い言葉でして」
それで双方一歩も退かずに膠着状態、板挟みな小悪魔は困惑するばかり、といったところだろう、うん。
テーブルに着きながらも、お互いにわかりやすいほど大袈裟に相手を拒否している。何て言うか、どうにも大人気ない。
「……わかりました、じゃあこうしましょう」
膠着状態の中、とつぜん早苗が立ち上がった。
「いつまでもいがみ合っていたって埒があきません。小悪魔さんも困っていますし」
「潔く謝罪するのなら聞き入れなくもないわ」
「何で謝らなきゃいけないんですか……と言いたいところですが、そこも含めて白黒つけようじゃないですか!」
「白黒つける?」
訝しげなパチュリーに構わず、早苗は大袈裟な仕草で話を続けた。
「ええ、簡単なことです。私の出題する謎をパチュリーさんが見事解き明かしたら、私もミステリが子供騙しだと認めましょう。しかし、もしパチュリーさんが謎を解くことができなかったら、その時は」
びしっと音が鳴りそうな勢いで、早苗は小悪魔を指差した。
「謎が解けなかったら、小悪魔さんを貰います」
「えっ!? えっ? そんな困ります」
「何でですか、小悪魔さんはパチュリーさんの使い魔なんでしょ? でしたら小悪魔さんに決定権は無いんじゃないですか」
「それはそうですけど、でもやっぱり困りますっ!」
気の毒なほど慌てふためく小悪魔。
つまりこれは、どういうことだろう?
「早苗の出した問題をパチュリーが解けたら、早苗が謝るってこと?」
「そうですね、ええ」
「そんで解けなかったら、小悪魔が早苗に貰われっちゃう、ってこと?」
「そうなりますね」
「いいわ」
パチュリーは小さく、でもはっきりと返事をかえした。
小悪魔は気の毒に「そんなぁ」と弱々しい抗議の声を上げながら、椅子にへたりこんでしまう。
「言うまでもないことですが、謎解きはミステリの作法に従ってもらいます。つまり魔法は一切禁止です、よろしいですか」
「当然よ」
吐き捨てるように言い残して、パチュリーは自室に籠もってしまった。
一方の早苗は、神社に帰ってとっておきの謎を練り上げるとかで、当然勝負は翌日に持ち越しとなった。
「咲夜、なんだか面白そうじゃない?」
「面白そう、ですか……」
私は考えた。
魔法を使ってはいけないと早苗は言ったけれど、パチュリーが一人で謎を解かなければならないとは言っていない。つまり、もし私がパチュリーの味方をして一緒に謎を解いたとしても問題無いわけだ。
実際に不可解な事件が起こるわけじゃないけれど、目の前に立ち塞がる謎を探偵として見事に解き明かす、これはその、私の願望を叶える絶好のチャンスなんじゃないか。気の毒な小悪魔を救うという大義名分も成り立つわけだし。
早苗と違って私はミステリの尊厳とかには少しも興味が無かった。だからパチュリーの味方をしても、なにも問題ない。
―― 5月5日 15時20分
そして翌日。
いつもと同じように、咲夜の用意してくれたお茶を愉しんだ私は(お茶請けの白桃のタルトは本当に美味しかった)逸る気持ちを抑えて図書館へと向かった。
図書館ではすでにみんなテーブルに着いていて、推理合戦を始める準備は整っているようだった。少しは冷静になったのか、昨日のようにいがみ合いをしているというわけでも無いみたい。
私がテーブルに近づくのを見て、早苗が「おやっ」と小さく声を洩らす。
「ああフランさん、申し訳ありませんが私たちはこれから大事な話し合いがありますので、今日の所は席を外して……」
「推理合戦やるんでしょ?」
子供扱いされてしまった。私のが年上なんだけどな。
少しイラッとしたけど、とりあえず今は流して話の先を続ける。
「私もパチュリーと一緒に謎解きするから。早苗の出した謎を私たちが解けたら勝ち、いいでしょそれで」
「えっ、でも」
「だって早苗が勝ったら小悪魔は早苗に攫われちゃうんでしょ? 私は小悪魔に居て欲しいもん。だったら私にも謎解きに参加する理由がある。違う?」
早苗は私の言葉を受けしばらく考えを巡らせて、テーブルに着いた各人の顔を順に窺いながら、やがて「ふむ」と納得したかのように呟く。
「パチュリーさんは、それで構いませんか」
「……いいわよ別に」
「わかりました、ではフランさんにもパチュリーさんと協力して謎を解いてもらいましょう」
話がまとまったところで椅子に着いた。パチュリーは何事もなかったかのように澄まし顔だ。でも流石に今日は本を読んではいない。落ち着いた表情でのんびりと紅茶を呑んでいる。対する早苗は用意した謎によほど自信があるのか、胸を張って堂々としているように見える。
その脇で小悪魔は空気の抜けた風船みたいに萎んでいた。俯いた表情は心ここにあらずといった感じ。その隣りに座る咲夜は……ん?
「あれ、咲夜なんで居るの?」
「それが、審判を仰せつかってしまいました」
なるほど、推理合戦といっても小悪魔の賭かった勝負なわけだから、勝敗を決める審判は確かに必要だ。
謎が解けた、いや解けてないだなんて水掛け論になってしまっては、何をやってるんだかわからなくなってしまう。
「公正な立場とはいえませんが、咲夜さんならしっかり勤めてくれるでしょう。それと時間の管理も咲夜さんにはお願いします。……失念していましたがここには時計が無いのですね」
図書館は何より静寂を重んじるべき、というパチュリーの考えで、この図書館には音を立てる柱時計の類いは置かれていなかった。
腕時計や懐中時計の携帯までは禁じられていないので、咲夜や小悪魔は各々で時計を持っているはずだけど、私は時計を持っていないしパチュリーもきっと持っていない。
私もパチュリーも時間に追われるような生活をしていないし、時間が知りたかったら誰かに訊くか、部屋に戻って壁の時計を見ればいい。
「無尽蔵に時間をかけられても困りますし、私の勤務時間は17時までの約束となっています。ですので推理の制限時間も17時をリミットとさせていただきたいのですが」
「異存はないわ」
「それと魔法が使用禁止なのは昨日も言いましたが、この図書館の書物で調べ物をなさるのは構いません。ミステリでも探偵が調べ物をするのはよくあることですからね」
「本を探すのに小悪魔を使うのは問題無いのかしら? 時間が限られているのだったら私が探すよりも小悪魔に探させたほうが効率的だし、勝敗が決まるまでは小悪魔はあなたの物ではないのだし」
「ええ、構いませんよ」
涼しい顔で答えた早苗は紅茶に軽く口を付け、勿体ぶるように告げた。
「ルールの確認はこんなところでしょう。それでは、そろそろ始めましょうか」
―― 15時25分
早苗は傍らに置いた巾着袋から二通の封筒を取り出した。水色の封筒と薄い緑色の封筒の、二通。
「この封筒の水色のほうには私からの出題が控えてあります。もう片方の緑色の封筒には解答を書きました。解答は審判の咲夜さんに預かってもらいます。事前に書き起こしてあるということで公平性は保たれるかと思いますが、いかがですか」
「解答は一字一句洩らさず完全に一致しなければいけないのかしら」
「もちろんそんなことはありません。そのあたりの判断も咲夜さんにお任せしたいと思います」
早苗が差し出した緑色の封筒を咲夜が受け取る。咲夜は少しだけ緊張しているようにも見えた。
「それではまず、私が出題を読み上げます。その後に皆さんにも封筒の中身をお見せして間違いがないことを確かめてもらいましょう。質問などは解答に関わらない範囲で受け付けたいと思います」
早苗はペーパーナイフで水色の封筒を開いていく。その光景はなにか神聖な儀式であるかのように、私にはそう思えた。
なんの自慢にもならないけど、いままで私は数限りないミステリを読んできた。
幻想郷という特殊な環境もあるので最新の作品に触れる機会は得られないものの、ミステリの歴史の中で押さえるべき作品には隈無く目を通してきたという自負はあった。
もし早苗の出題が過去の名作に使われたトリックの類型であったり派生であったりしたのなら、それを看破する自信もあったし、私の知らないトリックが使われていたとしても、それがミステリの作法で解き明かすことができる謎なのなら善戦できるはずだった。
「では読み上げます」
一呼吸置いて、早苗は封筒から取り出した便箋を広げる。
「幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
殺害した犯人は東風谷早苗でした。」
私は早苗が続きを読み上げるのをじっと待った。きっとパチュリーも咲夜も小悪魔も同じだったんだと思う。
十秒か二十秒だろうか、なんとも奇妙な沈黙の時間が続いた。
「……で、続きは?」
痺れを切らして問いかけると、早苗はにやりと冷笑を浮かべた。
「以上です」
「……はぁ!?」
「ですから、出題は以上です」
テーブルに広げられた便箋には、さっき早苗が読み上げたそのままの内容が書かれている。
ええと、何なんだろうこれ。
私はなにか重要なことを聞き漏らしたかもと思い、便箋をもう一度読み返した。表だけでなく裏側も、小さい字でなにか大事なことが書かれているかとも思い隈無くチェックした。
その結果としてわかったのは、わけがわからないということ。
「これ、なにかの間違いじゃないの? 間違えて解答を開いちゃったとか」
「いえ間違いではありません。ご安心ください」
そう言われても、ご安心なんてできない。
こんな問題がくるなんて(これが問題として成立していたらの話だけど)これっぽっちも予想していなかった。
だいたいまず、事件の概要が全く書かれていない。あるのは密室殺人とだけ。どんな密室殺人なのかわからなければ推理の進めようもないじゃないか。
おまけに犯人が早苗だとはっきり書いてある。犯人がわかっているんなら事件は解決してしまっている。どんな有能な探偵だったとしても、登場した時に事件が解決してしまっていたら何もできっこない。
思わず縋るようにパチュリーを見てしまう。パチュリーは微かに息を吐くと、すこし面倒くさそうに口を開いた。
「質問いいかしら」
「どうぞ」
「この問題は、ミステリの作法とやらで解ける問題なのかしら?」
早苗は僅かに目を細める。
「ええ、保証します」
パチュリーは納得したのか、のんびりと紅茶を呑みはじめてしまう。でも私は納得ができない。堪らず声を荒げてしまった。
「ちょっとパチュリー、いいの?」
「……なにが?」
「だってこれ、この、謎解きだっていうけど、これ問題にすらなってないじゃない!」
「早苗は解けるっていったでしょ。解けるんだったら問題になっているということじゃないかしら」
「ないかしらって、そんな……」
「じゃあ訊くけど、フランは何でこれが問題として成立していないと思うの」
パチュリーに訊かれてもう一度問題を見直す。私にはわからない何かを、パチュリーはわかっているということなんだろうか?
問題を見直し、得られた情報を頭の中でよく整理してみる。
「だってこれ、犯人は早苗だってしっかり書いてあるのよ。犯人がわかってるのなら謎は無いじゃない。じゃあ私たちはなにを解けばいいのよ!」
ああそうだ。なんで混乱しているのか、わかってきた。
頭の中が少しずつ整理されていく。
この問題からは「何を解けばいいのか読み取れない」それが私を混乱させていたんだ。
「犯人がわかってるのなら、犯人以外を解けばいいでしょ。犯行方法に犯行動機、どちらも問題には書いて無いわ」
「あ、言い忘れましたが犯行動機は考えなくて結構です」
横から早苗が割って入る。
「私に他人を殺す理由なんてありませんからね」
「……だ、そうよ」
犯人がわかっていて動機は不問。だとしたら解くべきなのは犯行方法に絞られる。それはわかった。
でも、果たしてこの問題から犯行方法が推理できるんだろうか?
――幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
犯行現場は不明。被害者も不明。読み取れるのは被害者は殺されたということのみ。
――遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
密室だってことはわかるけど、どんな密室だったのかはわからない。
――殺害した犯人は東風谷早苗でした。
三行目には犯行方法を推察できる情報は無さそう。
……やっぱり無理だ。
「この問題じゃあ前提となる情報が少なすぎるのよ。こんなの何も書いてないも同じじゃない。これで犯行方法を推理しろだなんて、そんなの無理難題だって!」
「問題をそのままに受け止めるんじゃなく、その背景を推察すること。そうすれば見えなかった物が見えてくる。ミステリとやらの常套手段ね」
「そんなこと言ったって……」
余計に困惑する私を見て、パチュリーは可笑しそうに笑いを零す。
「他殺死体が発見されました。密室状態にありました。犯人は東風谷早苗でした。問題文は三行とも過去形で結ばれている。これはつまり、既に事件は解決しているということだと読み取れる」
それは私も気付いてたことだ。いやむしろ、事件が解決しているから困っているわけなんだけど。
「それは言い換えれば、どこかの誰かが既にこの事件に遭遇して、そして推理した結果として早苗を犯人だと断定できたってことになるわね」
「まぁ……そうなるかな」
「わかってないようねフラン。いい、早苗を犯人と断定できたということは、早苗以外の誰にも犯行が不可能であり、なおかつ早苗にだけは犯行が可能であった、そうじゃないといけないのよ。じゃないと早苗が犯人だと断定することは無理。
加えて問題文にある条件。幻想郷のあるところ、ということは事件の起きたのが外の世界ではないことを示すし、現場は密室状態にありました。ということは……まぁこれは言うまでもないわね」
「そりゃ密室殺人ってことなんだろうけど……あ!」
幻想郷の中で起きた密室殺人事件。ただし早苗以外には不可能で早苗だけが犯行を可能だった密室殺人事件。
この幻想郷に、一体どれほどの胡散臭い連中がいることだろう。それぞれが理不尽な能力を持っていて、妖精から妖怪から、はては神までいる。深く考えるまでもなく、ミステリにあるような密室殺人を構築するのなんて、幻想郷の住人からすれば実に容易いことだろう。幻想郷の住人にしてみれば密室殺人なんて何の不思議もないこと。
でも早苗の問題文は、どんな能力を持った者にも犯行が不可能だったことを遠回しに示している。どんな能力を持った者にも不可能だけど、ただ一人、早苗にだけは可能だった密室殺人事件だと。それがこの事件なのだと。
「殺人だとは断定できないけどね。被害者が明記されてない以上、それが人間でない可能性も有り得るわ」
「いや、それはいいんだけど……でも、これ」
幻想郷のどんな能力を持った者にも犯行が不可能だけど、ただ一人早苗にだけは犯行が可能だった密室殺人事件。果たしてそんな密室殺人が成立するもんなのだろうか?
三行ある問題文のそれぞれが干渉し合って、可能性の幅をひどく狭めている。問題文をようやく理解した私には、それは不可能なことだとしか思えない。
「これ、本当に解けるの?」
さっきまでとは別の意味で、私はそう呟いていた。
―― 15時30分
早苗がぱちぱちと乾いた拍手を贈る。
その仕草は芝居がかったようで、なんだか嘘臭い。
「ミステリを誹るだけのことはありますね。あの問題を一瞥しただけでそこまで理解して頂けるとは、正直驚きました」
「無駄口はお勧めしないわ。後になってあなたの発言がヒントになったから解けたんだとクレームを付けられても知らないから」
「ふふっ、わかっていますよ勿論」
パチュリーに窘められ、早苗は苦笑しながら再び押し黙る。
二人の言い争いに気を取られてる場合じゃなかった。
問題の方向性は朧気ながら見えてきたけれど、前提とする情報があまりにも少なすぎることには変わりない。これじゃ真っ暗闇の迷路を彷徨うようなものだ。
さっきのように、解釈を推し進めることによって見えてない情報が見えてくるのだろうか。
そうは言っても……。
「でも、これだと被害者が誰かもわからないよね」
「わからないわね」
「被害者すらわからないんじゃ、推理できなさそうだけど」
「その問題から読み取れる被害者の状況は、人間なのか妖怪なのか不明だってこと、それと自殺でも病気でもなく殺されたってこと。被害者の状況以外では早苗の単独犯、つまり共犯者や協力者が一切関与していないと読み解けるけど……それについてはどうなのかしら?」
パチュリーは早苗に向き直り質問を投げかける。
問いかけられた早苗はしばらく考えた後、落ち着いて返事をした。
「その解釈で構いません。もし共犯者がいるのなら犯人は東風谷早苗と誰々でした。と記述される筈ですからね。協力者も然り、記述がないのですから協力者もいません。ええ、私が一人でやりました」
「そう、安心したわ。単独犯じゃなかったら解けるわけがないから、反則を訴えるところだった」
単独犯じゃなかったら解けないということは、早苗の単独犯だったら解けるということ? 私にはその違いがよくわからない。
「問題文からわかる情報は恐らくそのくらいでしょうね。でもこの問題文は、それ以外に重要なことを示唆しているのよ」
「重要なこと?」
「ええ『わからない』ということ」
「はぁ?」
パチュリーの意図が読めず、私はいよいよ混乱してしまう。わからない、ということが重要なこと?
「わからない、ということは言い換えれば『謎』だってことじゃないかしら。そして私たちは検証をしてるんじゃない、謎解きをしてるのよ。だったらあとは、わかるわよね」
「わからない事こそ、この問題で解くべき謎だってこと?」
それは、どうなんだろう。
被害者が誰かも密室がどんな状況かもわからない、わからないからそれが解くべき謎だなんて。
もしそうだったとしても問題文には事件の具体的な記述があまりにも少なすぎる。
碌にヒントも無い状態なのに真相を言い当てるだなんて、そんなの推理じゃなく運の問題だ。砂場に一粒だけ紛れた白胡麻を探すようなもの。
「そんなのいくらなんでも……」
言いかけて私は口籠もる。
真相を言い当てる? 真相って、何だ? これが実際の事件ならわかる。犯人の目論見に惑わされず、本当に事件で起こったことを言い当てる、それが真相。
でも早苗の問題は実際には起こってない事件。実際に起こっていない事件なんだから事件で起こったことを言い当てるなんて不可能だし、そんなの推理したって意味がない。
「気付いたようね」
「この事件は実際には起こっていない、架空の事件」
「そうよ。もしこの問題文が実際に起こった事件についての記述なのだとしたら、私たちは事件の真相を解き明かさなきゃいけない。でも事件が実際に起こっていないことは明白。幻想郷で密室殺人が起きて、しかも解決されただなんて聞いたこと無いし、それに早苗だって犯人なんだから今この場にいることはできないわね」
「じゃあ、真相なんて無いんだから、えぇーと……」
困惑する頭で私は考える。
もし架空の事件で真相が無いのだとしたら、私たちのやることは得られたヒントから『わからないこと』を埋めていくことになる。
得られたヒントとは、つまり、幻想郷の中で起きた密室殺人事件。ただし早苗以外には不可能で早苗だけが犯行を可能だった密室殺人事件。
真相が無い架空の事件、その『わからないこと』を埋めていく。言い換えればそれは、架空の事件の架空の真相を私たちで決めてしまうということ。
不可解な問題文の中核が、なんとなく見えてきたような気がする。
「さっき早苗の単独犯であることを確認したのは、この問題には共犯者が居てはいけないから。もし共犯者がいてそれが誰なのか指定されていないのなら、早苗が犯人だなんてこと意味を為さなくなってしまい、私たちは『わからない』共犯者も言い当てなきゃならなくなる。
犯行場所に被害者に密室の状態に共犯者……まぁ実質の犯人ね。これが全て謎だったとしたら可能性は無限大に拡がってしまい、解ける問題として成立しない」
「でも早苗の単独犯だとしたら、少なくとも犯人だけは確定できる?」
「そう。最後に解かなきゃならないのは早苗の犯行方法なんだけど、その犯行方法を解くためにはそれに至る条件も同時に解き明かしていかないといけない。それがこの問題の本質。条件として犯人が確定しているのは最低限必要なこと。犯人が不確定なままではスタート地点が定まっていないと同じだから、推論の立てようもないわね」
早苗の単独犯だったら解ける、その意味が私にもようやく理解できた。
つまり、起こった事件から犯人を推理するんじゃなくて、犯人からどんな事件だったのかを推理する問題だってことか。
だとしたら犯人が複数いたら、たしかに解きようがない。
「小悪魔、仕事よ」
力なく項垂れていた小悪魔は、パチュリーの呼びかけにはっと顔を上げる。
「幻想郷の全ての住人、その資料を集めてきて。早苗が入手可能だと想定できる範囲で構わないわ」
「は、はいっ!」
小悪魔は元気の良い返事を残し、メイド妖精を引き連れて図書館の奥へと飛んでいった。
―― 15時35分
小悪魔の的確な指示でメイド妖精たちが次々と本を運んでくる。その殆どが人間の里で手に入る幻想郷縁起などの、いわゆる稗田の本だ。
数分ほどでテーブルは積み上げられた本で埋め尽くされて、唖然としているうちに「終わりましたー」と小悪魔が帰ってきた。手際の良さは相変わらずで、私は紅茶のお代わりを飲む暇さえ無かった。
「早苗が問題作成の参考にしたのは、恐らく実際に見たり聞いたりしたものではなく、書籍の形で参照できる資料。それも人間の里で簡単に入手出来る物に限られてくるわ。見聞きした情報は解釈が曖昧すぎて公平性に欠けるし、うちに無いけど早苗には入手可能な書籍ではフェアじゃない。ついでにうちにはあるけど早苗には入手が困難な書籍は参考にしようが無いから考慮する必要は無いわね。落としどころとしては人間の里で入手できる書籍あたりが妥当じゃないかしら」
パチュリーの図書館には有名な稀覯本から出所が不明な本やら正体が不明な本など様々な本があるけど、それらを早苗が参考にしている可能性は極めて低い。
社会勉強とやらで図書館の仕事を手伝っていたものの、その内容は小悪魔の補佐的な雑用に限られていたので、問題作りの資料として希少本を閲覧する機会は得られなかったはず。
問題を解く鍵になりそうなのは幻想郷縁起と絞り込んで間違いないと思う。
一応は私も幻想郷縁起を始めとする稗田の本にはひととおり目を通しているのだけれど、さすがに全ての内容を憶えてはいない。必要に応じて内容を確認することになりそう。
「さてと、ここから先は手探りになってしまうわね。正直この問題のどこから手を付けるべきか迷うところだけど、とりあえずは消去法で可能性を潰していくのが分かりやすいかしら」
「消去法?」
「ええ。幻想郷にいて密室殺人を起こせそうな連中に、犯行が不可能な条件を与えて一人ずつ潰していく。そうやって最後に早苗が残れば、理論上はそれが正解となるわ」
「なるほど」
私は部屋から持ってきたメモ帳を開いて、要点を書き出していった。
―― 15時40分
「もし幻想郷で密室殺人が起こったと仮定して、容疑者が不明だとしたら、フランならまず誰を疑うかしら」
「うーん、八雲紫かなぁ」
最初に思い浮かんだのはスキマ妖怪だった。
スキマとやらのわけのわからない物でどこにでも瞬時に現れる能力は、密室殺人を起こすのに有利なんてものじゃない。私自身も図書館やお姉様の部屋に紫が突然現れたのを何度か見たことがある。
きっと本人が密室殺人にするつもりが無くても結果として密室殺人になってしまう、紫の能力ならそんなことすら有りえそう。
「まぁ妥当なところでしょうね。だったら紫に犯行不可能な条件を整えて封じる必要がある。例えば、事件が起こったのは真冬のことだったので紫は冬眠をしていた」
「えっ!?」
パチュリーの提案は私の認識を明らかに超えていた。
確かに冬眠をしていたのなら犯行は不可能だ。恐らく紫の式神がアリバイを証明してくれるだろうし、そこは理解できる。
でも、それだからといって『事件は冬に起きた』と主張するのは、私には酷く強引に思えた。理解はできても感覚が追いつかない。
「なにを驚いているのよ。実際に起きていない事件なのだから、それがいつ起こったのかも不明なのでしょ? だったら冬に起こったのだとしてもおかしくないじゃない」
「確かにそうだけど」
そうだとわかってはいても、どうにも違和感は拭えない。私が認識している以上に、早苗の問題もその解法も常識の枠から外れているのかもしれない。
「次にいくわよ。紫に犯行が不可能だとすると、他に怪しい容疑者は?」
「ん、あとは、豊聡耳神子とかいう奴も紫と似たような感じで、所構わず現れるんじゃなかったかな。それと霍青娥とかいう奴は壁を抜ける能力があるんじゃなかったっけ? 密室殺人に向いてると思う。それと」
私は少し言い淀む。すぐ目の前にいる人物を容疑者候補に挙げてしまうのは少し気が引ける。
視線に気付いたのか、咲夜がきょとんとした顔を向ける。
「私、ですか?」
「うん、まぁ……」
「確かに私なら密室殺人なんて雑作も無いです。お望みならば実演して見せますが」
「いや実演はいいから」
パチュリーはなるほどと小さく頷く。
「豊聡耳に青娥に咲夜ね、まずは霍青娥からいきましょうか。幻想郷縁起によるとこいつの壁抜けは柔らかい物には通じないらしいわね。だったら密室の壁も床も天井もゴムか何かで防いでやれば出入りできない、これで封じられる。次の豊聡耳神子だけど、こいつは知られている限り能力の制約は無さそうね」
いきなり暗礁に乗り上げてしまった。能力に制約が無いのなら容疑者候補から外すことはできないんじゃないだろうか。
「だったら豊聡耳神子には被害者になってもらいましょうか。被害者として殺されてしまえば、当たり前だけど容疑者になることなんてできないのだから」
ああ、その手があったか。確かにどれだけ密室殺人に有利な能力だとしても、被害者は犯人になることなんてできない。
つまりこの問題の被害者の役割は可哀想な亡骸だという意味以上に、容疑者を無条件に封じ込める、たった一度しか使えないワイルドカードだということ。
「残った咲夜は……今の所どうすることも出来ないわね。後で考えることにして他の条件を詰めていきましょう。とりあえず密室の条件付けを決めてやるのが考えやすそうね」
「密室の条件付け?」
「そう。完全な密室というのは部屋として成立しないから絵に描いた餅みたいなものなのよ。だから密室殺人を考える場合、どの程度の密室なのかということを想定する必要がある」
パチュリーの言っている意味がよくわからない。鍵がかかっていたりとかで誰にも出入りできないのが密室だと思うのだけれど。
「例えば人間の早苗が出入りできない密室があったとしても、ひょっとしたら鼠なら通れる隙間があるかもしれない。そんな条件の部屋なら珍しくもないわよね。鼠が出入りできるのなら命蓮寺の妖怪が鼠を操って殺人を犯すこともできるかもしれない。鼠で殺人はちょっと強引かもしれないけど、例えば鼠の代わりに蝙蝠になったレミィだとしたら……これなら殺人を犯しても不自然じゃ無いわね」
「つまり……早苗にとって密室だったとしても、他の奴には密室じゃない?」
「そうなるわね。そして密室であることを突き詰めていくと、出入りする対象としての部屋が存在しない唯の壁に行き着くわけ。それじゃあ被害者さえ居ることができないから本末転倒。どこかに落としどころを見つける必要がある」
これは相当厄介な問題に思えた。お姉様だけじゃなくもちろん私も、その気になれば蝙蝠になることができる。そして蝙蝠になってしまえば、ほんの小さな隙間だって難なく潜り抜けてしまえる。
とすると、私も有力な容疑者なんだろうか!?
「悩んでいても仕方ないわ。細かい条件付けは後回しとして、とりあえずはシンプルに出入り口の扉は一つ、窓は無し。鼠や蝙蝠の通れる隙間は存在しないってところかしら。後は順を追って絞り込んでいくしか無いわね。早苗が出入りできる要素も考えていかなきゃならないし」
「なるほど、わかりました」
そう言ったのは、さっきまで他人事のように澄ましていた早苗だった。
「では今のところの条件でどんな感じの事件になるのか、実際に事件が起こったと想定して予想してみることにましょう」
可笑しさを噛み殺すように、早苗は余裕の表情を浮かべていた。
思考実験 ――Ⅰ――
薄暗い廊下を私は歩いています。
ここが何処なのかはわかりません。私に分かるのはここがただ薄暗くて肌寒い廊下であるという事だけです。
……わからないというのは正しくなく、ここが何処なのかは未定。つまり今はまだ決まっていないということです。何処なのか決まっていないのなら、わかるはずもありません。
この廊下の先に密室があり、私はそこで豊聡耳神子さんを殺すことになります。それは既に決まっていることで、私も理解していることです。
彼女を殺す理由なんて無いし、殺したいわけでもないのですが。
でもそれが決まっていることなのだから、抗うことはできません。
神霊廟で神子さんと初めて会った時のことを思い出します。彼女は不思議な能力で私の資質を読み取り、戦う前なのに自身の負けを予見していました。
そんな彼女ならば、私に殺されることも予見して受け入れているのかもしれません。
実に不思議で、底の見えない人です。
人、と言ってしまっていいのか迷うところですけれど。
暖房の効いていない廊下は冬らしい寒さで、私は両手で腕をさすりながら早足で廊下を進みます。
廊下を進むうちに、扉の前へと辿り着きました。
これから殺害事件の現場となる密室の扉です。
それはただ扉でしかないのでした。扉だとしか形容できません。扉であるという事以外は未定なのですから。
深く息を吸い気持ちを落ち着けると、私は扉を開いて神子さんの待つ密室へと入ろうとしました。
「あれっ!?」
扉を開いたはずでした。しかし扉には手応えが無く、同時に開くこともできませんでした。
この部屋が密室だということは確かに決まっていること。しかしそれは私が神子さんを殺害した後の話であり、まだ神子さんを殺害していないのに密室で入れないのでは、どうしていいのかわからなくなってしまいます。
もう一度扉を開こうと試すと、先ほどまでのことが嘘のように扉は素直に開きました。まるで私の思考に反応したかのようです。
窓の無い密室は真っ暗で、灯りが無ければ中の様子を伺うことができません。そう考えた私は、ランタンを手にしていることにふと気付きます。先ほどまでは何も持っていなかった気もしますが考えても仕方ありません。
ランタンに火を点すと、部屋の様子が温かい光に照らし出されました。
部屋の大きさは未定。壁にも天井にも床にも、全面にゴム製の板が打ち付けられています。霍青娥さんの進入を防ぐ方策ですね。大量のゴムの板を運び込み、独りで黙々と打ち付けた記憶を唐突に思い出します。
しかし幻想郷で大量のゴムを不審がられずに入手することが、はたして可能なのでしょうか? 青娥さんの壁抜けを防ぐために柔らかい物で部屋を覆う必要があるのなら、幻想郷で入手の困難なゴムよりも布団のような物のほうがいいのではないでしょうか?
そんなことを考えていると、壁に打ち付けられていた物がゴム製の板ではなく布団だったことに気付きます。同時に大量の布団を打ち付けている記憶も蘇ります。
床にまで布団が打ち付けてあると、ちょっと歩きにくいですね。私は何かに躓き、危うくランタンを落としそうになります。
「危ないなぁ、一体何でしょう」
ランタンの光に照らし出されたそれを見て、私は言葉を失います。
それは神子さんの他殺死体でした。
どのような方法で殺害されたのかは未定。ただ間違いなく神子さんであること、そして間違いなく何者かに殺害された死体であることだけがわかりました。
「どういうこと……でしょう? 私が殺すはずの神子さんが……既に誰かに殺されているなんて」
緊張していた心が急速に混乱で上塗りされていきます。
私がここで神子さんを殺すことは決まっていることなはず。なのに神子さんは私が殺す前に、誰かに殺されている。これでは私は第一発見者にしかなれず、犯人になることができません。
決まっていることが崩れている。なにかの想定外が起こっているのでしょうか?
まるで私の疑問に答えるかのように、突如として目の前に霧が立ち籠め、やがてそれは一点に集まり幼い少女の姿を形作っていきます。
「いやいや、あんまり遅いんで待ちくたびれちゃったよ」
「あ……萃香さん」
千鳥足の小柄な鬼は、驚きの表情を浮かべる私を見て可笑しそうに嗤います。
ここは密室のはず、そう決まっているはずでした。現に私が来た時、この部屋は間違いなく密室でした。だのに私の目の前には萃香さんがいて、神子さんは既に殺されている。 明らかにおかしくて、そして予定外の状況でした。
「この部屋は密室なのになんで私がいるのか、そう考えてる? 生憎だけど私に言わせれば、こんなの密室でも何でもないよ。霧になってしまえば好きなように出入りできる」
「す、萃香さんが神子さんを殺したの……ですか?」
萃香さんは私の問いかけを聞き、ケラケラと声を上げて嗤うのでした。
「それは私じゃないよ。嘘を吐くのが嫌いだから密室殺人の犯人なんて私には務まらない」
「じゃ、じゃあ……」
萃香さんじゃないのなら一体誰が神子さんを殺したのでしょうか? 再び混乱する私の肩を何者かが突きます。
驚いて振り向くとそこには、桃色の入道雲が優しい笑顔を浮かべていました。
「雲山さん!」
雲山さんは力強く頷きます。霧になった萃香さんが出入りできるのなら、雲にだってこの部屋に出入りすることは可能でしょう。
「まあそういうことさ。残念ながら私は密室に入ることは出来ないのだけどね」
部屋の扉が開き一輪さんの声が聞こえてきました。
その声に私は尋ねます。
「それじゃあ、神子さんを殺したのは雲山さんなのですか」
「それは私には答えられない。なにしろ誰が神子を殺したのかは未定だからね。でも問題はそこじゃないってわかってるだろ? 密室なはずなのに萃香と雲山が部屋にいる、これはあんたじゃなくても犯行が可能だってことだ」
「そ、それは確かに」
「まあそれに私と雲山だけじゃないしね」
私は萃香さんの言葉に「えっ!?」と驚きの声を上げます。
視界の端に紅色の霧が漂うのが見えました、そんな気がしました。
慌ててランタンを向けると、紅い霧は人の姿に変化していきます。
「なんか……悪いね」
レミリアさんは気まずそうな表情で照れ笑いを浮かべていました。
確かに霧になれるのでしたら、萃香さんが出入りできるこの部屋に入ることも可能でしょう。というかもうどうでもいいです。自暴自棄な気分になってしまいます。
「ルナ姉急いで、こっちこっち」
「待ってよメルラン」
「どうもー、遅れてすみませーん」
やさぐれた所に駄目押しが来ました。布団を張り巡らした壁から頭が三つ生えてきます。
騒霊のプリズムリバー三姉妹でした。
ちゃんと密室で頑丈な壁もあって、おまけに布団まで打ち付けてあるのに、そんなこと意に介さずに彼女たちは部屋の中に入ってきました。幽霊なのだから仕方のないことです。
「えーっと殺すのには間に合わなかったけど、とりあえず一曲いかが?」
「……結構です!」
「あらあら残念ですね。こんなに誰も彼も現れてしまっては、とてもじゃないですけど私が犯人になることはできませんね」
「霧に雲に、あと幽霊かしら。また随分と賑やかな密室もあったものね」
皮肉めいた嗤いを零す早苗に、パチュリーも皮肉で返す。
霧や雲の出入りできない密室を想定したとすれば、それはつまり空気の出入りしない部屋と同じ意味になってしまう。
被害者はそれでも問題無いとしても、犯人である早苗は空気がなければ呼吸ができなくて、活動することができない。
それだけだったら、苦し紛れで空気を確保できる方法を思いつけばどうにかなるだろうけど、幽霊だけはどうすることも出来ない。
壁だろうが天井だろうが物理的な障害を一切無視して移動できるのだから、もう密室どころか部屋という概念すら意味を為さなくなってしまう。
もし早苗自身を殺して幽霊にしてしまうことができれば同じ条件を得ることはできるけど、でもそれは他の幽霊の犯行を不可能にすることには繋がらない。
そこまで考えて、私は「無理だ」という諦めの言葉を呟いた。そっとパチュリーの顔を伺うと、パチュリーも処置無しだとばかりに呆れた笑いを浮かべている。
「ナンセンスだわ。ここまで明確な齟齬が発生しているのなら、考え方か捉え方が間違っているはず。つまり正攻法で解ける問題ではないと受け止めるべきね」
言い終わるとパチュリーはゆっくりとした動作で紅茶に口を付け「さて、どうしたものかしら」と囁く。
その声はどこか嬉しそうに、私には聞こえた。
―― 15時50分
パチュリーは考え方か捉え方が間違っていると言ったけど、だからどうしたらいいのかはパチュリー自身にもわからないみたいで、考え込んでいるのか目を伏せて黙ってしまった。
早苗以外に犯行が不可能な条件を事件に与えていくという、それ自体は間違ってないと思うのだけれど、それだけじゃ何かが足りないのだろうか? でも私には、考えてもその足りない何かが少しもわからなかった。
わからないけれど、だからといって何もしなければ時間切れで私たちの負けとなってしまう。私は駄目で元々と幻想郷縁起を開いてヒントを探すことにした。
私が読み落としてしまうか読んでも忘れてしまった、なにか幽霊の弱点なんて見つかるのかもしれないし。
何冊も山と積まれた幻想郷縁起。その古ぼけたページを捲るたび、この幻想郷にはこんなにも沢山の妖怪たちがいるのだと私は驚く。
それらの殆どに私は会ったことがないのだけれど、一体どんな奴なのだろうと想像するだけで胸の中で好奇心が疼くのを感じる。
誰も一言も喋らず、私がページを繰る音だけが響いていた。
「ん?」
ぴたりとページを繰る手が止まった。
そこに書かれている内容を、私はよく読み返して十分に検討する。そして間違いが無いと確信して、パチュリーに声をかけた。
「わかったよ、パチュリー」
「……何が?」
パチュリーは眠そうな目を向ける。私は問題のページを開いて、幻想郷縁起をパチュリーに手渡した。
「早苗を犯人だと断定するには、事件のわからないことを想定する必要も密室の条件付けを探る必要も無かったのよ。こいつを連れてこれば」
幻想郷縁起に目を落とし、パチュリーは「なるほど」と呟いた。
そのページに書かれていたのは古明地さとり。地底に住む心を読む妖怪。
対象の意思に関係無く心を読み取ってしまうさとりの能力ならば。
心を読まれてしまっては嘘や誤魔化しで隠し事をするなんて出来っこない。
「さとりに早苗の心を読ませる、そうすれば」
「早苗が間違いなく密室殺人の犯人だと決定することができる!」
興奮を隠せない私に、パチュリーもやわらかく微笑む。
「あぁ、さとりさんですか」
そんな私たちとは対照的に、早苗はひどくやる気の無い声をあげた。
「確かにフランさんの考えるとおり、もしさとりさんが事件を解決するために私の心を読んだら、言い訳無用で即座に私が犯人だと看破されてしまうでしょうね」
「でしょ。じゃあ正解だよね?」
「さぁ、それはどうでしょうね……」
思考実験 ――Ⅱ――
「早苗、あなたが犯人だったのね」
長い沈黙の後に霊夢さんが囁いたのは、私を告発する言葉でした。
真っ直ぐな瞳は私を責めるのではなく、そこには疑念と哀れみの色が浮かんでいます。
霊夢さんの言うとおり確かに私が犯人です。それは決定していることなので間違いないし、今さら言い逃れする気もありません。
でも、だからといって素直に罪を認めてしまうのも、いささか盛り上がりに欠けるというものです。
「私が犯人? 霊夢さん、一体なにを根拠にそんなこと仰っているのですか」
「白を切ったって駄目。証拠があるの」
霊夢さんは静かに首を振り寂しそうな眼差しを私に向けます。
彼女の告げた証拠とやらがどのような物なのか、今の私には予想もつきません。
まるで私の疑念に答えるかのように、閉じられていた襖が音もなく開かれました。
襖の向こうに立っていたのは、桃色の髪をした小柄な少女でした。
「初めまして、古明地さとりと申します」
薄い表情で会釈をする少女の名前には心当たりがありました。地の底に住むというサトリの妖怪。人の心を読むという妖怪。噂に聞いたことはありますが、確かに会うのは初めてのことでした。
そして彼女が姿を現した意味も私にはわかっていました。心を読むということは嘘偽りない真実を晒すということです。
「彼女が証拠。あなたが犯人だって、さとりが証明してくれる」
凛とした態度で霊夢さんはそう告げます。
さとりさんは僅かに頷きました。
心を読まれてしまうのなら、もはやどんな抵抗も無駄でしかありません。
私は、自分が静かに笑っていることに気付きます。
「仰るとおり、今回の事件の犯人は私です。私がたった一人で行った犯行です」
「早苗……」
絞り出すような声で小さく私の名を呼ぶ霊夢さん。
私が犯人だということは予め決まっていたことです。彼女はその答えに辿り着いた、ただそれだけのこと。
私は霊夢さんの震える瞳を、静かに睨み返します。
「確かに私が犯人、それは相違ないことです。ですが霊夢さん、果たして私はどのような事件の犯人なのでしょうか」
「……えっ!?」
「一体私は、いつ、どこで、どのように、誰を殺したのでしょうか?」
霊夢さんの瞳が大きく見開かれます。
私の問いかけに彼女が答えられるはずありません。なにしろ密室殺人であるという事以外は全てが未定。今だ決められていないのですから。
困り果て、さとりさんに助けを請う霊夢さん。でもそれも無駄なこと。私の心を読んだところで、未定なものは未定でしかないのです。決定している私が犯人だということは読み取れても、それ以上の情報は欠片も得られません。
さとりさんは残念そうに首を振ることしかできませんでした。
「でっ、でも、早苗が犯人なのは間違いないんだし」
「それは認めます。罪を償えというのなら償います。でもせめて、どんな事件の犯人なのかぐらい教えて下さってもいいんじゃないんでしょうか」
「そ、それは……」
「教えてくれないのですか?」
霊夢さんは口籠もり、バツが悪そうにさとりさんと顔を見合わせると、拗ねたような口調で呟きます。
「どんな事件かは、わからないけど」
「それはおかしいですね。どんな事件なのかわからないのに、私は犯人として告発されないといけないんですか?」
「それは、その……」
霊夢さんには困惑した表情を浮かべることしかできないのでした。
「おやおや、犯人が私だと判明しましたが、これでは一体どんな事件なのかさっぱりわかりませんね」
「た、確かに」
「一応事件は解決してますけど、果たしてこんなのがミステリの作法に則った解答だと言えますかね。事件の概要もわからず探偵は碌すっぽ推理もせず、心の読める登場人物が犯人を捜し当てました。フランさんはそんな結末で満足でしょうか?」
早苗の言っていることは尤もだ。早苗が犯人だと看破され事件は解決しているけれど、これじゃ肝心の事件の内容がまるでわからない。
しかも心が読めるから問答無用で犯人を特定できただなんて。ノックスやヴァン・ダインの名を出すまでも無く、私でもフェアじゃないって断言できる。
もし私がそんなミステリを読んだら、なんだか無性に腹が立ってしまうと思う。
もちろんミステリの作法に則った解答じゃないし、そもそもこれじゃミステリですらない。
「気を取り直して、フラン」
パチュリーが優しく励ましてくれた。
優しいパチュリーなんて珍しい、なんて言ったら怒られちゃうかな。
「結果は不正解だったけど、ヒントを探し出して解答に結びつける、それは間違ったことじゃないわ」
「そうだね、うん」
パチュリーの言葉で少し元気が出てきた。
私は再び幻想郷縁起を開いて、なにかは判らない何かを見つけるためにページを捲っていった。
―― 16時00分
何を探せばいいのか判らない探し物なんて捗るはずもない。私は当てもなく幻想郷縁起を読み耽っていた。
いつまで続くかわからない静かな時間が流れていた。パチュリーは考え込んでいるし小悪魔は下を向いて落ち込んでいる。いつもの元気な小悪魔との違いが痛々しい。何としても助けてあげないと。
早苗は我関せずと静かに紅茶を愉しんでいる。ときどき思い出したように私やパチュリーをニヤニヤ眺めるのが小憎らしい。
「フランドール様、お茶のお代わりはいかがですか」
「ん、お願い」
咲夜は時折、みんなの所を廻ってはお茶のお代わりを注いでくれる。小悪魔を賭けた勝負の審判を押しつけられてしまって落ち着かないのかもしれないけど、表情からそれが見えることはない。
「なにか、わかりましたでしょうか」
お茶のお代わりを置いて咲夜がさり気なく訊いてきた。
「それらしいことは、なんにも……問題と関係なさそうなことはいろいろわかったけど。たまには幻想郷縁起を読み直すのも悪くは無いもんだね」
「関係なさそうなことですか。たとえばどんな事で」
自傷気味にいった言葉だったけど、咲夜は興味を示したようだった。
「たとえば、えーと……人間の里のことは興味深いかな。ほら、私は殆どあそこには行かないから。咲夜はよく行くんでしょ」
「そうですね。細々とした物を買い求めるには便利ですし、お嬢様に言い付けられて行くことも多いですね」
「私さぁ、なんであそこの人間が暢気に暮らしてるのか、ちょっと不思議だったのよ。だって人間なんだから妖怪に敵いっこないじゃん。ひょっとしたらある日、妖怪が大勢で来て里を無茶苦茶にしちゃうかもしれない。でも人間たちはそんなの心配せずに暢気に暮らしてる。いくら霊夢たちが妖怪を退治するからって、死んじゃったら後の祭りなのに。……でもちゃんとカラクリがあったの」
幻想郷縁起を開いて咲夜に見せる。
「ほら、ここ。
『何故、人間の里は襲われる事が無いのかと言うと、実は妖怪の賢者によって保護されているのである』
ってちゃんと書いてある。だから人間も暢気に暮らせるってわけなのね」
「なるほど、ええ私もそんなことを聞いた覚えがあります」
咲夜にとっては当たり前に知っていることかもしれないけど、私に気を遣ってくれてるのか、初めて知ったかのように驚いてくれる。
ふと目を上げると、パチュリーが怖いくらい真剣な表情で私を見つめていた。
「えっ、な……なに?」
「それよフラン」
「そ、それって?」
「早苗の問題を解く鍵よ。人間の里だったのよ!」
―― 16時05分
パチュリーの言葉に、私は手元の幻想郷縁起に慌てて目を走らせた。
そこには人間の里で暴れる妖怪はほとんど居ないこと、人間は安全な生活を送れること、妖怪の賢者によって護られていること、里より外に出ない限りは大きな被害を受けることは無いこと、などが書かれていた。
この中に早苗の問題を解く鍵が隠されているのだろうか?
「密室殺人の犯行現場を人間の里の中とする。そして被害者を人間だったとする。もし、この二つの条件を揃えることができたら……どうなるかわかるわよね」
「つまり」
幻想郷縁起のページは暗に『妖怪は人間の里の中で人間を襲うことができない』ことを示唆している。
つまり、もし被害者が人間だった場合……。
「妖怪は里の中では人間を襲えない、つまり全ての妖怪を容疑者から外すことができる、ってこと!?」
「ええ、そうよ」
妖怪は里の中では人間を襲えない、もしそれが本当なのだとしたら。
どんなインチキな能力を持った者であっても、被害者が人間である限りそれを殺害することができない。つまり被害者が人間であれば、同時に犯人も人間に限られてくる!
「でもどうでしょう。妖怪の賢者に保護されているとは言いましても、要は紫さんに犯行が発覚しなければいいのではないでしょうか? ひょっとしたら紫さんの目を誤魔化すために密室殺人にしたとも考えられますし」
ふと口をついたかのような咲夜の疑問だった。パチュリーはそれに小さく首を振って答える。
「咲夜も里の様子はよく知ってると思うけど、里では人間と妖怪は打ち解けて、和気藹々と酒を酌み交わす光景も珍しくない。
もしあなたが何の力も持たないただの人間だったとしたら、明らかに自分よりも強力な力を持っている上に自分を襲う可能性が少しでもあるような相手に、気を許して打ち解けることができるかしら? いくら紫が保護していると公言したとしても、万に一つの不幸が起きないと信じられるかしら?」
「それは……」
「つまりね、里の中では妖怪は人間を襲わない約束になっている、では人間は信用しない筈なの。いざ襲われてから紫が駆けつけても後の祭りでしょうし。里の中では妖怪は人間を襲えない、襲おうとしても襲うことができない。そうなって初めて、人間は妖怪を信用して打ち解けることができる。一体どんな方法なのかはわからないけど、特殊な結界なのか、あるいはレミィのように契約で縛られているのか」
パチュリーの口から出た契約という言葉。それは私もよく知っていた。
私たち姉妹よりも先に住んでいた吸血鬼と、妖怪の賢者との間で結ばれた契約。その契約の影響で、私たち姉妹は人間を襲うことができない。本人が結んだ覚えの無い契約に縛られているという、なんとも理不尽な状況。
そんな例がある以上、妖怪たちに身に覚えの無い契約がいつのまにか結ばれていて、妖怪たちがそれに縛られていたとしても、決しておかしな話じゃない。
「そして恐らく、人間を襲えないのは妖怪だけに留まらず、妖精や神にも影響しているんでしょうね。そうでなければ、何かしらかの対策が講じられていないとおかしいはず……」
仮に契約があったとして、その適応を妖怪のみとして妖精や神は野放しでは、そんなのは意味が無い。妖怪を縛ることができるのなら妖精や神も縛れると捉えたほうが理に適っている。そして幽霊も例外じゃないだろう。
「あ、でも、それでしたら地底の可能性も」
「……地底?」
咲夜の思いつきにパチュリーは怪訝な目を向ける。
「ほら、地上の妖怪は地底に入ってはいけないって約束事があるそうですよね。もし犯行現場が地底ならば、人間の里と同じように容疑者は人間か地底の妖怪に絞られるのではないでしょうか」
「なるほど」
パチュリーは暫く考えに耽っていたが、すぐに咲夜の閃きを否定した。
「犯行現場が地底だとしても地上の妖怪に犯行は可能よ。後先を考えなければだけどね」
「そうなんですか?」
「地底で起きた異変の発端を思い出してみて。洩矢諏訪子と八坂神奈子の二柱は、八雲紫にも古明地さとりにも気付かれることなく地底の最深部まで辿り着いているのよ。地上の妖怪は地底に入ってはいけない約束になっている。でもそれは約束でしかなく強制力があるわけではないの。もちろん発覚すれば揉め事になるでしょうけど。
つまり地上の妖怪が地底に行って密室殺人を行うのは不可能ではない。だとしたら条件は地上と殆ど変わらないわね」
「あぁ、確かに」
「残念だけど。でも犯行現場が地底じゃないと確定できたのは大きいわ。恐らく犯行現場は人間の里、被害者は人間。地底が候補じゃ無いのなら、きっとこの線で進めて問題無いはず」
早苗以外に犯行が不可能で早苗にだけ犯行可能。この到底無理だと思えた条件が、急に現実味を帯びてきた。
―― 16時10分
私たちの推理を素知らぬ顔で眺めていた早苗が、急に「こほん」と咳払いをしていた。
「えー、咲夜さん。あなた確か公平な立場の審判でしたよね」
「はい、そう承りましたが」
「でしたら今のは何ですか? 明らかにパチュリーさんに肩入れして助言をしてたじゃないですか! 困りますねそんなことじゃ」
早苗の剣幕に咲夜は「申し訳ありません」と穏やかに詫びる。長いこと一緒に生活している私にはわかるけど、あれは咲夜に謝る気が無いときの、適当に受け流すときの言い方だ。
だから咲夜が怒られたことは気にしないけど、それでも早苗の態度には少し苛立った。
図書館の手伝いをしている時は、ちょっと変わったところもあるけど明るく元気でいい奴だと思ってた。でも推理合戦が始まってからの早苗は、大袈裟に言えばまるで別人になってしまったみたい。
でも苛立ちはするけど、憎いと思えるほどじゃないし、何だろう? なんだか演劇の悪役を見ているような、不思議な気持ち。
「……話は済んだかしら?」
「ええ、どうぞ続けてください」
パチュリーの呟きで我に返る。早苗のことより今は事件に集中しないと。
「整理するわね。密室殺人の犯行現場を人間の里と断定して、同時に被害者には人間を当てはめる。この二つの条件を満たすことにより、犯人も人間に限定されることになる」
犯人が人間に限定される、そのメリットは大きい。
妖怪や妖精、神や幽霊は、密室殺人を行うという条件に対して、明らかに早苗を上回る能力を発揮する連中ばかりだ。というか早苗の能力は密室殺人には向かない。普通の人間よりは僅かにマシ程度で、それもほんの僅かなのだから正直、普通の人間と大差無い。
そんな圧倒的に不利な状況でそれでも早苗を犯人にするには、無限とも思える早苗以外の犯行の可能性をひとつひとつ潰す必要がある。それが現実的に達成可能なのか私にはわからないけど、制限時間内ではほぼ不可能だと思う。
でも、もし犯人が人間に限定されるのなら、早苗が犯人になれる可能性はぐっと高くなる。
早苗以外の人間に犯行が不可能な事件にすれば早苗が犯人となる。普通の人間と大差無いといっても、それでもちょっとだけは早苗のほうが密室殺人に有利なのだから、能力を持たない普通の人間のことは考えなくてもいい。
「つまり、容疑者候補を特別な能力を持った人間に絞りこんで、その容疑者候補の誰にも犯行ができない事件とする。その上で早苗にだけは犯行可能な事件としなきゃいけないけど……まぁ何とかなるでしょう」
私は特別な能力を持った人間の中から密室殺人が行えそうな奴をリストアップしていく。一瞬で終わる作業だからパチュリーと手分けする必要も無い。
見た物を忘れなかったり物の名前がわかったりなどは密室殺人とは関係無い。除外しても大丈夫。
「二人ほど厄介なのがいるわね」
リストに挙げられたのは霧雨魔理沙、博麗霊夢、そして十六夜咲夜の三名だった。
「霊夢は確か、瞬間移動するのよね」
お姉様から聞かされたことがある。
前にお姉様が咲夜を連れて、終わらない夜の異変解決に乗りだした時のこと。
竹林で出くわした霊夢はあちらこちらと瞬間移動を繰り返しながら飛びまわり、お姉様たちを苦戦させたらしい。
……なぜか自慢げだったのは癪に障ったけど。
とにかく瞬間移動ができるんだったら、密室殺人だってきっと楽勝だろう。
「霊夢はたしかに厄介だけど、少し興味深い話があるの。どうやらあの子、自分が瞬間移動していることに気付いていない、つまり無自覚に瞬間移動をしているらしいの」
そう言ってパチュリーが示したのは、射命丸文が幻想郷住人へのインタビューを纏めたダブルスポイラーという名前の本。
開いたページにはパチュリーが説明したとおりの内容が書かれていた。
「瞬間移動がもし無自覚なものだとしたら、計画的な密室殺人には利用できないはず。勿論、瞬間移動をできるという事実だけでも重大なアドバンテージになるから容疑者候補なことには変わりないけど、とりあえず後回しでもいいんじゃないかしら」
「なるほど、そうすると後は……咲夜か」
咲夜本人も認めたように、時間を止められる咲夜にとって密室殺人なんて簡単なものだ。
被害者を殺害した後そのまま部屋に留まって、第一発見者が部屋に入った瞬間に時間を止めて逃げてしまえばいい。複雑な仕掛けも準備も一切必要無い。
「これ、どう条件付けしても犯行が不可能にならないんだけど」
「そうね」
「そうですか……申し訳ありません」
咲夜は済まなさそうに頭を垂れる。
「どう条件付けしても駄目なら咲夜を被害者にするしか無いわね。それだったら確実に咲夜を容疑者から外すことができる」
「うーん、それしか無いかぁ」
「それしか無いですか」
そわそわと落ち着き無く、咲夜は私とパチュリーを交互に見る。その目は僅かだけれど怯えていた。
私はパチュリーと顔を見合わせ、肩を竦めて首を振る。パチュリーも呆れているみたいだった。
「じゃあ悪いけど咲夜、被害者お願いね」
「はい、畏まりました」
姿勢を正して目礼する咲夜には、なんでだか決意のようなものが漲っていた。
―― 16時20分
「咲夜が被害者と決まったのだから、あとは霊夢をどう弾くか。それが出来れば終わりが見えてくるはず」
霊夢を容疑者から外すには、つまり霊夢には犯行不可能な状況を事件に設定してやればいい。
犯行の日時で霊夢の行動を縛るのは難しそうだし、犯行場所も人間の里だから霊夢を縛れない。そうすると自動的に犯行方法で縛ることとなる。
「早苗にはできて霊夢にはできない。そんな犯行方法が設定できれば早苗が犯人だと確定できるわね」
「あ、じゃあさぁ」
私は咄嗟の思いつきをパチュリーに言う。
「霊夢って確か左利きなのよ。だから咲夜を殺す時に、咲夜から見て左側から殴り殺されていたら、霊夢にはできないってなるんじゃない」
「それは向かい合った状態からでしょうか?」
「まぁそうなるね」
咲夜は私の思いつきに怪訝な顔をする。
「それは無理ですね。向かい合った状態で殴りかかられたら時間を止めて逃げますから」
「あーそうか。じゃあ襲うのは背後から。咲夜から見ると右側になるかな」
「それなら油断していれば殴られてしまうかもしれませんが、もし一撃で私が死ななかったら、やっぱり時間を止めて逃げるか反撃しますけど」
咲夜自身の反論で私の思いつきは的外れだとわかったけれど、それにパチュリーが追い打ちをかける。
「霊夢の利き腕を論点にするのなら、片腕で扱えてなおかつ咲夜を一撃で殺せる凶器が必要になってくる。そんな都合のいい武器があるかしら」
時間を止められる咲夜を殺すには、一撃でとどめを刺さなければならない。もし殺し損ねたら咲夜は逃げるか反撃するか。どちらにしても密室殺人の成立は難しくなる。
霊夢の問題を考えるよりも、まず咲夜を殺すことを考えないと。
「じゃあさぁ、殴るんじゃなくて首を絞めて殺すのはどう? ほら河童の発明品で姿を消す道具があるって聞いたことあるけど。早苗はそれを借りてきて、姿を消して咲夜の首を絞める。そうすればきっと時間を止めても逃げられないし、姿を消せるのなら発見者が現れた時にそのまま密室から逃げることもできるよね」
「姿が見えないのですか。それは流石に殺されてしまうかもしれません」
咲夜を殺せるし密室も作れるし、非の打ち所の無いアイディアだと思った。
でもパチュリーは「駄目ね」と呟いて小さく首を振る。
「河童の道具を使ってしまうと早苗が犯人になる条件が満たせないわ。その道具さえ入手できれば早苗以外にも犯行が可能となってしまうでしょ? それこそ魔理沙でも可能だし阿求にだって可能でしょうね」
「うーん、じゃあその道具が早苗にしか入手できなかったとしたら」
「フランドールさま、それでも駄目です」
流石に強引かと思ったけれど、今度はパチュリーじゃなく咲夜から反論が来た。
「姿を消して首を絞められれば、確かに私でも逃げることは難しいかと思います。しかし首を絞められているということは相手が至近距離にいるということ。だったらたとえ姿が見えなくても反撃はできます。私は常にナイフを身につけていますし、まして時を止めたのなら、やりたい放題でしょう。命に関わるような怪我を負わせて時間を再び動かせば、首を絞めている場合じゃないでしょうし、解放してくれるのではないでしょうか」
上品な笑顔のまま物騒なことを言い出す咲夜。それを眺めていたパチュリーはやれやれと溜息を吐いた。
霊夢に犯行が不可能かどうかに関係無なく、まず咲夜を殺す方法が見つからない。
どうにかなると軽く見てたけど、人間相手だと咲夜がここまで死んでくれないものだなんて。
なにか、まだなにか見落としがあるのだろうか? なにか足りないのだろうか?
「発想の転換が必要なのかもしれないわね」
パチュリーは小さく呟いて、それっきり黙り込んでしまった。
―― 16時30分
「残り時間、あと30分を切りました」
そう告げる咲夜に、私は思わず「えー」と不満の声で返してしまった。
もうそんな時間だなんて。思ってたよりずっと時間の進みが速い。焦るのは失敗の元だけど、でもあまり悠長に構えている余裕も無さそう。
何にせよ、とにかく今は考えないと。
発想の転換が必要とは言うものの、推理合戦が始まってから今まで、転換の連続だったんじゃないかと思う。
むしろ真っ直ぐな思考のほうが珍しいくらいで、ぐるんぐるんと転ばせて転ばせすぎて、なんだか訳がわからなくなりそうだ。
この上まだ発想の転換だなんて、問題が捻くれすぎてると思う。
その問題を作ったひねくれ者は私と目が合うと、にんまりと意地悪な笑いを浮かべてくる。
……ちょっとイラッときた。
私は冷静に、冷静に、と心で念じながら問題の書かれた便箋を再検討してみる。わけがわからない時は一度スタート地点に立ち返ってみるのが効果的だ。たしかパチュリーがそう言ってた。
幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
殺害した犯人は東風谷早苗でした。
今でこそ問題の意図もなんとなく理解できるけど、最初はとにかく訳がわからなかった。 パチュリーの推理したとおり、条件を付け加えることにより犯人を早苗に限定する。その考え方は間違っていないと思う。
でも、ひょっとして問題文になにか別の捉え方があったりはしないだろうか?
何か重要なヒントが隠されていたりとか。
「ふむ……」
もう一度注意深く問題文を読み直す。注意深かろうが無かろうが、すぐに読み終わってしまう。素直に読めば、密室殺人が起こって犯人が早苗だったと読み取れるけど、隠された意味を行間に求めたとしても、密室殺人の犯人が早苗だった以外の解釈は無理だと思う。
じゃあ、まぁそこは譲ろう。早苗は密室殺人を犯した。ここまでの私たちの推理だと相当難しいことだと思うけど、とにかく上手いことやってとりあえずは成功したんだろう。
動機は考えなくていいと早苗はいったけども、きっと殺したいほど憎い奴がいたのか、それともどうしても殺さなきゃいけない奴でもいたんだろう。なにしろ密室殺人なのだから。
……あれ?
なにか、おかしくない?
微かな違和感に、私はさっきまでの思考をもう一度よく考え直す。
殺したいほど憎い奴か、どうしても殺さなきゃいけない奴がいた。
だから密室殺人を犯した。
だから密室殺人を……あれ?
「ねぇ、なんで早苗は密室殺人を選んだのかなぁ」
「それはですね!」
よくぞ聞いてくれました。とばかりに早苗は密室の理由を捲し立てた。
「ミステリの魅力とは、不可能と思えた事柄が実は可能だったという驚きにあるのではないかと私は思うのです。もちろんこれに当てはまらない名作も数え切れないほど存在するのですが、やはり不可能犯罪こそがミステリの王道であると断言してもいいんじゃないかと。ならば不可能性を突き詰めた密室殺人こそが、ミステリの花形であると……」
「いやいやいや、そうじゃなくて」
放っておくと時間切れまで喋り続けそうだったので、適当なところで止めた。
「問題を考えた早苗の理由はそれでいいけど、じゃあ問題の中で実際に殺人を犯した、架空なほうの早苗はどうなの? だって殺す理由があったから殺人を犯したんだろうけど、だとしたら密室殺人なんて手間のかかることするのは普通じゃないよ。殺す理由がなくて事故だったとしたら、そもそも密室殺人になるのは無理だし」
「……知りませんよ、そんなの」
今度は短く答えて、早苗はそっぽを向いてしまった。
だとすると本当に、密室殺人には事件の中での理由なんてなくて、ただ純粋に問題としての必要性だけが理由なんだろうか。
「少し、その線で考えてみましょうか」
パチュリーは私をちらりと見つめて、そしてそっと目を閉じて、思考を巡らせながらも考察を話しはじめた。
「なぜ密室殺人が行われたのか、その理由は大きく二つのパターンに分けられるわね。ひとつは犯人に密室殺人を行う意思が無かったのだけれど、不可抗力で密室が形成されてしまった場合。もう一つは犯人に最初から密室殺人を行う意思があった場合。今回の問題がどちらに当てはまるかは断言できない。でも実のところ、前者の不可抗力を考えるには現時点で不確定要素が多すぎてまともな考察が成り立たないの。だからとりあえずは、後者に絞って考えてみましょう」
パチュリーは続ける。
「犯人に密室殺人を行う意思があったということは、言い換えれば密室に必要性があったということ。フランの言うように殺すことだけが目的なら密室なんて手間のかかる方法に拘る理由は無い。それでも密室に拘ったのだから、それは必要性があったことの裏返しとなるわ。
じゃあ密室である必要性とは何か? これも幾つかのパターンが想定できそうね。まずは犯人が容疑を逃れようとした場合。例えば遺体を自殺に偽装すれば密室であることが自殺の裏付けとなる。今回は他殺体であることが前提だからこれは不正解だけど。もしくは他の誰かを容疑者に仕立て上げようとしたのなら? 密室としてしまうのはベストとは言い難いけど、幻想郷でなら有り得るわね」
「じゃあつまり……架空の早苗が容疑を逃れるため、そのために密室殺人である必要があったってこと?」
「容疑を逃れることが目的だったと考えると、密室にしてしまうのは少し不自然。とりあえずそれは保留として、他のパターンも考えてみましょう。殺人を行うのに密室が必要だった場合。これも少し考えづらいわね。常識的に考えれば手間暇掛けて密室を作り出すよりも、普通に殺してしまったほうが遙かに……」
パチュリーはそこで言葉を止めて考え込む。なにかを思いついたんだろうか。
私はパチュリーの言おうとしていたことを思い返す。
常識的に考えれば手間暇掛けて密室を作り出すよりも、普通に殺してしまったほうが遙かに……簡単。
さっき私が思い当たった疑問と同じだ。
そこで言い淀んだということは、つまり、密室を作るよりも普通に殺すほうが簡単だとは言い切れない、ってことなんだろうか?
「もし例外中の例外として、被害者がどうやっても殺せない相手だったとしたら……」
パチュリーはじっと咲夜の顔を見つめる。
「そしてその相手を殺すために、そのために密室が必要だったのだとしたら……」
不敵な笑みを浮かべて、パチュリーは確信するようにゆっくりと頷いた。
「繋がったわ」
―― 16時40分
「咲夜を殺そうとしても時間を止めて逃げてしまう。ならどうすればいいか? 時間を止めても無駄な状況に追い込んでしまえばいい」
「時を止めても無駄な状況?」
「ええ。時間を止めても死を免れることができないような状況。早苗の能力と密室があれば、たぶんその状況を作り出すことができるの」
僅かだけれど高揚したパチュリーの言葉に、私ははっきりとした期待と興奮を覚える。
これはきっと、名探偵の最後の解決パートなんだ。
パチュリーは正解を見つけ出したんだ!
「密室の状況は窓が無く出入り口はひとつ。そして部屋の外へ繋がる通気口。もちろん人が出入りできない程度の小さいもの。その部屋に咲夜を入れたら扉を閉め、ここからが早苗の能力なんだけど……あなた自分の意思で風を起こすことができた筈よね?」
パチュリーに尋ねられて、早苗は訝しげに答える。
「まぁ、これでも一応風祝ですから」
「それはどのくらいの規模とどのくらいの時間まで、あなたの意のままにすることができるのかしら」
「規模が大きければ準備やら何やらで時間がかかるのですが、もし予め準備をすることができるなら……」
探るように目を細めて、早苗はパチュリーを見つめた。
「準備さえ万全ならば、如何様にでもできますが」
「だったら問題無いわね」
パチュリーは納得して頷く。
「咲夜の居る密室の外で、早苗は能力を使う。部屋の中から外の方向へ通気口に風を起こす。風というのはつまり空気の流れ。この状況を言い換えれば、部屋の空気を通気口から抜き取っていることになる。咲夜は人間なのだから空気が無ければ呼吸ができずに死んでしまう。つまり早苗が風を起こし続ければ、いずれ咲夜は死んでしまうということ。もちろん時間を止めても抜いた空気が戻ってくるわけじゃないから状況は変わらない」
「でもそれって、呼吸ができなくなったら入ってきた扉を開けて出ればいいだけなんじゃないかなぁ」
「条件が揃えば、扉から出ることは出来なくなる」
「ふぇっ、何で?」
驚いて変な声が出てしまった。
「フランは大気圧って知らないかしら? 簡単に言うと空気にも重さがあって、私たちはその重さを常に支えているの。
例えば紙風船があったとして、これに空気を吹き込めば丸く膨らむ。これは紙風船に吹き込んだ空気の重さが紙風船の外の空気を押しのけたから膨らむの。じゃあ今度は膨らんだ紙風船から空気を吸い出したとすると、紙風船は萎むわよね? 空気が無くなると外の空気の重さを支えられないから萎むわけ。その空気の重さが大気圧と呼ばれる力。
咲夜の入れられた密室も紙風船と同じなのよ。部屋の空気が抜けたら外の空気の重さがかかる、壁にも扉にも。だから咲夜が部屋の外に出ようと思ったら、扉にかかった空気の重さ以上の力をかけないと、扉は開かない」
その大気圧とかいう力のことは本で読んだことがあるかもしれないけど、よく覚えてない。
でも外の世界の、科学の話をしているんだってことは理解できた。
外の世界の科学は幻想郷とは比べものにならないほど進んでいて、私たちが知らないことや気付いてないことが知識として知れ渡っている。たしかパチュリーがそう言ってた。
その知識は殆どが本に纏められているので、幻想郷にもごく一部は流れ込んでくる。本なのだから辿り着く場所はこの図書館だ。
そしてその科学の知識は、私たちが知らなかったり気付いていないだけで、幻想郷の中にも外の世界と同じ仕組みで力は働いている。それを妖精の悪戯と呼ぶか大気圧と呼ぶかの違いなだけで。パチュリーがそう言ってた。
「空気の重さがかかるのはわかったけど、ただの空気なんだから咲夜ならひょいって開けちゃうんじゃないの?」
「そう、ただの空気。扉にはたぶん咲夜の体重の200倍ほどの重さしかかからないわね。咲夜が力持ちだったら、ひょいと開けられてしまうわ」
咲夜は時が止められるだけの、ただの非力な人間だ。自分の体重の200倍を押し返すだなんて、どんな手を使っても無理に決まってる。
「もしこの扉が部屋の中から外に開けるものだったとしたら、咲夜は自分の体重の200倍を押し戻さないと外へは出られない。きちんと計算すれば多分それ以上なんだろうけど、どちらにせよ考えなくても無理だってわかるわ」
思わず扉の向こうで200人の咲夜がひしめいているのを思い浮かべてしまった。
咲夜は不安そうに目を伏せている。
「最も空気が十分に抜ける前、つまり扉にあまり大きな力がかかっていない時なら易々と出られてしまう。念のために部屋の中に咲夜の興味を引く物を用意しておくべきね。それに気を取られているうちに逃げ出すことができなくなる。どうかしら?」
パチュリーが向き直ると、早苗は口の端を僅かにあげた。
「はたしてそんなに上手くいくでしょうかね……」
思考実験 ――Ⅲ――
早苗との待ち合わせは、私には見覚えの無い場所だった。
いや、見覚えが無いというのは違うな。
私にはそこが何処なのか、わからなかった。
初めて来た場所だからわからないという訳でもなくて、むしろもっと根本的な問題で、そもそもここが何処なのかは決まっていない、だからわからない。それが一番しっくり来る表現に思えた。
ひとつだけわかっていることがある。此処が人間の里だということ。
人間の里の、どこか。見覚えは無い。奇妙な話だ。
奇妙と言えば早苗との待ち合わせも奇妙だった。
どういった用件で彼女と待ち合わせをしているのか、私には覚えが無い。
いや、覚えが無いのではなく、決まっていないからわからない、か。
用件は決まっていなくても待ち合わせることは決まっている。この暗い廊下の先にある部屋で、早苗は待っていることだろう。
見覚えの無い場所なのにそんなことが確信できてしまうのも、奇妙だ。
「お待ちしておりました」
奇妙な確信に違わず、待ち合わせの部屋で待っていた早苗は私に笑顔を零す。
部屋の間取りはわからないのだけれど、窓が無いため暗かった。出入り口は先ほど入ってきた扉のみで、テーブルに置かれたランタンが部屋を微かに照らしている。
扉の上、天井の近くに小さな通気口が開けられていて、廊下の光が僅かに差し込んでいた。
「いらっしゃったばかりで恐縮なのですが、私は準備があるのでしばらく部屋を空けます。咲夜さんはどうぞ寛いでお待ち下さい」
何の準備なのかはわからなかったが、これも決まっていること。私が素直に従うと、早苗は扉を押し開き、笑顔を残して部屋を後にした。
一人残された私は手持ち無沙汰に部屋を眺める。寛いでいろと言われても、のんびり寛げる雰囲気だとは言い難かった。
形だけでもとソファーに腰掛けてテーブルに目を向ける。そこには、何だかよくわからないけど私の興味を引くものが置かれている。
私はそれを手に取り、いや、手に取れる物なのかすらわからないのだが、とにかく私の関心はテーブルの上のそれに向けられた。
どこかから風の吹き抜ける音が聞こえてきた。窓の無い部屋で扉が閉まっているのなら、通気口から聞こえてくるのだろう。考えてみれば屋内なのに風が吹いているのは不自然なのだが、テーブルの上のそれに心を奪われた私は、その不自然さに気付くことができない。
どれくらい、そうしていたのだろう。
時間も忘れ、テーブルの上のそれに夢中になっていた私は、ふと違和感を覚える。
なにかがおかしい。
はっきりと形容し難いそれは私の心を浸食し、焦燥させていく。
違和感が具体性を持つまで、そう時間はかからなかった。
「くっ」
扉の上の通気口を見る。風の吹く音が聞こえる。
風は、部屋の中から外に向かって吹いている。
それはつまり……この部屋の空気が外に吸い出されているということ。
気付いた途端に息苦しさを感じた。
何の目的なのかはわからない。だが、早苗が私を罠に填めようとしている、そう考えなければ説明が付かない。
いや、悠長に考えている場合じゃない。急いでこの部屋から出なければ。
扉を押し開こうと体重をかける。
だが、まるで巨人に押さえつけられているかのようで、扉は開くどころか一寸たりとも動かすことができない。
「かはっ……」
背後でランタンの蝋燭が消え、部屋は闇に包まれる。
呼吸ができず、肺の空気が絞り出される苦しみと共に、意識が朦朧としてきた。
時間を止めるか? いや、時間を止めても部屋に空気が無いことには変わりない。その場凌ぎにしかならないのなら無意味だ。
通気口からは廊下の光が漏れてきている。
悔しさが込み上げてきた。
唯一部屋の外へ繋がっているその出口は余りにも小さすぎて、頭すら通すことも難しそうだった。
息を吸えない苦しさに膝を付きそうになり、私は、ほとんど意識を失いながら、最後の力を振り絞り……
通気口の空間を操作して、思い切りそれを拡げた。
「げほっ、ごほっ」
転がるように部屋から飛び出し咳き込む私の目に、心の底から驚く早苗の顔が映った。
「脱出……できちゃいましたね」
「そうみたいね」
「なんだか申し訳ありません」
咲夜は気まずそうに頭を下げる。
私は内心、少しだけ安心していた。いくら架空の話の出来事だといっても、いつも世話をしてくれる咲夜が殺されてしまうのは気分がよくない。
しかしまぁ、時間操作の能力にばかり気を取られていて空間操作のことをすっかり忘れていた。
通気口に格子を付けたり通気口自体を極端に小さくしても、きっと無駄だろう。空間を自在にできるのなら、どんなに小さくても部屋の外へ繋がってさえいれば脱出できてしまう。
例えばそれが、雲や霧なら何とか通れるくらいの極端に小さい通路だとしても。
「これじゃあ、振りだしに戻ったも同じじゃない」
目の前がふっと真っ暗になった、そんな気分だった。散々と推理を進めてやっとゴールが見えたかと思ったら、ほとんどスタート間近の場所に辿り着いてしまうなんて。
童話かなにかで森の魔女に惑わされて、延々と同じところをぐるぐる彷徨わされてしまう。
まるでそんな話の中にいるかのようだ。
しかも残り時間はあと僅か。謎を解いて早苗に勝とうという、その気力が徐々に萎えていってしまう。
「もう無理なのかなぁ……」
「いいえ、まだよ」
諦めかけた私の耳に、パチュリーの自信に満ちた声が聞こえてきた。
「密室の空気を抜いて咲夜を殺す、確かに私の推理は間違っていたわ。それは素直に認めて反省するべき。……いいえ、そうじゃない。間違っていたのは推理に至る筋道であって、推理自体は間違ってはいない」
「推理は間違ってないって、でも……」
咲夜は空間を拡げて逃げてしまった。殺すことはできなかった。だったらそれは推理が間違っていたということなんじゃ?
「早苗には咲夜を殺すことができなかった。いえ、どうやってもきっと無理ね。でもそんなの問題にならないじゃない。問題を解くための条件は早苗を犯人にすることであって、咲夜を殺すことでは無いのだから」
ああ、確かにそうだ!
咲夜が密室殺人に適任すぎるから、咲夜を被害者にすることに固執してしまった。
でもそれは手段であって目的じゃない。そして、パチュリーの言うとおりだ。私たちは目的を見失いかけていた。
「まともに相手したらどうしても殺せない咲夜を殺すために密室が必要だった。この考えは確かに間違っていたわ。でも、密室から空気を抜くという方法は間違ってない。空気を抜くためには風を操れる能力が必要条件となってくる。つまり」
「早苗以外にこの犯行は不可能!」
「ええ、そうよ」
風を自在に操れる人間なんて、幻想郷には早苗しかいない。咲夜にも、もちろん霊夢や魔理沙にもそんなこと出来やしない。
山の天狗、たとえば射命丸や、もしくは早苗の神社の神様だったら風を操って同じ事ができるのかもしれない。しかしどちらも、人間の里で人間相手にそれを行うことができない。
つまり消去法で残った早苗にのみ、この犯行は可能だということになる。
「パチュリーさま」
ひどく落ち着いた声で、咲夜は伝える。
「残り時間、10分です」
―― 16時50分
「ありがとう。大丈夫、間に合うわ」
パチュリーの言葉に急かされるように、私は手帳の容疑者候補のページを探す。いや、そんなの見るまでもない。咲夜を選んでいけないのなら、残るのは霊夢と魔理沙だけだ。
残り時間が少ないのだから選択を誤ったら、きっと取り返しがつかない。霊夢か魔理沙か、被害者にするべきなのはどちらだろう?
……いや、違う。
私は手帳を閉じて目を上げる。パチュリーが大きく頷いた。
「被害者を能力のある人間から選んだのは彼女たちに犯行が不可能なように封じ込めたかったから。でも、もう早苗以外には犯行が不可能な条件が整っているのだから、能力のある人間を被害者にするのは、むしろ付け入る隙を与えるだけ」
パチュリーは早苗をじっと見つめる。
「だから被害者はただの人間じゃないといけない。能力も無く空さえも飛べない、ただ普通の人間。そして犯行現場は人間の里。犯行方法は風を操り通気口から空気を抜くという方法。これにより被害者は窒息死。犯人は早苗。――これが私たちの導き出した解答よ」
パチュリーの声が聞こえてなかったのか、早苗は無言で紅茶を飲んでいた。
一瞬、不気味な静寂の時間が訪れる。
やがて早苗は冷たい笑いを浮かべて、そっとカップを置く。
カップが立てたカシャという音が、やけに大きく響いた。
「残り時間から、これが最後のチャンスとなるでしょうけど、構いませんか」
「ええ、勿論よ」
「そうですか。ま、駄目だと言われても聞く耳持ちませんけどね……」
思考実験 ――Ⅳ――
約束していた時間より十分も早く被害者さんは待ち合わせ場所へやって来ました。
でもそれは私の予定通りでもありました。
私は被害者さんが約束よりも早くやってくると予想して、二十分前からこの部屋で待っていたのですから。もちろん全ての準備を終えて。
「ああ、お待ちしておりました」
私は被害者さんを笑顔で迎えると、部屋の中央にある椅子を勧めます。
「いらっしゃったばかりで恐縮なのですが、私は準備があるのでしばらく部屋を空けます。被害者さんはどうぞ寛いでお待ち下さい」
もちろんこれは部屋を出るための口実でしかありません。被害者さんは不思議そうな顔をしながらも特に疑うことなく、部屋から出ていく私を見送ります。
部屋を出てからは迅速に行動しなければなりません。私は扉がちゃんと閉まっていることを確認すると、廊下の隅に隠しておいた荷物を引き摺り出します。
扉と壁との間には僅かな隙間があります。これを塞がなければ空気が部屋に入ってしまいますので都合が悪いです。
外の世界なら粘着テープのような便利な道具があるので苦も無いのですが、幻想郷ではそうもいきません。
代用品として新聞紙を、にかわで貼り付けることにします。短時間ならば問題無いでしょう。
扉の密閉が終わると、あとは部屋の空気を抜くだけです。被害者さんは部屋のテーブルに置かれた何かに関心を寄せているはずですから、私の企みに気付くはずも無いでしょう。テーブルに置かれた物が何なのかは未定ですが。
「ベンティアドショットへーゼルナッツキャラメルエキストラホイップキャラメルソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノ――」
部屋の通気口をイメージし、祝詞をあげます。一瞬だけ風を起こすなどの些細な奇跡ならば心に思うだけで起こせるのですが、部屋の空気が抜けるまで風を起こし続けるような場合は、やはりそれなりに準備が必要となります。
今回は部屋の空気が抜けるまで、祝詞をあげ続けて精神を集中していなければなりません。
「アブラナシヤサイカラメマシニンニクスクナメ――」
通気口からは音を立てて風が吹き出していますが、部屋の中の状態は残念ながらわかりません。予想通りの結果を信じて風を起こし続けるしかないです。
どれくらいの時間そうしていたでしょう。
前触れも無く扉から「ドンッ!」という大きな音が聞こえてきました。きっと被害者さんが扉を破ろうと、殴ったか蹴ったかしたのでしょう。
万が一ということもあるので警戒するのですが、その音の後に変化は見られません。予想通りの結果なようです。
扉からはその後も断続的に音が聞こえてくるのですが、程なくしてそれも止んでしまいました。
それでも念のために十分ほど詠唱を続けましたが……恐らくもう大丈夫でしょう。
私は詠唱をやめると、にかわで貼った新聞紙を剥がして元通りにします。
そして被害者さんの死亡を確認するために、扉を開けて部屋の中に……。
「そこまでです!」
早苗の鋭い声が響いた。
「パチュリーさんたちの解答は問題文の二行目『遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました』を満たしていません。確かに私が祝詞をあげ、風を操っている間は部屋の密室状態を保つことができます。しかしそれは殺害時のことで、死体発見時に風を操っていなければ部屋は密室ではありません。
まさか第一発見者が現れるまで部屋の空気を抜き続けるなんてことしませんしね。部屋のすぐ外でそんな悠長なことしてたら、たちまち捕まってしまいます」
「待って! じゃ、じゃあ早苗は河童の道具で姿を隠して……」
「だから、そうじゃないでしょ」
まるで駄々っ子を諭すように、早苗は私に……
「人を殺しているんですから、殺し終えたら速やかに逃走するでしょ? なんでわざわざ危険を冒して第一発見者を待つのですか。そんなの何の必然性も無い行動です。不自然です」
悔しいけれど早苗の言うことは尤もだ。筋の通った主張だ。
私たちの解答は問題文の条件を満たせない。それは認めるしかない。
パチュリーは目を伏せて、ただ静かに座っていた。
まるで糸の切れた操り人形みたいに。
「条件を満たしていない以上、これは不正解だと判断せざるを得ません。ですよね咲夜さん」
「……はい、その通りです」
咲夜は、か細い声で答えた。
その言葉の意味は、考えなくてもわかる。私たちにはもう時間が残されていない。
きっと、あと1分か2分か。それが過ぎれば私たちの負けが確定し、小悪魔は早苗の物となってしまう。
テーブルの端で畏まっていた小悪魔が顔をあげた。その目はとても虚ろで弱々しくて、絶望と諦めに満ちていて、私の心まで押し潰されてしまいそう。
パチュリーも、咲夜も、小悪魔も、誰も一言も喋らず、重苦しい時間だけが淡々と過ぎていく。
……なんだろう。
なんなんだろう、これ。
私、こんなのが見たかったのかなぁ?
探偵の私は、明晰な頭脳を駆使して、不可解な事件の謎を華麗に解き明かす。絶望的な危機が迫っても閃きと分析で辛くも乗り越えて、そして最後はみんなに讃えられて大団円。
私の夢見ていたのはそんなのの筈だったんだけど。
そんな夢物語は小説の中だけの、都合のいい話だったのかなぁ。
探偵の力及ばず時間切れ。謎は解かれることなく人質は憐れ敵の手の内に。
……なに、この絵に描いたようなバッドエンド。
私、こんなの望んでないのに!
これが現実だから諦めろって、そういうことなの?
なんだか悲しくて悔しくて、顔が熱くなってきた。
だって私たち、けっこういい線いってたのよ。
そりゃ謎は解けなかったけど、きっとほんの少しだけ届かなかっただけで、もう殆ど解けたようなものだし。
パチュリーは凄かったし、私もこれでもがんばったと思う。
勝負なのだからルールには黙って従わないと。それは勿論わかってる。でも、それでも。
こんな終わり方なんて……。
気まずい沈黙が続く中、心配そうに見守っていた咲夜が手元に目を落とした。
咲夜は目を閉じて背筋を伸ばすと、一度だけ小さく頷いてから凛とした表情を向ける。
私もパチュリーも早苗も小悪魔も、咲夜が言おうとしている言葉を、静かに待っていた。
ただ待っていることしかできなかった。
「パチュリーさま、時間です」
―― 17時00分
終了を告げる咲夜の言葉は、テーブルに着いた私たちに重く響いた。
誰かの小さな、だけどとても悔しそうな呻き声が聞こえてきた。
私は驚いた。だって呻き声をあげているのはパチュリーだったのだから。パチュリーは唇をぎゅっと噛み締めて、恨みのこもった目で早苗を睨み付けている。
私だってもちろん悔しい。早苗の出した問題はもうほとんど解けかかっている、その手応えはあった。
だけどあと一歩、あとほんの少しだけが足りない。その僅かに届かないまま時間切れを迎えてしまうなんて。
勝ち負けはもう重要じゃない、あと少しなのに届かなかった、それがとても悔しい。
「ふふふっ、時間切れですか。呆気ない幕切れですね」
押し殺した嗤いを浮かべる早苗が、テーブルから身を乗り出す。
「勝負は私の勝ちですっ! 約束したとおり小悪魔さんは私が貰いますっ!! いいですね!?」
「いっ、嫌ぁぁぁぁぁ!」
芝居がかった早苗の宣言を聞き小悪魔が痛々しい悲鳴をあげた。パチュリーは唇を僅かに震わせて、射るように早苗を睨み付けている。
「さぁ、小悪魔さんは今日から私のものですからね。まずは神奈子さまと諏訪子さまに報告しないといけませんね」
「嫌っ、嫌ですそんなの嫌です。私はここに居たいんですっ。パチュリーさま助けてください!!」
「小悪魔さんと呼ぶのも何だか味気ないですね。東風谷小悪魔か洩矢小悪魔か、迷うところです」
「や、止めてくださいっ!」
「……好きにすればいいじゃない」
パチュリーの弱々しい声が響いた。
「勝負に負けた私に止める権限はないわ。東風谷小悪魔だろうが洩矢小悪魔だろうが好きにすればいいじゃない……」
「そんなぁ、パチュリーさまぁ」
縋るような小悪魔の視線にパチュリーは顔を伏せる。
小悪魔との別れが辛くないはずはない。私だって残念に思う。どうにかできるのなら止めたいのだけれど、勝負をして負けた私が異を唱えるのは潔くない。
それじゃあんまりにも無様すぎる。
パチュリーもきっと同じ気持ちなのだろう。
私は救いを求めて咲夜を見つめるけど、咲夜は弱々しく首を振るだけだった。
「さあっ、さっそく神社に帰ってお風呂を沸かしましょう! 温かいお風呂で洗いっこすれば、図書館でこき使われてたことなんてすぐに忘れてしまいますよ!」
早苗は立ち上がって、不気味な笑顔で小悪魔ににじり寄っていった。
そのまま早苗に抱きつかれた小悪魔は、必死の抵抗をするも、
それも虚しく……
「まっ、待ってください、まだです」
「なにがまだなんですか往生際が悪いですよ」
「まだっ、勝負は付いていないんです。まだ17時になっていませんっ!!」
小悪魔の叫びに早苗は動きを止めた。
「ほ、ほら、まだ16時50分です。勝負は付いていません、あと10分あります!」
早苗に向けられた小悪魔の腕時計の針は、確かに16時50分を指していた。
早苗はその文字盤を何度もよく確かめて、さらに自分の腕時計も確認する。
「あら本当ですね、まだ16時50分です。とすると……これはどういうことなんでしょうか」
「咲夜さんの時計が狂ってるんです、そうに違いありません!」
小悪魔の声に、私たちの視線は咲夜に向けられた。急に注目されて戸惑う咲夜だったけど、自分の懐中時計を確かめると落ち着いた声で
「……うっかりしていました。どうやら私の時計が狂っていたようですね。失礼いたしました」
と告げた。
どういうこと?
これってどういうことだろう?
まだ16時50分って、じゃあ、それってつまり。
「あと10分で正解を出せば、私たちの勝ちってこと?」
「恐らく、そうなりますね」
そう言いながらも咲夜は早苗の顔を窺った。審判の時計が狂っていただなんて想定してなかった事態のはずだから。咲夜が時間の猶予を認めたとしても、早苗がそれに同意しなければ勝負の正当性は保てない。
「むぅ、し、仕方がないですね。私の時計は16時50分なわけですし、咲夜さんが非を認めてしまってるんですから、残り10分を認めるしかありませんね。たった10分足掻いたところで正解が出るかは知りませんけど」
「じゃあまだチャンスがあるんだ! 聞いた、パチュリー?」
ゆっくりと息を吐くと、パチュリーは私に向けて呟いた。
「時間が無いわ、急ぐわよ」
―― 16時50分
メモを頼りに、私たちはもう一度ここまでの事件を検討してみる。
人間の里で窓の無い密室に人間を閉じ込め、早苗が空気を抜いて窒息させる。
事件現場が人間の里で被害者が人間なのだから、妖怪による犯行は不可能であり、必然的に犯人も人間ということになる。
幻想郷にいる人間の中で空気を抜くという殺害方法が可能なのは、風を操ることができる早苗一人に限られる。これにより咲夜や霊夢たちが犯人である可能性は消える。
早苗以外には犯行不可能で唯一早苗だけに犯行が可能、その条件を満たしてはいる。
ただ、死体発見時に現場が密室だった、この条件だけクリアすることができない。
「あと少しのところまでは来てるんだけどなぁ」
「あと少しだとしても正解ではないのだから意味が無いわ」
紅茶のお代わりに口を付けてパチュリーは続ける。
「でも、あと少しが埋まらないことには注目するべきね。これはきっと私たちの考え方が間違っている、間違っていながらもそのことに気がついていない、だからあと少しのところで推理が止まってしまうのね」
考え方が間違っていると言われても、事件の殆どの条件は早苗が犯人になるためには必要なことだ。少しでも違えれば早苗以外の人間に犯行が可能になってしまう危ういバランスにある。
事件の条件を動かすことができないのなら、それ以外のことに何か考え違いがあるのだろうか?
パチュリーは私の控えたメモに目を走らせる。間違いが無いかを確かめるようにページを繰るその手は、ある所でぴたりと止まった。
「これでしょうね……多分」
開いたページには『密室である理由』と書かれている。
確かこれは、密室殺人に有利な咲夜を被害者と仮定してて、私がふと、事件の中の早苗がなぜ密室に拘っているのかを疑問に思って。密室についての考察が切っ掛けになってパチュリーが『風を操り空気を抜く』という犯行方法を閃いたんだった。
「もう一度おさらいするわね。この時私は、密室が想定される二つのパターンを考察した。一つは犯人が意図しなかった偶発的なもの、もう一つは犯人が意図した必然性のあるもの。この二つのうち、私は後者を選び、密室は犯人にとって必然性のあるものと仮定した。事実、早苗にしかできない犯行を成立させるためには密室である必要があり、私の選択は正しかったのだと思い込んでしまった」
「でも密室じゃなかったら早苗が空気を抜くことができないんだから、そこは動かしちゃいけないんじゃ」
「必要条件である『遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました』が成立できていない。だからこの考えは間違い。早苗の犯行方法に一時的な密室が必要だったのは違いないのだけれど、それと密室とは切り離して考えなければいけなかったの。だけど私たちは密室に必然性があったという考えが捨てられず、それに拘ってしまった。これが私たちの間違い」
「じゃ、じゃあ、もしパチュリーの言うとおり密室に必然性があったってのが間違ってたとしたら……」
「密室は偶発的あるいは不可抗力的なもの、となるわね」
パチュリーの言葉を聞いて私は考え込む。
密室は偶発的なもので早苗の犯行とは切り離して考えなければいけない。
ということは、早苗が空気を抜いて被害者を殺害するという条件の中で、なにか偶発的な密室を成立させなければいけない、そうなるのだろうか?
それはとても難しい気がする。ましてや残りの時間は10分を切っているわけだし。
「密室のパターンを考察した時、私は偶発的なパターンを考察するには不確定要素が多すぎると考えた。あの時点ではそれで間違ってたわけじゃないけど、今は早苗の犯行方法を主軸として事件の概要はほぼ確定している。今の時点でなら意味の有る考察も成り立つはず」
事件の概要はほぼ確定している……。ミステリで言えば解決に必要な情報が全て出そろったようなものだろうか?
こんな時、ミステリに出てくる探偵たちならどう考えるんだろう?
私は目を閉じて考えを深めていく。
要素は犯人と被害者と、それと密室そのもの。でも密室の成立を考えるのだからこれはひとまず置いておく。
密室の特性が犯人の意図しなかったものだとしたら、犯人のことを考えても仕方がない。
だとしたら考えるべきは被害者に絞られる。被害者の行ったある行動が、犯人の意図に関わらず密室を成立してしまった、となるか。
「小悪魔、残り時間は!?」
「3分です!」
「くっ、間に合わないわね」
―― 16時57分
パチュリーと小悪魔の声が遠く聞こえる。
時間がほとんど無いのに、今の私は不思議なくらい落ち着いていた。
私は被害者の行動を想像する。早苗に誘いこまれたのは窓の無い暗い部屋。テーブルに置かれたランタンの明かりだけが頼りだ。
やがて早苗により部屋の空気が抜かれていく。空気が通気口から抜かれていることにはすぐに気付くだろう。通気口から洩れる光が眩しい。
異常に気付き部屋を出ようとしても、扉は重くて開かない。通気口は外へ繋がっているけど、高いところにあるので手が届かない。普段の私だったら飛べばいいんだけど、なんの能力も持たない人間の被害者は飛ぶことができない。
被害者ならどうするだろう? 通気口まで手が届けば少なくとも窒息は免れるか?
部屋を見回す。テーブルに載ったランタンが消えかかっている。
……テーブル。
「被害者はテーブルを扉の前へ移動させて、それを踏み台にして通気口まで上った。このテーブルが邪魔になって外からは扉が開かず、図らずとも密室となってしまった」
「駄目よ、テーブルで閉鎖するのなら内開きの扉でないと。この部屋の扉は外開き。内開きなら空気を抜かれても開くことができる」
扉の開く方向は失念していた。確かに外に開くのならテーブルで密室を作ることはできない。
考え方を少し変えよう。密室を作るにはどうすればいいか?
ミステリの密室問題で重要になってくるのは扉よりも鍵だ。私たちはこの問題で鍵のことは一切考えてこなかった。
もし被害者がなにかしらの理由で、内側から扉に鍵をかけたとしたら……密室は成立することになる。
被害者が鍵をかける理由、何だろう? 被害者は扉の外に出たいのだから自ら鍵をかけるだなんて行動としては不自然だ。
いや違う。被害者は助かりたい、つまり窒息を免れたいのであって、扉から外に出たいというのはそのための手段でしかない。
そして、鍵というのは錠前に限らない。たとえば……。
「扉の内側には閂があった。壁から扉に閂を通して、つまり施錠すると、閂は通気口の真下の位置にくる。被害者は閂に足をかけて通気口から頭を出そうとした」
「それよフラン! 通気口から頭を出そうとした被害者は、通気口まで届かなかったか通気口が小さすぎたか、とにかくあと少しのところで助からず窒息してしまう。……成立よ」
「あと1分!!」
ふと、意地悪に嗤う咲夜の顔が頭に浮かんだ。
「窒息は駄目っ!!」
窒息はたぶん罠だ。直感だから裏付けはできないけど。いや、そんなの後回しだ。
じゃあ窒息じゃないのなら……いや違う、早苗は窒息で殺すつもりだった。……だとしたら何故、閂を……ああ、そうか。そこまで計画に織り込んであるんだ。
……どんな計画? いや、そもそも何故!?
……早苗にどんなメリットが?
……そうか。それなら全部繋がる。
私はメモを掴むと開いたページを探しペンを走らせた。
パチュリーの言葉を思い起こす。
――空気にも重さがあって、私たちはその重さを常に支えているの。
もしその言葉が本当ならば……。いや、迷ってる暇なんて無い。
もう時間はギリギリだ。間に合うだろうか。
字が乱れることも構わず必死に解答を書き付け、テーブルに叩きつける。
叩きつけたその直後に、小悪魔が制限時間の終了を告げた。
―― 17時00分
――事件が起こったのは人里、被害者は空を飛べない人間。
――遺体のあった部屋は窓が無く外開きの扉がひとつ。扉の上に通気口が有り扉は閂で施錠されていた。
――被害者は後頭部を鈍器で殴られており、それが死因だった。
――通気口の近くの天井に被害者の血が大量に付着していた。
――犯人は早苗だった。
これが、早苗の問題に出した私の解答だった。
「ま、間に合った、よね?」
「時間ギリギリですが、まぁ良しとしましょう」
「じゃあ、私たちの勝ちってこと!?」
早苗はメモを手に取り、僅かに目を細めた。
「それはまだ早いですね、この解答が正解とは限りませんし」
メモに目を通した早苗は不敵な笑みを零す。
「泣いても笑ってもこれが最後となります、フランさんもパチュリーさんもその点はご了承ください。今更クレームを付けられても聞く気はありませんから」
少しだけ緊張していたけど、私はしっかりと頷いて早苗の次の言葉をじっと待っていた。
思考実験 ――Ⅴ――
「答え合わせですから、最後は霊夢さんに登場して頂いて、実際に事件を解決してもらいましょうか。霊夢さんが無事に解決できなかったら話にならないわけですから、わかりやすいかと思います」
まずは人間の里で他殺体が発見されるところからですね。発見者は誰でもいいです。発見時に部屋が密室であることだけが重要なのですから。
まぁそれで発見されました。密室殺人です。どうにも人間の犯行としては説明がつきません。じゃあ妖怪の仕業なのだろう。
ということで、慧音さんを通じて霊夢さんが呼ばれるわけです。
「殺人事件って、私、探偵じゃないんだけど」
「そう言うな。もし犯人が妖怪ならどのみち退治するのだから同じだろう」
「そりゃまぁそうだけど」
渋々ながらも慧音さんの依頼を受ける霊夢さんです。
犯行現場に向かいましょう。
まず部屋が密室だったのでそのままでは入れませんでした。ですので里の皆さんで力を合わせて扉を開いたようです。
「うわぁ、扉が粉々じゃない」
「内側から閂が掛けられてて開けられなかった。だから扉を壊すしかなかったんだ」
「え、内側から閂? 部屋の外からじゃあ閂は掛けられないわよね……それじゃあ犯人も中に居たんじゃないの?」
「その犯人が中に居なかったから妖怪の仕業だと言っている。だからお前を呼んだ。人の話を聞いてなかったのか」
「ああ、なるほど」
納得してくれたみたいですね。
扉が壊されてしまったのは残念ですが、仕方のないことでしょう。扉以外は綺麗に事件当時のまま保持されています。
部屋の大きさは適当でいいのですが八畳程度としておきましょうか。窓はもちろん有りません。
出入り口は壊された扉のみ。扉の上に小さな通気口があります。大きさはだいたい30c㎡ぐらいですかね。
閂は壁に取り付けられていて、扉の金具に通して施錠する形になります。
部屋にはテーブルとソファー、照明代わりのランタン、このあたりも今まで通りですね。 それで部屋の中央に被害者の死体があるわけです。
被害者は普通の人間であれば誰でも、それこそ阿求さんや霖之助さんでもいいのですが、とりあえず名も無き里の人間ということにしておきましょう。
被害者の死体は後頭部を潰されています。きっと即死でしょう。床も壁も大量の出血で血まみれですが、天井には特に沢山の血が飛び散っていて、なかなかに凄惨な光景です。
死体の傍らに大きな岩が落ちていて、これにも大量の血が付いています。これが凶器ですねきっと。
「扉に閂が掛かっていたのも不可解だが、もう一つ、この天井に飛び散った血がどうにも理解できん。死に至るほどの傷なのだから血が大量に出るのはわかるが、普通は天井まで飛び散るもんでもなかろう」
「うわっ……」
死体を見た霊夢さんは青ざめてしまい、腰が退けています。ちょっとショックが大きすぎたのでしょうか。
慧音さんの説明も耳に入っていないようです。
「どうした大丈夫か?」
「大丈夫……じゃないみたい。きもちわるい」
死体を見て怖じ気づいてしまうようでは、どうやら霊夢さんに探偵役は務まりそうもありませんね、やれやれです。
仕方がないので紫さんにでも解決してもらいましょう。
「呼んだかしら?」
「いや呼んでない」
「呼んでない? まぁいいわ。話は聞かせてもらいました。ずばり犯人は妖怪ではありません」
「妖怪じゃ無い?」
怪訝な顔を向ける慧音さんに、紫さんはニヤニヤ笑いで応えます。
「妖怪は人間の里では人間を襲うべからず。そのルールはあなたも知ってる筈じゃないのかしら? 被害者は人間ですよね。でしたら犯人は妖怪ではありません」
「しかし、人間では説明が付かない。被害者を殺して部屋の内側から閂を掛けて、なおかつ部屋から逃げるだなんて、人間にこんなこと出来るわけが無い」
「出来るわけが無くても出来ているのですから。ならば出来ると証明すればいいだけのことですわ」
訝しがる慧音さんに構わず、紫さんは部屋の状況を調べ始めます。
床、天井、扉、閂、通気口、凶器、死体と、次々に調べていきます。
特に天井に残された血痕は念入りに調べたようですね。
「ふーん、成る程ね。じゃあ霊夢、行きましょうか」
「ふぇ、何処に?」
「何処って犯人のところに決まってるじゃない」
流石は紫さんです。伊達に妖怪の賢者と呼ばれるわけではありませんね。
ということで、霊夢さんと慧音さんを引き連れて私の下を訪れるわけです。
「その密室殺人事件の犯人が私だと仰るのですか? 一体何を証拠に……」
「まぁ順を追って説明しますわ。しばらく口を噤んで聞いてて下さいな」
あなたが犯人ですと言われてあっさり認めてしまっては盛り上がりませんですものね。
程良く否認した後は、大人しく紫さんの解答を拝聴するとしましょう。
「どういう口実で被害者をあの部屋に呼びつけたのかはわからないのだけれど、それは問題ではないわね。とにかくあの部屋で被害者と落ち合ったあなたは、なにかしら理由を付けてしばらく待っているように言い残し、部屋から出ます。素直に待っているのもどうかと思うけど、まぁそれはいいわ。部屋から出たあなたは廊下で風を起こします。場所を通気口に絞り、部屋の中から外に向けて。風祝のあなたなら造作も無いことね。そして部屋の中から外に風が流れるということは、つまり部屋の空気が外に吸われるということ。すると、どうなるかしら?」
「どうなるって」
尋ねられた霊夢さんはしばらく考えます。
「部屋の空気が吸われたら、息ができなくなる?」
「そうね。じゃあ息ができなくなったら、霊夢ならどうするかしら」
「うーん、部屋の外には空気があるんだから、部屋から出ればいいんじゃない」
「部屋から出れば助かるわね。でも残念だけど、出られないのよ」
「出られない?」
霊夢さんは不思議そうな顔をします。
「霊夢にはよくわからないでしょうけど、空気にも重さがあるの。部屋の中にも外にも空気があれば釣り合っているから問題無いのだけれど、部屋の中だけ空気が減ってしまったら、部屋の外の空気の重さが扉にかかってしまうの。内側に引く扉だったら良かったんだけど、あの部屋の扉は外に開く扉だから、扉を開くには空気の重さよりも大きな力を掛けないといけないわね。霊夢の体重の200人分よりちょっと大きいぐらいかしら」
「200人分!?」
「そう200人分。それじゃあ扉を開くのは無理よね。じゃあ被害者はどうしたのか? だんだんと空気が減ってきて息が苦しくなってくる。でも扉からは出られない。一つだけの出口は手が届かないほど高いところにある通気口のみ。もしこれが被害者じゃなくて霊夢だったら問題無かったのよ、通気口まで飛べば済むのですもの。でも被害者は唯の人間なのだから飛ぶことができない。もちろん通気口までは届かない。追い詰められた被害者はね、扉に閂を掛けるの」
「閂を掛ける? 何故そんなことを」
「良く思いだしてみて。通気口は扉の上にあるの。そして閂は壁に付いてるけれども、これを扉に掛けて施錠すれば、当たり前だけど閂は扉の位置に来る。それはつまり通気口の下なわけね。手が届かないほどの高さにある通気口も、閂に足をかければ届くの。通気口は小さいけれど、がんばって頭と片腕までなら出すことができました。もう片方の腕を千切っちゃえば部屋から出られるのにね。まぁそれはともかくとして、これで被害者は窒息しないで済んだわけ」
「いやいや、ちょっと待て」
慧音さんが不服そうに声を上げます。
「被害者は窒息じゃなくて殴り殺されていたんだぞ。おまえも死体を確認しただろう」
「そんなに焦らなくても大丈夫、ちゃんともうすぐ死ぬから」
「いやしかし」
「じゃあ想像してご覧なさい。窒息を免れるために被害者は通気口から頭を出しています。廊下には早苗がいるわね。つまり早苗の目の前には無防備な被害者の後頭部があるってことじゃないかしら?」
「……あ!」
「あとは簡単よね。岩で殴って殺して、死体は部屋に押し戻す。風を止めてしまえば今度は逆に部屋の外から中へと空気が戻り始めるから、ちょっと蹴り飛ばしてやるくらいで死体も戻ってくれるでしょうね。凶器の岩も同じように通気口から部屋へ。もちろんさっき被害者が閂を掛けたから扉は外からは開かない。密室殺人の完成ね」
紫さんの推理を聞き入って、霊夢さんも慧音さんもまるで放心したかのように驚いています。
私としては最後の無駄な足掻きをしてみたいところ。
「なるほど、その推理が当たっていれば密室殺人が行えるということになりますね。しかしどうなのでしょう? それを私がやったという証拠はあるのでしょうか」
「現場が人間の里だということが証拠になります。被害者が人間なのですから妖怪には襲えません。人間で通気口に風を起こして空気を吸い出すなんて芸当ができるのは、あなたしか居ませんもの」
「その、部屋の空気を吸い出すだなんて推理が当たっていることを証明できるのですか?」
紫さんは、怖いくらいに優しい笑顔を浮かべ、静かに答えます。
「天井に血が飛び散っていたの。もし部屋の中で頭を殴ったのだとしたら、いくら何でも天井までは飛び散りませんわ。これは被害者が天井のすぐ近くで頭を殴られたということを意味します。つまり通気口のような所でね。
いえ、それだけでは天井の血痕の説明には不十分ね。被害者を殴って部屋に押し返したのはよかったんだけど、あなたが空気を抜いた所為で部屋の空気はとても少ない状態になってしまったの。だから被害者と部屋の空気とのバランスが著しく崩れた状態になってしまった。
つまりね、部屋に返された被害者は、自身の内側からの力で派手に血を撒き散らしてしまう。これが天井に残った血痕の正体。あなたにしか犯行ができなかったことの証拠。部屋の外の血痕を掃除することはできても、密室の中の血痕はどうすることもできなかったのね……詰めが甘いのよ、あなたも」
私はがっくりと膝を落として力なく笑います。こういう時どんな態度をとればいいのか迷うところですが、こんなところがオーソドックスでわかりやすくて、いいんじゃないでしょうか。
「ふふっ……流石ですね参りました。紫さんの仰るとおり私が犯人です」
見事に真相を看破されて、返す言葉もありません。
ようやくこれで、私が犯人であると証明されたわけです。
「フラン、質問いいかしら」
「ん、なに?」
パチュリーが小さく手を挙げた。
「さっき窒息は駄目って言ったけど、あれは何故?」
「うーん、ちょっと待って、考えを纏めるから」
きっとパチュリーが訊きたいのは窒息が駄目といった理由だけじゃなくて、そこから解答までの推論なんだろう。
でも、あの時はほとんど直感のようなものだったから、よく考えを整理しないと説明できそうにない。
「理由は二つ、いや三つあるかな」
「三つ?」
「順に説明するね。まず一つ目、窒息は咲夜にも犯行が可能だって思ったの」
「そうかしら? 部屋の空気を抜いたのなら被害者は首を絞めた跡の無い窒息死体になる。咲夜には不可能じゃないかしら」
「これは後から思いついたことなんだけど、部屋の出入りは通気口の空間を弄れば問題ないとして。えーっと、咲夜の能力って時間を止めることと空間を弄ることだって思っちゃうけど、それだけじゃないの。前にね、咲夜が造りたてのワインを一瞬でヴィンテージワインにしちゃったことがあるの。何でもワインの時間を早送りさせたらしいんだけど。
でもそれが出来ちゃうってことは、被害者の鼻と口を塞いで息ができなくさせて、そんで被害者の時間を早送りさせちゃえば。首は絞めてないから跡も残らないし、早苗が殺したのと同じ状態になると思う」
「……なるほど、それなら確かに咲夜にも犯行が可能になってしまうわね」
一瞬、パチュリーが驚きの表情を浮かべたような気がした。
「二つ目は、これは窒息が駄目な理由とは違うんだけど、なんで早苗は閂を取り外さなかったんだろう? って、それが不思議だったの」
「閂を取り外さなかったのが不思議? どういうことかしら」
「だって密室は偶発的にできてしまったわけだから、それって早苗は被害者を窒息させて殺そうとしてたわけでしょ。だとすると内側から掛けられる閂は犯行の邪魔にしかならないの。それを足場にして通気口から顔を出されたら、窒息で殺せなくなっちゃうわけだし」
もちろん閂を取り外してしまうと密室が成立しない。咲夜の後に被害者をただの人間と置き換えた、その時と同じ条件になってしまう。
しかし窒息で殺そうとしているのに、それを逃れることができる手段をわざわざ残しておくのはやはり不自然に思えた。
閂はわざと残してあった。そうとしか思えない。
「早苗は閂をわざと残しておいた。そう考えたら三つ目の理由が見えてきたの。閂をわざと残したのなら、密室ができたのも偶発的なものじゃなくて、早苗が最初から意図していたことってなる。だとすると、やっぱり早苗にとって密室は必要だったの」
「密室が必要? なぜ」
「わかっちゃえば簡単なんだけど、もし密室で人間が殴り殺されていたとしたら、誰も早苗がやったなんて思わないでしょ? 他にも幻想郷には密室殺人が得意そうな奴は山ほど居る。もし早苗が疑われるとしても最後の最後になる。それが密室が必要だった理由」
密室を成立させることにより、早苗は容疑者として疑われる可能性が極めて低くなる。
確かに密室を考えて準備するのは手間のかかることだけど、その対価としては十分以上のメリットがある。
真っ先に疑われるのは、やっぱり咲夜だろう。時を止めてしまえる咲夜は誰にもアリバイを証明してもらうことができない。残念なことに潔白を証明するためには、さとりに心を読んでもらうしかない。
「それに密室が偶発的なものだとすると、やっぱりおかしい点があるの。咲夜が相手だったのならともかく、なんで能力を持たない人間を殺すのにわざわざ部屋の空気を抜くなんて方法を選んだのか。普通に殺したほうが手っ取り早いんだから、それでも部屋の空気を抜いたんなら、それには理由があるはず。
もちろん窒息させたかったわけじゃない。首を絞めた跡の無い窒息死体なんて状態作っちゃったら早苗が優先的に疑われちゃう。早苗が欲しかったのは窒息じゃなくて密室だった。だから閂をわざと残した。被害者が窒息から逃れようと閂で密室を作るところまで、早苗の計画だったの。
えーとつまり、窒息で殺しちゃうと早苗が疑われてしまうから、それは早苗にとってメリットにならない。これが三つ目の理由」
「確かに……その考えなら全部説明がつきそうね」
パチュリーは優しく微笑む。
「それで、じゃあ窒息が駄目ならどうしようか。早苗にしかできない犯行っていう厄介な条件も満たさなきゃいけない。それでほとんど直感だったんだけど、早苗の犯行だった場合と咲夜の犯行だった場合で条件の違いがあるのかなぁって。そう考えたら部屋の空気の量くらいしか違いが無さそうだったんだけど、そこで急にパチュリーの言ったこと思い出して。ほら、あの、空気にも重さがあって私たちはその重さを常に支えている、ってやつ」
「ええ、そうね」
「じゃあ扉が開かなくなるほどの力と普段釣り合ってるのなら、私たちの体も中から外に凄い力がかかってるんじゃないかなって。それでその凄い力で血が噴き出すのを想像して」
私自身、空気の力のことはよくわかっていないので、上手く説明ができない。でもパチュリーは納得しているのか、小さく相槌を打つだけで特に訂正も反論も無い。
「自信は無かったけど、たぶん通気口の近くの天井にたくさん血が飛び散るだろうなって。床ならともかく天井にたくさんの血痕なんて、少し異常な状況。じゃあ咲夜がその状況を作れるかって考えたんだけど、やっぱり咲夜には出来ないと思う。霊夢や魔理沙にだって出来ない。おまけに早苗は被害者が作った密室を破れないから、天井の血痕を始末できないし、ひょっとしたら気付いてすらいないかもしれない。だから、これならいけるかなって」
時間が無かったから、本当にそこまでしっかりと考えていたのかは私にもわからない。
ただあの時は、これで大丈夫だという不思議な確信があった。
静かに私の話を聞いていたパチュリーは少し目を伏せると、柔らかく私に微笑んでくれた。
「その通りねフラン。見事な推理だったわ」
パチュリーにそんなことを言われると、嬉しいけれど照れてしまう。
「フランドールさま、審判として答え合わせをさせて頂きます」
「う、うん」
私の解答は出題の条件を満たしているはずだけど、早苗の用意している正解を見てみないと勝敗の判断はできない。
緑色の封筒を咲夜が開いていく。便箋を取り出すと素早く目を通し、それをテーブルに置いた。
「こちらになります」
人間の里で他殺死体が発見されました。
被害者は何の能力も持たない、空も飛べない普通の人間です。
被害者の遺体が発見された当時、部屋の唯一の出入り口となる扉は内側から閂で施錠されており、密室状態にありました。
閂は壁に設置されており、それを扉の金具に移動させることで施錠することができます。
扉は部屋の中から外に開く、開き戸と呼ばれる物でした。
部屋は八畳ほどの大きさで、天井の高さはおよそ3mです。
部屋に窓は無く、扉の上に位置する天井の付近に通気口があります。通気口の大きさは30c㎡程度と思われます。
被害者の死因は後頭部を強打されたことによる失血死だと見られます。
床、壁、そして天井に大量の血痕が残されていました。これらは被害者の血でした。
遺体の傍らには凶器とみられる大きな岩が落ちており、これにも被害者の血が付着しています。
被害者を殺害した犯人は東風谷早苗でした。
「細部の違いは見受けられますが、正解とみなして問題無いかと思われますが」
「はいはい、正解正解。私の負けですよ!」
早苗は肩を竦めてやれやれと首を振る。そんな仕草もユーモラスでどこか芝居がかって見える。
「それではこの勝負、パチュリーさまとフランドールさまの勝ちということで。おめでとうございますパチュリーさま、フランドールさま」
「パチュリーさまぁ!」
堪えきれないかのようにパチュリーに抱きつこうとする小悪魔だったが、パチュリーはそれを、ふわりと宙に浮いて躱した。
「少し疲れたわ、お風呂を用意して頂戴」
そしてパチュリーは続く言葉を、少しだけ言い淀んで、消え入るような囁きで言った。
「私一人じゃ髪が洗えない……だから、小悪魔も一緒に……」
「は、はいっ!」
嬉しそうな小悪魔の返事は図書館中に響くほどだった。
―― 17時20分
パチュリーと小悪魔、それと仕事で忙しい咲夜が去って、テーブルには早苗と私だけが残された。
ついさっきまで敵同士だったんだし、ちょっとだけ気まずい雰囲気。それは早苗も同じなのか、どこかそわそわしてるみたい。
「あの、フランさん」
「なに?」
恐る恐るといった感じで、早苗が話しかけてきた。
「さっきはフランさんにもパチュリーさんにも失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい。私、悪い癖なんですよね。やるからには真剣にやらなきゃって、変に気負って、のめり込んでしまって、悪役らしく振る舞わないといけないって。でも度が過ぎましたよね」
早苗はぎこちない照れ笑いを浮かべる。
「フランさんたちのこと馬鹿にするようなこと言ってしまいましたが、あれは本心じゃないです。むしろ次々と謎が解かれてしまって、本当に凄いって思っていたんですよ。……それだけは誤解しないでください」
「うん、大丈夫、気にしてないから」
そりゃ少しはイラッとしたけれど、でも何でだろう? 私は心のどこかで、早苗の言葉が本心から出たものじゃないって何故だかわかっていたような気がする。
それに、私はそんなことよりも、もっと他に言いたいことがあった。
「ねぇ、早苗」
「……なんです?」
「早苗の問題、難しかったけどすごく面白かったよ」
「そうですか、それは何より」
「よかったらまた遊びにきてよ。歓迎するから」
早苗は私の言葉を聞いて恥ずかしそうに顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。
そして
「か、考えておきます……」
と小声で言うのだった。
私はテーブルに残された、早苗の問題を手に取る。
――幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
――遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
――殺害した犯人は東風谷早苗でした。
複雑に絡み合った64文字は、抜け出すことの不可能な暗闇の迷路のように思えた。
でも、そこには本当にか細い、一本の道が隠されていた。
私とパチュリーはそれを探り当て、そして不可能と思えたものが可能になった。
それはまるで魔法のようなひとときだったと、私には思えた。
「魔法のようだなんて言ったら、パチュリーに怒られるかな」
私は誰にも聞かれないように呟いた。
そして便箋を水色の封筒にしまうと、それをポケットに仕舞った。
大切な宝物みたいに、丁寧に仕舞った。
そんなわけで、早苗の出題した奇妙奇天烈な謎はパチュリーと私によって無事に解かれたわけで、小悪魔は早苗に攫われてしまうことなく、いままで通りパチュリーの下で忙しなく図書館を飛びまわることとなった。
敗れてしまった早苗だけれど、その後パチュリーから(渋々ではあるけれども)「あれは言い過ぎだった。本気じゃないから許して欲しい」との謝罪が(そっぽを向きながらだったが)あり、彼女のミステリの尊厳も一応は守られたことになる。
図書館に平和な日常は戻り、私の密かな願望も果たすことができた。八方丸く収まってめでたしめでたし、となるところだけど……。
私には一つだけ、ただひとつだけ、どうしても納得できないことがあった。
―― 5月6日 13時10分
「やっぱりさぁ、絶対おかしいよ、ねぇ」
「……なにが?」
執務机に寄りかかり上目遣いで問いかける私に、パチュリーは面倒くさそうに返事をする。
面倒くさそうなのはいつものことなので気にしない。
「なにがって時計よ時計。なんであの時、小悪魔の時計は狂っていたのか」
「時計が狂っていたのは咲夜でしょ」
「だから、咲夜の時計が狂ってたなんてこと有り得ないのよ」
まずそこが納得のいかない点。
秒単位で館の仕事に追われている咲夜が、自分の時計の調整を怠るだなんてこと考えられない。毎朝きっちりと時計を合わせて、正確な時刻に従って仕事をこなしているはずだ。
その証拠にあの日早苗が出題をする前、咲夜は私の部屋を訪れて、いつもと同じようにお茶の用意をしてくれていた。
いつもと同じようにとは、いつもと同じ時刻にということで、具体的にそれは15時丁度のこと。
図書館には時計が無いけど私の部屋には時計があるから、この時刻に間違いはない。
15時の時点までは正しく時を刻んでいた咲夜の時計が2時間後の17時には10分も狂っていただなんて、そんなの信じられるはずがない。
「咲夜は自分の時計が狂っていたと認めたわ」
「だからそこがわからないのよ。なんで咲夜は時計が狂ってないのに狂ってたと認めたか」
「気になるんなら咲夜に訊けばいいじゃない」
「それじゃ駄目なんだって!」
きっと咲夜は咄嗟に何かを誤魔化したのだ。
何を誤魔化したのかは考えてもわからないのだけれど、一度誤魔化すと決めたのなら咲夜に訊いても無駄だ。適当にあしらわれるに決まっている。
それに、私自身が納得するためには自分で考えなければ駄目だ。
「じゃあ咲夜の時計が狂ってなかったのなら、小悪魔の時計が狂っていたのね。ついでに早苗の時計も狂ってたことになるかしら。丁度同じ10分」
パチュリーは呆れるように言った。
確かに咲夜の時計が狂っていないのだとすれば、小悪魔の時計と早苗の時計が偶然同じだけ狂っていたと、そうなってしまう。
もちろんそんな都合のいい偶然なんて起こるはずがない。これが小悪魔一人だけならまだ理解できる。
たまたま時計が狂っていて、たまたまそれが10分遅れるほうに狂っていて、たまたまそのことに時間切れのタイミングで気付いた。筋書きとしては相当苦しいが、無いとは言い切れない。
いや、考え方を変えて、前日に自分が人質となってしまうことを知った小悪魔が、保険の意味で時計を10分遅らせたとすれば。制限時間のことを小悪魔が予想できていないと整合性がとれないけど、たまたまで片付けるよりもはずっと現実味のある推理だ。
しかしどれだけ推論を積み重ねても、早苗の時計が同じだけ狂っていたことに説明がつかない。偶然だなんて有り得ないし、故意だとしたら早苗には時計を狂わせるメリットが無い。
「ねぇパチュリー、やっぱりおかしいでしょ」
「だから咲夜の時計が狂っていた、それで不思議は無くなるじゃない」
「咲夜の時計は狂ってないんだってば」
「じゃあ小悪魔に直接訊いてみれば?」
パチュリーはそう言うと、席を立ってふわりと飛び上がる。
「あれ、どうしたの」
「どうしたって、読み終わったから別の本を取りにいくのよ」
その言葉を聞いて、私は小悪魔がいないことに初めて気付いた。
「ねぇ、小悪魔は?」
「留守よ。行き先は訊いてない」
パチュリーは読み終わった本を抱えて、図書館の奥へゆっくり飛んでいく。
「お友達とのんびりお茶でも呑んでるんじゃないかしらね」
独り言のようなパチュリーの呟きは、私にはそんなふうに聞こえた。
―― 5月6日 13時20分
図書館を留守にした小悪魔の姿は、人間の里の外れの、とある茶屋にあった。
年季の入ったテーブルを挟んで向かい合うのは山の巫女、東風谷早苗。
期待の込もった視線の早苗に、小悪魔は大きめの封筒をうやうやしく差し出した。
「ご苦労様でした」
「いえいえ、それほどでも」
満面の笑みで小悪魔からの封筒を受け取った早苗は、はやる気持ちも抑えずに封を解き中身を確認する。
「うわぁ、これが」
溜息とともに歓喜の声をあげた。
それはヴォイニッチ手稿と呼ばれる奇書中の奇書。早苗のような好事家が一度は手にしたいと願うもそれが叶うことは万に一つも有り得ない。そんな稀覯本の中でも最も入手が困難な物であった。
なにしろこの世に一冊しかないそれはイェール大学に所蔵されている筈なのだから。
「魔法で生成した複製本ですけどね」
「ええそれはもう重々承知です。本物がこんなところにあったら世界中で大騒ぎになってしまいますから」
「あ、でもイェール大のもそれと同じ複製本ですから、早苗さんにとっては本物を手に入れたも同じなのかもしれませんね」
さらりと言ってのける小悪魔に、早苗は危うくお茶を吹きこぼすところだった。
「正真正銘の本物はうちにありますから、また暇な時にでもご覧になられますか」
「え、えぇ、またそのうち」
早苗は引き攣った笑顔を浮かべたまま、報酬の稀覯本を傍らの席に置いた。
そう、これは報酬であった。
小悪魔の依頼を受け、依頼を実行した早苗へ支払われる成功報酬。
早苗が小悪魔に声をかけられたのはおよそ一ヶ月前。依頼の内容は、パチュリーに推理合戦を挑んで欲しい。勝敗は問わないというもの。
推理合戦のための問題も、実際にパチュリーを誘い込むためのシナリオも、全て小悪魔が用意してくれた。早苗はただ自分の役をそれらしく演じればいい、それだけだった。
不可解な話ではあったが、夢にまで見た稀覯本を報酬に提示され、早苗はその依頼を快諾した。下準備として幻想郷の各地で社会勉強と称するアルバイトに励んだのも、小悪魔の指示であった。
全ては小悪魔の思惑通りに進んだのだと思う。しかし早苗にはひとつだけわからないことがある。それを訊いていいものかどうか、彼女は迷っていた。
「あの……」
「はい、なんでしょう」
小悪魔の依頼の意味、言い換えれば小悪魔はこの依頼で何を得たのか? それだけが早苗にはいくら考えてもわからなかった。
犯人は明確。犯行方法も明確。しかし動機だけが不明。
早苗は胸のもやもやを晴らすために、思い切って尋ねることにした。
「今回のこと、これなんの意味があったのでしょう」
「あぁ、なんだそんなことですか」
早苗の問いかけに小悪魔は晴れやかな笑顔を浮かべた。
「お気づきじゃなかったのですか……咲夜さんに時間切れを告げられた時の、パチュリーさまのお顔、早苗さんもご覧になったでしょう」
「え、えぇ」
絶望と悔しさと不甲斐なさと、それらの感情がない交ぜになったかのようなパチュリーの視線を早苗は直接受けた。忘れようと思っても忘れられるものではない。
「私はですね、あれが見たかったんですよ」
楽しげな小悪魔の表情には恍惚とした色が仄かに浮かんでいた。
「ほら、パチュリーさまっていつも蝋人形みたいに感情を表さないじゃないですか。そのパチュリーさまが地獄に叩き落とされるまさに寸前の、心の中を全て剥き出しにした悔しそうなあの顔……。ああ、思い出しただけで蕩けてしまいそうです」
小悪魔は幸せを噛み締めるかのように、なおも続ける。
「以前はパチュリーさまも少しは愚かでしたから、たまには私に素敵なお顔を見せてくれたんですよ。ミステリを好んで読むくせに解答が自分の思ったものと違ったら、インチキだのアンフェアだのご都合主義だのと難癖をつけて悔しそうな表情を見せてくれたものです。でもプライドが高すぎるのでしょうね。いつしかパチュリーさまは図書館からミステリを全て排除して、フランドールさまのお部屋に移してしまわれて、自身は一切ミステリを読まなくなってしまったんです。私としては実につまらないことで」
「そ、それだけのために……」
パチュリーを悔しがらせるため、そのためだけの計画だということなのだろうか?
早苗には理解できなかった。
その早苗の表情を見て、小悪魔はそっと溜息を漏らす。
「早苗さんにはわかりませんか。……しょせん人間風情には無理なのかもしれませんね」
「え!?」
「お忘れですか? こう見えても私、悪魔なんですよ」
薄ら笑いを浮かべるそれは、さっきまで目の前にいた少女とはまるで別の存在のように思えて、早苗は言い知れぬ恐怖がじわじわと込み上げてくるのを感じるのだった。
了
なにしろ部屋の隣があのパチュリーの大図書館なんだから、本の世界にどっぷりと嵌まってしまうのも、すごく自然な流れなんだと思う。
いろんな種類の本のどれも私は好きなんだけど、中でも探偵小説、つまりミステリは私の大好物だ。
不思議で理不尽とも思える謎が、頭脳明晰な探偵たちの美しいロジックによって解き明かされていく様は、私に心からの驚きと喜びを与えてくれる。
ちょっとだけ幼稚な妄想なのだけれど、私の目の前にも不思議で理不尽な謎が現れて欲しい。それを私自身の頭脳で解き明かしてみたい。いつしか私はそう願うようになっていた。
それはどれほど素敵なことなのだろうか。
私のささやかな、けれどもきっと実現できなさそうな願望は、ある日突然にあっさりと叶えられてしまった。
山から来たという緑色の巫女によって。
図書館のテーブルに着いているのは五人。主のパチュリーとそのお手伝いの小悪魔がいるのは勿論だけど、普段はお姉様の世話だったり館の家事だったりで忙しそうに飛びまわってる咲夜が腰を落ち着けているのは珍しかった。
あとは、事件をこの図書館に持ち込んだ山の巫女早苗と、私。これで五人。
五人はさっきから一言も口を利かず、テーブルに置かれた水色の封筒に注目している。
それは沈黙や静寂というよりも困惑や当惑といったほうが似合う様子だった。私も戸惑っている。事件を持ってきた早苗以外は、みんな戸惑っている。
封筒には綺麗に折り畳まれた便箋が一枚。その便箋の中央に、繊細な文字でこう書かれていた。
幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
殺害した犯人は東風谷早苗でした。
たった三行、文字数にすれば64文字。
そこには事件の概要も、被害者の名前も特徴も、事件の起きた場所すら書かれていない。
それだけならまだしも、あろうことか犯人の名前がはっきりと書かれている。
しかも早苗が言うには、この64文字は、これでも事件の全てを表しているんだそうな。
……とてもそうは思えないのだけど。
確かに不思議で理不尽な謎だと思う。ミステリならたくさん読んだが、こんなヘンテコリンな謎は記憶に無い。でも……。
「なに、これ?」
思わずそんな言葉を呟いてしまった。
えーっと……私のささやかな願望って、こんなのだったっけ?
―― Locked room Tea party
―― 5月4日 14時30分
その日たしか私は、読み終わった本を返しに図書館を訪れたんだった。
いつものとおり図書館の扉を開いたところで、いつもと違う、なんだか険悪な雰囲気を感じた。
原因はすぐにわかった。閲覧のテーブルにパチュリーと早苗。二人はお互いを見ないように露骨に顔をそらして、間で小悪魔がそわそわと戸惑っている。
見たところ喧嘩の真っ最中なんだろうか。
「ああ、フランドールさま」
声のしたほうを見ると、咲夜が渋い顔をしていた。
「どうしたの、あれ」
「それが、みなさんでお茶をしていたのですが、早苗さんがうっかりミステリのことに触れてしまって」
「あぁ……」
うっかり地雷を踏み抜いたわけか。
早苗はなんでも社会勉強の一環だとかで幻想郷中のいろんな所を訪れては、簡単なアルバイトをして回っているらしい。
うちには先週から来るようになって、本人の希望らしいけど図書館で小悪魔の手伝いをしている。
だからきっと知らなかったんだ、パチュリーにミステリが禁句だってことを。
「パチュリーさま、いい加減に早苗さんと仲直りしてくださいよ」
「何で私が謝らないといけないのかしら。まず早苗が謝るべきじゃなくて?」
「私は悪くありません!」
激高する二人の間で、小悪魔はおろおろとうろたえていた。少し不憫で同情しそうになる。
「小悪魔さんが魔法についての講釈をしてたのですが、それを聞いて早苗さんが、魔法とミステリって何だか似てますね。と言ってしまわれたのです」
「なるほど、言ってしまわれたんだ」
それならパチュリーが怒るのもわかる。
パチュリーが生涯を捧げている魔法とパチュリーがおもいっきり蔑んでいるミステリを同じに語られたのなら、起爆スイッチが入ったとしてもおかしくない。
「パチュリーなら、ミステリのような稚拙な子供騙しと魔法を同列に語るだなんて聞き捨てならない、とか言いそう」
「まさにそう言われました」
そっか、そう言われたんだ。
「早苗さんのほうもミステリの尊厳を汚されたと、売り言葉に買い言葉でして」
それで双方一歩も退かずに膠着状態、板挟みな小悪魔は困惑するばかり、といったところだろう、うん。
テーブルに着きながらも、お互いにわかりやすいほど大袈裟に相手を拒否している。何て言うか、どうにも大人気ない。
「……わかりました、じゃあこうしましょう」
膠着状態の中、とつぜん早苗が立ち上がった。
「いつまでもいがみ合っていたって埒があきません。小悪魔さんも困っていますし」
「潔く謝罪するのなら聞き入れなくもないわ」
「何で謝らなきゃいけないんですか……と言いたいところですが、そこも含めて白黒つけようじゃないですか!」
「白黒つける?」
訝しげなパチュリーに構わず、早苗は大袈裟な仕草で話を続けた。
「ええ、簡単なことです。私の出題する謎をパチュリーさんが見事解き明かしたら、私もミステリが子供騙しだと認めましょう。しかし、もしパチュリーさんが謎を解くことができなかったら、その時は」
びしっと音が鳴りそうな勢いで、早苗は小悪魔を指差した。
「謎が解けなかったら、小悪魔さんを貰います」
「えっ!? えっ? そんな困ります」
「何でですか、小悪魔さんはパチュリーさんの使い魔なんでしょ? でしたら小悪魔さんに決定権は無いんじゃないですか」
「それはそうですけど、でもやっぱり困りますっ!」
気の毒なほど慌てふためく小悪魔。
つまりこれは、どういうことだろう?
「早苗の出した問題をパチュリーが解けたら、早苗が謝るってこと?」
「そうですね、ええ」
「そんで解けなかったら、小悪魔が早苗に貰われっちゃう、ってこと?」
「そうなりますね」
「いいわ」
パチュリーは小さく、でもはっきりと返事をかえした。
小悪魔は気の毒に「そんなぁ」と弱々しい抗議の声を上げながら、椅子にへたりこんでしまう。
「言うまでもないことですが、謎解きはミステリの作法に従ってもらいます。つまり魔法は一切禁止です、よろしいですか」
「当然よ」
吐き捨てるように言い残して、パチュリーは自室に籠もってしまった。
一方の早苗は、神社に帰ってとっておきの謎を練り上げるとかで、当然勝負は翌日に持ち越しとなった。
「咲夜、なんだか面白そうじゃない?」
「面白そう、ですか……」
私は考えた。
魔法を使ってはいけないと早苗は言ったけれど、パチュリーが一人で謎を解かなければならないとは言っていない。つまり、もし私がパチュリーの味方をして一緒に謎を解いたとしても問題無いわけだ。
実際に不可解な事件が起こるわけじゃないけれど、目の前に立ち塞がる謎を探偵として見事に解き明かす、これはその、私の願望を叶える絶好のチャンスなんじゃないか。気の毒な小悪魔を救うという大義名分も成り立つわけだし。
早苗と違って私はミステリの尊厳とかには少しも興味が無かった。だからパチュリーの味方をしても、なにも問題ない。
―― 5月5日 15時20分
そして翌日。
いつもと同じように、咲夜の用意してくれたお茶を愉しんだ私は(お茶請けの白桃のタルトは本当に美味しかった)逸る気持ちを抑えて図書館へと向かった。
図書館ではすでにみんなテーブルに着いていて、推理合戦を始める準備は整っているようだった。少しは冷静になったのか、昨日のようにいがみ合いをしているというわけでも無いみたい。
私がテーブルに近づくのを見て、早苗が「おやっ」と小さく声を洩らす。
「ああフランさん、申し訳ありませんが私たちはこれから大事な話し合いがありますので、今日の所は席を外して……」
「推理合戦やるんでしょ?」
子供扱いされてしまった。私のが年上なんだけどな。
少しイラッとしたけど、とりあえず今は流して話の先を続ける。
「私もパチュリーと一緒に謎解きするから。早苗の出した謎を私たちが解けたら勝ち、いいでしょそれで」
「えっ、でも」
「だって早苗が勝ったら小悪魔は早苗に攫われちゃうんでしょ? 私は小悪魔に居て欲しいもん。だったら私にも謎解きに参加する理由がある。違う?」
早苗は私の言葉を受けしばらく考えを巡らせて、テーブルに着いた各人の顔を順に窺いながら、やがて「ふむ」と納得したかのように呟く。
「パチュリーさんは、それで構いませんか」
「……いいわよ別に」
「わかりました、ではフランさんにもパチュリーさんと協力して謎を解いてもらいましょう」
話がまとまったところで椅子に着いた。パチュリーは何事もなかったかのように澄まし顔だ。でも流石に今日は本を読んではいない。落ち着いた表情でのんびりと紅茶を呑んでいる。対する早苗は用意した謎によほど自信があるのか、胸を張って堂々としているように見える。
その脇で小悪魔は空気の抜けた風船みたいに萎んでいた。俯いた表情は心ここにあらずといった感じ。その隣りに座る咲夜は……ん?
「あれ、咲夜なんで居るの?」
「それが、審判を仰せつかってしまいました」
なるほど、推理合戦といっても小悪魔の賭かった勝負なわけだから、勝敗を決める審判は確かに必要だ。
謎が解けた、いや解けてないだなんて水掛け論になってしまっては、何をやってるんだかわからなくなってしまう。
「公正な立場とはいえませんが、咲夜さんならしっかり勤めてくれるでしょう。それと時間の管理も咲夜さんにはお願いします。……失念していましたがここには時計が無いのですね」
図書館は何より静寂を重んじるべき、というパチュリーの考えで、この図書館には音を立てる柱時計の類いは置かれていなかった。
腕時計や懐中時計の携帯までは禁じられていないので、咲夜や小悪魔は各々で時計を持っているはずだけど、私は時計を持っていないしパチュリーもきっと持っていない。
私もパチュリーも時間に追われるような生活をしていないし、時間が知りたかったら誰かに訊くか、部屋に戻って壁の時計を見ればいい。
「無尽蔵に時間をかけられても困りますし、私の勤務時間は17時までの約束となっています。ですので推理の制限時間も17時をリミットとさせていただきたいのですが」
「異存はないわ」
「それと魔法が使用禁止なのは昨日も言いましたが、この図書館の書物で調べ物をなさるのは構いません。ミステリでも探偵が調べ物をするのはよくあることですからね」
「本を探すのに小悪魔を使うのは問題無いのかしら? 時間が限られているのだったら私が探すよりも小悪魔に探させたほうが効率的だし、勝敗が決まるまでは小悪魔はあなたの物ではないのだし」
「ええ、構いませんよ」
涼しい顔で答えた早苗は紅茶に軽く口を付け、勿体ぶるように告げた。
「ルールの確認はこんなところでしょう。それでは、そろそろ始めましょうか」
―― 15時25分
早苗は傍らに置いた巾着袋から二通の封筒を取り出した。水色の封筒と薄い緑色の封筒の、二通。
「この封筒の水色のほうには私からの出題が控えてあります。もう片方の緑色の封筒には解答を書きました。解答は審判の咲夜さんに預かってもらいます。事前に書き起こしてあるということで公平性は保たれるかと思いますが、いかがですか」
「解答は一字一句洩らさず完全に一致しなければいけないのかしら」
「もちろんそんなことはありません。そのあたりの判断も咲夜さんにお任せしたいと思います」
早苗が差し出した緑色の封筒を咲夜が受け取る。咲夜は少しだけ緊張しているようにも見えた。
「それではまず、私が出題を読み上げます。その後に皆さんにも封筒の中身をお見せして間違いがないことを確かめてもらいましょう。質問などは解答に関わらない範囲で受け付けたいと思います」
早苗はペーパーナイフで水色の封筒を開いていく。その光景はなにか神聖な儀式であるかのように、私にはそう思えた。
なんの自慢にもならないけど、いままで私は数限りないミステリを読んできた。
幻想郷という特殊な環境もあるので最新の作品に触れる機会は得られないものの、ミステリの歴史の中で押さえるべき作品には隈無く目を通してきたという自負はあった。
もし早苗の出題が過去の名作に使われたトリックの類型であったり派生であったりしたのなら、それを看破する自信もあったし、私の知らないトリックが使われていたとしても、それがミステリの作法で解き明かすことができる謎なのなら善戦できるはずだった。
「では読み上げます」
一呼吸置いて、早苗は封筒から取り出した便箋を広げる。
「幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
殺害した犯人は東風谷早苗でした。」
私は早苗が続きを読み上げるのをじっと待った。きっとパチュリーも咲夜も小悪魔も同じだったんだと思う。
十秒か二十秒だろうか、なんとも奇妙な沈黙の時間が続いた。
「……で、続きは?」
痺れを切らして問いかけると、早苗はにやりと冷笑を浮かべた。
「以上です」
「……はぁ!?」
「ですから、出題は以上です」
テーブルに広げられた便箋には、さっき早苗が読み上げたそのままの内容が書かれている。
ええと、何なんだろうこれ。
私はなにか重要なことを聞き漏らしたかもと思い、便箋をもう一度読み返した。表だけでなく裏側も、小さい字でなにか大事なことが書かれているかとも思い隈無くチェックした。
その結果としてわかったのは、わけがわからないということ。
「これ、なにかの間違いじゃないの? 間違えて解答を開いちゃったとか」
「いえ間違いではありません。ご安心ください」
そう言われても、ご安心なんてできない。
こんな問題がくるなんて(これが問題として成立していたらの話だけど)これっぽっちも予想していなかった。
だいたいまず、事件の概要が全く書かれていない。あるのは密室殺人とだけ。どんな密室殺人なのかわからなければ推理の進めようもないじゃないか。
おまけに犯人が早苗だとはっきり書いてある。犯人がわかっているんなら事件は解決してしまっている。どんな有能な探偵だったとしても、登場した時に事件が解決してしまっていたら何もできっこない。
思わず縋るようにパチュリーを見てしまう。パチュリーは微かに息を吐くと、すこし面倒くさそうに口を開いた。
「質問いいかしら」
「どうぞ」
「この問題は、ミステリの作法とやらで解ける問題なのかしら?」
早苗は僅かに目を細める。
「ええ、保証します」
パチュリーは納得したのか、のんびりと紅茶を呑みはじめてしまう。でも私は納得ができない。堪らず声を荒げてしまった。
「ちょっとパチュリー、いいの?」
「……なにが?」
「だってこれ、この、謎解きだっていうけど、これ問題にすらなってないじゃない!」
「早苗は解けるっていったでしょ。解けるんだったら問題になっているということじゃないかしら」
「ないかしらって、そんな……」
「じゃあ訊くけど、フランは何でこれが問題として成立していないと思うの」
パチュリーに訊かれてもう一度問題を見直す。私にはわからない何かを、パチュリーはわかっているということなんだろうか?
問題を見直し、得られた情報を頭の中でよく整理してみる。
「だってこれ、犯人は早苗だってしっかり書いてあるのよ。犯人がわかってるのなら謎は無いじゃない。じゃあ私たちはなにを解けばいいのよ!」
ああそうだ。なんで混乱しているのか、わかってきた。
頭の中が少しずつ整理されていく。
この問題からは「何を解けばいいのか読み取れない」それが私を混乱させていたんだ。
「犯人がわかってるのなら、犯人以外を解けばいいでしょ。犯行方法に犯行動機、どちらも問題には書いて無いわ」
「あ、言い忘れましたが犯行動機は考えなくて結構です」
横から早苗が割って入る。
「私に他人を殺す理由なんてありませんからね」
「……だ、そうよ」
犯人がわかっていて動機は不問。だとしたら解くべきなのは犯行方法に絞られる。それはわかった。
でも、果たしてこの問題から犯行方法が推理できるんだろうか?
――幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
犯行現場は不明。被害者も不明。読み取れるのは被害者は殺されたということのみ。
――遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
密室だってことはわかるけど、どんな密室だったのかはわからない。
――殺害した犯人は東風谷早苗でした。
三行目には犯行方法を推察できる情報は無さそう。
……やっぱり無理だ。
「この問題じゃあ前提となる情報が少なすぎるのよ。こんなの何も書いてないも同じじゃない。これで犯行方法を推理しろだなんて、そんなの無理難題だって!」
「問題をそのままに受け止めるんじゃなく、その背景を推察すること。そうすれば見えなかった物が見えてくる。ミステリとやらの常套手段ね」
「そんなこと言ったって……」
余計に困惑する私を見て、パチュリーは可笑しそうに笑いを零す。
「他殺死体が発見されました。密室状態にありました。犯人は東風谷早苗でした。問題文は三行とも過去形で結ばれている。これはつまり、既に事件は解決しているということだと読み取れる」
それは私も気付いてたことだ。いやむしろ、事件が解決しているから困っているわけなんだけど。
「それは言い換えれば、どこかの誰かが既にこの事件に遭遇して、そして推理した結果として早苗を犯人だと断定できたってことになるわね」
「まぁ……そうなるかな」
「わかってないようねフラン。いい、早苗を犯人と断定できたということは、早苗以外の誰にも犯行が不可能であり、なおかつ早苗にだけは犯行が可能であった、そうじゃないといけないのよ。じゃないと早苗が犯人だと断定することは無理。
加えて問題文にある条件。幻想郷のあるところ、ということは事件の起きたのが外の世界ではないことを示すし、現場は密室状態にありました。ということは……まぁこれは言うまでもないわね」
「そりゃ密室殺人ってことなんだろうけど……あ!」
幻想郷の中で起きた密室殺人事件。ただし早苗以外には不可能で早苗だけが犯行を可能だった密室殺人事件。
この幻想郷に、一体どれほどの胡散臭い連中がいることだろう。それぞれが理不尽な能力を持っていて、妖精から妖怪から、はては神までいる。深く考えるまでもなく、ミステリにあるような密室殺人を構築するのなんて、幻想郷の住人からすれば実に容易いことだろう。幻想郷の住人にしてみれば密室殺人なんて何の不思議もないこと。
でも早苗の問題文は、どんな能力を持った者にも犯行が不可能だったことを遠回しに示している。どんな能力を持った者にも不可能だけど、ただ一人、早苗にだけは可能だった密室殺人事件だと。それがこの事件なのだと。
「殺人だとは断定できないけどね。被害者が明記されてない以上、それが人間でない可能性も有り得るわ」
「いや、それはいいんだけど……でも、これ」
幻想郷のどんな能力を持った者にも犯行が不可能だけど、ただ一人早苗にだけは犯行が可能だった密室殺人事件。果たしてそんな密室殺人が成立するもんなのだろうか?
三行ある問題文のそれぞれが干渉し合って、可能性の幅をひどく狭めている。問題文をようやく理解した私には、それは不可能なことだとしか思えない。
「これ、本当に解けるの?」
さっきまでとは別の意味で、私はそう呟いていた。
―― 15時30分
早苗がぱちぱちと乾いた拍手を贈る。
その仕草は芝居がかったようで、なんだか嘘臭い。
「ミステリを誹るだけのことはありますね。あの問題を一瞥しただけでそこまで理解して頂けるとは、正直驚きました」
「無駄口はお勧めしないわ。後になってあなたの発言がヒントになったから解けたんだとクレームを付けられても知らないから」
「ふふっ、わかっていますよ勿論」
パチュリーに窘められ、早苗は苦笑しながら再び押し黙る。
二人の言い争いに気を取られてる場合じゃなかった。
問題の方向性は朧気ながら見えてきたけれど、前提とする情報があまりにも少なすぎることには変わりない。これじゃ真っ暗闇の迷路を彷徨うようなものだ。
さっきのように、解釈を推し進めることによって見えてない情報が見えてくるのだろうか。
そうは言っても……。
「でも、これだと被害者が誰かもわからないよね」
「わからないわね」
「被害者すらわからないんじゃ、推理できなさそうだけど」
「その問題から読み取れる被害者の状況は、人間なのか妖怪なのか不明だってこと、それと自殺でも病気でもなく殺されたってこと。被害者の状況以外では早苗の単独犯、つまり共犯者や協力者が一切関与していないと読み解けるけど……それについてはどうなのかしら?」
パチュリーは早苗に向き直り質問を投げかける。
問いかけられた早苗はしばらく考えた後、落ち着いて返事をした。
「その解釈で構いません。もし共犯者がいるのなら犯人は東風谷早苗と誰々でした。と記述される筈ですからね。協力者も然り、記述がないのですから協力者もいません。ええ、私が一人でやりました」
「そう、安心したわ。単独犯じゃなかったら解けるわけがないから、反則を訴えるところだった」
単独犯じゃなかったら解けないということは、早苗の単独犯だったら解けるということ? 私にはその違いがよくわからない。
「問題文からわかる情報は恐らくそのくらいでしょうね。でもこの問題文は、それ以外に重要なことを示唆しているのよ」
「重要なこと?」
「ええ『わからない』ということ」
「はぁ?」
パチュリーの意図が読めず、私はいよいよ混乱してしまう。わからない、ということが重要なこと?
「わからない、ということは言い換えれば『謎』だってことじゃないかしら。そして私たちは検証をしてるんじゃない、謎解きをしてるのよ。だったらあとは、わかるわよね」
「わからない事こそ、この問題で解くべき謎だってこと?」
それは、どうなんだろう。
被害者が誰かも密室がどんな状況かもわからない、わからないからそれが解くべき謎だなんて。
もしそうだったとしても問題文には事件の具体的な記述があまりにも少なすぎる。
碌にヒントも無い状態なのに真相を言い当てるだなんて、そんなの推理じゃなく運の問題だ。砂場に一粒だけ紛れた白胡麻を探すようなもの。
「そんなのいくらなんでも……」
言いかけて私は口籠もる。
真相を言い当てる? 真相って、何だ? これが実際の事件ならわかる。犯人の目論見に惑わされず、本当に事件で起こったことを言い当てる、それが真相。
でも早苗の問題は実際には起こってない事件。実際に起こっていない事件なんだから事件で起こったことを言い当てるなんて不可能だし、そんなの推理したって意味がない。
「気付いたようね」
「この事件は実際には起こっていない、架空の事件」
「そうよ。もしこの問題文が実際に起こった事件についての記述なのだとしたら、私たちは事件の真相を解き明かさなきゃいけない。でも事件が実際に起こっていないことは明白。幻想郷で密室殺人が起きて、しかも解決されただなんて聞いたこと無いし、それに早苗だって犯人なんだから今この場にいることはできないわね」
「じゃあ、真相なんて無いんだから、えぇーと……」
困惑する頭で私は考える。
もし架空の事件で真相が無いのだとしたら、私たちのやることは得られたヒントから『わからないこと』を埋めていくことになる。
得られたヒントとは、つまり、幻想郷の中で起きた密室殺人事件。ただし早苗以外には不可能で早苗だけが犯行を可能だった密室殺人事件。
真相が無い架空の事件、その『わからないこと』を埋めていく。言い換えればそれは、架空の事件の架空の真相を私たちで決めてしまうということ。
不可解な問題文の中核が、なんとなく見えてきたような気がする。
「さっき早苗の単独犯であることを確認したのは、この問題には共犯者が居てはいけないから。もし共犯者がいてそれが誰なのか指定されていないのなら、早苗が犯人だなんてこと意味を為さなくなってしまい、私たちは『わからない』共犯者も言い当てなきゃならなくなる。
犯行場所に被害者に密室の状態に共犯者……まぁ実質の犯人ね。これが全て謎だったとしたら可能性は無限大に拡がってしまい、解ける問題として成立しない」
「でも早苗の単独犯だとしたら、少なくとも犯人だけは確定できる?」
「そう。最後に解かなきゃならないのは早苗の犯行方法なんだけど、その犯行方法を解くためにはそれに至る条件も同時に解き明かしていかないといけない。それがこの問題の本質。条件として犯人が確定しているのは最低限必要なこと。犯人が不確定なままではスタート地点が定まっていないと同じだから、推論の立てようもないわね」
早苗の単独犯だったら解ける、その意味が私にもようやく理解できた。
つまり、起こった事件から犯人を推理するんじゃなくて、犯人からどんな事件だったのかを推理する問題だってことか。
だとしたら犯人が複数いたら、たしかに解きようがない。
「小悪魔、仕事よ」
力なく項垂れていた小悪魔は、パチュリーの呼びかけにはっと顔を上げる。
「幻想郷の全ての住人、その資料を集めてきて。早苗が入手可能だと想定できる範囲で構わないわ」
「は、はいっ!」
小悪魔は元気の良い返事を残し、メイド妖精を引き連れて図書館の奥へと飛んでいった。
―― 15時35分
小悪魔の的確な指示でメイド妖精たちが次々と本を運んでくる。その殆どが人間の里で手に入る幻想郷縁起などの、いわゆる稗田の本だ。
数分ほどでテーブルは積み上げられた本で埋め尽くされて、唖然としているうちに「終わりましたー」と小悪魔が帰ってきた。手際の良さは相変わらずで、私は紅茶のお代わりを飲む暇さえ無かった。
「早苗が問題作成の参考にしたのは、恐らく実際に見たり聞いたりしたものではなく、書籍の形で参照できる資料。それも人間の里で簡単に入手出来る物に限られてくるわ。見聞きした情報は解釈が曖昧すぎて公平性に欠けるし、うちに無いけど早苗には入手可能な書籍ではフェアじゃない。ついでにうちにはあるけど早苗には入手が困難な書籍は参考にしようが無いから考慮する必要は無いわね。落としどころとしては人間の里で入手できる書籍あたりが妥当じゃないかしら」
パチュリーの図書館には有名な稀覯本から出所が不明な本やら正体が不明な本など様々な本があるけど、それらを早苗が参考にしている可能性は極めて低い。
社会勉強とやらで図書館の仕事を手伝っていたものの、その内容は小悪魔の補佐的な雑用に限られていたので、問題作りの資料として希少本を閲覧する機会は得られなかったはず。
問題を解く鍵になりそうなのは幻想郷縁起と絞り込んで間違いないと思う。
一応は私も幻想郷縁起を始めとする稗田の本にはひととおり目を通しているのだけれど、さすがに全ての内容を憶えてはいない。必要に応じて内容を確認することになりそう。
「さてと、ここから先は手探りになってしまうわね。正直この問題のどこから手を付けるべきか迷うところだけど、とりあえずは消去法で可能性を潰していくのが分かりやすいかしら」
「消去法?」
「ええ。幻想郷にいて密室殺人を起こせそうな連中に、犯行が不可能な条件を与えて一人ずつ潰していく。そうやって最後に早苗が残れば、理論上はそれが正解となるわ」
「なるほど」
私は部屋から持ってきたメモ帳を開いて、要点を書き出していった。
―― 15時40分
「もし幻想郷で密室殺人が起こったと仮定して、容疑者が不明だとしたら、フランならまず誰を疑うかしら」
「うーん、八雲紫かなぁ」
最初に思い浮かんだのはスキマ妖怪だった。
スキマとやらのわけのわからない物でどこにでも瞬時に現れる能力は、密室殺人を起こすのに有利なんてものじゃない。私自身も図書館やお姉様の部屋に紫が突然現れたのを何度か見たことがある。
きっと本人が密室殺人にするつもりが無くても結果として密室殺人になってしまう、紫の能力ならそんなことすら有りえそう。
「まぁ妥当なところでしょうね。だったら紫に犯行不可能な条件を整えて封じる必要がある。例えば、事件が起こったのは真冬のことだったので紫は冬眠をしていた」
「えっ!?」
パチュリーの提案は私の認識を明らかに超えていた。
確かに冬眠をしていたのなら犯行は不可能だ。恐らく紫の式神がアリバイを証明してくれるだろうし、そこは理解できる。
でも、それだからといって『事件は冬に起きた』と主張するのは、私には酷く強引に思えた。理解はできても感覚が追いつかない。
「なにを驚いているのよ。実際に起きていない事件なのだから、それがいつ起こったのかも不明なのでしょ? だったら冬に起こったのだとしてもおかしくないじゃない」
「確かにそうだけど」
そうだとわかってはいても、どうにも違和感は拭えない。私が認識している以上に、早苗の問題もその解法も常識の枠から外れているのかもしれない。
「次にいくわよ。紫に犯行が不可能だとすると、他に怪しい容疑者は?」
「ん、あとは、豊聡耳神子とかいう奴も紫と似たような感じで、所構わず現れるんじゃなかったかな。それと霍青娥とかいう奴は壁を抜ける能力があるんじゃなかったっけ? 密室殺人に向いてると思う。それと」
私は少し言い淀む。すぐ目の前にいる人物を容疑者候補に挙げてしまうのは少し気が引ける。
視線に気付いたのか、咲夜がきょとんとした顔を向ける。
「私、ですか?」
「うん、まぁ……」
「確かに私なら密室殺人なんて雑作も無いです。お望みならば実演して見せますが」
「いや実演はいいから」
パチュリーはなるほどと小さく頷く。
「豊聡耳に青娥に咲夜ね、まずは霍青娥からいきましょうか。幻想郷縁起によるとこいつの壁抜けは柔らかい物には通じないらしいわね。だったら密室の壁も床も天井もゴムか何かで防いでやれば出入りできない、これで封じられる。次の豊聡耳神子だけど、こいつは知られている限り能力の制約は無さそうね」
いきなり暗礁に乗り上げてしまった。能力に制約が無いのなら容疑者候補から外すことはできないんじゃないだろうか。
「だったら豊聡耳神子には被害者になってもらいましょうか。被害者として殺されてしまえば、当たり前だけど容疑者になることなんてできないのだから」
ああ、その手があったか。確かにどれだけ密室殺人に有利な能力だとしても、被害者は犯人になることなんてできない。
つまりこの問題の被害者の役割は可哀想な亡骸だという意味以上に、容疑者を無条件に封じ込める、たった一度しか使えないワイルドカードだということ。
「残った咲夜は……今の所どうすることも出来ないわね。後で考えることにして他の条件を詰めていきましょう。とりあえず密室の条件付けを決めてやるのが考えやすそうね」
「密室の条件付け?」
「そう。完全な密室というのは部屋として成立しないから絵に描いた餅みたいなものなのよ。だから密室殺人を考える場合、どの程度の密室なのかということを想定する必要がある」
パチュリーの言っている意味がよくわからない。鍵がかかっていたりとかで誰にも出入りできないのが密室だと思うのだけれど。
「例えば人間の早苗が出入りできない密室があったとしても、ひょっとしたら鼠なら通れる隙間があるかもしれない。そんな条件の部屋なら珍しくもないわよね。鼠が出入りできるのなら命蓮寺の妖怪が鼠を操って殺人を犯すこともできるかもしれない。鼠で殺人はちょっと強引かもしれないけど、例えば鼠の代わりに蝙蝠になったレミィだとしたら……これなら殺人を犯しても不自然じゃ無いわね」
「つまり……早苗にとって密室だったとしても、他の奴には密室じゃない?」
「そうなるわね。そして密室であることを突き詰めていくと、出入りする対象としての部屋が存在しない唯の壁に行き着くわけ。それじゃあ被害者さえ居ることができないから本末転倒。どこかに落としどころを見つける必要がある」
これは相当厄介な問題に思えた。お姉様だけじゃなくもちろん私も、その気になれば蝙蝠になることができる。そして蝙蝠になってしまえば、ほんの小さな隙間だって難なく潜り抜けてしまえる。
とすると、私も有力な容疑者なんだろうか!?
「悩んでいても仕方ないわ。細かい条件付けは後回しとして、とりあえずはシンプルに出入り口の扉は一つ、窓は無し。鼠や蝙蝠の通れる隙間は存在しないってところかしら。後は順を追って絞り込んでいくしか無いわね。早苗が出入りできる要素も考えていかなきゃならないし」
「なるほど、わかりました」
そう言ったのは、さっきまで他人事のように澄ましていた早苗だった。
「では今のところの条件でどんな感じの事件になるのか、実際に事件が起こったと想定して予想してみることにましょう」
可笑しさを噛み殺すように、早苗は余裕の表情を浮かべていた。
思考実験 ――Ⅰ――
薄暗い廊下を私は歩いています。
ここが何処なのかはわかりません。私に分かるのはここがただ薄暗くて肌寒い廊下であるという事だけです。
……わからないというのは正しくなく、ここが何処なのかは未定。つまり今はまだ決まっていないということです。何処なのか決まっていないのなら、わかるはずもありません。
この廊下の先に密室があり、私はそこで豊聡耳神子さんを殺すことになります。それは既に決まっていることで、私も理解していることです。
彼女を殺す理由なんて無いし、殺したいわけでもないのですが。
でもそれが決まっていることなのだから、抗うことはできません。
神霊廟で神子さんと初めて会った時のことを思い出します。彼女は不思議な能力で私の資質を読み取り、戦う前なのに自身の負けを予見していました。
そんな彼女ならば、私に殺されることも予見して受け入れているのかもしれません。
実に不思議で、底の見えない人です。
人、と言ってしまっていいのか迷うところですけれど。
暖房の効いていない廊下は冬らしい寒さで、私は両手で腕をさすりながら早足で廊下を進みます。
廊下を進むうちに、扉の前へと辿り着きました。
これから殺害事件の現場となる密室の扉です。
それはただ扉でしかないのでした。扉だとしか形容できません。扉であるという事以外は未定なのですから。
深く息を吸い気持ちを落ち着けると、私は扉を開いて神子さんの待つ密室へと入ろうとしました。
「あれっ!?」
扉を開いたはずでした。しかし扉には手応えが無く、同時に開くこともできませんでした。
この部屋が密室だということは確かに決まっていること。しかしそれは私が神子さんを殺害した後の話であり、まだ神子さんを殺害していないのに密室で入れないのでは、どうしていいのかわからなくなってしまいます。
もう一度扉を開こうと試すと、先ほどまでのことが嘘のように扉は素直に開きました。まるで私の思考に反応したかのようです。
窓の無い密室は真っ暗で、灯りが無ければ中の様子を伺うことができません。そう考えた私は、ランタンを手にしていることにふと気付きます。先ほどまでは何も持っていなかった気もしますが考えても仕方ありません。
ランタンに火を点すと、部屋の様子が温かい光に照らし出されました。
部屋の大きさは未定。壁にも天井にも床にも、全面にゴム製の板が打ち付けられています。霍青娥さんの進入を防ぐ方策ですね。大量のゴムの板を運び込み、独りで黙々と打ち付けた記憶を唐突に思い出します。
しかし幻想郷で大量のゴムを不審がられずに入手することが、はたして可能なのでしょうか? 青娥さんの壁抜けを防ぐために柔らかい物で部屋を覆う必要があるのなら、幻想郷で入手の困難なゴムよりも布団のような物のほうがいいのではないでしょうか?
そんなことを考えていると、壁に打ち付けられていた物がゴム製の板ではなく布団だったことに気付きます。同時に大量の布団を打ち付けている記憶も蘇ります。
床にまで布団が打ち付けてあると、ちょっと歩きにくいですね。私は何かに躓き、危うくランタンを落としそうになります。
「危ないなぁ、一体何でしょう」
ランタンの光に照らし出されたそれを見て、私は言葉を失います。
それは神子さんの他殺死体でした。
どのような方法で殺害されたのかは未定。ただ間違いなく神子さんであること、そして間違いなく何者かに殺害された死体であることだけがわかりました。
「どういうこと……でしょう? 私が殺すはずの神子さんが……既に誰かに殺されているなんて」
緊張していた心が急速に混乱で上塗りされていきます。
私がここで神子さんを殺すことは決まっていることなはず。なのに神子さんは私が殺す前に、誰かに殺されている。これでは私は第一発見者にしかなれず、犯人になることができません。
決まっていることが崩れている。なにかの想定外が起こっているのでしょうか?
まるで私の疑問に答えるかのように、突如として目の前に霧が立ち籠め、やがてそれは一点に集まり幼い少女の姿を形作っていきます。
「いやいや、あんまり遅いんで待ちくたびれちゃったよ」
「あ……萃香さん」
千鳥足の小柄な鬼は、驚きの表情を浮かべる私を見て可笑しそうに嗤います。
ここは密室のはず、そう決まっているはずでした。現に私が来た時、この部屋は間違いなく密室でした。だのに私の目の前には萃香さんがいて、神子さんは既に殺されている。 明らかにおかしくて、そして予定外の状況でした。
「この部屋は密室なのになんで私がいるのか、そう考えてる? 生憎だけど私に言わせれば、こんなの密室でも何でもないよ。霧になってしまえば好きなように出入りできる」
「す、萃香さんが神子さんを殺したの……ですか?」
萃香さんは私の問いかけを聞き、ケラケラと声を上げて嗤うのでした。
「それは私じゃないよ。嘘を吐くのが嫌いだから密室殺人の犯人なんて私には務まらない」
「じゃ、じゃあ……」
萃香さんじゃないのなら一体誰が神子さんを殺したのでしょうか? 再び混乱する私の肩を何者かが突きます。
驚いて振り向くとそこには、桃色の入道雲が優しい笑顔を浮かべていました。
「雲山さん!」
雲山さんは力強く頷きます。霧になった萃香さんが出入りできるのなら、雲にだってこの部屋に出入りすることは可能でしょう。
「まあそういうことさ。残念ながら私は密室に入ることは出来ないのだけどね」
部屋の扉が開き一輪さんの声が聞こえてきました。
その声に私は尋ねます。
「それじゃあ、神子さんを殺したのは雲山さんなのですか」
「それは私には答えられない。なにしろ誰が神子を殺したのかは未定だからね。でも問題はそこじゃないってわかってるだろ? 密室なはずなのに萃香と雲山が部屋にいる、これはあんたじゃなくても犯行が可能だってことだ」
「そ、それは確かに」
「まあそれに私と雲山だけじゃないしね」
私は萃香さんの言葉に「えっ!?」と驚きの声を上げます。
視界の端に紅色の霧が漂うのが見えました、そんな気がしました。
慌ててランタンを向けると、紅い霧は人の姿に変化していきます。
「なんか……悪いね」
レミリアさんは気まずそうな表情で照れ笑いを浮かべていました。
確かに霧になれるのでしたら、萃香さんが出入りできるこの部屋に入ることも可能でしょう。というかもうどうでもいいです。自暴自棄な気分になってしまいます。
「ルナ姉急いで、こっちこっち」
「待ってよメルラン」
「どうもー、遅れてすみませーん」
やさぐれた所に駄目押しが来ました。布団を張り巡らした壁から頭が三つ生えてきます。
騒霊のプリズムリバー三姉妹でした。
ちゃんと密室で頑丈な壁もあって、おまけに布団まで打ち付けてあるのに、そんなこと意に介さずに彼女たちは部屋の中に入ってきました。幽霊なのだから仕方のないことです。
「えーっと殺すのには間に合わなかったけど、とりあえず一曲いかが?」
「……結構です!」
「あらあら残念ですね。こんなに誰も彼も現れてしまっては、とてもじゃないですけど私が犯人になることはできませんね」
「霧に雲に、あと幽霊かしら。また随分と賑やかな密室もあったものね」
皮肉めいた嗤いを零す早苗に、パチュリーも皮肉で返す。
霧や雲の出入りできない密室を想定したとすれば、それはつまり空気の出入りしない部屋と同じ意味になってしまう。
被害者はそれでも問題無いとしても、犯人である早苗は空気がなければ呼吸ができなくて、活動することができない。
それだけだったら、苦し紛れで空気を確保できる方法を思いつけばどうにかなるだろうけど、幽霊だけはどうすることも出来ない。
壁だろうが天井だろうが物理的な障害を一切無視して移動できるのだから、もう密室どころか部屋という概念すら意味を為さなくなってしまう。
もし早苗自身を殺して幽霊にしてしまうことができれば同じ条件を得ることはできるけど、でもそれは他の幽霊の犯行を不可能にすることには繋がらない。
そこまで考えて、私は「無理だ」という諦めの言葉を呟いた。そっとパチュリーの顔を伺うと、パチュリーも処置無しだとばかりに呆れた笑いを浮かべている。
「ナンセンスだわ。ここまで明確な齟齬が発生しているのなら、考え方か捉え方が間違っているはず。つまり正攻法で解ける問題ではないと受け止めるべきね」
言い終わるとパチュリーはゆっくりとした動作で紅茶に口を付け「さて、どうしたものかしら」と囁く。
その声はどこか嬉しそうに、私には聞こえた。
―― 15時50分
パチュリーは考え方か捉え方が間違っていると言ったけど、だからどうしたらいいのかはパチュリー自身にもわからないみたいで、考え込んでいるのか目を伏せて黙ってしまった。
早苗以外に犯行が不可能な条件を事件に与えていくという、それ自体は間違ってないと思うのだけれど、それだけじゃ何かが足りないのだろうか? でも私には、考えてもその足りない何かが少しもわからなかった。
わからないけれど、だからといって何もしなければ時間切れで私たちの負けとなってしまう。私は駄目で元々と幻想郷縁起を開いてヒントを探すことにした。
私が読み落としてしまうか読んでも忘れてしまった、なにか幽霊の弱点なんて見つかるのかもしれないし。
何冊も山と積まれた幻想郷縁起。その古ぼけたページを捲るたび、この幻想郷にはこんなにも沢山の妖怪たちがいるのだと私は驚く。
それらの殆どに私は会ったことがないのだけれど、一体どんな奴なのだろうと想像するだけで胸の中で好奇心が疼くのを感じる。
誰も一言も喋らず、私がページを繰る音だけが響いていた。
「ん?」
ぴたりとページを繰る手が止まった。
そこに書かれている内容を、私はよく読み返して十分に検討する。そして間違いが無いと確信して、パチュリーに声をかけた。
「わかったよ、パチュリー」
「……何が?」
パチュリーは眠そうな目を向ける。私は問題のページを開いて、幻想郷縁起をパチュリーに手渡した。
「早苗を犯人だと断定するには、事件のわからないことを想定する必要も密室の条件付けを探る必要も無かったのよ。こいつを連れてこれば」
幻想郷縁起に目を落とし、パチュリーは「なるほど」と呟いた。
そのページに書かれていたのは古明地さとり。地底に住む心を読む妖怪。
対象の意思に関係無く心を読み取ってしまうさとりの能力ならば。
心を読まれてしまっては嘘や誤魔化しで隠し事をするなんて出来っこない。
「さとりに早苗の心を読ませる、そうすれば」
「早苗が間違いなく密室殺人の犯人だと決定することができる!」
興奮を隠せない私に、パチュリーもやわらかく微笑む。
「あぁ、さとりさんですか」
そんな私たちとは対照的に、早苗はひどくやる気の無い声をあげた。
「確かにフランさんの考えるとおり、もしさとりさんが事件を解決するために私の心を読んだら、言い訳無用で即座に私が犯人だと看破されてしまうでしょうね」
「でしょ。じゃあ正解だよね?」
「さぁ、それはどうでしょうね……」
思考実験 ――Ⅱ――
「早苗、あなたが犯人だったのね」
長い沈黙の後に霊夢さんが囁いたのは、私を告発する言葉でした。
真っ直ぐな瞳は私を責めるのではなく、そこには疑念と哀れみの色が浮かんでいます。
霊夢さんの言うとおり確かに私が犯人です。それは決定していることなので間違いないし、今さら言い逃れする気もありません。
でも、だからといって素直に罪を認めてしまうのも、いささか盛り上がりに欠けるというものです。
「私が犯人? 霊夢さん、一体なにを根拠にそんなこと仰っているのですか」
「白を切ったって駄目。証拠があるの」
霊夢さんは静かに首を振り寂しそうな眼差しを私に向けます。
彼女の告げた証拠とやらがどのような物なのか、今の私には予想もつきません。
まるで私の疑念に答えるかのように、閉じられていた襖が音もなく開かれました。
襖の向こうに立っていたのは、桃色の髪をした小柄な少女でした。
「初めまして、古明地さとりと申します」
薄い表情で会釈をする少女の名前には心当たりがありました。地の底に住むというサトリの妖怪。人の心を読むという妖怪。噂に聞いたことはありますが、確かに会うのは初めてのことでした。
そして彼女が姿を現した意味も私にはわかっていました。心を読むということは嘘偽りない真実を晒すということです。
「彼女が証拠。あなたが犯人だって、さとりが証明してくれる」
凛とした態度で霊夢さんはそう告げます。
さとりさんは僅かに頷きました。
心を読まれてしまうのなら、もはやどんな抵抗も無駄でしかありません。
私は、自分が静かに笑っていることに気付きます。
「仰るとおり、今回の事件の犯人は私です。私がたった一人で行った犯行です」
「早苗……」
絞り出すような声で小さく私の名を呼ぶ霊夢さん。
私が犯人だということは予め決まっていたことです。彼女はその答えに辿り着いた、ただそれだけのこと。
私は霊夢さんの震える瞳を、静かに睨み返します。
「確かに私が犯人、それは相違ないことです。ですが霊夢さん、果たして私はどのような事件の犯人なのでしょうか」
「……えっ!?」
「一体私は、いつ、どこで、どのように、誰を殺したのでしょうか?」
霊夢さんの瞳が大きく見開かれます。
私の問いかけに彼女が答えられるはずありません。なにしろ密室殺人であるという事以外は全てが未定。今だ決められていないのですから。
困り果て、さとりさんに助けを請う霊夢さん。でもそれも無駄なこと。私の心を読んだところで、未定なものは未定でしかないのです。決定している私が犯人だということは読み取れても、それ以上の情報は欠片も得られません。
さとりさんは残念そうに首を振ることしかできませんでした。
「でっ、でも、早苗が犯人なのは間違いないんだし」
「それは認めます。罪を償えというのなら償います。でもせめて、どんな事件の犯人なのかぐらい教えて下さってもいいんじゃないんでしょうか」
「そ、それは……」
「教えてくれないのですか?」
霊夢さんは口籠もり、バツが悪そうにさとりさんと顔を見合わせると、拗ねたような口調で呟きます。
「どんな事件かは、わからないけど」
「それはおかしいですね。どんな事件なのかわからないのに、私は犯人として告発されないといけないんですか?」
「それは、その……」
霊夢さんには困惑した表情を浮かべることしかできないのでした。
「おやおや、犯人が私だと判明しましたが、これでは一体どんな事件なのかさっぱりわかりませんね」
「た、確かに」
「一応事件は解決してますけど、果たしてこんなのがミステリの作法に則った解答だと言えますかね。事件の概要もわからず探偵は碌すっぽ推理もせず、心の読める登場人物が犯人を捜し当てました。フランさんはそんな結末で満足でしょうか?」
早苗の言っていることは尤もだ。早苗が犯人だと看破され事件は解決しているけれど、これじゃ肝心の事件の内容がまるでわからない。
しかも心が読めるから問答無用で犯人を特定できただなんて。ノックスやヴァン・ダインの名を出すまでも無く、私でもフェアじゃないって断言できる。
もし私がそんなミステリを読んだら、なんだか無性に腹が立ってしまうと思う。
もちろんミステリの作法に則った解答じゃないし、そもそもこれじゃミステリですらない。
「気を取り直して、フラン」
パチュリーが優しく励ましてくれた。
優しいパチュリーなんて珍しい、なんて言ったら怒られちゃうかな。
「結果は不正解だったけど、ヒントを探し出して解答に結びつける、それは間違ったことじゃないわ」
「そうだね、うん」
パチュリーの言葉で少し元気が出てきた。
私は再び幻想郷縁起を開いて、なにかは判らない何かを見つけるためにページを捲っていった。
―― 16時00分
何を探せばいいのか判らない探し物なんて捗るはずもない。私は当てもなく幻想郷縁起を読み耽っていた。
いつまで続くかわからない静かな時間が流れていた。パチュリーは考え込んでいるし小悪魔は下を向いて落ち込んでいる。いつもの元気な小悪魔との違いが痛々しい。何としても助けてあげないと。
早苗は我関せずと静かに紅茶を愉しんでいる。ときどき思い出したように私やパチュリーをニヤニヤ眺めるのが小憎らしい。
「フランドール様、お茶のお代わりはいかがですか」
「ん、お願い」
咲夜は時折、みんなの所を廻ってはお茶のお代わりを注いでくれる。小悪魔を賭けた勝負の審判を押しつけられてしまって落ち着かないのかもしれないけど、表情からそれが見えることはない。
「なにか、わかりましたでしょうか」
お茶のお代わりを置いて咲夜がさり気なく訊いてきた。
「それらしいことは、なんにも……問題と関係なさそうなことはいろいろわかったけど。たまには幻想郷縁起を読み直すのも悪くは無いもんだね」
「関係なさそうなことですか。たとえばどんな事で」
自傷気味にいった言葉だったけど、咲夜は興味を示したようだった。
「たとえば、えーと……人間の里のことは興味深いかな。ほら、私は殆どあそこには行かないから。咲夜はよく行くんでしょ」
「そうですね。細々とした物を買い求めるには便利ですし、お嬢様に言い付けられて行くことも多いですね」
「私さぁ、なんであそこの人間が暢気に暮らしてるのか、ちょっと不思議だったのよ。だって人間なんだから妖怪に敵いっこないじゃん。ひょっとしたらある日、妖怪が大勢で来て里を無茶苦茶にしちゃうかもしれない。でも人間たちはそんなの心配せずに暢気に暮らしてる。いくら霊夢たちが妖怪を退治するからって、死んじゃったら後の祭りなのに。……でもちゃんとカラクリがあったの」
幻想郷縁起を開いて咲夜に見せる。
「ほら、ここ。
『何故、人間の里は襲われる事が無いのかと言うと、実は妖怪の賢者によって保護されているのである』
ってちゃんと書いてある。だから人間も暢気に暮らせるってわけなのね」
「なるほど、ええ私もそんなことを聞いた覚えがあります」
咲夜にとっては当たり前に知っていることかもしれないけど、私に気を遣ってくれてるのか、初めて知ったかのように驚いてくれる。
ふと目を上げると、パチュリーが怖いくらい真剣な表情で私を見つめていた。
「えっ、な……なに?」
「それよフラン」
「そ、それって?」
「早苗の問題を解く鍵よ。人間の里だったのよ!」
―― 16時05分
パチュリーの言葉に、私は手元の幻想郷縁起に慌てて目を走らせた。
そこには人間の里で暴れる妖怪はほとんど居ないこと、人間は安全な生活を送れること、妖怪の賢者によって護られていること、里より外に出ない限りは大きな被害を受けることは無いこと、などが書かれていた。
この中に早苗の問題を解く鍵が隠されているのだろうか?
「密室殺人の犯行現場を人間の里の中とする。そして被害者を人間だったとする。もし、この二つの条件を揃えることができたら……どうなるかわかるわよね」
「つまり」
幻想郷縁起のページは暗に『妖怪は人間の里の中で人間を襲うことができない』ことを示唆している。
つまり、もし被害者が人間だった場合……。
「妖怪は里の中では人間を襲えない、つまり全ての妖怪を容疑者から外すことができる、ってこと!?」
「ええ、そうよ」
妖怪は里の中では人間を襲えない、もしそれが本当なのだとしたら。
どんなインチキな能力を持った者であっても、被害者が人間である限りそれを殺害することができない。つまり被害者が人間であれば、同時に犯人も人間に限られてくる!
「でもどうでしょう。妖怪の賢者に保護されているとは言いましても、要は紫さんに犯行が発覚しなければいいのではないでしょうか? ひょっとしたら紫さんの目を誤魔化すために密室殺人にしたとも考えられますし」
ふと口をついたかのような咲夜の疑問だった。パチュリーはそれに小さく首を振って答える。
「咲夜も里の様子はよく知ってると思うけど、里では人間と妖怪は打ち解けて、和気藹々と酒を酌み交わす光景も珍しくない。
もしあなたが何の力も持たないただの人間だったとしたら、明らかに自分よりも強力な力を持っている上に自分を襲う可能性が少しでもあるような相手に、気を許して打ち解けることができるかしら? いくら紫が保護していると公言したとしても、万に一つの不幸が起きないと信じられるかしら?」
「それは……」
「つまりね、里の中では妖怪は人間を襲わない約束になっている、では人間は信用しない筈なの。いざ襲われてから紫が駆けつけても後の祭りでしょうし。里の中では妖怪は人間を襲えない、襲おうとしても襲うことができない。そうなって初めて、人間は妖怪を信用して打ち解けることができる。一体どんな方法なのかはわからないけど、特殊な結界なのか、あるいはレミィのように契約で縛られているのか」
パチュリーの口から出た契約という言葉。それは私もよく知っていた。
私たち姉妹よりも先に住んでいた吸血鬼と、妖怪の賢者との間で結ばれた契約。その契約の影響で、私たち姉妹は人間を襲うことができない。本人が結んだ覚えの無い契約に縛られているという、なんとも理不尽な状況。
そんな例がある以上、妖怪たちに身に覚えの無い契約がいつのまにか結ばれていて、妖怪たちがそれに縛られていたとしても、決しておかしな話じゃない。
「そして恐らく、人間を襲えないのは妖怪だけに留まらず、妖精や神にも影響しているんでしょうね。そうでなければ、何かしらかの対策が講じられていないとおかしいはず……」
仮に契約があったとして、その適応を妖怪のみとして妖精や神は野放しでは、そんなのは意味が無い。妖怪を縛ることができるのなら妖精や神も縛れると捉えたほうが理に適っている。そして幽霊も例外じゃないだろう。
「あ、でも、それでしたら地底の可能性も」
「……地底?」
咲夜の思いつきにパチュリーは怪訝な目を向ける。
「ほら、地上の妖怪は地底に入ってはいけないって約束事があるそうですよね。もし犯行現場が地底ならば、人間の里と同じように容疑者は人間か地底の妖怪に絞られるのではないでしょうか」
「なるほど」
パチュリーは暫く考えに耽っていたが、すぐに咲夜の閃きを否定した。
「犯行現場が地底だとしても地上の妖怪に犯行は可能よ。後先を考えなければだけどね」
「そうなんですか?」
「地底で起きた異変の発端を思い出してみて。洩矢諏訪子と八坂神奈子の二柱は、八雲紫にも古明地さとりにも気付かれることなく地底の最深部まで辿り着いているのよ。地上の妖怪は地底に入ってはいけない約束になっている。でもそれは約束でしかなく強制力があるわけではないの。もちろん発覚すれば揉め事になるでしょうけど。
つまり地上の妖怪が地底に行って密室殺人を行うのは不可能ではない。だとしたら条件は地上と殆ど変わらないわね」
「あぁ、確かに」
「残念だけど。でも犯行現場が地底じゃないと確定できたのは大きいわ。恐らく犯行現場は人間の里、被害者は人間。地底が候補じゃ無いのなら、きっとこの線で進めて問題無いはず」
早苗以外に犯行が不可能で早苗にだけ犯行可能。この到底無理だと思えた条件が、急に現実味を帯びてきた。
―― 16時10分
私たちの推理を素知らぬ顔で眺めていた早苗が、急に「こほん」と咳払いをしていた。
「えー、咲夜さん。あなた確か公平な立場の審判でしたよね」
「はい、そう承りましたが」
「でしたら今のは何ですか? 明らかにパチュリーさんに肩入れして助言をしてたじゃないですか! 困りますねそんなことじゃ」
早苗の剣幕に咲夜は「申し訳ありません」と穏やかに詫びる。長いこと一緒に生活している私にはわかるけど、あれは咲夜に謝る気が無いときの、適当に受け流すときの言い方だ。
だから咲夜が怒られたことは気にしないけど、それでも早苗の態度には少し苛立った。
図書館の手伝いをしている時は、ちょっと変わったところもあるけど明るく元気でいい奴だと思ってた。でも推理合戦が始まってからの早苗は、大袈裟に言えばまるで別人になってしまったみたい。
でも苛立ちはするけど、憎いと思えるほどじゃないし、何だろう? なんだか演劇の悪役を見ているような、不思議な気持ち。
「……話は済んだかしら?」
「ええ、どうぞ続けてください」
パチュリーの呟きで我に返る。早苗のことより今は事件に集中しないと。
「整理するわね。密室殺人の犯行現場を人間の里と断定して、同時に被害者には人間を当てはめる。この二つの条件を満たすことにより、犯人も人間に限定されることになる」
犯人が人間に限定される、そのメリットは大きい。
妖怪や妖精、神や幽霊は、密室殺人を行うという条件に対して、明らかに早苗を上回る能力を発揮する連中ばかりだ。というか早苗の能力は密室殺人には向かない。普通の人間よりは僅かにマシ程度で、それもほんの僅かなのだから正直、普通の人間と大差無い。
そんな圧倒的に不利な状況でそれでも早苗を犯人にするには、無限とも思える早苗以外の犯行の可能性をひとつひとつ潰す必要がある。それが現実的に達成可能なのか私にはわからないけど、制限時間内ではほぼ不可能だと思う。
でも、もし犯人が人間に限定されるのなら、早苗が犯人になれる可能性はぐっと高くなる。
早苗以外の人間に犯行が不可能な事件にすれば早苗が犯人となる。普通の人間と大差無いといっても、それでもちょっとだけは早苗のほうが密室殺人に有利なのだから、能力を持たない普通の人間のことは考えなくてもいい。
「つまり、容疑者候補を特別な能力を持った人間に絞りこんで、その容疑者候補の誰にも犯行ができない事件とする。その上で早苗にだけは犯行可能な事件としなきゃいけないけど……まぁ何とかなるでしょう」
私は特別な能力を持った人間の中から密室殺人が行えそうな奴をリストアップしていく。一瞬で終わる作業だからパチュリーと手分けする必要も無い。
見た物を忘れなかったり物の名前がわかったりなどは密室殺人とは関係無い。除外しても大丈夫。
「二人ほど厄介なのがいるわね」
リストに挙げられたのは霧雨魔理沙、博麗霊夢、そして十六夜咲夜の三名だった。
「霊夢は確か、瞬間移動するのよね」
お姉様から聞かされたことがある。
前にお姉様が咲夜を連れて、終わらない夜の異変解決に乗りだした時のこと。
竹林で出くわした霊夢はあちらこちらと瞬間移動を繰り返しながら飛びまわり、お姉様たちを苦戦させたらしい。
……なぜか自慢げだったのは癪に障ったけど。
とにかく瞬間移動ができるんだったら、密室殺人だってきっと楽勝だろう。
「霊夢はたしかに厄介だけど、少し興味深い話があるの。どうやらあの子、自分が瞬間移動していることに気付いていない、つまり無自覚に瞬間移動をしているらしいの」
そう言ってパチュリーが示したのは、射命丸文が幻想郷住人へのインタビューを纏めたダブルスポイラーという名前の本。
開いたページにはパチュリーが説明したとおりの内容が書かれていた。
「瞬間移動がもし無自覚なものだとしたら、計画的な密室殺人には利用できないはず。勿論、瞬間移動をできるという事実だけでも重大なアドバンテージになるから容疑者候補なことには変わりないけど、とりあえず後回しでもいいんじゃないかしら」
「なるほど、そうすると後は……咲夜か」
咲夜本人も認めたように、時間を止められる咲夜にとって密室殺人なんて簡単なものだ。
被害者を殺害した後そのまま部屋に留まって、第一発見者が部屋に入った瞬間に時間を止めて逃げてしまえばいい。複雑な仕掛けも準備も一切必要無い。
「これ、どう条件付けしても犯行が不可能にならないんだけど」
「そうね」
「そうですか……申し訳ありません」
咲夜は済まなさそうに頭を垂れる。
「どう条件付けしても駄目なら咲夜を被害者にするしか無いわね。それだったら確実に咲夜を容疑者から外すことができる」
「うーん、それしか無いかぁ」
「それしか無いですか」
そわそわと落ち着き無く、咲夜は私とパチュリーを交互に見る。その目は僅かだけれど怯えていた。
私はパチュリーと顔を見合わせ、肩を竦めて首を振る。パチュリーも呆れているみたいだった。
「じゃあ悪いけど咲夜、被害者お願いね」
「はい、畏まりました」
姿勢を正して目礼する咲夜には、なんでだか決意のようなものが漲っていた。
―― 16時20分
「咲夜が被害者と決まったのだから、あとは霊夢をどう弾くか。それが出来れば終わりが見えてくるはず」
霊夢を容疑者から外すには、つまり霊夢には犯行不可能な状況を事件に設定してやればいい。
犯行の日時で霊夢の行動を縛るのは難しそうだし、犯行場所も人間の里だから霊夢を縛れない。そうすると自動的に犯行方法で縛ることとなる。
「早苗にはできて霊夢にはできない。そんな犯行方法が設定できれば早苗が犯人だと確定できるわね」
「あ、じゃあさぁ」
私は咄嗟の思いつきをパチュリーに言う。
「霊夢って確か左利きなのよ。だから咲夜を殺す時に、咲夜から見て左側から殴り殺されていたら、霊夢にはできないってなるんじゃない」
「それは向かい合った状態からでしょうか?」
「まぁそうなるね」
咲夜は私の思いつきに怪訝な顔をする。
「それは無理ですね。向かい合った状態で殴りかかられたら時間を止めて逃げますから」
「あーそうか。じゃあ襲うのは背後から。咲夜から見ると右側になるかな」
「それなら油断していれば殴られてしまうかもしれませんが、もし一撃で私が死ななかったら、やっぱり時間を止めて逃げるか反撃しますけど」
咲夜自身の反論で私の思いつきは的外れだとわかったけれど、それにパチュリーが追い打ちをかける。
「霊夢の利き腕を論点にするのなら、片腕で扱えてなおかつ咲夜を一撃で殺せる凶器が必要になってくる。そんな都合のいい武器があるかしら」
時間を止められる咲夜を殺すには、一撃でとどめを刺さなければならない。もし殺し損ねたら咲夜は逃げるか反撃するか。どちらにしても密室殺人の成立は難しくなる。
霊夢の問題を考えるよりも、まず咲夜を殺すことを考えないと。
「じゃあさぁ、殴るんじゃなくて首を絞めて殺すのはどう? ほら河童の発明品で姿を消す道具があるって聞いたことあるけど。早苗はそれを借りてきて、姿を消して咲夜の首を絞める。そうすればきっと時間を止めても逃げられないし、姿を消せるのなら発見者が現れた時にそのまま密室から逃げることもできるよね」
「姿が見えないのですか。それは流石に殺されてしまうかもしれません」
咲夜を殺せるし密室も作れるし、非の打ち所の無いアイディアだと思った。
でもパチュリーは「駄目ね」と呟いて小さく首を振る。
「河童の道具を使ってしまうと早苗が犯人になる条件が満たせないわ。その道具さえ入手できれば早苗以外にも犯行が可能となってしまうでしょ? それこそ魔理沙でも可能だし阿求にだって可能でしょうね」
「うーん、じゃあその道具が早苗にしか入手できなかったとしたら」
「フランドールさま、それでも駄目です」
流石に強引かと思ったけれど、今度はパチュリーじゃなく咲夜から反論が来た。
「姿を消して首を絞められれば、確かに私でも逃げることは難しいかと思います。しかし首を絞められているということは相手が至近距離にいるということ。だったらたとえ姿が見えなくても反撃はできます。私は常にナイフを身につけていますし、まして時を止めたのなら、やりたい放題でしょう。命に関わるような怪我を負わせて時間を再び動かせば、首を絞めている場合じゃないでしょうし、解放してくれるのではないでしょうか」
上品な笑顔のまま物騒なことを言い出す咲夜。それを眺めていたパチュリーはやれやれと溜息を吐いた。
霊夢に犯行が不可能かどうかに関係無なく、まず咲夜を殺す方法が見つからない。
どうにかなると軽く見てたけど、人間相手だと咲夜がここまで死んでくれないものだなんて。
なにか、まだなにか見落としがあるのだろうか? なにか足りないのだろうか?
「発想の転換が必要なのかもしれないわね」
パチュリーは小さく呟いて、それっきり黙り込んでしまった。
―― 16時30分
「残り時間、あと30分を切りました」
そう告げる咲夜に、私は思わず「えー」と不満の声で返してしまった。
もうそんな時間だなんて。思ってたよりずっと時間の進みが速い。焦るのは失敗の元だけど、でもあまり悠長に構えている余裕も無さそう。
何にせよ、とにかく今は考えないと。
発想の転換が必要とは言うものの、推理合戦が始まってから今まで、転換の連続だったんじゃないかと思う。
むしろ真っ直ぐな思考のほうが珍しいくらいで、ぐるんぐるんと転ばせて転ばせすぎて、なんだか訳がわからなくなりそうだ。
この上まだ発想の転換だなんて、問題が捻くれすぎてると思う。
その問題を作ったひねくれ者は私と目が合うと、にんまりと意地悪な笑いを浮かべてくる。
……ちょっとイラッときた。
私は冷静に、冷静に、と心で念じながら問題の書かれた便箋を再検討してみる。わけがわからない時は一度スタート地点に立ち返ってみるのが効果的だ。たしかパチュリーがそう言ってた。
幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
殺害した犯人は東風谷早苗でした。
今でこそ問題の意図もなんとなく理解できるけど、最初はとにかく訳がわからなかった。 パチュリーの推理したとおり、条件を付け加えることにより犯人を早苗に限定する。その考え方は間違っていないと思う。
でも、ひょっとして問題文になにか別の捉え方があったりはしないだろうか?
何か重要なヒントが隠されていたりとか。
「ふむ……」
もう一度注意深く問題文を読み直す。注意深かろうが無かろうが、すぐに読み終わってしまう。素直に読めば、密室殺人が起こって犯人が早苗だったと読み取れるけど、隠された意味を行間に求めたとしても、密室殺人の犯人が早苗だった以外の解釈は無理だと思う。
じゃあ、まぁそこは譲ろう。早苗は密室殺人を犯した。ここまでの私たちの推理だと相当難しいことだと思うけど、とにかく上手いことやってとりあえずは成功したんだろう。
動機は考えなくていいと早苗はいったけども、きっと殺したいほど憎い奴がいたのか、それともどうしても殺さなきゃいけない奴でもいたんだろう。なにしろ密室殺人なのだから。
……あれ?
なにか、おかしくない?
微かな違和感に、私はさっきまでの思考をもう一度よく考え直す。
殺したいほど憎い奴か、どうしても殺さなきゃいけない奴がいた。
だから密室殺人を犯した。
だから密室殺人を……あれ?
「ねぇ、なんで早苗は密室殺人を選んだのかなぁ」
「それはですね!」
よくぞ聞いてくれました。とばかりに早苗は密室の理由を捲し立てた。
「ミステリの魅力とは、不可能と思えた事柄が実は可能だったという驚きにあるのではないかと私は思うのです。もちろんこれに当てはまらない名作も数え切れないほど存在するのですが、やはり不可能犯罪こそがミステリの王道であると断言してもいいんじゃないかと。ならば不可能性を突き詰めた密室殺人こそが、ミステリの花形であると……」
「いやいやいや、そうじゃなくて」
放っておくと時間切れまで喋り続けそうだったので、適当なところで止めた。
「問題を考えた早苗の理由はそれでいいけど、じゃあ問題の中で実際に殺人を犯した、架空なほうの早苗はどうなの? だって殺す理由があったから殺人を犯したんだろうけど、だとしたら密室殺人なんて手間のかかることするのは普通じゃないよ。殺す理由がなくて事故だったとしたら、そもそも密室殺人になるのは無理だし」
「……知りませんよ、そんなの」
今度は短く答えて、早苗はそっぽを向いてしまった。
だとすると本当に、密室殺人には事件の中での理由なんてなくて、ただ純粋に問題としての必要性だけが理由なんだろうか。
「少し、その線で考えてみましょうか」
パチュリーは私をちらりと見つめて、そしてそっと目を閉じて、思考を巡らせながらも考察を話しはじめた。
「なぜ密室殺人が行われたのか、その理由は大きく二つのパターンに分けられるわね。ひとつは犯人に密室殺人を行う意思が無かったのだけれど、不可抗力で密室が形成されてしまった場合。もう一つは犯人に最初から密室殺人を行う意思があった場合。今回の問題がどちらに当てはまるかは断言できない。でも実のところ、前者の不可抗力を考えるには現時点で不確定要素が多すぎてまともな考察が成り立たないの。だからとりあえずは、後者に絞って考えてみましょう」
パチュリーは続ける。
「犯人に密室殺人を行う意思があったということは、言い換えれば密室に必要性があったということ。フランの言うように殺すことだけが目的なら密室なんて手間のかかる方法に拘る理由は無い。それでも密室に拘ったのだから、それは必要性があったことの裏返しとなるわ。
じゃあ密室である必要性とは何か? これも幾つかのパターンが想定できそうね。まずは犯人が容疑を逃れようとした場合。例えば遺体を自殺に偽装すれば密室であることが自殺の裏付けとなる。今回は他殺体であることが前提だからこれは不正解だけど。もしくは他の誰かを容疑者に仕立て上げようとしたのなら? 密室としてしまうのはベストとは言い難いけど、幻想郷でなら有り得るわね」
「じゃあつまり……架空の早苗が容疑を逃れるため、そのために密室殺人である必要があったってこと?」
「容疑を逃れることが目的だったと考えると、密室にしてしまうのは少し不自然。とりあえずそれは保留として、他のパターンも考えてみましょう。殺人を行うのに密室が必要だった場合。これも少し考えづらいわね。常識的に考えれば手間暇掛けて密室を作り出すよりも、普通に殺してしまったほうが遙かに……」
パチュリーはそこで言葉を止めて考え込む。なにかを思いついたんだろうか。
私はパチュリーの言おうとしていたことを思い返す。
常識的に考えれば手間暇掛けて密室を作り出すよりも、普通に殺してしまったほうが遙かに……簡単。
さっき私が思い当たった疑問と同じだ。
そこで言い淀んだということは、つまり、密室を作るよりも普通に殺すほうが簡単だとは言い切れない、ってことなんだろうか?
「もし例外中の例外として、被害者がどうやっても殺せない相手だったとしたら……」
パチュリーはじっと咲夜の顔を見つめる。
「そしてその相手を殺すために、そのために密室が必要だったのだとしたら……」
不敵な笑みを浮かべて、パチュリーは確信するようにゆっくりと頷いた。
「繋がったわ」
―― 16時40分
「咲夜を殺そうとしても時間を止めて逃げてしまう。ならどうすればいいか? 時間を止めても無駄な状況に追い込んでしまえばいい」
「時を止めても無駄な状況?」
「ええ。時間を止めても死を免れることができないような状況。早苗の能力と密室があれば、たぶんその状況を作り出すことができるの」
僅かだけれど高揚したパチュリーの言葉に、私ははっきりとした期待と興奮を覚える。
これはきっと、名探偵の最後の解決パートなんだ。
パチュリーは正解を見つけ出したんだ!
「密室の状況は窓が無く出入り口はひとつ。そして部屋の外へ繋がる通気口。もちろん人が出入りできない程度の小さいもの。その部屋に咲夜を入れたら扉を閉め、ここからが早苗の能力なんだけど……あなた自分の意思で風を起こすことができた筈よね?」
パチュリーに尋ねられて、早苗は訝しげに答える。
「まぁ、これでも一応風祝ですから」
「それはどのくらいの規模とどのくらいの時間まで、あなたの意のままにすることができるのかしら」
「規模が大きければ準備やら何やらで時間がかかるのですが、もし予め準備をすることができるなら……」
探るように目を細めて、早苗はパチュリーを見つめた。
「準備さえ万全ならば、如何様にでもできますが」
「だったら問題無いわね」
パチュリーは納得して頷く。
「咲夜の居る密室の外で、早苗は能力を使う。部屋の中から外の方向へ通気口に風を起こす。風というのはつまり空気の流れ。この状況を言い換えれば、部屋の空気を通気口から抜き取っていることになる。咲夜は人間なのだから空気が無ければ呼吸ができずに死んでしまう。つまり早苗が風を起こし続ければ、いずれ咲夜は死んでしまうということ。もちろん時間を止めても抜いた空気が戻ってくるわけじゃないから状況は変わらない」
「でもそれって、呼吸ができなくなったら入ってきた扉を開けて出ればいいだけなんじゃないかなぁ」
「条件が揃えば、扉から出ることは出来なくなる」
「ふぇっ、何で?」
驚いて変な声が出てしまった。
「フランは大気圧って知らないかしら? 簡単に言うと空気にも重さがあって、私たちはその重さを常に支えているの。
例えば紙風船があったとして、これに空気を吹き込めば丸く膨らむ。これは紙風船に吹き込んだ空気の重さが紙風船の外の空気を押しのけたから膨らむの。じゃあ今度は膨らんだ紙風船から空気を吸い出したとすると、紙風船は萎むわよね? 空気が無くなると外の空気の重さを支えられないから萎むわけ。その空気の重さが大気圧と呼ばれる力。
咲夜の入れられた密室も紙風船と同じなのよ。部屋の空気が抜けたら外の空気の重さがかかる、壁にも扉にも。だから咲夜が部屋の外に出ようと思ったら、扉にかかった空気の重さ以上の力をかけないと、扉は開かない」
その大気圧とかいう力のことは本で読んだことがあるかもしれないけど、よく覚えてない。
でも外の世界の、科学の話をしているんだってことは理解できた。
外の世界の科学は幻想郷とは比べものにならないほど進んでいて、私たちが知らないことや気付いてないことが知識として知れ渡っている。たしかパチュリーがそう言ってた。
その知識は殆どが本に纏められているので、幻想郷にもごく一部は流れ込んでくる。本なのだから辿り着く場所はこの図書館だ。
そしてその科学の知識は、私たちが知らなかったり気付いていないだけで、幻想郷の中にも外の世界と同じ仕組みで力は働いている。それを妖精の悪戯と呼ぶか大気圧と呼ぶかの違いなだけで。パチュリーがそう言ってた。
「空気の重さがかかるのはわかったけど、ただの空気なんだから咲夜ならひょいって開けちゃうんじゃないの?」
「そう、ただの空気。扉にはたぶん咲夜の体重の200倍ほどの重さしかかからないわね。咲夜が力持ちだったら、ひょいと開けられてしまうわ」
咲夜は時が止められるだけの、ただの非力な人間だ。自分の体重の200倍を押し返すだなんて、どんな手を使っても無理に決まってる。
「もしこの扉が部屋の中から外に開けるものだったとしたら、咲夜は自分の体重の200倍を押し戻さないと外へは出られない。きちんと計算すれば多分それ以上なんだろうけど、どちらにせよ考えなくても無理だってわかるわ」
思わず扉の向こうで200人の咲夜がひしめいているのを思い浮かべてしまった。
咲夜は不安そうに目を伏せている。
「最も空気が十分に抜ける前、つまり扉にあまり大きな力がかかっていない時なら易々と出られてしまう。念のために部屋の中に咲夜の興味を引く物を用意しておくべきね。それに気を取られているうちに逃げ出すことができなくなる。どうかしら?」
パチュリーが向き直ると、早苗は口の端を僅かにあげた。
「はたしてそんなに上手くいくでしょうかね……」
思考実験 ――Ⅲ――
早苗との待ち合わせは、私には見覚えの無い場所だった。
いや、見覚えが無いというのは違うな。
私にはそこが何処なのか、わからなかった。
初めて来た場所だからわからないという訳でもなくて、むしろもっと根本的な問題で、そもそもここが何処なのかは決まっていない、だからわからない。それが一番しっくり来る表現に思えた。
ひとつだけわかっていることがある。此処が人間の里だということ。
人間の里の、どこか。見覚えは無い。奇妙な話だ。
奇妙と言えば早苗との待ち合わせも奇妙だった。
どういった用件で彼女と待ち合わせをしているのか、私には覚えが無い。
いや、覚えが無いのではなく、決まっていないからわからない、か。
用件は決まっていなくても待ち合わせることは決まっている。この暗い廊下の先にある部屋で、早苗は待っていることだろう。
見覚えの無い場所なのにそんなことが確信できてしまうのも、奇妙だ。
「お待ちしておりました」
奇妙な確信に違わず、待ち合わせの部屋で待っていた早苗は私に笑顔を零す。
部屋の間取りはわからないのだけれど、窓が無いため暗かった。出入り口は先ほど入ってきた扉のみで、テーブルに置かれたランタンが部屋を微かに照らしている。
扉の上、天井の近くに小さな通気口が開けられていて、廊下の光が僅かに差し込んでいた。
「いらっしゃったばかりで恐縮なのですが、私は準備があるのでしばらく部屋を空けます。咲夜さんはどうぞ寛いでお待ち下さい」
何の準備なのかはわからなかったが、これも決まっていること。私が素直に従うと、早苗は扉を押し開き、笑顔を残して部屋を後にした。
一人残された私は手持ち無沙汰に部屋を眺める。寛いでいろと言われても、のんびり寛げる雰囲気だとは言い難かった。
形だけでもとソファーに腰掛けてテーブルに目を向ける。そこには、何だかよくわからないけど私の興味を引くものが置かれている。
私はそれを手に取り、いや、手に取れる物なのかすらわからないのだが、とにかく私の関心はテーブルの上のそれに向けられた。
どこかから風の吹き抜ける音が聞こえてきた。窓の無い部屋で扉が閉まっているのなら、通気口から聞こえてくるのだろう。考えてみれば屋内なのに風が吹いているのは不自然なのだが、テーブルの上のそれに心を奪われた私は、その不自然さに気付くことができない。
どれくらい、そうしていたのだろう。
時間も忘れ、テーブルの上のそれに夢中になっていた私は、ふと違和感を覚える。
なにかがおかしい。
はっきりと形容し難いそれは私の心を浸食し、焦燥させていく。
違和感が具体性を持つまで、そう時間はかからなかった。
「くっ」
扉の上の通気口を見る。風の吹く音が聞こえる。
風は、部屋の中から外に向かって吹いている。
それはつまり……この部屋の空気が外に吸い出されているということ。
気付いた途端に息苦しさを感じた。
何の目的なのかはわからない。だが、早苗が私を罠に填めようとしている、そう考えなければ説明が付かない。
いや、悠長に考えている場合じゃない。急いでこの部屋から出なければ。
扉を押し開こうと体重をかける。
だが、まるで巨人に押さえつけられているかのようで、扉は開くどころか一寸たりとも動かすことができない。
「かはっ……」
背後でランタンの蝋燭が消え、部屋は闇に包まれる。
呼吸ができず、肺の空気が絞り出される苦しみと共に、意識が朦朧としてきた。
時間を止めるか? いや、時間を止めても部屋に空気が無いことには変わりない。その場凌ぎにしかならないのなら無意味だ。
通気口からは廊下の光が漏れてきている。
悔しさが込み上げてきた。
唯一部屋の外へ繋がっているその出口は余りにも小さすぎて、頭すら通すことも難しそうだった。
息を吸えない苦しさに膝を付きそうになり、私は、ほとんど意識を失いながら、最後の力を振り絞り……
通気口の空間を操作して、思い切りそれを拡げた。
「げほっ、ごほっ」
転がるように部屋から飛び出し咳き込む私の目に、心の底から驚く早苗の顔が映った。
「脱出……できちゃいましたね」
「そうみたいね」
「なんだか申し訳ありません」
咲夜は気まずそうに頭を下げる。
私は内心、少しだけ安心していた。いくら架空の話の出来事だといっても、いつも世話をしてくれる咲夜が殺されてしまうのは気分がよくない。
しかしまぁ、時間操作の能力にばかり気を取られていて空間操作のことをすっかり忘れていた。
通気口に格子を付けたり通気口自体を極端に小さくしても、きっと無駄だろう。空間を自在にできるのなら、どんなに小さくても部屋の外へ繋がってさえいれば脱出できてしまう。
例えばそれが、雲や霧なら何とか通れるくらいの極端に小さい通路だとしても。
「これじゃあ、振りだしに戻ったも同じじゃない」
目の前がふっと真っ暗になった、そんな気分だった。散々と推理を進めてやっとゴールが見えたかと思ったら、ほとんどスタート間近の場所に辿り着いてしまうなんて。
童話かなにかで森の魔女に惑わされて、延々と同じところをぐるぐる彷徨わされてしまう。
まるでそんな話の中にいるかのようだ。
しかも残り時間はあと僅か。謎を解いて早苗に勝とうという、その気力が徐々に萎えていってしまう。
「もう無理なのかなぁ……」
「いいえ、まだよ」
諦めかけた私の耳に、パチュリーの自信に満ちた声が聞こえてきた。
「密室の空気を抜いて咲夜を殺す、確かに私の推理は間違っていたわ。それは素直に認めて反省するべき。……いいえ、そうじゃない。間違っていたのは推理に至る筋道であって、推理自体は間違ってはいない」
「推理は間違ってないって、でも……」
咲夜は空間を拡げて逃げてしまった。殺すことはできなかった。だったらそれは推理が間違っていたということなんじゃ?
「早苗には咲夜を殺すことができなかった。いえ、どうやってもきっと無理ね。でもそんなの問題にならないじゃない。問題を解くための条件は早苗を犯人にすることであって、咲夜を殺すことでは無いのだから」
ああ、確かにそうだ!
咲夜が密室殺人に適任すぎるから、咲夜を被害者にすることに固執してしまった。
でもそれは手段であって目的じゃない。そして、パチュリーの言うとおりだ。私たちは目的を見失いかけていた。
「まともに相手したらどうしても殺せない咲夜を殺すために密室が必要だった。この考えは確かに間違っていたわ。でも、密室から空気を抜くという方法は間違ってない。空気を抜くためには風を操れる能力が必要条件となってくる。つまり」
「早苗以外にこの犯行は不可能!」
「ええ、そうよ」
風を自在に操れる人間なんて、幻想郷には早苗しかいない。咲夜にも、もちろん霊夢や魔理沙にもそんなこと出来やしない。
山の天狗、たとえば射命丸や、もしくは早苗の神社の神様だったら風を操って同じ事ができるのかもしれない。しかしどちらも、人間の里で人間相手にそれを行うことができない。
つまり消去法で残った早苗にのみ、この犯行は可能だということになる。
「パチュリーさま」
ひどく落ち着いた声で、咲夜は伝える。
「残り時間、10分です」
―― 16時50分
「ありがとう。大丈夫、間に合うわ」
パチュリーの言葉に急かされるように、私は手帳の容疑者候補のページを探す。いや、そんなの見るまでもない。咲夜を選んでいけないのなら、残るのは霊夢と魔理沙だけだ。
残り時間が少ないのだから選択を誤ったら、きっと取り返しがつかない。霊夢か魔理沙か、被害者にするべきなのはどちらだろう?
……いや、違う。
私は手帳を閉じて目を上げる。パチュリーが大きく頷いた。
「被害者を能力のある人間から選んだのは彼女たちに犯行が不可能なように封じ込めたかったから。でも、もう早苗以外には犯行が不可能な条件が整っているのだから、能力のある人間を被害者にするのは、むしろ付け入る隙を与えるだけ」
パチュリーは早苗をじっと見つめる。
「だから被害者はただの人間じゃないといけない。能力も無く空さえも飛べない、ただ普通の人間。そして犯行現場は人間の里。犯行方法は風を操り通気口から空気を抜くという方法。これにより被害者は窒息死。犯人は早苗。――これが私たちの導き出した解答よ」
パチュリーの声が聞こえてなかったのか、早苗は無言で紅茶を飲んでいた。
一瞬、不気味な静寂の時間が訪れる。
やがて早苗は冷たい笑いを浮かべて、そっとカップを置く。
カップが立てたカシャという音が、やけに大きく響いた。
「残り時間から、これが最後のチャンスとなるでしょうけど、構いませんか」
「ええ、勿論よ」
「そうですか。ま、駄目だと言われても聞く耳持ちませんけどね……」
思考実験 ――Ⅳ――
約束していた時間より十分も早く被害者さんは待ち合わせ場所へやって来ました。
でもそれは私の予定通りでもありました。
私は被害者さんが約束よりも早くやってくると予想して、二十分前からこの部屋で待っていたのですから。もちろん全ての準備を終えて。
「ああ、お待ちしておりました」
私は被害者さんを笑顔で迎えると、部屋の中央にある椅子を勧めます。
「いらっしゃったばかりで恐縮なのですが、私は準備があるのでしばらく部屋を空けます。被害者さんはどうぞ寛いでお待ち下さい」
もちろんこれは部屋を出るための口実でしかありません。被害者さんは不思議そうな顔をしながらも特に疑うことなく、部屋から出ていく私を見送ります。
部屋を出てからは迅速に行動しなければなりません。私は扉がちゃんと閉まっていることを確認すると、廊下の隅に隠しておいた荷物を引き摺り出します。
扉と壁との間には僅かな隙間があります。これを塞がなければ空気が部屋に入ってしまいますので都合が悪いです。
外の世界なら粘着テープのような便利な道具があるので苦も無いのですが、幻想郷ではそうもいきません。
代用品として新聞紙を、にかわで貼り付けることにします。短時間ならば問題無いでしょう。
扉の密閉が終わると、あとは部屋の空気を抜くだけです。被害者さんは部屋のテーブルに置かれた何かに関心を寄せているはずですから、私の企みに気付くはずも無いでしょう。テーブルに置かれた物が何なのかは未定ですが。
「ベンティアドショットへーゼルナッツキャラメルエキストラホイップキャラメルソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノ――」
部屋の通気口をイメージし、祝詞をあげます。一瞬だけ風を起こすなどの些細な奇跡ならば心に思うだけで起こせるのですが、部屋の空気が抜けるまで風を起こし続けるような場合は、やはりそれなりに準備が必要となります。
今回は部屋の空気が抜けるまで、祝詞をあげ続けて精神を集中していなければなりません。
「アブラナシヤサイカラメマシニンニクスクナメ――」
通気口からは音を立てて風が吹き出していますが、部屋の中の状態は残念ながらわかりません。予想通りの結果を信じて風を起こし続けるしかないです。
どれくらいの時間そうしていたでしょう。
前触れも無く扉から「ドンッ!」という大きな音が聞こえてきました。きっと被害者さんが扉を破ろうと、殴ったか蹴ったかしたのでしょう。
万が一ということもあるので警戒するのですが、その音の後に変化は見られません。予想通りの結果なようです。
扉からはその後も断続的に音が聞こえてくるのですが、程なくしてそれも止んでしまいました。
それでも念のために十分ほど詠唱を続けましたが……恐らくもう大丈夫でしょう。
私は詠唱をやめると、にかわで貼った新聞紙を剥がして元通りにします。
そして被害者さんの死亡を確認するために、扉を開けて部屋の中に……。
「そこまでです!」
早苗の鋭い声が響いた。
「パチュリーさんたちの解答は問題文の二行目『遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました』を満たしていません。確かに私が祝詞をあげ、風を操っている間は部屋の密室状態を保つことができます。しかしそれは殺害時のことで、死体発見時に風を操っていなければ部屋は密室ではありません。
まさか第一発見者が現れるまで部屋の空気を抜き続けるなんてことしませんしね。部屋のすぐ外でそんな悠長なことしてたら、たちまち捕まってしまいます」
「待って! じゃ、じゃあ早苗は河童の道具で姿を隠して……」
「だから、そうじゃないでしょ」
まるで駄々っ子を諭すように、早苗は私に……
「人を殺しているんですから、殺し終えたら速やかに逃走するでしょ? なんでわざわざ危険を冒して第一発見者を待つのですか。そんなの何の必然性も無い行動です。不自然です」
悔しいけれど早苗の言うことは尤もだ。筋の通った主張だ。
私たちの解答は問題文の条件を満たせない。それは認めるしかない。
パチュリーは目を伏せて、ただ静かに座っていた。
まるで糸の切れた操り人形みたいに。
「条件を満たしていない以上、これは不正解だと判断せざるを得ません。ですよね咲夜さん」
「……はい、その通りです」
咲夜は、か細い声で答えた。
その言葉の意味は、考えなくてもわかる。私たちにはもう時間が残されていない。
きっと、あと1分か2分か。それが過ぎれば私たちの負けが確定し、小悪魔は早苗の物となってしまう。
テーブルの端で畏まっていた小悪魔が顔をあげた。その目はとても虚ろで弱々しくて、絶望と諦めに満ちていて、私の心まで押し潰されてしまいそう。
パチュリーも、咲夜も、小悪魔も、誰も一言も喋らず、重苦しい時間だけが淡々と過ぎていく。
……なんだろう。
なんなんだろう、これ。
私、こんなのが見たかったのかなぁ?
探偵の私は、明晰な頭脳を駆使して、不可解な事件の謎を華麗に解き明かす。絶望的な危機が迫っても閃きと分析で辛くも乗り越えて、そして最後はみんなに讃えられて大団円。
私の夢見ていたのはそんなのの筈だったんだけど。
そんな夢物語は小説の中だけの、都合のいい話だったのかなぁ。
探偵の力及ばず時間切れ。謎は解かれることなく人質は憐れ敵の手の内に。
……なに、この絵に描いたようなバッドエンド。
私、こんなの望んでないのに!
これが現実だから諦めろって、そういうことなの?
なんだか悲しくて悔しくて、顔が熱くなってきた。
だって私たち、けっこういい線いってたのよ。
そりゃ謎は解けなかったけど、きっとほんの少しだけ届かなかっただけで、もう殆ど解けたようなものだし。
パチュリーは凄かったし、私もこれでもがんばったと思う。
勝負なのだからルールには黙って従わないと。それは勿論わかってる。でも、それでも。
こんな終わり方なんて……。
気まずい沈黙が続く中、心配そうに見守っていた咲夜が手元に目を落とした。
咲夜は目を閉じて背筋を伸ばすと、一度だけ小さく頷いてから凛とした表情を向ける。
私もパチュリーも早苗も小悪魔も、咲夜が言おうとしている言葉を、静かに待っていた。
ただ待っていることしかできなかった。
「パチュリーさま、時間です」
―― 17時00分
終了を告げる咲夜の言葉は、テーブルに着いた私たちに重く響いた。
誰かの小さな、だけどとても悔しそうな呻き声が聞こえてきた。
私は驚いた。だって呻き声をあげているのはパチュリーだったのだから。パチュリーは唇をぎゅっと噛み締めて、恨みのこもった目で早苗を睨み付けている。
私だってもちろん悔しい。早苗の出した問題はもうほとんど解けかかっている、その手応えはあった。
だけどあと一歩、あとほんの少しだけが足りない。その僅かに届かないまま時間切れを迎えてしまうなんて。
勝ち負けはもう重要じゃない、あと少しなのに届かなかった、それがとても悔しい。
「ふふふっ、時間切れですか。呆気ない幕切れですね」
押し殺した嗤いを浮かべる早苗が、テーブルから身を乗り出す。
「勝負は私の勝ちですっ! 約束したとおり小悪魔さんは私が貰いますっ!! いいですね!?」
「いっ、嫌ぁぁぁぁぁ!」
芝居がかった早苗の宣言を聞き小悪魔が痛々しい悲鳴をあげた。パチュリーは唇を僅かに震わせて、射るように早苗を睨み付けている。
「さぁ、小悪魔さんは今日から私のものですからね。まずは神奈子さまと諏訪子さまに報告しないといけませんね」
「嫌っ、嫌ですそんなの嫌です。私はここに居たいんですっ。パチュリーさま助けてください!!」
「小悪魔さんと呼ぶのも何だか味気ないですね。東風谷小悪魔か洩矢小悪魔か、迷うところです」
「や、止めてくださいっ!」
「……好きにすればいいじゃない」
パチュリーの弱々しい声が響いた。
「勝負に負けた私に止める権限はないわ。東風谷小悪魔だろうが洩矢小悪魔だろうが好きにすればいいじゃない……」
「そんなぁ、パチュリーさまぁ」
縋るような小悪魔の視線にパチュリーは顔を伏せる。
小悪魔との別れが辛くないはずはない。私だって残念に思う。どうにかできるのなら止めたいのだけれど、勝負をして負けた私が異を唱えるのは潔くない。
それじゃあんまりにも無様すぎる。
パチュリーもきっと同じ気持ちなのだろう。
私は救いを求めて咲夜を見つめるけど、咲夜は弱々しく首を振るだけだった。
「さあっ、さっそく神社に帰ってお風呂を沸かしましょう! 温かいお風呂で洗いっこすれば、図書館でこき使われてたことなんてすぐに忘れてしまいますよ!」
早苗は立ち上がって、不気味な笑顔で小悪魔ににじり寄っていった。
そのまま早苗に抱きつかれた小悪魔は、必死の抵抗をするも、
それも虚しく……
「まっ、待ってください、まだです」
「なにがまだなんですか往生際が悪いですよ」
「まだっ、勝負は付いていないんです。まだ17時になっていませんっ!!」
小悪魔の叫びに早苗は動きを止めた。
「ほ、ほら、まだ16時50分です。勝負は付いていません、あと10分あります!」
早苗に向けられた小悪魔の腕時計の針は、確かに16時50分を指していた。
早苗はその文字盤を何度もよく確かめて、さらに自分の腕時計も確認する。
「あら本当ですね、まだ16時50分です。とすると……これはどういうことなんでしょうか」
「咲夜さんの時計が狂ってるんです、そうに違いありません!」
小悪魔の声に、私たちの視線は咲夜に向けられた。急に注目されて戸惑う咲夜だったけど、自分の懐中時計を確かめると落ち着いた声で
「……うっかりしていました。どうやら私の時計が狂っていたようですね。失礼いたしました」
と告げた。
どういうこと?
これってどういうことだろう?
まだ16時50分って、じゃあ、それってつまり。
「あと10分で正解を出せば、私たちの勝ちってこと?」
「恐らく、そうなりますね」
そう言いながらも咲夜は早苗の顔を窺った。審判の時計が狂っていただなんて想定してなかった事態のはずだから。咲夜が時間の猶予を認めたとしても、早苗がそれに同意しなければ勝負の正当性は保てない。
「むぅ、し、仕方がないですね。私の時計は16時50分なわけですし、咲夜さんが非を認めてしまってるんですから、残り10分を認めるしかありませんね。たった10分足掻いたところで正解が出るかは知りませんけど」
「じゃあまだチャンスがあるんだ! 聞いた、パチュリー?」
ゆっくりと息を吐くと、パチュリーは私に向けて呟いた。
「時間が無いわ、急ぐわよ」
―― 16時50分
メモを頼りに、私たちはもう一度ここまでの事件を検討してみる。
人間の里で窓の無い密室に人間を閉じ込め、早苗が空気を抜いて窒息させる。
事件現場が人間の里で被害者が人間なのだから、妖怪による犯行は不可能であり、必然的に犯人も人間ということになる。
幻想郷にいる人間の中で空気を抜くという殺害方法が可能なのは、風を操ることができる早苗一人に限られる。これにより咲夜や霊夢たちが犯人である可能性は消える。
早苗以外には犯行不可能で唯一早苗だけに犯行が可能、その条件を満たしてはいる。
ただ、死体発見時に現場が密室だった、この条件だけクリアすることができない。
「あと少しのところまでは来てるんだけどなぁ」
「あと少しだとしても正解ではないのだから意味が無いわ」
紅茶のお代わりに口を付けてパチュリーは続ける。
「でも、あと少しが埋まらないことには注目するべきね。これはきっと私たちの考え方が間違っている、間違っていながらもそのことに気がついていない、だからあと少しのところで推理が止まってしまうのね」
考え方が間違っていると言われても、事件の殆どの条件は早苗が犯人になるためには必要なことだ。少しでも違えれば早苗以外の人間に犯行が可能になってしまう危ういバランスにある。
事件の条件を動かすことができないのなら、それ以外のことに何か考え違いがあるのだろうか?
パチュリーは私の控えたメモに目を走らせる。間違いが無いかを確かめるようにページを繰るその手は、ある所でぴたりと止まった。
「これでしょうね……多分」
開いたページには『密室である理由』と書かれている。
確かこれは、密室殺人に有利な咲夜を被害者と仮定してて、私がふと、事件の中の早苗がなぜ密室に拘っているのかを疑問に思って。密室についての考察が切っ掛けになってパチュリーが『風を操り空気を抜く』という犯行方法を閃いたんだった。
「もう一度おさらいするわね。この時私は、密室が想定される二つのパターンを考察した。一つは犯人が意図しなかった偶発的なもの、もう一つは犯人が意図した必然性のあるもの。この二つのうち、私は後者を選び、密室は犯人にとって必然性のあるものと仮定した。事実、早苗にしかできない犯行を成立させるためには密室である必要があり、私の選択は正しかったのだと思い込んでしまった」
「でも密室じゃなかったら早苗が空気を抜くことができないんだから、そこは動かしちゃいけないんじゃ」
「必要条件である『遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました』が成立できていない。だからこの考えは間違い。早苗の犯行方法に一時的な密室が必要だったのは違いないのだけれど、それと密室とは切り離して考えなければいけなかったの。だけど私たちは密室に必然性があったという考えが捨てられず、それに拘ってしまった。これが私たちの間違い」
「じゃ、じゃあ、もしパチュリーの言うとおり密室に必然性があったってのが間違ってたとしたら……」
「密室は偶発的あるいは不可抗力的なもの、となるわね」
パチュリーの言葉を聞いて私は考え込む。
密室は偶発的なもので早苗の犯行とは切り離して考えなければいけない。
ということは、早苗が空気を抜いて被害者を殺害するという条件の中で、なにか偶発的な密室を成立させなければいけない、そうなるのだろうか?
それはとても難しい気がする。ましてや残りの時間は10分を切っているわけだし。
「密室のパターンを考察した時、私は偶発的なパターンを考察するには不確定要素が多すぎると考えた。あの時点ではそれで間違ってたわけじゃないけど、今は早苗の犯行方法を主軸として事件の概要はほぼ確定している。今の時点でなら意味の有る考察も成り立つはず」
事件の概要はほぼ確定している……。ミステリで言えば解決に必要な情報が全て出そろったようなものだろうか?
こんな時、ミステリに出てくる探偵たちならどう考えるんだろう?
私は目を閉じて考えを深めていく。
要素は犯人と被害者と、それと密室そのもの。でも密室の成立を考えるのだからこれはひとまず置いておく。
密室の特性が犯人の意図しなかったものだとしたら、犯人のことを考えても仕方がない。
だとしたら考えるべきは被害者に絞られる。被害者の行ったある行動が、犯人の意図に関わらず密室を成立してしまった、となるか。
「小悪魔、残り時間は!?」
「3分です!」
「くっ、間に合わないわね」
―― 16時57分
パチュリーと小悪魔の声が遠く聞こえる。
時間がほとんど無いのに、今の私は不思議なくらい落ち着いていた。
私は被害者の行動を想像する。早苗に誘いこまれたのは窓の無い暗い部屋。テーブルに置かれたランタンの明かりだけが頼りだ。
やがて早苗により部屋の空気が抜かれていく。空気が通気口から抜かれていることにはすぐに気付くだろう。通気口から洩れる光が眩しい。
異常に気付き部屋を出ようとしても、扉は重くて開かない。通気口は外へ繋がっているけど、高いところにあるので手が届かない。普段の私だったら飛べばいいんだけど、なんの能力も持たない人間の被害者は飛ぶことができない。
被害者ならどうするだろう? 通気口まで手が届けば少なくとも窒息は免れるか?
部屋を見回す。テーブルに載ったランタンが消えかかっている。
……テーブル。
「被害者はテーブルを扉の前へ移動させて、それを踏み台にして通気口まで上った。このテーブルが邪魔になって外からは扉が開かず、図らずとも密室となってしまった」
「駄目よ、テーブルで閉鎖するのなら内開きの扉でないと。この部屋の扉は外開き。内開きなら空気を抜かれても開くことができる」
扉の開く方向は失念していた。確かに外に開くのならテーブルで密室を作ることはできない。
考え方を少し変えよう。密室を作るにはどうすればいいか?
ミステリの密室問題で重要になってくるのは扉よりも鍵だ。私たちはこの問題で鍵のことは一切考えてこなかった。
もし被害者がなにかしらの理由で、内側から扉に鍵をかけたとしたら……密室は成立することになる。
被害者が鍵をかける理由、何だろう? 被害者は扉の外に出たいのだから自ら鍵をかけるだなんて行動としては不自然だ。
いや違う。被害者は助かりたい、つまり窒息を免れたいのであって、扉から外に出たいというのはそのための手段でしかない。
そして、鍵というのは錠前に限らない。たとえば……。
「扉の内側には閂があった。壁から扉に閂を通して、つまり施錠すると、閂は通気口の真下の位置にくる。被害者は閂に足をかけて通気口から頭を出そうとした」
「それよフラン! 通気口から頭を出そうとした被害者は、通気口まで届かなかったか通気口が小さすぎたか、とにかくあと少しのところで助からず窒息してしまう。……成立よ」
「あと1分!!」
ふと、意地悪に嗤う咲夜の顔が頭に浮かんだ。
「窒息は駄目っ!!」
窒息はたぶん罠だ。直感だから裏付けはできないけど。いや、そんなの後回しだ。
じゃあ窒息じゃないのなら……いや違う、早苗は窒息で殺すつもりだった。……だとしたら何故、閂を……ああ、そうか。そこまで計画に織り込んであるんだ。
……どんな計画? いや、そもそも何故!?
……早苗にどんなメリットが?
……そうか。それなら全部繋がる。
私はメモを掴むと開いたページを探しペンを走らせた。
パチュリーの言葉を思い起こす。
――空気にも重さがあって、私たちはその重さを常に支えているの。
もしその言葉が本当ならば……。いや、迷ってる暇なんて無い。
もう時間はギリギリだ。間に合うだろうか。
字が乱れることも構わず必死に解答を書き付け、テーブルに叩きつける。
叩きつけたその直後に、小悪魔が制限時間の終了を告げた。
―― 17時00分
――事件が起こったのは人里、被害者は空を飛べない人間。
――遺体のあった部屋は窓が無く外開きの扉がひとつ。扉の上に通気口が有り扉は閂で施錠されていた。
――被害者は後頭部を鈍器で殴られており、それが死因だった。
――通気口の近くの天井に被害者の血が大量に付着していた。
――犯人は早苗だった。
これが、早苗の問題に出した私の解答だった。
「ま、間に合った、よね?」
「時間ギリギリですが、まぁ良しとしましょう」
「じゃあ、私たちの勝ちってこと!?」
早苗はメモを手に取り、僅かに目を細めた。
「それはまだ早いですね、この解答が正解とは限りませんし」
メモに目を通した早苗は不敵な笑みを零す。
「泣いても笑ってもこれが最後となります、フランさんもパチュリーさんもその点はご了承ください。今更クレームを付けられても聞く気はありませんから」
少しだけ緊張していたけど、私はしっかりと頷いて早苗の次の言葉をじっと待っていた。
思考実験 ――Ⅴ――
「答え合わせですから、最後は霊夢さんに登場して頂いて、実際に事件を解決してもらいましょうか。霊夢さんが無事に解決できなかったら話にならないわけですから、わかりやすいかと思います」
まずは人間の里で他殺体が発見されるところからですね。発見者は誰でもいいです。発見時に部屋が密室であることだけが重要なのですから。
まぁそれで発見されました。密室殺人です。どうにも人間の犯行としては説明がつきません。じゃあ妖怪の仕業なのだろう。
ということで、慧音さんを通じて霊夢さんが呼ばれるわけです。
「殺人事件って、私、探偵じゃないんだけど」
「そう言うな。もし犯人が妖怪ならどのみち退治するのだから同じだろう」
「そりゃまぁそうだけど」
渋々ながらも慧音さんの依頼を受ける霊夢さんです。
犯行現場に向かいましょう。
まず部屋が密室だったのでそのままでは入れませんでした。ですので里の皆さんで力を合わせて扉を開いたようです。
「うわぁ、扉が粉々じゃない」
「内側から閂が掛けられてて開けられなかった。だから扉を壊すしかなかったんだ」
「え、内側から閂? 部屋の外からじゃあ閂は掛けられないわよね……それじゃあ犯人も中に居たんじゃないの?」
「その犯人が中に居なかったから妖怪の仕業だと言っている。だからお前を呼んだ。人の話を聞いてなかったのか」
「ああ、なるほど」
納得してくれたみたいですね。
扉が壊されてしまったのは残念ですが、仕方のないことでしょう。扉以外は綺麗に事件当時のまま保持されています。
部屋の大きさは適当でいいのですが八畳程度としておきましょうか。窓はもちろん有りません。
出入り口は壊された扉のみ。扉の上に小さな通気口があります。大きさはだいたい30c㎡ぐらいですかね。
閂は壁に取り付けられていて、扉の金具に通して施錠する形になります。
部屋にはテーブルとソファー、照明代わりのランタン、このあたりも今まで通りですね。 それで部屋の中央に被害者の死体があるわけです。
被害者は普通の人間であれば誰でも、それこそ阿求さんや霖之助さんでもいいのですが、とりあえず名も無き里の人間ということにしておきましょう。
被害者の死体は後頭部を潰されています。きっと即死でしょう。床も壁も大量の出血で血まみれですが、天井には特に沢山の血が飛び散っていて、なかなかに凄惨な光景です。
死体の傍らに大きな岩が落ちていて、これにも大量の血が付いています。これが凶器ですねきっと。
「扉に閂が掛かっていたのも不可解だが、もう一つ、この天井に飛び散った血がどうにも理解できん。死に至るほどの傷なのだから血が大量に出るのはわかるが、普通は天井まで飛び散るもんでもなかろう」
「うわっ……」
死体を見た霊夢さんは青ざめてしまい、腰が退けています。ちょっとショックが大きすぎたのでしょうか。
慧音さんの説明も耳に入っていないようです。
「どうした大丈夫か?」
「大丈夫……じゃないみたい。きもちわるい」
死体を見て怖じ気づいてしまうようでは、どうやら霊夢さんに探偵役は務まりそうもありませんね、やれやれです。
仕方がないので紫さんにでも解決してもらいましょう。
「呼んだかしら?」
「いや呼んでない」
「呼んでない? まぁいいわ。話は聞かせてもらいました。ずばり犯人は妖怪ではありません」
「妖怪じゃ無い?」
怪訝な顔を向ける慧音さんに、紫さんはニヤニヤ笑いで応えます。
「妖怪は人間の里では人間を襲うべからず。そのルールはあなたも知ってる筈じゃないのかしら? 被害者は人間ですよね。でしたら犯人は妖怪ではありません」
「しかし、人間では説明が付かない。被害者を殺して部屋の内側から閂を掛けて、なおかつ部屋から逃げるだなんて、人間にこんなこと出来るわけが無い」
「出来るわけが無くても出来ているのですから。ならば出来ると証明すればいいだけのことですわ」
訝しがる慧音さんに構わず、紫さんは部屋の状況を調べ始めます。
床、天井、扉、閂、通気口、凶器、死体と、次々に調べていきます。
特に天井に残された血痕は念入りに調べたようですね。
「ふーん、成る程ね。じゃあ霊夢、行きましょうか」
「ふぇ、何処に?」
「何処って犯人のところに決まってるじゃない」
流石は紫さんです。伊達に妖怪の賢者と呼ばれるわけではありませんね。
ということで、霊夢さんと慧音さんを引き連れて私の下を訪れるわけです。
「その密室殺人事件の犯人が私だと仰るのですか? 一体何を証拠に……」
「まぁ順を追って説明しますわ。しばらく口を噤んで聞いてて下さいな」
あなたが犯人ですと言われてあっさり認めてしまっては盛り上がりませんですものね。
程良く否認した後は、大人しく紫さんの解答を拝聴するとしましょう。
「どういう口実で被害者をあの部屋に呼びつけたのかはわからないのだけれど、それは問題ではないわね。とにかくあの部屋で被害者と落ち合ったあなたは、なにかしら理由を付けてしばらく待っているように言い残し、部屋から出ます。素直に待っているのもどうかと思うけど、まぁそれはいいわ。部屋から出たあなたは廊下で風を起こします。場所を通気口に絞り、部屋の中から外に向けて。風祝のあなたなら造作も無いことね。そして部屋の中から外に風が流れるということは、つまり部屋の空気が外に吸われるということ。すると、どうなるかしら?」
「どうなるって」
尋ねられた霊夢さんはしばらく考えます。
「部屋の空気が吸われたら、息ができなくなる?」
「そうね。じゃあ息ができなくなったら、霊夢ならどうするかしら」
「うーん、部屋の外には空気があるんだから、部屋から出ればいいんじゃない」
「部屋から出れば助かるわね。でも残念だけど、出られないのよ」
「出られない?」
霊夢さんは不思議そうな顔をします。
「霊夢にはよくわからないでしょうけど、空気にも重さがあるの。部屋の中にも外にも空気があれば釣り合っているから問題無いのだけれど、部屋の中だけ空気が減ってしまったら、部屋の外の空気の重さが扉にかかってしまうの。内側に引く扉だったら良かったんだけど、あの部屋の扉は外に開く扉だから、扉を開くには空気の重さよりも大きな力を掛けないといけないわね。霊夢の体重の200人分よりちょっと大きいぐらいかしら」
「200人分!?」
「そう200人分。それじゃあ扉を開くのは無理よね。じゃあ被害者はどうしたのか? だんだんと空気が減ってきて息が苦しくなってくる。でも扉からは出られない。一つだけの出口は手が届かないほど高いところにある通気口のみ。もしこれが被害者じゃなくて霊夢だったら問題無かったのよ、通気口まで飛べば済むのですもの。でも被害者は唯の人間なのだから飛ぶことができない。もちろん通気口までは届かない。追い詰められた被害者はね、扉に閂を掛けるの」
「閂を掛ける? 何故そんなことを」
「良く思いだしてみて。通気口は扉の上にあるの。そして閂は壁に付いてるけれども、これを扉に掛けて施錠すれば、当たり前だけど閂は扉の位置に来る。それはつまり通気口の下なわけね。手が届かないほどの高さにある通気口も、閂に足をかければ届くの。通気口は小さいけれど、がんばって頭と片腕までなら出すことができました。もう片方の腕を千切っちゃえば部屋から出られるのにね。まぁそれはともかくとして、これで被害者は窒息しないで済んだわけ」
「いやいや、ちょっと待て」
慧音さんが不服そうに声を上げます。
「被害者は窒息じゃなくて殴り殺されていたんだぞ。おまえも死体を確認しただろう」
「そんなに焦らなくても大丈夫、ちゃんともうすぐ死ぬから」
「いやしかし」
「じゃあ想像してご覧なさい。窒息を免れるために被害者は通気口から頭を出しています。廊下には早苗がいるわね。つまり早苗の目の前には無防備な被害者の後頭部があるってことじゃないかしら?」
「……あ!」
「あとは簡単よね。岩で殴って殺して、死体は部屋に押し戻す。風を止めてしまえば今度は逆に部屋の外から中へと空気が戻り始めるから、ちょっと蹴り飛ばしてやるくらいで死体も戻ってくれるでしょうね。凶器の岩も同じように通気口から部屋へ。もちろんさっき被害者が閂を掛けたから扉は外からは開かない。密室殺人の完成ね」
紫さんの推理を聞き入って、霊夢さんも慧音さんもまるで放心したかのように驚いています。
私としては最後の無駄な足掻きをしてみたいところ。
「なるほど、その推理が当たっていれば密室殺人が行えるということになりますね。しかしどうなのでしょう? それを私がやったという証拠はあるのでしょうか」
「現場が人間の里だということが証拠になります。被害者が人間なのですから妖怪には襲えません。人間で通気口に風を起こして空気を吸い出すなんて芸当ができるのは、あなたしか居ませんもの」
「その、部屋の空気を吸い出すだなんて推理が当たっていることを証明できるのですか?」
紫さんは、怖いくらいに優しい笑顔を浮かべ、静かに答えます。
「天井に血が飛び散っていたの。もし部屋の中で頭を殴ったのだとしたら、いくら何でも天井までは飛び散りませんわ。これは被害者が天井のすぐ近くで頭を殴られたということを意味します。つまり通気口のような所でね。
いえ、それだけでは天井の血痕の説明には不十分ね。被害者を殴って部屋に押し返したのはよかったんだけど、あなたが空気を抜いた所為で部屋の空気はとても少ない状態になってしまったの。だから被害者と部屋の空気とのバランスが著しく崩れた状態になってしまった。
つまりね、部屋に返された被害者は、自身の内側からの力で派手に血を撒き散らしてしまう。これが天井に残った血痕の正体。あなたにしか犯行ができなかったことの証拠。部屋の外の血痕を掃除することはできても、密室の中の血痕はどうすることもできなかったのね……詰めが甘いのよ、あなたも」
私はがっくりと膝を落として力なく笑います。こういう時どんな態度をとればいいのか迷うところですが、こんなところがオーソドックスでわかりやすくて、いいんじゃないでしょうか。
「ふふっ……流石ですね参りました。紫さんの仰るとおり私が犯人です」
見事に真相を看破されて、返す言葉もありません。
ようやくこれで、私が犯人であると証明されたわけです。
「フラン、質問いいかしら」
「ん、なに?」
パチュリーが小さく手を挙げた。
「さっき窒息は駄目って言ったけど、あれは何故?」
「うーん、ちょっと待って、考えを纏めるから」
きっとパチュリーが訊きたいのは窒息が駄目といった理由だけじゃなくて、そこから解答までの推論なんだろう。
でも、あの時はほとんど直感のようなものだったから、よく考えを整理しないと説明できそうにない。
「理由は二つ、いや三つあるかな」
「三つ?」
「順に説明するね。まず一つ目、窒息は咲夜にも犯行が可能だって思ったの」
「そうかしら? 部屋の空気を抜いたのなら被害者は首を絞めた跡の無い窒息死体になる。咲夜には不可能じゃないかしら」
「これは後から思いついたことなんだけど、部屋の出入りは通気口の空間を弄れば問題ないとして。えーっと、咲夜の能力って時間を止めることと空間を弄ることだって思っちゃうけど、それだけじゃないの。前にね、咲夜が造りたてのワインを一瞬でヴィンテージワインにしちゃったことがあるの。何でもワインの時間を早送りさせたらしいんだけど。
でもそれが出来ちゃうってことは、被害者の鼻と口を塞いで息ができなくさせて、そんで被害者の時間を早送りさせちゃえば。首は絞めてないから跡も残らないし、早苗が殺したのと同じ状態になると思う」
「……なるほど、それなら確かに咲夜にも犯行が可能になってしまうわね」
一瞬、パチュリーが驚きの表情を浮かべたような気がした。
「二つ目は、これは窒息が駄目な理由とは違うんだけど、なんで早苗は閂を取り外さなかったんだろう? って、それが不思議だったの」
「閂を取り外さなかったのが不思議? どういうことかしら」
「だって密室は偶発的にできてしまったわけだから、それって早苗は被害者を窒息させて殺そうとしてたわけでしょ。だとすると内側から掛けられる閂は犯行の邪魔にしかならないの。それを足場にして通気口から顔を出されたら、窒息で殺せなくなっちゃうわけだし」
もちろん閂を取り外してしまうと密室が成立しない。咲夜の後に被害者をただの人間と置き換えた、その時と同じ条件になってしまう。
しかし窒息で殺そうとしているのに、それを逃れることができる手段をわざわざ残しておくのはやはり不自然に思えた。
閂はわざと残してあった。そうとしか思えない。
「早苗は閂をわざと残しておいた。そう考えたら三つ目の理由が見えてきたの。閂をわざと残したのなら、密室ができたのも偶発的なものじゃなくて、早苗が最初から意図していたことってなる。だとすると、やっぱり早苗にとって密室は必要だったの」
「密室が必要? なぜ」
「わかっちゃえば簡単なんだけど、もし密室で人間が殴り殺されていたとしたら、誰も早苗がやったなんて思わないでしょ? 他にも幻想郷には密室殺人が得意そうな奴は山ほど居る。もし早苗が疑われるとしても最後の最後になる。それが密室が必要だった理由」
密室を成立させることにより、早苗は容疑者として疑われる可能性が極めて低くなる。
確かに密室を考えて準備するのは手間のかかることだけど、その対価としては十分以上のメリットがある。
真っ先に疑われるのは、やっぱり咲夜だろう。時を止めてしまえる咲夜は誰にもアリバイを証明してもらうことができない。残念なことに潔白を証明するためには、さとりに心を読んでもらうしかない。
「それに密室が偶発的なものだとすると、やっぱりおかしい点があるの。咲夜が相手だったのならともかく、なんで能力を持たない人間を殺すのにわざわざ部屋の空気を抜くなんて方法を選んだのか。普通に殺したほうが手っ取り早いんだから、それでも部屋の空気を抜いたんなら、それには理由があるはず。
もちろん窒息させたかったわけじゃない。首を絞めた跡の無い窒息死体なんて状態作っちゃったら早苗が優先的に疑われちゃう。早苗が欲しかったのは窒息じゃなくて密室だった。だから閂をわざと残した。被害者が窒息から逃れようと閂で密室を作るところまで、早苗の計画だったの。
えーとつまり、窒息で殺しちゃうと早苗が疑われてしまうから、それは早苗にとってメリットにならない。これが三つ目の理由」
「確かに……その考えなら全部説明がつきそうね」
パチュリーは優しく微笑む。
「それで、じゃあ窒息が駄目ならどうしようか。早苗にしかできない犯行っていう厄介な条件も満たさなきゃいけない。それでほとんど直感だったんだけど、早苗の犯行だった場合と咲夜の犯行だった場合で条件の違いがあるのかなぁって。そう考えたら部屋の空気の量くらいしか違いが無さそうだったんだけど、そこで急にパチュリーの言ったこと思い出して。ほら、あの、空気にも重さがあって私たちはその重さを常に支えている、ってやつ」
「ええ、そうね」
「じゃあ扉が開かなくなるほどの力と普段釣り合ってるのなら、私たちの体も中から外に凄い力がかかってるんじゃないかなって。それでその凄い力で血が噴き出すのを想像して」
私自身、空気の力のことはよくわかっていないので、上手く説明ができない。でもパチュリーは納得しているのか、小さく相槌を打つだけで特に訂正も反論も無い。
「自信は無かったけど、たぶん通気口の近くの天井にたくさん血が飛び散るだろうなって。床ならともかく天井にたくさんの血痕なんて、少し異常な状況。じゃあ咲夜がその状況を作れるかって考えたんだけど、やっぱり咲夜には出来ないと思う。霊夢や魔理沙にだって出来ない。おまけに早苗は被害者が作った密室を破れないから、天井の血痕を始末できないし、ひょっとしたら気付いてすらいないかもしれない。だから、これならいけるかなって」
時間が無かったから、本当にそこまでしっかりと考えていたのかは私にもわからない。
ただあの時は、これで大丈夫だという不思議な確信があった。
静かに私の話を聞いていたパチュリーは少し目を伏せると、柔らかく私に微笑んでくれた。
「その通りねフラン。見事な推理だったわ」
パチュリーにそんなことを言われると、嬉しいけれど照れてしまう。
「フランドールさま、審判として答え合わせをさせて頂きます」
「う、うん」
私の解答は出題の条件を満たしているはずだけど、早苗の用意している正解を見てみないと勝敗の判断はできない。
緑色の封筒を咲夜が開いていく。便箋を取り出すと素早く目を通し、それをテーブルに置いた。
「こちらになります」
人間の里で他殺死体が発見されました。
被害者は何の能力も持たない、空も飛べない普通の人間です。
被害者の遺体が発見された当時、部屋の唯一の出入り口となる扉は内側から閂で施錠されており、密室状態にありました。
閂は壁に設置されており、それを扉の金具に移動させることで施錠することができます。
扉は部屋の中から外に開く、開き戸と呼ばれる物でした。
部屋は八畳ほどの大きさで、天井の高さはおよそ3mです。
部屋に窓は無く、扉の上に位置する天井の付近に通気口があります。通気口の大きさは30c㎡程度と思われます。
被害者の死因は後頭部を強打されたことによる失血死だと見られます。
床、壁、そして天井に大量の血痕が残されていました。これらは被害者の血でした。
遺体の傍らには凶器とみられる大きな岩が落ちており、これにも被害者の血が付着しています。
被害者を殺害した犯人は東風谷早苗でした。
「細部の違いは見受けられますが、正解とみなして問題無いかと思われますが」
「はいはい、正解正解。私の負けですよ!」
早苗は肩を竦めてやれやれと首を振る。そんな仕草もユーモラスでどこか芝居がかって見える。
「それではこの勝負、パチュリーさまとフランドールさまの勝ちということで。おめでとうございますパチュリーさま、フランドールさま」
「パチュリーさまぁ!」
堪えきれないかのようにパチュリーに抱きつこうとする小悪魔だったが、パチュリーはそれを、ふわりと宙に浮いて躱した。
「少し疲れたわ、お風呂を用意して頂戴」
そしてパチュリーは続く言葉を、少しだけ言い淀んで、消え入るような囁きで言った。
「私一人じゃ髪が洗えない……だから、小悪魔も一緒に……」
「は、はいっ!」
嬉しそうな小悪魔の返事は図書館中に響くほどだった。
―― 17時20分
パチュリーと小悪魔、それと仕事で忙しい咲夜が去って、テーブルには早苗と私だけが残された。
ついさっきまで敵同士だったんだし、ちょっとだけ気まずい雰囲気。それは早苗も同じなのか、どこかそわそわしてるみたい。
「あの、フランさん」
「なに?」
恐る恐るといった感じで、早苗が話しかけてきた。
「さっきはフランさんにもパチュリーさんにも失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい。私、悪い癖なんですよね。やるからには真剣にやらなきゃって、変に気負って、のめり込んでしまって、悪役らしく振る舞わないといけないって。でも度が過ぎましたよね」
早苗はぎこちない照れ笑いを浮かべる。
「フランさんたちのこと馬鹿にするようなこと言ってしまいましたが、あれは本心じゃないです。むしろ次々と謎が解かれてしまって、本当に凄いって思っていたんですよ。……それだけは誤解しないでください」
「うん、大丈夫、気にしてないから」
そりゃ少しはイラッとしたけれど、でも何でだろう? 私は心のどこかで、早苗の言葉が本心から出たものじゃないって何故だかわかっていたような気がする。
それに、私はそんなことよりも、もっと他に言いたいことがあった。
「ねぇ、早苗」
「……なんです?」
「早苗の問題、難しかったけどすごく面白かったよ」
「そうですか、それは何より」
「よかったらまた遊びにきてよ。歓迎するから」
早苗は私の言葉を聞いて恥ずかしそうに顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。
そして
「か、考えておきます……」
と小声で言うのだった。
私はテーブルに残された、早苗の問題を手に取る。
――幻想郷のあるところで他殺死体が発見されました。
――遺体が発見された当時、現場は密室状態にありました。
――殺害した犯人は東風谷早苗でした。
複雑に絡み合った64文字は、抜け出すことの不可能な暗闇の迷路のように思えた。
でも、そこには本当にか細い、一本の道が隠されていた。
私とパチュリーはそれを探り当て、そして不可能と思えたものが可能になった。
それはまるで魔法のようなひとときだったと、私には思えた。
「魔法のようだなんて言ったら、パチュリーに怒られるかな」
私は誰にも聞かれないように呟いた。
そして便箋を水色の封筒にしまうと、それをポケットに仕舞った。
大切な宝物みたいに、丁寧に仕舞った。
そんなわけで、早苗の出題した奇妙奇天烈な謎はパチュリーと私によって無事に解かれたわけで、小悪魔は早苗に攫われてしまうことなく、いままで通りパチュリーの下で忙しなく図書館を飛びまわることとなった。
敗れてしまった早苗だけれど、その後パチュリーから(渋々ではあるけれども)「あれは言い過ぎだった。本気じゃないから許して欲しい」との謝罪が(そっぽを向きながらだったが)あり、彼女のミステリの尊厳も一応は守られたことになる。
図書館に平和な日常は戻り、私の密かな願望も果たすことができた。八方丸く収まってめでたしめでたし、となるところだけど……。
私には一つだけ、ただひとつだけ、どうしても納得できないことがあった。
―― 5月6日 13時10分
「やっぱりさぁ、絶対おかしいよ、ねぇ」
「……なにが?」
執務机に寄りかかり上目遣いで問いかける私に、パチュリーは面倒くさそうに返事をする。
面倒くさそうなのはいつものことなので気にしない。
「なにがって時計よ時計。なんであの時、小悪魔の時計は狂っていたのか」
「時計が狂っていたのは咲夜でしょ」
「だから、咲夜の時計が狂ってたなんてこと有り得ないのよ」
まずそこが納得のいかない点。
秒単位で館の仕事に追われている咲夜が、自分の時計の調整を怠るだなんてこと考えられない。毎朝きっちりと時計を合わせて、正確な時刻に従って仕事をこなしているはずだ。
その証拠にあの日早苗が出題をする前、咲夜は私の部屋を訪れて、いつもと同じようにお茶の用意をしてくれていた。
いつもと同じようにとは、いつもと同じ時刻にということで、具体的にそれは15時丁度のこと。
図書館には時計が無いけど私の部屋には時計があるから、この時刻に間違いはない。
15時の時点までは正しく時を刻んでいた咲夜の時計が2時間後の17時には10分も狂っていただなんて、そんなの信じられるはずがない。
「咲夜は自分の時計が狂っていたと認めたわ」
「だからそこがわからないのよ。なんで咲夜は時計が狂ってないのに狂ってたと認めたか」
「気になるんなら咲夜に訊けばいいじゃない」
「それじゃ駄目なんだって!」
きっと咲夜は咄嗟に何かを誤魔化したのだ。
何を誤魔化したのかは考えてもわからないのだけれど、一度誤魔化すと決めたのなら咲夜に訊いても無駄だ。適当にあしらわれるに決まっている。
それに、私自身が納得するためには自分で考えなければ駄目だ。
「じゃあ咲夜の時計が狂ってなかったのなら、小悪魔の時計が狂っていたのね。ついでに早苗の時計も狂ってたことになるかしら。丁度同じ10分」
パチュリーは呆れるように言った。
確かに咲夜の時計が狂っていないのだとすれば、小悪魔の時計と早苗の時計が偶然同じだけ狂っていたと、そうなってしまう。
もちろんそんな都合のいい偶然なんて起こるはずがない。これが小悪魔一人だけならまだ理解できる。
たまたま時計が狂っていて、たまたまそれが10分遅れるほうに狂っていて、たまたまそのことに時間切れのタイミングで気付いた。筋書きとしては相当苦しいが、無いとは言い切れない。
いや、考え方を変えて、前日に自分が人質となってしまうことを知った小悪魔が、保険の意味で時計を10分遅らせたとすれば。制限時間のことを小悪魔が予想できていないと整合性がとれないけど、たまたまで片付けるよりもはずっと現実味のある推理だ。
しかしどれだけ推論を積み重ねても、早苗の時計が同じだけ狂っていたことに説明がつかない。偶然だなんて有り得ないし、故意だとしたら早苗には時計を狂わせるメリットが無い。
「ねぇパチュリー、やっぱりおかしいでしょ」
「だから咲夜の時計が狂っていた、それで不思議は無くなるじゃない」
「咲夜の時計は狂ってないんだってば」
「じゃあ小悪魔に直接訊いてみれば?」
パチュリーはそう言うと、席を立ってふわりと飛び上がる。
「あれ、どうしたの」
「どうしたって、読み終わったから別の本を取りにいくのよ」
その言葉を聞いて、私は小悪魔がいないことに初めて気付いた。
「ねぇ、小悪魔は?」
「留守よ。行き先は訊いてない」
パチュリーは読み終わった本を抱えて、図書館の奥へゆっくり飛んでいく。
「お友達とのんびりお茶でも呑んでるんじゃないかしらね」
独り言のようなパチュリーの呟きは、私にはそんなふうに聞こえた。
―― 5月6日 13時20分
図書館を留守にした小悪魔の姿は、人間の里の外れの、とある茶屋にあった。
年季の入ったテーブルを挟んで向かい合うのは山の巫女、東風谷早苗。
期待の込もった視線の早苗に、小悪魔は大きめの封筒をうやうやしく差し出した。
「ご苦労様でした」
「いえいえ、それほどでも」
満面の笑みで小悪魔からの封筒を受け取った早苗は、はやる気持ちも抑えずに封を解き中身を確認する。
「うわぁ、これが」
溜息とともに歓喜の声をあげた。
それはヴォイニッチ手稿と呼ばれる奇書中の奇書。早苗のような好事家が一度は手にしたいと願うもそれが叶うことは万に一つも有り得ない。そんな稀覯本の中でも最も入手が困難な物であった。
なにしろこの世に一冊しかないそれはイェール大学に所蔵されている筈なのだから。
「魔法で生成した複製本ですけどね」
「ええそれはもう重々承知です。本物がこんなところにあったら世界中で大騒ぎになってしまいますから」
「あ、でもイェール大のもそれと同じ複製本ですから、早苗さんにとっては本物を手に入れたも同じなのかもしれませんね」
さらりと言ってのける小悪魔に、早苗は危うくお茶を吹きこぼすところだった。
「正真正銘の本物はうちにありますから、また暇な時にでもご覧になられますか」
「え、えぇ、またそのうち」
早苗は引き攣った笑顔を浮かべたまま、報酬の稀覯本を傍らの席に置いた。
そう、これは報酬であった。
小悪魔の依頼を受け、依頼を実行した早苗へ支払われる成功報酬。
早苗が小悪魔に声をかけられたのはおよそ一ヶ月前。依頼の内容は、パチュリーに推理合戦を挑んで欲しい。勝敗は問わないというもの。
推理合戦のための問題も、実際にパチュリーを誘い込むためのシナリオも、全て小悪魔が用意してくれた。早苗はただ自分の役をそれらしく演じればいい、それだけだった。
不可解な話ではあったが、夢にまで見た稀覯本を報酬に提示され、早苗はその依頼を快諾した。下準備として幻想郷の各地で社会勉強と称するアルバイトに励んだのも、小悪魔の指示であった。
全ては小悪魔の思惑通りに進んだのだと思う。しかし早苗にはひとつだけわからないことがある。それを訊いていいものかどうか、彼女は迷っていた。
「あの……」
「はい、なんでしょう」
小悪魔の依頼の意味、言い換えれば小悪魔はこの依頼で何を得たのか? それだけが早苗にはいくら考えてもわからなかった。
犯人は明確。犯行方法も明確。しかし動機だけが不明。
早苗は胸のもやもやを晴らすために、思い切って尋ねることにした。
「今回のこと、これなんの意味があったのでしょう」
「あぁ、なんだそんなことですか」
早苗の問いかけに小悪魔は晴れやかな笑顔を浮かべた。
「お気づきじゃなかったのですか……咲夜さんに時間切れを告げられた時の、パチュリーさまのお顔、早苗さんもご覧になったでしょう」
「え、えぇ」
絶望と悔しさと不甲斐なさと、それらの感情がない交ぜになったかのようなパチュリーの視線を早苗は直接受けた。忘れようと思っても忘れられるものではない。
「私はですね、あれが見たかったんですよ」
楽しげな小悪魔の表情には恍惚とした色が仄かに浮かんでいた。
「ほら、パチュリーさまっていつも蝋人形みたいに感情を表さないじゃないですか。そのパチュリーさまが地獄に叩き落とされるまさに寸前の、心の中を全て剥き出しにした悔しそうなあの顔……。ああ、思い出しただけで蕩けてしまいそうです」
小悪魔は幸せを噛み締めるかのように、なおも続ける。
「以前はパチュリーさまも少しは愚かでしたから、たまには私に素敵なお顔を見せてくれたんですよ。ミステリを好んで読むくせに解答が自分の思ったものと違ったら、インチキだのアンフェアだのご都合主義だのと難癖をつけて悔しそうな表情を見せてくれたものです。でもプライドが高すぎるのでしょうね。いつしかパチュリーさまは図書館からミステリを全て排除して、フランドールさまのお部屋に移してしまわれて、自身は一切ミステリを読まなくなってしまったんです。私としては実につまらないことで」
「そ、それだけのために……」
パチュリーを悔しがらせるため、そのためだけの計画だということなのだろうか?
早苗には理解できなかった。
その早苗の表情を見て、小悪魔はそっと溜息を漏らす。
「早苗さんにはわかりませんか。……しょせん人間風情には無理なのかもしれませんね」
「え!?」
「お忘れですか? こう見えても私、悪魔なんですよ」
薄ら笑いを浮かべるそれは、さっきまで目の前にいた少女とはまるで別の存在のように思えて、早苗は言い知れぬ恐怖がじわじわと込み上げてくるのを感じるのだった。
了
意外な発想とロジックを楽しむのがミステリの楽しみなのだとしたら
これはすごくよくできてるミステリだと思います
米(五穀豊穣ライスシャワー)でどこかに生き埋めて殺すとか、モーゼで割った水の底に密室を沈めるとか、変な選択肢ばかり出て来よる。
パチュリー達はよく頑張った!
しかし、このパチュリーが小悪魔にお仕置きができるようになるのはまだまだ先のようだ。弱いぞ!
幻想郷ならではのミステリでした、お見事!
ミステリー作品の犯人は勘で当てる派なので、最初から犯人が分かってるミステリーは中々新鮮でしたw
内容も去ることながら、キャラ達の感情表現もまた、見事に表現できていたと思います。
パチュリー可愛かったなあ。
最初から最後まで引き込まれてぐいぐい読めましたし、結末にも納得がいきました。
新しい、本当に新しいと思える発想の作品でした。
そしてこの話、何が怖いって小悪魔が怖い。これ要するに小悪魔がパチュリーの思考を読んで、回答を逆算でジャックポットしたってことですよね。しかもフランの参戦とか咲夜の反応とかも計算に入れて、アドリブ効かせたりもして。いや、早苗も転がされてるのかこれ。このゲームのプレイヤーって実は小悪魔だったんじゃ…
最後の最後まで逆算を貫いた作品、面白かったです。
倒叙法はミステリだろ
それはともかく見事なハウダニットでした
容疑者候補と殺害場所、方法を理詰めで潰していく流れにゾクゾク来ました
トリックというか犯行の条件も幻想郷ならではで面白かったです
それにしても小悪魔ちゃんマジ悪魔だわぁ…
よく考えたなぁ
想定外で楽しかったです
作者さんが本当に好きなのが一発でわかるのは実はタグなんじゃなかろうか
ミステリーではなくミステリ、「ー」の有り無しが問題のように思いました。
9マイルのようにほんの少しの情報から解答を導きだすのも、
動機なんてどうでもいいといいつつ、最後の動機は作法どおりという。
本質はファイダニなのがよいなぁ。
幻想郷だけに動機なんてべつに酒の肴でもいいんでしょうけど。
面白かったです。
うーわ
パッチェさん一〇〇年も生きてるんだからいい加減ミステリを許したげてよw
あと早苗さんが自首する選択肢も入れよう(提案)
面白く読めました
もちろん内容も楽しめました
ただしかし、前述の通りミステリはよくわからんのですが、「幻想郷にはいろんな能力者がいるのでミステリをやるのは難しい」みたいな話はちょくちょく聞いてまして、そこらへんに挑む作品なのだろうか、と序盤読んで勝手に思っていたので、そういう意味では、正直に言ってしまうとちょっと肩透かしを食らった部分はあったかもしれないです。具体的には「妖怪は里の中では人間を襲えない」って話が出てきたあたり。作中に添えられた理屈もあわせて説得力はあるのですが、「そういう設定にしちゃあ元も子もないよ!」的な。(序盤は萃香とか雲山とか幽霊とかの存在も視野に入れて推理を展開していただけに、余計にその印象が強まったかもなーという気はします)
でもそれはそれとして、舞台が人間の里だと断定した後も面白くなくなったというわけではなくて、「早苗にしかできない」を追及する理屈展開や再現VTR的な演出、(これは序盤からですが)地に足の付いた文章による語りと、諸々の要素が飽きさせずに楽しませてくれました。とても面白かったです。
ミステリっていいものですね
しかし、この手があったか……思いつかなかったなぁ。完敗です
面白かったです
ミステリは殆ど読まないのですが、上質のミステリを読み終えた後の気分ってこんな感じなんでしょうかね。
物語の中に読者を惹きつけていく力が凄くて、どんどん読んでしまいました。
100点以外を付ける気にはなりません。ごちそうさまです。
一創作者としては、自分の想定しうる手法とは全く違うやり方でミステリに挑戦しているというところを称賛したくなりました。
一言でまとめると、いいものが読めた、ということでございますw ありがとうございました!
それじゃミステリにならないか
色々読んでるつもりではあるのですが…。
事件の全容が徐々に削り出される感じも素晴らしい。
ですが、推理小説で穴が有るのは致命的なので低評価。
東方で本格ミステリは難しい、とは言われ続けてますが、その辺りのバッドイメージを逆手に取った、素晴らしい作品でした。