「ドジねぇ。それで逮捕されそうになったってわけ」
ことりと紅茶を置くと、少女はけたけたと楽しそうに笑った。見れば、まだ十にも届かない様な顔立ちの少女だ。だが、悪戯っぽく笑う様は幼いが、どこか社交慣れしているようにも見える。
少女は、小さな彼女には不釣り合いなほど豪奢なチェアに腰を落とし、珍しい紅い色の瞳を爛々と輝かせていた。
「そんなに笑わないで下さいよ、レミリアちゃん。本当に困ってたんですから」
そう言って、実際に困り顔をしてみせるのは、美鈴と名乗った娘だった。そこらの娘にしては背が高い方で、赤い色の真っ直ぐな髪を腰まで届かせている。
レミリアと比すればどこか田舎臭さの抜けない娘であるが、器量は悪くない。
「それでも掏りにあって無銭飲食なんて。あなたも渡英早々ツイてないわねぇ」
「そうなんです。それに、結局紹介のあった夫婦の方にも会えず終いで……」
明日また港に向かわないと、と美鈴は言う。それで今こんな所に居るのだから、よくよくツキが無いなとレミリアは思った。
何にしろ、今の英国も気楽では無いのだ。
史上初の世界大戦を経て、この英国もかつての栄華を誇示することは出来なくなっていた。新大陸アメリカの兄貴分として振舞えていたのも今や昔の話である。加えてこの経済恐慌だ。失業者の増えた国内では、掏りなどの軽犯罪は増加傾向にあった。
レミリアはまた一口紅茶を啜る。ふっと微笑むと、美鈴に向かって口を開いた。
「でもパパに会えたのはツイていたわね」
彼女は冗談めかしく片目を瞑ってみせる。そんな仕草でさえ洗練して見えるのは、果して彼女の家柄に依るものだけか。
「パパは美人に弱いんだから」
これには美鈴も、悪いとは思いつつ吹き出してしまった。
◆
以下は、美鈴がレミリアに語った内容である。
一九三九年、夏の英国。首都にも程近いある港町にて。その港の波止場で、美鈴は為す術もなく立ち尽くしていた。
彼女は一枚の写真を頼りに、勉強したての英語で、懸命にコミュニケーションを試みる。だが、見るからのアジア顔に英国紳士たちの反応は鈍い。
どうにもならない事とはいえ、これほどまでに自分の顔付きを恨めしく思ったことは無かった。
美鈴は元々中華大陸の人であった。「アヘン戦争」からこちら、争乱の止まぬ国となった中華を見限り、今はインドにある小さな藩王国で暮らしていた。だが、安心していたのも束の間で、今度はインド国内で独立運動が熱を帯びてきた。
巻き込まれるのは勘弁と、また何処かの移住先を探していた美鈴だった。
そんな折、偶然インドで知り合った英国人から、英国本土に来ないかと誘いがあった。何でも、本土にいる老いた自分の両親が、身の回りの世話をしてくれる人物を探しているらしい。その英国人が帰ればいい話なのだが、自分は仕事の都合で、まだインドを離れられないそうだ。
英国人にとっては、素性の知れない某を雇うよりは、インドで親交のあった美鈴に任せるほうが安心だ。もとより美鈴は、一所に留まらず、生涯を旅の中で過ごしてきた人だった。そのためインドにも大した愛着は無く、過ごしにくいとあればそれもいいかと、英国人の厚意に甘える事にしたのだ。
それから美鈴の渡英の話は、とんとんと進んでいった。本国にいる両親も、息子の紹介ならばと納得したし、また、渡英の足に関しても、知人がとある貿易船の船長と親しかったことから、その船の貨物と一緒に運ばれることで話が着いた。
そうして美鈴は、しばらくの間、紅茶の茶葉に包まれながら波に揺られ続け、晴れて英国の大地に降り立つ事となったのだ。
そんな様々な伝手を頼ってやってきた英国であったが、ここで一つ問題が起きた。何とも間抜けな話だが、港に迎えに来ているはずの老夫婦が見当たらないのである。
その老夫婦には先だって手紙を送っており、今日、この港まで美鈴を迎えに来てくれているはずだった。だから、必ず何処かにいるはずなのだが、美鈴が鈍臭いせいか、中々探し出すことが出来ない。
美鈴は、港を行き交う人々を、目を皿にして観察する。知人から預かった老夫婦の写真と見比べて、同じ人物がいないか見つけようとする。だが、これほど大勢の欧州人を見るのは初めてで、美鈴の目には誰も彼も同じ顔に見えた。焦る美鈴を余所に、時間ばかりが過ぎていく。
そんな時である。美鈴の元に何やら芳ばしい匂いが漂ってきた。見れば、屋台の親父が、美味しそうな焼きポテトを売っているではないか。
美鈴はインド人の知人から、「餞別に」と、幾らかの英国通貨をちゃっかり貰っていた。加えて長い船旅からの空腹である。当然、我慢など出来る筈もなく、一も二も無く焼きポテトに飛び付いた。
しばらくぶりに口にする食べ物の味は格別である。美鈴は調子に乗って幾つもの芋を喰らった。余りに美味しそうに食べる美鈴の姿に、屋台の親父も満足気である。「もっともっと」などと追加を勧めてくる。そうなると美鈴も、親父の期待に応えようといらん使命感を働かせ、勧められるままに芋をかっ喰らった。
そうして腹も満たされて、さて勘定をという段で、美鈴の顔が俄に強張る。怪訝な表情をする親父の前で、懐を探す素振りをするが、美鈴に余裕が戻る事はなかった。
掏りにやられたのだ――、と気付いた時にはもう遅かった。親父はカンカンになって美鈴に詰め寄り、やれ警察に突き出すだのと言っている。
何とか弁解をする美鈴であったが、異国人ということもあり、まともに相手をして貰えない。どころか、余りの親父の剣幕に、面白半分のギャラリーが集まる始末である。
もはやこれまでか――。
美鈴は神妙に天を仰ぐ。しかし、万事休すと思われた時、ある一人の男性が、群衆に向かって「待った」の声を掛けた。見れば、身形の良い英国紳士が、ギャラリーを割って向かって来るではないか。
紳士は美鈴たちの所まで寄ると、双方の主張をよく斟酌する。そして、美鈴が渡英したばかりと聞くと、「不憫だ」と言って、代わりに代金を支払うことを親父に提案した。金がきちんと支払われるならば、親父にも文句はない。親父が矛を収めたことで、集まっていたギャラリーも散ってしまった。
つまり、美鈴は助けられたのである。
美鈴は紳士の後ろ姿を、感謝と尊敬の念を込めて眺める。清廉な彼の気性が、背中越しに伝わってくる様であった。
美鈴の視線に気付いた紳士は、静かに微笑みながらゆっくりと振り返る。その時はじめて、美鈴は紳士と目を合わせる事が出来た。
――空の様な蒼い瞳。
美鈴は、これが「紳士」というものなのかと感嘆する。そして、その蒼い瞳の美丈夫こそが、レミリアの父親だったのだ。
◆
「それで家に転がり込んでいるんだから、あなたも大したものだわ」
とレミリアはころころと笑う。現在、美鈴とレミリアがいるのは、レミリアの自室だ。美鈴は「いやぁ……」と苦笑いをしながら後頭を掻いている。
この現状に至るまでは少し事情がある。
美鈴がレミリアの父親に助けられた後。しかし、探し人の老夫婦はまだ見つけられなかった。土台、不慣れな欧州の地だ。単独では無理がある。だが、美鈴から事情を聞いた紳士は、その後、なんと探し人の捜索にまで手を貸してくれたのだ。
二人は一枚の写真と見比べながら、共に港を渡り歩く。同じ場所を往ったり来たり、偶に不審にも思われる。だが、そんな二人の努力もかいなく、日が暮れるまで探しても、結局、老夫婦を見つけることは出来なかった。
その老夫婦以外、頼るアテのない美鈴である。財布まで掏られた以上、今晩の宿も取れない。
しかし、美鈴のそんな事情も聞き出した親切な紳士は、今夜は我が家に泊まらないかと、美鈴に提案してくれた。
幸い妻もいないので一晩泊めるくらいは構わない、とのこと。
流石に躊躇った美鈴だが、寄る辺がないのは事実である。重ねて遠慮しつつも、最後にはお願いすることにした。
そうして夕食まで頂き、今は食後の語らいとして、主人の娘の相手をしている次第だ。
「でも本当に助かりました。何しろ英国は初めてなもので。これからどうしようかと途方に暮れていたところだったんです」
美鈴は、改めてこの小さな少女に頭を下げる。一方、その少女は大して気にした風もなく、どころか、可笑しそうにニヤニヤと笑っていた。
「構わないわよ。パパは下心があるからね。でも貴方がラッキーだったのは本当よ」
レミリアはニヤニヤ顔を一層濃くする。一宿一飯を得られたという意味ではなさそうだ。
「もし捕まって刑務所にでも入れられて御覧なさいな。吸血鬼に喰われていたかも知れないわ」
え――? と美鈴は間抜けな声を出す。思いがけず物騒な話が飛び出した。
不意を突かれた美鈴が、何のことでしょうと訳を訊ねると、レミリアは「パパから聞いた話だけれど」と前置きして、話の続きを語り始めた。
「パパはね、この町にある刑務所で働いているんだけどね、時々パパの刑務所から、囚人が消えてしまう事があるんですって」
レミリアの父親は、この町にある刑務所で所長の席に着いていた。真面目で責任感も強く、また潔癖な人であったから、周りの人々からの信頼も厚い。そんな人が治める場所たがら、今まで、囚人絡みの問題など、一度も挙がったことは無かった。
「それは、脱走ということでしょうか」
すかさず美鈴が疑問を述べる。囚人がいなくなるとは即ち脱獄のことか。
「違うわ。直ぐ後にその囚人の死体が見つかっているのだから。でもその死体が凄いのよ」
そう言ってレミリアは、そっと美鈴に近寄った。まるで秘密を打ち明ける様な小声で聞かせる。
「……体中の血液を抜かれていたり、中には肉を喰い散らかされたような死体もあったんですって」
……それはまた、何とも。
随分と酷い死に様のようだ。ついその光景を想像してしまった美鈴は、思わず両肩を震わせる。
「今この町はその話題で持ち切りよ。夜中に外を出歩いていた女性が行方不明になったりして、今じゃ誰も夜間に外出しない。……私はね、本当の本当に吸血鬼の仕業じゃないかと思っているのよ」
レミリアはそう話を締め括った。
対して美鈴は、「そうだったんですか」と小さく呟く。それはそれは恐ろしい話であるらしい。
だが、話を語るレミリアの態度は、本気で怖がっているというより、事件を面白がっているようにも見える。夜中に外出する予定などない裕福な子女にとっては、そのような怪事件も、娯楽の一つでしかないのだろう。
それにしても吸血鬼とはまた、随分、時代錯誤なものが出てきたものである。
「いやぁ、そんな話を聞くと増々私は幸運でしたね。取り敢えず刑務所に入れられることも、今夜を外で過ごすことも無いんですから」
と、美鈴はレミリアの言葉に、そっと安堵の息を吐いて見せた。多くの人がそうであるように、美鈴も、喰われるよりは喰う方が好ましいと考える。
「そうね。この家にいる限りは安心よ。今のところ、家の中の者が襲われたという話は聞かないから」
襲われているのは刑務所の囚人か、或いは夜の街を渡り歩く、云わば、怪しげな職種の人間のみらしい。噂の真偽は知れないが、火のないところに煙は立たないとも言う。
いずれにせよ、こうして屋根の下で安穏としていられるなら、それに越したことはないだろう。
吸血鬼の話を終えたレミリアは、すっかり冷めてしまった紅茶を啜った。もう夜も遅いが、まだまだ美鈴と語らいたいと考える。
どんな話が良かろうかと考えていたレミリアは、はっと思い出したように横手を打った。
「そういえば、あなたはずっと旅をしてきたんでしょう? あなたの話も聞かせてよ」
レミリアはさも名案だとでもいう風に美鈴を促す。美鈴は困り顔だ。
「えっと、私のですか?」
「そう。旅をしていたのなら変わった話の一つや二つは知っているでしょう?」
レミリアは早く早くとせっつく。そうして美鈴に期待の視線を向けてくる。期待されると応えたくなるのが人情というものである。
レミリアの言う通り、美鈴とて変わった話の一つや二つは知っている。
「うーん、余り面白い話は出来ないと思いますけど……」
が、美鈴は柄にもなく渋ってみせた。しかし本音はお喋り好きな美鈴だ。実は、先ほどの吸血鬼の話から、一つ思い出した話があった。
これは恥じらいという演出である。
そして、小さな主はそれも見抜いている。
「いいじゃない。私もとっておきを話したんだから、あなたもお話ししてよ」
と、駄目押しの一言。美鈴は気分良く頷いた。
「わかりました。……それじゃあインドで聞いた“地下室の魔女”という話はどうでしょう。ある屋敷の地下室に、長い間、一人の魔女がずっと引きこもっているらしいという話なんですが……」
美鈴は、レミリアの話に対抗すべく、インドで聞いた「とっておき」を広げてみせた。レミリア嬢はすぐに興味を惹かれたようだ。
そうして美鈴は、少々脚色した魔女の話で、一時レミリアを喜ばせるのだった。
◆
美鈴は、生涯を逃亡者として過ごしてきた人であった。ある事情から、長い間一つの処に留まることが許されなかったからだ。そのため美鈴は、転々と住処を変え、誰かと深く親しくなることは出来なかった。
美鈴に両親の記憶はなかった。物心付いた時には、モンゴルの高原で、羊を追いかけながら過ごしていた。それは小さな遊牧民の村だったが、相次ぐ戦乱で親のいない子供も多かった。なので美鈴も、親のいない寂しさを、特別に感じたことは無かった。
しかし、この小さな幸福も長くは続かない。美鈴は年を経るに従い、村人たちから避けられるようになったのだ。そして、この村に住めなくなった時、美鈴の長い逃亡生活が始まった。
(……一体、何が不味かったのだろうか……)
自問するに答えは出ない。誰を恨めばいいのかも全く知れない。だが現実に、美鈴は周りの人間とは違っていた。
悪いと言えば、違いを持ってしまった美鈴自身なのだろう。そして、その違いこそが、美鈴が逃亡を続ける原因だったのだ。
(仕方がないのだ。こうするしかないのだ……)
美鈴は既に、己のこの定めを、諦めを持って受け入れている。今さら足掻いたところでどうしようもない。逃げ続けることが己に与えられた宿命なら、それを受け入れる以外道はない。
だが、たまにやり切れなくなる時もあるのだ。
だからこうして、一時でも人の側に居られる時間を、美鈴は堪らなく愛しく思っていた。
◆
魔女の話にも区切りがついた。少々盛り過ぎてしまった為、長丁場となってしまったが、レミリアは甚く満足そうだった。話の合間々々に美鈴に頷いて見せ、「へえ」と頻りに感嘆詞を述べていた。
話が終わって、はぅと息を吐いたレミリアは、うっとりするような表情で天井を見上げている。
「面白い話ね。“地下室の魔女”か」
「眉唾物の話ですけどね。実際に館が何処にあるかも知れませんし」
「それがいいのよ。私ってそういう話大好き」
レミリアは本当に嬉しそうに笑う。吸血鬼の件といい、アヤシイ話がお好みのようだ。
「喜んで頂けたのなら何よりです。……他にも旅の中では色々な話を聞きましたよ。旅の中ではそれが唯一の楽しみでしたから」
旅をしていれば、その土地々々で様々な話を聞く。お陰で美鈴は、土産話だけは大量に持つようになった。長い長い一人旅の中では、そのように途中で聞く物語は、何よりの娯楽であった。
ふと、天井を見上げていたレミリアが、美鈴に視線を落とす。
「ねえ、あなたはどうして旅を続けきたの?」
レミリアから向けられたのは、純粋な疑問の声だった。美鈴は、レミリアのその瞳を、真っ直ぐに受け止める事が出来ない。
「……さあ、何故でしょう。いつか何処かに自分の居場所が見つかると思っているのかも知れません」
「今までは無かったの?」
「私はずっと逃げ続けてきましたから。ですが、悪いことばかりでも無かったですよ」
美鈴は殊更明るく笑ってみせた。どうにもならない事で落ち込んだって仕方ない。それに、悪いことばかりでは無かったというのは本当の話だ。
だが意外にも、レミリアはそのような機微にも敏かったらしい。
「……ねぇ、私、すごいことを思い付いちゃった」
レミリアはずいと美鈴に顔を寄せる。先ほどの魔女の話同様に、期待に満ちた視線を向けてきた。
「あなた、私の“妹”にならない?」
「……!」
レミリアの突拍子もない提案に、美鈴は顔を強張らせる。居た堪れなくなって下を向いた。
「今の妹は面白くないの。だから、あなたが私の妹になってみない?」
レミリアは歌うように続ける。楽しげに誘うレミリアは、美鈴がこれから何をしようとしているのか知らないのだろう。
美鈴はこの後、レミリアの父親の元に向かわなくてはならないのだ。レミリアにとっても愉快でない事になる。
美鈴はきゅっと懐に手を当てる。硬い感触が返ってきた。
「私は――、」
私は、一体何をしようとしているのだろうか――?
だが、自問する言葉は表には出ない。すっかり狡くなってしまった自分に嫌気がした。
「――こら、レミィ。まだ美鈴さんを引き留めていたのか」
突然、扉が開いた。入って来たのはこの館の主人であり、美鈴の恩人であるあの紳士だった。
「もう遅いんだから今日はその辺にしておきなさい。美鈴さんも疲れているだろうから」
「パパ!」
レミリアは不機嫌だ。お気に入りの玩具を取り上げられた子供のようである。キッと、父親に向かって鋭い視線を向けてしまう。
その後も散々駄々を捏ねたレミリアだったが、夜も遅いというのは本当の事だった。さらに、当の美鈴が父親の味方をしてしまったので、レミリアも諦めざるを得なくなる。
そうして美鈴は、主人と一緒に、レミリアの自室を後にした。
◆
「悪かったね。娘が妙な話をして」
主人と美鈴は、美鈴を寝室に案内するため、連れ立って廊下を歩いていた。長い廊下だと美鈴は思う。館に招かれたのが夜間だったので、全体像は見えにくかったが、かなり大きな屋敷のようだ。
「いえ。私こそ長々と話し込んでしまって……」
美鈴は申し訳なさそうに背を丸める。そうしていると本当にただの田舎娘に見える。
主人は、重ね重ね済まないなと思った。
散々駄々を捏ねたレミリアは、今は不貞腐れて眠ってしまっている。これほどまでに懐かれるとは意外だったが、そのことが美鈴には嬉しく思える。
彼女に謝れないのが心苦しかった。
「やはりインドは荒れ始めたのだね」
主人が美鈴に背を向けたまま言った。美鈴は「はい」と小さく肯定する。主人は足を進めながら、「そうか」とだけ漏らした。
インドに於ける英国の統治は、始まりを十七世紀、大英帝国による植民地支配にまで遡る。多少形は変わったが、それは現在に至るまで続けられており、インドは相変わらず英国の言いなりだった。
初期の英国統治では、インドは、綿花や茶などの原産地としての地位を得ていた。だが、英国で産業革命が成って以降は、英国の木綿工業製品の市場としても見られるようになる。
さらに時代が進むと、インドはアヘンの栽培も担うようになり、それは中華の大国・清と英国との間に起こった「アヘン戦争」の切っ掛けにもなっている。
その「英国の財布」とまで呼ばれたインドが、世界大戦以降の欧州の混乱に乗じて、独立を果たそうと画策しているのだ。
「今、欧州には不穏な空気がある。ドイツの政権をヒトラーが獲ってからだ」
先の大戦、後の世に「第一次世界大戦」と呼ばれる戦争に大敗したドイツは、戦勝国に対して莫大な負債を抱えてしまった。さらに経済恐慌の打撃もあって、ドイツ経済は惨憺たる状況に陥ってしまう。
そのドイツを建て直したのが、アドルフ=ヒトラーという政治家だった。
彼は今、「国家社会主義ドイツ労働党(通称:ナチス)」の指導者という地位に着いている。
「ヒトラーは野心家だ。それに恐ろしく頭が切れる。英国政府はドイツを、スターリン率いるソ連・共産主義の防波堤にしようと考えているみたいだが、そんなに甘い話ではないと私は思う」
反共の急先鋒とも言えるのがナチスのファシズムだ。共に似通った部分があるだけに、双方の憎悪は深い。そんな両者が互いに足を引っ張り合っているのなら、英国にとっても都合が良い。
だがその見通しは、余りに楽観的過ぎはしないだろうか。
そのドイツは、昨年、オーストリアの併合に乗り出している。
「そういえば妹がいるんですね」
美鈴は、主人の背中に向けて問いを発した。重苦しくなった話題を変えようという意図もあった。
「ああ。レミリアとは大分違う」
「仲が悪いんですか」
「どうだろう? 下の娘はレミリアとは余り話をしないから」
そこまで話して、主人ははたと足を止めた。そのまま振り返って美鈴の方を向く。
美鈴は何事かと思って動きを止めた。
「そうだ。妹に会ってやってくれないか。家の地下室にいるんだが」
特に断る理由も無かった美鈴は、主人のその提案に従うことにした。
◆
「ここが妹の部屋だ」
主人に案内されながら階段を降りると、その突き当たりに扉が備え付けてあった。小綺麗にしてあるらしく、その白い扉には、埃など一つも見当たらない。
だが、何故こんな地下に? とは思う。
「私だ。入らせてもらうよ」
主人は二度ほどノックをすると、静かに扉を開いた。中の住人から返事はない。やはり、気難しい人物なのだろうかと美鈴は思った。
「さあ、入ってくれ」
主人は扉を押さえたまま、美鈴に先を促した。言われるまま美鈴は部屋の中に入る。
お邪魔しまします、と恐る恐る声を発した。
部屋の中も手入れが行き届いているようで、真白の壁が電灯の灯りに映えていた。
「……これは、どういうことでしょうか」
そうして美鈴は、背後にいる主人に対して問いを投げた。その部屋に奇妙な物があるのを見つけたからだ。
真白の部屋には赤いカーペットが敷いてある。その上にはチェアやデスク、レミリアの部屋にあったような、豪奢な家具の数々が置かれてあった。
しかし、そんな高価な家具達も霞ませてしまいそうなのは、部屋の中央を陣取っている黒くて大きな箱……。
「何で、こんな所に棺桶が……?」
美鈴は独り言のように呟いた。確認するまでもなく、普通、大事な娘の部屋に、棺桶を置いたりはしない。
美鈴は、さっと懐の硬い感触に手を当てる。
「あなたは一体……、――ッ!?」
――鋭い風切り音。
後ろを振り返ろうとした美鈴のすぐ側を、黒い何かが通り過ぎていった。
「何をッ!」
思わず舌打ちをする。間一髪で身体をずらし、直撃は何とか避けたが、左肩を少し掠ってしまったようだ。
美鈴は苦々しい顔で主人を見る。その手には血の付いた斧が握られていた。
「やはりあなたが刑務所の囚人たちを……」
レミリアが話していた囚人の連続殺害事件。やはり、その犯人は所長である主人だった。恐らく、こうして囚人たちを家に連れ込んでは殺していたのだろう。
主人は自我を失ったように立っている。空の蒼のようだった彼の目は虚ろに淀み、すでに美鈴を見ていない。美鈴はこのような目に覚えがあった。
――肉だ。
まるで腹を空かせた肉食動物のような目。主人は、美鈴をただの肉として求めている。
「仕方がないんだ。こうするしかないんだ……」
「そんなッ、仕方がないで済むわけがないでしょうがッ!」
美鈴は怒鳴りながらも、懐に忍ばしていた物を取り出した。思わずレミリアの顔が浮かぶ。気づけば主人と同じ言い訳をしていた。
「仕方がないんだ。仕方がないんだ……」
主人は同じ言葉をただ繰り返す。茫然と幽鬼のようで、昼間にあった清廉な気性は、まるごと霧散しているようだった。
彼はにじりにじりと美鈴に迫る。奇声と共に斧を振り上げた。
「“妻”のために――ッ!!」
◆
美鈴はただ一人、夜の英国街を走っていた。街灯の点る表通りではなく、薄暗く入り組んだ裏路地だ。皆寝静まっているのか、夜の路地裏に響くのは、美鈴が駆ける足音のみだった。
美鈴から漏れる息は荒い。
急ぎ、この町から脱出する必要があった。
「――あら。パパを壊しちゃったのね」
しかし、そんな美鈴の背後から、面白がるような声が聞こえた。月さえ見えぬ闇夜に響くには、余りに可愛らし過ぎる声だ。だが、不似合いに響くその鈴音は、美鈴にとって、却って不気味さを際立たせた。
美鈴はびくりと硬直すると、恐る恐る声の元へ振り返る。
「……レミリアちゃん」
視線の先には民家の屋根があった。三角屋根の頂上は、そこに立つ小さな影が見える。
影は少女のものだ――。
夜に佇み、不敵に美鈴を見下ろすその影こそ、今、美鈴が遠ざかろうとしている屋敷、その主人の娘であるレミリアだった。
美鈴はきっと鋭く彼女を睨むと、蔑むように吐き捨てる。
「やはり、“吸血鬼”はあなたの方だったんですね」
「やはり? いつから気付いていたのかしら」
「ついさっきです。あの地下室で襲われた時。――あなたがパパと呼んだあの男性は“人間”でした」
美鈴は地下室での一件を思い出す。
ぐっと歯を食い縛ると、沈めようのない赫怒が支配した。
「あんたはッ!! 一体何をやってるんだッ!!」
そして吠える。
それは普段温厚な美鈴には珍しい、純粋なる怒りの衝動であった。
最早、抑えることなど到底出来ない。甚だしい怒りの感情を少女に向ける。
美鈴は唾を吐き散らしながら、噛みつくように吠え猛った。
「あれがあんたの言う“妹”か!? 人間を何だと思っているんだッ!!」
レミリアは、怒りに震える美鈴を、楽しむように見下ろしている。その態度が、余計に美鈴の癪に障った。
――地下室で、狂った主人と対峙していた時のことである。
美鈴はその部屋で、“彼女”の姿を見た。
何の冗談かと我が目を疑った。質の悪い夢を見ているのではないかと思った。だが、“彼女”は確かに実在し、じっとこちらを見つめている。余りに非人道的な所業に、吐き気すら催した。
“化け物”――。
美鈴は棺桶の中の彼女を見て、そう判断した。
それは紛うことなき化け物だった。牙を剥き、両目を見開き、ただ血肉を求めて奇声をあげる、純然たる化け物。鎖で縛りつけておかなければ、自分の夫でさえも容赦なく襲うだろう、変わり果てた“人間”の残骸。
それが、レミリアが“妹”と呼んだ女性であり、主人が“妻”と呼んだ女性であり、かつて“人間”だったはずの女性だった。
「あら失礼ね。私は彼を救ってあげたのよ?」
レミリアは心外そうに眉をひそめる。如何にもわざとらしい演出に、美鈴は心の中で毒づいた。
「私は“妻の死”を認める事が出来ない哀れな男に、救いの手を差し伸べてあげたの。彼女を私の“妹”にすることでね」
レミリアは淡々と述べる。それがこの吸血鬼の“狩り”の手口だった。
◆
主人の妻は、元々身体の弱い人だった。幼い頃から、学校よりも病院の方が馴染み深い、そんな人だった。しかし、それ故か、誰よりも優しく慈悲深い、博愛の人であった。
だが、そんな彼女に危機が訪れる。ある日彼女は、今までにない非常に重い病にかかってしまったのだ。彼女は、自分の意思で体を動かすことも殆ど出来ず、半植物人間のような状態になってしまう。
それは彼女が二十一の頃。現在の夫と籍を入れて、二年目のことだった。
妻が危篤状態に陥り、男は八方手を尽くして妻の療養を続けた。名のある名医を家に呼び寄せては、彼女の治療に当たらせた。だが、それでも病状は芳しくなく、結局、それから半年ほどで、彼女は還らぬ人となってしまった。
主人はそっと妻の手を取る。残酷なまでに冷たい。主人には、もう彼女はいなくなってしまったのだと分かっていた。
だが主人は、それでも妻の死を認める事が出来なかった。“永遠の離別”という現実から、つい逃げ出してしまう。そうして、荒唐無稽な絵空事を夢見るようになった。
なんと主人は、妻の遺体を葬儀にかけず、人知れず蘇生の術を探し始めたのだ。
それから主人は、狂ったように世界中の医学書を集め始めた。洋の東西を問わず、大金を注ぎ込んでは、蘇生の術を探し続けた。現実の医学では不可能と知ると、ついには外法の術にまで手を伸ばし始めた。
……そこにいたのは、聡明で理知的であったかつての主人ではない。悲しい現実から、ただただ逃げ続けようとする、一人の哀れな男だった。
吸血鬼に出会ったのはそんな時である。
『お前の妻に私の血を別け与えよう。さすればその女は吸血鬼として蘇る』
吸血鬼は主人にそう言った。吸血鬼は他者の血を啜り、糧とする以外に、自分の血を他者に別け与えて、その者を“同族”にする事も出来た。そしてそれは、既に死んでしまった者に対しても有効で、吸血鬼が男の妻を同族にすれば、彼女は蘇る事が出来るのだ。
さすがの主人も、吸血鬼の申し出をすぐには信じられず、甚だしい懐疑を抱いた。相手は人間ではない。人ならぬ化け物である。だが、他に手段が無いのも確かであった。
主人は縋るように妻の遺体を見つめた。妻は相変わらず目を覚ますことはない。手を握ると、かつて妻と過ごした日々が、走馬灯のように駆け巡った。
その時点で、主人に選択の余地など無かった。
◆
もっとも、私の血が強過ぎて自我を保てなかったみたいだけど――、と吸血鬼は笑う。
「お陰で楽に餌を集めることが出来たわ。私が直接動かずとも、あの男が勝手に集めてくれるんですもの」
吸血鬼は人を喰らう。吸血鬼の妻を永らえさせたいと願うなら、彼は餌となる人間を集めてくるしかない。
主人は妻とレミリアの為に、せっせと囚人たちを集め続けた。利用されているだけだと知りながら……。
「……あんたは、悪魔だ」
「そうよ。知らなかったの? 吸血鬼は悪魔と呼ばれているわ」
欧州に広く伝わる物語に於いて、吸血鬼は悪魔と呼ばれている。ならば悪魔に悪魔と言ったところでちっとも堪えない。
美鈴は、自分がからかわれているのだと分かった。
「私は――ッ! あんたに“妹にならないか”と言われて嬉しかった!! 嬉しかったんだぞッ!!」
それが――何てことだ。
美鈴は、沸き上がる後悔と怒りに押し潰されそうになっていた。――ちくしょう、馬鹿にしている! あの提案は全て嘘だったのか? 自分を利用しようと甘言を弄んだだけなのか?
だが、吸血鬼は飄々として言うのだ。
「それでも壊したのはお前だ」
「……ッ!」
「あの男も、あの男の妻も、この他愛も無い家族ごっこも。全てお前が壊したんだ」
美鈴は、吸血鬼の指摘に何も言い返すことが出来ない。確かにそれらを壊したのは美鈴だ。
レミリアがそれを責めている様には見えない。だが、美鈴の中で、壊した者の罪悪感が、確かに広がっていった。
堅く重い感触を感じる。
「それにお前は、初めから壊すつもりであの男に近付いた筈だ」
「何を――、」
「私はお前が“懐に何を隠しているか”を知っている」
レミリアに言われて、美鈴はさっと懐に手をやった。そこには硬い何かが隠されている。その感触と共に、彼らの断末魔の叫びも蘇ってくるようだった。
「お前は壊しに来たんだ」
断罪するかのような繰り返しに、美鈴は懐の中の物を取り出した。鉄製の黒い筒が出てくる。
それは拳銃だった。シングルアクション式のリボルバー拳銃。ただの女性が隠し持つにはやや不似合いな、厳めしい武器がそこにあった。六発あるはずの弾丸は、すでに二発消費されている。
美鈴は、運悪く事件に巻き込まれたのでは無かった。主人に出会ったのは偶然ではないし、館を訪れたのも成り行きではない。初めから巻き込まれる為に来たのだ。
◆
美鈴がまだインドにいた時のことだ。旅人であった美鈴には、しかし、そんな美鈴にも親しくしてくれたインド人の少女がいた。年の頃は今のレミリアの姿にも近い。好奇心旺盛な彼女は、美鈴に旅の話を聞かせて欲しいと、毎日のようにせっついた。
美鈴は静かに彼女の頭を撫でる。美鈴はこの少女の側で、久しく忘れていた、優しく安らかな時間を思い出していた。
だが、そんな平穏な日々も長くは続かない。ある日、その少女の父親が、反英国組織に加担し、挙句破壊行為に及んだという罪で、インド政府に逮捕されてしまったのだ。
事実は、彼は平凡な下級役人であり、事件とは全く無関係の人だった。しかし、インドの法は彼を裁判なしで投獄。一家は離散の危機にさらされてしまう。
インドに於ける英国上位の実態を、如実に表したような事件であった。
このままでは、一家の財とするために少女は娼館に売られてしまう。その事実を知った美鈴は、少女と少女の父親を救うために動き出した。なんと、少女の父親が捕まっているという独房に、単独で潜入を果したのだ。途中何度も危ない橋を渡ったが、無事、少女の父親を解放、少女は売られずに済んだ。さらに、後日、冤罪事件の真犯人が捕えられたことにより、少女の父親は名実ともに晴れて自由の人となった。
だが、美鈴までそうとはいかない。美鈴は脱獄を幇助したとして指名手配にされ、インドのお尋ね者になってしまう。どうも救出作戦の際に目撃者がいたらしい。さらに、脱獄の罪を全て美鈴に押し付けた少女の一家にも密告され、美鈴は次第に行き場を失っていった。
そこで、次の逃げ場として考えたのがこの英国であったのだ。美鈴は敢えて敵の懐に飛び込むつもりで渡英を敢行した。まさか探し人がこんな身近にいるとは思うまい、そんな皮算用から無断で貿易船に忍び込み、船底で静かに息を潜めた。
だが、当然そんな無茶が通る訳も無く、美鈴は渡航中に発見・通報され、英国本土で待ち構える役人たちに御用となった。
しかし、逮捕の際に見せた美鈴の大立ち回りが、偶然近くに居た上級役人の目にとまり、その身体能力の高さから、とある事件の解決に利用しようと考えられたのだ。
「もともとあの男への疑惑はずっとあった。でも、決定的な証拠が無いから手を出せずにいた。そこであなたが利用されたのね」
立て続けに起こる囚人殺害事件に、英国役人たちも手を焼いていた。無論、疑わしいのは、事件の起こっている刑務所で所長をしている主人だ。しかし、彼には地位も人望もあり、また、身内絡みということで、中々強く出る事が出来なかった。
そこで考え出されたのが、美鈴を囮に使い、主人がボロを出すのを待つという方法だった。
計画の手順は至って単純だ。まず美鈴が軽い事件を起こし、それを役人が捕える。そして彼女を主人が管轄する刑務所に送ることで、彼が動き出すのを待つ。敢えて事件を起こさせて動かぬ証拠を掴む、という手法である。
また、その考えには、例え主人が無実だったとしても責任は美鈴に押し付ければいいし、美鈴が犠牲になったとしても自分たちは痛くも痒くもない、という打算もあった。
当然、美鈴に拒否権などは無い。もしもの為にと渡された、一丁のリボルバー拳銃だけを懐に、美鈴は焼きポテトの屋台で事件を起こしたのだ。
無論、拳銃などは逮捕された時点で没収されるのだが、これは危険な役目を担う美鈴を乗せる為の、云わば、景気付けの様なものである。元々美鈴は、例え素手であっても十分に戦えるだけの能力を持っている。だからこその今回の抜擢である。拳銃などただのおまけに過ぎない。
美鈴は、役人たちの指示には忠実に従った。多少手順は変わったが、計画通り主人と接触することに成功した。そして、上手く主人を誘い出し、無事、事件を起こさせることも出来た。
偶然などではない、必然として。彼を犯罪者として捕らえるために……。
やはり、美鈴は壊しに来たのだ。
◆
「それでどうするの」
レミリアは明日の天気を訊くような調子で訊ねた。美鈴に対する恐れなどない。むしろ、どう楽しませてくれるのかといった風だ。
「あなたを野放しにしておく訳にはいきません」
美鈴は、余裕を見せるレミリアから、一瞬たりとも目を離さずに、静かに拳銃の撃鉄を起こした。
睨み殺すかのような双眸で、レミリアの額に照準を合わせる。
「残念ですが、ここであなたを殺します」
「……ふぅん。私とやる気なんだ」
美鈴の宣誓にもレミリアは相変わらず楽しげだ。
そしてレミリアは、美鈴に向かってひとつ頷くと、すっと両目を細める。
「でもね――、」
突然、彼女がまとっていた空気が変わった。突き刺す様な鋭い視線。人ならぬ紅い二つの瞳が、しっかりと美鈴を見据えていた。
「少し、嘗めているんじゃないかしら。この“私”を――」
サァーと、全身が粟立つのを感じた。先程までとは全く違う、明確な殺意を表したレミリアに、美鈴の頬には一滴の汗が伝っていった。
ただ意識を変えた――、それだけで。美鈴は今まで感じた事も無い様な戦慄に曝されている。
これが吸血鬼。人智を超えた伝説上の化け物。美鈴の想像を遥かに凌ぐ圧倒的な捕食者。こんな化け物を相手に、勝機など本当にあるのだろうかと、美鈴は甚だしい焦りを感じていた。
気付けば美鈴は、焦りの余り、大した策も無いまま拳銃の引き金を絞っていた……。
「え――?」
だが、照準を合わせたままの拳銃から、銃弾が発射されることはなかった。予想外の出来事に、美鈴の思考は一層乱れる。その乱れが命取りになる事くらい、普段の美鈴なら分かっていたはずだった。
「ぐぁ――ッ!!」
瞬間、腹部に強烈な重みを感じた。と、同時に押し飛ばされる浮遊感を覚える。美鈴の身体は、まるで重力を無視するかのように、真横に吹き飛んでしまった。
美鈴は幾らかの距離を宙に浮き、やがて、路地のダストボックスに突き当たって、ようやく停止した。がらんがらんと派手な音を立てて、美鈴が崩れ落ちる。
蹴られたのだ――、と気付いたのは、地面に伏して嗚咽をはじめてからだった。
「けほ、けほ、……何で弾が――?」
美鈴はようやく事態の把握をしつつある。つまり、拳銃は不発に終わり、銃弾が発射されなかったのだ。
この時代、続く戦争の為に大量生産された銃など、故障は珍しい事ではなかった。美鈴としても、この拳銃は英国役人に渡されたから持っているだけで、実戦はもちろん、普段は持ち歩く事もしていない。
それでも。なぜ寄りにもよってこんな時に――、という疑問は消えなかった。
「あらあら。壊れちゃったのね。可哀想」
レミリアは困惑する美鈴の神経を逆撫でるように、実に愉快そうに笑う。苦しげに顔を歪めながら、美鈴が食って掛かった。
「あなた、まさか――!?」
「いやねぇ。偶然よ偶然。たまたまハンマーを起こした時にハンマーが折れて、たまたまトリガーを引いてもハンマーが落ちなかった。それだけよ」
レミリアは、美鈴ですら知らない銃の故障をつらつらと並べ上げた。そしてそれは、間違いなく美鈴の拳銃に起こっていた出来事だった。
通常、シングルアクション式の拳銃は、一発撃つ毎に撃鉄を起こし、起こした撃鉄を銃内部のバネで支え、引き金を絞ることでバネを解放・撃鉄を落とすという動作を行う。落とされた撃鉄は雷管に着火・火薬が爆発し、その爆発を利用して弾頭を発射するのだ。
当然、撃鉄が折れてしまえば着火は行なわれず、従って銃弾も発射されない。
「何で? そんな馬鹿な……?」
美鈴は驚愕の声を漏らす。弾丸の不良ならともかく、そうそう簡単に起こる類の故障では無い。
「往生際が悪いわねぇ。“運命”だったと思って諦めなさいな」
レミリアは、美鈴に向けて、ニィィと凶悪な笑みを浮かべる。そうして美鈴は、自分とこの吸血鬼との間にある愕然とした力の差を、ようやく悟ることが出来た。
見せ付けられた絶対は、逆に美鈴の心を落ち着かせる働きをする。頭に上っていた血が、急速に下がっていくのが分かった。
「それにしても頑丈ねぇ、あなた。殺すつもりで蹴ったのだけど……」
レミリアは、呆れとも感心とも取れる声音で言った。繁々と観察する美鈴は、掠り傷こそ多々あるものの、生命維持に致命的な損傷は無いように見える。
普通の人間ならば衝撃の瞬間に身体がバラバラになるほどの威力だったのに、とレミリアは少し悔しがる。
「何か秘密でもあるのかしら……」
そしてレミリアはしばらく美鈴の観察を続ける。よく観察すれば、美鈴の身体にある掠り傷が、見る見る癒えていくのが分かった。
幾らかの考察を経て、ようやくレミリアも美鈴の正体に感付く。
「……なるほど。あなたも人間じゃなかったのね」
感得するようにレミリアが言った。美鈴はそれに頷くことで肯定する。
「……ええ。人は私を“妖怪”と呼びました。だから人間とは違うのでしょう」
「へぇ、“妖怪”。何か不思議な力でもあるのかしら?」
「そんなものはありませんよ。無駄に長生きなだけです。こんな姿でも、もう百年以上は生きています」
お陰でずっと逃げ続ける羽目になったんですけど、と美鈴は自嘲気味に笑った。
◆
美鈴はモンゴルの高原で、自分と他者との差に気付かされた。以来、休むことなく逃亡者だ。その違いは、それ程までに絶望的な違いだったのだ。
美鈴は、元々、普通の人間よりは体力も腕力もあり、それが自慢でもあった。だが、それはあくまで“人間”というカテゴリの中の話だと思っていた。自分が人間以外の存在だなんて、考えたこともなかった。
だが、結果的に美鈴は人間ではなかった。人間ならば必ずあるはずの身体的特徴が、美鈴には無かったである。
美鈴に無かった身体的特徴――、それは“老い”だった。老い、衰え、そして死んでいくという、人間ならば誰もが持っている特徴を、美鈴は持っていなかったのだ。美鈴は発見された時からずっと美鈴で、そのまま老いることも衰えることもなく、美鈴であり続けた。あり続けてしまった。
当然、美鈴の異常に気付いた村人たちは、彼女を気味悪がり、遠ざけ、そして追い出した。何者とも知れぬ彼女が、急に恐ろしくなったのだろう。美鈴はそうして初めの居場所を失い、後は、転々とさすらう孤独の旅人だった。
中華の大陸では、都の中に住んでみたりもした。人の多い都は、相対的に他者に無関心で、美鈴にとっては過ごしやすくもあった。だが、それでも長くは居る事は出来ず、次第に気味悪がられ、遠ざけ、そして追い出されてしまうのだ。
何度も何度も場所を変えるが、何処へ行っても何処へ行ってもその繰り返し。次第に美鈴は、他人に勘づかれる前に、自らの居場所を変えるようになった。
まるで見えない悪意から追われるように、差し迫る期限に急かされるように、美鈴は中華の大陸をさ迷い続けた。
だが、それでも美鈴は、人の側から離れる事が出来なかった。いっそ例の“地下室の魔女”のように、誰の目も届かない場所で、一人でひっそりと生きていく方が楽だったかも知れない。初めから誰とも関わらないようにした方が、ずっと安らぎを得られたかも知れない。
だが、それでも美鈴は旅を続けた。続けることしか出来なかった。人との関わり合いの中でしか、自分ではない誰かの瞳の中でしか、生を感じることが出来なかったから。美鈴はずっと逃げ続ける道を、自らの手で選んだのだ。
そして今も、美鈴は旅の中で逃げ続けている。
◆
「もっとも、長く生きている割には成長してませんけどねぇ」
美鈴は、自分のこの体たらくを皮肉るように言った。いつもいつも、ろくでもない事ばかりが立て続けに降りかかってくる。
インドでは先走って事を起こして、さらに信じていた者に裏切られ。英国ではうっかり捕まって、役人たちに利用され。挙げ句の果てに、自分が心を許した少女は実は吸血鬼だったという落ちだ。
全く、惨憺たる有り様である。
「いいじゃない別に。土産話に困らないでしょう?」
「その土産話を持って帰る場所が無いんですけどね」
「残念ねぇ。売るほどの土産話を持ってるのに……」
レミリアは大仰に呆れて見せる。その態度には同情も憐憫も感じられない。美鈴にはそれが心地よかった。
「ふふ。やっぱりあなた面白いわ。本当に私の“妹”になってみない?」
昔からずっと妹が欲しかったのよ、とレミリアは言う。美鈴は苦い顔だ。
「お断りします。冗談じゃあない。あなたと一緒にいたら命が幾つあっても足りなさそうだ」
「あら残念。……まあ、面白い話も聞けたからいいか」
東の国にいるという“地下室の魔女”。
私の妹に相応しいわ、とレミリアは夢見る調子で言った。レミリアは、未だ見ぬ妹へ尊大な期待を抱いているようである。
こんな化け物に狙われるなど、“地下室の魔女”には悪いことをしたなと一瞬思った美鈴だが、いや、自分が狙われないのは有り難い話だ、と割り切った。
その魔女の冥福を祈る。
「そうだ。せっかくだからあなたに良いことを教えてあげる」
“地下室の魔女”にいらん心配を抱いていた美鈴だったが、急に矛先を向けられて、はたと正気に戻る。
向き直ったレミリアは剣呑な気を見せている。嫌な予感がすると美鈴は怯えた。
「ヒトラーとスターリンが手を結んだわ」
「――!!」
レミリアの意外な発言に、美鈴は驚愕のあまりはっと息を呑んだ。どんな無茶を言われるかと身構えていた美鈴だったが、予想していた以上の衝撃を受ける。
いくら美鈴が鈍臭いといえど、ドイツのヒトラーとソ連のスターリンくらいは知っている。どころか、先ほどの主人の話にも、両者の名前が出ていたはずだ。
確か主人はこうも言っていた。
“そんなに甘い話ではないと思う”――。
主人の懸念は的を得ていたという事になる。
犬猿の仲とさえ思われていた両国は、世界中を驚かせる衝撃の選択に出たのだ。
「彼らは己の理想よりも目前の利益を求めたのよ。後顧の憂いを断ったドイツは、世界に対して再び戦争を仕掛ける。当然ソ連も動くわ。欧州は二度目の大戦火に包まれる」
レミリアは断言するように言い切った。それはまるで、決まり切った運命を告げるように……。
地理的に言って、ソ連はドイツの東側に位置する。そんな彼らが目指すとなれば、それは西。つまり欧州全域。
「まずはじめに落ちるのはポーランドね。次いでベルギー、オランダ。……フランスが落ちれば、この英国だってただでは済まない」
レミリアは神託でも読み上げるように続けた。美鈴は黙って彼女の話に耳を傾ける。
ドイツの狙いが西だとして、しかし、西の果てにあるのは島国の英国だ。その向こうには広大な大西洋の囲いがあるのみ。もし英国が落とされるような事があれば、もう何処にも逃げ場など存在しない。
せいぜい上手く逃げることね、とレミリアは言った。
「私だって巻き込まれるのは嫌よ。だからインドに逃げる。あなたも一緒にどう?」
インドなら英国の美味しい紅茶も飲めるしね――とレミリアは嘯く。どうやらレミリアも、これから始まる戦いを避けるために、欧州を離れるつもりらしい。
美鈴は薄く笑いながら、己の首を横に振った。今、インドに行くのはまずい。
「勘弁して下さいよ。私は非常食じゃないんですから」
「……むぅ。何よ、失礼しちゃう」
余りの美鈴の言い様に、レミリアはぷぅと頬を膨らませてみせた。その幼稚な態度は、見たままの幼子のように見える。だが、彼女とて人ならぬ者だ。美鈴と同じくらい、或いはもっと長い年月を生きてきたのかも知れない。
――強大な力を持ち、永き時を生きる吸血鬼――
その彼女が、はっきり“逃げる”と言っている。
次にレミリアは、さっと跳躍すると、瓦の三角屋根の上に降り立った。顔だけで振り向いて美鈴を見る。紅い紅い瞳が、爛々と輝いていた。
「それじゃあまたね、美鈴。運命が再び交差することを願っているわ」
そうしてレミリアは、夜に吹く一陣の風に身を任せると、そのまま霧のように掻き消えてしまった。
まるで、初めから何も存在していなかったかのよう。掻き乱すだけ掻き乱して、後には肌寒い夜風しか残さない。
美鈴は彼女の去った後の夜空を眺め、ふぅと長い息を吐いた。
「……二度とゴメンですよ」
ポツリと、呟く。
恐ろしい相手だった。相対している間は生きた心地がしなかった。もし再び敵として対峙することあれば、今度こそ息の根を止められるだろう。彼女にはどう足掻いても勝てる気がしない。
だが同時に、再び合間見えることになるだろうという予感も、美鈴は持っていた。
「……まったく。本当に冗談じゃあない」
そうして美鈴は一人歩く。いくら化け物絡みとはいえ、表向きは高級役人の一人が死んだのだ。もうこの町には居られない。急ぎこの場所から離れる必要があった。
それに、レミリアが言った戦火の影も気にかかる。間の悪い時期に来てしまったとつくづく思う。
(でも――、)
でも、一体どこへ逃げるつもりなのかと声がする。内から問い掛けるその声に、美鈴は何も答えることが出来ない。
例えば、戦火を避けて欧州を逃れたとする。だが、次に向かうのは一体何処か。戦いのない安全な場所へ。しかし、争いの火種は世界中に散らばっている。安全な逃げ場など本当にあるのだろうか。
――いや、その争いを逃げ延びたとしてもだ。
もし、ナチスの言うような、単一民族により統合・運営されていく「国民国家」という社会形態が実現してしまったら。或いは、例えそうならなかったとしても、次に来るのは、新しい国家・社会の仕組みだろう。だがそんな社会に、美鈴たちのような国を持たぬ者の居場所はあるのだろうか。
人も社会も変わり続ける。これから先、変わっていく時代の果てに、人ならぬその身の置き場など、本当にあるのだろうか?
(……どこかに『楽園』があればいいのに。私たちのような存在を受け入れてくれるような、そんな『楽園』があればいいのに……)
美鈴は自分で考えたその夢想を、皮肉っぽく鼻で笑った。幾度となく想いを馳せたその『楽園』は、ついぞ美鈴の前に現れなかったのだ。
美鈴は歩きだそうとして――、不意に、何処からか自分に近付いてくる足音を聞いた。一人ではない。数人が固まって動いている。恐らく館の裏に待機していた役人たちだろう。主人の死体を見つけたに違いない。
当然、阿呆にもまた捕まってやる道理はない。ならば、さっさと逃げ出すべきだ。
美鈴は引き摺るように重い両足に喝を入れる。鈍い痛みがじわりと広がる。一度、月のない夜空に視線を送ると、また、在るとも知れぬ己の居場所に向かって走りはじめた。
読了ありがとうございます。
みすゞ
全体に美鈴がなにをやってきたかの解説のようで、文庫本の背表紙にある粗筋のような印象を受けました。これは勿体なく思います。
話の都度に美鈴がなにを思い、なにを考えて、どんな行動をしたのか。その結果として状況がどう変化したのか。これらをしっかり書き込んであげないと、残念ですが美鈴に共感を持てません。
当然、容量も倍加することでしょう。
テーマや舞台設定はとても魅力的ですが、あと一歩物語との絡みが深くなれば面白い肌触りの物語になったんじゃないかと思います。激動の欧州のポテンシャルはまだまだこんなもんじゃありません。着眼点はよいのですから、魅力的な舞台のおいしさを利用しきってしまいましょう。
>14様 楽しんで頂けたのなら幸いです。ありがとうございます。
>16様 紅魔館はいじりがいがありますね。
>17様 長編は書いた事が無いので躊躇っています。いつか書きたいですけど…
しかしこれは東方としてどうなの? と思ったところがあり、少し減点させて頂きました。