Coolier - 新生・東方創想話

多々良たたられ小傘こがされ(中編)

2013/05/20 20:40:29
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 ある、一人の女の子だったんですよ。
 その子には爛漫な可愛らしさと愛嬌がありましたが、喧嘩ばかりしている両親がいました。怒声の絶えぬ家庭で育ち、愛情を多く受けられなかったためか、その子は事あるごとに悪戯や奇行を繰り返し周囲の目を引いたそうです。しかし本当に迷惑な行いはしなかったので、里の大人たちはおおむね彼女に好意的でした。
 そんなある日のことです。

 女の子は、消えました。

 最初、里の皆はまたいつもの悪戯かと思ったそうです。しかし何日たっても……三日たっても、五日たっても戻ってこないとなるといよいよ心配になり、有志によって捜索隊が組まれました。山や竹林、森などの危険域にまで踏み込んだ捜査が行われましたが……ついぞ見つかることはなく。
 里の者達は彼女の両親を問い詰めました。あるいは、彼らが怒りの矛先を我が子へ向け、害し、それを隠しているのではないかと疑われたのです。両親は、そんなこと知らないという。事実無根である。気づいたらいなくなっていたのだと。
 では、女の子が自発的にいなくなったのでしょうか? 怒号の響く家庭を嫌い、その身の上を呪って家出したのではないか? それとも、何者かが悪意を持って彼女を誘拐したのでは? 妖怪の仕業? 神隠し? 様々な憶測が里中を飛び交いましたが、結局、その真相は判ずるところがありません。
 その矢先。
 奇妙な噂が人里を覆い始めました。夜、一人道を歩いているとどこからともなくすすり泣く声が聞こえる。裾を引かれて振り返ったが、誰もいなかった。店先から商品が忽然と姿を消している。寝床に何者かの足音が聞こえてくる等々……これだけ聞くと安っぽい心霊現象のようですが、目撃、経験したものの数があまりに多く、きっと女の子の亡霊がこの世を呪っているのだ、祟っているのだとまことしやかに囁かれ、皆が愛らしい女の子の失踪を嘆きました。
 そして、それにつられるように。
 女の子の両親が失踪しました。これもまた、諸説ありました。曰く里に蔓延する非難めいた空気に耐え切れず夜逃げしたのだ、曰く女の子の霊に連れて行かれたのだ、曰く実は罪の意識を抱えていて、贖罪のため娘の後を追ったのだ。
 皆怯えてしまって、しばらくは外を出歩くものは減っていました。が、怪現象の噂は次第に数を減らしていき、やがて完全に沈静しました。

 ……この怪談の肝は、ここからです。

 これは実に、私が今もその渦中にある恐るべき怪奇なのです。この事件が起こった当時、私はまだ十の歳も数えていませんでした。失踪した女の子は同年代で、その子とはよく話をしたり、子供っぽい遊びをしてみたり、友達とは言える間柄にあった。私は彼女の失踪を嘆いていました。怪現象の噂が立ち消えたとき、安心すると同時に悲しくなって、何気なく彼女のことを話題に出し……

 変、なんです。

 彼女のことを言うと、皆が皆訝しげな顔をする。消えたあの子のことだよ、というと、そんな子いたかな? と首を傾げる。何を言っているんだ、忘れてしまったのか、あの、悪戯好きでやんちゃで少し大人びてもいた女の子、時折寂しそうに笑っていた女の子、ちょっと前まで話題の中心にあったではないか。なぜそんな、白痴のような顔をする。

 変、でした。

 誰に話を振っても、同じような反応が帰ってくる。
 あの事件があったことそれ自体についても、同様でした。
 まるで覚えてないみたいに。本当に忘れてしまったみたいに。
 私だけでした。彼女のことを覚えているのは。
 あるいは、私は幻覚か妄想に取り付かれていたのか。本当は最初からそんな女の子いなかったのではないか。私は空恐ろしくなりました。
 せめてもの救いは、彼女の存在が証明されたことです。
 ここ人里には、満月の晩、幻想郷中の歴史を知ることのできる方がいます。その方がある日、困惑した様子で私の家を訪れました。何でも歴史の編纂を行っていたら、奇妙な事実があったという。可愛らしい女の子がいたことと、その失踪、相次ぐ怪現象に、両親の消失。これほど規模の大きな話が、私の耳に入っていないはずがないのに、そんな記憶はどこにもない。この歴史が本当なのだとして……なぜ私は知らないのか。
 慧音さんはそう言って……ああ慧音という名前なんです。そう言って、当惑あらわに私を見ました。私は私の知ることと、皆忘れてしまったのかもしれないという推測を伝えました。私が覚えているのは……きっと、私の能力によるものでしょう。求聞持の力、見た物を忘れない程度の能力ゆえに私だけは覚えている。
 何にせよ、慧音さんが『歴史』に見た以上女の子の実在は確かです。
 いたんです。
 いたはずなんです。
 ……私以外は、皆忘れてしまった。
 私はそれが怖くてたまらない。
 いつか私も、人知れずにいなくなって、皆の記憶からも消え去って、歴史の狭間にだけある幽霊のような存在になるのではないか。それともこれはこれが始めてのことではなくて、今までにも同じように幾人もの人間が我々の心から失われてきたのではないか。

 これが私のとっておきの怪談です。信じる信じないはあなたの判断ですが、少なくとも私は現実の出来事と認識しています。どうです? 参考にはなりましたか? ……反応が薄いですね。ではもう少し怖がらせることを言うと、あなた、そのいなくなった女の子にどことなく似ていますね。だから、もしかしたら次に消えるのは……






 ※※※







「ひゃあああああああああっ!?」
「うわわっ」

 突然の絶叫に、思わずのけぞってしまう。持っていた湯飲みが揺れて、少しお茶がこぼれた。目を白黒させて対面を見ると、怯えきった様子の少女がびくびくとこちらをうかがっていた。
 空のような水色の髪、傍らに置いた紫の傘、あどけない顔立ちは可愛らしく、ともすれば妖怪であることを忘れそうになる。
 多々良小傘は稗田の屋敷の一室にて、阿求と向かい合って怪談を聞いていた。
 語り部たる阿求は気を取り直すと、咳払い一つ、とりもなおさず続きを――

「次に消えるのは、そう、今目の前にいる……」
「たんま! たんま! ストップ! 待って!」
「いいところなのに。とびっきりホラァな怪談を聞かせてくれと言って訪ねてきたのはあなたではないですか」
「うぅぅ……言ったけどさぁ……」

 目尻に涙を浮かべた小傘は、悄然とうつむく。

「いやその……そういう次の犠牲者はとか、そういうノリはいらないっていうか」
「怪談としては割かしオーソドックスな締め方だと思うのですが」
「私は怖がりたくて怪談聞いてるんじゃないのよぉ」
「怖がるために聞くのが怪談でしょう?」
「研究」
「んー?」
「私は人間をより効果的に驚かす方法を模索すべく……」
「ばぁ」
「ひぃっ」

 両手を振り上げて身を乗り出すと、小傘は過剰なくらい驚いた。
 雨に打たれた子猫みたいに震え縮こまっている。
 何これ、可愛い。
 阿求は胸が高鳴るのを感じる。

「確かに、あなたは中々研鑽しているようですね」
「そ、そう? いやぁ、いざそう言われると照れる……」
「効果的に驚かされる方法を」
「なんで!?」
「効果的に驚かされるためには、心の防壁を取っ払うことが不可欠です。素直さこそが新鮮な驚きを生むのです。あなたは、そこのところよくわかっている。ここまで怖がりな妖怪は珍しい」
「な、ぬ、ぬ」

 ぷるぷるわなわな。唇をひくつかせる小傘。

「何を言うか人間! 馬鹿にしやがってー! ここで会ったが百年目! 積年の恨み、昔年のアダ、今こそ雪いでくれようぞ!」
「お手」
「わん!」

 手をかぶせてから、はっ、とした表情を作り、小傘は両の手を振り回した。

「いーぬーじゃーなーいー!」
「ところでお饅頭食べますか? おいしいですよ?」

 茶請けとして用意してあった饅頭を出すと、途端ぱぁっと顔を輝かせる小傘。
 現金なものである。
 阿求は思わず吹き出しそうになって、小傘に大層顰蹙を買った。

「失礼、失敬、不躾、無礼! 躾のなってない犬はあなたの方よ!」
「す、すみませんつい……。しかし犬なんて喩えられたのは初めてですねぇ。いいじゃないですか犬。私犬派ですので」
「にゃー! にゃー!」

 爪を立てて襲い掛かる小傘だったが、阿求は慌てずさわがず泰然と、どこからともなく取り出した猫じゃらしを前に掲げた。

「なんで持ってるの!?」
「世の中には大いなる誤解が蔓延っているようですが、犬派と猫派は本来相容れぬものではないのです。どちらも好き。それが圧倒的大多数であるはずなのです。ああも愛らしい生き物を前に、優劣をつけるなど畜生の沙汰。私は猫派でもある」
「ふぐぐ……こうなれば……えっと……呪ってやるわっ!」
「呪いって結構高度なものでは? 大丈夫ですか?」
「とことん失礼なやつね! あなたには用事があるときに限って雨が降り傘の見つからない呪いをかけてやる……! 精々濡れ鼠になって大好きな猫に追い回されるがいい!」

 小傘は何となくそれっぽそうなポーズを取ると、呪えー呪えーと祈りを捧げた。ものすごく効能が薄そうだ。

「そうですね。いざとなればあなたの手を借りましょう」
「ふん、あいにく私は猫じゃないのよ」
「自分でにゃーにゃー言ってたのに」
「もう忘れたわ」
「あなたのヒエラルキーは猫より下なのですね」
「飛ばない人はただの人よ。地面に這い蹲る虫けらなど私の食料に過ぎない」
「ところで話の続きなのですが」
「ここで無視!?」
「ひとまず実体験を怪談仕立てに話してみましたが、どうします? これ以外は書物などから得たものになりますが……」
「あ、うん。話してもらえる?」
「では」



 そうして阿求は、日が暮れるまで己の知る様々の怪談を語って聞かせた。ちょうど業務もなく暇だったのである。
 小傘が訪れてきたのはまだ朝早い時間帯のことだったが……



「ふぅ……」

 一息ついて、お茶を啜る。一日中話し続けていたから、喉が渇いて仕方なかった。

「ほひゃー」

 珍妙な声と共に小傘はぐったりとへたり込んでいる。元々怖い話への耐性は薄いのである。恐怖の値は振り切れて、とうに感覚が麻痺していた。

「しかしあなたは、本当にいい反応をしますねぇ」

 一日を振り返ってしみじみと言う阿求。小傘は面白いように怖がり、怯え、語り手としては冥利に尽きるものである。

「うぅー……うるさい。どうせ私は怖がりよぉ」
「楽しかったですよ」
「へ?」
「何だか、昔、彼女とこうしていたのを思い出します」

 阿求はどこか遠い場所を見つめるように、目を細めていた。

「彼女は……もういなくなってしまいましたけど」
「最初に言ってた、消えた女の子?」
「えぇ。あなたと似ていると言いましたが……本当に、似ています。あの子はとても素直な子で、私がからかうと、ふくれっ面をして、それでも私に付き合ってくれて……何だか、童心に帰れるんです。私はその時間が決して嫌いではなかった」
「……本当に、いたのね」
「疑っていましたか?」
「作り話かどうか半信半疑だったわ」
「無理もありません。私だって、我が事でなければそう易々とは信じられなかったでしょう。でも、いたんです。……確かに、いたんですよ」

 阿求はしばらく、茫っ、と虚空を見つめていた。

「……そういえば」

 思い出したように口を開く。

「あなたはどうしてここに?」
「いや、怪談を……」
「言い方が悪かったですね。どうしてここを?」
「ん? あぁ、それなら、人間達が話してるのを聞いたのよ。稗田の屋敷にはたくさん本がある……って」
「そうですか……また、来れますか?」
「……」

 小傘はそこで、ひどく悩ましげな顔をした。そして転瞬、何かを思い出したように目を見開き、

「あっ」

 と漏らした。

「どうしました?」
「う、ぐ、ぐ……くふ……危ないところだった……! 危うく人間のひれつな罠にかかるところだったわ……!」
「なんと……私は無意識のうちに罠をはりめぐらせていたというのですか!」
「そうよ! あなたは私が人間に恨みを持っていると知りつつ私に接近し……」
「あなたから尋ねてきたのでは」
「そして怪談を話して怖がらせ、言葉の応酬で距離感を縮め……」
「ふむふむ」
「そして私と親しくなることで……えっと、何をしようとしてたの?」
「知りません」
「使えないわね」
「あなたが何を言いたいのかいまいちわからないのですが」
「ともかく! 人間は私の敵なのよ、敵! 人間なんかと親しくする義理は……な、ないわ!」

 小傘は手負いの獣のように警戒した視線を阿求へ向けた。

「そ、それじゃあ!」

 トレードマークである紫の傘を引っつかむと、律儀に挨拶を残して走り去っていく。どたどたと慌しい足音と共に、喧騒も賑やかさもあっという間に見えなくなった。

 阿求はといえば、呆然と口を開くばかりである。
 何か、気に障るようなことをしただろうか。

(心当たりがありすぎて困る……!)

 幻想郷の慇懃無礼人里担当といえば阿求である。小傘に散々言われたように、失敬な言動をしていたという自覚はあった。阿求としては、相手が本当に嫌がるようなことはしないよう心がけているつもりだが、今日の会話の中で何か相手の琴線に触れることを言ってしまったのかもしれない。

 にわかに、後悔が押し寄せてくる。
 少し、はしゃぎすぎた。

「……はぁ」

 ため息が出る。
 ……楽しかったのだ。
 もう手の届かないあのときに戻ったようで、本当に。
 彼女は、またここへ来るだろうか。
 それとも――

(考えても仕方ありませんね。どちらにせよ、過去は取り戻せるものではない)

 ぼんやりと、すっかり暗くなった室内を眺める。
 気分転換に、お饅頭を一つと思い、手を伸ばし――

「あれ……?」

 一つ足りなかった。小傘の食べた分、阿求の食べた分、それでもまだ残っていた分。阿求の記憶と照らし合わせると、一つ饅頭が欠けている。
 ちゃりん、と音がした。
 見ると饅頭を乗せた盆の上に、いくらかの硬貨が転がっている。お饅頭の代金を払ったみたいだ、と思った。
 震えが走る。

(誰が――)

 嫌な予感を覚えた。何か不吉なことが始まるのではないか。それは黄昏た部屋の情景が見せた錯覚だったのか。それとも――






 ※※※






 その翌日のことである。
 寒天に秋風のびゅうびゅうと吹く肌寒い朝だった。

「いなくなったんだ」

 稗田邸を訪れた上白沢慧音は深刻な顔であった。端正な眉がぎゅぅ、と寄せられ年中しかつめらしい顔立ちも今はしかめっつらを浮かべている。

「えっ?」

 呆然と、間の抜けた声が出る。
 阿求はぱちくりとまばたきを一度、外で鳴く風の音にも負けるような小さな声で、

「いなくなった?」

 オウム返しに問い返す。

「いなくなったって、誰が?」
「……子供が、一人。いなくなったんだ。今朝通りを歩いていたら、血相を変えた女性に呼び止められてな。何でも、目が覚めると隣で寝ていた子供がいなくなっていたという」
「……早起きした子供が退屈まぎれに散歩でもしに行ったのでは……?」
「怖がりで大人しい子供だったそうだ。まだ五の歳も数えていない。そんな子供が早朝外を出歩いていたら、普通誰か見咎める。ちょうど誰も起きていなくて、見つからなかった可能性もあるが……」
「家の中に隠れているとかは?」
「その女性……子供の母親も、家中くまなく探し回ったという。それが、見つからない。しかたなく里の人々に聞いて回っていたのだそうだが……やはり、誰も知らないという。その矢先私にも声がかけられたんだ」
「えっと……」

 咄嗟に次の言葉を探す。子供がいなくなった。その事実はあの事件を髣髴とさせる。阿求の胸中に今も暗然と輝く恐ろしい怪異の記憶をである。
 まさか、まさか。
 嫌な予感。
 違う。違う。
 否定しようとする心。

「……でもまさか、里の外まで歩いていったことはないでしょう。里の外は危険な場所だと、子供達は皆教えられている。ましてや怖がりな子供が、そんな場所には……」
「私もそう思う。里の外へ自分から出て行ったとは考えにくいのだ。今有志の手を募って里中を捜索させている。それで見つかれば、そういうことだ。それで見つからなければ……」
「……」

 その先は聞きたくない。

「……私が今考えていることが、あなたにはわかるはずだ」
「……わかりませんね。あいにくと、私はサトリではないんです」
「妖怪が人里で子供をさらうことはない。そういうしきたりになっている」
「ルールを守れない妖怪がいたのかもしれません」
「そんな輩も昔はいたがな。たいがい、妖怪の賢者に折檻されて大人しくなった。……さっき言ったように、子供が自分で出て行ったとも考えにくいんだ。人間の悪人がさらった可能性も考えられるが……私は――」
「まだ、わかりませんよ」
「無関係だとは思えない。子供の失踪は、どうしてもあれを思い起こす」

 苦々しい色を浮かべて、慧音が言う。
 阿求は沈黙した。

「何にせよ、警戒して然るべきだ。またあれが、始まったのかもしれん」

 慧音の目はどこか遠くを見るように細められていた。痛恨な後悔と不甲斐なさを映した目だ。

「あなたは、どうするつもりで?」

 どうにかそれだけしぼり出した。

「里の者達に警戒を呼びかけるよ。それから、方々に捜索願を出す。できればこの怪現象の真相を暴きたくはあるが……今のところ、それくらいしか私にはできないんだ」

 慧音はずっと、渋面を浮かべている。

「あなたは無能でも無力でもありませんよ」

 事前に、釘を刺しておいた。

「無茶はしないでください」
「なんだ。お見通しというわけか」

 慧音は驚いたように目を開き、

「やっぱり、わかっているんじゃあないか」

 愉快そうに笑うと、ありがとう、とだけ言葉を残して吹きすさぶ秋風のもとへと出て行った。
 じくじくと焦りが胸をさいなむ気がした。
 不吉な予感が骨のあちこちに染みていたが、それを拭うすべを知らない。
 せめて大事になりませんように――そう祈って、すっかり冷めた茶を啜る。






 ※※※





 またぞろ翌日のことである。
 幻想郷はくれないに染まっていた。縁側から眺めるのは稗田邸の庭に植えられた幾らかの木々。ついさくじつの報せを聞くまでは、紅葉した木々はまるで恥らい上気した乙女のようにも見えた。が、今の阿求の目には焦燥に駆られ死に急ぐ老人の沙汰と見える。

 そんな折、また来客があった。
 まさかと思っていれば、やはり慧音だ。
 昨日より一層表情を険しくして、巌のような形相である。

「何か、わかったんですか?」

 尋ねる阿求の胸には期待と不安があった。

「……それが」

 慧音はとても言いづらそうにしている。
 期待などすぅ、と霧消してしまう。

「なんですか。心の準備はできています。はっきりと言ってください」
「………………また消えた」
「……」

 心に立ったさざなみを抑えるべく、お茶を飲もうとした。
 かたかたと湯飲みが震える。
 思った以上にショックを受けたらしい自分に気づいて、うんざりした気分になった。

「……また、子供でしょうか」
「子供だ。同じくらいの年頃の、男の子だな」
「……そういえば、昨日消えた子については聞いていませんでしたね」
「女の子だ」
「何か共通点なんかはないんでしょうか」
「これは前の……前のは確か、五年ほど前だったかな」
「私が十を数えていない頃ですから……それくらいですね」
「前のとき消えたのは女の子一人とその両親だったな」
「ええ」
「うぅん……あまり共通点らしい共通点は見当たらない。今回は子供ばかり消えているが、ただ一回連続しただけだから、偶然かもしれない」
「下手人は、どんな輩でしょう」
「妖怪か、人間か」
「あるいはそれ以外の何か」
「心当たりがあるのか?」
「いえ……。ただ、時々思うんです。これではあまりに、不可解すぎる。だってここは幻想郷ですよ? 妖怪の賢者たちは言うに及ばず、常人には想像もできないような能力を持った妖怪や神がごろごろしているんです。その誰にも気づかれず犯行を成し遂げ、挙句我々の記憶からも消えてしまう。そんなこと、いったいどんな力があればできるんでしょう?」
「記憶を操作する程度の能力」
「……あまり考えたくありませんね」
「可能性としては否定できないな。……そもそも……」
「私はあなたを疑ったりはしませんよ」
「……まだ何も言ってないんだがな。本当にサトリだったりするんじゃないか」
「確かに、あなたの能力なら記憶操作の真似事ができなくもありません。でもそれは規格外の妖怪には通用しないはずでは?」
「……そうだ。以前、夜が長引く異変があったな。あのときも、隠したはずの人里をあっさりと見抜かれて驚いたものだよ。私の力など、所詮その程度に過ぎない」

 その自虐はどこか強い実感を含んでいた。
 阿求はその気持ちを理解できる気がする。
 この怪事件に関わって、その記憶を保つ唯一の人間として、何もできないことが歯がゆいのだ。慧音は言うに及ばず、阿求だってこの郷を愛している。人里には、たくさん知り合いがいる。そのうちの誰かが消えていくのを、黙って見ていることしかできない。
 不甲斐ない。
 なんて様だ。
 誰にともなく、毒づきたくなる。
 そのもやもやを、目の前の半獣と共有しているような気がした。もし、何か少しでも役に立てれば――。

「……慧音さん」
「?」
「私、記録をとってみます」
「この事件の記録か?」
「えぇ。私自身には記録をとる意味はないのですが……もしかしたら、それを後々“忘れてしまった”人間に見せることで、思い出すことがあるかもしれない。そうでなくても、そうした事件があったという事実が残る。より多くの人がこの事件を知り、解決したいと思う。そうすれば、道が開けるかもしれない」
「……わかった。私に協力できることがあったら言ってくれ。可能な限り尽力するよ」
「ありがとうございます」

 ぺこり。頭を下げると、対面から慌てたような気配が伝わってきた。

「あ、頭を上げてくれっ。私こそ感謝しているんだ。もしこの事件を知るのが私一人だったら……私は自分の正気を信じられなくなっていたかもしれない。同じ過去を共有できる相手がいるだけで、救われるんだ。だから」

 必死に言葉を並べる慧音に、阿求はくすくすと笑った。
 からかわれたと思ったのか、慧音が素っ頓狂な顔になる。

(違う。違うんですよ)

 なんだか、ひどく心が安らいでいた。
 慧音が来るまで、ずっと考えていた。この事件のこと、忘れられた人たちのこと、その行く末のこと、悲しいことを。
 言いつくろうまでもなく、恐怖は胸をたゆたっていた。
 こんな、何気ない会話が心を癒してくれる。ちょっとした人との関わりが気分をやわらげてくれる。孤独というのは、恐ろしいものだ。一人じゃないのは、素敵なことだ。
 そんなことを考える。

「慧音さんもがんばってくださいね」

 その励ましには、精一杯の誠意を込めたつもりだ。

「……ああ」

 慧音は厳かにうなずいた。
 相変わらず堅苦しい。
 それもなんだか楽しく思えて、阿求は一層笑みを深くする。

「……もう。笑わないでくれよ」

 そう言いながら満更でもなさそうな顔で、慧音は稗田邸を後にした。
 また、屋敷に一人。
 その空隙に恐怖が染み渡るより早く、やらずばならぬことがある。
 思い立ったが吉日である。

 阿求はその日のうちに、事件の記録を書き始めた。






 ※※※





 それからまた、数日が過ぎた。
 書斎で黙々と筆を滑らせていると、下女が来客の報せを告げた。
 やはり、慧音であった。
 何か“進展”があっただろうかとおもむろに腰を上げる。しばらく座りっぱなしでいたので、節々が妙に凝っている。頼りない足取りで玄関へ向かうと、最近すっかり見慣れたあの顰め面を浮かべて、慧音がこちらを見据えていた。

「……何か、ありましたか?」

 平静を装って阿求。おそらく、悪い報せなのだろうなと思った。
 案の定、慧音はうなずいて、

「……悪い報せと悪い報せがある。できれば、立ち話は避けたいな」
「えぇ」

 客間に慧音を通すと暖かい緑茶を用意した。阿求はどちらかというと紅茶派だが、慧音の好みは緑茶である。「ありがとう」と一言告げて、とりもなおさず茶をすする慧音。よく見ると、若干血色が悪く見える。事件に胸を痛めているのだろうと思ったとき、外でびゅおうと強風が吹いた。それで、昨夜が大雨であったのを思い出す。

「今日は、冷えますか」

 血色が悪いのもそのせいかもしれなかった。

「ああ、冷える」

 言葉少なに慧音が答える。今朝方まで降り続いた雨のせいで秋としてはやけに空気が湿気ていた。悪い報せを伝えに来た慧音は、しばし眉を顰めたまま黙考していた。
 それほど、言いづらいことなのか。
 身を固くして、ひっそりと覚悟を決める。阿求はこの数日間ずっとこの事件……あるいは“怪異”にまつわる記憶を書き留めるばかりで、外出などしていない。外で恐ろしいことが幾重にも起こっていたとて知る由もなし。
 沈黙は数十秒ほど続いた。

「悪い報せの一つ目だ」
「……はい」
「また一人、いなくなったよ。また子供だ。年端も行かない女の子。子供ばかりがいなくなる」
「……前のときとは、傾向が違いますね。やはり別人の犯行なのでしょうか。……そもそも、前のときと同じ類の事件かもしれないというのも、考えすぎかもしれませんけど」
「悪い報せのもう一つだ」

 出し抜けに慧音が言った。
 虚をつかれて目をしばたかせると、慧音は低い声で唸り、

「今までは憶測の域を出なかった。だけど、“同じ”なんだ」
「……同じ?」
「ある者が、夜道で女の子の泣き声を聞いた。雨がおのずから人を避けるという怪奇が起こった。どこからともなく声が聞こえてくると言う者がいた」
「……それは」
「前のときと同じなんだ。人が何人かいなくなったあと……怪現象が同時多発的に発生する。少なくとも、一連の失踪事件と無関係ではないだろう。類似している。以前起こったアレと、似通いすぎている」

 苦々しい慧音の声。阿求は何かを言いかけて、口をつぐむ。自分でも、何と言おうとしたのか判然としない。ただ、声が出ていればきっと慧音のそれと同様の苦々しさを含んだだろう。

「……やはりアレは、再現性があるのですか」
「そう考えるのが自然だ。どれくらいの周期で起こっているかはわからないが……今までにもきっと、何度かあったんだ」
「おかしいじゃないですか。私はそんなの、覚えていない。あなただって、そうでしょう」
「“忘れてしまった”とは考えられないか?」
「……馬鹿な」
「稗田殿」

 名前を呼ぶと共に、じっと揺れる瞳が見つめてくる。阿求はどうにも、二の句をつげない。

「我々は“能力”を持っている。あなたは求聞持の力を、私は歴史に関わる力を。……昔、考えたことがある。こうした“能力”はたいがい概念的で、抽象的なものだ。もし二つの相反し矛盾する能力がぶつかり合った場合、どのような結果が反映されるのだろうと」
「……それは……」
「例えばありとあらゆるものを破壊する程度の能力。あの吸血鬼の館には、そんな能力を持つものがいる。……大陸の故事をなぞるようだが、これがもし“いかなることでも壊れない程度の能力”を持つものに向けて使われたら、どうなると思う?」
「……試してみないことには何とも言えません」
「おそらくそれは、実力次第なんだ」

 慧音はいやに確信めいた口調で言った。

「実力?」
「それぞれに逆のベクトルを持つ二つの力がぶつかりあったとき、より大きな力を持つほうがもう一方を押し込んで先へ進む。それと同じで、正反対の能力二つが衝突したとき、生じる結果は単純に能力の持ち主の実力によるのではないか、と。私が以前永夜異変で里の隠蔽を見破られたのも、そうだ。能力は絶対のものではない。実力的な隔絶がある相手には通用しない場合がある。もし誰かが本当に“記憶”を操作できて、かつその実力が我々を大きく上回っているならば――」

 いかに忘れじの法を持とうと、忘れてしまうこともあるのではないか。
 慧音の弁舌はそうして終わった。
 恐ろしい想像だと阿求は思う。
 もし本当に、誰かに記憶をいじられているのだとしたら。
 自分の信じる自分の過去が、絶対のものでないのだとしたら。
 己の目すら、信じられぬ。今あるものすら、疑わしい。そんな極めて悪辣な能力を持つものが本当にいるのかはさておき、その可能性があるというだけで心胆寒からしむには十分すぎる脅威であった。

「……それに、もう一つ」

 だが、慧音はそれで止まらない。
 いっそ耳を塞いでしまおうかとも考えたが、聞かずにいるのも恐ろしく――。

「そもそも、忘れないとはどういうことだろう」

 唐突な質問だ。
 阿求は一瞬悩んで、即座に答えを返した。

「いつでも思い出せることです」
「あぁ。忘れないとは言っても常にそれらが念頭にあるというわけではない。人の意識は波打つ海のようなものだ。寄せては上げる波にもまれて、埋もれていた氷山の一角が、あるいは表層を漂っていた木片が見え隠れするのが意識するということ。意識するとは思い出すこと。普段は知識も思い出も無意識の水底に小石のように沈んでいて、それがふとした拍子にかきあげられて、意識の上に出てくる。忘れないというのは、そのプロセスをいつでも踏めるということだ」
「……それは、そうですが、それがどうかしたんですか」

 いまいち話の要旨がつかめない。
 何か阿求の能力について言及しようとしているらしい雰囲気は察せられるが……回りくどい言い方は嫌いではない。が、今はただもどかしく感じる。
 慧音はふと、立ち上がった。
 阿求の不審な視線の見つめる先、おもむろに障子を開けたかと思うと中庭を見通せる廊下に立ち、空の三割ほどを覆っている薄く灰色がかった雲を指差し、ぽつりと、

「雲について」

 と言った。

「はぁ」

 よくわからないままに相槌を打つ。
 慧音が続ける。

「雲について、どう思う」
「……そうですねぇ。嫌いではありませんよ。何日も日光を遮っていると鬱陶しく感じることもありますが、時には風情を演出してくれますし、夏の暑いときには感謝したくなるくらいです」
「すらすら出てくるものだ」
「まぁ、そんなものでしょう」
「ところで、つんでれ……だったか。つんでれについて」
「話がよく飛びますね」
「つんでれはご存知で?」
「いえ、知りません。あ、勘違いしないでくださいね。別にあなたに解説の機会をあげようだなんて思ってないんですからね。本当に知らないだけですからね」
「……」
「……それで、続きは」
「こほん。知っているようだから、つんでれについての説明は省こう。つんでれとは極論すれば“素直になれない”か“認めたくない”の二通りに分けられると思う。その後者について話したい」
「認めたくないというと、だれそれを好きなのを認めたくないとか、そういうことですか?」
「あぁ。例えは別につんでれじゃなくてもよかったんだが……そうだな、例えば、ここに異常殺人欲求を持った人間が一人いるとしよう」
「物騒ですねぇ」
「彼はその欲求について他人に公言するだろうか」
「普通しませんね。モラルや社会的常識が許してくれませんから」
「そうだ。殺人欲求なんてもの持っていないなら持っていないに越したことはないんだ。そっちのほうがはるかに生きやすいからな。誰しもそのことをわかっている。だから、仮にそんなものあったとして普通他人においそれと言ったりはしない」
「……もしやそうした殺人欲求を持ったものがこの事件を起こしていると、そういう話ですか?」
「いや……少し迂遠な回り道をするが、もうしばらく付きあってほしい。ここで大事なのは、仮に本当にそうした欲求を持つ人間がいたとして、その人間に無意識が関与してくる可能性だ」
「そこで無意識ですか」
「さっき殺人欲求なんぞ持っていないほうが生きやすいのには間違いない。それを誰しもわかっている。そう言ったが……」

 そこまで言われて、ようやく慧音の言いたいことを察する。
 阿求はすぅ、と目を細め、

「“ないものとすることができる”。そうですね?」
「そうだ。人間はあらゆる意味での社会的空間で生きていく上で都合の悪い感情や嗜好を“始めからないものとして”扱うことができるんだ。それが無意識の力だ。気づいていながら隠し通そうとするより、はじめから“気づいていない”ほうがはるかに生きやすいんだよ。さっき、私はあなたに雲についての感想を聞いた。答えは淀みなく返ってきた。それは、雲に対していかなる感情を持っていようと社会的には何ら困らないからだ。しかし、これが社会的に認められていないものに対する感想を聞いていて、かつもしもあなたの無意識にその嗜好が眠っていた場合……失礼な仮定ではあるが……あなたはもう少し言葉に詰まったかもしれない。しかし、それでも認めることはなかっただろう。そういうものだ。良いか悪いかではなく、そういうものなんだ」

 慧音がそう語るのを、阿求は黙して咀嚼する。人間の表層意識はその無意識と比べればほんのわずかなものに過ぎない。本人でも気づいていないことや、忘れてしまったこと、もう思い出せないこと――。
 無意識はパンドラの箱である。
 知るべきでないことは全て無意識が知っている。それは知るべきではないから、やはり知ってはいないが、無意識にだけは嘘をつけないのだ。
 ガラクタのたくさん詰まったおもちゃ箱のように。
 美しい思い出と不要なものが雑然と満たされた空白の意識が誰の心にも存在する。

「だいぶ脱線した気がするが……話を本筋に戻そう」

 思考の海をさまよっていた意識が、慧音の言葉に浮上する。
 慧音の端正な睫毛は物憂げに伏せられていた。

「私が言いたいのは、あなたの能力にも例外があるのではないかということだ」

 しばし、その発言の意味を考える。
 例外。
 例外とは何か。
 見た物を忘れない絶対記憶の能力の穴――。
 それが、あるとしたら。

「あなたは見た物を忘れない。つまり、いつでも思い出すことができる。しかし例えば、もしそれを思い出すことで多大な不都合があなたに起こるとしたら、あなたの無意識が想起に制限をかける可能性はないだろうか」
「……それが、例外ですか」
「そうだ。そしてもし、“本来思い出しても問題のないもの”を、“思い出すべきではないもの”と錯覚させる力があれば……」
「その場合も、私の能力は正常に作用しない可能性が、ある……?」

 慧音は無言で、重苦しく肯(がえ)んずる。
 くらり、と目の前が薄暗くなった。
 考えたこともなかった。
 阿求はずっと、自分の能力は絶対のものだと思っていた。それは、勿論、一切合財を覚えているわけではない。転生のさいに前世の記憶はある程度失ってしまうのだ。しかしそれをのぞけば、自分が何かを思い出せないことなどありえないと、今までそう信じてきた。
 確かだと思っていた足場がぼろぼろと脆く崩れ去っていく感覚。
 自分の記憶を頼りにできないなら、何を信じればいい。
 喉がつまるような感じがして、息苦しく、お茶をすすってはみたものの、満たされない。

「だから、こう思うんだ。もしかしたら、こうした事件は昔から何度も起こっていたのかもしれない。そしてそれを我々は忘れ続けてきたのかもしれない。……そんな気がして、怖いんだ」

 こぼすように漏れた慧音の弱音。
 彼女もまた気に病んでいるのだと感じた。

(……しっかりしろ。こんなことでは、この事件は何も解決しない。私が……例え忘れてしまうのだとしても一番記憶のはっきりしている私が、泰然とせず何とする)

 かぶりを振って、激励する。
 今考えるべきは、そんなことじゃない。

「……慧音さん」

 その声は震えてはいなかっただろうか。

「でもそれだと、おかしくないですか。私が忘れた可能性についてはそれでいいとして、あなたは毎月幻想郷の歴史を網羅する。過去に同じ事件が何度も起こっていたのなら……あなたはそのたびに事件の影に気づいていたはずです。しかし、あなたが私のもとに駆け込んできたのは五年前が初だったじゃないですか」
「それ自体忘れていることも考えられる。あるいは、これほどの規模ではなかったのかもしれない。何人も連続で失踪してその記憶がなければさすがに不自然だと感じるが……例えばほんの一人気づかぬうちにいなくなっていた、ということならそこまで不自然じゃないし、その歴史を編纂したとき気に留めなかっただけかもしれない。今でこそ里の中では安全を確保されているが、昔は妖怪が里から直接人を攫うことも間々あったのだ」
「……」

 そう言われると、反論のしようがなかった。
 過去に似たような事件が複数発生している可能性は否定しきれないのだ。

「……今回消えた子供達のことも、そのうち忘れてしまうのでしょうか」
「……それは、嫌だな」

 湿気た室内に長い沈黙が降りた。

「そうならないために」

 慧音が決然と言う。

「私は、できる限りのことはしたい」
「……私もです」

 阿求は少し自信なさげに、それでも瞭然と答えた。
 そうして、その日の訪問は終わった。
 慧音はそのご残っていたお茶を飲み干すと稗田邸を後にし、里の雑踏の中へ消えていった。里人達に聞き込みをしたり、捜索の手伝いをしたりするのだろう。そうして、慌しく時間が過ぎていくのだ。
 慧音は去り際、「次の満月の夜、歴史を編纂した後にまた来る」そう言い残していった。それまでには、事件の記録も完成させておけるといい。そう考えて、阿求もせわしなく執筆に戻る。覚えていられるうちに、覚えていることを全て書き記してしまいたい。

 秋の、いよいよ深まっていこうかという頃である。
 嫌いじゃないと言った薄灰色の雲のした、鮮やかな紅葉の木々はどこかくすぶっているように見えた。

 ……
 ……
 ……




 ※※※





 宣言どおり、満月の晩が明けた頃に慧音は訪れた。

 予想と違ったのは彼女がぜぃぜぃと息を切らしていたことだ。よほど急いできたらしく、額に汗をかいている。しかし全身がじっとりと濡れているのは汗のせいだけではないだろう。
 昨夜は本月二度目の大雨だった。
 一度目のときより、よっぽどひどい。
 ざぁざぁと屋根に打ち付ける雨音があまりに騒がしいものだからろくに眠ることもできず、阿求の目のしたにはかすかに隈が見えている。雨は今も降り続いていた。
 慧音は濡れそぼった傘を閉じると、申し訳なさそうに「濡れているが、構わないか」と聞いた。構わない、と阿求は答えた。


「どうして、忘れていたんだ……ッ!」


 部屋に移ったあと慧音の口から最初に出た言葉が、それだ。
 悔恨の念をありありと浮かべている。
 本能的に、ぞっとした。
 何かよくないことが起きたのだと悟るに十分すぎるほど、慧音の目は揺らいでいた。

「……忘れていたとは、何を忘れていたんですか? その、あの消えた子供達のことを……?」
「……いや、違う」

 慧音は首を振る。

「何か、事件の黒幕について気づいたことが?」
「……いや、違う」

 慧音はやはり首を振る。

「……では……」

 困惑する阿求。いったい、何を忘れていたのか。心当たりは、他にはない。

「とんでもない、とんでもないことだ。私はずっと、消えるのは――」

 ピシャァッ。

 雷がすぐ近くで鳴った。その爆音に、よく聞き取れない。

「今、なんて?」
「こんなに、こんなに早く忘れてしまうものなのか――私が最後に会ってからまだほんの一週間もたっていなかった! なのに、忘れてしまった!」
「あ、あの慧音さんっ。さっき何と言ったのか……」
「私は何か、とんでもない思い違いをしていたのかもしれない――これは、私が思っているより、もっとずっと厄介で、危殆な事件なのかもしれない。幻想郷のパワーバランスを担うものたちが被害に遭いでもしたらそのときは――」
「慧音さんっ!」

 阿求が声を張ると、ようやく慧音は言葉をとめた。
 はっ、とした様子で阿求を見つめている。

「あ、あぁすまない……」
「どうしたんですか……異様ですよ。そんなに、取り乱して。いったい何があったというんです」
「歴史を――今月の歴史を、あらためていたんだ」

 慧音は言う。

「私はまだ失踪した三人の子供たちについてしっかりと覚えていた。記憶から消えるのも、まだ先のことだろうと思っていた。だが――いやそもそも――」
「慧音さん、落ち着いてください! そんなに焦っても、事態は好転しないんです」
「……そ、そうだな。そうだった……」

 慧音は二度深呼吸をした。
 そして。


「いなくなったんだ」


 阿求はふと、思い出す。
 阿求にこの怪異の再出を伝えに来たとき、慧音が同じことを言ったことを。
 何かが、始まる。
 そんな予感、恐ろしい予感。
 また、始まる。
 それか、とうに始まっていた。
 そう考えたとき、頭を過ぎったのはいつぞやの光景。“ちゃりん”と硬貨の音を残して去った姿なき何者か。そして、その前、ここを訪れた――。



 誰が、訪れたんだ?



「あ――?」
「いなくなったんだ。人間だけじゃない。“この事件は妖怪をも失踪させる”」


 阿求は愕然としていた。
 そして、慧音は呆然とした、どこか魂の抜けたような声で、


「私はその妖怪と何度か顔をあわせていた。つい一週間前に話をしたばかりだった。歴史には、そのことが書かれていた……私は覚えていない……私はそんな妖怪知っていないッ! 消えたんだ!! 消えたんだ……! 私の記憶から、すでに消えていたんだ!!」



 慧音は言った。

 多々良小傘とは、何者なのだと。

 ……
 ……
 ……







 ※※※


(略)

 ああ、なんと恨めしい。
 これから記すのは、ひとりの妖怪少女のきせきである。

 人里近くに命蓮寺が建って幾ばくか、大規模な異変もなく一見平穏だったと思われている空白の期間。
 誰にも話さず、“彼女”がひっそりと抱え続けた懊悩と、その顛末について私は語らなくてはならない。

(略)


 ※※※







 時間を、少しさかのぼる。



 あれは秋にしては暖かい晴天の日、うららかな風にその喧騒をやわらかく包まれた人里、その一角の屋敷で、少女がおどろおどろしい怪談を語っていた日のことだ。

 小傘は夕焼けのくれなずむ通りを慨然とさまよっていた。
 阿求の屋敷を訪れて、日がな怪談話を聞いていた、その日である。
 胸のうちから突きあがってきた衝動にうながされるまま屋敷を飛び出した。そのあとはただ漠然と、心をさわがす益体のない影を抱えたまま、人間たちの影法師をすり抜けるように里のあちこちを歩いていたのであった。

 ひどく、気分が沈む。
 もやもやする。
 胸をかきむしりたくなるような正体不明のさざ波が心臓の内壁を叩いているみたいだった。

 なぜ阿求のもとを飛び出したのか――その答えはようとして知れぬ。ただ、「また、来れますか?」という一言を聞いたとき、ふと気づいたのである。自分が人間と仲良くおしゃべりに興じていたことに。それを、どこか楽しいと感じてしまっていたことに。それに自覚的になった途端、感情が爆発した。やり場のない憤りのような、悲しみのような色彩がぐちゃぐちゃと混ざり合って目の前を暗くした。一刻も早くその場を離れなければならぬ――そうした一心に突き動かされるまま、屋敷を飛び出し、息が切れるまで走ったあとは、空虚を覚えるばかりであった。

(なんなんだろう……なにがそんなに、嫌だったんだろう)

 稗田阿求という少女は、悪い人間には思えなかった。

(それはもちろん、口は悪いし意地悪だけど……)

 時にはその優しさが垣間見えた。表面上ひねくれていても、根はまっすぐなのだろうと感じた。
 いや、そもそも。

(彼女だけじゃない。早苗だって、そうじゃあないの。人間にはいいやつもいるんだ。それはもちろん知っている。悪いやつばかりじゃない。物を粗末にするやつばかりじゃない。それは、わかってる)

 なのに、人間について考えるとき、そこに一抹の抵抗を覚えずにはいられない。

(昔、人間に捨てられてあちこちを飛ばされていつの間にか妖怪になっていたけど――)

 まだ妖怪に成り立てだったころ、小傘の胸には二つの大きな感情が逆巻いていた。
 ひとつは、人間が恨めしい気持ち。なんで、自分を捨てたのか。デザインが悪い、配色が悪い。そういうこともあるだろう。人の趣味嗜好というのは千差万別であるから、それはいい。それはいいのだ。しかしその後誰に拾われることもなく、ただ風に飛ばされ続けた。ずっと、雨に打たれ続けた。寂しかった。悲しかった。自分に米粒ほどの価値もない気がした。道具として使ってもらえない道具など、道具ではない。意味はない。私物となって初めて道具となれる。私物でない道具とは死物、人にその存在を求められなくなったときが、道具が死するときなのだ。
 そのありようは、どこか妖怪に似ている。

(ああ……そうだった)

 妖怪になったときのことを、思い出す。
 梅雨の時期だったか――連日雨が降っていた。
 傘は雨に打たれてこその傘である。雨が降るのを喜びこそすれ、嫌がる道理はないはずだ。
 だが、そのときは雨が疎ましかった。
 雨が降っていると、それが自分をひたひたと濡らしていくのを感じていると、自分が誰にもかえりみられない死物であることを一層強く意識する。誰も差してくれない寂しさを、いやおうもなく感じてしまう。いつしか、雨を嫌っていた。それは傘としての己を否定することである。
 そうして、妖怪になったのだ。
 傘でなくなった先、妖怪という別の形があった。

(もうひとつ)

 小傘の胸にあったのは、そうした恨めしさと見返してやりたいという気持ち。
 自分をかえりみなかった人間たちに、己の存在を刻み付ける。
 だから、驚かしてやろう。
 そう考えた。
 そういう次第である。
 そのはずだ。
 そのはずなのだ。
 が。

(なんだろう……なにか……引っかかるような……)

 己の内面深くに沈めば沈むほど、何かが違う気がしてくる。
 何か、誤認しているような。
 大切なことに気づいていないような。
 もやもやとした気分になる。
 今も、そうした気分にさいなまれるまま、あてもなく、やるせなく、ただぼんやりと里の通りをさまよっているのであった。

 ぽふん、と何か柔らかなものに顔が当たって、意識が現実に引き戻される。
 慌てて顔を上げる。
 銀色の髪の、奇妙な帽子をかぶった女性が立っていた。
 目をしばたかせて、こちらを見下ろしている。

「あぁすまない。ちょっとぼんやりしていたよ」
「あ、うん、そう……? こちらこそ……?」
「前方不注意を戒めるようなことをいつも言っている私がこれでは、しようがないな」

 女性は苦笑いを浮かべて、その場を立ち去っていく。
 小傘はやはり、ぼんやりと見送った。
 どうも気分が直ってこなくて、力が湧かない。
 こういうときは、なにをしても駄目になるのだ。
 そう結論付けて、この日はひとまず帰ることに決める。
 踵を返す。
 その一歩目を踏み出そうとする。

 次の瞬間、見覚えのある顔が目の前にあった。

「わっ!?」

 驚いて、転びそうになる。

「あら? 久しぶり?」

 突如眼前に現れた少女はそんなとぼけたことを言った。

「久しぶりって……つい数日前に会ったばかりじゃない」
「そうだっけ? あー? そうだった気もする」

 そう言って首を傾げるのは古明地こいし。彼女はいつだって自分の行動に無自覚だ。

「そういえば、うまいよね」
「? なにが? あなたの好物なんて知らないわよ」
「お饅頭もおいしかったけど……ほら、あの怪談の人。中々の語り上手だったわ」

 こいしが当然のようにそう言うものだから、小傘は暫時、認識が遅れた。

「!? それって、あの人間? えっと、ひえ、ひえ……」
「ヒエーダ?」
「そう、それ! じゃなくて! あなた、ずっとあそこにいたの!?」

 あそこ、とは阿求の屋敷のことである。もっと言えば、阿求から怪談を聞いていたとき、こいしはずっと傍にいたというのか。
 怪談の人、と聞いて思いつくのは彼女しかいない。そしてそれが正しいとするならば……

「うん? そうだけど」
「な、な、な……」

 こいしの能力、無意識で行動することで他者の認識の死角に入り込む力については本人から聞き及んでいた。聞いていただけで、深く考えはしなかったが……。
 極端な話、こいしがその気になれば気づかれずに四六時中ストーキングを行うことができるのだ。
 怖気が走る。
 無意識のうちに、一歩足が引いていた。
 こいしは、ほんの、ほんの一瞬だけ寂しそうな表情を見せた。
 それで、自分が彼女から距離を取ろうとしていたことに気づく。

「う……す、すとーきんぐは犯罪よ!」
「ん、そうなの? それじゃ私重罪人じゃない」
「常習犯だった!?」
「何だか気になったんだもの。どうしようもなく、気になるのよ」
「わ、私なんか食べてもおいしくないわ!」
「食べるとかじゃなくてねー。むしろあなたが食べられる?」
「食べるんじゃない!」
「食べるのは私じゃないわ。ただ、気をつけたほうがいい。あなたは何だか災難に見舞われそうな予感がする」
「そんなインチキ占い師が言いそうな……」
「失礼ね。私のは占いなんかじゃないわ。最初っから直感よ」
「なお悪いっ!」
「……あっちのほうが、騒がしいの」

 小傘はびくっ、と肩を震わせて後ろを振り向いた。
 あっちのほう、と思しきところを見てみたが、そこにはいつもどおり里の喧騒が広がるだけだ。

(あれ……?)

「あっちの、ほう?」
「あっちのほう。ほら、わからない?」
「何のことを言ってるの……?」

 なんだか、段々恐ろしくなってきた。目の前に飄然と立つ少女。古明地こいし。サトリ妖怪だったもの。さっきからわけのわからないことばかり言っている。自分と彼女との間に、大きな食い違いがあるような、見えない壁のあるような、茫漠とした不安が煙りだす。

「ね、ねぇさっきから……」
「ごめんなさい」
「えっ?」
「見られたくないところを見られるっていうのは、嫌よね、それは。しばらく忙しくなりそうだし……もうあなたには付きまとわないと約束する」
「う、うん……いや、そうじゃ、なくて」

 いったいその目に――ひとつの目を閉じて残った二つの目には、なにが見えているというのか。
 やけに予言めいたことばかり言うのは、なぜなのか。
 なぜ自分に付きまとうのか。
 気になるとは、なにが気になるのか。
 言いたいことはたくさんあった。
 多すぎて、とっさに口を開けない。
 喉が言葉でいっぱいになった。

 ひゅぉう、とさもしい木枯らしが吹く。

 古明地こいしは、消えていた。
 忽然と、最初からそこにいなかったみたいに。何の痕跡も残さず、ただ消えていた。
 あとに残ったのは呆然と立ち尽くす小傘ばかりである。

「あ……」

 かろうじてそんな声音が漏れる。
 それも、風にかき消された。
 世界に一人取り残されたみたいだった。
 さっきまでそこにいたはずの誰かが、消えている。幻と会話していたかのような痛烈な余韻。目に入ってくるすべてが色彩を失い、耳に届く音がその高低を失ったような、無機質な感覚。白昼夢を見ていたみたいな、非現実感。

 しばらくして、耳には里の喧騒が戻ってきた。
 がやがやと、ざわざわと、そこかしこを有象無象の人間たちが歩いていく。

(今日は……もう休もう)

 さきまで胸を騒がせていた懊悩、そしてこいしとの会話で覚えた漠然とした不安。
 それらが混ざり合い、溶け合い、頭を内側から攪拌されているみたいに感じた。
 ひどい気分だ。
 こんな気分では、なにをしたって楽しくないだろう。

(明日になれば、また、何事もなく)

 そう信じて、おもむろに宙に浮かび上がる。
 里をあとにすると、いよいよひとりの身に寒風が染み入った。





 ※※※






 翌日。
 小傘は再び里を訪れていた。

(人間を、驚かそう)

 一晩たって、気分はだいぶ増しになっていた。昨日のようにわけのわからぬもやもやが湧いてくることもなく、いっそ晴れ晴れとした心地であった。

 再確認。

 再確認するのだ。人間を驚かし、その快感に身を任せ、自分が人を驚かす妖怪であることを、人に仇なす妖怪であることを――そうすれば、昨日のような煩悶もたちどころに消え去り、あとには多々良小傘という確固とした一妖怪の輪郭が残る。そんな気がする。きっと、そうだ。

(私は人間を驚かすために……見返してやりたくて、妖怪になったんだ)

 そこを、違えてはいけない。
 妖怪が精神的、概念的な存在である以上、自分の存在意義を否定するようなことがあってはならない。心理的な矛盾は存在の矛盾に直結するからである。

(そうだ、人間は恨めしい……私を捨てたじゃないか……恨めしい……恨めしい……恨めしいんだ……うらめし……)

 早苗の顔が過ぎった。
 阿求の顔が、ほがらかに笑う姿が。

(恨めしいんだ……ッ!)

 ぶんぶんと首を振って、余計な考えを頭から排していく。
 人間は敵だ、敵なのだ。

(……それは、違うような……)

 気づけば足が止まっていた。いつもに増して風の強い日だった。空はからりと晴れ渡っている。日光の暖かさがうなじを焼いている。風の冷たさが背中をなでていく。こんな肌寒い日には外を出歩くのが億劫なのか、通りを行くものは昨日より幾分か少なく見えた。

(私は別に……憎んでいるわけじゃ……嫌っているわけじゃ……)

 人間を嫌いかと言われれば、きっと答えられない。憎んでいるかと問われれば、口ごもってしまう予感がある。嫌いなんじゃない。憎んでいるんじゃない。そんなこと一度も思ったことはない。ただ恨めしいのだ。恨めしいのである。見返してやりたい、自分の存在を刻み付けたい。忘れないで欲しい。見捨てないで欲しい。自分を、ひとりにしないで欲し――

(……!! なにを考えているのよ私は! それじゃ、まるで、人間に構って欲しいみたいだ。そうじゃない。そうじゃないんだ。私は昔年の恨みを清算すべく――)

 そっと目を閉じて、思い浮かべるは原初の記憶。初めて人間に手にとってもらったときのこと。店頭に並べられても中々誰も買ってくれず、あとから作られた傘たちが次々買われていったときの焦燥と悲観。確か、雨が降っていた。もう顔も思い出せない誰かが、自分を手に取り、買ってくれた。嬉しかった。ただただ嬉しかった。ようやく自分も人の役に立てる。道具としての本分を果たせる。これから雨の降るたびに、灰色の空を仰いで目一杯に両手を伸ばすのだ。

(あぁ、そんなこともあったなぁ……)

 ふふ、と知らず笑みが浮かぶ。幸せであった頃の記憶。一本の傘の絶頂期。

 そして、放置された。

 見知らぬ家屋の壁に立てかけられて、それ以降持ち主が自分を拾うことはなかった。捨てられたのだ、という考えに至るのにそう長い時間はかからなかった。元々不人気な配色、デザイン、誰も買ってくれなかった自分のこと。きっと、嫌になったのだ。自分のような傘を差していることが、嫌になった。それで、捨てたのだ。誰かに馬鹿にされたのかもしれない。そんな不細工な傘差してどうするのだと、人に笑われたのかもしれない。ともかく、自分は捨てられた。

(……本当に、そうだったのかな)

 その後も誰かに拾われることはなく、ずっと風雨に飛ばされていた。慨嘆が渦を巻き全身を締め付けた。しかし、時折思うことがある。自分は本当に捨てられたのか。ただ、置き忘れただけかもしれない、とも。

(そんなはずは、ない。ないのに)

 楽観だ。
 都合のいい考え方だ。
 元来、いかほど己が不人気であったかを考えれば、そんな風に思うことがおこがましいことであると、わからぬ道理もなかろうに。
 そうして、小傘は妖怪になった。
 見向きもされず、捨てられて、傘としてあるもかなわずに、ただ人間を見返してやりたい一心で。

(そうだ……だから……)

 驚かすのだ。
 驚かすのだ。
 そうして、道端の小石のように自分に見向きもしなかった人間たちに、己の存在を知らしめるのだ。

(驚かすんだ……!)

 ぎゅっ、と。
 傘の柄を握り締める。

(なにを迷っていたのよ……! 私のやることなんて、古今東西いつでもどこでも変わりやしない! 人間を驚かす! それが、それだけが私なんだ……ッ!)

 気炎が肺を内側から炙るようであった。
 ふぅーっ、と息を吐き出して心を落ち着ける。

(私は妖怪なんだ。人間を驚かして怖がらせる、それはそれは恐ろしい妖怪なんだから!)

 顔を上げて、足を踏み出す。意思を刻むように、ひたすら強く。

(待ってなさい人間どもめ……! 私が道具の底力というやつを見せつけてあげるわ……!)

 むふぅー。
 鼻息荒く己を叱咤。
 あとは無心に走り出した。 
 今なら、なんだってできそうな気がしていた。

 途中、何か、眩暈がしたようにも感じたが――それはきっと気のせいだったろう。

 ……
 ……
 ……





 ※※※






「うらめしやー!!」

 一人目のターゲットは三十台半ばと思われる人間の男である。
 ひっそりと後ろから忍び寄った小傘渾身の「うらめしや」であったが、男は一瞬びくりと肩を震わせたあと、振り向き、

 小傘を見ると、「ああなんだ」という表情をした。

「ちょっとー!?」

 声高に意を唱える小傘。

「なんなのよその聞き分けのない子供を見るような目は……!」
「えっと……君は前も里に来ていた妖怪だね? 気をつけなよ。近頃、物騒だし……」
「人間に心配される筋合いはないー!」

 うがーっ、と遠吠えを上げる小傘だったが、人間は特に動じた様子もない。

「物騒なのは私! 今からあなたをけちょんけちょんにするのよ……!」

 けちょんけちょんってどういう意味だっけ、と思いつつ小傘は威嚇するように両手をあげた。
 男はなにやら、暖かいまなざしで小傘を見ると、

「元気だなぁ。若いっていいねぇ」

 と言う。小傘、憤然。一応それなりには長く生きてきた妖怪である。子ども扱いされる謂れはない! そう声を張り上げようと口を開く。

「あ……」

 人間はすでにこちらに背中を向け、歩き去っていた。

「……」

 何とも言いがたい気分になる。初っ端から、どうもつまづいた。いつものことといえば、そうなのだが、この先もずっとこの調子なのではないかと考えると不安だ。

(いやいや……! たまたま! たまたまだから!)

 小傘は次の標的を求めて徘徊を始めた。







「うらめしやー!!」
「あら、小傘ちゃん。飴食べる?」
「私は傘! 雨は食べても飴は食べない!」

 軒先に座る老婆、失敗。



「うらめしやー!!」
「今、急いでるんだけど……」
「私より用事の方が大事だと申すか!」

 年若い男、失敗。



「うらめしやー!! 驚けー!!」
「あら、小傘さんじゃないですか。奇遇ですねぇ。夕飯は凝ったものがいいと諏訪子様が言うので買出しに……」
「早苗だった!? いや、そうじゃなくて、驚けー!!」
「驚けって、なにに?」

 常識に囚われない現人神、失敗。



「うらめしやー! いいから驚け! お、驚けー!」
「あ、お花、どうです?」
「誰が脳内お花畑か!」
「そこまで言ってない……ところでその傘、なんで目玉がついているんでしょう?」

 花屋の少女、失敗。





「うらめし……おどろ……け……うら……」
「いったいどうしたというんだ」

 呆れた様子でこちらへ振り返ったのは、銀色の髪の鮮やかな女性だった。
 弁当箱のようにも見える、奇妙な帽子をかぶっている。思えば、昨日も見た気がする。
 死んだ魚の目で見上げると、少しひるんだように後退した。

「うぅぅ……わかってたわよ……わかってたわよぅ……」
「大丈夫か? 怪我か病気なら永遠亭に……」
「うぅっ……こんな変な帽子かぶった人間にまで心配されて……」
「失礼な」

 がつん、と頭に鈍い衝撃があって、茫洋としていた意識が覚醒する。
 さすってみると、ちょっと痛い。どうにも、軽く頭突きをされたらしい。

「さてはエーエンテーとやらの回し者ね……私に怪我を作って診察を受けさせる……なんというマッチポンプ……!」
「いや別にそういうことは……あ、いや、しかし突然頭突きしたのはやりすぎだったか。すまない。この帽子についてはあまりによく言われるものだからつい条件反射で……」
「おのれ人間め……! 酸性雨に打たれて禿げ上がってしまえ……!」

 小傘は銀髪の女性に飛び掛る。が、軽くあしらわれた。

「まったく……毛髪については深刻に悩んでいる人もいるんだ。そう軽々しく言うものでは……」
「悩めば悩むほどストレスがたまって逆効果なんじゃない? 不毛ねぇ」
「この世に不毛でない悩みなどあるものか。馬鹿馬鹿しいと無駄だとわかっていても悩んでしまうから、悩みというんだ。不毛でない悩みは思索と呼ばれるものだ」
「む、う……」

 先ほど自分自身も延々と考え悩んでいたことを思い出し、二の句がつげない。
 代わりに、少し意地悪な気持ちが湧きあがってくる。

「そういうあなたに、悩みはないの?」

 銀髪の女性は、真剣に考え込んだ。
 軽い気持ちで聞いたこともあって、虚をつかれてしまう。

「……忘れられるっていうのは……どういうことなんだろうな」
「へ……?」

 ドキリ、と。
 心臓が跳ね上がる。
 忘れられる、忘れられてしまう――その感覚を、小傘は知っている。誰からもかえりみられない寂しさを、悲しさを、むなしさを、苦しさを。ただ一人であることの途方のなさを、小傘は知っている。
 心のうちを読み当てられたような気がして、恐ろしくなった。

「ど、どういう、意味?」
「いや……すまない。忘れてくれ。私事なんだ。私は……私は忘れてしまったんだ……忘れてしまっていたんだ。自分でも気づかぬうちに」
「な、何をよ」

 声が震える。
 臓器をわしづかみにされたような不安が嫌な汗を浮かばせる。

「……気をつけろ」

 とだけ女性は言った。

「今朝、子供が一人、いなくなった」

 とても、恐ろしいことを。

「里の外へ迷い出たのか……それとも、誘拐されたのか……それさえまだ判然としない。だが、もし“あのこと”と無関係でないなら、これだけで終わるはずがないんだ。妖怪だから大丈夫だとは思うが……一応、気をつけておいたほうがいい。不審な人物を見かけたら、私に教えてくれ。お前も、夜は出歩かないように……これを妖怪に言うのはおかしいか」

 あはは、と困ったように笑う女性を、小傘は見開いた目で見ていた。

「え、なに。なにか、あったの? 子供が、いなくなった?」

 女性は無言でうなずく。
 影を縫いとめられたように、動けなくなった。
 すぅー、と意識が遠くなる。
 自分が立っている場所が、よくわからなくなる。何気ない日常の空間から、限りない非日常の空間へ引きずりこまれたような錯覚。胸の奥にしまいこんでいた嫌な予感。不吉な兆し。
 昨日、こいしが言っていたこと。
 それに対して覚えた不安が再び胸腔を満たす。
 恐慌をきたさないのに、汗がいくらか滴り落ちる程度の力を要さなくてはならなかった。
 何かまずいことが起きる。そんな恐怖を強硬に押さえ込んで、表面上は平静を装おうとする。

「そ、そうなんだ……」

 なんとか、それだけ言った。

「……そうなんだ。私は、これから少し用事があってな。私は上白沢慧音という。何かあったら、私のもとを訪れるといい。家がどこにあるかは、里人に聞けばすぐわかるから。……あと正確には人間じゃなくて、半人半獣だ」

 それでは、気をつけてな。
 最後にそう言って銀髪の女性――慧音は雑踏の中に姿を消した。

 カタ、カタ。

 どこからかそんな音が聞こえてくる。
 見下ろすと、だらりと下げた手元が震えて傘の先っぽが地面を小刻みに叩いているのであった。深呼吸をして、早鐘を打つ心臓を安らげていく。

(何も……何か起こると決まったわけじゃない。こいしも、あの人間……半獣もそれっぽいことを言っていたけど、どれもまだ実際に起きてはいない。そんな保証はない。必要以上に、恐れたってしょうがないじゃない)

 ごくり、と喉が鳴る。
 覚えず唾を飲み込んでいたらしい。
 小傘の脳裏を、あの“声”の出現に始まる一連の日々が過ぎっていた。およそ日常からは程遠い時間。普段とは違う何かが立て続けに起こった数日間。

 あるいは、それが予兆だったのか――。

 制御しがたい暗然とした心を誤魔化すように、小傘もまた歩き出した。
 人間を、驚かそう。
 そのうち、こんな杞憂も忘れていくだろう。

 地面がぐにゃりと歪んで、ここではないどこかと繋がるような――。
 ああ、きっと疲れているんだ。





 ※※※





「うらめしやー!!」
「わっ」
「きゃっ」
「ひゃっ」

 背後から忍び寄った小傘の発声に、三者三様の反応を見せたのはまだ幼い子供たちだった。男の子が二人と、女の子が一人。歳の頃は六、七歳といったところである。大人と比べて、子供はずいぶん驚きやすい。感受性が豊かで何かに没頭すると周りが見えなくなったり、そもそも不測の事態に慣れていなかったりする。経験から、そのことは知っていた。

(大人たちが全然驚かないからもうこのさい子供でいいやって妥協してみたけど……子供相手に驚かして勝ち誇ってもむなしい気はする……)

 複雑な気分だ。
 ともあれ子供たちは驚いてくれた。
 その感情が、長らく空きっ腹だった胃を満たしていく。感情的空腹が常態となり、飢餓にあえいでいた腹の虫が歓喜の雄たけびをあげている。すごく、気持ちがいい。本能を満たす快感が、胸のうちにわだかまる不安を押し流してくれるようで心強かった。

(そうだ、それでいい。何も悪いことなんか起こらない。考えすぎなのよ。頭をからっぽにして、今を生きることに必死であればいい。それだけで、こんなにも気が楽になる)

「ついでに飢餓楽になる………………いやこの駄洒落はないわね」
「おねーちゃん、だぁれ?」

 子供たちのひとり、髪を短く刈り込んだ男の子が聞いてきた。

「私……? えっと……あー……ふ、ふふふ……私は謎の傘妖怪X、お前たちを食べちゃうぞー!」
「わーい!」

 おどすつもりで言ったのに、なぜか喜ばれた。

「怪人ごっこ!? わーいおねえちゃん怪人役ねー!」
「えっ」
「私逃げるー!」
「ぼくも逃げるー!」
「おれも逃げるー!」
「わーい! 正義の味方役がいないや! わーい!」

 きゃっきゃ、きゃっきゃ。
 子供たちは無邪気そうにハイテンションのまま走り去っていた。
 ぽかーん、とそれを見つめている小傘。
 最近の若いもんは、落ち着きが足りなくてよろしくない。
 などと年寄りのような言葉が頭を過ぎる。

(ってそうじゃなくてー!)

「ぐぬぬ……おのれ……子供とはいえ人間……狡猾……! まんまと逃げられたわ……!」

 そういうことにした。
 よくわからないうちに置いていかれたと考えるのも癪だったのである。

(一応、おなかは膨れたし……もう、今日は、いいか)

 ふぅ、と息をついて何気なしに視線を下げた。
 何か、落ちている。
 あれ? と思い近づいてみる。ぱっと見ではわからなかったが……どうやらお守りのようだった。あまり詳しくないので、それがどのような効能を持つのかまではわからない。ただ、先の三人の誰かが落としたことは間違いないだろうと思われた。
 顔を上げて、子供たちの走っていったほうを見る。
 幾人か大人の行きかう姿が見えるばかりで、童子たちの低い背丈はもうどこにも見当たらなかった。

(あ……)

 ぼうっ、とした頭にその事実がしみこんでくるのに、数秒を要した。

(届けなきゃ……持ち主のもとに……)

 沸々と使命感のようなものが浮き上がってくる。自分でもよくわからないほど大きな感情だった。小傘は慌てて空に飛び上がると、上空から先の子供たちを探す。ひとしきり見回してみるも、見つからない。人家の中に入ってしまったのかもしれない。それでは、捜索は困難といわざるを得まい。

(まずい)

 焦りが思考を支配した。見つけなければならない。強迫観念じみた情念に突き動かされるままに上方から里のあちこちを見て回る。人間の里は歩いて回るには広く思えるが、空から見る分には大した広さではない。程なくして一通り見終わった。
 子供たちは、見つからなかった。
 途方にくれる。

(どうしよう……)

 大事に握り締めていた手をほどいて、掌中のお守りを見た。
 なにやら仰々しい文字の書かれた小さな布の袋に入っていて、上部に結びつけるための紐がちょこんと付いている。子供たちが自分で用意したものではなかろう。きっと、親が子供の安全を祈って与えたものか――ふと、思い至った。
 慧音が言っていたことを思い出す。
 今朝、里の子供がひとりいなくなったのだと。

(そうか……これはそれで……)

 得心がいくと同時に、申し訳なくなった。
 何に対してかは、よくわからない。
 持ち主である子供にか、与えた親にか、それとも。

 それとも、このお守り自身にか。

(……ッ! このお守りは……このお守りは、持ち主の手を離れてしまった。これは死物になってしまった……! 私が……私が驚かしたから……? その拍子に、落としちゃったから……? 私が、この子を……)

 ひとりにさせてしまったのだろうか。
 じくじくと胸をさいなむ痛み。
 いけない、いけない。首を振って、胸を覆う影を打ち払う。今はまだ、悲嘆にくれるときではない。
 小傘は地面に降り立つと、しばし逡巡し、手近な人間に道を聞いた。人間に頼ることが情けなくはあった。それでも、このお守りをそのままにしておくことができなかった。
 聞いたとおりの道をたどって、慧音の家へ向かう。
 そのあと、お守りを慧音に渡して持ち主を探せないか聞いてみた。
 慧音は、寺子屋というところで子供たちに教育している立場だという。寺子屋に通っている子供のものかもしれないから、今度聞いてみると請け負った。小傘は感謝の言葉を残し、今度こそ人里を去る。

(よかった……なんとかなりそう……)

 帰途に着く中、胸を満たすのは安堵の一心だった。

(……早く持ち主のもとに、戻れるといいな)

 自分みたいな寂しい思いを、して欲しくはないと思う。

(……結果的に、あの子供のために行動したみたいになっちゃったな。……別に、人間のためじゃないわ。私はあのお守りが、かわいそうだったから、私のせいだったから、こうしただけだもの)

 誰にともなく弁解する。
 少しだけ、心は晴れやかになっていた。
 空には僅少の雲が浮かぶだけで、明日も晴れそうなほがらかな陽気である。秋らしいからっとした空気が空行く頬を撫でていく。
 明日はきっと、いいことがあるさ。
 無根拠だったが、そう信じてみた。





 ※※※





 翌日は思ったとおり晴れ模様になった。

 何かにひきつけられるように、この日も人里を訪れていた。さくじつのお守りの一件の行く末が気になったこともあろう。慧音を見かけたら聞いてみる心算であった。
 特に驚かしてやろうという気持ちにもならず、ぼんやりと里をさまよい歩く。
 そのうち、奇妙な違和を感じ始めた。

 なんだか、ぴりぴりしている。

 幻想郷の住民は基本的に暢気である。牧歌的と言ってもいい。その暢気であるはずの人間たちが、今日はどこか張り詰めた目をしているように見えるのだ。歩く足は二割り増し早くなり、泳ぐ視線は何かを警戒しているかのようだ。通りを出歩くものの数が減っていた。和やかな談笑も聞こえてくるには聞こえてくるが、寡少である。
 どこか、物寂しい風景だ。

(なんだろ……なにか、あったのかな……?)

 不安と疑念が渦を巻いた。
 そんな折、見覚えのある後ろ姿を見つける。銀色の髪が歩くたびに揺れる。慧音だった。特に足音を殺すでもなく近づいて、後ろから声をかける。

「ね、ねぇ」

 聞こえていないのか、慧音はそのまま歩いていく。

「ちょ、ちょっと!」

 今度は聞こえたのか、慧音の足が止まった。
 振り返って、少し驚いたように瞠若としている。

「わ、なんだ、お前か」
「なんだ、とはなによ、なんだとは……ってそうじゃなくて。なんだか、妙な雰囲気だけど……」
「私はいつもどおりだぞ」
「あなたじゃなくて、里」
「あぁ……」

 曖昧な相槌を返す慧音。

「? 何? 何かあったの?」
「いや……なんだ、その……」
「そんな言い方をされると余計気になる」
「……いや……」
「はっきりしないねぇ」

 目を泳がせる様はあからさまに怪しかった。
 詰問するようにぐぃ、と距離を詰める。
 じぃ、と無言の圧力をかけた。
 やがて慧音は観念したように、

「わかった、話すよ。……何から言ったものかな。いや、起こったことはこの上なくシンプルなんだ。ただ……」

 緘黙する慧音。
 風が二人の間に目に見えないほどの砂埃を巻き上げるほどの時間。

「……いなくなった」

 と慧音は言った。

「へ?」
「また、ひとり、いなくなったんだ。子供が」

 すぅー、と。
 魂が宙に吸い込まれるみたいな感じがした。
 同様の感慨をつい昨日、慧音からまるで同じような話を聞いたとき覚えたことを思い出す。いなくなった。子供がいなくなった。昨日も同じことを言っていた。二日連続でいなくなった。

「昨日の失踪と関連があるのかはまだわからない……いや、そんな悠長なことを言っている場合ではないな。十中八九、同系列の事件だろう。二日連続でたまたま子供が里の外に迷い出たとは到底考えられない。何者かが、さらっているのだ。私は里の皆に警戒を呼びかけた。それで、妙な雰囲気だと感じたんだろう」
「え……それ……ほんと、なの?」

 無言でうなずく慧音。
 それ以上、言葉を繋げられなくなってしまった。
 やはり、何か、起ころうとしている。いや、とっくに起こっている。この里に、そしてこれから自身にも何か不吉なことが起こるのでは――。

「……それと、言いにくいんだが」
「……」
「昨日預かったお守りのことを、今朝寺子屋で聞いてみたんだ。そしたら、どうにも……どうにも、このお守りの持ち主は……」

 びくっ、と指先が震えた。

「今日失踪したのは、このお守りの持ち主だったんだ」
「あ……え……?」
「男の子……確か、ちょうど七歳の男の子だ。このお守りを持っていたことを、友達の二人が証言した」
「そ、そんなこと……」
「……このお守りは、ご両親に渡そうかと思っている。それで、いいだろうか」
「あ、ぁ、うん……」

 首を小さく縦に振るだけのことに全身の力をかき集めなくてはならなかった。
 そのあと二三言葉を交わしたが、なにを言ったのか覚えていない。
 気づけば茫然とした足取りで右へ行くでもなく左へ行くでもなく同じところをぐるぐると練り歩いているのであった。雑然とさかまく思考は論理のていをなさず、ゆらゆらと揺れたりくるくると回ってみたりしている。
 考えているのは、あのお守りのこと。
 持ち主を見失ってしまった、あのお守りのこと。
 それから、消えてしまった男の子のこと。
 つい昨日――つい昨日言葉を交えたばかりだったのだ。ほんの少しの間だった。それでも、昨日は確かにいた。それが、今日はこの里中を探しても見つけることができない。その事実を思うたび全身が鉛に摩り替わっていくような感慨を覚えた。足元がふわふわして、現実感が喪失される。夢を見ているみたいだ。人の命とは――まだ死んだと限った話でもないが――人の命とは、こんなに軽いものだったろうか。蝋燭の火みたいにはかなく、一息に消えてしまうものだったろうか。幻影、虚像、実体のないもの。そんな何かを見ているような。

 暗鬱。
 視界に灰色のヴェールがかかったみたいだった。

(私は……私は……)

 罪悪感が、さいなむのである。
 もしあのときあの子供を驚かさなければ、あのお守りは持ち主に落とされることもなかったはずだ。そして、あるいはお守りがあればこの失踪の難を逃れられかもしれないではないか。自分が、壊してしまった。自分が、その安寧を奪ってしまった。考えすぎだ。考えすぎだ。

(嫌だな……それは……嫌だ……)

 きりきりと心が痛む。
 苦しい。
 息苦しい。
 すべての大気が自分を責めているように感じる。

(私は……いや……別に……いいじゃないの。人間が、いなくなっただけだ。人間なんて、物を大事にしない人間なんて……でも子供だった……いや子供だって、子供こそ物を粗末に扱うじゃないの……無邪気さの鎧を身にまとって、当然のように物を捨てるじゃないか! そんな子供のひとりがいなくなったことを、私が気に病む必要なんて――!)

 嫌だ。
 嫌だ。
 嫌なのだ。

(そんなの、おかしい。私がまるで、人間を心配しているみたいだ)

 いつしか足は止まっていた。やや傾いた陽光が作る影が嘘みたいに平べったく伸びていて不気味だった。太陽が、蒼穹が、いつもと変わらずある大地が自分をあざけっているように感じた。この大馬鹿野郎。まだ気づかないのか。ほんとは最初からわかってるくせに。いつまで知らんぷりを続けるんだ。

(違うんだ! そうじゃない!)

 頭をかかえてしゃがみこんで、ただただ心の中で叫び続けた。
 違うんだ。
 そうじゃあないんだ。





 ※※※






 もう何もする気になれず、その日は帰って眠りこんだ。
 次の日、小傘は再三里へ足を運んだ。一晩悩んで出した結論は人間を驚かすというものだ。そうすればきっと、すべてが解決する。自分を確かめられる。人間を驚かし、見返し、おそれさせることに痛快を感じる自分こそが本当なのだと、そう信じられる気がするのだ。

「うらめしや!」

 隙あらば滅入ろうとする己の心に抗し、つとめて明朗に声を出す。
 元気一杯、明朗快活。それが多々良小傘であったはずだ。
 うじうじ悩むなんて似合っちゃいない。そんなの自分らしくない。
 だから。

「うらめしやー!」

 今日も今日とて傘妖怪の道を行く。

 はずだった。

「あれ?」

 すぐ近くで声を張り上げているというのに、人間は無視して歩いて行ってしまう。二十台半ばと見える女性で、目の下に大きな隈があった。疲れているのかな、と一瞬足が止まる。

(いやいや。いやいや。そんなことどうだっていいわ! むしろ疲労で視野狭窄している人間は絶好のカモ! 根木さんしょってやってきた! 根木さんって誰だろ。いやいや。いやいや。それより私を無視して歩き去ろうとはいい度胸ね!)

「驚けおののけうらめしやー!!」

 今度こそと大声で叫ぶ。
 びくっ、と女性の肩が震える。
 ばっ、とこちらを振り向くその目に浮かぶのは驚嘆と恐怖、長らく求めてやまなかったもの。驚きの感情が流れ込んでくる。ああ、やった。などと思う暇もない。おいしい。とてつもなくおいしい。なめらかな口ざわりと砂糖の塊のような甘味が癖になりそうだ。驚きの感情というのは、だいたいそんな味がする。

(幸先のいい出だし……! 今日は何だか調子がいい! いけるわ!)

「あははは、どうだー! 驚いたかー!」
「え、あ……妖怪……?」
「妖怪よ! さぁさぁ人間食べちゃうぞー」
「ひ、ひぃぃっ」

 人間は遮二無二走り出した。
 目を豁然と見開き恐怖に彩られた表情を浮かべて、今にも転びそうになりながら走っていく。心の底から恐怖している様相であった。ああ、見よ、自分を捨てた人間の、なんと無様な姿だろう。なんと惨めな姿だろう。

 猛烈な違和感が脳天を貫いた。

「あ……れ……?」

 おかしい。
 おかしいではないか。
 幾らなんでも、これはおかしい。

(私はいつもどおりに驚かしただけ……いつもは人間たちは路傍の石でも見るみたいに、私に欠片の興味もない風に、歩き去ってしまう。それが……それが、これは、何? なんで、こんなに驚くの? いや驚いただけじゃない……あれは……)

 恐れていた。
 小傘のことを――あるいは、もっと別の何かを。

(なにを……?)

 答えはすぐに出た。
 二日続けて里を震わせた子供の失踪。いまだ実像すら見えてこぬその下手人を。あの女性が抱いていたのは、おそらく過剰なまでの警戒と猜疑心であった。それが、妖怪である小傘をああも恐怖させたのだ。

(結局……私の実力じゃないんじゃない……驚き、恐れられたことは……)

 悲しくなった。
 ……同時に、どこか安心してもいた。

(……なんで?)

 安心。
 安心していたのである。心のどこかでほっ、と息をついていた。

(……次よ、次)

 余計な考えを捨て去って、また歩き出す。





「うらめしやー!!」
「わぁっ!」


「うらめしやー!!」
「ひぃっ」


「うらめしやー!!」
「きゃああ!」


「うらめしやー?」
「わあああ!」







「うらめし……」

 途中まで言いかけて口を閉じる。
 前を行く初老の男は小傘に気づかぬまま歩いて行き、やがて近くの民家に入った。それを、小傘は落ち着かない気持ちで眺めていた。

 自分でも怖いくらい、人間たちは驚いた。

(なに……これ……?)

 違和感。
 違和感が胸を突き上げる。
 幾らなんでも変だ。
 なぜこんなにも驚くのだ。
 人間たちの間に姿の見えない誘拐犯への恐怖が蔓延しているから――それは、わかる。それは確かにあるだろう。常時より驚きやすくなっているだろうことに異論はない。
 だが。

(絶対……絶対おかしいよ……これ……)

 それを差っぴいて考えても異常であった。
 今日に限ってこんなに驚く理由、それが見えてこない。あるいは皆して自分を謀っているのではないかとさえ考えた。外の世界ではそういう悪趣味な遊びがあるらしいのだ。確か、“ドッキリ”だとか言ったか。

(で、でも私の中に流れ込んでくる驚きの感情は……恐怖の感情は本物だった。表情や言葉は幾らだって偽れる。でも、感情は偽れない。皆、心底から私に驚いていたんだ)

 何か。
 何かが――。

「う、あ……?」

 怖い。
 そのとき初めて、怖いと思った。
 自分の手を離れて回りだす事態。わけのわからぬままに翻弄されること。こんなのちっとも嬉しくない。人間を驚かしたかったのは、自分の手で驚かしたかった。自分の実力で驚かしてやりたかった。そうでなくては意味がないのに。なんだこれは。いったい、何が起こっているんだ。

「何……なんなの……」

 背筋に嫌な汗が浮かぶ。
 まだ冬は先だというのに、歯が震えだして止まってくれない。
 膝が笑った。
 口も笑っていた。最もそれは唇の端がひくついて笑っているように見えるというだけで、内心ではうそさぶい憶測が台風のように荒れ狂っていて、内面から吹き付ける風と外面から襲う木枯らしが全身の神経という神経を冷やしていった。

(こいしは……これのことを言っていたの?)

 今となっては想像するしかできない。
 ごっそりと体が冷えていた。
 踏み出す足は小刻みに震えていて、自分が臆病であったことを知る。誰か、誰か傍にいて欲しい。そう思ったとき、頭を過ぎったのは早苗の顔だった。宝船の異変で知り合ってより、何度か顔を会わせる機会のあった彼女。非常識で破天荒だが、心根のまっすぐな優しい少女。

(いや……なにを考えているのよ……人間に頼ることなんてない……大丈夫……私は大丈夫だから……!)

 次々と思考を埋め尽くすのは数少ない人間の知り合いとの一幕だ。
 阿求や、慧音や、巫女や魔法使いや早苗との――。



『うらめしやー!』
『あら、あなたは』
『驚け! 人間!』
『驚けと言われて驚くような馬鹿がいますか』
『笑えと言われて笑えるようじゃなきゃ人間は世を渡っていけないって聞いたことがあるわ』
『世知辛い世の中ですねぇ。しかしあなたは私の上司ですか?』
『上肢……? いつから私があんたの腕になったのよ』
『いえ頼れる右腕とかそんな話ではなく、むしろこの場合私が使われる方というか』
『え……あなたも道具だったの? 付喪神? お仲間ね! よろしく!』
『……なんかずれてますよ?』
『あなたの方がずれてるんじゃない? 山上の神社の巫女は常識を投げ捨てたと』
『ああそんなこともありましたねぇ……じゃなくて、いったい神社へ何をしに?』
『この前の異変でこてんぱんにされた仕返しよ! あなたを驚かしに!』
『またまたご冗談を』
『笑い飛ばされた!?』
『私を驚かしたければ愛と勇気が詰まった巨大ロボくらいは必要です。さすれば驚きのあまりひっくり返ることでしょうね。巨体を見上げた反動で』
『ろぼ?』
『浪漫の産物です』
『浪漫?』
『みなぎるものです』
『つまり……愛と勇気でみなぎってきた?』
『あー、まー、そんな感じー』
『て、適当ね……』
『あ、そういえば』
『んー?』
『夜ご飯、カレーだったんですけど……ああカレーっていうのは複数のスパイスを……あーっと……なんかこうルーとか野菜でなんかこう……ともかく作りすぎちゃったんですよね。もう新たに買うこともできないんだから、慎重に使うべきだったんですけど、久しぶりだったものでつい……』
『それが、どうしたのよ』
『食べて行きます?』
『む、ぅ……む……』
『む?』
『むぅ……うぬぬ……に、人間の情けなど……!』
『毒なら入っていませんよ』
『そんな心配してないよ!?』
『危ない薬物も入ってませんよ?』
『知ってるよ!』
『毒にも薬にもならないカレーです』
『い、いや私は……』





(そこで、何だかすごくいい匂いが漂ってきて……)

 それに釣られて、結局ご相伴に預かってしまったのだった。
 そんなこともあったなぁ、と笑う。
 笑ったあと、冷静に立ち返って後悔した。
 何を、考えているんだ。

(あれはかれーとやらの誘惑に負けてしまった恥ずべき記憶であって……いやおいしかったけど……すごくおいしかったんだけど……ともかく!)

 人間に頼ることなんかない。
 自分ひとりで、この程度の恐怖、なんとだってできるはずだ。 
 ぎゅぅ、と傘を握り締める。
 目を固く閉じ、真っ暗な目蓋の裏を強く見つめ、煩雑な思考を黒く塗りつぶしていく。

 大丈夫。大丈夫なんだ。

 小傘は決意と共に足を踏み出す。
 ざぁざぁとこずえを揺らして鳴く風前では、その足は枯れ枝のように華奢だった。

 ……
 ……
 ……





 ※※※






 ざぁざぁ、ざぁざぁ……
 断続的に続く不規則な音が耳朶を打つ。
 ざぁざぁ、ざぁざぁ……
 幾分か前に聞いたあのこずえの音ではない。

 雨の音だ。

 ざぁざぁ、ざぁざぁ……
 ずっと降っている。
 昼頃降りだした雨は一度としてその雨脚を弱めなかった。思えばここ一週間ほどは終始晴れ続きだったから、その反動で土砂降りになったのだろう。
 数日が過ぎていた。あの後何度か人を驚かして、不意に痛烈な空しさに襲われた小傘は家に帰ったきりずっと篭っている。人里から少し外れたところ、鬱蒼と生えた木々に隠れるようにぽつんと建っている小屋である。最近は命蓮寺墓地や命蓮寺に居つくことも多いが、その以前はこの人々に見捨てられたような小屋を住居としていた。いつのことだったか、打ち棄てられたようなボロボロの外装を発見したとき、居たたまれぬ悲哀が全身を満たしたのを覚えている。放っておけなかった。放っておかれた小屋だった。だから、せめて自分が住んであげようと思った。

 ざぁざぁ、ざぁざぁ……

 雨は、どうしてこうも憂鬱な気分を引き出すのか。
 小傘は居ても立ってもいられなくなり、我が身の傘を掴み上げると外に飛び出した。空一面を覆う雲が中天を行く太陽を包み隠してしまっている。瞬く間に髪を濡らしていく雨粒は悲嘆に暮れる日輪がこぼす涙のようにも思えた。きめの細やかな、霧雨である。しばし逡巡して、結局傘を開いた。思い切りずぶぬれになってみようか、なんて思ったのだけど。

(風邪を引くのも、詮がない)

 すぅぅ、と森閑な雑木林の空気を吸い込む。篭りきりだった身にはいささか新鮮すぎる味がした。立ちくらみがして、少しバランスを崩す。地面から小さく浮き上がって難を逃れ、そのまま空高くを目指してみた。
 どこまで上がっていっても、雨のヴェールを抜けることはない。
 天と地の間はすっかり灰色になってしまっていた。

(里へ、行ってみようかな)

 何とはなしに、思いつく。
 無性に気にかかっていた。
 あの後、失踪事件はどう進展、あるいは収束したのか。子供たちは無事だったのか。お守りは持ち主を見つけられただろうか。

(……あれから、何もなかったなぁ)

 数日前人里で体験した奇妙な出来事。
 そこから連鎖的に悪いことが起きるのではないか……そんな危惧を抱き怯えていたが、杞憂に終わったようである。この数日は実に平穏に過ごすことができた。きっと何かの間違いだったのだ。皆過敏になりすぎていて、それであんなに驚いたんだ。

(……うん。きっと、そう)

 小傘はゆっくりと人里へ向けて飛び出した。

 ざぁざぁ、ざぁざぁ……

 雨がやまない。
 視界を遮られているせいか、わずかな距離さえ妙に長く感じられる。

 ざぁざぁ、ざぁざぁ……

 秋に心を憂うと書いて憂愁。憂愁の閉ざす空ならば、行けど行けども終わりなく、小傘は不意に、自分が世界にひとりぼっちであるような気がした。






 ※※※






 わかってはいたことだが、土砂降りの雨の中わざわざ外を出歩くような人間は少ない。
 人里は閑散としていた。そこかしこにできた水溜りが陰湿な空の色を映して輝いている。ちらほらと道行く人の姿は見えたが、いずれもぬかるんだ地面を疎ましがるようにそそくさと歩き去っていってしまう。家々の窓はおよそ閉められており、拒絶の意思が蔓延しているかのようにさえ見えた。それは家内を侵さんとする雨に対してだったのか、それとも。

(失踪事件は、解決したのかな)

 まだ続いているというなら、人通りの少なさも閉めきられた窓も当然のことではあるのだろう。数日前多くの人が行きかっていた通りと見比べて、得も言われない気分になった。悲しいといえばそんな気もした。寂しいといえば、そうかもしれぬ。

(いやいや。いやいや。それは違う。人間のいないことに寂しさなんて覚えるはずがない。それより、あの半獣の家に行こう)

 あれから失踪事件がどうなったのか聞いてみるつもりだった。
 小傘は一度通った道をたどり、再び慧音の家へ向かう。大地は泥濘の相をていし、下駄が深く食い込んで非常に歩きにくい。しかたなくわずかに浮き上がる。閑寂な通りはモノクロの色彩に沈んで見えた。雨どいを伝い落ちるしずくの音が嫌にはっきりと耳に残る。
 程なく、慧音の家は見えた。
 意外だったのは、既に彼女が外に出ていたことだ。
 正確には、ちょうど今出てきたところのようだった。
 慧音は落ち着いた色合いの飾り気ない傘を開きながら玄関から顔をのぞかせている。目の下に隈があって、どこかやつれているよう見えた。そしてその眼前に立つはひとりの少女。鴉の濡れ羽がごとき艶やかな黒髪と、その下に浮かべた如才のない笑み。手には手帖とペンを持っていて、傘を小脇に挟んで差している。
 背中から生えた純黒の翼からようやく鴉天狗とわかった。そういえば、何度か幻想郷の空を飛んでいるのを見たことがある。名前は、知らない。話したことも、なかったと思う。

「どうもどうも。清く正しい射命丸です。いやいや、すみませんね。こんな雨の中」
「私は別に構いませんが……あまり目ぼしいことは話せませんよ」
「まだ何も言ってないんですが……私がなにを聞くかわかっているような口ぶりですね」
「わからぬ道理もありません。今この人里で起こっていることといえば、ひとつだけですので」
「まぁそうなんですけどね。そう急くこともありません。一から十までまるっと話してくださるだけで」
「一で十分では?」
「私いつも思うんですけど、一を聞くだけで十を知れって無理がありますよね。単純計算で十倍の情報を読み取れとは昔の人は難しいことを言います」
「天狗は種族柄頭が回るでしょう」
「物事には踏むべき手順というものがあります。そうですね、まずは私のほうから十まで話させてもらいましょうか。何かネタがないかと風の噂を集めていたら、里で連続失踪事件が起こっているそうじゃないですか。これは取材せずにはいられない! と、そんな感じにひとまず詳しそうなあなたのところへ来てみました。それだけです。……一で十分だったかしら?」
「言われなくともそのくらいわかるよ」
「敬語、敬語」
「なんだか真面目なのかふざけているのかわからないし……。私は色々と、忙しいんだが」
「一応真面目なつもりなんですがねぇ。変に脚色したりして書くつもりもありません。話してもらえませんかね?」
「…………そうだな」

 そこで慧音はしばし逡巡して、

「私が知っていることくらいなら、話しても構いはしない。それがきっかけで事態が好転するかもしれないからな。ただ、さっきも言ったが私自身この事件について知っていることはそう多くないのだ。……はなはだ、不甲斐ないことではあるんだが」
「私が聞き及ぶ範囲では、あなたはずいぶんと奔走しているようですがね。失踪した子供の捜索を方々に依頼したり、自らもあちこちで聞き込みをしているそうではないですか」
「……耳が早いな」
「他にも色々と速いですよ。幻想郷最速を自称しております。最近記事を書く速度でも最速を目指して数で攻めてみたりしてるんですが、これがまたそそくさと書いているから誤字だの脱字だのがひどくてですね。我が文々。新聞の評判が落ちてしまわないか心配です」
「ゼロよりひどくなることはあるまい」
「手厳しいですねぇ。さっきから、なんかカリカリしてません? カルシウム不足ですかね。牛っぽいのに。角とか生えるのに」
「……私は煽られているんだろうか」
「あややや、鬼の角が生えました」
「……まぁ、確かに、少し不躾ではあったな。私自身、心に余裕がなかったかもしれん。……すまなかった。ただ、鬼の角とはなんだ、鬼の角とは。そう何でもかんでもおちゃらけて話すものではだな――」
「あの、事件のことについてお聞きしたいのですが」
「ああすまん。どうも職業柄説教くさくなってしまって……」
「あなたのそれは、性格だと思いますけど」
「ともあれ、上がってくれ。いつまでも外では妖怪といえど寒いだろう。……大したもてなしはできそうにないんだが」
「突然押しかけたわけですから、それはしかたありませんよ。ではお邪魔します。……あと、事件について不真面目な記事を書くつもりがないのは本当ですよ。昔からやれ殺人だの自殺だのといった暗い事件は好きじゃないんです。正確にはそれらを面白おかしく書いた記事が好きではなかった。まぁ他に書くことないからって、結局私もこうして取材してるんですけども」

 慧音が少し、驚いたように目を見張ったのが見える。

「意外だ」
「そこまで驚かれると傷つくわ。よよよ……」
「あぁいや、すまん、すまん」
「……雨が、早くやむといいですね」
「……そうだな」

 そうして天狗と慧音は家の中へ入って行った。
 小傘はそれをひとしきり見送ってから、ふと、自分が慧音に用事のあったのを思い出す。
 今から尋ねてもいいが、しばらくはあの天狗の取材で忙しかろう。特に火急のようでもない。時間を潰して、また来ることを決める。

 その後はふらふらと周辺を飛び回った。まばらに通りがかる人間を驚かそうとも思ったが、数日前のあの奇怪な反応を思い出すとどうにも躊躇してしまう。あれは結局なんだったのだろう。なぜああも人間は驚いたのだろう。恐れていたのだろう。
 確かめるのが、怖い。
 何か開けてはならぬ箱を開けてしまいそうな――そんな予感がするのである。しかしいずれは人間を驚かさねばならぬ。そうでなければ飢えてしまう。先延ばしにしたところで詮もない。そうも思った。
 悩んでいる間に時間は過ぎてゆく。
 四半刻ほどもうろうろしていた。
 里のあちこちを歩いて回る。上を見上げても憂鬱なばかりなので、いつしか視線は下がって行った。そんなだから、危うく人にぶつかりそうになった。慌てて顔を上げて見ると、そこには二十台半ばほどの女性が背中を向けて立っている。どこを見ているのかと向こうをのぞきこむが、何もない。
 そもそも、何かを見ているのではないようであった。
 悄然と、ただうつむいている。長い黒髪がべっとりと服に張り付いていた。女性は傘を差していない。これほどの雨だというのに濡れるがままに立っている。不思議に思うと同時に気にかかって、ひきつけられるように足は彼女に近づいていた。

「ねぇ、なにを」

 見ているの? と問いかけかけて、口をつぐむ。人間が何をしていようと、自分には関係ないじゃないか。どうだっていいことだ。そんなの、気にすることじゃない。そのはずだ。

(そうよ、どうだって、いいのよ)

 知らず手に力が入っていた。眉が寄せられ、唇はへのじを描く。近づくにも近づけず、離れるにも離れられず、雨の音を聞きながら立ち尽くした。

 ざぁざぁ。
 ざぁざぁ。

「どこへ……」

 そんなか細い声が聞こえて、小傘はばっ、と顔を上げる。周囲に他者の姿もない。目の前の女性が呟いただろうことはすぐわかった。熱に浮かされたように女性は呟いている。「どこへ……どこへ……」多くの悲嘆と焦燥を孕んだ声であった。

「どこへ行ったの……どこへ……」

 そこに至って、とうとう耐え切れなくなる。
 女性のすぐ横に出て、聞いた。

「何が、どこへ行ったの……?」

 女性は答えない。
 小傘のほうを一瞥することもない。
 ただ虚空を見つめて、呟いている。「どこへ……どこへ……」

 異常。

 異常だという感想を抱いた。すぐ横に立っている自分に気づきもしないほど、彼女の絶望は深いのか。叩きつける雨粒が女性の髪を、顔を、服を、肌を容赦なく濡らしていく。全身濡れていない場所など見当たらないほどだった。その目元から、一条の川が流れる。涙、だったのかもしれない。単に雨が目の下を流れていっただけかもしれない。
 悲しくなった。
 なぜなのかはわからないが、途方もなく悲しい。
 彼女が濡れたままでいることが、それを見ているだけのことが、悲しい。
 そっ、と傘を差し出した。人を驚かすべき目玉のついた化け傘が女性の上方を包み込む。代わりに自分に雨が打ちつけるが、どうだってよかった。
 女性はそれでもしばらく、茫洋と同じことを繰り返していたが――。

 ふと。

 何かに気づいたように視線を動かした。
 目を、これ以上ないほど見開いている。
 瞠目。
 彼女は上を見て、横を見て、後ろを振り返って、また前を見た。
 ……。
 一瞬の沈黙が訪れる。
 そして。

「え……?」

 呆然とした、女性の呟き。
 何だろう。様子がおかしい。
 ますます心配になると同時に、奇妙な確信めいた不安が急速に膨れ上がった。思い出したのは数日前の情景だ。誰も彼もが異常なほど自分に驚き、恐怖したあの日の。何かの間違いだと思っていた。そう思い込んできた。きっと日をあければ皆元に戻る。また誰も驚いてくれない鬱屈とした、だが変哲のない日々へ帰って来れるのだろうと。

 女性は、もう一度上を向いた。
 目をこれ以上ないほど見開いている。瞳孔が極限まで散大しているのが見て取れる。時間の流れが遅くなった。彼女の口が、ゆっくりと動く。

「ひっ……」

 第一声。

「雨が……」

 続く言葉は恐怖に彩られている。

「雨が……」

 彼女の視線は小傘の傘があるはずの場所を愕然と貫き――。

「避けて……ッ!」

 そこが限界だった。

「きゃああああああああああああああああああっ!?」

 絶叫。
 絶叫であった。
 喉の張り裂けんばかりに声を張り上げて、女性は遮二無二走り出した。ぬかるんだ土に足を取られ転びそうになりながらも立ち止まらず、振り返らず、ただ前を向いて走り抜ける。雨に打たれ、髪を振り乱し、両手を振って、叫びながら。
 およそ悲鳴とさえ言うことができぬ。
 本当に恐怖し、心底からおびえたものだけが放つことのできる断末魔めいた叫び。
 それを立ちすくみ見送るはひとりの傘妖怪。
 掲げた傘もあてどなく、自失の視線は女性の背中を追いかける。体のうちで膨張するものがあった。二つある。ひとつは女性から向けられた恐怖と驚愕が全身に染み渡っていく感覚。今まで一度だって経験したことのない莫大な恐怖の感情と、その快感。意識が飛びそうになるほどの、本能的愉悦。

 そして。

 “気づいてはならぬ致命的なことに気づいてしまった”という。
 確信。

「あ……」

 恐怖。
 恐怖だ。
 あの女性のものと、己のもの。二重の恐怖が表皮を食い破らん勢いで増幅している。ずっと心の奥に押し込めていた。その可能性にはとっくに気づいていながら気づかない振りをしてきた。
 爆発的な。
 爆発的なある感情が急激に膨れ上がり胸を満たす。絶望である。絶望であった。

「あぁ……!」

 数日前の時点で、本当は薄々わかっていた。
 人間たちの反応を見て、もしかしたらそうかもしれないと、その程度には考えていた。




 “自分が認識されなくなっていっている”可能性に。



 気づかないはずがなかったのだ。すぐ傍まで近寄っても人間たちは気づかなかった。足音を殺してもいないのに。一歩踏み出せば体と体が触れ合う距離で声を張り上げても、人間たちは眉ひとつ動かさなかった。人間が生物的本能を持つ以上、接近されて大きな音を出されれば多少なりと身体的反応はあって然るべきである。だのに、ぴくりとも動かない。まるで“最初から小傘などそこにいないかのように”、通り過ぎる。
 ガリ、ガリ。
 表すならば、きっとそんな音がしていた。
 ガリ、ガリ。
 正気度の削れていく音だ。気が狂いそうになる音だ。「あ、あぁ……」震えるくちびるを懸命に動かす。張り付いて動かなくなりそうな喉を震わせ、焼け付きそうな肺の空気を精一杯に送り出す。

「あぁ……あ……」

 駄目だ。考えてはいけない。そんなはずはない。なぜそんなことが起こる。人に認識されなくなるなんてそんなこと常識的に考えてありえない。単なる偶然、偶然だ。数日前は皆忙しくて自分に構っている暇がなかったのだ。先ほどの女性は情緒不安定な状態だったから何かあらぬ幻覚でも見ていたのだ。自分はいる。ここにいる。確かにそう実感できる。それを認識できないことなどあるはずがない。ないに決まっている。多々良小傘の実在は確かなものだ。そのはずだ。誰にも揺るがせない。存在の否定などいったい誰にできると――

(私が……)

 ぶんぶんと大げさなほど首を振った。髪の毛から水しぶきが飛んでぴちゃぴちゃと地面に跳ねる。違う。違う。何が違うのかよくわからないが、それは違う。

(違う……違う……! そんなこと、あるはずない……!)

 知らず足が動いていた。走っている。あの女性の走り去ったのとは逆の方向へ向けて、ただ一心に走っている。それが何かから逃げようとする動作であることにはすぐ気づいたが、どうしようもなかった。怖かった。例えようもなく怖かった。今ここで起きたことすべてを夢だったことにしてしまいたい。何もなかったように明日を迎えて、またいつものような――

(いつものような……どうしようもない……人間たちは驚いてくれない……驚かせない……そんな……)

 そんな日々を。
 多少の鬱屈を抱えた、それでも平穏な日々を。
 “それでいい”。もう、今はそれでいい。あの日々に戻りたい。人間は驚いてくれずとも、早苗や阿求やこいしやさとりや慧音や、そうした知り合いたちと何気なく過ごす時間に。
 愛しいのだ。
 そうした時間が、どれほど自分にとって大切であったか。
 ようやく、わかった。
 怖い。
 怖い。
 認識されなくなるなんて、誰も気づいてくれないなんて、それは、それだけは嫌なのだ。死ぬことよりも、千本の針の山で苦しむよりも、そんなことより、怖いのだ。

 ただの一本の傘であった頃と同じ。
 またあのときのように、誰にも気づいてもらえず、誰にも拾ってもらえず、ただひとり風雨に飛ばされ続けるだけの――あの時間だけは、あれだけは。
 嫌だ!
 嫌だ……ッ!
 がむしゃらに走った。
 頭の中をからっぽにして、次々と湧出する恐ろしい想像を振り捨てて、前だけを見て走り続けた。いつしか家にたどり着いていた。見慣れたボロ小屋の扉を開けると、濡れた体を拭くこともせず布団へと向かいもぐりこむ。外界のすべてを遮るように頭までかぶると、冷え切った体を抱きながらただ震えた。

(私は……私はもう……)

 忘れられるのは。
 捨てられるのは。
 気づかれないのは。
 それだけは、耐えられない。
 目を瞑る。固く、固く、一切の光の入ってこないように。恐ろしい現実の光が網膜を焼ききるよりも早くこの意識を暗闇に閉ざさねばならない。

(嫌だ……嫌だよ……怖いよ……誰か……)

 はぁー、はぁー、といまだ整わぬ呼気が布団の中に満ちた。
 ざぁざぁ、ざぁざぁと雨の音が聞こえてくる。
 耳を塞ぐ。
 もう何も、もう何も、これ以上現実を進めてはならない。
 そしたら、何か、致命的な何かが崩れ去ってしまう。

 あるいは本能的な直感に突き動かされ、小傘はそうして、ただ眠る。
 ぐにゃり、と眩暈がした。
 世界が歪みこの現実から離れていくような――。

 違うんだ。
 違うんだ。

 ……
 ……
 ……






 ※※※







 目覚めはいっそ、快適ですらあった。


 妖怪は頑丈にできている。人間が三日も食わねば死んでしまうところを、妖怪は一週や二週程度絶食しても平気である。
 あれから、どれほどの時間がたっただろう。
 小傘はずっと、何も食べず、布団から出ることさえなく、ただじっと、じっと布団の中にいた。
 時間の感覚がわからない。
 過ぎたのが一日どころではないことだけはおぼろげに理解できるが……。
 外の雨はもう、やんでいるようだった。
 もそり、と久しぶりに体を起こす。

 ひどく清澄な気分であった。
 長い時間寝続けて、夢の狭間にたゆたって、心労がすべて洗い流されたかのようだ。
 のそのそと起き上がると、猛烈な空腹感を覚えた。死にはしないとはいっても、腹は減る。まずは、何か胃に入れてやろう。

 小傘はもそもそと食事を取ると、あくびをひとつ、そういえば寝る前なにを考えていたのだっけと記憶を掘り起こす。
 ……。
 いや、やめよう。
 そんなこと考えてもしょうがない。
 きっとどうだっていいことだったのだ。
 息苦しい。
 そうだ、外の空気を吸おう。
 そうすれば、少しはましな気分になるさ。
 外に出た。
 どうやら時間帯は夜のようだ。紺碧の空が悠然と広がっている。黄金色の満月が神秘的に輝いているのが印象的だった。ただ残念なことに、空の大部分を覆う雲によって星は見ることができない。
 清涼な、夜の空気。
 すぅぅ、と肺一杯に吸い込む。げほ、げほ、吸い込みすぎてむせて、何やってんだと自分を笑う。
 片時離さず持ち歩いている傘を、何とはなしに広げてみた。
 煌々と光を放つ月が、少し眩しい気がしたのである。傘を掲げる。月光はほとんど遮られてしまったが、そうして傘越しに月の輝きを想像して楽しむのも、中々風流であるかもしれない。

 例えばもし、この傘が透けて見えたりしたら、そんなことも思えないだろうなぁ。
 なんて何とはなしに考えて。


 意識が覚醒した。


「……ッ!! あ……ぅ……ッ」

(そうだ……そうだった……! 私はあの日、里で……!)

 ひどい可能性に思い至ったのだ。
 荒唐無稽な仮説を思いついたのだ。
 そして、逃げ出した。
 確かめるのが、怖かった。確かになるのが、怖かった。もし本当にそうだったら、一秒だって耐えられない気がした。あまりに恐ろしい想像だった。およそ現実的ではない、それでも否定するのが難しい、そんな思考。

(まさか……そんなはずは……)

 そう思おうとするたびに、理性は声を張り上げた。
 人間たちが自分に気づかなかったのは確かではないか。
 あの女性の幽霊か何かを見るような目を思い出せ。
 お前はそれでも、本当にそんな妄言を――。

(違うわ……違うよ……)

 なら、確かめに行けばいい。
 今から里へ行って、人間に話しかけて、それで気づいてもらえるかどうか。
 なのに、足が動かないのはなぜだ。
 家に閉じこもって、一歩たりとも動こうとしなかったのはなぜだ。

(そうじゃなくて……それは……)

 理性と感情、事実と本能、二つの内なる声に苛まれて目の前がくらくらした。
 くるくると視界が回る。
 今にも、倒れてしまいそうだ。
 それでも。

(私は……私はただ……)

 妖怪多々良小傘は、何がしたいのだろう。自分でもよくわからない。なんだか、張り裂けそうな感じがした。両手両足を別々の方向に引っ張られて、全身が引き裂かれてしまいそうな感覚だった。矛盾。矛盾している。どこがかはわからない。ただ、何かが絶対的に矛盾したまま回っている。そんな気がする。

(嫌……嫌……里へは、行けない。それを確かめたら……私は……)

 もし本当にそうだったとしたら。
 その事実を認めてしまったら。

(私は、どうなっちゃうんだろう)

 じ、と一歩たりとも動けなかった。
 びゅおう、と。
 風が吹いた。
 突風だった。
 ざわざわとこずえの音を鳴らしながら、開いた傘を内側から強く引っ張った。ぼうっとしていた手では咄嗟に握り締めることができなかった。傘は風に乗り、飛んでいく。
 人里の方へ。

「あ……」

 行け、というのか。
 この世に天というものがあるのなら、それは「行け」と言っているのか。

「……」

 逡巡。
 懊悩。
 葛藤。
 そして。

「……傘を、取りに行くだけ」

 そう言いながら、風に飛ばされる傘を追った。





 ※※※





 里へ入るのにはずいぶんと緊張した。
 しかし実際には何事もなく、今小傘は里の通りの一角に立っている。
 ぽつ、ぽつ。
 かすかに雨が降り始めていた。空の八割は薄暗い曇天に覆われ陰鬱無惨な様相である。

(来てみたはいいけど……なにをしたらいいんだろ)

 考えていなかった。
 ぼんやりと通りを歩く。

(そういえば前来たとき、結局あの半獣の家を訪れてなかったわね。先にそこへ行ってみようかしら)

 しかし、足が止まる。
 怖かった。
 赤の他人ならいざ知れず、もし、知り合いにまで気づかれないようなことがあれば――

(違う。違うんだって。それはきっと勘違いなんだって)

 そうは思うものの、足が伸びない。
 ぽとぽとと雨が頬を叩く。
 雨脚は徐々に強くなりだしていた。
 本降りになるのもそう遠いことではあるまい。
 憂鬱な気分で空を見上げる。ため息は白い靄となって虚空へとけた。秋も半ばを過ぎた。普段ならこの時期は冬への備えを買いに歩く人間たちで通りが賑わっているはずだ。なのに、今日と来たら通りを歩くものは極まれで、慧音に聞くまでもなくあの事件が続いていることを察させた。
 閑散とした世界。
 誰もいない、一人ぼっちの夜の道。
 人間を驚かすには、きっと最適のシチュエーションだ。

(……駄目だ)

 まるで、そんな気分になれない。
 さぁさぁと雨がいよいよ勢いを増していく。
 知っている道、知らない道、色んなところを練り歩いた。

 そして、見つける。

「あ……」

 長い黒髪のかかった背中だ。雨はもう決して無視できるものではなくなっているのに、傘を差さず、通りの真ん中に立って、空を見上げている。その後ろ姿、見まがうこともなく。

 あの日、あの日小傘を恐怖した女性であった。 
 彼女はまた、こうして立っている。
 あるいは日課なのかもしれない。
 沈鬱な気分を紛らわすのに、夜の散歩は中々に有効だ。雨に打たれるというのも、古典的ながら悪くはない。彼女はだから、毎日のようにこうして外を歩いているのかもしれなかった。
 
(どうしよう……)

 見なかったことに、してもいい。
 だけど、確かめるなら、彼女以上の適材はいない。
 あの日のことが、何かの間違いだったのか、それとも当然の帰結であったのか。
 ごくり、と唾を飲み込んだ。

(ここへ来て、なにを恐れているのよ。簡単なことじゃない。私はただ、彼女に声をかける。いつものように「うらめしやー!」と驚かしてもいい。容易なことよ。ただ近づいて、短い言葉を発する。それだけ。それだけなんだから)

 どくん、どくん。
 外に漏れ聞こえているのではないかというほど大きな心臓の音。
 これ以上ないくらい早鐘を打っている。額に汗が浮かんできた。傘を握り締める手にも汗が滲む。おじ気とおぞ気が全身を鉛に変えてしまう前に、動かなければならない。無理やりにでも己の心を鼓舞して、発破をかけた。
 どく、どく。
 ざぁ、ざぁ。
 慎重に、恐る恐る、しかし果断に、豪胆に、小傘は女性への距離を詰める。
 ここで引いたら、この先ずっと不安を抱えて生きることになる。もしかしたら自分が誰にも気づいてもらえなくなったのかって、そんな恐怖を抱いて生きる羽目になる。それは嫌だ。だから、確かめなくてはならない。遅かれ早かれ、そのときは来る。
 だから今。
 今、確かめる。

 はぁーっ、はぁーっ。
 息が荒れる。ほんの十秒程度の距離がどうしてこうも長く感じるのか。
 無限に等しい体感のすえ、とうとう女性のすぐ後ろまで来た。
 喉がつっかえる。中々声が出てこない。願うように右目を閉じて、祈るように左目を閉じた。それから、両目を開けた。

「あの」

 決意はようやく声となった。
 女性は、動かない。

「あのっ」

 精一杯の声量で話しかける。
 女性はやはり、動かない。

「あの!」

 女性は動かない。

「あのっ!! 私! ここに!」

 動かない。
 動かない。
 ざぁぁぁ、と顔が青くなった。
 飛び出すように女性の前面に出て、かなう限りの大声で叫ぶ。

「私はここにいるの!! 見て! 気づいて! 私は……!! ……うらめしやぁーっ!!」

 ……
 ……
 ……女性は、動かなかった。
 ほんの一瞬とて、視線を動かさなかった。
 彼女はずっと上を見ていた。
 小傘のことなど、意識にも上っていない。

「あ、ぁ……?」

 思考が止まるとは、こういうときのことを言うのか。
 頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。
 ふらふらと後退する。尻餅をつきそうになって、どうにかバランスを保つ。
 目を見開いて、女性を見る。

「どこへ……どこへ行ったの……私の子……」

 女性の頬を、涙が伝って落ちた。
 私の子。と言った。
 彼女は失踪した子供の母親だったのだ。
 その事実を噛み砕いても、やっぱり、思考が働かない。
 上を見続けるのは首が疲れるのか、女性は少し身じろぎした。
 ぽろり、とその拍子に懐から零れるものがある。

「あぁ……」

 それは。
 そのとき落ちたのは。

 あの、お守りだった。
 あの男の子の、持ち主をなくした、慧音が両親に届けておくと言った、そのお守りだった。

「あぁぁ……!」

 彼女はあの男の子の母親だったらしい。
 落ちたお守りを慌てて拾うと、大事そうに付着した泥を払っている。
 そうして、再び懐にしまうのを見たところで――。

 遅れて、感情の津波が訪れた。



「わあああああああああああああああああああああああああああああああ!」



 叫ぶ。
 体のすべてを集めて、叫ぶ。
 何がそんなに悲しいのか、狂おしいのか、苦しいのか、自分でもさっぱりわからない。
 ただ感情が爆発した。
 人間が自分に気づかないという事実に、全身が悲鳴を上げている。誰も気づいてくれない。誰も自分を見はしない。誰も、誰も、誰一人。

 もう、誤魔化すことさえできなかった。
 人間は、やはり、自分に気づかない。
 “自分は認識されなくなっている”。

(勘違いなんて、そんなはずないのに! わかっていたのに! とっくにわかっていたのに! 私は! 私は何を夢見ていたのよ! 私は、私は今……!)

 誰からも認識されない状態。
 なぜ、どうして、自分が。
 胸を埋め尽くす疑問。かつてないほど思考が回る。今までにあったたくさんのこと、懐かしいこと、最近のこと、膨大な量の情報が脳を駆け巡る。

(確か……そうだ……こいしが言っていた……「災難に見舞われそうな気がする」って……彼女はなにを知っていたの? 彼女はこれを予見していたの? 何か引っかかる……もっと前……何か……何か小さな……)

 阿求の屋敷を訪れた日。
 そして、彼女の語った怪談。
 それを思い出して、この上なく青ざめる。

(女の子が、いなくなった……)

 続けざまに、幾つもの怪現象が発生した。

(怪現象……それは確か……)

『夜、一人道を歩いているとどこからともなくすすり泣く声が聞こえる。裾を引かれて振り返ったが、誰もいなかった。店先から商品が忽然と姿を消している。寝床に何者かの足音が聞こえてくる』

(これは、まるで)

 顔を上げて、女性を見る。先日起こったことを、彼女の視点で見ればどうなるか。彼女は小傘が見えていなかった。小傘も、小傘の持つ紫の傘も。その彼女が傘を差されれば、その認識のうえでは“何もないのに雨が自分を避けている”ように見えるのではないか。

 思い出す。
 もっと前のこと。

 小傘が人里で人間たちを驚かしたとき。異様なほど、彼らが驚いたとき。あのときすでに、小傘は認識されにくくなっていた。そうすると、彼らにとっては忽然と後ろに小傘が現れたように感じていたはずだ。だから、あれほど恐れたのではないか。あれほど驚いていたのではないか。

(そうした不思議なことは、当然口頭に上る。噂になる。怪現象として語られる……)

 嫌な想像だ。
 信じたくない空想だ。
 だけど、そう思えてしかたがない。そう考えるのが、一番しっくり来る。

 これは同根の事件なのだ。
 小傘は今、五年前の被害者と全く同じ境遇にある。
 そしてかつて五年前、人里で消えた女の子もまた、今の小傘と同じように――

(そんなのって……そんなのってないよ!!)

 この失踪事件、あるいは怪異のようなこれの正体。
 これは、決して人がいなくなる怪異ではない。
 これは、“誰にも認識されなくなる”怪異だったのではないか。
 そして女の子もまた、そうだった。女の子は悲しんで泣いた。女の子は気づいてもらいたくて裾を引っ張った。女の子は飢えを満たすため盗みを働いた。女の子はあるいは彼女の家族の寝室へ――。

「う、ぅ……」

 涙が溢れた。ぼろぼろとこぼれ落ちる。止まらない。止めようもない。悲しくて悲しくて抑えられない。
 人間の女の子の悲劇を、悲しんでいる。
 恨めしいはずの人間の、不幸を。

(女の子はどうなったの……? 阿求と友達だったっていう、彼女はどうなったの……?)

 死んでしまったのだろうか。
 今生きていたとして、正気を保っていられるだろうか。

(あんまりだ。あんまりだ!!)

 彼女には何の罪もなかったではないか。
 五年前の女の子だけじゃない。今回の失踪だって、皆まだ年端もいかない子供じゃあないか。彼らに何の咎があった。彼らに消えるべき理由などあったのか。
 それとも何の理由もなく消えるのか。
 自分もまた、何の意味もなく消えるのか。
 認識されなく、なったのか。

「あぁぁ……あああああああああ」

 言葉にならない。
 理不尽への怒りが胸を内側から引っかいている。悲しい。怖い。苦しい。つらい。滂沱として流れる涙が地面の泥に交じって消える。
 ふ、と気づいた。

(じゃあこれから私は……)

 息が止まる。
 音が消える。
 この世のすべてが遠くなる。

 これから小傘は、誰の記憶からもいなくなり――

「ああああああああああああああ!」

 嫌だ。
 それだけは嫌だ。
 誰からも忘れ去られて、たった一人になる。
 それだけは。
 それだけは。

 それだけは嫌なんだ!

 衝動というよりは本能だった。感情というよりは過去だった。この世で最も恐ろしいことだと思った。
 誰か、誰か自分を見てくれる人が。
 ぱっと思い浮かんだのは阿求の顔だ。彼女は認識はできないかもしれないが、少なくとも自分を忘れはしない。
 ……忘れないだけなのだ。
 彼女は、五年前消えた女の子もついぞ認識できなかった。
 結局、誰からも気づかれない。
 そう意識したとき、次に浮かんだ顔は不思議なことに早苗だった。
 彼女に気づいてもらえないことだけが、何より恐ろしかった。人間なのに。人間の彼女に。

 小傘の足は、妖怪の山へと向かう。

 妖怪の山を、姿を隠すでもなく飛んでいった。大雨が服や肌を濡らしていくが、気に留める余裕もなかった。あえて天狗たちのテリトリーを侵すようにして守矢神社を目指すが、誰にも呼び止められることがない。人間だけじゃない。妖怪も、小傘を認識できないでいる。

 程なく、守矢神社にたどり着く。
 心臓の音にせかされるように、歩く。下駄を脱ぎ捨て、縁側へ上がる。まだ満月は天頂へ届いていない。あわよくば夕食を取っている時間かもしれない。そう考えて、かつてカレーをご馳走になったあの部屋へ。
 いざその場所へ向かい、そこから明かりが漏れているのを確認すると、急に足がすくんだ。
 簡単なことなのに。ただこの障子を開けて、中へ入るだけなのに。
 きっと、早苗はこう言うだろう。「こんな時間にどうしたんですか?」と。自分はそれにこう答える。「うらめしやー。驚いた?」いつものように、そんな何気ない会話を交わすんだ。そのために、ここへ来た。

 手が、動かない。
 前に、進めない。
 その間に、中から会話が漏れ聞こえてきた。
 早苗と諏訪子と神奈子の、今となっては懐かしい声。



「すごい雨だねー」
「こりゃあ、明日も降り続けるよ、きっと。参拝客も来ないだろうし、暇だ暇だ」
「何します?」
「早苗が決めたら?」
「うーん……そうは言っても……私明日は里に行く用事がありますからあまり大掛かりなことはできないし……トランプとか?」
「よし、ババ抜きをしよう」
「えー」
「何が不満なのさ」
「いやねぇ」
「神奈子はすぐ顔に出るからねぇ」
「そ、そんなことない。諏訪子こそいっつもずるするじゃあないか」
「したっけ?」
「したよ」
「しましたよ」
「早苗まで……あれは事故だよ、事故」
「事故ってたものね、手札が」
「事故ってましたね」
「ぐぅ……神に誓って言うよっ、私はいかさまなど……!」
「はいはい」
「自演乙」
「早苗……そんな言葉をどこで……」
「え、普通に」
「……神奈子」
「ああっ、早苗がネットに毒されるなんてっ……! そんなっ……!」
「大げさだなぁ」



 暢気でのどかで和やかな。
 そんな会話が耳をなでていく。
 彫像のように固まったまま、動けない。
 ざぁざぁ、ざぁざぁ……



「雨やまないねー。早苗、あんたの奇跡で何とかならない?」
「うーん……どうでしょう。大規模な奇跡を起こすにはある程度事前の準備が必要ですし……小さな奇跡なら、その場ですぐ起こせるんですけど……ってこの説明は諏訪子様には不要ですよね」
「うーん。ま、そだね。ってありゃ、神奈子どうしたのさ。固まっちゃって」
「いや……そういえば最近、見ないなって思って」
「見ないって、誰をさ?」
「あー、いや、ほら……えっと……あれ……誰だっけ? えっとだね」
「神奈子、ぼけたかい?」
「う、うるさいよ! 年よりはお互い様だ! ともかく、まぁ、最近見ないなぁって思ってね」
「えっ、と……すみません。誰のことを言っているのか……」



 どくん、と。
 心臓が跳ね上がった。胸を突き破って体外へ飛んでいってしまいそうだ。
 全身の穴という穴から汗が噴き出す感じがした。
 総毛立つ。
 体が震えて、膝がくず折れそうになる。
 これ以上は、駄目だ。聞いちゃいけない。今すぐ引き返すんだ。
 縫いとめられたように動けない。



「ほら、この前も来たじゃないか」
「参拝客の方でしょうか?」
「そうじゃなくて、ほら、確か……妖怪、だったっけ?」
「え、と……」
「ああもう! もやもやする! あと少しで思い出せそうなんだけどなぁ……」
「こりゃ本格的に駄目だね」
「うるさい諏訪子」
「だいたい、うちに妖怪が来たことなんてあったっけ? ああいや、天狗とか?」
「うーん……」
「あの……神奈子様」
「なんだい?」
「少し、私も心当たりがあるような……」



 固唾を飲んで、続きを待った。あるいは早苗は、早苗なら――。
 覚えていてくれているかもしれない。
 聞くのがひたすら怖かった。聞かずにいるのが、怖かった。
 一人団欒と雨の狭間に立つ。満月の晩、大雨の夜。



「心当たりがあるって?」
「ええ……なにか、ぼやぼやとして、掴みようのないイメージなんですけど……」
「どうなんだい?」
「なんだか、女の子みたいな輪郭です。傘……かな? いつも大事そうに持ってたような……ちょっと騒がしいけど、すごくかわいいというか……うーん……」
「夢でも見たんじゃないの?」
「そ、そうかなぁ……」
「いや諏訪子、なんか私もそんな気がするよ」
「む、むむ……二人一緒な夢を見たとは考えにくい……」
「どうなんでしょう?」
「さぁ……」
「……」
「……」
「……」
「……あれ?」
「どうした神奈子」
「いや、何の話してたっけ」
「ん? 何言ってるんだ。とうとうボケちまったか。そりゃあ……あれ」
「何の話をしてたんだ? 早苗は?」
「え、えっと……あれ……おかしいな……何を……わ、わかりません」
「……」
「……」
「……」
「なんだったんだか」
「なんだったんだろうねぇ」
「なんだったんでしょうか」



 そうして、会話は途切れた。

 ざぁざぁ、ざぁざぁ……。

 雨の音しか聞こえない。
 一秒が、永遠になった。
 心のあったはずの場所がまるで空白と摩り替わり、動くことも、考えることもままならない。

 ざぁざぁ、ざぁざぁ……。

 時間だけが過ぎた。
 そして。

「あ、あぁぁあぁ……」

 そこから先は、意識があったとは言いがたい。
 しかしさりとて、気を失っていたのでもない。
 強いて言うなら、肉体から魂だけが抜けいでて己を斜め後ろから俯瞰している感覚だった。
 小傘は、障子を開けた。
 ばん、と強く大きく開け放たれた障子に、三人の目が釘付けになる。
 小傘は幽鬼のような足取りで、ただゆっくりと進んだ。

 ひた……
 ひた……

 濡れた足が畳に足跡をつける。外から吹き込んだ風がびゅうびゅうと髪をなびかせた。早苗は呆然としていた。神奈子と諏訪子は身構えてこちらを見ている。

「何だ? 風で開いた?」
「風で開いたにしては不自然だ!」
「それじゃ……河童……いや、河童じゃない!」

 警戒のまなざし。
 もし今攻撃されたら、小傘は大怪我をしてしまうかもしれない。
 どうだってよかった。
 前へ。
 前へ。
 突き動かされて、前へ。

「気づいて……」

 驚くほどに、か細い声が出た。

「気づいて……私に気づいて……」

 降雨の音にかき消されそうなほど、小さく。

「気づいて! 私に、気づいてぇ!!」

 山彦にだって負けないくらい、大きく。

「私のことを、忘れないで!! 私の存在に気づいて!! もうあんな、一人で風に飛ばされるのは……っ!」

 もう、嫌なのに。
 ずっと、人間に拾って欲しかったのに。
 自分を、使って欲しかったのに。
 捨てられるのは嫌だったのに。忘れられるのは嫌だったのに。嫌われるのは嫌だったのに。一人でいるのはつらかったのに。
 そうして、妖怪にまでなったのに。
 誰かに気づいて欲しかったのに。自分のことを知ってもらいたかったのに。誰かの役に立ちたかったのに。
 恨みなんて、どうだってよかったのに。
 人間と一緒にいたかっただけなのに。
 なのに、どうして、どうして素直になれなかった。
 知っている。その答えがわからないはずがない。捨てたからだ。勝手な都合で作っておいて、勝手な都合で捨てたからだ。道具はいつだって人間に振り回される。そうした道具の悲哀を許せなかったからだ。人間たちに教えたかったからだ。道具が怒ったり悲しんだり苦しんだり喜んだりすることを。
 恨めしかったのだ。
 憎んだことなんてない。嫌ったことなんてない。ただ許せなかったのだ。捨てられて飛ばされてさまよって泥に塗れた過去を、それを作り出した人間を、どうしてもどうしても許せなかったのだ。
 だから、いつも、驚かすときの文句はひとつだった。
 恨めしかった。
 それだけだった。
 それだけだったのに、なぜこうなる。誰からも忘れられ、存在を認識されなくなり、かつて一本の傘であった頃のように雨に打たれて、苦しんで、孤独に喘ぐことになる。
 人間に自分の存在を知ってもらいたくて、その心に刻み付けたくて、妖怪になった。
 物を顧みない人間を見返してやりたくて、妖怪になった。
 人間を驚かしてやれば、恨みを晴らせ、何より自分のことを覚えていてもらえると思ったから、妖怪になった。
 忘れられるのが、一番怖い。
 妖怪になったことの意味を、過去を、存在の意義を否定されることだから。
 だから。

「忘れないで……忘れないで……」

 それだけは、あってはならない。

「忘れないでぇ!!」

 バァンッ!

 机を叩いて、あらん限りの声で、叫ぶ。
 ぼたぼたと髪から水滴がしたたった。
 誰も、動かない。
 誰も、気づかない。
 ぐら、と小傘は顔を上げた。
 早苗はひどく怯えた顔をしていた。その目は何かを捉えている風ではなく、ただ虚空へ向けられている。ずり、と足が動いていた。酩酊したようにおぼつかない足取りで近づくと、胸倉を掴んで引き寄せる。

「ぃ……ッ!」

 声にならない悲鳴が聞こえる。がくがくと前後に揺さぶって、叫び続ける。

「気づいて! 気づいて! ねぇ、忘れないで! 私を、私を忘れないでよぉ!」

 大粒の涙が次々と顎を伝う。何も考えられなかった。叫ぶ。叫ぶ。

「きゃああああ!」

 絹を裂くような絶叫とともに振り払われて、ようやく意識が立ち返った。
 あとはただ、呆然と早苗を見上げることしかできない。

「なに……なんなの……やだ……」

 恐慌に駆られた面持ちで、早苗は後ずさる。腰を抜かして倒れこむのを、慌てて神奈子が支えた。「大丈夫? 早苗? 大丈夫!?」必死に呼び聞かせている。早苗はどこか焦点の定まらない顔で神奈子を見上げた。諏訪子がぎろりと恐ろしい顔を見せると、もうわけがわからなくなった。後ろを向いて、一目散に駆け出した。
 守矢神社を飛び出す。
 その後、どことも知れない森の中へ。
 どれほど飛んだのか、どの方向に飛んだのか、どれだけの時間飛んだのか。何一つとしてわからない。気づいたときには息ができぬほど呼吸が乱れていて、体の一切に力が入らず、為す術もなく倒れこんだ。
 雨にぬれて、ぬかるんだ地面。
 泥濘に、沈む。
 底なし沼にはまったかのようだ。上下の感覚がわからない。地面に倒れふしているはずなのに、その感覚がない。どうにかわかるのは、頬を伝っていく涙の感触だけだ。体はすっかり冷え切っていた。内側は燃えるように熱かった。頭皮の裏がじりじりと焦げ付くようで、気持ちが悪い。
 早苗の怯えた目が、諏訪子の敵を睨むような目が、脳裏を巡る。
 いつか、彼女達と囲んだ卓を、団欒を、思い出す。
 胸が締め付けられる。
 途方もない。
 途方もないのだ。
 言葉にできない。悲しいとも、怖いとも、苦しいとも、辛いとも言いがたい。幾つもの感情の波が容易く涙の堤防を食い破る。

「うあぁぁぁ……あああああああああああああああああああああああああああ」

 何かを求めて手を伸ばした。決して何もつかめなかった。
 息が、できない。
 あえぐように胸をかきむしり、もがくように身をよじる。服が、顔が、白磁の肌が、汚れて穢れて目もあてられないような様になる。それでも、もがく。息を求めて上体をあげ、力が入らず倒れこむ。そのたびに全身が泥に塗れて、口の中に入って、苦しい。
 段々、意識さえ遠のいていった。雨に打たれ、泥だらけになり、息は切れて全身が疲れを訴えている。もう、少しも動けそうにない。涙で視界がぐちゃぐちゃに乱れて、喉がひりついたように痛い。

「はっ……う……ぐ……ぁ……」

 秋深まる夜、身を切る寒さ、泥濘、豪雨、孤独と孤独。
 この身を取り巻くすべてが体力と精神力を削ぎ落としていく。
 世界そのものに、責め立てられているみたいだった。

「わす……れない……で……わすれないで……」

 一人ぼっちで風雨に打たれる。
 こんな思い、二度としたくなかった。
 この苦しみをどこへ向ければいい。誰が悪いのか。誰か悪いのか。それさえまるでわかって来ない。
 雨の中にすべてが溶け出していくように感じた。

 もう二度とあの日々へ戻ることはできない。誰かと会話することも、触れ合うこともできずに独りで、いつしか小さな女の子がたどったような末路を行くのだ。

 朦朧とする意識が失われる寸前、最後の最後、残す言葉は悔恨の呪詛。





 うらめしや



 ……
 ……
 ……




 ※※※





 翌日、慧音が編纂した歴史を手に阿求の下を訪れ――





 ※※※







「私はその妖怪と何度か顔をあわせていた。つい一週間前に話をしたばかりだった。歴史には、そのことが書かれていた……私は覚えていない……私はそんな妖怪知っていないッ! 消えたんだ!! 消えたんだ……! 私の記憶から、すでに消えていたんだ!!」

 内心の苦悩を表すように、慧音は深く眉間を寄せた。

「多々良小傘は、何者なんだ……」

 頭を抱えて、うめく。今まで消えるのは人間だけかと思っていた。もっと緩やかに記憶から失われるのかと思っていた。だが、そうではないのだ。何の要因が働いているのかはわからないが、もっと急激に忘れてしまう場合がある。

「どうやら、妖怪だったことはわかる。彼女と一週間前とその前日、前々日に何か話していたこともわかる。だが、どんな容姿でどんな性格でどんな声でどんな仕草をしていたのか、それはもうわからない。忘れてしまった……取りこぼしてしまった……」
「あの……」

 阿求がおずおずと声を出す。気遣っているゆえか、あるいは何かを恐れていたのか、推し量るのは難しい。

「今まで詳しく聞いたことがありませんでしたが……あなたの能力は、どのようなものなのですか? 幻想郷中の歴史を知る、とは」
「……いわば、歴史書を読み解いているようなものなんだ」

 うつむいたまま慧音が答える。

「私はここで起こった“事実”を知ることができる。誰それが喧嘩した、誰それが結婚した、風が強かった、日が照っていた、というような客観的な事実だ。だが逆に主観的なこと……つまり誰それが何を考えていたとか、誰それがどんな性格をしているとか、そういったことはわからない。もっと言えば、客観的な事実に関してもすべてを把握できるわけじゃない。この幻想郷に住む無数の人妖、その全員の細かな仕草や表情、会話の内容を追うことはできない。これは単に、私の脳の回転の限界なんだ。一日ごとにハクタクの力を発揮できたならまた違うかもしれないが……一ヶ月分の歴史の情報量は莫大だ。それを一夜で纏めようとすると、どうしても取りこぼす部分ができてしまう。私が未熟だから……こんな……」
「……そう卑下しないでください。例えディティールに手が回らなくとも、一夜で一ヶ月分の全ての歴史を把握できるだけで十分驚異的なことです。それで頭が足りないといったら、この幻想郷全土でも頭の足りた人妖など数えるほどになるでしょう。今は、先のことを考えましょう」

 励ますように阿求が言う。慧音はやつれた顔を上げた。隈ができていて、不健康そうな、疲れたような顔。それで、儚く笑った。

「……ありがとう。そうだな、前向きに、できることをしよう」
「ええ。それが、いいはずです」

 阿求も笑った。だがその笑みにはどこか陰りがある。目ざとい慧音は、それを見逃すことはなかった。

「……何か、心配事があるのか?」
「……いえ。その……」

 言うかどうか迷っている素振りだった。

「言ってくれ。どんな些細なことでもいい。どんな馬鹿げたことでもいい。今は、何でもいいから情報が欲しいんだ」

 阿求はそれでも、しばらく悩んだ。 
 口を開きかけては固く閉じ、また開いては声にならない。そんなことを何度か繰り返すのを、慧音はせかすでもなく待っていた。
 たっぷり数分の時間をかけて、ようやく阿求は言った。

「……忘れ、ているんです」

 意外だったのは、彼女の声がいつになく怯えた様子であることだ。慧音の知る限り、この大人びた少女がここまで恐怖をあらわにすることは珍しい。絶無であるとさえ言ってよかった。知らず、つばを飲み込んでいた。これから何か、恐ろしい事実が告げられる予感があった。

「……私は決して見た物を忘れない。そのはずです。そのはずだった。なのに……なのに私は……私は、多々良小傘を知っています」
「なっ……! 本当か!」
「私のもとを、訪れたんです。あれは確か、今から十日ほど前のことです。彼女は『怪談を教えて欲しい』といって尋ねてきました。ちょうど暇だったから、一日中怪談を語って聞かせたんです。私はそのことを忘れず覚えているつもりだった。でも、さっきあなたが駆け込んできて、息を乱しながら小傘さんの消失を語っていたとき……私は、私はその日のことを思い出していた。実はその日、小傘さんが帰ったあと不思議なことがありました。茶請けとして出したお饅頭がいつの間にかひとつ減っていて、代わりに硬貨が幾つか転がっていた。まるで御代とでも言わんばかりに。そのとき私は、不吉な予感を覚えました。そのことを思い出していたんです。そして連想して、誰が訪れたのかを想起しようとして――わからなかった。今、あなたから小傘さんの名前を聞いて、ようやく思い出せたんです。私は確かに、忘れていた。忘れじの法を持つ私が、忘れていた……! こんなことが、こんなことが……!」

 恐慌にかられたかのようだった。
 阿求は胸をぎゅぅ、と抑えて息苦しそうに語った。
 絶対だと思っていた自分の記憶が信じられなくなる感覚。
 それは、一体いかほどのものなのか。
 くらくらと目の前がかすんだ。
 恐ろしいことばかり起きる。不思議なことばかり起きる。

「……以前あなたが言っていたことが、現実になりましたね」
「……まさか本当にそうなるとは、思っていなかったさ。これじゃ、まるで本当に……」

 怪異にでも遭っているかのようだ。
 そう口にしかけて、慌てて声を抑えた。
 そうした言葉で括ることは思考停止に他ならない。今それをやれば、いったい誰がこの事件を紐解くことができる。

「私たちに、できることは……」
「できることといえば、見て欲しいものが」
「見て欲しいもの?」
「以前、この事件の記録を書くと言ったでしょう。私の知る範囲のことを纏めてあります」

 そうして阿求はまだ新しい風体の巻物を取り出した。
 受け取って軽く目を通す。阿求の視点を通して見た事件にまつわる事実や推測が書き連ねられている。
 慧音にとって目新しい情報はなかったが……。

「ふむ……過不足なく情報が纏まっているし、これなら里の人々に失踪事件のことを上手く伝えられそうだ。……問題は信じてもらえるかどうか」
「記憶の失った者たちにとっては与太話以外の何でもないですからねぇ……」

 阿求はため息をついた。

「……私のほうでわかることは、全てそこに書きました。慧音さんは……他に何かありませんでしたか? 歴史を編纂してわかったことが、小傘さんの失踪以外に、何か」
「……そうだな」

 目を閉じて昨夜編纂した歴史を思い出す。一ヶ月分の歴史、とりわけ失踪事件に関連していそうなもの。

「ひとつ、ある」

 苦々しい声で慧音が言う。歴史を編纂する過程で生じたとある違和感。
 そのときのことを思い出して、顔が青ざめる。

「……失踪した多々良小傘は昨日の夜、一番雨が強かったくらいの頃に妖怪の山を訪れている。だがどうも、そのあたりの情報がモヤモヤしているというか、不明瞭なんだ。言葉にするのは難しいが……見えて当然のものが見えてこなかった」

 それは慧音にとって、小傘のことを忘れていたことと同程度に衝撃的な意味合いを持っていた。

「私は昨日“幻想郷中”の歴史を見た。多々良小傘が我々の前から姿を消したとはいっても、妖怪である彼女がわずかな時間で博麗大結界を越えたとは考えにくい。だから、今もこの幻想郷のどこかにいるはずなんだ。幻想郷のどこかにいるなら、全て歴史に残っているはずなんだ。……なのに歴史では彼女の所在が途中からわからなくなっている。というより、そもそも、彼女についての“歴史”がある地点でぷっつりと途切れている」
「……それは、珍しいことですか?」
「珍しいどころじゃない。明らかに不自然だ。歴史とは連綿と紡がれるもの。個人の歴史が途切れるのは普通死んだときくらいなんだ」
「……じゃ、じゃあ」

 阿求もまた青ざめた。

「……死んだって、ことですか?」
「いや……違う」

 だが慧音が恐怖したのはその可能性についてではないのである。

「死んだにしては不自然だ……死というのは言うまでもなく人生の一大事。誰かが死んだという歴史はひどく目立つから、編纂しているとき見逃すことはほぼ全くないと言っていい。だが昨日多々良小傘が死んだという歴史はなかったはずだ。彼女は生きているはずなんだ。生きているはずなのに、歴史がない? なぜだ? なぜ歴史が……」

 風のせいか、来客か、玄関の方から物音が聞こえてきた。
 二人ともその場を動けなかった。慧音はつとめて淡々と語る。

「当時は動転していて、気が回っていなかったが……確か五年前、五年前のときに失踪した一家も同じだったんだ。歴史がある点で途絶えているのに、“死んだ”という歴史がない。じゃあ死んでいないのか? 死んでいないなら、なぜ彼女達の歴史がない? あるいは……あるいは、幻想郷の外へ出ているのか?」
「いえ、でも幻想郷の外へ出ているだけなら、どうして我々の記憶から消えるか説明がつきません。別の要因……?」
「姿をくらます……記憶から消える……思い出せなくなる……歴史がなくなる……」

 うぅ。呻いた。
 パズルのピースは揃っている。そんな気がする。だがそれらを繋ぐ何か決定的なものがわからない。重大な一点を見落としている。そう感じられてならなかった。
 情報が欲しい。
 何でもいい。些細なものでもいい。この怪事を解き明かす情報が。

「あの、慧音さん」

 阿求のほうを見れば、彼女も同じようなことを考えているのが察せられた。

「さっき小傘さんが昨夜妖怪の山を訪れた。そのあたりの情報が不明瞭だ、と言っていましたが……もう少し詳しくお願いできますか?」
「あぁ……すまない。あの不明瞭というのは、単純に歴史が途切れていてよくわからないという意味でもあるし、その近辺から何というのかな、水中で物を見ているように“歴史”がぼやけて見えるというか……普段はそんなこと決してないんだ。歴史というのは大概もっと輪郭がはっきりしている。なのに焦点が合わないような……ただそうだな。私にわかる限りで言うなら……」

 断片的で不鮮明な情報を纏め上げるのに、しばらくの時間を要した。
 その間、外で今も降り続く雨の音が聞こえてくる。
 とた、とた……。
 これは足音だろうか。この屋敷の下女が近くの廊下を歩いているのだろう。
 雑念は排し、一心に記憶の海を探る。

 そして、慧音は言った。



「妖怪の山を訪れた多々良小傘は、守矢神社を訪れた。そこで何があったのか、ここはどうにもぼやけてわからないが……十分足らずで守矢神社を出た彼女は近くの森の中へ姿を消した。そこで、歴史が完全に途切れている。……彼女は守矢神社を出てから、ずっと泣いていたようだ」



 どさり、と何かが落ちる音がした。
 あれ? と思ったのも束の間慌てて視線を向けた先、そこには。

 “守矢神社の風祝が、呆然とした顔をして”。

 何を発するでもなく、ただ、ただ立ち尽くしているのであった。








 ※※※

 






「あ、え……?」

 早苗の声が空しく響く。
 三人ともが固まっていた。
 凍りついたように動かなかった。
 慧音と阿求は突然の闖入者に驚いており。
 早苗はだらんと手を下げて、目をまん丸に見開いて、極限まで開いた瞳孔で慧音の顔を見つめているのであった。その傍らには野菜や果物の入った買い物袋が落ちていた。ここへ来る途上、買い物をしていたのかもしれない。

「あ、れ……?」

 茫然自失のていで言葉にならない言葉を繰り返すのは山の上の神社の風祝だ。
 その手がそぅ、と持ち上がる。
 何かを求めるように虚空へ伸ばされ――宙を掴んだ。
 何もない。

「あ、あなたは守矢神社の……どうしてここに?」

 真っ先に忘我から立ち直ったのは阿求だった。彼女の質問に早苗は目を向けることすらしなかった。あるいは気づいてさえいない。まばたきひとつしないまま、彼女は中空を見つめている。

「あ、あの……」
「私は……私は……あれ……なんで……小、傘、さん……?」

 よく見れば、膝ががくがくと震えていた。
 全身が小刻みに震えている。
 ひっ、と息の詰まったような呼吸音。直後。

「う、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 早苗は絶叫した。
 体の芯から崩れ落ち、倒れ伏し、手と足をでたらめに動かしながら、悶絶するように叫び始めた。「だ、大丈夫か!」より近くにいた慧音がすぐ駆け寄るも、本人はそれにさえ気づかぬ様子で暴れ続ける。悲鳴、断末魔めいた悲鳴。胸をかきむしり畳の上をミミズのようにのたうっている。壁やタンスの角に体のあちこちをぶつけているが、その痛みさえ意に介した様子がない。このままでは怪我をすると慧音が必死に押さえ込もうとするが、存外の、およそ年頃の少女のものとも思えない怪力で抵抗されて押さえきれない。慧音が焦ったように顔を上げる。言葉もなく諒解した阿求も早苗を押さえにかかり、二人がかりで強く押さえ込んで、ようやく早苗の動きは止まった。
 それでも身をよじる。
 内側から溢れてくる苦しみに耐えられないとばかりに痛々しい絶叫を発する。
 程なく屋敷に住まうものたちが集まってきた。彼らの助力もあって、それ以上早苗が自身の体を傷つけることはなかった。

 十分ほどもそうしていただろうか。

 ようやく、ようやく早苗は暴れるのを止めた。

「あ、ぅぅ……」

 放心したように力を抜いて横たわっている。それを確認して、阿求は手伝ってくれた者達に礼を言うとともに下がらせた。再び、部屋には三人だけになった。

「大丈夫か……? いったい、何が……」

 心配そうに慧音が呼びかける。早苗は何も返さない。力と一緒に命まで抜け出てしまったみたいに虚脱していた。

「あ、ぁぁ……」
「どう、しようか」
「どうしましょう……とりあえず、もう暴れそうにはないですし、まずは落ち着かせて……」

 慧音と阿求は早苗の上から退くと、座布団を持ってきた。座布団を枕にするように早苗を横たえる。二人は続けて呼びかけてみるのだが、やはり返事はない。早苗の目からは光が消え去ったようで、薄暗く曇っていた。

 さらに、四半刻ほどの時間が必要だった。
 もぞり、と衣擦れの音がする。
 昂ぶった気を沈めるためお茶を用意し、早苗を心配げに見守っていた二人の動きが止まる。

「ぁ……ぅ……私は……」
「大丈夫ですか? どこか怪我をしたところは? ……いったい、何が?」

 続けざまに投げかけられる問い。
 早苗は緩慢な動作で体を起こし、阿求を見た。

「あの……私は……確か……えっと……」
「ほ、本当に大丈夫なのか?」

 慧音の眉尻はすっかり垂れ下がっている。

「あ、はい……だい、じょうぶ、だと……思います……うっ……ぁ……」

 早苗がぽろぽろと涙をこぼす。
 本人は慌ててそれを拭うのだが、次から次へと溢れ出てまるで収まらない。

「あの……すみません……今……何だか色々とありすぎて……どこから……」
「ともかく、落ち着いてください。時間がかかってもいいので、ゆっくり」
「は、はい……」

 すすり泣く早苗に、阿求と慧音は困惑の表情を浮かべる。
 また数分の時間が流れる。

「私は……私はひどいことをしてしまった」

 口火を切った彼女の声からは、先の爆発的な感情のうねりは感じられなかった。ただ、その一見平静な声の根底には熱く、燃え滾るような情念が逆巻いているようでもあった。

「……なんで、気づかなかったんだろう」
「気づくとは……何に?」
「こんなのおかしいですよ……私は……私はずっと“見えていた”はずなのに……なのに……! 気づかなかった! 私は気づかなかった! 残酷なことをしてしまった! 私はもう、もう忘れたりしないって……ッ!」
「お、落ち着いてっ!」

 先から何度も繰り返された言葉を再び阿求が言う。
 早苗は何かに耐えるように服の裾を握り締めていた。下唇を噛んでいる。涙がぼろぼろとこぼれ落ちている。嗚咽が漏れるのを必死にこらえて、一つ一つの言葉を紡いでいく。

「……“見えていなかった”んです」

 呆然と、あまりに信じがたい現実に相対した人間の声。
 阿求はふと、今までかみ合わなかった幾つものパズルのピースが、かっちりと嵌ったような音を聞いた。

 早苗は言う。
 自分は見えていなかったのだと。そのこと自体に気づいていなかったのだと。
 小傘はずっと、そこにいたのに。
 小傘の声は、聞こえていたのに。
 それが、わからなかったのだと。






 ※※※

 





 早苗が阿求の屋敷を訪れたのは、なんてことはない。
 先の幻想郷縁起が公開されてから幾ばくか、守矢神社の出現に地底との交流再開、命蓮寺の建設など様々なことがあった。阿求はそうした新しい勢力の人妖たちの情報を縁起に追加するつもりでおり、それを取り立てて隠してもいなかった。
 だから守矢神社の面々もそのことを知っていた。
 近いうちに取材を受けることだろう。早苗は、それに先立って里の有力者でもある稗田家に挨拶をしてくるよう言付けられていたのだった。
 それで、ここへ来た。
 家の前から呼びかけるも、返事がない。
 改めて出直すべきか、このまま待つべきか。
 しばしの逡巡があった。だが常識にとらわれないことを旨とする早苗である。おもむろに玄関の引き戸に手を伸ばしてみる。すると、鍵がかかっていなかった。
 早苗はそろそろと戸を開け、家中へ足を踏み入れた。「お邪魔しまーす……?」と呼びかけてみるも、反応はなく。
 耳を澄ますと雨の音に混じって、奥から話し声が聞こえていた。そこにいるのだろうとあたりをつけて、歩き出す。こそ泥に来たわけではないから、足音を殺すことはしなかった。
 そして、二人の話す部屋まで来た。
 慧音の、あの言葉を聞いたのだ。



『妖怪の山を訪れた多々良小傘は、守矢神社を訪れた。そこで何があったのか、ここはどうにもぼやけてわからないが……十分足らずで守矢神社を出た彼女は近くの森の中へ姿を消した。そこで、歴史が完全に途切れている。……彼女は守矢神社を出てから、ずっと泣いていたようだ』



 視界が一瞬で白く染まった。
 早苗の意識は過去へ飛んでいた。昨晩、恐ろしいことがあった。いつもどおりの団欒の中、突如障子を開けた姿なき何者か。“それ”に胸倉を掴まれて揺さぶられて、取り乱し叫んでしまったこと。己の未熟さを噛み締めるようで、つらかった。そして何より恐ろしかった。
 恐怖の体験。それだけのこと。
 そのはずだった。
 そう思っていた。

 早苗の思い出した過去は彼女の記憶と大きく食い違っていた。

 障子を開けて立ち尽くす“彼女”の姿。
 涙のように雨滴をしたたらせて、びしょぬれのまま、幽鬼のように立っている“彼女”の姿。
 こちらへ踏み込んでくる。
 そこからはコマ送りのようにゆったりと時間が流れる。
 あの愛嬌のあった顔を苦痛にゆがめてしきりに叫ぶ“彼女”。「気づいて!」と何度となく繰り返される哀願。それに気づかず、ただ恐れる自分。
 机が強く叩かれる。
 胸倉を掴まれる。揺さぶられる。“彼女”はずっと訴えていた。
 それを、振り払う自分。
 怯えた目で、見上げる自分。

 “彼女が”振り返る。
 豪雨の中へ走り去っていく。
 恐怖と拒絶の感情を背中に受けて、他ならぬ自分が向けて、苦悶と絶望に色を失った顔で、たったひとりで暗闇の中へ。
 走り去っていってしまった。
 自分はその方向を見ながら、そのとき一心に安堵していた。
 危機が去ったと。もう安全だと。
 心の底から、ほっとしていた。

 そんな記憶が凄まじい速度で脳裏を駆け巡ったのであった。
 同時に思い出していた。
 “彼女”のことを、多々良小傘という妖怪のことを。
 ずっと、忘れていたことを。

 早苗は叫んだ。
 叫ぶ以外になかった。
 頭がおかしくなりそうだった。感情の奔流と記憶の激流に胸をつまされて、何も考えられなかった。
 全てを思い出し――。

「――私は、私は本当に、ちっとも見えていなかったんです。彼女の声が聞こえていなかったんです。すぐ目の前にいたのに、すぐそこで助けを求めていたのに、私は恐れるばかりだった。おかしい……おかしいですよこんなの。なんで私は見えなかったんでしょうか。なんで私は忘れてしまっていたんでしょうか。私は……私はもう決して……」

(忘れないって、誓ったのに……!!)

 拳を握り締めても、唇を噛み締めても、体の内側で荒れ狂う情動を沈めることはできなかった。

(幻想郷へ移り住んだとき、私は外の世界でのすべてを捨ててきた。捨ててきてしまった。友達、家族、親友、日常、そうした全てを捨て去った! それが向こうの人たちに寂しさを強いることだと気づいて、せめて忘れはしないと誓ったんだ! 悲しい過去も、美しい思い出も、全て抱えて生きていくって! もうこれっきりだって、二度と捨てたりしないって! 誰かを悲しませるような選択はしないんだって! なのに!)

 忘れていた。
 忘れていた。
 突き放してしまった。
 他ならぬこの手で、拒絶した。

(わかってる……不可抗力だった……どうしようもなかった……私には見えていなかった……私には聞こえていなかった……私には記憶がなかった……だから、しょうがない。しょうがないことなんだ……わかってる……だけど! だけど!)

 だけど、それじゃあんまりだ。
 彼女は助けを求めていたのに。
 気づいて、忘れないでと叫んでいたのに!

「私は――」

 居ても、立ってもいられなかった。
 立ち上がる。
 決意の意思を、瞳に込めて。

「ま、待ていったいどこへ……!」

 慧音が気遣わしげに聞いてくる。
 早苗は何も言えず、ただ後ろへ振り向いた。

「……あなたは、なぜ思い出せたんでしょう」

 阿求がぽつりと呟く。
 心底不思議そうな声色だった。それに何と答えるべきか知っているような気もした。
 通常ではありえないこと、偶然性の極地、可能性の悪魔。

 人、それを奇跡と呼ぶ。

「あなたの話を聞いて、わかった気がします。私が何を見落としていたのか。この里に起こっていることが何なのか。せめて、それを聞いてはくれませんか」

 阿求が言った。早苗はその場にたたずむことでそれに答える。

「私はずっと、人々の失踪と記憶の喪失が関連性のある、しかし別々の現象だと考えていた。思えば、ずっと前からヒントは出ていたんです。以前慧音さんがここへ来て語った“無意識にまつわること”。それが答えだった。簡単なことだった。これはそもそも、人のいなくなる事件じゃない」

 慧音が驚いたように阿求を見た。
 阿求は疲れたような笑みを浮かべ、

「“これは人のいなくなる事件じゃない。失踪した者達はみな、物理的に失踪したんじゃないんです。皆、我々の意識から消失しただけだった”。もし仮に、ある事物が一切意識から消えるのだとしたら……つまり“認識した傍から忘却していく”のだとしたら……それは最初から見えていないことに他ならないんです。見えた傍からその記憶が消えていくんです。全て飲み込まれていくんです。無意識の海に、深淵な場所に。これは全く最初から、忘却に連なる事件だった。無意識に関する事件だった」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……」

 慧音が耐え切れずといった風に口を挟んだ。

「それじゃ、どうして歴史が途切れるんだ。歴史は事実のられ……」

 羅列、と言おうとしたのか。
 そこで言葉が途切れる。
 慧音ははっとした顔で、

「歴史は……そうだ、歴史は主観的なものだ……書き記し、後世へ残すものの認識を、意識のフィルターを介さねばならない。そして幻想郷の歴史を書き記すのは、私だ。私の意識を通っているんだ。“歴史はあったんだ”。だけど、私がそれを見た傍から忘れていたから……だから、認識できなかった。途中で途切れているように見えた。“単純にないもの”だと、錯覚していた」

 阿求は小さくうなずいた。

「そして私が忘れていたのは、きっと以前慧音さんが語った推論によるものでしょう。私の忘れない能力以上に、忘却させようとする力が強いんです。あるいは、“忘れるべきもの”と誤認させられているんです。いったいどこからそんな力が働いているのか……そこまではわかりません。でもきっと、小傘さんはそこにいる。まだ彼女は生きている。まだ、死んでいない……!」

 早苗は緩慢に、しかし確たる足取りで歩き出した。

「どこへ、行くんだ?」

 慧音が再び問う。
 早苗は何も答えられない。返答できる余裕もなく、言葉にするべき言葉を持たず、あてもなく、あてどなく、切望だけに動かされている。
 
 ただ心だけが答えていた。


 ――友達を、探しに行くんだ。









 ※※※









(そうは言ったものの……)

 さて、どうしたものか。
 稗田邸を後にして数分、早くも途方に暮れていた。
 人影の見当たらない蕭然(しょうぜん)たる通りの中央、傘を差し一人ぽつんと立っている。
 灰色の世界で動いているのは、いっそ陰鬱に降り続く雨くらいのものである。

 小傘は、どこにいるのだろう。
 彼女はどこへ、消えたのか。

(……そうね。まずは妖怪の山へ行って……)

 守矢神社周辺の森を探せば、何かしらの痕跡を発見できる可能性はある。
 手がかりに乏しい状況だ。幾ら考えても妙案など浮かぶまい。足で稼ぐ。それがいい。うんうんと頷いて決意も新たに山のほうへ足を向け――

 けつまずいた。

「わ、わっ」

 バランスを崩したものの、どうにか踏みこたえる。何につまずいたのかと後ろを振り返るも、雨でやわらかくなった地面が迎えるのみであった。

(何もないところで転びかけるとかそんなドジッ娘属性みたいな……幸先悪いなぁ)

 はぁ。ため息が漏れる。
 首を振って暗くなりかける気分を払い、今度こそ妖怪の山を目指そうとした。

 足が止まる。
 ぴたり、と。
 何か磁力じみたものに縫いとめられたように、前へ一向に進めない。
 気になる。
 何か猛烈に気にかかる。

 もう一度、振り返った。
 何の変哲もない土の道。あちこちに水溜りのできたぬかるんだ地面。奥には人家も見える。何らおかしくはないはずだ。何も、おかしくは……

 おかしい。
 不自然だ。
 踵を返し、先ほど転びかけた位置まで戻った。
 目を凝らす。

「あ……!」

 覚えず、空を見上げていた。
 まだ朝早い時間とは思えぬほど薄暗く、暗然と立ち込める黒雲。色鮮やかな紅葉の季節をモノクロの色彩に閉じ込める天気。それをしかと見つめたあと、再び視線を地上に戻す。


 水溜りに、映っていないのだ。


 その空の色が、黒と灰色に埋め尽くされた憂鬱の象徴が、水溜りには映っていない。
 では地面を透かしているのか。
 それも違う。
 何もなかった。
 筆舌にしがたい感覚である。そこに水溜りがあるのはわかる。水溜りの位置には空が、あるいは地面が、それとも雨によって立つ波紋が見えねばならない。それもわかる。だが、そのいずれも見えないのである。認識に不可思議な靄のようなものがかかって、判然としない。

 まるで、意識の死角を取られているような――

(も、もしかしたら……!)

 喉が鳴る。
 覚えず唾を飲み込んでいた。
 そろそろと声をかけた。

「あ、あの……もしかして、小傘……さん……?」

 ……
 ……
 ……返事はない。

(外れ……いや、そもそも気のせいか)

 落胆と共に踵を返そうとし、

「……知ってるの?」

 突如聞こえてきた声に勢いよく振り向いた。
 いつの間にか、銀髪の少女がそこにいた。
 忽然と、という他ない。
 最初からそこにいたみたいな自然さで、一切の気配を感じさせぬ不自然さをもって、青いコードのようなものを体に巻きつけた奇妙な風体の少女が座り込んで膝を抱えていた。

「彼女のことを、知ってるの?」

 顔を膝に埋めたまま少女は呟いた。
 傘も差さずに座り込んでいる少女は雨ですっかり濡れそぼっていた。
 帽子に巻かれた黄色いリボンが雨滴を吸って垂れ下がっている。
 そのリボンのように生気を感じさせない虚ろな声で、

「多々良小傘を、知っている?」

 少女は繰り返す。
 何か脳裏に引っかかるものを感じた。
 誰かから、その容貌を聞いていたような――
 あっ、と間抜けな声が漏れる。

「あの、もしや以前神社に来たという……?」

 早苗の記憶が確かであれば、彼女は古明地こいしという地霊殿に住むサトリ妖怪である。
 ――ある冬の地底から起こった異変、それが解決してから幾ばくの時が過ぎていた。
 彼女は神社に現れた。なんでも地獄鴉、霊烏路空に与えられたような神の力を自分のペットにも授けて欲しいとのことだった。居合わせた諏訪子が応対したものの、終始飄然として掴みどころのない妖怪であったという。
 何より奇怪なことに、サトリ妖怪であるはずの彼女の目はぴったりと閉じていた。
 その話を聞いて「妙な妖怪もいるものだな」と不思議に思ったものである。それが印象に残っていたから、思い出せた。
 そのサトリ妖怪が、どうしてこんなところに。
 問いかけてみるも応答はない。
 こいしは繰り返す。

「知っているの?」

(……そうよね。今は彼女がここにいる理由なんかより……)

「……知っています。小傘さんとは知り合いなんです。あなたこそ小傘さんのことを……」

 知っているのか?
 その問いを発することはできなかった。

「忘れていないの?」

 あまりに想定外の言葉がこいしの口から飛び出してきたからだ。

「なっ……!」

 瞠目する。
 なぜそれを知っている。
 早苗とて先ほどようやく小傘のことを思い出したばかりだというのに。
 慧音や阿求の話を聞いて、ようやく彼女の意識上からの消失を知ったばかりだというのに。

 こいしがゆっくりと顔を上げる。
 ひっ、と思わず悲鳴が漏れた。

「あなたは覚えているのね?」

 暗い。
 あまりに暗い目だ。
 見ているだけで意識が遠くなるようなたそがれた目をしている。深く、遠く、虚ろで空しい。届く光を全て吸い込んでしまっているかのようにほの暗い。強いて言えば純粋な黒であった。濁りでもなく曇りでもなく淀みでもなくただ暗い。直視に耐えぬ暗澹の瞳、引きずり込まれるような妖しい瞳。視線が重力を持ちうることを早苗は初めて体感する。

「あ、あなたは……」

 その先は言葉にできなかった。
 自分でもなにを聞きたかったのかよくわからない。
 ただ、無性に不安になる。胸を掻き立てられるのだ。

「ふふふ、不思議なこともあるものね。覚えている人がいるなんて。幸福なことよ、不幸なことよ、あなたは無意識に近づきすぎている。よくぞ私の隠行を見破ったわ。でもそれはあなたが無意識の壁を跨ぎかけているということ。やめておきなさい。“あっち”に踏み込んでいいことなんて一つもないのよ」
「な、なにを言ってるんですか……? あの……あっちっていうのは……そ、それより小傘さんのことを……小傘さんの居場所を、知っているんですか!?」

 途切れ途切れに詰問する。
 息が苦しかった。
 こいしの語る奇妙に重みを持った言葉が胸を射止めて離さなかった。それでも小傘を助けるために、躊躇をしてはいられない。

「………………」

 沈黙するこいし。
 なにを考えているのかさっぱりうかがえない。
 ざぁざぁ……ざぁざぁ……
 明瞭なのは、今も耳朶打つこの音だけだ。

「………………覚悟はある?」
「えっ……?」
「覚悟はある? これから先、何を見ようと、何を聞こうと、何が起ころうと折れぬ屈さぬ意志はある? 後悔なんてしないって、脇道なんかに逸れないって、そう言えるだけの覚悟はある?」

 即答すべき、であったのかもしれない。
 だが考え込まずにはいられなかった。
 彼女が言っていることの意味は正直よくわからない。さっきからわけのわからぬことばかり言っている。しかしその脅しじみた警告は、彼女なりの気遣いであるような気もした。きっとこいしは、この先へ進む鍵を持っている。だがそれは本来使うべきものではないのだ。だからしきりに警鐘を鳴らす。いいのか、本当にそれでいいのかと。軽傷なんかじゃすまないぞ、と。

「……私は……」

 考えられる限りの恐ろしい想像をする。
 今一度己の覚悟を問う。
 逡巡。

 ……
 ……
 ……

『忘れないで!』

 早苗は顔を上げた。
 こいしのあの薄暗い目を決意を持って見据えてみせる。

「……あります。覚悟なら……!」
「……そう」

 こいしは笑った。悲しそうな笑みだった。そのくせどこか嬉しそうにも見えた。

「……私は結局、どうしたいのかしら?」

 そんなことを聞いてくる。

「私に聞かれても……」
「そうよね。知らないわよね。私にもわからないわ。自分の気持ちがわからないっていうのは、どうにも、中々、もどかしい」

 こいしは自嘲するように薄く笑った。
 ゆらり、と陽炎のように立ち上がる。
 お尻についた泥を手で払うと空を見上げる。その後しばし放心していたが、不意に視線を早苗に下ろすと、

「着いてきて」

 と一言だけ言った。
 早苗は無言で頷いた。


 直後、世界が崩壊した。








 ※※※






 そのときの感覚をどう表したものか、皆目見当もつかなかった。

 ぐにゃり、とまず地面が歪んだ。
 次に大気にひずみができた。
 空さえなくなるみたいだった。
 それまで当たり前に立っていた世界が、片端から崩落していくような非現実感。
 全ての感覚という感覚が消失し、ふわふわと宙に浮きどこかへ飛ばされるような錯覚、転瞬意識の暗転の後、気づいたときには先までと同じ里の風景が広がっていて、自分が一歩も動いていないことを知る。
 常軌を逸する痛烈な眩暈と吐き気が到来し、しばらく何も考えられなくなる。

『遠くに、引っ越すことになったんだ』

 嗚呼、遠く声が聞こえる。
 懐かしい声だ。
 かつての自分、昔の自分、まだ外の世界にいた頃の自分。
 はるか記憶の奥底に沈んでいた過去の断片が沸騰するように一斉に湧き上がる。



『かみさま、かみさま』
『なんでみんなはかみさまがみえないのでしょう』
『知ってる? ■■子ちゃんが引っ越すんだって』
『ごめんね、さなえちゃん、ずっといいだせなかったの』
『またあえるよね……?』
『うん……! ぜったい!』
『かみさま、かみさま』
『おてがみがこなくなったんです。なにかあったのかな。……わすれられちゃったのかな』
『知らないのか! 神様なんていないんだぞ! 父ちゃん言ってたもん!』
『東風谷ちゃん、色んなことを想像するのは大切なことだけど、程ほどにね』
『神様、神様』
『みんな神様はいないって言います。私がおかしいんでしょうか……? 神様は今もここにいるのに。なんでみんなは、いないって言うんでしょう』
『中学生進級おめでとう! 今日は早苗の好きなものいっぱい用意してあるからね』
『早苗も大きくなったなぁ。もう中学生かぁ。早いもんだ』
『神奈子様、諏訪子様』
『もっとたくさん術を覚えたいです。今なら、もっと難しいことでもできると思うんです』
『今日からこの学校に通うようになった■■子です……えっと……あっ』
『神奈子様! 諏訪子様! 聞いてください! 今日■■子ちゃんが! うちの学校に転校してきたんです! よかったぁ、これからまた昔みたいに……』
『高校入学おめでとう! 早苗、遠慮しないで好きなだけ食べてね』
『早苗は物覚えがいいからなぁ。きっといい大学にも入れるよ』
『神奈子様、諏訪子様。明日は■■子ちゃんや▲▲ちゃんと遊びに……あの、神奈子様、諏訪子様……? どうしたんですか? 具合が悪そうに……』
『神奈子様、諏訪子様、気分が優れないのでしたら無理をなさらずに……』
『神奈子様、諏訪子様……大丈夫ですか……いえ、私はそんな。お二人の力になれることが誇らしいんです。悪いだなんて、思わないでください。私は……』
『神奈子様、話っていったい……………………そう、ですか。しばらく、考えさせてください』
『…………決めました。私は……』
『遠くに、引っ越すことになったんだ』
『ごめんね、■■子ちゃん。私どうしても……』
『また会えたら……うぅん、たぶん、もう会うことは……』
『ぐすっ……ひぅっ……。……神奈子様、いえ気になさらず。友達と、ちょっと喧嘩になっちゃって』
『喧嘩別れなんて嫌だ……もう一度……会いに……』
『■■子ちゃん! 絶対! 絶対忘れたりしないから! 引っ越した先でもずっと……!』
『………………はい。もう、別れはすませました。仲直りもできました。だから、大丈夫です。行きましょう。幻想郷に』



『まったくもう、霊夢さんは巫女として自覚が足りません。ぷんぷん』
『あ、にとりさん。前頼んでたの、直ったんですか? あぁいえ、ありがとうございます』
『あら、天狗の。どうしたんです? 神奈子様? いや今は留守で……私に取材? いえいえ、私なんか掘り返しても面白いことはありませんよ、えぇ本当に。たぶん』
『さけーっ! おさけもういっぱいーっ! うふふ……未成年の飲酒が禁止されている理由がわかりました……なんだか気分がいいですし……一番早苗! 脱ぎまーす!』
『昨日の宴会ははしゃぎすぎたなぁ……脱ぎますって、何よ、何なのよ。……はぁ。少し控えたほうがいいかしら』
『あ』
『これ……■■子ちゃんからもらった……■■子ちゃんどうしてるかな……なんだか、寂し……』
『あっ、ぅ……そうだ……昔……私がそうだったのに……ひくっ……忘れてた……まだ小さい頃……■■子ちゃんが引っ越しちゃって、寂しかったのに……どうして忘れていたんだろう……みんな、私のこと、寂しんでくれているのかな……だとしたら、嬉しいけど、悲しい。せめて、せめて私にできることは……』
『ああカレーっていうのは複数のスパイスを……あーっと……なんかこうルーとか野菜でなんかこう……』
『食べて行きます?』
『えっ、と……すみません。誰のことを言っているのか……』
『きゃああああ!』
『なに……なんなの……やだ……』
『――友達を、探しに行くんだ』
『……あります。覚悟なら……!』



「あ、ぁぅぅ、う、あ、あ……」

 濁流。
 濁流であった。
 とうの昔に忘れていた些細な出来事、印象的な今でもよく覚えている出来事、雑多な記憶、思い出の奔流、数え切れない無数のエピソードが脳裏を埋め尽くし、氾濫した。脳の細胞のひとつひとつが思い思いに声高に過去を叫んでいるみたいだった。不協和音が内側から鼓膜を叩き、極彩色の映像が眼球の裏を焼く。頭がおかしくなりそうだ。刹那の時間が永遠に思え、これら全ての記憶が己の内側に存在するということに恐怖さえ覚える。叫んだ。恥も外聞もなく体内を蹂躙する莫大な情報を少しでも吐き出そうと大音声を上げる他なかった。膝を突き、倒れ伏し、頭を抱えて叫ぶ、叫ぶ。気が遠くなるくらいの時間叫び続け、頭蓋骨の内側がからっぽになり、全身の力という力を使い果たして、ようやく過去の奔流は収まった。

「はっ……はっ……はっ……」

 息ができない。
 苦しい。
 苦しい。 
 途方もなく苦しい。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 気分が落ち着くまでにずいぶんと時間がかかった。
 よろよろと立ち上がり、ぼんやりと周囲を見渡す。

「意識は確か?」

 銀髪の少女がそう聞いてくる。

(彼女は……あぁそうか……こいしさん……私は小傘さんを探してここへ来たんだった……)

「確か……です」
「……正直、今驚いているわ。初めてであれを耐えるのは、難しいことよ」
「……あれは、何だったんですか? ここは、いったい」
「ここ? ここはね――」

 こいしは両手を広げ、相変わらず空虚な目のまま笑って言った。

「不要、不都合、不必要、要らぬものから望むものまで、意識の網からこぼれ落ちた者達の世界、幻想の墓場、裏の裏、誰もが持ちつつ誰もが見ることのできない空漠、つまり」

 ――ようこそ、めくるめく無意識の世界へ。

 そんな言の葉を聞きながら、ふと、早苗は自分が世界に一人ぼっちであるような気がした。






 ※※※






「もう少し、詳しい説明をしましょうか」

 こいしは手を下げ後ろで組むと、早苗の目をのぞき込みながら、

「あなたはこの世界がどう見える?」
「どうって……いつもどおりの、人里の……」
「そう。これは私達がいつも見ている風景に違いない。でも本当は見えていないのよ」

 こいしはちょこん、とスカートの裾をつまんであげる。

「私のこと、見える?」
「……そりゃ、見えますよ」
「でもね、普段のあなたなら今の私は見えていないわ。私はね、無意識で行動することができるの。これがどういうことかわかるかしら?」
「えっと……」
「人間ってね……いや人間に限らず生物ってね、気配ってものに敏感なのよ。それはかすかな空気の震えだとか衣擦れの音だとか靴が地面をこする音だとか些細なものの積み重ねからなっている。あと目線。人から向けられる視線に不思議と気づくことができるのはなぜか……考えたことはない?」
「それは……うぅん……単純に視界の隅でその視線を向けてくる人が見えていて、だからなんとなく『視線を向けられている』って感じるだけなのでは?」
「面白味のない解釈ねぇ。外の世界の科学みたいだわ」
「外の世界出身なもので……」
「ふぅん? さておき、ここで大事なのは意識よ。人を見る、という行為には普通意識が必要になるの。例えば目を開けたまま眠っている人がいたとして……」
「いるんでしょうか」
「物の例え、物の例え。目を開けたまま眠っている人がいたとして、その人は何かを見ていると言えるのかしら?」
「言えないでしょうねぇ。目に映像は映っているでしょうが、脳が認識していない」
「そう。見るという行為は脳が認識して初めて完了する。脳が認識するとは意識することに他ならない。意識を伴わない目線は誰も見ていない。人が気配を察知するとき、物理的な要因が全てとは限らないわ。私達はもっと抽象的で不定形な“人の意識”というものを感じ取っているのよ。そして無意識で行動できるということは、誰にも意識を向けずに行動できるということ。ゆえに私は気づかれない。道端の小石に逐一目を留める人がいないように、例え私のことが目に映っていたとしても、脳が認識できないの」
「いえ……でもそれじゃ、音は? あなたが歩くときに立てる音や、声。そうしたものが認識できないのは……」
「それにも意識は伴わない。今、雨が降っているでしょう? でもあなたはいつの間にか雨の音など忘れていたはず。すぐ近くでざぁざぁと耳障りな音を立てているのに、あなたは私の説明を聞くのに夢中で、雨のことなどすっかり意識から外していたはずよ。雨には意識が伴わないから」
「うっ……そ、それは」
「なぜ意識から外してしまうのか。それは重要な情報じゃないからよ。意思を持つものはそれだけで最警戒の対象となる。なぜなら彼らは攻撃意思を持ちうるから。明確な意思を持ってあなたを害する可能性が存在するから。雨はそうじゃない。あなたを積極的に害することがない。ゆえに生物的には重要な情報じゃない。そして、もうあなたにはわかっているはず。脳にある情報を全て一度に意識しようとすると、どうなるのか」
「……さっきの、あれですか」
「あれは普段あなたの無意識に沈んでいる記憶が一度に蘇っただけなのよ。ここは無意識の世界。もう少し正確に言うと、実際に世界を移動したとかそんなんじゃなくてね、あなたが平時無自覚でいるあなたの無意識について少し自覚的、意識的になったというだけ。あなたの意識をあなたの無意識の領域に拡大しただけ。私は今もあなたの無意識の領域にいるけど、あなたは本来無意識である場所を意識している状態にあるから、こうして私を見ることができる」
「……それは、あなたの能力ですか?」
「うぅん、私は無意識で行動できるだけ。ただ、この世界については誰より詳しい自信があるわ。だから便乗できたのよ」
「便乗……?」
「この事件の大元の力にね」
「……!」

 息を呑んだ。
 こいしははっきりと言った。
 自分はこの事件の元凶を、犯人を知っているのだと。

「それは……! それはいったい誰が……!」
「うーん? 誰、って言い方は相応しくないわね。“アレ”を生物扱いするのは難しいんじゃないかしら」
「で、ではそのアレというのは……」
「言葉では言い表せない。名状しがたき存在、人の意識に対する冒涜、そんな感じよ。それは意思あるものをこの無意識世界へ引き込もうとする引力を放っている。私はこの引力の流れにあなたを重ねてあなたをこっちへ引きずりこんだのだけど……さておき、この引力にあてられると、意識が外側ではなく内側へ向くようになる。つまり今あなたがそうであるように、本来周囲へ向けられ伝わっていくはずの意識が代わりに己の内側、無意識の領域へ拡大される。そうすると、無意識で行動するのに等しい状態になるから誰にも気づかれなくなる。さらにその状態が進行すると……あなたは、記憶って何だと思う?」
「えっ、と……積み重ねられるもの?」
「そう、積み重なったもの。積み重なった、他人から読み取った意識よ。例えばあなたが誰かと会話するとき、あなたは相手に言葉を伝えようと意識するし、相手もあなたに言葉を伝えようと意識する。謂わば意識の交換。そうしてあなたに他者の意識の断片が蓄積する。これが人に関する記憶。“アレ”の引力が強まると、この他人の中に蓄積した意識の断片までもが無意識の底へ沈んでいく。つまり、思い出せなくなる。忘れてしまうのよ」
「じゃ、じゃあ私が小傘さんを忘れたのも……」
「そう、それよ。むしろ、なんであなたが今そうして彼女を認識できているのか気になるわ。なぜ?」
「え……? いやそんなこと聞かれても」
「むぅ……何か、特別な能力を持っていたりしないかしら?」
「奇跡を起こす程度の能力はありますが……」
「じゃあ、奇跡が起こったのね」
「いやいやそんな適当な」
「だって奇跡が起こるんでしょう? 忘れるっていっても、蓄積された記憶自体が破壊されるわけじゃないわ。ただ手の届かないくらい深いところまで沈んでしまうだけ。だから何かのきっかけさえあれば思い出すことは不可能ではない。あなたの能力がそのきっかけになったのよ」
「でも、私の能力は使うために事前の準備がいるんです。小さな奇跡なら一言唱えるだけとかそれくらいですが……何にせよ、私自身がそうしようとしなければ」
「あなたは思い出すことを望んでいた」
「いえ、ですからそのとき私は小傘さんのことを忘れていたわけですし」
「あなたの意識が忘れていただけだもの。無意識はあなたの全てを知っている。あなたが忘れたことも、気づかぬふりをしていることも、全て、全て知っている。……無意識に能力を発動した可能性は考えられない?」
「そんなことは、あるんでしょうか……?」
「いつだったかなぁ……ずいぶんと前に、考えたことがあるよ」
「……?」
「“なぜ私は覚るのだろう”」
「いえ、今はそんな哲学めいたことを言っている場合では……」
「聞いて。大事な話よ。私はサトリ妖怪で、読心の力を持っていた。でも考えてみれば、これもひとつの能力でしょう? “心を読む程度の能力”という。能力であって、習性じゃないの。能力の持ち主って、大概は意識的に能力を使っているじゃない。でも私は昔から好む好まざるに関わらず人の心を読んでしまった。どうにも、釈然としなかった。なんで私の能力は制御できないんだろうって。それで思ったの。それが妖怪というものなんじゃないかって」
「妖怪……ですか」
「妖怪には必ず根源的な行動原理がある。人間でいうところの本能ね。人を食べる妖怪は人を食べるようできているし、人を怖がらせる妖怪は人を怖がらせるようできている。そうしないと生きられない。存在が矛盾してしまう。それで、それじゃないかと思ったの。私もまたそうした本能の部分では心を覚るのを望んでいるんじゃないかって。サトリは覚るゆえサトリであれる。私の表層意識が幾らこの能力を忌み嫌おうと、無意識の部分では能力使用を望む他なく、実際無意識で能力を行使しているのではないかって」
「……無意識に能力を使うというのは、じゃあ」
「十分ありえると思うわ」
「で、でも待ってくださいよ。確かあなたは心が読めなくなったんでしょう? それでは、あなたの言う存在の矛盾が起こってしまうのでは? 大丈夫なんですか?」
「普通はあんまり大丈夫じゃないんじゃないかしら? 私が無事でいられるのはたぶん幸運だったからよ。一応理由も見当がつくんだけど……今は横に置きましょう。問題は、消えた彼女のこと」
「この話と小傘さんに何の関わりが……ま、まさか」
「一目見たときから奇妙に親近感があったのよね。なんでかなぁ、って考えてたんだけど、あなたと会う少し前やっとわかったわ。“危うかった”のよ。彼女は心理的に矛盾していた。私がサトリ妖怪であることを否定したように、自分の根源を否定しているみたいだった。さて……」

 こいしはそこで一拍置き、細く長く息を吸った。

「……一気に話して疲れたー」
「あの、続きは? というか、こんなのんびり話してる場合じゃないのでは? 早く小傘さんのところへ……」
「もう少しだけ聞いてくれないかしら。“アレ”を見てしまう前に、言えることは言っておきたいわ。未知は恐怖を増幅するから」
「……そんなに、恐ろしいものなんですか?」
「そうねぇ……少なくとも普通の妖怪には“この世で何よりおぞましい”んじゃないかしら。私はもう、見慣れてしまったみたいだけど」

 そのとき何か複雑な表情を浮かべるも、一瞬。こいしは再び滔々と語りだす。

「なぜ彼女がここへ引きずり込まれたのか。それはおそらくさっき言った心理的矛盾が原因よ。彼女は己の根源の一端を否定していた。それは精神的自殺に他ならない。つまり死に近い位置にいた」
「いまいち話の繋がりが見えないのですが……それじゃまるで、ここが死後の世界だとでも言うみたいじゃないですか」
「死後の世界よ?」
「え?」
「死後の世界よ? ここ。言ったじゃない。“幻想の墓場”、と。ここは最も悲惨な妖怪の末路、行き着くところ。考えたことない? 妖怪が、死んだらどうなるか」
「し、死ぬってそんな……」
「肉体的に死ぬことではないわ。それなら別に問題ないのよ。普通の死。悲しいけれど、それだけね。問題は、妖怪が本当の意味で死んだとき。妖怪的根源を否定し精神的に死ぬ。それですら完全消滅には程遠い。真に危殆であるのは、己の存在の意義を完全に消失したとき、概念的に死んだとき」

 段々、頭がこんがらがってきた。
 立て板に水とばかり喋り続けるこいしは止まらない。
 情報量が多すぎて頭がパンクしそうだった。

「妖怪が死ぬとしてこれには三つのパターンがある。肉体的・精神的な死と、概念的な死。ほとんどは前者の死よ。肉体的・精神的な死は周囲に認識されるし、覚えていることができる。でももうひとつは違う。概念的な死は……」

 こいしはそこで一度言葉を切って、

「私たち妖怪には……精神的な存在には三つの段階がある」

 と言った。
 続けて、曰く、

 ひとつは『実在』する状態。人間たちの常識という名の器に「容認」されているとき、妖怪は現実の存在である。

 次に『幻想』の状態。人間たちの常識という名の器に「否認」されているとき、妖怪は人々の意識上にのみある存在である。幻想は実在しない。実在しないものは新たな記憶を刻まない。時には言葉によって語り継がれど、いつかはそうした記録も失われ、記憶にのみ頼る存在になる。記憶は必ず磨耗し減退する。そして記録とともに、記憶すら減耗しきった最果てが――

 最後に行き着くのが、『忘却』された状態だ。人間たちの常識という名の器に「確認」されないとき、妖怪は人々の無意識上にのみある存在である。このとき妖怪は形を保つのが困難になる。精神的存在は元々これといった定形を持っていないのである。人間の意識が彼らに形を与えるのであって、完全に忘却されてしまったなら、己自身が保つ他にない。自分がどのような妖怪であるのか自覚し続ける限り妖怪は生きながらえるだろう。
 だがそれを続けるのは不可能に近い。
 一度完全に忘却されてしまったら、普通人の念頭には二度と上らなくなる。永遠に思い出されることはないのだ。
 そして、それさえ。
 己を肯定することさえ。
 やめてしまった暁に、初めて概念的な死を迎える。妖怪的自殺である。意識上から失われ、自分自身の形を忘れたそれは十把一絡げの『畸形』と成り果てる他にない。
 そしてそれが、それこそが――

「――この事件の元凶なの。誰からも忘れられ、無限に苦しみ、自分で自分の命を絶った“ソレ”の残骸。かつて何かであったもの。“ソレ”は求めている。誰か、誰か自分を認識してくれる人を。ただそれだけを求めている。だから人間が失踪するの。無差別に生者を取り込もうとする。そして、その空虚が満たされると成仏するように消える。謂わば妖怪の亡霊なのよ」

 外の世界で幻想となったものが流れ着く幻想郷。
 常識の裏。
 その幻想の世界にあってなお、幻想。
 常識の裏の裏にあるのは常識ではなく――

「強いて言うなら“怪異”。あれはもう、元の妖怪とは全くの別物よ」
「ま、待ってください」

 震える声で反駁する。
 彼女の言っていることが真実かどうか、早苗には判断の材料がない。ただひとつ、疑問があった。

「おかしいじゃないですか。その話が本当だとして、なぜ『畸形』となった妖怪は動けるんですか……? すでに死んでいるのに、妖怪としての行動原理をなくしているのに」
「『無意識』そのものが『幻想』だからよ」
「?」

 混乱する早苗にこいしは淡々と語る。
 曰く、

 無意識、という物質が実際この世にあるのではない。これは人間の認識上にのみ存在する。『幻想』である。そして、『幻想』である以上は幻想郷に存在し、その『幻想』を抱くものたちの心によって性質を変えるのである。
 加えて、多くの人間や妖怪が『無意識』に抱く感情とは――
 畏怖である。
 恐怖である。
 憧憬である。
 これは『無意識』が『死』同様絶対に確認できないものであるからだ。
 人は『死』を恐れるように、『無意識』を恐れがちになる。
 そして、この『おそれ』は『幻想』である『無意識』に明確な形を与えるだろう。
 無意識を漂う『畸形』にある役割を持たせるだろう。
 畸形に残った望みと人間の恐怖が重なり合い――


「『畸形』は人間を取り込み始める。これが怪異の正体。里を騒がせる連続失踪事件の真相なのよ」


 そこで、こいしの話は終わった。
 いったい何分ほど話し続けていただろう。
 こいしは疲弊の濃い息をつき、顔を伏せた。

「あの、なんであなたはそれほど詳しいんですか?」

 それだけは聞いておきたかった。
 こいしは言葉に詰まったようにしばらく緘黙していた。
 やがて、自嘲するように言った。

「ずっと傍で見てきたからよ。妖怪がここへ追いやられて、苦しんで、死んで、畸形となって、人間を取り込んでいく様をね。私はずっと傍観者だった。つい最近まで、そのことさえ自覚していなかった」
「自覚……?」
「長い間、無意識で行動してきたわ。少なくとも表面上は悲しむこともなくて、心を痛めることもなくて、ただ飄々としていられた。いつだったかなぁ……そうそう、神社であの人間たちと戦ったあたりだったかな。それくらいから、少しずつ自分の行動を意識することが増え始めたの。最近は無意識で行動していないときも増えたよ。……それで、ようやく、悲しくなった。今まで当然のように見捨ててきた妖怪たちに、人間たちに、罪悪感を覚えるようになった。その矢先、あの子と出会ったのよ。多々良小傘と。……だから……私は……」
「……もう、話すことは、話したんですよね?」
「……うん」
「行きましょう。まだ、きっと間に合う」
「うん……」
「ここで、私が偶然あなたにけつまずいたこと、ここで出会ったこと、何だか運命じみているじゃないですか。天は言っているんです。助けられるって、救えるんだって」
「うん……うん……」
「この東風谷早苗、現人神の名にかけて、彼女を必ず……必ず……」
「うん……ひぅっ……」

 嗚咽が聞こえて、ぎょっとした。
 こいしが、終始飄然とあったこいしが泣いていた。
 鼻をすすり上げて、ぽろぽろと涙をこぼしながら、泣いている。
 そ、と手を伸ばす。
 こいしが涙だらけの顔を上げる。無言で手を重ねあった。
 ぎゅっ、と握る。
 控えめに、しかししっかりと握り返される感触。
 絶対に、絶対に。
 そんな決意を込めて。


「着いてきて。今度こそ彼女のいるところに行こう」


 こいしの先導のもと早苗は里を飛び立った。
 向かうは魍魎ひしめく御山。
 紅葉の木々も鮮やかに、昂揚の意志もあらたかに、陰惨極まる曇天の下、この世の全てが燃え立っているかのようであった。








 ※※※
 







「あの……こいしさん」

 妖怪の山へ向かう道中のことである。

「あなたは『ずっと傍で見てきた』と言いましたが……それじゃ、今回も小傘さんのことを?」
「……どうにも、彼女がこっちの世界に足を突っ込みかけてる状態にあるんじゃないかって危惧は早い段階から持っていたみたい。自覚してはいなかったけど。それで着いて回っていたのよね。でも途中からは……里で子供が実際にいなくなり始めてからは彼女に付きまとうのをやめて、“アレ”を宥めようとしていたわ」
「宥める……?」
「言葉が通じるのかすらわからない、“アレ”に語りかけていた。子供を攫うのはやめないか、って感じのことを。不思議だったわ。なんで自分がそんなことをしているのかよくわからなかった。人間が消える程度、妖怪の私にはどうだっていいことのはずなのに」
「……そんなことは、ないですよ」
「あるわ。私は風来坊の木偶坊、あちこち無意味に渡り歩いて、色んなことを見てきたわ。誰にも気づかれない私の前では、世に憚られる行いが為されることもあった。殺人の場面にでくわしたこともあった。でも私はそれを助けるでもなく止めるでもなく、ただただ見ていた。何にも考えず、ただ見ているの。別世界の出来事みたいに」
「じゃあ、別世界のことじゃなくなったんです。私にはあなたが優しい人に見えます。だからこそ――」
「違う。違うわ。そんなんじゃない。私は誰にも関与したくない。されたくない。それだけなのよ。それだけ……のはずよ」

 こいしは顔を背けた。
 早苗がそちらに回り込むと、帽子をおろして顔を隠す。

「あなたは関与しています。小傘さんを助けようと、私の手を握ってくれました」
「………………」
「だから、そんなに自分を悪く言わないでください」
「……私がなんで、彼女が妖怪の山にいるって知ってるか、わかる?」
「……へ?」
「見てたのよ。この目で、その場で、見ていたの。“アレ”を説得することが無理らしいってわかって、途方に暮れてさまよっていた。雨が降ってた。昨日の夜のことよ。そしたら山上のほうから彼女が飛んで降りてきた。びしょぬれになって、くしゃくしゃの顔で。それからもがき苦しみ喘ぐのを……ッ」

 段々とこいしの声は感情的になっていく。

「見ていた……! ずっと見ていたわ……! 私は手を差し伸べなかった! 見ているだけだった! 傍観しているだけだった! あのときみたいに!! 五年前、寂しがりやの女の子が独りぼっちになって泣いてたときみたいに!! 今回だって、消えた子供たちが啜り泣くのを見つけていたのに! 私は何にもしなかった! 体が動かなかった! 動かせなかった! そんな私が……いったいどうして優しいなんて……!」

 さらさらと透明な涙がこいしの頬を伝う。
 それにはっとした様子で、慌てて袖で顔を拭った。
 それでも涙が止まることはなく、こいしは懐からハンカチを取り出した。
 手が止まる。
 早苗もそれを見た。

 ハンカチは泥だらけだった。

「あ……」

 こいしは居たたまれぬようにハンカチを引っ込める。

「あの……それは……?」
「……なんでもないよ。転んだときに汚れたの」
「……そうですか」

 会話が途絶える。
 こいしとの間には不可視の壁が張り巡らされているようだった。
 空白の距離、心の壁。
 厳然と、他者を拒むように、互いに踏み込みすぎないように。

「……なんだか、虚しかったの」

 ぽつり、とこいしが呟く。雨粒よりも小さな声だ。本当に小さな小さな本音の発露だ。

「そうして見ているだけの自分が虚しかった。嫌だった。嫌いだった。底知れない気分になった。逃げるように無意識に飛び去って、里について、疲れちゃって、座り込んで、雨に打たれてた。そこにあなたが通りかかったのよ」
「……あなたは……」

 光を反射しない昏冥の瞳。
 それを放っておけなくて、励ます言葉をかけたかった。

「……ついたわ」

 遮るようにこいしが言う。すでに妖怪の山の上空に入っている。哨戒の白狼天狗らが飛んでいるのが散見されるが、彼女らが二人の姿をとらえることはない。

「きっともう猶予は残されていない」

 さぁ、行きましょう。
 こいしは徐々に高度を下げていく。

 ……
 ……
 ……








 ※※※







『――』
『――!』
『――』
『――? ――!』
『――――――――――――』

 ひどく耳障りな音に脳をゆられ、目が覚める。
 長いまどろみの中にいたような気がする。
 一瞬だったような気もする。
 小さくうめきを上げながら、双眸を開いた。



 ざぁざぁ、ざぁざぁ……


 雨が降っている。もうすっかり見慣れてしまった光景だ。何日も何日も降り続いている。今もこの体を濡らしている。
 四肢に力を入れようとすると、すさまじい倦怠感に襲われる。
 重い。
 全身が鉛と摩り替わってしまったような錯覚をおぼえる。
 しかたなく首をもたげようとする。地面に縛り付けられたみたいに、動かない。重たい。すごく、不自由だ。
 手に何かを握っている感触がある。茫洋と視線を向かわせる。紫色の傘であった。ぐったりと力の抜けたみたいに転がっている。今の自分と同じだな、と思った。

 小傘はゆっくりと、至極ゆっくりと体の向きを変えた。
 真っ赤な枝葉の隙間に空が見える。
 ぱりっと乾燥していて突き抜けるように爽やかなあの秋空はない。黒雲に覆われた天空だけが小傘のことを見ていてくれる。

 あぁ、そうだ。
 誰からも、見てもらえなくなった。
 自分は本当に、独りぼっちになってしまった。

 そうした実感が染み渡っていくのに、長い時間は要さなかった。長時間雨に打たれたせいか血管という血管が冷えている。神経という神経が活動をボイコットし、考えるのすら億劫である。筋という筋から活力が失われ、細胞という細胞が眠っているみたいだった。
 何時だろう。
 太陽が隠れているので、よくわからない。
 どれだけ、気絶していたのだろう。

『人間に見てもらいたかった』

 そんな音が聞こえた。言葉のていをなしているが、声ではない。鼓膜を震わせる空気の振動はなく、不可思議なことに内側から漏れ聞こえてくるようだった。己の中の透明な何かが、己自身にささやくように。

『人間の役に立ちたかった!』

 普段であれば反論するその内容を漫然と聞き流す。

『捨てられたのが悲しかった! 誰かに拾ってもらいたかった!』

 風が吹いてひゅうひゅうと服の裾を揺らす。
 物悲しい秋風だ。

『どうして誰も拾ってくれない? ずっとずっと待っていたのに!』

 それは、自分のデザインが悪いからだ。
 配色が悪かったからだ。
 人間の好みでなかったからだ。

『つらい苦しい寂しい悲しい恨めしい恨めしい恨めしい』

 ひらり、と。
 落ち葉がひとつ落ちてきて、胸をいろどる。

『人間が恨めしい。恨めしい。恨めしい』

 最初はそんなことばかり考えていた。
 でも次第に、むなしさが胸を埋めだした。

『恨めしい。恨めしいけれど、むなしい。そんなことがしたいんじゃない。恨みたいんじゃない。敵視したいんじゃない。気づいてほしい。かえりみてほしい。本当は、最初から、』

「……人間のことが、好きだったのに」

 また風が吹いて、落ち葉は木立の向こうへ消えていった。
 すぅー、と。
 胸が軽くなる実感。
 簡単なことだったのに。
 それを認めることが、どうしてもどうしてもできなかった。
 そうして、ここまで来てしまった。
 坂道を最後まで転げ落ちてから、自分の心のありかを知るなんて。
 ひどくひどく、滑稽なことじゃないか。
 よろり、と。
 上体を起こす。周囲を見渡す。見通せる限界まで木立が連綿と続いている。妖怪の山の山中だ。次に自分の体を見下ろした。いたるところが泥だらけで、綺麗なところなんてひとつもない。

(惨めって、こういうことなのかな)

 ぽろり、と涙がこぼれて、それを拭こうとして両手も泥で汚れているのを思い出す。目をつむって、押し流して、立ち上がる。

(どこか、遠くへ行こう。私なんか、誰にも必要とされない。捨てられた道具風情が高望みをしすぎたのがいけないんだ。誰にも関与せず、関与されない、どこかひたすら遠いところへ、風に舞う紙切れみたいに、何も考えず、からっぽになって――)

 適当な方向へ歩き出そうとし――




 直後総身を打ち貫いた悪寒に悲鳴を上げることすらできずに目を見開いて立ち尽くした。

「……ッ! ……ッ! ……ぁ!!」

(なにこれ……なにこれなにこれなにこれ!?)

 言葉にならない。
 頭が破裂してしまいそうだ。
 おぞましい。
 なんて、おぞましい。

 無理やり言い表すなら飄忽と出現した蛆虫が体表のいたるところを一斉に這いまわっているような、体内の管という管を細長い蟲が蠢動し移動しているような、繊細な神経をヤスリでもって削られているような、内臓と肋骨の隙間を縫うように多足類が徘徊しているような、およそ想像するだけで忍耐にたえぬ名状しがたい不快感であった。それが沸騰するように唐突に、同時多発的に発生し脳髄をあますことなく蹂躙する。
 全身の毛穴という毛穴が開いた。
 頭が真っ白になる。
 心臓さえ止まったかのように思われた。
 時が止まり、刹那、眼前の情景がセピア色の写真のように淡く色褪せ、意識がフェードアウトした。そのまま後ろ向きに倒れそうになって、どうにかこらえてふんじばる。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 息が荒げる。
 肩が震える。
 歯がカチカチと嫌な音を立てる。
 あまりにも突然のことだった。
 それまでの閑寂、静穏の世界が一瞬で打ち砕かれ、恐怖と暗鬱にいろどられた狂気じみた空間へ引きずりこまれていた。
 おそろしい。
 おそろしい。
 なにより、その場を動けないことがおそろしい。
 今すぐにでも全力で飛び去ってしまいたいのに、逃げ帰って布団に包まってがくがくと震えていたいのに、ある方向から流れてくる強い磁力のようなものが足を縫い止めて、泣きながら震えていることしかできない。それどころか、引きつけられるように、重力に引かれ落下するのと同じくらいの自然さで足がその方向へ向かっていく。
 じゃぷ、じゃぷ、と。
 水溜りを下駄で踏み分けながら、一歩一歩、確かにその方角へ向かっている。
 抵抗しようとするが、無駄だった。
 体が言うことを聞いてくれない。自分のものでなくなったみたいだった。このままでは、見てしまう。見るべきではないもの、恐ろしいもの、隠滅されるべき存在、それを目にしてしまう。
 確信である。
 そんな確信が沸々とわきあがってくるのである。
 叫びたかった。助けを求めたかった。もう見栄も意地も剥がれ落ちて、親しい人間の名前を呼びたかった。声にならない。喉が震えない。息を吸い込むことさえ難しい。

 じゃぷ、じゃぷ。
 じゃぷ、じゃぷ。

 木々の間を抜けていく。やや傾斜があった獣道が次第に平坦になっていく。並び立つ木の密度はそのままだが、前方には開けた空間が見えた。ちょうどそこだけ草木が茂っていなくて、広間のようになっている。

 何か、“いる”。

 いる。
 間違いなく。
 確実に。
 いる。
 たまらず瞑目しようとする。だが閉じれない。どうしてもそちらを見てしまう。

(嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……こんなのは嫌だ。こんな終わり方は嫌だ。死にたくない! 死にたくないよ! まだ、そんな、全部、中途半端で!)

 際限なく湧出する。生への渇望、本能の叫び。

(あぁ……諦めた風に言ってみても、結局私はこんなに生きたかった! 幸せになりたかった! 嫌だよ、このまま死ぬなんて! 独りぼっちのまま、誰にもかえりみられずに死んでいくのは、それだけは嫌なのにッ!)

 とうとう、視界が開けた。
 思ったとおり、そこは木が疎らで広間のようになっていた。
 そこの中心に、いる。
 何か、いる。
 必死に目線を下げた。見てはいけない。見てはいけない。そう思うのに、徐々に、徐々に、首が持ち上がっていく。
 そして。

「あ……」

 見た。

 先に感じた不快感と同様、あるいはそれ以上に筆舌しがたい存在である。
 いかな形容を用いても完全にそれの特徴を伝えるきることはできない。

 強いて言うなら、“怪物”である。

 それには形というものがない。一見四本足の動物のようにも見えたが、次の瞬間には細長い人の形に見えた。さらには球形の物体のようにも見え、かと思えば立方体の巨大な箱である。原始に生きた恐竜のようにも見えたが、御伽噺のドラゴンのような形にも見えた。角が生えていると思ったら、目玉が八つあってこちらを見ていた。視線が合ったと思ったら、そもそも目なんて存在しない。
 まるでこちらの認識からあえて外れるかのように刻一刻と姿形を変えている。
 ひどく気分の悪くなる、生理的に気持ちの悪い、直視にたえない、おぞましく醜悪な化け物である。なぜか、その怪物を見ていると本能的な嫌悪感がわきあがって来るのだ。正常に機能する神経という神経が警鐘を鳴らすのだ。これは、忌むべきものであると。
 あるいは、惨たらしく殺された人間の死体を見るとき人が覚えて然るべき忌避感に近いものだったのかもしれない。

 それには大きさというものがない。童子のような小さな姿に見えたと思うと、そびえ立つ大木の上を跨いでしまえるような巨体になり、蟻んこのような矮小な風体をさらしたかと思えば、地平線までも覆い隠してしまいそうな広漠な肉体を持って見える。これもまた、こちらの認識からあえて外れるように断続的に連綿と変化を繰り返しているのであった。

 それには名前というものがない。化け物と言おうとすると化け物ではない気がしてくるし、怪物と呼ぼうとすると怪物ではない気がしてくる。アレとかソレとか指示代名詞で表そうとすると、今度はそうした普遍的な言葉までも疑わしく見えてくる。名前を与えるという行為そのものがぬるぬると表面を滑って見当違いの方向に着地するような不気味さがあった。

 ゆえに、強いて言うならという注釈のもとで怪物となる。

 怪物は、ただそこにあった。
 なにをするでもなく、ぶよぶよと不定形の輪郭をゆらしながら、そこにある。
 考えるまでもなくわかった。
 これが、全ての元凶。
 自分をここへ手繰り寄せ、引きずり込んだ下手人であると。

(こんなの……こんなのどうしろっていうのよ……!)

 抗う気力もわいてこなかった。
 あまりにおぞましい存在であった。
 視界に収めているだけで精力という精力が抜け落ちていく。怖くて、つらくて、へたりこむ。涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。昨日と今日だけで何度泣いているだろう。

(どうして……どうしてこんなに弱いの、私は。傘としては不人気で、妖怪としては弱小で、窮地に立っては泣くしかできない。怖いよぅ……怖いよぅ……どうしたらいいの……早苗……阿求……さとり……こいし……)

 嫌だ、嫌だ。
 こんなの、嫌だ。
 涙でゆがんだ視界で怪物を見上げる。怪物はそこにある。じぃ、とこちらを見ている気がした。そうでない気もした。怪物がぞろり、と腕を伸ばした気がした。そうでない気もした。腕ではなくて触手のようにも見えた。そうでない気もした。

 ずろ……ずろ……

 手が伸びてくる。

 ずろ……ずろ……

 遅々とした、緩慢な動作。怖気が極限に膨れ上がる。

 ずろ……ずろ……

 やがて手の先がすぐ目の前まで迫り――

 ひた、と。

 触れた。
 触れている。
 冷たい。
 熱い。
 凍傷しそうだ。
 火傷しそうだ。
 どす黒い色をしている。真っ白な色をしている。極彩色の目に悪い色をしている。虹の色をしている。光と影の色をしている。形、大きさ、名前も、温度も、色も、感触も、何一つとして一定であるものがない。
 手はそのまま小傘の肩を掴もうとするように伸ばされる。
 恐怖の内圧が静止できる限界を振り切れる。

(あぁ……もう……)

 悲鳴もない。
 意識がすぅー、と遠のいていく。

(最後にせめて、もう一度……)

 誰かと、話をしたかった。
 全てが薄闇の彼方に消え――















「間に合ええええええええええええええええええええええええええええええ!」



 光が差し込む。
 空が割れたのかと思った。雲海が裂けて太陽が現れたのではないかと。
 暗雲に閉ざされた薄暗い世界にすっかり慣れてしまっていた目には、その純白に煌々と輝く光はあまりにまぶしい。
 いとも神々しい、神秘めいた光であった。
 目を見張る。驚き払って、光の源を見る。

 見慣れた二つの顔があった。
 泣きそうになった。
 とっくに泣いているのに、なお。夢か幻を見ているのかとすら思った。東風谷早苗と古明地こいし。求めてやまなかった二人の姿がある。何かの冗談のように、そこにいる。
 早苗が素早く手を振り下ろす。
 上空に展開されていた緑色の弾幕が内側へ崩れていくようにうごめいた。その後は、ただ標的へ向けて降りかかるのみである。
 弾幕は瑕疵なく怪物に襲い掛かった。小傘へ向けて伸ばされていた手のようなものへ次々と着弾し、そうして攻撃を受けた傍から怪物の手は形を保たなくなり、剥落していった。
 白昼夢を見ている心地で、それを見やる。
 早苗とこいしが慎重に、十分な警戒をそなえた動きで降りてくる。

「……」
「……さ、さなっ」

 早苗が、じぃ、とこちらを見てくる。
 名前を呼ぼうとして、つっかえた。
 涙とか鼻水とかで顔はきっとひどいことになっているだろうな、なんて益体もなく考える。

「さ、早苗……どうしてここに……?」
「……小傘さん」

 早苗は決然とした声色で、

「ごめんなさい!!」

 開口一番謝った。

「へ……?」
「ごめんなさい……! 本当に、ごめんなさい……! 私が、私が忘れてしまった……私が突き放してしまった……! 私が……私が……!」
「な、何を言って……」

 はた、と気づく

「もしかして、昨日の夜のこと……? 覚えてるの……? いや、そもそもあのとき早苗は……」
「見えていなかった。聞こえていなかった。でも、それでも、ごめんなさい。私はひどいことをしてしまった」
「………………」

 そんなことはない、謝らなくたっていい。
 その言葉が、どうしてか出てこなかった。

(怒ってるわけじゃない。恨みがましくも思わない。しかたのないことだったとわかる。忘れてしまったのだって不可抗力じゃない。早苗が悪いわけじゃない。なら、なぜ……)

 しこり。
 胸の奥の奥の方に沈殿する澱のようなもの。
 それが、もどかしい。

「……そんなこと、ないわ」

 どうにかそれだけは言えた。
 早苗は泣きべそを浮かべている。「ごめんなさい……ごめんなさい……」とうわ言のように繰り返していた。
 と、そこに。

「まだ、終わってないわ」

 こいしが言う。

「“アレ”という大元がある以上、この事件は終結しない。放っておいたら、まだまだ犠牲が出るかもしれない。……どうにか、できないかしら」
「……こいしさんにもわからないんですか?」
「今まで“アレ”をどうこうしようなんて思ったことないもの。いつも自然に消滅するのを待っていた。だから……」
「え、えっと……こいしはあれのこと、知ってるの?」
「えぇ、私がここへ駆けつけてこれたのもこいしさんのおかげです」

 早苗はちらりと怪物のほうを見た。
 攻撃を加えてきた早苗に敵愾心を持つ様子もなく、何事もなかったみたいにそこにある。
 そもそも意思や思考を持っているかすら疑わしかった。

「……あれが……色々と聞いて心の準備はしてきたつもりですが……なんというか、これは」

 早苗は複雑な表情を浮かべた。
 小傘はわけがわからず首を傾げる。

「………………感傷に浸ってもしょうがありませんね。何にせよ、あのまま放っておくわけにはいかない」

 早苗はこいしに向き直ると、「頼めますか」と聞いた。
 首肯するこいし。
 早苗が怪物の前に立ちはだかるように前に出る。こいしと小傘を陰に入れるような形だ。
 こいしは小傘に近づくと、

「あっちは早苗が見張っててくれる。その間に、一通り説明するね」

 そして――





 ※※※






(あんまりだ……)

 ひっく、ひっぅとか細い嗚咽。

(そんなの、あんまりだよ……)

 すすり泣く女の子の声。小傘の声。

(そんなの……そんなのひどいよ……)

 こいしの話が半分を過ぎたあたりから、小傘はずっとうつむいている。
 とうとう彼女は真相を知った。
 あまりに想定外の、思いもよらない真実を知った。
 このとき、彼女にとってのこの事件の意味は全く塗り替えられてしまった。
 無惨なほどに、残酷なほどに、心の奥で何かが大きく変動してしまった。
 それが、わかる。

「……大丈夫?」

 気遣わしげにこいしが聞いてくるのに、答えることもできない。
 胸がじくじくと痛んで、叫びだしたい。

「だ、いじょう、ぶ……」

 途切れ途切れにそう答える。
 言葉にならない。
 ついさっきまで恐れていた“アレ”、恐怖し、おびえ、嫌悪し、忌避した怪物。
 成れの果てだったのだ。
 妖怪、精神的存在の最も悲惨な末路であった。

 何より、それは――

(私の、成れの果てだ)

 そんな気がした。
 どうしてもあのおぞましい怪物を他人のように思えなかった。
 目を背けてはいけない。
 アレを、見ているだけで吐き気を催す醜悪なアレを、自分はしかと見据えなければならない。
 そんな気がした。
 刮眼、小傘は決然とおもてを上げる。こちらを心配げにのぞきこむこいしの顔が映った。その奥には、早苗が立っており、さらに奥にはあの怪物がたゆたっている。
 そのはずである。

(あれ?)

 変だ、と思った。
 何がどうとは言えないが、視界にある光景のどこかに猛然と違和感を覚える。
 奇態な、あるいは危殆な予感。
 目を凝らしよくよく見てみる。
 怪物は相変わらずぶよぶよと、ぐにゃぐにゃと不定形の体を歪ませていた。
 こいしが動きを止めた小傘を怪訝そうに見ていた。
 早苗はまんじりともせず怪物の方を向いており、その体からは確かな緊張感が……ない。

「あ」

 ない。
 ないのだ。
 意思を持ち行動する生物に見られる特有のオーラ、気配、気迫のようなものがない。
 極めて希薄である。
 まるで、意識を失っているかのように。

「早苗!」

 ぞっとした。
 名前を呼んで、立ち上がる。こいしもすぐさま表情を険しいものに変えると、振り返り、今なお怪物と相対する早苗を横からのぞき込む。

「あっ……あぁっ……!」

 その口から漏れる焦燥。
 小傘も急いで早苗の横に回りこんだ。


 早苗の首を、怪物から伸びた触腕が覆っている。


「ひっ……! さ、早苗!」

 返事はない。
 完全に気絶しているようだった。
 胸はかすかに上下している。首を絞められているというより、単に掴まれているだけのようであった。
 どうしていいかわからずおろおろする。もう一人の妖怪少女が即座に動き出す。
 怪物の腕に色とりどりの弾幕がぶつけられた。それで、怪物は手を離す。そう思われた。

 怪物は微動だにせず、早苗を徐々に引っ張り始めた。

「!」

 こいしが色を失くす。
 硬直から立ち直った小傘もまた弾幕をばらまき始めた。二人の少女の激しい攻撃にさらされるも、怪物にはまるでダメージが見られない。
 そもそも、物理的な攻撃が通じる相手なのかすら疑わしい。
 怪物はすでに死んでいる。いわば屍骸とその残留思念。それに人間のおそれが加わって動いているだけに過ぎない。動く死体を止めるためにはその肉体を完膚なきまでに損傷する他ないが……怪物は定形の肉体を持っていない。こうして腕のように伸びているものも、実際には単に“腕のように見える”輪郭のブレであり、実際はそこには何もないのかもしれない。

「油断した……! 話すのに夢中で警戒を怠っていた……! そうだ、早苗は人間なんだから“アレ”が近くに引き寄せようとするのは当然のことなのに……! ……聞いて!」

 こいしの切迫が空気を震わし伝わってくる。
 小傘は弾幕を放ちながら、叫び返す。

「どうすれば! どうすればこれを止められるの!?」
「落ち着いて! 決して冷静さを失わないで! ねぇ、今“アレ”が何に見える!?」
「なにって、何にも見えないよ! アレは明確な形を持っていないんじゃなかったの!?」
「そう、形は持っていない! アレは認識しようとすればするほど脳が理解を拒絶する! だから考えちゃ駄目! 考えるんじゃない、感じるんじゃない! “アレ”は“アレ”なの! 私たちが普段生きている中で空気の層を意識することがないように、“アレ”は風景の一部! そう思って! “アレ”だって元は生きていたんだ! 例え誰からも忘れられようと、自分で自分の形を否定してしまっても、原型となったものがある! それが見えてくれば、見えないけれど見えてくれば、攻撃が通る余地があるかもしれない! 私たちは風景を穿たなければならない!」

 こいしは一層熾烈な弾幕を仕掛ける。
 小傘も必死に追撃しながら、こいしに言われたことを噛み締めていた。
 風景。
 あの怪物は、風景。
 ただそこにあるもの。
 置き物であり、死物。
 そう、かつて小傘がそうであったように。

(あれは風景……あれは……あれは………………私の、成れの果てなのに)

 ふと、先の感慨を理解する。
 成れの果てなんて、思った理由を。
 他人事みたいに、思えぬわけを
 あれは――。

(あれは、かつて昔ありえた私の未来のひとつなんだ。誰からも忘れられて、苦しんで、自分で自分を殺してしまった、そんな、悲しいものなんだ。どうして私がそうならなかったって言えるんだろう。本当は人間と仲良くなりたいくせに、その気持ちを否定し続けた私が。いつか人の前から姿を消して、誰の記憶にも上らなくなって、やがて忘却の存在になっていた可能性を。……どうしてないって言えるんだろう。……わかるんだ。おこがましいかもしれないけれど、わかるんだ……!)

 あの怪物のたどった苦しみが。
 あの怪物の、寂しさが。

(人間に気づいて欲しいって、傍にいて欲しいって思いが……!)

 わかる。
 わかってしまうのだ。
 風景だなんて、思えない。

(あなたはそんなこと求めてないでしょう!!)

 心の中で、絶叫する。
 あの怪物へ向けて、おぞましいものへ向けて。
 なぜ、自分は弾を打っているのだろう。
 あの怪物を攻撃しているのだろう。
 あの怪物は望んでいただけだ。ほんの少しの間だけ人間と共にありたかっただけだ。忘れずにいて、見て欲しい。触って欲しい、ただいて欲しい。そんな簡単な願いのあっただけだ。それが、人を取り込んでしまう。こんな空漠な世界に引きずり込んで、その幸せを壊してしまう。怪物のことが、わかるのに。わかるのにそれを討たねばならぬ。同情ではなく理解があった。哀憐ではなく救いたかった。他方、本能は忌避を叫び続ける。嫌悪の念と、這い回る不快。見ているだけで吐き気を催す。ただあることが許せない。何より早苗を助けるために、あの怪物を討たねばならぬ。

「私は……私は嫌だ! どうして、どうしてこんな悲しいことばかり起きる!」
「私だって……私だって嫌だぁ!」

 思わぬところから、涙声が聞こえてくる。
 こいしは泣きながら怪物を攻撃していた。

「嫌われ者だった! 追いやられて、蔑まれて、お姉ちゃんと一緒に地底へ移り住んだんだ! そこでも嫌われて、なんだかわからなくなって、もうどうしたらいいかわからなくなって、目を閉じて今日まで生きてきたんだ! 忘れ去られたいって思った! そんなの嫌だって願ってた! 何度も消え入りそうになった! 風景の一部みたいに、道端の小石みたいになる気がした! そのたびにお姉ちゃんの顔が過ぎるんだ! それで今日まで形を保ってこられたんだ! 他人事みたいに語ったって、私もアレもほんの紙一枚ほどの隔たりしかない! 本当はそんなのわかってた! アレは、あの子はずっと苦しんできたのに、それを痛めつけなきゃいけないのなんて、嫌だぁ!」

 あぁ、彼女も自分と同じだったのか。
 この場の誰も、あれを傷めつけることを望んではいないのか。
 諒解は瞬く間に全身に染み渡る。
 それでも攻撃の手は緩められない。
 早苗を捨て置くわけにはいかない。
 だって、だってそれは。

(私は……)

 あのとき。
 早苗が助けに来てくれて、嬉しくて、ほっとして、謝られて、そんなことないって言おうとしたとき。
 胸につっかえたもの、最後のしこり。
 その正体が、今ならわかる。

(私は……本当にそれでいいのかって、思ってたんだ。人間に素直な気持ちを打ち明けることを最後まで恐れていたんだ。自分が自分じゃなくなるようで、妖怪として生きてきた年月を裏切るようで、怖かった。私は傘なのに。人に使って初めて意味がある、傘なのに。私は妖怪なのに。人間を見返してやりたくて変化した、妖怪なのに!)

 次々と叩き込まれる攻撃。怪物はまるで意に介さぬ風に早苗を引きずっていたが――
 ふ、と。
 そこで初めて、動きがあった。
 あるいはそれは強く押さえつけられたゴムボールが反動で飛び上がるような反射的な行為だったのかもしれない。

 伸びた。

 怪物の輪郭がずろりと揺らぎ、急速に膨れ上がり、攻撃を加える二人へと伸びてくる。
 完全に不意をつかれた。
 反応できず、地面に叩きつけられる。
 それ自体は大した問題ではない。妖怪は頑丈にできている。これしきのこと蚊に刺されたような痛みだ。だが。
 だが、怪物の触れたところが気持ち悪い。
 べったりと、ねっとりと、あるいはさらさらとした感触だった。
 人間の価値観で言うなら、腐食の進んだ死体が動き出し、その腐り果てた肉で頬を撫でたような、その冒涜的な気味の悪さを悪意をもって何倍にも何十倍にも強めたような。
 そんな感触だった。
 一瞬で意識が刈り取られそうになる。
 肌という肌があわ立ち、おののき、総毛立つ。
 精力も生気も意志も容易く剥奪され、立ち上がることさえできなくなる。
 全てが億劫になる。

(動かなきゃ……早苗を……早苗を……)

 力が入らない。
 暴れだす感情とは裏腹に、身体の機能がまるで停止している。
 人形になってしまったみたいだ。
 有機的なのは心だけで、肉体という肉体は無機的であった。神経が通っていない。情動が通わない。人形を、人体を動かすにはそれを操る糸が必要となる。それが、切れた。

(早苗は私を助けに来てくれた……だから今度は私が助けるんだ……助けるんだ……人間を……)

 じりじりと。
 脳裏がわずかな疑念に埋まる。
 積み重ねた過去が最後の抵抗を試みる。
 ありし過日を焦がすみたいに、望む果実を祟るみたいに。
 人間を、助ける。
 本当に、本当に。
 それでいいのか。そうするのか。

(間違ってないの? 私は妖怪なのに? 恨みがましい妖怪なのに? それなのに人間を助けるの? 私を捨てて、ずっと見ないふりをして、拾ってもくれなかったのに? 私を物として壊してさえくれなかった……)

 人間なのに。
 まだただの傘であった頃、あちこちを飛ばされるうちに次第に諦観が根付いていった。その末に抱いたのは、「壊して欲しい」という切望である。物というのは人間に作られて物になるし、人間に壊されて物でなくなる。そうでない物は、物として死んでいながら生命の終わりを迎えることもできずに苦しみあがくことしかできない。指先ひとつ動かせないのに延々と生かされ続けるようなものである。塗炭、地獄の苦しみ。
 もうそれ以上の用向きがないなら、いっそ介錯して欲しかった。
 死んだ人間を、弔うように。
 ただそれだけで、満足できた。

(……あぁ、そっか)

 あの怪物もまた、そうなのか。
 誰からも忘れ去られ、妖怪としての役目を終えて、しかし誰にも悼まれない孤独な存在。
 きっとただ弔われるだけで、満足して消えることができるのに。

(消えられないんだよね。苦しいんだよね。寂しいん、だよね)

 電流が、走った。
 ある。
 あるのだ。
 今自分があの怪物のためにしてやれる唯一のこと。
 早苗や攫われた子供たちをこの世界から解放できるかもしれない方法。
 そして、犠牲を要する手段。
 涙を噛み締める。
 じゃり、と砂の味がした。
 早苗はもう、怪物のすぐ近くにいる。
 小傘はこいしの飛ばされたほうを見る。
 こいしはがくがくと震えながら必死にあがいていた。四肢をもぞもぞと動かしているが、少しも前に進めない。反撃を食らったときこいしは怪物により広範囲を打たれていた。彼女はきっと、動けない。

(私が……私しか……早苗はいい人間じゃない……助けるんだ……助けたいんだ……)

 決別を、迫られている。
 人間自体への怨恨を、あの苦しみを水に流すことができるのか。
 きっと、その覚悟がなければこの鉛の体を動かすことはできない。
 一点の曇りもない決意でなければ、動けない。

(私は……私は……!)

 小傘は固く、目を閉じる。



 ざぁざぁ、ざぁざぁ……
 


 雨の音。
 いつからか嫌いになっていた。かつての苦しみの象徴であったもの。
 独りぼっちの証であったもの。
 ざぁざぁざぁざぁ。
 その音だけが耳を通りぬけていく。
 一切の雑音が排除される。
 研ぎ澄まされる。



 ざぁざぁ、ざぁざぁ……



 こんな音、なければいいのに。
 こんな憂鬱な音色、消えてしまえばいいのに。
 そうすれば、そうすれば……

 それでも。











「それでも、私は傘だからああああああああああああああああああああああああ!!」


 立ち上がる。
 全身全霊の力を込めて、体を大地に縛り付ける重力すらも食いちぎるように。
 足かせの鎖を引きちぎるように。
 立ち上がる。

「私は人間が大好きだぁぁぁぁぁぁぁ!」

 皮膚に残る怪物の感触を振り切るように叫ぶ。
 誰かが聞いているからなんて関係ない。叫ぶ。叫ぶ。

「あなただってそうだったはずだ!!」

 怪物へあびせかけるのは言葉の拳。
 言葉が通じないなんて思わない。そんなはずはない。だって、怪物はずっと望んでいたはずなのだ。

「見てもらいたかったんだ!! 誰かに気づいて欲しかったんだ!!」

 怪物のほうへ一歩、一歩。
 躊躇いはなく、屹然と。
 後悔はなく、いっそ晴れ晴れと。

「傍にいて欲しかったんだ!! 哀れみなんかじゃなくて、ただ傍に!!」

 怪物に近づくにつれ、胸に猛烈な忌避と嫌悪がわき起こる。妖怪としての本能であった。汚くて、醜くて、面妖な、見るに堪えない怪物への。惨たらしい屍への。

(そんなもの、“コレ”の……違う! この子の味わった苦しみに比べれば……!)

 噛砕(ごうさい)。
 気を確かにもって、前へ行く。
 気づけば怪物への距離はほとんどなくなっていた。
 手を伸ばせば触れられそうだ。
 早苗の位置を追い越して、誰よりも近く怪物にある。

「……私が、傍にいる」

 後ろから何か叫び声のようなものが聞こえてきた。

「私が傍にいるよ。あなたが寂しくないように。あなたが苦しくないように」

 そ、と。
 いつだって手放さなかった紫色の傘を広げる。
 今もこんこんと雨に濡れている、怪物の上を覆うように、差し出した。
 簡単なことだった。
 決断だけが難しかった。
 怪物は誰かに傍にいてほしかったのだ。ならその誰かに、自分がなるだけだ。
 早苗を引きずっていた怪物の動きが、ぴたりと止まる。
 きょとん、とわけのわからぬ子供のように。あどけなく、無邪気で、ただ純粋である童子のように。
 こんなにおぞましい姿をしているのに。

 傘の下で、怪物と二人、雨を遮っているはずなのに地面に次々と染みができる。
 涙の一滴一滴に万感がこもる。
 寂しいような、悲しいような、つらいような、惜しいような。
 そんな未練すらふるい落として、精一杯に笑ってみせた。

「あなたが悲しくなくなるまで、私が傍にいる。だから、もう泣く必要はないの。……それから、返してあげてほしい。この世界へ取り込んだ子供たちを、早苗を。妖怪の私じゃ役者不足かな。やっぱり、人間じゃないと、駄目かな……?」

 えへへ、と照れたみたいな笑みが漏れた。
 不思議な気分だった。
 悲愴な気分なんかちっともなくて、清々しくて、心を覆っていた暗雲が晴れたみたいに。
 手を伸ばす。
 ぷるぷると震える。
 見るだけで蟻走感の走る怪物に今、触れようとしている。
 すぅ、と。
 指先が触れる。
 震えが大きくなる。
 体を前に傾けていく。
 手が触れ、腕が触れ、胸が触れ、頬が触れた。
 かなう限りに優しく、強く、抱きとめる。

 時間が止まった。

 心に立つさざ波の一切が動くのをやめた。
 恐れも、不安も、悲痛も、何も、感じない。

(早苗、こいし、ごめん。私はそっちに帰れないよ。折角助けに来てくれたのに、骨折り損になっちゃった。結局、私は寂しがり屋だから、寂しがり屋を放っておけないんだ)

 目を閉じる。
 やはりこうして怪物に触れていることは精神の負担になるのか、段々意識がおぼろになっていく。
 あぁ、すべて、かすんで、きえる……。

 柔らかく心地いい雨の音色に包まれたまま。
 意識を手放すそのときまで、ただいたわるように抱きしめていた。






 暗転。








 ※※※








 いったい、どれほど時間が過ぎたのか。
 朦朧としていた意識が徐々に形を取り始める。
 霞がかったようにおぼろげな認識の中、ぼんやりと感じ取れる。
 肌に触れる“何か”に、明確な変化があった。
 曰く言いがたい感覚である。手の平に乗せた氷塊がじわじわと溶け出し掌中からこぼれ落ちていくような、強く掴んだ粘性の物体が気化して宙に溶け出すような、今あるものが数瞬の後にはすっかりそこにはなくなって消えてしまうような、そんな予感である。
 胸を突き抜ける不快感と忌避感を押して目を開ける。
 目の前に、ぶよぶよと揺らぐ不気味な輪郭が見えた。
 不定形のそれは、うっすらと透けている。

 透けている?

「……!」

 覚醒。
 茫洋とした視界がたちまち澄み渡り、沈んでいた記憶が堰を切ったように思い出される。
 今抱きしめているこれはあの怪物なのだ。
 そして、怪物は透けていた。
 透けているとしか言いようがない。
 奥にある木々や草花が透過して見えていた。曇ったレンズをのぞいたように不明瞭な景色だが、確かに見える。
 全身を襲う倦怠感を殺し、顔を上げる。
 怪物を通して空が見えた。
 黒一色だった曇天は少し雨脚を弱め、所々に雲の切れ目ができている。灰がかった雲は長く降り続いた雨の終焉を思わせた。さぁさぁと優しく髪を濡らす霧雨だけが怪物の輪郭を浮き上がらせる。怪物に触れて跳ねる雨粒は不思議なことに極彩色にきらめいていた。怪物の不定色の外縁と同様に次々と色を変えている。雨上がりにかかる虹のようだった。魅入られるほどに、美しい。
 怪物は何も言わない。
 それには口というものがない。
 ただ、少しずつ透けていく。
 肌はない。表皮はない。あるのは不定形の輪郭だけである。その輪郭が、紐のほどけるようにぐにゃぐにゃと揺らぎ消えていく。理解に苦しむ光景であったが、これは怪物の最後なのだろうと直感する。
 力の限り抱きしめようとする。
 体が言うことを聞いてくれなくて、その勢いは弱々しい。
 ぐわり、と。
 怪物が“揺れた”。
 体が揺れたのではない。輪郭が揺らいだのでもない。もっと概念的で不確かな、存在の事実そのものが揺動しているみたいだった。
 揺らめく怪物と、それを包み込む霧雨はともすると怪物が光の粒になって消えていくような錯視をもよおす。
 こいしが言っていた。怪物はいわば妖怪の亡霊なのであると。一頻り人間を吸い寄せた後は、成仏するかのように消えるのだと。
 それが悲しさじゃない何かによるものであれば。
 願って、後はただ怪物の最後を見届ける。

 怪物が完全に消えるまで、十分ほどの時間がかかった。

 抱きしめる腕が空を切る。
 懐中にはもう何も残っていない。
 魂の抜けたみたいに呆然と、怪物のあったところを見つめていた。

 優しく、細く、やわらかく。

 雨が降っていた。

(私は……死ぬつもりだった)

 わざわざ自分を探してここまで来てくれた早苗やこいし。
 二人には悪いとは思った。
 それでも自分にはそれくらいしかできないのだと思った。
 捕らえられ行く早苗のために、あの怪物自身のために。
 この世界に死ぬまで閉じ込められることを覚悟していた。
 肉体が死を迎える前に発狂する可能性を考えていた。
 その決意の残滓が、総身の血流を燃やした意志が、行き場をなくしたみたいにあちこちを飛び交って、気が抜けたように怪物のあったところを見上げるしかできない。
 どれだけそうしていたものか。
 首が疲れて、何とはなしに視線を下げる。


 子供が三人無造作に寝転がっていた。


(!? ……そうだ! この世界に取り込まれたのは私だけじゃない! アレは人間を引き寄せる。子供たちはあの子の中にいたのか……!)

 慌てて駆け寄って子供特有の柔肌に触れる。

 冷たい。

 ぞっ、と悪寒が背筋をかけあがった。
 そんな、そんな。
 そんなまさか。
 恐る恐る脈拍を確かめる。
 とくん、とくん。

 血が流れている。
 まだ、息がある!
 湧き上がる歓喜は一瞬、見れば三人ともいたく痩せ細り、長らく食事を口にしていないことは明白であった。意識を失っていたため消耗する体力を最小限に抑えられたのか、怪物の体内で何かしら特殊な作用でもあったのか、彼らはまだ死んでいない。が、このままでは時間の問題である。
 小傘は振り返って、こいしの姿を探した。
 いた。
 吹き飛ばされた位置からそう離れていないところに倒れ伏し、小傘の方をじっと見ている。
 くちびるがもぞもぞと動くが、上手く喋れないのか声にはならない。
 小傘はすぐさま駆け寄った。

「こいし! まだ、まだ子供たち! 生きてる! どうすればいい!?」
「お、ちついて……いま、けほ、はぁ……アレは、あの子は、消えたから、もう無意識への引力はなくなっている。だから、あなたは思い、出されて、他者から認識される状態に戻っている、はず。ごめ、ん……私は、ちょっと、動けそうにない。早苗の周辺を見張っているから、子供たちを里へ、里へとどけ、けほ……おねがい、できる……?」

 今にも消え入りそうなか細い声。
 小傘は強く、強くうなずく。
 すでに認識されない状態を脱しているらしいことに覚える感動もあればこそ、感傷に浸るいとまはなく。
 一刻を争うことだった。
 会話を早急に切り上げ、子供たちの下へ戻ると落とさないように慎重に抱き上げる。わずかに逡巡して、空高く飛び上がった。上空では哨戒の天狗に見つかるおそれがあったが、幸いなことに山を出るまで呼び止められることはなかった。
 里へ。
 一路、里へ。
 何度も通った道なのに、ひどく懐かしい気がしていた。
 それほど距離はないはずだが、妙に長く感じられる。
 遠い。
 これほど遠かったろうか。
 胸にあるのは焦りのみ。
 このまま子供たちが死んでしまう未来だけは、絶対に避けなければならなかった。

 程なく、ようやく、里へ着いた。
 昨日訪れたばかりだというのに、やはり懐かしい。
 どこへ行くべきか考え……

『何かあったら、私のもとを訪れるといい』

 脳裏に浮かんだのは、心配げに眉をひそめる半人半獣の姿だ。
 一度は通った道である。
 迷うこともなく、小傘は慧音の家にたどり着くことができた。
 玄関の戸を叩く。声の限りに呼びかける。
 家の奥からどたどたと足音が聞こえた。
 戸が開かれる。

「まったく誰なんだ。そんなに強く呼ばずとも……」

 小傘を見た慧音の目が大きく見開かれる。
 小傘が抱きかかえた子供たちを見て、ますます大きくなった。もうこれ以上開けないというほど驚いている様子だった。

「なっ……!?」
「半人半獣の人! こ、この子たち、弱ってるから、どうにかして、あの、その……っ」
「ま、待ってくれ。どうして、どうしてお前がここに!?」
「私のことはいいから、ともかくこの子たちを!」
「……! あ、あぁ」

 慧音は小傘から三人を受け取ると、素早く脈と呼吸を確かめた。
 生きていることを確認すると、くしゃりと泣きそうな表情になる。

「色々聞きたいことはあるが、確かに、今はこの子たちのことが先決だ。だいぶ衰弱しているが、すぐ医者のところへ連れて行けば命に別状はないだろう。私は今すぐ行く。……お前も着いてくるか……?」
「本当に?」
「……?」
「本当に大丈夫? 死んじゃったりしない……?」
「……おそらく。門外漢だから確証はできないが、仕事柄子供の面倒を見ることは多い」

 その言葉を聞いて、緊張に強張った心がほだされていく。
 安堵の念が体の隅々まで行き渡った。
 だが、まだ終わりではない。

「………………私には、まだやらなきゃいけないことがあるの」
「……そうか」
「あ、あの……っ」

 小傘は躊躇うような間の後、首を振り、

「ありがと!」

 振り払うようにそれだけ言うと飛び上がり、里を後にした。
 山に置いてきたこいしや早苗が気がかりだった。
 傘を前方に差して風雨を避けながら、秋雨の満ちる空を行く。
 妖怪の山の麓に着くと、今度は木々に隠れるように飛んでいった。
 大した距離もなく、こいしと早苗を発見する。

「こいし!」

 こいしも小傘に気づく。

「子供は!? 大丈夫だった!?」

 声を荒げて聞いてくる。小傘は「たぶん。……ううんきっと」そう答えてこいしの傍に降りる。

「こいしこそ、大丈夫? 動ける?」
「……うん。待ってる間に、ある程度自由が利くようになった」

 そう言って、よろよろとその身を起こす。
 そのまま立ち上がろうとしたが、バランスを崩してしまう。
 小傘が支えると、困ったように笑った。
 こいしは今度こそ立ち上がり、ふらふらと覚束ない足取りで歩き始めた。二人で早苗の直近まで行くと、軽く体を揺さぶってみる。

「早苗、起きて」

 ゆさゆさ。
 ゆさゆさ。

「早苗、早苗」

 ゆさゆさ。
 ゆさゆさ。

「う、うぅ……」

 ぴく、と早苗の睫毛が震える。
 眉が微弱に寄せられた後、うっすらと目が開いた。

「あ、あれ……?」

 事態を理解できない様子できょとんとしている。

「よかった……」

 こいしがほっとしたように息をつく。小傘が満面の笑みを浮かべると、ますます早苗はわけがわからなそうに、

「私は……確か……あの……いったい……あ!」

 がばっ、と上体を起こす。
 周囲を見渡し、焦燥にかられた声で、

「“アレ”はどうなったんですか!? 私は、私は途中で気を失って……!」
「大丈夫」

 安心させるように言うのはこいしだ。

「成仏したよ。……っていっても、私は見ているしかできなかったけど」
「えっ、と……つまり?」
「終わったんだ」

 こいしは笑う。明るく、とは言えない。ほのかで、どこか陰の残る、しかし安らかそうな微笑みで、

「帰ってきたんだ。私たちの世界に。幻想の居場所に」

 そうして力の抜けたようにへたり込み、顔をうつむけた。
 早苗はまだ、何が起こったか飲み込めないみたいだった。
 小傘は、不意に感情の波が押し寄せてきて涙をこぼした。

(あぁ、終わったんだ……)

 こいしの言葉で、ようやく実感できた。

(終わったんだ……何だか、色々あって、悲しいような、嬉しいようなよくわからない気分だけど……)

 空しくはなかった。
 苦しくはなかった。
 今は、傍にいてくれる人がいる。
 自分のありようを否定することもない。

「終わったんだ」

 そう呟くと、きっとそれが真実である気がした。
 穏やかに澄み渡った心では、この世のすべてが美しく見える。
 雨が降り、鳥が鳴き、虫がさざめき、風が笑う。

 確かめるように、もう一度繰り返す。
 それで最後にしよう。
 それで、この事件の幕引きとしよう。
 怪物にまつわる陰惨な一連の事件は、ついに。



「終わったんだ」



 ……
 ……
 ……









 ※※※












 ――そう、怪物にまつわる事件だけは。

 しかしあなたはこう思ったはずだ。
 古明地こいしが浮かべていた不可思議な笑み。心からの爛漫な笑みではなく、かすかに陰の残る怪しい笑み。それを見て不安を覚えはしなかったか。まだ何か大切な、重大な出来事が残っているのではないかと。
 そしてその予想は正しい。
 その予想を抱いたあなたは今核心に最も近い位置にある。
 普通ならここでハッピーエンドを迎えたのでしょう。
 そうなったってよかったはずだ。
 私もそう思う。
 古明地こいしもそう考えていた。
 だから、すぐに言い出せなかった。
 しかし伝えなければならない。
 悲しい事実を、残酷な未来を、これから起こりうることを。
 古明地こいしが東風谷早苗を無意識の側へ招来するさい、あれほど強く覚悟を問うたのはなぜか。
 その答えを彼女は知っている。
 私は記さなければならない。
 悲しい事実を、残酷な過去を、これまで起こってきたことを。
 あなたが私の想定するあなたであるならば、これがどこか虚構とは思えない、現実にあったことのような感覚を覚えているはずだ。
 これは事実、この幻想郷で起こったことだった。
 そして――いえ、物事には順序というものがあります。まずは、この後起こったことを語るとしましょう。
 ただ、ひとつ忘れないで欲しい。
 古明地こいし、東風谷早苗、多々良小傘、三人が過ごしたわずかな時間は、それでいて本当に幸福でいとおしいものであったことを。何者にも侵されない宝石のような輝きであったことを。その欠片が今も、あなたの胸に眠っていることを。
 さぁ、準備はいいですか?
 記憶の蓋を開く心構えはできていますか?
 もしそうであるならば――ページをめくってください。この先にあるのは一時の平穏、緩やかに終わりへ向けて歩き出す時間、このお話のエピローグ。私の知る限りのことを記します。

 そして願わくはいまだ見ぬ――。












 ※※※













「まだ、全部じゃないの」

 その言葉が、ふわふわと宙を漂っていた小傘の意識を現実に引き戻す。
 重苦しく、存外に響き渡る声だ。
 うつむけられていたこいしの顔。それが、今、こちらを見ている。
 ぞぉ、と背筋が冷たくなった。

「事件は終わった。でも、まだ全部が終わりじゃない」
「えっ……? なに、なにを……?」

 当惑する小傘を、こいしは薄暗い目で見つめている。
 奇しくもそれは、早苗が里でこいしを見つけたときと同様の、あの昏冥の瞳であった。
 こいしは言う。絶望のどす黒い色を塗りたくったような声で、その身にあまる現実を悼むように。


「反動が、来る」


 努めて淡々とさせたような口調であった。

「反動……ですか?」

 早苗の返答に即座に言葉は返される。

「そもそも、なぜ私はあっちの世界を見れたと思う?」
「え……それは、あなたの能力で……」
「そう。私は無意識で行動することができる。このとき私は何も考えてない。でも本当に何も考えていないのなら動くこと自体できないわ。これは単に、無意識の声により忠実であるというだけなのよ。無意識が『こうしたい』と思ったことをそのまましている状態なの。意識という霧に惑わされないから、自分の無意識により敏感になる。それであっちへの奇妙な引力が発生していることに気づけるの。あとはその引力に身を任せて、あっちの世界へ踏み込むだけよ。私は私自身の能力であっちの世界を認識していたのではない。私自身、あなた達と同じようなやり方であっちの世界へ足を踏み入れていた」
「……話がいまいち見えてきません」
「……回りくどいのは悪い癖ね。ごめんなさい。つまり、帰ってきた私に何か異常が起こるなら、あなた達にも同様のことが起こりうるってことなの」
「異常……?」
「今までも何度もあっちの世界を見ているけど、そうした体験のあとには決まってある異変が私を襲ったわ」

 こいしはそこで、悲しそうな、痛ましそうな目をした。

「……忘れそうになるの」

 不安を隠せない表情で、

「……あっちの世界で起こったことや、それにまつわる記憶がふとした拍子に意識の網をすり抜けて消えてしまいそうになるのよ。私はそれが何だか怖かったから、そうして忘れそうになるたびに無意識になった。無意識の側へ落ちていきそうになる記憶を見逃さないように、意識の“モヤ”を取っ払って、忘れないようにしてきた。それでも、多くのことを忘れてしまったと思う。忘れたこと自体、忘れているかもしれない」

 淡々と響く彼女の声。
 眉を曇らせ、目を伏せて、

「たぶん、反動だと思うのよ。私たちがあちらの世界を見るとき、意識が無意識の領域に拡張された状態にあるわ。外部から加えられた力で強引に意識の領域を広げているの。……逆を言えば、無意識が意識の領域に拡大することも考えられる。伸ばされたばねが元に戻ろうとするように、あっちの世界を見た反動で、無意識が意識を侵食し記憶を掠めていくんじゃないかって、私はそう考えてる。……もうひとつあるわ。過去の事例では、すべてが終わった後、大元が成仏した後も、しばらくは無意識への引力が残留していた。これは人を取り込むほどの力はないけれど、人の記憶を失わせる。具体的には、事件について知るものすべての事件に関連する記憶だけを無意識へ落とし込んでいく。まるで“無意識に関わるすべてのことを再び無意識に封じるみたいに”。だからあるいは、無意識世界のことを無意識の領域に、あるべきものをあるべき場所にとどめておこうとする力が内側から働いているのかもしれない」

 何にせよ、と続け、

「私にそれが起こる以上、あなた達にも起こる可能性がある。それも私のように能力を持っているのでもないから……あるいは……」
「忘れる、っていうんですか……?」
「そう。全て、忘れるかもしれない」

 こいしはうなずいて、話を終えた。
 怪物にまつわる事件は終わった。
 だが無意識にまつわる事件は、まだ終わっていないのだという。
 沈黙の帳が降りた。
 三人とも、何も喋らなかった。
 何を話せばいいのかわからなかった。
 雨の音。

「ね、ねぇそれは……」

 重たい口をどうにか開く。
 脳が麻痺したように働かない。

「本当に、本当に忘れちゃうの……? 今まで、あったことを」
「……何も、全部の記憶がなくなるわけじゃないの。ただ本来無意識の領域にあるはずだったものと、それに関係するエピソードが根元から喪失される。おそらくは、芋づる式に思い出してしまわないように」
「……そう」

 相槌を打ちながらも、その実は思考停止の状態に近かった。
 忘れる……?
 忘れるとは、なにを。
 これまであったことを。
 こいしや阿求と出会ったこと、人間を驚かせず悩んだこと、人間への好意を否定し続けて苦しんだこと、無意識の世界へ飲み込まれたこと、怪物のこと、助けに来てくれた早苗のこと、自分の気持ちを認めて振り切れたこと、先の清々しい気分も、こうして三人でいることも。

 すべて、忘れてしまうというのか。

(あ、あぁぁ……!)

 その認識が脳髄に染み渡るのには相応の時間が必要だった。
 染み渡って、恐怖した。
 恐慌と混乱に瞬く間に侵食され、雷に打たれたみたいに動けなくなる。
 彫像のように固まる小傘の眼前。
 こいしは早苗へ視線を移した。
 そして、

「……あなたには恨む権利がある」
「へ……?」
「あなたをあの世界へ連れ込んだのは私だもの。あなたは本来忘れなくてよかったことを、忘れてしまうことになるんだ。だから、あなたには……」
「……そんな、こと」
「……あるよ。私が、私が元はといえば……!」

 ずっと平静を崩さぬよう語ってきたこいしが、そこで初めて感情をあらわにする。
 泣きそうな表情だった。

「私は最初からわかってたんだ! ここで起こっていることを知っていて、誰に話すでもなく手を差し伸べるでもなくただ眺めているだけだった! 今回のことだって、私にはもっと上手いやり方があったはずだ……! こんな、こんな風な、そもそもあなたを巻き込む必要もなく、解決できたかもしれないのよっ! だから、だから……っ!」

 声が湿り気を帯びて、目尻が潤う。
 罪悪感の発露を聞きながら、小傘はぼんやりと考える。

(違う)

 そんなことはない。
 そんなことはないはずだ。
 確かに、もっと上手くやれたかもしれない。最初からすべて知っていたのなら、そのことを阿求なり慧音なりに相談すれば他の道が開けたかもしれない。

(だけど)

 小傘が口火を切るより数瞬早く、早苗が口を開いていた。

「……それだけですか?」
「え……?」
「本当に、それだけなんですか……? あなたがこの事件を通して考えていたのは、そんなことじゃなかったように思えます。私はあなたがわけもなく誰かを見捨てる人には見えません」
「……ないよ。わけなんてない。私は“ただ”助けなかった。理由なんてないのよ」
「理由がないなんて嘘です。理由は必ずあるんです。ただ、必要とされないことがあるだけで」
「……私は……わかんない……わからないのよ……私はいつだって、無自覚なの。私自身のことに、私自身の気持ちに。わからない……わからないの……」
「……なら、私も理由は要りません」
「へ……?」

 こいしが素っ頓狂な顔になる。
 早苗はやわらかく微笑み、

「許します」

 いとも容易く、言ってのけた。

「許します。私がこれから記憶を失うのだとしても、私はそれをあなたのせいだとは思わない。そもそも、私自身が“何が起こっても”と決めてやったことです。あなたが責任を感じるのは筋違いです。勘違いしないでください。私も……そしてたぶん、小傘さんも、あなたを責める気持ちなんてちっとも持ってない」

 早苗がちら、とこちらを見てくる。
 小傘は首肯して示した。

「むしろ私は感謝したいくらいなんです。あなたがいなければ、小傘さんを助けることはできなかった。こうして三人で帰ってこれることもなかった。あなたは最後の最後に、踏み出してくれたじゃないですか。それを無下にする道理はありません」
「だ、だけど……」
「……忘れるまで、どのくらいですか?」
「え……と、そ、それは……たぶん、経験則から、一ヶ月くらいで忘却が完了して……」
「……一ヶ月あれば、色んなことができる。その間にできる限りの思い出を作って、せいぜい清々しい気分で忘れてやりましょう」
「……う、うぁ……ひぅ……」

 たまらず、といった風にこいしが嗚咽を漏らす。「ごめんなさい……ごめんなさい……」誰にともなく謝りながら、手の甲で目元を拭っていた。
 何となく気まずい思いで、早苗と顔を見合わせる
 早苗は視線をさまよわせ、ふと泥まみれの各々の服に眉をひそめると、

「……このままここにいるのもなんですし、一度うちへ来てください。服を洗います」
「うちって……守矢神社? いいの……?」
「遠慮なんて今更です。こいしさんも、それで……」

 言い終わる前に、こいしは首を縦に振った。
 三人は守矢神社へ向かう。








 ※※※







 汚れきった服と体を洗い、替えの服を借り、それぞれが一息つけたのはもう日が沈もうかという頃合であった。
 三人は今、早苗の私室でめいめいの場所に座っている。

「ともあれ、一段落ってことでいいんでしょうか……?」

 微弱な風を生み出して濡れた髪を乾かしながら、早苗が言う。

「……うん。たぶん」

 自信なさげに小傘が肯んずる。その目は悄然とするこいしのほうへ向けられていた。

「……あの子は消えた。無意識側への引力も消えて、認識されなくなる怪異も収まった。それを一段落っていうなら、一段落だと思う」
「これから、どうしたらいいのかしら」

 早苗が唸る。

「一月ほど猶予期間があるとはいえ、特にやることもないし……」
「あ、そうだ。阿求のところへ行くのは……?」

 ひかえめに小傘が提案する。阿求や慧音はこの事件に一等頭を悩ませ、胸を痛めていた。なら彼女たちに真相と解決の事実を伝えて、早く安心させてあげてはどうか、と。救出された子供たちの安否も気にかかるところである。

「……そうですねぇ。でも今日は中途半端な時間ですし……明日?」
「じゃあ、またここに集まる? それか里で落ち合って……」
「いえ、服も乾いていませんし、今日は泊まっていってください。こいしさんも……えっと、大丈夫ですか?」

 泊まるかどうかを聞いたというよりは、単純にこいしの様子を気遣った風である。
 こいしはずっと元気がなく、しおれている。

(……他の誰が許しても、こいし自身がこいしを許さないのかな)

 そんなことを考えた。

「……いいの?」
「えぇ」
「……うん」

 その間にもこいしも泊まることが決まっていた。
 早苗は「諏訪子様、神奈子様に伝えてきます」と言って部屋を出て行く。
 小傘とこいし、二人だけが残された。

「……」
「……」

 会話はない。
 なんと言ったものか、いまいちわからなかった。
 ただ。

「……こいし」
「……なに?」
「ありがとね」
「へぅ……?」
「うぅん。それが言いたかっただけなの」

 それきり言葉もなく、時間だけが過ぎた。
 こいしの表情はわからないが、もぞもぞと身じろぎしている気配が伝わってくる。
 早苗が戻ってきた。

「……早苗も、ありがと」
「へ?」

 人間へ感謝するということにやはり、一瞬躊躇が過ぎったが、それだけだ。
 少し照れくさかったけれど、ちゃんとお礼を言うことができた。

(人間だからとか、関係ない。私は人間が……)

 大好きなんだ。
 そもそもあの世界へ引きずり込まれたのも、そうした人間への好意を必死に押し込め、否定していたからだった。
 恨めしいから妖怪になった面もある。だがそれだけではない。気づいて欲しかった。自分を見てもらいたかった。そのためには動かせる肉体が必要だった。その妖怪的根源を否定し続けたから、実際誰にも気づかれない場所へ行ってしまったのだ。

 素直になるんだ。
 これからの未来を、もっと素敵に生きるために。

「あ、えと、その……」

 正面から感謝されて恥ずかしかったのか早苗はあたふたと手を振っていた。

「あ、あの……あ。えと、その……私こそ途中から迷惑かけちゃいましたし……いえ、気を抜かず見張っていたつもりなんですが、ずっと見ていると段々気分が悪くなってきて、ちょうど眩暈がしたときに腕が伸びてきて、首に触れて、そこからは、もう。……そういえば、あの後何があったんですか? “アレ”は、いったいどうなって」
「……実は私もよくわかってなくて……えっと、こいし、わかんない?」
「……何度か、見たことがあるわ」

 こいしはまず早苗が気絶してからの経緯を語り、続けて、

「あの子が……成れの果てが人間を引き寄せるのは誰かに気づいて欲しいから。誰かに傍にいて欲しいから。今までにも同様の事件は何度かあった。いずれもある程度人間を引き込んで時間がたつと、そうした枯渇が満たされたからか、成仏するように消えていった。あなたが言った『傍にいる』って言葉だけでも、十分満たされたんだと思う。最初からそれだけで満たされるような、本当にささいな望みだったんだと思う。でも、それが何より難しかったの。過去の事例では、大概そうして消えるまでに相応の時間がかかっていたわ。……その間に取り込まれた人間は……」
「……死ん、だの?」

 小傘の脳裏を過ぎったのは阿求の語った怪談である。
 かつて阿求と親しかったという、寂しがり屋の女の子。
 彼女は――。

「あの子の近くにいるのは精神を汚染されるような苦痛を伴うから、長くはもたない。そうでなくとも何十日と絶食が続けば人間は死ぬしかない。精神的に発狂して死ぬか、肉体的に飢えて死ぬか……いずれにせよ、生還した人はいなかったと思う」
「そっか……」

 わかってはいたことだ。もう五年も前に失踪した子供が、今でも生きているなんて到底考えられない。
 だけど、沈鬱な声が漏れるのを抑えられない。

「……ごめんなさい」

 こいしが膝を抱えて謝る。小傘にはわけがわからない。

「……私はそのときも、これまでに幾度となく起こってきた同系の事件でも、わかってたんだ。何が起こってるか知っていた。だけどそれをどうこうしようとしなかった」
「そ、それは……でもこいしはそもそも妖怪なんだから、別に人間を助ける義務があったわけじゃないよ。そりゃ、助けるに越したことはなかったかもしれないけど……気に病んでもしかたがないわ」

 どうにか励まそうとするのだが、こいしはやはり、自分自身を許せないようにうつむいている。

(どうしたらいいんだろ……うぅぅ……誰かを元気付けるなんて初めてのことだし……どうすれば……)

 何もしてあげられない自分が情けなくて嫌になってくる。

「飲みましょう!」

 そんな空気を吹き飛ばすように。
 出し抜けに早苗が言った。
 こいしと小傘が一斉に顔を上げる。
 早苗はむふん、と胸を張り、

「こういうときは飲んで何もかも忘れるのが一番です! あ、いや、忘れるって言ってもそれはその……ともかく! やけ酒して湿っぽい気分は綺麗さっぱり洗い流すに限ります! あ、でも私酒癖悪いし……やっぱ……いやいや! いやいや! 漢女(おんな)東風谷早苗、ここで怖気づいてどうするのか……! さぁさぁ思いっきり飲みますよー! 神奈子様の秘蔵のお酒開けちゃいますよー!」

「やめてー!」とどこからともなく聞こえてきた気もするが、さもありなん。
 早苗はずかずかと二人に歩み寄り、それぞれの前に手を差し出す。
 小傘とこいしは呆然とそれを見上げていたが、やがて。
 小傘はそろそろとその手を握った。
 立ち上がる。
 こいしへもう片方の手を差し伸べる。
 こいしは目の前で起こっていることが理解できない風にぱちくりと目をしばたかせていた。

「わ、私は……」
「少なくとも私はあなたが過去に助けられなかった人たちのことについて、許すとか許さないとか言える立場にはありません。でも私たちは現在を生きられるんです。生きられるだけ生きて、楽しめるだけ楽しんで、後悔し懺悔するのは、それからだって遅くないはずです。……それに、この言い方は小ずるいかもしれませんが……あと一ヶ月で何もかも忘れてしまうなら、せめてその間は全力で、これ以上ないってくらい素敵な思い出で埋めてみたい。小傘さんやこいしさんとこうして過ごす時間は、限られています。だから――」

 それまでは、憂鬱なんかに沈まずに。
 今日を明日を、謳歌できれば。
 そう言って早苗は笑った。
 こいしが泣きそうな顔をくしゃくしゃにゆがめて、困ったように笑う。
 あの平坦だったり暗鬱だったり薄暗かったりする笑みではなく、純真な。
 心のままに笑っている。
 逡巡するように、伸ばされた二人の手を見ている。
 ぴく、と指の先が震え、そろそろと、そろそろと持ち上がっていく。
 こいしの手が、早苗の手に乗せられた。
 続いて、小傘の手に。
 ひんやりして、すべすべの、初めて握る感触だ。

「飲むぞー!」
「おー!」

 早苗の掛け声に答えながら、小傘はひそかに確信していた。

 あぁ、きっと。
 きっと忘れられない一ヶ月になる。
 最後には忘れてしまうのだとしても、それでも。

(今、私は、このときは)

 疑いもなく、幸せだから。









 ※※※









 秋の夜長は、あっという間に過ぎ去った。



「一番早苗、脱ぎまーす!」
「早苗、落ち着いて! まだちょっとしか飲んでない!」
「あははー、実はこっそり度数の高いやつと摩り替えておいた」
「なんで!?」
「え、何となく」
「二番早苗、踊ります!」
「早苗も踊ってる場合じゃないから! あ、いや、だから、脱いじゃ駄目ー! 色々と見えてる! 見えてる! あ、結構大きいんだ……私より……私……小さい……」
「踊る阿呆に見る阿呆! 同じ阿呆なら……えっと、なんでしたっけ?」
「おどれら葬送?」
「唐突に葬った!?」
「馬鹿は死ねってことなんじゃないかしら。世知辛いねぇ」
「文明が進めば高学歴社会化するのは避けられませんから……誰にも雇ってもらえず社会の中に居場所を見つけることもできず孤独死するのであれば葬送されるのも遅れることでしょう」
「え、なに、なんの話?」
「粗相があったら早々に謝るのが得策ということでしょうか。一度社会的に死ぬと中々元のレールには戻れないそうですよ。私はぴちぴちの学生さんでしたのであまり関係のない話でしたが」
「外の世界こわいなぁ」
「こいしさんなら大丈夫ですよ。二割くらい」
「あと八割で死ぬの?」
「十割で死にますよ?」
「死なないのは蓬莱人くらいだものねぇ。で、あと八割で死ぬの?」
「大丈夫じゃないことになります」
「外の世界こわい」
「身元不明な人には何かと生きにくい場所でしょうから……外は物質的に自由な代わりに精神的に不自由しやすい世界でした。まず国内では神様を信じてる人が圧倒的少数派なんですから大変です。神様が見えるというと変な目で見られますし」
「あら、外の人たちには見えないんだっけ?」
「私にはいまいち理解できない感覚なんですけどねぇ」
「こういうことね」
「わっ」
「あれ、こいし、消えた?」
「そこにいるのに、見えない。私の能力が常時発動しているようなものかしら?」
「あ、出てきた」
「こいしさん、こいしさん」
「んー?」
「一発芸してください」
「無茶振り!? そういえば早苗、酔ってるんだった……! こいし、どうす……え」
「ん?」
「いや、第三の目のコードがすごいことに……あ、え、なんか、伸びてない? それ伸縮自在だったの? なんで自分ぐるぐる巻きにしてるの?」
「秘技『自縄自縛』!」
「えー」
「あははははっ」
「なぜか受けた!?」
「小傘さん、まだまだですねぇ。あれは秘技と疑いをかけられる被疑とをかけた高度な……」
「やめたげて! ギャグを解説されるほどつらいことはないから!」
「そうそう、被疑者としてふんじばられてるっていうシチュエーションを……」
「こっちもだったー!?」
「小傘さん、突っ込みにキレがありませんよ。もっとうぃっとに富んだ武器がなければお笑いの世界ではやっては……」
「誰も漫才はやってないよ!」
「えっ?」
「えっ?」
「えっ?」
「二番こいし、脱ぎまーす!」
「今の何だったの!? というかこいしまで脱がないで! 被服民族が少数派なんてあっちゃいけない……!」
「裸の付き合い」
「それはなんか違う気がする!」
「大丈夫。馬鹿には見えない服を着てるから」
「私そんなに馬鹿じゃないわよ!」
「定番の王様ゲームをしよう」
「こんなに王様になりたくない王様ゲームなんて……!」
「同じ阿呆ならおどれら葬送。王様の命令よ。馬鹿は死ね」
「盛大に自殺した!」
「げふっ」
「早苗が倒れた!」
「こ、こんな……まさか私は馬鹿だったというのですか……」
「いきなり脱いじゃう人は……ちょっと……」
「それこいしが言えることなの!?」
「私は慎み深いのよ。人前で脱ぐときは必ず無意識になって誰にも見られないように脱ぐわ。誰にも見られないように脱ぐならば、それは家で着替えるときに一時的に服を脱ぐのと何ら変わりない行為。そうは思わない?」
「無意識で脱いで、何をするの……?」
「ふふ……今日はいい天気ね」
「ろ、露骨に逸らされた……確かにさっき見たときは雲も減っていい天気だったけど……ここからじゃ外の様子見えないよ」
「明日も晴れるといいわね」
「う、うーん……? 晴れるといいのはそうだけど……」
「ずっと、雨だったじゃない」
「?」
「あっちの世界ではずっと雨だった。だから、雨がやんだのを見ると、なんだか、あぁ終わったんだなぁって」
「……うん」
「それはそうとしてあなたには脱いでもらって」
「なんで!?」
「脱ぐのが阿呆の所業なら、踊る阿呆に脱ぐ阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損。あなたも私も馬鹿になる」
「その理屈はおかしいと思う。でも、そうね」



 馬鹿騒ぎをする三人を、晩秋の夜気だけが包んでいた。
 そんな空気に焼きの回ったものか、小傘も度数の高い酒を一息に飲み干してみせる。
 そこから先は、覚えていない。








 ※※※









 翌日。
 三人は早朝服を着替え、人里の稗田邸へと向かった。
 三人の訪問を予期していたものか、阿求はそれほど驚くこともなく、ただこいしのことだけは不思議そうに見つめていた。二人はこのとき、初対面である。

「それでいったい、その……何が起こって……」

 部屋へと通された後、阿求は開口一番そう聞いてきた。
 三人は代わる代わる知っている情報と顛末を伝え、阿求がすべてを諒解するには半刻ほどの時間を要した。
 阿求は聞かされた真相に諸々思うところもあったようだが、

「……なるほど。わかりました。今聞いたことは、後で慧音さんにも伝えておきましょう。彼女もまた、気が気ではない様子でしたから」

 それをおもてには出さず、そう請け合った。
 このあと三人は逆に阿求に問うた。昨日送り届けられた三人の子供は無事であるのかと。
 阿求はこれに快調に答える。

「ええ。あの後医者の下に運び込まれた子供たちは……特に最初に失踪した女の子などは危険な状態でしたが、山は越えました。命に別状はありません。元々飢餓による衰弱ですから、よく栄養を取って休んでいれば後遺症もなく元の生活に戻れるでしょう。ただ……」

 物憂げにため息をつき、

「その子供たちも、あなたたちがいずれそうなるように……きっと、そこで起こったことを忘れてしまうのでしょうね……いえ、それ自体は喜ぶべきことなのです。そんな奇怪で脅威的な世界があることなど、子供が知っていいことはありません。そこでの経験も、あなたたちの話を聞く限り心的外傷(トラウマ)になりかねないようなものです。忘れてしまったほうが便がいい。ただ……」

 ただ、やはり過去が知らず失われるということが悲しいのだと阿求は語った。

「……誰もが忘れるわけではない……はずです」

 早苗が励ますように言った。
 阿求は弱々しく笑って、

「そうですね。少なくとも、私が忘れることは……ない、んでしょうか。自信がないんです。私はすでに、一度忘れていますから」
「忘れて……?」
「他ならぬあなたのことです。小傘さん。私はほんの一時でしたが、あなたと過去に会ったことを忘れてしまった」
「それは、彼女のことだけだった?」

 不意にこいしが聞いた。
 目をしばたかせる阿求。
 おとがいに指先をあて、しばし記憶の海をたどるような間隙。

「……そうだったはずです。他の失踪した子供たちや、五年前の被害者などのこともしっかり覚えていました」
「それなら、たぶんもう忘れないわ」
「……? 断言する、根拠は?」
「彼女の心理的矛盾が消えたから」
「矛盾?」

 こいしから向けられた視線に、困惑する小傘。

「矛盾って? 確かに傘は矛と盾の両方の形を兼ね備えて見えるけど……」
「小傘さん。ここはボケる場面じゃないですよ」
「いや、でも、矛盾って言われても……」

 そこでひとつ、思い当たる。
 小傘はこいしの耳元に口を寄せて、ひそひそと、

「もしかして、私の……その……人間への好意を、その、それを自覚しなかった、あれ?」

 こいしは首肯して、阿求のほうへ向き直る。

「彼女は元々人間に好意的な気持ちを持っていたけど、それをひた隠しにしてきた。自分自身にさえ。つまり……」
「わ、わー! わー! 言わないでー!」

 早苗の方を気にしながら顔を真っ赤にした小傘が止めに入る。
 こいしは生暖かい目を向け、

「今更よ」
「理由になってないよ!?」
「ふむ」

 こいしはそそ、と阿求の傍へ寄り、小声で耳打ちする。

「ともかく、そういう人間への好意……もっと言えば“気づいて欲しい”“忘れないで欲しい”っていう気持ちを強く否定していたの。それは彼女の妖怪的根源の片端でもあったのに。ただでさえ存在を矛盾させた妖怪はあっちの世界に近い位置にあるというのに。それで妖怪でありながらあっちへ引き込まれてしまった。他の被害者と違うのは他者からの“認識”を求める心を頑なに否定していたこと。そのぶん他の被害者よりあっちの世界に深く入り込んでいた。それで、忘れてしまったんだと思う。逆に言えば今の彼女なら忘れる余地はない」
「……そういうものですか」
「たぶんねー」
「…………」
「こ、このジト目は……!」

 こいしが驚愕に身を跳ねさせる。

「この凍りつくようなジト目……お姉ちゃんのものに勝るとも劣らない……ご褒美……!」
「……こほん。話を続けますよ」
「はーい」

 無邪気そうに笑うこいし。
 それを見て、小傘はほっと息をつく。

(よかった……元気そう。昨日のことがあるから、やっぱりまだどこか落ち込んでるんじゃないかって思ってたけど……この様子なら、大丈夫かな)

 早苗の方を見ると、彼女も似たようなことを考えているようだった。
 いたずらっ子のように、お互い目配せして笑いあう。
 それから。

「そうですね。では私だけは覚えていましょう。何があっても、忘れません。……これから、あなたたちはどうするつもりですか? 忘却を喫するその日まで」
「うーん……まぁ、山なりに」
「そんなものですか」
「そういうものよ」

 そういうことになった。
 伝えることは伝え、聞くことは聞いた。その後もしばらく漫談していたが、「そろそろ帰りますか……?」と早苗が提案する。小傘はこいしをうかがった。

「私はまだ少し用があるから、二人は先に帰ってて」
「……用?」
「大したことじゃないの。私用だから、気にしないで」
「そう……ですか?」
「うんうん」

 小傘、早苗はいぶかしみつつも帰路に着く。
 向かう先は守矢神社、小傘、こいしはもう一日ほど泊まる予定になっていた。

「……なんだったんでしょう」

 妖怪の山上空を飛びながら、早苗。

「さぁ……こいしの考えてることはよくわからないし」
「……大丈夫でしょうか」
「うぅん……滅多ことはないと思うけど……それより私は、どっちかというと」
「?」
「いや、さっき思ったんだけど、こいしが私を名前で呼んだことなかったなぁって」
「そうでしたっけ? ……あー、そういえば、確かに。だいたい『あなた』とか『彼女』って言ってましたね」
「う……嫌われてる……?」
「そんなことはないと思いますけど……こいしさんは対人関係に慎重、って感じはしますね。ここの住人としては珍しいです。霊夢さんとか魔理沙さんみたいに明け透けな方がほとんどですからねー。現代っ子の私としてはむしろこいしさんみたいなほうが自然に感じるくらいですが……」
「早苗は早苗で破天荒じゃない」
「えー?」
「昨日だって、脱いでたし……」
「えっ?」
「えっ? お酒飲んで、酩酊して、脱いでたよ?」
「……嘘?」
「酒癖ほんとに悪いわねぇ。記憶まで飛んで……」
「え、え……? あれ……あ……え……?」
「早苗?」

 様子がおかしい。
 早苗は飛び進むのをやめて、滞空している。
 愕然と、目を見張って、信じられぬものを中空に見るように。

「さ、早苗?」

 尋常ではない。
 小傘もまた薄ら寒いものを感じ――

「私、本当に脱いでいたんですか……?」

 ひゅうひゅうと木枯らしが吹く。
 どこか嘘っぽい、空虚な響き。

「そんな……以前酔っ払って脱いだときも……その前も……今まで一度だって……」

 早苗はうわ言のように繰り返す。


「私、酔って記憶が飛んだことなんて……ない、のに」


 呟く声は、寒さではない何かによって、震えている。










 ※※※









 同じ頃。
 稗田邸に残ったこいしと阿求は向かい合って座っていた。
 先までとは違い、厳然とした、どこか張り詰めた空気である。
 その発生源は古明地こいし、彼女がかたく強張った顔でいることだ。

「あ、あの」

 当惑あらわに阿求が言う。

「どうしたんですか……? 私用とは、いったい」

 こいしはゆっくりと深呼吸した。
 阿求の瞳をしっかりと見据え、

「……ごめんなさいっ……!」

 突如、頭を深く下げて謝った。
 阿求はもう、思考を放棄するくらいしかない。

「あの、突然謝られても、何がなにやら」
「五年前」

 びくっ、と阿求の肩が震える。
 なぜそれを、という目がこいしを射抜く。

「五年前、あなたの幼い友達が失踪した」
「……それ、は……小傘さんから、聞いたんですか……?」
「あなたが話しているのを聞いたのよ。以前、ここで彼女に日がな怪談を語っていたことがあったでしょう?」
「……えぇ」

 訝しげにうなずく阿求。

「そのとき私は、すぐそこにいたわ」

 あっけらかんと言ってのけるこいしだったが、阿求は大きく目を見張る。

「なっ……!」
「お饅頭ひとつ摘み食いしたのも私。御代はあれで足りてたのかしら」
「ま、待ってください! どういうことですか。あのときは、確かに私と小傘さんしかいなかったはずです。いくらなんでも、一日中気づかなかったなんてこと……」
「それは、私の能力によるものよ」

 簡単に無意識を操る程度の能力について解説するこいし。
 阿求は愕然とした面持ちで、

「……場合によっては、心を読まれるよりたちが悪い能力な気がします」
「ともかく、私はあなたの語る怪談を聞いていたわ」

 そこで、緊張を抑えるように小さく息を吸い、

「……私は、知っていた」
「なにを……」
「あなたの友達だったという小さな女の子、五年前に失踪してしまった女の子のことを」
「……!」

 阿求は再度驚愕をあらわにする。
 彼女の口から幾つもの疑問が飛び出てくるより早く、こいしが続ける。

「……ずっと見ていたの。その子が無意識の世界へ引きずり込まれ、誰からも認識されなくなり、泣いたり、悲しんだり、苦しんだりするところを。別に監視してたってわけじゃないわ。でも何度かその姿を見かけることがあった。私はそのたびに気にかかったけど、結局それを助けようとしなかった。だから……」

 それを謝りたいのだと、こいしは言った。
 阿求は、しばし忘我のていをさらしていたが、

「……いまいち、わかりません。あなたがなぜ謝るのか。……それは、今の話を聞いて私にもまったく思うところがないわけではない。助けられたなら助けてやってくれたってよかったじゃないか、と思ってしまう。しかしあなたには助ける義理も義務もなかったはずです」
「あはは……それは早苗たちにも言われたんだけど」
「……妙な妖怪ですね。律儀すぎます。だいたい、なぜ今更になって」
「それが私にもよくわからないんだ。ただ、何となくそうしなきゃって思って……うぅん。そうしたいって気がして」
「……そんなこと言ったって、私にどうしろと言うんです」
「何かを求めてるわけじゃないの。ただ、聞いて欲しかった」
「……そうですか」
「……うん」

 沈黙が降りた。
 その空白を満たすように阿求がお茶を啜る。こいしは所在なさげにしていた。こいしは言おうとしていたことをすべて言ってしまった後だし、阿求も答える言葉を持たなかった。
 無言のままに時間が過ぎる。

「……そろそろ、私も、帰るよ」

 こいしが立ち上がる。
 阿求のほうをちらちらとうかがいつつも、部屋を、しいては屋敷を出て行こうとする。
 阿求はそれをじっと見つめるばかりであったが――

「こいしさん」

 去り際、ぽつり、ひとつだけ聞いた。

「もし今のあなたの前に泣いてる誰かがいて、あなたしか助けられなくて、あなたに助けることができるかもしれないのなら……」


 どうしますか? と。


「……助ける。きっと」
「そうですか」

 阿求は「なら、それは、いいんです」と言って、ほのかに笑った。
 もう問答は残っていなかった。
 こいしは稗田邸を後にし、守矢神社へ向かう。







 ※※※
 






 守矢神社への道中、こいしはぼんやりと考える。

(私は私のことがよくわからない)

 心を閉じて幾星霜、己に無自覚に生き続けた日々の中で、自分の心の揺れ動きというものがさっぱりわからなくなっていった。自分がどういう感情でいるのかはわかる。だが、それがなぜそうなのかわからない。今まではそれで問題なかった。他人に不干渉であろうと自分に無関心であろうと、誰とも関わることのない暮らしに瑕疵を付けうるものではない。
 それが徐々に変わりだしたのはいつのことだったろう。
 はっきりと思い出せる変化の起源――それは地上との交流が再開したあの異変後、神社で不思議な巫女や魔法使いと戦ったときだ。世の中にはこんなに面白い人間がいるのかと感心して、関心した。いったい、あれはどのようなことを考えて生きているのだろうと単純な興味が湧いた。何十年ぶり、何百年ぶりの欲求であった。ぴくりともしなかった第三の目がむずむずと動いたのを覚えている。当時は何だかかゆいな、程度にしか思っていなかったが――。

 それからさらに、いくばくかの時間がたった。
 明確な線引きはないが、いつからか“意識”的な行動をすることが多くなった。これまでほとんど一日中無意識で過ごしていたのが、段々と自分の行動や感情に自覚的になった。それでも大概は一人で過ごしていたから、自然と考えることが多くなった。これまで気にも止めていなかった色んなことを思い出した。無意識に放浪する中で見聞きした様々のこと、今まで単なる事実の羅列でしかなかったそれに、改めて印象という名の絵の具を塗りたくっていくような感覚である。
 その中に、五年前のあの事件があった。
 今まで何とも思っていなかったのに、改めてその出来事を見直してみるとひどく悲しい気分になった。
 声が、女の子の声が。
 夢に出てきてさいなむのだ。
 助けを求めていた声が、どうして助けてくれなかったとうそぶくのだ。
 その夢の中で、女の子は延々と泣いていた。
 女の子を泣かせた張本人である無意識の怪物もまた、ありもしない目から涙をこぼしていた。

 それらの悪夢が罪悪感という名前を持っていることを、このときはまだ知らず――

 その矢先のことである。
 多々良小傘を見つけたのは。
 さかのぼること約二週間。里で人間にお決まりの文句と共に突っかかっていく彼女を見た。まともに相手されていないのは明白だったが、それでもめげずに何度も何度も人間に声をかける。変な子だな、と思った。気になって、後をつけてみた。
 小傘は人前では元気で闊達な姿を見せた。
 だが一人になると、時折物悲しそうな表情を見せるのだった。
 よくわからない妖怪だな、と考えた。
 ただ、なんだか放っておけなかった。
 姿をさらす意気地がなくて、隠伏したまま話しかける。それを三日ほど続けた。四日目にようやく勇気を振り絞り、姿を見せて会話した。その勢いのままに地霊殿へ招待し――

(……そうして、こうなった)

 早い段階から小傘には何か危ういものを、嫌な予兆を感じていたが、確信というほど強くはなかった。そのうちに小傘は無意識の世界へ引きずり込まれてしまった。
 そのことに気づいたとき、妖怪の山山中でもがき苦しむ彼女の姿を見たとき。
 足を踏み出せなかった。
 五年前、苦しむ女の子をただ見るだけだったときのように。
 それ以上の距離へ踏み込むことが、誰かを助けるということが。

(……そうだ。私は怖かったんだ)

 嫌われ者の自分なんかに手を差し伸べられて嬉しいものか。
 自分なんかに、救えるものか。
 助けようと足を踏み出すのは、必要以上に距離を縮めることに思えた。そして歩み寄ったその先、いつか拒絶されてしまったら二度と立ち直れない気がしていた。固まったように動けずにいるうちに、小傘は意識を失った。
 その後になってようやく、硬直から解放される。
 小傘はあちこち泥だらけでひどい有り様だった。
 こいしはそろそろと近づいた。ほとんど無意識の所作で、ハンカチを取り出して、その顔をふき取ろうとした。ハンカチはすぐに泥まみれになった。それでも、小傘の白磁の肌は茶色い泥濘の下に隠れてしまっている。せめて顔だけでも綺麗にしてあげたいような、そんな衝動に突き動かされるまま拭き続けたが、駄目だった。ハンカチの全面が泥で汚れきったとき、感情のうねりが来た。

 なにをやっているんだろう。
 こんなことして、何の意味があるのだろう。
 最初から、彼女が伸ばした手を握ってやればよかったのに。
 気絶してから、手遅れになってから、ようやく着手したのが泥を拭うことだなんてひどいお笑い種じゃあないか。

 居ても立ってもいられず、その場を飛び出す。
 逃れるように、遠くへ、遠くへ。
 全力で飛び続けた反動で、里のあたりで力尽きる。
 地面に落ちて、座り込み、もうどうしようもない気分になって膝を抱える。

(それで、早苗と会ったんだ)

 早苗に勇気付けられて、無意識の怪物と対面し、そして帰ってきた。
 その先に今が、一ヶ月という猶予がある。

(だから――)

 顔を上げると、守矢神社はもうすぐそこだった。
 そ、と目を伏せ目蓋に思い描くはそこに待つ二人。

(私はひどいことをしたのに、私はひどいやつだったのに、彼女たちは許してくれた。何でもないことのように笑ってくれた。彼女達だけじゃない。怪談の人だって、怒るんじゃなくて、拒絶するんじゃなくて、ただ私の話を受け止めてくれた。……変な、気分だわ)

 ぽかぽかする。
 ふわふわする。
 お菓子の雲に乗って空を漂っているような、ハチミツで満たされた湖をぷかぷかと泳いでいるような。
 今なら何だってできる気がする。今なら何だって耐えられる気がする。
 そんな軽妙で心強い気分。
 こいしは守矢神社の境内へ降り立った。
 小傘たちの姿を探してあちこちをうろつき、昨夜泊まったあの部屋にいるのを発見する。

「あ、二人とも――」

 覚えずかすかな笑みを浮かべながら、こいしは部屋へと足を踏み入れ――

「こいしさん」

 早苗の固く強張った声色に言葉が詰まる。
 小傘は何事か考え込んでいる風に眉を寄せ、早苗は静かにこいしを見つめている。
 嫌な、予感がした。


「……始まったかもしれません」


 早苗は言う。
 いずれ失われる楽園をそうと知りながら眺めるような、歯がゆそうな、口惜しそうな、それでいて内心の覚悟が滲み出すような声で。
 告げる。


「……正直、こんなに早いとは思いませんでした。私の記憶の一部に欠損らしきものが見られます。もしこれが無意識のことに端緒を発するものなら……もうすでに、忘却が始まっている」


 夢から醒めるみたいだった。
 浮ついた気分が消し飛んだ。
 しっかりと掴んでいたものがぽろぽろと剥がれ落ちていくような感覚。
 事実、翌日より事態は悪化の一途をたどる。










 ※※※










 次の日、無意識の側から帰還して三日目、誰からともなく言い出した「幻想郷のあちこちを回ろう」という提案のもと、三人は博麗神社を訪れた。

「ん……? 珍しい取り合わせね。雪でも降るのかしら。槍でも降るのかしら」

 とは博麗霊夢の言であるが、

「槍が降るのは戦争の冬。雪が降るにはまだ早すぎる。相変わらず博麗の巫女は季節感がないねぇ。一年中脇の開いた服を着ているからかしら?」

 とこいし。

「そんなこと言ってると、弾幕の雨を降らせるよ」

 などと霊夢は呆れたが、来るものは拒まぬのが彼女の常であり魅力である。昼頃には魔理沙やアリスも訪れ、神社はいつものごとく賑わった。こいしは初対面のアリスを見て少し居心地悪そうにしていたが、物腰柔らかな彼女に次第に打ち解けていった。
 印象的だったのは、

「しっかし……ふむ。巫女の周りには妖怪が集まってくるものなのか?」

 早苗のほうを見て魔理沙が言う。

「そうですねぇ。ここにいる全員、妖怪みたいな方ですし」
「おいこら」
「魔法の森に住めるのは、変人奇人と人外だけよ」

 アリスが追従した。

「きじんだぜ。貴い人だぜ。そもそもアリス、それだとお前は変人ということになる」
「私は人外だもの。ノーカウントよ」
「変なやつはみんな、自分が変じゃないと言い張るよな」
「そうだったんだ。知らなかったわ。普通の魔法使いさん」
「……前にもこんな切り返しをされたよーな……私は普通の変わった魔法使いだぜ」
「変人じゃない」
「いやいや。変じゃないやつほど自分を変と言い張るんだ。だから私は変じゃない。あれ?」
「変人ねぇ」

 からからとアリスは笑った。
 それを見てこいしは、「仲がいいなー」などと思ったものである。魔法使いの二人は隔たりがないというか、至極自然な距離で話しているよう思えた。その仲睦まじきをうらやむに、ふと、

(私は……やっぱり壁を作ってるんでしょうね)

 そんな気がした。
 特に小傘に対して、こいしは名前で呼んだことがない。
 それはあの大雨の晩、見ているしかできなかったことを悔ゆる慙愧のあればこそ。
 だが、もしも。
 もしももっと、仲良くなれたなら。

(……怖いな。怖いよ。他人の心に近づきすぎていいことなんてない。いいことなんてなかった。肌の触れ合わない距離で、その心中に踏み込まないように、そうして飄々と漂々と生きるのが私なりの処世術であったはず。だけど……)

 むずむずと胸の辺りがかゆくなった。
 見下ろして、ぎょっとする。
 第三の目がひくひくと小さく痙攣していたのであった。

(あぁ、私の無意識は望んでいる――)

 夕暮れ時、各々帰り支度を始めたときのことである。
 魔理沙もアリスも帰ってしまい、夕飯の準備があるからと早苗も一足先に神社を出た。

「あんたらは帰らないの?」

 霊夢から向けられる純粋な疑問。

「……うん。もうちょっと」

 誤魔化すように笑った。まだ決心がつかなかった。煩雑な思考が脳裏をめぐり、すべての整理をつけたのは日の沈もうかという時間であった。
 こいしが立ち上がり、帰宅の旨を伝えると「私も」といって小傘も付いてきた。
 神社の境内、その石畳を二人して並んで歩く。
 細長く伸びた影が、内心の不安を映すようにゆらゆらと揺れていた。

「……明日は、どうしようか」

 何気ない会話。

「うーん……幻想郷は広いもの。まだ色々と行ってない場所があるし……紅魔館とか? あ、でも、あそこは恐ろしい吸血鬼がいるって噂が……」
「前に無意識で訪れたことがあるけど、どっちかっていうと愉快な場所だったよ?」
「愉快……?」
「あー、あれは、なんていうのかなー」

 筆舌にしがたいギャグ空間である。
 当主も、メイドも、魔女も、門番もどこか抜けていて日常的にコントのような出来事が繰り広げられているのであった。
 こいしは説明を諦め、代わりに、

「ねぇ」

 とか細い声を出した。小傘が不思議そうにこちらを見て、こてんと首をかしげる。

「なに?」
「うん……その……えっと……。……こ、こがっ……」
「こが?」
「こがっ……こっ……こ、小傘……ちゃん」

 言えた。
 言った。
 言ってしまった。
 こいしはびくびくと小傘の表情をうかがう。小傘はぽかんと口を開いていて、傍目にも驚いていると一目でわかる。どきどきと心臓の音がうるさい。顔が激烈に火照って、夕日が見守っていてくれなかったらひどい有り様だったろうなと考えた。

「……えっと、うん」

 何に対してかうなずく、小傘。
 夕焼けが後光のように彼女を照らしていた。
 明るく儚い茜色の色彩の中、日の影になって見えづらい表情は、それでも確かに笑っているように見えたのだ。
 心底、ほっとした。
 こんな些細なことに緊張する自分が馬鹿馬鹿しく思えるし、それでもやり遂げたことが誇らしく、喜ばしい。己が対人関係についてすっかり心を閉ざしてしまっていたことを、このとき初めて、実感として自覚する。

「……行こ」
「うん」

 二人は笑いながら帰路についた。
 話はあちこちに飛び回り、二人が最初に出会ったときへ。

「そうそう、誰の姿も見えないのに声だけ聞こえてくるから怖くなっちゃって……」
「あははは……あれは中々対面する度胸が出なくて……」
「それで確か、初めて姿を見せたとき、こいしはこう言ったのよね。……」
「小傘ちゃん?」
「………………う、うぅん。何でもない」
「……もしかして」
「ち、違うわ。ただちょっと度忘れしちゃっただけ。もう結構前のことだから、覚えてなくても不思議じゃないよ。そんなことより――」

 幻想郷は、全世界的に黄昏だった。
 暮れない夕日の紅の色、須臾を永遠に閉じ込めるように、先のことなど考えず、今このときを生きたかった。
 それでも夕日はいつかは沈む。
 終焉は、必ずやってくる。







 ※※※










 四日目。三人は紅魔館へ向かった。吸血鬼は思ったほど怖い人柄ではないようだった。こいしと吸血鬼の妹が意気投合したり、魔理沙が乗り込んできててんやわんやしたり、最後には謎の爆発で館の一部が吹き飛んだりしたが、おおむねいつもどおりである。

 五日目。三人は白玉楼へ向かった。幽霊を管理する亡霊嬢は何とも掴み所のない御仁で、従者の少女がしきりに振り回されているのが印象的だった。文句を言いつつ何だかんだ楽しそうである。途中、突然の来客もあった。虚空にできた間隙からぬぅ、と現れたのは金色の髪の麗人であったが、三人に面識はない。
 ただ、話に聞いたことがある。
 妖怪の賢者、スキマに潜むもの、とてつもない力を持った大妖がいると。

 胡散臭い笑みを浮かべてはいたが、どうやら亡霊嬢とは仲がいいようで親しげに四方山の話をしている。何気ない質問だった。話の流れの中で、亡霊嬢がぽつりと聞いた。

「幻想郷は、平和?」
「えぇ、おおむね平和よ」

 このやり取りにこいしは目ざとく違和感を覚える。
 まるで金髪の女性……八雲紫がこの幻想郷の秩序の平定をなしているような……一概にそうとは言えぬものの、何らかの関わりを持っているような口ぶりである。
 だからこいしはこれもまた、何気なく尋ねた。

「何か起こったら、わかるの?」
「えぇ。私はスキマを介して遠く離れた場所の映像を見ることができる。監視……とまでプライベートを侵すつもりはないけれど、例えば諍いのしょっちゅう起きる場所や危険な区域は常時見張れるようにしているわ。それで何か大変なことがあったら、それとなく事態が好転するよう働きかけることもある。あ、この話は内緒よ? そうやって手を加えるのは本当に稀なことだし、何より自分が遠くから見られているかもしれないなんて思ったら、不気味でしょ? いたずらに不安をかきたてたくはないわ」
「里で、失踪事件が起こったの」

 こいしが言うと、紫はややも目を見張り、

「知ってるの?」
「あなたこそ、知ってるの?」
「……そうね。そういうことが起きてるのはわかってた。何人もの子供が忽然と姿を消した事件よね。ただ……幻想郷全体に深刻な影響を及ぼすこと、“異変”でない限り極力私のような大妖怪は動かない方がいいの。できる限り幻想郷の住人が自力で問題を解決してくれるのが望ましい。今回のことは霊夢……博麗の巫女も動かなかった以上、異変と呼ぶべきものではないわ。だから私も静観していた。……それ以前に、いまいち私にはこの事件の外殻も見えていなかったのだけれど。失踪する理由も謎だし、失踪した行方もわからなかった」
「……あなたほどの妖怪でも、やっぱり“そう”なのね」
「うん? ……何か知ってるわね」
「あなたの境界を操る程度の能力って、どれくらい万能?」
「うーん……そうねぇ。どんなに離れているところにでも一瞬で行けるし、複雑な論理結界を作ることも難しくない。ただ時間を移動したり因果を断ち切ったりはできないし……総じて自分の認識できる範囲でならだいたい何でもできるってところかしら」
「……そう」

 それはつまり、“認識外”である無意識の領域について彼女は無力ということである。
 境界を作るためには分け隔てられる二つのものを理解していなければならない。
 人間と妖怪の境界を引くならば“人間”と“妖怪”の厳密な定義を知らなくてはならない。朝と夜の境界を引くならば“朝”と“夜”を十全に理解していなくてはならない。これは能力の構造的な問題であった。意識と無意識の間に境界を引くならば、“意識”も“無意識”も知悉する必要がある。しかし無意識は知れないゆえに無意識である。彼女は意識と無意識の境界を永久に定めることができぬ。

「……さぁ、吐いてもらいましょうか。あなたの知っていることを」

 紫は虚偽も緘黙も許さぬ峻烈な瞳でこいしを射抜いた。
 こいしはやむなく、事のあらましを語る。
 最初紫は大層驚いた様子であったが、話が無意識の怪物におよぶにつれ、次第に眉が曇っていった。聞き終わる頃には当初の威厳や不気味さなどすっかり消え去った顔で、

「……そう」

 と悲しげに呟いた。「無意識には……私たちの知ることのできない場所には、いるのね。こぼれ落ちてしまった妖怪たちが……いるのね。ありがとう。その話を聞けてよかったわ。……急用が、できた」紫はスキマを開くと、来たとき同様急激にいなくなってしまう。幽々子は「あらあら」などと笑うのだが、あとの三人……と妖夢は何とも言えない顔を見合わせていた。

 五日目はこうして過ぎ去る。

 六日目。三人は永遠亭を訪れた。
 七日目。三人は地霊殿にお邪魔した。
 八日目。三人は命蓮寺の門戸を叩いた。
 九日目、十日目、十一日目。時間はあっという間に過ぎていく。色んな場所を見た。色んな景色を見た。色んな人と話した。こいしは幻想郷がこんなに広いことを知った。自分の知らない世界がまだまだあるのだと痛感する。そして、その思い出がやがて共有できなくなることを思って、泣いた。

 十五日目のことである。
 小傘が何やらひらめいたというので、こいしは彼女と里の稗田邸を訪れていた。早苗は神社の用事があるとかで不在である。

「……それで、話とは」

 阿求はきょとんと可愛らしく首をかしげる。小傘はむふん、と自信ありげに胸を張り、

「祭りを開こう」

 と言った。

「祭り、ですか」
「祭りよ祭り。私の灰色の脳細胞が祭りを開くべきという託宣を下したわ」
「託宣は自分で自分に下すものじゃないですよ」
「そうね……その名も……えっと、まだ名前は決まってないけど……ともかく! お祭りを開くの。一回だけじゃなくて、何回も。定例行事としてこの里に定着させるの」
「……どんな、祭りを?」
「……ずっと、考えてたの」

 小傘がふざけた口調を改める。

「あの子は……無意識世界の“成れの果て”は、悲しいよ。誰からも忘れられて、誰からも必要とされなくなって、独りぼっちで苦しみ続けて、その果てに大好きだったはずの人間を取り殺す怪異となってしまう。私たちは無事帰ってこれたし、今回の“あの子”は早めに成仏できた。でも、これからは? 今回でこの怪異が終わるとは思えない。これからも人々の記憶から記録から失われた妖怪は形をなくして、またあの畸形になる。そうして何度も何度も繰り返される。その苦悶の連鎖を、私は終わらせたい」

 だから、祭りを開こうと小傘は言う。

「ほんの少しでいいんだ。ほんの少し、人間たちが自分を見てくれれば……うぅん。それさえ望んではいない。彼らはただ、弔って欲しいだけなの。自分の最後を、看取って欲しいだけなんだ。見送って欲しいだけなんだ。……私が、私自身が、きっと同じ境遇に落ちたら、そう考えると思うから」
「……では、祭りとは……」
「あの子たちを弔う祭り。誰からも忘れられてしまった妖怪を……死んでしまった妖怪を……みんなで弔って、送り出してあげる祭り。具体的にどうするかはまだ決まってないんだけど……その、駄目かな?」

 不安げな小傘に、阿求は微笑みかける。

「……いえ。素晴らしい考えだと思いますよ。そう、不安がることはありません。……私も、考えていました。どうしたらこんな悲惨な事件を、止められるかって。もう二度と起こらないようにできるかって。慧音さんも同じ考えです。彼女はまだ事件に関して精度の高い記憶を保持できているようですし……それに、実は先日紫さんが……えっと、妖怪の賢者の一人が訪れまして、どこで知ったのかこの事件について語って行きました。『かなう限りの尽力をする。再発防止の妙案があれば聞かせて欲しい』と。私と、慧音さん、妖怪の賢者まで味方にいるならやってやれないことはありません。祭りは、開けます」
「……そう」

 嬉しそうに小傘ははにかんだ。
 この後、慧音が稗田邸に呼ばれ、近く行われる祭りについて細部を煮詰めていった。小傘やこいしも手伝った。土台は阿求と慧音が整え、それが実際無意識の怪物にとって意味あるものかどうか小傘やこいしが意見し、調整する。夜には一通りの草案が完成する。

 祭りは『葬想祭(そうそうさい)』と名づけられた。

 帰り道、明るく照らす星月夜、激しい冷え込みに肩を震わせながら、二人は通りを歩いていた。

「……なんとか、なりそうだね」
「うん。……大丈夫かな。ちゃんと、喜んでくれるかな」
「……小傘ちゃんは心配性だなぁ。届くよ。思いは届くものなんだよ」

 他ならぬ閉じきった己の心にさえ、届いたのだから。
 こいしは口にはせず、そっと笑った。

「月、綺麗だね」
「……うん」
「明日は、どこ行こっか」
「さぁ。明日決めればいいんじゃない?」
「うーん……紅魔館とかどうだろ。あそこ、面白いし。色々と」
「へ……?」

 小傘はきょとん、とした顔になった。
 足が止まる。

「紅魔館……ねぇ、どこだっけ、それ?」








 ※※※







 明くる日こいしは再び里を訪れていた。
 今日は一人だ。
 長らく早苗や小傘と一緒に行動してきたから、ずいぶんと久しぶりのような気がする。
 本当は、たかだか二週間ちょっと。
 一瞬のようで、数え切れないほどの思い出が詰まった、二週間ちょっと。
 小傘、そして早苗の忘却は軽視しえない段階まで進行していた。
 無意識の側から戻ってくる前後の記憶だけではなく、帰還後に積み重ねた毎日のことまで、忘れ始めていたのである。
 すべて、忘れてしまうのも、時間の問題だった。
 二人の傍にいるのがつらくて、逃げ出すようにここへ来た。
 奇しくもあの雨の日のように。

 里の様子は、少し前とはずいぶん様変わりして見えた。
 人通りがめっきり減って、閑散としていたあの情景はどこへやら、往来は人々の喧騒と雑踏に賑わい、ひっきりなしに誰かの声が聞こえてくる。あの事件が夢か幻だったみたいだ。暢気で陽気な幻想人類の営みは何事もなかったかのように続けられ、今日も今日とて平和な日々を――

 何事もなかったかのように、だ。

 こいしはある種の恐れと共に道行く人を呼び止めた。

「あの、最近里で物騒な事件がありませんでした?」
「……事件?」

 呼び止められた女性は怪訝そうに振り向いて、眉を悩ませる。

「ごめんなさい。何のことを言っているのか……」

 がつん、と頭を殴られたような衝撃だった。
 こいしはその後も何人かに聞き込みを続けた。
 だが、誰も知らない。
 “忘れている”。
 里をあれほど陰鬱な空気に閉じ込めた事件を、不特定多数が知らないなどありえないことである。それが現実にあるということは、すでに里人の忘却は完遂してしまっていることを意味する。
 里を飛び出した。
 不安で、怖くて、しかたがなくて、無意識のうちに足は我が家へ、姉の待つほうへ向いていた。
 地霊殿、さとりの部屋のドアを開けると、さとりは書き物をしていた手を止めて、驚いたようにこちらを見てきた。

「どうしたんですか? そんなに慌てて……」

 その胸に飛び込んだ。
 泣きそうになるのを必死にこらえて、ぎゅうっと強く縋りつく。
 狼狽した気配ながら、さとりは落ち着かせるようにこいしの頭を撫でる。「よしよし」幼子をあやすような優しい手つきに、徐々に恐怖はやわらいでいった。

「……お姉ちゃん……ひっ……ぅっ……」
「何があったの? ほら、話してみて」

 こいしはすでに、さとりに今回の事件の顛末と無意識世界であったこと、小傘や早苗の記憶が失われていくことは話していた。この日新たに話したのは、里で見たもの、陰惨な事件が嘘みたいに平然と暮らしている人々と、実際に彼らにとってそんな事件はなかったという事実、まざまざと見せられた忘却の、重み。

「……そう」

 さとりがこいしを抱きしめる。

「……私にも何か、できることはないのかしら。……あなたが苦しんでいるのなら、私はその半分を肩代わりしたい。それさえできないというのなら、せめて何か、もっと別の……」

 さとりが落ち着きなく視線をさまよわせているのが気配でわかった。
 その目線が、ある一点で止まる。が、さとりは首を振って、馬鹿な想像を打ち消すように、

「こいし」

 名前を呼んだ。

「なんだかあなた、変わったわ」
「……ひっ……ぅぅ……変なのは元からだよ」
「あなたがこんな風に心の底から泣いたり笑ったりしていることに、正直私は驚いている。あなたはずっと……なんだか、感情が消えてしまったみたいに薄ぼんやりとしていたから。……それだけじゃなくて、あなたの存在そのものが、希薄になって消えてしまいそうに思えたから」
「……それは、ないよ」
「……なぜ?」
「私はね、サトリになったの」

 さとりが眉をひそめて不思議がったのがわかった。

「言霊っていうのは、案外馬鹿にできないものだよ」
「……知ってる。私はサトリ妖怪だもの。言葉とは剥き出しのナイフなのよ。心のうちに秘められているときそれらは鞘に入って切れ味をさらすことがない。しかしひとたび空気中に放たれると、驚嘆すべき重量を備えて人の心を射る。“言葉を発した”という事実はそれが“言葉にしてでも伝えたかったこと”であるという証左になる。……だからこそ私は相手が言葉を発する前に、ナイフを手に取る前に先回りして言うようになった。相手がナイフを抜いたという事実を発生させないことが、私なりのこの能力との向き合い方だった。言葉の重みは、わかっているつもりよ。……そうした話を抜きにしても、言葉それ自体が霊的な力を持つのは周知のことだわ」
「そう。言葉は力を持つ。だから私は消えないの」
「……あなたの話は、いつも突拍子がなさすぎる」
「私は無意識で行動することができる。無意識での行動とはすなわち無念無想の境地、これは一種の“悟り”と言える。私は“覚り”妖怪としての本質を否定した。普通ならそうした妖怪は己の形を保つのが困難になる。でも、私は幸運なことに“覚り”でなくなった代わりに“悟り”になった。同じ“サトリ”にね。言葉としては一面では同一、だから現在の姿形を維持できているんじゃないかって、そう思うの」
「……本当に? 本当に消えてしまったりしない? こいしはこいしのままでいる?」
「……うん。ねぇ、お姉ちゃん……いつ消えてしまうかわからないのは、怖い?」
「……ひぐ……」

 嗚咽。
 嗚咽であった。
 驚天動地の心地で顔を上げる。
 さとりの涙が、頬に落ちる。

「馬鹿……怖いに、決まってるでしょう……っ」

 その言葉を聞いて、理解する。
 ずっと、さとりは恐れていたのだ。
 こいしが手の届かないところへ行ってしまわないか、不安で、怖くて、しょうがなかったのだ。
 こいしが今、早苗や小傘に対して感じているそれと同じように。
 とっさに謝罪の言葉が口をつこうとした。「ごめんなさい」と謝ろうとした。
 何だか、違う気がした。
 早苗や阿求に謝ったときを思い出す。彼女たちは、本当にそんな謝罪を望んでいたのだろうか。もっと、他に、自分にできることはなかったのだろうか。

「……私は……」

 手を、握った。
 以前早苗がそうしてくれたように。
 安らげるように、そっと、優しく。
 きゅっ、と離さぬよう握り締める。
 さとりは泣きながら笑っていた。
 それを見て、悟る。

(……そっか。そういうことだったのか)

 言葉は重い。時として人を死に至らしめることさえある。
 だが同時に言葉は軽いのだ。言葉は人に責任を負わせる力はあるが、それそのものは責任を持たない。がらんどうである。行動で示すことでしか、証明できないものがある。何千何万の文字を費やそうと、伝えられないものはある。

(だから、小傘ちゃんは……そして無意識世界の成れの果ては、望んだんだ。誰かが傍にいることを。それでしか、立証しえないものがあるから。何より雄弁なのは、言葉そのものではないから)

「……お姉ちゃん」

 決然と、こいしはささやく。

「私、ひとつ、やることができたよ」
「……そう」

 さとりは何も言わず、うなずいてくれた。
 こいしは立ち上がる。
 今一度、探すのだ。本当にもう何もないのか。このまま座して破綻の日を迎えることしかできないのか。何か、何か、ちっぽけな自分でもできることが――

(諦めない。諦めるもんか!)

 こいしは地霊殿を後にする。
 向かうは言わずと知れたお山の神社、二人の悲しく待つ場所へ。
 もう恐れない。後悔しない。全力で、がむしゃらに、あたって砕けるその日まで。
 第三の目が、もぞもぞと動いた。
 そんなこと、もう、気にさえなりやしなかった。






 ※※※







 守矢神社に着いたとき、泣きながら抱き合う二人を見た。
 いったい何があったのか。想像するのは難くない。

「……ひぐっ……小傘さん、覚えてますか。白玉楼へ行ったこと。それから、次の日……」
「永遠亭に行ったわ」
「……そう、でしたか。そうだったんですか。その次の日は、地霊殿へ行きました。そこで確か……えっと、こいしさんのお姉さんにあって……名前は……確か……」
「……さとり。さとりよ」
「覚えてますか。命蓮寺で……」
「うぅん……わかんない」
「……そうですか」
「早苗は覚えてる? あっちの世界で……」
「あっち……?」
「無意識の世界、悲しい世界、死ねない死人の眠る場所」
「……………………何か、思い出せそうな……」
「早苗、もし、本当にすべて、忘れてしまったら」
「……ぐすっ……忘れた後のことなんて考えも、しかたないですよ。だから、せめて、一日一日を楽しもうと……結局、忘れちゃうのに……!」
「まだ、全部じゃない。まだ、終わりじゃない……っ!」
「声、震えてるじゃないですか。つらいなら、つらいって言ってください。無理しないでください。悲しいのは、もう十分です」
「……早苗こそ、ひどい顔だよ。無理、しないで」

 こいしに気づくこともなく、泣いている。
 恥も外聞もなく、耐え切れぬように、大声で。
 二人は忘れることを惜しんでいた。哀切な感情が身を刻むように震えながら、そして、同時に、そんなときでさえ。

(……相手のことを、心配するっていうのっ……!)

 その、心が。
 その、優しさが。
 こいしには眩しくて眩しくてたまらない。
 叫びだしたかった。
 何か、強烈な、大きな、うねりが、胸の奥から湧き上がってくる。

(私は……私はこんなの知らない! この世界にこんな素敵な人がいて、こんな素敵な場所があって、こんな最悪な現実があるなんて、知らない! 知らなかった!)

 誰しもかれしも汚い心、蔑み恐れ遠ざける、そんな心に触れるのがつらくて、目を閉じた。
 目を、閉じたのに。
 ざわざわと背筋を這い上がっていくものがある。
 膝が笑った。足が震えた。目の端がひくひくと痙攣した。口がいびつな笑みの形を作り、指がびくんびくんと脈動していた。全身のあらゆるところが震えている。異常なまでの緊張が神経という神経を滅茶苦茶にかき乱す。一斉に毛穴が開き、真夏の酷暑を浴びるみたいにだらだらと汗が浮き上がってくる。脂汗が、したたった。立っていられず、膝を突く。

(あぁ、開く……)

 開く。
 開く。
 開いてしまう!
 恐怖、困惑、願望、期待。様々な感情が入り混じって胸腔を叩く。今にも吐いてしまいそうだった。それでも、止まらない。少しずつ、少しずつ“そこ”に力が篭っていく。止められない。止まらない。一秒、一秒、一ミリ、一ミリ、ひどく引き伸ばされた時間が過ぎ去り――




 完全に、見開いた。
 気絶、暗転。







 ※※※







 目が覚めたとき、こちらを心配そうにのぞき込む二対の目があった。

「あ、起きました……?」
「うん……ここは……?」

 見回すと、守矢神社の一室である。見慣れた部屋だ。早苗の私室に敷かれた布団の上に寝そべっているようであった。

「そっか……私、倒れちゃったのか」

 視線をおろすと、胸のあたりにある第三の目は再び“閉じていた”。石化したようにぴくりとも動かない。

(だけど……あれは、確かに、あのとき確かに)

 開いた。
 開いたのだ。
 ほんの一瞬だったけれど、こいしの第三の目は開いていた。その刹那に、膨大な、そして懐かしい感触が脳髄を貫いた。小傘と早苗、彼女らの心中をさかまく激情、過去、それが押し寄せるように脳裏に映し出されたのである。その莫大な情報量はこいしを卒倒させるのに十分な質を備えていた。
 そして。

(……)

 こいしは無言で、上体を起こす。早苗が気遣わしげに「まだ寝ていたほうがいいですよ。体調も悪そうですし……気づいてますか? 顔、真っ青ですよ?」と諌める。

「……ごめん。私、地霊殿に戻るよ」
「は、はぁ……あの……大丈夫ですか?」
「……大丈夫。ともかく、一度、戻るね」
「……えぇ」

 せめて、できることを。
 二人との会話もそこそこに、こいしは地霊殿へ帰っていく。脈絡のないとんぼ返りに早苗と小傘は終始不思議そうであったが――

 十六日目は、こうして終わった。






 ※※※






 十七日目、十八日目、十九日目、二十日目、二十一日目……

 時間はあっという間に過ぎていく。
 そのたびに忘却の度合いはひどくなっていった。最終的には耄碌した老人のようにさくじつの出来事すら忘れてしまうほどであった。忘れる範囲は主に、無意識世界でのことと帰還後のこと、失踪の始まる少し前の記憶にまで手がおよぶことさえあった。
 虫食いだらけの思い出を、三人はとても大切にした。
 容易く失われてしまうものであるからこそ、丹精を込めて想いを込めて、汚れを払い、磨き上げる。それらはいずれ宝石のような輝きを放つだろう。そして、あっさり砕け散るだろう。
 こいしのサードアイ開眼以降は、特段大きな事変もなく、薄氷の騒がしい日常が過ぎていく。
 もうじき一ヶ月が過ぎようという頃。
 夜であった。
 空に浮かぶほとんど渾円の月を見上げながら、

「もうすぐ、満月かぁ……」

 と小傘が言った。

「うん。……前の満月の夜に、小傘ちゃんは……」
「なんだか、遠い昔のことに思えるよ。あれから色々とあったもの。毎日が目新しくて、どきどきした。例えば………………えっと、うん、そういう」
「……小傘ちゃんは、私のことも、忘れちゃうんだよね」
「……たぶん。正直、今も、こいしのことで思い出せることはそんなにないの。一緒に過ごしてきたっていうのはわかるけど、どんな場所へ行って、どんなことをしたのか。もう、ほとんど思い出せない。……ごめん」
「謝ることじゃ、ないよ」
「……ごめん……ごめん……私……忘れちゃう……ッ!」
「……もしも」

 黄金色のお月様を見て、こいしは夢見る乙女のように語る。

「もしもすべて忘れてしまっても、また、新しく仲良くなれたら、私はそれで幸せだよ」
「……ねぇ、こいし」
「なに?」
「言おう言おうと思ってて結局今日まで言いそびれちゃったけど……忘れないうちに言うね。今までありがと。それと……ひとつ、頼まれてくれる……?」
「なんでも」

 こいしは即答する。
 小傘は「じゃあ」と前置きして、

「私がすべてを忘れてしまったあと……そのとき私は、きっとまた人間に対して素直になれない、あの頃の私に戻っていると思う。そしたらきっと、早苗のことを遠ざけて、避けて、二度と仲良くなれないかもしれない。……そんなの、嫌だ。“だから、すべてを忘れた私を、導いてほしい。早苗のところへ、連れていってあげてほしい”。……そうしてくれたら、きっと大丈夫。きっかけさえあれば、また仲良くなれる。私は、そう、信じてる」
「……わかった」
「こいし……もう一度。ありがとね」
「私は、感謝されるようなことなんて」
「知ってるもの。こいしはこの一ヶ月、決して忘れてしまわないよう、細心の注意を払っていた。こいし自身も忘れる可能性はあるって、前にそう言っていたでしょ? 何度も唐突に姿を消すことがあったけど、あれは忘れないよう無意識になっていたんだって、私も早苗も知ってるよ。……また」

 また、こんな風に、隣り合って月を見上げられたら。
 素敵だなぁ、と小傘は笑った。
 深々とした、物静かな夜であった。
 幻想的な静謐な空気に身をゆだね、二人は未来のことを語り合った。
 過去は過去のまま、現在だけが通り過ぎていく。

(……だから)

 失われる過去ではなく、いつか、幸せな未来の話をしよう。








 ※※※






 
 そして、その日が訪れる。
 守矢神社からの帰り道、くれなずむ夕焼けを身に浴びながら、小傘は上機嫌に鼻歌を歌っている。

(今日は楽しかったなぁ……こいしの意外な一面が見れたり……えっと、どんなんだったっけ……でも考えてみると昨日も一昨日も一昨昨日もずっと楽しかった気がする。なにをしてたんだっけ? あれ? 変だな。思い出せない。なんで思い出せないんだろう? つい最近の話なのに。……なんで思い出せないんだっけ? まぁ、そういうものね。たまには度忘れすることもあるわ。妖怪は長生きだからねぇ……そうそう、それでこいしが……こいし? えっと、こいし? こいし、そうこいし。ほらほら、あの銀髪の、サトリ妖怪の、…………うん? おかしいな。なんだっけ。何の話をしていたんだっけ。そうだ。早苗だ。早苗……? 早苗といえば、守矢神社の、守矢神社? 私守矢神社に最近行ったっけ? 最後に行ったのはあのカレーをご馳走になった日のはず……混乱してるなぁ。浮かれてるからこんなことになるんだ。何に浮かれていたんだっけ?)

 秋は最も深い時期を迎え、妖怪の山の木々はほとんど真っ赤に染まっていた。赤く焼けた視界の中で、幻想郷の雄大な自然が波打っていた。風が吹いた。傘が飛ばされそうになって、慌てて強く握る。乾燥した空気に口の中が寂しく感じた。何か食べたいな、と思うとお腹がぎゅるぎゅると下品な音を立てて、恥ずかしく、四方を確認して息をつく。
 そうだ、人間だ。
 人間を驚かしていないから、こんなことになったのだ。
 そういえば、なぜ驚かしていなかったのだろう。
 何か、ずっと別のことをしていた気がする。

(なにをしていたんだったかしら……えっと……う、ぐぅ。これは、その、ほら、これも人間のせいよ! 人間が私に何かしらのじゅじゅつを使ったに違いないわ! おのれ、人間! 恨めしいことこの上ない!)

「うらめしやー!!」

 誰にともなく空に叫び、むなしくなって、すぐやめる。
 その台詞は、人間に向けてこそだ。
 そうと決まれば、行き先は簡単だ。

(命蓮寺の墓地なら人間を驚かしやすいし……ふふふ、見てなさい人間ども。私が大妖怪への道をノンストップで駆け上がる日も近い! ……いや、近いじゃなくて、そこは今日よね。今日。今日大妖怪への道を駆け上がるのだー! がおー!)

 小傘は命蓮寺墓地へ向かい、墓石の影に身を隠す。
 夕焼けの空は薄い紺青に覆われ、夜を迎える準備は万全であった。

(あれ、変だな……)

 不意に猛烈な眩暈。
 偏頭痛と吐き気に襲われ、姿勢を保っていられなくなる。
 倒れ伏す。

(なに、これ……変だよ。変だ。全然変だ。私、こんなの……なんで、私は……私は……何か……大切な……嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……忘れたくない! 忘れたくない? なにを? 忘れ……たく……な……)

 伸ばした腕は、空を切る。
 虚空へ向けて、誰かの名前を呟いた。
 誰のものだったろう。知らない名前だ。初めて聞いた。
 段々と遠のいていく意識の中で、可愛らしい少女の顔が、笑った。

 あぁ、助けて――

「助け――こ――」










 ※※※








 冷たい夜気が肌を撫でる。
 目が覚めると、そこは墓場であった。
 こうして、物語は幕を閉じました。
 ひどい話じゃないかって? バッドエンドじゃないかって?
 ええ、これはまったく、バッドエンドに終わった話です。
 終わってしまった、話なのです。
 救われない。まるで救われない。誰もこんな結末望んじゃいなかったのに。
 私がそうであったように。
 私もまた、この結末を受け入れることができなかった。だから書きました。こうして記し、残しました。それがせめて私にできることだと考えて。
 ここまで――この後書きまでたどり着いたあなたは、今、なにを考えているでしょう。
 あなたは思い出せたのでしょうか。それともまるで、実感のないことでしょうか。私には推し量ることしかできない。
 ただ、もしも。
 もしもあなたが少しでも、心にかかるものを感じているのであれば、私がこれを書いた意味はあったのです。あったと断言できるのです。
 だから。
 だから、どうか、見失わないで。あなたにとって大切であるもの、あなたにとってかけがえのないもの、あなたが幸せな未来を築くために、最も必要であるものを。
 どうか、忘れないでほしい。あなたが本当は知っている素敵なことを、素晴らしい世界を、決して誰にも侵されることのない麗しい黄金の日々を。

 私のこれらの言葉はすべて親愛なる――



 ※※※



 筆を止め、立ち上がる。
 私はそっと、窓の外を見た。
 この先は書くまでもない。書かずとも、伝わるだろう。今、私がするべきことはそれではない。やらなくてはならぬことがある。このまま終わらせないために。物語を、バッドエンドの物語を、この現実で書きかえるために。
 私はあの場所へ、行かなければならない。
 私は部屋を後にした。木枯らしすさぶ外に出る。ふるふると体を一頻り揺らし、そこからはもう、立ち止まらなかった。
 あの物語はバッドエンドで終わっている。
 だからこれから行うのは、エピローグの先、現実の物語、私が希求する後日談。

 最後の幕を上げましょう。
 ハッピーエンドを掴むために。
ダツエヌ
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コメント



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2.100名前が無い程度の能力削除
気付いたらこの時間、小傘達が記憶飛ぶのもこんな感じだろうかと比べるのは、流石に烏滸がましいだろうか。
圧倒されました。感想を書こうとした時、素直にそんな言葉が思い浮かんだので記します。
では最終幕に行ってきます。……読み終わるのが惜しいと、少なからず思っている俺がいる。
3.無評価名前が無い程度の能力削除
すごく読み難く感じた。設定として釈然としない物も残る。
評価は、もう少し読み込んでから考えたい。
5.100非現実世界に棲む者削除
怪異を巡る物語は終わった。
ならば、その先に待ち受けるのは何なのか。
今からそれを確かめに行きます。

本文の感想は、後編で纏めてコメントします。

それでは、行ってきます。

この物語の、終焉へと。
6.100名前が無い程度の能力削除
圧倒的な感情の渦に引き込まれました。叙述の言葉がいちいちかっこよく、烈しいです。
何よりすごいのが、突然降って湧いたような「反動」の話が、それまでに張ってきた伏線、特に前章、それに明るい未来に漂う漠然とした不安感のおかげで、極めて自然なものになっています。むしろ子どもたちを助けた段階でもう、「これからが本番であって、よりはるかに厳しい苦難はこの後に待ち受けている」とナチュラルに感じられてしまう。何か忘却にまつわるとても悪いものがくるとあらかじめ期待を形成するため、突然「反動」と言われても、反感や動揺などなく「ついに来たか」という感じになります。後編に期待を、自らの手で未来を変えようとする書き手の意地に希望を持って、参ります。
7.100みずあめ。削除
よく練られた物語。本当に細部が緊密に連携していて、かつ、展開もぐるんぐるんとひっくりかえって、長さの割に飽きなかったです。
ただ、このままだとすわりが悪いので、ハッピーエンドを信じて後編へ行ってきます。
10.100ばかのひ削除
ホラーでありハートフルでありそうでないのかもしれない
一概になにとは言えない
だけど面白い
一つの起承転結はここで終わってしまったかのように思えますが
さてここから……
13.100名前が無い程度の能力削除
なるほど、こうやって前編につながっていましたか
感想は次で
18.100名前が無い程度の能力削除
次は『エンディング』の先の『エンディング』だな
20.1003削除
どんどん面白くなっていきましたね。
さあ、あとはハッピーエンドに向かって走るだけだ!
22.100名前が無い程度の能力削除
小傘かっこいいじゃん