漆黒の闇の中に仄かな光が踊る。私はこの情景が好きだった。太陽の光とも違う、炎の光とも違う、儚き陽炎。寄り集まらなければ生きて行けぬ火垂るたちが見せる、小さな奇跡。人間達と同じだ。寄り集まらなければ生きていけぬ弱い存在なのに、その癖短い人生の中で激しく燃え盛る。その輝きに魅せられ恋焦がれても、瞬きの間にその輝きを失ってしまう。だからこそ愛おしい。だからこそ忘れられぬのだ。四半刻ほどその情景を見つめ続けて、私は溜息を吐いた。思案し続けてももはや無駄であるということは分かっているのだ。彼女はもう戻らない。もう、あの向日葵の様な笑顔を見ることは出来ない。失ったものは還らない。二度と。彼女と過ごした日々はまさに砂上の楼閣であった。それでも、その砂の一粒一粒を掬い上げてこのように感傷に浸ることは出来るのだ。
彼女を想って涙を流すことを、私は自分にとっての禁忌としていた。涙を流すことで彼女が喜ぶのならばいくらでも泣き叫んだかもしれない。しかし、彼女はそれを望まなかった。最後までその不敵な笑顔を崩すことなく逝った。だからきっと、涙を流すことは彼女の望むところではないのだ。それに、私が涙を嫌うのには、他の理由もあった。涙が全てを押し流してしまうような気がしていたのだ。彼女との思い出も私の想いも。果たしてその予感は正しかった。彼女の死を悼んで涙を流した者たちは、彼女のことを忘れていった。十年、二十年、三十年。六十年経つ頃には、もう誰も彼女のことを覚えてはいなかった。きっと涙とともに思い出すらも流れ出てしまったのだ。もはや、彼女のことを覚えているのは、私一人だけになっていた。
彼女が生前住んでいた小屋に向かった。森の奥底にある小さな小さな小屋。吹けば飛ぶような、とても小さな小屋。しかし、まるで時の流れに取り残されたかのような、不思議な雰囲気を持つ小屋。彼女は凡人だった。私たちの様な妖怪の足元にも及ばぬ小娘だった。しかし生涯私たちと対等な関係であったのは、彼女自身の努力によるものであった。その努力の証が、この小屋には残っていた。彼女が死して百年以上の時を経ても、この小屋は元の形を留めていた。彼女は特別な術によって、幻想郷と自分が生きた証である小屋を繋ぎとめていた。時の流れによって、自分が忘れ去られてしまわぬように。しかし、もはや彼女が生きた証は、この小屋と私の記憶の中にしか残っていなかった。時がすべてを押し流してしまった。心も、記憶も、執着も、なにもかも。
戸口を開けて小屋の中に入る。不思議な雰囲気はそこにもあった。彼女が生きている間散らかっていた小屋は、その一切の影も残さぬように奇麗に片付けられていた。彼女は几帳面な性格ではなかった。しかしながら、死の間際になると、自らの小屋を片付けた。もうこれは必要のないものだからと。彼女は人間だった。だから、小屋を片付けた。誰かがここを訪れることはないと思ったから。自分が何かを遺していく必要が無いと悟ったから。生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。彼女は転生を信じてはいなかった。彼女は凡人だったから。自分の死ぬ意味など、生きる意味など、輪廻の仕組みなど、一切合財理解できなかったから。自らの死をただ受動的に受け止めたのだ。
白い息を吐いた。初夏に差し掛かる時期でありながら、この小屋はある意味では不気味な、またある意味では安心できるような冷気に包まれていた。多少肌寒さを感じる程度の気温は、私に対しては安心を与えていた。ここにいる間は、彼女を忘れてしまう恐怖から逃れることができたから。この郷の何処よりも、彼女を感じることができるから。だから、私はこの小屋が好きだった。彼女の名前を呼んでも、返事は帰ってこないけれど。それでもここには、彼女と過ごした日々の残滓が残っていた。ほんの少しだけでも、彼女の傍にいられるような気がして。ここならば、目を瞑るだけで思い出すことができた。彼女の仕草、表情、声。その全てを。決して鮮明などではなく、途切れ途切れだけれど。それでもよかった。
先程までいた部屋を抜けて、その奥へ進む。そこは、彼女が最も好んだ場所。凡人としての意地が感じられる、私がこの小屋で最も好きな場所。彼女がその生涯の半分以上を過ごした場所。一昼夜を問わず、彼女はここで様々な研究を行っていた。自らの力では到底及ばぬ存在に立ち向かうために。たとえ力及ばず敗北しても、決して屈せぬ為に。彼女は生涯、屈することは無かった。どんな人妖が相手でも、対等であり続けた。その原動力がここにはある。木でできたテーブルに椅子。使い込まれた万年筆に研究ノート。彼女は死の間際になっても、この部屋にだけは自分の痕跡を残した。それは凡人の誇り。努力によって怪物たちに立ち向かった証。これだけは、彼女は譲ることが出来なかったのだろう。
テーブルを撫でる。ざらざらとした感触が心地よい。浸み込んだインクの染みが、何よりも彼女の姿を感じさせてくれる。私はこの場所が最も好きだった。彼女が長い時を過ごした空間で、ただ意味もなく佇むのが、私の一番の楽しみだった。そうすることで、彼女を忘れずに居られたから。そうしなければ、彼女を忘れてしまっていただろうから。意味もなく椅子に座り、ノートをめくる。この仕草も、これまでに何千回とやって来たことだ。もはや私は、この研究ノートの内容を暗唱すらできるようになっていた。それでも、ノートを開く。何度何度も繰り返した意味のない行為。けれども、それによって私は安心を感じることが出来たから。
しかし、ノートを読み進めていくうちに、全て知り尽くしているはずのノートの中に見慣れぬ一文があるのを見つけた。見つけてしまった。それは、ノートの最後のページに在った。ただただ残酷に。
『私の百二十年来の友人に、この魔法を捧ぐ』
私はただ、その一文を見つけただけだった。しかし、魔法の効果は、あまりにも唐突に私を襲った。
「……あっ」
彼女の死以来決して流すまいとしていた涙が零れそうになった。私は理性を総動員して押しとどめようとした。しかし、頭に心がついていかない。耐えて、耐えて、溜りに溜まった涙は、ついに瞳から溢れだした。止まらない。どれだけ拭っても、目を瞑って耐えようとしても、その涙は止まらなかった。まるで百二十年間の過去を清算するように、涙は流れ続けた。その涙とともにすべてが溢れ出していく。彼女の思い出、仕草、表情、声、私と過ごした幾千の日々。なにもかもが流れていく。なぜ。どうして。私は彼女を忘れなければならないのか。私は涙を流し続けた。泣けども泣けども、流れ出す雫は納まるところを知らなかった。私の涙、記憶、その最後の一滴が流れ落ちる時には、私の中に、彼女の姿はなかった。
私は泣いていた。もう涙は流れないけれど、確かに泣いていた。いったい自分はなにが哀しくて泣いているのか、それすらも理解できぬままに。ただ、大事な何かを忘れてしまったのだと思った。だから泣いた。もう涙は流れないけれど、それが『大事な何か』に対して自分ができる唯一のことであると、頭ではなく心で理解したから。泣いて、泣いて、泣き続けて。やっと泣き終えて、古ぼけた小屋から出ていくとき、私は妙な感じがして振り返った。名前も知らぬ、けれど確かにここにいた誰かが、自分に語りかけてきた気がして。
『さようなら』
流し尽くしたはずの涙が、瞳から零れ落ちた。
彼女を想って涙を流すことを、私は自分にとっての禁忌としていた。涙を流すことで彼女が喜ぶのならばいくらでも泣き叫んだかもしれない。しかし、彼女はそれを望まなかった。最後までその不敵な笑顔を崩すことなく逝った。だからきっと、涙を流すことは彼女の望むところではないのだ。それに、私が涙を嫌うのには、他の理由もあった。涙が全てを押し流してしまうような気がしていたのだ。彼女との思い出も私の想いも。果たしてその予感は正しかった。彼女の死を悼んで涙を流した者たちは、彼女のことを忘れていった。十年、二十年、三十年。六十年経つ頃には、もう誰も彼女のことを覚えてはいなかった。きっと涙とともに思い出すらも流れ出てしまったのだ。もはや、彼女のことを覚えているのは、私一人だけになっていた。
彼女が生前住んでいた小屋に向かった。森の奥底にある小さな小さな小屋。吹けば飛ぶような、とても小さな小屋。しかし、まるで時の流れに取り残されたかのような、不思議な雰囲気を持つ小屋。彼女は凡人だった。私たちの様な妖怪の足元にも及ばぬ小娘だった。しかし生涯私たちと対等な関係であったのは、彼女自身の努力によるものであった。その努力の証が、この小屋には残っていた。彼女が死して百年以上の時を経ても、この小屋は元の形を留めていた。彼女は特別な術によって、幻想郷と自分が生きた証である小屋を繋ぎとめていた。時の流れによって、自分が忘れ去られてしまわぬように。しかし、もはや彼女が生きた証は、この小屋と私の記憶の中にしか残っていなかった。時がすべてを押し流してしまった。心も、記憶も、執着も、なにもかも。
戸口を開けて小屋の中に入る。不思議な雰囲気はそこにもあった。彼女が生きている間散らかっていた小屋は、その一切の影も残さぬように奇麗に片付けられていた。彼女は几帳面な性格ではなかった。しかしながら、死の間際になると、自らの小屋を片付けた。もうこれは必要のないものだからと。彼女は人間だった。だから、小屋を片付けた。誰かがここを訪れることはないと思ったから。自分が何かを遺していく必要が無いと悟ったから。生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。彼女は転生を信じてはいなかった。彼女は凡人だったから。自分の死ぬ意味など、生きる意味など、輪廻の仕組みなど、一切合財理解できなかったから。自らの死をただ受動的に受け止めたのだ。
白い息を吐いた。初夏に差し掛かる時期でありながら、この小屋はある意味では不気味な、またある意味では安心できるような冷気に包まれていた。多少肌寒さを感じる程度の気温は、私に対しては安心を与えていた。ここにいる間は、彼女を忘れてしまう恐怖から逃れることができたから。この郷の何処よりも、彼女を感じることができるから。だから、私はこの小屋が好きだった。彼女の名前を呼んでも、返事は帰ってこないけれど。それでもここには、彼女と過ごした日々の残滓が残っていた。ほんの少しだけでも、彼女の傍にいられるような気がして。ここならば、目を瞑るだけで思い出すことができた。彼女の仕草、表情、声。その全てを。決して鮮明などではなく、途切れ途切れだけれど。それでもよかった。
先程までいた部屋を抜けて、その奥へ進む。そこは、彼女が最も好んだ場所。凡人としての意地が感じられる、私がこの小屋で最も好きな場所。彼女がその生涯の半分以上を過ごした場所。一昼夜を問わず、彼女はここで様々な研究を行っていた。自らの力では到底及ばぬ存在に立ち向かうために。たとえ力及ばず敗北しても、決して屈せぬ為に。彼女は生涯、屈することは無かった。どんな人妖が相手でも、対等であり続けた。その原動力がここにはある。木でできたテーブルに椅子。使い込まれた万年筆に研究ノート。彼女は死の間際になっても、この部屋にだけは自分の痕跡を残した。それは凡人の誇り。努力によって怪物たちに立ち向かった証。これだけは、彼女は譲ることが出来なかったのだろう。
テーブルを撫でる。ざらざらとした感触が心地よい。浸み込んだインクの染みが、何よりも彼女の姿を感じさせてくれる。私はこの場所が最も好きだった。彼女が長い時を過ごした空間で、ただ意味もなく佇むのが、私の一番の楽しみだった。そうすることで、彼女を忘れずに居られたから。そうしなければ、彼女を忘れてしまっていただろうから。意味もなく椅子に座り、ノートをめくる。この仕草も、これまでに何千回とやって来たことだ。もはや私は、この研究ノートの内容を暗唱すらできるようになっていた。それでも、ノートを開く。何度何度も繰り返した意味のない行為。けれども、それによって私は安心を感じることが出来たから。
しかし、ノートを読み進めていくうちに、全て知り尽くしているはずのノートの中に見慣れぬ一文があるのを見つけた。見つけてしまった。それは、ノートの最後のページに在った。ただただ残酷に。
『私の百二十年来の友人に、この魔法を捧ぐ』
私はただ、その一文を見つけただけだった。しかし、魔法の効果は、あまりにも唐突に私を襲った。
「……あっ」
彼女の死以来決して流すまいとしていた涙が零れそうになった。私は理性を総動員して押しとどめようとした。しかし、頭に心がついていかない。耐えて、耐えて、溜りに溜まった涙は、ついに瞳から溢れだした。止まらない。どれだけ拭っても、目を瞑って耐えようとしても、その涙は止まらなかった。まるで百二十年間の過去を清算するように、涙は流れ続けた。その涙とともにすべてが溢れ出していく。彼女の思い出、仕草、表情、声、私と過ごした幾千の日々。なにもかもが流れていく。なぜ。どうして。私は彼女を忘れなければならないのか。私は涙を流し続けた。泣けども泣けども、流れ出す雫は納まるところを知らなかった。私の涙、記憶、その最後の一滴が流れ落ちる時には、私の中に、彼女の姿はなかった。
私は泣いていた。もう涙は流れないけれど、確かに泣いていた。いったい自分はなにが哀しくて泣いているのか、それすらも理解できぬままに。ただ、大事な何かを忘れてしまったのだと思った。だから泣いた。もう涙は流れないけれど、それが『大事な何か』に対して自分ができる唯一のことであると、頭ではなく心で理解したから。泣いて、泣いて、泣き続けて。やっと泣き終えて、古ぼけた小屋から出ていくとき、私は妙な感じがして振り返った。名前も知らぬ、けれど確かにここにいた誰かが、自分に語りかけてきた気がして。
『さようなら』
流し尽くしたはずの涙が、瞳から零れ落ちた。
内容はどうでもいいです。
雰囲気が好きです。
私は寿命ネタは好まない(というか嫌っている)のてすが、読んでいて感動するお話だと途中でわかった時はどうしても最後まで読まずにはいられなくなってしまいます。
あえて「彼女」と表現しますが、彼女の最後の魔法は相手が自分の思い出を引きずることを見越していたというわけですから、亡くなった彼女と彼女との思い出を辿る「私」の間には余程強い絆で結ばれていたということを思わせてくれています。
私はそのような作風が大好きです。
でも最後の一文はどういう意味なのか、私には理解できませんでした。
ただ、とても切ないということは文から感じとれました。
長文失礼いたしました。とっても良い作品でした。
でも、幻想郷から魔理沙の存在が全て消えてしまうなんて...とてもやるせないし、あってはならない。
それに、考えたくもないです。
忘れられないことは、妖怪にとって老いという名の致命の毒になりかねない。特に、親しい人の死に引きずられることは危険極まりないことでしょう。
忘れ去られた凡人の優しい魔法に感動です。
多数の評価を頂き、身に余る光栄です。今後も精進したいと思います。
彼女は彼女なんでしょうね。私が誰なのか。気になりますね。