Coolier - 新生・東方創想話

英雄譚

2013/05/18 17:26:26
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 誰かのために戦えるのなら、それは人間である証だ。
 それで誰かを救えるのなら、英雄だ。

 ならば、私は ――



          ■



 夜がどこかに闇を置き忘れてしまっていた。迷いの竹林を目映く照らす光に、藤原妹紅は目を顰(しか)めた。相手がこちらを探しているのだ。手頃な岩の影へ入る。隠れるためではない。岩を背にして背後を取られなくするためだ。

「妹紅、どこへ行ったの。出てきなさい」

 誰が出るか、と独り毒吐く。あいつの言いなりになることが、この世で一番イヤだ。
 蓬莱山輝夜は、また得体の知れない武器を携えていた。きっと月の都から持ち込んだという凄い何かなのだろう。姫君を護るように付き従う二つの光球は、持ち主の腕のひと振りだけで光の矢を無数に放ってくる。その矢が早すぎて最初の防御が間に合わず、妹紅は手の指を半分失っていた。こちらを見失った輝夜は、その矢を手当たり次第に撃ち込んでいる。闇雲に突っ込んでは、今度は指だけでは済まないだろう。
 事前に竹の枝へ仕込んでいた呪符を発動する。妹紅が切片となる妖気をほんの僅か放つだけで、炎弾を敵目掛けて撃つという単純なものだ。輝夜との殺し合いに際しては、妹紅はよくこれを事前に用意しておくのだ。タネは向こうもとっくに知っているのだろうが、それでもしばしば有効打になり得る使い勝手のよい技だった。
 案の定、輝夜は光の矢をその撃墜に向けた。妹紅から意識が一瞬だけ逸れる。それで十分だった。
 岩影から飛び出して、できるだけ低い姿勢で走る。その四歩目で輝夜は炎弾を撃墜し、同時にこちらに気づいた。遅い。妹紅は勝利を確信する。
 極度の興奮のためか、時間が遅回しになった。輝夜が驚愕とともに光の矢をこちらへ撃ち出すが、その弾速すらもゆっくりとして見えた。必要最低限の動きだけでそれを躱し、彼我の距離を詰めていく。輝夜の格好はもはやお世辞にも姫とは言えなかった。艶やかだった黒髪は跳ねまくり、着物のあちこちが焼け焦げている。肩を怒らせながらこちらを睨む顔は般若面の様に歪んでいた。憎悪と愉悦だ、妹紅には分かる。きっと自分も同じ顔をしているのだろうから。
 そしてついに妹紅が輝夜へ肉薄する。右手で姫君の口を強引に塞ぎ、力任せに押し倒す。刹那の静寂があった。輝夜の瞳が慄(おのの)く。其処に見えるのは、圧倒的な恐怖と、ほんの少しの期待の色。

「喰らいな」

 掌から目一杯の炎を放った。憎しみを油にして燃え上がる炎は、鉄をも溶かす高温である。それを口から流し込まれて、輝夜の身体が大きく跳ねた。目から鼻から耳から炎が噴き出して、端正だった姫君の顔があっと言う間に滅茶苦茶になる。妹紅の下で、輝夜の身体がどんどん炭化していく。飛び退くと、それを待っていたかのように輝夜の身体が爆発的に燃え上がった。
 その場で尻餅をつくようにして、妹紅は座り込む。いつもこの瞬間が至高であった。自分はこのために蓬莱の薬を飲んだのではないかと思えるほどの快楽だ。笑い声が自然と零れて、両手で地面をばんばんと叩く。今更になって、指を飛ばされた傷がじんじんと疼きだした。

―― 貴女は、まだ人間のつもりなの?

 ふと問いかけられた気がして、妹紅は我に返った。今のは確かに輝夜の声だった。しかしそんなはずはない。憎き姫の身体は、未だ炎の中で炭のままだ。熱のためにその身体は赤ん坊のように手足を屈めている。

―― 諦めて、こっちにいらっしゃいよ。

 立ち上がる。幻術の類かもしれなかいし、自分の妄想かもしれない。だがいずれにしても、看過できない言葉であった。

「人間だ、私は」

 口に出して確かめても、それは自分ですら疑わしかった。心のどこかで常に問い続けていた疑念である。死んでも死んでも生き返る、不死の存在。それは果たして人間なのだろうか。
 炎が静まり、夜が闇を取り戻すまで、妹紅は立ち竦んでいた。



          ■



「その指、どうしたんだい」
「……ちょっとね」

 曖昧な返答にも、煙草屋の老婆は嫌らしく笑うだけで、それ以上の追求はしなかった。
 人間の住む大きな集落の外れにあるこの店は、いつ来ても他の客がいた例がない。それ故に妹紅も最近贔屓にしているのだが、同時に経営が成り立っているのか心配してしまう。店主である黄色い歯の老婆は妖怪なのだという実(まこと)しやかな噂が流れているらしいが、常連であってもそれを否定できない。

「はいよ、国分の刻み葉と、あと石鹸だね」
「どうも。……何だか騒がしいね。何かあったの?」
「また妖怪が襲ってきたんだと、昨日の夜」

 道理で物々しい格好の連中が里を闊歩しているわけだ。幻想郷は妖怪の多い土地であり、それに対抗できる術を持つ人間もまた多い。そのためわざわざ人里を襲撃する妖怪は多くはないはずなのだが。

「また、って? 最近多いの?」
「今月で四件目だよ。人死にも出てる。何でも今度のあれのせいで、妖怪たちが荒れてんだってよ」
「あれって何」
「ほら、あれはあれだよ。えぇと ―― 」

 煙草屋は暫し考え込んでから手を打つまで、たっぷり一分はかかった。

「そうそう、博麗大結界」
「あぁ、あれ」

 妹紅はさしたる興味もなさそうに答えた。実際興味はないのだ。何でも幻想郷の外と内を隔てる結界をどこかの妖怪が構築するらしいのだが、さし当たってここを去る気のない妹紅にとってはどうでもいいことだ。だがそれを承知しない者もいるということだろう。

「お前さん、退魔術の心得はないかい? 不届き者を狩れば、今なら一晩で大儲けだ」
「……私は普通の人間だよ」

 傾いた陽が、家々の隙間を縫って鋭く光を射してくる。間もなく陽が沈み、妖怪の世界がやってくる。路地を抜けた先の大通りには、家路を急ぐ人々の姿が見えた。

 以前の妹紅なら、二百年ほど昔の彼女なら、手を貸すことを厭わなかっただろう。むしろ自分から志願して戦ったはずだ。こういった機会は、自らの命と力を妖怪殺しに使うための格好の口実だったからだ。戦いの間は不死の憂鬱も全て忘れられたし、誰かの役に立っていると感じることだって嫌いではなかった。敗北を知らない彼女を、人々は英雄と呼んだ。
 それを止めてしまったのは、『英雄』という言葉が純粋な賞賛ではなく、彼女を祀り上げるための身勝手な称号であるということに気づいてしまったためだった。いつしか妹紅には、その言葉が人間のために力を尽くしてくれる便利な存在を指す言葉にしか聞こえなくなっていたのだ。

 世間話を切り上げて、妹紅は煙草屋を後にした。彼女が帰る先は里の外、迷いの竹林である。皆と真逆を目指す妹紅へ不審の眼差しを向けてくる人間もいつもならいるのだが、今日はそれがない。それどころか妹紅と同じく里の外を目指す者がちらほら見受けられた。いずれも退魔術を心得ている警備隊員なのだろう。夜間の警戒と護衛を行うために里の外へ赴くわけだ。

「…………」

 おそらく今も腕は鈍っていない。伊達に輝夜と連日の殺し合いに明け暮れているわけではない。この里にいるどの退魔術師よりも妹紅は強いだろう。けれどもう、彼女はその力を誰かのために使う気にはなれなかった。

 里を抜け、竹林の入り口に差し掛かった頃には、夕陽を追いかけていた細い月も沈んでしまっていた。携帯していた提灯に火を灯して少しだけ足を早める。

 妹紅がその気配に気がついたのは、背後の竹ががさりと鳴ったためである。妖怪か、と妹紅は振り向く。恐怖はない。妹紅が手を焼くほど強力な妖怪なら、こんなお粗末な尾行をするはずがない。

「……?」

 しかしそこには誰もいない。確かに下草を踏み締める音が聞こえたと思ったのに。
 まぁ、何者だとしても大した脅威ではあるまい。そう判断して歩き出した妹紅の脚が、三歩目で止まった。背後から確かに押し殺すような悲鳴が上がったからだ。
 面倒臭いと思いながらも、声の主がいるだろう場所へ一歩で跳ぶ。誰かのために戦うことは止めていても、誰かを見捨てて死なれたのでは夢見が悪い。

「誰かいるのか!? ……っておい」

 張り詰めていた力が思わず抜けた。そこにいたのは、竹林に多く見かける妖怪兎であった。見た目は幼児くらいの大きさがあるだけの普通の白兎だが、妖怪化しているだけあってこちらの言うことを理解して明確な反応を示すだけの知能を持っている。
 妹紅を見上げ鼻をひくつかせるこの兎が、先程の悲鳴の正体だろうか。そう考えたが、それをすぐさま否定した。兎の下に、子供の脚が延びている!

「ほら、お前、退けって。ちょっと、こら」

 何故だか頑として動かない兎を退かすのはちょっと骨だった。でかい分重いのだ。それを何とか押し退けると、兎はぴょんぴょんと竹林の奥へ去っていく。

「大丈夫? 心配ないよ。あいつら妙に人懐っこいところがあって」

 目を白黒させていた子供を助け起こして、その姿格好に息を飲んだ。着ているものはあちこちが破けたり解れたりしていて、腕や脚には沢山の生傷があった。そしてとても臭う。一言で言えば浮浪児だ。

「お前、里の子供? 私を追けてきたでしょう」

 その問いにようやく、少女の焦点が妹紅へと合う。それでも妹紅と視線を合わせたまま、彼女は口を開かなかった。煤けたぼさぼさの髪がふるふると揺れている。
 溜息をひとつ吐いて、妹紅は持っていた提灯を少女へ手渡した。ぎょっとしたような顔をしたのは、欠けた指を見たせいだろうか。

「ほら、これをやるから、家に帰りな。ここならまだお前一人でも帰れる」

 里の方を指し示す。それでも少女はなかなか動かなかった。「ほら」と少し語気を強めて、ようやくおずおずと歩き出す。去っていくその後ろ姿を見送ってから、妹紅は再び帰り道を進んだ。

 もう陽はとっぷりと暮れている。自らの眼のみを頼りに妹紅は竹林を進んだ。夜目はそれなりに利くのだ。迷いの竹林で目的の場所へ行こうと思ったら、適切な手順を踏む必要がある。ある地点を正確に直角に曲がらなければならなかったり、道が数秒待たないと現れなかったりする。妹紅も住み始めた当初は何度も遭難した。死んでも生き返る彼女だったからこそ、この迷路を制覇できたのである。

 四半刻ほどで庵に着いた。扉に手を掛けようとして、手の影が濃く落ちていることに気づく。

「……ん?」

 月明かりもないのに辺りがやけに明るい。妹紅を後ろから照らす灯がある。はて、と振り向くとそこには先程の少女がいた。手渡した提灯を提げたままだ。
 そんな馬鹿な、と妹紅は狼狽える。迷いの竹林をここまで抜けてきたということは、ずっと妹紅の至近距離にいたということである。そうでもしければ同じ道は辿れないのがこの竹林なのだ。提灯をずっと灯し続けるにせよ、一度消して点け直すにせよ、そんな派手な尾行をされたのなら妹紅でなくたって分かるはずだ。
 この少女は、恐らく何か他人の認識を歪める力を持っている。

 すわ輝夜の刺客か、と身構えるが、少女は何も言わずただもじもじするばかりであった。害意は欠片すら感じられない。どうすればいいか、きっと分かっていないのだ。

「……入りなよ」

 観念し、扉を開く。まさかここから人里まで子供を一人で帰すわけにも行くまい。
 少女はしばし逡巡してから、こくりと頷いて庵へと入った。

 住み慣れた庵に入ると、否が応でも臭いが鼻を突いた。雨に濡れた獣のような臭いだった。薄汚れた少女はもう何日も身体を洗っていないのだろう。
 何はともあれ、まずは風呂だ。手早く湯を沸かし、服をひん剥いて風呂場へ放り込む。彼女はどこか怯えたような顔をしていたが、「よおく身体を洗って、温まりなさい」と言いつけると、素直に従った。

 さてどうしたものかと、妹紅は頭を抱えた。子供の相手などいつ振りだろう。少なくとも人間に嫌気が差してからは一度もない。それに相手はただの子供ではなさそうだ。どうして妹紅を追いかけてきたのかが分からないし、どうやって妹紅を追いかけてきたのかも分からない。
 そういえば、布団は置いてあったっけ。妹紅自身は眠るときに布団を使わない。今まで泊まりに来た客もいなかったので、寝具一式はどこぞに仕舞い込んでしまっていた気がする。それに食事はどうしよう。自分しか食べないつもりだったので、大したものは用意していない。彼女にとって料理とは材料に加えて塩と水と火さえあれば事足りるものだった。死なない身体ゆえに、食べ物に関しても結構な無茶が利くのだ。だが客がいるならそうも行くまい。

 などと考えていると、いつしか少女が入浴を終えていた。身体も碌に拭わず、下着すら身につけないまま、滴をぽたぽたと垂らしながらぽつねんと妹紅の横に立ち尽くしていた。慌てて手拭いで髪と身体を拭いてやり、適当な自分の服を着せてやる。
 掻き抱くように座らせて、髪の水気を丁寧に取っていく。ぼさぼさだった髪はふわりとした柔らかさと満月のような銀色を取り戻していた。新品の石鹸を使わせただけあって、臭いはすっかり取れていた。

「ん?」

 頭を拭いてやっているうち、妹紅の手に固いものが当たることに気が付いた。地面から先端を覗かせたばかりの筍のような、小さなでっぱりだ。髪を掻き分けて確かめると、頭皮から白く尖った石のようなものが生えている。

「角……?」

 独り言にも、やはり少女は一言も返さない。無表情のまま、ただ妹紅のされるがままになっている。
 どうやら随分な荷物を背負い込んでしまったらしいと、妹紅は気がついた。



          ■



「いい? あんな風に地面から先が出てるやつはもう遅いの。地面の下にある筍を見つけなきゃいけない」

 妹紅は地面をとんとんと踏んでみせる。数カ所でそれを繰り返し、ある所でにやりと笑った。

「ほら慧音、ここにある。お前も踏んでごらん」
「うん」

 少女は返事とともに駆け寄ると、神妙な顔で妹紅と同じ場所を踏む。筍が土を割って顔を出そうとしているところには一目では分からない膨らみがあるのだ。それを足の裏で感じ取り、見つけて掘り出すのである。
 しばらく踏み締めて慧音もそれを探し当てたのか、鍬で地面を掘り始めた。やがて目当ての筍が姿を現し、彼女の顔が綻ぶ。掘り出したそれを籠に放り込むと、二人はまた竹林を歩き出した。

 初めて会った夜から十日ほどが経っていたが、少女はまだ妹紅の庵にいた。「慧音」という名は、少女が名乗った名に妹紅が漢字を当てたものである。心を閉ざしていた少女も、何日か共に過ごすうちに妹紅とだんだん打ち解けてきていた。それでも名前の他について、自身のことを何も話してはくれていない。だから妹紅もそれほど深く追求はしなかった。誰にでも聞かれたくないことはある。

 人との関わりを極力避けていた妹紅にとって、彼女は久々の友人だった。年も遠く離れているし、相手のことは何も知らないが、それでも同じ屋根の下で誰かと暮らしたのは本当に久しぶりだった。

「妹紅、妹紅!」

 慧音が嬉しそうに呼ぶ。そっちを見やると、彼女はもう二本目を掘り当てていた。

「お、なかなかの大物じゃない。その調子、その調子」

 頭を撫でて褒めてやると慧音ははにかむ。竹の葉の木漏れ日の中で、その笑顔は輝いて見えた。

 籠がいっぱいになったところで、朝の収穫を切り上げた。庵へ戻る道を慧音は駆けていく。妹紅の随分先を行っているが、彼女が迷うことはない。教えた道順を慧音はすぐに覚えてしまったのだ。筍の採り方もすぐに飲み込んでしまったし、頭の良い子供であることは間違いない。

 庵に着くと、慧音は庵の前で兎と遊んでいた。一緒に走り回っては地面を転げ回っている。相手はあの夜に慧音を押し倒した妖怪兎らしい。どうにもよく懐かれたようで最近は毎日のようにやってくる。

「怪我をしないでよ」

 重い兎を何とか胸に抱え上げながら、慧音は頷いた。

 妹紅は手を濯ぎ、昼食の用意に取りかかる。早朝から竹林を回っていたので、慧音も腹を減らしているだろう。
 筍御飯を炊き上げてそれを握り飯にした頃、泥だらけの慧音が庵へ戻ってきた。手をよく洗わせてから、二人でそれをたらふく食べた。

 明日にでもまた里へ出るつもりだった。煙草屋へ筍を売って、慧音の新しい服などを買ってやるのだ。
 それに慧音のことについても、情報を集めようと思っていた。里から妹紅を追いかけてきたことは確かなのだし、親族の一人もいるかもしれない。いつまでもここに置いておくわけにもいかないだろう。

 死ぬことのない妹紅にとっては、どんな人との出会いも刹那に過ぎない。それでも、それを喜んではいけないという法はない。皿を流しへと持っていく慧音を眺めながら、妹紅は刹那を平穏に楽しむことを思い出していた。



 眩しい夕陽の赤に、妹紅は目を覚ます。壁にもたれたまま、いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。傍らでは慧音も身を丸くして眠っている。それを起こさないよう、妹紅は静かに立ち上がった。
 庵を出る。竹林を涼しい風が吹き抜けていった。夏の暑気を連れ去っていく秋の風だ。心地よさに目を細めていると、茂みの中で何かが動いた。

「……ん、お前。まだいたの」

 見ると、慧音と遊んでいた妖怪兎がもそもそと早めの夕食をとっていた。近寄って撫でてやると、口をもぐもぐさせながら赤い目で妹紅を見上げる。

「お前らはいいなぁ。その辺の笹食べてればそれでいいんだもんなぁ」

 ふんふんと鼻を鳴らしたのは、兎なりの抗議だろうか。
 鮮烈な夕焼け空を、夜の藍色が塗り潰していく。そういえば、夕食の用意も風呂の準備もしていなかった。慧音が目を覚ます前にやってしまわなければ。

「お前もうちの子になる? どうせ餌代もかからないし、慧音も喜ぶだろうし」

 頭を撫でられながらも、しかし兎は、明確に首を横に振った。
 ぎょっとして手を離すと、兎はぴょんぴょんと跳ねて竹林の奥へと行ってしまう。
 その先には人影があった。ほとんど真横から差す夕陽に照らされた、その少女は。

「……っ!」

 妹紅は身構える。艶やかな黒髪に、白い端正な小顔。それは余りにも見慣れた、竹林の姫君。
 兎は彼女の足下に、すり寄るように甘えている。それを一頻り撫でてから、輝夜は妹紅を見据えた。彼我の間合いは三十間ほどだ。

「この子は私のものだわ。勝手に取らないでよ」

 叫んでいるわけでもないのに、その声ははっきりと聞こえる。密な竹林を間に挟んでいても、視線が真っ向から衝突しているのを感じる。

「こんな所に住んでいたのね。長い付き合いだけど、初めて知ったわ」
「……兎に探らせたの?」
「別に命令したわけじゃない。たまたまよ」

 輝夜は五色の実をつけたひと振りの枝を取り出す。蓬莱の玉の枝、彼女が本気を出すときに用いる神宝だ。それを見た兎が、戦闘に巻き込まれるのを恐れてか一目散に逃げていく。

「これでも心配していたのよ? 急に貴女が来なくなったものだから」
「そりゃ、どうも」

 そういえば慧音が庵に寝泊まりするようになってから、輝夜との殺し合いはぱったりとしていなかった。それまでは二日と置かずにぶつかっていたのに。
 ふわりと浮かび上がって、輝夜は一直線にこちらへ飛んでくる。竹の幹がしなって、姫君のために道を作り出す。
 何時何処であっても、二人が顔を合わせればやることは一つだけだ。

 両手に大きく炎を灯し、妹紅は地を蹴った。宙に浮かぶ輝夜へ瞬時に肉薄する。
 大きく開いた腕は、相手をかみ砕く咢だ。
 頭を燃やし尽くそうと勢いよく振り抜かれた両腕は、しかし躱されて空を切る。
 輝夜は瞬時に降下し、妹紅の両足へと抱きついていた。そのまま地面へと引き倒されてしまう。

 背中を強い衝撃が襲った。痛みに声を上げようとして、代わりに大量の血が口から溢れる。
 胸から鋭利な竹槍が生えていた。着地点に立っていた竹を、輝夜が何らかの力で斜めに切断したのだ。

「がはっ……」

 身を起こそうとするも、貫通している竹を抜くことができそうにない。
 輝夜は妹紅の真上に浮かびながら勝ち誇っていた。切り倒したのだろう竹が、その傍らに浮かんでいる。そちらの切断面も、当然ながら鋭い槍だ。

「あら、その指。どうしたの?」

 半分の指が欠けたままの手に気づいて、輝夜は意外そうな声を上げた。もちろん、気遣いの言葉ではない。

「一旦死ねば、元通りになって生き返れるのに」
「……ッ!」

 普段なら、そうしていただろう。しかし今回は何故だか、そうする気になれなかったのだ。
 それをしてしまうと、本当に人間でなくなったことを認めてしまうようだったから。

「お前には……分からないだろうね……」
「そうね。分からないわ」

 くすくすと笑って、輝夜は竹槍を射出した。超能力によって猛烈な速度を持たされたそれは、妹紅の腹をも地面に縫いつける。二つ併せて、間違いなく致命傷だった。こんな死に方は数え切れないほど経験したからすぐに分かる。
 輝夜の哄笑が響いている。意識を手放すその寸前、妹紅は自らの体に火を点けた。

 不死鳥は死に際して自らを燃やし、その灰の中から生まれ変わるという。それを模した再誕の術である。数秒の間、竹林が閃光によって征服される。やがて妹紅の身体を燃やしていた炎が、一対の翼となって舞い上がった。熱の波動を撒き散らしながら、不死鳥は辺りに延焼していた炎を吸い込んでいく。

 光が収まると、炎翼を背負った妹紅が姿を現した。胸にも腹にも傷はないし、手の指も十本全て元通りになっている。

「輝夜、どこに隠れたのよ!?」

 猛禽のごとき眼で宿敵を捜す。一度殺されたのだから、一度殺してやらなければ気が済まない。姿は見えないが、まだこの近くにいるはずだ。

 すると突如として、妹紅の周囲に五色の大きな玉が出現した。
 妹紅は舌打ちする。これは輝夜からもう何度も喰らった攻撃だ。五つの玉が妹紅を打ち据えんと、あらゆる方向から襲いかかるのである。頭にでも喰らってしまえばまた死んでしまうだろう。

 まるで燕のごとき素早さで、玉が舞い始めた。
 妹紅は急制動を何度も繰り返し、回避する。

「さっさと、出てきなさいってば!!」
「別に隠れてないわよ」

 声が聞こえてきた方へ、視線だけを向ける。庵の近くで、輝夜は蓬莱の玉の枝を掲げて浮遊していた。あれでこの五つの玉を操作しているのだ。
 躱し続けながらも、妹紅はそちらへと間合いを詰める。周囲の竹が剛速の玉たちによって次々に砕かれていく。

「殺してやる、輝夜ァ!」

 玉の襲来する隙をついて、妹紅は両翼を大きく震わせた。すると数枚の羽根が舞い上がり、まるで意思を持つかのように輝夜を狙い飛翔する。ふわりと輝夜が回避すると、元いた場所で竹の枝が数本切り裂かれた。妹紅の放つ炎の羽根が刃となって、次々と弧を描いて姫君へ襲いかかっていく。

 激しい攻防が続いた。妹紅にとっては間合いを詰めた方が、輝夜にとっては離れた方が有利だ。自分を仕留めんと迫り来る攻撃を、両者は追いつ追われつ繰り返す。美しくも危険な舞が、夕暮れの竹林で繰り広げられた。

 やがて勝利を手繰り寄せたのは、今度は妹紅の方だ。

「貰った!」

 炎の刃が、輝夜の右腕を捉えた。握る蓬莱の玉の枝とともに腕を肩口から奪われ、輝夜の顔が苦痛に歪む。妹紅を狙う五色の玉も、その勢いを僅かに落とす。
 その隙を逃す妹紅ではない。ありったけの力で無数の刃を放った。狙いは残る左腕と両脚だ。胴を地面へ磔にされた意趣返しに、達磨にしてやろうというわけだ。深手を負った輝夜にその全力の攻撃が躱せるはずもない。四肢と鮮血を撒き散らしながら、呆気なく姫君は墜落した。

 仰向けの輝夜の傍に降り立つ。胴と首だけになって呻く輝夜の姿はとても滑稽で、妹紅は笑みを抑えられなかった。

「あ、あ、あ……」
「どうしたのよ、姫様。言いたいことがあるならちゃんと言ってくれなきゃ分からないでしょ?」

 言いながら、掌に炎を練り上げる。燃やし尽くせば、それで終わりだ。

「あ、あぁ。あな、たは」

 びくびくと震えながら、それでも輝夜は妹紅を鋭く睨んだ。

「貴女は、私の、ものよ。勝手に、他の奴に、くれてやったり、するものですか」

 目だけでにやりと笑って、妹紅の後方へと視線を投げる。彼女も釣られて振り向いた。
 そして思わず息を飲む。庵の戸の影でかたかたと震えながら、脅えた表情の慧音がこちらを覗いていたのだ。それは妹紅にとって、とても見慣れた目だった。人外の脅威を恐れる、徹底的な拒絶の目。

「け、慧音。いや、これは……」

 違うの、と言いかけて後が続かなかった。何も違いやしない。宿敵である蓬莱人を惨たらしく殺す姿は、いつも通りの妹紅でしかない。

 広げたままだった翼を消して、慧音へ一歩だけ歩み寄る。優しげな顔を取り繕う。弁解したかった。自分がこんなになってしまうのは、輝夜に対してだけなのだ。永い永い時を過ごすためには、ありったけの憎しみを燃やさなければならないのだ。そう伝えたかった。
 手を伸ばす。その手に生え揃った五本の指を見て、慧音がさらに震え上がった。妹紅も気づく。普通の人間ならば、一度失った指が元に戻るはずがない。

 近寄った分だけ、慧音は後ずさる。庵から離れようとして、戸から離れたところで腰を抜かした。尻餅をついたまま、それでも妹紅から遠ざかろうとする。もう手遅れだった。決定的な恐怖を、妹紅は与えてしまったのだ。

「輝夜、お前、まさか仕組んだのか」

 問いかけに応える声はない。出血のためか、姫君は既に絶命していた。
 もしも彼女が、殺し合いに出てこなくなった妹紅を引っ張り出すために、その原因だった慧音との関係を断絶させようとしたのだとしたら。そのために妹紅の庵の場所を兎から聞き出し、わざと自分を慧音の目の前で殺させたのだとしたら。

「慧音、聞いて。私は ―― 」

 その声は届かなかった。慧音は立ち上がって、一目散に逃げ出していた。慌てて後を追う。追いかけながら、妹紅は泣いていた。自分はもう、きっと人間には戻れないのだ。どれだけ自分で否定したとしても、藤原妹紅は完全に化け物と化したのだ。



          ■



 どうして人間嫌いな自分が、慧音を受け入れてしまったのか。それはずっと心のどこかに引っかかっていた疑問だったが、思えば答えはとても単純だった。疎まれ者同士の親近感だ。慧音が妹紅に追いてきた理由も同じだろう。互いに相手のことを、「自分を理解してくれる仲間だ」と誤解してしまったのだ。馴れ合いゆえに心地よかった関係も、あっさりと化けの皮を剥がされてご破算と相成ったわけだ。
 そんな経験ならば妹紅には何度もあった。永い人生の中で擦れ違った人は数え切れない。擦れ違いで終わらなかった人だって何人もいる。そのいずれも結末は同じだった。真に分かり合えた人間は終ぞいない。終わりのある者とそうでない者、両者の間には海よりも広い隔たりがある。幻想郷に至り輝夜と殺し合うようになってからはもうずっとそれに夢中だったので、久しく忘れてしまっていたのだ。

 そう、だから今回だって同じことだ。何度も繰り返されてきたことが、また起こってしまっただけだ。
 それなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。

「半分だけ人間なんだそうだよ、あの子は」

 卸した筍を見定めながら、煙草屋の老婆は言った。妹紅が持ち込んだものなら大抵のものは買い取ってくれるので、そういった意味でもこの店は有難い。しかし今は、その恩恵にも素直に喜べなかった。
 夜を徹して竹林を可能な限り探したが、結局慧音は見つからなかった。迷いの竹林は広大である。そこで迷子を捜すのは、大海に流れる瓶を見つけ出すようなものだ。

「どこぞで作られた、ハクタクの力を持つ人間なんだとさ」
「作られた? どういうこと、っていうか、何で知ってるの?」
「そりゃあ聞いたからよ。八雲の紫様からね」

 胡散臭いことに大妖怪の名前が出てきた。竹林の外には疎い妹紅でも、名前くらいは聞いたことのある大物である。確か博麗大結界とやらを推し進めているのもそれだったはずだ。一介の人間が面識ある相手とも思えなかったが、この老婆の言うことをどこまで本気にしたものか。

「ハクタクは歴史を司る妖怪だ。そいつがどれだけ有用か、少し考えれば分かるだろう」

 歴史を自在に操る力。それは権力者にとっては喉から手が出るほど欲しい力だ。自分や敵の歴史を書き換えてしまえば、民衆を動かすことは容易いのだから。それが真実であるかどうかは関係ない。確かめる術がなければ、それはいつか真実になってしまう。

「その力を手中にするため、外法を使う者たちがいた。子供の血を生きたまま抜いて、代わりに捕らえたハクタクの血を流し込む。十人試して九人は死んでしまうけども、一人は生き延びて生まれ変わるそうだ」
「本当に? 随分と乱暴なやり方だね」
「落ち武者部落の話と聞いたよ。何百年経っても自分たちがまだ追われていると思い込んで、隠れるのに躍起だったのさ。だからその力に目を付けた。ハクタクの力で村の歴史を喰わせ、部落が誰にも見つからないようにした」

 まるで見てきたような口振りで、老婆は話す。

「隠れ続けたのはいいんだが、その部落が流行り病に襲われちまった。そうすると今度は隠し続けたことが災いしてお医者様も呼べん。結局生き残ったのは、半分妖怪となっていたあの子だけだった。八雲様が拾ったときには、累々の村人の死体の中で、ぽつんと立っていたそうだよ。ひっひっひっ、怖いねぇ」

 もしもそれが本当だとしたら、悍(おぞ)ましくも悲しい話だ。

「それで、八雲が人里に住まわせたってわけ?」
「あぁ。だがここの子供たちになかなか馴染めなくてね。何せここの子供たちは妖気には目敏いから、すぐにあの子が他と違うことに気が付いた。余所者で半分妖怪。増してや、最近の妖怪襲撃騒ぎだ。爪弾きにされるにゃ十分な理由だった」

 たくさんの生傷を追っていた理由はそれか、と妹紅は思い当った。苛めが一度始まってしまえば、子供たちは大人よりも冷酷になる。口を噤んでいたのも、それほど辛かったということだろう。

「だからあの子は、きっと自分の力を自分に使ったんだろう。自分の歴史を喰って隠せば、まるでそこに誰もいなかったかのようになるからねぇ」
「そうか、それであの時、追けられても気づかなかったのか……」

 慧音はこれからどうなるのだろう。今どこにいるとも知れないあの子は、幻想郷でどうやって生きていくのだろう。人間でありながら妖怪の血を持っている彼女は、いったいどちらとして生きていくのだろうか。どんな道を選ぶにしても、それはきっと平坦な道ではない。何度も躓いて、何度も苦しむ道だ。

 それでもあのとき、慧音は自分を恐れた。それは多分、彼女がまだ人間である証拠だ。
 筍を見定め終わった煙草屋に、妹紅は尋ねた。

「あの子は、どこに住んでたの?」



 妹紅は人里を早足で歩いた。教えられた慧音の住まいはこの先だった。まだ陽も高い時間であり、大勢の人が往来している。煙草屋で鳴いている閑古鳥が嘘のようだが、それでも空気はどこか重い。漏れ聞こえてくる噂話には、不穏と不安が見え隠れしていた。

―― こう毎日のように妖怪が襲ってくるんじゃ、夜も眠れやしない。
―― 数が多すぎて、対処し切れねぇんだとよ。
―― 結界だか何だか知らないが、妖怪どもの都合だろう。それで俺らが襲われるんじゃ、堪んねぇよ。

 里を襲う野良妖怪の害は、だんだんと酷くなってきているらしい。住民たちにとっては差し迫った危機なのだろうが、妹紅にはそれすら遠い世界の話に聞こえた。人間ではなくなってしまった自分にそれを語る資格はきっとない。

 だんだんと家の数が減り、田畑の方が目立つようになってきた。人里へ慧音が預けられたとき、里は一軒の家を彼女へ宛がったのだという。煙草屋に目印として教えられたのは「扉に鉤型の傷がある家」ということだったが、そんな家が見つからないまま里の端に着いてしまう。首を捻りつつ、元来た道を妹紅は戻った。
 もう一度注意深く探すと、どう見ても農具置き場にしか見えない廃屋が目に着いた。入り口に立てかけられた板には、鉤型の傷。

「……嘘でしょ?」

 それは柱と屋根に崩れた壁があるだけの、辛うじて雨風だけは凌げそうな建物だった。扉、というか板を退かすまでもなく、中の様子が丸見えである。四畳半ほどの空間には床などというものはなく、湿った土に藁が敷かれているだけだ。妹紅は自分の庵が上等な住まいだとは思っていないが、この小屋の百倍はましだろう。
 あまりのことにもはや怒りすら感じない。ただ信じられないという想いだけがあった。山里が余所者に対して排他的であることはままある。しかし少女を独りこんなところに放り込むというのは、家畜のような扱いではないか。
 これも、慧音に妖怪の血が流れているせいなのか。

「巫山戯ないでよ」

 居場所が必要だ。慧音が人間として暮らしていける場所が。
 それが正しいことかどうかは、妹紅には分からない。それでも、この世界は全てを受け入れてくれるほど寛容ではない。慧音は里の人間にならなければならないのだ。
 自分はきっともう間に合わない。だが彼女はまだ間に合うはずだ。そしてそのために、妹紅にできることがあるはずだ。

 妹紅は再び歩き出した。里への道を早足で戻っていく。小屋を建て直すのだ。そのために先立つものが必要だった。幸か不幸か、今なら妹紅にとって手っとり早い方法がある。それを逃す手はない。
 何せ、「一晩で大儲け」である。



          ■



 迷いの竹林の開けた場所にて、慧音は膝を抱えて『本』を見ていた。彼女にしか、ハクタクの力を持つ者にしか見えない『本』だ。それは彼女が望めばいつでも目の前に現れて、思い通りのところを読ませてくれるのだ。あの庵から逃げ出して、結局道も何も分からなくなってここに座り込んでしまってからは、慧音はずっとそれをぼんやりと眺めていた。

 開いているのは、無限の厚さがあるその本の中の、自分自身について記された頁だ。
 その上に、彼女は墨を塗った。何度も、何度も。そうすれば慧音についての歴史は隠されて、自分はそこにいないことになる。だがそれも万能ではなかった。自分をここへ連れてきた妖怪はいとも簡単に隠した村を見つけ出したし、里の子供たちはいつだって自分を見つけ出して石を投げた。歴史に捉われない存在には無力な力なのだ。

 無駄と知りながら、それでも慧音は墨を塗る。幾重にも重ねて自分を塗り潰す。
 消えてしまいたかった。この世の歴史から、いなくなってしまいたかった。

 自分はあのとき、村の皆と一緒に死ぬべきだったのだ。なまじ半分妖怪となってしまっていたせいで、流行り病は自分にだけ牙を剥かなかった。優しかった皆が苦悶の果てに物言わぬ躯と成り果てるのを、慧音はただ見ていることしかできなかった。独りきりになってしまっても、彼女はそこにいた。他に行くべき所など思い当たらなかったからだ。

 その予感は正しかった。この郷には、慧音の居場所はない。人間たちは、妖怪でもある自分を疎んでいる。怖がって遠ざけたがっている。
 かといって、里の外で妖怪として生きても行けなかった。妹紅の闘いを目の当たりにしたときに、慧音は恐怖しか覚えなかったのだ。あんな風に戦って生き延びていけるはずがない。

 どうしたらいいのか、分からなかった。
 どうすればいいかを、誰も教えてはくれなかった。

 人間でも妖怪でもない自分は、どこに存在することももう許されないのだ。だから、いなくなってしまおう。それが彼女が出した結論だった。なるべく痛くないように、自分のできるやり方で、消えてしまえばいい。そのために、自分の存在した歴史を綺麗に消してしまおうと思ったのだ。

 それなのに。

「…………どうして」

 どうして、うまくいかないのだろう。

 何度試しても駄目だった。歴史を喰らう程度の自分の能力では、自身を痕跡すら残さずに消し去ることはできなかったのだ。
 ならば、もう一つの力に頼るしかない。

 山の端に夕陽の最後の一欠が沈む。慧音は立ち上がった。その拍子に、涙が二粒ぽとりと落ちた。
 東の空を見やる。もうすぐ真ん丸い月が昇る。今宵が満月であることを彼女は勿論知っていた。満月の光で慧音は完全に妖怪へと変ずるからだ。変身すれば歴史を司る力もずっと強力になる。ただ隠すだけでなく、創ることもできるようになるのだ。墨で塗り潰すのではなく、自在に書き換えてしまえるのだ。
 ハクタクの究極の力で自分の歴史を書き換える。そうすれば今度こそ、この世から消えてなくなることもできるかもしれない。

 全身の血が騒めいているのが分かる。慧音の心を無視して、身体がどんどん昂揚していく。頭の中で誰かが暴れていた。慧音の内側から頭蓋をどんどんと叩いて、外に出せと叫んでいた。無駄な抵抗と知りつつも、慧音はいつもその衝動に抗ってしまう。それを抑え込めるのはほんの数秒だけだ。頭の中の誰かの打撃は少女の頭をぶち破り、二本の大きな角となって現出する。ぐらぐらと世界が揺れて、慧音は地面へ倒れ伏した。無限の頁が出鱈目な早さで捲れていき、古今東西の歴史全てが彼女の元に集ってくる。

 一瞬だけ意識が遠くなり、魂が抜けるような感覚に陥る。
 それが収まった頃に、慧音はゆっくりと目を開いた。

「……………………」

 まだふらふらする頭を振る。角のせいでいつもよりずっと重い。脚に触れる柔らかい感触は、こちらも変身によって生えてきた尻尾のものだ。
 本を捲る。早さはいつもと比べものにならない。自分自身の歴史が書かれた頁も、容易く開ける。

 あとはこれを書き換えるだけだ。歴史を創る力は、それを壊す力でもある。塗り潰すのではなく、完全に消去してしまうのだ。
 頁に手を翳す。少しだけ、躊躇した。覚悟を決めたはずなのに、まだ怖かった。
 目を瞑って深呼吸を一つする。大丈夫。石を投げられるより、痛くないはずだから。

―― がさり。

 突然、背後の茂みが鳴った。びっくりして振り向くと、あの妖怪兎がいた。鼻をひくひくさせながら、その赤い瞳で慧音を見つめている。
 暫しの間、二人の視線はぶつかったままだった。

 兎は何も言わない。その無言が時間を鈍化させているようだった。ゆっくりとしたその流れの中で、慧音は吸い込まれるように赤い瞳から目を離せなくなる。抱き上げたときの温もりと重みを、その匂いを思い出す。嬉しくて楽しかったことを、思い出す。
 慧音は思わず兎へと駆け寄って、その首に抱きついていた。大きな耳が角にぱたぱたと当たった。

「……さよなら」

 掠れた声で何とかそう口にした。別れの言葉を言える相手が来てくれてよかった、と思う。きっとすぐに忘れられてしまうのだろうけど、それでもただ黙っていなくなるより少しはましだ。
 兎が鼻先で慧音の髪を弄ぶ。

「さよならじゃないよ」

 鈴を転がすような声が耳元に聞こえ、慧音は驚いて身を起こした。
 赤い瞳を覗き込む。今、確かに、兎の口から。

「おいで」

 今度ははっきりと見えた。兎が喋ったのだ。
 ただの兎ではないことは分かっていたが、それでも喋るとは思わなかった。

「おいでって、どこに……?」

 慧音が聞き返すと、兎は竹林をぴょんぴょんと跳ねていく。呆然としていると、数歩進んだところでこちらを振り向いた。追いてこいと言っているらしい。
 どうするか、迷った。例え兎が喋ったところで、今更何も変わりやしない。世界が優しくなったりするはずがない。

 そうと分かっているのに、気が付けば慧音は後を追って歩き出していた。結局、自分は覚悟を決めきれなかったのだ。下草を踏みしめながら慧音は己を蔑む。それは弱さゆえの逃避に違いなかった。小さな小さな半端者は、一人では何もできないのだ。

 強さが欲しかった。己のことを己で決められる強さが。
 勇気が欲しかった。己を消すことをも恐れない勇気が。
 そのどちらもないのなら、きっともう自分には何もない。



 兎は竹林をずいずいと進み、やがてはその外へと出てしまった。それでも跳ねる兎は止まることなく、むしろその速度を上げて月夜を駆けていく。慧音も懸命に走った。満月の光によって妖怪となっていなければ、とても追いつけなかったに違いない。
 兎の向かう先に、疎らな灯りが見えてきた。あれは人里の灯りだ。夜間の襲撃を警戒する退魔術師たちが、できるだけ夜闇を祓わんと点(とも)しているのだ。
 兎はどうやら、自分を人里へ向かわせようとしている。その事実に気が付いて、慧音の足が重くなった。

「…………?」

 速度を落とすと、周囲の雰囲気がおかしいことに気が付いた。音もなく何かが騒めいている。目に見えないが闇を満たす何者かがいる。涎を滴らせながら、誰かが舌なめずりをしている!

「走って、歩いてちゃ駄目だ!」

 兎の声に、慧音は再び駆け出す。
 すると、夜の闇がもくもくと蠢き始めた。漆黒が意思を持って、慧音が目指すのと同じ方向へと動き出した。空から、地から、森から、川から。ありとあらゆるところから闇が湧き出して彼女を追い越していく。

 やがてそれらは、様々な形を取り始めた。
 人間を一口で飲み込んでしまいそうな狗。
 拡げた翼が家程の大きさのある巨大な鳥。
 二本の脚に六本の腕を持つ歪んだ顔の鬼。
 長く太い体を雄大に宙へくねらせる大蛇。
 夜空を埋め尽くしそうなほどの蟲の大群。
 雷のような足音を響かせ猛然と走る巨人。

 数えきれない妖怪たちが、人里へ向かって走っていた。襲撃だ。それも、今までにない規模の。満月の夜は妖怪の力が最も強くなる。それに合わせて、野良妖怪達は一斉に人里を襲おうとしているのだ。
 慧音は必死に走った。足を止めれば自分も喰われるか、あるいは踏み潰されてしまうだろう。彼女が今妖怪となっていることが幸いした。この恐るべき百鬼夜行の一員だと勘違いされているようで、慧音を襲う妖怪はいなかったからだ。

 兎はかなり先行してしまっているようで、もうその姿は豆粒ほどにしか見えない。しかし向かう先はもう分かり切っている。満月から貰った力を全てその脚に注ぎ、ただ人里へと走る。

 その先でまた一つの灯りが点った。とても大きな光だった。
 空へと昇ったそれはある一点で静止し、さらに爆発するように膨らんで、炎の翼となった。

「あ……」

 慧音はその光を知っている。その強さと恐ろしさを知っている。
 どうして人里にいるのかは分からない。それでも彼女がいるのなら、きっと。

 炎の翼がひとつ羽ばたくと、光は流れ星のように空を裂いてこちらへ向かってくる。その周囲に無数の炎弾が生じ、緩やかな弧を描いて闇の軍勢へと迫った。
 前方を走っていた妖怪に、次々と炎が直撃する。一つ一つが慧音ほどの大きさの炸裂弾なのだ。喰らってしまえばひとたまりもない。

 それを皮切りに、里からも無数の攻撃が飛んでくる。破魔の矢、呪符、霊力弾。退魔術師たちも迎撃を開始したのだ。
 走る妖怪たちがどんどんやられていく。それでも百鬼夜行の勢いは止まらない。最前線がやられてしまっても、その奥にはまだまだ次が控えているのだ。この勢いでは、半分以上の妖怪たちが里へ辿り着いてしまうだろう。

 慧音と同じ結論に、空にいる彼女も至ったようだった。炎の翼は妖怪たちの行く手に着地し、周囲を燃やして自らを誇示した。そして叫ぶ。

「有象無象の木っ端ども! 燃やされたくなきゃ尻尾巻いて帰りな!」

 あからさまな挑発に、最前線の妖怪の三割ほどが乗る。小娘を踏み潰さんと、幾つかの巨大な影が僅かに進路を変える。残りは挑発が聞こえていないのか、あるいは無視したのか。人里への突進を止めない。

 少女は着地点より後方へ飛び上がった。逃げたのか、いや違う。

「そうか、燃やされたいなら好きにしなよ」

 突如、慧音の前方数間のところに、巨大な炎の壁が噴き上がった。着地の瞬間に地面へ仕込んでいたのだろうか、無数の火柱が妖怪たちの行く手を塞いだのだ。最前線が爆発に巻き込まれ、何匹かは火の玉と化して空高く打ち上げられている。
 慧音は思わずその場に立ち竦んだ。同じように里へ走っていた妖怪たちが立ち止まる。誰もが恐れ慄く、圧倒的な炎だった。百鬼夜行は阻まれた。空を飛ぶ妖怪さえ、撃墜を恐れて前へ進めなくなっている。

 里より鬨の声が上がった。襲撃が足止めされているのを見て、退魔術師たちが攻勢に転じたようだ。
 炎の壁の向こうから、炎を纏う少女もどんどん炸裂弾を撃ち込んでくる。どうん、どうん。それが着弾する度、地面が大きく揺れた。

「……………………」

 足が棒になったように動かない。慧音は凄まじい熱の中、ただ炎の壁を見つめていた。周囲の妖怪たちがどんどん斃されていく。疎らに反撃する者もいるようだが、まるで歯が立っていない。このままでは、自分も妖怪として殺されてしまうだろう。

―― いいじゃないか、それで。何の問題がある?

 そんな風に、心の中の自分が言った。どうしようもなく弱い、本当の自分だ。
 慧音が妖怪であることに間違いはない。人間として生きていけないのだから自分は化け物なのだ。戦う力もない哀れな怪物だ。だから消えてしまおうとして、それすらできなかった。ならば、誰かに手を下してもらうしかないだろう。

 慧音は目を閉じる。来たるべき瞬間を、ただじっと待つ。
 このままここにいればそれが叶うのだ。妖怪として死ねるのだ。
 それにどの道、逃げ場などない。

「こっちだよ!」

 声がした。見ると、炎の壁のすぐ傍からあの兎が慧音をじっと見つめていた。

「立ち止まっちゃ駄目だ、進むんだ。君が持つ力ならできる」

 無理だ、慧音は首を大きく振った。自分にできるのは無限の本を捲り、それを塗り潰したり書き換えたりすることだけだ。炎と妖怪に囲まれたこの状況を打破できるような、そんな強大な力は持っていない。

「こんなときどうしたらいいのか、君には分かるはずだ。全ての歴史を読むことのできる君なら」

 答えは歴史の中にあると、兎は続ける。
 炎に阻まれて、先へ進むことができないという今の状態。
 それを考えているうち、慧音の脳裏にある光景が浮かんだ。それは無限の本で読んだことのある内容だ。すぐさまその頁を呼び出す。

 ずっとずっと昔の、神の世から人の世へ移ったばかりの頃の話。東征へ赴いたヤマトタケルノミコトは、駿河の地で敵の火攻めに遭った。その際、彼は一振りの剣で辺りの草を斬り、それを退けたのだという。
 それが三種の神器のうちの「剣」、天叢雲剣だ。火を祓った由緒ある剣である。

「これ、でも……」

 どうすれば、と口にしかけて、自分の手に握られたものに気が付いた。いつの間にか、慧音は剣を持っていた。本物ではない。本物であれば重くて持てたものではなかっただろう。言わばこれは具現化された歴史だ。本にある歴史から生み出された幻影なのだ。

「行こう!」

 何が何だかわからない慧音を置いて、兎は再び駆け出す。轟々と燃え上がり続ける炎壁へ、躊躇うことなく飛び込んでいく。
 慧音もそれに続いた。熱と光に気圧されそうになるも、駆け足を止めない。きつく目を瞑ったまま、炎へと身を躍らせる。

 燃えてしまうと思ったが、灼熱の抱擁はいつまで経っても訪れなかった。徹底的に鈍化した狂いっぱなしの時間意識の中、慧音は恐る恐る目を開く。
 そのとき見た光景を、彼女は一生忘れないだろう。自分はただ炎の只中にあった。鮮烈な光に囲まれて、土竜(もぐら)が地中を掘り進むがごとく炎壁の中を飛んでいた。足元から次々と湧き上がる赤い波が、慧音を避けて夜空へと噴き上がっていく。無限の頁を持つ本が、無限の長さを持つ巻物へと変じていた。それが剣を持つ少女を守るように取り巻いている。
 僅かに飛翔した数秒間が、永遠のようにも思えた。

 そして炎を抜けた。着地などできるはずもなく、無様に地面へと突っ込んだ。
 剣も巻物も、いつの間にか消えている。

「痛ててて……」
「誰だ、私の炎を抜けてくるとは、って」

 空からひたすらに炎を撃ち込んでいたはずの妹紅が、すぐさま降下してきていた。里を襲う妖怪の一匹だと思ったのだろう。しかしすぐに様子がおかしいことに気が付いたようだった。
 燃え上がっていた翼が、消える。

「お前、慧音か」
「……………………」

 慧音は何も応えられなかった。色んなことがぐるぐると頭の中を渦巻いて、どうすればいいのか分からなかった。それは向こうも同じようで、こちらを見る目には様々な感情が見え隠れしている。
 最初に彼女に追いていこうと思ったのは、里の外へ行きたかったからだった。里の外に住む人間かいるなんて知らなかったのだ。自分といるときの妹紅はとても優しくて、だからこそあの豹変が信じられなかった。鬼神のごとき強さで少女を嬲り殺すあの姿は、別人のようにしか見えなかったのだ。

「私 ―― 」
「いいんだ、今は何も言うな」

 妹紅に抱き締められる。角が当たった彼女の胸がむにゅりと潰れる。

「私は、きっともう人間じゃないんだ。とっくの昔に、私は化け物になっていた」

 こんなに心が暖かいのは初めてだった。炎の壁のすぐそばにいるのに、熱よりも強い温もりを感じた。

「けど、慧音はまだ間に合う。私はもう戻れないかもしれないけど、それでもお前なら……」
「間に、合う?」

 何が間に合うというのか。人間でなくなってしまったのは、自分も同じだ。
 しかし、妹紅は首を振る。

「間に合うよ。人間かどうかは、姿形の問題じゃない。誰かのために戦えるかどうかだ。私はもう、自分のためにしか戦えなくなってしまった。慧音はそうなっちゃ駄目だ」

 妖怪と違って人間は弱い。だから集団で戦うのだ。あの里を守る退魔術師たちのように。
 それができれば、自分も ――

「危ない!」

 妹紅が慧音を抱いたまま、炎の翼で空へ舞い上がる。
 一瞬前まで二人がいた場所を、大蛇の尾が強く打ち据えていた。

 遂に妖怪たちが炎壁を越えだしているのだ。一匹だけではない。炎を踏み潰して、あるいは飛び越えて、妖怪たちが雪崩れ込んでくる。進撃が再開しようとしている。

「あれは二発は撃てない……。ここからはひたすら白兵戦ね」

 妹紅は後方へ退がり始めた。時折牽制弾を放ちながら、地上を進む守備隊とすれ違う。やがて里の外れに着地すると、慧音の肩を掴み言い聞かせた。

「よく聞いて、私の言う通りにしてほしい。あの妖怪たちを全て止めることは難しいだろう。だからお前の力を貸して」
「私の、力?」
「里の歴史を隠して、何もないように見せかけるんだ」
「無理だよ、広すぎる」

 かつて自分がいた村と比べて、広さが五倍はある里だ。広ければ広いほど人も多く、塗り潰すべき歴史も多い。

「落ち着いて。無理かどうかは、やってみなくちゃ分からない。慧音ならきっと大丈夫」
「……………………」
「私は戻らなきゃいけない。後は、お願い」

 肩をぽんぽんと叩いてから、妹紅は背を向けた。少し助走をつけて、再び夜空へ舞い上がる。

「……妹紅!」

 思わずその背中を呼び止める。
 伝えたいことがあった。伝えなければいけなかった。

「妹紅だって、分からないよ、やってみなくちゃ。まだ、人間に戻れるかも、間に合うかもしれないじゃない!」

 不死鳥は目を丸くした。そして少しの沈黙の後、微笑む。

「……そうだね、頑張って、みるよ」

 慧音も笑い返した。もう妹紅を怖いとは思わなかった。誰かのために戦うことができるのが人間だというのなら、彼女も間違いなく人間だ。慧音のために、これほど力を尽くしてくれたのだから。

 光の尾を引いて火の鳥は前線へと戻っていく。それに背を向けて、慧音は里を睨んだ。忌むべき場所であり、自分が生きていかなければいけない場所でもある。そして自分が守ることのできる居場所だ。

 本へと戻った歴史の、尽きることない頁を捲る。そして、片端から塗り潰していく。
 何も見えなくなるまで。何もなくなるまで。ただひたすら、一心不乱に。



          ■



 数日後。

 客のいない煙草屋で、店主の老婆は一枚の号外を眺めていた。鴉天狗がそこらじゅうで撒き散らしていたのだ。いつもなら里の住人たちもいい顔をしないのだが、今回ばかりは少し様子が違った。何せ里の慶事である。受け取った者たちはにこやかにそれを読んでいた。

―― 『不死鳥と歴史喰い、里を救った二人の英雄』

 そう題された記事には、どこか不恰好に写真に納まる二人の少女の姿があった。扉に鉤型の傷のある家の前で撮られた写真のようだが、それは煙草屋の知るあの廃屋ではない。人が住んでいてもおかしくない小さな家へと生まれ変わっている。妹紅が一晩のうちに稼いだ報酬で改築させたと記事にはあった。
 二人のことはもう、里中が知っている。誰もが口々に英雄を称えている。

「身勝手なもんだよ、まったく」

 半人半獣の子供を排斥しようとしていたことを突かれると、皆決まって「知らなかったのだ」と答えるのだ。
 曰く、彼女が人間の味方だと知らなかった。
 曰く、そもそもそんな少女がいたことを知らなかった。
 知らないことが免責になると思っているのだ。不知も罪になり得るということを、彼らは知らないのだろう。

 足の上に何かが乗っかってきて、老婆は視線を落とす。

「……お前、まだいたのかい」

 大きな兎が、どこで手に入れたのやら人参をぽりぽりと齧りながら、彼女を見上げていた。竹林より慧音を導いた、あの妖怪兎だ。

「おぉ、まだ式を貼りつけたままだったよ。すまないね」

 すると、ぽんと高い音が響いて老婆が白い煙に包まれた。その中から、大きな尻尾が九本飛び出す。

「これでいいだろう? お前も帰るんだ。……竹林は遠いから送っていってくれ、だって? お前も身勝手なやつだなぁ」

 八雲藍は大仰に溜息を吐いて見せた。普通であれば、狐と兎は狩る者と狩られる者という関係の筈だ。そのくせに随分と大きな態度に出たものである。
 彼女が主たる八雲紫より与えられた任務は、結界の構築が終わるまで、最も危険が多く迫るだろう人間の里を守護することである。そのためにわざわざ蓬莱人を一人焚き付けたのだ。竹林まで出向くと里がその間手薄になってしまうが、まぁ今なら大丈夫だろう。あれだけの大群を退けた英雄がいるこの里に、わざわざ手を出そうという妖怪はもはやおるまい。

「幻想郷は全てを受け入れる。これからはそうなるんですよね、紫様」

 博麗大結界によって、幻想郷は大きく様変わりするだろう。今までは対立が多かった両者も、これからきっと変わっていく。変わらなければ、どちらの側にも悲しい未来しか待っていない。そのための一歩を、二人の少女が踏み出したのだ。そのことだけは、素直に喜ぼう。
 兎を抱いて、抜けるような青空へと藍は飛び上がった。



          ■



 誰かのために戦えるのなら、それは人間である証だ。
 それで誰かを救えるのなら、英雄だ。

 妹紅は今回の活躍により、多くの口から称賛と御礼の言葉を聞いた。一度は嫌になった感覚も、今はそう悪いものでもない。
 かつてそう呼ばれていたときは、自分は孤独だった。民衆のための英雄には、自身にとっての英雄がいなかった。孤高のまま戦い続けるしかなかった。だから疲れてしまったのだ。
 でも、今は違う。もう一人じゃない。

 庵の扉を叩く音がした。

「妹紅、いるー?」
「いるよ、今開ける」

 来客である半獣の少女は、里で貰ったという林檎が沢山盛られた籠を引き上げ、笑った。



 誰かのために戦えるのなら、それは人間である証だ。
 それで誰かを救えるのなら、英雄だ。
 だから慧音は、妹紅にとっての英雄なのだ。


 
 


―― 待っていたぞ。
満月の夜にやってくるとはいい度胸だ。
あの人間には指一本触れさせない!
(上白沢慧音/東方永夜抄EXステージより)

 
うるめ
http://roombutterfly.web.fc2.com/eleutheria/index.htm
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コメント



0.1400簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
さすが
6.100ロドルフ削除
なるほどねぇ・・・
8.100名前が無い程度の能力削除
もこたん男前。ヤキモチぐや可愛い。
しかし何よりよりも、慧音が幸せを掴めたようで良し!
良いストーリーでした。

でも、せっかく改築したんなら一緒に住めばいいのにね(チラッ
9.90名前が無い程度の能力削除
もこたんTUEEE!!!
でもガチでこのくらい強いんだろうなー
輝夜がもうちょっと出てくるかな?と思ったけど、出てこなくて残念
もっとも、けねもこに輝夜なんぞ加わったら、ますます妖怪軍団としちゃどうあがいても絶望
10.100名前が無い程度の能力削除
ハラショー!
11.100みずあめ。削除
まとまりが良く、主題もストーリーとうまく絡んでいて、素直に楽しめました。
なにより妹紅と慧音がかっこいい!
煙草やの婆さんと妖怪兎がいい味だしてるなぁと思いきや、まさかの。最後のちょっとした驚きも良かったです。
12.100名前が無い程度の能力削除
熱かった。久々に燃えました
18.100名前が無い程度の能力削除
格好いい!
もこたん格好良過ぎ
しっかりまとまっていて読み易かったです
19.100名前が無い程度の能力削除
あるようでない、2人の出会いネタ
外の世界ではなかなかあり得ないんですけれどね、
妹紅や慧音のような異能や異形は、理解されずに迫害差別されるのが常ですから
2人を受け入れてくれたらしい人里の人々は、素朴に偉い
21.100非現実世界に棲む者削除
感動する話は大抵、出会いがあるものですが、この作品は特にそれが顕著に表れていますね。
他にも色々言いたいのですが一言にまとめます。
素晴らしい良作でした。
24.100名前が無い程度の能力削除
いやはや、あっぱれ!
26.100名前が無い程度の能力削除
紫かと思ったら藍様でしたか
27.90奇声を発する程度の能力削除
熱くなる良いお話でした
31.90名前が無い程度の能力削除
この時代の幻想郷?はまだガチの殺し合いだったんですよね
36.803削除
展開が上手いですね。
起承転結が見事に決まっていました。