昼とは言え、京都の冬は寒い。冬休みの残り日数を思えば、心も冷える。駅前の広場。ビルの大型モニターからは流行曲のPVが流れている。その上の温度計を眺めると、一層寒々と感じられた。その中で、蓮子にしては実に珍しく十五分前行動をしていた。十分前になっても現れない相棒に向けて、心中で愚痴を呟く。
――人をこんなにも待たせちゃって。
そうしている内に、周囲がざわめく声が聞こえた。一瞬、有名人でも現れたのかしら? と思う。モニターの向こうで踊っているアイドル辺りでも、と。
あいにくアイドルは現れない。とはいえ、それよりもっと可愛らしい少女はいた。集合時間の五分前、マエリベリー・ハーンの姿が見えた。蓮子の主観にそって、かつ正確に言えば、見えたのはうさ耳だけだったが。
周囲の人混みに隠されて、彼女の目には、まだメリーの姿は見えない。ただ、人混みの肩越しに、うさ耳は見える。
アクセサリーだと思った。随分ユニークな頭の持ち主も世の中にいるな、と思う。それから少し。メリーの顔と、ブロンドの中から伸びているうさ耳が見えた。
ユニークこの上ないファッションの相棒を見ながら、さて、どうやって他人の振りをしようか? と蓮子は一瞬悩む。とはいえそれは適わなかった。
周囲の視線がメリーに集まっている。彼女の美しさゆえか、うさ耳ゆえか、あるいは美少女にうさ耳、光と闇が合わさっては2+2=5になるような最強さゆえか……
ともあれ、蓮子もメリーから視線を離すことは適わない。様々な理由によって。メリーは何よりも大切な友人であることや、蓮子がうさ耳愛好家であることや、諸々によって。だから、
「久しぶり」
結局は声を投げかけた。手を振りながら。
久しぶり、とは言っても、年末年始を挟んだ程度だけれど。二週間にも満たないその期間に、何があったのだろう?
「ええ、久しぶり。蓮子」
メリーが返した声は、幾らか気落ちしていたように聞こえる。返した手の動きも弱く、うさ耳も、力なくしな垂れていた。
「それにしてもユニークなアクセサリーね」
近くで見れば、なんともリアルだなと思った。いや、そもそも彼女は――そして全世界の人間は――このようなうさ耳は二次元でしか見たことがないので、リアルらしい、かもしれない。
うさ耳、と言ってもリアル兎に生えている耳ではない。端的に言ってしまえばうどんげのうさ耳である。鈴仙のうさ耳がいかに愛くるしいかを詳細に書くとこの作品が大長編になってしまうのでそこは省くが、ともかくそのようにへたっていて、可愛らしくて、取り外しが効きそうな造形である。
「いいえ、ユニークな『個性』よ」
しかし、うさ耳メリーのうさ耳はあいにく着脱式では無かった。
メリーは気落ちを越えて、憔悴したような、そして疲れ果てた声で答える。
「もふもふもふもふもふもふ……」
そして蓮子の耳には届きはしない。もはや本能のレベルでうさ耳に手を伸ばしていた。薄くも柔らかで、滑らか。ふわふわの手触りが蓮子の手を離しやしない。
暖かみもあって、なるほど血が通っているとわかる。
「ちょ、ちょっと、蓮子……触らないでよ!」
「減るものじゃないしいいじゃない」
その言葉が、蓮子が理性を保っていた最後だった。
「だからやめてって……くすぐったいし、いやあの、その、うひゃ! 蓮子! 蓮子! 蓮子さん!」
もう蓮子の口からは奇声しか漏れてこない。「うひゃひゃ」に似た擬音。既に日本語ではない。
メリーもそうだ。もう「駄目」とは言えない。「らめぇ」が関の山だ。
周囲の目が一層集まってくる。もはやうさ耳は付属品だ。うさ耳を攻める美少女と、攻められる美少女。ここでうさ耳を外してもそこはやはり最強ではあろう。蓮子が攻め、メリーが受け。これはジャスティスなのである。
言葉責め、蠱惑的な吐息。京の街に鳴り響く。神様からのお年玉かもしれない。周囲の人々は思った。
◇
「触らないでよ、絶対に触らないでよ」
そう言われ続けているのだが、油断すると、手が伸びてしまいそうになる。
「次触ったらコーヒーかけるからね。天然の豆だとかホットだとか一切考慮せず」
だが、脅し文句を受け、鉄の意志で目で愛玩するだけに留めつつ、手はカップへ向かうだけだった。
天然物のキリマンジャロ。口に含むと、強い酸味がある。喉に入れた後には残らない、爽やかな味がした。
上等なものなのは間違いない。値段を見ただけでそれはわかる。さて、この一杯で何日分食事が食べられるだろうか、と思いつつ、二口目を飲む。
私は合成の方が肌にあっているな、と思った。最大公約数の好みに合わせて作られた合成コーヒーが一番美味しい。
少なくともまがい物にはまがい物の魅力がある。うさ耳を見やりつつ蓮子は思う。何となく名言風だなと思い、どのタイミングで口に出してやろうかと考える。
「その耳って聞こえないのよね?」
「たぶん……私はこっちの」
と横に付いた耳を指さし、
「耳で聞いていると思ってるわ」
コーヒー店に向かう道すがらから、ずいぶんと気になっていたことだった。うさ耳を散々もふもふとしたことに詫びつつ、宥めつつ、天然物のコーヒーで体を温めることを約束しつつに忙しく、聞きそびれていたけれど。
聞きたいことは勿論、他にも山ほど有る。
「どうしてうさ耳が生えてきたのよ?」
「実家で寝てて、朝起きたら生えてたわ」
「良かったわね。朝起きたら虫に変身してたりしないで。うさ耳は可愛いし。可愛いし」
「繰り返さなくてもいいわよ。どっちにしても不条理なのは一緒……」
これだけ不条理な事柄なのだから、だけど、
「大事なことだから、でも、親御さんはなんて言ってたの? 『オーマイゴッド』とか『オーノー』とかそんな感じ?」
「この耳を初めてみたとき?」
「そりゃそうよ、誰でも驚くでしょ。ど派手なポーズでジーザスクライスト! とか叫ぶんじゃない?」
「……『Kawaii!』って」
詰まるところ「個性」の概念と、「カワイイ」でどうとでもなるのだ。可愛いは正義、可愛いは正義。二度繰り返すほどに大事であって「Kawaii」がフジヤマゲイシャハラキリ級のグローバルな言葉になるのも必然である。
「理解のある親でよかったわね」
「ありすぎるどころじゃないわよ。この耳……治らないのかな」
はあ、とため息を付きつつ、メリーは呟く。蓮子は返した。彼女なりの意志と言うよりは、この世界の常識を。
「治らない病気なんて、今の時代無いのよ」
蓮子は言った。その意味は、彼女以上にメリーが理解しているだろう。メリーの力――それが生み出した病というものも、『ウイルス性の譫妄』と言う管理内の言葉で片付けるのが、今の――管理された社会だ。
サナトリウムに押し込められた経験を持つメリーには、嫌と言うほどわかる。
「ええ、わかってるわ。お医者さんのお墨付きよ。これは『個性』だって。治らなくたって……社会の受け入れてくれる個性」
天然物のコーヒーを専門にする店だけ有って、周囲の年齢層も値段分は高い。二人のような学生は少数派で、身なりのいい、年齢を重ねた者が殆どだ。
それでも、ちらりちらりと二人を見る目があるのは感じられる。その程度は仕方がない。アイドルが歩けば周囲に喧噪が生まれる。うさ耳美少女がいれば目の保養をしたくなる。その程度だ。
とはいえ、『個性』が公の場で不具合を産むことは無い。人種、性別、宗教。そう言った物で人々が不利益を被ることが一切無いように、個性が不利益を産むことはない。建前ではなく、とうの昔から、本音でそう考えるようになっている。
管理された個性ならば、人々はなんの恐れも抱きはしない。不思議なものというのは、誰にも知られぬままでない限りは、管理され、個性に押し込まれるだけだ。
メリーにもその力を理解しきれない、蓮子には掴みようもないその目は、この世界における数少ない例外で、脱法者。
「治らないにしても、うさ耳は最強の萌え要素ではあるわね」
「いや、私はねこ耳派だし。うさ耳最強とか何言ってるのよ」
「ねこ耳は時代遅れよ。だいたい、水木しげる先生の描くねこ娘萌えが普及しなかった時点でねこ耳派に未来は無かったの」
「時代遅れって……二十世紀の話を持ち出して時代遅れもなにも」
ちなみに、水木しげる先生は未だに健在である。テラマックを美味しそうに食べる姿が、先日ブログにアップされていたばかりだ。どう考えても妖怪だろ、と思われて久しいが、それもまた個性である。
ともあれ、ねこ耳派VSうさ耳派の戦争は、遙かな昔より続くきのこ派VSたけのこ派。ペヤング派VSUFO派のような泥沼化の兆候を見せていた。
「だいたい、うさ耳ってそんなにいる? ねこ耳は山ほどいるけど」
「いや、バニーガールとかトラディショナルにも程のあるうさ耳じゃない」
「ああいうのは品がないし――」
このままではせっかくの天然コーヒーも冷めんかという勢いである。蓮子はキリマンジャロを一口、既にぬるさを感じ始めている。これは良くないな、と思う。
口を閉じ、まじまじとメリーを見つめる。
「ん? 顔に何か付いてる?」
「いや、何も。……でも、そうね。うさ耳メリーは可愛いけど、ねこ耳でも可愛いし」
メリーならなんだって可愛い、と心中で呟き、それで十分な妥協点だ。結局の所きのこの山もたけのこの里も美味で――両者を一つのパックに入れて売ってもいいのだ。
そしてメリーなら結局なんだって可愛い。それ以上はあまり考える意味もない。理解できることだけを、捉えていればいい。
「でもなあ、私にもうさ耳が生えたらいいのに。私の方が合っていると思わない?」
「なんで? うさ耳じゃ帽子もかぶれないし。ねこ耳なら出来るのに。蓮子は帽子が似合うからやはりねこ耳が。というかねこ耳が常に至高であって――」
あわや再びねこ耳VSうさ耳の究極VS至高の争いが再来せんかと言うメリーの言葉。
しかしながら山岡士郎と海原雄山が和解したように、人類の叡智は愚かな争いを乗り越えるのである。
「まあ、メリーがねこ耳派なのはいいの。もっと単純に、字的な問題よ」
「字?」
「そ、響きかな。うさ耳メリーってまあ普通じゃない」
「いや、普通ではないと思う。個性だし」
「そうじゃなくて、あれよ、宇佐見蓮子宇佐見蓮子うさ耳蓮子。宇佐美とうさ耳のこのハーモニー。馴染むぞ、実に馴染むぞって感じだわね」
と言ってはwryyyと呟く蓮子だが、メリーは怪訝な顔をしていた。ジョジョが名作であることは言うまでも無いが、流石にこの時代では古典でもある。
「馴染む? なんかのジョーク?」
最近の若者はジョジョを知らないから困る。と嘆息する蓮子。ネタが伝わらず滑った場面からどう立て直すか、プランク並みの頭脳をフル回転させる。が、打開策は見つからなかった。
「まあ、だったら石油でも売ってなさいよ」
しかしながらメリーが話題を進めてくれたのは僥倖であった。気を取り直し、
「宇佐見を宇佐美と書くのは」
指で字を空中に描きつつ、
「素人よ。宇佐美石油は美しい。宇佐見蓮子は美しくない。これが玄人の覚え方ね」
と言った。何が玄人かというと、素人は蓮子可愛いで思考停止してしまうあたりが玄人向けなのである。蓮子レベルの玄人になると自分の名字をあらかじめ辞書登録もしているのだが。少なくとも宇佐美蓮子と自分が書く心配は無いように。
「わかりやすい覚え方。でも、蓮子は可愛いから大丈夫よ」
メリーのデレを引き出すことも出来た。この話術はまさに玄人であり、匠の技でもある。
「そ、ありがと。メリーみたいな美少女に言ってもらえると自信が出てくるわ」
そこからは美少女二人の穏やかな褒めあいである。しかしながら蓮子は牙を研いでいる。いつあれを出すか、と機を伺う。
「でもねえ、確かにうさ耳蓮子って響きはいいわね」
「そこでメリーに朗報。うさ耳メリーをナチュラルにする秘策があります」
「秘策?」
そして取り出したるは婚姻届。無論、片側は全て記入済みだ。付け加えれば常時持ち歩いてもいる。
「サインするだけに合法的に宇佐見メリーでうさ耳メリーになれるわ」
「だが断る。ってか私はメリーじゃなくてマエリベリーだしマエリベリー・宇佐見ってゴロ悪いわよね……」
この流れ自体は今まで幾度も蓮子が行ってきたことで、別段新鮮さはない。六割ほどの本気でしかない事柄でもある。結婚は冗談にしたって、メリーがいるという証を、客観的な形に刻みつけたい。なんとなく、そう思うようになっていた。たぶん、トリフネから戻ってきて以来だろう。
同時に、蓮子の中には釈然としない思いが募っていく。
――Dioもろくすっぽ知らないくせに「だが断る」とか。にわかがジョジョ用語を使うなんて。
派手に舌打ちをかましたくなる蓮子さんであった。ジョジョジョジョ言ってたくせに三ヶ月で嫁を変える連中はもう……。そんな心持ちで。
◇
「やっぱりメリーの家は落ち着くわねえ。実家に帰ってきたような気分になるわ」
「ついこの間まで東京にいたんでしょうに」
「あっちの実家は別腹よ」
と言いながら、ジャージに着替える蓮子。本来はメリーの物だが、とうの昔に蓮子専用ジャージになっていた。通常の三倍の速度で痛み始めている感もある。
ジャージ姿でソファーに座り、くつろぐその様。確かに実家気分ではあった。それを咎めるわけもないメリーも含めて。
「不思議を見つけたって言ったじゃない。蓮子にメールしたとき」
「ああ、そうだっけ。まあ、うさ耳が生えてくるなんて不思議も不思議よね」
不思議――という管理外の物が許されない世界では、それは『個性』という言葉に押し込まれてしまうのだけれど。
「本当は別の物だったんだけどね。あの時はまだうさ耳は生えていなかったら」
「と言うことは、別の不思議が?」
「ええ」
まだ殆ど整理されていないスーツケースが部屋に転がっていた。メリーはそこからアルバムを取り出して、それを手に蓮子の横へと腰を下ろす。
「これね」
一枚を取って、手渡した。
「ええと、ああ、パワースポット巡りをしていた時の写真か。印刷したんだ」
かなり写りの悪い写真だった。薄暗い中に、セルフタイマーで取られた秘封倶楽部が映っている。いつもの二人で、それだけでパワースポット巡りの時だと理解できたのは、蓮子の勘や記憶力のせいではない。特に勘ならば、メリーの方がいいだろう。
とはいえ、「パワースポット大全」と書かれた本を蓮子が持っているなら、いつの写真かは言うまでも無い。メリーが幾度か「寒気がする」と言っていたのを覚えている。蓮子には何も感じられなかったけれど。
「このころのメリーはまだうさ耳が無かったのね。懐かしいな」
「懐かしいってほど昔でもないし、私はどうでもいいのよ。ここ見て」
メリーが指で写真上をなぞる。言われると、そこは靄のように見えた。
「もやもやしてるわね。心霊写真?」
心霊写真という娯楽は未だ健在ではある。とはいえ、全部科学的に分析すればわかる。と言う前提の上でだ。オカルトも殆どは、科学に組み込まれた時代だ。「世界の均衡を乱すため結界を暴くのは禁ずる」こんなおふれがあれば、人々も安心して生きていける。
「女の子に見えたの」
「言われるとそんな感じ、あ、ここが服で、こっちが帽子」
「そうね」
「おっと、ドリキャスのマークを発見。ほら、これが帽子で、模様付いてるでしょ? これドリキャスだわ。このぐるぐる模様。湯川専務の霊でも混じったかな」
「ドリキャス? 専務?」
「メリーはもっと日本の古き良き文化を知るべきね」
両手でうさ耳を掴みつつ、からかうようにして言った。「せーがたさんしろーう♪」と口ずさみつつ、耳を撫でていく。投げられるコーヒーその他はなくて、相変わらずのもふもふぶりで、メリーも、
「だからやめてって……」
言いつつもまんざらでもなさそうだ。「よいではないかよいではないか」と日本の伝統文化である悪代官口調が出てくる。あいにく、ここには悪代官を倒す侍も越後の縮緬問屋もいないが。麻呂もいない。科学の発展はZipと言う物の存在意義を駆逐したのだ。
「耳はいいの。ドリキャス……はなんだかしらないけど、ぐるぐるねえ。うん、ぐるぐるよ」
着衣を七割方乱しつつも、どうにか蓮子を振りほどいては一人得心した顔のメリー。付け加えれば、うさ耳をもてあそばれた影響か、ほんのり顔が上気しているようにも見えた。
そんな姿を見ながら、一線を――法的な意味で――越えかねないと蓮子は感じる。
――エエ、イツカソウイウコトヲスルヒトダトオモッテタンデスヨ。
と、ボイスチェンジャーとモザイク越しに友人が語る姿を想像し、蓮子とはいい友人のままでいないとね、と心中で呟く。「行けたら行くわ」→「行かない」「いいお友達でいましょう」→「もう合わないから」という言葉の塩梅もまだ知らない、純情な少女は別れの言葉を胸に抱いた――別れの言葉と知らぬままに。
そして、蓮子はメリーと別れた。
一分ほど。
扉を開けて、1Kの実質我が家のキッチンへ、冷蔵庫を開けて、コーラのペットボトルを二本、取り出した。抱えては、部屋に戻る。
勝手に冷蔵庫を開けられたことや、コーラを取り出された事を咎めるわけもなく、メリーは受け取った。蓮子も蓋を開け、一口。暖房に暖められた部屋の中で、清涼感に溢れる味が、口の中に広がった。
爽やかさの中で、テレビを付ける。水戸黄門(再)が放送されていた。正確に言えば水戸黄門(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)――であるが、ともあれ、昨日も今日も明日も……再放送期間中のいつでも、本放送をしていた遙か昔も変わらない、里見浩太朗の痛快な世直しがモニターの向こうに見える。ゴールデンタイムのどんな番組よりも、水戸黄門(再)が視聴率を取れるのも、昔と同じだ。
黄門様は東野英治郎がベストね、と思いつつ、コカコーラを飲んでいく。ペプシは甘ったるい、やっぱりコーラはコカコーラだと感じる。横目には、うさ耳メリー。メリーは、雑誌を読んでいた。
「あんまりメリーっぽくないわね」
「そう?」
「メリーはもっと気品のある格好の方がいいと思うな」
「どうかしら」
そのファッション誌の表紙が目に入って、メリーっぽくはないな、と蓮子は思った。いわゆる裏原系のファッションが表紙だった。細いデニムの上には重ね着したTシャツと、パーカーの付いたスウェットのスタジャン。今この姿で歩いたら寒いだろうな、と言う着こみ方。
何度も廃れては……東京が荒れ地になってからもリバイバルしてきた、東京生まれのファッション。微笑む女の子の下には「おしゃれ革命! 最新ファッションの鉄板SNAP!」そんな言葉が載せられていた。
それを読む少女は紫のワンピース。見慣れた帽子はなくて、うさ耳が生えている。うさ耳を思ってファッションを変えようと思ったのか、それとも関係なく買っていたのか、よくわからない。考えてみれば、ファッションなんて言う女の子らしい会話をした覚えも無い。話すのは、
「コカコーラって昔はコカの葉が入ってたのよね」
「そうね、でもどうしたの? そういうどうでもいい雑学を自慢げに話すとか無いわ。ってのが蓮子の持論でしょう?」
「まあ、ね。これはただのとっかかりよ」
「蓮子が話のとっかかりを作ろうとするなんて、雨でも降りそう。いつも誰にも理解できないことをペラペラ話すだけじゃない。プランク並みの頭脳とニコラ・テスラ並みの面倒くささを持っているのが蓮子だもの」
どんなベクトルだろうが、女子大生らしからぬ事ばかりだ。
「酷い言い方」
「私の耳をもてあそんだ罰よ……って、ちょ、触らない!」
苦笑を返そうと思いつつ、メリーの耳をもてあそぶ方向にシフトする。思わず笑うのは同じでも、随分と朗らかに笑うことができた。
「もふもふもふもふふもっふもっふ」
「だから、やめ、やめて、やめてって! やめてください!」
「そういうと私は一層攻めたくなる質でな。この蓮子容赦せん」
こちょこちょ、くすくす、げらげら。うさ耳が生えてようが生えてまいが変わらない、愉快な笑い。
「で、まあ本題に戻すとね、これだけ科学が発展しても、やっぱりコーラにコカの葉は入れられないのよね。残念なことに」
「なんというか凄くヤク中発言ね。私がいない間に悪い遊びでも覚えた? そうしたらメリーさんは許さないわよ」
「まさか、この、アタナシウス・キルヒャー並みの頭脳を劣化させるわけにはいかないわ」
「だったら酒は控えめに。そもそもアタナシウスさんって誰よ」
「科学と神話が交錯できていた時代の偉い人。まあ、彼について話すには余白が足りないけれど、そういうことよ」
「どういうことよ。ああ、やっぱり明日も快晴ね」
窓の外には、冬らしい乾いた空が広がっている。その上には星と月が浮かび、遮る雲は何も無い。
「頭は、直らないからね。薬で頭がボロボロになったらおしまい。人類がどれだけ発展しようが、脳細胞だけは直せないわ。そういうこと」
「急に合理思考になったわね」
「まあ、理系だし、本質はそうよ。頭は機械と同じ、おまけに壊れたら直せない。壊れたコンピュータ――私たちの頭も同じで――そいつには天国も地獄もないってホーキングも言ってたわ。これだけの時間が流れても、誰も越えられない車椅子の天才科学者は。世の中には科学で説明できることと、これから科学で説明できるようになることしかないと言ってたのは誰だっけ……ああ、ジャレド・ダイヤモンド。で、別にそんな名言展覧会をしたいわけじゃなくて、要はメリーのことなんだけど」
「成長したわね。一人で蕩々と話すだけじゃなくなるとは。ジャレドさんが誰か私は知らないし」
蓮子は今度こそ苦笑でしか返せなかった。古い異人の話を連ねるわけもなく、己と相棒の話だけを続ける。
「で、私の話って何?」
「ええと……」
話そうとしたことは、全て頭の中に有る。日頃はどれだけふざけていたって――プランク並みと自称するその頭の回転は、客観から見ても正しいのだ。
蓮子には、そのうさ耳が本当は凄く恐ろしかった。ふざけて、真剣に考えないようにしないと、震えそうに恐ろしかった。だから、頭の中にある言葉は続けないで、その場で考えた冗談だけを吐き出す。
「メリーはなんだって可愛いって事。私がボケ老人になっても、きっとメリーは可愛い。私の主観はそう認識するわ、だから、自信を持って生きていきましょう。うさ耳はガチ、うさ耳だけはガチ、でもメリーならなんでもガチ。そういうことなの」
「何を言ってるんだか……褒めても何も出ないし、そもそも裏が怖いわよ。ノートのコピーならお断りだからね。毎回毎回コピーの山を友人に頼むのは私の評判が落ちるし、そもそも専攻が違うんじゃそっちへのコネも細いし、だいたい、学部なりの友人に頼みなさいよ」
「古人曰く、類は友を呼ぶ。我々の専攻ではテスト期間中に飲み屋に行った回数を競っていてね。でも、ノートはいいわよ。なんとかなるから」
卒業を考えなければね、と心中で呟く。そっちは、そんなに怖くもなかった。駄目人間とはそういうものであって、十年後に色々思うが、それはまた別の話である。
「となると、私の家の何かを壊した? でも、合い鍵は回収したし……」
「あ、それなら大丈夫。返す前にコピーを取ったから、まあ、裏はないわよ、そこに上等なウイスキーがあることも把握しているけれど、ちゃんと手は付けてないから」
そう言って、蓮子はまさしく実家気分でグラスにウイスキー、それと氷を取りに行った。この楽しい再会の時間と美味しいお酒、それが待っているのに、わざわざ壊そうとしないのはどんな人間だってそうだ。心に抜けない棘が刺さったままでも、楽しくお酒を飲むぞと思い込めるのも。
◇
「メリー……起きてる?」
と呟いたが、返事は無かった。一瞬、寝ていたのだろうか。少しだけ、時間が飛んでいた。
ぼやけた頭に聞こえるのは、付けっぱなしにされたテレビの音。古舘伊知郎の――合成音声が流れている。ワールドプロレスリングが放送されていた。遙かな昔に深夜に移っては、打ち切られもせず、ゴールデンに戻りもしない、伝統芸能が放送されている。
モニターには、小橋建太対武藤敬司の試合が流されていた、無論、ホログラムによるエキシビジョンマッチだ。プロレスには殆ど興味がない蓮子だったけれど、小橋の逆水平チョップの重みに、武藤のムーンサルトプレスの流麗さに、一瞬は目を留めた。
それからメリーを見ると、穏やかな寝息を立てていた。頭にはもちろん、うさ耳が生えている。携帯を出して、シャッターを切る。その音にも目を覚まさず、穏やかな寝息を立てている。愛らしいうさ耳が、データになって保存された。
それからテレビに目を戻すと、ちょうど試合が終わるところだった。
コーナートップに武藤を持ち上げ、頭頂部からたたき落とす。小橋の必殺技、バーニング・ハンマーだ。二人ともホログラムだと――客観的に見ればただの映像だと――わかっているのに、蓮子の主観から見れば武藤が心配になるほどの強烈な技で、試合は終わった。
それからCMが始まった。そちらには目を留めることもなく、メリーを見て、彼女をベッドへと運んだ。暖かな布団を被せて、それから一人酒に移る。テレビでは実在するレスラーの試合が放送されていたけれど、あまり興味が持てなかった。グラスにウイスキー――ラフロイグ――を注ぐ。氷は溶けきっていた。
メリーは絶賛しているけれど、やはり自分の口には合わないな、と蓮子は思った。正露丸を思い出すこの匂いは苦手だと。それに、ストレートでは流石にきつい。一口舐めて、結局目線はメリーに移る。夢と現の境界を、あるいは主観と客観を隔てるもの――客観結界を思いながら。
「ごめんね、メリー。もしかしたら私のせいなのかもしれない」
寝息を立てるメリーに向けて、蓮子は呟いた。伝えたい言葉なのか、伝えたくない言葉なのか、蓮子自身にもよくわからなかった。両者の溶け合った、境界の曖昧な言葉だった。
ラフロイグをもう一口、それから、語られた夢を思い出す。吉夢か、悪夢かもわからぬ夢を。
――お願い、貴方に夢の事を話してカウンセリングして貰わないと、どれが現の私なのか判らなくなってしまいそうなのよ。
そう言って話し始めた夢の話を。求められたカウンセリングを。
そのカウンセリングには、二つの解があった。一つは、夢は夢だと信じさせること。そうすれば、夢と現の境界は確かな物になる。
でも、蓮子はそれを選ばなかった。夢ではなく、別の世界にいるのだと……境界を飛び越えたのだと、信じさせる方を選んだ。夢の世界を現実に変えることを選んだ。二度とこの現に帰ってこられなくなると……現が夢になる可能性があると承知で。
その結果は、これまで以上に愉快なサークル活動だった。メリーの見る夢――あるいは境界の向こうを、蓮子も垣間見た。あくまで、垣間見ただけだ。
二人は、トリフネの中を見た。あるいは、訪れた、それは一例だ。同時に、二人はそれを楽しんだ、そしてメリーは怪我をして、サナトリウムへと送られた、蓮子は、怪我をするわけもない、出来はしない。
それが、蓮子の限界だ。境界を操る事はおろか、見る事もかなわぬ身には。
自分がメリーに引っ張られるだけの身だとは重々承知している。だから、メリーがその手を引いてくれなければ……メリーの主観から己が消えたなら……その手では、二度とメリーを捕まえられないように感じる。
メリーの夢が、主観が、夢の中で負った傷を、誰も知らぬ、メリー以外の身には起きない病とした。その病はこの世界の常識では完治したとされたけれど……今度は、うさ耳という「個性」が生まれた。
その契機は、結局は自分のカウンセリングにあるんだろうと思う。ため息をついて、またラフロイグを。テレビの横の棚に、石があった。伊弉諾物質だ。立ち上がり、触れてみる。蓮子の目には何も見えない。メリーがいれば、二千五百万年前を垣間見させたそれは。
「ほんと、メリーは可愛いわね。寝顔にいたずらしてもいい?」
立ったまま、冗談を口に出す。サインペンを取ってみて、キャップを付けたまま「肉」となぞってみる。それでも寝入ったメリーから返事があるわけもなく、ふざけた言葉で誤魔化すことも、もう難しい。
窓を開け、空を見上げる。相変わらずの雲一つ無い星空。二時四十八分三十七秒。蓮子の目は、正確に時間を捉える。電波で会わせられている、メリーの部屋の時計と、寸分の違いもない。その壁掛け時計の下にベッドが、メリーが、獣の耳が見える。寒風が吹き込み続けていて、蓮子は窓を閉じた。
百年前の人間ならどう思ったのだろう? と蓮子は想像する。兎の耳が生えた人間。はたして、それを化け物と思うのだろうか。それとも、兎耳の女を見た自分を狂人と認識するのだろうか。裸の王様の服を見た者たちのように、個性を捨てて……
詮無きことだと思い、蓮子はそれ以上考えない、過去は過去でしかない。有るのは現在だけで、待っているのも、いつか現在になる未来だけ。
過去にも現在にも存在するメリーが、未来にもいて、友人であればいい、それだけだ。
残ったウイスキーを、一息に呷った。頭がいくらかぼやける。視界に映るメリーも、朧に見えた。
台所に行くと、使い慣れたケトルに少しだけ水を注いで、「Gold Blend」と書かれた瓶から、コーヒーを無造作にカップへ。お湯を注いで戻り、マドラーでかき回す。
それでも合成コーヒーは美味かった。最大公約数の味覚に合わせて、優秀な技術者が膨大な時間をかけて作った味だ、不味いわけがない。昼に飲んだ酸っぱいキリマンジャロよりも、よほど口に合うと思った。
そんな美味なコーヒーが、安価に手に入る。プランテーションで使われていた半奴隷も、大企業の搾取も消えて無くなった。格差も争いも病も克服され、「個性」という言葉があらゆる差別も駆逐した今は、幸せな時代だ。
いつか、メリーが言っていたことを思い出した。
――昔はよかったって言う発想は悪くないと思うの。『昔はひどい、今が最高だ』って、感じたら、そこに安住しちゃうでしょう? でも、昔はよかった、って思えば、『じゃあ昔に負けないくらいい時代にしよう』と頑張れる気がするから」
それでも、蓮子は今が一番いい時代だと思うけれど。でも、未来を今より良くしたいという意志は持っている。そのためには、その未来には、メリーがいて欲しいと思う。紫のワンピースを見た少女を見ながら、獣の耳を持つ、妖のような個性を見ながら、
「健全な精神は健全な肉体に宿る」
寝顔に呟いてから、結局は自分しか聞いてないのだからと、心中で続けた。「その通りで、精神と肉体は切っても切り離せない。体が不調ならば心は弱る、と言うのが一番簡単な例だけどね」
それから、またメリーを見て、コーヒーを一口飲んで、残したまま、ソファーに身をゆだねた。
「ねえ、メリー。本当に貴方が境界を操れる――動かしてしまっているのかはわからない」
と言って、電気を消した。部屋の中には暗闇だけが溢れる。また、心中で呟く。
「貴方の目が、貴方の体に影響を与えているのは確か。ウイルス性の譫妄……そんな診断はさておいても、貴方の目は、貴方の心を変えていく。それは間違いのないこと。貴方のその耳も、やっぱり心に影響を与えるし、もっとおぞましい何かが、貴方の体に生まれるのかもしれない――」
はっきりと心中で呟いたのはそこまでだ。「妖怪のようにおぞましい物は、貴方を化け物の心にしてしまうのかもしれない」と続けようと考えたあたりで、蓮子は目を閉じた。完全に暗闇になった視界の中で、口を開く。
「でも、忘れないで、メリー。貴方に何があろうとも、私はいつまでも貴方の友達。それだけは絶対に、確かな事よ」
最後に、心の中で「いつかちゃんと伝えないと」と思う。それきり、蓮子はもう何も考えようとしなかった。考えずとも、二人で刻んできた道が頭に浮かんできた。例えば、蓮台野の夜を、墓場で見た桜を。あるいは東京の荒涼とした道を歩んだ記憶を。その他の、数え切れないほどのサークル活動の歴史を。まだ、月には行ってない、いつか行かないと。
そう考えたあたりまでは確かに現だった。蓮子の心が現を抜け出し、夢を泳ぎ始めたのはいつからか、誰にもわからない。客観から見れば、あるときからは二つの寝息が聞こえていたけれど。
◇
「おはよう」
メリーの声が聞こえて、蓮子の心は現に戻っていた。
「うー……おはよう、メリー」
白んだ、寝起きの目で、まず見たのは携帯だった。一時二十八分。まあ、上出来な方か、と思った。少なくとも一日を無駄にする時間でも無い、飲んだ後なら上等だ。少なくとも冬休みなら。
メールが二件入っていた。差し出し人の名前を見れば、専攻の友人だった。名前で殆どを把握できたので、返事はあとでいいと開きもしない。メールで世間話を返してあげるほどの気力はまだ無い。
それから、見慣れたメリーに視線を移す。
「えっ?」
「どうしたの? 顔に何か付いてる?」
「いや……」
昨日一日で十分見慣れただろう兎の耳は、無かった。
「いやじゃ無いわね」
「何が嫌なの? ベッドはそりゃ譲らないわよ、あ、でも昨日蓮子が運んでくれたのよね、ありがと」
「そのいやじゃなくて。耳が消え……治ってるじゃない」
「耳が治ってる? 私は耳でおかしくなったことなんてないわよ。ああ、でも小さいときに中耳炎をやったわね……あれ、凄く痛いのよ。思い出したくもないくらいに」
「そうじゃなくて、うさ耳よ! うさ耳! メリーのうさ耳!」
「うさ耳ならゴロ的に蓮子でしょうに」
「うん、だから私と婚姻届を出せばうさ耳メリーになれると」
「昨日もそう言われたし、私も言ったでしょうに……というか改めて言うのもなんだけど、私の名前はマエリベリー。宇佐見マエリベリーじゃもっと発音しにくいわ。まだ酔っぱらってるの?」
まったく、釈然としない。とはいえ、理解できないと言うことも無かった。夢、幻覚、妄想。理解を放棄して混乱するよりも早く、蓮子の頭にはそんな言葉が過ぎったし、どんな異常な状況であろうとも、まずは現実を受け入れる。それは容易に出来た。それが性分だ。
自分の記憶がおかしいのか、メリーがおかしいのか、それを確認する方法もすぐに思いつく。手に握られたままの携帯電話を見て、写真フォルダを開く。収められた中に、メリーの寝顔は有った。昨夜取った寝顔があった。そして、兎の耳は無かった。
一応、こういう可能性も考えてはおく。「メリーが私を寝ている間に写真を修正した」まあ、これならあり得ないとは言い切れない。携帯のカメラ程度なら、改変防止のセキュリティが十二分に施されているわけではない。
と言っても、そこまでやるとは思えないけれど。おかしいのは自分の記憶だ、その蓋然性は極めて高い。そうやって自分が異常だと認識すると、随分と心が落ち着いた。
「そうかもね。とりあえず、コーヒー入れてくれない?」
「はいはい、蓮子様のお目覚めを祝して」
メリーは台所に向かうと、髪がふわりと揺れて、甘い匂いが伝わってきた。もう、シャワーも浴びているのだろうと思った。
「どうぞ」
昨日の夜と同じ合成コーヒー。分量通りに作られたそれは、昨日のよりも更に美味だった。
「やっぱりコーヒーはゴールドブレンドね。違いのわかる女の、ゴールドブレンド。ブレンディは薄いし、マキシムはコクがないし――」
「それ中身違うわよ。瓶はゴールドブレンドだけど、別の詰め替えがセールしてたから変わってるの。それにしても蓮子様の味覚は流石ね。語尾に(キリッって言葉が付いてそうなくらいの見事な講評だったわ。だいたい、薄いとコクがないってほとんど同義じゃ……」
愉快そうに笑うメリーから視線を外しつつ、コーヒーを勢いよく飲んでいく。舌が火傷しそうだ。それでもやっぱり美味だった。
「さて、快適な目覚めに必要なカフェインは摂取できたわ。これで調子も万全」
「それカフェインレスだけど。安かったし試してみようかと思って」
「で、水分で目が覚めたわ。そして冬休みも残り僅か、遊び尽くすための予定を練らないとね」
「終わったらすぐ試験期間よ? 私は出席点だけでも余裕だから良いけど、そもそも理系の蓮子はそれどころじゃないだろうし」
「明日は明日の風が吹く。テストのことは始まったら本気を出すわよ」
「せめて後輩になるのは避けて欲しいけどね。でも、確かにまだどこかに行くのは十分時間があるわね。そうそう、この間凄いミステリースポットの話を聞いて――」
「それもいいけれど、たまにはオカルトを離れてのんびりするのもいいかもね。温泉でのんびりとか、そういうのもいい気分。最近、真面目にサークル活動しすぎたわ」
「急に衰えた感じね。酔っぱらった寝起きじゃそんな気分になるか。健全な精神は健全な肉体に宿る、って昨日の蓮子も言ってたけれど。酔っぱらってぶつぶつ言ってるから起きちゃったわよ。面倒だから寝てるふりしたけど」
寝たふりだったんだろうか。そうすると、どこまで聞かれていたのだろう? と思い、赤面しそうになった。同時に、こんな可能性も思う。自分の主観が観測していた昨日と、メリーの主観が観測していた昨日は別物なのかもしれないと。
自分にとっての幻像は、メリーにとっては、メリーにだけは紛れもなく現実となるのは承知している。
だけど、それもまた、詮無きことだと思う。夢違、胡蝶の夢。そんな言葉が頭に過ぎったが、それだけだ。今のところ、メリーは目の前にいる。それ以上何が必要なのだろう。
「メリーは、うさ耳よりねこ耳が好きなのよね」
「ええ、昨日言ったとおり。次点できつね耳かな。狐もいいわよね」
「リアル狐の耳ならわかるけど、きつね耳と言われるとどんな感じがぱっと出てこないわね……」
そう、今は、少なくとも今はまだ、何か有っても話せて、問いかけられて、意志を伝えられるメリーがいるんだから。そう思いながら、蓮子はメリーのきつね耳トークを聞き流す。
「もしかしてさ、昨日、私は言ったかな?『メリー。貴方に何があろうとも、私はいつまでも貴方の友達』みたいなこと」
「夜中に? ええ、言ってたわよ。凄く青い言葉」
「本音よ、だから、ちゃかさないで欲しいな」
間違いなく伝えたい言葉は、まだ伝えられる
「私はメリーがどうなろうと友達だし、絶対にメリーを離さないと思ってる……別に、今すぐ深刻ってわけじゃないわよ? でも、一寸先は闇って言うし、私たちはこんな目で、ちょっとは危ない橋を渡ってるものね。そうでなくったって、これから先、私たちには多分長い人生が残ってるから、言えるときに、ちゃんと言っておこうかなって」
「……ごめんなさい。そうね。確かに、サナトリウムに行かされたりもしたし……ありがとう。私も、ずっと友達だと思ってるわ。蓮子に何があったって」
「あとうさ耳こそが本当に至高だから、これも本音ね」
「いや、ねこ耳こそが究極だから……まあ、一旦それは置いておきましょうか。温泉、温泉ね。確かに魅力的かもねえ」
メリーは携帯を取って、いくつかの温泉を調べ始める。
「近場ならまだ間に合うかな。で、一泊二泊してもいいわよね」
「そうね」
「確かに最近は『見えすぎている』し、ちょっとのんびりしてもいい気はするの」
「あんまり真剣にやり過ぎても不良サークルでは無くなるから。温泉でのんびりしましょう? 何事もオンオフのメリハリが大事だし」
「蓮子の単位数でその用件は十分満たしてるわよ。オフオフな蓮子さんのね」
一旦調べ始めると余計に魅力的に見えてきたようだ。いくつかの候補をホログラムで投影しては、あれでもない、これでもない。と話し合う。陽気な否定の中で、メリーは上機嫌に歌を口ずさむ。例えば、「聳え立つ冷たい石の塔~♪ 朽ち果ててく機械の街~♪」そんな歌詞を。
「変な歌」
「そうかな?」
「というか誰の歌?」
「ええと……わかんない。誰なんだろう。自分で作ったんじゃないのは確かだと思うけど」
「ま、温泉を調べるのは後でもいいわ。今日慌てていくより、明日行く方が無難だろうし。それより、お腹すいたな、何か食べに行きましょ」
「私も起きてパンをちょっと食べただけだし、そうね」
「じゃあ、その前にシャワーだけ貸してくれる?」
「ええ。歯ブラシタオルその他は……自分のを持ち込んでるからね」
蓮子はシャワーに行って、まず鏡を見やった。ほんの少しだけ、でも確かに恐れながら見た己の姿は、見慣れた自分と何も違わなかった。
お湯を出して、体を洗いながら。ぼんやりと思う。昨日のことは夢だったのだろうか、と。到底そうは思えなかった。でも、夢や幻覚ならばいい。相応の薬やカウンセリングがある。
でも……もしかすると、「世界の境界をメリーが操ったんじゃないだろうか」と想像することも出来た。世界の境界を操るという言葉はなんとも抽象的だけど、パラレルワールドを移動したとか、時を移動して書き換えたとか、三文SFを探るだけで無数の候補が出てきそうだ。そもそも、それがメリーの意志によってなのか、あるいは無意識になのか、などなどの考えも無数に連なってくる。
ザー、と言うシャワーの音の中で、どうでもいいと思った。
「お待たせ、すぐに髪を乾かすから行きましょ?」
化粧をするのと同じくらい、どうでもいいことだった。気の置けない親友と昼食を食べる程度で、そんなものはいらない。
「食べようと思ったら急にお腹が空いてきちゃった。巻きでよろしく。温泉旅館の食事を見続けたのも敗因ね……まさしく飯テロだわ……」
メリーはここにいて、先の予定はあって、自分の意志も伝えられて、メリーに何があっても自分は離すものかと再確認できた。大切な物は、まだあるんだって理解できているから。
――人をこんなにも待たせちゃって。
そうしている内に、周囲がざわめく声が聞こえた。一瞬、有名人でも現れたのかしら? と思う。モニターの向こうで踊っているアイドル辺りでも、と。
あいにくアイドルは現れない。とはいえ、それよりもっと可愛らしい少女はいた。集合時間の五分前、マエリベリー・ハーンの姿が見えた。蓮子の主観にそって、かつ正確に言えば、見えたのはうさ耳だけだったが。
周囲の人混みに隠されて、彼女の目には、まだメリーの姿は見えない。ただ、人混みの肩越しに、うさ耳は見える。
アクセサリーだと思った。随分ユニークな頭の持ち主も世の中にいるな、と思う。それから少し。メリーの顔と、ブロンドの中から伸びているうさ耳が見えた。
ユニークこの上ないファッションの相棒を見ながら、さて、どうやって他人の振りをしようか? と蓮子は一瞬悩む。とはいえそれは適わなかった。
周囲の視線がメリーに集まっている。彼女の美しさゆえか、うさ耳ゆえか、あるいは美少女にうさ耳、光と闇が合わさっては2+2=5になるような最強さゆえか……
ともあれ、蓮子もメリーから視線を離すことは適わない。様々な理由によって。メリーは何よりも大切な友人であることや、蓮子がうさ耳愛好家であることや、諸々によって。だから、
「久しぶり」
結局は声を投げかけた。手を振りながら。
久しぶり、とは言っても、年末年始を挟んだ程度だけれど。二週間にも満たないその期間に、何があったのだろう?
「ええ、久しぶり。蓮子」
メリーが返した声は、幾らか気落ちしていたように聞こえる。返した手の動きも弱く、うさ耳も、力なくしな垂れていた。
「それにしてもユニークなアクセサリーね」
近くで見れば、なんともリアルだなと思った。いや、そもそも彼女は――そして全世界の人間は――このようなうさ耳は二次元でしか見たことがないので、リアルらしい、かもしれない。
うさ耳、と言ってもリアル兎に生えている耳ではない。端的に言ってしまえばうどんげのうさ耳である。鈴仙のうさ耳がいかに愛くるしいかを詳細に書くとこの作品が大長編になってしまうのでそこは省くが、ともかくそのようにへたっていて、可愛らしくて、取り外しが効きそうな造形である。
「いいえ、ユニークな『個性』よ」
しかし、うさ耳メリーのうさ耳はあいにく着脱式では無かった。
メリーは気落ちを越えて、憔悴したような、そして疲れ果てた声で答える。
「もふもふもふもふもふもふ……」
そして蓮子の耳には届きはしない。もはや本能のレベルでうさ耳に手を伸ばしていた。薄くも柔らかで、滑らか。ふわふわの手触りが蓮子の手を離しやしない。
暖かみもあって、なるほど血が通っているとわかる。
「ちょ、ちょっと、蓮子……触らないでよ!」
「減るものじゃないしいいじゃない」
その言葉が、蓮子が理性を保っていた最後だった。
「だからやめてって……くすぐったいし、いやあの、その、うひゃ! 蓮子! 蓮子! 蓮子さん!」
もう蓮子の口からは奇声しか漏れてこない。「うひゃひゃ」に似た擬音。既に日本語ではない。
メリーもそうだ。もう「駄目」とは言えない。「らめぇ」が関の山だ。
周囲の目が一層集まってくる。もはやうさ耳は付属品だ。うさ耳を攻める美少女と、攻められる美少女。ここでうさ耳を外してもそこはやはり最強ではあろう。蓮子が攻め、メリーが受け。これはジャスティスなのである。
言葉責め、蠱惑的な吐息。京の街に鳴り響く。神様からのお年玉かもしれない。周囲の人々は思った。
◇
「触らないでよ、絶対に触らないでよ」
そう言われ続けているのだが、油断すると、手が伸びてしまいそうになる。
「次触ったらコーヒーかけるからね。天然の豆だとかホットだとか一切考慮せず」
だが、脅し文句を受け、鉄の意志で目で愛玩するだけに留めつつ、手はカップへ向かうだけだった。
天然物のキリマンジャロ。口に含むと、強い酸味がある。喉に入れた後には残らない、爽やかな味がした。
上等なものなのは間違いない。値段を見ただけでそれはわかる。さて、この一杯で何日分食事が食べられるだろうか、と思いつつ、二口目を飲む。
私は合成の方が肌にあっているな、と思った。最大公約数の好みに合わせて作られた合成コーヒーが一番美味しい。
少なくともまがい物にはまがい物の魅力がある。うさ耳を見やりつつ蓮子は思う。何となく名言風だなと思い、どのタイミングで口に出してやろうかと考える。
「その耳って聞こえないのよね?」
「たぶん……私はこっちの」
と横に付いた耳を指さし、
「耳で聞いていると思ってるわ」
コーヒー店に向かう道すがらから、ずいぶんと気になっていたことだった。うさ耳を散々もふもふとしたことに詫びつつ、宥めつつ、天然物のコーヒーで体を温めることを約束しつつに忙しく、聞きそびれていたけれど。
聞きたいことは勿論、他にも山ほど有る。
「どうしてうさ耳が生えてきたのよ?」
「実家で寝てて、朝起きたら生えてたわ」
「良かったわね。朝起きたら虫に変身してたりしないで。うさ耳は可愛いし。可愛いし」
「繰り返さなくてもいいわよ。どっちにしても不条理なのは一緒……」
これだけ不条理な事柄なのだから、だけど、
「大事なことだから、でも、親御さんはなんて言ってたの? 『オーマイゴッド』とか『オーノー』とかそんな感じ?」
「この耳を初めてみたとき?」
「そりゃそうよ、誰でも驚くでしょ。ど派手なポーズでジーザスクライスト! とか叫ぶんじゃない?」
「……『Kawaii!』って」
詰まるところ「個性」の概念と、「カワイイ」でどうとでもなるのだ。可愛いは正義、可愛いは正義。二度繰り返すほどに大事であって「Kawaii」がフジヤマゲイシャハラキリ級のグローバルな言葉になるのも必然である。
「理解のある親でよかったわね」
「ありすぎるどころじゃないわよ。この耳……治らないのかな」
はあ、とため息を付きつつ、メリーは呟く。蓮子は返した。彼女なりの意志と言うよりは、この世界の常識を。
「治らない病気なんて、今の時代無いのよ」
蓮子は言った。その意味は、彼女以上にメリーが理解しているだろう。メリーの力――それが生み出した病というものも、『ウイルス性の譫妄』と言う管理内の言葉で片付けるのが、今の――管理された社会だ。
サナトリウムに押し込められた経験を持つメリーには、嫌と言うほどわかる。
「ええ、わかってるわ。お医者さんのお墨付きよ。これは『個性』だって。治らなくたって……社会の受け入れてくれる個性」
天然物のコーヒーを専門にする店だけ有って、周囲の年齢層も値段分は高い。二人のような学生は少数派で、身なりのいい、年齢を重ねた者が殆どだ。
それでも、ちらりちらりと二人を見る目があるのは感じられる。その程度は仕方がない。アイドルが歩けば周囲に喧噪が生まれる。うさ耳美少女がいれば目の保養をしたくなる。その程度だ。
とはいえ、『個性』が公の場で不具合を産むことは無い。人種、性別、宗教。そう言った物で人々が不利益を被ることが一切無いように、個性が不利益を産むことはない。建前ではなく、とうの昔から、本音でそう考えるようになっている。
管理された個性ならば、人々はなんの恐れも抱きはしない。不思議なものというのは、誰にも知られぬままでない限りは、管理され、個性に押し込まれるだけだ。
メリーにもその力を理解しきれない、蓮子には掴みようもないその目は、この世界における数少ない例外で、脱法者。
「治らないにしても、うさ耳は最強の萌え要素ではあるわね」
「いや、私はねこ耳派だし。うさ耳最強とか何言ってるのよ」
「ねこ耳は時代遅れよ。だいたい、水木しげる先生の描くねこ娘萌えが普及しなかった時点でねこ耳派に未来は無かったの」
「時代遅れって……二十世紀の話を持ち出して時代遅れもなにも」
ちなみに、水木しげる先生は未だに健在である。テラマックを美味しそうに食べる姿が、先日ブログにアップされていたばかりだ。どう考えても妖怪だろ、と思われて久しいが、それもまた個性である。
ともあれ、ねこ耳派VSうさ耳派の戦争は、遙かな昔より続くきのこ派VSたけのこ派。ペヤング派VSUFO派のような泥沼化の兆候を見せていた。
「だいたい、うさ耳ってそんなにいる? ねこ耳は山ほどいるけど」
「いや、バニーガールとかトラディショナルにも程のあるうさ耳じゃない」
「ああいうのは品がないし――」
このままではせっかくの天然コーヒーも冷めんかという勢いである。蓮子はキリマンジャロを一口、既にぬるさを感じ始めている。これは良くないな、と思う。
口を閉じ、まじまじとメリーを見つめる。
「ん? 顔に何か付いてる?」
「いや、何も。……でも、そうね。うさ耳メリーは可愛いけど、ねこ耳でも可愛いし」
メリーならなんだって可愛い、と心中で呟き、それで十分な妥協点だ。結局の所きのこの山もたけのこの里も美味で――両者を一つのパックに入れて売ってもいいのだ。
そしてメリーなら結局なんだって可愛い。それ以上はあまり考える意味もない。理解できることだけを、捉えていればいい。
「でもなあ、私にもうさ耳が生えたらいいのに。私の方が合っていると思わない?」
「なんで? うさ耳じゃ帽子もかぶれないし。ねこ耳なら出来るのに。蓮子は帽子が似合うからやはりねこ耳が。というかねこ耳が常に至高であって――」
あわや再びねこ耳VSうさ耳の究極VS至高の争いが再来せんかと言うメリーの言葉。
しかしながら山岡士郎と海原雄山が和解したように、人類の叡智は愚かな争いを乗り越えるのである。
「まあ、メリーがねこ耳派なのはいいの。もっと単純に、字的な問題よ」
「字?」
「そ、響きかな。うさ耳メリーってまあ普通じゃない」
「いや、普通ではないと思う。個性だし」
「そうじゃなくて、あれよ、宇佐見蓮子宇佐見蓮子うさ耳蓮子。宇佐美とうさ耳のこのハーモニー。馴染むぞ、実に馴染むぞって感じだわね」
と言ってはwryyyと呟く蓮子だが、メリーは怪訝な顔をしていた。ジョジョが名作であることは言うまでも無いが、流石にこの時代では古典でもある。
「馴染む? なんかのジョーク?」
最近の若者はジョジョを知らないから困る。と嘆息する蓮子。ネタが伝わらず滑った場面からどう立て直すか、プランク並みの頭脳をフル回転させる。が、打開策は見つからなかった。
「まあ、だったら石油でも売ってなさいよ」
しかしながらメリーが話題を進めてくれたのは僥倖であった。気を取り直し、
「宇佐見を宇佐美と書くのは」
指で字を空中に描きつつ、
「素人よ。宇佐美石油は美しい。宇佐見蓮子は美しくない。これが玄人の覚え方ね」
と言った。何が玄人かというと、素人は蓮子可愛いで思考停止してしまうあたりが玄人向けなのである。蓮子レベルの玄人になると自分の名字をあらかじめ辞書登録もしているのだが。少なくとも宇佐美蓮子と自分が書く心配は無いように。
「わかりやすい覚え方。でも、蓮子は可愛いから大丈夫よ」
メリーのデレを引き出すことも出来た。この話術はまさに玄人であり、匠の技でもある。
「そ、ありがと。メリーみたいな美少女に言ってもらえると自信が出てくるわ」
そこからは美少女二人の穏やかな褒めあいである。しかしながら蓮子は牙を研いでいる。いつあれを出すか、と機を伺う。
「でもねえ、確かにうさ耳蓮子って響きはいいわね」
「そこでメリーに朗報。うさ耳メリーをナチュラルにする秘策があります」
「秘策?」
そして取り出したるは婚姻届。無論、片側は全て記入済みだ。付け加えれば常時持ち歩いてもいる。
「サインするだけに合法的に宇佐見メリーでうさ耳メリーになれるわ」
「だが断る。ってか私はメリーじゃなくてマエリベリーだしマエリベリー・宇佐見ってゴロ悪いわよね……」
この流れ自体は今まで幾度も蓮子が行ってきたことで、別段新鮮さはない。六割ほどの本気でしかない事柄でもある。結婚は冗談にしたって、メリーがいるという証を、客観的な形に刻みつけたい。なんとなく、そう思うようになっていた。たぶん、トリフネから戻ってきて以来だろう。
同時に、蓮子の中には釈然としない思いが募っていく。
――Dioもろくすっぽ知らないくせに「だが断る」とか。にわかがジョジョ用語を使うなんて。
派手に舌打ちをかましたくなる蓮子さんであった。ジョジョジョジョ言ってたくせに三ヶ月で嫁を変える連中はもう……。そんな心持ちで。
◇
「やっぱりメリーの家は落ち着くわねえ。実家に帰ってきたような気分になるわ」
「ついこの間まで東京にいたんでしょうに」
「あっちの実家は別腹よ」
と言いながら、ジャージに着替える蓮子。本来はメリーの物だが、とうの昔に蓮子専用ジャージになっていた。通常の三倍の速度で痛み始めている感もある。
ジャージ姿でソファーに座り、くつろぐその様。確かに実家気分ではあった。それを咎めるわけもないメリーも含めて。
「不思議を見つけたって言ったじゃない。蓮子にメールしたとき」
「ああ、そうだっけ。まあ、うさ耳が生えてくるなんて不思議も不思議よね」
不思議――という管理外の物が許されない世界では、それは『個性』という言葉に押し込まれてしまうのだけれど。
「本当は別の物だったんだけどね。あの時はまだうさ耳は生えていなかったら」
「と言うことは、別の不思議が?」
「ええ」
まだ殆ど整理されていないスーツケースが部屋に転がっていた。メリーはそこからアルバムを取り出して、それを手に蓮子の横へと腰を下ろす。
「これね」
一枚を取って、手渡した。
「ええと、ああ、パワースポット巡りをしていた時の写真か。印刷したんだ」
かなり写りの悪い写真だった。薄暗い中に、セルフタイマーで取られた秘封倶楽部が映っている。いつもの二人で、それだけでパワースポット巡りの時だと理解できたのは、蓮子の勘や記憶力のせいではない。特に勘ならば、メリーの方がいいだろう。
とはいえ、「パワースポット大全」と書かれた本を蓮子が持っているなら、いつの写真かは言うまでも無い。メリーが幾度か「寒気がする」と言っていたのを覚えている。蓮子には何も感じられなかったけれど。
「このころのメリーはまだうさ耳が無かったのね。懐かしいな」
「懐かしいってほど昔でもないし、私はどうでもいいのよ。ここ見て」
メリーが指で写真上をなぞる。言われると、そこは靄のように見えた。
「もやもやしてるわね。心霊写真?」
心霊写真という娯楽は未だ健在ではある。とはいえ、全部科学的に分析すればわかる。と言う前提の上でだ。オカルトも殆どは、科学に組み込まれた時代だ。「世界の均衡を乱すため結界を暴くのは禁ずる」こんなおふれがあれば、人々も安心して生きていける。
「女の子に見えたの」
「言われるとそんな感じ、あ、ここが服で、こっちが帽子」
「そうね」
「おっと、ドリキャスのマークを発見。ほら、これが帽子で、模様付いてるでしょ? これドリキャスだわ。このぐるぐる模様。湯川専務の霊でも混じったかな」
「ドリキャス? 専務?」
「メリーはもっと日本の古き良き文化を知るべきね」
両手でうさ耳を掴みつつ、からかうようにして言った。「せーがたさんしろーう♪」と口ずさみつつ、耳を撫でていく。投げられるコーヒーその他はなくて、相変わらずのもふもふぶりで、メリーも、
「だからやめてって……」
言いつつもまんざらでもなさそうだ。「よいではないかよいではないか」と日本の伝統文化である悪代官口調が出てくる。あいにく、ここには悪代官を倒す侍も越後の縮緬問屋もいないが。麻呂もいない。科学の発展はZipと言う物の存在意義を駆逐したのだ。
「耳はいいの。ドリキャス……はなんだかしらないけど、ぐるぐるねえ。うん、ぐるぐるよ」
着衣を七割方乱しつつも、どうにか蓮子を振りほどいては一人得心した顔のメリー。付け加えれば、うさ耳をもてあそばれた影響か、ほんのり顔が上気しているようにも見えた。
そんな姿を見ながら、一線を――法的な意味で――越えかねないと蓮子は感じる。
――エエ、イツカソウイウコトヲスルヒトダトオモッテタンデスヨ。
と、ボイスチェンジャーとモザイク越しに友人が語る姿を想像し、蓮子とはいい友人のままでいないとね、と心中で呟く。「行けたら行くわ」→「行かない」「いいお友達でいましょう」→「もう合わないから」という言葉の塩梅もまだ知らない、純情な少女は別れの言葉を胸に抱いた――別れの言葉と知らぬままに。
そして、蓮子はメリーと別れた。
一分ほど。
扉を開けて、1Kの実質我が家のキッチンへ、冷蔵庫を開けて、コーラのペットボトルを二本、取り出した。抱えては、部屋に戻る。
勝手に冷蔵庫を開けられたことや、コーラを取り出された事を咎めるわけもなく、メリーは受け取った。蓮子も蓋を開け、一口。暖房に暖められた部屋の中で、清涼感に溢れる味が、口の中に広がった。
爽やかさの中で、テレビを付ける。水戸黄門(再)が放送されていた。正確に言えば水戸黄門(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)(再)――であるが、ともあれ、昨日も今日も明日も……再放送期間中のいつでも、本放送をしていた遙か昔も変わらない、里見浩太朗の痛快な世直しがモニターの向こうに見える。ゴールデンタイムのどんな番組よりも、水戸黄門(再)が視聴率を取れるのも、昔と同じだ。
黄門様は東野英治郎がベストね、と思いつつ、コカコーラを飲んでいく。ペプシは甘ったるい、やっぱりコーラはコカコーラだと感じる。横目には、うさ耳メリー。メリーは、雑誌を読んでいた。
「あんまりメリーっぽくないわね」
「そう?」
「メリーはもっと気品のある格好の方がいいと思うな」
「どうかしら」
そのファッション誌の表紙が目に入って、メリーっぽくはないな、と蓮子は思った。いわゆる裏原系のファッションが表紙だった。細いデニムの上には重ね着したTシャツと、パーカーの付いたスウェットのスタジャン。今この姿で歩いたら寒いだろうな、と言う着こみ方。
何度も廃れては……東京が荒れ地になってからもリバイバルしてきた、東京生まれのファッション。微笑む女の子の下には「おしゃれ革命! 最新ファッションの鉄板SNAP!」そんな言葉が載せられていた。
それを読む少女は紫のワンピース。見慣れた帽子はなくて、うさ耳が生えている。うさ耳を思ってファッションを変えようと思ったのか、それとも関係なく買っていたのか、よくわからない。考えてみれば、ファッションなんて言う女の子らしい会話をした覚えも無い。話すのは、
「コカコーラって昔はコカの葉が入ってたのよね」
「そうね、でもどうしたの? そういうどうでもいい雑学を自慢げに話すとか無いわ。ってのが蓮子の持論でしょう?」
「まあ、ね。これはただのとっかかりよ」
「蓮子が話のとっかかりを作ろうとするなんて、雨でも降りそう。いつも誰にも理解できないことをペラペラ話すだけじゃない。プランク並みの頭脳とニコラ・テスラ並みの面倒くささを持っているのが蓮子だもの」
どんなベクトルだろうが、女子大生らしからぬ事ばかりだ。
「酷い言い方」
「私の耳をもてあそんだ罰よ……って、ちょ、触らない!」
苦笑を返そうと思いつつ、メリーの耳をもてあそぶ方向にシフトする。思わず笑うのは同じでも、随分と朗らかに笑うことができた。
「もふもふもふもふふもっふもっふ」
「だから、やめ、やめて、やめてって! やめてください!」
「そういうと私は一層攻めたくなる質でな。この蓮子容赦せん」
こちょこちょ、くすくす、げらげら。うさ耳が生えてようが生えてまいが変わらない、愉快な笑い。
「で、まあ本題に戻すとね、これだけ科学が発展しても、やっぱりコーラにコカの葉は入れられないのよね。残念なことに」
「なんというか凄くヤク中発言ね。私がいない間に悪い遊びでも覚えた? そうしたらメリーさんは許さないわよ」
「まさか、この、アタナシウス・キルヒャー並みの頭脳を劣化させるわけにはいかないわ」
「だったら酒は控えめに。そもそもアタナシウスさんって誰よ」
「科学と神話が交錯できていた時代の偉い人。まあ、彼について話すには余白が足りないけれど、そういうことよ」
「どういうことよ。ああ、やっぱり明日も快晴ね」
窓の外には、冬らしい乾いた空が広がっている。その上には星と月が浮かび、遮る雲は何も無い。
「頭は、直らないからね。薬で頭がボロボロになったらおしまい。人類がどれだけ発展しようが、脳細胞だけは直せないわ。そういうこと」
「急に合理思考になったわね」
「まあ、理系だし、本質はそうよ。頭は機械と同じ、おまけに壊れたら直せない。壊れたコンピュータ――私たちの頭も同じで――そいつには天国も地獄もないってホーキングも言ってたわ。これだけの時間が流れても、誰も越えられない車椅子の天才科学者は。世の中には科学で説明できることと、これから科学で説明できるようになることしかないと言ってたのは誰だっけ……ああ、ジャレド・ダイヤモンド。で、別にそんな名言展覧会をしたいわけじゃなくて、要はメリーのことなんだけど」
「成長したわね。一人で蕩々と話すだけじゃなくなるとは。ジャレドさんが誰か私は知らないし」
蓮子は今度こそ苦笑でしか返せなかった。古い異人の話を連ねるわけもなく、己と相棒の話だけを続ける。
「で、私の話って何?」
「ええと……」
話そうとしたことは、全て頭の中に有る。日頃はどれだけふざけていたって――プランク並みと自称するその頭の回転は、客観から見ても正しいのだ。
蓮子には、そのうさ耳が本当は凄く恐ろしかった。ふざけて、真剣に考えないようにしないと、震えそうに恐ろしかった。だから、頭の中にある言葉は続けないで、その場で考えた冗談だけを吐き出す。
「メリーはなんだって可愛いって事。私がボケ老人になっても、きっとメリーは可愛い。私の主観はそう認識するわ、だから、自信を持って生きていきましょう。うさ耳はガチ、うさ耳だけはガチ、でもメリーならなんでもガチ。そういうことなの」
「何を言ってるんだか……褒めても何も出ないし、そもそも裏が怖いわよ。ノートのコピーならお断りだからね。毎回毎回コピーの山を友人に頼むのは私の評判が落ちるし、そもそも専攻が違うんじゃそっちへのコネも細いし、だいたい、学部なりの友人に頼みなさいよ」
「古人曰く、類は友を呼ぶ。我々の専攻ではテスト期間中に飲み屋に行った回数を競っていてね。でも、ノートはいいわよ。なんとかなるから」
卒業を考えなければね、と心中で呟く。そっちは、そんなに怖くもなかった。駄目人間とはそういうものであって、十年後に色々思うが、それはまた別の話である。
「となると、私の家の何かを壊した? でも、合い鍵は回収したし……」
「あ、それなら大丈夫。返す前にコピーを取ったから、まあ、裏はないわよ、そこに上等なウイスキーがあることも把握しているけれど、ちゃんと手は付けてないから」
そう言って、蓮子はまさしく実家気分でグラスにウイスキー、それと氷を取りに行った。この楽しい再会の時間と美味しいお酒、それが待っているのに、わざわざ壊そうとしないのはどんな人間だってそうだ。心に抜けない棘が刺さったままでも、楽しくお酒を飲むぞと思い込めるのも。
◇
「メリー……起きてる?」
と呟いたが、返事は無かった。一瞬、寝ていたのだろうか。少しだけ、時間が飛んでいた。
ぼやけた頭に聞こえるのは、付けっぱなしにされたテレビの音。古舘伊知郎の――合成音声が流れている。ワールドプロレスリングが放送されていた。遙かな昔に深夜に移っては、打ち切られもせず、ゴールデンに戻りもしない、伝統芸能が放送されている。
モニターには、小橋建太対武藤敬司の試合が流されていた、無論、ホログラムによるエキシビジョンマッチだ。プロレスには殆ど興味がない蓮子だったけれど、小橋の逆水平チョップの重みに、武藤のムーンサルトプレスの流麗さに、一瞬は目を留めた。
それからメリーを見ると、穏やかな寝息を立てていた。頭にはもちろん、うさ耳が生えている。携帯を出して、シャッターを切る。その音にも目を覚まさず、穏やかな寝息を立てている。愛らしいうさ耳が、データになって保存された。
それからテレビに目を戻すと、ちょうど試合が終わるところだった。
コーナートップに武藤を持ち上げ、頭頂部からたたき落とす。小橋の必殺技、バーニング・ハンマーだ。二人ともホログラムだと――客観的に見ればただの映像だと――わかっているのに、蓮子の主観から見れば武藤が心配になるほどの強烈な技で、試合は終わった。
それからCMが始まった。そちらには目を留めることもなく、メリーを見て、彼女をベッドへと運んだ。暖かな布団を被せて、それから一人酒に移る。テレビでは実在するレスラーの試合が放送されていたけれど、あまり興味が持てなかった。グラスにウイスキー――ラフロイグ――を注ぐ。氷は溶けきっていた。
メリーは絶賛しているけれど、やはり自分の口には合わないな、と蓮子は思った。正露丸を思い出すこの匂いは苦手だと。それに、ストレートでは流石にきつい。一口舐めて、結局目線はメリーに移る。夢と現の境界を、あるいは主観と客観を隔てるもの――客観結界を思いながら。
「ごめんね、メリー。もしかしたら私のせいなのかもしれない」
寝息を立てるメリーに向けて、蓮子は呟いた。伝えたい言葉なのか、伝えたくない言葉なのか、蓮子自身にもよくわからなかった。両者の溶け合った、境界の曖昧な言葉だった。
ラフロイグをもう一口、それから、語られた夢を思い出す。吉夢か、悪夢かもわからぬ夢を。
――お願い、貴方に夢の事を話してカウンセリングして貰わないと、どれが現の私なのか判らなくなってしまいそうなのよ。
そう言って話し始めた夢の話を。求められたカウンセリングを。
そのカウンセリングには、二つの解があった。一つは、夢は夢だと信じさせること。そうすれば、夢と現の境界は確かな物になる。
でも、蓮子はそれを選ばなかった。夢ではなく、別の世界にいるのだと……境界を飛び越えたのだと、信じさせる方を選んだ。夢の世界を現実に変えることを選んだ。二度とこの現に帰ってこられなくなると……現が夢になる可能性があると承知で。
その結果は、これまで以上に愉快なサークル活動だった。メリーの見る夢――あるいは境界の向こうを、蓮子も垣間見た。あくまで、垣間見ただけだ。
二人は、トリフネの中を見た。あるいは、訪れた、それは一例だ。同時に、二人はそれを楽しんだ、そしてメリーは怪我をして、サナトリウムへと送られた、蓮子は、怪我をするわけもない、出来はしない。
それが、蓮子の限界だ。境界を操る事はおろか、見る事もかなわぬ身には。
自分がメリーに引っ張られるだけの身だとは重々承知している。だから、メリーがその手を引いてくれなければ……メリーの主観から己が消えたなら……その手では、二度とメリーを捕まえられないように感じる。
メリーの夢が、主観が、夢の中で負った傷を、誰も知らぬ、メリー以外の身には起きない病とした。その病はこの世界の常識では完治したとされたけれど……今度は、うさ耳という「個性」が生まれた。
その契機は、結局は自分のカウンセリングにあるんだろうと思う。ため息をついて、またラフロイグを。テレビの横の棚に、石があった。伊弉諾物質だ。立ち上がり、触れてみる。蓮子の目には何も見えない。メリーがいれば、二千五百万年前を垣間見させたそれは。
「ほんと、メリーは可愛いわね。寝顔にいたずらしてもいい?」
立ったまま、冗談を口に出す。サインペンを取ってみて、キャップを付けたまま「肉」となぞってみる。それでも寝入ったメリーから返事があるわけもなく、ふざけた言葉で誤魔化すことも、もう難しい。
窓を開け、空を見上げる。相変わらずの雲一つ無い星空。二時四十八分三十七秒。蓮子の目は、正確に時間を捉える。電波で会わせられている、メリーの部屋の時計と、寸分の違いもない。その壁掛け時計の下にベッドが、メリーが、獣の耳が見える。寒風が吹き込み続けていて、蓮子は窓を閉じた。
百年前の人間ならどう思ったのだろう? と蓮子は想像する。兎の耳が生えた人間。はたして、それを化け物と思うのだろうか。それとも、兎耳の女を見た自分を狂人と認識するのだろうか。裸の王様の服を見た者たちのように、個性を捨てて……
詮無きことだと思い、蓮子はそれ以上考えない、過去は過去でしかない。有るのは現在だけで、待っているのも、いつか現在になる未来だけ。
過去にも現在にも存在するメリーが、未来にもいて、友人であればいい、それだけだ。
残ったウイスキーを、一息に呷った。頭がいくらかぼやける。視界に映るメリーも、朧に見えた。
台所に行くと、使い慣れたケトルに少しだけ水を注いで、「Gold Blend」と書かれた瓶から、コーヒーを無造作にカップへ。お湯を注いで戻り、マドラーでかき回す。
それでも合成コーヒーは美味かった。最大公約数の味覚に合わせて、優秀な技術者が膨大な時間をかけて作った味だ、不味いわけがない。昼に飲んだ酸っぱいキリマンジャロよりも、よほど口に合うと思った。
そんな美味なコーヒーが、安価に手に入る。プランテーションで使われていた半奴隷も、大企業の搾取も消えて無くなった。格差も争いも病も克服され、「個性」という言葉があらゆる差別も駆逐した今は、幸せな時代だ。
いつか、メリーが言っていたことを思い出した。
――昔はよかったって言う発想は悪くないと思うの。『昔はひどい、今が最高だ』って、感じたら、そこに安住しちゃうでしょう? でも、昔はよかった、って思えば、『じゃあ昔に負けないくらいい時代にしよう』と頑張れる気がするから」
それでも、蓮子は今が一番いい時代だと思うけれど。でも、未来を今より良くしたいという意志は持っている。そのためには、その未来には、メリーがいて欲しいと思う。紫のワンピースを見た少女を見ながら、獣の耳を持つ、妖のような個性を見ながら、
「健全な精神は健全な肉体に宿る」
寝顔に呟いてから、結局は自分しか聞いてないのだからと、心中で続けた。「その通りで、精神と肉体は切っても切り離せない。体が不調ならば心は弱る、と言うのが一番簡単な例だけどね」
それから、またメリーを見て、コーヒーを一口飲んで、残したまま、ソファーに身をゆだねた。
「ねえ、メリー。本当に貴方が境界を操れる――動かしてしまっているのかはわからない」
と言って、電気を消した。部屋の中には暗闇だけが溢れる。また、心中で呟く。
「貴方の目が、貴方の体に影響を与えているのは確か。ウイルス性の譫妄……そんな診断はさておいても、貴方の目は、貴方の心を変えていく。それは間違いのないこと。貴方のその耳も、やっぱり心に影響を与えるし、もっとおぞましい何かが、貴方の体に生まれるのかもしれない――」
はっきりと心中で呟いたのはそこまでだ。「妖怪のようにおぞましい物は、貴方を化け物の心にしてしまうのかもしれない」と続けようと考えたあたりで、蓮子は目を閉じた。完全に暗闇になった視界の中で、口を開く。
「でも、忘れないで、メリー。貴方に何があろうとも、私はいつまでも貴方の友達。それだけは絶対に、確かな事よ」
最後に、心の中で「いつかちゃんと伝えないと」と思う。それきり、蓮子はもう何も考えようとしなかった。考えずとも、二人で刻んできた道が頭に浮かんできた。例えば、蓮台野の夜を、墓場で見た桜を。あるいは東京の荒涼とした道を歩んだ記憶を。その他の、数え切れないほどのサークル活動の歴史を。まだ、月には行ってない、いつか行かないと。
そう考えたあたりまでは確かに現だった。蓮子の心が現を抜け出し、夢を泳ぎ始めたのはいつからか、誰にもわからない。客観から見れば、あるときからは二つの寝息が聞こえていたけれど。
◇
「おはよう」
メリーの声が聞こえて、蓮子の心は現に戻っていた。
「うー……おはよう、メリー」
白んだ、寝起きの目で、まず見たのは携帯だった。一時二十八分。まあ、上出来な方か、と思った。少なくとも一日を無駄にする時間でも無い、飲んだ後なら上等だ。少なくとも冬休みなら。
メールが二件入っていた。差し出し人の名前を見れば、専攻の友人だった。名前で殆どを把握できたので、返事はあとでいいと開きもしない。メールで世間話を返してあげるほどの気力はまだ無い。
それから、見慣れたメリーに視線を移す。
「えっ?」
「どうしたの? 顔に何か付いてる?」
「いや……」
昨日一日で十分見慣れただろう兎の耳は、無かった。
「いやじゃ無いわね」
「何が嫌なの? ベッドはそりゃ譲らないわよ、あ、でも昨日蓮子が運んでくれたのよね、ありがと」
「そのいやじゃなくて。耳が消え……治ってるじゃない」
「耳が治ってる? 私は耳でおかしくなったことなんてないわよ。ああ、でも小さいときに中耳炎をやったわね……あれ、凄く痛いのよ。思い出したくもないくらいに」
「そうじゃなくて、うさ耳よ! うさ耳! メリーのうさ耳!」
「うさ耳ならゴロ的に蓮子でしょうに」
「うん、だから私と婚姻届を出せばうさ耳メリーになれると」
「昨日もそう言われたし、私も言ったでしょうに……というか改めて言うのもなんだけど、私の名前はマエリベリー。宇佐見マエリベリーじゃもっと発音しにくいわ。まだ酔っぱらってるの?」
まったく、釈然としない。とはいえ、理解できないと言うことも無かった。夢、幻覚、妄想。理解を放棄して混乱するよりも早く、蓮子の頭にはそんな言葉が過ぎったし、どんな異常な状況であろうとも、まずは現実を受け入れる。それは容易に出来た。それが性分だ。
自分の記憶がおかしいのか、メリーがおかしいのか、それを確認する方法もすぐに思いつく。手に握られたままの携帯電話を見て、写真フォルダを開く。収められた中に、メリーの寝顔は有った。昨夜取った寝顔があった。そして、兎の耳は無かった。
一応、こういう可能性も考えてはおく。「メリーが私を寝ている間に写真を修正した」まあ、これならあり得ないとは言い切れない。携帯のカメラ程度なら、改変防止のセキュリティが十二分に施されているわけではない。
と言っても、そこまでやるとは思えないけれど。おかしいのは自分の記憶だ、その蓋然性は極めて高い。そうやって自分が異常だと認識すると、随分と心が落ち着いた。
「そうかもね。とりあえず、コーヒー入れてくれない?」
「はいはい、蓮子様のお目覚めを祝して」
メリーは台所に向かうと、髪がふわりと揺れて、甘い匂いが伝わってきた。もう、シャワーも浴びているのだろうと思った。
「どうぞ」
昨日の夜と同じ合成コーヒー。分量通りに作られたそれは、昨日のよりも更に美味だった。
「やっぱりコーヒーはゴールドブレンドね。違いのわかる女の、ゴールドブレンド。ブレンディは薄いし、マキシムはコクがないし――」
「それ中身違うわよ。瓶はゴールドブレンドだけど、別の詰め替えがセールしてたから変わってるの。それにしても蓮子様の味覚は流石ね。語尾に(キリッって言葉が付いてそうなくらいの見事な講評だったわ。だいたい、薄いとコクがないってほとんど同義じゃ……」
愉快そうに笑うメリーから視線を外しつつ、コーヒーを勢いよく飲んでいく。舌が火傷しそうだ。それでもやっぱり美味だった。
「さて、快適な目覚めに必要なカフェインは摂取できたわ。これで調子も万全」
「それカフェインレスだけど。安かったし試してみようかと思って」
「で、水分で目が覚めたわ。そして冬休みも残り僅か、遊び尽くすための予定を練らないとね」
「終わったらすぐ試験期間よ? 私は出席点だけでも余裕だから良いけど、そもそも理系の蓮子はそれどころじゃないだろうし」
「明日は明日の風が吹く。テストのことは始まったら本気を出すわよ」
「せめて後輩になるのは避けて欲しいけどね。でも、確かにまだどこかに行くのは十分時間があるわね。そうそう、この間凄いミステリースポットの話を聞いて――」
「それもいいけれど、たまにはオカルトを離れてのんびりするのもいいかもね。温泉でのんびりとか、そういうのもいい気分。最近、真面目にサークル活動しすぎたわ」
「急に衰えた感じね。酔っぱらった寝起きじゃそんな気分になるか。健全な精神は健全な肉体に宿る、って昨日の蓮子も言ってたけれど。酔っぱらってぶつぶつ言ってるから起きちゃったわよ。面倒だから寝てるふりしたけど」
寝たふりだったんだろうか。そうすると、どこまで聞かれていたのだろう? と思い、赤面しそうになった。同時に、こんな可能性も思う。自分の主観が観測していた昨日と、メリーの主観が観測していた昨日は別物なのかもしれないと。
自分にとっての幻像は、メリーにとっては、メリーにだけは紛れもなく現実となるのは承知している。
だけど、それもまた、詮無きことだと思う。夢違、胡蝶の夢。そんな言葉が頭に過ぎったが、それだけだ。今のところ、メリーは目の前にいる。それ以上何が必要なのだろう。
「メリーは、うさ耳よりねこ耳が好きなのよね」
「ええ、昨日言ったとおり。次点できつね耳かな。狐もいいわよね」
「リアル狐の耳ならわかるけど、きつね耳と言われるとどんな感じがぱっと出てこないわね……」
そう、今は、少なくとも今はまだ、何か有っても話せて、問いかけられて、意志を伝えられるメリーがいるんだから。そう思いながら、蓮子はメリーのきつね耳トークを聞き流す。
「もしかしてさ、昨日、私は言ったかな?『メリー。貴方に何があろうとも、私はいつまでも貴方の友達』みたいなこと」
「夜中に? ええ、言ってたわよ。凄く青い言葉」
「本音よ、だから、ちゃかさないで欲しいな」
間違いなく伝えたい言葉は、まだ伝えられる
「私はメリーがどうなろうと友達だし、絶対にメリーを離さないと思ってる……別に、今すぐ深刻ってわけじゃないわよ? でも、一寸先は闇って言うし、私たちはこんな目で、ちょっとは危ない橋を渡ってるものね。そうでなくったって、これから先、私たちには多分長い人生が残ってるから、言えるときに、ちゃんと言っておこうかなって」
「……ごめんなさい。そうね。確かに、サナトリウムに行かされたりもしたし……ありがとう。私も、ずっと友達だと思ってるわ。蓮子に何があったって」
「あとうさ耳こそが本当に至高だから、これも本音ね」
「いや、ねこ耳こそが究極だから……まあ、一旦それは置いておきましょうか。温泉、温泉ね。確かに魅力的かもねえ」
メリーは携帯を取って、いくつかの温泉を調べ始める。
「近場ならまだ間に合うかな。で、一泊二泊してもいいわよね」
「そうね」
「確かに最近は『見えすぎている』し、ちょっとのんびりしてもいい気はするの」
「あんまり真剣にやり過ぎても不良サークルでは無くなるから。温泉でのんびりしましょう? 何事もオンオフのメリハリが大事だし」
「蓮子の単位数でその用件は十分満たしてるわよ。オフオフな蓮子さんのね」
一旦調べ始めると余計に魅力的に見えてきたようだ。いくつかの候補をホログラムで投影しては、あれでもない、これでもない。と話し合う。陽気な否定の中で、メリーは上機嫌に歌を口ずさむ。例えば、「聳え立つ冷たい石の塔~♪ 朽ち果ててく機械の街~♪」そんな歌詞を。
「変な歌」
「そうかな?」
「というか誰の歌?」
「ええと……わかんない。誰なんだろう。自分で作ったんじゃないのは確かだと思うけど」
「ま、温泉を調べるのは後でもいいわ。今日慌てていくより、明日行く方が無難だろうし。それより、お腹すいたな、何か食べに行きましょ」
「私も起きてパンをちょっと食べただけだし、そうね」
「じゃあ、その前にシャワーだけ貸してくれる?」
「ええ。歯ブラシタオルその他は……自分のを持ち込んでるからね」
蓮子はシャワーに行って、まず鏡を見やった。ほんの少しだけ、でも確かに恐れながら見た己の姿は、見慣れた自分と何も違わなかった。
お湯を出して、体を洗いながら。ぼんやりと思う。昨日のことは夢だったのだろうか、と。到底そうは思えなかった。でも、夢や幻覚ならばいい。相応の薬やカウンセリングがある。
でも……もしかすると、「世界の境界をメリーが操ったんじゃないだろうか」と想像することも出来た。世界の境界を操るという言葉はなんとも抽象的だけど、パラレルワールドを移動したとか、時を移動して書き換えたとか、三文SFを探るだけで無数の候補が出てきそうだ。そもそも、それがメリーの意志によってなのか、あるいは無意識になのか、などなどの考えも無数に連なってくる。
ザー、と言うシャワーの音の中で、どうでもいいと思った。
「お待たせ、すぐに髪を乾かすから行きましょ?」
化粧をするのと同じくらい、どうでもいいことだった。気の置けない親友と昼食を食べる程度で、そんなものはいらない。
「食べようと思ったら急にお腹が空いてきちゃった。巻きでよろしく。温泉旅館の食事を見続けたのも敗因ね……まさしく飯テロだわ……」
メリーはここにいて、先の予定はあって、自分の意志も伝えられて、メリーに何があっても自分は離すものかと再確認できた。大切な物は、まだあるんだって理解できているから。
そしてコーヒーの三段スライドネタで笑った。
秘封と言えばちゅっちゅと不思議が必要なんだけど、そのどちらもしっかりやりつつ、やりすぎないというか
そのバランスが奥ゆかしく自然な感じで出来ててすごい!
ところで鈴仙のうさみみの魅力について語った大長編はまだですか?
とはいえ合間合間に挿るネタが一番印象的だった
異常や少数派を「個性」という言葉で受け入れる優しい近未来の世界。それはかえって、人々を均質化させ、個性を失わせ、その人が生きた証を残しにくいようにしてしまっています。けれど蓮子はそんな客観より自分の主観を選んで、今そこにメリーがいてくれればそれで良い、という狂気にも似た覚悟を持っています。
そこかしこに散りばめられた小ネタの数々も良かったです。Jared Diamondは人の社会、文明に通底するシステムを見出そうとする文化人類学者で、一般向けの本もベストセラーなのでオススメです。
かわいい
うさみみ
むすめ
あと、蓮子とメリーが離れ離れになってしまうかもしれないという不安感
しかし、水木しげる御大はご自身が妖怪におなりあそばされたか
よくわからないままうまく纏めているあたり作者様の力量を感じます。