突然の雨だった。
人間の里に買い出しに来ていた私は、すぐに近くにあった商店らしき建物の軒下に逃げ込んだ。
まったく、参ってしまう。いきなり降り出すなんてついていない。空を見上げると、分厚い雲が覆っていて、しきりに大きな雨粒を降らせて来ている。
逃げ込んだは良いが、さてどうするか。この商店には人がいないようだった。戸は固く閉まっている。他の場所へ移ろうかと思ったが、以前勢いを増す一方の雨に品物を濡らされては大変と、周りにあった商店も次から次に戸を閉め始めた。
一旦道場に帰ろうか。そんなことを考えたが、ずぶ濡れになるのはやはり勘弁だ。私が住んでいるのは仙界にある道場で、この幻想郷とはまた違った世界だ。太子様が作った世界だから伸び縮み自由で、やろうと思えばこの幻想郷のどことでも繋げることができる。だから移動は簡単。なのだが、帰ろうと思えばすぐ帰れるという訳ではなく、ある程度の制約はある。太子様曰く、どことでも繋げられるけれど、あまり繋げすぎるとそれらの繋がりがこんがらがって大変なことになるらしい。どう大変なのかはわからないが、とにかく大変だというのだからやらない方が良いだろう。そういうわけで、仙界と繋がっている出入り口は太子様が決めたいくつかの場所に設定されている。
博麗神社を始めとして、魔法の森、霧の湖、迷いの竹林など幻想郷各地に仙界との接合地点が存在し、今後は地底や天界にも作る予定だ。
今回私が利用したのは人間の里の北東部にある出入り口で、周りには荒れた畑と古ぼけたお地蔵様くらいしかない。あまり人目が着くところに繋げてしまうと、出入りの際に人々を驚かせてしまったり、悪戯に入ってこようとする輩が出てくる可能性があるため、人が少なく安全に移動できる場所を考慮した上でそこが良いだろうと決められた。お地蔵様の隣には桜の木があり、根元に人が座れるくらいの石が置かれていて、それをどかせばいつでも仙界と幻想郷の行き来ができるようになっている。もちろん誰でも簡単にどかせるというわけではなく、ドアに鍵があるように、鍵の役割を果たす術が必要になるわけだが。
今いる場所からその入り口まで最短距離を最速で行ったとしても、どうせこの雨の中を移動するのなら向こうに着く頃には洗濯物みたいになっているに違いない。雨足は弱くなるどころか段々と強くなってきて、まるで矢が天から降り注いでいるかのような勢いがあった。
雨は何とか屋根が防いでくれているが、一歩でも外に出ればたちまち全身がずぶ濡れになるだろう。
はあ、とため息をつく。仕方がない。ここでしばらく雨宿りをさせて貰おう。
それなりの賑わいを見せていた通りだったが、すっかり人の姿はなくなっていた。みんな雨が降り出してからすぐに家に戻ったのだろう。通りから人の気配が消えて、すっかり寂しげな雰囲気になってしまった。人がいなくなるだけでこんなに変わるものか。
不意に布都のことを思い出す。もしあいつがここにいたら、雨の中に突きだしてやるのに。濡れた地面に足を取られて転んだら、泥まみれになった姿を指差して笑ってやりたい。
だけど現在、布都は道場でのんべんだらりと過ごしているに違いなかった。アホ面を浮かべながら幻想郷の地図を眺めて、この勢力は仲間になる、この勢力は敵になる、なんてやっているのかもしれない。もしくは弟子を増やす方法についてあれやこれやと考えているだろう。
布都は生前から変わらない。永い眠りから覚めても布都は布都のままだった。自分が決めた道を何の疑いもなく進むことができる。愚直な真っ直ぐさが羨ましいと思う。太子様に対する感情も何も包み隠さない、そもそも隠せるほど器用な奴ではないが、そういう布都の馬鹿正直な所が私には眩しく見える。
私は自分の気持ちを真っ直ぐ届けることができない。伝えようと思っても、口から出るのは声にならないため息だ。
太子様に対する思いは誰よりも強い。尊敬や信頼は身体からあふれ出るくらいには持ち合わせている。布都にだって負けはしない。太子様のためなら死ぬことだってできる。実際、死んだ。こうしてふよふよと空中を漂う亡霊になった今でも、彼女のために尽くそうという気持ちに衰えはない。
それでも少し寂しい気持ちになる。
自分を見て欲しい。誰よりもまず私のことを気にかけて欲しい。私を必要として欲しい。慕っているからこそ生まれる自分勝手な思いが、日に日に膨らんでいく。
昔はここまで強い思いを抱いてはいなかった。明確な目的が私が辿るべき道を示してくれたし、その道の上には太子様もいたから迷うことはなかった。国を良くしよう。死を克服しよう。どれも大変な努力を要したが、誰の代わりにもならない私だけの役割を持っていることに充実感を覚えていた。
永い眠りから覚めて、それらの思い出がまるで夢であったかのように感じられる。
今の生活に不満があるわけではない。昔と比べればずっと豊かだし、欲しい物は何だって手に入る。何より団子はうまい。
国は豊かになった。私は死んだが太子様は死を克服した。昔掲げていた目的は達成された。
なのに、私の心には暗い影がかかっている。
「とりあえず楽しく過ごしましょう」
太子様が新たに掲げた方針だった。楽しく過ごす。そう言われて、布都はもうすでに楽しげな顔をしていた。だけど私は戸惑いを感じていた。あまりに漠然とした方針に、どうしたらいいのかわからなかったのだ。
もちろん私がその言葉に逆らうはずもなく、その場は大人しく「はい」と答えた。それから悩んだ。しばらくはどうしたら楽しく過ごせるのかを考える日々を送った。趣味を作ろうと思い立ち、どうせなら太子様が喜んでくれるものが良いと、昔から料理を得意としていた私はそれを趣味にしてみることにした。昔の料理と今の料理は全くの別物で最初は苦戦したものの、それが案外楽しかった。太子様に出来上がったものを食べて貰い、「美味しい」と笑顔で言われたときは舞い上がった。ようやく自分の在るべき場所を見つけたような気がして、その日は一日中心が躍った。布都に「何を不気味な顔をしておるのじゃ」などと言われて雷を落としてやった。
しかし物事は順調にはいかない。ある日のこと、太子様が弟子の一人に何やら話しかけられているのを見かけた。特に気にかける必要もなかったが、弟子が包みを持っていることに気が付き、嫌な予感がしてしばらく遠くから見守ることにした。包みが開かれると、案の定それは弟子が作ったと思われる手料理で、太子様はそれを口にすると、大きく頷いて笑顔を見せた。私に見せたそれと同じように……。
それで気付いてしまった。
料理なんて誰だってできる。自分の代わりは探せばいくらでもいるのだということ。
そんな現実を突きつけられて、今までと同じように料理を楽しむなんてことは、私にはできなかった。
その日を境に、料理を作ることはしなくなった。
彼女の喜んだ姿が私の幸福であり、彼女の笑顔が私の楽しみであることは、わかり切っていた。
だから、もっと太子様の為にできることが欲しいと思った。自分は太子様にとって必要な存在なのだと自覚できる何かが欲しい。
その思いを少しでも埋めようと思い、質で駄目なら量で勝負とそこらにある中華料理屋みたいな意気込みで、太子様のお願いはどんな些細なことでも聞くようになった。雑用だって喜んでこなす。少しでも自分を必要としてくれるなら、私はどんなことだってする。
今日の買い出しもそういう理由でやってきたのだ。弟子の誰かにやらせれば良いと彼女は言ったけれど、私は頑なに自分が行くと言った。
結局、雨に降られて立ち往生し、憂鬱な気分に浸っているのだから情けない話だ。
「止まない」
ぽつりとつぶやいてみる。
「早く止め。馬鹿者」
空に向かって言ってみるが、当然ながら聞いてはいない。自然はいつだって人の気持ちなんてお構いなしだ。
「楽しく過ごす……か」
果たして自分が楽しく過ごすことが太子様の為になるのだろうか。疑問を感じる。疑う心は人を弱くする。
「太子様」
雨空を見上げて、つぶやく。
「私を必要としてください」
小さな蚊の鳴くような声は、雨の音にかき消された。
通り雨ならすぐに止むはずと思っていたものの、一向に止む気配がなくてうんざりする。道の真ん中辺りなんてちょっとした川ができあがっている。土が穿たれて、それが流れ出ているものだからひどく濁っている。
その流れを見ていたら、この間太子様がお話ししてくれたことを思い出した。新しい知識を得たら誰かに話したくなるもので、太子様も例に漏れず、何か面白い話のネタを手に入れたら良く私に聞かせてくれる。
その時は、ガンジス川の話だった。
「ねえ、屠自古。ガンジス川って知ってますか?」
「ガンジス川ですか。いえ、知りません」
私が首を振って答えると、どこから持ってきたのか、大きな本を机にどんと置いた。それを開いていくつかのページをめくると、色つきの写真が載っているところで止まった。
「これがそう。インドを流れる大きな川です」
彼女が指を指す写真には、巨大な川とそこで水を浴びている人々が写されている。
「インドと言うと、仏教が生まれた地でしたか」
「そう。でも、インドでは仏教よりもヒンドゥー教の方が信仰されているの。ガンジス川はヒンドゥー教において特別なもので聖なる川なんて言われたりします。人々はここで沐浴したり、瞑想を行う。そうすることで、自分の罪が洗い流されると信じられているのです」
得意げに語る太子様に感心したものの、本に記載されている文章を目で追ってみたら似たようなことが書いてあったので、ちょっとだけ可笑しくて笑いそうになるのをこらえる。
「随分と濁っていますね。あまり水質は良くなさそうだ」
「人々の罪を洗い流すくらいですからね。水だって汚れます。罪です、この濁りは」
「でも、他にも何か色々と浮かんでいますよ。こっちの写真なんて、ゴミにしか見えない物がたくさん写っていますし」
「それは、ゴミですね」
「良いのですか。聖なる川なのに」
「さあ。でもまあ、死体だって流すみたいですし、何でも流してしまえば良いと思っているんじゃないですか」
「死体までも……。水葬というやつですか」
「火葬して残った灰を流すのが本来のやり方らしいのですが、それには結構なお金がかかるようで、そんなお金持ってないからこのまま流してしまえなあにこの聖なる川なら何でも受け入れてくれるだろう、みたいな人もいるんですって」
「適当なんですね」
沐浴をしているところに死体が流れてきたらどんな気分なのだろう。想像できないが、決して気分の良いものではないことは確かだ。私だったら当分その後飯を食う気にはなれそうにない。
「重要なのは、この川がたくさんの信仰を集めているということ。それもずっと気の遠くなるほど長い間」
太子様の指が本に載せられた写真をそっと撫でた。彼女もまた多くの信仰を集めた存在であるが、昔から変わらずそこに在り続けるガンジス川とは違い、私たちは歴史の表舞台から一度完全に消え去った。千四百年という空白の時間はどうしても埋められるものではない。聖徳太子という人物はこうした本などの書物の上でしか語られることがない存在になり、かつての信仰は消え、おまけに実在したかどうかまで疑う声があるというのだから、太子様が何かしら思うことがないはずがない。
もしかしたら、その辺りのことを気にしてこのような話をしてくれたのだろうか、と私は思い、それとなく訊いてみると、
「ん? 別に」
まったくそんなことは考えてませんでした、とその顔は如実に語っていた。完全に私の杞憂だった。
「面白いな~って思っただけで、特に深い意味はありません。気を使わせてしまいましたか?」
「いえ」
と私は少し恥ずかしくなって、俯きながら短く答えた。
「屠自古」
本をパタンと閉じながら、彼女は意味ありげな笑みを浮かべながら言う。
「ここで身を清めたら、すべてが浄化されてすっきりしますよ?」
この気持ちから解放されるのなら今すぐガンジス川に頭から突っ込むところだが、そんな簡単に解決したら苦労はしない。
そんなわけで、相変わらず暗たんとした面持ちで立ちすくんでいると、異変が訪れた。
人っ子一人いなかった通りに、誰かが現われた。
誰だろう。こんな雨の中を。その人物の足取りは軽い。水を跳ね飛ばしながら向かってくる。楽しくて仕方がないというように。
紫色の傘をくるくると回し、その度に水が弾かれて白い霧のようになる。
こんな日に、どこの阿呆だ。
顔は傘に隠れて見ることができない。やけに明るい黄色の服が、この景色の中で異様に浮いている。
そういえば傘の妖怪がいたな、と思い出す。人を脅かす妖怪だ。もしかしたらそいつだろうか。水を跳ね散らしながらこちらへ確実に近づいてくる。雨を喜んでいるかのような挙動は、確かに傘の妖怪なら納得ができる。
もしその妖怪なら、私の前を素通りなどと拍子抜けする行動は取らないだろう。脅かして来るに違いない。しかしこちとら伊達に亡霊をやっているわけではないので、そっちがその気ならやってやんよ、と少しでも怪しい動きをしたら反応できるようにそいつの動きをじっと観察する。
私の前方までやって来たそいつは、思った通り、足をぴたりと止めた。
来る、と思った。
傘が揺れ、横向きの身体を反転させながら、
「うらめしや~」
という声を発し、その人物は勢いよくこちらを振り向いた。
予想通りの行動。あまりの古臭さに思わず笑いそうになる。時間が経てば何であれ進化するのが当たり前の世の中で、古典でもやっているのかと声を大にして言いたい。
その身体に電撃ビリビリカウンターを叩き込んで、驚愕とはどういうものなのかをたっぷりと教え込んでやる。
はずだった。
私の身体は動かない。
ものすごく驚いた。
ただただ呆然とする。
私の目がそこにいる人物の顔を認識した瞬間、時間が止まってしまったかのように自分のすべてが固まった。
太子様だった。
傘の下から現われた顔は、太子様だったのだ。
「あら、屠自古。こんな古臭い脅かしで、そんなに驚きましたか?」
はあ、いえ、はい。そんな中途半端な返事をした。
あまりにも予想外の出来事に何も考えられない。
ただ太子様が目の前にいるという事象が、さっきまでどこの阿呆だとか脅かしてきたらやり返してやんよとか、そんなことを考えていた頭では到底理解することができない。
「……すごく驚きました」
「でしょうねぇ。なかなかこんな反応はお目にかかれそうにありません」
ようやくひねり出した言葉に、太子様は可笑しそうにくすくすと笑った。
「それにしても屠自古。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
奇遇なわけがない。先ほど出かけるときに買い出しに行くと彼女に言ったのだから。しかし、そう言葉を返すには私はあまりに混乱しすぎていたから、ものすごく間抜けなことを口走ってしまう。
「その服は……?」
すると太子様は「ああ、これですか」と視線を自分が着ている真っ黄色の服に向けた。頭から足下まですっぽりと覆っている。
「レインコートと言うんですよ。合羽と言った方が親しみがあるかしら」
確かにそれはこの降りしきる雨粒一滴一滴を受け止め、つるつるとした表面を伝い地面へ逃がしていた。
私は少しだけ回復してきた頭でようやくまともな質問を思いついた。
「太子様は……なぜここへ?」
「ふむ。そうですね。どうも幻想郷の上空に怪しげな雨雲を発見したので、これは大変と万全の装備で出てきたわけです」
なんと。それはつまり私を迎えに来てくれたということだろうか。太子様の心遣いに感激した自分だったが、
「雨の日の散歩というのはなかなか趣のあるものでしょう」
その一言ですべての幻想がうち消された。
馬鹿だなと思う。私の為にわざわざ来てくれるはずもないだろう。何を期待しているのだと自分のことを殴り飛ばしてやりたくなる。
「そうですか」
なるべく明るい声で返す。喉の奥から這い上がってこようとしている身勝手な感情を堪えながら、続く言葉を探す。
「しかしひどい雨です。こんな状況で散歩をしているのは太子様くらいですよ」
「確かに散歩している人は見かけませんね。船に乗っている者は見たのですけれど」
船? と私が疑問を口に出す前に、太子様は「失礼」と私の横に並ぶと、水を滴らせている傘を畳んで、ふうと息を吐いた。
「すごい景色ですね」
人里には良く訪れるので見慣れた場所だった。それが大量の雨により、初めて目にする土地であるかのような錯覚を抱かせる。
「ええ。ずっとここで足止めを食らっているので、困りものですが」
彼女の持っている傘に目をやる。それだけを使ってもきっとこの雨の前では無力だろう。
「もう道というより川に近いわね。どこまで続いているのかしら」
「私はこの前太子様がお話ししてくださったことを思い出しました」
「何を話しましたっけ」
「ガンジス川の話を」
ああ、と頷く。
「気に入りましたか、私の話は?」
「ええ、とっても」
「それは良かった」
「その時の話だけではありません。太子様のお話は、何でも聞いていて面白いです」
私が言うと、太子様は優しく微笑んだ。その笑みを見ただけで、何だか自分の心がじんわりと熱を帯びた。酒を飲み下した時に腹の底から浮かび上がってくるような熱さと似ている。違うのは感情が伴っているということ。私の言葉で笑顔になってくれた。ただそれだけの事実で、私の心にほのかな喜びが湧いてくる。
二人で並んで雨を眺める。
しばらくそうしていた。
二人黙って、ただ眺め続ける。
降りしきる雨が風に煽られて、まるで白いカーテンがはためいているかのようだった。景色は遮断され、白く濁っている。
今この世界にいるのは、私と太子様だけ。そう思った。この白く濁った世界には私たちしか存在してなくて、だから私はただ太子様の隣にいるだけで良かったのだ。隣にいることができるのは私しかいないのだから。
雨が止まなければ良いと思う。ずっと降り続ければ良い。さっきまで恨めしいだけの雨だったのが、今ではすっかり私の希望になっていた。
お願いだから、止まないでくれ。
そう願っても叶わないことはわかってる。ほら、見ろ。少し弱まってきた。自然はいつだって人の気持ちにはお構いなしなのだから。それにもし雨が止まなくたって、太子様はいずれここを去るだろう。何せこんな格好で出てきたのだから、いついなくなったっておかしくはない。
せめてもう少しだけで良い。もう少しだけ、この世界に浸っていたい。
「屠自古」
突然名を呼ばれて、はっとした。
「何だか難しい顔してますよ」
「そうでしょうか。いつもと変わりないと思いますが」
「私と一緒にいるのはつまらない?」
「そんなことは……!」
そんなことはありません。一緒にいられるだけでも良い。太子様が認めてくれるなら、それだけで私は満足なのです。
そう言えたらどんなに楽だろう。私は言えない。布都のような素直さを持ち合わせていない私には、それが果てしなく難しいことのように感じられる。
何て愚かなのだろう。太子様の力になれればそれだけで良かったはずなのに、私は彼女の一番近しい存在でありたいと願ってしまっている。こんなクソッタレな思いは彼女に知られたくなかった。私はただ従順であれば良いのだ。彼女の命に従って行動を起こしていればそれだけで良い。そこに私的な欲望が入り込む余地はない。
なのに、私の心はぐるぐると渦巻いている。色々な感情がごちゃ混ぜになって、なぜだか泣きたくなった。
今すぐ内側にあるものすべてをぶちまけて、太子様に受け止めて貰いたい。子供みたいに泣きじゃくって、自分をさらけ出して、そしてその後は頭を優しく撫でて欲しい。
苦しかった。つらかった。それでも口にすることはしない。こんなふざけたことを言ったら、軽蔑されるに決まっている。出てこようと喚き散らす醜い心に重たい蓋をかぶせる。
「それなら」
と太子様は言った。
「面白いものを見せましょう」
そう言うと太子様は合羽を脱ぎ、それを私に投げて寄こした。持っていた傘を戸に立てかけると、大きく息を吐いた。それからどしゃ降りの雨の中にその身をさらした。
「何を……!」
呼び止めようとして、伸ばした腕を途中で引っ込めた。太子様の背中から漂う真剣さに、息を呑んで続く言葉を発せない。
道の真ん中辺りまで来ると、彼女はくるりとこちらを振り返った。そしてその腰に吊ってあった宝剣に手を伸ばし、鞘からゆっくりと抜き去った。美しい刃が水気を帯びて艶めかしく輝いている。彼女はそれを胸元まで持ち上げると水平に保ち、触れるか触れないかの距離でそっと左手を添える。目を閉じてそのままの姿勢で動きを止めた。
私はただじっと太子様を見ていた。もうすでにずぶ濡れになって服が肌に張り付いているが、気にも留めていないようだった。彼女は集中している。頭の天辺から足の先、剣の切っ先にまで意識を巡らしているのだ。周りの空気が引き締まって行くのがはっきりと感じられた。
私は声を出すことはおろか動くことさえできない。太子様を見つめることしかできないただの阿呆に成り下がっていた。
始まりは唐突だった。
剣が横に薙がれる。白い線が空中に描かれ、一瞬にして消える。
滑らかな動きで今度は逆の方向へ返され、その勢いのまま身体ごと回転する。勢いは殺されることなく次から次へと動きが紡ぎ出されていく。
剣が振り下ろされる。左手がゆったりとした動作でさまよう。右足、左足と軸足を入れ替えながら身体が回っていく。
回る。飛ぶ。そんな当たり前の動作が太子様の手によって非日常的なものに生まれ変わる。
時に淑やかに、時に力強く、静から動へ、季節の移ろいのように自然な舞は、私を虜にした。
激しく打ち付ける雨が、余計に目の前の荘厳さを際だたせている。剣が空中を一閃する度にはっきりとした線が浮かび上がり、足の動きに合わせて跳ねる水でさえ計算されたものかのようだった。
雨と舞。異質なそれらはこの風景の中で見事に共存していていた。
太子様は何を思って舞を舞っているのだろう。そんな疑問が頭をよぎる。彼女の顔は真剣で、私には考えていることがわからない。
美しかった。舞も当然ながらそうだけれど、彼女自身に華がある。私のように地味な存在とはまったく違う。彼女のような華やかさがあったら、もう少しは自分の存在に自信を持てるのかもしれない。そう思うと余計自分がみじめに感じられる。私にはあんなに素晴らしい舞を舞うことも、誰かを虜にすることもできない。
舞は段々と緩やかになる。ゆったりとした繊細な動きで、着実に収束へ向かっていく。
そして、その手に持っていた剣を一回、二回と払うと、元の鞘に静かに収められ、舞の終わりを告げられた。
どれくらいの時間だったろうか。実際の所は短かったのだろうが、私には太子様の動き一つ一つが鮮明に記憶に刻まれて、とても長い時間だったように感じられた。
「ふう」
と彼女は息を吐いた。そこで私も思いだしたかのように長い息を吐き出した。
太子様がこちらへゆっくりと歩いて戻ってくる。
何て言葉を発せば良いのだろうか。私には見当も付かない。素晴らしかったとか、呆気に取られましたとか、そんな月並みな言葉しか思い浮かばない。そんな言葉で終わらせたくはなかったから、何とか考えるのだけれども、やっぱりこの感動を伝える言葉はひねり出せない。
私が困り果てていると、
「屠自古」
呼ばれて、黙って太子様の顔を見る。戻って来た彼女の髪はいつもなら動物の耳みたいに上を向いているのに、今は水分を含んで垂れ下がっていた。
どうしよう。どんな言葉を投げかければ、どんな行動を取れば彼女は喜ぶのだろうか。なぜあんな行動を取ったのか、それがわかれば答えようがあったが、私にはわからない。彼女はいったい何を求めているのだろうか。
口を開くのが恐い。もし何か変なことを言って気分を害されたら、もし間違った行動を起こして呆れられたら、私はきっと傷を負うはめになる。
しかしずっと黙っているわけにもいかない。
さあ、言え。言うんだ。
だけど、何を。
ええい、もう何でも良い。とにかく口を開け。
決死の覚悟で私が口を動かそうとした時、
「ねえ、もう少し右に動いてくれません?」
と太子様が私の右側を指差して言った。唐突な内容に少し戸惑ったものの、ここで感想を求められるよりは良いと、私は言われた通り少しだけ右にずれた。
「うんうん」
彼女は満足げに頷くと、少し後ろに下がって、それから予想もしなかった行動に出る。
地面を力強く蹴りだすと、走り出した。
後ろに下がった分の距離を目一杯使って加速しながら、私に一直線に向かってくる。
そして、その加速で得た力を一気に変換させる。
飛んだ。
タッ、という軽快な音を発し、太子様の身体は空中へ舞う。綺麗なフォームだな、と暢気に思った。だって彼女の身体がものすごい勢いで近づいてくるものだから、脳味噌がついに現実を拒み始めたって可笑しくはない。
ぶつかると思った。後ろには壁があるから避けるという選択肢は始めからない。せめて彼女が怪我をしないように受け止めようと決めた。
腕を伸ばして、迫ってくる身体を待つ。
そして、
――バッシャアアアーン
と、大量の水が押し寄せた。
太子様は私の一歩前で着地した。そこにはご丁寧に巨大な水たまりがあったから、おかげで私はものすごい量の泥水を全身に浴びるはめになった。頭から下半身まで一瞬にしてずぶ濡れだ。
何が起こったのかを理解はできた。しかしそれが何を意味しているのかはわからない。
今日は驚いてばっかりだ。もう考えるのは疲れた。どうにでもなれば良い。空から槍が降って来ようが地面から火が噴き出そうが、私はもう何も考えたくなかった。
「く、ふふふ」
笑った。全身びっしょりで顔にまで泥が飛び散って、おまけに口を開けていたものだから、少なからず侵入してきた泥水に口の中は苦みとじゃりじゃり感に支配されてすごく不快で、おまけにこの惨状を演出した太子様はあれだけ豪快に水たまりに入ったくせに全然汚れていないのだから、すごく理不尽で、その理不尽さまた可笑しくて、諦めにも似た渇いた笑いだったけれど、自然と口から飛び出してきた。
「あははは」
私が笑うと太子様は、
「あ、やっと笑った」
私の顔を覗き込むようにして言った。
「最近の君は、ずーっと眉間にしわが寄ってたから、ちょっと心配していたのですよ」
だから泥水をぶっかけてみましたとでも言わんばかりに。
「ひどいですよ。こんな」
「でも、楽しかったでしょう?」
「楽しくなんて、ありません」
「そうかしら」
彼女は再び腰にあった宝剣を引き抜くと、剣の腹を私の顔の前に持ってくる。銀色の表面に、間抜けな笑みを浮かべた自分の顔が映っていた。心なしか少し楽しそうに。
私はため息をつく。まったく、参ってしまう。こんな理不尽な状況にいて、自分は楽しんでいるとでも言うのか。
雨は相変わらず降り続けている。川の水は少しばかり勢いを増し、どこかへ流れていく。
と、そこで太子様が、
「ねえ、屠自古。舞というのは、誰かに見られて始めて完成するんです」
雨の当たらない位置に避難し、そんなことを言う。何の話だろうか。
「会話だって、聞き手が必要でしょう。誰もいなかったら単なる独り言になってしまうのだから」
睫毛に水滴がついているのが見て取れるくらいの距離まで顔を近づけて、
「だから、ね?」
にっこりと優しく微笑んだ。
ああ。太子様。
それはもしかして、私のことを気遣ってくれているのですか。今度は勘違いなんかじゃなくて、本当の本当に。
「太子様、私はずっとあなたの側に居てもよろしいですか? 何の取り柄もなく、面白みのない私でも」
「当たり前です。何を難しく考える必要がありますか。それとそうやって自分を卑下にするものじゃありませんよ」
それに、と彼女は続ける。
「自分を必要として欲しいって、そんな風に私を慕ってくれるのは、結構嬉しいものです」
それを聞いて、固まった。彼女に対してはっきりと自分の心情を吐露した記憶はない。なのに今、確かに太子様はそれを言葉にして言い放った。
「な、なぜそれを?」
私が疑問を口にすると、彼女は「んっふっふー」と笑って、
「私はね、すごく耳が良いの。君との距離がどんなに離れてたって私には聞こえるんです。この程度の雨なんかに消されると思っていたら、それは、ま・ち・が・い、ですよ?」
そう言って、悪戯っぽい表情を見せる。
――私を必要としてください。
雨にかき消されたはずの言葉は、太子様の耳にしっかりと届いていたのだ。
身体中の血が頭に上り、頬が火照るのを感じる。知られたくない秘密を、一番知られたくない人に知られてしまった気恥ずかしさが津波のように押し寄せる。逃げ場のないそれは膨らみ続け、今にも爆発寸前だった。
私は息を大きく吸い込み、
「うわああああああああああああああああ!」
通りを流れる汚い川に顔面から突っ込む勢いで飛び込んだ。当然、水の深さはそれほどないので、腹をしたたかに打ち付けて鈍い痛みが襲ってきた。大量の水が身体を包んで息が止まるほど冷たかった。だけど、そんなことはどうでも良かった。今はこの恥ずかしさを何とかしたかった。
身体の各部位を懸命にばたつかせて、この気持ちをどっかへ押しやろうと水の中でもがく。水がしきりにしぶきを上げた。
もう自分の身体がよくわからないほどぐしょぐしょになって、口も耳も鼻も泥水が入って気持ち悪い。それでも手を振り上げて、水を叩く。跳ね返った水が目に入ってめちゃくちゃ痛い。それでも止めない。何度も叩く。
そうして、ひとしきり暴れた後、私は仰向けになって寝転んだ。
どこまでも遠い雲から降ってくる雨が、顔に打ち付ける。それが何だか心地よかった。疲れ果てて、お腹から大きく息を吸う。
笑い声が聞こえた。
身体を起こすと、太子様が見えた。
可笑しくてしょうがないとでも言うように、私の情けない姿を見て、笑い声を上げている。
私も同じように笑う。大きな声で、力一杯。
端から見たら気でも狂ったのかと思われるに違いないし、実際少し狂っていた。でも、そんなことはどうでもいい。彼女が笑ってくれたから、私はその事実だけを受け入れる。
「どうしたのですか? いきなり」
手で口元を押さえながら太子様が訊いてくる。一呼吸置いて私は答える。
「さあ、どうしてでしょう。わかりません」
不思議と、さっきまで感じていた恥ずかしさや暗い気持ちはすっかり消え去り、やけにすっきりした気分だった。ガンジス川がすべての罪を洗い流してくれるように、私の抱えていた恥ずかしさや暗い気持ちは、この泥水が洗い流していったのかもしれない。
こんなどうしようもない馬鹿をやっておいて、私の心は躍っている。
楽しかった。そして、それだけで良いのだと気付く。私が楽しめば、きっと彼女もこうして笑ってくれるから。
雨は相変わらず強く降り続けて、灰色の雲がどこまでも広がっている。それでも私の心は反対に晴れ晴れとしていた。
と、そこへ、
「これは太子様。それと屠自古。二人して何をしておるのです?」
見ると、小舟に乗った布都が困惑の表情を浮かべてそこにいた。さっき太子様が言っていた船に乗っている奴ってお前のことか、とか、何で船でこんな所を通っているんだ、とかそんなことを思いはしたがつっこみを入れるのも面倒なので、適当に答える。
「見ればわかるだろ。水遊びしてるんだよ」
「子供かお主は」
「かもね」
「案外面白いものですよ。水遊び」
「太子様までびっしょりではありませぬか。おい屠自古、なぜこんなことになっているのだ!?」
「うるさい。理由があるんだから仕方ないだろ」
「理由って何じゃ」
「色々だよ」
「色々ではわからん。はっきり言え」
はあ、と本日何度目かわからないため息をつく。これだから布都の相手は面倒なのだ。言葉を返す代わりに泥水を手ですくうと、それを布都の顔にかけてやった。「何をするのじゃ!」と声が返ってくる。
「さて。せっかくです。この船に乗ってちょっとしたクルーズを楽しみましょう」
合羽と傘を投げ込んで、意気揚々と乗り込む太子様。それからこっちへ視線を向けると、「ほら」と手を差し伸べてくれる。
綺麗な女性らしい細い指で、白くてとても綺麗だった。優しげでどこか少し悪戯っぽい笑みが、心に染みいってくる。
私はゆっくりと腕を持ち上げる。水分を含んだ服が重たい。手を見ると汚れていたのでそれを服に擦りつけて落とすと、彼女の手の方向へ腕を伸ばす。
そして、その手をそっと掴むと、
「さっきのお返しです」
そう言って、引っ張る。バランスを崩した太子様は「あ」と驚き、目が大きく見開かれる。前のめりに船から身体が落ちていく。
怪我をしないように、私はその身体を受け止めながら、これくらいは許してください、と目で訴える。
きっと最初からわかっていたのでしょう? 私が貴方に対して抱いている思いを、日々の会話から少しずつ感じ取っていたのでしょう?
それをこんな回りくどい方法で解決しようだなんて、本当に人が悪い。
だから、このちょっとした仕返しくらいは許してください。
近づいてくる顔が、驚きの表情から少し困ったような笑顔に変わったのをしっかりと見た。
二人の身体が重なって、共に倒れていく。
水が盛大に跳ねて大きくしぶきを上げたのと同時に、私と太子様の笑い声が通りに響いた。
人間の里に買い出しに来ていた私は、すぐに近くにあった商店らしき建物の軒下に逃げ込んだ。
まったく、参ってしまう。いきなり降り出すなんてついていない。空を見上げると、分厚い雲が覆っていて、しきりに大きな雨粒を降らせて来ている。
逃げ込んだは良いが、さてどうするか。この商店には人がいないようだった。戸は固く閉まっている。他の場所へ移ろうかと思ったが、以前勢いを増す一方の雨に品物を濡らされては大変と、周りにあった商店も次から次に戸を閉め始めた。
一旦道場に帰ろうか。そんなことを考えたが、ずぶ濡れになるのはやはり勘弁だ。私が住んでいるのは仙界にある道場で、この幻想郷とはまた違った世界だ。太子様が作った世界だから伸び縮み自由で、やろうと思えばこの幻想郷のどことでも繋げることができる。だから移動は簡単。なのだが、帰ろうと思えばすぐ帰れるという訳ではなく、ある程度の制約はある。太子様曰く、どことでも繋げられるけれど、あまり繋げすぎるとそれらの繋がりがこんがらがって大変なことになるらしい。どう大変なのかはわからないが、とにかく大変だというのだからやらない方が良いだろう。そういうわけで、仙界と繋がっている出入り口は太子様が決めたいくつかの場所に設定されている。
博麗神社を始めとして、魔法の森、霧の湖、迷いの竹林など幻想郷各地に仙界との接合地点が存在し、今後は地底や天界にも作る予定だ。
今回私が利用したのは人間の里の北東部にある出入り口で、周りには荒れた畑と古ぼけたお地蔵様くらいしかない。あまり人目が着くところに繋げてしまうと、出入りの際に人々を驚かせてしまったり、悪戯に入ってこようとする輩が出てくる可能性があるため、人が少なく安全に移動できる場所を考慮した上でそこが良いだろうと決められた。お地蔵様の隣には桜の木があり、根元に人が座れるくらいの石が置かれていて、それをどかせばいつでも仙界と幻想郷の行き来ができるようになっている。もちろん誰でも簡単にどかせるというわけではなく、ドアに鍵があるように、鍵の役割を果たす術が必要になるわけだが。
今いる場所からその入り口まで最短距離を最速で行ったとしても、どうせこの雨の中を移動するのなら向こうに着く頃には洗濯物みたいになっているに違いない。雨足は弱くなるどころか段々と強くなってきて、まるで矢が天から降り注いでいるかのような勢いがあった。
雨は何とか屋根が防いでくれているが、一歩でも外に出ればたちまち全身がずぶ濡れになるだろう。
はあ、とため息をつく。仕方がない。ここでしばらく雨宿りをさせて貰おう。
それなりの賑わいを見せていた通りだったが、すっかり人の姿はなくなっていた。みんな雨が降り出してからすぐに家に戻ったのだろう。通りから人の気配が消えて、すっかり寂しげな雰囲気になってしまった。人がいなくなるだけでこんなに変わるものか。
不意に布都のことを思い出す。もしあいつがここにいたら、雨の中に突きだしてやるのに。濡れた地面に足を取られて転んだら、泥まみれになった姿を指差して笑ってやりたい。
だけど現在、布都は道場でのんべんだらりと過ごしているに違いなかった。アホ面を浮かべながら幻想郷の地図を眺めて、この勢力は仲間になる、この勢力は敵になる、なんてやっているのかもしれない。もしくは弟子を増やす方法についてあれやこれやと考えているだろう。
布都は生前から変わらない。永い眠りから覚めても布都は布都のままだった。自分が決めた道を何の疑いもなく進むことができる。愚直な真っ直ぐさが羨ましいと思う。太子様に対する感情も何も包み隠さない、そもそも隠せるほど器用な奴ではないが、そういう布都の馬鹿正直な所が私には眩しく見える。
私は自分の気持ちを真っ直ぐ届けることができない。伝えようと思っても、口から出るのは声にならないため息だ。
太子様に対する思いは誰よりも強い。尊敬や信頼は身体からあふれ出るくらいには持ち合わせている。布都にだって負けはしない。太子様のためなら死ぬことだってできる。実際、死んだ。こうしてふよふよと空中を漂う亡霊になった今でも、彼女のために尽くそうという気持ちに衰えはない。
それでも少し寂しい気持ちになる。
自分を見て欲しい。誰よりもまず私のことを気にかけて欲しい。私を必要として欲しい。慕っているからこそ生まれる自分勝手な思いが、日に日に膨らんでいく。
昔はここまで強い思いを抱いてはいなかった。明確な目的が私が辿るべき道を示してくれたし、その道の上には太子様もいたから迷うことはなかった。国を良くしよう。死を克服しよう。どれも大変な努力を要したが、誰の代わりにもならない私だけの役割を持っていることに充実感を覚えていた。
永い眠りから覚めて、それらの思い出がまるで夢であったかのように感じられる。
今の生活に不満があるわけではない。昔と比べればずっと豊かだし、欲しい物は何だって手に入る。何より団子はうまい。
国は豊かになった。私は死んだが太子様は死を克服した。昔掲げていた目的は達成された。
なのに、私の心には暗い影がかかっている。
「とりあえず楽しく過ごしましょう」
太子様が新たに掲げた方針だった。楽しく過ごす。そう言われて、布都はもうすでに楽しげな顔をしていた。だけど私は戸惑いを感じていた。あまりに漠然とした方針に、どうしたらいいのかわからなかったのだ。
もちろん私がその言葉に逆らうはずもなく、その場は大人しく「はい」と答えた。それから悩んだ。しばらくはどうしたら楽しく過ごせるのかを考える日々を送った。趣味を作ろうと思い立ち、どうせなら太子様が喜んでくれるものが良いと、昔から料理を得意としていた私はそれを趣味にしてみることにした。昔の料理と今の料理は全くの別物で最初は苦戦したものの、それが案外楽しかった。太子様に出来上がったものを食べて貰い、「美味しい」と笑顔で言われたときは舞い上がった。ようやく自分の在るべき場所を見つけたような気がして、その日は一日中心が躍った。布都に「何を不気味な顔をしておるのじゃ」などと言われて雷を落としてやった。
しかし物事は順調にはいかない。ある日のこと、太子様が弟子の一人に何やら話しかけられているのを見かけた。特に気にかける必要もなかったが、弟子が包みを持っていることに気が付き、嫌な予感がしてしばらく遠くから見守ることにした。包みが開かれると、案の定それは弟子が作ったと思われる手料理で、太子様はそれを口にすると、大きく頷いて笑顔を見せた。私に見せたそれと同じように……。
それで気付いてしまった。
料理なんて誰だってできる。自分の代わりは探せばいくらでもいるのだということ。
そんな現実を突きつけられて、今までと同じように料理を楽しむなんてことは、私にはできなかった。
その日を境に、料理を作ることはしなくなった。
彼女の喜んだ姿が私の幸福であり、彼女の笑顔が私の楽しみであることは、わかり切っていた。
だから、もっと太子様の為にできることが欲しいと思った。自分は太子様にとって必要な存在なのだと自覚できる何かが欲しい。
その思いを少しでも埋めようと思い、質で駄目なら量で勝負とそこらにある中華料理屋みたいな意気込みで、太子様のお願いはどんな些細なことでも聞くようになった。雑用だって喜んでこなす。少しでも自分を必要としてくれるなら、私はどんなことだってする。
今日の買い出しもそういう理由でやってきたのだ。弟子の誰かにやらせれば良いと彼女は言ったけれど、私は頑なに自分が行くと言った。
結局、雨に降られて立ち往生し、憂鬱な気分に浸っているのだから情けない話だ。
「止まない」
ぽつりとつぶやいてみる。
「早く止め。馬鹿者」
空に向かって言ってみるが、当然ながら聞いてはいない。自然はいつだって人の気持ちなんてお構いなしだ。
「楽しく過ごす……か」
果たして自分が楽しく過ごすことが太子様の為になるのだろうか。疑問を感じる。疑う心は人を弱くする。
「太子様」
雨空を見上げて、つぶやく。
「私を必要としてください」
小さな蚊の鳴くような声は、雨の音にかき消された。
通り雨ならすぐに止むはずと思っていたものの、一向に止む気配がなくてうんざりする。道の真ん中辺りなんてちょっとした川ができあがっている。土が穿たれて、それが流れ出ているものだからひどく濁っている。
その流れを見ていたら、この間太子様がお話ししてくれたことを思い出した。新しい知識を得たら誰かに話したくなるもので、太子様も例に漏れず、何か面白い話のネタを手に入れたら良く私に聞かせてくれる。
その時は、ガンジス川の話だった。
「ねえ、屠自古。ガンジス川って知ってますか?」
「ガンジス川ですか。いえ、知りません」
私が首を振って答えると、どこから持ってきたのか、大きな本を机にどんと置いた。それを開いていくつかのページをめくると、色つきの写真が載っているところで止まった。
「これがそう。インドを流れる大きな川です」
彼女が指を指す写真には、巨大な川とそこで水を浴びている人々が写されている。
「インドと言うと、仏教が生まれた地でしたか」
「そう。でも、インドでは仏教よりもヒンドゥー教の方が信仰されているの。ガンジス川はヒンドゥー教において特別なもので聖なる川なんて言われたりします。人々はここで沐浴したり、瞑想を行う。そうすることで、自分の罪が洗い流されると信じられているのです」
得意げに語る太子様に感心したものの、本に記載されている文章を目で追ってみたら似たようなことが書いてあったので、ちょっとだけ可笑しくて笑いそうになるのをこらえる。
「随分と濁っていますね。あまり水質は良くなさそうだ」
「人々の罪を洗い流すくらいですからね。水だって汚れます。罪です、この濁りは」
「でも、他にも何か色々と浮かんでいますよ。こっちの写真なんて、ゴミにしか見えない物がたくさん写っていますし」
「それは、ゴミですね」
「良いのですか。聖なる川なのに」
「さあ。でもまあ、死体だって流すみたいですし、何でも流してしまえば良いと思っているんじゃないですか」
「死体までも……。水葬というやつですか」
「火葬して残った灰を流すのが本来のやり方らしいのですが、それには結構なお金がかかるようで、そんなお金持ってないからこのまま流してしまえなあにこの聖なる川なら何でも受け入れてくれるだろう、みたいな人もいるんですって」
「適当なんですね」
沐浴をしているところに死体が流れてきたらどんな気分なのだろう。想像できないが、決して気分の良いものではないことは確かだ。私だったら当分その後飯を食う気にはなれそうにない。
「重要なのは、この川がたくさんの信仰を集めているということ。それもずっと気の遠くなるほど長い間」
太子様の指が本に載せられた写真をそっと撫でた。彼女もまた多くの信仰を集めた存在であるが、昔から変わらずそこに在り続けるガンジス川とは違い、私たちは歴史の表舞台から一度完全に消え去った。千四百年という空白の時間はどうしても埋められるものではない。聖徳太子という人物はこうした本などの書物の上でしか語られることがない存在になり、かつての信仰は消え、おまけに実在したかどうかまで疑う声があるというのだから、太子様が何かしら思うことがないはずがない。
もしかしたら、その辺りのことを気にしてこのような話をしてくれたのだろうか、と私は思い、それとなく訊いてみると、
「ん? 別に」
まったくそんなことは考えてませんでした、とその顔は如実に語っていた。完全に私の杞憂だった。
「面白いな~って思っただけで、特に深い意味はありません。気を使わせてしまいましたか?」
「いえ」
と私は少し恥ずかしくなって、俯きながら短く答えた。
「屠自古」
本をパタンと閉じながら、彼女は意味ありげな笑みを浮かべながら言う。
「ここで身を清めたら、すべてが浄化されてすっきりしますよ?」
この気持ちから解放されるのなら今すぐガンジス川に頭から突っ込むところだが、そんな簡単に解決したら苦労はしない。
そんなわけで、相変わらず暗たんとした面持ちで立ちすくんでいると、異変が訪れた。
人っ子一人いなかった通りに、誰かが現われた。
誰だろう。こんな雨の中を。その人物の足取りは軽い。水を跳ね飛ばしながら向かってくる。楽しくて仕方がないというように。
紫色の傘をくるくると回し、その度に水が弾かれて白い霧のようになる。
こんな日に、どこの阿呆だ。
顔は傘に隠れて見ることができない。やけに明るい黄色の服が、この景色の中で異様に浮いている。
そういえば傘の妖怪がいたな、と思い出す。人を脅かす妖怪だ。もしかしたらそいつだろうか。水を跳ね散らしながらこちらへ確実に近づいてくる。雨を喜んでいるかのような挙動は、確かに傘の妖怪なら納得ができる。
もしその妖怪なら、私の前を素通りなどと拍子抜けする行動は取らないだろう。脅かして来るに違いない。しかしこちとら伊達に亡霊をやっているわけではないので、そっちがその気ならやってやんよ、と少しでも怪しい動きをしたら反応できるようにそいつの動きをじっと観察する。
私の前方までやって来たそいつは、思った通り、足をぴたりと止めた。
来る、と思った。
傘が揺れ、横向きの身体を反転させながら、
「うらめしや~」
という声を発し、その人物は勢いよくこちらを振り向いた。
予想通りの行動。あまりの古臭さに思わず笑いそうになる。時間が経てば何であれ進化するのが当たり前の世の中で、古典でもやっているのかと声を大にして言いたい。
その身体に電撃ビリビリカウンターを叩き込んで、驚愕とはどういうものなのかをたっぷりと教え込んでやる。
はずだった。
私の身体は動かない。
ものすごく驚いた。
ただただ呆然とする。
私の目がそこにいる人物の顔を認識した瞬間、時間が止まってしまったかのように自分のすべてが固まった。
太子様だった。
傘の下から現われた顔は、太子様だったのだ。
「あら、屠自古。こんな古臭い脅かしで、そんなに驚きましたか?」
はあ、いえ、はい。そんな中途半端な返事をした。
あまりにも予想外の出来事に何も考えられない。
ただ太子様が目の前にいるという事象が、さっきまでどこの阿呆だとか脅かしてきたらやり返してやんよとか、そんなことを考えていた頭では到底理解することができない。
「……すごく驚きました」
「でしょうねぇ。なかなかこんな反応はお目にかかれそうにありません」
ようやくひねり出した言葉に、太子様は可笑しそうにくすくすと笑った。
「それにしても屠自古。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
奇遇なわけがない。先ほど出かけるときに買い出しに行くと彼女に言ったのだから。しかし、そう言葉を返すには私はあまりに混乱しすぎていたから、ものすごく間抜けなことを口走ってしまう。
「その服は……?」
すると太子様は「ああ、これですか」と視線を自分が着ている真っ黄色の服に向けた。頭から足下まですっぽりと覆っている。
「レインコートと言うんですよ。合羽と言った方が親しみがあるかしら」
確かにそれはこの降りしきる雨粒一滴一滴を受け止め、つるつるとした表面を伝い地面へ逃がしていた。
私は少しだけ回復してきた頭でようやくまともな質問を思いついた。
「太子様は……なぜここへ?」
「ふむ。そうですね。どうも幻想郷の上空に怪しげな雨雲を発見したので、これは大変と万全の装備で出てきたわけです」
なんと。それはつまり私を迎えに来てくれたということだろうか。太子様の心遣いに感激した自分だったが、
「雨の日の散歩というのはなかなか趣のあるものでしょう」
その一言ですべての幻想がうち消された。
馬鹿だなと思う。私の為にわざわざ来てくれるはずもないだろう。何を期待しているのだと自分のことを殴り飛ばしてやりたくなる。
「そうですか」
なるべく明るい声で返す。喉の奥から這い上がってこようとしている身勝手な感情を堪えながら、続く言葉を探す。
「しかしひどい雨です。こんな状況で散歩をしているのは太子様くらいですよ」
「確かに散歩している人は見かけませんね。船に乗っている者は見たのですけれど」
船? と私が疑問を口に出す前に、太子様は「失礼」と私の横に並ぶと、水を滴らせている傘を畳んで、ふうと息を吐いた。
「すごい景色ですね」
人里には良く訪れるので見慣れた場所だった。それが大量の雨により、初めて目にする土地であるかのような錯覚を抱かせる。
「ええ。ずっとここで足止めを食らっているので、困りものですが」
彼女の持っている傘に目をやる。それだけを使ってもきっとこの雨の前では無力だろう。
「もう道というより川に近いわね。どこまで続いているのかしら」
「私はこの前太子様がお話ししてくださったことを思い出しました」
「何を話しましたっけ」
「ガンジス川の話を」
ああ、と頷く。
「気に入りましたか、私の話は?」
「ええ、とっても」
「それは良かった」
「その時の話だけではありません。太子様のお話は、何でも聞いていて面白いです」
私が言うと、太子様は優しく微笑んだ。その笑みを見ただけで、何だか自分の心がじんわりと熱を帯びた。酒を飲み下した時に腹の底から浮かび上がってくるような熱さと似ている。違うのは感情が伴っているということ。私の言葉で笑顔になってくれた。ただそれだけの事実で、私の心にほのかな喜びが湧いてくる。
二人で並んで雨を眺める。
しばらくそうしていた。
二人黙って、ただ眺め続ける。
降りしきる雨が風に煽られて、まるで白いカーテンがはためいているかのようだった。景色は遮断され、白く濁っている。
今この世界にいるのは、私と太子様だけ。そう思った。この白く濁った世界には私たちしか存在してなくて、だから私はただ太子様の隣にいるだけで良かったのだ。隣にいることができるのは私しかいないのだから。
雨が止まなければ良いと思う。ずっと降り続ければ良い。さっきまで恨めしいだけの雨だったのが、今ではすっかり私の希望になっていた。
お願いだから、止まないでくれ。
そう願っても叶わないことはわかってる。ほら、見ろ。少し弱まってきた。自然はいつだって人の気持ちにはお構いなしなのだから。それにもし雨が止まなくたって、太子様はいずれここを去るだろう。何せこんな格好で出てきたのだから、いついなくなったっておかしくはない。
せめてもう少しだけで良い。もう少しだけ、この世界に浸っていたい。
「屠自古」
突然名を呼ばれて、はっとした。
「何だか難しい顔してますよ」
「そうでしょうか。いつもと変わりないと思いますが」
「私と一緒にいるのはつまらない?」
「そんなことは……!」
そんなことはありません。一緒にいられるだけでも良い。太子様が認めてくれるなら、それだけで私は満足なのです。
そう言えたらどんなに楽だろう。私は言えない。布都のような素直さを持ち合わせていない私には、それが果てしなく難しいことのように感じられる。
何て愚かなのだろう。太子様の力になれればそれだけで良かったはずなのに、私は彼女の一番近しい存在でありたいと願ってしまっている。こんなクソッタレな思いは彼女に知られたくなかった。私はただ従順であれば良いのだ。彼女の命に従って行動を起こしていればそれだけで良い。そこに私的な欲望が入り込む余地はない。
なのに、私の心はぐるぐると渦巻いている。色々な感情がごちゃ混ぜになって、なぜだか泣きたくなった。
今すぐ内側にあるものすべてをぶちまけて、太子様に受け止めて貰いたい。子供みたいに泣きじゃくって、自分をさらけ出して、そしてその後は頭を優しく撫でて欲しい。
苦しかった。つらかった。それでも口にすることはしない。こんなふざけたことを言ったら、軽蔑されるに決まっている。出てこようと喚き散らす醜い心に重たい蓋をかぶせる。
「それなら」
と太子様は言った。
「面白いものを見せましょう」
そう言うと太子様は合羽を脱ぎ、それを私に投げて寄こした。持っていた傘を戸に立てかけると、大きく息を吐いた。それからどしゃ降りの雨の中にその身をさらした。
「何を……!」
呼び止めようとして、伸ばした腕を途中で引っ込めた。太子様の背中から漂う真剣さに、息を呑んで続く言葉を発せない。
道の真ん中辺りまで来ると、彼女はくるりとこちらを振り返った。そしてその腰に吊ってあった宝剣に手を伸ばし、鞘からゆっくりと抜き去った。美しい刃が水気を帯びて艶めかしく輝いている。彼女はそれを胸元まで持ち上げると水平に保ち、触れるか触れないかの距離でそっと左手を添える。目を閉じてそのままの姿勢で動きを止めた。
私はただじっと太子様を見ていた。もうすでにずぶ濡れになって服が肌に張り付いているが、気にも留めていないようだった。彼女は集中している。頭の天辺から足の先、剣の切っ先にまで意識を巡らしているのだ。周りの空気が引き締まって行くのがはっきりと感じられた。
私は声を出すことはおろか動くことさえできない。太子様を見つめることしかできないただの阿呆に成り下がっていた。
始まりは唐突だった。
剣が横に薙がれる。白い線が空中に描かれ、一瞬にして消える。
滑らかな動きで今度は逆の方向へ返され、その勢いのまま身体ごと回転する。勢いは殺されることなく次から次へと動きが紡ぎ出されていく。
剣が振り下ろされる。左手がゆったりとした動作でさまよう。右足、左足と軸足を入れ替えながら身体が回っていく。
回る。飛ぶ。そんな当たり前の動作が太子様の手によって非日常的なものに生まれ変わる。
時に淑やかに、時に力強く、静から動へ、季節の移ろいのように自然な舞は、私を虜にした。
激しく打ち付ける雨が、余計に目の前の荘厳さを際だたせている。剣が空中を一閃する度にはっきりとした線が浮かび上がり、足の動きに合わせて跳ねる水でさえ計算されたものかのようだった。
雨と舞。異質なそれらはこの風景の中で見事に共存していていた。
太子様は何を思って舞を舞っているのだろう。そんな疑問が頭をよぎる。彼女の顔は真剣で、私には考えていることがわからない。
美しかった。舞も当然ながらそうだけれど、彼女自身に華がある。私のように地味な存在とはまったく違う。彼女のような華やかさがあったら、もう少しは自分の存在に自信を持てるのかもしれない。そう思うと余計自分がみじめに感じられる。私にはあんなに素晴らしい舞を舞うことも、誰かを虜にすることもできない。
舞は段々と緩やかになる。ゆったりとした繊細な動きで、着実に収束へ向かっていく。
そして、その手に持っていた剣を一回、二回と払うと、元の鞘に静かに収められ、舞の終わりを告げられた。
どれくらいの時間だったろうか。実際の所は短かったのだろうが、私には太子様の動き一つ一つが鮮明に記憶に刻まれて、とても長い時間だったように感じられた。
「ふう」
と彼女は息を吐いた。そこで私も思いだしたかのように長い息を吐き出した。
太子様がこちらへゆっくりと歩いて戻ってくる。
何て言葉を発せば良いのだろうか。私には見当も付かない。素晴らしかったとか、呆気に取られましたとか、そんな月並みな言葉しか思い浮かばない。そんな言葉で終わらせたくはなかったから、何とか考えるのだけれども、やっぱりこの感動を伝える言葉はひねり出せない。
私が困り果てていると、
「屠自古」
呼ばれて、黙って太子様の顔を見る。戻って来た彼女の髪はいつもなら動物の耳みたいに上を向いているのに、今は水分を含んで垂れ下がっていた。
どうしよう。どんな言葉を投げかければ、どんな行動を取れば彼女は喜ぶのだろうか。なぜあんな行動を取ったのか、それがわかれば答えようがあったが、私にはわからない。彼女はいったい何を求めているのだろうか。
口を開くのが恐い。もし何か変なことを言って気分を害されたら、もし間違った行動を起こして呆れられたら、私はきっと傷を負うはめになる。
しかしずっと黙っているわけにもいかない。
さあ、言え。言うんだ。
だけど、何を。
ええい、もう何でも良い。とにかく口を開け。
決死の覚悟で私が口を動かそうとした時、
「ねえ、もう少し右に動いてくれません?」
と太子様が私の右側を指差して言った。唐突な内容に少し戸惑ったものの、ここで感想を求められるよりは良いと、私は言われた通り少しだけ右にずれた。
「うんうん」
彼女は満足げに頷くと、少し後ろに下がって、それから予想もしなかった行動に出る。
地面を力強く蹴りだすと、走り出した。
後ろに下がった分の距離を目一杯使って加速しながら、私に一直線に向かってくる。
そして、その加速で得た力を一気に変換させる。
飛んだ。
タッ、という軽快な音を発し、太子様の身体は空中へ舞う。綺麗なフォームだな、と暢気に思った。だって彼女の身体がものすごい勢いで近づいてくるものだから、脳味噌がついに現実を拒み始めたって可笑しくはない。
ぶつかると思った。後ろには壁があるから避けるという選択肢は始めからない。せめて彼女が怪我をしないように受け止めようと決めた。
腕を伸ばして、迫ってくる身体を待つ。
そして、
――バッシャアアアーン
と、大量の水が押し寄せた。
太子様は私の一歩前で着地した。そこにはご丁寧に巨大な水たまりがあったから、おかげで私はものすごい量の泥水を全身に浴びるはめになった。頭から下半身まで一瞬にしてずぶ濡れだ。
何が起こったのかを理解はできた。しかしそれが何を意味しているのかはわからない。
今日は驚いてばっかりだ。もう考えるのは疲れた。どうにでもなれば良い。空から槍が降って来ようが地面から火が噴き出そうが、私はもう何も考えたくなかった。
「く、ふふふ」
笑った。全身びっしょりで顔にまで泥が飛び散って、おまけに口を開けていたものだから、少なからず侵入してきた泥水に口の中は苦みとじゃりじゃり感に支配されてすごく不快で、おまけにこの惨状を演出した太子様はあれだけ豪快に水たまりに入ったくせに全然汚れていないのだから、すごく理不尽で、その理不尽さまた可笑しくて、諦めにも似た渇いた笑いだったけれど、自然と口から飛び出してきた。
「あははは」
私が笑うと太子様は、
「あ、やっと笑った」
私の顔を覗き込むようにして言った。
「最近の君は、ずーっと眉間にしわが寄ってたから、ちょっと心配していたのですよ」
だから泥水をぶっかけてみましたとでも言わんばかりに。
「ひどいですよ。こんな」
「でも、楽しかったでしょう?」
「楽しくなんて、ありません」
「そうかしら」
彼女は再び腰にあった宝剣を引き抜くと、剣の腹を私の顔の前に持ってくる。銀色の表面に、間抜けな笑みを浮かべた自分の顔が映っていた。心なしか少し楽しそうに。
私はため息をつく。まったく、参ってしまう。こんな理不尽な状況にいて、自分は楽しんでいるとでも言うのか。
雨は相変わらず降り続けている。川の水は少しばかり勢いを増し、どこかへ流れていく。
と、そこで太子様が、
「ねえ、屠自古。舞というのは、誰かに見られて始めて完成するんです」
雨の当たらない位置に避難し、そんなことを言う。何の話だろうか。
「会話だって、聞き手が必要でしょう。誰もいなかったら単なる独り言になってしまうのだから」
睫毛に水滴がついているのが見て取れるくらいの距離まで顔を近づけて、
「だから、ね?」
にっこりと優しく微笑んだ。
ああ。太子様。
それはもしかして、私のことを気遣ってくれているのですか。今度は勘違いなんかじゃなくて、本当の本当に。
「太子様、私はずっとあなたの側に居てもよろしいですか? 何の取り柄もなく、面白みのない私でも」
「当たり前です。何を難しく考える必要がありますか。それとそうやって自分を卑下にするものじゃありませんよ」
それに、と彼女は続ける。
「自分を必要として欲しいって、そんな風に私を慕ってくれるのは、結構嬉しいものです」
それを聞いて、固まった。彼女に対してはっきりと自分の心情を吐露した記憶はない。なのに今、確かに太子様はそれを言葉にして言い放った。
「な、なぜそれを?」
私が疑問を口にすると、彼女は「んっふっふー」と笑って、
「私はね、すごく耳が良いの。君との距離がどんなに離れてたって私には聞こえるんです。この程度の雨なんかに消されると思っていたら、それは、ま・ち・が・い、ですよ?」
そう言って、悪戯っぽい表情を見せる。
――私を必要としてください。
雨にかき消されたはずの言葉は、太子様の耳にしっかりと届いていたのだ。
身体中の血が頭に上り、頬が火照るのを感じる。知られたくない秘密を、一番知られたくない人に知られてしまった気恥ずかしさが津波のように押し寄せる。逃げ場のないそれは膨らみ続け、今にも爆発寸前だった。
私は息を大きく吸い込み、
「うわああああああああああああああああ!」
通りを流れる汚い川に顔面から突っ込む勢いで飛び込んだ。当然、水の深さはそれほどないので、腹をしたたかに打ち付けて鈍い痛みが襲ってきた。大量の水が身体を包んで息が止まるほど冷たかった。だけど、そんなことはどうでも良かった。今はこの恥ずかしさを何とかしたかった。
身体の各部位を懸命にばたつかせて、この気持ちをどっかへ押しやろうと水の中でもがく。水がしきりにしぶきを上げた。
もう自分の身体がよくわからないほどぐしょぐしょになって、口も耳も鼻も泥水が入って気持ち悪い。それでも手を振り上げて、水を叩く。跳ね返った水が目に入ってめちゃくちゃ痛い。それでも止めない。何度も叩く。
そうして、ひとしきり暴れた後、私は仰向けになって寝転んだ。
どこまでも遠い雲から降ってくる雨が、顔に打ち付ける。それが何だか心地よかった。疲れ果てて、お腹から大きく息を吸う。
笑い声が聞こえた。
身体を起こすと、太子様が見えた。
可笑しくてしょうがないとでも言うように、私の情けない姿を見て、笑い声を上げている。
私も同じように笑う。大きな声で、力一杯。
端から見たら気でも狂ったのかと思われるに違いないし、実際少し狂っていた。でも、そんなことはどうでもいい。彼女が笑ってくれたから、私はその事実だけを受け入れる。
「どうしたのですか? いきなり」
手で口元を押さえながら太子様が訊いてくる。一呼吸置いて私は答える。
「さあ、どうしてでしょう。わかりません」
不思議と、さっきまで感じていた恥ずかしさや暗い気持ちはすっかり消え去り、やけにすっきりした気分だった。ガンジス川がすべての罪を洗い流してくれるように、私の抱えていた恥ずかしさや暗い気持ちは、この泥水が洗い流していったのかもしれない。
こんなどうしようもない馬鹿をやっておいて、私の心は躍っている。
楽しかった。そして、それだけで良いのだと気付く。私が楽しめば、きっと彼女もこうして笑ってくれるから。
雨は相変わらず強く降り続けて、灰色の雲がどこまでも広がっている。それでも私の心は反対に晴れ晴れとしていた。
と、そこへ、
「これは太子様。それと屠自古。二人して何をしておるのです?」
見ると、小舟に乗った布都が困惑の表情を浮かべてそこにいた。さっき太子様が言っていた船に乗っている奴ってお前のことか、とか、何で船でこんな所を通っているんだ、とかそんなことを思いはしたがつっこみを入れるのも面倒なので、適当に答える。
「見ればわかるだろ。水遊びしてるんだよ」
「子供かお主は」
「かもね」
「案外面白いものですよ。水遊び」
「太子様までびっしょりではありませぬか。おい屠自古、なぜこんなことになっているのだ!?」
「うるさい。理由があるんだから仕方ないだろ」
「理由って何じゃ」
「色々だよ」
「色々ではわからん。はっきり言え」
はあ、と本日何度目かわからないため息をつく。これだから布都の相手は面倒なのだ。言葉を返す代わりに泥水を手ですくうと、それを布都の顔にかけてやった。「何をするのじゃ!」と声が返ってくる。
「さて。せっかくです。この船に乗ってちょっとしたクルーズを楽しみましょう」
合羽と傘を投げ込んで、意気揚々と乗り込む太子様。それからこっちへ視線を向けると、「ほら」と手を差し伸べてくれる。
綺麗な女性らしい細い指で、白くてとても綺麗だった。優しげでどこか少し悪戯っぽい笑みが、心に染みいってくる。
私はゆっくりと腕を持ち上げる。水分を含んだ服が重たい。手を見ると汚れていたのでそれを服に擦りつけて落とすと、彼女の手の方向へ腕を伸ばす。
そして、その手をそっと掴むと、
「さっきのお返しです」
そう言って、引っ張る。バランスを崩した太子様は「あ」と驚き、目が大きく見開かれる。前のめりに船から身体が落ちていく。
怪我をしないように、私はその身体を受け止めながら、これくらいは許してください、と目で訴える。
きっと最初からわかっていたのでしょう? 私が貴方に対して抱いている思いを、日々の会話から少しずつ感じ取っていたのでしょう?
それをこんな回りくどい方法で解決しようだなんて、本当に人が悪い。
だから、このちょっとした仕返しくらいは許してください。
近づいてくる顔が、驚きの表情から少し困ったような笑顔に変わったのをしっかりと見た。
二人の身体が重なって、共に倒れていく。
水が盛大に跳ねて大きくしぶきを上げたのと同時に、私と太子様の笑い声が通りに響いた。
良い雰囲気に引っ張られて情景が目に浮かぶようだった。
個人的に抱いている太子と屠自古のキャラクターともピッタリでとても良かった。
みことじもっと流行れよ。
また貴方の作品を読ませて下さい。良い作品をありがとうございます。
こういうカリスマのある神子がすっごい好みです。
雨の中の二人をイメージできる程に、良い作品でした。
面白かったです。
あと、ようこそ!
やっぱ包容力のある太子はいいね。
細かな情景描写や、ガンジス川を取り上げ、それをお話に絡めてくる技術。
見習いたいものです。
悩んだ後に無邪気にじゃれあうのがまた良かったです
古代人は今の現代にしっかり対応できていて、ホッとしました。
素敵な作品でした。
まず、
>しばらくはどうしたら楽しく過ごせるのかを考える日々を送った。
ってのが真面目。
太子とは理想のパートナー、布都とは理想のコンビって感じがしますな。
神子が現れてからのやり取りが、前半といい対比になって、とても読んでいて気持ちがよい。
雨のお話なのに、読み終わった後のこの晴れやかな気分はどうしたことでしょう。
面白かったです!
屠自古のわだかまりも川に流されていったのですね
抜き身のつるぎを鏡にするあたりで、なぜだか鳥肌が立ちました