幽々子様はお酒に酔うと、決まって私がまだ幼かった日々の事を話された。いずれも私自身の記憶には無かったが、繰り返し聞いている内に、いつしかそれらの話は私自身の思い出となって色や匂いを持ち、あたかも最初から記憶していたかの様な情景として思い浮かべるまでになった。
夏の暑さは、ゆっくりと迫る夕暮れに吸い込まれていく様に思われた。私は祖父におぶさって、長い階段の一つ一つを数えながら揺れられている。祭りで履物の鼻緒が切れてしまったのだ。段数を数え終わる前に、屋敷に着いた頃にはすっかりと寝入ってしまっていた。夕闇に浮かぶ金魚すくいや綿菓子の看板、大きくてごつごつとした背中の感触を、記憶に無い筈のそれらを思い返すのは容易であった。また、ある時の情景は花見の席である。私が祖父を真似て幽々子様にお酌をしようとした所、酒瓶は子供の手には少々大きく、思わずそれを取り溢しそうになった。咄嗟に、幽々子様のお召し物を汚すまいとしたが、それにより私はお酒をまともに頭から被り、どうして良いか分からないのと、自分の不甲斐無さに泣き出してしまった。いずれも、思い返すだけならば愉快で微笑ましいばかりの思い出たちである。体験は記憶となり、記憶は思い出になる。しかし、私は祖父との記憶がまるで無いのに、思い出ばかりが自分の中だけで膨れ上がり、私の中で祖父は実に優しい人物になっていた。
祖父に関する、無いも同然である唯一の記憶はすっかり色褪せている。広い庭の一角、何の変哲も無い木を背に立たされ、その時の身長の所に小さな傷を付けた。幽々子様の語る思い出話と違い、実際の記憶は曖昧で、色も匂いも持たず、厚い硝子瓶越しに見えるようであった。これが祖父に関する、私自身の記憶の全てである。作られた思い出の方が余程鮮明で、幸せだった。
ある時期を境に、私は祖父に対し、憎悪とも言える感情を抱く様になった。何かきっかけとなる出来事があった訳ではない。物心の付いた頃から祖父は居なかった。幽々子様から、ただ一度だけ聞かされた「頓悟」の意味を、その時は良く分かっていなかった。お酒の席で祖父を語る幽々子様の、仄かに赤らんだ横顔が月明かりに照り、そこに複雑な表情が混じるのを知った。私は、主を放った祖父を恨まねばならないと思った。思い出の祖父はいつも笑った。偽りの思い出である。自分の中だけで膨らんだ、優しい祖父は偽りである。自分を、そして主を裏切った祖父を慕ってはいけないと言う禁忌が、幽々子様の代わりに自分が恨まねばならぬと言う義務感がそうさせた。しかし、恨もうとすればするほど、おぶさった時の大きな背中やその時の匂い、作られた思い出たちが私を嘲笑うかの様に顔を覗かせた。
初夏の風は遠く向こうから新緑をなびかせ、私の髪を揺らし過ぎて行く。構えた刃に反射する暖かな光は、切先に集約し鋭く尖った。剣に没頭する時だけ、全てを忘れられる気がした。頭上までゆっくりと振り上げる。両手で握った剣は随分と重いものだった。重さが私の心を殺した。一息に振り下ろし、振り下ろしたその格好のまま黙った。鳥の声を聞く。若い草が香る。刀身を鞘に収めるとき、自分の指を切った。傷跡をしげしげと眺める。ただ赤いばかりの血液は鼓動の度に次々と噴出し、初歩的な失敗は精神の迷いが原因なのだと言い聞かせた。
「見せてみなさい」
声に振り返ると、縁側に幽々子様が腰掛けていた。庇は木漏れ日を遮り、その位置はこもった暗さが佇む様に思えた。幽々子様は包帯を取りに奥へ戻った。目が慣れていないため、その姿は暗がりに溶け行り完全に見えなくなった。一人になり、何時もなら絶対に無い失態を見られた間の悪さを恥じた。幽々子様は座り、私はその正面に立った。すみません、と謝りながら手を出した。何に対して謝っているのか、自分でも分からなかったが、手間を掛けさせた事に対してでは無いと思った。幽々子様は黙って手当てし、私はただそれを立って見ているしかなかった。何故だか怒られている気になっていた。
「随分と久しぶりね。こんな事」
私はまた、すみませんとだけ言い俯いた。真正面から幽々子様を見下ろしているこの景色を不思議に感じていた。包帯はきつく締め上げる。されるがままの姿を、小さな子供の様だと思った。葉桜の季節に、鳥の声と若草の香りはいっそう強まるように感じられた。
「懐かしいわ。昔も、指を切るたびに手当てをしたものね」
それを受け私は暗に子供のままだ、と言われた気がした。私の中の未成熟な若さは、子ども扱いを条件反射の様に嫌っていた。あの時とは違うと、自分は成長していると言う自覚は、成長したいのだと言う願望に過ぎないのだと気が付くのは随分と後だった。
私は、昼間の失態を床に就いた後も引きずっていた。薄闇に天井の木目が見える。瑞々しく芽吹いた季節の草々も、今では全てが死んだ様に静かだった。眠ろうとすればするほど、指の傷が痛み、幽々子様の手の感触が思い出され、幽々子様の台詞が一つ一つ丁寧に再生される。それらが頭に反響する度、私はもう子供では無いと自分自身に言い聞かせ、そうしている内に眠ってしまった。夢の中で、私は祖父と祭りに出かけていた。目前には一杯に、屋台の明りが華々しい。それらを律儀に一つ一つ眺め、期待に満ちた眼差しのまま、祖父を振り返った。私は逸る気持ちを隠そうともせず、手を引いて祭りを楽しんだ。祖父の手は大きく、私の手をすっぽりと覆った。早足で歩くと、履物の鼻緒が切れた。私は祖父を見た。何故だか、当然の様におぶってくれるものだと思っていた。だが祖父は私を置いて人込みに紛れた。私は、追う事が出来た筈なのに、すぐに気が付いてくれるのだと期待して、ただその場に立っていた。ついに祖父はその姿を完全に隠そうとする。道行く人々は一様に笑顔を浮かべている。私は、堪らなくなって祖父を呼ぼうとしたが、祖父のことを何と呼んでいたか分からず、口をつぐんでしまった。幼い私は、ただ一人置き去りにされた。知らない感情が心に湧き、その場で泣き叫ぶしかなかった。子供の私はそれしかこの感情の表現を知らなかった。
悲しかったのと、後は、寂しさもあったのだと思う。単なる大人の憧れではなく、子供であってはならないと言う消去法的な精神は、これらの純粋を、祖父に対する恨みに変えることにより解消した。本当は、置いていって欲しくなかった。一緒に居て欲しかった。自立しようとする精神は、ただそれだけの子供心を認めたくなくて、言い訳をする様に祖父を恨んだ。今になって初めて悲しむ事を許された気がした。枕に顔を埋めて、久しぶりに涙を流した。喉の奥が鳴る。作られた思い出と、恨まなければならないと言う観念に囚われるばかりで、祖父の呼び名も覚えていない自分を恥じた。
葉桜は見事に繁った。瑞々しい葉は風に吹かれている。私は、縁側に座る幽々子様の隣に腰掛けた。初めて自分から、祖父の事を聞いた。幽々子様は大して驚いた様子も見せず、ただ私が聞いた事にだけ答えた。一つ聞くと、後は祖父との時間を埋める様に、次々と聞きたい事が浮かんでいた。心には、泣きはらした後の仲直りの様な、そんな一種の清々しさがあった。最後に、祖父の呼び名を聞いた時だけ、幽々子様はこちらを向いた。誰もいない筈なのに、私の耳を寄せ、もったいぶって答えた。
唯一の祖父との記憶は色褪せている。何の変哲も無いこの木を、私は迷う事なく見つけた。あの時、私は祖父と身長を測り、その身長の場所に小さな傷を付けた。傷は私の腹の辺りにあった。もう、古びて暗い色を滲ませている。あの時と同じように、木を背にして立っても、懐かしいとは思えなかった。ただ新緑の鮮やかさが見えるだけである。
「おじいちゃん」
人知れず漏らした呟きは、初夏の柔らかな日差しに溶けた。何だか無性に照れくさく、だが、それを心地良く思う。もう一度、しっかりと向き合おうと、初めてそう思えた。
夏の暑さは、ゆっくりと迫る夕暮れに吸い込まれていく様に思われた。私は祖父におぶさって、長い階段の一つ一つを数えながら揺れられている。祭りで履物の鼻緒が切れてしまったのだ。段数を数え終わる前に、屋敷に着いた頃にはすっかりと寝入ってしまっていた。夕闇に浮かぶ金魚すくいや綿菓子の看板、大きくてごつごつとした背中の感触を、記憶に無い筈のそれらを思い返すのは容易であった。また、ある時の情景は花見の席である。私が祖父を真似て幽々子様にお酌をしようとした所、酒瓶は子供の手には少々大きく、思わずそれを取り溢しそうになった。咄嗟に、幽々子様のお召し物を汚すまいとしたが、それにより私はお酒をまともに頭から被り、どうして良いか分からないのと、自分の不甲斐無さに泣き出してしまった。いずれも、思い返すだけならば愉快で微笑ましいばかりの思い出たちである。体験は記憶となり、記憶は思い出になる。しかし、私は祖父との記憶がまるで無いのに、思い出ばかりが自分の中だけで膨れ上がり、私の中で祖父は実に優しい人物になっていた。
祖父に関する、無いも同然である唯一の記憶はすっかり色褪せている。広い庭の一角、何の変哲も無い木を背に立たされ、その時の身長の所に小さな傷を付けた。幽々子様の語る思い出話と違い、実際の記憶は曖昧で、色も匂いも持たず、厚い硝子瓶越しに見えるようであった。これが祖父に関する、私自身の記憶の全てである。作られた思い出の方が余程鮮明で、幸せだった。
ある時期を境に、私は祖父に対し、憎悪とも言える感情を抱く様になった。何かきっかけとなる出来事があった訳ではない。物心の付いた頃から祖父は居なかった。幽々子様から、ただ一度だけ聞かされた「頓悟」の意味を、その時は良く分かっていなかった。お酒の席で祖父を語る幽々子様の、仄かに赤らんだ横顔が月明かりに照り、そこに複雑な表情が混じるのを知った。私は、主を放った祖父を恨まねばならないと思った。思い出の祖父はいつも笑った。偽りの思い出である。自分の中だけで膨らんだ、優しい祖父は偽りである。自分を、そして主を裏切った祖父を慕ってはいけないと言う禁忌が、幽々子様の代わりに自分が恨まねばならぬと言う義務感がそうさせた。しかし、恨もうとすればするほど、おぶさった時の大きな背中やその時の匂い、作られた思い出たちが私を嘲笑うかの様に顔を覗かせた。
初夏の風は遠く向こうから新緑をなびかせ、私の髪を揺らし過ぎて行く。構えた刃に反射する暖かな光は、切先に集約し鋭く尖った。剣に没頭する時だけ、全てを忘れられる気がした。頭上までゆっくりと振り上げる。両手で握った剣は随分と重いものだった。重さが私の心を殺した。一息に振り下ろし、振り下ろしたその格好のまま黙った。鳥の声を聞く。若い草が香る。刀身を鞘に収めるとき、自分の指を切った。傷跡をしげしげと眺める。ただ赤いばかりの血液は鼓動の度に次々と噴出し、初歩的な失敗は精神の迷いが原因なのだと言い聞かせた。
「見せてみなさい」
声に振り返ると、縁側に幽々子様が腰掛けていた。庇は木漏れ日を遮り、その位置はこもった暗さが佇む様に思えた。幽々子様は包帯を取りに奥へ戻った。目が慣れていないため、その姿は暗がりに溶け行り完全に見えなくなった。一人になり、何時もなら絶対に無い失態を見られた間の悪さを恥じた。幽々子様は座り、私はその正面に立った。すみません、と謝りながら手を出した。何に対して謝っているのか、自分でも分からなかったが、手間を掛けさせた事に対してでは無いと思った。幽々子様は黙って手当てし、私はただそれを立って見ているしかなかった。何故だか怒られている気になっていた。
「随分と久しぶりね。こんな事」
私はまた、すみませんとだけ言い俯いた。真正面から幽々子様を見下ろしているこの景色を不思議に感じていた。包帯はきつく締め上げる。されるがままの姿を、小さな子供の様だと思った。葉桜の季節に、鳥の声と若草の香りはいっそう強まるように感じられた。
「懐かしいわ。昔も、指を切るたびに手当てをしたものね」
それを受け私は暗に子供のままだ、と言われた気がした。私の中の未成熟な若さは、子ども扱いを条件反射の様に嫌っていた。あの時とは違うと、自分は成長していると言う自覚は、成長したいのだと言う願望に過ぎないのだと気が付くのは随分と後だった。
私は、昼間の失態を床に就いた後も引きずっていた。薄闇に天井の木目が見える。瑞々しく芽吹いた季節の草々も、今では全てが死んだ様に静かだった。眠ろうとすればするほど、指の傷が痛み、幽々子様の手の感触が思い出され、幽々子様の台詞が一つ一つ丁寧に再生される。それらが頭に反響する度、私はもう子供では無いと自分自身に言い聞かせ、そうしている内に眠ってしまった。夢の中で、私は祖父と祭りに出かけていた。目前には一杯に、屋台の明りが華々しい。それらを律儀に一つ一つ眺め、期待に満ちた眼差しのまま、祖父を振り返った。私は逸る気持ちを隠そうともせず、手を引いて祭りを楽しんだ。祖父の手は大きく、私の手をすっぽりと覆った。早足で歩くと、履物の鼻緒が切れた。私は祖父を見た。何故だか、当然の様におぶってくれるものだと思っていた。だが祖父は私を置いて人込みに紛れた。私は、追う事が出来た筈なのに、すぐに気が付いてくれるのだと期待して、ただその場に立っていた。ついに祖父はその姿を完全に隠そうとする。道行く人々は一様に笑顔を浮かべている。私は、堪らなくなって祖父を呼ぼうとしたが、祖父のことを何と呼んでいたか分からず、口をつぐんでしまった。幼い私は、ただ一人置き去りにされた。知らない感情が心に湧き、その場で泣き叫ぶしかなかった。子供の私はそれしかこの感情の表現を知らなかった。
悲しかったのと、後は、寂しさもあったのだと思う。単なる大人の憧れではなく、子供であってはならないと言う消去法的な精神は、これらの純粋を、祖父に対する恨みに変えることにより解消した。本当は、置いていって欲しくなかった。一緒に居て欲しかった。自立しようとする精神は、ただそれだけの子供心を認めたくなくて、言い訳をする様に祖父を恨んだ。今になって初めて悲しむ事を許された気がした。枕に顔を埋めて、久しぶりに涙を流した。喉の奥が鳴る。作られた思い出と、恨まなければならないと言う観念に囚われるばかりで、祖父の呼び名も覚えていない自分を恥じた。
葉桜は見事に繁った。瑞々しい葉は風に吹かれている。私は、縁側に座る幽々子様の隣に腰掛けた。初めて自分から、祖父の事を聞いた。幽々子様は大して驚いた様子も見せず、ただ私が聞いた事にだけ答えた。一つ聞くと、後は祖父との時間を埋める様に、次々と聞きたい事が浮かんでいた。心には、泣きはらした後の仲直りの様な、そんな一種の清々しさがあった。最後に、祖父の呼び名を聞いた時だけ、幽々子様はこちらを向いた。誰もいない筈なのに、私の耳を寄せ、もったいぶって答えた。
唯一の祖父との記憶は色褪せている。何の変哲も無いこの木を、私は迷う事なく見つけた。あの時、私は祖父と身長を測り、その身長の場所に小さな傷を付けた。傷は私の腹の辺りにあった。もう、古びて暗い色を滲ませている。あの時と同じように、木を背にして立っても、懐かしいとは思えなかった。ただ新緑の鮮やかさが見えるだけである。
「おじいちゃん」
人知れず漏らした呟きは、初夏の柔らかな日差しに溶けた。何だか無性に照れくさく、だが、それを心地良く思う。もう一度、しっかりと向き合おうと、初めてそう思えた。
東方に「父親」が出てくることはほぼないですから、「父親がいなかったために父性を求め、乗り越えようとする少女」という一見よくありそうな主題がしかし新奇性あるものにもなっています。
妖夢の心情はどこか大人ぼいですけど、別に妖忌に対しては恨みといった感情は無いと思いますけど。
これは、暗に妖夢に対して嫌なイメージを植え付け兼ねないので、こういう描写は控えるべきだと思いました。
思春期の女の子はコンプレックスを抱えてこそ光るのだなぁと再認識しました。
いっぱいつまってる
妖夢はこういう未熟系のSSがよく似合う。
優れた作品なのに埋もれてしまったのが本当に残念です。