「お気に入りのカフェは使えなくなるし、カプチーノはタダ飲みになるし! 今日は厄日だわ!」
「別に後者は良いんじゃないかなぁ」
私はメリーを宥めつつ、手ごろな文庫本を量子リーダーで会計した。
メリーの機嫌はまだ直らない。53号室を出てからずっとこの調子である。
秘封倶楽部活動拠点第21号室、またの名をクライムバリスタ京都公園前知楽書店ビル内店。
正式名称が長すぎるので、世間一般的には知楽内クラバリと略されている。
京都公園前知楽書店ビルと言えば誰もが知っている大型ブックタワーだ。
面積は6,000m²におよび、地上9階、地下6階、その全てが書籍を取り扱っている。
量子書籍が主な昨今、わざわざ紙媒体の出版を集めに集め、巨大に膨れ上がった店舗。
空調完備。在庫書籍を検索するバイオコンピュータ完全配備。
あちこちにベンチが設置されており、立ち読みをむしろ推奨している店内。
まさに至れり尽くせりの環境なのである。私はここが大層気に入っていた。
さてそんな知楽書店ビルの一角にはカフェが併設されている。それが21号室である。
コーヒーに色々とトッピングをする、最近ではよくある形式である。
レジに進む。サラリーマン風の男が注文しているので、後ろに並ぶ。
と思ったら、53号室で私に訳分からない事を言ってきた、あの男だった。
「あ、先ほどはどうも」と肩越しに振り返り、会釈をしてくる。
「あはは、奇遇ですね」私は愛想笑いを返すに留めた。
「良ければ注文先にどうぞ」
「いえいえ、どうぞどうぞ」
「うーん、それじゃあ、……どうしようかな」
少し時間がかかりそうだ。
「ねね、蓮子」と時間を持て余したメリーが話しかけてくる。
「そういえば蓮子って、いっつもエスプレッソばっかり飲んでるよね」
「そんな事無いよ。苦いのも好きだけどね」
「エスプレッソで。っていうか、めちゃくちゃ苦くしてください」
このリーマンも、苦いのが好きなようである。
「私は、ホワイトモカフラペチーノのグランデでキャラメルソースチョコレートチップ、
エキストラホイップのエスプレッソショット一杯で。ヘーゼルナッツシロップも忘れずに」
メリーはグルメである。よくもまあそんな組み合わせを暗記できるものだ。
「かしこまりました。ホワイトモカフラペチーノのグランデでキャラメルソースチョコレートチップ、
エキストラホイップのエスプレッソショット一杯、更にヘーゼルナッツシロップですね」
っていうか、店員すげぇな。さすがはバリスタである。
私は感嘆の意を込めて拍手をしていると、リーマンが戻って来て、二つ目を注文した。
「ベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアーモンドキャラメルエキストラホイップキャラメル
ソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノ」
「ベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアーモンドキャラメルエキストラホイップキャラメル
ソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノですね?」
「はいそれで」
リーマンが商品を受け取る。メリーが接近し、言った。
「よく息切れしないで言えるわね」
対して私は、「キャラメルマキアートをホットで、プラスにチョコレートソース」
リーマンは商品を二つ持った状態で、店の奥の方へ行った。
私たち二人は商品を受け取り会計を済ませ、手ごろな席に座る。
メリーの方はちょっとしたパフェみたいな感じである。
そしてさぞかしイライラしていたのだろう。
私が三回口をつける時には、メリーは完食してしまった。
「ふぃー、おいしかった」
「機嫌は直った?」
「そこそこ。じゃあちょっとそこらへん散歩してこようかな」
「あいよ。まあ私はこれ読んでるから」と先ほど買った本を指す。
「20分くらいしたら戻ってくるよ。そうしたらおしゃべりしよう」
「はいはい、いってらっしゃい」
メリーに手を振り送り届けてから、キャラメルマキアートを一口。うめぇ。
そうして本を取出しカバーを外して、マイブックカバーに取り換える。
読み終えたら新品のままのブックカバーで家の本棚に飾るのだ。至高である。
本を広げて机に置こうとしたら、やたらとかつかつと響くヒールの音が聞こえてきた。
常日頃トラブルを避けるために他人の顔は見ない様に気を付けていたのだが。
行動の合間で間が悪かったのだろう。つと顔を上げて様子を窺ってしまった。
上下ストライプのスーツを着たOL風の女性である。
栗色の髪はショートボブに若干のウェーブをかけて、細い首から形の良い後ろ頭が理知的だ。
さぞかし良い事があったのだろう。足取り軽やかにヒールの音を鳴らしている。
片方の手には会社員が良く持ち歩くタイプのA4サイズカバン。
キャリアウーマンって感じである。
「こんにちは、一人で来たの?」
ほんの五歩ほどの距離を開けて、私を見て挨拶をしてきた。
私に向けられたのだとは気付けなかっただろう。
さらに接近し、先ほどまでメリーが座っていた席にカバンを置かなければ。
「――うん、友人と一緒に来たんだけど、いまはそこら辺うろついてるみたい」
自分の声が若干の緊張を帯び、強張るのを感じた。
大丈夫、大丈夫、と自らを落ち着かせる。ただ話しかけられただけだ。
これが野暮な男だったらまだしも、若い女性である。周囲に人の目がある。恐れるには及ばない。
「あのね、ちょっと次の約束まで15分ほど余裕が出来ちゃって」
「なるほど」と咄嗟に言葉が出た。何がなるほどなのか、自分でよく分からなかった。
「時間つぶしに付き合ってくれないかしら」
OL風の女性のなりを、ほんの短い間に観察する。そして考察する。
化粧はしている。スーツだって清潔だ。下に来ているYシャツにも糊が効いている。
向こうは15分と時間を提示してきている。そして20分後にはメリーが帰ってくる。
相手は若い女性が一人だけ。まだ夕方前だ。日没には時間がある。
すうと息を吸い、出来る限り自然に声を出した。
「うん、常識的な恰好をしている人にはね、それなりの敬意を払う事にしてるの」
私は後ろを振り返り、窓から空を見た。偶然後方に時計があった。今の時刻を確認した。
「二十分後に友人が帰ってくるから、それまでだったらいいよ」
「ありがとう」
私が椅子を手の平で指し示すと、女性は「失礼するわね」と言って腰かけた。
「まずは自己紹介しよっか。私はこういう者よ」と名刺を差し出してくる。
“京都公園前知楽書店ビル オーナー 八雲蓮子”
「うっそぉ!」私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「このビル持ち主さん? すごーい! ほんとにすごーい!」
「そういう反応をしてくれると逆にありがたいわ」
八雲蓮子はにこにことしている。
「でもその名刺は業務外用だからね。本当はもっと長ったらしい肩書があるの」
なるほど、どうりでただの厚紙に黒字で印刷しただけの、簡素な造りなわけだ。
「あ、私は宇佐見蓮子。そこの大学で学生をやってる」
「へえ同じ蓮子なのね」
「そうね。奇遇ね」
「それに、学生かあ。ビル経営なんてやってると、学生が羨ましいわ」
「学生100人、いや100万人に聞いても、絶対にビル経営のが良いって言う」
「あはは、そうかしら」
「そうでしょ」
「でも、悩みも多いわよ」
「聞きたいなぁ。たとえばどんな悩み?」
「着替えを三着しか持ってきてない」
「やっぱり忙しいんだ。日本にいるのはいつまで? 海外出張も多いの?」
「…………調子が狂うわね」
「むむむむむ?」
八雲はお冷をグラスに注ぐと、一口飲む。
そうしてグラスの中の水をくるくると回し、そこに視線を落としながら言う。
「でもね、このビルは一週間後に持ち主が変わるわ」
「え、買収されるの?」
「ううん。売りに出すの、私が」
こういう時にどのような言葉を発すればいいのか、情けながらも分からなかった。
私が絶句していると八雲はグラスからつと視線を上げ、私の顔を見て、小さく笑う。
「ああ暗い話じゃないのよ。むしろすっごく明るくてほっこりする話なの」
「買い手が凄く良い人だとか?」
「うん、ビルを買う人は、私の友人。決して談合とかじゃないよ」
「どんな人?」
「AQNグループって分かる?」
「あ、知ってる。海外のギャンブル会社を経営する巨大グループだ」
「そそ。そのAQNグループのトップは、実は日本人なの。知ってた?」
「へえ、知らなかった。で、そこに売ると?」
「あっきゅんはね、本が大好きなの。それでこのビルが欲しいって、名乗り出てくれたの」
「え? AQNって、トップの名前から来てるの?」
「あくまで愛称よ」八雲がころころと笑った。
「あっきゅん、か。ギャンブル会社の怖いお頭があっきゅんだなんてね」
「うん、外国で巻き上げた金を日本に落とせるって息巻いてる」
八雲は水をさらに一口飲んで、気を取り直すようにふうと息をついた。
「それに、ね。長い長いビル経営も、やっと終わるの。ああ長かったなあ」
「どうして? そんなにビル経営が詰まらなかった?」
と発言してから、しまったと思った。「ごめんなさい。変な意味じゃないの」
「いやいや、うーんっとね、じゃあちょっと昔話をしようか」
グラスから手を放し、その中指をこめかみに当て、揉むようにして動かす。
「1300年前。人間のフリをした人食い妖怪が居ました」と空っぽのグラスを机の真ん中に持ってくる。
「その人食い妖怪を討伐する依頼を受けた、妖怪退治屋が居ました」水の入ったグラスを隣に置く。
私は指差し確認をした。
空っぽのグラスの方が妖怪。水の入ったもう片方が退治屋。
「妖怪退治屋は、人食い妖怪を人間だと信じたふりをして、接近」二つのグラスをカチンとぶつける。
「妖怪の仲間を根こそぎ退治しようとしたのね。でも、退治屋は、」
「人食い妖怪に惚れてしまった。そうでしょ」
「大当たり。良く分かったね」
「うん、それで二人で自決をした?」よくある話である。
「ハズレ。二人は駆け落ちをした」二つのグラスを、隣の席へ移動してしまう。
「駆け落ちは成功したの?」
「二人は人間からも妖怪からも追い詰められて、最後に恋が原動力の結界を張った」
「そんな結界、すぐ破れちゃうんじゃないの?」
「あら、詳しいわね。結界の研究でもしてるのかしら?」
「え? あはは、想像よ、そーぞー」
秘封倶楽部部長だし、境界を目視できる相棒がいるのだ。知識くらいはある。
恋で展開した結界は確かに強力だろうが、長続きはしない。
「でもその通りだった。妖怪も人間もそう予想して、二人が立てこもった結界を包囲し続けた」
「五分も持てば良い方じゃないのかしら?」
「残念。その結界は今も維持してる。今、この瞬間も」
「不可能よ。無理だわ。絶対に不可能」
「でも事実。さてこの二人が立てこもった場所はどこでしょうか」
「まさか――」
「そう。私達の足元。このビルのちょうど真下」
八雲が机を人差し指でとんと突いた。
私は下を見た。自分の足があるだけだった。
「だから私はここにビルを建てた。二人を弔う為に」
「……本屋さんにした謂れは?」
「それは趣味」
「あ、趣味なんだ」
「でもこれだけ本があったら、いくらでも待てるでしょ?」
「まあそうかも知れない」
八雲がグラスからまた水を一口飲んだ。
「私の友人の学者さんで、恋心の研究をしてる人がいるの」
「へえ、何て名前? 私、大抵の学者なら知ってる」
「多分知らないよ。まりさ、って言うんだけど」
「ごめん、知らなかった」
「うん。まりさに頼んで、この結界がいつまで続くか計算してもらった」
「分かった。それで結界が破けるのが、一週間後だ」
「そのとおり」八雲は満足げに頷き、後を続けた。
「ほら、結界暴きは違法でしょ? だから、待つしかないの。何百年も、何千年も」
そして、にやりと笑い――。
「何億年も。何十億年も。何百億年も――、」
「――それこそ、時間を戻してでも、早送りしてでも、待ち続けるのよ」
私は、八雲の瞳から目を背け、グラスの中で回る水を見ていた。
秘封倶楽部活動中にメリーの瞳を介して見た結界の中は、丁度それのようだった。
光を反射し、妖気や妖力や霊力がその中でぐるぐると回り流動している、そのさまである。
超自然的に発生した結界ならば、数十世紀以上にも渡って続くことも考えられよう。
民族伝承を根幹とした、数千人の畏れや思念が下地になっているものならば、だ。
しかしたった二人の恋心から展開された結界が、自らを守るために、自らの意志を貫くために。
ごくごくありふれた数人の感情が1300年も結界を維持させることなど、考えられる訳が無い。
この八雲の話が単なる昔話と時間つぶしではないと、私はもう気づいていた。
「…………寿命が何回あっても足りないね」となんとか皮肉を言うのが精一杯だった。
「そう思うでしょ? でも、それが待てる様になったらロマンだと思わない?」
「そりゃロマンだろうけど、あまりにも現実離れしすぎてる」
「あら、1300年維持し続けた恋の結界だって、非現実的じゃない?」
「それはそうかも知れないけれど…………、」
次の言葉が見つからなかった。
そこに存在することは観測できるのに、数億年も待ち続けるだなんて、切ない。
観測物理学を思い出していた。
人類は、ブランクエネルギーを超えた燃料を手にすることはできない。
目に見えているのに、手が届かないから、諦める。
そこに行くことは出来ないと分かってしまったから、諦める。
宇宙人だっているかもしれない。人類が孤独でないことを証明できるかもしれない。
マルチバースへ行くこともできるかもしれない。ワームホールだって存在するかもしれない。
だが不可能だから、諦める。
解釈と哲学で説明するしかない。
認めるしかないのだ。不可能を。
それはとても、とても切ない。
「あら、ごめんね。泣かせる気はなかったの」
八雲の眼を見ているのが辛くなってしまい、自分のコーヒーカップを見る事しかできなかった。
しかしもう声を上げてわんわんと無く歳でもない。
ぐっと目を閉じ、涙を振るい落とす。手ごろなちり紙を掴み、涙を拭き、鼻をかむ。
八雲は待っていてくれた。それが終わってから、私は彼女を睨み付けてやった。
「あなた何者? もしかして結界省の人? 私を逮捕しに来たの?」
「宇佐見さんは頭がいいね」八雲が蓮っ葉な感じで肩を竦めた。「だけど違うよ」
「どこまでホントの話? まず偽名でしょ? 肩書きも嘘でしょ?」
「あなたが一番知りたいことだけ答えてあげる」
「地下の結界の話はホント?」
「ホントよ」
「見てみたい」
「ダメよ」
「なんで」
「普通の人間が見たら有毒だから。知ってるでしょ?」
「防護結界を張れば大丈夫でしょ」
「そうね」
「私と、私の相棒の分も作ってよ」
「いやだ」
「じゃあ相棒の分だけ」
「どちらにせよいやだ」
「なんで」
「めんどい」
「ぐぬぬぬぬぬ、忍び込んでやる」
「地下にあるって言ったけれど、地下のどこにあるか知ってるの?」
「探せば見つかるし、私だって素人じゃないもん」
「素人じゃないなら、攻撃性のある結界がいかに危険か分かるでしょ?」
「うぎぎぎぎぎ」実際その通りだから仕方がない。「じゃあ、じゃあなんで、」
興奮と口の渇きに言葉がつっかえてしまった。
キャラメルマキアートで口内を潤す。
「じゃあなんで私に声をかけたの」
「最初に言ったじゃん」
「一人で来たのかって聞いたよね」
「違うよ。時間つぶしだって言った」
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬ」残念ながら、向こうの方が遥かに上手のようだ。
そこで八雲の携帯電話が鳴った。
もうレガシーシステムの、ずっと昔の型の、二つ折りのパカパカするやつだった。
「ごめんね、出るね」
「どうぞ」
携帯電話を展開し、耳に当てた。
「どうもゆかり、らくらくフォン使えるようになったんだね。進歩だわ」
「え? そこまでお年寄りじゃない? どうでしょうね。ちぇんに使い方聞いたんじゃあないの?」
「あはは。うん、森羅結界はちゃんと張ったよ。割れたらついにお目覚めだね」
「1300年前だからね。あのバカップルには一宿一飯の恩があるからね」
「あ、違った? 四五宿百八三飯六五間食の恩? ああ、あなたは人里に下りれなかったからね」
「懐かしいね。二人でぶっ倒れたからね。あれが無かったら餓死確実だったね」
「倒れた時点で、あなたは半分妖怪だったからね。焦ったねぇ」
「うんうん。まりさの計算結果が1300年って出た時は、絶対に間違いだと思った」
「でもあってたね。いやあ感慨深いったらないわ」
「目覚めたら向こうに連れて行くんだよね? 骨を埋める場所は決まってる?」
「え? 一等地? 羨ましいわあ。人里が見下ろせる丘の上なんて羨ましいわあ」
「さてあのバカップルを弔ったら、忙しくなるわよ」
「旦那さんの両親、友人、師匠、あの人たち全員が別々に立てこもったからね」
「あなたの友人だって、たくさん巻き込まれちゃったからね。みんな死んじゃったけどね」
「根本の唯心結界が割れれば、他の結界も一斉に弱まるだろうから」
「ええ、楽しみね。ウキウキするなぁ。やっと再会だね。骨は大事に運ばないとね」
「次飛ぶのはどこ? 50年後? 了解。R2パラレルね。その次はYパラレルの300年前か」
「312年前? え? 違う? ああそっちの年号か。西暦2013年の中旬ね。了解」
「2013年のYって、安倍さんと、リーマンショックから一段落ついたところだよね?」
「合ってる? ああ合ってた? それはよかった。じゃあ座学の方はOKだね」
「じゃあ10分後に飛ばしてちょうだい。あと、あっきゅんによろしくね」
「はい、はーい。じゃあR2でまた会いましょ。はーい、それじゃね」
八雲が携帯の通話を切る。
「聞いてた?」
「そりゃもうばっちり」
「さてどこまで信じる?」
「全部ウソに聞こえるし、全部ホントにも聞こえる」
「一緒に来る? 五秒上げるから答えを出しなさい」
「いや、やめとくよ」私は即答した。「相棒がいるし」
「ふうん。まあいずれにせよ未来は変わらないよ」
八雲は私の後方を見た。
そういえば私の後方には、窓と時計があった。
「さて、15分経ったから、行くね。良い時間つぶしだったわ」
「うん、楽しかった。ゆかりとちぇんにも、いずれ会いたいな」
「そうね、機会があったらね。多分近々会うことになると思うけど」
「もうホントに、どこまでがホントか分からない」
席から立ち、握手をした。
この手を握ったままにしたら一緒に飛べるのかしら? とちらりと考えた。
しかし、放した。ここがターニングポイントだろうな、と思った。
「それじゃあ、またいつか会いましょう。――蓮子ちゃん」
「うん、またいつか、ね。八雲蓮子」
散歩から帰ってくると、視線を下に向けてぼうっと座る蓮子がいた。
「戻ったわ。いやあここって入るたびに地形が変わるよね。毎回新鮮だわ」
「うん、――そうだね」
「? どうしたの蓮子」
「ん、んー、うん、うーん」
「おーい、応答せよ宇佐見蓮子」
「うーん、うん。んー? うん」
つい20分前とは全く別人の抜け殻のようになってしまった。
蓮子がこうなるのは、彼女のブラックボックスな頭脳がフル活動してる時である。
私は蓮子の向かい側に座り、そして隣の机に置いてある二つのグラスを見つけた。
「あれ? 蓮子水飲んだの?」
「んー?」
「水飲んだの?」
「んーん」
「どっちなのよ。まさか蓮子のダブルかしら?」
「ダブル? ああ、ダブル!? ああー、ダブルかもね。ダブルダブル」
「蓮子がぶっこわ蓮子……」
空の方のグラスに水を注ぎ、それに口を付けようとしたら、蓮子ががばりと顔を上げた。
「あ! そのグラスで飲んじゃダメ!」
「え? なんで?」
「妖怪だから。そっちのグラスは妖怪なのよ」
「意味わからん。じゃあもう片方は?」
「もう片方は、恋の結界師。1300年前。多分イケメン」
「意味わからん」
「でも行き倒れを助ける夫婦って言ったら、美男美女だよね?」
「まあそうかも知れない、――のかなぁ?」
仕方が無いので、山積みになっているところからグラスを持ってきて、そこから水を飲む。
グラスはよく磨かれていて照明を反射させ、きらきらと輝く。
「ねえ蓮子、ほらほら、これ見て。これ結界みたいじゃない?」
ここで蓮子はゆっくりと顔を上げて、グラスを見た。
「ね? ほら」と差し出すと、じっと凝視する。
「うん、――そうだね」と言って、なんとほろほろと泣き始めるではないか。
「ええー!? なに!? どうしたの!? この20分間に何があったの!?」
「なんでもない。ねえメリー、ぐすっ、場所を変えよう。メリーの家が良い」
「まあ、それは良いけれど。今すぐ移動する? 落ち着いてからでもいいよ?」
「いや、今すぐ、今すぐ移動しよう。ぐすっ、もうこのお店とは、おさらばだから……」
「え? オーナーなの? オーナーに会ったの? ナンパされたの?」
席を立ち、ぐずぐずと泣く蓮子の腕を引っ張り、歩く。
「ねえメリー」併設カフェから出るところで話しかけてくる。
「うん? どうしたの?」
「ずっと、一緒に居よう。これから、色々とあるかも知れないけど」
「うん、そんなぼろぼろ泣かれながら言っても、心配になるだけだわ」
「一緒に居ようね。二人で行き倒れたり、友人が結界に篭って死んでいったりしても、さ」
「え、なにそれこわい」
エスプレッソを一口。なんだこれ、超にげぇ。
そうして、蓮メリが歩いて店から出ていくのを見届けた。
やっぱり甘々の方が良いな、と思った。
「別に後者は良いんじゃないかなぁ」
私はメリーを宥めつつ、手ごろな文庫本を量子リーダーで会計した。
メリーの機嫌はまだ直らない。53号室を出てからずっとこの調子である。
秘封倶楽部活動拠点第21号室、またの名をクライムバリスタ京都公園前知楽書店ビル内店。
正式名称が長すぎるので、世間一般的には知楽内クラバリと略されている。
京都公園前知楽書店ビルと言えば誰もが知っている大型ブックタワーだ。
面積は6,000m²におよび、地上9階、地下6階、その全てが書籍を取り扱っている。
量子書籍が主な昨今、わざわざ紙媒体の出版を集めに集め、巨大に膨れ上がった店舗。
空調完備。在庫書籍を検索するバイオコンピュータ完全配備。
あちこちにベンチが設置されており、立ち読みをむしろ推奨している店内。
まさに至れり尽くせりの環境なのである。私はここが大層気に入っていた。
さてそんな知楽書店ビルの一角にはカフェが併設されている。それが21号室である。
コーヒーに色々とトッピングをする、最近ではよくある形式である。
レジに進む。サラリーマン風の男が注文しているので、後ろに並ぶ。
と思ったら、53号室で私に訳分からない事を言ってきた、あの男だった。
「あ、先ほどはどうも」と肩越しに振り返り、会釈をしてくる。
「あはは、奇遇ですね」私は愛想笑いを返すに留めた。
「良ければ注文先にどうぞ」
「いえいえ、どうぞどうぞ」
「うーん、それじゃあ、……どうしようかな」
少し時間がかかりそうだ。
「ねね、蓮子」と時間を持て余したメリーが話しかけてくる。
「そういえば蓮子って、いっつもエスプレッソばっかり飲んでるよね」
「そんな事無いよ。苦いのも好きだけどね」
「エスプレッソで。っていうか、めちゃくちゃ苦くしてください」
このリーマンも、苦いのが好きなようである。
「私は、ホワイトモカフラペチーノのグランデでキャラメルソースチョコレートチップ、
エキストラホイップのエスプレッソショット一杯で。ヘーゼルナッツシロップも忘れずに」
メリーはグルメである。よくもまあそんな組み合わせを暗記できるものだ。
「かしこまりました。ホワイトモカフラペチーノのグランデでキャラメルソースチョコレートチップ、
エキストラホイップのエスプレッソショット一杯、更にヘーゼルナッツシロップですね」
っていうか、店員すげぇな。さすがはバリスタである。
私は感嘆の意を込めて拍手をしていると、リーマンが戻って来て、二つ目を注文した。
「ベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアーモンドキャラメルエキストラホイップキャラメル
ソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノ」
「ベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアーモンドキャラメルエキストラホイップキャラメル
ソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノですね?」
「はいそれで」
リーマンが商品を受け取る。メリーが接近し、言った。
「よく息切れしないで言えるわね」
対して私は、「キャラメルマキアートをホットで、プラスにチョコレートソース」
リーマンは商品を二つ持った状態で、店の奥の方へ行った。
私たち二人は商品を受け取り会計を済ませ、手ごろな席に座る。
メリーの方はちょっとしたパフェみたいな感じである。
そしてさぞかしイライラしていたのだろう。
私が三回口をつける時には、メリーは完食してしまった。
「ふぃー、おいしかった」
「機嫌は直った?」
「そこそこ。じゃあちょっとそこらへん散歩してこようかな」
「あいよ。まあ私はこれ読んでるから」と先ほど買った本を指す。
「20分くらいしたら戻ってくるよ。そうしたらおしゃべりしよう」
「はいはい、いってらっしゃい」
メリーに手を振り送り届けてから、キャラメルマキアートを一口。うめぇ。
そうして本を取出しカバーを外して、マイブックカバーに取り換える。
読み終えたら新品のままのブックカバーで家の本棚に飾るのだ。至高である。
本を広げて机に置こうとしたら、やたらとかつかつと響くヒールの音が聞こえてきた。
常日頃トラブルを避けるために他人の顔は見ない様に気を付けていたのだが。
行動の合間で間が悪かったのだろう。つと顔を上げて様子を窺ってしまった。
上下ストライプのスーツを着たOL風の女性である。
栗色の髪はショートボブに若干のウェーブをかけて、細い首から形の良い後ろ頭が理知的だ。
さぞかし良い事があったのだろう。足取り軽やかにヒールの音を鳴らしている。
片方の手には会社員が良く持ち歩くタイプのA4サイズカバン。
キャリアウーマンって感じである。
「こんにちは、一人で来たの?」
ほんの五歩ほどの距離を開けて、私を見て挨拶をしてきた。
私に向けられたのだとは気付けなかっただろう。
さらに接近し、先ほどまでメリーが座っていた席にカバンを置かなければ。
「――うん、友人と一緒に来たんだけど、いまはそこら辺うろついてるみたい」
自分の声が若干の緊張を帯び、強張るのを感じた。
大丈夫、大丈夫、と自らを落ち着かせる。ただ話しかけられただけだ。
これが野暮な男だったらまだしも、若い女性である。周囲に人の目がある。恐れるには及ばない。
「あのね、ちょっと次の約束まで15分ほど余裕が出来ちゃって」
「なるほど」と咄嗟に言葉が出た。何がなるほどなのか、自分でよく分からなかった。
「時間つぶしに付き合ってくれないかしら」
OL風の女性のなりを、ほんの短い間に観察する。そして考察する。
化粧はしている。スーツだって清潔だ。下に来ているYシャツにも糊が効いている。
向こうは15分と時間を提示してきている。そして20分後にはメリーが帰ってくる。
相手は若い女性が一人だけ。まだ夕方前だ。日没には時間がある。
すうと息を吸い、出来る限り自然に声を出した。
「うん、常識的な恰好をしている人にはね、それなりの敬意を払う事にしてるの」
私は後ろを振り返り、窓から空を見た。偶然後方に時計があった。今の時刻を確認した。
「二十分後に友人が帰ってくるから、それまでだったらいいよ」
「ありがとう」
私が椅子を手の平で指し示すと、女性は「失礼するわね」と言って腰かけた。
「まずは自己紹介しよっか。私はこういう者よ」と名刺を差し出してくる。
“京都公園前知楽書店ビル オーナー 八雲蓮子”
「うっそぉ!」私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「このビル持ち主さん? すごーい! ほんとにすごーい!」
「そういう反応をしてくれると逆にありがたいわ」
八雲蓮子はにこにことしている。
「でもその名刺は業務外用だからね。本当はもっと長ったらしい肩書があるの」
なるほど、どうりでただの厚紙に黒字で印刷しただけの、簡素な造りなわけだ。
「あ、私は宇佐見蓮子。そこの大学で学生をやってる」
「へえ同じ蓮子なのね」
「そうね。奇遇ね」
「それに、学生かあ。ビル経営なんてやってると、学生が羨ましいわ」
「学生100人、いや100万人に聞いても、絶対にビル経営のが良いって言う」
「あはは、そうかしら」
「そうでしょ」
「でも、悩みも多いわよ」
「聞きたいなぁ。たとえばどんな悩み?」
「着替えを三着しか持ってきてない」
「やっぱり忙しいんだ。日本にいるのはいつまで? 海外出張も多いの?」
「…………調子が狂うわね」
「むむむむむ?」
八雲はお冷をグラスに注ぐと、一口飲む。
そうしてグラスの中の水をくるくると回し、そこに視線を落としながら言う。
「でもね、このビルは一週間後に持ち主が変わるわ」
「え、買収されるの?」
「ううん。売りに出すの、私が」
こういう時にどのような言葉を発すればいいのか、情けながらも分からなかった。
私が絶句していると八雲はグラスからつと視線を上げ、私の顔を見て、小さく笑う。
「ああ暗い話じゃないのよ。むしろすっごく明るくてほっこりする話なの」
「買い手が凄く良い人だとか?」
「うん、ビルを買う人は、私の友人。決して談合とかじゃないよ」
「どんな人?」
「AQNグループって分かる?」
「あ、知ってる。海外のギャンブル会社を経営する巨大グループだ」
「そそ。そのAQNグループのトップは、実は日本人なの。知ってた?」
「へえ、知らなかった。で、そこに売ると?」
「あっきゅんはね、本が大好きなの。それでこのビルが欲しいって、名乗り出てくれたの」
「え? AQNって、トップの名前から来てるの?」
「あくまで愛称よ」八雲がころころと笑った。
「あっきゅん、か。ギャンブル会社の怖いお頭があっきゅんだなんてね」
「うん、外国で巻き上げた金を日本に落とせるって息巻いてる」
八雲は水をさらに一口飲んで、気を取り直すようにふうと息をついた。
「それに、ね。長い長いビル経営も、やっと終わるの。ああ長かったなあ」
「どうして? そんなにビル経営が詰まらなかった?」
と発言してから、しまったと思った。「ごめんなさい。変な意味じゃないの」
「いやいや、うーんっとね、じゃあちょっと昔話をしようか」
グラスから手を放し、その中指をこめかみに当て、揉むようにして動かす。
「1300年前。人間のフリをした人食い妖怪が居ました」と空っぽのグラスを机の真ん中に持ってくる。
「その人食い妖怪を討伐する依頼を受けた、妖怪退治屋が居ました」水の入ったグラスを隣に置く。
私は指差し確認をした。
空っぽのグラスの方が妖怪。水の入ったもう片方が退治屋。
「妖怪退治屋は、人食い妖怪を人間だと信じたふりをして、接近」二つのグラスをカチンとぶつける。
「妖怪の仲間を根こそぎ退治しようとしたのね。でも、退治屋は、」
「人食い妖怪に惚れてしまった。そうでしょ」
「大当たり。良く分かったね」
「うん、それで二人で自決をした?」よくある話である。
「ハズレ。二人は駆け落ちをした」二つのグラスを、隣の席へ移動してしまう。
「駆け落ちは成功したの?」
「二人は人間からも妖怪からも追い詰められて、最後に恋が原動力の結界を張った」
「そんな結界、すぐ破れちゃうんじゃないの?」
「あら、詳しいわね。結界の研究でもしてるのかしら?」
「え? あはは、想像よ、そーぞー」
秘封倶楽部部長だし、境界を目視できる相棒がいるのだ。知識くらいはある。
恋で展開した結界は確かに強力だろうが、長続きはしない。
「でもその通りだった。妖怪も人間もそう予想して、二人が立てこもった結界を包囲し続けた」
「五分も持てば良い方じゃないのかしら?」
「残念。その結界は今も維持してる。今、この瞬間も」
「不可能よ。無理だわ。絶対に不可能」
「でも事実。さてこの二人が立てこもった場所はどこでしょうか」
「まさか――」
「そう。私達の足元。このビルのちょうど真下」
八雲が机を人差し指でとんと突いた。
私は下を見た。自分の足があるだけだった。
「だから私はここにビルを建てた。二人を弔う為に」
「……本屋さんにした謂れは?」
「それは趣味」
「あ、趣味なんだ」
「でもこれだけ本があったら、いくらでも待てるでしょ?」
「まあそうかも知れない」
八雲がグラスからまた水を一口飲んだ。
「私の友人の学者さんで、恋心の研究をしてる人がいるの」
「へえ、何て名前? 私、大抵の学者なら知ってる」
「多分知らないよ。まりさ、って言うんだけど」
「ごめん、知らなかった」
「うん。まりさに頼んで、この結界がいつまで続くか計算してもらった」
「分かった。それで結界が破けるのが、一週間後だ」
「そのとおり」八雲は満足げに頷き、後を続けた。
「ほら、結界暴きは違法でしょ? だから、待つしかないの。何百年も、何千年も」
そして、にやりと笑い――。
「何億年も。何十億年も。何百億年も――、」
「――それこそ、時間を戻してでも、早送りしてでも、待ち続けるのよ」
私は、八雲の瞳から目を背け、グラスの中で回る水を見ていた。
秘封倶楽部活動中にメリーの瞳を介して見た結界の中は、丁度それのようだった。
光を反射し、妖気や妖力や霊力がその中でぐるぐると回り流動している、そのさまである。
超自然的に発生した結界ならば、数十世紀以上にも渡って続くことも考えられよう。
民族伝承を根幹とした、数千人の畏れや思念が下地になっているものならば、だ。
しかしたった二人の恋心から展開された結界が、自らを守るために、自らの意志を貫くために。
ごくごくありふれた数人の感情が1300年も結界を維持させることなど、考えられる訳が無い。
この八雲の話が単なる昔話と時間つぶしではないと、私はもう気づいていた。
「…………寿命が何回あっても足りないね」となんとか皮肉を言うのが精一杯だった。
「そう思うでしょ? でも、それが待てる様になったらロマンだと思わない?」
「そりゃロマンだろうけど、あまりにも現実離れしすぎてる」
「あら、1300年維持し続けた恋の結界だって、非現実的じゃない?」
「それはそうかも知れないけれど…………、」
次の言葉が見つからなかった。
そこに存在することは観測できるのに、数億年も待ち続けるだなんて、切ない。
観測物理学を思い出していた。
人類は、ブランクエネルギーを超えた燃料を手にすることはできない。
目に見えているのに、手が届かないから、諦める。
そこに行くことは出来ないと分かってしまったから、諦める。
宇宙人だっているかもしれない。人類が孤独でないことを証明できるかもしれない。
マルチバースへ行くこともできるかもしれない。ワームホールだって存在するかもしれない。
だが不可能だから、諦める。
解釈と哲学で説明するしかない。
認めるしかないのだ。不可能を。
それはとても、とても切ない。
「あら、ごめんね。泣かせる気はなかったの」
八雲の眼を見ているのが辛くなってしまい、自分のコーヒーカップを見る事しかできなかった。
しかしもう声を上げてわんわんと無く歳でもない。
ぐっと目を閉じ、涙を振るい落とす。手ごろなちり紙を掴み、涙を拭き、鼻をかむ。
八雲は待っていてくれた。それが終わってから、私は彼女を睨み付けてやった。
「あなた何者? もしかして結界省の人? 私を逮捕しに来たの?」
「宇佐見さんは頭がいいね」八雲が蓮っ葉な感じで肩を竦めた。「だけど違うよ」
「どこまでホントの話? まず偽名でしょ? 肩書きも嘘でしょ?」
「あなたが一番知りたいことだけ答えてあげる」
「地下の結界の話はホント?」
「ホントよ」
「見てみたい」
「ダメよ」
「なんで」
「普通の人間が見たら有毒だから。知ってるでしょ?」
「防護結界を張れば大丈夫でしょ」
「そうね」
「私と、私の相棒の分も作ってよ」
「いやだ」
「じゃあ相棒の分だけ」
「どちらにせよいやだ」
「なんで」
「めんどい」
「ぐぬぬぬぬぬ、忍び込んでやる」
「地下にあるって言ったけれど、地下のどこにあるか知ってるの?」
「探せば見つかるし、私だって素人じゃないもん」
「素人じゃないなら、攻撃性のある結界がいかに危険か分かるでしょ?」
「うぎぎぎぎぎ」実際その通りだから仕方がない。「じゃあ、じゃあなんで、」
興奮と口の渇きに言葉がつっかえてしまった。
キャラメルマキアートで口内を潤す。
「じゃあなんで私に声をかけたの」
「最初に言ったじゃん」
「一人で来たのかって聞いたよね」
「違うよ。時間つぶしだって言った」
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬ」残念ながら、向こうの方が遥かに上手のようだ。
そこで八雲の携帯電話が鳴った。
もうレガシーシステムの、ずっと昔の型の、二つ折りのパカパカするやつだった。
「ごめんね、出るね」
「どうぞ」
携帯電話を展開し、耳に当てた。
「どうもゆかり、らくらくフォン使えるようになったんだね。進歩だわ」
「え? そこまでお年寄りじゃない? どうでしょうね。ちぇんに使い方聞いたんじゃあないの?」
「あはは。うん、森羅結界はちゃんと張ったよ。割れたらついにお目覚めだね」
「1300年前だからね。あのバカップルには一宿一飯の恩があるからね」
「あ、違った? 四五宿百八三飯六五間食の恩? ああ、あなたは人里に下りれなかったからね」
「懐かしいね。二人でぶっ倒れたからね。あれが無かったら餓死確実だったね」
「倒れた時点で、あなたは半分妖怪だったからね。焦ったねぇ」
「うんうん。まりさの計算結果が1300年って出た時は、絶対に間違いだと思った」
「でもあってたね。いやあ感慨深いったらないわ」
「目覚めたら向こうに連れて行くんだよね? 骨を埋める場所は決まってる?」
「え? 一等地? 羨ましいわあ。人里が見下ろせる丘の上なんて羨ましいわあ」
「さてあのバカップルを弔ったら、忙しくなるわよ」
「旦那さんの両親、友人、師匠、あの人たち全員が別々に立てこもったからね」
「あなたの友人だって、たくさん巻き込まれちゃったからね。みんな死んじゃったけどね」
「根本の唯心結界が割れれば、他の結界も一斉に弱まるだろうから」
「ええ、楽しみね。ウキウキするなぁ。やっと再会だね。骨は大事に運ばないとね」
「次飛ぶのはどこ? 50年後? 了解。R2パラレルね。その次はYパラレルの300年前か」
「312年前? え? 違う? ああそっちの年号か。西暦2013年の中旬ね。了解」
「2013年のYって、安倍さんと、リーマンショックから一段落ついたところだよね?」
「合ってる? ああ合ってた? それはよかった。じゃあ座学の方はOKだね」
「じゃあ10分後に飛ばしてちょうだい。あと、あっきゅんによろしくね」
「はい、はーい。じゃあR2でまた会いましょ。はーい、それじゃね」
八雲が携帯の通話を切る。
「聞いてた?」
「そりゃもうばっちり」
「さてどこまで信じる?」
「全部ウソに聞こえるし、全部ホントにも聞こえる」
「一緒に来る? 五秒上げるから答えを出しなさい」
「いや、やめとくよ」私は即答した。「相棒がいるし」
「ふうん。まあいずれにせよ未来は変わらないよ」
八雲は私の後方を見た。
そういえば私の後方には、窓と時計があった。
「さて、15分経ったから、行くね。良い時間つぶしだったわ」
「うん、楽しかった。ゆかりとちぇんにも、いずれ会いたいな」
「そうね、機会があったらね。多分近々会うことになると思うけど」
「もうホントに、どこまでがホントか分からない」
席から立ち、握手をした。
この手を握ったままにしたら一緒に飛べるのかしら? とちらりと考えた。
しかし、放した。ここがターニングポイントだろうな、と思った。
「それじゃあ、またいつか会いましょう。――蓮子ちゃん」
「うん、またいつか、ね。八雲蓮子」
散歩から帰ってくると、視線を下に向けてぼうっと座る蓮子がいた。
「戻ったわ。いやあここって入るたびに地形が変わるよね。毎回新鮮だわ」
「うん、――そうだね」
「? どうしたの蓮子」
「ん、んー、うん、うーん」
「おーい、応答せよ宇佐見蓮子」
「うーん、うん。んー? うん」
つい20分前とは全く別人の抜け殻のようになってしまった。
蓮子がこうなるのは、彼女のブラックボックスな頭脳がフル活動してる時である。
私は蓮子の向かい側に座り、そして隣の机に置いてある二つのグラスを見つけた。
「あれ? 蓮子水飲んだの?」
「んー?」
「水飲んだの?」
「んーん」
「どっちなのよ。まさか蓮子のダブルかしら?」
「ダブル? ああ、ダブル!? ああー、ダブルかもね。ダブルダブル」
「蓮子がぶっこわ蓮子……」
空の方のグラスに水を注ぎ、それに口を付けようとしたら、蓮子ががばりと顔を上げた。
「あ! そのグラスで飲んじゃダメ!」
「え? なんで?」
「妖怪だから。そっちのグラスは妖怪なのよ」
「意味わからん。じゃあもう片方は?」
「もう片方は、恋の結界師。1300年前。多分イケメン」
「意味わからん」
「でも行き倒れを助ける夫婦って言ったら、美男美女だよね?」
「まあそうかも知れない、――のかなぁ?」
仕方が無いので、山積みになっているところからグラスを持ってきて、そこから水を飲む。
グラスはよく磨かれていて照明を反射させ、きらきらと輝く。
「ねえ蓮子、ほらほら、これ見て。これ結界みたいじゃない?」
ここで蓮子はゆっくりと顔を上げて、グラスを見た。
「ね? ほら」と差し出すと、じっと凝視する。
「うん、――そうだね」と言って、なんとほろほろと泣き始めるではないか。
「ええー!? なに!? どうしたの!? この20分間に何があったの!?」
「なんでもない。ねえメリー、ぐすっ、場所を変えよう。メリーの家が良い」
「まあ、それは良いけれど。今すぐ移動する? 落ち着いてからでもいいよ?」
「いや、今すぐ、今すぐ移動しよう。ぐすっ、もうこのお店とは、おさらばだから……」
「え? オーナーなの? オーナーに会ったの? ナンパされたの?」
席を立ち、ぐずぐずと泣く蓮子の腕を引っ張り、歩く。
「ねえメリー」併設カフェから出るところで話しかけてくる。
「うん? どうしたの?」
「ずっと、一緒に居よう。これから、色々とあるかも知れないけど」
「うん、そんなぼろぼろ泣かれながら言っても、心配になるだけだわ」
「一緒に居ようね。二人で行き倒れたり、友人が結界に篭って死んでいったりしても、さ」
「え、なにそれこわい」
エスプレッソを一口。なんだこれ、超にげぇ。
そうして、蓮メリが歩いて店から出ていくのを見届けた。
やっぱり甘々の方が良いな、と思った。
この設定量をもっと伝わるようにするには三倍以上の文量が必要が気がする。
ところで、おっちゃん=秘封民→秘封信仰→結界維持でおk?え違う?
誤字
>下に来ているYシャツにも糊が効いている。
着ている