――妖怪だ!
――人間の敵め!
鳴り止まぬ罵詈雑言の嵐。無数に飛んでくる石。敵意に満ちた視線。私に向けられたそれらの悪意は、私の世界の闇そのものだった。
でもそんなことはどうでもいい。ただあの人が居てくれるだけで私はよかったのだ。それ以外はなにもいらないとさえ思った。あの人は私を照らす希望の光そのもの。
しかし、薄々気づいていた。この世に永遠なんてない。いつまでもあの人の隣に居られるわけがない、遅かれ早かれ別れの時やってが来る。
「まって……!」
周囲を取り巻く闇は生き物のようにうごめき、私の光を容赦なく奪い去ろうとする。
私は腕を伸ばした。ただひたすらに。その間にも闇は濃度を増していく。私は声を張り上げた。ただがむしゃらに。叫びは反響することなく、虚しくかき消される。
「待ってください聖!」
ついに私は闇に一人包み込まれた。私の思いはなに一つあの人に届かなかった。
「……さ」
かすかではあるが、遠くでだれかの声が聞こえたような気がする。どこか聞き覚えのあるような。
「村紗」
私の名前を呼んでいる。意識がだんだんと冴えわたってきた。ハッと我に返り、重いまぶたを開ける。視界がぼんやりとしていて、辺りを良く見ることができない。
まだ目が覚めきっていないのかと思ったが、どうやら違うらしい。涙で目が濡れてしまい、ぼやけてしまっているようだ。何回か瞬きをすると、徐々に視野が回復してきた。しっかりと目を閉じ、勢いよく目を開ける。
はっきりとした視界に映るのは、私の顔を心配そうに覗く友人の姿があった。
「……いちりん?」
私を呼ぶ声の主は、友人である雲居一輪だったみたいだ。
「大丈夫? なにかうなされていた様だったけれど」
「心配、しないでください。ちょっと悪い夢を、見ていただけです」
喉が乾いているのか、うまくしゃべることができない。喉がはりついてしまったような錯覚を覚える。舌も口にたびたびくっつき、非常に話しずらい。乾いた声がぽつりぽつりと口からもれる。
「今お水を汲んでくるわね」
一輪はすっと立ち上がると、外にある井戸まで水を汲みにいってくれた。
私は体を折り曲げて、布団に座る形で起き上がった。
つうっと、頬に一滴の涙が伝わる。目尻にまだ溜まっていたのだろう。ドクドクと心臓が高鳴っている。まだ、さっきの悪夢の余韻がさめやらない。
――今回で何回目だったろうか。
時々あのような夢を見てしまう。内容はいつも同じだ。私が信頼し慕った聖との間に起こった数百年前の出来事。別れた時の悲劇が走馬灯のように繰り返し蘇るのだ。
まるで呪われているかのように。いや、そんなことは無い。これはきっと、私の自身への戒めなのだ。自分の非力さを知ったあの日を忘れないように。
あたりを見回すと、いつもの風景が広がっている。特になにもない殺風景で薄暗い部屋。共に地底に封じられた一輪と共同で借りている場所だ。
ガラッ。
襖が開き、水を持ってきてくれた一輪が入ってくる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。一輪」
水を受け取ると、そのまま器を傾け全部飲みこむ。井戸の底でキンキンに冷えた水が、乾いた体に染み渡っていく。
ほう、と口から小さな吐息がこぼれる。
「どう? 気分は落ち着いた?」
「ええ、すみません」
いいのよと言って彼女は私のそばに手ぬぐいと、水の張った小さな桶を置いた。
そういえばうなされていた影響で汗をかいたのか、寝巻きがぐっしょりと濡れていた。肌に張り付いて気持ちが悪い。
「体を拭いたら朝食にしましょ。お腹空いたでしょ?」
一輪はそういってこの場所を後にした。出て行った襖から、なにやら、いい匂いが漂ってくる。
その匂いに釣られ、おなかがくうと鳴いた。
体の不快感を水で濡らした手ぬぐいで拭い去り、寝巻きを脱ぐと、私は持ち前の水兵服に身をを包んだ。通気性がよく、なにより動きやすいのが気に入っている。着替えを完璧に済ませると、隣の部屋へと足を運んだ。
「おはようございます」
挨拶は心のオアシス。まだ挨拶をしていないことに気づき、改めて言葉を交わす。
「おはよう村紗」
一輪は朝食の支度をしているらしく、台所から挨拶が返ってきた。
居間に目を向けてみると、そこには仏僧の格好をしたガタイのいい老人が座っていた。この老人は私たちの仲間であり、一輪のパートナーでもある雲山だ。いつもは雲のような姿をしているが、飲食の際は人の姿になるらしい。
現在は自分専用の湯のみで熱そうなお茶をすすっている。私と目が合うとペコッと頭を下げた。少々強面の顔つきだけど、今は目元が和らいでいる……気がする。
雲山は無口なのでちょっと怖い印象をあたえるが、実際は心の優しい人なのだ。
でも、一輪の話しでは決して怒らせてはいけないという。たしか目から光線を出すとか言っていたが、雲山が怒ったところを見たことがないので真意のほどは確かではない。
トントンと心地の良い包丁の音が台所から聞こえてきた。
「なにか手伝いましょうか?」
支度をしている一輪に声をかけるが、手際が良いので間もなく終わってしまうことだろう。
「大丈夫よ。座っててちょうだい」
案の定彼女は笑いながらそう答えた。お言葉に甘えて腰を下ろすことにする。なんでもテキパキこなす彼女のうしろ姿は、なんだかお母さんのようにも見えた。そうすると、威厳が漂う雲山はさしずめ一家の頑固親父といった感じか。いや、頑固おじいちゃん?
ならば、そういう私はなんなのだろうか。
「おまちどうさまー」
朝食が作り終わったようだ。食卓に次々と料理が運び込まれる。
きれいに光る白いご飯、湯気とともにおいしそうな匂いを放つお味噌汁。きゅうりと白菜の香の物。朝の食卓の匂いが鼻孔をくすぐり、食欲を促進させる。
質素ではあるが、私たちはこのような食事にありつけることに感謝しなければならない。封印された当時はこれからの事を考えるだけで必死だったのだから。
一輪の作る食事はどれもご馳走だから、別に質素なことは気にならないのだけれど。
「それじゃあ、いただきましょう」
やっと落ち着く事のできた一輪は、私のちょうど正面に腰かけた。正面の彼女が目を軽くつむり、パシッと合掌する。私と雲山もそれに続き合掌する。
「いただきます」
どんな時でも礼儀作法を忘れてはいけない。
挨拶がすむと私は早速お箸を手に取り、炊き立ての白米を頬張った。ほかほかのご飯の味が口いっぱいに広がる。
――気持ちのいい朝はおいしい食事から。
私はかつて聖が言っていた言葉を思い出した。まあ、地底に朝や夜は無いのだが。
私がきっと規則正しい生活を現在も送れているのはきっと一輪のおかげだ。彼女の食事や生活の管理の助けもあって、私はここしばらく体調を崩したことはない。単に体が丈夫なだけかもしれないが。
ご飯の次に白菜の香の物を口に運ぶ。新鮮な野菜のおかげか、それとも一輪の漬け方がうまいのか、とても上品な味がした。
何を隠そうこの野菜を育てたのは私だ。部屋の近くに土地を借りて耕し、そこに小さな畑を作った。雲山ほどではないが、力仕事には自信があるので鍬を振るう事は苦ではなかった。
地底で野菜が育つとは思わなかったが、意外に明るいし、雨も時々降ってくれたからなんとか野菜を栽培することができた。初収穫の時は一輪も喜んでくれたものだ。
雨が降る原理は良く分からなかったけど。何はともあれ、こんな風にみんなで食事ができるようになって良かった。
しかし、それと同時に不安になることもある。あの時守ることができなかった聖や、かつての仲間たちが脳裏に浮かぶ。
私はこんな所でのうのうと暮らしていて良いのだろうか。
「どうしたの村紗?」
「え?」
「なんか思いつめた表情してたけど」
気づかないうちに顔にでてしまっていたらしい。
「……ちょっと考え事を」
「悩み事? 相談だったら乗るよ?」
そう言って一輪は微笑んだ。
「そんなに、大したことではないので」
「心配いらないわよ。今までだってなんとかなったんだから」
心配要らない?
この数百年、聖救出の計画を立てては何度も挫折を味わってきたではないか。光の船さえ見つかっていないのに何を言っているんだ。
なんの根拠も無い、ただの希望論に過ぎない。
「きっと大丈夫よ姐さんのことだって――」
「なにが大丈夫なんですか!」
思わず声を荒げてしまう。思ったよりも大きな声で、自分でもびっくりした。
一輪は驚いた表情を浮かべ、私を凝視している。
数秒の沈黙が居間に流れる。
「……ごめんなさい。少し、外の空気を吸ってきます」
「あっ、ちょっと……!」
私はその場から逃げ出すように離れた。
外に出て扉を閉めるとき、立ち上がろうとする一輪の方に手を置き、制止している雲山の姿が一瞬だけ見えた。心の中でそっと感謝した。
今は少し、一人になりたい気分なのだ。
地底にも様々な場所がある。
地底のちょうど中央に位置する都市、みんなからは旧都という愛称で呼ばれている。食事どころや居酒屋、博打場や宿場など多くの店が軒を連ねる旧地獄街道。どちらも眠らない場所として知られている。
こういった場所はあまり好きではない。なにより騒がしいし、いままで聖のルールに従ってきた私からすると、あそこはなにかだらしないという印象を与えるのだ。
毎日のように馬鹿騒ぎをして、呑んだ暮れている連中を見ていると、少し嫌悪感を感じざるをえない。ただうらやましいだけかもしれないが。
だから、私はこういった郊外の方がどちらかというと好きだ。
そんなことを考えていると目的の場所に到着したようだ。地底に流れている川にぽつんと架かっている小さな橋。私のお気に入りの場所だ。
人通りが少なく、静かで落ち着く。考え事をするときに丁度いい。特に嫌なことがあった今日は最適な場所だといえるだろう。
橋の手すりの部分に体を預け、水面を覗く。私らしくも無い、なんだか暗い顔をしている。
足元にあった小石を蹴り飛ばしてみた。ポチャン、と音を立てて川底に沈んでいく。小石によって波が起き、揺れる水面に映る私の顔は、しわしわになってなんだか泣いているように見えた。
――なんで怒鳴ってしまったの?
正確にはわからない。私には彼女の言葉が無責任に聞こえ、それが許せなかったのだと思う。
人事のように答えた一輪の一言に、私の感情は嵐の海原みたいに荒れ狂ってしまった。
けれど、一輪に悪気があったわけではない事を私は十分理解している。私を元気付けるために発した何気ない言葉だったはずだ。
――これからどうする?
飛び出してしまった手前、あの部屋には帰りづらい。
彼女は私を許してくれるだろうか。彼女もきっと怒っているはずだ。もしかしたら、許してくれないかもしれない。
突然に、水面に映る私の顔に波紋が広がる。
雨? ふと私は頭上を見上げた。しかし雨の気配はまるで無い。ならばこの頬を伝う水はいったい何だろう。
……そうか、これは涙だ。理性という防波堤は、不安の波によって決壊してしまった。体に力が入らなくなり、その場にへたりこんでしまう。次々に涙がこぼれてくる。
唇にまで到達した滴を舌でぬぐう。そのしょっぱさから、かつて私が居た海の情景が目に浮かんだ。
暗い暗い海の底。辺りを包み込む静寂。誰もいない、私だけの世界。気が遠くなるような長い孤独な時間、もう一人ぼっちはいやだ。
涙は止まることを知らない。
「きっと大丈夫よ」
瞬間、一輪の言葉が脳裏をよぎる。そうだ、それが彼女の口癖だった。そう言って屈託の無い笑顔を浮かべる彼女に何度励まされ、救われたのか。なんてひどい事を言ってしまったのだろう。何時どんな時でも私の支えになってくれたのは彼女だったはずなのに。
――なら、謝りに行かなくちゃ。
その通りだ。ここでじっとしていても何もはじまらない。繰り返す自問自答のなんて無意味なことか。
こんなところを聖にみられてしまったら、
「誠に浅く、意志薄弱であるッ!」
と叱られてしまう。
涙を手で拭い去り、埃を払った。迷いや不安は川にでも流して捨ててしまえ。私は勢い良く立ち上がり、一つの決心を胸に秘め、ある場所へと駆け出す。
息も絶え絶え、私たちの部屋の前に辿り着いた。ちょっと寄り道もしていたし、部屋を出てからかなり時間が経っている。
走ってきたからか、緊張しているためかは定かでないが、心臓が飛び出しそうなほど脈を打っている。なに、そんなに気にすることはない。ただ帰宅するだけではないか、そう自分に言い聞かす。思いっきり深呼吸をして、扉に手をかける。
心を決め、今までで一番重い扉を開けた。
「た、ただいま」
部屋の中に一輪は……いた。こちらを確認するなり、まるで時が止まってしまったように動かなくなってしまった。
すると、彼女は弾かれた様に立ち上がり、口を開く。
「えと、むらさ、あの」
「ごめんなさい!]
「……え?」
口ごもる彼女を余所に、私は自分の気持ちをぶつける。
「あなたの気遣いに私は甘え、頼っているばかりでした。挙句の果て今朝はあんなことを言ってしまった。本当に申し訳ない」
「そんなことないわ。私も軽薄な一言で村紗を傷つけてしまった」
私はすぐにかぶりを振った。
「これっ!」
彼女の目の前に、先ほど用意してきた物を差し出す。
息を呑む音が聞こえた。彼女手を合わせ口元に持っていき、驚きの表情を浮かべた。
「これは……?」
私が差し出したのは、一本の白菜の花だった。黄色い菜の花のような花だ。ここに来る途中で畑に寄って摘んできたのだ。
我らながらセンスの無い贈り物だと思う。
「私からのお詫びの気持ちです。もっと気の利いた物を用意したかったけど、こんなものしかなくて」
「ううん。とってもきれいよ」
一輪は花が咲いたように笑ってくれた。心なしか目が潤んでいる気がする。
「そして、これからもどうかよろしくお願いします。私にはやっぱりあなたが必要みたいです」
彼女はこくりと頷き、白菜の花を受け取る。
「ねえ村紗、白菜の花言葉ってしってる?」
唐突の質問にキョトンとし、いいえと答える。
「花言葉はね、『固い約束』っていうの。私あなたに約束するわ。絶対あなたと一緒に、姐さんたちを助け出すって」
そう言って彼女はもう一度笑った。その一言に意表をつかれ、徐々に感情が高ぶってくる。
「いちりん!!」
「きゃっ!」
一輪が悲鳴をあげる。私は感極まり一輪に抱きついた。苦しいのだろうか。みるみるうちに彼女の顔が赤くなっていくが、一切気にしない。
私はこの時これから泣くことを我慢しようと己に誓った。涙は、いつか一輪との『約束』を果たすその日まで、とっておくことにするのだ。
――人間の敵め!
鳴り止まぬ罵詈雑言の嵐。無数に飛んでくる石。敵意に満ちた視線。私に向けられたそれらの悪意は、私の世界の闇そのものだった。
でもそんなことはどうでもいい。ただあの人が居てくれるだけで私はよかったのだ。それ以外はなにもいらないとさえ思った。あの人は私を照らす希望の光そのもの。
しかし、薄々気づいていた。この世に永遠なんてない。いつまでもあの人の隣に居られるわけがない、遅かれ早かれ別れの時やってが来る。
「まって……!」
周囲を取り巻く闇は生き物のようにうごめき、私の光を容赦なく奪い去ろうとする。
私は腕を伸ばした。ただひたすらに。その間にも闇は濃度を増していく。私は声を張り上げた。ただがむしゃらに。叫びは反響することなく、虚しくかき消される。
「待ってください聖!」
ついに私は闇に一人包み込まれた。私の思いはなに一つあの人に届かなかった。
「……さ」
かすかではあるが、遠くでだれかの声が聞こえたような気がする。どこか聞き覚えのあるような。
「村紗」
私の名前を呼んでいる。意識がだんだんと冴えわたってきた。ハッと我に返り、重いまぶたを開ける。視界がぼんやりとしていて、辺りを良く見ることができない。
まだ目が覚めきっていないのかと思ったが、どうやら違うらしい。涙で目が濡れてしまい、ぼやけてしまっているようだ。何回か瞬きをすると、徐々に視野が回復してきた。しっかりと目を閉じ、勢いよく目を開ける。
はっきりとした視界に映るのは、私の顔を心配そうに覗く友人の姿があった。
「……いちりん?」
私を呼ぶ声の主は、友人である雲居一輪だったみたいだ。
「大丈夫? なにかうなされていた様だったけれど」
「心配、しないでください。ちょっと悪い夢を、見ていただけです」
喉が乾いているのか、うまくしゃべることができない。喉がはりついてしまったような錯覚を覚える。舌も口にたびたびくっつき、非常に話しずらい。乾いた声がぽつりぽつりと口からもれる。
「今お水を汲んでくるわね」
一輪はすっと立ち上がると、外にある井戸まで水を汲みにいってくれた。
私は体を折り曲げて、布団に座る形で起き上がった。
つうっと、頬に一滴の涙が伝わる。目尻にまだ溜まっていたのだろう。ドクドクと心臓が高鳴っている。まだ、さっきの悪夢の余韻がさめやらない。
――今回で何回目だったろうか。
時々あのような夢を見てしまう。内容はいつも同じだ。私が信頼し慕った聖との間に起こった数百年前の出来事。別れた時の悲劇が走馬灯のように繰り返し蘇るのだ。
まるで呪われているかのように。いや、そんなことは無い。これはきっと、私の自身への戒めなのだ。自分の非力さを知ったあの日を忘れないように。
あたりを見回すと、いつもの風景が広がっている。特になにもない殺風景で薄暗い部屋。共に地底に封じられた一輪と共同で借りている場所だ。
ガラッ。
襖が開き、水を持ってきてくれた一輪が入ってくる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。一輪」
水を受け取ると、そのまま器を傾け全部飲みこむ。井戸の底でキンキンに冷えた水が、乾いた体に染み渡っていく。
ほう、と口から小さな吐息がこぼれる。
「どう? 気分は落ち着いた?」
「ええ、すみません」
いいのよと言って彼女は私のそばに手ぬぐいと、水の張った小さな桶を置いた。
そういえばうなされていた影響で汗をかいたのか、寝巻きがぐっしょりと濡れていた。肌に張り付いて気持ちが悪い。
「体を拭いたら朝食にしましょ。お腹空いたでしょ?」
一輪はそういってこの場所を後にした。出て行った襖から、なにやら、いい匂いが漂ってくる。
その匂いに釣られ、おなかがくうと鳴いた。
体の不快感を水で濡らした手ぬぐいで拭い去り、寝巻きを脱ぐと、私は持ち前の水兵服に身をを包んだ。通気性がよく、なにより動きやすいのが気に入っている。着替えを完璧に済ませると、隣の部屋へと足を運んだ。
「おはようございます」
挨拶は心のオアシス。まだ挨拶をしていないことに気づき、改めて言葉を交わす。
「おはよう村紗」
一輪は朝食の支度をしているらしく、台所から挨拶が返ってきた。
居間に目を向けてみると、そこには仏僧の格好をしたガタイのいい老人が座っていた。この老人は私たちの仲間であり、一輪のパートナーでもある雲山だ。いつもは雲のような姿をしているが、飲食の際は人の姿になるらしい。
現在は自分専用の湯のみで熱そうなお茶をすすっている。私と目が合うとペコッと頭を下げた。少々強面の顔つきだけど、今は目元が和らいでいる……気がする。
雲山は無口なのでちょっと怖い印象をあたえるが、実際は心の優しい人なのだ。
でも、一輪の話しでは決して怒らせてはいけないという。たしか目から光線を出すとか言っていたが、雲山が怒ったところを見たことがないので真意のほどは確かではない。
トントンと心地の良い包丁の音が台所から聞こえてきた。
「なにか手伝いましょうか?」
支度をしている一輪に声をかけるが、手際が良いので間もなく終わってしまうことだろう。
「大丈夫よ。座っててちょうだい」
案の定彼女は笑いながらそう答えた。お言葉に甘えて腰を下ろすことにする。なんでもテキパキこなす彼女のうしろ姿は、なんだかお母さんのようにも見えた。そうすると、威厳が漂う雲山はさしずめ一家の頑固親父といった感じか。いや、頑固おじいちゃん?
ならば、そういう私はなんなのだろうか。
「おまちどうさまー」
朝食が作り終わったようだ。食卓に次々と料理が運び込まれる。
きれいに光る白いご飯、湯気とともにおいしそうな匂いを放つお味噌汁。きゅうりと白菜の香の物。朝の食卓の匂いが鼻孔をくすぐり、食欲を促進させる。
質素ではあるが、私たちはこのような食事にありつけることに感謝しなければならない。封印された当時はこれからの事を考えるだけで必死だったのだから。
一輪の作る食事はどれもご馳走だから、別に質素なことは気にならないのだけれど。
「それじゃあ、いただきましょう」
やっと落ち着く事のできた一輪は、私のちょうど正面に腰かけた。正面の彼女が目を軽くつむり、パシッと合掌する。私と雲山もそれに続き合掌する。
「いただきます」
どんな時でも礼儀作法を忘れてはいけない。
挨拶がすむと私は早速お箸を手に取り、炊き立ての白米を頬張った。ほかほかのご飯の味が口いっぱいに広がる。
――気持ちのいい朝はおいしい食事から。
私はかつて聖が言っていた言葉を思い出した。まあ、地底に朝や夜は無いのだが。
私がきっと規則正しい生活を現在も送れているのはきっと一輪のおかげだ。彼女の食事や生活の管理の助けもあって、私はここしばらく体調を崩したことはない。単に体が丈夫なだけかもしれないが。
ご飯の次に白菜の香の物を口に運ぶ。新鮮な野菜のおかげか、それとも一輪の漬け方がうまいのか、とても上品な味がした。
何を隠そうこの野菜を育てたのは私だ。部屋の近くに土地を借りて耕し、そこに小さな畑を作った。雲山ほどではないが、力仕事には自信があるので鍬を振るう事は苦ではなかった。
地底で野菜が育つとは思わなかったが、意外に明るいし、雨も時々降ってくれたからなんとか野菜を栽培することができた。初収穫の時は一輪も喜んでくれたものだ。
雨が降る原理は良く分からなかったけど。何はともあれ、こんな風にみんなで食事ができるようになって良かった。
しかし、それと同時に不安になることもある。あの時守ることができなかった聖や、かつての仲間たちが脳裏に浮かぶ。
私はこんな所でのうのうと暮らしていて良いのだろうか。
「どうしたの村紗?」
「え?」
「なんか思いつめた表情してたけど」
気づかないうちに顔にでてしまっていたらしい。
「……ちょっと考え事を」
「悩み事? 相談だったら乗るよ?」
そう言って一輪は微笑んだ。
「そんなに、大したことではないので」
「心配いらないわよ。今までだってなんとかなったんだから」
心配要らない?
この数百年、聖救出の計画を立てては何度も挫折を味わってきたではないか。光の船さえ見つかっていないのに何を言っているんだ。
なんの根拠も無い、ただの希望論に過ぎない。
「きっと大丈夫よ姐さんのことだって――」
「なにが大丈夫なんですか!」
思わず声を荒げてしまう。思ったよりも大きな声で、自分でもびっくりした。
一輪は驚いた表情を浮かべ、私を凝視している。
数秒の沈黙が居間に流れる。
「……ごめんなさい。少し、外の空気を吸ってきます」
「あっ、ちょっと……!」
私はその場から逃げ出すように離れた。
外に出て扉を閉めるとき、立ち上がろうとする一輪の方に手を置き、制止している雲山の姿が一瞬だけ見えた。心の中でそっと感謝した。
今は少し、一人になりたい気分なのだ。
地底にも様々な場所がある。
地底のちょうど中央に位置する都市、みんなからは旧都という愛称で呼ばれている。食事どころや居酒屋、博打場や宿場など多くの店が軒を連ねる旧地獄街道。どちらも眠らない場所として知られている。
こういった場所はあまり好きではない。なにより騒がしいし、いままで聖のルールに従ってきた私からすると、あそこはなにかだらしないという印象を与えるのだ。
毎日のように馬鹿騒ぎをして、呑んだ暮れている連中を見ていると、少し嫌悪感を感じざるをえない。ただうらやましいだけかもしれないが。
だから、私はこういった郊外の方がどちらかというと好きだ。
そんなことを考えていると目的の場所に到着したようだ。地底に流れている川にぽつんと架かっている小さな橋。私のお気に入りの場所だ。
人通りが少なく、静かで落ち着く。考え事をするときに丁度いい。特に嫌なことがあった今日は最適な場所だといえるだろう。
橋の手すりの部分に体を預け、水面を覗く。私らしくも無い、なんだか暗い顔をしている。
足元にあった小石を蹴り飛ばしてみた。ポチャン、と音を立てて川底に沈んでいく。小石によって波が起き、揺れる水面に映る私の顔は、しわしわになってなんだか泣いているように見えた。
――なんで怒鳴ってしまったの?
正確にはわからない。私には彼女の言葉が無責任に聞こえ、それが許せなかったのだと思う。
人事のように答えた一輪の一言に、私の感情は嵐の海原みたいに荒れ狂ってしまった。
けれど、一輪に悪気があったわけではない事を私は十分理解している。私を元気付けるために発した何気ない言葉だったはずだ。
――これからどうする?
飛び出してしまった手前、あの部屋には帰りづらい。
彼女は私を許してくれるだろうか。彼女もきっと怒っているはずだ。もしかしたら、許してくれないかもしれない。
突然に、水面に映る私の顔に波紋が広がる。
雨? ふと私は頭上を見上げた。しかし雨の気配はまるで無い。ならばこの頬を伝う水はいったい何だろう。
……そうか、これは涙だ。理性という防波堤は、不安の波によって決壊してしまった。体に力が入らなくなり、その場にへたりこんでしまう。次々に涙がこぼれてくる。
唇にまで到達した滴を舌でぬぐう。そのしょっぱさから、かつて私が居た海の情景が目に浮かんだ。
暗い暗い海の底。辺りを包み込む静寂。誰もいない、私だけの世界。気が遠くなるような長い孤独な時間、もう一人ぼっちはいやだ。
涙は止まることを知らない。
「きっと大丈夫よ」
瞬間、一輪の言葉が脳裏をよぎる。そうだ、それが彼女の口癖だった。そう言って屈託の無い笑顔を浮かべる彼女に何度励まされ、救われたのか。なんてひどい事を言ってしまったのだろう。何時どんな時でも私の支えになってくれたのは彼女だったはずなのに。
――なら、謝りに行かなくちゃ。
その通りだ。ここでじっとしていても何もはじまらない。繰り返す自問自答のなんて無意味なことか。
こんなところを聖にみられてしまったら、
「誠に浅く、意志薄弱であるッ!」
と叱られてしまう。
涙を手で拭い去り、埃を払った。迷いや不安は川にでも流して捨ててしまえ。私は勢い良く立ち上がり、一つの決心を胸に秘め、ある場所へと駆け出す。
息も絶え絶え、私たちの部屋の前に辿り着いた。ちょっと寄り道もしていたし、部屋を出てからかなり時間が経っている。
走ってきたからか、緊張しているためかは定かでないが、心臓が飛び出しそうなほど脈を打っている。なに、そんなに気にすることはない。ただ帰宅するだけではないか、そう自分に言い聞かす。思いっきり深呼吸をして、扉に手をかける。
心を決め、今までで一番重い扉を開けた。
「た、ただいま」
部屋の中に一輪は……いた。こちらを確認するなり、まるで時が止まってしまったように動かなくなってしまった。
すると、彼女は弾かれた様に立ち上がり、口を開く。
「えと、むらさ、あの」
「ごめんなさい!]
「……え?」
口ごもる彼女を余所に、私は自分の気持ちをぶつける。
「あなたの気遣いに私は甘え、頼っているばかりでした。挙句の果て今朝はあんなことを言ってしまった。本当に申し訳ない」
「そんなことないわ。私も軽薄な一言で村紗を傷つけてしまった」
私はすぐにかぶりを振った。
「これっ!」
彼女の目の前に、先ほど用意してきた物を差し出す。
息を呑む音が聞こえた。彼女手を合わせ口元に持っていき、驚きの表情を浮かべた。
「これは……?」
私が差し出したのは、一本の白菜の花だった。黄色い菜の花のような花だ。ここに来る途中で畑に寄って摘んできたのだ。
我らながらセンスの無い贈り物だと思う。
「私からのお詫びの気持ちです。もっと気の利いた物を用意したかったけど、こんなものしかなくて」
「ううん。とってもきれいよ」
一輪は花が咲いたように笑ってくれた。心なしか目が潤んでいる気がする。
「そして、これからもどうかよろしくお願いします。私にはやっぱりあなたが必要みたいです」
彼女はこくりと頷き、白菜の花を受け取る。
「ねえ村紗、白菜の花言葉ってしってる?」
唐突の質問にキョトンとし、いいえと答える。
「花言葉はね、『固い約束』っていうの。私あなたに約束するわ。絶対あなたと一緒に、姐さんたちを助け出すって」
そう言って彼女はもう一度笑った。その一言に意表をつかれ、徐々に感情が高ぶってくる。
「いちりん!!」
「きゃっ!」
一輪が悲鳴をあげる。私は感極まり一輪に抱きついた。苦しいのだろうか。みるみるうちに彼女の顔が赤くなっていくが、一切気にしない。
私はこの時これから泣くことを我慢しようと己に誓った。涙は、いつか一輪との『約束』を果たすその日まで、とっておくことにするのだ。
是非長いものも読んでみたくなりました
次回作も楽しみにしています
以外に×
意外にだと思います。
とても好きな雰囲気の作品でした。
頑張ってください!
起承転結もきちんとしていて、気持ちよく読むことができます