その果実を拾うためにゆっくりと膝を曲げると、その実際が見えた。橙のうちにやんわりと青い部分を残した果実は、落果したというには若く、持ってみると、しっかりとした手応えがある。落ちた面が崩れてないぶん、蓋し、落ちて間もない実であろう。尻すぼみな萼は褄黒く、しっかりしており、若くして地についてしまったことが悔やまれる。果梗は固く、荒く切れていた。鼻腔をくすぐる甘い香りにも僅かに青臭さがある。ひょい、と袖に実を入れると、かすかに指先から香った。膝に力を入れて立ち上がると、甘気が降りて来ていた。この実の親である木は、じっくりと佇立していた。彼の仲間が枝先に詰まっている。彼と同じ青年から、まだ真っ青の幼年も、或いは、すっかり橙に染みを持った老年まで、様々である。しかし、そのいずれも、いくつかの塊としてひとつの果梗に集まり、ひとつの枝に集まり、ひとつの木に集まっている。じっくりと甘い香りもあれば、まだ香りを発さぬ幼弱なものもいる。葉が青々と照らされ、果実を包んでいる。
しばらく、彼女は荒く途切れた果梗を見付けた。そこだけ実は無かった。愁然とした切り口は、恐らく、彼が望んだのではなく、誰れかがそうしたのだと容易に考え得た。しかし、それが誰れであろうと、木は彼を咎めることはせず、そこに佇んでいる。その身を離れようが、実は身に育まれた結晶であることに変わりはなく、その身そのものである。彼女は彼の身に手を当てた。強くごわついた彼の身は、ひとつの実を作るのに如何ほどの時間を使ったか。世俗では早くて十三年というが、ただの時の流れではなく、十三年育て続けなければならない、彼の性である。彼の根はここに数十年、或いは更に長く水を吸い続け、成長していることであろう。彼の中の幽遠な記憶を、彼女は逐一思い遣った。耳朶を掠める葉のさざめきは、彼女を霞へ誘うようであった。
数刻の後、彼女は木を離れた。残り香の残煙が彼女の後を追いかけ、鼻の頭に触れていたが、気付けばそれもなくなり、僅かな袖の重みとなっていた。
日没の頃、彼女は山門をくぐった。山門も本殿も、寺とは名ばかりの、朽ちた廃寺であった。戸はようやっとで閉まるほどで、日が暮れれば足下すらおぼつかず、寒暖の恣に床を軋ませ、眼を瞑ろうがうずくまろうが、どうも変わりのない襤褸であった。かつては戸も閉まらず、吹き曝しで過ごしていたことを考えると、彼女の労が見え隠れする。
堂の真ん中に腰を下ろすと、幽かに板間が軋み、戸の隙間からは斜陽が入り込んでいた。陽は本堂奧の三つの像に輝きを与えている。それぞれはひどく痛み、欠け、風雨で削られていたが、彼女は彼らに深く頭を下げた。凝と頭を下げ、陽も頭を残すだけとなった頃、彼女は頭を上げ、袖から一粒の果実を取り出し、目の前に置いた。粒は僅かな朱の光を受けながら、長く影を伸ばしている。彼女はやおら瞼を閉じ、自ずから晦冥に潜り込んだ。
もはや目を開けているのか閉じているのか判然としない暗やみの中、幽かな音が鳴っていた。釘で木を削るような、定まった感覚で削り、少し止み、また始まり、という定調の振動があった。音はがらんとした廃寺の隅々にまで響いていた。音の正体が鼠であることは明白であった。鼠が彼の実を囓っている音である。彼女の膝には小さな跫音が響いている。あの若々しい、落ちるに早熟であった実は、手のひらほどの小さな動物に食まれている。実は割れ、拾った時より甘い香りが広がった。明け方、彼女の目が見える頃にはすっかり無くなっているに違いない。彼女が手で払えば鼠らが逃げるのは必至であろう。彼女は実の行方を、その小さい者達の思うがままとした。月も出ず、僅かな風もなく、静かな夜であった。
何匹の鼠がいるかなど、彼女に分かるはずもなかった。おおかた、数匹単位で行動しているのだろうし、唯だの一匹として行動している鼠を見たことは無かった。実がそうであったように、鼠もまた、そうである。始めにどの鼠がこの実を見付けたか、或いは彼女がここに置いたときから狙っていたかなどは邪推に過ぎない。取り立て寛恕の念を示すこともなく、彼女はその成り行きを感じていた。
やがて、音が変わった。彼らは種に行き着いたのだろう。であるとすれば、この早熟な種子が親となることはない。畢竟、そうなる定めであった。而して、彼女はただそこに打ち座るのみであって、手を出しはしなかった。木が十数年かけて成らせた実は、小さき者の数日の糧となる。
彼女は目をうっすら開いた。まだ何かが見える明るさではない。己の手すら、そこにあると認められることが憚られるほどの暗黒であった。しかし、目の前には、彼女の見えぬ先には鼠と、種がある。数個の跫音が絶え間なく歩き回っている。膝で聞こえる音がそれを証としていた。その視線の更に先、三つの像のより深く、目では見えなくとも、そこにあると感じられるものがあった。
突として、彼女は得も言われぬ恐懼に駆られた。眼前の闇が、彼女に襲い来ていた。己は一切の衆生であったはずであったが、その奇胎は彼女のあずかり知らぬうちに膨張し、侵襲していた。己の腹の内の苛烈なる忌みは、彼女の感覚を奪っていた。闇が蠢き、鼻は空を切り、耳朶は焼かれ、手足は雨風に晒されていた。もはや鼠の跫音など感ぜられず、実の香りでさえ彼女の身を切る一因となった。
禍因はひとつの墓標であった。極めて簡素な墓標が、廃寺の裏にあった。彼女は見えぬその存在感に晒され続けるうち、腹に畏懼を溜め込み、それは、彼女の目の前に降り立っていた。
――朝、彼女は種が割れているのを見た。
しばらく、彼女は荒く途切れた果梗を見付けた。そこだけ実は無かった。愁然とした切り口は、恐らく、彼が望んだのではなく、誰れかがそうしたのだと容易に考え得た。しかし、それが誰れであろうと、木は彼を咎めることはせず、そこに佇んでいる。その身を離れようが、実は身に育まれた結晶であることに変わりはなく、その身そのものである。彼女は彼の身に手を当てた。強くごわついた彼の身は、ひとつの実を作るのに如何ほどの時間を使ったか。世俗では早くて十三年というが、ただの時の流れではなく、十三年育て続けなければならない、彼の性である。彼の根はここに数十年、或いは更に長く水を吸い続け、成長していることであろう。彼の中の幽遠な記憶を、彼女は逐一思い遣った。耳朶を掠める葉のさざめきは、彼女を霞へ誘うようであった。
数刻の後、彼女は木を離れた。残り香の残煙が彼女の後を追いかけ、鼻の頭に触れていたが、気付けばそれもなくなり、僅かな袖の重みとなっていた。
日没の頃、彼女は山門をくぐった。山門も本殿も、寺とは名ばかりの、朽ちた廃寺であった。戸はようやっとで閉まるほどで、日が暮れれば足下すらおぼつかず、寒暖の恣に床を軋ませ、眼を瞑ろうがうずくまろうが、どうも変わりのない襤褸であった。かつては戸も閉まらず、吹き曝しで過ごしていたことを考えると、彼女の労が見え隠れする。
堂の真ん中に腰を下ろすと、幽かに板間が軋み、戸の隙間からは斜陽が入り込んでいた。陽は本堂奧の三つの像に輝きを与えている。それぞれはひどく痛み、欠け、風雨で削られていたが、彼女は彼らに深く頭を下げた。凝と頭を下げ、陽も頭を残すだけとなった頃、彼女は頭を上げ、袖から一粒の果実を取り出し、目の前に置いた。粒は僅かな朱の光を受けながら、長く影を伸ばしている。彼女はやおら瞼を閉じ、自ずから晦冥に潜り込んだ。
もはや目を開けているのか閉じているのか判然としない暗やみの中、幽かな音が鳴っていた。釘で木を削るような、定まった感覚で削り、少し止み、また始まり、という定調の振動があった。音はがらんとした廃寺の隅々にまで響いていた。音の正体が鼠であることは明白であった。鼠が彼の実を囓っている音である。彼女の膝には小さな跫音が響いている。あの若々しい、落ちるに早熟であった実は、手のひらほどの小さな動物に食まれている。実は割れ、拾った時より甘い香りが広がった。明け方、彼女の目が見える頃にはすっかり無くなっているに違いない。彼女が手で払えば鼠らが逃げるのは必至であろう。彼女は実の行方を、その小さい者達の思うがままとした。月も出ず、僅かな風もなく、静かな夜であった。
何匹の鼠がいるかなど、彼女に分かるはずもなかった。おおかた、数匹単位で行動しているのだろうし、唯だの一匹として行動している鼠を見たことは無かった。実がそうであったように、鼠もまた、そうである。始めにどの鼠がこの実を見付けたか、或いは彼女がここに置いたときから狙っていたかなどは邪推に過ぎない。取り立て寛恕の念を示すこともなく、彼女はその成り行きを感じていた。
やがて、音が変わった。彼らは種に行き着いたのだろう。であるとすれば、この早熟な種子が親となることはない。畢竟、そうなる定めであった。而して、彼女はただそこに打ち座るのみであって、手を出しはしなかった。木が十数年かけて成らせた実は、小さき者の数日の糧となる。
彼女は目をうっすら開いた。まだ何かが見える明るさではない。己の手すら、そこにあると認められることが憚られるほどの暗黒であった。しかし、目の前には、彼女の見えぬ先には鼠と、種がある。数個の跫音が絶え間なく歩き回っている。膝で聞こえる音がそれを証としていた。その視線の更に先、三つの像のより深く、目では見えなくとも、そこにあると感じられるものがあった。
突として、彼女は得も言われぬ恐懼に駆られた。眼前の闇が、彼女に襲い来ていた。己は一切の衆生であったはずであったが、その奇胎は彼女のあずかり知らぬうちに膨張し、侵襲していた。己の腹の内の苛烈なる忌みは、彼女の感覚を奪っていた。闇が蠢き、鼻は空を切り、耳朶は焼かれ、手足は雨風に晒されていた。もはや鼠の跫音など感ぜられず、実の香りでさえ彼女の身を切る一因となった。
禍因はひとつの墓標であった。極めて簡素な墓標が、廃寺の裏にあった。彼女は見えぬその存在感に晒され続けるうち、腹に畏懼を溜め込み、それは、彼女の目の前に降り立っていた。
――朝、彼女は種が割れているのを見た。
ストーリーが欲しい
よく言えば「東方以外の土俵でも通用しそうな強度」、
悪く言えば「どこが東方の二次創作?」
みたいな感じでした。
文章自体は(ちょっと読みにくいですが)好きです。
正直に言うとあまり意味もわかりませんでした。雰囲気は伝わりましたが。