「――以上。一二八期第1四半期の毘沙門天代理 ”寅丸星” の業務報告です。何かご質問等、ございますでしょうか」
板張りの床に跪いたまま正面の巨体を見上げる。二メートルを越えるほどの巨体が厳つく、そしてどこか神経質な眼を私に向けていた。
「……ご苦労だった。当初の意志を違えず、毘沙門天の代理として恥じぬ振る舞いをしている様だな」
「勿体無いお言葉で御座います。 ”毘沙門天様” 。星にもそのように伝えて――」
「――だが、その真面目な働きとは対照的な程に里からの信仰心は増えていないように見えるが」
次の言葉が出ない。キリキリ、キリキリと胃が軋む音がする。ツンとした酸っぱい香りが口の中に溜まっていく感覚がする。逃げ出したくなる体を押さえつける為に自然と手が胸に伸びていた。
「幾ら真面目な働きをしようとも結果がついて来なければ全く意味が無い。先ほど見た資料によれば、信仰の総量は前年度と比べて一分(1%)も増えておらぬ。これについてはどう弁明するつもりか。考えていなかったとは言わせぬぞ」
あんなノルマがクリアできる訳がない。そんな事実を言えるはずもなくて、私は静かに項垂れることしかできなかった。力強い毘沙門天様の視線が私の全身を押しつぶす。このお方に対して沈黙は金ではない。なんでも良いから言葉を出さなければならない、そして論理的な答えを返さないといけない。必死で頭を回して、ようやく搾り出した言葉は何とも月並みで弱々しいものだった。
「私の答えは変わりません。星は日々熱心に信者に教えを説いておられます。星の働きに不足も無ければ落ち度もありません。ただ……、その……、新たな信者を獲得するにあたり、少し競合する者がおりまして……」
「噂には聞いておるぞ。 ”聖人” の復活だな」
「はい……」
続く叱りの言葉を予想して私はただ頭を垂れる。自分の言ったことが単なる言い訳であることは理解している。積極的な勧誘を星に促さなかった自分に非があることも分かっている。
「彼の者の復活は予期されていたはず。どうして阻めなかった?」
「それは……、その……。申し訳ありません。全ては私の力不足です。聖と星にもっと積極的な調査をさせなかった私に全ての責任はあります」
「そんなことは分かっている。ナズ、お前の未熟は ”よく承知” している。私が問うのはお前がこの次に何を行うかだ」
「……申し訳ありません。星と共に里を回り、より一層の信仰獲得に努めますのでどうかご容赦を」
ばくりばくりと心臓が飛び跳ね始める。そんなことで解決する問題じゃないのは自分が一番良く分かっている。そんな気持ちが伝わったのだろう。毘沙門天様は眉間の皺をより一層深くして私を睨みつけた。
「忘れるな、ナズーリン。得られるはずの信仰を取り逃すことは損失と何ら変わりない。そして、損失は埋めなければならぬ。お前は私に ”何度” 同じ事を言わせるつもりだ」
「帰すお言葉も御座いません。どうか私に罰を……」
「……今日はこれ以上の追及はしない。しかし、同じ状況が続くようであれば私としても何らかの対応をしなければならないと、よく心にとめておくように」
「……ご寛大な対応に心より感謝します。次回の報告は必ずご期待に添えるよう致します」
呆れられている。私の無能が毘沙門天様を失望させている。そんな単純な事実がその言葉の節々から溢れ出ていた。その恐怖感に耐え切れなくて、私は逃げるみたいに背後の扉に足を向けた。背中に刺さる視線は相変わらず肺を直接圧迫している。浅い赤子みたいな呼吸じゃ、胸の苦しさを払うには全然足りなかった。
◇◇◇
法界の空気は嫌いだ。水と空気のちょうどあいだ位の粘度で体に纏わりついてくる濃厚な魔力が気持ち悪くて仕方無い。絢爛(けんらん)な装飾の施された毘沙門天様の館内も、狭く暗い穴蔵の好きな私にとってはお世辞にも落ち着けるなんて言えない。
視界の限り続く廊下には私の足音だけが響いている。既に夜も更けているのだから当然だけど、誰も居ないのは少しだけ好都合だ。今は少しでも胸の中につかえた物を吐き出したい。念の為にできるだけ自然な動作で周りを見渡して誰も居ないことを確認する。だけど、憶えのある気配がフスマを開いて急に現れたのは、丁度溜め息を吐こうと息を大きく吸い込んだ時だった。
「久しぶりだね。ナズーリン。どうしたの、元気が無いようだけど」
「やぁ、お前か。一人で居る時まで元気で居るのは非効率だろ。お前の方こそ少し痩せたんじゃないんか?」
バクバクと跳ねる胸を押さえつけながら答える。話しかけてきたのは本部勤めの同期だった。
「下の世界で流行ってる ”ダイエット” とやらに挑戦してみたんだ。冬場に蓄えすぎた脂肪が邪魔だったからね。それで、最近仕事の調子はどう? 星様とは上手くやってる?」
「当然だ。ご主人は多少抜けてるが基本的に有能な方だし聖は言うまでも無い。全ては順調さ」
「なら良いけど……。気をつけなさいよ、毘沙門天様ったら最近四天王内でのイニシアチブを取ろうと躍起になってるからさ。下手に有能な所を見せると、ノルマ上げられてキリがないわよ」
「ノルマに答えるのが部下の勤めさ。なに、私とご主人の力なら問題はない」
「ナズは昔っからそうだよね。やっぱ、出世する奴は違うわ。体壊さない程度に頑張りなよ。それじゃ」
手を振りながら彼女は帰っていく。毘沙門天の使いとして登用された当時から彼女はお節介焼きだった。そんな性格も災いしてか、私を含めた幾人かが毘沙門天様に重用されていく中で、彼女は当然のように本部での小間使いに甘んじていた。それにも関わらず、いつもへらへらと笑っている彼女の様子が私はあまり好きではなかった。
「全く……、どうして笑っていられるのか……。捨てられたら私たちは唯のネズミだと言うのに……」
誰も居なくなった廊下に、はぁと大きなため息が響く。妖獣の世界には過酷な生存競争がある。それは幻想郷でも外の世界でも変わりは無い。今自分がその世界から離れて生活できているのは、毘沙門天様に拾って頂いたからに他ならない。だからこそ自分は、たとえ居心地が悪くとも、空気の香りが嫌いでも毘沙門天様の使いとしてこの法界に通っている。
「痛ぅ……」
きりきりと、胃が再び軋みはじめる。少し館の中に居過ぎたようだ。思ったよりも毘沙門天様への報告に時間を取られてしまったせいで既に終業時刻を過ぎている。今から出れば家に着くのは明け方近くなるだろう。
法界に留まって明日の朝直接命蓮寺に向かっても良いのだけど、この場を一刻も早く去りたいという気持ちが疲労感を上回った。
気だるい体を引きずって毘沙門天様の館を後にする。法界の真っ黒な空には一つの星も月さえも浮かんではいなかった。
◇◇◇
どうして命蓮寺の前にいるのですか?
尻尾に掛けた籠から顔を出した眷属の妖怪ネズミが不思議な顔をして私に尋ねてきた。しかし、そう聞かれても答えに困る。ぼんやりとしながら空を飛んでいて、気がついたら命蓮寺の前に居たらからだ。多分自宅に戻りたく無かっただけなのだと思う。現実から一時眼を逸らして覚悟を決めるまでの時間が欲しかった。それが事実だけど、そんなことを眷属の前で認めたくは無かった。
無言を返答に代えて寺の扉に手を掛ける。度重なる変形で僅かに歪んだ扉は非常に開き辛い。音を立てないように慎重に力をこめると真っ暗な廊下が視界に入ってきた。当然だ、幻想郷に戻ってきた時点で既に深夜の二時を回っている。聖ですら眠っているこんな時間に誰も起きているはずがない。
眠っている者を起こさないように忍び足で本堂へと向かう。別に向かう所はどこでも良かった。とにかく明日の朝まで家に帰らずに過ごせる場所に行きたかった。
この時間なら、聖もご主人も自室で休んでいて本堂に出入りすることはない。隅で横になっていれば朝までは一人で居られるだろう。それから、ご主人に見つかる前に身支度をして朝早く来たフリをすれば家に帰らなくて済む。そんな皮算用をしながら本堂の戸を開いた。
「……どうしたんですか、ナズーリン。こんな時間に。少し元気が無い様ですが」
どくん、と心臓が跳ねる。そこに居たのは、私が今一番会いたくて、同時に最も会いたくないお方。 ”私の” ご主人、寅丸星だった。
「何でもないよ、ご主人。……一晩中飛んでいたものだから少し疲れてしまってね」
急いで表情を取り繕ったけど、完璧に隠せた自信がない。今の自分はご主人から隠さなければならない自分のはずだ。できることなら一刻も早くこの場から立ち去りたい。だけど逃げるのはそれこそ異常を認めるようなものだ。休憩を装ってご主人の向かいに胡座を掻いたけれど、心のざわつきは大きくなるばかりだった。
「そう言えば今日は定期報告の日でしたね。法界の奥からここまでは遠かったでしょう。ここに来たということは、今日中にやらないといけない仕事でも言いつけられましたか? 私にできる事なら手伝いますが……」
「いや、そんなんじゃない。別にご主人には関係のない事さ。そんなことよりも、ご主人はこんな時間まで何をやってるんだい? 眠りもせずに活動するのは魔女の特権だよ」
「明日訪問する予定のお家に最近お子さんが生まれまして。そのお祝いに一筆贈ろうかと思っていたんですが、まぁ、中々良い言葉が見つからなくてですね」
「――気がついたらこんな時間に。かい?」
「申し訳ありません」
「全く。君は命蓮寺の本尊なんだ。夜更かしして隈を作ったり、肌が荒れたりしたら威厳に関わると自覚してくれ」
「ふふふ。そうですね。丁度煮詰まっていた所ですし。今日は寝て明日の朝また考えることにします」
硯と筆を片付ける様子を見てほっと胸を撫で下ろす。どうやら無事に話を逸らすことに成功したようだ。そんな私の安堵を打ち壊すように、「でもですね」と言ってご主人は気配の一つも感じさせずに私の体を引き寄せた。どくん、と再び心臓が跳ねる。息がかかる程の距離にご主人の顔がある。肩にふくよかな胸の感触が伝わってきた。
「肌の事を言うなら貴女の方が心配ですよ。随分と荒れが目立つようですが、お手入れはきちんとしていますか?」
「な、何を言い出すかと思えば……。薄汚いネズミの肌なんて誰も見たがってない。手入れなんてしている暇があれば仕事に回したいね。私は無駄が嫌いなんだ」
先ほどの判断を訂正する。ご主人は明らかに何かに気がついている。逃げるべきだ。今すぐこの場を離れ、これ以上の会話を辞めなければならない。必死にそう言い聞かせているのに、捕食される直前の小動物のように私の体はぴくりとも動かなかった。
「そんなに自分の事を卑下(ひげ)するものではないですよ。貴女は可愛らしい顔をしています。そんな態度では掴めるはずの幸せも逃げていってしまいますよ」
「……気持ち悪いことを言うのはよしてくれ。ご主人は無駄に見た目が良いんだ。自分の言葉と態度が他人に与える影響位は理解するんだ」
ご主人の言葉に傾きそうになる心を鞭打ってようやく拒絶の意志を示す。どれだけご主人が優しくても、それに甘えてはいけない。それに甘えてしまったら、私は本当に ”自分の存在価値” を見失ってしまう。塵のようにちっぽけな自尊心が何処かへ吹き飛んでしまうことが、私には堪らなく怖ろしい。
「ナズ――」
「邪魔をして悪かった。私は家に帰るとするよ」
頬に当てられたご主人の手を払いのけて私は出口へ向けて足を進める。薄皮一枚とはいえ表層を取り繕っている内にこの場を去りたい。その一心が私を大股気味に出口へと向かわせていた。
「明日は寝坊しないように、ご主人も早めに休んでくれ――」
だからそんな私の様子が、傍から見れば何かに慌てているようにしか見えないのだろうと気がついたのは、ご主人に声を掛けられてからだ。
「――もしかして、定期報告で何か言われましたか?」
どくん、と心臓が跳ねる。優しいご主人の言葉が胸の急所を的確に抉り取ってくる。呼吸が浅く早くなる。こめかみからつつり、と汗が流れた。
「……何を言っているんだご主人。二つの理由で問題がある筈がないだろう。一つはご主人の働きだ。ご主人の働きは聖ですら認めている。今この瞬間を見ても分かるようにご主人は日々、信者の一人一人にまで気を配っているじゃないか、文句なんてあるはずがない。二つ目は、私の仕事はそれを毘沙門天様に伝えるだけなんだ。ご主人に問題がない以上私に不都合があるはずがない。私の日々の働きを見ていれば、報告に不備が起こり様も無いことは分かるだろう?」
あぁ本当に何を言っているんだ私は。焦った時に無駄に多弁になるのは私の悪い癖だ。これでは何かを隠していると言っているような物ではないか。
「私の働きはともかく。ナズはいつも良く尽くしてくれています。そのナズが言うのだから本当なのでしょうね。……すみませんでした」
「全く。当然じゃないか。君は本当に馬鹿だな」
胸を突き破りそうなほどに心臓の拍動は強まり続けている。私は監視役という体で派遣されているが、事実上は業務補佐。ご主人の言葉一つで解任されることを忘れてはいけない。毘沙門天様からの実現不可能なノルマ設定を跳ね除けられなかったのは完全なる私の無能故だ。それが露呈した時に自分がどうなるかなんて想像するまでもない。一刻も早くご主人の前から逃げ出そうと、振り返りもせずに廊下への敷居をまたいだ。
「ナズ」
「……なんだい、ご主人」
「信じていますよ」
無言を返答に代えて歩みを続ける。荒い息遣いも、この心臓の音さえもご主人に届けるわけにはいかない。だから、息をするのも怖くてたまらなかった。ご主人にも気が付かれない程度に薄い障壁を背中の空間に展開し、私はただ全力で駆け出した。
廊下を駆け抜け、玄関を飛び出て、空へと駆け上がる。ようやく息をすることを思い出した時には既に命蓮寺は豆のように小さくなっていた。一度、二度、大きく深呼吸をする。酸素が脳に行き渡り少し落ち着いたことで、じわじわと胸の中に湧き始めるのは汚泥のような嫌悪感だ。さっきまでの ”最低な自分” への吐き気がするほどの感情が私に襲いかかってきた。
「何やってんのよ……、私……」
もう何度あんなやりとりを繰り返しただろう。その度にこうやって後悔しているのに。私は同じ事を繰り返す。私は一人じゃ何もできないひ弱なネズミだ。なのに、また ”有能な自分を演じる” ために、ご主人を馬鹿にしてしまった。
「これが、本末転倒じゃなかったらなんなのよっ……!!」
宿無しに戻りたくないなんて自己中心的な理由でご主人にしがみついている。だから、せめて自分は有能であろうと、そう振舞っている。その結果がこれだ。
「ご主人に迷惑を掛けちゃいけないのに……! どうして、私がご主人を馬鹿にするのよ……っ!」
”主に助けられる従者” などに何の価値があると言うのか。 “絶対にご主人の手を煩わせてはいけない” 。だから、この愚かな自分にせめてもの罰を。
「この……っ! 私の馬鹿! 馬鹿!」
拳を眉間に何度も打ち付ける。鈍い打撃音が魔法の森の瘴気に吸い込まれていった。
◇◇◇
じんじんとする頭を抱えて空を漂うこと数十分。魔法の森上空を抜けて再思の道に入ったところで、ようやく視界の端に小屋が映った。最初は点のようであった小屋は近づくにつれてだんだんとその輪郭を露わにしていく。対照的に胸の中では陰鬱とした気持ちが膨らんでいった。
命蓮寺から小屋まで丁度一時間。最初にご主人や命蓮寺の皆と別居を決めた時、私は自立のためと説明した。何かにつけて私の仕事を手伝おうとするご主人に依存しないようにするんだと言って、意気揚々と一人暮らしを始めた。結果から言えば、それは単なる言い訳に過ぎなかったけれど、決して間違っていなかったと思っている。
「……着い……、ちゃった」
扉を前に唾を飲む。布団はもう薄い壁を挟んですぐ隣だ。後は手を掛ければ休める。なのにその手が出ない。私がご主人の元を離れて暮らしたかったのは、今胸の奥に渦巻く ”これ” が原因だ。部屋の中に積み上がる物に対する、後ろ向きな感情をご主人に気取られたくなかったからだ。
「頑張れ私、……頑張れ、……頑張ってよ、……私」
どくりどくり、と早鐘を打つ心臓を押さえつける。先程から胸の中で広がっていた陰鬱な気持ちがここに来て頂点に達していた。何のことは無い。私はこの扉の向こうに積まれた現実を見たくないだけだ。それで何が解決するわけでもないのに。
「子供じゃない。私は子供じゃないんだから……」
無理矢理飲み込むように息を肺に詰め込み、乱暴に外へと吐き出す。そんな事を数回繰り返してようやく心臓を抑えこみ、私は扉をゆっくりと開いた。
ツンと鼻を突く腐ったような墨汁の匂い。愛用の仕事用具が傷んでいるのだろうか、そんな事を思いながらも原因を突き止めるほどの気力はない。今はただこの暗闇に任せて瞼(まぶた)を閉じ、部屋の中に積み上げられた物を見ないようにして眠ってしまいたい。部屋の真ん中に敷いた万年床に倒れこむと、そのまま眼を閉じた。
「うぇっ……」
襲ってきたのは睡魔ではなく嘔吐感だった。横になり目を閉じた時、瞼(まぶた)の裏に浮かぶのはあの押し潰すような視線。頭の中で響くのは腹の底まで響く野太い声。布団の中で縮こまってもその姿も声も止みはしない。耐え切れないほどのプレッシャーに胃から酸が逆流しはじめた。ノドから立ち昇るすえたような匂いが更に嘔吐感を加速させる。
とても眠っていられるような状況じゃない。だけど、起きるだけの気力も残ってない。治まる気配の無い嘔吐感と泥のような倦怠感の間で戦ってはみたものの、それも長くは続かなかった。
果てしなく重い腰を上げて、やっとの思いで小屋の外に出る。
げぇ、と吐いたら胸は少しだけ楽になった。
◇◇◇
小屋の側に掘られた井戸で朝焼けを眺める。結局昨晩は一睡も出来なかったけど、別に珍しいことでも無いので辛くはない。だけど目の下にできてしまった “これ” だけは少しばかり気になる。
「やっぱりご主人には気づかれるよねぇ……」
桶の水面に映っているのは子供のような丸顔。そして、驚くほど不釣り合いな濁った瞳と深い隈。荒れた肌も相まって、まるで外の世界の書物で見たエイリアンみたいで不気味だった。昨日ご主人から言われた事を思い出して深い溜息が出る。
「おしろいで隠せれば良いけど。ストックあったかなぁ……」
水で湿った顔を首に掛けた手ぬぐいで拭き、部屋へと戻る。確か随分前にご主人に連れられて里で購入した物が部屋に転がっていたはずだ。頭の片隅へと追いやられた記憶をサルベージしながら、私はぼりぼりと頭を掻き部屋へと戻った。
「確かあの辺に――」
視線を “それ” からすっと逸らす。それは昨晩の夜は闇が隠してくれていた。布団の中では瞼(まぶた)を閉じて見ないようにしていた。しかし、今は朝だ。明かりは部屋に差し込んでいるし、瞼(まぶた)を開かないとおしろいも塗れない。
どう足掻いても横目に映ってしまう大量の紙の束。毘沙門天様に報告するために作成した資料、ご主人の業務記録、法界から送りつけられた大量の質問状、その全てが私を責めていた。
「ううん。違う。そう私が感じているだけ。毘沙門天様も、ご主人も、己の職務を完璧に全うされている。だから、同様に仕事をこなせない私が……、悪いだけ」
昨夜の吐き気がぶり返す。昨日報告に行ったばかりだから、暫くは相手にしなくても良い。それだけが唯一の救いだった。そんな事ばかり考えていては今日やるべき仕事にも支障が出る。意識してそのことを頭から除き、窓際の化粧台に腰を下ろすことにした。
めったに使わないので台の上には化粧とは全く関係のないガラクタが山を作っている。鏡も埃でくすんでしまっているけれど、隈を隠すくらいなら不都合はない。かすかな記憶を頼りに、引き出しから取り出したおしろいはどうにか使える状態だった。容器の中に入る粉を少し取り、慎重に目の下の隈へはたきつけていった。
「む……、久しぶりに使うと難しいなぁ……」
「『鏡だから当然逆に写ってるんだって?』わかってるよ。でも慣れないものは仕方ないでしょ?」
見当違いな所に付いたおしろいを見て、いつの間にか家に入ってきていたネズミが注意をしてくれる。彼女は人化できないはずだが人間の化粧をする様子を見たことがあるのだろう。不慣れな手つきで化粧をする私に逐一アドバイスを出してくれた。慣れない作業に悪戦苦闘すること数十分。彼女の助けもあってどうにか ”らしく” することができた。
「ふぅ、随分と時間が掛かっちゃった。もう――、こんな時間だ」
外を見れば既に日が東の空に顔を出している。そろそろ家を出ねばご主人の外出に間に合わないだろう。ぼさぼさの髪と皺がついた服を最低限整えて小屋の外に飛び出す。日が出たせいか、先程よりも肌に感じる風が幾分柔らかく感じる。太陽へ向けて大きく伸びをすると関節がぽきぽきと小気味の良い音を立てた。ぱんと頬を叩き、気持ちを切り替える。ここからの自分は―― ”優秀” な毘沙門天の使い、賢将ナズーリンだ。
「よしっ、今日も一日頑張るぞ。……私」
「『私達も頑張ります』って? そうだな。今日はご主人も一日出ずっぱりだ。仕事に困りはしないだろう。一緒に頑張ろうな」
最後に一度深呼吸をして、命蓮寺へ向けて飛び立った。
◇◇◇
世の中は同じ事を繰り返す中で小さな変化を積み重ねて変わっていく。私とご主人の関係も似たような物なのだろう。あれから数週間。これまでの所、特にご主人に変わった様子は無い。むしろご主人は何時も以上に優秀だし、私は何時も以上に――、 ”無能” だった。
「――、――」
本堂の中からは朗々とした声が流れてくる。ちらりと横目で中の様子を確認すると、ご主人の説法を聞こうと詰めかけた人里の信者が所狭しと座り込んでいた。信者を前に凛々しい顔で佇むご主人は普段の穏やかで、どちらかと言えばおっとりとした様子とはまるで別人に見えた。それは見た目だけの変化ではない。愚痴としか思えない相談や、要領を得ない質問にも柔軟に対応し全てに的確な答えを返すその姿は、毘沙門天様と比べても見劣りしない程の威厳を備えている。
だけど、ご主人は毘沙門天様とは決定的に異なっている点がある。本堂の中にいる信者が誰一人として畏まっていない事だ。見れば信者たちは各々が持参した菓子を食べながらお茶を飲んでいるし、ご主人もご主人で信者たちの合間を回りつつもフランクに胡座などを掻いて茶を飲んでいる。
この会はご主人が提案した物だ。数日前に信者との親交を深めるためと言って、ご主人に企画を持ち掛けられ、私がスケジュール調整や会場の準備などを行った。結果は見ての通り大成功で、おそらくは既存の信者からの更なる信仰心の獲得に繋がるだろう。
はぁ、と大きなため息が出る。本来ならご主人のマネジメント全般は私の仕事だ。新規獲得にばかり囚われ、既存の信者から親交を得るという発想に至らなかった自分の失態以外の何物でもない。
「このザマで。何が賢将だ。情けない……」
本来なら毘沙門天様から提示された信仰心獲得のノルマは決してクリアできる物じゃない。それは当然で、既にご主人はこの里の中全ての家を回り、その過程で信仰して貰え得る家庭には何度も訪れ信仰心を確固たる物にしているからだ。豊聡耳の者達は、私達が声を掛けた後の家を主に回り布教活動を行なっているから、今のところ競合すら起こっていない。つまり、ご主人は全くそれと知らず毘沙門天様のノルマを別の方向からクリアしたことになる。
いつの間にか握りしめていた拳からは血が滲んでいた。この不安な気持ちはご主人のせいじゃない。ノルマを知る事も無く、現状の信仰心を上限とも思わず、自然にこの会を開こうと思ったご主人は凄いし、むしろ誇りたい気持ちで一杯だ。だから、この不安感はあくまでも私自身から生まれたものだ。
『私は本当にこの人に必要なんだろうか』
「……、……ズ、……ナズ」
堂々巡りを続ける思考を断ち切ったのは、頭上から掛けられた声だった。はっと我に返り声の方を見る。ご主人の不安げな顔が私に向けられていた。
「ナズ、どうしました? 疲れているなら、一緒に休憩しましょう。私も丁度終わった所です」
「い、いや違う違う。他にやる事も無かったから考え事をしていただけだ」
思ったよりも長く物思いに耽っていたらしい。本堂の中には既に誰も居らず、ご主人も一仕事終えた様子で私を見ている。
「そうですか。まぁ、それはそれとして……、今朝は本当にありがとうございました」
「や、止めてくれご主人。君はこの命蓮寺の本尊なんだ。むやみに私などに頭を下げるべきじゃない」
「でもナズに助けられたのは事実です。ナズが私の数珠を探してくれなかったら、とても間に合いませんでした。この恩を無視するほうが、毘沙門天様の名誉に傷をつける事になります」
「分かった……、分かったから。なら、今度お茶でも奢って貰えるか」
「その程度ならお安いご用ですよ。今度、外回りの時に行きましょうね」
先程までの凛々しい顔は何処へやら。今度は無邪気な笑顔で手を握ってくるご主人に思わず苦笑してしまう。この切り替えができるのがご主人の凄い所だ。
「……あぁ。楽しみにしておくよ」
「本当に楽しみですね。次に里を回るのは明日でしたか。この間、響子から美味しいお団子を出すお店があると聞いたんですよ。今度詳しい場所を聞いておかないと」
また心の中で膨らみ始めた不安感を紛らわすために、頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。少なくともご主人の前でこんな事を考えるのは失礼だし、仕事に対してマイナスの効果しかもたらさない。思考の流れを変えるために、別の事を話すことにした。
「ところでご主人、その訪問予定についてなんだが――」
「確か南西区を中心に回る予定でしたね。ただ、今朝に聖から連絡があって、北区の方で不幸があったそうです。聖はそちらに向かうそうですので、聖の分で緊急性の高い物を多少請け負う事にしました。それを反映して少しスケジュールを組み直してみたのですが、どうでしょうか?」
ずきり、と胸が痛む。まただ。 ”また” この時が来てしまった。
「……? どうしました。ナズーリン」
有能なご主人の唯一の欠点と言えるのが物忘れの多さだった。今朝だって愛用の数珠をしまった場所を忘れて私に泣きついて来たし、外回りの際に言付けられた事をメモしておくのは私の仕事だった。そんなご主人が複雑な訪問スケジュール作成など出来るはずがない。そう ”数年前まで” はそう思っていた。
「急ぎの仕事だったので、私が作ってみたのですが……、どうでしょうか。やはりおかしいですか?
手元のメモにはタイムラインで整理された完璧な訪問スケジュールが書き込まれている。家までの所要時間、訪問ルート、優先順位、その全てを考慮されたこのスケジュールに沿って行動すれば問題無く外回りを終えることが出来るだろう。普段からスケジュール作成を行っている私だからこそ、そのことが痛いほどに理解できてしまった。
「い、いや……。これで問題ないと思うよ。流石ご主人だ」
「そうですか、それは良かったです。でも……、そうなると今日のお仕事はもう終わりということになりますね」
「あ……、あぁ。そのとおりだな」
「それなら、ちょっと早いですけど……、今日のお仕事は終わりにしましょうか。明日も早いですしね」
「そう……、だな」
「こんな早くお仕事が終わるのも久しぶりですね。どうです、ナズ。お夕飯食べて行きませんか?」
「……ご主人、さっき散々お茶菓子を食べたじゃないか。多少は控えておかないと、後悔することになるぞ」
「大丈夫ですよ、しっかり食べて、その分動けば良いんです。ナズは食べなさ過ぎなんですよ」
「少食なんだよ、私は」
さり気なく胸に当てた手を通して心臓の拍動が伝わってくる。普段通りの軽口で適当に誤魔化したけど、どれだけ隠せたのか自信はない。
無能な私は、ご主人の至らない点はどんな些細なことでも埋めようと血の滲むような努力をした。実際何も出来ないネズミだった私がダウジングの才に目覚めたのはその過程での事だ。だけど、ご主人は私が血反吐を吐いた努力を度々無神経に踏み潰す。何でもないような顔をして、私のやっていた仕事を奪っていく。
昔からの習慣で暫くは私にスケジュール作成を任せてくださるだろう。だけど、優秀なご主人の事だ。私よりも精度が高く合理的なスケジュール作成ができるようになるのにそれ程の時間は掛からないだろう。それはつまり、私がご主人の足枷になることを意味する。何度経験してもこの感覚は恐ろしくて仕方がない。再びやってきた事実から目を背けたくて堪らなかった。
命蓮寺での久々の食事は楽しかったけれど、ご主人にご飯を大盛りにされたせいで随分とお腹が張ってしまった。普段乾飯と乾物のみで食事を済ませている自分にとって、それはとても幸福な事のはずだ。
だから、その日の夜に布団を嘔吐物で駄目にしてしまったのは私自身の問題だ。
『私は本当にこの人に必要なんだろうか』
無縁塚に大きな穴を掘りながら、私は大きな溜め息を付いた。
◇◇◇
白い湯気に包まれた天井をぼんやりと見上げる。ここは命蓮寺の湯浴み場だ。ご主人に付き合って外回りを終え、そのまま帰ろうとしたら半ば強引に放り込まれてしまった。あまり風呂は好きじゃないけれど、ご主人の好意を無駄にするのも気が引けたのでこうして湯に浸かっている。
溜め息ばかりが口から出てくる。今日も私の仕事は殆ど無く、ただご主人の隣に立って言付けのメモや唐突に飛び出るボケへのツッコミを入れるだけだった。でも、そんなのは私でなくてもできる。むしろ、布教活動のマネジメント能力も、それを毘沙門天様へプレゼンする能力も低い私の存在がご主人の損失なのではないかと、そんなことばかりが頭の中を巡り続けている。
「駄目だ駄目だ。ご主人が一人でも業務をこなせるようになるのは喜ぶべきことじゃないか。それなのに、自分のことばかり……、自分勝手が過ぎるぞ、私」
ざぶりと風呂を上がり、最後に軽く体を流して風呂場を出る。考え事をしている間に少し逆上せてしまったようだ。鏡で見た顔は茹でダコのように真っ赤だった。
「縁側で少し涼むか……。しかし、その前に明日の事を相談しておかないとな……」
手早く体を拭き、洋服に袖を通す。脱衣所に待機させていた妖怪ネズミ――言うまでもなく、雌の個体――を尻尾の籠に入れた普段の姿に戻り、ご主人の部屋へと向かった。
「ご主人、明日のことなんだが――」
部屋の中から聞こえる二人分の話し声が、ノックしようとして上げた手を止める。
「……そうですか、毘沙門天様はそんな事を」
「えぇ。受け取った時は私も驚きました。特に問題はないと認識していたもので……」
声の主は聖とご主人のようだ。聖がご主人の部屋を訪れることなんて珍しくもない。そこは私も別に気にならなかった。にもかかわらず私の体が動かないのは、声の調子があまりに真剣なものだったからだ。
「それで、どうするんですか? 星」
「どうする……、とは」
「信仰心の獲得についてですよ。 ”毘沙門天様の督促” の通り、人里から更に信仰心を得るのですか?」
「信仰心は皆様の幸福があった結果として頂くものです。今回のノルマ分はクリアできても、これ以上は里にとっても私達にとっても良い結果はもたらしません」
「そうですね。私もこれ以上里から信仰心を得ようとするのはあまり良いことだと思いません。だからこそ、さっきの質問に戻ってくるんです。――ならどうしますか?」
「分かっている。分かっているよ、聖。それはあの子を常に一番近くで見ている私が一番良く知っています。ですが」
「ごめんなさい、星。貴女を苦しめたい訳ではないんです。ただ、このままでは二人共にとって辛い結果になるかと思って……」
「分かっています。必死で隠しているようですが、筒抜けなんです。日に日に無理を重ねているのが手に取るように分かるんです。…… ”ナズーリンには今の仕事が重すぎる” 事くらい」
どくん、と心臓が跳ねる。全身から冷や汗が滲む。辞めてくれと、叫びたくなる衝動を抑えるように思い切り胸を押さえつけてどうにかその場に留まった。
「一ヶ月、後一ヶ月で判断します。それで、駄目なら……、私が毘沙門天様の下に赴いて別の子を派遣して貰います。それで良いでしょうか?」
「……判断はお任せします。良い方向へ向かうようお祈りしていますよ」
逃げ出したくて堪らなかったのに、全ての神経が焼き付いてしまったみたいに体を動かすことができない。浅くなった呼吸に気がついたのか、妖怪ネズミが私を気遣って肩まで上がってきている。耳元でネズミが落ち着いて下さいと必死で呼び掛けているのに、それに答えてやることも、震える体を抑えることも出来なかった。
自分ですら理解しているのに、相手が同様に感じていないなんてあまりにも都合の良い想像だ。ご主人や、聖が私の事を不要と考えていても何もおかしなことなんて無い。そう分かっていたはずなのに、いざその状況に直面してみると予想を遥かに超える衝撃を受けている自分自身に驚きを隠せなかった。
「……誰かそこに居るんですか?」
ご主人の声をきっかけに金縛りが解けたのは僥倖(ぎょうこう)だった。オオカミに追われたウサギみたいにその場から逃げだした。背中にご主人の声が掛けられたような気がしたけれど、それに気遣っているような余裕は微塵も無い。今はとにかくご主人と言葉を交わしたく無かった。何か一言でも話してしまったら、全てが終わってしまうような気がして、今はただ何処かで一人になりたかった。
『私はこの人にとって必要じゃない』
命蓮寺の廊下を走り抜けて外の渡り廊下へと出る。今の時間の本堂付近には誰も居ない、その本堂裏の縁側に腰掛けてやっと息を整えられた。
「毘沙門天様の督促状が……、私を通さずに届いていたなんて……」
少し落ち着いた所で思考を纏めてみる。毘沙門天様が私を信用していないことは可能性としては考えていた。私がご主人にノルマの件を伝えていない事を見越して別のルートで連絡を取ったのだろう。だから、この事態は私がご主人にも毘沙門天様にも信じられていないことを意味する。
「あと一ヶ月でどうにかできなかったら……、私は……、私は……」
最悪の想像が現実味を帯びてきたことに、気分が落ち込んでいく。いつの間にか耳元に登ってきていた眷属がそんな私を慰めてくれた。
「慰めないでくれ。君は私に怒るべきだ。不甲斐ない主に憤るべきなんだ……」
妖怪ネズミの背を撫でてやり肩から下ろす。尚も不安げな視線を向けていたけれど、これ以上落ち込んだ姿を見せたくない。先に住居へと帰るように命令すると、ネズミは名残惜し気な視線を残しつつ草むらに消えていった。その背を見送っていて、気がついたら背後には憶えのある気配が近づいてきていた。
「ナズ。こんな所に居たんですか」
「……、ごしゅ……、じん」
「どうしたんです、ナズ。お風呂上りでしょう? 湯冷めしてしまいますよ」
「良いんだ……、放って置いてくれ」
「そう言いましても……」
ご主人が私の前にしゃがみ込み同じ目線で話しかけてくる。私を追い詰めているのはこの人に他ならないのに、いつもと何一つ変わらず優しい声を掛けてくれるご主人が無性に腹立たしくして仕方が無い。
「最近様子がおかしいですよ、ナズ。少し疲れているんじゃないですか?」
「そ、そんな事は無い! 私は何時だって元気に決まってる!」
「そんな事言っても、ほら。知ってるんですよ、酷い隈じゃないですか、あまり寝ていないんでしょう?」
「そ、それは、年度末で溜まった仕事を片付けていたからだよ」
ご主人の指が私の目元をなぞる。おしろいで隠した深い隈が露わにされ同時にご主人の顔が曇る。その瞳を見てしまった時、どくり、と心臓がはねた。『何かを伝えたい、しかしどう言うべきか分からない』そんな迷いを含んだ視線が私に向けられていたからだ。長い沈黙の後に、ご主人はゆっくりと口を開いた。
「……ナズ。何か困っている事は無いですか?」
「……無いよ。大丈夫に決まってるじゃないか、心配症なんだよ君は」
顔は平静を装いながらも心臓の拍動は止まらない。背筋には冷たい汗が滲んでいた。正直どこまで隠せたのかも分からない。だけど、今気取られる訳にはいかない。その一心で平静を取り繕った。そんな私の願いが通じたのか、ご主人はいつも通りの呆けた顔に戻り頭をぽりぽりと掻きながら頭を下げた。
「あはは。それは失礼しました、すみません。お節介でしたね」
「い、いや……、そんなことは、……無い。気遣ってくれて嬉しいよ」
「しっかり、休んで。また明日もよろしくお願いします。ナズは私の大切な ”家族” ですから」
はっきりとそう告げるご主人の顔が少し怖ろしい。どぎまぎしながら会釈をすると、ご主人も軽く会釈で返し踵(きびす)を返す。その背が壁の向こうに消える直前、ふとこちらを振り返ったご主人はいつも通りの笑顔で私の名を呼んだ。
「……なんだい、ご主人?」
「完璧な存在なんてこの世にありません。今は大丈夫でも、困ったらいつでも相談して下さいね。私は貴女の味方ですから」
「そんなの、ご主人を見れば分かるよ。ありがとう。……でも、私の仕事はご主人を助けることだ。ご主人は私に気なんて使わなくて良いんだよ」
「……そうですね」
それだけ告げると何事も無かったように壁の向こうに歩き去る。一人縁側に残された私はおさまらない拍動と冷めた胸の奥から湧き上がる怒りとの戦いを強いられていた。私を必要ないと言いつつも尚、私に優しく接するご主人が恐ろしく、そして同時に腹立たしくて仕方がなかった。
「ご主人……、あなたは何時だってそうだ。大事な時にもニコニコ笑ってて……、本当は何を考えているのか分からないよ……」
いっそ邪魔だと、お前はもう要らないのだと、面と向かって言って貰えればどれだけ楽だろう。そうすれば、私はご主人を悪者にできるし無理矢理にしがみつく自分への言い訳もできる。だけど、実際のご主人は決してそんな事を言わない。
「お詫びのつもり……? クビにする私に気を使っているつもりなら、もう辞めて……」
だから、そうしないご主人の事が憎くて仕方がなかった。自分にはご主人に優しくされる資格も、助けられる資格も無い。なのに、そんなご主人に甘えたいと思っている ”自分” が腹立たしくて仕方がなかった。
ぎりぎりと胃を締め上げるような痛みが再び襲いかかってきた。
◇◇◇
不安を抱えていても時間の流れは変わったりしない。驚くほど平穏に――変化の堆積になんて気が付きもせずに――日常は過ぎていく。だけど、あのフスマの前で聞いた事なんて忘れてしまったある日、目を背けていたかった現実は奇妙な表情を浮かべたご主人という形で現れた。
「……ナズ。暫く貴女に休暇を出します」
あまりに突然の事だったので思わず聞き返してしまう。最初は純粋に何を言っているのかが分からなかった。だけど、何度も繰り返される内にその言葉の意味に思い当たってしまった。
「暫く ”お休み” をあげようと思います。暫く羽を伸ばして、リフレッシュでもしてきて下さい」
なんでだ、どうしてそんなことを貴女はそんな下手くそな笑顔で言うんだ。まるでそれでは、 ”何かを隠している” みたいじゃないか。戸惑いと驚きと混乱とで頭のなかを色んな思考が巡っていく。ぐるぐる廻る視界と吐きそうになる胃を押さえつけて、私はどうにか声を搾り出した。
「どうして……、だい? 説法の予定は明日も詰まっているだろう? 私が居なくてスケジュール管理は出来るのかい? 道は大丈夫なのかい?」
「いえ、問題ありません。昨日ナズが詳細なスケジュールを作ってくれたでしょう。道位はさすがの私も覚えていますよ。だから大丈夫です」
「いいや、問題だ。暫くとは何時までだ? リフレッシュとはどういうことだい?」
無言がご主人との間を支配する。何かを噛み殺したような顔をしたご主人を睨みつける。いつだって誰と話す時だって目を見ることを忘れないご主人がすっと私から目を逸らした。そんな些細な事実が、私の中に膨大な恐怖感を芽生えさせていた。
ご主人は何も話さない。正確には何度か口を開こうとするけれど、何かを言いかけてそのまま黙りこんでしまう。まるで、首元に包丁を突き付けられたみたいな緊張感が全身を包む。こんな状態がこれ以上続いたら気が狂ってしまいそうで、私はご主人をそんな状態にしたであろう事実を確かめるために恐る恐る口を開いた。
「……毘沙門天様の督促状の件か?」
瞳孔を目一杯に散大させてご主人は私を見る。数秒も間を置いて、ご主人はやっと口を開いた。
「訂正します……。貴女の予想通り。ただの休暇ではありません」
どくん、と心臓が跳ねる。全身の毛が逆立っていくことを如実(にょじつ)に感じる。「本当は貴女の知らない内に済ませたかった」私から眼を逸らしたままで静かにそう告げるご主人が急に遠い存在のように思えて仕方がなかった。
「ご主人やっぱり君は……っ!」
胸の奥に溜まっていた膨大な感情が溢れでていくことを感じる。『ご主人が自分を捨てようとしていた』そんな当たり前で、絶望的な事実が私の中のちっぽけな自尊心を怒りと不安感で置き換えてしまった。
「ナズ……、教えて下さい。どうして貴女は、今まで黙っていたんですか。どうして……、私に一言」
「これ以上の信仰を人里で得るのは不可能だ。ご主人は完璧に仕事をこなしている。 ”だからそれは私の問題” だ。だから言わなかった……、それだけじゃないか!」
「違う、私が聞きたいのはそう言う事じゃない!」
「うるさい! 放っておいてくれ! ご主人には関係ないだろう!」
頭に血が上っている。何を言っているのか自分でも分からない。自分はもっと冷静だと思っていた。この時が来たらもっと冷静にご主人を説き伏せるつもりだった。なのに、今の私は感情のままに怒鳴り散らしている。私は馬鹿だ。これでは自分から可能性を潰すような物だ。それが分かっているのに止められない。主人に捨てられると言う恐怖感がただ私をつき動かしていた。
「どうしてそんなことを言うんですか! 関係ない訳が無いでしょう! だって貴女は私の――」
「そうだ。私は ”貴女の部下” だ。幾らでも ”代えの効く使い捨てのネズミ” だ。だから、ご主人が私に気を掛ける必要なんて何一つ無いっ!」
これ以上言ってはいけない。この先の言葉を続けてはいけない。そんなことは分かっていたのに、自分の感情に歯止めを掛けることができない。
「そも、黙って毘沙門天様に直訴に行こうとしていた癖に今更、何を私に気を掛ける必要があるんだよ」
駄目だ。その先を言うな。
「本当のことを言ってみてよご主人。清々してるんだろう? “足手まといを捨てられて” さ!!」
「――主人に向かってその口の聞き方はなんだッ!!」
それは野生を剥き出しにした猛獣の咆哮(ほうこう)だった。目を血走らせ、全身から言い様の無い気配を立ち上らせたご主人が私を射殺さんばかりに睨みつけている。
無意識の内に体が縮こまる。膝を抱え、耳を閉じ、座り込んだまま地面を見つめ続ける。それは、単純な条件反射だった。どうしようもない絶望。捉えられ、捕食されるしか無い小動物が最後の瞬間に取る行動と何ら変わらないただの現実逃避だ。
「あ、う……。その……」
声を出すことができない。目を開けない。怒るご主人を正面から見る勇気が持てない。自分の言ってしまったことの意味を今更になって理解したけれど、もう悔やむには遅すぎた。冷えていく眼の前の気配に、私ができる事は最早何一つ無いとしか思えない。
「もう……、良い。もう……、出て行け……」
めまいがするほど平坦な声でご主人は言い放つ。もしも、もしも今謝ったらどうにかなるのかもしれない。引き返すのなら、これが最期のチャンスなのかもしれない。だけど、そんな冷静な判断力はその時の私の何処にも残ってはいなかった。馬鹿な私は目前の恐怖からの逃走を選ぶ。
這うみたいにしてご主人の前から逃げ出すと、後のことなんて何一つ考えずに我武者羅に走って命蓮寺を飛び出した。何処をどう通ったのかなんて全く覚えていない。だけど、気がついたら私は真っ暗で春にも関わらず真冬みたいに寒い空間で独りぼっちだった。
◇◇◇
「……。ご主人の……、バカ……」
小さな石を組み合わせて作られた簡素な墓を前にぽつりと漏らす。肩が少し寒い。どうやらすっかり体が冷えてしまったようだ。放っておいたら風邪を引いてしまうかもしれない。だけど、今はそんな心配をしていられる程の余裕は無かった。
「ううん……。バカは私だよ……」
驚くほどに静かな空間だった。静かと言うより、生ある者の気配がしないと言ったほうが近いのかもしれない。目の前には小さな墓が無数に並んでいる。小さく岩に銘が彫られただけの簡易的な墓は苔むした古いものから真新しいものまで様々だけど、私にはその何れにも例外なく覚えがあった。
「 ”皆” 、ごめんね……」
苔生した墓石の一つに向かって静かに手を合わせる。この下に眠っているのは私の眷属達だ。任務中に命を落とした妖怪ネズミをこの場所に葬っている。
命蓮寺を飛び出し何処に向かっているのかも分からず走り続けた結果、気がついたらこの場所に立ち呆けていた。理由はわからないけれど、多分怒りが収まった事で露わになった胸の中の罪悪感がそうさせたのだと思う。
「私の勝手で死に追いやっておきながら、結局君たちにどんな恩も返せずにこんな事に……」
悔しさのあまりに地面を殴りつけた拳がじんじんと痛む。でも、こんな程度は自分がやった事を考えれば罰に入らない。続けて二度、三度地面を拳で殴る。手の甲から血が滲み始めたけれどまだまだ足りない。もっと強い罰を、屑みたいな今の自分に相応しい痛みを与えるために、ぐっと拳を握りこみ自分の額めがけて思い切り振りぬいた。
「辞めておきな。自傷行為なんて、どんな理由があっても許されん。誰の得にもならん、下らない行為じゃ」
額には痛みの代わりに人肌の温もりが伝わってくる。気がつけば拳と額の間には柔らかな手が挟まっていた。背中に感じる気配はどこかご主人と似ていて、それでいて匂いが決定的に違っていた。
「何をしとるんじゃ、ナズーリン。こんな時間にこんな所で」
背後に立っていたのは藍染の着物を来た僅かに獣臭い妙齢の女性だった。その姿は人間にしか見えなかったけれど、漂ってくる獣臭さは彼女が人ではないことを教えてくれた。
「……放って置いてくれ。私が何処で何をしようと、マミゾウには関係が無いだろう」
「そう言うな。儂はな、若い娘と世話焼きが好きなんじゃよ。それこそ、ぬえの頼み一つでバブル崩壊を生き抜いた会社を放り出して、この幻想郷に来る程度にはな」
正直言って私はマミゾウが苦手だ。ご主人以外の命蓮寺の皆は、何度か無視すれば必要な時以外話しかけて来なくなるのに、マミゾウだけは何度あしらってもしつこく話しかけてくる。それは、仕事場に私情を持ち込みたくなかった私にはとても不都合だった。
「ご主人に頼まれてきたのか?」
「いや、全く関係ないぞ、ただのぅ、奴め妙に湿っぽい様子でな。酒がまずくて仕方がないんじゃよ」
だから逃げてきたんじゃ、とマミゾウがいくらかトーンの低い声で語りかけてくる。知らん、そうつっけんどんに返しても、マミゾウは去る気配を微塵も見せなかった。
「そう言うな。何があったかなんて儂の知ったことではないが、どうせ ”些細な喧嘩” じゃろう?」
「 ”些細な喧嘩” ? あぁ、確かにその通りだよ。私が独りで怒って、自分勝手に逃げてきただけの些細な喧嘩だよ。本当に下らなすぎて涙が出そうだ」
「お主……、本当に捻くれ者じゃのう。素直に謝ればええものを……」
「謝る? 何を私が謝ることがあるんだ? だって、ご主人にとっては厄介者を追い払えるまたとないチャンスじゃないか。そして、私は身の丈に合わない業務から解放される。何の問題も無いに決まってる」
「そして、お主は毘沙門天の庇護(ひご)を離れ野生のネズミ妖怪と同じ生活に戻る。第一次消費者として、魔法の森で暮らすことを受け入れる。そういう事じゃな」
「何が言いたい……?」
「別に。儂が言わずともお主は何をすべきか知っておるはずじゃ」
じっと、マミゾウが私の目を見てくる。ご主人とは随分違う、誠実さよりも胡散臭さが先行する眼光だ。
「星は明日の夜に法界へ旅立つ。そこでおそらく……、お主の解任要求をするじゃろう。もしも、挽回のチャンスが欲しければその時を除いて他にはないぞ」
「余計なお世話だ。そんなことに時間を割く暇があるなら、私は皆に手を合わせるさ」
私が見るのは粗末な石で作られた即席の墓標が立ち並ぶ石の林。その中の一つの前に腰を下ろし、刻まれた名前を胸に刻む。 ”最近作ったばかり” の墓にはまだ苔も着いていないし泥にも塗れていない。下に眠る ”彼女” のことを思い、私は静かに眼を閉じた。
「何を見ておるんじゃ?」
「私の眷属たちの墓だよ。妖怪ネズミと言えど、ネズミはネズミ。肉体的な脆弱さを克服しきることはできない。……理由はそれぞれだが、大掛かりな任務の度に必ず何匹かの犠牲は出るんだよ」
「全部、お前さんが葬ってやったのか?」
「そうだ。ここにある墓は全て私が作った」
周りに立ち並ぶ数百の墓を見渡しながら宣言する。毘沙門天の使いとしてご主人に仕え始めてからの数百年。その全ての過程で命を落とした妖怪ネズミがこの墓の下には眠っている。
「……この子は聖を助けに行った時にいち早く宝塔を見つけてくれた子だ。君が居なければ今の命蓮寺は無かったかもしれない。私がもっとしっかりと誘導してやれば、猫に襲われる事もなかっただろう」
「……この子は私が巫女に襲われた時、身代わりになって弾を受けてしまった子だ。君が居なければ私はご主人に宝塔を届けることができなかった。私にもう少し力があれば死なせずに済んだかもしれない。すまない。未熟ではあるが、日々努力はしているつもりだ。もしも、私に命を掛ける程の価値がないと判断すればいつでも呪ってくれて良い。どうか私を見ていてくれ」
「……この子は、……聖が封印された時に村人に潰された子か。あぁ、無念だろう。私も同じ気持ちだった。君を犠牲にしても聖を守ることはできず、結局復活までは長い時が掛かった。謝って済むことではないかもしれないが、もう一度謝らせてくれ。済まなかった」
墓の数は膨大だけど、私はその一つ一つに刻まれる名前を全て覚えている。今だってこうして、墓に刻まれた名前と没年を視るだけで当時の様子をありありと思い浮かべることができた。そこには、一つの例外だって無い。
「この子達は皆命を掛けて私に尽くして、そして死んでいった。だから、私はこの子たちに最大限報いてやりたい。こんな中途半端な形になってしまったからこそ……、この子たちには誠実で居てやりたいんだ」
沈黙を守るマミゾウを背後に私は一つの墓の前に立って手を合わせる。下に眠っている者のことに想いを馳せてその墓に刻まれた名を確認し、そして同時に ”驚愕” した。
その墓の存在は私にとって完全なイレギュラーだった。刻まれた名前が風化して読めない訳じゃない、何かの間違いで他所の墓石が紛れ込んでいるわけでもない。周りにある墓と何一つ変わったことは無い墓だった。私の焦りとは対照的に、マミゾウは何一つ事態を理解していないようだった。だけど、そんな事は当然だし、今はもっと重要なことがある。
『墓石に刻まれた名前を思い出せない』
そんなシンプルな事実が何よりも私を混乱させていた。刻まれた文字が潰れている訳ではない。言語が理解できない訳じゃない。ただ、その名前に関する記憶の一切を思い出すことができなかった。
「そんなことが重要なのか? そりゃ、死人のことを忘れてしまったのは褒められたことじゃないかもしれんがこれだけの数だ。まぁ、そういうこともあるじゃろうて」
「いいや、絶対にありえない。私は自分の能力を使って眷属たちの死に纏わるエピソードを脳に刻みつけている。それは、墓を作った時に一緒に行うと決めているんだ。だから、墓のあるこの子が思い出せないことは本来ありえない」
脳は本来、生涯で見たもの聞いたものを全て記録するだけの容量を持っている。それにも関わらず、私達が日々の些細なことを忘れてしまうのは脳の奥深くにしまわれた記憶を呼び覚ますための ”紐” が ”目録” に登録されていないからだ。そう、昔毘沙門天様の下で研修をしていた時に教わった。だから、私は自分の『探し物を探し当てる程度の能力』を使って、本来なら目録に登録され辛い ”細い紐” を刻みつけている。それが、この眷属の死の記憶だ。
「墓場を見れば絶対に思い出せる。そのはずなんだが……、おかしい。こんなことはこれまで……」
「……どうしてお前はそこまで彼の記憶に拘るんじゃ?」
「眷属を死なせたのは、私の意志だ。身の丈に合わない地位に収まり、自己中心的な理由でしがみつくために支払った代償だ。だから、せめてこの子たちのことを覚えていてやろうと。私はそう決めていた……」
「ナズ。お前はその子を探しに行くのか?」
「当然だ。私は ”ダウザー” だ。失ったものは探す。それが私の絶対に揺るがない唯一のアイデンティティだ」
居ても立っても居られなくて気がついたら体は墓場を後にしていた。背中からマミゾウの声が追ってきていたけど、そんな事を気にしていられなかった。腰から下げていたダウジングロッドを真正面に構え、首のペンデュラムを引きちぎる。探すべき対象を強く頭に思い描くと、力を篭めたロッドが淡く発光しはじめた。
「星はどうする?」
探索条件は、 ”名前” と “没年” 。彼の墓石に刻まれていた物と、過去に多くの眷属が命を落とした場所を照らし合わせて、ほんの僅かでも反応がある箇所をピックアップして行く。
「人里、竹林、紅魔館……、やはり絞りきれないか……」
「現実逃避のつもりか?」
無言を持って返答に代える。待てと相変わらず背後から声が掛けられる。
「死人を弔うのはあくまでも自分のためじゃ。心の整理を付け、 ”前へ進む” ためのな」
意識してマミゾウを無視する。毒言を耳に入れないように、足を早め林の外を目指す。
「お前が今旅立とうとしているのは、自分のくそったれた境遇から目を背けるためか? それとも、本当に心からその子のことを思ってか?」
「……後者だ」
「本当に面倒な奴じゃ……」
マミゾウの言葉を心から否定できなかった。全てが決着する明日の夜までこの墓場で蹲っているのが怖くて、何でも良いから足を動かしたいだけなのかもしれない。だけど、彼のことを知りたい気持ちにもまた嘘はない。
「ナズーリン。もしお前に、まだやり直す気持ちが残っているのなら、明日の夕方に ”人里を見下ろす丘” を尋ねろ。そこを通って星は法界へ向かうはずじゃ。忘れるな。星は ”お前さんに似て不器用な奴” じゃが、なんだかんだでお人好しじゃ。お前が残りたい ”意志を示せば” 必ずチャンスをくれる。主を疑うな、ナズ」
そんなのはもう手遅れだ。そんな言葉は逃げ出す前の私から出なければ意味が無い。だって、私はご主人から必要が無いと言われてしまったのだから。背後からマミゾウの気配が消える。独りぼっちの林はいつも以上に暗く、いつも以上に静かだ。だけど、それだけにもう私の足を止める邪魔者は居ない。
背中に妖力の翼を作る。風切羽を展開して、全速力で地を駆ける。目に入る風が痛くて、ぎゅっと眼をつぶり、
揚力を生み出すべく地面を蹴る。ふわり、と体が重力から解き放たれる感覚が襲う。だけど、閉じた瞳では夜空に浮かぶ無数の星の一つすら捉える事ができない。
真っ黒い夜空に、彼を探して私は逃げ出した。
◇◇◇
夜を徹して迷いの竹林を駆け回った。程度の低い妖獣に幾度も絡まれ、その都度逃げるのに多大な妖力を消費した。明け方も近くなった時、反応が名もない野良の妖怪ネズミの遺体だったことに気がついた。埋葬し終わった時にはもう地平の向こうに陽が頭を出していた。
身を切るような冷たい風の中、仕事に向かう人々の合間を縫って人里を駆け巡った。慧音にあらぬ疑いを掛けられ、逃げ惑った挙句に捕まり、謝罪と称して寺子屋で長話に付き合わされた。そこで見せて貰った巻物には私も知らない内に人里で命を落とした私の眷属の名が記されていた。だけど、そこに彼の名前は無かった。
次に訪れた魔法の森でぼんやりと上空を見上げる。空に浮かんでいる陽は東の空に留まって煌々と大地を照らしている。この陽が真上に昇るまでにはそれほど時間は掛からないだろう。だから、それから降りるのにだって多くの時間は必要ない。再び陽が沈んだ時に、自分は一体何をしているのだろう。
「駄目だ、考えるな。考えるな、考えるな」
マミゾウに言われた言葉が頭を巡る。竹林を逃げ回っている時、慧音と話している時、眼の前のことだけに集中していられる時間を好ましく感じてしまった。自分していることは単なる現実逃避に過ぎないと、理解させられてしまった。
「――しました? ――さん」
だけど、それでも自分の中に残っている僅かばかりの自尊心が棒みたいになった足を動かしている。何でも良いから、何か一つでも成果を残すことができればこのクソッタレた現実が変わるのかもしれない。そんな淡い希望にすがって、普段なら絶対に近づかない紅い館に忍び込む算段を立てていた。
「――さん?」
館には魔女と悪魔、そして気狂いが住んでいる。世界を見通す目を持つ悪魔の協力が得られれば行方不明人の一人位は簡単に探し出せるはずだ。最も、プライドが高くて気まぐれな彼女がまともに取り合ってくれる保証はないし、アポ無しには門を通ることさえもできない。
まずは門番に見つからずに塀を越える方法、そして館の中をただの人間に見つからずに移動する方法。そのどれもが、これまでに経験してきた潜入任務のどれよりも高いハードルだ。正直に言って泣きたくなるほど難しい。だけど、今更引き返すほどの勇気は今の自分に残っていなかった。
「どうしたんですか? ナズーリンさん」
クリアに届いた鈴の音が彼方に飛んでいた私の意識を地表に引き戻す。声の主は中華風の装束を纏い、自分の身長ほどもある猪(いのしし)を背負って木に寄りかかっていた。彼女の接近に気が付かなかったことに心底驚く。彼女が敵意を持った妖怪なら、自分は既に死んでいた。長い飼い犬生活が自分の危機管理能力をこれほどまでに落としているとは思わなかった。
彼女が小首をかしげているのをみて、自分がこれ以上無い複雑な顔をしているのに気がつく。遅いと分かっていながらも私は急いで顔を取り繕い、埃を被った記憶の中から彼女の名前を引っ張りだした。
「はい。私は紅魔館の門番、紅美鈴と申します。このあたり――霧の湖の一帯――は、一応紅魔館の敷地内ですからね、一応声を掛けさせて貰いました」
「はぁ……、それは知らなかったな。私は――、」
“毘沙門天の使い” だと言いかけて慌てて口をつぐむ。今の自分はただの野良ネズミだ。だけど、それをそのまま言うのは惨め過ぎる。私は名前だけをぶっきらぼうに告げて、美鈴に背を向けた。
「悪かったな。無断でお前たちの土地に立ち入って」
「いえ、門の内側で無いなら追い出す必要は無いと仰せつかっています。私がこのあたりから追い出すのは――、妖精をいじめる程度の低い妖獣位ですよ」
猪(いのしし)の亡骸を地面に放りながら美鈴は言う。私の記憶が確かなら美鈴は特別な力を持たない貧弱な妖怪だ。にも関わらず彼女は何でもないことみたいに、妖獣を退治したと宣言した。知能の低い妖獣は凶暴で並の妖怪を遥かに上回る運動能力を持つ。それを擦り傷程度で仕留めるなんてにわかには信じ難かったけれど、実際に目の前には亡骸がある。それは間違いなく、つい数時間前に出くわした――自分から見れば――強力な妖獣だった。
「大丈夫ですか? 見たところ少し怪我があるようですが」
「少し前、君がさっきそこに捨てた猪に絡まれたんだよ。多少服が破れた程度だ。問題は無い」
「何言ってるんですか、 ”大有り” ですよ。女の子が肌なんか見せてたら、もっと質の悪い獣が寄ってきますよ」
「何を馬鹿な。私みたいな貧相な体を見て喜ぶ輩なんぞ居るわけが――」
肩を抜くような衝撃に体がよろめく。衝撃の元を見ると、美鈴が私の腕を引いて何処かに向かおうとしていた。戸惑う私を気にかける様子もなく美鈴はずんずんと湖の畔を進んでいった。
「何を言ってるんです。 ”美味しく頂かれる” のが貞操だけな訳が無いでしょう。そも貴女みたいな被食者が眷属の一匹も連れずにこんな所で何やってるんですか」
「放っといてくれ! 逃げるだけなら私一人でも十分なんだよ!」
「いいえ、駄目です。群れに襲われたらひとたまりもありません。それだけ生きてきて知らないとは言わせませんよ」
美鈴の言ってることは半分本当で半分大げさだ。私だってそれなりに生きた妖獣だ、動物の延長から外れていない妖獣の群れから逃げられる程度の術と脚力は持っている。智慧を付けた妖獣が率いる群れや、はぐれ白狼天狗の群れにでも絡まれたらどうしようも無いかもしれないけど、いざとなれば毘沙門天様から借りている宝塔の予備が――。
「無い……、のか」
ぞぞぞ、と背筋に変な汗が垂れる。宝塔は毘沙門天様への信仰心をお借りして奇跡を起こす道具だ。毘沙門天の使いとしての地位が揺らいでいる今、それが使えるとは限らない。もしも竹林で、もしも妖怪の山近くで。質の悪い妖怪の群れに囲まれていれば、とっくの昔に自分は命を落としていただろう。
「今の貴女からは毘沙門天の ”気” を感じません。……何があったかは聞きません。ですが、貴女みたいな下級の妖獣が ”毘沙門天の加護” も ”無し” にこんな所を歩くなんて自殺行為ですよ」
どう言い訳をしようかと考えるけれど、動揺が思考を邪魔してうまく口が回らない。暫く、梢(こずえ)が揺れる音だけが周囲に響く。そんな静寂を無造作に破って美鈴は私の手を再び引いた。
「おい。何をする?!」
「 ”紅魔館” にお連れしようかと。そんな格好で森の中を歩くわけにはいかないでしょう?」
なんでもないようにそう告げる美鈴が私には胡散臭い土産物屋の仏像みたいに見える。その提案を鵜呑みにしても良い物なのか今すぐ判断することは出来ない。だけど、他に頼れるものも無くて、消極的判断から私は体の力を抜いた。
「それも……、そうだな」
美鈴に手を引かれるまま池の畔を歩くこと十数分。気がついたら私は、紅魔館の門に併設された詰所に案内されていた。
◇◇◇
「良いのか? 私は何のアポも取っていないんだが」
「構いませんよ。ここは紅魔館ではなく門の詰所ですから。ここまでなら私の裁量で貴女をお通しできます」
そこは詰所という言葉から想像もできないほど整頓されていて清潔な部屋だった。窓際に置かれた一輪挿しや、机に並べられた使いかけのティーセットが醸し出す優雅な雰囲気は美鈴から受ける印象とは対照的と言っても過言ではない。
「まぁ、狭いところですがゆっくりしていって下さい。あぁ、着替えはその辺にあるのを使ってもらって良いですよ」
そう言って美鈴は部屋の隅にあるクローゼットを開く。何となく嫌な予感を感じつつ中を覗くと、案の定その中には簡素ながらも上質な生地で作られたメイド衣装が並べられていた。
「美鈴……。これは紅魔館で働く妖精の制服じゃないのか?」
「あら、お詳しいですね。その通りです。門番隊には元気な子が多いですからね。着替えは多めに用意してありますから、どうぞ気にせず来て下さいね」
「そういう問題じゃない! 妖精向けって、そんな幼児サイズが入るわけ無いだろう」
「大丈夫ですよ、S・M・L・LL・XLまで揃っていますから。ほら、ナズさんならMサイズが丁度じゃありませんか?」
ぼふりと顔に布が掛かる。投げつけられたメイド服は確かに私に丁度のサイズに思えた。何か釈然としないものを感じながらも、私は半ばヤケになって服を脱ぎ捨て、頭からメイド服をすっぽりと被った。
「よくお似合いですよ、ナズさん。……まるで子供の頃の咲夜さんみたい」
ぺたぺたと髪の毛やら服の裾やらを触ってくる美鈴が鬱陶しかったので手で払いのける。知らない内に漏れていた溜め息は、乗せられるままにここまで来てしまった自分と、何を考えているのか今ひとつ掴みかねる笑顔の美鈴に向けたものだ。なんだかその阿呆っぽい笑顔がご主人に似ていて、それが余計に私を苛立たせた。
「あはは、すみません。でもそうやって嫌がる仕草も咲夜さんそっくりなもので」
「お前まさか、 ”これ” が目的で引っ張ってきたんじゃないだろうな……?」
「さて……。そんなことは ”どちらでも良い” じゃないですか? そんなことよりも破れた服を貸して下さい。そちらの方がずっと大事ですよ」
「そ、そう言う問題じゃ……、いや。良い。すまん、恩に着る」
別に美鈴の言葉に納得したわけじゃないけど、ここまで来て好意を無駄にするのも気が引けた。足元に脱ぎ捨てたワンピースを美鈴に手渡し、着慣れないスカートに違和感を覚えながら窓際の椅子に腰掛けた。
机の上に置かれたティーセットに目をやる。何気なくティーポットの蓋を取ると、湯気と共に仄かに甘い香りが立ち上ってきた。その茶色みを帯びた黄金色の液体は入れられてから時間が経っている様子なのに、匂いも、温度にも全く劣化が無い。多分、パチュリーの魔法が掛けられているんだろう。飲みたければどうぞと言われたのでティーカップに口を付ける。蕩けるように甘いマスカテルフレーバーが口いっぱいに広がり心地の良い渋みが喉を潤した。思えば久々の水分だ。からっからの喉に入れるには少し上品過ぎるけど、そんなことも言っていられない。
琥珀色の雫を飲み下し一息をつく。テーブルの向こうでは、美鈴が何故か難しい顔をして針と糸を睨みつけていた。
「どうしたんだ、美鈴?」
「あはは。すみません。そう言えば私、裁縫が苦手なのを忘れていました」
「君は本当に私にこの格好をさせたいだけ――」
「しかし、困りましたね。門番隊は不器用な子ばかりですからねぇ。内勤の子は咲夜さんの管轄ですから勝手に動かせませんし」
露骨に言葉を遮ってくるのが私の疑いに一層の拍車を掛ける。表情を隠したいのか、美鈴はわざとらしく窓の外を見ている。だけど、それはあまりにもずさんな隠蔽工作だ。ガラスに写り込んだ美鈴の表情はこの上なく苦い笑顔だった。何か皮肉の一つでも言ってやろうかと考えをこねくり回していたら、かちゃり、かちゃりという作り物みたいな生活音が私の思考を遮った。突然だったのにあまりにも自然に部屋に現れた気配は異常なまでに洗練されていて、作り物みたいだと私は感じた。
「呼んだかしら」
そこに居るのが当たり前であるかのように咲夜が食器を片付けていた。彼女には何度か出会ったことがあるけれど、決まって今日のように何の前触れもなく自然に私の周囲の空間に現れる。 ”時と空間を操る程度の能力” 神出鬼没が擬人化したみたいな彼女の存在が、紅魔館への潜入を困難にした最大の要因だ。
正直に言って私は咲夜が苦手だった。そんな私と隣であんぐりと口を開けている ”美鈴” の動揺を無視し、咲夜はただの家政婦のように黙々と重ねられたカップとソーサーを洗っていく。五分も立たない内に全てを片付け終わった咲夜はポケットから取り出したハンケチーフで手を拭くと、私達の方を向き怪訝な顔をした。
「獣臭いわね……。美鈴、 ”狸” でも狩ってきたのかしら?」
「な、何を言ってるんですか。ネズミですよ、咲夜さん」
獣というのは自分のことだろうか。体臭はキツくない方だと思っているし、二日に一度は風呂に入っている。念のために胸元を開いて鼻を近づけてみる。少しだけ土の香りがしたけれど臭いとは少し違う印象だ。再び顔を上げると咲夜が私の方に真っ直ぐな視線を向けていた。
「ナズーリン。珍しいわね。貴女が客人として紅魔館に来るのなんて初めてじゃないかしら?」
「何を言っているのか分からないな。私が出向いたのは今日が初めてだよ」
「……そういうことにしておきましょうか。それで美鈴。さっきの話、もう少し聞かせてくれるかしら?」
「そ、それがですね――」
少し美鈴が慌てているように思える。最初は私を招き入れたことが原因なのかとも思った。だけど、二人の会話を聞く限りそうでもないみたいだった。咲夜は美鈴が独断で私を招いたと聞いても特段反応を見せることはない。むしろ彼女の視線は私の服に向けられているとすら感じられる。
「確かにこれは……、酷いわね。本当にこんなのを着て、ここまで歩いてきたの?」
「……悪いか」
それまで気にしてなかったとはいえ、何度も言われれば多少は意識する。なにせ私はこの格好で人里を歩いていた。言われてみれば里ではいつもよりも心なしか視線が自分に集まっていたようにも思える。そんなことを考えていたせいか、耳たぶがじんわりと紅く染まり始めていた。
「いいえ。私には関係ないことよ。だけど……、貸しなさい。美鈴に任せたらただの布切れに戻るだけよ」
咲夜が私の服をしげしげと眺める。スカートやケープの破れは特に酷くて遠目に見るそれはまるでボロ布みたいだ。一通り確認が終った様で、咲夜は丁寧に服を畳み小脇に抱え込んだ。
「本当に良いんですか? 咲夜さん」
「どうせ今から妹様の分を繕うつもりだったし。一着も二着も変わりはしないわ」
「すまない。咲夜」
「す、すみません。咲夜さん。後でお礼はしますから」
「良いわよ。二時間もあれば終わるから、後で取りに来なさい」
『美鈴』と、不意にトーンの低い声で咲夜が美鈴に詰め寄る。一瞬、咲夜が何かの理由で怒ったのかと思った。だが慌てて横を向くと、咲夜は曲がった美鈴の胸元のリボンを結び直しているだけだった。それは光景だけを見れば微笑ましい物のはずだ。だけど、私は気がついてしまった。リボンを直す咲夜が美鈴の耳元に ”何かを囁いている” ことに。そして、耳を澄ませて聞き取った声が、怖ろしいほど平坦な声だったことに。
「――私が何も言わないのは、 ”彼女” に ”お願い” されたから。その子に世話を焼いてあげるのは、……ちょっとした共感よ。だけど、お嬢様の手を煩わせるようなことになったらどうなるか。分かっているわよね?」
咲夜の言葉の意味を理解できない。だけど、その時の咲夜の目は怒りや苛立ちともまた異なっていて、それが余計に私の判断を惑わせた。そうこうしている内に咲夜はドアノブに手を掛け外に出てしまう。その間、隣の美鈴は時を止められてしまったみたいに静止していた。
「良い結果になることを祈っているわ。……祈るだけならタダだから」
「咲夜さんっ! ……恩に着ます」
背中でそう告げた咲夜は虚空へと掻き消える。静まり返った部屋に、建て付けの良くない扉がきぃ閉まる音が響いた。
「なぁ、美鈴。私は本当にここに入って良かったのか? 問題があったら出て行くが……」
「い、良いんですよ。咲夜さんの ”お墨付き” も貰ったんですから、堂々としていれば良いんです」
気まずい沈黙を破るために美鈴に話しかける。少しだけ動揺が残っているみたいだったけど、返ってきたのは先程までと概ね変わらない様子の笑顔だった。
「そう言えば、ナズさんはどうしてあんな所に居たんですか?」
「……今頃それを聞くのか。少し調べ物があってね、本当は紅魔館の中に入ろうとしていた。ただそれだけだよ」
「また密偵の真似事ですか? 流石に私の顔もあるのでそれは勘弁して貰いたいですね」
「分かっている。恩を仇で返すようなことは……、可能な限り避けたいと思っているよ」
ずきりと胸が痛む。自分はこんなにも嘘を吐くのが下手だったのかと本気で頭を抱えそうだ。
「これ以上迷惑を掛けるのも心苦しいのだが……、美鈴から取り次いでもらうことはできないだろうか?」
「取り次ぐこと自体は問題ありません。ですが基本は前日までに連絡となっていますから、明日以降また来て貰う形になってしまいますね」
「そうか……、なら……、仕方がないな」
何となく手持ち無沙汰で外の景色を見る。窓の外に広がっているのは一面の花畑。病気をすることも枯れることも無く咲き誇る花達の姿は、風見幽香の庭と言われても信じてしまうかもしれない。だけど、その広大な庭とは対照的に人気は多くない。精々数分に一人、妖精メイドが通り過ぎる程度だ。いっそのこと詰所を抜けだして、館の中に忍び込もうかとも思ったけれど世話になった美鈴にこれ以上迷惑をかける気持ちにもなれなかった。
諦めよう。調度良い雑談相手も居ることだし、好意に甘えて時間が過ぎるのを待とう。そう考えて美鈴の方を向く。そこにあったのはこれまでに無い真剣な瞳だった。
「その用事は今日でないといけないことですか? それとも、いつでも良い事ですか?」
いきなりそんな質問をされても何と答えて良いか分からない。いや、どこまで本心を明かすべきなのか判断がつかない。分からない。だけど可能な限り早いほうが良い。私はそんな曖昧な言葉でお茶を濁す。その言葉を聞いても美鈴が難しい顔を崩す事はなかった。しかし、再び戻ってきた沈黙を破ったのはやはり美鈴だった。
「……ナズさん。アルバイトをしてみませんか?」
「はぁ? アルバイト?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。美鈴が浮かべるこの上ない笑顔の中には、ほんの僅かに暗いものが混じっている。――何故かそんな気がした。
◇◇◇
「この辺はパンジーの畑ね。もうシーズンも終わりだから枯れている花もあるのだけど、このまま放って置くのは良くないの。だからナズーリンさんにはこの子たちのアフターケアをお願いしたいと思います」
「アフターケア?」
周りにあるのは一面の花畑。咲き誇るパンジーは美しいけれど遠目で見た時と違ってあちらこちらにしおれた花が目立った。客としては無理でも、日雇いのバイトとしてなら館の中に通すことができると言われて、私は今美鈴と共に土弄りをしている。
「はい。この枯れている花茎をね。こうやって……、切り取って欲しいのよ」
ぱちり、と小気味の良い音を立てて茶色く変色した花びらが美鈴の掌に収まった。
「しおれた花びらは見た目が美しくないだけでなく、病気の原因にもなります。こうやって、大切にケアーをしてあげる事が美しい庭園を保つ秘訣なんですよ」
「はぁ、それは知らなかったな……。まぁ、この程度なら私にもできるだろう。道具はこのハサミを使えば良いんだな」
「はい。だけど、その中央にある一回り大きなパンジーだけは触らないようにして下さいね。それはパチュリー様の魔法が掛かっていて、パンジーの生命力を引き伸ばす役割をしていますから」
「これの事か? 分かった、心に留めておくよ」
「くれぐれもお願いしますね。三十分もあれば終わると思います。そうしたら館の外なら自由に歩き回って貰って結構ですから、よろしくお願いしますね。私は隣で作業しています。分からないことがあったら言って下さい!」
むぎゅり、と頭に麦わら帽を押し付けられる。これは何だと尋ねたら熱中症の防止だと言われた。妖獣がこんなぽかぽか陽気程度で熱中症になる訳が無いのだが、おそらく美鈴の中では私はチルノやルーミアと同じ扱いなんだろう。少しむかりとしたので蹴ってやろうと思ったら、既に彼女の姿は無い。仕方が無いので眼の前の作業に戻る事にした。
等間隔で並ぶパンジーを手に持ち、しおれた花びらの付いた茎を切り取る。また、その隣のパンジーを手に取り花びらの付いた茎を切り取る。言われた通り極々簡単な単純作業で、全く庭いじりの経験の無い自分でも簡単にこなす事ができた。
花は嫌いじゃない。里の花屋の前を通れば眼を奪われることもあるし、華道を嗜む老婆の熟練の技を見て感嘆の声を漏らすこともある。だけど、それを自分が手にしようとは思わなかった。これは、もっと華やかな女性が手にすべきものだ。例えば……、ご主人の様な。
そんな下らない事を考えていたらいつの間にか任された区画の八割程が終わっていた。時間の経過を忘れさせるのが単純作業の怖ろしい所であると思う。上を見上げると太陽が眩しい。暑いというほどではないが、体を動かしたこともあって、額にはほんの僅かに汗が滲んでいた。しかし、その汗も風に吹かれてすぐに乾いてしまう。
そんなそよ風がとても心地よく感じた。
「私……、なんでこんな事やってんだろ」
「まぁまぁ、偶にはこういうのも良いじゃないですか」
いつの間に背後に居た美鈴が、手に何かを持って満面の笑みを浮べている。差し出されたのは中に赤色の液体が入った瓶だった。
「……血?」
「違いますよ。……多分」
「そこははっきり否定してくれないと不安で仕方が無いんだが」
「大丈夫です、大丈夫ですよ! 確かに一部、お嬢様向けに血液を配合した物もあるんですが、ちゃんと管理してあります。それは確実に普通のぶどうジュースですよ。自家製ワイン用に栽培したのを一部分けてもらったんです。チルノちゃん達にも人気なんですよ」
「チルノと一緒にしないでくれるか。私だってワインをたしなむ程度の教養は持っているぞ」
「だからって昼間からお酒は良く無いですよ。それに、貴女は一応お仕事中です」
確かに形式上今の美鈴は私の上司だ。ご主人の下に居た時だって業務中の飲酒はご法度だった。言葉が出ないのを誤魔化すために手を差し伸ばすと、鋭い刺激が指先から全身へと走り抜けた。
「冷たっ! なんだこれは、紅魔館には氷室(ひむろ)があるのか?」
「パチュリー様の魔法で年中低温の地下倉庫を作って貰っているんです。運動した後の冷たい飲み物は格別ですよ。どうぞ、それは貴女の仕事への報酬です」
「ジュース一本が報酬というのも、腑に落ちないが……、まぁ、タダ働きのつもりだったしありがたく頂いておくよ」
驚きのあまり、もわりと立ち上がった髪の毛と耳の毛を撫で付けながら、労働の対価を改めて眺める。日に透かした液体は宝石の様に透き通っていて、表面に付いた水滴が乱反射しこの上なく美しい。
漂ってくる甘酸っぱい香りに思わずノドが鳴る。気が付かなかったけれど、先程の作業でかなりノドが乾いているようだ。誘惑のままに瓶に口を付け、中の液体を口に含む。瞬間、口の中一杯に爽やかな酸味と心地の良い甘みが広がった。命蓮寺では甘味といえば和菓子であるので、この酸味は新鮮だった。我慢できずにごくりと、飲み込む。冷たい液体がノドを通り過ぎる度にびりりと電撃が走るようだった。
「美味しいでしょ?」
「……うん」
いつの間にか私はその甘酸っぱさと冷たい刺激の虜になっていた。夢中で残りのジュースを飲む姿を見られたせいか、美鈴におかわりを勧められてしまう。思わず好意に甘えそうになるが、すんでの所で思いとどまる。これじゃまるで、里の子どもと変わらないじゃないか。葛藤する私の様子を、眼を細めて見てくる美鈴が鬱陶しかったので、後ろを向いて残りを一気に飲み干すことにした。
「私はちょっと裏手の掃除に行ってきますから、残りのあと少し頑張って下さいね! ……終わったら、もう一本さっきのをあげますから」
「……あぁ、任せてくれ」
ふふと笑う美鈴の赤髪が黄色くぼやけて見える。服に付けた鈴の音を、錫杖(しゃくじょう)の打ち鳴らす鉄輪の鈍い音に錯覚する。すごく懐かしい感覚だった。ほんの数日前まではこうやって、里の茶屋や出店で茶菓子や飴湯を買って貰っていたのに、それがはるか昔のことみたいだった。全くの無意識の内、ぼんやりとした記憶の向こうでは、ジュースを飲む私を見る美鈴の姿とご主人が限りなく近いものになっていた。
はっと気がつくと美鈴は既に館の裏手に消えていた。じりじりと照りつける太陽の陽は汗ばむほどに肌を焼くのに、体の芯が冷えていくみたいな妙な感じを覚えてしまう。
「寂しいのか? ……私が?」
そんな馬鹿なと否定したかったけれど、現実の私は美鈴の背を求めて手を伸ばしていた。伸びきった腕を戻しその掌を見つめる。泥で汚れた掌は誰かと手を繋ぐのにはふさわしくないだろう。どれだけ、自分が求めた所で自分に手をつなぐだけの力と価値が無ければ何の意味もない。そう思い直してはぁと溜め息を吐く。
「本当に何やってるんだ。私」
どうせご主人の下に帰れないのなら、何も今こんな土弄りなんてする必要は無かった。黙って帰っておけばよかった。私の中に意地汚い未練があったばかりに無用な労働を強いられている。そんなことを考えていたらまた溜め息が漏れでていた。受けてしまったものは仕方がない、さっさとこんな仕事は終わらせて館の中の探索をさせて貰おう。そう考えて手を早める。
それが、大きな間違いだった。
「あっ……!」
手に握られた物を見て初めて大きな過ちに気がつく。最後の一本と思い摘み取った花茎は紛れもなく美鈴に触るなと言われたもの。現実を頭が理解していくにつれ、すーっと血の気が引いていくことを感じた。
どうしよう。
この花にはパチュリーの魔法が掛かっていると言っていた。魔道具の製造にとんでもない手間暇が掛かることは、聖を見ていれば分かる。もしかしたら治癒力も向上していないかとダメ元で茎をくっつけてみる。ぽろりと落ちた花茎を見て絶望感が再びこみ上げてきた。
どうしよう。
もしかしたら、これは勘違いじゃないだろうか。実は今切ったパンジーはただの一回り大きなパンジーで、本物の魔法が掛かったパンジーは別にあるんじゃないか。そう思って他に大きなパンジーがないか見回してみる。自分の周囲にあるのはどれも普通のパンジーばかりで、自分はその中央に居る。そして、手元にあるのは一際大きなパンジーの成れの果て。疑う余地など無い。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうにかならないだろうか。何でも良い。この状況を脱する為にできる事は何かないだろうか。嫌だ。嫌だ。嫌だ。自分がこんな簡単な仕事もできないなんて、信じたくない。どうにか、ならないだろうか。例えば、――これを ”隠し通す事” はできないだろうか。
「どうしましたか?」
心臓が口から飛び出しそうだった。驚き振り返ると、いつの間にか戻ってきていた美鈴は不思議そうな顔で私を見ていた。全くの無意識の内に、切り取ってしまったパンジーは背中で隠してしまっていた。
「何か、随分と慌てているようでしたが……、トイレですか? 場所、教えてませんでしたよね」
「い、いや違うんだ。これは……、何でもないから。大丈夫だ」
「……本当に大丈夫ですか? 汗、凄いですよ。お腹痛いんですか? 医務室に連れて行ってあげますよ」
「ほ、本当に。本当に大丈夫なんだ、あ、あと少しで作業が終わるから! 美鈴は戻っていてくれて良い!」
明らかに怪しまれている。相変わらずの柔和な笑顔にどこか訝(いぶか)しげなものが混じっている。こんなプレッシャーを美鈴から感じたのは初めてだ。かたかた、と肩が震える。ツンと酸っぱい香りが喉奥から立ち昇ってくる。そうしている間も、美鈴はずっと私の眼を真っ直ぐに見つめてくる。それは私を責めている様で、弁解のための言葉を考える余裕なんて何処かに吹っ飛んでしまった。
「ナズーリンさん――」
「ひぐっ……!」
驚きで背筋が伸びたと同時に、背後に隠したパンジーの花弁が地面に落ちてしまった。美鈴は静かにその花弁を拾い上げ、私が隠していた首無しのパンジーを発見する。その現実が怖くて仕方がなくて、私は思わずその場に蹲(うずくま)ってしまった。
突き刺さるような視線は私を責めるものだろう。こんな時ご主人はいつも決まって曖昧な顔をして私を見る。悲しげで、それでいて何かを言いたげな顔をして私を見て、何も言わずに去って行く。後日会っても何も言わないものだから、私はそれが逆に怖くて仕方がなかった。
美鈴も同じだ。笑みが消え複雑な表情で私を見ている。多分、無能な私に失望したのだろう。この程度の簡単な仕事もできない私に怒りを覚えているのだろう。ご主人はこの後、静かに踵(きびす)を返して自室に篭ってしまう。美鈴もきっと同じだ。私への不満を胸に今に詰所に戻るだろう。そうなるとばかり思っていたものだから、美鈴が首を振った後、唇を噛み締めながら私に歩み寄ってきた時には心底驚いた。
「――!?」
こんなことは初めてで、これから何をされるのか全く想像もつかない。すっと、美鈴の手が近づいて来る。怖ろしい。殴られるだろうか。それとも、罵られるのだろうか。どちらにしろこの距離で美鈴から逃げることなんてどうやってもできない。迫ってくる掌がどうしようもなく恐ろしくてぎゅっと目を瞑った。
その次の瞬間、頬に感じたのは打撃でも何でもない。ただの人の温もりだった。美鈴が私の両側の頬に手を添えて私を見ている。息が掛かる程の距離に見える美鈴はこれまで見たことが無い程に真摯(しんし)な表情を浮かべていた。
「慌てなくて良いです。筋道立てて話さなくて良いです。今すぐ話さなくて良いです。落ち着いて、ゆっくりと、思いついたことから、話せることから、話してくれれば、それで私は十分です」
そうとだけ言って美鈴は私から離れる。私はそんな状況が理解できずに呆然としていた。怒られるか殴られるかとばかり思っていたのに、はっと我に返ると、少し離れた位置で美鈴が花壇の手入れに戻っていた。その美鈴の背が纏う物悲しげな雰囲気が胸の中に沸き起こす感情は、これまでとは何かが決定的に異なっている。もう、居ても立っても居られなかった。
「いやっ……、あのっ……、これは……っ!」
「……落ち着いて、焦らないで、ゆっくりで良い」
「あの、早く終わらせようとして……、それでついうっかりして……」
「……それで?」
「……さっき真ん中にあったパンジーを、切って……、しまい……、ました」
「……他には?」
「……あの、……その、御免な、……さい」
どくりどくりと、心臓が早鐘を打つ。美鈴にも聞こえているのではないのかと思うほど激しい拍動だった。もはや隠すこともできない程に震える私を見て、美鈴が再び近づいてくる。怖くて仕方がない、だけど、眼を瞑ることもできなかった。私の前に来て立ち止まった美鈴は、静かにその口を開いた。
「そうですか……。パンジーは残念ですが仕方ないですね。完全に枯れてしまう前にパチュリー様に相談しておきましょう。ところで、他の場所は全部済みました?」
気がつけば美鈴の顔には柔和な笑みが戻っていた。先程までのプレッシャーはもう何処にも感じない。
「あ、あぁ。もう終わってる……」
「そうですか。それならご褒美のジュースがあります。ちょっと待って下さいね」
まるでそれが当たり前にみたいに腰から下げたバッグに手を突っ込む。そんな彼女の姿が理解できなくて、気がついたら私は叫び声をあげていた。
「……? どうしたんです。ナズさん」
「め、美鈴! き、君は……、一体 ”何” なんだ!? 私が憎くないのか? 何で君は、私を無視も怒りもしないんだ?!」
「……なんだ。そんなことですか」
ぽりぽり頬を掻いた美鈴が少し照れくさそうに空を見上げる。屈みこんだ美鈴が、丁度同じ高さになった視線を私に向けた。
「 ”貴女が謝った” から。それだけですよ。ナズは本当に偉いですね。私の若いころよりもよっぽど……」
「そ、それがなんだって言うんだよ! 私が謝ったからって何も解決してない。この後美鈴は咲夜に怒られるんじゃないのか?! 私が ”無能だった” ばっかりに!」
他人に真っ赤な顔を晒すのが恥ずかしいとか、他人の家で大声を出すのは礼儀に反するとか、そんな常識的な思考は何処かへ行ってしまっていた。私はただ眼の前のご主人に似た、それでいて全く違う他人が理解できないことに大きな恐怖感を覚えていた。
「うーん。端的に言えばその通りかもしれませんが……」
「だったら、君は私を殴ったら良いじゃないか! それは、クズみたいな私が受けるべき罰じゃないのか?!」
「そんなこと無いですよ。自分をそんなに卑下(ひげ)しないで下さい」
「違う……っ! 私が聞きたいのはそんな言葉じゃ――」
「――仕方のない子ですね」
わしゃわしゃと髪の毛をかき回される。それは子供をあやすような口調と仕草だった。その手の平の温もりが、髪の毛の触り方が、まるでご主人そっくりで。言いたいことは他に幾らでもあったのに、私はただ口をつぐむしか無かった。
「大丈夫ですよ。貴女は忘れているだけです。あまりにも長い生と業務に流されて、ほんの少しだけ自分の気持ちを見失ってしまっただけですよ」
それはとても私の求めている答えだとは思えない。そんな言葉ではどうして自分が許されたのか理解できない。だけど、その優しい声や語りかける口調が相変わらず私に反論を許さなかった。
「貴女の特技は探しものでしたよね?」
「……その通りだ」
「貴女は本当に生まれた時からダウジングが得意だったんですか? そのロッドやペンデュラムを扱う技術は生まれつき身についていたものでしたか?」
「いや、違う……。これは私のただ一つの特技で……、ご主人のために、磨いてきた力だ……」
「その過程であなたは数え切れないほどの失敗をしてきたはずです。違いますか?」
「……違わない」
「失敗は成功しなかったという立派な ”成果” ですよ。私たちはそうやって生きる変わり者同士じゃないですか」
そう言って美鈴は空中に向かって拳を突き出してみせた。力自慢の妖怪にありがちな腕力に任せた運動ではない。体重を乗せた重く、鋭い拳打だった。空中に飛び出した汗の粒が夕陽に煌めいて落ちる。
袖の端から見えた腕には未だ大きな傷が残っていた。並程度の妖怪なら数時間で完治する程度の怪我だ。こんな程度の僅かな妖力しか持たない体で、彼女は巨大な妖獣と戦っていた。そんな芸当を可能にしたのは紛れもなく ”血の滲むような努力” だ。
「忘れないで下さい。ナズーリン。貴女も私も、力の弱い脆弱な妖怪です。本来なら単独で生きられるほどの力すら持っていません。だからこそ、私たちは技術を磨いて生まれの枠を超えた存在に己を昇華できた。全てはただ、生き残るために」
太陽のように優しく大昔の港町で感じた凪のように柔らかい笑みを浮かべて、何でもないことみたいに美鈴は言った。
「私が怒らないのは、貴女がいずれ同じ失敗をしなくなるのを知っているからです。そして、正直に謝ることで、貴女がそれを約束してくれたからです」
古ぼけて錆びついた思考の歯車が、油が差されたみたいにぎぃと鳴って動き始める。自分の中で思考が次から次へとひっくり返っていく。沸き上がってきた古い感情に片っ端から過去の自分が否定されているのに、不思議と不安感は覚えなかった。
真っ白い歯を見せて美鈴が笑うものだから、私も釣られて少し笑ってしまった。美鈴から渡された二本目のぶどうジュースを手に持ち、促されるままに近くのベンチに腰掛ける。続いて美鈴が子供みたいな動作でぴょんと座った。
「今度こそお疲れ様です、ナズさん。咲夜さんにはもう伝えてありますから、館の中にはいるならご自由にどうぞ」
私の服を取り出しながら美鈴は言う。だけど、今の私にはそんな言葉はそれほど大事じゃない。少しでも早く、自分の気持ちが揺るがない内に。やらなければならないことは既にこの場所には無いのだから。
「そう言えばナズさん。紅魔館の中への用事ってなんだったんですか?」
手元のジュースを一気に喉に流し込む。喉を通り抜ける冷水に頭がキンと痛むのをこらえて瓶をどんとベンチの上に置いた。
「私はダウザーだ。忘れたものを探す以外になんの用事がある。 ”だからもう私は帰る” よ」
そうだ、私は一刻も早く行かなければいけない。
「……行ってらっしゃい。気をつけてね」
「あぁ、行ってくるよ」
急に帰ろうとする私を怪しみもせずに美鈴は微笑みすら浮かべて私を見送ってくれる。一歩、また一歩と門が近づく度に生まれる不安を踏み潰すみたいに地面を強く蹴って私は歩く。だけど、門を出る一歩手前で足が止まった。数分前の自分と、今の自分は完全に別の存在だと思う。だけど、今一つそのことに確信が持てなくて、私は久しぶりにほんの僅かの勇気をだしてみた。
「美鈴……! あの……、その、今日は……、あり……、がとう!」
ちゃんと、言えた。大丈夫だ。私はまだ終わってない。まだ私はご主人の前に顔を出すことができる。そんな願望に近い希望を胸に踵(きびす)を返して私は門の外に全力疾走した。私はもう迷わない。私が今やるべきことはこの場で時間が過ぎることを待つことでも、強引に紅魔館の中を探索することでもない。刻限は間際に迫っている。猶予はあまりないだろう。
胸の中に宿った決意が消えてしまう前に、私はやるべきことをやらなければならない。私はもう振り返らない。私はもう……、逃げてはいけない。
「ナズさん、服。着替え忘れてますよ!」
詰所に猛然とダッシュした。
◇◇◇
私は ”彼” を見つけないといけなかった。
それは彼に謝るためだ。私のために死んだはずの彼に不義理を働きたくなかったからだ。そして、彼を探している間に、ご主人のことが過ぎ去ってしまうことを心の何処かで願っていたからだ。
だけど、本当にそれだけだったのだろうか。
私は利己的な妖怪だ。万が一ご主人の下に戻れるチャンスが来たとしたら、後ろめたい気持ち無く元の鞘に戻れるように予防線を貼りたかっただけなのかもしれない。我ながら最低な自分に反吐が出そうだ。だけど、彼を愛おしく思う気持ちには嘘はない。
だからこそ私はこの場所に戻ってきた。
「皆、すまなかったな」
月は雲に隠れてしまって何も見えない。だけど、彼らはたしかにそこに居る。まばらにクヌギやナラの並ぶ雑木林の一角で、墓の前にしゃがみこむ。私は静かに手を合わせて瞼(まぶた)を閉じた。
「命を掛けてまで私のわがままに付き合ってきてくれたのに、こんな結果になって、本当に……、ごめん。私は不義理な主だ。存分に罵って欲しい。だけど……、私はそれでも自分の気持ちに嘘は付きたくないんだ」
耳を塞ぎ、目をつぶればネズミ達の怨嗟(えんさ)の声が聞こえる。だけど、何だか妙な感覚だ。いつも自分の胸を締め付けていたはずのその言葉が、今日は何故か心地良くもある。いいや、当然だ。自分はそう言われるだけのことをしたし、今もそうしようとしている。今更になって謝って許して貰おうと思っている最低な自分にはお似合いすぎる言葉だ。
「今日一日ね……、君のことを探してたんだ。色々な所に行ったよ。人里、竹林、魔法の森、そして……、紅魔館。美鈴はどこかご主人に似ていたな。ご主人みたいに優しくて、どこか一本抜けていて、……でもご主人よりも少し……、厳しい」
今の私は ”彼” と彼らの両方に謝るためにこの場所に居る。自分の気持ちに嘘をつかず、次への一歩を踏み出すにはどうしても皆に謝らないといけなかった。例えそれが絶対に許されないと分かっていたとしても、私はこの場所に来ないといけなかった。
「皆。本当に……、済まない」
踵(きびす)を返して墓石の前から去る。墓場を通り抜けて林を出ると、そこは人里を見下ろす小高い丘だった。全く何の根拠もないけれど、私のダウザーとしての勘が、今会わなければならない人がこの場に居ると、明確に告げていたからだ。
空を見上げても星は見えない。相変わらず分厚い雲が天蓋を覆っていて、月のぼんやりとした灯りがおぼろげに見えるだけだ。人里を見下ろす、堀と壁に囲まれた街は宵闇に紛れ、黒い湖に揺らぐ蛍みたいに見えた。しばしその光景を眺め、激しい動悸で荒れた息を整える。
現実から目を背けるのはここまでだ。
勇気を振り絞って、視線を丘に戻す。そこには予想通りあのお方が居た。遠すぎて顔は見えない。人ならざる気配が多すぎて人影の気配を感じることもできない。だけど、私にはこの人影があのお方だとはっきりと分かる。
丘の上に立つあまりに見慣れた人影は最初からそこに根をはっていたみたいに身じろぎ一つしない。一歩、また一歩と近づく度に、心臓が足音と連動しているみたいに大きく打ち鳴らされた。月に掛かる雲にできた僅かな隙間が地上に僅かな月光を届ける。月光で作られたスポットライトがゆっくりと謎の人物を照らしだした。
「ナズー……、リン」
月光が、その人物の整った鼻を、凛とした目筋を、小麦のように鮮やかな金毛を、威風堂々とした背筋を、虎のように逞しくも引き締まった腕を、桃のように愛らしい唇を順に露わにしていく。その影が月光の下に引きずりだされる程に胸の高鳴りは限界を知らずに強まり続ける。だけど、私はこのお方に言わなければならない。心の中に残っていた、全ての勇気を振り絞って私は口を開いた。
「ご主人、頼む……。もう一度だけ、話をさせてくれ。
人里を見下ろす丘の端、白詰草の草原の上で墓守のように静かに立ち尽くすご主人が居た。
◇◇◇
『私はご主人に必要なんだろうか』
最初にその疑念が浮かんだのは何時だったのかはもう思い出せない。ただ、物凄く昔だったことだけは覚えている。なぜなら、初めて出会った時からご主人は誰よりも優秀だったからだ。一時も離れず側でその働きを見続けていた私はそのことを誰よりも良く理解している。だから何の力も持たない自分が捨てられないかと不安に思い始めるのに長い時間は必要では無かった。
だけど最初はそれをどうにかしようとしていた。運動の苦手なご主人に変わって見様見真似の格闘術の練習をしたり、多少忘れっぽいご主人のために探しものを見つける方法を学んだり。そんなことを覚える度にご主人が喜んでくれるのが “嬉しい” と、確かに私は感じていた
なのに、有能なご主人はそんな私の気持ちを考えてはくれなかった。私よりも遥かに速いペースで次々と新しい仕事を覚えていくご主人を見ていると、私が要らなくなる日も遠くないと何時しか思うようになってしまったのだ。そのせいかもしれない。ある時から、私はあろうことか自分の行なっている職務に対して抗いのようのない忌避感を感じるようになっていた。幾度と無く命蓮寺の布団を汚しご主人の部屋を使えなくして、そして私は命蓮寺から離れることを決めた。
だから、踏み出す足を間違えたのは何時からだっただろうかと、私は命蓮寺から離れた小屋で独りぼっちになる度に何時も不思議に思っていたんだ。
ただただ、そこに立っている。最初に受けたのはそんな印象だった。笑うこともなく頷くこともない。精悍とも言えない中途半端な真顔で何をするわけでもなくただその場所に居た。ご主人は私を真っ直ぐに見つめるけれど何も言わない。ただ、開こうとする口を押さえつけるみたいにしてまごつかせているだけだ。
「ご主人。君がこの場所を通ることはマミゾウに聞いた。これから君が私の解任要求に行くことも知っている。だけど……、その前に話をさせて欲しいんだ」
“解任要求” という単語が出た時、ご主人は明らかに悲しげな目をした。何時だって誰かと話す時は真っ直ぐに相手の目を見るご主人が、またもや顔を俯かせる。そんな様子に少しだけ驚く。だけど、今はそんなことよりも大事なことがある。決心が揺るがない内に、言葉の勢いが失われない内に、私は地面と平行になるほどに腰を曲げた。
「ご主人、本当に済まなかった」
地面を見つめたまま、私は話を続ける。
「ご主人。私は……、君に相談もせずに多くのミスを隠し、上からの指示すら独断で握り潰していた。ただ、今の職を失いたくないなんて自分勝手な理由で……、私は今までずっと君に黙っていた……!!」
膝がゆっくりと震え始める。逃げるな。心のなかで強く自分を叱責しても震えの悪化が抑えるのがやっとだ。だけど、それでも自分は逃げるわけには行かない。これは今まで自分が棚上げし続けてきた現実のツケだからだ。
ごくりと息を飲む音が聞こえる。それが自分のものであるのか、それともご主人のものであるのか。そんな単純な事実を判断する余裕も私には無かった。私は過去の自分に決別するための一言を紡ぐことに、ただただ全力を注いだ。
「認める。私はただの……、 ”無能” だった……っ!」
まだ自分はご主人の前に立っている。まだ私の踵(きびす)は反転していない。たったそれだけのちんけな現実のために全身に数百キロの長距離を飛んだあとみたいな疲労感を覚えていた。私は今、絶対に見られたくなかった恥部をご主人に見せつけている。過去の自分を全て残さず否定して、ようやく私はこの場に踏みとどまっている。だからこれは当然のことだ。
「私は……、自分の身が可愛くてそれを君に知られたく無かった。だから、相談の一つもせずに事態を悪化させたのは、そんな私のくだらないプライドだ。まずは謝らせて欲しい。悪いのは全て私なのに……、気を使ってくれたご主人に無礼を働いた。本当に済まなかった……!」
一際深く頭を下げ、そして上目遣いでご主人の顔色を伺う。薄暗い月光の下では十分にその顔を確認できない。思い切って顔を上げる。ほんの僅かだけど、ご主人の顔には笑みが戻っていた……、そんな気がした。随分と久しぶりにご主人を真正面から見た気がする。優しい表情をするご主人は珍しくないはずなのに、それがどうしようも無い位に新鮮なものに見える。でもそれは多分――、私の眼の問題だ。
「ナズーリン……」
馬鹿みたいに遠回りをしたけれど、やっと言えた。やっとご主人に ”謝れた” 。まだご主人から返事も貰っていないのに心の片隅で満足をしているあたり、自分はやはり自分勝手だと思う。だけど、まだ安心するには早過ぎる。
「どれだけ罵倒してくれても良い。どんな罰でも甘じて受ける。だけど、その前に……たった一つで良い。私の願いを聞いて貰えないだろうか」
さっきの勇気で踏み出した一歩なら、これから出す足の原動力は希望だ。本当の意味で自分にケジメを付けるために、同じ過ちを繰り返さないためにこの足をこの場に留めることは出来ない。それが、迷惑を掛けたご主人にできる最大限の贖罪だと、私は信じている。
「……言ってみなさい」
私と同じ、どこか緊張した声だった。震えそうになる声を押さえつけて口を開く。迷ってしまったらその時点で負けだ。だから、時間を置かずに一気に言の葉を紡いだ。
「どうか……、私にもう一度やり直すチャンスを貰えないだろうか?」
鳴き虫の囀(さえず)りが遠くから聞こえてくる。ご主人との間に生まれた静寂が、人気のない丘に自然のBGMを流していた。長い長い沈黙の後、ご主人は私に向かって小さく微笑んだ。その吸い込まれるような瞳に胸がぎゅっと締め付けられる。
「ナズ……。貴女という人は……。遅いですよ。私はその言葉をずっと待っていたのに……」
「すまない。ご主人が私を気遣ってくれているのは知っていた。ただ認める勇気が無かったんだ。だけど……、今日美鈴に出会って、ほんの少しだけ……、勇気を出してみようと思えたんだ」
「そうですか……、美鈴が」
「ありがとうご主人。私は君の ”部下” で居たことを心より……、嬉しく思う」
やっと微笑んでくれたご主人を見て、胸の奥が激しく疼(うず)いた。心臓よりも更に奥。おそらくは、今まで後生大事に守っていた価値観だ。これまで何者にも触れさせなかったそれに何かが突き刺さっていくことがはっきりと分かった。だけど、もう私は退きたくない。今この瞬間を逃せばこんなチャンスは二度と訪れないだろうから。どんな結果になっても、きっと何も言わないよりも後悔するだろうから。
揺らぎそうになる心をしまいこみ。代わりにぐっと拳を握りこんでご主人の眼を真っ直ぐに見つめた。
「本当にありがとう。そして、―― ”さようなら” だ、ご主人」
確かに自分は地面に立っているはずなのに、まるで地面が崩れてしまったみたいにぐらぐら視界が揺れる。船酔いした時みたいな吐き気がとんでもない勢いで襲ってきた。だけど、その全てに私は唇を噛んで耐える。こんな程度の衝動に耐えられないなら、最初っから逃げていれば良い。我慢する覚悟があったから自分はここに来たんだ。
だけどそんな私の葛藤を他所に、数拍も遅れて返ってきたのは間の抜けた声だった。
「私は一度毘沙門天の使いを辞めて、それで……、もう一度登用試験を受けようと思う。全て一からやり直して初心に戻って働こうと思う。ご主人は私のことは気にせず新たな使いと共に命蓮寺を守ってくれ」
「ナズ、それはつまり――」
「ああ知っている。多分……、二度と君の下には戻らない。入り直せたとしても、十中八九本部の小間使いで終わるだろう。だけどそれが君への贖罪(しょくざい)だと私は思うんだ」
自分はご主人の下に居ればきっとまた、その優しさに甘えてしまう。この先に何があるのか分からない。ご主人に何か会った時、私はきっとまた足を引っ張るだろうし、私自身も引っ張る存在のままだ。だから、これからは独りで毘沙門天様に使える者として自分を磨いていく。それが、長い目で見れば私自身のためにもなるはずだ。
「ご主人。これまで本当にありがとう。多分……、私のご主人が君で無かったら……、とても今日まで務めることはできなかったと思う。ありがとう。こんな私を今日まで引き立ててくれて」
これで良い。私が居なくなって、枷の外れたご主人はより深い信頼を毘沙門天様から得るだろう。もしかしたら、何時の日かご主人に着く使いには監視という裏の目的すら無くなるかもしれない。ご主人の活躍は私の喜びだ。それは、ご主人の下を離れることになったって変わらない。
そのはずなのに、目尻に水が滲んでくる理由が全くもって理解できない。この選択はこの上なく好ましいはずだ。だから、今胸の中から昇ってきている感情は式で言うバグみたいなものに違いない。いつまでもご主人を見ていたら決心が鈍ってしまう。だから、私はご主人に背を向けてその場から静かに去った。
これで良い。
こうすれば自分は筋を通してご主人に負い目を感じずに済む。
だから、これ以上私を裏切らないでくれ。私。
「待ちなさい、ナズ」
背中に突き刺さる視線と、得体のしれない気配が私の足を地面に縫い付ける。明らかに異常と分かる雰囲気に、私は恐る恐る主の名を途切れがちに呼んだ。
「自分が居ることが迷惑だから去ると、貴女は言いたいんですか?」
返ってきたのは驚くほどドスの利いた低い声だった。ご主人の豹変にただただ驚愕する。数百年間、連れ添ってきたというのに、こんなご主人を見たのは初めてだ。
「……それも理由の一つだ。だがそれ以上に――」
「私が貴女を疎んじていると判断したから、私の下を去るんですか」
ご主人の姿が得体のしれない何かに変わっていくような錯覚を覚える。いつも通りの姿のはずのご主人が、今はおぞましい生命のように思えてしまう。
「ナズーリン。どうして貴女は……、私を拒絶する……!!」
「何を言っているんだ。先に拒絶したのは君じゃないか……?」
怒りと “何か” がないまぜになった変な表情だった。ご主人からこんなにも刺々しい感情が発せられるなんてにわかには信じられない。だけど、眼の前のご主人は絶対的な現実感を伴って、どうしようも無い位に張り裂けそうな瞳で私を睨みつけていた。
「この……、何も知らないくせに……!! 自分勝手もいい加減にしろ! この、ネズミ風情がッッ!!」
ぐわんぐわんと視界がぐるぐる廻る。耳を貫いた虎の咆哮に三半規管がやられてしまったみたいだった。そして、同時にご主人から発せられる得体のしれない気配に、全身から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。
「 ”お前” を解任する理由なんて私の手元に幾らでもあった! これまで散々いい加減な仕事をして、私の仕事を邪魔して、それがバレたら頭ひとつ下げてはいサヨウナラ?! 本当に良い身分だな、ネズミって奴は!」
「ご主人……、急にどうしたんだ……? 君が私を許せないなら、後で気が済むまで罵ってくれて良い。殴ってくれて良い。私は受け入れるから。だから今は落ち着いて――」
「そうか、お前は何でも受け入れるんだな」
その通りだと言おうとした時、ご主人の鋭い視線に射抜かれ体が硬直した。眼を閉じることもできない。息をすることもままならない。これじゃまるで――。
そこまで考えて、私はようやくご主人の怒りに隠された異様な雰囲気の正体に気がついてしまった。
「助かりましたよ。部下の解任や辞任は私にとってもかなり大きな失点になります。無能な部下と共にこれまで毘沙門天様の助けをしていた事を認めることになりますからね」
「ごしゅっ……、じん。きみ……、は……」
「お前みたいなネズミは大っ嫌いだが、最後だけは気が効くようで助かったよ」
眼から怪しい光を迸らせたご主人が宝塔を取り出した。手先に載せられた宝塔へと法力が注がれると共に淡い輝きを放ち出す。その矛先が向けられているのは紛れもなく ”私” だ。
どうして今まで気が付かなかったんだろう。背筋の寒くなるこの気配は私が妖獣となる前に日常的に感じていたはずだ。私達ネズミは弱いから、誰よりもこの気配に敏感で無ければいけないのに、長いぬるま湯の生活でその感覚が鈍っていたのかもしれない。
「私の最期のお願いだ。簡単なお願いだから、無能なお前でも問題ないはずだ」
だけど、一度そう思いはじめたらもう間違えることはない。それは肉食獣だけが持つ独特の気配だ。腹を空かせた獣が、得物を求めて動きまわる時に放つおぞましい気だ。
「死んでもらえますか?」
それは紛れもなく殺気だ。
宝塔から発せられたレーザーが頬をかすめる。じゅうという音と主に焼け付くような痛みが全身を駆け抜けた。間髪入れずに放たれた二発目は正確に喉元を捉え迫ってくる。だが、幸か不幸か焼け付く様な痛みが私の金縛りを解いた。間一髪で地面に転がり辛うじて直撃を免れる。
「ネズミは簡単に死ぬ。お前がついうっかり死んでしまったら。うっかり、猫にでも喰われてしまったのなら。全ては丸く収まると思わないか?」
「はぁっ……、はぁっ……! ご主人……、見損なった! 貴女がそんな利己的な奴だとは思わなかった……っ!」
「黙れ! これまで散々利己的な理由で私に迷惑を掛けておいて……、私の我儘は聞けないのか?!」
「そうかも……、しれない。でもっ……!」
「ナズ、主として最後の命令だ。久々に腹が減った。長い仏道生活のせいで血が足りぬ。最後に主の血肉となって私を支えろ!!」
ご主人と出会ってから数百年、初めて自分に向けられた明確な殺意だった。冗談かと思った。だけど、隠すこともせずに放たれる殺気と続けて放たれるレーザーがその考えを否定した。
「い……、いや。死にたくない!」
「誰だって死にたくない。だけど、食べなければ生きられない。だから弱い者を食べる。自然では当たり前のことだ」
その場から一歩も動かず、一切ためらわずにレーザーを放ち続けている。その宝塔から放たれる光は全てが弾幕ごっこに使われる遊びのためのものではなく、一撃で妖獣の頑健な体を抉り取るだけの力が籠められていた。
『ご主人本当に自分を殺そうとしているんだ』改めてそう理解してしまった事に動揺した瞬間。放たれたレーザーの内の一本が私の足をかすめた。
「ひうっ……?!」
足に感じる焼けるような痛みで地面にどうと倒れこむ。草原に倒れ込んだ私に、ご主人は淀みない足取りで近づいてきた。傷は深くないのに焼きつくような痛みが体の動きを鈍らせる。妖獣にとってはこの程度の傷は大したことが無いはずなのに、それでも体を動かせない。ご主人に傷つけられたと言う事実が、必要以上に脳に痛みを伝えていた。
「……最期に言い残すことは?」
「いや……、いやっ……、死にたくないっ……!」
宝塔を錫杖(しゃくじょう)に持ち替えたご主人が迫る。頭を割ろうと振り上げられた杖がためらいなく振り下ろされるというのに麻痺した足は地面に張り付いたように動かすことができなかった。死ぬ。常に背中合わせながら初めて直面した現実に頭が真っ白になる。強く、眼を瞑る。この怖怖から逃げるにはもうそれ以外に選択肢は無かった。
しかし、いつまで経ってもその時は来ない。代わりに聞こえてきたのは、ご主人の驚きの声だった。
「ッ……! 宝塔が!」
ありえない光景だった。数匹の妖怪ネズミがご主人に取り付き、錫杖(しゃくじょう)を止めると同時腰に携えた宝塔を遠くへとはじき飛ばしていた。 ”何の指示も出していない” というのに。
だけど、所詮は妖怪ネズミ。剛力の持ち主であるご主人の前にいともたやすく跳ね飛ばされてしまった。足元に落ち、ぐったりと横たわった一匹のネズミが眼に入る。その光景にようやく私の金縛りが解けた。
「ぅ……、うわぁぁぁっッ!!」
夢中になってご主人に飛びつき、地面に押し倒す。馬乗りになって錫杖(しゃくじょう)を持つ手を左手で抑え、右手でご主人に殴りかかる。訳の分からない叫び声を上げながら何発も、何発もご主人の顔を殴りつけた。拳には血が滲み、ご主人の鼻からは一筋の鮮血が流れはじめる。だというのに、ご主人は表情一つ変えずに私へ血走った眼を向け続けていた。
この程度では全然応えていない。だけど、打開策を考えられるほどの余裕は何処にもなかった。ただ、死にたくない一心で、馬乗りの体勢で拳を打ち付け続ける。最大の力を籠めて殴りかかろうと、拳を大きく振りかぶった瞬間。拘束が解けた一瞬の隙を突いて、ご主人は私を跳ね飛ばした。
「……っ?!」
距離を取ったご主人が錫杖(しゃくじょう)で殴りかかってくる。懐に飛び込んで、それを交わし、手首を狙って肘鉄で錫杖(しゃくじょう)を弾き飛ばすと猛烈な速度で蹴足が襲いかかってきた。体重も乗っていない、軌道も不安定。足の力だけで強引に放たれたものだと言うのに途方も無い威力を持って迫るつま先を、私は後方へ飛んで交わす。空を切り、がら空きになったご主人の体に再度突進しその首根を抑えるとそのまま背後にそびえる大樹の幹に押し付けた。
「はぁ……、はぁっ……。ご主人……、結局……、運動音痴だけは……、治らなかったね」
ご主人は酷い運動音痴だ。恵まれた肉体を余すことなく無駄にする運動センスを補うために、これまで戦闘では常に私が接近戦を受け持っていた。だからこそ、私はご主人の動きを誰よりも良く知っている。
指先で頸動脈の位置を探る。この部分の血を止めればどんなに頑健な妖獣でも一時的に意識を失うはずだ。今のご主人はきっと正気じゃない。その原因は私なのかもしれないけど、一度眠れば思い直してくれるはずだ。そう願い私は指先に力を篭めた。
「ご主人。後で必ず……、謝るから。だから、今は落ち着いて、眠って欲しい!」
「調子に……、乗るな!」
首を締める手の感触がにわかに変化する。あっという間に太く伸びた首は私の小さな手ではとても締められない程に変じていた。同時、猛烈な力に跳ね飛ばされる。訳も分からない内に十メートル以上も飛ばされ、岩にぶつかってようやく止まった。
「あぐぅっ……!」
間髪をいれず胸を超重量の足に押し潰され、地面に縫い付けられた。私の体にのしかかっているのは、全長五メートルには達しようかという巨大な虎だ。牙を剥き、唯の獣としか思えない咆哮を上げて虎へと変じたご主人が私を睨みつけている。みしみしと音を立てて肋骨がへし折られていく。肺が潰されて息ができない。今度こそ妖怪ネズミではどうにもならない。圧倒的な力から逃れることは技術だけでは到底不可能だった。
一瞬でも死なずに済むと思ってしまった自分が憎い。ネズミ少し鍛えたくらいで猫の前から逃げられるのなら、眷属の墓をあんなに作る必要は無かった。駄目だ、どうやったって自分は今ここで喰われるのだ。突き付けられた現実に涙が溢れて止まらない。
嫌だ。
死にたくない。
怖い。
儚い願いも虚しくご主人は口を開き牙を見せつける。頬にぴとりと滴り落ちた唾液が麻薬のように体を麻痺させた。眼を閉じることも許されずにその牙が首元に迫る光景を見せつけられる。首筋に牙が触れる。ビクリと、雷に打たれたように体が収縮するけれど、逃げることはできない。牙に力がこめられる。ぷつり、と尖った牙の先端が皮膚に突き刺さる感触がした。
嫌だ。嫌だ。
死にたくない。死にたくない。
怖い。怖い。だけど、
ずぶり、ずぶりと牙が首の肉を裂き脊髄へと迫る音がする。その音が怖くて怖くて仕方がなくて。私はただ我武者羅に手を延ばすことしかできなかった。指の先が ”何か” に触れる。指先に伝わってきたのはふさふさとした毛並みと、懐かしい香り。変わらずずぶりずぶりと牙が肉を割く。後命は数秒も残っていないだろう。だと言うのに、もう自分は死ぬしかないというのに、私は自分の中に芽生えた感情に驚きを隠せなかった。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
怖い。怖い。怖い。だけど、 ”怖くない” 。
ほんの僅かで良い、どうしようもなく膨大に膨らんでしまった怖い気持ちから逃げたい。その一心で胸の中にある怖くない気持ちの元へと必死で手を延ばす。手で触れるだけじゃ全然足りない。もっと近くに感じたい、もっと触れ合いたい。必死で手を伸ばし、足を絡め体の全てでその気持ちを抱き込んだら、自分でも信じられない位に心が落ち着いた。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
怖い。怖い。怖い。だけど、 ”貴女となら怖くない” 。
切っ先が脊髄に達する寸前に牙の動きが静止する。ご主人は未だ私に殺気を向けている。気まぐれで生かされたのかもしれない。瀕死の得物を逃して楽しむ獣のように私を眺めているだけかもしれない。実際に、薄い脂質の膜一枚隔てられた向こうにある牙がほんの僅かに動かされただけで自分は死んでしまう。生殺与奪の全てをご主人に握られていると言っても良い。本当なら背筋も凍るような事実のはずなのに、今はもう怖くない。
「どうして……、どうして抵抗しないんですか! 私は……、本気……っ、ですよ……っ」
気がついたら私はご主人の体を抱き寄せていた。その格好はまるで、 ”自ら体を差し出している” みたいで。そのことを理解した瞬間、あふれだす涙を止めることができなかった。
「私にだって分かんないよ……。本当……、意味分かんない……! もうっ……、最悪……!!」
私はただ生きるためにご主人の下に居たはずなのに。ご主人に殺されることに恐怖感を覚えないなんて、酷い自己矛盾だ。
「死んじゃうと思ったら怖くて……、寂しくして仕方がなくてっ……! なのに、なのに……! ご主人の胸の中に居ると思ったら怖くなくて……! 側で死ねる事に何処か安心しててっ……! ねぇっ……、ご主人。私、……おかしくなっちゃったのかな!」
息の掛かる距離で思いのままをわめき叫ぶ。丁寧な言葉で本心を取り繕う余裕なんて無くて、本当に子供みたいにご主人に言葉をぶつける。首元に噛み付いたままのご主人の瞳は、そんな私を静かに見つめていた。
「……体を離してもらえますか」
私は只々呆然とするしかなくて、ゆっくりと牙が引き抜かれて行く光景をぼやりと見つめていた。ぬるりとした感触を最後に牙が引き抜かれる、と代わりにざらざらとした感触が傷口を撫でた。
「馬鹿……、なんにもおかしくなんて無いですよ」
涙も鼻水も顔から出るもの全てが、せきを切ったように溢れて止まらない。ぼやける視界の向こうで、虎の姿のままのご主人がどこか困ったような笑顔で私の傷口を一生懸命に舐めている。何分くらいそうやって泣いていたのか自分でもわからない。気がついたら私は丸くなったご主人の毛皮に顔を埋めていた。
「落ち着きましたか……?」
「うん……」
ふかふかの毛皮とお腹が私の体を包む。ざらざらとした感触が傷口と頬を撫でる。肺がいっぱいになるまで息を吸っても獣臭さは微塵もなくて、代わりに嗅ぎ慣れた香が鼻孔をくすぐる。それが妙に懐かしくて安心すると同時に、言い様の無い罪悪感がまた胸の奥からこみ上げてきた。
「ご主人……、ごめん」
「どうして貴女が謝るんです」
「だって……、私のせいでご主人は――」
べろりと頬を舐められて、続けようとした言葉が遮られる。
「そうですね……。どうですか、私は強かったですか?」
「めちゃくちゃ……、強かった。勝とうと思うのが間違いだと感じるくらい……」
「当然ですよ……。私は宝塔も使っています。毘沙門天代理として集めた信仰心も全てつぎ込んでいます。なのに、ナズ一人が眷属や小手先の技術を使った所で、勝てる訳ないじゃないですか……」
「そんなの……」
「卑怯だと思いますか? 自分が持っている物と支えてくれる人の力を使うのが卑怯だとでも?」
先ほどの戦闘でケガを負った妖怪ネズミがいつの間にか起き上がりこちらを見ている。彼女らの瞳に籠められていたのは優しさでもなければ怒りでもないし、ましてや殺気でもない。純粋な慈しみの心以外の何もそこから読み取ることはできなかった。
そんな彼女たちの視線が辛くて私は眼を背けようとしたけれど、ご主人はそれを無言で制した。
「……貴女は今日、 ”彼を探すのに何人もの人に頼った” じゃないですか! 困っているのは貴女だって変わらないのに……、なんで、どうして。私を頼ってくれないんですか!」
「だって、支えるべき従者がご主人に頼るなんて……、そんなの本末転倒じゃないか!」
「みっともなくて当たり前です! だって……、 ”私も貴女も” 半人前なんだから!」
「そんな事はない。ご主人は優秀だ。私なんか、居なくても大丈夫な位――」
「――違うっ!」
ご主人の声がまるでただの少女のように上ずっていたことに驚きを隠せない。ご主人がそんな声をだすのを私はこれまで聞いたことがない。ご主人の吸い込まれるような瞳に一粒の涙が滲んでいることがはっきりと分かった。
「私はいくら優秀でも獣だ。数百年の間仏道に身をおいても、未だ血への渇望も闘争への羨望も抜けきらない。普段どれだけ抑えていても、ふとした拍子に表に出てしまう。さっき私が言ったことだって、全部嘘じゃない。実際に、ほんのちらりとだけど頭を過ぎってしまったことだ……!」
ご主人が苦しげに言葉を紡ぐ度、私の胸も締め付けられるように痛む。もう辞めてくれと言いたかったのに、私を正面から捉え続ける視線はそれを許さない。ただぱくぱくと口を開けながら胸を抑える私を前に、ご主人は言葉を続けた。
「それでも今まで私がやってこれたのは、不器用でも、未熟でも、上っ面だけでも冷静で居てくれた貴女があったからこそなんです。貴女は私の ”鞘” だった。ナズ……、私には貴女が必要です。お願いだから……、自分を ”必要無い” なんて言わないで。何処にも……、行かないでっ……!!」
全身を温もりが包む。毛皮じゃない、さらさらとした絹と肌の温もりが私の体を抱きしめている。人の姿に戻ったご主人が眼に大粒の涙を浮かべて私を抱きしめていた。
「ごしゅ……、じんっ……」
「未熟で臆病な私を許して欲しい……! 私は……、貴女の苦悩を……、知っていた! なのに……、貴女に手を差し伸べられなかった……! いや、 ”手の差し伸べ方” が分からなかった……! 私は、貴女を傷つけるのが怖かった……!」
「――っ?!」
私より頭一つ分以上大きなご主人が泣いている。私とは比べ物にならないほど長い時を生き莫大な力を持つご主人が、私の胸に顔を埋めて泣いている。そんな事実が私のちっぽけなプライドを吹き飛ばした。
「ごしゅ、じんっ! わたじ……、わたし……、わたしっ、自分が嫌いだった! 自分が生きるためだけに分不相応にご主人の元に居座って、……眷属を死に追いやって。その上ご主人に迷惑を掛けて。そんな自分が大っ嫌いで……、皆に申し訳なくて。だから、ご主人も私の事を嫌いだと信じこんでた……!」
もう限界だった。ご主人の前でだけは絶対に見せまいとしていた、卑屈で弱い自分を押し留めておくことができない。これまで貯めこんできたものを吐き出すように、ただ思いつくままに言葉を吐き出した。
一人で居る時にこんなことを言葉にしたら、それだけで吐きそうになる程の嫌悪感に耐え切れなかっただろう。だけど今は違う。そんな私の言葉を今度はご主人が何も言わずに受け止めてくれる。苦しげな顔をしながらも、私と一緒に嫌悪感を受け止めてくれていたから、私は卑小な自分を真正面から見続けることができた。
「だけど、さっき……、分かった。私が怖かったのは、野に下って野垂れ死ぬ事じゃない。ご主人の側を離れることだった……! 私はただ……、貴女の側に居たかった……っ!!」
愛おしさで胸が張り裂けそうで、涙がご主人の服に染み込むのも構わずにその胸に顔を擦り付けた。
「ご主人……、お願いだ……! 私を捨てないで……! もう……、力不足を隠したりなんてしないから……!」
「ナズ。……それは、私が貴女を助けても良いってことですよね……?」
小さく頷いた私の後頭部を胸に抱いたご主人は耳元でありがとうと小さく呟く。
「明日……、一緒に報告に行きましょう。代理とは言え私個人によせられている信仰は彼に引けを取りません。下手な文句なんて言わせませんよ」
再びあふれ始めた涙を拭うのも面倒だった。今はそんなことよりもご主人をもっと近くに感じたい。思い切り背伸びをしてご主人の体に力いっぱいに抱きつくと、両手でご主人顔を引き寄せ、息遣いと鼓動を感じるほどの距離で見つめ合った。
「ご主人っ……。ごめ゛んよっ……! 今まで……、疑っていてっ……!」
「違いますよ、ナズ」
「う゛ん……、 ”ありがとう” 、ごしゅじんっ!」
「どういたしまして、ナズーリン! 私も大好きです」
皆への引け目もご主人への怖れも、もうどこにも感じない。多分明日からの生活は今日までの生活と何もかもが違ってしまうのだろう。変化に慣れるまでは今日までよりも忙しいのかもしれない。でも、そんな明日からのことを考えても胃は痛まない。胸を満たすはのはご主人の香の香り。胃を締め付けるもやもやは、もう居ない。
「あのね、ご主人。少し……、眼を瞑って?」
いいや違う。居ないんじゃない。私が一人で請け負っていたものをご主人が半分持ってくれただけだ。でも、そのことに罪悪感を抱いてはいけない。それはご主人をより悲しませることだ。だから私はただ感謝する。心で思うだけじゃ足りない。言葉に出すだけでも足りない。だから私は行動で示す。
「……良いですよ」
最大限の感謝をこめて、私はご主人の額に優しく口付けをした。
◇◇◇
「ナズーリン。大丈夫ですか? 一人で帰れますか?」
「子供扱いしないでくれ――、いや違うか。私は子供だけど、頼もしいご主人がいる限りは頑張れるよ」
確かな温もりを保った二頭の動物が寺院の一室で照れくさそうに微笑み合う。薄い障子の向こうから差し込む月光が、ネズミの真っ赤な顔を照らしだした。
「……言葉。まだ、そのままなんですね。さっきまでの方が可愛いですよ」
「や、辞めてくれご主人。そりゃ、ご主人の前で使ってるこの口調が背伸びなのは分かってる……。だけど、その……、なんだかすぐに変えるのは……、は、恥ずかしいんだよっ……!」
「はいはい。今後に期待ですね」
「……うん」
真っ赤に染まった顔を主の視線から逸らしながら、ナズーリンは小さく頷いた。この部屋には二人以外の誰も居ない。しかし、誰かが居たとすれば百人中百人がその関係性の変化に気がつくだろう。その位に彼女の顔は ”女性” だった。
「傷はもう大丈夫ですか?」
「大げさなんだよ、ご主人は。いくら脆いネズミ妖怪と言っても、一応は妖獣だ。この位一晩寝れば治るさ」
「そうですか。なら、今日はゆっくり休んで下さいね。明日の朝、法界に出発しますから」
「あぁ、さすがに今日は疲れた、帰ったらすぐに眠るつもりだよ」
「寝過ごしたら、迎えに行きますから。安心してぐっすり眠って下さい」
「あぁ。その時はよろしく頼むよ」
歪な巻き方をされた包帯からは香の香りが漂ってくる。家にはまだまだ思い出したくないことが沢山眠っているけれど、ご主人の巻いてくれた包帯と一緒なら安眠できるだろう。胸にそんな確信を抱きながらナズーリンは外へ続くふすまを開く。星はその背中が見えなくなるまで、柔和な笑みを浮かべて手を降っていた。
ナズーリンの背が見えなくなったことを確認し、星は静かにフスマを閉じる。先程までこの星の自室にはナズーリンと星の二人きりだった。一人を見送ったのだから今は当然一人にならなければ話が合わない。だと言うのに、星の眼には何かに化かされたように二人目の人物が机に向かって酒を飲んでいるように見えていた。
「マミゾウ……。貴女にはどれだけ感謝すれば」
「一見で見抜くかね。その鋭さを別のことにも使えばもっと生きやすくなるだろうに」
中華風の服を着た女性から煙が立ち上ったかと思うと、羽織り付きの藍色の和服を着た狸が現れる。そこにいるのが当然みたいにしてマミゾウは星に猪口を差し出した。
「教えてください……、どうして貴女は私を助けたんですか?」
「お前を助けたつもりは無いさ。ただ、私はあれ位の若者が迷っているのを放っておけないタチでね。何、ちょいと墓を細工して見守っていただけじゃよ」
「若い……、ですか。彼女も私も。大妖と呼ばれてもおかしくない位の年のはずなんですけどね」
「妖怪の体はその精神を反映する。どれだけ大人ぶっていても、体が一向に成長していないのは、彼女がまだ遊びたいと、子供で居ることを望んでいる何よりの証拠だろうね。……外の世界でもああいう妖怪は偶に居たが、大体は精神を病んで消滅してしまったよ」
星が今にも泣きそうな顔で陶器の器を受け取る。彼女が俯いた顔の下で繰り返すのはただひたすらに謝罪と感謝の言葉だった。星は眼の前の狸が自分の部下に何をしたのか知っている。ナズの持っている宝塔の予備に忍ばせた式が、彼女の身に起こったことを如実に知らせてくれていた。
「……マミゾウ。頼む罵ってくれ。私は……、無能な主だ。里の皆さんには仏の教えを諭しておいて……、ナズに限っては、甘やかすことしかできない……!」
「そうじゃな。お前さんは主としては失格だよ。ただ一人の部下のために本尊が頭を下げて回った。不審者のような真似をしてまでな。そんなお前さんの姿でどれだけの信仰が失われたことか」
まぁ、咲夜に話を通してくれていたのは助かったがな。そう言葉を続けてマミゾウは猪口の中の透明な液を喉に通す。星はただただ正座し、頭を垂れてその話を聞いている。その膝にはいつの間に大きな染みができていた。
「まぁ、何はともあれお前さんが上手くやった。ナズは前を向けるようになったじゃないか。それで良いじゃろう?」
「違う……、 ”あの時” 、私は確かに正気を失っていた。ナズが居なくなる位なら、いっその事自分の手で――、と……っ!! 後一歩の所で、この手でナズを……っ!」
「それこそ違うぞ。星。そんなことで悩むならお主はとっととあのネズミを噛み殺すか、法界に送り返せば良かったんじゃ。だから、そんな後悔にはもう意味が無い」
謝る暇があったら、約束しろ。誇れ、そして最後まで責任を持て
額を合わせて眼球と眼球が触れ合うほどの距離でマミゾウが笑う。それは星ですら敵わない程の凄みを伴った言葉を伴って星の反論を圧殺する。暗い部屋に浮かぶ露悪的な笑みは、仏の加護を受けるこの寺院には本来あるはずの無いものだ。
「誇れ。誇れ。嘘でも真でも、偶然でも必然でも自分を騙して誇り続けるんだ。どんな助けを借りたとしても、どんな経過であったにしても、あの未熟者を救ったのはお前さんじゃ。儂では絶対に成し遂げられん。その事を絶対に忘れるんじゃない」
そんなオールドタイプな悪役の出現が、錆びきった星の正義感に火をつける。さっきまでの落ち込んだ様子は何処へやら。マミゾウの眼を見つめ返すのは紛れもなく強い意志を持った猫眼だった。
「言われなくたって……。あの子の為なら、後何十回毘沙門天様と喧嘩をすることになったって構わない! “今までそうしてきた” みたいに……!」
「あの子はまだまだ、お主の知らぬ苦悩を抱えておるぞ。それはきっとお主との関係が変わった位で消えるような根の浅いものではない。本番はこれからじゃ。お前さん達が共に歩む為にはな」
「だからどうしたって言うんですか! 好きな女の子一人幸福にしてやれずに、どうして信者の幸福が願えるって言うんですか!」
「はっ、その意気だ。半人前同士、支えあって生きろ。幸いにもお前には人望がある。ナズには支えてくれる眷属とお前さんが居る。お前さんは救った責任を取らねばならん」
ぱぁんと小気味の良い音を立ててマミゾウが星の背を叩く。少しだけ咳き込んだ星が隠したのは、咳で崩れる顔だけではないのだろう。暫く俯いて息を整えた星は静かに語りはじめた。
「ナズは……、必ず成長します。彼女は自己評価が低すぎるだけなんです。ネズミと虎では素体に天と地ほどもの差があるのに、それをひっくり返すほどの技術を身につけたナズが無能なはず無いんです」
「知っておる。あれだけの眷属を従えられるのがどれほど凄まじい事なのか……。全ては本人が理解していないだけじゃよ」
「勿論未熟な部分も多い。だから……、彼女は自分を平等に評価出来ればそれだけで劇的に変わる。少なくとも私はそう思っています」
今日一番の誇らしげな顔だった。目尻に付いた涙の跡も、鼻からのぞく乾いた水っ鼻も全てはそんな彼女の顔を引き立てる脇役に過ぎない。
「ありがとう、マミゾウ」
「いやいや、儂は若者が壊れる所を見たくないだけじゃ。お前さんも含めてな」
「……ありがとう」
無言で差し出された白磁の酒瓶をマミゾウは眼を丸くして見つめる。
「……どうです、慰労も兼ねて一杯」
「はっはっは。お前さんからそんなことを言うなんてな。全く……、この不良仏が。だが、祝いの席に細かいことは無粋じゃ。今夜はとことんつきあってやろう」
とくとく、とくとくと猪口には澄み渡った液が注がれる。すっと開かれた障子から覗く月がその液面にゆらゆらと映り込んだ。
「乾杯の音頭は決まっておるじゃろう?」
「ええ、当然です」
狸と虎は月光を背景にくすりと笑いあう。その笑顔一つで全ての用は済んだ。頼りない主と力ある部外者の一人。立場は違えど願うことは一つ。たった一人を巡って大の大人が駆けずり回った一日を労って酒を酌み交わす。
一人の胸にあるのは純粋な期待、もう一人の胸にあるのは大きな不安とより大きな期待。全てを ”変えていく” 明日へ向けて、鋭気を養う為に手に持った猪口を高らかに掲げた。
資料に寄れば→資料に依れば
前期→前年度(第一四半期なら普通これと比較します)
夜も深けて→夜も更けて
就業時刻→終業時刻
会話を辞めなければ→会話を止めなければ
辞めてくれご主人→止めてくれご主人
行なっている私→行っている私
載せられるままに→乗せられるままに
体重を載せた→体重を乗せた
SSとしては良作ですがハッキリ言って酷い文章でした。私は一応全部読みましたが、この文字数でここまで誤字や語法の間違いが酷いと人によっては途中でブラウザバックするでしょう。
また細かく読むと文中で特定の単語がひたすら多用されています。固有名詞等ならともかく、動詞や言い回しなら国語辞典や同義語辞典を引いて表現を工夫しましょう。書き上げた作品を見直すのも執筆の大事な工程です。
今度こそは誤字がない様にと思いながら校正を行なっているのですが、至らぬ部分が合ったことをお詫びします。
本題です。できれば、以上のご指摘、今すぐにでも反映させたいと思うのですがこちらの不手際により編集ができなくなってしまいました。
おそらく修正は数日後になると思いますが、決して無視をしているという訳ではない事をお伝えするためにフリーレスにてコメントをさせて頂きました。
次作品が何時になるかは分かりませんが、ご縁があれば引き続きご指摘をお願いします。
それでは失礼します。
ナズの境遇がブラックすぎて辛かった。
SSとしての感想は、面白かったです。
ただ、ナズがあれだけ自分を卑下している分、もっと星の
キャラ付けを鮮明にしないとバランスが取れないのでは。
そのあとに続く各々の出来事がぶつ切りになっているようにも読めるのがもったいないかな、と思いました。
ただマミゾウさんの心理描写がもう少しあったら良かったかなあと思いました
→予想外の連続→「えっ、えっ」の連続→ほんわり、というかじんわり?
とりあえず、少なくともここ数年で一番の良作というのが個人的意見
有能な人って、自信があってポジティブで、他人の良いところを見つけるのがうまくて躊躇なく他人を褒め、一方無能な人は、自分を責めネガティブで、他人の完璧でない部分が目につき問題を他人や自分ではどうしようもない環境のせいにする傾向があります。ナズーリンが前者の方向へと変わっていけると良いですね。
私自身の個人的・主観的な理由としては、要は耳が痛いというか、この私自身こそが無能だから同族嫌悪の念もあるのかもしれませんが、それらは一先ず置いておくとして、作品の中身の感想を極力客観的になるよう書きます。
作中では、「実のところナズーリンは無能である」という点が、ナズーリン自身の低すぎる自己評価(星の談)だけでなく実務の上でも見受けられる(やはり、星の談)という点が引っ掛かりました。
パンジー以外にも「ナズーリンは実のところ無能である」と思わせるエピソードが日々の実務でもあったのだ、と、より具体的に(星の台詞は具体性にかける、実務外ではパンジー以外にも
・慧音からの説教を受けるだけの身なりへの無関心
・「慧音の歴史にも無い部下」の存在に疑念を抱かずレミリアへ質問に行く、
といった点は確かに無能を伺わせますが、当時の精神状態を考えると単純に「ナズーリンは実のところ無能である」と切り捨てて思わせるだけの説得力に欠けるように思えました。
タイトルにもあるように毘沙門天ご本人様からの影響・環境がブラック企業的であるという前提がある上なので、どうにも私が主観的にナズーリンに対して同情的に見てしまったためか、
「ナズーリンは(頑張っては居るけど)いい加減な仕事をしており無能」と(星の台詞をはじめ節々で)言われても読者の私は上手く状況を飲み込めず、置いてけぼりにされたように感じました。
まぁ、この様に柔軟性に欠けて感受性もない事こそが「ココで長々と分かりにくい感想を書いてる私自身が救いようのないほどに無能である。」ということの証左なのでしょうけれど。
最後の杯を交わすシーン、このマミゾウさんは良い悪役。
他の方も言われているように、星からのナズに対しての思いがもう少しあればよかったのかなと。
しかしこの文量で一気に読めたことを考えれば私にとって良作でした。
ナズーリンの話かと思ったら、半分は星の話だった印象ですね。
読んでいて胃がキリキリと痛むようでした。
これきれいに終われるの?と心配になったけど
上手くまとめられていて面白かったです
あと胃が超絶いたくなりました
ひとつだけ腑に落ちなかったのは星がナズーリンを殺そうとしたこと。
あり得ないというほど受け入れ難いわけではないし、あのシーンが有るのと無いのとでは有ったほうが良かったのですが
どうにも星の心情に違和感が拭えず、もやもやが残ってしまうわけで。