※オリキャラ注意。ポエムにも注意。
人里から少し離れた場所を通る、とある街道がある。
決して人通りの多い街道ではないが、それでも人が通らない日はないという程度には使われている道だ。
――――――――その街道に、良い噂と悪い噂がある。
夜中、件の街道を歩いていると不意に幽かな声が聞こえてくる。そうすると、まるでろうそくの火を突然消したかのように、急に視界が悪くなる。
そのまま歩くのは危険なので、どうしたものかと立ち往生しているうちに、今度は歌声が聞こえてくる。
歌声のする方へ足を向けると、赤提灯の光が見え始め、それを追っているといつの間にか屋台の目の前に突っ立っている、というのだ。
そこでは、年若い娘が八目鰻の串焼きの商いをしているという。
八目鰻を焼く香ばしい匂いと食欲をそそられるタレと共に出される焼き立ての串焼きは、それまで悪かった視界が急に開けるほどに美味であるとか。
捨てる神あれば拾う神ありと、思わず信心を起こしてしまうと評判であるらしい。
ここまでが、良い噂。
悪い噂は、その年若い屋台の店主が実は妖怪であり、道行く人を妖術で惑わし、そこに串焼きを売りつけて一儲けしているという噂だ。
八目鰻は、眼病に効くという。
目の光を奪い、眼病に効能のある食品を売りつけるというのは、露骨に話の筋が通り過ぎていて、現実味のない話のように思える。
しかし、これは店主が妖怪ではないかという話でもある。相手が妖怪であるならば、むしろ露骨であればあるほど真実味が増した。
――――――人間にとって、妖怪とは如何なる理由があれ忌避するものである。
その結果、元来人通りが多いとは言えなかった街道は、人っ子一人居なくなり、屋台は閑古鳥が鳴く運びとなったのだ。
「う~~~~」
草木も眠る丑三つ時。
自らを主張せんとばかりに輝く月の下、取るに足らない虫達の気配しか感じられない中にて。
もはや誰も通らない街道に構える、誰も来ない八目鰻の屋台で、屋台の店主ミスティア・ローレライは、閑古鳥の大合唱に唸っていた。
「なんでよ~~~~」
本来ならば、このような時間まで屋台を開けておくことはない。基本的に人間は寝静まっている時間なのだ。
連日の人気の無さに今日こそは今日こそはと、日に日に営業時間を伸ばしている内に、このような時間まで店を開ける事になってしまっていた。
しかし、時間を伸ばしたからといって、獲物がやってくるわけではない。問題は、人間に致命的な風評を流されてしまったことなのだから。
「はあ、もう潮時かなあ」
焼き鳥を根絶するまで屋台を続ける覚悟だったが、もう少し色々と考える必要があるかもしれない。
最近は、誰も来ない屋台の店番にかかりきりで、まともに人間を襲っていないのだ。
そう考えると、ミスティアは切なくなった。妖怪としての本分を果たさずして、何が妖怪なのか。
「――――――――――――――――――――」
そう思い、その想いを乗せて歌声を響かせる。
普段歌う、調子外れの激しい歌ではない。何もない中空に、感情を乗せた振動を、ただ響かせる。
月の光が、草木が静かに揺れる。微風が周囲を撫で、陰影が揺らぐ。
幻想郷のどこにでもありふれた風景は、この刻において、歌姫のための静謐なる舞台と化す。
――――辺りに声にならない声が響き渡る。
口からではなく、体全体から音が表現される。
技巧も何も施されていない音階。
それはひょっとしたら、歌とは言えないものだったのかもしれない。
「ふう、気持ちよかったあ」
時間にしてみれば数分。気がつけばミスティアは全力でストレスを発散させていた。
気分を良くしたミスティアは、先程までの鬱屈などなかったかのように、軽やかな手つきで屋台の店仕舞いに取り掛かる。
「――――――アア、ひょっとしてここが噂の屋台かい?」
後ろから掛かった声に反応し、手が止まった。気配は人間。つまり客だ。
「いらっしゃい。美味しい美味しい八目鰻はいかが?」
振り返りながら言う。
なにせ待ちに待った客である。
声が若い女のそれであり、若い女が丑三つ時にこんな街道を歩いているという奇妙さなど些細なことだ。
噂の屋台を知ってなお、暖簾をくぐるというあんまりの無用心さも瑣末である。
ともかく、鳥目になっているかいないか、それだけで対応が変わり、売り上げも変わる。
まずはその事を確認しようと、女の眼を覗いた。
―――――――――綺麗だ、とミスティアは感じた。
女の左目。
その左目から生気が感じられないことも、作り物めいたものであることも眼中にない。
鮮やかで透き通るような、蒼色の眼。
見る者を惹きつけてやまぬ深みと地平線の先に消えていきそうな儚さ。
―――――――その清廉さに、一時心を奪われた。
「じゃあ、それと日本酒を頼ンますよぉ」
わずかに頬を赤らめ、微動だにせず客を凝視する店主を、さして気にする様子もなく女は席につく。
「あ、ひ、ひゃい! し、少々お待ちを」
ミスティアは我に返ると、いそいそと注文の準備を始める。
あらかじめ準備しておいた串を火に掛けながら、なんの気無しに女の様子を盗み見た。
手入れが行き届いていそうな長い黒髪、上品そうな口元、顔立ちは整っており、余分な肉はついていない。
姿勢もよく、どことなく気風の良さを感じる。
少女とは言えないが、さりとて成熟してはいない。20代前半から中盤といったところか。
そして、左目が義眼。ガラスで作られているであろうそれは、人形の目に使われるような義眼であった。
「……………………」
もはや鳥目がどうとかという場合ではない。
どうしても、気になる。
なぜ、そんなにも特殊な義眼をしているのか。
女の来歴と義眼の来歴、ミスティアはその両方が気になって仕方がなかった。
「なンか、気になることでもおアりです?」
そんな、ちらりちらりと様子を伺う店主に対し、女はわずかに苦笑してみせる。
「っ! え、えと、その、まあ、あの…………すごく綺麗な眼だなあ、何でなのかなあと」
すると女は呆気に取られた様子で、
「……………………驚いた。妖怪ってのは、皆そンなに素直なンです?」
そう言って、わずかに微笑んだ。
その、わずかに微笑んだ顔がまた如何にも女に似合っていて、ミスティアは再び微動だにしなくなった。
つまりは、これが最初。
ミスティア・ローレライの歌の曲目が増えたきっかけとなる出来事の始めだった。
蒼眼の女との遭遇から丸一日。ミスティアは、言われた通り丑三つ時に店を開けた。
『ちょいと興が乗りました。明日同じ時間にまた来るンで、そン時店が開いてたら色々話しますかねェ』
串焼きと日本酒を上品に平らげた後、蒼眼の女はそう言い残し店を去った。
女を見送った後、ミスティアは急いで店仕舞いをし、まだ日が昇らぬ内に床についた。
たっぷりと睡眠を取った後、その日の仕入れを入念に済ませ、タレも酒もとっておきのものを、とっておきの状態で出せるよう準備を重ねたのだ。
「………………まだかな」
逸る心を抑えきれない。翼が小刻みに揺れ、視線もあちこちを走る。
眷属である夜雀達は今日は下がらせてある。万が一にも、女が鳥目になり怪我でもされたら困るからだ。
妖怪としての本分をまるっと忘れ、まだかまだかとミスティアは女を待ち続ける。
「おンやまあ、ちゃアんと開けといてくれたンですねェ」
ふらりと、昨日と同じように直前まで気配を感じさせず、蒼眼の女が暖簾をくぐってきた。
「い、い、い、い、いらっしゃいませ! ごご、ご注文は!?」
「ん~、なァンかオススメで」
そう言うやいなや、女は席へ座るとわずかに首を傾げ頬杖を付き、店主を見詰め始めた。
「………………………………」
「な、なんでしょう?」
ミスティアの問いに答えるように、女は右目を閉じ、義眼である左目のみをミスティアへ向けた。
蒼い眼。
より正確に言えば浅縹色をした、その眼。
見る者を吸い込んでしまいそうな地平線の彼方の空の色。
「っっっっ~~!」
ミスティアは堪らず、顔を背ける。
頬が赤く熱い。端から見れば、あたふた取り乱す妖怪など滑稽に映るだろう。
案の定、くくくという忍び笑いが客席から聞こえるが、ミスティアは努めて無視し注文の準備に取り掛かる。
「さ、それじゃあそろそろ話を聞かせてもらいましょうか」
自分が出した品を、上品に、美味しそうに食べる女を見て平静を取り戻したのか、幾分落ち着いた様子のミスティア。
女が出された串焼きを半分程食べ終えたのを頃合いと見たのか、本日の本題へ切り込んだ。
「まあ、ちゃんと約束しましたからねェ。串焼きもお酒も良いもンだし、さて」
―――――――――どこから、知りたい?
と、聞く者を挑発するような困惑的な声で、蒼眼の女は問うた。
ほんの少し昔。人里のとある有力者の家に、一人の女の子がいました。
何不自由ない暮らし。幸せな家族。大勢の友人。
いつもにこにこ。笑顔の絶えない女の子。
その女の子は、若い時に必要なものは全て持っていました。
しかし、ある日を境にその状況は一変しました。
子供の遊びは、時として取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう事があります。
女の子は、その取り返しのつかない事態に、運悪く遭遇してしまいました。
たか鬼の最中、誤って転落し木の枝が左目に刺さってしまったのです。
調子に乗って、周りの止める声も聞かず、普段は登らないところに登って、勢いよく飛び降りたのです。
完全に自業自得です。
命は取り留めましたが、左目は空洞になってしまいました。
たかが眼ひとつ。されど眼ひとつ。
眼帯をするようになった女の子は、それまでの笑顔を浮かべられなくなりました。
傷物になったと、女の子を悪し様に言う人間も居ましたが、そういった人達は女の子から遠ざけられました。
周りの大人たちや友人達は、気を遣ってくれます。
優しい言葉も掛けてくれます。
しかし、それでも彼らはちゃんと眼を二つ持っています。
二つの眼で、ちゃんと女の子を見据えて、話しかけてきます。
眼が一つなのは、自分だけ。
肉体の一部の喪失とは、ただそれだけで、周囲との隔絶を感じさせるのに十分なものでした。
しばらくの間、女の子は笑うことがありませんでした。
いつも沈んだ顔をしている人間に対して、気を遣わなければならない気苦労というのは、計り知れないものです。
一人、また一人と女の子の元から友人が去っていきました。
親も、次第に疲れていき、他の兄弟姉妹たちに向ける眼差しとは違う眼差しを、女の子に向けるようになっていきました。
兄弟姉妹たちも、どことなく気まずそうに女の子と接し始めました。
別に、誰が悪かったというわけではありません。
次第に蔑ろに扱われるようになった女の子も、誰を憎んでいるわけでもありません。
とある女の子が、他人と違うという事に耐えられなかった。ただ、それだけの話なのです。
「と、ここまでが第一部ってところですねェ」
蒼眼の女は、そう言うとわずかに残っていた酒を一気に飲み干した。
話は終わりだと言わんばかりに、御代を置き席を立とうとする。
「………………ええ~~っ!」
それはない、とミスティアは抗議の唸りを上げる。
話は理解出来ている。
理解出来ているが故に、納得がいかないのだ。
言ってしまえば、これは前座だ。
肝心要の蒼眼の話が全く出てきていないのだ。
「また明日ってことですよぅ。いきなり全部話しちまったら、つまンないじゃアないですか」
「え、また明日も来てくれるのっ?」
今そう言いましたよぅ、と蒼眼の女はわずかに微笑む。
「そンじゃあ明日、またこの時間に」
そう言うと、蒼眼の女は静かに立ち去った。
後に残されたミスティアがやることは決まっていた。
迅速な後片付けと明日の準備だ。
昨日に引き続き、夜が明ける前にミスティアは床についた。
「こンばンわ~」
昨日に引き続き、恙無く準備を終えたミスティアは、昨日と同じく屋台のカウンターで蒼眼の女を出迎えた。
「あ、こんばんわ。お待ちしてました!」
さすがに三度目だけあって、昨日までより落ち着いた様子で蒼眼の女を席に通す。
「注文は串焼きでいいですよね!? 日本酒もばっちり用意してます! さあ、ご賞味あれっ!」
蒼眼の女が席につき何事かを言う前に、ミスティアは矢継ぎ早に言葉を重ね、調子よく品物を出していく。
自身の内心を、全く隠せていなかった。
「おンやまア、こりゃ至れり尽くせりで」
しかし、店主の無作法を気にした様子もなく、蒼眼の女は絶品の料理にありつく。
一口齧ったところで、蒼眼の女はミスティアに眼を向けた。
「ミスティア・ローレライ」
「――――ひゃいっ!」
まさか自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったのか、ミスティアは大いに驚き、素っ頓狂な声を上げた。
そんな様子が可笑しかったのか、くくくと忍び笑いをした後、蒼眼の女は言葉を続けた。
「夜雀の妖怪で、歌を歌うって書いてアったンだけど」
恐らく、人里で出回っている幻想卿の妖怪本でも読んだのだろう。
色々と失礼なことが書いてあった気がするが、よく覚えていない。
「ここでひとつ、歌っちゃァくれませンか?」
「――――――――え?」
ミスティアは感動した。
感極まったと言っていい。
歌は、ミスティア・ローレライにとって何より大切なものだ。
趣味であり、商売道具であり、存在証明である。
歌は人生。人生は歌。
なので、聞かせる。
相手が誰であれ、聞かせる。
たとえ相手が嫌がろうと、逃げようと、そんなのはお構いなしに歌い、聞かせ続ける。
それが、聞かせてくれと頼まれた。
浅縹色の綺麗な眼で、頼まれた。
――――――――ならば、歌おう。もう、歌しか聞こえなくなるほど。
激しく、熱烈に、猛々しく、歌い上げよう――――――――――!
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~♪」
「――――――――いや、それじゃなくて」
ミスティアは盛大にひっくり返った。
「な、な、な、な、なんで!? わ、私は、マスターでっ! コーラスのっ! 真夜中にっ! 夜雀ぇ!」
ミスティアは涙目に成りながら、追い縋るように言う。
そんな様子に、頬を掻きながら、蒼眼の女は言葉を選んだ。
「え~と、今のも嫌いじゃアないンですが、アタシが最初に来たときに歌ってた歌。あれが聞きたいなア、なンて」
「――――? ああ、あれね」
ミスティアは基本鳥頭ではあるのだが、印象深かったことはたいてい覚えている。
伊達に夜雀の王をやっているわけではないのだ。
故に、少し悩む。
あれは、ただの音の振動だ。
歌とは言えない、とミスティアは思っている。
だが、せっかくのリクエストではあるし、何よりここでごねて帰られでもしたら元も子もない。
蒼眼の話を、まだ聞いていないのだ。
妖怪の本分をまるっと忘れていることには気づかず、ミスティアは、プロは辛いななどとぶつぶつと言いながら歌う体勢に入った。
「――――――――――――――――――――――――」
今宵は星夜。ミスティアは屋台の赤提灯から離れ、その身を星彩にさらす。
幽かな音の振動が、辺りに染込むように響く。
心地よい和風が、辺りを包む。
青々とした草木は、その生命の輝きを失い、代わりに生命の儚きを得る。
儚きを得、尚も風に揺らぐ姿は、何かを悼む姿にも見える。
――――――――命が静まる。
ここは生気が感じられぬ舞台。しかし、確固としてある舞台。
それは、常世から幽世へ誘う蛾の如く。
冷たく突き放すことなく、されど決して優しくもなく。
人の眼を暗闇へと誘う毒々しい歌声。
時間にしてみれば、数分。
ミスティアは、少し恥ずかしそうに歌い終える。
そうして、屋台の赤提灯の下へ戻り、歌姫から店主へとその在り方を変える。
「ど、どうでした?」
果たしてリクエストに応えられたのだろうか。
というよりも、思い切り鳥目の能力を使ってしまっていた。
意識したわけではないから、八目鰻ですぐに直る程度であるだろう。
その辺りも少し不安になりながら、ミスティアは蒼眼の女に眼を向け、
「――――――――――アァ、良かった」
泣きそうになりながら微笑む女の顔を見た。
その一言を発したきり、蒼眼の女は閑寂と酒を進めた。
ミスティアも話をせがめる様子ではないことを察したらしく、黙って星空を見上げている。
「さアて、そンじゃア昨日の続きを話しましょうかねェ」
何がしかの整理がついたのか、はたまたただの気まぐれか。
蒼眼の女は、ミスティアに眼を向けると、わずかに微笑んだ。
物質的には何不自由なく少女時代を過ごしていた女の子。
しかし家に居場所を見出せず、鬱屈とした心を抱え、人里から明かりが消えるまで外を歩いていた女の子。
ある時、その女の子にいくつかのガラス細工がプレゼントされました。
プレゼントしたのは、歳の離れた姉の旦那様。
鬱屈とした顔で日々生きている女の子に、せめて慰みにということだったのかもしれません。
そして、女の子は見つけたのです。
その丸みを帯びた蒼いガラス細工を。
何か曰くがあったとか、そういったことはありませんでした。
しかし、女の子は魅入られました。
綺麗で、とても綺麗で。吸い込まれそうなほど綺麗で―――――これを左眼/空洞に入れたら、どれだけ綺麗に映るだろうか、と。
女の子は、あまりの痛さに悲鳴を上げました。
ですが、それが良かったのでしょう。
すぐに大勢の人間が集まり、事態の重大さが知れ渡り、女の子は可愛そうな扱いというより、特異な扱いがされるようになったのですから。
どうしてもと駄々をこね、そのガラス細工を職人に義眼モドキとして加工し直してもらい、女の子には笑顔が戻りました。
しかし、笑顔が戻ったところで、誰一人女の子に仲良くしようとする人間はいません。
誰一人、女の子の左眼をまともに見ようとしませんでした。
奇異なものを見る眼でしか、左眼を見ませんでした。
そうして、幾年が過ぎ。
女の子は、女の子とは呼べない歳になっていました。
しかし、その間環境は一向に変わりませんでした。当然、元女の子の行動も変わりようがありません。
行動を変えたくても、変え方がわからないのです。
たくさんの人や物に囲まれて、一人で生きてきたようなものなのですから。
なので、もう元女の子はすっかり擦り切れてしまいました。
自分の弱さと付き合うことに、もう疲れてしまったのです。
誰を恨むことなく、盲目でありたい。
それが元少女の心からの願いです。
少女時代から日課の散歩も、今では人里を出て、危険でいっぱいな夜道を歩くようになりました。
そうして――――――――
「第二部完! ご清聴アりがとゥございました!」
「え…………うん、はい、わかった。また明日」
突然の終了宣言にいくらか驚いたものの、予想はしていたのか、ミスティアはさほど取り乱すことはなかった。
「まア、ふらふらしてるところに感じのいい歌が聞こえてきて、ってのが第三部ですかねェ」
ともかく、今日はこれで終わりかとミスティアが食器を片付けようとする。
「で、お気に召したでざンしょか?」
どうやら感想を聞かれているらしいと、ミスティアが理解するまで、少し間があった。
「…………ひとつ聞いても良い?」
どうぞ、と蒼眼の女が空になったとっくりをミスティアに渡しながら言う。
「何で、その女の子は左の義眼を外さなかったの?」
少なくともそうすれば、奇異な眼で見続けられることはなかった筈だと、ミスティアは言外に言う。
擦り切れはしなかったのではないかと。疲れ果てはしなかったのではないかと。
「…………そりゃア、綺麗だったからですよ。ガラスや鏡に映る自分の左目が、無くなった筈の左目が、キラキラしてるンですから」
それだけは、何がどうなろうと譲れなかったンですよ、と蒼眼の女はわずかに微笑んだ。
「ま、それも潮時なんですがねェ」
そして、まるでここからが本題だといわんばかりに、蒼眼の女は切り出す。
「この蒼眼、貰ってやっちゃアくれませンか?」
「…………………………へ?」
蒼眼の女と出会ってからペースを乱されっぱなし気味だったミスティアは、今度こそ完全に困惑した。
「欲しいンでしょ? その眼を見ればわかりゃんす」
完全に図星だったが、先程までの話を聞いて、ありがとうございますと素直に貰う事は出来なかった。
「いいンですよ。まあ、やることがアるンで明日の夜まで待って貰いますがねェ」
そう言うやいなや、蒼顔の女は立ち上がり、食した物の代金を払う。
「じゃア、今日と同じ時間、場所は……この先にアる大きな木が目印の分かれ道で」
「え……? 明日は、店に来てくれないの?」
ミスティアのその言葉に蒼眼の女は別の言葉で答える。
「とりめうた」
「え?」
「アの良い感じの歌のことですよぅ。アレ聞いたら鳥目になっちゃって。まア、すぐ直ったンですけどねェ」
やっぱり鳥目になっていたのか、とミスティアは肩を落とす。
ひょっとしてそのせいで嫌われでもしたのかと、不安げに女の眼を見詰める。
くくくと忍び笑いをした後、蒼眼の女は、
「アタシは好きですよぅ、あの歌。あの歌を聞いて盲目になるなら悪くない」
と言い、何度目かの微笑を浮かべる。
「でもさすがに、妖怪とこれ以上仲良くしちゃア、お天道様に嫌われますって」
そう言い残し、蒼眼の女は静かに去っていった。
気が付けば、辺りが白ずんで来ている。夜明けが近いのだ。
ほんの一時呆けていた意識を覚醒させ、ミスティアは屋台の撤収に掛かる。
本人はああ言ったが、多少強引にでも屋台に来てもらおう。
そもそも人を襲うのが妖怪の本分。人間の都合など解す必要などないのだ。
そう、それがいい。そう言って襲って、また色々話をすればいい。
今度は、自分の事を話すのが良いかもしれない。
そう、矢継ぎ早に思考を重ね、ミスティアは夜の準備を整えるため、三度夜明け前に床へついた。
眠りに落ちるわずかな時間、蒼眼の女の最後の言葉が頭をよぎる。
ほんの少しの寂しさがミスティアの胸中に残った。
夜陰深き、玄雲立ち込める空。
辺りは闇に閉ざされ、一寸先も闇といった有様だ。
如何に妖怪跋扈する丑三つ時だとしても、今宵の闇は殊更深かった。
その闇の中を、ミスティア・ローレライは約束の場所へ向けて歩みを進めていた。
目的の場所に着く。
人里への分岐点であるこの場所には、目印として分るようにいくつかの木が植えられていた。
高い木も低い木もそれぞれ怒ったように八方に枝を伸ばしている。
未だ、待ち人は来ず。
ミスティアは、それらしい気配がするまで、待つことにした。
少しずつ、少しずつ時間が過ぎていく。
風が出てきた。暖かい微風が辺りの草木を揺らす。
それと同時に、微かにだが、きい、きい、という音が聞こえてきた。
甲高く、細くて、不吉な音。
風は止むことなく、吹き続ける。
まるで、暗雲を晴らすように、何かを振り払うように。
きい、きい、きい――――。
音は止まない。
どうやら音は、ミスティアの僅か後方から聞こえてくるらしかった。
「……………………」
雲が動く。
ゆっくりと、しかし確実に辺りに月光が満ち、闇を払う。
きい、きい、きいいい――――。
音は止まない。
永劫にも感じられる時間が玉響ほどで過ぎ去るような感覚。
――――――――そうして、ついに雲の切れ間から月光が覗き。
「…………そっか、もう来てたんだ」
ミスティアは、背後の木に、首を吊りゆらゆらと揺れる蒼眼の女の姿を認めた。
翼を器用に動かし、青目の女の目線の高さまで飛ぶ。
目線を合わせ、生身である右目を覗きこむ。
眼の状態から、死後数時間程度といったところだ。
つまり、日の落ちる直前にここで首を吊ったということだろう。
ミスティアには、これが自殺なのか他殺なのか、判断がつかない。
いつ頃に死んだのかを判別するくらいしか出来ない。
そも、判断がついた所でミスティアがするような事など何もないのだ。
人間の事は、人間が責任をもって始末をつけるべきであり、妖怪であるミスティアには関係がない。
死体の片付けや犯人探し、または自殺の証明は人間たちが勝手にすればいい。
そう、ミスティアがやる事は既に決まっているのだ。
「よっと」
伸縮自在な爪を伸ばし、ピンセットを使う要領で蒼眼の女の左目へ爪を差し込む。
なるべく余計な傷を付けないように、ゆっくりと、慎重に、義眼の摘出を行う。
「ふう」
ミスティアは、無事に摘出を完遂させ、取り出したそれを月光にかざす。
見る者を吸い込んでしまいそうな地平線の彼方の空の色。
しかし、以前ほど心が奪われる事はなかった。
「…………まあ、いっか」
兎にも角にも、これでミスティアは蒼眼の女との約束を果たした。
とりあえず、珍しいものとして屋台の何処かに飾ることにしよう、と独りごちる。
いつの間にか、暗雲は遠くへ去り、満ちる月光と星天が夜の闇を照らし出していた。
「………………………………」
夜が明けるまで、まだしばらく時間がある。
ミスティアは、女が首を釣っている枝に腰掛け、強張っていた体を弛緩させる。
どうせ屋台に客など来ないので、別段やることもないのだ。
夜明け前に床についても仕方ない。つく必要がなくなってしまった。
なので、ミスティアは夜が明けるまで羽を休めることにした。
たまには、呆けて何もせず過ごすというのもいいだろう。
風が凪ぎ、静寂が辺りを包む。
足元には首吊死体。しかも片目はミスティアが取ってしまい空洞ときている。
如何にも猟奇的な絵面だと、苦笑する。
「――――――――」
苦笑して、自然と歌声が零れた。
それは、女が感じが良いと言ったあの歌。
別れ際に、好きだといった、あの歌。
「――――――――――――」
少しずつ体全体から音を絞りだすように、歌う。
「――――――――――――――――」
幽かな音の振動が、辺りに染込むように響く。
普段歌う、調子外れの激しい歌ではない。
何もない中空に、感情を乗せた振動を、ただ響かせる。
「――――――――――――――――――――」
心地よい和風が、辺りを包む。
月の光が、草木が静かに揺れる。微風が周囲を撫で、陰影が揺らぐ。
青々とした草木は、その生命の輝きを失い、代わりに生命の儚きを得る。
儚きを得、尚も風に揺らぐ姿は、何かを悼む姿にも見える。
「――――――――――――――――――――――――」
ここは生気が感じられぬ舞台。しかし、確固としてある舞台。
幻想郷のどこにでもありふれた風景は、この刻において、歌姫のための静謐なる舞台と化す。
「――――――――――――――――――――――――――――」
それは、常世から幽世へ誘う蛾の如く。
冷たく突き放すことなく、されど決して優しくもなく。
人の眼を暗闇へと誘う毒々しい歌声。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――」
命が静まり、魂が鎮まる。
夜が明けるまで、残り数刻。
日光が女の死体を照らしだす、その刹那まで。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
ただ、歌声が響く。
人里から少し離れた場所を通る、とある街道がある。
決して人通りの多い街道ではないが、それでも人が通らない日はないという程度には使われている道だ。
――――――――その街道に、良い噂と悪い噂がある。
夜中、件の街道を歩いていると不意に幽かな声が聞こえてくる。そうすると、まるでろうそくの火を突然消したかのように、急に視界が悪くなる。
そのまま歩くのは危険なので、どうしたものかと立ち往生しているうちに、今度は歌声が聞こえてくる。
歌声のする方へ足を向けると、赤提灯の光が見え始め、それを追っているといつの間にか屋台の目の前に突っ立っている、というのだ。
そこでは、年若い娘が八目鰻の串焼きの商いをしているという。
八目鰻を焼く香ばしい匂いと食欲をそそられるタレと共に出される焼き立ての串焼きは、それまで悪かった視界が急に開けるほどに美味であるとか。
捨てる神あれば拾う神ありと、思わず信心を起こしてしまうと評判であるらしい。
ここまでが、良い噂。
悪い噂は、その年若い屋台の店主が実は妖怪であり、道行く人を妖術で惑わし、そこに串焼きを売りつけて一儲けしているという噂だ。
八目鰻は、眼病に効くという。
目の光を奪い、眼病に効能のある食品を売りつけるというのは、露骨に話の筋が通り過ぎていて、現実味のない話のように思える。
しかし、これは店主が妖怪ではないかという話でもある。相手が妖怪であるならば、むしろ露骨であればあるほど真実味が増した。
――――――人間にとって、妖怪とは如何なる理由があれ忌避するものである。
その結果、元来人通りが多いとは言えなかった街道は、人っ子一人居なくなり、屋台は閑古鳥が鳴く運びとなったのだ。
「う~~~~」
草木も眠る丑三つ時。
自らを主張せんとばかりに輝く月の下、取るに足らない虫達の気配しか感じられない中にて。
もはや誰も通らない街道に構える、誰も来ない八目鰻の屋台で、屋台の店主ミスティア・ローレライは、閑古鳥の大合唱に唸っていた。
「なんでよ~~~~」
本来ならば、このような時間まで屋台を開けておくことはない。基本的に人間は寝静まっている時間なのだ。
連日の人気の無さに今日こそは今日こそはと、日に日に営業時間を伸ばしている内に、このような時間まで店を開ける事になってしまっていた。
しかし、時間を伸ばしたからといって、獲物がやってくるわけではない。問題は、人間に致命的な風評を流されてしまったことなのだから。
「はあ、もう潮時かなあ」
焼き鳥を根絶するまで屋台を続ける覚悟だったが、もう少し色々と考える必要があるかもしれない。
最近は、誰も来ない屋台の店番にかかりきりで、まともに人間を襲っていないのだ。
そう考えると、ミスティアは切なくなった。妖怪としての本分を果たさずして、何が妖怪なのか。
「――――――――――――――――――――」
そう思い、その想いを乗せて歌声を響かせる。
普段歌う、調子外れの激しい歌ではない。何もない中空に、感情を乗せた振動を、ただ響かせる。
月の光が、草木が静かに揺れる。微風が周囲を撫で、陰影が揺らぐ。
幻想郷のどこにでもありふれた風景は、この刻において、歌姫のための静謐なる舞台と化す。
――――辺りに声にならない声が響き渡る。
口からではなく、体全体から音が表現される。
技巧も何も施されていない音階。
それはひょっとしたら、歌とは言えないものだったのかもしれない。
「ふう、気持ちよかったあ」
時間にしてみれば数分。気がつけばミスティアは全力でストレスを発散させていた。
気分を良くしたミスティアは、先程までの鬱屈などなかったかのように、軽やかな手つきで屋台の店仕舞いに取り掛かる。
「――――――アア、ひょっとしてここが噂の屋台かい?」
後ろから掛かった声に反応し、手が止まった。気配は人間。つまり客だ。
「いらっしゃい。美味しい美味しい八目鰻はいかが?」
振り返りながら言う。
なにせ待ちに待った客である。
声が若い女のそれであり、若い女が丑三つ時にこんな街道を歩いているという奇妙さなど些細なことだ。
噂の屋台を知ってなお、暖簾をくぐるというあんまりの無用心さも瑣末である。
ともかく、鳥目になっているかいないか、それだけで対応が変わり、売り上げも変わる。
まずはその事を確認しようと、女の眼を覗いた。
―――――――――綺麗だ、とミスティアは感じた。
女の左目。
その左目から生気が感じられないことも、作り物めいたものであることも眼中にない。
鮮やかで透き通るような、蒼色の眼。
見る者を惹きつけてやまぬ深みと地平線の先に消えていきそうな儚さ。
―――――――その清廉さに、一時心を奪われた。
「じゃあ、それと日本酒を頼ンますよぉ」
わずかに頬を赤らめ、微動だにせず客を凝視する店主を、さして気にする様子もなく女は席につく。
「あ、ひ、ひゃい! し、少々お待ちを」
ミスティアは我に返ると、いそいそと注文の準備を始める。
あらかじめ準備しておいた串を火に掛けながら、なんの気無しに女の様子を盗み見た。
手入れが行き届いていそうな長い黒髪、上品そうな口元、顔立ちは整っており、余分な肉はついていない。
姿勢もよく、どことなく気風の良さを感じる。
少女とは言えないが、さりとて成熟してはいない。20代前半から中盤といったところか。
そして、左目が義眼。ガラスで作られているであろうそれは、人形の目に使われるような義眼であった。
「……………………」
もはや鳥目がどうとかという場合ではない。
どうしても、気になる。
なぜ、そんなにも特殊な義眼をしているのか。
女の来歴と義眼の来歴、ミスティアはその両方が気になって仕方がなかった。
「なンか、気になることでもおアりです?」
そんな、ちらりちらりと様子を伺う店主に対し、女はわずかに苦笑してみせる。
「っ! え、えと、その、まあ、あの…………すごく綺麗な眼だなあ、何でなのかなあと」
すると女は呆気に取られた様子で、
「……………………驚いた。妖怪ってのは、皆そンなに素直なンです?」
そう言って、わずかに微笑んだ。
その、わずかに微笑んだ顔がまた如何にも女に似合っていて、ミスティアは再び微動だにしなくなった。
つまりは、これが最初。
ミスティア・ローレライの歌の曲目が増えたきっかけとなる出来事の始めだった。
蒼眼の女との遭遇から丸一日。ミスティアは、言われた通り丑三つ時に店を開けた。
『ちょいと興が乗りました。明日同じ時間にまた来るンで、そン時店が開いてたら色々話しますかねェ』
串焼きと日本酒を上品に平らげた後、蒼眼の女はそう言い残し店を去った。
女を見送った後、ミスティアは急いで店仕舞いをし、まだ日が昇らぬ内に床についた。
たっぷりと睡眠を取った後、その日の仕入れを入念に済ませ、タレも酒もとっておきのものを、とっておきの状態で出せるよう準備を重ねたのだ。
「………………まだかな」
逸る心を抑えきれない。翼が小刻みに揺れ、視線もあちこちを走る。
眷属である夜雀達は今日は下がらせてある。万が一にも、女が鳥目になり怪我でもされたら困るからだ。
妖怪としての本分をまるっと忘れ、まだかまだかとミスティアは女を待ち続ける。
「おンやまあ、ちゃアんと開けといてくれたンですねェ」
ふらりと、昨日と同じように直前まで気配を感じさせず、蒼眼の女が暖簾をくぐってきた。
「い、い、い、い、いらっしゃいませ! ごご、ご注文は!?」
「ん~、なァンかオススメで」
そう言うやいなや、女は席へ座るとわずかに首を傾げ頬杖を付き、店主を見詰め始めた。
「………………………………」
「な、なんでしょう?」
ミスティアの問いに答えるように、女は右目を閉じ、義眼である左目のみをミスティアへ向けた。
蒼い眼。
より正確に言えば浅縹色をした、その眼。
見る者を吸い込んでしまいそうな地平線の彼方の空の色。
「っっっっ~~!」
ミスティアは堪らず、顔を背ける。
頬が赤く熱い。端から見れば、あたふた取り乱す妖怪など滑稽に映るだろう。
案の定、くくくという忍び笑いが客席から聞こえるが、ミスティアは努めて無視し注文の準備に取り掛かる。
「さ、それじゃあそろそろ話を聞かせてもらいましょうか」
自分が出した品を、上品に、美味しそうに食べる女を見て平静を取り戻したのか、幾分落ち着いた様子のミスティア。
女が出された串焼きを半分程食べ終えたのを頃合いと見たのか、本日の本題へ切り込んだ。
「まあ、ちゃんと約束しましたからねェ。串焼きもお酒も良いもンだし、さて」
―――――――――どこから、知りたい?
と、聞く者を挑発するような困惑的な声で、蒼眼の女は問うた。
ほんの少し昔。人里のとある有力者の家に、一人の女の子がいました。
何不自由ない暮らし。幸せな家族。大勢の友人。
いつもにこにこ。笑顔の絶えない女の子。
その女の子は、若い時に必要なものは全て持っていました。
しかし、ある日を境にその状況は一変しました。
子供の遊びは、時として取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう事があります。
女の子は、その取り返しのつかない事態に、運悪く遭遇してしまいました。
たか鬼の最中、誤って転落し木の枝が左目に刺さってしまったのです。
調子に乗って、周りの止める声も聞かず、普段は登らないところに登って、勢いよく飛び降りたのです。
完全に自業自得です。
命は取り留めましたが、左目は空洞になってしまいました。
たかが眼ひとつ。されど眼ひとつ。
眼帯をするようになった女の子は、それまでの笑顔を浮かべられなくなりました。
傷物になったと、女の子を悪し様に言う人間も居ましたが、そういった人達は女の子から遠ざけられました。
周りの大人たちや友人達は、気を遣ってくれます。
優しい言葉も掛けてくれます。
しかし、それでも彼らはちゃんと眼を二つ持っています。
二つの眼で、ちゃんと女の子を見据えて、話しかけてきます。
眼が一つなのは、自分だけ。
肉体の一部の喪失とは、ただそれだけで、周囲との隔絶を感じさせるのに十分なものでした。
しばらくの間、女の子は笑うことがありませんでした。
いつも沈んだ顔をしている人間に対して、気を遣わなければならない気苦労というのは、計り知れないものです。
一人、また一人と女の子の元から友人が去っていきました。
親も、次第に疲れていき、他の兄弟姉妹たちに向ける眼差しとは違う眼差しを、女の子に向けるようになっていきました。
兄弟姉妹たちも、どことなく気まずそうに女の子と接し始めました。
別に、誰が悪かったというわけではありません。
次第に蔑ろに扱われるようになった女の子も、誰を憎んでいるわけでもありません。
とある女の子が、他人と違うという事に耐えられなかった。ただ、それだけの話なのです。
「と、ここまでが第一部ってところですねェ」
蒼眼の女は、そう言うとわずかに残っていた酒を一気に飲み干した。
話は終わりだと言わんばかりに、御代を置き席を立とうとする。
「………………ええ~~っ!」
それはない、とミスティアは抗議の唸りを上げる。
話は理解出来ている。
理解出来ているが故に、納得がいかないのだ。
言ってしまえば、これは前座だ。
肝心要の蒼眼の話が全く出てきていないのだ。
「また明日ってことですよぅ。いきなり全部話しちまったら、つまンないじゃアないですか」
「え、また明日も来てくれるのっ?」
今そう言いましたよぅ、と蒼眼の女はわずかに微笑む。
「そンじゃあ明日、またこの時間に」
そう言うと、蒼眼の女は静かに立ち去った。
後に残されたミスティアがやることは決まっていた。
迅速な後片付けと明日の準備だ。
昨日に引き続き、夜が明ける前にミスティアは床についた。
「こンばンわ~」
昨日に引き続き、恙無く準備を終えたミスティアは、昨日と同じく屋台のカウンターで蒼眼の女を出迎えた。
「あ、こんばんわ。お待ちしてました!」
さすがに三度目だけあって、昨日までより落ち着いた様子で蒼眼の女を席に通す。
「注文は串焼きでいいですよね!? 日本酒もばっちり用意してます! さあ、ご賞味あれっ!」
蒼眼の女が席につき何事かを言う前に、ミスティアは矢継ぎ早に言葉を重ね、調子よく品物を出していく。
自身の内心を、全く隠せていなかった。
「おンやまア、こりゃ至れり尽くせりで」
しかし、店主の無作法を気にした様子もなく、蒼眼の女は絶品の料理にありつく。
一口齧ったところで、蒼眼の女はミスティアに眼を向けた。
「ミスティア・ローレライ」
「――――ひゃいっ!」
まさか自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったのか、ミスティアは大いに驚き、素っ頓狂な声を上げた。
そんな様子が可笑しかったのか、くくくと忍び笑いをした後、蒼眼の女は言葉を続けた。
「夜雀の妖怪で、歌を歌うって書いてアったンだけど」
恐らく、人里で出回っている幻想卿の妖怪本でも読んだのだろう。
色々と失礼なことが書いてあった気がするが、よく覚えていない。
「ここでひとつ、歌っちゃァくれませンか?」
「――――――――え?」
ミスティアは感動した。
感極まったと言っていい。
歌は、ミスティア・ローレライにとって何より大切なものだ。
趣味であり、商売道具であり、存在証明である。
歌は人生。人生は歌。
なので、聞かせる。
相手が誰であれ、聞かせる。
たとえ相手が嫌がろうと、逃げようと、そんなのはお構いなしに歌い、聞かせ続ける。
それが、聞かせてくれと頼まれた。
浅縹色の綺麗な眼で、頼まれた。
――――――――ならば、歌おう。もう、歌しか聞こえなくなるほど。
激しく、熱烈に、猛々しく、歌い上げよう――――――――――!
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~♪」
「――――――――いや、それじゃなくて」
ミスティアは盛大にひっくり返った。
「な、な、な、な、なんで!? わ、私は、マスターでっ! コーラスのっ! 真夜中にっ! 夜雀ぇ!」
ミスティアは涙目に成りながら、追い縋るように言う。
そんな様子に、頬を掻きながら、蒼眼の女は言葉を選んだ。
「え~と、今のも嫌いじゃアないンですが、アタシが最初に来たときに歌ってた歌。あれが聞きたいなア、なンて」
「――――? ああ、あれね」
ミスティアは基本鳥頭ではあるのだが、印象深かったことはたいてい覚えている。
伊達に夜雀の王をやっているわけではないのだ。
故に、少し悩む。
あれは、ただの音の振動だ。
歌とは言えない、とミスティアは思っている。
だが、せっかくのリクエストではあるし、何よりここでごねて帰られでもしたら元も子もない。
蒼眼の話を、まだ聞いていないのだ。
妖怪の本分をまるっと忘れていることには気づかず、ミスティアは、プロは辛いななどとぶつぶつと言いながら歌う体勢に入った。
「――――――――――――――――――――――――」
今宵は星夜。ミスティアは屋台の赤提灯から離れ、その身を星彩にさらす。
幽かな音の振動が、辺りに染込むように響く。
心地よい和風が、辺りを包む。
青々とした草木は、その生命の輝きを失い、代わりに生命の儚きを得る。
儚きを得、尚も風に揺らぐ姿は、何かを悼む姿にも見える。
――――――――命が静まる。
ここは生気が感じられぬ舞台。しかし、確固としてある舞台。
それは、常世から幽世へ誘う蛾の如く。
冷たく突き放すことなく、されど決して優しくもなく。
人の眼を暗闇へと誘う毒々しい歌声。
時間にしてみれば、数分。
ミスティアは、少し恥ずかしそうに歌い終える。
そうして、屋台の赤提灯の下へ戻り、歌姫から店主へとその在り方を変える。
「ど、どうでした?」
果たしてリクエストに応えられたのだろうか。
というよりも、思い切り鳥目の能力を使ってしまっていた。
意識したわけではないから、八目鰻ですぐに直る程度であるだろう。
その辺りも少し不安になりながら、ミスティアは蒼眼の女に眼を向け、
「――――――――――アァ、良かった」
泣きそうになりながら微笑む女の顔を見た。
その一言を発したきり、蒼眼の女は閑寂と酒を進めた。
ミスティアも話をせがめる様子ではないことを察したらしく、黙って星空を見上げている。
「さアて、そンじゃア昨日の続きを話しましょうかねェ」
何がしかの整理がついたのか、はたまたただの気まぐれか。
蒼眼の女は、ミスティアに眼を向けると、わずかに微笑んだ。
物質的には何不自由なく少女時代を過ごしていた女の子。
しかし家に居場所を見出せず、鬱屈とした心を抱え、人里から明かりが消えるまで外を歩いていた女の子。
ある時、その女の子にいくつかのガラス細工がプレゼントされました。
プレゼントしたのは、歳の離れた姉の旦那様。
鬱屈とした顔で日々生きている女の子に、せめて慰みにということだったのかもしれません。
そして、女の子は見つけたのです。
その丸みを帯びた蒼いガラス細工を。
何か曰くがあったとか、そういったことはありませんでした。
しかし、女の子は魅入られました。
綺麗で、とても綺麗で。吸い込まれそうなほど綺麗で―――――これを左眼/空洞に入れたら、どれだけ綺麗に映るだろうか、と。
女の子は、あまりの痛さに悲鳴を上げました。
ですが、それが良かったのでしょう。
すぐに大勢の人間が集まり、事態の重大さが知れ渡り、女の子は可愛そうな扱いというより、特異な扱いがされるようになったのですから。
どうしてもと駄々をこね、そのガラス細工を職人に義眼モドキとして加工し直してもらい、女の子には笑顔が戻りました。
しかし、笑顔が戻ったところで、誰一人女の子に仲良くしようとする人間はいません。
誰一人、女の子の左眼をまともに見ようとしませんでした。
奇異なものを見る眼でしか、左眼を見ませんでした。
そうして、幾年が過ぎ。
女の子は、女の子とは呼べない歳になっていました。
しかし、その間環境は一向に変わりませんでした。当然、元女の子の行動も変わりようがありません。
行動を変えたくても、変え方がわからないのです。
たくさんの人や物に囲まれて、一人で生きてきたようなものなのですから。
なので、もう元女の子はすっかり擦り切れてしまいました。
自分の弱さと付き合うことに、もう疲れてしまったのです。
誰を恨むことなく、盲目でありたい。
それが元少女の心からの願いです。
少女時代から日課の散歩も、今では人里を出て、危険でいっぱいな夜道を歩くようになりました。
そうして――――――――
「第二部完! ご清聴アりがとゥございました!」
「え…………うん、はい、わかった。また明日」
突然の終了宣言にいくらか驚いたものの、予想はしていたのか、ミスティアはさほど取り乱すことはなかった。
「まア、ふらふらしてるところに感じのいい歌が聞こえてきて、ってのが第三部ですかねェ」
ともかく、今日はこれで終わりかとミスティアが食器を片付けようとする。
「で、お気に召したでざンしょか?」
どうやら感想を聞かれているらしいと、ミスティアが理解するまで、少し間があった。
「…………ひとつ聞いても良い?」
どうぞ、と蒼眼の女が空になったとっくりをミスティアに渡しながら言う。
「何で、その女の子は左の義眼を外さなかったの?」
少なくともそうすれば、奇異な眼で見続けられることはなかった筈だと、ミスティアは言外に言う。
擦り切れはしなかったのではないかと。疲れ果てはしなかったのではないかと。
「…………そりゃア、綺麗だったからですよ。ガラスや鏡に映る自分の左目が、無くなった筈の左目が、キラキラしてるンですから」
それだけは、何がどうなろうと譲れなかったンですよ、と蒼眼の女はわずかに微笑んだ。
「ま、それも潮時なんですがねェ」
そして、まるでここからが本題だといわんばかりに、蒼眼の女は切り出す。
「この蒼眼、貰ってやっちゃアくれませンか?」
「…………………………へ?」
蒼眼の女と出会ってからペースを乱されっぱなし気味だったミスティアは、今度こそ完全に困惑した。
「欲しいンでしょ? その眼を見ればわかりゃんす」
完全に図星だったが、先程までの話を聞いて、ありがとうございますと素直に貰う事は出来なかった。
「いいンですよ。まあ、やることがアるンで明日の夜まで待って貰いますがねェ」
そう言うやいなや、蒼顔の女は立ち上がり、食した物の代金を払う。
「じゃア、今日と同じ時間、場所は……この先にアる大きな木が目印の分かれ道で」
「え……? 明日は、店に来てくれないの?」
ミスティアのその言葉に蒼眼の女は別の言葉で答える。
「とりめうた」
「え?」
「アの良い感じの歌のことですよぅ。アレ聞いたら鳥目になっちゃって。まア、すぐ直ったンですけどねェ」
やっぱり鳥目になっていたのか、とミスティアは肩を落とす。
ひょっとしてそのせいで嫌われでもしたのかと、不安げに女の眼を見詰める。
くくくと忍び笑いをした後、蒼眼の女は、
「アタシは好きですよぅ、あの歌。あの歌を聞いて盲目になるなら悪くない」
と言い、何度目かの微笑を浮かべる。
「でもさすがに、妖怪とこれ以上仲良くしちゃア、お天道様に嫌われますって」
そう言い残し、蒼眼の女は静かに去っていった。
気が付けば、辺りが白ずんで来ている。夜明けが近いのだ。
ほんの一時呆けていた意識を覚醒させ、ミスティアは屋台の撤収に掛かる。
本人はああ言ったが、多少強引にでも屋台に来てもらおう。
そもそも人を襲うのが妖怪の本分。人間の都合など解す必要などないのだ。
そう、それがいい。そう言って襲って、また色々話をすればいい。
今度は、自分の事を話すのが良いかもしれない。
そう、矢継ぎ早に思考を重ね、ミスティアは夜の準備を整えるため、三度夜明け前に床へついた。
眠りに落ちるわずかな時間、蒼眼の女の最後の言葉が頭をよぎる。
ほんの少しの寂しさがミスティアの胸中に残った。
夜陰深き、玄雲立ち込める空。
辺りは闇に閉ざされ、一寸先も闇といった有様だ。
如何に妖怪跋扈する丑三つ時だとしても、今宵の闇は殊更深かった。
その闇の中を、ミスティア・ローレライは約束の場所へ向けて歩みを進めていた。
目的の場所に着く。
人里への分岐点であるこの場所には、目印として分るようにいくつかの木が植えられていた。
高い木も低い木もそれぞれ怒ったように八方に枝を伸ばしている。
未だ、待ち人は来ず。
ミスティアは、それらしい気配がするまで、待つことにした。
少しずつ、少しずつ時間が過ぎていく。
風が出てきた。暖かい微風が辺りの草木を揺らす。
それと同時に、微かにだが、きい、きい、という音が聞こえてきた。
甲高く、細くて、不吉な音。
風は止むことなく、吹き続ける。
まるで、暗雲を晴らすように、何かを振り払うように。
きい、きい、きい――――。
音は止まない。
どうやら音は、ミスティアの僅か後方から聞こえてくるらしかった。
「……………………」
雲が動く。
ゆっくりと、しかし確実に辺りに月光が満ち、闇を払う。
きい、きい、きいいい――――。
音は止まない。
永劫にも感じられる時間が玉響ほどで過ぎ去るような感覚。
――――――――そうして、ついに雲の切れ間から月光が覗き。
「…………そっか、もう来てたんだ」
ミスティアは、背後の木に、首を吊りゆらゆらと揺れる蒼眼の女の姿を認めた。
翼を器用に動かし、青目の女の目線の高さまで飛ぶ。
目線を合わせ、生身である右目を覗きこむ。
眼の状態から、死後数時間程度といったところだ。
つまり、日の落ちる直前にここで首を吊ったということだろう。
ミスティアには、これが自殺なのか他殺なのか、判断がつかない。
いつ頃に死んだのかを判別するくらいしか出来ない。
そも、判断がついた所でミスティアがするような事など何もないのだ。
人間の事は、人間が責任をもって始末をつけるべきであり、妖怪であるミスティアには関係がない。
死体の片付けや犯人探し、または自殺の証明は人間たちが勝手にすればいい。
そう、ミスティアがやる事は既に決まっているのだ。
「よっと」
伸縮自在な爪を伸ばし、ピンセットを使う要領で蒼眼の女の左目へ爪を差し込む。
なるべく余計な傷を付けないように、ゆっくりと、慎重に、義眼の摘出を行う。
「ふう」
ミスティアは、無事に摘出を完遂させ、取り出したそれを月光にかざす。
見る者を吸い込んでしまいそうな地平線の彼方の空の色。
しかし、以前ほど心が奪われる事はなかった。
「…………まあ、いっか」
兎にも角にも、これでミスティアは蒼眼の女との約束を果たした。
とりあえず、珍しいものとして屋台の何処かに飾ることにしよう、と独りごちる。
いつの間にか、暗雲は遠くへ去り、満ちる月光と星天が夜の闇を照らし出していた。
「………………………………」
夜が明けるまで、まだしばらく時間がある。
ミスティアは、女が首を釣っている枝に腰掛け、強張っていた体を弛緩させる。
どうせ屋台に客など来ないので、別段やることもないのだ。
夜明け前に床についても仕方ない。つく必要がなくなってしまった。
なので、ミスティアは夜が明けるまで羽を休めることにした。
たまには、呆けて何もせず過ごすというのもいいだろう。
風が凪ぎ、静寂が辺りを包む。
足元には首吊死体。しかも片目はミスティアが取ってしまい空洞ときている。
如何にも猟奇的な絵面だと、苦笑する。
「――――――――」
苦笑して、自然と歌声が零れた。
それは、女が感じが良いと言ったあの歌。
別れ際に、好きだといった、あの歌。
「――――――――――――」
少しずつ体全体から音を絞りだすように、歌う。
「――――――――――――――――」
幽かな音の振動が、辺りに染込むように響く。
普段歌う、調子外れの激しい歌ではない。
何もない中空に、感情を乗せた振動を、ただ響かせる。
「――――――――――――――――――――」
心地よい和風が、辺りを包む。
月の光が、草木が静かに揺れる。微風が周囲を撫で、陰影が揺らぐ。
青々とした草木は、その生命の輝きを失い、代わりに生命の儚きを得る。
儚きを得、尚も風に揺らぐ姿は、何かを悼む姿にも見える。
「――――――――――――――――――――――――」
ここは生気が感じられぬ舞台。しかし、確固としてある舞台。
幻想郷のどこにでもありふれた風景は、この刻において、歌姫のための静謐なる舞台と化す。
「――――――――――――――――――――――――――――」
それは、常世から幽世へ誘う蛾の如く。
冷たく突き放すことなく、されど決して優しくもなく。
人の眼を暗闇へと誘う毒々しい歌声。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――」
命が静まり、魂が鎮まる。
夜が明けるまで、残り数刻。
日光が女の死体を照らしだす、その刹那まで。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
ただ、歌声が響く。
女性が首を吊ったのは、人生に疲れたからなのでしょうか?
自分にはその程度しか想像がつきませんが、色々考えることができそうですね。
浮き世離れした女性が義眼である点やミスティアの歌などがそれなのかもしれませんが、むしろ作品の魅力を出す良い要素だと思います。
ただ、話の筋が何となく読めてしまうことが気になりました。もう一捻りストーリーに何かあれば、もっと良い作品になると思えるだけに残念です。
妖怪にピッタリだね
お洒落系のSSなんですね。
うまく雰囲気を出せていたと思いますよ。