娘を亡くしてから妻は心の病に罹ってしまった。
「大輔、今日もアミールはお義姉さんの家?」
「ああ、そうだよ。夏休み中はいつも向こうにお邪魔させてもらっているだろう?」
「ええ、そうだったわね」
妻はベッドの上からぼーっと外を眺めていた。
居なはずの娘の名前を呼ぶ妻。
妻は娘を亡くしたことのショックから記憶が錯乱していた。
彼女の時は娘が事故にあう以前で止まってしまっている。
妻には、娘は僕の姉の家にあそびに行っていると説明していた。
毎年、夏休みになるとそうしていたからまだ嘘はバレていない。
僕はこの生活に限界を感じていた。
-
僕の娘は不運な交通事故で一週間前にこの世から居なくなった。
ただの交通事故だった。
妻が娘の手を離した途端、何かを追いかけるように車道に飛び出したらしい。
娘が何を追いかけていたのか、娘に聞くことは出来ない。
妻は自分が手を離してしまったせいだと激しく自分を攻めた。
きっと、それで過度なストレスがかかったのだろう。
葬儀を済ませ、呆然としていた妻は言ったのだ。
「変ね。アミールはいつ帰ってくるのかしら?」
僕は精神科医に相談した。
曰く、娘を亡くしたことを否定したいがために、娘を亡くしたことを忘れてしまったのだと言う。
信頼のおける親戚やご両親を頼るのだが良いでしょう。
そう、医師は言っていた。
僕の両親は既にこの世になく、妻の両親とは国際結婚に反対されたため絶縁状態だった。
連絡先さえも分からない。
唯一の肉親である姉は義兄さんの両親の介護で忙しかった。
子供の世話をかけることとは訳が違う。
負担をかけることは出来ない。
有給を使い、歩くこともままならない妻の介護に時間を使った。
けれどもそれも今日で終わりだ。
正直僕は限界だった。
毎日「娘はどこか」と尋ねられる。
妻はそれ以外は何も喋らず、何もしない。
食事をとることさえせず、無理やり食べさせると母国語のスラングを使って抵抗する。
おそらくは罵りの言葉だろう。
妻はみるみる内に痩せていき、浮き出た骨が痛々しかった。
愛する娘を失った悲しみよりも、妻の豹変の方が僕の心を蝕んでいた。
そして、僕は誰にも迷惑のかからない方法でこの欺瞞に終止符を打とうと決意した。
新聞紙を縛るために買ったビニールテープを手に巻き付ける。
ちょうど人間の首を締め付けられるほどの長さで切る。
窓の外をぼーっと見ている妻へ近寄る。
生気はなく、にごった目、だらしなく開いた口からは涎が糸を引いている。
腕は老婆のように細く、痩せこけた頬はくすんだ青白さを見せていた。
フケが溜まり、うっすらと白い金色の髪の毛が近づく。
恋人だったときのように背中からそっと肩を抱き、ヒモを巻き、そして……
ピンポーン
時が止まった。
穏やかだった心臓は早鐘をならし、額に汗が滲む。
季節相応の暑さが今更ながら身体に熱を持たせ始めた。
ロープを離し、ため息をつき、呼吸を整える。
ピンポーン
荷物が配送される予定はない。
タイミングの悪い訪問者である。
忌々しい。
決意が揺らがないよう迅速に対応してお引取り願おう。
-
ドアを開けるとそこにいたのはツナギ姿の腰まで届く金髪をした若い女性だった。
手には大きなダンボールを抱えている。
「こんにちはー! 八雲便でーす! 受け取りのサインかハンコをお願いしまーす!」
快活に話すその女性は宅配業者のようだった。
「はい」
反射的にシャチハタ印を押して荷物を受け取る。
「ぬ」
かなり重たいものだった。
中に何が入っているのか分からないため、慎重にフローリングに降ろす。
「まいどどーもー!」
女性は踵を返した。
「あ、待って下さい!送り主は誰ですか?」
玄関を出ても女性の姿は既になかった。
一体誰が送りつけたものだろうか。
箱を周りを見てみるが送り主の記名はない。
なんとなく気になって中身をあらためることにした。
カッターを使い、ガムテープを開け、中を見るとそこには少女の人形が膝を抱えて入っていた。
どこかアミールに面影が似ている人形。
誰がこんな悪趣味ないたずらをしたのか。
憤慨し、乱暴に取り出そうとすると誰かの手が視界を覆った。
……いや、僕は何をしようとしていたのだろうか。
いとしい我が子をダンボールから助け起こす。
姉さんも悪趣味だ。宅配業者に変装して子供をダンボールに入れて返してくるなんて。
もしかしたら忙しい中、アミールを預けたことへの嫌がらせかもしれない。
とにかく愛娘は無事帰宅した。妻に知らせてあげよう。
「ママー! アミールが帰ってきたよ!」
ドタドタと音がして妻が姿を現す。
久しぶりの娘のいない休みだからといってだらけすぎだ。午後なのにまだパジャマだった。
「アミール! ああ! 私のアミール! 帰ってきてくれたのね!」
「おおげさだなぁ。一週間だけ姉さんに預けていただけじゃないか」
「パパ! 今日はアミールの好きなオムライスにするわよ!」
「はいはい」
本当に妻は娘のことを溺愛している。少し甘やかし過ぎなのではないだろうか。
でも、これが我が家の日常、幸福な時を噛み締める。
「あら、冷蔵庫に何も無いわ。ちょっと買い物行ってくるわね」
「その前に着替えなよ。まだパジャマじゃないか」
「まあ、恥ずかしい」
顔を赤らめ、着替えに行く妻の背中を見送る。
ダイニングソファーにはアミールが横になって眠っていた。
きっと向こうで遊び疲れていたのだろう。
起こさないように注意しながら毛布をかける。
「それじゃあ、行ってきまーす!」
すっかり慣れた日本式の挨拶をしながら妻は出かけていった。
さて、僕も家事でもしようかな。
夫婦の部屋に行くとよだれだらけの掛け布団とシミの広がったシーツ、それに妻のパジャマと下着が放置されていた。
シーツのシミからはほのかに尿の匂いがする。
あの歳になってお漏らしか。
妻の名誉のために秘密にしようと固く誓った。
家事をしながらふと疑問に思う。
今日はGWでも何かの記念日でもない。
僕はなんで有給まで使って家に居たんだったかな?
まあいいか。
娘のいる幸福な暮らしを取り戻した今となってはそんなことは瑣末に思えた。
-
「課長、様子がおかしくない? 娘さん亡くしたっていうのにニコニコしながら家族の写真見てるわよ」
「なんか変ね。奥さんも寝たきりで大変なのに会社来てて大丈夫なのかな?」
「あ、来たわよ」
-
休憩から帰りデスクにつく。
女子社員が仕事が始まったというのにこそこそと私語をしているようだ。
上司として注意しなければならないかなと視線を向けるとさっと目を逸らし仕事を始めだした。
怯えたようなその表情に若干ショックをうけながらも、自分も仕事へと戻る。
こういったもやもやとしたわだかまりは飲みに誘って晴らすのが常なのだが、今日は家族感謝デーと心に決めていた。
早く帰って娘とスキンシップをしよう。
娘が大きくなると父親を忌み嫌うようになるというのが世の常らしい。
そんなことになったら僕は死んでしまう。
今のうちに娘成分を貯めておかなければならない。
まあ、うちの娘に限って、父親を捕まえて「キモイ」とか「生理的に無理」だとか言わないとは思う。
たぶん。
おそらく。
きっと。
娘もいつか嫁に嫁ぐことがあるのだろうか。
僕は泣いてしまうな。号泣だ。
相手の男性には一発拳を入れると思う。
いや、しかし、まだまだ先の話だな。今から慌てる必要はない。
「課長、部長からアポイントメントが来てます」
「部長から? いつ?」
「15:00に会議室に来てほしいそうです」
「ああ。分かった」
部長が僕に話とはなんだろうか。
時間を見計らい仕事を切り上げた。
-
ノックをする。
「入り給え」
「失礼します」
最低限の礼節をもって、ドアをあけると、部長はブラインドを向いていた。
そのまま話し始める。
「君が今どんな精神状態なのか。少しは理解しているつもりだ」
「はあ」
重々しく語られる部長の理解。
自分にはそんなことを示される心当たりが皆無だった。
「娘さんのことも奥さんのこともショックだろう。しかし、だからといって仕事に逃避するというのは夫として褒められた行為ではない。そうは思わないかね?」
振り返った部長は実にさみしげな表情をしていた。
眉をひそめ、目を潤わせている。
僕は部長が何のことを言っているのか分からなかった。
けれども、社会人の性か、無意識の内に首肯していた。
「君には休息が必要だ。こちらで手続きは済ませておこう」
「はい、ありがとうございます」
ほぼ全自動にうやうやしく礼をして部屋を出る。
僕の心は不意に訪れた休暇の過ごし方を夢想することで忙しかった。
どう家族と過ごそうか。
きっと姉さんは子供達だけで遊ばせていただろうからテーマパークやプールなんていいかもしれない。
そういえば遊園地に連れて行ったのは随分前のことだった気がする。
よし、明日は家族で遊園地に行こう。
平日だからきっとほとんど人がいないはずだ。
順番待ちでアミールがぐずることもにない。
娘と一緒に遊びに出ると疲れた顔で帰ってくる妻も快く行くだろう。
取り敢えず、休む間の仕事を割り振り、帰宅した。
-
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
妻の元気の良い返事が聞こえる。
「ごはんとお風呂、どっちを先にする?」
「そうだなぁ。お風呂にするよ」
「それじゃアミールと一緒に入ってくれるかしら?」
「いいよ~」
ソファーに座るアミールを抱きかかえる。
「今日はパパと一緒にお風呂だぞ」
アミールは嬉しそうに笑っているようだった。
風呂に入り、アミールの髪の毛を洗う。
外で遊んでいるためか傷んでいてごわごわとしていた。
僕はトリートメントをつけ、念入りに洗っている。
その時、見慣れない赤いリボンをアミールがつけていることに気がついた。
このままでは髪の毛を洗うことが出来ない。
僕はそっとリボンを取り外す。
僕は人形を持って風呂に入っていた。
金色の髪の毛、蒼色の瞳、アミールに面影が似ている少女の等身大の人形だ。
僕は今まで何をしていただろうか。
昨日あたりからの記憶が曖昧模糊としていた。
じっと、見つめていると人形の瞳はだんだんと紫色になり、そして血のような紅色へと変化していく。
ぎょっとして人形を落とした。
おかしい。
何かがおかしい。
人形がゆらりと『立ち上がる』。
「はあ、動かないと肩こっちゃうなぁ。人形のフリをするのも大変ね」
人形は人形ではなくなって、一人の少女になっていた。
「やっぱり紫の言った通りになっちゃったかぁ。ごめんねパパ。痛くないようにするから許して」
そう言って、彼女は口を開ける。
それは瞬く間に大きくなって僕の身長よりも開いていた。
中のギザギザとした歯が見える。
口の中には細かい歯が無数に生えていて飲み込まれたらひき肉になるのだろうなとぼんやり考えていた。
「御待ちなさい」
どこから現れたのか。ツナギ姿の金髪女性が風呂に張られたお湯の『上に』立っていた。
「彼にはまだ役割があるわ。箱の中身が知りたければ箱を開けるしか無いのよ。そうしなければ、中身は誰にもわからないわ」
「よくそんな小難しいことをつらつらと言えるわね。煙にまかれているみたいだわ。それに、せっかくパパに会えたっていうのにあんたの作った変なルールのせいでめちゃくちゃよ」
「朝になったら陽が登るくらい当たり前で単純なことよ。あなたはもう幻想の住人なの。ここにこうしていさせるだけでも危険があるのよ。それでも私はあなたのために素敵な箱を用意してあげたじゃない。私の寛大な心遣いに感謝することね。結局、あなたはもう人間には戻れないのだから、結果は変わらないでしょう」
「ええ、それは分かってる。ただ、もう少しぬるま湯に浸かりたかっただけよ。ごっこ遊びだったけれど、やっぱり家族っていいものね」
「ごっこじゃなくて本当の家族でしょう?」
「本質が変わってしまった私にはどちらも同じことよ」
「あら、そう。淡白なのね。さて、そこのあなた」
僕は突然話しかけれ、ビクッと肩がすくみあがった。
「あなたの頭のなかは今疑問符だらけのはずよ。何も知らずに死にたくはないでしょう? はやく箱を開けないと彼女があなたを食べちゃうわよ?」
少女はニイっと口角をあげる。
歯並びの良い歯が見えた。
僕は服を着るのも忘れて風呂場から飛び出した。
確かめるべきことははっきりしていた。
妻がどこにいるか、どんな状態なのか、それが分かれば箱の中身を知ることが出来る。
僕は妻を探し、ダイニングへと向かった。
引き裂かれたカーテン、足の折られた机。
ソファーにはたくさんの切り傷が付けられていた。
そして、異臭。
肉が腐ったような臭いが部屋を満たしている。
キッチンを見る。
ダイニングの惨状とは裏腹に、綺麗に整えられていた。
冷蔵庫を見るが中身はない。
ここは異臭の原因ではなかった。
どこからこの臭いはかおってくるのか。
部屋の中をぐるりと見回す。
寝室のドアが開いている。
ほんの僅かだけ扉が開いており、中は暗い。
僕はゆっくりと緊張しながら近づいていく。
心臓がバクバクと脈打つ。
僕は知っている。
この先に何があるのか。
誰がいるのかではない。
『ナニ』が『ある』のか。
否定した。
そんなはずはない。
そんなはずはない。
そんなはずはない。
頭のなかに2つの記憶が重なる。
やせ細ったが元気を取り戻した妻。
そしてもう一方は……
確かめる。
入って確かめる。
それしかない。
ドアを開け、電気をつけた。
-
膝から力が抜ける。
そこには苦悶の表情で硬直している妻の亡骸があった。
首にはビニールヒモが巻かれていた。
シーツには糞尿がぶちまけられている。
夢だと思いたかった。
これは夢なのだと思いたかった。
「これが現実であちらが幻想よ」
ベッドの上に浮かんだ女性が残酷に宣言する。
「あら、普通なら仰天して腰が抜けるはずなのだけれど、もう心が無いのかしら?」
僕は驚いていた。
僕の心のなかは、悲しみと驚きと焦燥と後悔と不安、そして恐怖とが混ざり合い。固まっていた。
「口をきくこともできないみたいね。さて、箱の中身は決まったことだし、やっちゃっていいわよ」
僕は女性が言っている意味を即座に理解した。
いや、しなかった。
違う、したくなかった。
いやだ
いやだ
いやだ
歯がガタガタと鳴る。
咬み合わない。
心臓に冷たいドロっとした液体が流れ込み、呼吸が満足にできず、浅く荒い。
ピトリと、背中に何かが張り付き、首に手を回してくる。
冷たい吐息が首筋にあたり、ゾクリと背筋に悪寒が走った。
「私の死体にね。黒い塊がズルッと入ってきたの。とっても冷たくてね。自分が自分じゃなくなっちゃうみたいでとっても怖かったんだよ」
「……」
「パパはママを慰めるので忙しかったよね」
「……」
「パパ、わたしお腹すいちゃった。あ、最後に質問してもいい?」
「……」
「ねえ、パパ、ママとわたし、どっちが大事だった?」
「それは……」
「答えは聞いてないけどね……」
耳元でアミールは囁いた。
暗闇が視界を覆い、僕の意識はそこから消えた。
「大輔、今日もアミールはお義姉さんの家?」
「ああ、そうだよ。夏休み中はいつも向こうにお邪魔させてもらっているだろう?」
「ええ、そうだったわね」
妻はベッドの上からぼーっと外を眺めていた。
居なはずの娘の名前を呼ぶ妻。
妻は娘を亡くしたことのショックから記憶が錯乱していた。
彼女の時は娘が事故にあう以前で止まってしまっている。
妻には、娘は僕の姉の家にあそびに行っていると説明していた。
毎年、夏休みになるとそうしていたからまだ嘘はバレていない。
僕はこの生活に限界を感じていた。
-
僕の娘は不運な交通事故で一週間前にこの世から居なくなった。
ただの交通事故だった。
妻が娘の手を離した途端、何かを追いかけるように車道に飛び出したらしい。
娘が何を追いかけていたのか、娘に聞くことは出来ない。
妻は自分が手を離してしまったせいだと激しく自分を攻めた。
きっと、それで過度なストレスがかかったのだろう。
葬儀を済ませ、呆然としていた妻は言ったのだ。
「変ね。アミールはいつ帰ってくるのかしら?」
僕は精神科医に相談した。
曰く、娘を亡くしたことを否定したいがために、娘を亡くしたことを忘れてしまったのだと言う。
信頼のおける親戚やご両親を頼るのだが良いでしょう。
そう、医師は言っていた。
僕の両親は既にこの世になく、妻の両親とは国際結婚に反対されたため絶縁状態だった。
連絡先さえも分からない。
唯一の肉親である姉は義兄さんの両親の介護で忙しかった。
子供の世話をかけることとは訳が違う。
負担をかけることは出来ない。
有給を使い、歩くこともままならない妻の介護に時間を使った。
けれどもそれも今日で終わりだ。
正直僕は限界だった。
毎日「娘はどこか」と尋ねられる。
妻はそれ以外は何も喋らず、何もしない。
食事をとることさえせず、無理やり食べさせると母国語のスラングを使って抵抗する。
おそらくは罵りの言葉だろう。
妻はみるみる内に痩せていき、浮き出た骨が痛々しかった。
愛する娘を失った悲しみよりも、妻の豹変の方が僕の心を蝕んでいた。
そして、僕は誰にも迷惑のかからない方法でこの欺瞞に終止符を打とうと決意した。
新聞紙を縛るために買ったビニールテープを手に巻き付ける。
ちょうど人間の首を締め付けられるほどの長さで切る。
窓の外をぼーっと見ている妻へ近寄る。
生気はなく、にごった目、だらしなく開いた口からは涎が糸を引いている。
腕は老婆のように細く、痩せこけた頬はくすんだ青白さを見せていた。
フケが溜まり、うっすらと白い金色の髪の毛が近づく。
恋人だったときのように背中からそっと肩を抱き、ヒモを巻き、そして……
ピンポーン
時が止まった。
穏やかだった心臓は早鐘をならし、額に汗が滲む。
季節相応の暑さが今更ながら身体に熱を持たせ始めた。
ロープを離し、ため息をつき、呼吸を整える。
ピンポーン
荷物が配送される予定はない。
タイミングの悪い訪問者である。
忌々しい。
決意が揺らがないよう迅速に対応してお引取り願おう。
-
ドアを開けるとそこにいたのはツナギ姿の腰まで届く金髪をした若い女性だった。
手には大きなダンボールを抱えている。
「こんにちはー! 八雲便でーす! 受け取りのサインかハンコをお願いしまーす!」
快活に話すその女性は宅配業者のようだった。
「はい」
反射的にシャチハタ印を押して荷物を受け取る。
「ぬ」
かなり重たいものだった。
中に何が入っているのか分からないため、慎重にフローリングに降ろす。
「まいどどーもー!」
女性は踵を返した。
「あ、待って下さい!送り主は誰ですか?」
玄関を出ても女性の姿は既になかった。
一体誰が送りつけたものだろうか。
箱を周りを見てみるが送り主の記名はない。
なんとなく気になって中身をあらためることにした。
カッターを使い、ガムテープを開け、中を見るとそこには少女の人形が膝を抱えて入っていた。
どこかアミールに面影が似ている人形。
誰がこんな悪趣味ないたずらをしたのか。
憤慨し、乱暴に取り出そうとすると誰かの手が視界を覆った。
……いや、僕は何をしようとしていたのだろうか。
いとしい我が子をダンボールから助け起こす。
姉さんも悪趣味だ。宅配業者に変装して子供をダンボールに入れて返してくるなんて。
もしかしたら忙しい中、アミールを預けたことへの嫌がらせかもしれない。
とにかく愛娘は無事帰宅した。妻に知らせてあげよう。
「ママー! アミールが帰ってきたよ!」
ドタドタと音がして妻が姿を現す。
久しぶりの娘のいない休みだからといってだらけすぎだ。午後なのにまだパジャマだった。
「アミール! ああ! 私のアミール! 帰ってきてくれたのね!」
「おおげさだなぁ。一週間だけ姉さんに預けていただけじゃないか」
「パパ! 今日はアミールの好きなオムライスにするわよ!」
「はいはい」
本当に妻は娘のことを溺愛している。少し甘やかし過ぎなのではないだろうか。
でも、これが我が家の日常、幸福な時を噛み締める。
「あら、冷蔵庫に何も無いわ。ちょっと買い物行ってくるわね」
「その前に着替えなよ。まだパジャマじゃないか」
「まあ、恥ずかしい」
顔を赤らめ、着替えに行く妻の背中を見送る。
ダイニングソファーにはアミールが横になって眠っていた。
きっと向こうで遊び疲れていたのだろう。
起こさないように注意しながら毛布をかける。
「それじゃあ、行ってきまーす!」
すっかり慣れた日本式の挨拶をしながら妻は出かけていった。
さて、僕も家事でもしようかな。
夫婦の部屋に行くとよだれだらけの掛け布団とシミの広がったシーツ、それに妻のパジャマと下着が放置されていた。
シーツのシミからはほのかに尿の匂いがする。
あの歳になってお漏らしか。
妻の名誉のために秘密にしようと固く誓った。
家事をしながらふと疑問に思う。
今日はGWでも何かの記念日でもない。
僕はなんで有給まで使って家に居たんだったかな?
まあいいか。
娘のいる幸福な暮らしを取り戻した今となってはそんなことは瑣末に思えた。
-
「課長、様子がおかしくない? 娘さん亡くしたっていうのにニコニコしながら家族の写真見てるわよ」
「なんか変ね。奥さんも寝たきりで大変なのに会社来てて大丈夫なのかな?」
「あ、来たわよ」
-
休憩から帰りデスクにつく。
女子社員が仕事が始まったというのにこそこそと私語をしているようだ。
上司として注意しなければならないかなと視線を向けるとさっと目を逸らし仕事を始めだした。
怯えたようなその表情に若干ショックをうけながらも、自分も仕事へと戻る。
こういったもやもやとしたわだかまりは飲みに誘って晴らすのが常なのだが、今日は家族感謝デーと心に決めていた。
早く帰って娘とスキンシップをしよう。
娘が大きくなると父親を忌み嫌うようになるというのが世の常らしい。
そんなことになったら僕は死んでしまう。
今のうちに娘成分を貯めておかなければならない。
まあ、うちの娘に限って、父親を捕まえて「キモイ」とか「生理的に無理」だとか言わないとは思う。
たぶん。
おそらく。
きっと。
娘もいつか嫁に嫁ぐことがあるのだろうか。
僕は泣いてしまうな。号泣だ。
相手の男性には一発拳を入れると思う。
いや、しかし、まだまだ先の話だな。今から慌てる必要はない。
「課長、部長からアポイントメントが来てます」
「部長から? いつ?」
「15:00に会議室に来てほしいそうです」
「ああ。分かった」
部長が僕に話とはなんだろうか。
時間を見計らい仕事を切り上げた。
-
ノックをする。
「入り給え」
「失礼します」
最低限の礼節をもって、ドアをあけると、部長はブラインドを向いていた。
そのまま話し始める。
「君が今どんな精神状態なのか。少しは理解しているつもりだ」
「はあ」
重々しく語られる部長の理解。
自分にはそんなことを示される心当たりが皆無だった。
「娘さんのことも奥さんのこともショックだろう。しかし、だからといって仕事に逃避するというのは夫として褒められた行為ではない。そうは思わないかね?」
振り返った部長は実にさみしげな表情をしていた。
眉をひそめ、目を潤わせている。
僕は部長が何のことを言っているのか分からなかった。
けれども、社会人の性か、無意識の内に首肯していた。
「君には休息が必要だ。こちらで手続きは済ませておこう」
「はい、ありがとうございます」
ほぼ全自動にうやうやしく礼をして部屋を出る。
僕の心は不意に訪れた休暇の過ごし方を夢想することで忙しかった。
どう家族と過ごそうか。
きっと姉さんは子供達だけで遊ばせていただろうからテーマパークやプールなんていいかもしれない。
そういえば遊園地に連れて行ったのは随分前のことだった気がする。
よし、明日は家族で遊園地に行こう。
平日だからきっとほとんど人がいないはずだ。
順番待ちでアミールがぐずることもにない。
娘と一緒に遊びに出ると疲れた顔で帰ってくる妻も快く行くだろう。
取り敢えず、休む間の仕事を割り振り、帰宅した。
-
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
妻の元気の良い返事が聞こえる。
「ごはんとお風呂、どっちを先にする?」
「そうだなぁ。お風呂にするよ」
「それじゃアミールと一緒に入ってくれるかしら?」
「いいよ~」
ソファーに座るアミールを抱きかかえる。
「今日はパパと一緒にお風呂だぞ」
アミールは嬉しそうに笑っているようだった。
風呂に入り、アミールの髪の毛を洗う。
外で遊んでいるためか傷んでいてごわごわとしていた。
僕はトリートメントをつけ、念入りに洗っている。
その時、見慣れない赤いリボンをアミールがつけていることに気がついた。
このままでは髪の毛を洗うことが出来ない。
僕はそっとリボンを取り外す。
僕は人形を持って風呂に入っていた。
金色の髪の毛、蒼色の瞳、アミールに面影が似ている少女の等身大の人形だ。
僕は今まで何をしていただろうか。
昨日あたりからの記憶が曖昧模糊としていた。
じっと、見つめていると人形の瞳はだんだんと紫色になり、そして血のような紅色へと変化していく。
ぎょっとして人形を落とした。
おかしい。
何かがおかしい。
人形がゆらりと『立ち上がる』。
「はあ、動かないと肩こっちゃうなぁ。人形のフリをするのも大変ね」
人形は人形ではなくなって、一人の少女になっていた。
「やっぱり紫の言った通りになっちゃったかぁ。ごめんねパパ。痛くないようにするから許して」
そう言って、彼女は口を開ける。
それは瞬く間に大きくなって僕の身長よりも開いていた。
中のギザギザとした歯が見える。
口の中には細かい歯が無数に生えていて飲み込まれたらひき肉になるのだろうなとぼんやり考えていた。
「御待ちなさい」
どこから現れたのか。ツナギ姿の金髪女性が風呂に張られたお湯の『上に』立っていた。
「彼にはまだ役割があるわ。箱の中身が知りたければ箱を開けるしか無いのよ。そうしなければ、中身は誰にもわからないわ」
「よくそんな小難しいことをつらつらと言えるわね。煙にまかれているみたいだわ。それに、せっかくパパに会えたっていうのにあんたの作った変なルールのせいでめちゃくちゃよ」
「朝になったら陽が登るくらい当たり前で単純なことよ。あなたはもう幻想の住人なの。ここにこうしていさせるだけでも危険があるのよ。それでも私はあなたのために素敵な箱を用意してあげたじゃない。私の寛大な心遣いに感謝することね。結局、あなたはもう人間には戻れないのだから、結果は変わらないでしょう」
「ええ、それは分かってる。ただ、もう少しぬるま湯に浸かりたかっただけよ。ごっこ遊びだったけれど、やっぱり家族っていいものね」
「ごっこじゃなくて本当の家族でしょう?」
「本質が変わってしまった私にはどちらも同じことよ」
「あら、そう。淡白なのね。さて、そこのあなた」
僕は突然話しかけれ、ビクッと肩がすくみあがった。
「あなたの頭のなかは今疑問符だらけのはずよ。何も知らずに死にたくはないでしょう? はやく箱を開けないと彼女があなたを食べちゃうわよ?」
少女はニイっと口角をあげる。
歯並びの良い歯が見えた。
僕は服を着るのも忘れて風呂場から飛び出した。
確かめるべきことははっきりしていた。
妻がどこにいるか、どんな状態なのか、それが分かれば箱の中身を知ることが出来る。
僕は妻を探し、ダイニングへと向かった。
引き裂かれたカーテン、足の折られた机。
ソファーにはたくさんの切り傷が付けられていた。
そして、異臭。
肉が腐ったような臭いが部屋を満たしている。
キッチンを見る。
ダイニングの惨状とは裏腹に、綺麗に整えられていた。
冷蔵庫を見るが中身はない。
ここは異臭の原因ではなかった。
どこからこの臭いはかおってくるのか。
部屋の中をぐるりと見回す。
寝室のドアが開いている。
ほんの僅かだけ扉が開いており、中は暗い。
僕はゆっくりと緊張しながら近づいていく。
心臓がバクバクと脈打つ。
僕は知っている。
この先に何があるのか。
誰がいるのかではない。
『ナニ』が『ある』のか。
否定した。
そんなはずはない。
そんなはずはない。
そんなはずはない。
頭のなかに2つの記憶が重なる。
やせ細ったが元気を取り戻した妻。
そしてもう一方は……
確かめる。
入って確かめる。
それしかない。
ドアを開け、電気をつけた。
-
膝から力が抜ける。
そこには苦悶の表情で硬直している妻の亡骸があった。
首にはビニールヒモが巻かれていた。
シーツには糞尿がぶちまけられている。
夢だと思いたかった。
これは夢なのだと思いたかった。
「これが現実であちらが幻想よ」
ベッドの上に浮かんだ女性が残酷に宣言する。
「あら、普通なら仰天して腰が抜けるはずなのだけれど、もう心が無いのかしら?」
僕は驚いていた。
僕の心のなかは、悲しみと驚きと焦燥と後悔と不安、そして恐怖とが混ざり合い。固まっていた。
「口をきくこともできないみたいね。さて、箱の中身は決まったことだし、やっちゃっていいわよ」
僕は女性が言っている意味を即座に理解した。
いや、しなかった。
違う、したくなかった。
いやだ
いやだ
いやだ
歯がガタガタと鳴る。
咬み合わない。
心臓に冷たいドロっとした液体が流れ込み、呼吸が満足にできず、浅く荒い。
ピトリと、背中に何かが張り付き、首に手を回してくる。
冷たい吐息が首筋にあたり、ゾクリと背筋に悪寒が走った。
「私の死体にね。黒い塊がズルッと入ってきたの。とっても冷たくてね。自分が自分じゃなくなっちゃうみたいでとっても怖かったんだよ」
「……」
「パパはママを慰めるので忙しかったよね」
「……」
「パパ、わたしお腹すいちゃった。あ、最後に質問してもいい?」
「……」
「ねえ、パパ、ママとわたし、どっちが大事だった?」
「それは……」
「答えは聞いてないけどね……」
耳元でアミールは囁いた。
暗闇が視界を覆い、僕の意識はそこから消えた。
ただ、不明な点が多かったです。
この内容だったらもっと丁寧に作り込んでも良かったかも
今更指摘してもあれだと思いますが
×居なはずの娘 ○居ないはずの娘
長い苦しみの果てに訳も分からず略奪される男が何とも悲劇的でした
わからなければならない部分がわかりにくいという事は無かったと思います