「『幻想郷の行く末を見届ける会』?」
訝しげな声が、どこまでも広がる蒼空へと消えていく。
「えぇ。参加資格は不老不死であること。だから、それを満たしている貴方を招待しに来たのよ、比那名居天子さん」
天界に吹く強い風に長くきめ細やかな黒髪を靡かせて、蓬莱山輝夜と名乗った少女はにこやかにそう答えた。天子は彼女のことは伝聞でしか聞いたことはなかったが、月の禁忌である蓬莱の薬を飲み、天人とは異なる形で不尽の命を持つ存在だということは知っていた。
「……いや、意味がわからないんだけど。その、なんとかっていう会の目的は?」
しかし、天子にはその会とやらがなんであるのかも、わざわざこんなところまで来て自分を勧誘する理由も分からず、怪訝な顔で首を傾げる。勿論、行く末を見届ける、という言葉の意味は理解している。けれど、それをする目的がなんなのかは見当がつかなかった。
「読んで字のごとく、よ。私はもちろん、あなたも曲がりなりにも不死の人間でしょう? だからその無限の命を活用して、今日から幻想郷の未来、ひいては最期を見届けるの。これはその為の会」
「薬を使って不死になる方がよっぽど曲がってると思うけどね。……で、それをする事に何か意味はあるの?」
流麗な口調で語られる胡散臭い発言に少し警戒しながら、天子は眉根を寄せる。そんなことをして、一体何になるというのか。
「意味なんて無いわよ。ただの余興。無限の時間をただ腐らせるのも勿体無いから、有効活用しましょうってだけ」
「有効活用、ねぇ」
気のない風を装いながら、それとなく輝夜の気質を見る。何一つ乱れのない、静かな気質だった。嘘をついたり疑ったりしていれば、例え神であっても気質には大なり小なり乱れが生じる。それがないということはつまり、輝夜は嘘をついておらず、本気で余興に彼女を誘っているということを意味していた。
「それと、あと二つ活動目的があるわ」
「なに?」
ふたつ目はねぇ、と輝夜が大仰な動作で両の手を振るう。余程興味を引く自信でもあるのだろうか。
「変わらないものを探すこと、よ」
「変わらないもの?」
しかし、飛び出てきたのはまたも突拍子のない言葉。だが、逆に興味を少し引かれてしまった。しめた、といわんばかりの輝夜の顔が若干癪に触ったが、なにも言わずに続きを促す。それを受け、輝夜はもったいぶった口調で続けた。
「変わり続けていく世界をただただ眺め続けるだけっていうのも味気ないでしょう? だから、そんな変わり続けていく世界の中で、変わらないものを探すの」
「そんなもの、あるの?」
「あるかどうかわからないからこそ探すんじゃない。勿論、徒労に終わるかもしれない。けど、変わり行くものの中にも素敵なものはあるでしょう。それを見るのも悪くないんじゃないかしら? あ、ちなみにこれが三つめね」
どちらにせよ、幻想郷は発見に満ち満ちている、と輝夜は締めくくる。なんだか変わった少女だと感じた。不尽の命を持って永い永い時を生き続けてきたのならば、大抵の事には飽きている筈。だというのに、彼女の目はまるで幼子のように輝いていた。
「これは不尽の生命を持つ私たちだけに許された特権よ。つまり、この楽しみは私達だけのもの」
確かにそうだ。例え不変に見える物を見つけたとして、ただ長命なだけでは本当に不変であるかを確認することは出来ない。不変であるかどうかを確かめるには、それを見るもの達も同じく不変の生命でなくてはならないのだ。不尽の命を持つ彼女達にしかできないことであり、またそんな彼女達にだけ許された楽しみ。鬼にも、あのスキマ妖怪にもなし得ないこと。そんな響きに、心を惹かれた。
「いいわ。その話、のってあげましょう」
そんな言葉が、自然と口をついて出る。どの道、地獄からの刺客に殺されない限りは生き続けるのだ。時間は有り余っているのだから別に損をすることはないし、歌って踊るだけの天界暮らしよりも余程有意義だろう。
「決まりね。ようこそ、幻想郷の行く末を見届ける会へ。貴方は栄えある四番目の暇人よ。ちなみに会長は私」
輝夜は口の端を笑みにつり上げ、相変わらず芝居がかった口調で天子を歓迎する。天子は暇人って自分で言っちゃうのか、と呆れると同時に、輝夜の他にまだ二人も不死の人間がいるとは地上における不死の価値も安くなったものだと思った。
「それじゃ、他のメンバーを紹介するから、ついてきて頂戴」
輝夜に連れられ、天子は久方ぶりに地上へと降りていく。 やがて辿り着いたのは、迷いの竹林の中程にある小屋だった。ここが私達の本拠地よ、と輝夜は言った。
「戻ったわ。新しい会員よ」
小屋の中には、左右が青と赤で塗り分けられた特徴的な服を身に纏う銀髪の少女が座っていた。少女は天子の姿を見ると立ち上がり、笑顔を浮かべながら口を開く。
「ようこそ、幻想郷の行く末を見届ける会へ。私は八意永琳、この姫様の従者兼薬剤師をしているわ。よろしくね」
「あ、えっと、はい。私は天人の比那名居天子……です。よ、よろしく……」
丁寧に挨拶され、慌て天子も会釈を返す。何故だか、畏まってしまった。「姫様の我が儘に付き合わせてごめんなさいね」なんて言って輝夜に「自分の意思で入ってくれたのよ」と怒られるそんな彼女の物腰は柔らかだし、眼差しも優しいものだ。
が、隠しきれていないのか隠す気が無いのか。天子の眼は永琳の只者ならぬ雰囲気を見抜いていた。勿論、不老不死の時点で只者ではないのだが。とにかく、敵に回してはいけないと一目で思わせるなにかがあった。そんな彼女の様子を見て自慢の従者が一目置かれていることを察したらしく、輝夜は得意気に鼻をならす。
「ところで、後一人は? 私を入れて四人いるって聞いたんだけど」
ふと、そんなことを思い出して問う。小屋の中には永琳以外にはいないように見えたのだ。
「あら、ずっとそこにいるわよ?」
「え? ……あ」
永琳の言葉に呼応するかのように呻き声が聞こえる。キョロキョロと辺りを見回すと、簀巻きにされた白髪の少女が怒りの表情でもがいているのを見つけた。
それを見た輝夜はおかしそうに笑いながら、それがこの会の最後のメンバー、藤原妹紅よと言って、妹紅に咬ませていた猿轡を外す。天子は呆気に取られたままそれを見ていた。
「……藤原妹紅。よろしく」
「よ、よろしく」
簀巻きにされたままの妹紅が、仏頂面で口を開く。挨拶を返した後、どうしてそんなことになっているのかと尋ねると、妹紅は「そういう趣味よ」と口を挟んできた輝夜を燃やして(といっても、永琳があらかじめ準備していたらしい水をぶっかけたのですぐに火は消えたが)から、さっき殺し合いに負けたからだと忌々しげに言った。
「さて、メンバーも揃った事だし、我が幻想郷の行く末を見届ける会の記念すべき第一回目の活動といこうじゃないの」
そんな事は気にも止めない輝夜は、かつて多くの貴公子達が魅了されてやまず、しかし誰一人として手にすることの叶わなかったという淡雪の如く白い素肌を恥ずかしげもなく晒して濡れた衣服を着替えながら、手を叩く。
「我が、って私はまだあんたの下についた覚えはないんだけど」
「多数決で負けたじゃない、一票差で」
噛みつく妹紅を、輝夜は涼しい顔であしらう。一票とは恐らく、彼女の隣で粛々と出かける準備をしている永琳のものなのだろう。これに関しては妹紅に勝ち目はないんだろうな、と天子は思った。
「この場所なら、幻想郷の彼方まで一望できるわ」
妖怪の山の山頂。ここが記念すべき第一回目の活動場所だと輝夜は言った。
「すっごい見られてるんだけど」
「あらやだ、私の美貌もまだまだ捨てたもんじゃないのかも」
じっ、とこちらを見ている白狼天狗に笑いかけたり、ポーズをとったりしてみせる輝夜。天狗達が向ける視線は明らかに不審な侵入者を警戒する者のそれなのだが、知ってて挑発しているのか、それとも本当に天然なのか。どちらにせよ、マイペースなのだろう。
かく言う天子も、別に天狗を恐れている訳ではない。天子自身は勿論輝夜達三人も相当な実力があるのは分かっていたし、何より不老不死だ。天狗が束になってかかってきたとしても、突破することもそうは難しくない。
そして、相対する天狗達も彼女達を追い払うのは容易ではないことを心得ているのか、とりあえず山に害をなさないよう監視しているだけのようだった。
「ほらほら、いつまで天狗とにらめっこしてるのよ。そんなことしに来た訳じゃないわよ」
「あ、ちょっと!」
「さぁ、永琳と妹紅もはやく!」
輝夜に引っ張られ、天子は崖の近くに立つ。そしてそこから見た世界に、小さく息を飲む。
見渡す限りの幻想の郷。今までにも遙か高みの天界から幾度となく見渡してきた筈の景色。それなのに、見下ろす場所が少し近くなるだけで、こうも違って見えるのか。千年近くもの間生きてきたというのに、今日に至るまでどうして気がつかなかったのだろうか。
先程出発した青々とした迷いの竹林に、そこよりも更に深い、雑じり気の無い緑色に満ちた魔法の森。霧に満たされた湖において、水に垂らした一滴の血のように紅く異彩を放つ紅魔館と、その近くで他のどこよりも賑やかな気質を出すプリズムリバー邸。
山に程近い場所で鎮座する非想天則。幻想郷随一の花見の名所と名高く、また彼女が起こした異変の全ての始まりでもある、桜が咲き誇る博麗神社。サボりがちな渡しを待つ魂が犇めく三途の川に、死に満ちた殺風景な無縁塚。少し顔をあげれば、冥界へと繋がる結界も見える。何故だろう、もう何度も見ているはずなのに、ここから見る世界は今までに見たことがないほど美しいと思えた。
「どう? 素敵だと思わない?」
隣に立った輝夜が囁く。それに答えず、天子はただただ目の前に広がる世界に見入っていた。
「お昼にしましょうか」
どれくらい、そうやって眺めていただろうか。妹紅と共に昼食の準備をしていた永琳が、二人を呼ぶ。
「なんというか、普通のピクニックね」
永琳が作ったのだという弁当を食べながら、天子は呟く。永琳の料理はいつか食べた紅魔館のメイド、十六夜咲夜の作る小洒落たそれとは違って素朴なものだったが、咲夜のそれと同じく、天界の料理より遥かに美味に感じた。
「それでいいのよ。最初から劇的な事をしたんじゃ、すぐに飽きちゃうわ。それに、これは見届ける会だもの。見ることに最大の意義があるの。腹が減っては見届けられぬ。腹ごしらえだって大切よ」
なによそれ、と天子が苦笑すると、輝夜は真面目な顔を作る。さっきも少し言ったが、永遠のない世界を、永遠の存在である自分達が見届けて記憶する。それは私達にしかできないことで、私達がするからこそ意義があるのだと、輝夜は語る。なるほど、以外と考えているのね、と感心していると。
「まぁ、今思い付いたんだけど」
途端におどけた表情になる。天子と、あぁ輝夜、立派に成長したのね、なんて感涙しそうになっていた永琳は思わずずっこけた。それを見て、輝夜はまたくすくすと笑った。
「……あら妹紅、どうしたのよ、さっきからだんまりで」
ふと、山についてから殆ど黙ったままの妹紅に、輝夜が声をかける。食事にも殆ど手をつけずにぼうっとしていた妹紅は、数拍おいてから反応した。
「ん? ……いや、あっさり登っちゃったなぁ、なんて思ってね」
「?」
妹紅の言葉に、三人はそろって首を傾げる。それはそうだろう、何しろ空を飛んでここまでやってきたのだから。だから大して疲労もしていない。そんな当たり前の事が、一体どうしたというのだろうか。しかし、妹紅はなんでもないよ、と言って唐揚げの最後の一個をつまみ上げて口に放り込む。
「あ、それ私の!」
「なにを言っているのやら、口にしなければ誰のものでもないに決まってるでしょ? あー美味しい、最高だわ」
それを合図に、輝夜と妹紅が争い始める。そんなささいな事から始まった二人の戦いは、やがて山の妖怪達までもが出張ってくる大騒ぎに発展した。
妖怪の山の山頂で盛大に殺し合う二人を、これはスクープだとカメラを構える天狗達ややれそこだ、やれ右にかわせなどと無責任に野次る河童達の輪の中で取り押さえながら、天子と永琳は思わず顔を見合わせて苦笑いする。
幻想郷の行く末を見届ける会。その記念すべき第一回目の活動は、波乱の末の記念撮影で幕を降ろした。
波乱の内に幕を降ろした第一回目の活動から、かれこれ六十年。ちょうどその年に生まれた人間にとっては還暦を迎える年であり、妖怪にとっては記憶が一巡する年である。活動時期がもう少し早ければ、外の世界で爆発的に増加した幽霊達が幻想郷に押し寄せていたことだろう。そんな、全てが変化を迎える節目の年を基本の活動年にしようというのは、永琳の意見だった。
人間の会ならば一年の空白期間でも長いだろうが、不老不死である彼女達にとっては逆にそれでは短かすぎる。同じ時間を過ごそうとも、彼女達が感じる感覚は、人間のそれとは遥かに異なるのだ。
六十年前はまだまだ新参者だった天子も、今となってはすっかり幻想郷の馴染みの顔になり、様々な人妖と知り合いになっていた。どこか閉鎖的な印象を受けていた竹林の住人達もまた、人里の人間達との関わりをより深めている。不変の存在であったとしても、外と関わりを持つ以上はその周囲の環境は不変ではないのだと知った。
そんな彼女達の二度目の活動場所は、博麗神社。六十年前と同じく桜の咲き乱れ、幻想郷随一の花見の名所であり続けているここでは、新たな博麗の巫女の任命式が執り行われていた。
その式を仕切るのは、最近更に姿を見せなくなった幻想郷の賢者、八雲紫と先代の博麗の巫女、そして存命する歴代巫女の中では最古参の、博麗霊夢である。
四、五十年程前に引退して人里に隠居した彼女は、今では生ける伝説として語り継がれていた。スペルカードルールを発案し、またそれを用いて史上最も多くの異変を解決してきた天才。もう八十近い彼女の英雄譚は、同じく数々の異変を解決してきたもう一人の英雄、霧雨魔理沙と同じく本となって人里に出回っていた。それを読んで、霊夢が異変の解決に見返りを求めず清貧であり続けたとか、魔理沙は異変解決の為に日々飽くなき研究をしていたなんて記述を見た際にはあの怠けた巫女や泥棒三昧の魔法使いがここまで美化されるのかと笑い転げ、同時に時間の流れを実感したものである。
神社にはその二人以外にも見知った顔ぶれが大勢集まり、騒いでいた。吸血鬼に亡霊嬢、山の風神に里の寺の住職、仙界の聖人といった各勢力の代表を始め、人形使いや天狗に河童、向日葵の妖怪や毒人形、更には彼岸の閻魔までもが式を見守っているたし、少し離れた場所では、鬼達と地底の地獄烏、そして妖精達が祝い酒と称して楽しげに盃を交わしている。皆、異変という形で霊夢と関わってきた者達だ。
恐らく、彼女達は次代の巫女ではなく霊夢を見にきたのだろう。何物にも染まらずに全てを平等に受け入れ、しかしその全てから独立した立場をとる不思議な巫女など、今日に至るまで彼女一人である。けれど、そんな彼女も寄る年波には勝てないのか日に日に弱っていると言う話であった。それを心配するものは多く、天子もその一人である。
「にしても、お祭りじゃあるまいし騒ぎすぎよねぇ」
神聖な儀式の場にも関わらず騒ぐ妖怪達を見てそんなことを天子が言うと、隣に立つ永琳がそうね、と苦笑する。妖怪達は、相変わらず好き勝手な連中だった。まぁ流石に、六十年程度では妖怪や幻想郷そのものにさしたる変化はないというのはわかっていたことなのだが。それでも敢えて変化と呼べるものを上げるならば、十年ほど前に外の忘れられた建造物が幾つか流れ込んできた事くらいだろうか。今ではそれも妖精の住み処となって自然に溢れ、すっかり幻想郷の風景の一部となっている。
しかし、六十年という歳月は、人間達には様々な変化をもたらしていた。外見一つとっても、霊夢をはじめ純粋な人間達は年老いて往時の面影を残している程度で、随分変わってしまっている。そして何より、集まった霊夢に縁のある者の中で二人ほどこの場にいないものがいるのだ。
一人は九代目の御阿礼の子、稗田阿求。彼女は丁度霊夢が引退して次代の巫女に代替わりした頃に寿命が尽き、今は閻魔の元で転生を待つ身である。天子自身も数える程しか会ったことはないが、次代の阿礼乙女に会うことがあれば、同じく幻想郷を見届ける者として話をしてみたいと思っていた。
そして、もう一人は、霧雨魔理沙。不老不死にとりわけ強い興味を持ち、魔法、薬、道教とそれに至るためのあらゆる研究をしていた筈の彼女が最後に選んだのは、拍子抜けする程平凡な人生だった。勘当された実家の父が急逝し、店の跡継ぎとなるよう懇願された彼女は、葛藤の末に里一番の大店を受け継いだ。
そして、かつてその店で働いていた半妖の青年と結ばれ、その後は良き妻、良き母として子や孫達に囲まれて波乱に満ちたその一生を終えたという。
彼女の結婚式に招かれた際、今までの霧雨魔理沙とは一体なんだったのかと思うほど貞淑な女性となった彼女を見て周りの出席者共々目を丸くしたことを、天子は今でもはっきりと覚えている。
そして、そんな彼女が幸せの内に天寿を全うし、棺に納められて火炉の中へと消えていく姿と、それが今まで不老不死の存在しか周りにいなかった自分にとって、始めての親しい者との永い別れであったことも、よく覚えていた。
「これより、新たなる博麗の巫女の任命の儀を執り行う」
幻想郷の創世以来、ずっと巫女の移り変わりを見届けて来たという紫が、普段出さないような厳かな声で儀式の始まりを告げたことで、天子は感傷から引き戻される。同時に、周囲の騒ぎ声もぴたりと止んだ。
幻想郷に住まう猛者達の視線を欠片も動じず受け止めるその姿は、普段の胡散臭さなど微塵も感じさせず、いかにも長い時を生きてきた妖怪の重鎮と言った様相を表していた。普段の姿を見慣れている者の目にはその姿が逆に滑稽にも映るが、しかし一人としてそれを茶化す者はいない。酒を飲んで騒いでいた連中でさえ、盃を傾ける手を休めて静かに紫の声に耳を傾けていた。
新たな巫女に選ばれた小柄な少女もまた、緊張で顔を真っ赤にしながら紫の言葉を聞いている。
紫が新たな博麗の巫女として見出した少女が如何様な人間であるかを語る中でふと、その様子を先代の巫女と共に見守っている霊夢を見る。彼女は、天子が今までに見たことがない顔をしていた。勿論、長い年月と共に刻まれた皺だらけの顔を見るのは初めてだったとか、そういう話ではない。
新たに博麗の名を背負う少女へ向けるその表情が、今までに見たことがないものだったのだ。
それはまるで何かを悟ったような、吹っ切れたような、穏やかで優しい顔。四、五十年程前にあった先々代や、二十年前の先代の儀式の時は、あんな顔をしていなかった。それどころか、こいつで大丈夫なのか、とまだまだ未熟であった自らの後継達への不安感で一杯の顔をしていたように思う。けれど今の霊夢の表情は、それらとはかけ離れていた。
でも、もう長くない自分の命への諦観だとか、新たな巫女になる少女にかつての自分の姿を重ねて時の流れを実感して感傷に浸っている、という訳ではなさそうだ。なんというか、ただただ穏やかにありのままを受け入れている様に見える。不思議な表情だと、天子は思った。そして、そんな風に今までに見せた事のない顔をする霊夢が、今までよりもさらに遠くへ行ってしまったようにも思えた。
「霊夢、祝詞を」
紫が普段の口調に戻り、霊夢にバトンタッチする。博麗神社に存在しない神主の代わりとして静かに祝詞をあげ始めた霊夢から目を離し、天子はふと自分の辺りを見回す。大勢の妖怪達の間には、人間も何人か見受けられる。皆、妖怪達と同じく霊夢と関わってきた者達であり、霊夢と同じく年老いた姿に変わっていた。そんな彼女達と自分達人ならざる者達とを見比べると、やはり人間は余りにもその一生が短いのだと再確認してしまう。
妖怪や自分達は変わらないのに、人間達はすぐにその姿を変えていく。今目の前で貫禄たっぷりに祝詞をあげる霊夢も、老いて尚腰も曲がらず瀟洒に主の横で日傘をさす紅魔館のメイドも、今では売り上げをちょろまかすこともなく(その必要がなくなったこともあるが)一人で店を切り盛りするようになった、しょっちゅう妖怪騒ぎを起こしては霊夢に叱られていた貸本屋の娘も、次の幻想郷の行く末を見届ける会の活動をする頃には誰一人として残ってはいない。それは当たり前の事のはずなのに、何故か目頭が熱くなった。
「どうしたの?」
軽く目をおさえていると、永琳が声をかけてくる。なんでもない、と悟られぬように笑顔でおどけてみせる。
「それにしてもさ、霊夢ったらあんなにしわくちゃで、髪も真っ白になってさ。昔と変わらないとこなんてもう、あの頑固なくらいまっすぐな気質くらいしかないの。人間って、本当にすぐ変わっちゃうのね」
けれど、続けて口をついて出た言葉は、どこか切ない感傷を含んでいて。
祝詞をあげ終え、手近な椅子に座る霊夢。
続けて先代から博麗神社の御神体であり、同時に歴代の巫女と共に数々の妖怪を退治してきた陰陽玉を受け取ったことでこの儀式は終わりを迎える。
晴れて新しい巫女になった少女が真っ赤な顔のままぺこりと頭を下げると、観衆達から盛大な拍手が起きた。
そうして誰もが新たな巫女に注目する中、先代の巫女とともにそれを見守る霊夢の気質を覗く。
あの頃と何も変わらない、眩しい快晴だった。曲がらず、来るものは拒まず、去るものは追わない、なにもかもを受け入れながら決してなにものにも染まらない、どこまでも優しく、どこまでも残酷な気質。彼女はきっと、自分の死でさえも拒むことはないのだろう。
一通り新米巫女を弄った後、妖怪達がこぞって霊夢達に群がっていく。少し離れた場所で見ていた輝夜と合流し、その様子を遠巻きに眺めていると、やがてその中から妹紅が出てくる。妹紅は、壮年の女性と連れだっていた。特徴的な帽子を被っている彼女は、妹紅の無二の親友である人里の半獣、上白沢慧音だった。
「ごめん、遅れた」
「こらこら、謝る時はもっと誠実にしなきゃだめじゃないか」
大して悪びれる風でもない妹紅の頭を、慧音が無理矢理下げさせる。いいじゃん、ちょっと寝坊したくらい、とブー垂れる妹紅だが、慧音に睨まれると流石に不味いと思ったらしく、渋々自分から頭を下げた。
「怒られてるー」
「う、うるさいよ輝夜」
「いつまでも子供なんだから。私のようなお姉さんを見習いなさいな」
「ハッ、あんたみたいな我儘がお姉さんだなんて何の冗談? 笑わせるわ」
「あらあら、これはお仕置きが必要な様ね」
互いの下らない挑発に乗った二人が同時に掴みかかり、その騒ぎを聞き付けた霊夢に群がっていた者達が一斉に振り返る。しかし、争っているのがいつもの二人だと理解した瞬間、彼女達は二人を止めるどころか囃し立てて煽り、どっちが勝つか賭けまでやり始める者もいた。霊夢に至っては記念すべき初仕事よ、などと言って任命されたばかりの新人巫女をけしかける始末である。
「……変わらないな、あいつらは。こっちはどんどん変わっていくっていうのに」
呆れたような声を出しながら、慧音はこんなところでなにをやってると止めに入った映姫に叱られる二人の姿を見る。その眼差しには、どこか憧憬が混じっているように見えた。
「最近、貴方の話をよく聞くよ。一緒に幻想郷を見て回ってるんだって?」
不意に、慧音が向き直ってそんな言葉を口にした。教師という仕事柄か、張りがあってよく通る声をしている。
「えぇ、そうよ。楽しくやってるわ」
いつもあんな感じでやりあってるけどね、とついでに言ってやると、慧音はそうか、と苦笑して、
「あんなだけど、本当は良いやつなんだ。よろしく頼むよ」
なんて遺言めいた言葉を口にする。まるで保護者ね、と皮肉まじりに言うと、あいつの方がずっと年上なんだけどな、とまた笑い、未だ映姫に説教されている妹紅達を優しい目で見つめる。
その横顔は、どこか寂しげで。彼女はきっと、できることならずっと妹紅の親友として側にいてやりたいのだろう。けれど、それは出来ない。彼女の命は、永遠には余りに遠い。それを誰よりも理解しているから、あんなことを言ったのだろう。なんとなく、そう思った。
それと同時に、たとえどんなに生きる時間が違ってもそんな風に想ってくれる友人が妹紅にいることが、天子にはとても眩しく、羨ましく思えた。
六十年前は新人だった博麗の巫女も、今となってはあの時の霊夢と同じく隠居の身となって久しい。現在の博麗の巫女は、霊夢から数えて六代目である。時の流れとは早いもので、霊夢達の活躍を直接知る人間は、三十年程前に子供達の一人立ちを見届けて森に戻った霖之助を除けば、人里には一人しか残っていなかった。
幻想郷の行く末を見届ける会、ゲストを一人加えて行う第三回目の活動場所は、そのただ一人の当時を知る者の家だった。
「皆よく来てくれたな。それから、君は一応はじめましてなのかな」
車椅子に乗ったまま、慧音が長年の教師生活と老いによってすっかり嗄れた声で五人を迎え入れる。足腰も弱っていつ寝たきりになるともわからないそうだが、彼女は変わらず一人で暮らしている。
それを可能としている理由には、幻想郷の生活様式が変化したことも関係しているのだろう。外の世界で型落ちとなって忘れ去られた技術や物品が、人里で用いられるようになったのだ。慧音が座っている車椅子も、外の技術が用いられた電動で動く便利な品とのことだった。
しかし、自動車とかいう乗り物はどうにも普及していない。それというのも、それを使うには色々と手間がかかるわりに人里は狭いので使う意義が薄く、かといって里の外で使っても、舗装されていない道が多くて乗り心地が悪く、何より用事で数分も離れようものなら妖精の悪戯で使い物にならなくなってしまうからだ。これでは普及するはずもない。
自動車の他にも、列車とかいう、八雲紫が弾幕ごっこで時折使っていた長い金属の建物とも箱ともつかない形のものも外の世界から大量に流れ込んで来ているが、こちらはもっぱら妖精の住み処や妖怪達の即席の寝床として使われている。ほかにも、心なしか見かけない生き物が増えている気がする。永琳が言うには、外で絶滅した動物がここへ流れ着いたのだろうということだった。
幻想郷の在り方も段々変化してきている。けれど、妖怪と人間の関係は今までとさして変わらない。人里で用いられている電気は山の神が供給しているし、里の中では大人しい妖怪も一度里の外を出れば人間を襲う。 相変わらず、人間にとっての妖怪は『得体の知れない飲み仲間』であり、妖怪にとっての人間も『食料にもなる飲み仲間』なのだ。
天子は時々、そんな人妖の関係が変わらないものであるかもしれないと思うと同時に、そうでなければ何れはこの絶妙な関係も変わってしまうのかと考える事があった。
「は、ははは初めまして! き、今日は貴重なお時間を割いて頂き、真にきょうえいれす!」
あ、こいつ最後の最後で盛大に噛んだな、と誰もが分かるくらい情けない挨拶をした少女――十代目の阿礼乙女は、気心の知れた天子達とは違い、初対面となる慧音を前に緊張でガチガチに体を強ばらせて椅子に座る。まぁ、生ける伝説の最後の生き残りに会っているのだから無理もないか。
「ふふ、そんなに緊張しなくたって大丈夫だよ。けど、君の前世はもっと物怖じしない、歯に衣着せぬ物言いの毒舌家だったんだけどねぇ、転生と言っても人格は変わるものなのかな?」
どうにも気圧されている様子の少女の肩を、慧音が優しく叩いてやる。それで少しは緊張も解れたのか、リラックスした様子で息をつく御阿礼の子に満足気に頷いて、慧音は皺だらけになった顔をよりいっそうしわくちゃにして笑った。生涯を歴史の編纂に捧げ、引く手あまただったというのに結局独身を貫いた彼女のそんな姿は、まるで孫に接する祖母の様だった。
「さて、今日は異変の話を聞きたいそうだが……そうだな、まずはあの永い夜の異変の話をしようか。丁度当事者達がここにいるし」
慧音が少し意地悪な笑みを浮かべて五人を見やると、永琳と輝夜が少々罰が悪そうな顔になる。何故二人がそんな顔をするのか小声で妹紅に聞くと、その異変にはこの二人の勘違いが大いに関わっているからだ、と言われた。
「当事者って……あの異変は先代の縁起にも謎が多くて記録に遺せないとありましたが」
「あはは、そりゃあ謎だろう。なにしろあの異変を起こしたのは霊夢達の方なんだから。そんな都合の悪いこと、話す訳がないさ」
あの夜にあったもう一つの異変の当事者達が口々に、懐かしさに頬を弛めてあの夜の真相を語る。百余年越しに語られる真実に、天子は御阿礼の子共々目を丸くして聞き入っていた。
異変を解決する巫女が異変を起こすなんて、後にも先にもそれっきりだったという。あぁ、そんなに楽しい事があったのならもっと早くに地上に降りていればよかったのに、なんて百年越しの後悔をした。
また、その異変は輝夜達が竹林の外のもの達と関わるようになった切っ掛けでもあったのだそうだ。永遠に変わることがない筈だった彼女達は、その時から変わりはじめたのだという。
否、異変という形で外界と関わりを持った時点で、既に不変ではなかったのだろう。かつて、天子自身がそうであったように。
「……おっと、もうこんな時間か。そろそろ君は帰った方がいいだろう。続きはまた明日にでも」
永い夜の話を夢中になって聞くうちに、辺りも夜になってしまったらしい。濃紺に染まった空の下、御阿礼の子は新たな幻想郷の歴史を知ることができてよかったとしきりに頭を下げ、これだけでも転生した価値はある、と誇らしげな顔で帰って行った。
「……ふぅ、いつ以来だろう、こんなに喋ったのは。少し、疲れてしまった。年甲斐の無いことをしてしまったせいかな」
異変の当事者であり、また両方の異変の被害者として最も饒舌に語っていた慧音が、最近はすぐこうなってしまうな、と茶を飲みながら苦笑する。
「何言ってるのよ、まだまだ若いんだからもっと元気出さないと」
妹紅の言葉に、天子は思わず苦笑する。それはそうだろう、確かにこの五人の中では慧音が一番若い。だが、比較対象が酷すぎる。
「妹紅もブラックジョークを言うようになったんだな。悪くない、なかなかキレがいいじゃないか。しかし、時の流れは恐ろしいな。最近はめっきり衰えて、弾幕の一つも撃てなくなってしまった」
まぁ、今更弾幕をする機会もないんだけどな、と慧音は笑った。弾幕ごっこは少女の遊び。いつまでも変わらぬ姿で居続ける自分達とは違い、慧音や霊夢、魔理沙に咲夜と言った人間達は、大人になってしまうと自然に一線から退いていった。その理由は肉体的な問題も勿論あったのだろうが、何よりも少女達の遊びの中に年のいった自分達が混ざるのは場違いだと感じたのだろう。
長い時を生きる者達にとって、百年かそこらしか生きられない人間など死ぬまで小娘も同然だし、気にすることはないと思うのだが、だからといってそんな長命の者達の価値観を押し付けて身を退く事を責めるのは理不尽だということも理解している。だから、弾幕の名手であった彼女達の引退を惜しみこそすれどだれも引き留めはしなかった。
人間が人間である以上、いつまでも同じ時間を共有することは叶わないのだ。
「……私も、もうそろそろ潮時なのかもしれないな」
ぽつりと、慧音が漏らす。「縁起でもないこと言わないでよ」と妹紅が言うと曖昧に笑って見せたが、慧音はきっと、もうじき自分も霊夢達の元へ逝ってしまう事を自覚しているのだろう。
「もう、そういう洒落にならないジョークはやめてよ」
「ははは、すまない。けど、妹紅もさっき言ってたじゃないか、これでおあいこだ。なに、心配しなくても、まだまだ生きるよ」
むすっとする妹紅に小さく喉を鳴らしながら「じゃあ、長生きの為に今日はもう休むかな」なんて冗談めかして言う慧音の顔は、とても穏やかで。その顔は、どこか六十年前に見た霊夢のそれに似ていた。
「また会いに来るわ」
「養生しなさいよ?」
「わかってるさ。じゃあ妹紅、頼む」
「はいはい。じゃあね皆」
言葉少なに別れの挨拶を交わして、今回の活動はおしまい。妹紅がおどけた調子で語る他愛のない話にうん、うんと楽しそうに頷きながら奥へ消えていく慧音を永琳達と共に見送って、もしかすると、彼女が独身であり続けたのは少しでも長く妹紅と接していようとしていたからなのかもしれない、なんて考えが頭に浮かんだ。
半獣と言えども、所詮は人間より少し長い程度の寿命しか持たない。永遠を生きる妹紅と共に歩むには、彼女に許された時間は余りにも短すぎる。それでも尚、彼女は時間の許す限り妹紅と共にあろうとし続けている。百数十年変わらない友情。素敵なものだと素直に思えた。
そして、そんな友人がもしも自分にもいたのなら。なんて六十年前と同じ憧憬を抱いてしまう。何故だか、ちくりと胸が痛んだ。
「暑い! 五月蝿い! うっとおしい!」
桶に汲んだ水を溢さぬように運びながら、耐えきれずに天子は叫ぶ。それにしても嫌な三拍子である。勿論こんなことを言ったところでどうにもならないのは彼女だって理解している。それでも叫んでしまうのは、まだ春告精が出てきたばかりだというのに蝉達が七日間の儚い命を誇示せんとやかましく喚きたてているせいに違いない。
「うるさいのはあんたよ、天人は汗かかないんだからいいじゃない」
無いよりはまし、と扇子でぬるい風をおくりながら言う輝夜は、天子とは違い汗だくになっている。不尽の命を持つ蓬来人といえど人は人、代謝は勿論存在するわけで。それのない天子は同じ不死の身としてちょっぴり優越感を覚えてみたり。……もっとも、天人にとって汗、特に腋の下からの汗は五衰の一つ『腋下汗出』を意味しており、死に直結しているためそう暢気な話ではないのだが。
「汗かかなくたって暑いもんは暑いの。ねぇ、なんかこう、体を冷やす薬とかないの?」
しかし、それはそれ、これはこれ。暑いものは暑い。天才なんだからなんとかしなさいよ、と永琳をつつく。
「そうねぇ。えーと確かこの辺に……」
それを受けた永琳が帽子の中に手をいれてまさぐりだした。おまえどこに物を入れてるんだという妹紅のツッコミはさておき、流石は天才、話が分かると天子は期待を込めた眼差しで永琳を見つめる。やがて、一つの小瓶が出てきた。
「これなんかどうかしら」
小瓶の中にはドロリとした紫色の毒々しい色の薬が入っている。なんだか嫌な色だが、この際細かいことは抜きだ。
「どんな効果があるの?」
「暑さも寒さも痛みも感じなくなって、おまけにぐっすり眠れるわ。月の民でもイチコロよ」
「ごめんやっぱいいわ、そのまま起きれなさそうだし」
いかにも良さげに効能を謳っているがどう考えても毒のそれ。こいつ、肝をピンポイントで冷やしに来やがった。相変わらずの天災的な発想には脱帽である。なんて思う彼女の胸の内などつゆ知らず、永琳は「そう?」とだけ言って毒薬を帽子の中にしまう。どこまで本気なのやら。
「それにしても、暑いわね。いつになったら解決するのかしら?」
毒薬話など我関せずと狂い咲く桜の木の幹で狂ったように鳴く蝉を見ていた妹紅がぼやく。そう、これはただの異常気象ではなく、異変なのだ。その異変の発端は、春の訪れに浮かれきったミスティアの歌にある。
リリーホワイトの姿を見て頭の中が春満開になったこの夜雀は、よせばいいのに妖怪の山の近くでその自慢の歌声を余すことなく披露したのだ。そこまでならこれといって大したことでもないのだが、間の悪いことに神を宿す地底の地獄烏、霊烏路空がその歌声に反応してミスティアと出会ってしまったのだからさあ大変。
鳥頭同士通ずる所があったのか、二羽のお馬鹿はすぐに意気投合。なんかでかいことをやりましょうと二人して立ち上がり、結果はご覧の有り様である。蝉が満開の桜の木で鳴いているこの異様な光景も、夜雀の歌に煽動された妖精達が集めた夏度と、張り切って核融合しまくる地獄烏の余りの暑さに夏と勘違いしたものが出てきたためだ。
そして更に間の悪いことに、当代の博麗の巫女は『ポンコツ』として定評のあるへっぽこで、これが異変の長さにも拍車をかけている。なにしろこの巫女、道半ばで倒れ続けてかれこれ数十回も仕切り直しをしておきながら、一度たりとも異変の原因であるお空とミスティアに出会った試しがない。今朝がたも暑さにひいひい言いながら飛んでいくのが見えたが、あの様子では中間地点である霧の湖のチルノの所へすら辿り着けないだろうと天子達は思った。
「さ、もう目的地についたことだし、煩くしないようにね」
「あぁ、やっとついたのね。もう何度これを頭から浴びようと思ったか」
そんなわけで燦々と降り注ぐ陽光に照らされ、丁寧に磨かれた石が眩しく光る。照り返しの眩しさに目を細めながら、手近な場所に桶を置いた天子達は花を供え、手を合わせた。
死者の魂が行き着く果てが彼岸ならば、幻想郷において死者の肉体の多くが行き着く果てはこの命蓮寺の共同墓地だろう。幻想郷の行く末を見届ける会、第四回目の活動は、この場所で行われる。
ざっと百八十年程前に作られたここでは、数多くの人々が眠っている。彼女達がやってきたのは、土地の広さや、必要な費用の関係か『〇〇家の墓』といった一族が纏めて葬られているものが多い中では珍しい、個人の為に建てられた墓である。
「ここに来るのも二十年ぶりくらいね」
などと輝夜が懐かしげに語るその墓碑に刻まれている名は『上白沢 慧音』。妹紅のただ一人の親友である。前回の活動から五年後に眠るように息を引き取った彼女は、里の多くの人間に惜しまれながらここに埋葬された。その安らかな最期を看取った妹紅は、今でもこうしてよく墓参りに来るのだといい、事実墓には塵一つ落ちていなかった。
彼女の死以来、妹紅は変わった。自発的に輝夜を襲うことが少なくなり、今では輝夜が挑発しても乗るのは三回に一回あるかどうかというくらいである。
そのかわりに、永琳に会いに来る事が多くなったという。しかし、二人が何をしているのか輝夜でさえも教えて貰えないらしく、以前不満気に頬を膨らませて愚痴られたことがある。勿論天子も知ってるわけがない。
この三人とも随分長い付き合いになっているが、それでもまだ天子と彼女達との間には大きな隔たりがあるように思える。けれど、それも不変ではなかった。そう言いきれるのはきっと、少しずつでもその隔たりが狭まっていることを実感しているからだろう。
この百八十年あまりの時間の中で、妹紅は今まで語ろうとしなかった過去を教えてくれるようになり、輝夜も出会った当初よりもさらに奔放に自分を振り回すようになった。永琳も、『主の友人』として接する一歩引いた態度ではなく、『自らの友人』として気安く接してくれることが多くなっている。そして、この会の活動も六十年に一度の定期会以外でも頻繁に集まって幻想郷を探検することが多くなった。自分達の関係は、決して不変などではない。
それと同じように、妖怪や幻想郷そのものにも変化が見られるようになった。その代表例と言えば、チルノだろうか。かねてから妖精には過ぎた力を持っていた彼女は、四十年程前から妖怪へとその存在を変化させていた。自然が有る限り存在し続ける妖精としての生を捨てた彼女が最初にしたことは、異変を起こすことだった。妖怪になったことでますます増大した力を振るい、幻想郷中の水を凍らせたのである。水は人妖問わない生命線。それを掌握し、人間を脅かしてお酒を巻き上げようとしたのだ。
しかし、チルノの目論見は見事に外れてしまった。酒を作るには水が必要だが、それを使えなくしてしまったのだから酒など手に入る筈もない。妖怪になっても頭の中身は大して変わっていない様である。
幸い、当時の巫女は今の巫女と違って実力派であり、その上鬼と飲み比べをするほどの酒豪だったために酒が作れないと知るやいなや飛び出して、異変は発生してからたったの三日で制圧されてしまった。こうしてチルノの妖怪デビューは惨憺たる結果に終わり、今でも妖怪達の間でお笑い草になっている。
その他にも、生まれてからずっと紅魔館に幽閉されていた悪魔の妹、フランドール・スカーレットが、ある日突然太陽を克服すると宣言して紅魔館を出たとか、八雲紫の式の式であった化け猫、橙が八雲の姓を賜ったとか、今年10歳になったという、顔も性格も魔理沙に瓜二つの霧雨家の末娘がご先祖様の偉業に感動し、自分も魔法使いを目指さんとアリスに弟子入りしたとか、あげればキリがない。
これは変化というより成長と呼ぶへきかも分からないが、永琳を師と仰いでいた兎、鈴仙・優曇華院・イナバが一人前となり、彼女に次ぐ永遠亭の医師兼薬剤師として大成したというのを永琳本人が自分の事のように喜んで言っていたのも覚えている。
少しずつだが確実に、幻想郷の妖怪達も変化しているのだ。
「慧音、今日は他の連中も連れてきたよ。相変わらず、私達は不死身で元気にやってる。……あぁ、暑い。そうそう、今、異変の真っ只中でね。まだ春だってのに、真夏みたいに暑いんだ。そっちは暑さも寒さもないんだっけか。羨ましいなぁ。こっちはおまけに今の巫女がポンコツでさぁ、なかなか解決しないんだ。霊夢達に会ったら、説教するように言っといてくれない? それから……」
濡らした布で墓石を磨いてやりながら、妹紅は独り、滔々と慧音の墓前に語りかける。無論、墓に語りかけたところでその言葉が慧音に届く筈はない。そんなことは彼女も分かっていてやっているのだろう。
これはきっと、一種の儀式なのだ。決して尽きることのない命を持つ妹紅と、死んでしまった慧音は、恐らくもう二度と会うことはない。例え長い長い時の果てに慧音の魂が転生したとしても、生まれ出でるそれはまた別の存在であり、慧音その人ではない。御阿礼の子のように記憶を引き継ぐこともない以上、妹紅がそれまで重ねた慧音との歴史は五十五年前から動くことはない。
だから、せめて『上白沢 慧音』という存在を刻むこのささやかな石碑に語りかけることで、自分達の繋がりを確かめようとしているのだ。そう思い、天子達は何も言わずに妹紅の儀式を見守った。
「また、来るよ」
慧音への報告を終え、天子達に向き直った妹紅が、「ありがとう」と真面目な顔で小さく呟いた。
「なに言ってるの、ただ黙ってただけなんだからお礼なんて要らないわ。それより、歴代の巫女全員に夢枕に総立ちで説教なんかされたらあの子、再起不能になっちゃうんじゃない? 酷い奴ねぇ」
「いや、案外全員霊夢に恐縮して他は何も言わないかも」
「あー、それはありそう。霊夢って怒り出だしたらなかなか止まらないからねぇ」
湿っぽい空気を打ち払おうと、輝夜がいつもの調子で妹紅の揚げ足をとる。こういう時は変に故人の事に触れずいつも通りに振る舞う方がいいと思ったのだろう。その意図を察して、永琳と天子も続く。
「はは、それはそれで怖いかも」
一人がみがみと叱る霊夢の回りで無言で立つ歴代の巫女に囲まれて縮み上がる当代の巫女を想像したらしく、妹紅はくしゃりと笑う。気持ちのいい笑顔だった。
「あーでも、霊夢も人のこと言えるほど真面目じゃなかったしなぁ」
「じゃあ全員だんまりかしら。それじゃ無意味ねぇ。妹紅があの狭いあばら屋の中に頑張ってお漬け物を隠すくらい無意味だわ」
「あれ、またお前の仕業だったのか! 今日という今日は許さないぞ!」
「ごちそうさまでした。やれるものならやってみなさいな」
そしていつものように輝夜と妹紅が下らない事で燃え上がり、火花を散らす。墓場の外でやりなさい、と二人の背を押していく永琳に続こうとして、天子はもう一度慧音の墓を振り返った。
勿論、どれだけ真面目に眼差しを向けようと、どれだけ真摯に語りかけようと石がそれに応える訳はない。けれど、彼女は微笑みかける。
「大丈夫、私は――私達は、変わらないもの。心配いらないわ」
紡がれた言葉は未だ己の居所を声高に叫ぶ蝉達の喧騒に消えていき、石碑に向けた優しい笑みも、誰にも見られることはない。
それでいい、今の言葉は誰かに向けたものではない。だから、聞き届ける者など必要ない。それは、自分達が持つ永遠の確認。いくら世界が変わり続けようとも、例え他の誰がいなくなろうとも、自分達は変わらず在り続ける事を信じる言葉。
誰にも届かなくていい、他ならぬ天子自身が確かに知っていれば、それだけでその想いは永遠になるのだから。
「なにやってんのさ天子ー」
「置いてっちゃうわよー」
「あ、待ちなさいよ!」
さっきまでいがみ合っていた筈の二人が、口を揃えて天子を呼ぶ。それを聞いて我に返り、いつの間にやら随分離れたところに立っている三人の元へ駆けていく彼女を、陽光に照らされる墓石と蝉が見送った。
「……賑やかねぇ」
空間を拡げる者が居なくなった事で少し小さくなった紅い屋敷。その時計塔の真上に昇った満月から降り注ぐ月光を存分に浴び、誰も居ないバルコニーで独りごちる天子の身は、普段とは違い鮮やかなスカイブルーのドレスに包まれていた。
そんな、いつもと違う彼女は手にしたグラスを揺らしながら、バルコニーの外を見る。 彼女の眼下に広がる広大な庭園には、先程の言葉通りの光景が広がっている。そこは、幻想郷中から招待された人妖達によってかつてないほどの喧騒に満ちていた。他愛ない世間話をする者に、元気に走り回る者。
まだ本格的に宴は始まっていないというのに、既にすっかり出来上がっている者もいる。そんな連中はきっと倒れるまで飲むことだろう。酒は微酔に飲め、なんて言葉はここの連中には到底実行できそうもないな、と思わず苦笑する。
けれど、そんな喧騒を彼女は楽しんでいた。品格がどうだなどという建前を馬鹿正直に守り、酒は僅かに楽しむ程度に済ませ、後は決まりきった歌と踊りに賛辞を送るだけのつまらない天界の宴などより、余程性に合っているからだ。
「えー、諸君、今日は我が紅魔館の晴れの日によくぞ集まって……予想はしてたけどやっぱり誰も聞いてないな。もういいや、悪魔に祝福ってのもなんだか変だしね。まぁ好きに楽しんで頂戴」
壇上に上がったレミリアが早々に進行役としての役割を放棄し、魔法で大きくなった声でしまらない挨拶を終える。それを皮切りに屋敷の中から様々な料理や大きな酒樽が運ばれてきて、一部の食いしん坊な客人達から、歓声があがった。
簡単なつまみが乗せられていたテーブルが、次々運ばれてくるご馳走で一気に華やぐ。
豚の丸焼きに血も滴るステーキ、フライドチキン、ピザ、ピラフ、グラタン、スープ、冷しゃぶ、棒々鶏と料理はこってりからさっぱりまで和洋中問わず揃っていた。おまけに今日は八雲紫の協力の元、刺身やパエリア、ブイヤベースにカルパッチョ等といった魚介類を使ったものまである。滅多に食べられないような珍しいご馳走に、誰もが興奮して飛び付いた。
そして最後に、最上段に『HAPPY BIRTHDAY FRANDLE』と書かれたプレートを乗せた、クランベリーをふんだんに使った特大バースデイケーキがメイド妖精の賑やかな演奏と共に運ばれてくる。
そう、今宵は悪魔の妹、フランドール・スカーレットの久々の紅魔館への帰還と七百四十年目の生誕を祝うパーティーなのだ。ちなみに、幻想郷の行く末を見届ける会、五度目の定例会でもある。
「あぁ、やっぱり地上の宴会は最高ねぇ」
気の効いた妖精が運んできてくれた料理に舌鼓をうち、天子は今日の特別な日の記念として振る舞われた、フランドールの五百歳の誕生日に作られたという血のように紅い葡萄酒が満たされたグラスを傾ける。即席ではない二百四十年もののヴィンテージワインは、刻んだ歴史の分だけ深い味わいを出していた。
ますます膨れ上がる熱気と地上の美酒に酔いしれながら、彼女は再びバルコニーから宴を眺める。
この宴の主賓であるフランドールはこの百二十年間、太陽に打ち勝つ為に紅魔館を飛び出した後、風見幽香に弟子入りしていたらしい。
何故幽香なのかと言えば、今まで外に出たことが無かったために世間知らずの箱入り娘であったフランドールが、名前に太陽とあるのだからそこに行けば攻略の糸口が掴めるに違いない、と向かった『太陽の畑』で日光を浴びすぎて倒れてしまったところを偶然通りかかった幽香に助けられたのだという。
実に間抜けな話だが、そんな縁から彼女のもとで暮らしているフランドールは、今では健康的な小麦色の肌をして、日光を浴びてもそうそうまずいことにはならないのだそうだ。
一体どんな暮らしをしていたのかは二人揃って語ろうとしないので分からないが、フランドールが種族的にありえない芸当をやってのけたのは多分、思い込みの要素が多いのだというのが紅魔館の知識人、パチュリー・ノーレッジの見解であった。妖怪は精神にその存在の重きをおく生き物だから、思い込めば思い込む程よくも悪くも作用するのだろうとのことである。
そうしてある意味偉業を成し遂げた当の彼女は、そんな小難しい理屈になどおかまいなしに、幽香との暮らしの中で仲良くなったというリリーホワイトと共に宴会の中を忙しなく動いては幽香を引っ張りまわしていた。 あっちに行っては一輪と雲山にブランデーをぶっかけ、こっちに行ってはその強さから布都に幽香共々尸解仙呼ばわりされて満更でもない顔になり。実に奔放に宴を楽しんでいる。
無論、紅魔館に集まった他の人妖達も無礼講で好き勝手な事をやっている。八雲の姓を賜り妖怪としての格を随分上げ、主に引けを取らぬ結界術の使い手となったにも関わらず相変わらず奔放で、この宴の席でも酔った勢いに任せてナズーリンをひっきりなしに追いかけ回している橙と、その手懐け方についての教えを請う藍に、マタタビを嗅がせた星を見本に自慢のテクニックを実演するさとり。
その二人の間にいるこいしとメディスンは、姉の頬を引っ張ったり藍の尻尾の中に埋もれてみたりと本能が赴くままに大暴れしている。
別の方向に目を向ければ、ヤマメが即興で建てた舞台の上でプリズムリバー三姉妹と、六十年前の異変以来すっかり意気投合したお空を新たに加えた新生鳥獣妓楽、さらには九十九姉妹と堀川雷鼓が様々な音楽を奏でれば、それに乗せて特別性の巨大水槽に入ったわかさぎ姫が歌ったり、幽々子と衣玖に雛、ヤマメらがそれぞれ得意とするダンスを披露している。
そんな音楽やダンスに区切りがつくたび、リグルにルーミア、ぬえに村紗、影狼といった面々が喝采を送るし、それを見ながら鈴仙や椛、半人半霊から幽霊剣士へとその身を変えた妖夢達苦労人トリオが愚痴をこぼしあっている。
そのまた別の場所では勇儀と萃香に掴まった華扇とパルスィがアリス監修のもとに着せ替え人形にされて哀れな悲鳴をあげているかと思えば、すぐ近くでお燐と青娥が死体談義に花を咲かせていると見せかけて芳香を巡っての熾烈な争いを繰り広げている。
普段から培っている色彩感覚を活かそうと静葉がメイク教室なんかを開けば、その講義を光の三妖精やパチュリーが熱心に耳を傾けるし、小傘が見事な傘芸を披露する横では、今夜限りは羽目を外しましょうと白蓮が三味線をかき鳴らす。あちこちで行われる余興は、どこを巡ったって楽しいだろう。
宴会の場でくらいしか会う機会がないからと、すっかり話し込んでいる連中もいる。マミゾウとてゐは酒を酌み交わしながら何やら怪しげな儲け話をしているし、穣子とにとりは農業への新しい耕作機械の導入について真面目に語り合っている。
小町と映姫の登場にすっかり警戒して腰にしがみつく屠自古の頭を撫でてやりながら、死後の世界について訊ねる神子なんかの姿もある。ちなみに、妹紅と輝夜は相変わらず争い、取り合っていたご馳走を横から来たキスメと正邪にかっさらわれて揃って落胆していた。こんな時くらいよせばいいのに、仲がいいのか悪いのか。
そんな、幻想郷の日常的な宴会風景を眺めていると。
「あら、貴方はあっちに行かないの? 楽しいわよきっと」
ふと声をかけられて振り返れば、永琳がそこに立っていた。
「いいのいいの、見てるだけで楽しいし、あっちに行ったらもみくちゃにされそうだしね。それに、見届ける会なんだから一人くらいこうして見守るやつが居ないとだめでしょ?」
バルコニーの柵にもたれかかり、ひらひらと手を振って見せる。実際、めまぐるしく変わっていく妖怪達の宴は、一瞬たりとも同じ姿を見せない故に実に面白く、飽きさせない。こうやって見ている今も、人妖達の宴は姿を変えていく。ただただ歌って踊るだけの退屈な天界のそれとこうも違って見えるのは、変わり行く者達が開いた宴だからだろうか、なんて思う。
「そう。楽しんでいるなら、いいんだけど」
「心配ご無用。天人が楽しめなくなるときは死ぬときだけなのです、えっへん。ところで、そういうあんたはどうしたの?」
「ん、ちょっと疲れちゃってね」
見てみれば、今日のパーティーの為に輝夜が用意してくれたというシックな黒色のパーティードレスが少々くたびれて見える。なんでも、いつの間にか隣にいたこいしに振り回されてあちこち走り回る羽目になったのだという。
「あらそう。でも、ちょうど良かったわ。だって、もうすぐここは特等席になるもの」
指で永琳に上空を示す。そこではレミリアとフランドールが空に上がってにらみ合っていた。どうやら酔った勢いに任せて「今ならお姉様にだって余裕で勝てる」と豪語したフランドールに、じゃあやってみろ、とレミリアが言ったらしい。
そんな訳で始まった姉妹喧嘩を、地上にいる者達も皆余興の傍らで空を見上げて注視している。それを誰よりも間近で見られるのだから、なるほど確かにここは特等席と言えるだろう。
睨みあっていた二人が、同時に動く。レミリアが通った後に小弾をばら蒔く大玉弾を真っ直ぐに撃てば、フランドールが同じものを変則的に曲げて対抗する。続けて閃光と共に放たれたダビデの星と、全てを破壊せんと輝く星虹が真っ向からぶつかりあってこの世のものとは思えぬ光が空を彩る。
その残光が消えぬ内に、禁忌の籠と複合され更に複雑怪奇となった恋の迷宮を深紅の不夜城が強引に討ち滅ぼす。迷宮や籠を吹き飛ばすのは想定内だと四人に増えて待ち構えていたフランドールの集中砲火がグレイズしたレミリアの帽子を吹き飛ばせば、レミリアが悪魔の鎖でその分身達を一網打尽にして叩き落とす。
そんな風に目まぐるしく変わり行く空の幻想がどこか切なく思えるのは、流石に感傷に浸りすぎだろうか。
自らが七百四十年生きた事を証明するフランドールの波紋が目も眩むような閃光を放ち、次いでやってきた暗闇の中に二人が消えてだれもいなくなる。
その闇を、レーヴァテインとグングニルの紅い閃光が突き抜ける。
吸血鬼達の莫大な魔力の塊が真っ向から激突し、爆煙と紅い光が空を覆いつくす。それを見た誰もがこの苛烈かつ過激、そして優美な弾幕勝負が終盤に差し掛かっていると悟り、じきに着く決着を見届けようと目を見開いた。
やがて、フランドールが煙の中から飛び出してきて、勝利の確信に満ちた笑みを浮かべる。しかし、その笑みは遅れてやってきた衝撃に歪み、フランドールは目を剥いた。なんの捻りもない突進という『奥の手』を使ったレミリアの一撃が直撃したのだ。
完全に油断した所を突かれて落ちていくフランドールを、レミリアが優しく抱き止め、地上からの喝采に余裕の笑みで答えてみせる。腕の中のフランドールは、悔しさと憧れの入り交じった表情でまだまだ何枚も上手の姉の顔を見上げた。 百二十年越しの姉妹喧嘩の終わりは、そんな呆気のない幕切れ。けれど、それでいいのだ。
どこまでも熱くなりながら、終わりはあと腐れなくあっさりと。そんな閃光の様に儚い幻想だからこそ、その向こうに人妖達は種を越えた楽しみを見いだし、交わらぬ筈の時間を共有できる。故に、弾幕ごっこは愛されているのだ。
二人の吸血鬼に触発されたのか、リグル・ナイトバグが群集の中から飛び出した。虫の王たる彼女は、自らの眷属である蛍達を一斉に放ち、夜の空に流星群を顕現させる。本来空から地上へと駆け降りる筈のそれは、リグルの指示によって地上から空へと駆け上がっていった。
それ続き、アリスが自慢の人形達を操り、激しくも美しい弾幕劇を披露する。親友にねだられたパチュリーが、滅多に見せない上級魔法を惜しみ無く空にばら蒔いた。勇儀と萃香を先頭とした地底の妖怪達が、剣呑ながらも美を忘れぬ粋な弾幕花火を打ち上げる。
そして地底の妖怪に負けていられないと触発された地上の妖怪やお祭り好きな神々も加わり、我も我もと空に昇る。
気づけば次から次へと空に一夜限りの弾幕の花が咲き、その散り際には星屑となって幻想郷の夜を煌々と照らす。天子はうっとりと、最高の特等席でそれを眺めていた。
「あら、こんないい場所を独占して独り酒? 風流ねぇ」
「あんたが居るなんて珍しいわね。もう巫女の選任の時くらいにしか出てこないと思ってたんだけど。で、なんの用?」
心地よい陶酔に水を差され、天子は不機嫌な声を出して振り向く。いつの間にかいなくなっていた永琳にかわり、八雲紫が立っていた。別に、たまたま見かけたから声をかけてみただけよ、なんて涼しい顔で抜かしながら彼女の隣に来た紫の姿は、初めて会ったときと変わらない美しくも胡散臭い雰囲気に満ちている。
「あっそ。じゃあ今良いところなんだから邪魔しないでね。もっとも、地上を這いつくばる妖怪如きにそんな真似ができるとは思えませんが」
などと過去を棚に上げて不敵な笑みを浮かべながら挑発してみても、紫は笑んでいるばかりでなにも言わず、天子は馬鹿馬鹿しくなって再び空を彩る弾幕に見惚れることにする。
上空では、マミゾウと藍が慇懃な口調で静かに互いを罵りながら化かし合いをしていた。お互い必死になりながら化けて化かされていく内に訳がわからなくなってきたのか、髭の生えた美少女やら腕が四本もある大仏やらとなんだかよく分からないものが弾幕と罵声を飛ばしあう有り様。そのくせ相対する相手に化ける時は完璧に再現するし、弾幕の美しさは欠片も損なわないのだからわからないものである。
自分の従者の滅多に見られぬ本能任せの痴態が琴線に触れたのか、紫が楽しそうに小さく喉を鳴らす。天子も、呆れたような声で笑う。
そうしていつまでも自分達ばかり目立つなとぬえと共に割り入って藍を空から引きずり下ろす橙に逞しくなったわねぇ、と目を細めながら呟いて、紫は不意に天子へと向き直り、
「……年年歳歳花相似たり、歳歳年年同じからず。そんな中での自分の存在が、場違いだと思った?」
そんな言葉を口にする。
その言葉に心の奥を見透かされた気がして、天子は振り返る。けれど、紫はただ変わらず微笑んでいるばかりで。
「そう、かもね」
小さく、肯定する。『年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず』。花は毎年同じように咲こうとも、それを見ている人は同じではないという意味だ。それと同じことで、きっとまた、今日のように盛大な宴は百年後、二百年後だって開かれる事だろう。
けれど、その時に今日見た顔触れが皆揃っているとは限らないし、もしかすれば霊夢や慧音達のように居なくなっている者も現れるかもしれない。その時までに現れた新たな住人達もいることだろう。長い時を生きても、強大な力を持っていても、人がそうであるように妖怪の命は決して不尽ではない。
今こうして彼女の隣に立つ得体の知れぬ賢者でさえ、不変には程遠い。
だが、天子自身は変わらず、百年後や二百年後、あるいはその先にも居続けるに違いない。不老長寿と不老不死、似たような言葉かもしれないが、そこには決して越えられぬ一線が引いてある。そして、同じ不死である永琳達とも、その存在の在り方は天子とは違う。彼女の存在は、この幻想郷に住まう誰からも遠い。だから、こうして独りでただ喧騒を眺めるばかりでいる。
「杞憂ね。あなたはまだ理解できていない。……幻想郷は全てを受け入れる。かくも残酷で、それはそれは優しい世界ですわ」
そんな天子の心の内を一笑に付し、紫は手にしたワインを口にする。月光を背にしたその妖艶な姿を見て、天子はどきりとした。
「生憎だけど、たとえ受け入れられていたって、貴方達はいずれ死んでしまうじゃない。それじゃあ意味がないでしょう。私にとっては、貴方達の命は短すぎるわ」
「それはどうかしら?」
憎たらしいスキマ妖怪に一瞬でも見とれてしまったことを誤魔化すように返した皮肉を、紫は涼しい顔で受け止めて続ける。今宵は何故か、いつも以上に饒舌なようだ。
「短いようで、本当はもっと長いかもしれない。循環し続けているように見える水の流れにも、それに交わらぬ淀みはある。変わり続ける物の中にも、変わらぬものは間違いなく存在する。貴方達はそれを探しているのでしょう?」
どういう意味だと、紫をじっと見据える。「あら、穴を開ける気かしら?」なんて減らず口を叩く彼女の意図は、表情からは読み取れない。しかし、紫の方は天子の心情を読み取ったのか、「いずれ分かるわ」と言って姿を消す。慌てて周りを見渡すと、紫は既に庭園に降りていて、今では立派な神となった早苗を始めとする守矢の神々や面霊気のこころ、そして早苗の頭の上に乗った小人の針妙丸達と共に、酒を飲んで談笑していた。
「どうしたのさ、こんなところで血相かえて」
「! ……なんだ、あんたか」
「なんだとは酷いなぁ」
今度は、妹紅がやってきていた。輝夜とやりあってたら汚れちゃってね、とリザレクションで体ごと再生したのであろう真新しいドレス姿でへらへら笑うその姿に、いささか呆れてしまった。
「お、よく見えるね。なんだ、こんないい席があるんなら教えてくれたってよかったのに」
様々な者達が入れ替わり立ち代わり披露する弾幕で彩られ続ける万華鏡のような空を見上げて、妹紅は目を細める。
「ねぇ、妹紅」
「あ、あれはここの門番の弾幕かな。あいつの弾幕って簡単だけど、結構綺麗なんだよねぇ……ん、何?」
空では彼女の言う通り、この館の門番である紅美鈴が弾幕を披露していた。虹を模した彩雨の弾幕が月光に照らされてきらきらと輝く。その七色の光を天子と共に浴びながら、 妹紅が返してきた。
一瞬迷った後、口を開く。
「あなたは、変わらないものってあると思う?」
会が結成されてからこの二百四十年、彼女が抱き続け、しかし一度も他のメンバーに聞いた事の無かった疑問を、妹紅にぶつける。ずっと気になっていたのだ、輝夜が言い出した『変わらないもの』の存在を、自分以外の者も信じているのか。
「変わらないもの、ねぇ。少なくとも、今はまだ分かんないわ」
文とはたてが巻き起こした旋風が、天子達の髪を好き勝手に弄ぶ。そこに続けて放たれたルーミアの弾幕で逆光になったせいで表情は分からないが、妹紅の言葉に嘘は無さそうだった。
「そっか。……まぁこの二百四十年、どんどん変わっていく人間達につきっきりだったものね。その中で変わらないものを見つけるのは、かなり難しい事だと思うわ」
変わり続けるものをずっと見てきたのだから、変わらないものなど分かるはずもないか。馬鹿なことを聞いたと、天子は肩を竦める。
「そうだね。……でも、輝夜の言う変わっていくものの中にある素敵なものっていうのは、見つけた気がする」
彼奴の言葉を借りるのは癪だけど――と言って、妹紅は空を指差す。
その瞬間、星屑が空を覆い尽くした。
「あれは……」
「覚えてるでしょ? あいつの弾幕」
ミルキーウェイ。スターダストレヴァリエ。そして、マスタースパーク。空を流れる星屑は、天子の知る、百八十年前にこの世を去った筈の少女のスペルカードによって生み出されたものだった。
その弾幕の先を見る彼女の目に、一人の少女の姿が映る。自力で飛べると言うのに箒に腰かけて飛び、時代錯誤なステレオタイプの魔女の格好をした、白黒の魔法使いがそこにいた。
「研究に三十年くらいかかったとか言ってたかな、あいつが森の家に遺した魔導書だかメモ書きだかに書いてあった弾幕を再現してるんだってさ」
よくやるよ、と妹紅が呆れた声で教えてくれる。そう、あれは霧雨魔理沙本人ではない。今こうして空にいるのは、彼女の英雄譚に憧れ、六十年前にアリスに弟子入りし魔法使いとなった、魔理沙の曾孫に当たる娘だ。
姿も性格も魔理沙に生き写しだという彼女は長年の研究が身を結んだ事が余程嬉しいのか、空を埋め尽くす星屑の中で輝くような笑顔を浮かべていた。
「ここに来る前に少し話をしたんだけどさ、あいつ『これでご先祖様に近付けた!』って凄く嬉しそうにしてたよ」
「でもあの子、とっくに魔法使いになってるんでしょ? 今更過ぎないかしら」
魔理沙は人間のままその生を終え、あの娘は魔法使いとなった。魔理沙が為し得なかった長寿を実現したのだから、その時点で魔理沙を越えているのではないのか。けれど、妹紅はそこが人間の面白いところなのよ、と続ける。
「確かに人間は私達から見たら短命だし、すぐに変わってしまう。けど、だからこそ人間は次の世代に色んなものを遺す事が出来るんだって思う」
魔理沙だけじゃない、里の子供達も慧音やその教え子達の為したことに憧れて教師を志したり、代々巫女に選ばれ、右も左も分からぬまま人里離れた神社に連れてこられる少女達も、かつてそこで暢気で気ままに暮らしていた霊夢の話を聞いて安堵し、またそうあれる様に努力しているのだという。
伝えるものも伝わるものも少しずつ変わっているのかもしれないが、形を変えても受け継がれ行くものは確かにあると、妹紅はいつになく雄弁に語った。
「なるほど、変わっていく中にある素敵なものっていうのは、そういう事か」
なんとなく、天子も理解する。閃光のように駆け抜けて行った彼女達の生涯は、変化を迎えつつも確かに人々を魅了し、憧れさせてやまない。それは確かに、とても素敵なものなのだろう。
それから暫く二人が黙っていると、妹紅が再び空を見上げる。魔法の星屑は既に消え、夜空には満月が浮かぶのみだった。
「……月が綺麗ね」
そんな月を見てふと、妹紅が呟いた。
「あら、告白して下さるの? 悪いけどそういう趣味はないわ」
などと茶化してやると、そんなわけないでしょうと苦笑される。
「いや、あいつと会ったのも、こんな月夜だったなって思ってさ」
あいつとはきっと、慧音の事なのだろう。慈しむように月を見つめて、妹紅は続ける。
「受け継がれることや、また会えることって、素晴らしいことだよ。今日ここに来て、改めてそう思えた」
妹紅の視線が、頭上の月から地上でお互いを振り回しあっているスカーレット姉妹に移る。不器用な姉妹のそんな姿は読み物にあるような感動の再会とは程遠いが、分かち合う喜びはきっと、陳腐な作り話のそれでは到底再現出来ない程大きな物に違いない。
「会いたくなったの?」
「なってはいないね。ずっとそう思い続けてるから」
妹紅は泣き笑いのような表情になってそう言った。天子は何も言わず、バルコニーの端に立って世界を見渡す。いつしか弾幕も打ち止めとなり、永遠に続くのではないかというほど盛り上がり続けていた宴もまた、変化を迎えようとしていた。
最後の最後で特大の炎を打ち上げたお空のせいで熱帯と化した紅魔館の空を、レティとチルノが起こした雪風が吹きすさぶ。空に広がる風花が辺りを優しく冷やしていくと、次第に会場の熱気も静かになっていった。
ルナサが静かな音楽を奏で初め、その音色に乗せて唄うように輝夜が遥か時の彼方であったという、 神々と人の切ない恋物語を語り始める。極上の音色に乗った鈴を転がすような澄んだ声で紡がれる儚くも悲しい物語に、誰もが聞き惚れていた。
それが終わると、輝夜が語り部の立場を永琳へと移す。指名され、気恥ずかしげに前に出た彼女は、その場にいる誰もが知らぬような幻想と不思議に満ちた神話を語りはじめる。勇壮で、しかしながらどこか物悲しいその物語は、掛け値無しに魅力的だった。
皆が黙ってその物語に聞き入り、静けさが満ちた紅魔館には最早、ルナサ達の演奏や語り部の声に混じり、時おり聴き手達の感動を込めた嘆息と、感極まって漏れでた啜り泣きが聞こえるばかり。けれど、場が白けた訳ではない。皆その物語に胸を踊らせ、続きを邪魔したくないと騒ぎだしたい衝動を抑えているのだ。
時を忘れ、夜明けを迎えてなお続く静かな宴を、天子と妹紅は微笑みながら見守っていた。
「ごめん、遅れたね」
「遅いじゃない、今回の集まりはここにしようって言ったの、あんたよ?」
「ごめんごめん、三日前から登ってたんだけど、途中で滑っちゃって。いやありゃ死んでたね」
とんでもないことをさらっと言ってのけてから、妹紅は頭をかく。そんな彼女に「間抜けねぇ」なんて言いながら、幻想郷を見渡す為に輝夜は崖の近くに向かう。
それに続こうと身を捻る直前、妹紅が永琳に目配せをした気がした。けれど、もう一度見ても二人はもう別々の方を向いている。どうやら、気のせいだったらしいと、天子は山の彼方へと視線を戻した。
「随分、変わっちゃったわねぇ」
世界を見渡して最初に浮かんだ感想を、素直に口に出す。三百年前と同じ高さから映る景色は、しかし三百年前とは別物になっていた。
かつて雑じり気のない深緑に染まっていた迷いの竹林や魔法の森は、外から流れ着いた建造物で所々灰色をその身に宿すようになっている。紅魔館とプリズムリバー邸が建っている霧の湖は一見変わらないように見えるが、その湖の中心にはチルノが造り出した溶けることのない氷の島と彼女の屋敷が建てられている。
山に鎮座する非想天則も、「もっとかっこよくしたい」と二十年くらい前に言い出した早苗の指導により先鋭的な姿に変わった。博麗神社にはなんと、今から三代ほど前の仏師の娘であった巫女が、文やはたてが撮っていた写真を元に作ったという歴代の巫女の精巧な像が立ち並んでいた。
他には無縁塚も、最近外から物や人が流れ着く事が多くなって拡張を余儀なくされている。外の世界は貧しくなってきているのかも知れないな、とすっかりおじいさんになってからも元気に里と森を行き来して子孫の手伝いと趣味を両立している霖之助が心配していたのを十年くらい前に聞いた。
変わらないといえば、相変わらずサボり魔の死神が船頭をしている三途の川くらいだろうか。ここだけは未だに懲りもせずに小町が六十年おきにやってくる魂を処理しきれず溢れさせては、これまた飽きもせずに映姫にしかられている様を見せている。
近くで見れば分からないが、こうやって俯瞰するとよくわかる。人間や妖怪がそうであるように、この世界もまた、確実に変化し続けているのだ。
「ねぇ妹紅、どうしてわざわざ山登りなんてしたの? 空を飛べばすぐなのに」
三百年前と同じく永琳の作った料理を食べながら、輝夜がそんな事を聞く。確かにそうだ。空を飛べば、いくら妖怪の山と言えど半時間もあれば頂上につく。だというのにわざわざ三日もかけて登るなど、酔狂にしか見えなかった。
「んー……けじめっていうか、なんていうか」
なんと言ったらいいのか、と困った様子で、妹紅が言葉を選びながらゆっくりと語り始める。
「会わなきゃいけない奴がいたんだ。会って、謝らなきゃいけない奴が」
「会いたい、やつ?」
うん、と妹紅が頷く。この山に住む連中と言えば天狗や河童、守矢の神々くらいだが、それなら態々徒歩で山を登らずともいつでも会えるだろう。かといって他に心当たりが有るわけもなく、天子は輝夜に視線を送る。しかし、輝夜も見当がつかないらしく、首を横に振った。
「それで、会えたの?」
永琳だけは何かを知っているらしく、特に疑問を挟むことなく続きを促す。そんな二人を見て、私達は蚊帳の外なのね、と輝夜がむくれる一方、慧音が死んで以来、二人が話していたという話とはきっと、この事だったのだろう、と天子はなんとなく察していた。
「うん、会えた。会って、これまでのことを全部話して、謝ってきた」
「許してくれたの?」
「わからない。あっちは何も言わなかったから。でも、なんだか胸のつっかえが取れたよ。もう思い残すことはないね」
ごく真面目な顔でそう答える妹紅の声音にも気質にも冗談の気はなく、天子は何故か衝撃を受けた。そんな、思い残す事はないなんて、まるで死に行く者みたいじゃないか。それに、自分達は不死なのに、もうこの世に未練がないというなら、
「――貴方、空っぽじゃない」
思わず、そんな言葉が口から飛び出す。その瞬間、天子は何か取り返しのつかない事をしてしまったような気分になった。けれど、一瞬キョトンした顔になって、
「そうだね、空っぽだ」
と言った妹紅のその顔は、どこまでも穏やかで。
世界から、音が消えた気がした。輝夜が何か言っているが、聞こえない。その間、天子はずっと妹紅の顔を見つめていた。……あの顔だ。三百年前の霊夢が、百八十年前の慧音が、二度と会う事の無い別れの間際に見せたあの顔だ。その顔の意味は、もう理解している。やめろ、そんな穏やかな顔は見たくない。貴方まで変わってしまうというのなら、私達でさえ不変ではなくなってしまうではないか。永遠など、存在しなくなってしまうではないかという思いが、彼女の脳裏に浮かんだ。
そんなことはあり得ない、妹紅は不死の存在なのだと分かっているのに、そう思わずにはいられない。けれど、そんなときに限って言葉が出ない。ギリ、と天子は唇を噛んでうつむいた。
「どうしたのよ、いきなり怖い顔して」
世界に、音が帰ってくる。顔を見上げると、輝夜が暢気な声を出しながら彼女の顔を覗きこんでいた。
「あんたは……いや……」
口にしかけて、絶句する。
「何よ」
「なんでも、ないわ」
やっとのことでそれだけ返し、天子は反射的に眼をそらす。
そして、「そう? ならいいんだけど」と相変わらず暢気に言って身を離す輝夜に、気づいてよ、心の中で呟いた。本当は、彼女の胸ぐらを掴んで大声で叫んででも気付かせてやりたい気持ちだった。何百年もの時を共に過ごしておいて、お前は妹紅の表情の意味に気づいていないのかとどやしつけ、この三百年の間、一体何を見てきたのかと、わめき散らしたかった。そんな胸の内に沸き上がる激情を、彼女は必死に押さえ込む。この考えは杞憂に過ぎないのだと、自分に言い聞かせる。
仮にここで自分の考えをぶちまければ、妹紅と永琳のしようとしている事を妨害できるかもしれない。今の心地よい永遠を、確かな物とすることが出来るかもしれない。輝夜だって協力してくれるだろう。けれど、それをしたとして、どうなるというのか?
もし本当に天子の考える可能性を現実にする術があったとして、それを阻止する方法はない。妹紅が自分で決めたことならば、邪魔をする権利は彼女にはない。彼女は我儘ではあるが、他人の事を考えられない程愚かでもなかった。
そして、ここに来て初めて気がつく。自分達が依って立つ永遠が、こうも頼りないものである事に。例え世界が滅んでも自分達は不変だと信じていたのに、そんなものは無いのだと、真っ向から否定されてしまったような気がした。
「輝夜」
そんな天子の葛藤になど気づかぬまま、妹紅はその穏やかな顔のまま千年来の腐れ縁の相手を呼ぶ。
「何よ、気持ち悪い顔ねぇ」
怪訝な顔の輝夜の言葉には答えず、妹紅は立ち上がって炎を灯す。鳳翼を象るその炎は、彼女が不死であることの象徴であり、戦う意思を示している事を意味していた。
「なるほど、ね。あなたから誘ってくるなんて、百年ぶりじゃない。いいでしょう、後悔させてあげるわ」
輝夜もその意図を察して、自らの誇る宝具を周りに浮かべる。
「あぁ、殺し合おう。殺し合って、決着をつけよう」
どこまでも真っ直ぐで、どこまでも歪んだ、千年以上も貫かれ続けてきた彼女達の不変が、ついに終わろうとしている。それを隣で見続けてきた永琳は、何も言わずに目を伏せているばかり。止める者も、止める理由も、そこにはない。
「待って!」
しかし、今にも火蓋が切られそうになったとき、天子は二人を呼び止める。邪魔をするな、と言わんばかりの二人の眼差しに気後れしそうになりながらも、天子は意を決して口を開く。
「その戦い、私も、参加させて頂戴」
輝夜と妹紅が何を言っているんだ、という顔になった。当然だ。水を差している事など、他ならぬ天子自身が一番理解している。それでも、二人の戦いをただ黙って見届けるだけでいるなど、できなかった。勿論、それがただの殺し合いなら、 そんな事は思わなかっただろう。けれど、これは違う。きっともう次は無いのだと、これが終わればこの四人の関係は決定的な変化を迎えてしまうのだと、嫌な確信が渦巻いている。でも、止めることは叶わない。
止められないのならば、せめて。この四人がこれまで共にしてきた不変は確かなものだったのだと、魂に刻み付けておきたい。三人が過ごしてきた永遠を、ほんの僅かでも共有させてほしい。これは我が儘だ。どうしようもない、独りよがりで身勝手な我が儘。けど、それの何が悪い。それが比那名居天子なのだ。唯我独尊を疑わず傲岸不遜、負けも仲間はずれも大嫌い、おまけに一度得たものは簡単には手放さない、それが自分の、今日に至るまで不変であり続ける気質なのだと、天子は真っ向から二人を見つめ返す。
「……わかったわ、好きになさい」
静観していた永琳が、静かに口を開く。何を言って、と口を挟もうとした輝夜を押し留め、彼女は続ける。
「そのかわり、私も参加させてもらいます」
「え?」
「はぁ?」
「ちょ、永琳?」
予想外の言葉にその顔を見ると、「だって、ずっと混ぜてもらいたかったんだもの。千年も隣で見てきたのよ?」なんて笑ってみせる。気質を見ることができる天子にしか分からないくらい、見事な嘘だった。そのまま永琳と目が合う。きっと彼女は、天子の心の内も理解しているのだろう。彼女に向けられたその眼差しは、 どこまでも優しく、そして全てを知るが故の寂しさを抱いていた。
「二人ともなに考えてるのやら……わかった、わかったわよ。でもね永琳、私の手助けも手加減も禁じます。 やるからには、全力で勝ちに来なさい。これだけは肝に銘じておくこと。妹紅もそれでいいわね?」
呆れたように輝夜が肩を竦めてみせる。妹紅も頷き、
「構わないよ。輝夜、これで負けの言い訳が出来るようになってよかったわね」
なんて挑発。再び二人が燃え上がる。
四人揃って山の頂上から離れ、幻想郷の遙か上空に浮かぶ。その下では、何事かと出てきた天狗や河童達が天子達を見上げている。そんな観衆に見守られていることもあってか、自然と皆、高揚していた。
一迅の風が薙ぐ。それを合図に、四人は一斉に動き出した。
先手を取ったのは永琳。一斉に展開した大量の使い魔の輪で、三人を囲む。壺中の大銀河を模して作られた使い魔の輪が全方位にばら蒔く弾幕は、別々の輪の中にいる三人の動きを同時に制限しかかる。
しかし、それをものともせず、三人はほぼ同時に使い魔の輪を撃ち破って各々の得意とする弾幕を展開した。
まず輝夜が、使い魔を突破する為に身に纏った火鼠の皮衣を脱ぎ捨て、永琳に投げつける。
しかし、その衣から連続で放たれた赤い炎の線を、永琳は最小限の動きで躱しきった上に反撃する。矢とともに放たれた繁栄と滅亡、そして蘇生を繰り返す生命遊戯を模した弾幕は、輝夜の動きを完全に封じてしまった。
その隙を突いて、妹紅が己の背負い続けて来た罪を象る弾幕で永琳と輝夜を狙う。同時に、天子も要石を縦横無尽に飛ばして三人を狙い打つ。
そうやって空で繰り広げられる弾幕勝負を、山の妖怪達は呆けたように、或いは新聞のネタにしようとカメラを向ける。
そう、これは端から見ればただの変則的な弾幕ごっこに過ぎない。無駄だらけで、滅茶苦茶で、しかしどこまでも美しい弾幕ごっこだ。けれど、これは同時に容赦の無い殺し合いだ。放たれる弾の一つ一つが、普段のそれとは比べ物にならない程の力が込められた必殺の一撃になっている。
何故、殺し合いの手段に弾幕ごっこを選んだのか、戦っている四人でさえもわかっていなかった。戦闘が始まり、気がつけばそうなっていた。先手を取った永琳が無意識的に放ったそれがきっかけとなったのだろうか。 否、他の誰が最初に動いていても、きっと同じ結果になっていたことだろう。それほどまでに、この幻想郷的な決闘手段は彼女達に染み付いているのだ。
誰一人、言葉を出さなかった。必要なかったのだ。己の伝えたい言葉は弾幕に乗せているし、相手のそれもまた、弾幕を通じて伝わってくる。それならば、言葉を紡ぐことなど最早無用であり、それは不粋。
生命遊戯を突破した輝夜が、龍の頸の玉から出る大量のレーザーを全方位に放射する。それを察知して互いに目と鼻の先まで肉薄していた妹紅と天子が飛び退いた空間を、レーザーとそれに遅れてやってきた永琳の矢が突き抜けていく。 お返しとばかりに天子の操る要石の群れが一瞬前まで輝夜が飛んでいた空間に雨霰と降り注ぎ、同時に妹紅の炎が次の矢をつがえようとしていた永琳を飛び退かせる。
輝夜の振り回す金閣寺の一枚天井が、その圧倒的な制圧力を惜しみ無く振り撒いて三人に迫る。
天子はその弾幕の壁に恐れもせずに立ち向かい、凛々とした勇気を込めた天界の至宝たる緋想の剣で真っ向から叩き斬る。しかし、そのまま輝夜をも斬り伏せんとした刃は、砕けぬ意志を秘めた金剛石の鉢によって受けとめられた。
膠着する二人を、永琳の薬が見せる夢の胡蝶が襲う。
胡蝶は見たものを恐怖させ、決して逃がさぬ悪夢の如き疾さで回避を試みる天子達を追い詰める。
しかしその胡蝶諸共、妹紅の放った黄昏時の日輪の様に紅く燃え盛る爆炎と凱風が全てを呑み込んだ。
空も山も深紅に染める爆炎の中で分断され、四人の戦いが止まる。しかし、それはほんの一瞬だけのことで、爆炎からそれぞれ飛び出した者達によって再び不変なる者達の飽くことなき決闘が再開される。
薄れ行く爆炎の先に天子の姿をみとめた永琳が、獲物を狙う猛禽の如き勢いで襲いかかり、ワンテンポ遅れて天子も永琳に向き直る。
天人や神々の系譜を模した光が襲いくる。その光の合間に飛び交う弾を避けながら、天子は小さく舌打ちする。
彼女は永琳と戦う内に、三百年前に永琳から感じた只者ならぬ気配の正体に確信を持ちはじめていた。そして今、こうして一対一で対峙してみて、理解した。永琳は強い。それも輝夜や妹紅、あるいは自分よりも圧倒的に。只者ならぬ雰囲気の正体は、彼女が隠していた絶対的な力だったのだ。
そして同時に、その力を隠していた理由も悟る。彼女は、どこまでも輝夜に忠実なのだ。だから、彼女は恐らく従者として主を立てる為に今に至るまで隠し通して来たのであろう。しかし、輝夜に本気で来いと言われたことでその不変をこうもあっさりとかなぐり捨て、惜しげもなく本来の実力を見せているのだ。そこまで輝夜に忠誠であり続ける理由は分からないが、その忠誠こそが彼女の貫き通してきた不変なのだということは、天子にも理解できた。
「――羨ましいじゃないの」
零れ落ちた言葉が、弾幕の向こうへ消えていく。
永琳が多量の使い魔を展開する。かつて永夜の異変が起こる切っ掛けとなった彼女の秘術、太古の月の幻影を映し出す弾幕が、一斉に天子へと殺到する。既に逃げ場はない。永琳は確実に天子を倒しにきていた。
しかし、天子は諦めない。彼女は可能な限り回避すると共に無念夢想の境地となることでその致命的な弾幕に耐え、緋想の剣に気質を集める。金剛不壊のこの我が身、ここで活かさずしてなんとすると言わんばかりに真っ向から弾幕に立ち向かう彼女の姿を見た永琳は、それでもなおこのまま押しきろうとしているのか、弾幕を更に苛烈なものとする。
降り下ろされた緋想の剣から閃光と共に放たれた緋色の気質が、使い魔諸共永琳を薙ぎ、空を束の間極光に染める。山にいるもの達が、その儚くも美しき光の帯にどよめいた。
天子の渾身の一撃を浴びた永琳が山の頂上に墜ちていく様を見て彼女は勝利を確信し、輝夜と妹紅を探しに行こうと痛む体を動かす。
が。
「っ……!」
次の瞬間、体に受けた強い衝撃に、既に限界寸前だった天子は堪えきれず永琳の隣に墜ちてしまった。天人故の頑丈さで落下の衝撃の痛みは感じなかったが、何故だと空を見上げ、驚愕する。
ごく細い光の糸が、先程二人が戦っていた空間にところ狭しと張り巡らされているではないか。
「最後の最後に動かずごり押しで来るのは想定外だったけれど、これでおあいこね」
消えていく光の糸と極光を見ていた永琳が、してやったりと浮かべる笑顔を見て察する。『天文密葬法』は、目眩ましのフェイク。 永琳の本命は、使い魔達を囮にしている間に張り巡らせた、天地に巡り全てを捕らえる網の罠――『天網蜘網捕蝶の法』にこそあったのだ。
自分もやられることは流石に予想の外だったようだが、あの使い魔に囲まれた時点で天子は既に永琳の手の中だったのだ。
「……なーんか、負けた気分だわー」
ぎりぎりまで隠していた筈の奥の手をまさか先に出してしまっていたとは思わず、天子は少しがっかりしたような声を上げる。
「あら、私の方が先に墜ちたのだから負けたのは私じゃなくて?」
「心にも無いことを」
くすくすと笑う永琳の顔は、言葉よりも雄弁に彼女の勝利を語っていた。
「まぁ、なんでもいいけど。……あーあ、結局、あの二人の決着は見てるだけかぁ」
地面に寝そべったまま、天子は空を見上げる。その視線の先には、黄昏時になっても未だ熾烈な戦いを繰り広げる二人の姿があった。
妹紅が使い魔と共にばら蒔く大量の妖符を、輝夜の手にしたエイジャの赤石から出るレーザーが悉く焼き尽くしていく。しかしそのレーザーも飛び回る妹紅を捉えるには至らず、決定打にはなっていない。
「楽しそうね、二人とも」
「えぇ、千年以上もの間、ずっとあの調子だったわ」
満面の笑みで殺し合いを楽しむ輝夜と妹紅を見上げながら、いつまでもお転婆なんだから、と永琳は溜め息をつき、
「ねぇ、貴方はいつから気がついてたの?」
と変わらぬ調子で聞いてくる。
「六十年前から予感はしてたわ。でも、確信したのはついさっき。だってあいつ、霊夢や慧音と同じ顔、してたもの」
そう、と乱れて顔にかかった銀髪を気だるげに掻き上げながら、永琳は呟く。
「それで、こんなことを?」
「黙って見送るなんて、性に合わないのよ。楽しそうだし」
妹紅が鳳凰の翼から振り撒く焔を、輝夜の子安貝から溢れ出た水が掻き消していく。そうして八方に飛んだ水が日光を浴びて生まれた虹が消えるまで、永琳はくすくすと笑っていた。何がおかしいの、と少し頬を膨らませて問うと、
「我儘なとこ、輝夜にそっくりだと思って」
なんてウィンクしながら言われてしまった。
「そりゃ悪うございましたね」
「いいのいいの、我儘に付き合うのは慣れているもの。今更一つや二つ増えたって、どうってことないわ」
フォローする気すらない様子で、永琳は笑い続けている。そんな彼女にこのまま負けっぱなしというのは嫌なので、少し意地の悪い事を言ってやることにする。
「じゃあ、我儘な私から一つ、貴女に忠告して差し上げましょう」
偉そうで、もったいぶった天人らしい口調で続けてやる。
「我儘な奴ってね、独占欲がとっても強くて、おまけに自分が何でも知ってなきゃ気が済まないの。だから一度自分の楽しいことは簡単にはやめたがらないし、内緒事や裏切りなんて大嫌い」
どうせ、輝夜にはこの事を知らせていないのだろう。知れば、彼女は間違いなく反対するだろうから。
「妹紅はともかくさ、貴方、きっと責められるわよ。もしかしたら、嫌われてしまうかもしれないわ」
それこそ、これまで続いてきた二人の不変が覆りかねない程に。仮にそこまでいかなかったとしても、間違いなくその関係の変化は避けられないだろう。
「……分かってるわ、そんなこと」
しばらく黙りこんでから、返ってきたのはそんな言葉。けれど、その瞳は辛い覚悟に満ちていて、強がりなことは一目で分かる。
「だって、あの子の最大の楽しみを奪ってしまうんだもの。それも勝手にね。怒られたって無理もないわ」
「辛くなるわよ?」
「そうね、もしかしたら、耐えられないかも」
それでも、私は妹紅の願いを叶えてあげなければいけない。そう言って目を伏せる永琳の姿は、いつになく弱気に見えた。それほどまでに、これから来るであろう永い永い輝夜の糾弾は、彼女にとって何よりも辛いことなのだろう。
だからこそ天子は、
「耐えられなくなったら、私の所へ来るといいわ。気が済むまで慰めて差し上げますよ?」
なんて冗談っぽく笑いかけてみせる。これは三人の問題で、所詮天子は部外者に過ぎない。しかし、部外者であるからこそ、どちらにも肩入れせず中立の立場でこれからの永琳達の変化に接する事ができる。そして、それは曲がりなりにも不死を共有する自分にしかできない事だと思っていた。
「ふふっ、じゃあ、いざとなったら頼らせて頂くわ」
「ええ、いつでも来なさい」
薄い胸を張って、ちょっとでも頼もしく見えるように天子は言ってやる。
「ところで、輝夜にはいつ話すの?」
「そうね……時期をみて、かしら。いつになるかわからないけれど」
歯切れが悪い。このままではきっと機を逃してしまう。だったら、こっちが決めてやろうではないか。彼女は思い付くままに提案する。
「じゃ、六十年後にでもするといい。怒り続けることは難しい。だからその頃には、きっと疲れちゃってると思うわ。それで、その時に私も全部聞かせてもらう」
もしそうでなくとも、引っ張ってやるまでだ。この会の活動は彼女が言い出したのだから、六十年後の定例会には必ず顔を揃えさせてやる。天子は、そう心に決めた。
「それはいいけど、知らないことがあるのは気に入らないんじゃないの?」
貴女には今教えても構わないのに、と永琳。わかってないなぁ、この賢者はどこか抜けてる所があるわ、なんて天子は少し可笑しくなってしまう。
「それはそうだけどね、自分だけが知らないのと他に知らない奴がいることのショックの差って結構大きいのよ? だから、輝夜と一緒のタイミングで聞いてあんたへの風当たりを弱めてあげようっていうのよ」
我儘者の事なんてなんでも知ってるのよ、と豪語する。それもそのはず、なにしろ彼女自身が千年以上もの間それで通してきた筋金入りの我儘娘なのだから。
「……優しいのね」
「ふふん、天人は誰よりも思いやりがなくてはいけないのです。……なーんてね。私は口が軽いから、黙ってるのが面倒なだけよ」
なんだか照れ臭くなってしまって、慌てて誤魔化す。けれどもそんな彼女に向ける永琳の眼差しは、どこまでもあたたかい。
これでは、どっちがフォローに回ってるのかわからないな、と思ってしまった。
「ありがとう。……最も、私が一枚噛んでることくらいあの子はすぐに分かるでしょうけど」
だってこれは、恐らく私にしか出来ないことだから。
そう言って、永琳は空を見上げる。既に太陽は沈みかけ、宵闇が顔を出し始めている。
そんな空の上で続く二人の戦いは、より苛烈さを増していた。
今の今まで神宝のみで戦っていた輝夜がついに能力を使い、時を逆流させてこの場で使われた全ての弾幕を妹紅の周囲へ呼び出す。
永琳の術と矢が、輝夜の神宝の力が、天子の気質と要石が、そして他ならぬ妹紅自身の妖術が、彼女へと同時に殺到する。そこに隙間はなく、逃れる事は叶わない。
通常の弾幕ごっこならば間違いなく禁じ手の、しかし殺し合いにおいては最善の、「不可避」の一手が、妹紅を包み込んだ。
爆煙の内に妹紅の姿が消える。跡形もなく吹き飛んでしまったのか。無音になったこの空間で、天狗達が固唾を飲む音が聞こえた。
けれど、勝利を得た筈の輝夜の顔は堅いまま。この程度で終わる筈がない、まだ何かあると確信している顔だった。
パッと、空が一瞬赤く照らされる。
その直後、輝夜がその眼を見開いて自らの背に目を向ける。天子達もまた、輝夜の視線の先にあるものを見て驚愕する。
灼熱色の翼が、彼女の背から生えていた。
パゼストバイフェニックス。血肉を棄て魂のみの存在となった妹紅が他者へと憑き、不死の火で焼き殺す一撃。 いかに輝夜が須臾や永遠を操ろうとも、この焔から逃れられはしない。
翼から産み出された焔の顎が輝夜の体を欠片も残さず呑み込み、太陽と見紛う程の巨大な火球が空に出現する。
その火球から、肉体を再生し、燃え盛る紅蓮の翼を背に負った妹紅が現れた。
その姿はまるで、蘇る不死鳥の様な――否、まさに不死鳥そのもの。
そんな妹紅が己の存在を誇示するように飛翔する姿に、天子達は目を奪われる。
しかし、妹紅もまた、警戒の色を更に強め、両の手に焔を宿す。
そして、不死の民の終わらぬ狂宴は今、終幕へと加速する。
妹紅が生まれ出でた炎の卵が、真っ二つに切り裂かれる。消えて行く炎の名残が残す陽炎の向こうに立つのは勿論、傷一つない体へ再生した輝夜の姿。その手には、彼女達の因縁の根源となった宝具、蓬莱の玉の枝が携えられていた。
輝夜は笑っていた。つい先程まで業火にその身を灼かれていたというのに、まるで何事もなかったかのように、彼女が浮かべる笑みはどこまでも不敵。
上等、と言わんばかりに妹紅の顔も剣呑な笑みに歪む。
蓬莱人故命は無限。されど人故体力は有限。この一撃で全てが決まる。己は勿論互いの限界を嫌というほど知っている二人は、自らの持てる最高の一撃を放つ瞬間を図り、宵闇に染まる空に対峙する。
強風が吹き荒れ、永琳の帽子を吹き上げる。帽子は風に踊らされながら睨みあう両者の頭上へと舞い上がった。
「ねぇ、天子」
風向きが変わり、帽子が落ちていく。くるくると、落ちていく。
「なに?」
帽子が彼女達の眼の高さまで落ちてくる。ぐ、と二人はその身を撓める。
「もしも姫様が――輝夜が望むのならば、私はそれについていくわ。どこまでも、ね」
帽子が遙か彼方へと消えて行く。同時に、二人の蓬莱人が激動した。
「何を今更。あなたがそうすることなんて、言われなくても察しがつくわ」
輝夜が飛び退きながら振るう蓬莱の玉の枝から、得も言われぬ美しさを誇る五色の玉が解き放たれる。この世の穢れをその実に孕む玉の一つ一つから生み出された、一度触れれば二度と戻れぬ弾幕の樹海が輝夜の姿を覆い隠し、また妹紅を呑み込まんとその虹色の弾の枝を伸ばす。だが、妹紅は臆することなく自分からそれに突っ込んだ。
これまで幾度となく再誕を繰り返してきた不死鳥の翼から振り撒かれる鳥の姿を模した妖しき火が、行く手を阻む蓬莱の樹海を真っ向から啄み、焼き払い、駆け抜けて行く。対し、これまでいかなる者の踏破をも阻み、惑わせてきた樹海の弾の枝も、その役目を果たさんとばかりに妹紅の火を捕らえ、絡め、握り潰す。喰らいあう二つの不死の弾幕は、その獰猛さとは裏腹にどこまでも美しい。
「なら、もしも輝夜が望んで、私がそれに従ったら」
樹海は枝一つ残らず焼き払われ、不死の鳥は一羽残らず食い殺される。玉は輝夜の手元へ還り、焔は再び妹紅の背で燃え上がる。
奥の手を互いに相殺しあいながら、なおも二人の勢いは止まらない。弾の枝で身体中に傷を負った妹紅が鳳翼を限界まで広げて天を翔け、同じく身体のあちこちを焼け焦げさせた輝夜が蓬莱の玉の枝にあらんかぎりの力を籠め、虹色の輝きを手に構える。
「そのとき、貴女は――」
二人が激突し、虹色の閃光と深紅の焔が宵闇さえも明るく染める。それから数拍遅れてやってきた轟音に、永琳の言葉は掻き消されてしまった。
力尽きた二人が、山の向こうへ墜ちて行く。もう飛ぶ力すら残っていないのか、頭からまっ逆さまに。いくら不死とはいえ、この峻険に剥き出しとなっている岩にぶつかれば痛いでは済まないだろうと、天子達は二人を受け止めに行く。
「私、勝った?」
炎と虹の残滓が舞い落ちる中で天子に抱えられた傷だらけの妹紅が最初に出した言葉は、それだった。輝夜もきっと、永琳に同じことを聞いているのだろう。
「残念、引き分け」
「……そっか。あーあ、結局勝てなかったかぁ」
悔しがる妹紅。けれどその実、彼女は勝敗などに頓着していない様子で、晴れやかな顔をしていた。
「あんたさ、ホントにもう、思い残す事は無いの?」
天子はもう一度、尋ねる。聞いた所でどうにもならないのは、分かっていたけれど。妹紅は暫く黙って眼を伏せた後、
「そうだね。ちょっと寂しくはあるけど」
と呟いた。
「……そっか。なら、最後に永琳にはちゃんと謝っておきなさいよ?」
「え? なんで?」
キョトンとする妹紅。これは少々きつく叱ってやらなくてはと、天子は妹紅を抱き寄せる。
「あのねぇ、輝夜の事を全部永琳に押し付けていくんだから、そこは謝んなきゃダメでしょ? いくら永琳が輝夜大好き蓬莱人だからって、いや、だからこそこれから辛い思いをするんだから」
「どうしてそんなこと言い切れるのよ」
「輝夜が、我儘だからよ」
輝夜が基本的には暢気で心根の優しい性格だというのは、気質を見る目をもつ天子は理解している。しかし同時に、その下に潜む月の民としての傲慢さや、不自由のない箱入り娘として育ったが故の我儘な気質も、彼女の目は見抜いていた。
そして、この三百年の間に、輝夜が永琳におく信頼は、ある種の依存にも似ていることも知った。
そんな彼女が、他ならぬ永琳の手によって同類――妹紅との殺し合いという楽しみを奪われたらどうなるのか?
先程永琳に言ったように、我儘な者というのは自分の楽しみを手放したがらないし、裏切りや秘密を嫌う。なら、その先にある出来事は、きっと想像もつかないことだろう。
「あんたはさ、別に復讐の為にこういうことをする訳じゃないんでしょ? むしろ、そんな気がなくなったから、こうするって決めたんでしょう?」
「…………うん」
そこまで言われて、妹紅は初めて気がついた。自分との殺し合いなんてどうでもいいかもしれない。けれど、ずっと傍で尽くしてきてくれた筈の永琳に裏切られることはきっと、輝夜に何よりも大きな傷を与えるのではないかと。そしてそれは、かつて己が狂おしい程に求め続けた、輝夜への最大の復讐になり得るのだと。
「……まさか、こんな形で叶うなんてね。そんなの、もうどうでも良くなってたのに」
望んでいた頃には一度も為し得なかったのに、こうもあっさりと叶ってしまうとは。なんという皮肉だと、自嘲する。
「なんで謝らなきゃいけないか、分かった?」
叱るような、諭すような口調で、天子は静かに、確認する。
「……うん。後でちゃんと、謝るよ」
今日は謝ってばかりだ、と苦笑して、妹紅は問いかける。
「ねぇ、これで、本当にいいのかな。わからなくなってきたよ」
身勝手な事をして、望まなくなった筈の復讐をしてしまうことに後ろめたさを感じたのか、妹紅は今更ながら迷いを露にする。今、「よくない」と一言天子が言えば。妹紅を引き留めれば。彼女達の永遠は、きっとまた終わらなくなるだろう。そして妹紅は、あの穏やかな顔を二度と浮かべなくなるだろう。
「悩む必要はない。貴方は己の是とする行いをせよ」
けれど、彼女は敢えて、その背中を押した。人を導く天人として厳かに、迷いなく、妹紅に道を示す。
「大丈夫。あなたがそう決めたのだから、それでいいのよ。望むままに、進みなさい。……これから起きることは、並大抵の事ではないかもしれない。けれど、それは不変などではなくただの変化よ。なら、また変えてゆけばいい」
だから後は、私が見届けてあげる。貴方は迷う必要などないのだと、天子は力強く笑いかけ、約束した。
「……ありがとう。今度こそ、吹っ切れた気がする」
妹紅の顔から迷いが消え、穏やかな表情が戻る。それでいい。なぜだか、そう思えた。
「……さて、もう一人で行けるわね? 傷も大分治ったみたいだし」
「ん、そうだね。ありがと」
腕から離れ、妹紅が前を飛んでいく。なんとなく立ち止まって天子がそれを見送っていると、不意に妹紅が振り返る。彼女はなにやら、奇妙な顔をしていた。
「どうしたのよ」
「あーいや、そういえばあんたが説教するの、意外だなって」
「ふふん、年下の妹分を諭すのも年長者の役目なのです。それに、私の説教はレアなのよ? 最後に聞けた貴方は幸運だわ」
ちょっとお姉さんぶって言ってみると、誰が妹分だ、と即答で返された。しかし、今日の私はちょっぴり大人なのよと涼しく返してやる。
「まぁ、いいけど。じゃ、先に行ってるよ」
「あ、私は先に帰るわ。二人にもそう言っておいて頂戴」
そう言って呼び出した要石に腰かけ、天子はゆっくりと昇っていく。妹紅の姿や地上の景色が、段々と遠ざかっていく。
「どうしたのさ」
「天人のお姉さんは忙しいのよ。じゃあまたね、妹分」
「だーかーらー、誰が妹分だってば。我儘なんだから……」
呆れながら去っていく妹紅の背中を見送ってから、なにも見えなくなるくらい帽子を目深に被る。これでいい。ちゃんとした別れの挨拶なんて自分には似合わないし、出来そうにないと天子は思っていた。
それに何より、これ以上妹紅達と一緒にいれば、折角押し殺した感情が出てしまいそうだから。
もっと遠くへ。もっと高くへ。誰にも見られないように、誰にも聞こえないように。
「謝る相手がもう一人いるってこと、最後まで気付かないまんまなのね」
別れを惜しむ者が、他に居ないとでも思ったのか。気づいていなければ、きっと身勝手だと怒っていたものがもう一人、それもあんなに近くにいたことに気づかなかったのか。これだから人間は視野が狭くて困ると、天子はひとりごちる。
「自分でそう言っていた癖に。……あんただって人間なんだから、せめて言葉くらいちゃんと遺していきなさいよ……」
一人漏らしたその言葉は誰にも届かず、虚しく蒼天へと消えていく。言ってやりたいことなど、まだまだいくらでもある。そんな押し殺していた感情を全部吐き出す為に彼女は一人、遙か空の果てへと昇って行く。
その夜、ほんの少しの間だけ、幻想郷に温かな雨が降った。
ざく、ざく、と白砂の上を裸足で歩く音と、一定のリズムで寄せては返す波の音が、輝夜の耳に心地よく響く。遠くからは、無邪気に水をかけあう妖精達のはしゃぐ声や、太公望気取りの妖怪達が互いの釣果を聞き合う声も聞こえた。
空の様に蒼く澄んだ水を見て、水の酸っぱさを表すのはペーハーだけど、しょっぱさを表すのはなんという言葉だろうか――などと、とりとめも無いことを考えながら、彼女は一人、ただ黙々と歩き続けていた。
そう、ここは海。これまで幻想郷に存在しなかったこの大きな塩辛い水溜まりが姿を現したのは、つい十五年くらい前の話だった。
懐かしい、と輝夜は思う。何しろ、本物の海を見たのはもう二千年近く前の話なのだから。四百年程前に吸血鬼が気まぐれに作ったプールも見るには見たが、やはり本物の海は違う。
しかし、地上の海は彼女が二千年近く前に見た月の海とも違い、生命に、穢れに満ちていた。魚が泳ぎ、潮流に藻や苔の類が揺られ、陸のそれとは異なる生態系があった。
今まで流れ着いて来なかった海が幻想郷に現れたのは、寿命が伸びた事で人が死ににくくなって増えた人口の為に、盛んに埋め立てが行われたせいだという話を、誰かから聞いた事があった。
けれど輝夜にとって、海の出現など、この六十年間に知り合いが次々に消えていった事に比べれば大した変化ではなかった。そう思えるほど、幻想郷からは多くのものが去っているのだ。
まず、プリズムリバー三姉妹。相変わらず幻想郷の人気者だった筈の彼女達はある日突然、霧の湖の畔に構えていた邸宅ごと冥界に移転してしまったのだ。何故それを思い立ったのかは解らないが、消える数日前に冥界の主、西行寺幽々子が彼女達に直接会っていたという話を聞く。
そして次に、八雲紫。妖怪の賢者であり、誰よりもこの世界を愛していた筈の彼女もまた、幻想郷を去ったものの一人だった。当代の巫女の選任の儀を終えて数日後、彼女は突然、式である八雲藍に自らのもつ幻想郷の結界に関する全権を譲り渡すと宣言し、冥界に幽居していった。
同時に、彼女は春雪異変以来曖昧になっていた幽明の境を元に戻したうえ、その強力な結界術で徹底的に顕界と冥界を隔絶してしてしまい、冥界に住む者、つまり先のプリズムリバー三姉妹や西行寺幽々子、魂魄妖夢などは二度と、この世に姿を現すことはなくなってしまった。何故そんな事をしたのか、幻想郷中で様々な憶測が飛んだが、結局誰にもその意図は読めなかった。
そして、最後に。
彼女の好敵手であり、親友とも呼べる仲であった少女、藤原妹紅が、不死の呪いから解き放たれてその長き生に終止符を打っていた。
それは輝夜にとって、本当に唐突で、信じがたい事だった。山での戦いが終わり、一足先に帰ってしまった天子について文句を垂れながら三人でお酒を飲んで、どっちが勝ったか言い争って。それから、里に用があるからと永琳がいなくなり、二人で戻った竹林の途中でまた会おうと別れを交わして――
それっきりだった。
次に輝夜が妹紅の姿を見たのは、命蓮寺だった。多くの人妖に囲まれ、冷たくなって棺の中で眠る姿を見て、最初は何かの冗談だと思った。そんな感情のまま、火炉の中へ消えていく棺を見てもまだ、大がかりなドッキリなのだと思い、どうせそこから復活していつものように喧嘩の一つも吹っ掛けてくるのだろうと信じていた。
けれど、妹紅が再生することはなかった。そのまま彼女が灰と骨だけになり、小さな骨壺に納められていく様を見て、初めてそれが悪ふざけや質の悪い冗談などではなく、現実なのだと知った。
そして同時に、彼女は自らの傍らに立つ従者の裏切りに気がついてしまう。なまじこれ以上無いほど信頼し、なんでも出来ると知っているからこそ、不尽の身である筈の妹紅に起きたこの異変の正体が何であるかをすぐに察してしまったのだ。
彼女は、普段の温厚さや暢気さなど微塵も伺わせぬ程の怒りを見せた。狂ったように吼え猛り、手当たり次第に辺りのものを破壊し、永琳の首を掴んで竹林中を引きずり回し、二人以外の誰にも理解できない月の古い言語で知りうる限りの呪いの言葉と罵倒を浴びせ、時には命さえ奪った。普段使うことのない永遠の力を用いて時の狭間に閉じ込め、果てのない拷問を繰り返し続けることもあった。
だが、頭の隅では理解していた。永琳が訳もなくこんなことをする筈がないと。これは妹紅が望んだことなのだと。そして、もし自分がそれを知っていれば、きっと妨害してしまっていたであろうことも。それでも、彼女は自分だけは決して裏切らないと信じていた永琳のしたことを許せなかった。
だから、彼女は身を突き動かす激情が一通り収まると、押し寄せる自己嫌悪に潰れて泣きわめき、永琳に与えたものと同じ責苦を自らに与えて死に続けた。だが、彼女は不死の身。死ぬことはかなわない。故に再生し、また永琳と自分を呪う。そんな気の狂いそうな時を過ごしても、蓬莱の呪いは狂うことさえ許さなかった。
輝夜を止めることは、誰にも出来なかった。彼女の荒れ狂う怒りは凄まじく、大成し、昔より遥かに胆の座るようになった鈴仙をも怯えさせ、下手をすれば永琳よりも狡猾で物怖じすることのないてゐでさえも縮み上がらせた。しかし、そんな怒りを間近で一身に受ける永琳は、ただただその果てのない責め苦を黙って受け続けるのだった。けれどそんな健気さは、彼女の怒りに更に拍車をかけてしまう。なぜ何も言わない、なぜ裏切ったのだと、奪ったものを返せと、会わせろと、既に答えなど出ている筈の問いを、解くことなど出来る筈もない難題を、血を吐くような叫びとして輝夜の口から引きずり出すのだった。
永琳が何も言わなかったのはきっと、怒り狂った彼女になにを言った所で聞き入れないであろう事を知っていたからなのだろう。たとえ裏切ろうとも、永琳が輝夜の最大の理解者であることに変わりはなかったのだ。
そんな歪で血みどろの日々を、この六十年間、彼女達はずっと繰り返している。
けれど、それも不変ではなかった。輝夜は、疲れていたのだ。怒ることも、自己嫌悪に陥って泣きわめくことにも。だから最近は永琳を責めなくなり、罵倒や呪いの言葉を浴びせることもなくなった。かわりに、彼女はこうして一人で永遠亭の外を出歩き、極力永琳と顔を会わせないようにして過ごす事が多くなった。必然的に彼女が結成した集まりも、この六十年間は一度も活動することはなかった。
「六十年、か」
そういえば、と今日はその会の定例会を行う筈の日だった事を思い出し、回想する。六十年おきのこの日は、四人全員で幻想郷の変化を見届け、記憶に刻む日だった。だからこの三百年余り、受け継がれて行く人の記憶や役目を、変わって行くこの世界の景色を、変化の果てにこの世を去ったものと遺されたものの関わりを、妖怪の生誕を祝う宴を、他ならぬこの会の一員の変化を、彼女達は見届けて来た。
その始まりはなんというとはない、いつもと同じ好奇心からなる思いつきだった。地上に住まう民として自分の為したいこと、自分にしか為し得ないことを探し、考える内に、『穢れによって永遠を奪われ、寿命を得ている地上にあるありとあらゆるものに永遠や不変など存在しない』というのは、本当なのだろうか、という疑問にぶつかったのだ。
確かに穢れによって寿命があるのは本当の事だ。生き物は年老いて死んでいくし、物も時の流れと共に劣化し、朽ちていく。けれど、他ならぬ自分達には、寿命がないではないか。もし穢れが絶対ならば、そこに矛盾が生じるのではないかと、そう思ったのだ。
そしてある時、鈴仙の話から蓬莱の薬以外で不死を手に入れたものがいると知った。気を抜けば妖怪に殺されてしまう仙人や魔法使いのような半端な存在ではなく、寿命を超越し、死神に打ち勝つ力を手に入れる事で地獄にすら我を通す民、天人だ。その話を聞いて、確信した。永遠は、不変は、この地上にも確かにあると。そして、そんな存在がもっとあるのではないかと、確かめたくなった。
その事を話すと、永琳は勿論「それが貴方の望むことなら」と一も二もなく了承してくれた。そうして、彼女はこの「幻想郷の行く末を見届ける会」を結成したのである。
折角会を結成したのだから、自分と永琳以外にも仲間が欲しいと彼女は言った。すると永琳は、ならば会の目的や方針をきちんと決め、勧誘の際にそれを示す必要があると言って、共に考えてくれた。目的も何もない集団に、自分から加わるものは居ないからだ。
それからの彼女は、自分でも驚く程に能動的だった。目的や活動内容、方針を考え、紙に書き起こす。ただ変わって行く世界を眺めるだけでは味気ないからと、不変を探すだけでなく、かつて自分達が月の民からの追跡に怯え続ける事をやめて人妖と共に暮らすようになったような、明るく楽しい変化を探すことも目的とした。
掴みは大事だからと、一回目の活動に相応しい場所を求めて幻想郷中を巡り、幻想郷を見渡せる妖怪の山の山頂をその場所に決めもした。
そして最後は、メンバー集め。まずはいつものように襲い来る妹紅に賭けを持ち掛け、 その日の殺し合いに勝つことで仲間に引き入れた。それから天界に赴き、この活動のきっかけとなった話の天人、比那名居天子を勧誘し、幻想郷の行く末を見届ける会は、六十年前までの姿となったのだ。
その活動は、彼女にとってとても刺激的で、退屈など感じさせなかった。共に不死であり続ける仲間と共に目まぐるしく変わっていく世界を見て、まだ見ぬものを探求して過ごしてきた。そんな活動こそが、或いは永遠なのではないかと思うこともあった。けれど、それは幻想に過ぎなかった。
現に今、彼女は一人、全てを拒絶してあてもなく退屈と戯れている。致命的な変化が訪れてしまったと、苦い後悔を噛み締めている。
ざく、ざく、と、金剛石をばら蒔いたように白く輝く砂浜を歩き続ける。海は、青玉のように澄んだ紺碧の中に太陽の金色の輝きを湛えていた。六十年前の自分なら、この美しい景色に目を輝かせ、三人を振り回して遊んでいたのだろうか、と考える。今となっては、もう出来ないけれど――
「久しぶりね、輝夜」
諦めにも似た思いに俯いていると、声が聞こえた。そして顔を上げ、彼女は小さく息を呑む。
「少しは、落ち着いた?」
天子と永琳が、そこに立っていた。
「っ!」
「あ、待ちなさい!」
永琳の顔を見て、反射的に輝夜は逃げようとする。けれどそれはかなわず、天子に腕を掴まれて止められてしまう。
「離してよ!」
「それは出来ない相談ね」
逃れようと身を捻るが、見かけからは想像も付かない程の強い力をもつ天子の手は、微動だにしなかった。
「これからね、永琳に妹紅の事について聞くの。だから、あんたも付き合いなさい」
妹紅の事。それを聞いて、輝夜は僅かに身を震わせる。この六十年間、輝夜がずっと知りたいと思ってやまなかったことだ。それまで一度も口にしなかったことを、永琳が話すというのか。ようやく、彼女達の真意を聞くことができるというのか。願ってもないことだと、輝夜は思う。
「……それが、なんだっていうのよ。あんただけで勝手に聞けばいいじゃない。私には、関係ないわ」
しかし、口から出るのは嘘にまみれた拒絶。自分でも馬鹿馬鹿しくなるくらい、下らない意地だった。
「嘘ね」
けれど、その言葉をあっさりと一蹴し、天子は見つめてくる。哀れんでいるとでもいうのかと思い、輝夜は激昂した。
「どうしてそう言いきれるの、たかだか四百年足らずしか共に過ごしていないあんたになにが分かる!」
怒声を浴びせ、宝具を取り出して恫喝する。心を見透かされるのは気に入らなかった。振るった蓬莱の玉の枝の力が、天子を無理矢理弾き飛ばした。それでも彼女は立ち上がり、真っ直ぐに見つめてくる。
「見えるのよ、気質の揺らぎがね。だから、覚程ではないにしろ心は読める。千年来の旧友だろうが、一瞬前にすれ違ったばかりの他人だろうが、私に虚飾は通用しない」
違う。哀れみなどではない。しかし、それなら何の感情を含んでいるのか分からない。天子の意図が分からず、少し気味が悪くなって輝夜は飛び退いた。
「黙れ! そんなこと――」
「あぁもう、面倒くさいわね!」
更に拒絶の言葉を浴びせようとして、輝夜は不意に足元から隆起した岩に動きを封じられてしまった。天子が地面に緋想の剣を突き立て、地中深くの岩塊を呼び起こしたのだ。
「あんたの意地に付き合う気はない。私が一緒に聞けと言った、だからあんたは一緒に聞く! 拒否権はない! 以上! 私は我儘だからね、あんたがどう思おうが知ったことじゃないのよ」
無茶苦茶な理屈。かつて私にこれ程一方的な自分の意見を押し付けた者がいただろうか、と輝夜は怒りを通り越して呆れてしまった。我儘もここまでくればいっそ清々しい。しかし、彼女自身の中では筋が通っているようで、天子は堂々と続ける。
「さぁ、分かったら観念しなさい。今日の私は一度決めたら絶対やる主義だから。まだ抵抗するなら今度は――って、痛い! 痛いって! 冗談よ、冗談! だから永琳やめて、地味に痛いから!」
意地の悪い笑みを浮かべて緋想の剣を振り上げていた天子が、突然顔をしかめて情けない声を上げる。何事かと思っていると、体勢を崩す天子の首に、永琳が取り乱した様子で矢を突き付けているのが見えた。
「……はっ! ご、ごめんなさい、つい」
「あーいたた、私が天人じゃなかったら多分死んでたわ……」
我に返った永琳が顔を赤らめながら謝罪する。彼女は努めて平静を装って成り行きを見ていたのだが、天子が緋想の剣を輝夜に向けるのを見て居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。
「輝夜を放してあげて貰える?」
永琳は申し訳なさそうな笑みを浮かべて頼む。岩塊を直接輝夜に当ててはいないことはわかっていたが、閉じ込められる輝夜は見たくなかったからだ。
天子は先程輝夜に見せた眼差しで二人を暫く見比べた後、大仰に溜め息をつき、
「……仕方ないわねぇ、わかった、ここはあんたの顔を立ててあげるわ」
と、わざとらしく大声でのたまってから輝夜を解放した。
「それで、あんたはどうするの? 高々六十年ぽっちでこれまでの事を全部捨てた気になって、意地張ったままこれからもいるつもり?」
砂浜に投げ出されるままに座り込んだ所を、天子に問いかけられる。
輝夜はなにも言えずに俯いた。さっきのやりとりで、やはり永琳は永琳なのだということはわかっていた。自分に危害が及びそうになったとき、天子を殺そうとしてでも助けようとしてくれた彼女は、二千年近く前に月の使者から彼女を助け、連れ出してくれた永琳と全く変わっていないのだと、輝夜は確信していた。それと同時に、たった一度思い通りにならなかっただけで責めてしまったことを申し訳なく思う気持ちで一杯になった。
このまま、下らない意地を張ってその真意を知らぬまま永遠を過ごすのか。こんなにも苦しい日常を、不変のものにしてしまうのか。
そんなのは嫌だと、輝夜は思った。
「……聞かせて」
もう元には戻れないかもしれない。けれど、戻ろうとする努力をしないまま終わってしまうのは嫌だ。そんな想いを込めて、輝夜は永琳の目を確りと見据えてそう言った。
「だってさ。これで心置きなく話してくれるわよね?」
その言葉を聞いた天子が破顔し、永琳に振り返る。永琳も小さく頷いた。
砂浜のど真ん中では人目につきすぎるからと、三人は高台まで移動していた。あまりおおっぴらにするような話でもないし、あんな場所では妖精辺りに水を差されかねないからだ。
「……始まりは、私の傲りが生んだ罪だったわ」
二人に向き合い、永琳はぽつりぽつりと語り始める。これまで誰にも話したことのない、彼女が今日に至るまで胸のうちに隠し続けてきた秘め事を。
「月に住まう神々の中でも特に秀でた頭脳、知識を持っていた私は、己の叡智に絶対の自信を持っていたわ」
それ故に自分に不可能などないと、己が歩む道が、行いが、全て正しいのだと信じてやまなかったと、吐露する。
「けれど、いや、だからこそ私は、月の禁忌である蓬莱の薬を造り、輝夜に大罪を犯させてしまった。望む望まないに関わらず、罪を犯させて、最早月で暮らすことなど出来ない身にしてしまった。私はそれを悔やんだ。悔やんで、償おうとした。でも、月の民が私を罰することはなかった」
彼女は罰を望んでいた。それ故に、輝夜だけを咎め自分には何の贖罪も課さなかった月を憎んだ。
「それから暫くして、あなたの罪は赦され、私はあなたを連れ帰る使者に任ぜられた。私は、償いの為にあなたの望みをなんでも叶えると、誓ったわ」
それからは、貴方の知っての通り――と、永琳は一旦言葉を切る。輝夜は、自らのスカートを強く握った。他ならぬ自分が望んで犯した罪なのに、それが永琳を苦しめてしまっていたのかと、愚かで身勝手な過去の自分を呪った。
「それからの月の刺客からの二人きりの逃避行は、少し窮屈だったけれど楽しかった。高みから見下ろして居ただけの地上と、自分の足で踏みしめる地上は、こうも違って見えるのかと感動さえしたわ。そんな世界と時間を輝夜と二人で過ごせて、私は間違いなく幸せだった」
自責の念に小さく震える輝夜の頭を安心させるように優しく撫でてやりながら、永琳は懐かしむように目を細める。その幸福に、嘘は微塵もなかった。
「そうして地上の民として暮らす途中で、私は多分、変わったわ。自分と地上の民が対等であると考えるようになっていた。地上で暮らすのに、いつまでもつまらない矜持にしがみついていても仕方ないからね」
月の民など自分を入れて二人しかいないのだから、と永琳は言った。
その変化は、輝夜もよく知るところだった。自身と同じで、これまで道具としか思っていなかったはずの地上の民に対する認識が、明らかに変わっていたからだ。
「その内に、私はもう一人の蓬莱人に出会った。彼女は私が犯した罪の、もう一人の被害者だった」
妹紅のことだ。彼女の生が、蓬莱の薬と、それによって地上に降りた輝夜のせいで狂ってしまっていたと、最初に彼女が輝夜へと襲いかかってきた時に知ってしまったのだ。
「私は、彼女にも償わなくてはならないと思った。だって、私はもう地上の民だったもの。ならば一人の人間として、彼女を同類にしてしまったことの責任を取らなくてはならないでしょう?」
月にいたころの、地上の民など道具としか思っていなかった私なら考えることすらしなかったでしょうけど、と自嘲する。
「そしてある日、輝夜の刺客として妹紅に会った時、聞いてみたの。不死であるのは、どんな気分かって。そしたらあの子、『色々あったけど、生きてるって、素晴らしいと思う』って言ったの」
だから、その時は安堵し、なにもしなかった。不死を受け入れ、終わらない生を謳歌しているのなら、自分の出る幕などないし、殺し合いが二人の楽しみになっているのなら、わざわざそれを奪うこともないとも思ったからだ。
「けれど、そこに永遠は無かった」
妹紅は永い生の中でようやく得ることができた無二の親友、上白沢慧音が年老いていくのを見る内に、別れを怖れるようになっていた。蓬莱の民となって人を捨てて以来、人から離れ、隠れ住まう中でようやく手に入れた人との関わりが失われてしまうことに怯えたのだ。けれど、時は無情に流れ、慧音は妹紅と袂を分かってしまった。
「慧音の葬式の後、妹紅は私の元へやって来て、言ったわ。『不死を解く方法はないか。心が腐りきってしまう前に、私は死んでしまいたい』、とね」
それを聞いた輝夜は、昔月から帰ってきた霊夢に寿命が伸びたら地上の民はどうするのかと問いかけたことを思い出す。
心が腐っても生き続ける事の無いように、寿命を減らすことを目指すのではないか。それが、霊夢の答えだった。そして、今しがた永琳が語った妹紅の言葉は、それとほぼ同じものだった。
つまり、妹紅はどこまでも地上の民だったのだ。寿命が無いに等しい月で暮らし、身近に不死を共有できるものがいた上に長く永遠の中に居た永琳や輝夜とも、天界に住み、家族を初めとした不死の同類がいくらでもいる天子とも、妹紅の不死のあり方は違った。
彼女の周囲は、死に満ちすぎていた。無限の時間を共有できる者も、不死がありふれた特別な世界で暮らすこともなかった彼女は、不死が故の辛さを分かち合える者がいなかったのだ。だから、大切なものはすぐに無くなってしまうものばかりで、肉体は不死でも価値観や心が人間のままであった妹紅には、それが耐えられなかったのだ。
「そんな彼女の呪いを解くのが、私にできる償いだと思った。だから、なんとしても叶えてあげたいと思った。例え、それが輝夜を裏切る事になったとしても……」
それから、二人は定期的に会って語り合うようになり、永琳は蓬莱の呪いを解く術を研究するようになった。そして、紅魔館でフランドールの誕生会が開かれた年に、不死を解く術が完成したのだと言った。
「私は材料さえあればいかなる薬でも作る事ができる。それは蓬莱の呪いを解く薬でも例外ではない。私は、蓬莱の薬からその解毒剤を作った」
「待って、蓬莱の薬は私の力無しじゃ作れないんじゃないの?」
思わず、輝夜は口を挟む。蓬莱の薬からその解毒剤を作ると言うのは、言ってみれば毒から血清を作るようなものだからまだわかる。しかし、その蓬莱の薬を作るには、永遠を操る能力がなくてはならない筈だ。それに、月ならまだしもここは地上。永遠を操れるものなど、自分以外にはいない。ならば、どうやって?
「ええ、その認識は間違っていないわ。貴方の能力無しでは地上で新たに蓬莱の薬を作ることはできない。けれど、既に作られた薬は、幻想郷でも手に入るのよ」
そう言って、永琳は自分の腹を軽く押さえてみせる。
「蓬莱の薬は肝に溜まる。私は妹紅の肝から取り出した蓬莱の薬を使ったの」
かくして、不死を解く薬は完成した。それは、不変であるはずの蓬莱人の命が、不変ではなくなった瞬間でもあった。
「妹紅にそれを話したら、あの子は全部にけじめをつけてからそれを使うと言ったわ。山に徒歩で登ったのも、あの山に住む神に、かつて犯してしまった罪を懺悔するためだった」
そしてこれまでずっと、背負ってきた物を下ろした彼女は、最後の最後に輝夜との決闘を望み、その末にこの世を去ったのだった。
「あの子は最後に、私に謝ったわ。なんでかしらね、悪いのは私なのに。それから、貴方達に礼を伝えるように言って、薬を飲んだ。……これで、全部よ」
それから、永琳は輝夜を抱き寄せ、
「ごめんなさい。あなたには、辛い思いをさせてしまったわね」
と、掠れた声で囁いた。
「ち、違、永琳、私は、私が――」
謝るのは、私の方だ。彼女はただ、犯してしまった罪を、それも自分の我儘が発端となった罪を償っただけなのに、私は何も知らず、知ろうともせずにそれを裏切りと決めつけ、苦しめてしまった。だから、謝るのは彼女ではなく、私の方なのに――と、輝夜は謝ろうとした。けれど、伝えたい事が多すぎて、感情が溢れすぎて、言葉が出ない。それでもと、やっと紡ぎ出そうとした言葉さえ、他ならぬ輝夜自身の咽び泣きにおぼれてしまった。
そんな輝夜を、永琳は強く抱き締める。言葉などなくとも、輝夜の思いは伝わっていた。
夕凪の海辺に、泣きじゃくる輝夜の声が響く。天子はそれを見届け、邪魔にならぬようにと静かにその場を離れた。
いつしか遊んでいた妖精も釣りをしていた妖怪も帰り、潮騒ばかりが聞こえる静かな砂浜を裸足で歩く。寄せては返し、足を濡らす冷たい海水が心地よかった。
海は、発見で一杯だった。外の世界では最早幻想となってしまった「美しい海」は、どこまでも澄んでいて、深い深い海底まで見えそうだし、砂浜には無粋な塵など一つもなく、長旅の果てに打ち上げられた流木や宝石のように美しい貝殻に彩られていた。
「あの二人は、まだなんにも見てなさそうねぇ。ずっとお互いの事しか考えてなさそうだったし」
苦笑し、まだ二人がいるであろう高台を見つめる。その眼差しには先ほど二人を見た時と同じ、羨望が込められていた。
天子はずっと、羨ましく思っていたのだ。彼女には、輝夜にとっての永琳の様にどんな悩みや悔いをも受け止めてくれる相手も、永琳にとっての輝夜の様にどんなことがあろうとも尽くし続ける事のできる者も、妹紅にとっての慧音のような、大きすぎる命の差を理解してなお受け入れ、想ってくれる者もいなかった。それは、どれ程我儘を言おうとも得られぬものだ。
勿論、永琳や輝夜のような、語るに足る友はいる。けれど、永遠を共にできる者はいなかった。一見同族に見える他の天人でさえ、おまけで成り上がったにすぎない不良天人の自分を良く思わない者がほとんどなのだから。そういう意味では、彼女は孤独であり、故に輝夜や妹紅に憧れていた。
しかし、だからこそ自分はこの六十年間、中立であれたのだと天子は思っていた。彼女は今日まで、罪の意識に苦しみ続ける二人を見届けてきた。時に輝夜が自己嫌悪と怒りの板挟みになっていれば傍にいてその行き場のない感情の捌け口となって話を聞いてやり、時に永琳が輝夜の責め苦に押し潰され、耐えきれなくなれば天界へと招いて気が済むまで泣かせてやった。逝ってしまった妹紅の代わりに、二人の行く末を見続けていた。
その間、彼女は輝夜に明確な答えを与えて導くことも、永琳に同情し彼女の代弁者として輝夜を糾弾することもなかった。あくまでも傍らに居続けてやるだけだった。彼女は二人の理解者だったが、同時にどちらの味方でもなかった。
そんなことが出来たのは、自分が両者とも同じくらいの距離にある中立の立場にいたからだと、彼女は知っていた。もしもどちらかに傾いていれば、きっとそれに同調してもう一人を責め、あの決別を永遠にしていたことだろう。
もしかしたら、逆にそうすることで、天子自身が輝夜にとっての永琳、或いはその逆の立場に成り代わることが出来たかもしれない。
彼女が憧れてやまない、無二の存在を手に入れられたかもしれなかった。
でも、彼女はそうしなかった。
そんなことをして手に入れたところで、きっといつか、何故そんなことをしたのだと後悔するに違いなかったし、なによりも、六十年前の妹紅との約束を果たしたかったからだ。
だから、彼女は今日まで見届けてきた二人の最後の変化の為に、永琳には『六十年前の約束』として、輝夜には『自分の我儘』として二人を引き合わせ、泥を被って見せてでも二人が話すきっかけを作り、不変になりかけていた決別を打ち破ってみせた。
「どーせ、見えてないだろうけどさぁ、あんたとの約束、ちゃんと守ったわよ!」
誰もいない海へ向けて、彼女は叫ぶ。約束は果たされた。変化は成された。もう二人が互いを想って苦しむことはないだろう。
海の向こうへ沈んでいく夕陽が、最後に赤金色の光を一筋、水面へと投げ掛ける。
天子の目には、それが妹紅の灯す焔に見えた。なんだ、ちゃんと見てたんじゃないか、と天子は笑う。
「……まぁ、おかげで私の立場がますますなくなっちゃうんだけどね」
夕陽が完全に海へと沈んだ後、天子は笑顔のまま、寂しそうに呟いた。二人の絆はきっと、元に戻っただけでなく、より固いものとなった筈だ。降りしきる雨は、同時に地をより確かなものにするのだから。
それこそ、天子が間に入る余地など無いほどに。
また少し遠ざかっちゃったかな、と困ったように笑って、天子は高台へと戻る。
二人は静かに、肩を寄せ合って星屑の光を秘める深い瑠璃色の海を眺めていた。
いい加減帰るわよ、と声をかけようとして、思いとどまる。折角六十年ぶりに分かり合えたのだから、今日くらい水入りは勘弁してやろうと思ったのだ。
その代わり、明日は二人共へとへとになるまで振り回してやる、と決意する。二人してすっぽかした定例会を、一日日を改めてやるのだ。なんと寛大な私だろう、なんて一人で得意になる。
だから今日は、いつも通りに、この世界を見届けてやろう。
三百六十年前に、山から世界を見渡したように。
三百年前の神社であった、新たなる巫女の誕生のように。
二百四十年前の、慧音と御阿礼の子の対談のように。
百八十年前の、妹紅の墓参りのように。
百二十年前の、吸血鬼の誕生日のように。
そして、六十年前の、輝夜と妹紅の最後の決闘のように。
天子は、いつだって傍観者だった。
「うわー、ごちゃごちゃしてるわねぇ」
「風情もない、彩りもない、面白みもない。ないないづくしであるのは少々の頑丈さだけ、か。よくもまぁこんなつまらないものの中に住めるものだわ」
無縁塚に広がる大量の灰色の残骸に、天子と輝夜は思わず呆れと驚嘆の入り混じった声をあげる。灰色の名前は、コンクリート。
これらが前々から少しずつ幻想入りしてきているのは知っていたが、一度にここまで沢山流れて来たのは、今回が始めてのことだった。
「殆ど劣化して、もう使い物にならないわね。だからこそ流れ着いたのだろうけど」
手を触れた途端にぼろぼろと崩れ去るそれを見ながら、永琳は呟く。
人間の間では長く頑丈であり続けるものと持て囃されてきたのだろうが、彼女達の目にはどうしようもないほど脆く儚く映った。
「色々なものが流れ着くのはいいけど、こんなものまで来るのはちょっと迷惑ねぇ」
「まったくだ」
辟易した様子の輝夜の呟きに、同じくうんざりした風な声が答える。余り聞きなれていない声に、三人が同時に振り返ると。
「どうも」
艶やかな毛並みの、見事な尻尾が九本。八雲藍が、そこに立っていた。
「あら、妖怪の賢者様じゃない。どうしたのこんな辺鄙な場所に」
よせよせ、賢者なんて柄じゃないと首を降りながら、藍は肩を竦めて見せる。
「これを結界の外に放り出すんだ。妖精も寄り付かないこんなもの、置いてたって仕方ない」
言いながら、藍はてきぱきと術の準備を整えていく。ものの数分もしないうちに、天子達の目の前にあった灰色の山は結界の外に弾き出されて消えて行った。
「お見事」
「どうってことないさ。それに、紫様なら軽く指を振るだけで終わらせてしまうよ」
永琳の世辞に苦笑して、最近はこんなことばかりだと藍はぼやく。
「ここのところ、色々と不穏でね。だからこうして色んなものが流れて来るんだ」
外の世界は今、膨れ上がった人口と、なくなりつつある資源を巡って不毛な争いを始めようとしていると藍は言った。
大国は我先にと小国を押し潰してはその土地や資源を手にし、僅かばかりの延命を図っている。
その余波を受けて破壊され、朽ち果て、忘れられたものがこの地に流れているのだそうだ。
「もしかして、これも月の民が仕組んだことだったりするのかな?」
くっくっ、と笑いながら藍が問う。無論、本心から出た言葉ではない。彼女なりのジョークだ。紫の式ではなくなった彼女は、心なしか以前よりもっと感情豊かになっている気がした。
「さぁね、私達はもう地上の民だから分からないわ。もっとも、月の民がそんな不毛な争いを起こすとは思えないけれど」
「月の民が戦争を煽るのは、いつだって地上人の発展を促すためだからね。それにしても、貴方の口からそんな言葉を聞くとは。飼い主に似たのかしら」
二人の答えに、あぁ、分かっているよと藍は言って、
「紫様に似てきた、か。どう? 威厳とか、あるように見える?」
などとおどける。そんな人をくったような仕草は、確かに紫に似ていた。
「そうねぇ、まだまだ胡散臭さが足りないわ。なんというか、あいつの読めなさは底なしだった気がする」
その点、あなたはまだまだ素直な方だと天子がいうと、藍はそうだな、と笑って、目を細める。
「千年近くあの方の傍に居続けたが、未だに紫様の考えは分からないよ。最後まで読めないお方だった」
紫が突然この世を去り、冥界を隔絶してから早六十年と少し。未だわからぬ主の意図を考え、首を捻りながら藍は呟く。
「もしかしたら、紫様は今幻想郷が直面している問題を読んで見切りをつけていたのかもしれないな。そうでもなければ、誰よりもこの地を愛していたあの方が寿命でもないのに去るとは思えない」
「問題って?」
天子が聞くと、藍はやや険しい顔になって続ける。
「さっき、外の世界で争いが起こりつつあると言っただろう。それによって、外の世界で滅び、忘れられた土地の技術や物品が次々に流れ込んできている。人間の暮らしは、どんどん豊かになってきている」
「なにか問題が?」
豊かになるのなら、それはいいことなのではないかと天子は思った。しかし、大有りだと藍は続ける。
「暮らしがただ豊かになるならそう悪いことじゃあない。だが、豊かになりすぎている。人は自分が全能だと思い始めている」
技術や物品が豊かになれば成る程、人は出来ないことが無くなっていき、思い上がるようになる。それは、妖怪をはじめとする幻想の存在には致命的なことだ。
「怪奇を恐れる必要が無くなれば、妖怪や妖精は恐れられなくなる。自分でなんでもできるなら、手助けや施しを神仏に願う必要はなくなる。特別な修行をしなくても長命になれるのなら、長生きの為に仙人や魔法使いになる必要はなくなる。私達は、存在する意義がなくなってしまう」
つまり、かつて幻想郷が世界から隔絶される前の外の世界と、同じ道を辿りつつあると言うことらしい。
「どうにかならないの?」
「ならないな。物でさえ完全に遮断することもできないのに、人の心を完全に支配することなんてできやしない」
諦めの表情で、藍は溜め息をつく。
「盛者必滅。仕方ないと言えば、仕方ないのかもしれないな」
形あるものはいずれ滅ぶ。それは摂理だから。夢はいつまでも見続けられない。蓬莱の民でさえ、そうだったように。
「とはいえ、ここが人間の天下になるとも思えないけどね。何しろ外の世界は滅び始めている。それが現実となったとき、この世界は――」
「藍様」
言い切る前に、橙が藍の元へ飛んでくる。彼女は少し焦った様子で、博麗神社の裏側に外の廃屋が流れてきていると言った。
「わかった。このまま巫女ごと神社を押し潰されても困る。すまない、行ってくるよ」
三人に会釈をし、藍と橙は空へ消えていく。
「……盛者必滅、か」
それを見送った後、輝夜が口を開く。
「それでも、私は永遠があると思うわ」
その言葉は力強く、希望的観測や願望ではない、確信に満ちていた。
「あら、なにか見つけたの?」
「ふふっ、秘密よ」
悪戯っぽく笑って、輝夜は問いかけてきた永琳に抱きつく。六十年前の一件以来、二人は以前よりももっとその仲を深めていた。よそでやってよ、と呆れながら言って、天子は永琳を振り回す輝夜を眺める。本当に、彼女は不変と思える存在を見つけることが出来たのだろうか。
ならば、私達の活動は完結を迎えたのではないだろうか。なし得ることなど、それ以上はないのではないだろうか。そこまで考えて、天子はふと、ある疑問に思い至る。
不変の存在を見つけたとして、その先はどうなるのだろう。探し続けて来た物を手にいれて、その先は?
八雲藍が言ったように、世界は滅びつつある。けれど、天子達は妹紅のように自分から死を迎えない限り、そのまま生き続けることだろう。それなら、なにもかもが滅びた末に、その何ともわからぬ不変と永遠を過ごし続けるのだろうか?
否――と、天子は否定する。きっと、変わらぬ物を見つけたとき、自分達は変わるのだ。どんな形であれ、きっと。不尽の命など仮初めの不変にすぎない事は知っている。そのうえ天人の命は、死を受け入れないという精神、生きていたいという欲に裏打ちされたものだ。ならば、生きていたいという気持ちがなくなり、死すらも受け入れる気持ちになれば、自分の不変は変化を迎える筈だ。
そして、他の天人ならいざ知らず、歌と踊りばかりの暮らしにさえ飽きている自分では、例え不変のものが共にいたとしても、何もかもが滅んだ世界に流れる時間の中でいつまでも生き続けることができるとは、到底思えなかった。だからきっと、死を受け入れる日が来る。それこそがきっと、不変を見つけるその瞬間なのだ。
不変を見つけて始めて、自分達の不変は変わる。矛盾しているかもしれないが、きっとそうなのだろう。天子は、確信する。
それなら、と思う。既に不変を見つけたらしい輝夜は、もうすぐ変わってしまうのではないか。それに、妹紅が去った時にあれほど取り乱した彼女が、これから来るであろう永遠亭の兎達との別れに耐えられるとは思えなかった。恐らく、その時に輝夜は変わる。そして、それに従うと言っていた永琳も。二人は共に去っていくだろう。そこまで考えて、輝夜の永遠の正体に見当がついた気がした。同時にそれは確かに永遠で、 しかし自分にはないものだということにも。
輝夜達との別れは、刻々と近づいている。永遠のあとの答えを出してしまった天子には、そう思えてならなかった。
でも、自分はそれに付いていくことはないだろうとも思った。その時はまだ、不変を見つけられてはいないだろうから。
「どうしたのよ、天子」
「何か考え事?」
ボーッとしているようにでも見えたのだろうか。輝夜と永琳が、少し心配そうに声をかけてくる。
「いや、なんでもない。それにしてもあんたたちさぁ、もうちょっと場の空気ってもんを考えなさいよ。ベタベタベタベタ、見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
「あら、それは失礼しました。けど、これでも外じゃおさえてる方なのよ? 家じゃあもっともっと激しいわよね、輝夜?」
「へぇぇー?」
「ばっ、馬鹿、違う、違うから!」
赤面する輝夜をからかいながら、天子達は別の場所へと変化を探し、不変を求めに行く。例え自分一人になったとしても、この旅は不変を見つけられるまで終わることはない。だから、それまでの変化は見届け続けよう。天子は、そう心に決めた。
「で、次はどこいく?」
「うーん、地底とかどう? 貴方、行ったことないでしょう?」
「仙界はどうかしら。あれも不老不死を目指す人間の作った世界だし、なにか面白いものもあるかもしれないわ」
空を飛びながら、三人は行く先を話し合う。変わらぬものが見つからずとも、変わり行く素敵なものはあるに違いない。不変が見つかるまで、それも見届けたいと思う。
「じゃ、地底にしましょう! 急がないと日が暮れちゃうし、飛ばすわよ!」
「地底は日が暮れなくたって暗いんじゃないかしら」
「細かいことはいいのよ!」
「まぁまぁ永琳、この際だし、のんびり温泉旅行でもしましょうよ」
二人を置いて、加速する。地底も、仙界も、彼女にとっては未知の世界だ。幻想郷は、まだまだ私を飽きさせてくれそうにない。
そんな未知に心を踊らせ、まだ見ぬ不変を求め、天子は空を駆けた。
「はじめまして。お会いできて光栄です」
落ち着いた声と共に、愛飲している銘柄だという紅茶を勧められる。少女の周りには、古めかしい書物がうず高く積み上げられていた。
十三代目の御阿礼の子。彼女に会いに行こうというのは、天子の提案だった。
「はじめまして。それにしても、凄い数の資料ね。これ全部幻想郷縁起?」
「えぇ、歴代の私達の、記憶の結晶ですよ」
途方も無い努力ねぇ、と漏らす天子に、そうでしょうそうでしょう、と御阿礼の子は誇らしげに言った。
「見せて貰ってもいいかしら?」
「えぇ、勿論ですよ」
快く頷く御阿礼の子から、手近な一冊を受けとる。それは奇しくも、丁度彼女たちが幻想郷に初めて姿を現した頃の御阿礼の子、九代目阿礼乙女、稗田阿求が記した幻想郷縁起だった。
「それは九代目のものですね。それなら改訂版がいくつかありますから、お二人もどうですか?」
永琳と輝夜にも、別の縁起が手渡される。妖怪達とも、自分達のような人を超越した者達とも違う、人間の視点から描かれた、幻想郷。それがどんなものなのか、まるで宝箱を開けるような気持ちで、三人はそれぞれの縁起を開いた。
「懐かしい顔ぶれね」
ぽそりと、永琳が呟く。確かにその通りだった。
天子が読むのは、初版の縁起。まだ、花の異変の頃までの事しか書かれていないものだ。
まだ妖精だった頃のチルノ。
悪戯好きの妖精の中では珍しく、吉兆とされているリリーホワイト。
三人でつるんでは悪戯ばかりしていたサニーミルク、ルナチャイルド、スターサファイア。
剣を振り回すだのいきなり斬りつけてくるだのと色々と物騒な事を書かれている妖夢。
人間たちに評判がよく、ファンクラブもあったというルナサ、メルラン、リリカ。
恐ろしいのか間抜けなのかよくわからないルーミア。
寒がりな者たちにはちょっと敬遠されがちのレティ。
関係のない虫の被害まで擦り付けられているリグル。
妖怪なのに対策として普通の鳥と同じ鳥もちを推奨されているミスティア。
まともに門番をしている様子の報告が存在しない美鈴。
本当に妖怪だったのかとさえ疑われているメディスン。
過剰なまでに危険視されている幽香。
絶対的な存在として書かれている紫。
本人よりも人形の方が恐れられているアリス。
魔法使いらしい魔法使いと評価されているパチュリー。
まだ頼りなく、一介の妖獣に過ぎなかった橙。
尻尾について霊夢に興味を持たれている藍。
詳細な目撃報告例かもしれないものを妄言や夢と切り捨てられてしまっている鈴仙。
生きる上での幸運を得るために死ぬような思いをしなければ会えないという、矛盾した立場にあるてゐ。
まだ若く、授業の難解さを酷評されている慧音。
夜に活動すると書かれていながら昼の目撃報告例が真っ先にあげられているレミリア。
まだ引きこもりであり、表に出ている姉よりも危険とされるフランドール。
弱点になりかねない逸話を堂々と書かれている幽々子。
カフェでの読み物として新聞が人気だったという文。
やはり当時から宴好きだったらしい萃香。
阿求本人とは稀にしか会わないだろうにサボりを疑われている小町。
説教臭いと敬遠されている映姫。
これが書かれる頃には既に並みの人間ならば伝説になるような冒険をしていた霊夢。
努力家であることを評価されつつも泥棒稼業のことで一気に株を下げられてしまっている魔理沙。
長く壮大な過去話……と見せかけた阿求の想像話にその項の三分の一程を割かれてしまっている咲夜。
後に起きることなど想像すらされていないであろう、変人扱いの霖之助。
「あら、変な勘繰りをされてしまっていたようね。やっぱりちゃんとお金はとっておくべきだったかしら」
「私が琵琶法師の末裔ですって? 失礼しちゃうわー」
自分達の項目を見たらしい永琳と輝夜が、それぞれの感想を述べる。天子も、妹紅が忍者の末裔かもしれないというトンデモ説に思わず吹きだしてしまった。
阿求達の見てきた幻想郷は、実に楽しいものだったに違いない。そう思った。
一通り読み終わり、三人は自分達の持つ縁起を交換する。永琳の読んでいた二版の縁起には先程の項目に加え、守矢神社がここに移転してから起きた騒動に関わった者たちが紹介されていた。
初版では未確認とされていた項目も、その多くが埋まっている。八百万の神の項目には諏訪子、穣子、静葉、雛。付喪神として、小傘。河童の項目にはにとり。神霊には神奈子。仙人の項目には神子、青娥、布都が紹介されていた。勿論既存の項目にも変化があり、幽霊に村紗。妖怪にヤマメ、パルスィ、さとり、こいし、一輪、雲山、ぬえ、響子。魔法使いに白蓮、妖獣に燐、空、ナズーリン、星、マミゾウ。
亡霊に屠自古、鬼に勇儀、英雄には早苗が加えられている。しかしなぜか天子や衣玖の事は書かれておらず、輝夜の持っていた三版に華扇、はたてらと共にようやく載せられていた。その事を問うと、九代目はあなたの起こした地震が怖かったと遺書に書いていたから、ちょっと恨まれていたのだろうと言われてしまい、なんだか妙な気分になってしまった。
「……懐かしいわね。あの頃は、みんな居たのよね」
ぽつりと、輝夜が感慨深そうに呟く。
「そうね、確かに、幻想郷にいた。そして今でも、こうして歴史に刻まれている」
輝夜の言う通りだと、天子は強く肯定した。みんな、確かにそこにいたのだ。 往時の姿を模した阿求自筆の画と共に、彼女たちは皆、確かにその存在を刻まれている。
けれど。
「一体、どれくらい今の幻想郷に残っているのかしらね」
永琳が目を伏せながら言った。妖怪たちは、この世界からさえも消えつつある。六十年前の藍の危惧が、現実になり始めているのだ。
人が妖怪を恐れ、神を敬うことは殆どなくなってしまい、その為人の恐怖や信仰心を糧とする妖怪達や神々は日に日にその力を弱めている。それだけではない。恐れることも信ずる必要もないと知った人間たちは、妖怪や神の存在を否定し始めたのだ。物が豊かになる代わりに、人は心の豊かさを失ってしまった。
「スペルカードルールが撤廃されて、もう二十年。妖怪は酷く弱体化し、博麗の巫女も、今や結界を繋ぎ止めるだけの形骸化した役割の人柱に過ぎなくなってしまいました」
御阿礼の子の言う通り、今の幻想郷の妖怪にはもう、異変を起こすほどの力は残されていないし、巫女も不思議な力を使えなくなっていた。だから、スペルカードルールは機能しなくなり、いつしか撤廃されてしまった。今や、弾幕ごっこを知るものすら人間の中には殆どいない。
つまらない、味気のない世界になってしまったと天子は思う。
「…………」
振り向くと、輝夜が俯いて唇を噛んでいた。無理もないだろう、何しろ彼女と永琳には、共に暮らす妖怪兎がいるのだから。妖怪達が衰弱してゆく様を、誰よりも身近に見ているのだから。輝夜の哀しみは予想してはいたことだが、いざ目の当たりにすると天子も少し辛くなってしまった。
「……時の流れと言うものは、本当に残酷なものですね」
ぽつりと、誰に言うでもなく御阿礼の子が呟く。約百年おきにしか転生できず、生まれ変わる度に違う世界で過ごすことを宿命付けられてきた少女の言葉は、凄まじい重みを含んでいた。
「この幻想郷縁起も、長い長い時の中で変化を繰り返してきたのですよ」
うず高く積み上げられた縁起、歴代の御阿礼の子達がその生涯をかけて紡いできた歴史の山を愛おしそうに撫でながら、少女は言った。
「始まりは、幻想郷に住まう妖怪達に人間が対抗するための方法を記したものに過ぎませんでした」
原初、妖怪は人を襲って喰らい、恐怖させた。そして人は様々な計略を駆使し、妖怪に対抗し、退治してきた。それが本来の、人妖の関係であった。
「そんな関係は、八代目の頃、大結界がこの地を他から隔絶する頃まで続きました」
そうして人の数に限りができ、スペルカードルールが確立されて、人妖の関係は大幅に変わったと、少女は言った。
「九代目の頃には、人と妖怪は争いあうだけの関係ではなく、良き隣人としての関係ももつようになりした。それを受け、幻想郷縁起もただ妖怪への対抗法を書くのではなく、人となりを紹介し、友好的な関係を築く方法を書くものへと変化しました」
共に遊び、語り合い、酒を酌み交わす。人は襲われ、妖怪は退治されるという根本的な部分こそそのままだが、朋友としての側面を持つようになったのだ。
「九代目は縁起の最後の独白で、自分のいる絶妙な距離感を保っているその時代こそが人妖にとって最高の時代だと述べていました。彼女の手記は、実に希望に満ちていた」
その通りだと、天子は思った。馴れ合いすぎることはないが、過剰に恐れることもない。その絶妙な均衡こそが、人妖が共存できた由縁なのだから。
「けれど、そんな均衡も、今となっては崩れてしまった。人間が自ら崩してしまったのです」
御阿礼の子は悲しそうに微笑む。記憶を薄れさせながらも、空白を明けながらも見てきたこの世界がこのような変化を迎えてしまったことを嘆いているようだった。
「何れ幻想郷縁起の在り方を考え直さなくてはならないとも、九代目は記していました。でも、もうそんな必要はないでしょう」
妖怪を否定した世界において、幻想郷縁起はその立場を変えていた。人ならざる者達の存在を刻んだそれは、人にとって稀少な歴史書から、ありふれた娯楽本の一つにすぎなくなっていたのだ。ならばもう、この書の存在意義など。
「……実は先日、閻魔様に最後のお願いをしてきた所なんです。人並みの時間を、過ごせるように」
長きに渡る御阿礼の子の役目は、終わりを迎える。だから最後くらい――そんなささやかな願いを、この少女は抱いたのだ。
「幸せ、だった?」
思わず、天子は聞いていた。紡いできた歴史を虚構であると否定されることは、幾度となく転生を繰り返してきた彼女達の存在を否定されることと同義だ。そんな残酷な世界を、受け入れられるのか。
「勿論ですよ。私は、私達は間違いなく幸せでした。それに今日、あなた達が来てくれたおかげで、これまで記し続けてきた歴史が、真実だって確認できましたから」
力強く答え、もう少し欲を言うなら、妖怪達と共に時を過ごしたり、弾幕ごっこをしてみたかったですが、なんて冗談めかして、最後の御阿礼の子はもう一度微笑んだ。その笑みには、先程の寂しげなそれとは違い、天子が今まで見続けてきた者達と同じ、輝くような喜びと、全てを受け入れた穏やかさがあった。
「よかった。それなら、いいの」
それならば、もう心配はない。天子は安堵し、笑顔を返した。
「これからも、幸せにね」
「人生、精一杯謳歌しなさいよ?」
「よかったら、いつでも永遠亭へ来なさいな。月の事とか、色々教えてあげるわ。月には私の弟子の姉妹とか、あなたの知らない神々が沢山いるから、きっと気に入って貰えると思うわ」
「はい! また、会いましょう!」
笑顔で見送られ、三人は稗田の屋敷を後にする。
「幸せに、か。人の幸せって、どんなものなのかしら?」
初めて過ごす人並みの人生を、彼女はどうやって送るのだろうか。普通に恋愛をして、愛しい人と結ばれて子を為して、やがて次の世代へとあの偉大な歴史書を受け継いで安らかな眠りにつくのだろうか。そんな月並みな想像しかできなかったけれど、今までの彼女達にはできなかったことだろうから。
「どんな平凡も、これからのあの子にとっては初体験の、魅力的な刺激になるのでしょうね」
隣を歩く輝夜が、少し羨ましそうに言った。そうだ、人としての平凡を、今日に至るまであの少女は経験していない。それならば、きっと平凡さえ素敵な変化として彼女の目に映る事だろう。
どうか、素晴らしき一生を。天子達は、長き旅を続けてきた少女の、最後の生の手向けにと、そう祈った。
しんしんと降りしきる冷たい光が、静かに竹林を照らす。今宵は満月。中秋には早すぎるけれど、十二分に名月だと天子は思った。
一人縁側に腰掛け、手にした盃に月を映す。少しだけ波打つ酒に、月はゆらゆらと揺れた。
「飲まないの?」
後ろから、涼やかな声がかけられる。輝夜だった。
「ん、あんまり綺麗な水月だから、少し勿体無いかなって」
「そう」
盃に映る水月を見つめたまま天子が言うと、輝夜は隣にやってきて、腰を降ろす。
「永琳は?」
「向こうで、準備してる」
「そっか」
他には誰もいない永遠亭の縁側に、二人の静かな声だけが響く。かつててゐを筆頭に奔放に暴れまわっては大騒ぎしていた地上の兎も、それを追いかけては頭を悩ませていた鈴仙も、今や誰も残っていない。妖怪達は皆、既にこの世界から消えてしまっていた。
「ねぇ」
「な、なに?」
ずい、と輝夜が身を寄せてくる。月光に照らされ、白磁のように白く輝く彼女の顔は、この世のものとは思えぬ程に美しい。そんな彼女が、なぜだかとても尊いものに見えて、天子は気恥ずかしくなって直視できず、前を向いたまま返事をする。
「本当に、あなたは一緒に来ないの?」
輝夜は無防備に、ともすれば口付けしてしまうのではないかと思えるほどに天子の耳元に顔を近付け、囁く。その声音には、誘惑するような甘い願望が籠っていた。ますます気恥ずかしくなって天子は少し頬を染め、少しだけ輝夜を恨んだ。そんな風に誘われてしまったら、決意が揺らいでしまいそうだから。
「……魅力的なお誘い、ありがとう。とても嬉しいわ。……でも、駄目よ。だってまだ、私は永遠を見つけられていないから」
ぐい、と水月を一息に飲み干して気持ちを落ち着け、向き直る。そして、天子は静かに、けれどはっきりと答える。大丈夫、もう、揺らぐことはない。そんな確固とした意思を宿した彼女の瞳を見て、輝夜は目を見開いた後にふっ、っと小さく息をはき、
「……あなたと妹紅だけは、本当に思い通りにならないのね。他は全て、望むままだったのに」
と言っておかしそうに、けれど寂しそうに微笑んだ。
「望月の欠けたることも、って? ふふふ、ずっと満月じゃつまらないでしょ? 月は満ち欠けするからこそ美しいのよ」
天子も、笑いながら軽口を叩く。本音を言えば、私だって寂しい。別れを惜しむのなんて当たり前だ。誘いに乗って、ついていきたい、とさえ思う。けれど、それでは駄目なのだ。これは、私が決めたことだから。その決意に、揺るぎはない。そんな思いを告げるために、彼女は続ける。
「私はね、私なりの不変を見つけるまで、変わっていく世界を見続けるって決めたの。だから、それまでに去っていってしまうものも見届ける。あんた達のことだって、ちゃんと私が見送ってあげる」
それじゃあ、と、輝夜が、心配そうな声をあげる。全てが去り過ぎたあとの世界で、誰が貴方を見送るというのだと、天子を見つめて言った。
「心配いらない。その時は、私の見つけた変わらないものが私を見届けてくれるわ。というか、見届けさせる」
だから、これからの不変を探す楽しみは独り占めよだなんて、安心させるようにふざけて笑ってみせた。
「そう……強いのね」
輝夜には、天子の強さが眩しく見えた。それは、彼女が持たない強さだったから。果てがあるかさえも分からない世界を一人で見届けるなど、自分には耐えられないと思ったのだ。
「輝夜」
永琳が、二人のもとへやって来る。別れの準備ができたことを、告げに来る。
「わかった。じゃあ、今度は私が向こうに行って待ってるから、二人でゆっくり話しなさいな」
今はまだ、時間がいくらでもあるのだから。
「ありがとう、そうさせてもらうわ」
永琳の答えに満足気に頷き、輝夜は用意が整えられた自分の部屋へ向かう。そして、最後に思い出したように振り向いて、
「あ、でも永琳、口説いたって無駄よ? 私、振られちゃったもの」
と、いつもの調子で言った。本当にいつもと変わらない、暢気な彼女であり続けた。苦笑しながらその後ろ姿を見送り、永琳は天子に向き直る。
「輝夜の誘いを断るなんて罪な天人ね」
「残念、私が恋してるのは永遠よ。それに、あの子には先約があるしね」
「あら、そんなのがいるの? 誰かしら」
わかってるくせに、と惚ける永琳を、輝夜の見つけた永遠を、軽くつつく。くすくすと、永琳はおかしそうに笑い、それから、遠い目で月を見上げた。
「……今が夢なんじゃないかって、思う事があるの。目が覚めたら、ずっと昔に戻っているんじゃないかって、思ったりするの」
彼女らしくない願望だと、天子は思った。それは永琳自身も思っているらしく、そんなはずはないのにね、と寂しげに呟く。恐らく彼女も、共に暮らしていた兎達との別れは、辛かったのだろう。そして、天才と持て囃されながらなにもできずにいた自分に、無力さを覚えたのだろう。だから、そんな幻想を抱いている。
「いいんじゃない、そんな夢も。だってここは、幻想の集う郷だもの」
夢であるように。それも悪くないではないかと、天子は、彼女の夢をごく真面目に肯定する。
「そうね。……ここは、そういうところだものね。らしくない夢を、抱いてもいいのよね」
「勿論よ。それに、元を正せば貴方達は月におわす高貴な神々じゃない。神様なら、それくらい大きな夢を見なきゃ」
そうだ、彼女達は、今や信仰心さえ失われた地上に、唯一残った神々なのだ。
「神々、か。そうだったわね。遠い遠い、昔の話だけれど」
だから、蓬莱の呪いを解いた時、彼女達は。その先は、二人ともなにも言わなかった。
「天子」
その代わりとでも言わんばかりに、永琳は天子に背中から抱きつく。神ではなく、人としての温もりが、背中越しに天子へと伝わる。
「ありがとう」
これまでの全てに。そんな思いを込めた一言が、囁かれる。天子は、答える代わりに永琳の手を少しだけ強く握った。
「……さぁ、もう行きなさい。貴方の永遠が、待ちくたびれてるわ」
「えぇ」
最後にぎゅっと、痛いほどに天子の体を抱き締め、永琳は去っていく。天子は振り返らぬまま、酒を満たした盃にもう一度水月を映す。
遠ざかっていく気配を感じながら、二つの美しい月を見比べる。一人きりの、月見酒だ。
永琳と輝夜の気配が一ヶ所に集まるのを感じて、天子は目の高さまで盃をあげた。天地に輝く二つの月が、重なりあう。
音も声も、前触れすらもなく、二つの気配が消える。天子は盃を置き、緋想の剣に集めた気質で雨雲を生み、月を隠した。
満月は雨月へ。消えてしまった二つの月に思いを馳せ、天子は一人、雨に濡れた。
「この場所なら、幻想郷の彼方まで一望できる」
かつて共にこの場所に立った少女が、そう言っていたのを思い出す。けれど、そんな少女が素敵だと言った景色は最早、その面影さえ残っていない。
深緑の森も竹林の迷宮もその身を大いに小さくし、内外から拡げられた茫漠たる灰色が広がるばかり。山の湖と海の存在から不要とされた霧に満ちていた湖は、その中心に称えていた凍土諸共姿を消して爆発的に増えた人間達を養う為の田畑へと変わり、その畔に佇んでいた紅い館も住む者が居なくなったことで朽ちている。神々の技術を誇示していた核熱の巨人も地に沈み、生命に満ちていた海は岸辺を無機質な灰色の壁で固められている。哀れな末路を辿った外からの迷い人を弔っていた塚も向日葵の咲き乱れる丘も削られ、或いは切り崩されてその姿を消していた。
人によって管理され尽くしたその姿は、かつての外の世界によく似ていると、分かるものが見ればきっと目を丸くしたことだろう。
人はこれを進歩なのだという。けれど、かつてこの地に住んでいた幻想の存在達はきっと、これを荒廃だと呼んだだろう。そんな世界を、彼女は一人、見渡していた。
人々はもう、何も恐れなくなっていた。宵闇は人を喰らわず、溶けぬ氷はなく、道に迷うのは誰かの悪戯などではなく不注意のせい。人の血を啜る悪魔もその従者達も存在しない。
冬の寒気は気象の変化によるもので、人語を話す獣などいるはずはなく、魔法等と言う不可思議な力も存在せず、人が死後に行くところなどない。境界を操り、全てを隔て、交わらせてきた賢者も、消えてしまった。
蟲を束ねるものも夜目を眩ます雀もいなければ、月から来た兎や人など竹林に住んではいない。
天子が今こうして頂上に立つ峻険には住まうものなどいないのだから、人々が信じ仰ぐべきものなどありはしない。
死して行く場所が無いのなら、地底にはかつて地上を震撼させた百鬼夜行の猛者の住まう都などなく土が埋まっているだけ。
棄てられた傘はただ朽ち行くのみであり、山彦は残響に過ぎず、居もしない人ならざる者を救う寺も忘れ去られ、祭る神もいない。
死体が動く事はないし、偉大なる徳を持っていた聖人もそれに仕えていた者も古代の人々が生み出した偶像にすぎず、この世の何処にもいるわけがない。
それと同時に、そんな人ならざる者達と人間がかつて繰り広げた美しくも苛烈な戦いを刻んだ歴史も、それを正しく紡ぎ続けてきた者がいなくなったことで、今では偉大な、けれどありふれたお伽噺に過ぎなくなっていた。
運命を見る幼き悪魔が太陽の昇る昼の世界さえ我が物にせんと生み出した、世界を覆い尽くす紅き霧も。
忘れ去られた悲劇を秘めた咲かぬ桜の開花を望む死の亡霊が呼んだ、全てを凍てつかせる長き冬も。
酒好きな鬼が朋友との再会を夢見て萃めた、幾度となく繰り返し続けようとも冷めることのない宴の熱気も。
逃避の末に手に入れた安息を守ろうとする尊き国の民と力の根源を奪われる事を恐れた妖魔達がそれぞれの思惑の元に創り出した、贋作の月と紛い物の永遠の夜も。
廻り続ける時の流れの中で回帰した魂達が流れ込み、多くの者が浮かれ騒ぐ、六十年おきの花の怪奇も。
再起を図りこの地へと来た神が信仰の在るべき姿を説いた、新たなる騒動の幕開けを告げた一迅の新風も。
他ならぬ彼女が退屈しのぎと新たなる世界を求めて起こした、世界を揺るがす未曾有の危機を秘めた緋色の雲も。
かつて敗れ去った尊き国へのささやかな復讐を望んだ妖怪と、それに踊らされた者達の、かくも儚く、穢れなき戦いも。
身に過ぎた力を得て思い上がった友を止めるべく身を挺した火車によって起きた、地の上も底も巻き込んだ怨霊騒ぎも。
恩に報わんと師を救うために集った妖怪達の魔界への決死行が巻き起こした、空を行く宝船の冒険譚も。
偉大なる聖人の復活に呼応し、望みを聞き届けて貰わんとこの世に姿を現した、欲望の具現たる無数の神霊も。
太古の道具に宿った付喪神の感情を司る面が失われて起きた、人々の感情の暴走も。
天邪鬼の甘言に乗せられた英雄の末裔が解放を夢見て臨んだ、小さくも大いなる反逆も。
それらは皆、遥か時の果てに幻想へと追いやられてしまった。
もう人と人ならざる者達が織り成す、心踊る美しき軌跡は描かれることはない。
最早人知を越えた存在は居らず、それが望まれることもなくなってしまったから。
かつて妖魔が、神々が、人々が、そして彼女が恋焦がれ、愛してやまなかった素晴らしきこの世界は、それほどまでに味気なく、色褪せてしまっていた。
全ては、発展を象徴する灰色に染まってしまったから。
忘れ去られた幻想が行き着く郷。そこに住まう自分達もまた幻想の存在に過ぎないというのに。
人々はそれを否定し、忘却してしまった。
故に今、かつてこの地で暮らしていた『居もしない者達』の存在が確かなものだったのだと知っているのは、今こうして朽ち果てた岩山に佇み、今日に至るまでこの世界の行く末を見届けてきた彼女ただ一人。彼女の不変は、否定や忘却すらも曲げることは敵わない。
けれど、と彼女は以前から変わらず、思い続けていた。自分もまた、変わるときがくるのだと。きっとそれは、未だ見たことのない、変わらぬものを見つける時に――
ド、という音がして、世界が激動する。外の世界で朽ち果て、忘れ去られた灰色の濁流が、彼女の見渡す世界に押し寄せていた。
「嗚呼」
嘆息を漏らす。『外の世界は滅び始めている。それが現実となったとき、この世界は――』いつかまだ幻想が消え行く前、この地を世界から切り離した妖怪の式たる九尾が言っていた事を、彼女は思い出していた。
そして、それが今なのだと理解する。滅びを迎え、崩れ去り、認識する者のいなくなった現実が、幻想へと変わってこの世界へ押し寄せているのだ。
「嗚呼」
同時に、気がつく。自分の他に、今日まで不変であり続けた存在に。どうして今まで気が付かなかったのだろう。ずっと見てきていたというのに。
どうして気が付かなかったのだろう。例え人が、神々が、妖魔がその存在の在り方を変えようと、決して変わることはなかったというのに。
どうして気が付かなかったのだろう。例え世界から隔てられようと、例え共に歴史を刻んだ者が消えようと、いかなる存在が己の中へ流れ込み、そして消えていったとしても、決して拒むことなく全てを受け入れ、その果てを見届け、そして最期を見送って来た、気高くも残酷なあなたに。
「嗚呼……」
繁栄の頂点へ達した人里を、朽ち果てた紅い屋敷を、僅かに残った深緑の森と竹林の迷宮を、地に伏した核熱の巨人を、神々が住んでいた山を、封じられ、忘れ去られていた地の底への入り口を、楽園の要であった神の社を、見渡す限りの母なる大地を、かつて外の世界の繁栄の象徴であった灰色が呑み込んでゆく。
「嗚呼……!」
嗚咽にも似た声をあげ、空を見上げる。何処までも澄み渡っていた蒼天は今や、滅びゆく者達から溢れ出た気質によって生まれた、美しき極光の帯をその身に纏っていた。
言葉にならぬ想いを、緋想の剣に纏わせた自らの気質に委ねて空に解き放つ。今、私は、あなたがその手に抱き、見守ってきた世界の変化の行く末を見届けていると、ついに見つけた不変なるものへと伝える想いを。
楽園に住まう者達が迎える終末を見届ける。
しかしこれは、あなた――不変なる幻想郷そのものが内包してきた小さな変化に過ぎないのだ。幾度となく変化と繁栄、滅亡を繰り返し、そして再生する。幻想郷はこれからも、その行く末を見届け続けるのだろう。
ふわりと、この怒濤の如き終焉の中で吹きすさぶ風が、天子の帽子をさらってゆく。天上の果実を乗せた彼女の帽子は、未だ地上を駆け続ける灰色の濁流の中へと飲み込まれていった。
「嗚呼――」
ついに、自分にもその時が来たのだと悟る。それでいい。答えは得た。ならばもう、思い残す事などない。世界の終焉と共に訪れた自分の変化に、その身を委ねる。きっと今の自分は、遙か昔に去っていった者達と同じ顔をしているのだろう。
吹き荒れる風が、今度は彼女自身を持ち上げる。灰色の世界が遠ざかり、得も言われぬ程に美しき極光が近づいてくる。空など今まで数えきれない程に飛んできた筈なのに、この浮遊感は、かつて無いほどに心地よい。
死への苦痛は無い。
この世を去る事への悲しみも無い。
かと言って、何か喜びがあるわけでもない。
それはただただ穏やかで、安らかで。
まるで愛しいものの腕に抱かれるかのような心地よさに、全てを委ねる。
遙かなる天空へ。偉大なる大地へ。
不変を求め、幻想を見届け続けた彼女は、やっと見つけた決して変わらぬただ一つのものへと、その身を捧げた。
……眩しい!
閉じている筈の目に、光が差し込んでくる。ここは、どこなのだろう?
「……子、天子!」
彼女の耳に、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。呼んでいるのなら、答えなくては。なんとなくそう思い、彼女は目を開き、そして。
「……!?」
息をのみ、目を疑う。そんな筈はないと、否定する。けれど、目の前に広がっているのは。
「あ、起きた!」
飛び付かれる。呆けていた所にやられたので、天子はまた倒れてしまった。
「なにやってるのよ、驚いてるじゃない」
聞きなれた、しかし遠い昔に消えた筈の声が聞こえる。
「嘘、でも、どうして?」
訳も解らず、そんな言葉ばかりが飛び出す。
輝夜が、永琳が、そして妹紅とそれに寄り添う、在りし日の姿そのままの慧音が、そこにいた。それだけではない。彼女達の様子に気がついたらしい者達――妖精や妖怪達が、取り囲む様に輪を為していた。
「夢でも、見てるの?」
思わず呟く。だとすれば、覚めないでほしい。淡い希望と、気づいてしまった以上はもう覚めてしまうのだろうという諦観が、彼女の頭をよぎる。
「夢ではないわ。貴方は全てを受け入れて、確かに此岸を去った」
けれど、輪の中から飛び出した声が、天子の不安を拭い去る。
「循環し続けているように見える水の流れにも、それに交わらぬ淀みはある。変わり続ける物の中にも、変わらぬものは間違いなく存在する。以前、貴方にそう言ったわよね? ここは、その淀みよ」
聞き覚えのある声――八雲紫の声だ。その声と言葉を聞いて、天子はここがどこなのかを察した。
「さぁ、貴方も早く。宴会はもう、始まっているわ」
身を起こした輝夜が、天子の手を取り、走り出す。輪を為していた者達も、宴へともどっていく。いつも通りの幻想郷の姿が、そこにあった。
そこにもうひとつの変わらぬものを見つけて、天子は自然と笑っていた。そうだ、去って、それで終わりではないのだ。死や滅亡では、彼女達を変えることなど、できはしない。
人も妖も皆、在りし日の、幻想を駆けていた頃の少女の姿をしている。
霊夢達歴代の巫女が、自分に憧れて魔法の特訓をする子孫たちを霖之助と共に見守る魔理沙が、少しだけ成長したスカーレット姉妹に変わらず瀟洒に仕える咲夜が、明るい音色を奏でるプリズムリバー三姉妹が、ゆったりと座って酒を吞む紫の命で奔走する藍と橙が、幽々子に振り回される妖夢が、悪戯をするてゐとそれを追う鈴仙が、空を駆け回る文とはたてが、神遊びを楽しむ早苗たちが、陽気に酒を交わす地底の妖怪達が、騒ぎ回る鳥獣妓楽をたしなめる命蓮寺の妖怪達が、死後の世界を謳歌する神子や布都が、そして、そんな世界を見続け、自分達も交わる御阿礼の子達が。皆、変わらずにここにいる。
幾度となく滅び、生まれ、回帰して、幻想は再び世界へ還る。
宴は終わらない。盃を交わし、弾幕の花を咲かせ、笑いあう。例え存在する場所を変えようと、肉体が無くなってしまおうと、魂の在り方は変わらない。別れがなく、楽しみが潰えないのなら、腐り果てることもない。
「ほら、早く!」
いつしか先に行っていた輝夜達が、天子を呼ぶ。
「わかってる!」
永い永い旅路の果てに、ついに辿り着いた、変わらない、終わらない世界へ。
溢れんばかりの喜びと共に、天子は、駆け出した。
訝しげな声が、どこまでも広がる蒼空へと消えていく。
「えぇ。参加資格は不老不死であること。だから、それを満たしている貴方を招待しに来たのよ、比那名居天子さん」
天界に吹く強い風に長くきめ細やかな黒髪を靡かせて、蓬莱山輝夜と名乗った少女はにこやかにそう答えた。天子は彼女のことは伝聞でしか聞いたことはなかったが、月の禁忌である蓬莱の薬を飲み、天人とは異なる形で不尽の命を持つ存在だということは知っていた。
「……いや、意味がわからないんだけど。その、なんとかっていう会の目的は?」
しかし、天子にはその会とやらがなんであるのかも、わざわざこんなところまで来て自分を勧誘する理由も分からず、怪訝な顔で首を傾げる。勿論、行く末を見届ける、という言葉の意味は理解している。けれど、それをする目的がなんなのかは見当がつかなかった。
「読んで字のごとく、よ。私はもちろん、あなたも曲がりなりにも不死の人間でしょう? だからその無限の命を活用して、今日から幻想郷の未来、ひいては最期を見届けるの。これはその為の会」
「薬を使って不死になる方がよっぽど曲がってると思うけどね。……で、それをする事に何か意味はあるの?」
流麗な口調で語られる胡散臭い発言に少し警戒しながら、天子は眉根を寄せる。そんなことをして、一体何になるというのか。
「意味なんて無いわよ。ただの余興。無限の時間をただ腐らせるのも勿体無いから、有効活用しましょうってだけ」
「有効活用、ねぇ」
気のない風を装いながら、それとなく輝夜の気質を見る。何一つ乱れのない、静かな気質だった。嘘をついたり疑ったりしていれば、例え神であっても気質には大なり小なり乱れが生じる。それがないということはつまり、輝夜は嘘をついておらず、本気で余興に彼女を誘っているということを意味していた。
「それと、あと二つ活動目的があるわ」
「なに?」
ふたつ目はねぇ、と輝夜が大仰な動作で両の手を振るう。余程興味を引く自信でもあるのだろうか。
「変わらないものを探すこと、よ」
「変わらないもの?」
しかし、飛び出てきたのはまたも突拍子のない言葉。だが、逆に興味を少し引かれてしまった。しめた、といわんばかりの輝夜の顔が若干癪に触ったが、なにも言わずに続きを促す。それを受け、輝夜はもったいぶった口調で続けた。
「変わり続けていく世界をただただ眺め続けるだけっていうのも味気ないでしょう? だから、そんな変わり続けていく世界の中で、変わらないものを探すの」
「そんなもの、あるの?」
「あるかどうかわからないからこそ探すんじゃない。勿論、徒労に終わるかもしれない。けど、変わり行くものの中にも素敵なものはあるでしょう。それを見るのも悪くないんじゃないかしら? あ、ちなみにこれが三つめね」
どちらにせよ、幻想郷は発見に満ち満ちている、と輝夜は締めくくる。なんだか変わった少女だと感じた。不尽の命を持って永い永い時を生き続けてきたのならば、大抵の事には飽きている筈。だというのに、彼女の目はまるで幼子のように輝いていた。
「これは不尽の生命を持つ私たちだけに許された特権よ。つまり、この楽しみは私達だけのもの」
確かにそうだ。例え不変に見える物を見つけたとして、ただ長命なだけでは本当に不変であるかを確認することは出来ない。不変であるかどうかを確かめるには、それを見るもの達も同じく不変の生命でなくてはならないのだ。不尽の命を持つ彼女達にしかできないことであり、またそんな彼女達にだけ許された楽しみ。鬼にも、あのスキマ妖怪にもなし得ないこと。そんな響きに、心を惹かれた。
「いいわ。その話、のってあげましょう」
そんな言葉が、自然と口をついて出る。どの道、地獄からの刺客に殺されない限りは生き続けるのだ。時間は有り余っているのだから別に損をすることはないし、歌って踊るだけの天界暮らしよりも余程有意義だろう。
「決まりね。ようこそ、幻想郷の行く末を見届ける会へ。貴方は栄えある四番目の暇人よ。ちなみに会長は私」
輝夜は口の端を笑みにつり上げ、相変わらず芝居がかった口調で天子を歓迎する。天子は暇人って自分で言っちゃうのか、と呆れると同時に、輝夜の他にまだ二人も不死の人間がいるとは地上における不死の価値も安くなったものだと思った。
「それじゃ、他のメンバーを紹介するから、ついてきて頂戴」
輝夜に連れられ、天子は久方ぶりに地上へと降りていく。 やがて辿り着いたのは、迷いの竹林の中程にある小屋だった。ここが私達の本拠地よ、と輝夜は言った。
「戻ったわ。新しい会員よ」
小屋の中には、左右が青と赤で塗り分けられた特徴的な服を身に纏う銀髪の少女が座っていた。少女は天子の姿を見ると立ち上がり、笑顔を浮かべながら口を開く。
「ようこそ、幻想郷の行く末を見届ける会へ。私は八意永琳、この姫様の従者兼薬剤師をしているわ。よろしくね」
「あ、えっと、はい。私は天人の比那名居天子……です。よ、よろしく……」
丁寧に挨拶され、慌て天子も会釈を返す。何故だか、畏まってしまった。「姫様の我が儘に付き合わせてごめんなさいね」なんて言って輝夜に「自分の意思で入ってくれたのよ」と怒られるそんな彼女の物腰は柔らかだし、眼差しも優しいものだ。
が、隠しきれていないのか隠す気が無いのか。天子の眼は永琳の只者ならぬ雰囲気を見抜いていた。勿論、不老不死の時点で只者ではないのだが。とにかく、敵に回してはいけないと一目で思わせるなにかがあった。そんな彼女の様子を見て自慢の従者が一目置かれていることを察したらしく、輝夜は得意気に鼻をならす。
「ところで、後一人は? 私を入れて四人いるって聞いたんだけど」
ふと、そんなことを思い出して問う。小屋の中には永琳以外にはいないように見えたのだ。
「あら、ずっとそこにいるわよ?」
「え? ……あ」
永琳の言葉に呼応するかのように呻き声が聞こえる。キョロキョロと辺りを見回すと、簀巻きにされた白髪の少女が怒りの表情でもがいているのを見つけた。
それを見た輝夜はおかしそうに笑いながら、それがこの会の最後のメンバー、藤原妹紅よと言って、妹紅に咬ませていた猿轡を外す。天子は呆気に取られたままそれを見ていた。
「……藤原妹紅。よろしく」
「よ、よろしく」
簀巻きにされたままの妹紅が、仏頂面で口を開く。挨拶を返した後、どうしてそんなことになっているのかと尋ねると、妹紅は「そういう趣味よ」と口を挟んできた輝夜を燃やして(といっても、永琳があらかじめ準備していたらしい水をぶっかけたのですぐに火は消えたが)から、さっき殺し合いに負けたからだと忌々しげに言った。
「さて、メンバーも揃った事だし、我が幻想郷の行く末を見届ける会の記念すべき第一回目の活動といこうじゃないの」
そんな事は気にも止めない輝夜は、かつて多くの貴公子達が魅了されてやまず、しかし誰一人として手にすることの叶わなかったという淡雪の如く白い素肌を恥ずかしげもなく晒して濡れた衣服を着替えながら、手を叩く。
「我が、って私はまだあんたの下についた覚えはないんだけど」
「多数決で負けたじゃない、一票差で」
噛みつく妹紅を、輝夜は涼しい顔であしらう。一票とは恐らく、彼女の隣で粛々と出かける準備をしている永琳のものなのだろう。これに関しては妹紅に勝ち目はないんだろうな、と天子は思った。
「この場所なら、幻想郷の彼方まで一望できるわ」
妖怪の山の山頂。ここが記念すべき第一回目の活動場所だと輝夜は言った。
「すっごい見られてるんだけど」
「あらやだ、私の美貌もまだまだ捨てたもんじゃないのかも」
じっ、とこちらを見ている白狼天狗に笑いかけたり、ポーズをとったりしてみせる輝夜。天狗達が向ける視線は明らかに不審な侵入者を警戒する者のそれなのだが、知ってて挑発しているのか、それとも本当に天然なのか。どちらにせよ、マイペースなのだろう。
かく言う天子も、別に天狗を恐れている訳ではない。天子自身は勿論輝夜達三人も相当な実力があるのは分かっていたし、何より不老不死だ。天狗が束になってかかってきたとしても、突破することもそうは難しくない。
そして、相対する天狗達も彼女達を追い払うのは容易ではないことを心得ているのか、とりあえず山に害をなさないよう監視しているだけのようだった。
「ほらほら、いつまで天狗とにらめっこしてるのよ。そんなことしに来た訳じゃないわよ」
「あ、ちょっと!」
「さぁ、永琳と妹紅もはやく!」
輝夜に引っ張られ、天子は崖の近くに立つ。そしてそこから見た世界に、小さく息を飲む。
見渡す限りの幻想の郷。今までにも遙か高みの天界から幾度となく見渡してきた筈の景色。それなのに、見下ろす場所が少し近くなるだけで、こうも違って見えるのか。千年近くもの間生きてきたというのに、今日に至るまでどうして気がつかなかったのだろうか。
先程出発した青々とした迷いの竹林に、そこよりも更に深い、雑じり気の無い緑色に満ちた魔法の森。霧に満たされた湖において、水に垂らした一滴の血のように紅く異彩を放つ紅魔館と、その近くで他のどこよりも賑やかな気質を出すプリズムリバー邸。
山に程近い場所で鎮座する非想天則。幻想郷随一の花見の名所と名高く、また彼女が起こした異変の全ての始まりでもある、桜が咲き誇る博麗神社。サボりがちな渡しを待つ魂が犇めく三途の川に、死に満ちた殺風景な無縁塚。少し顔をあげれば、冥界へと繋がる結界も見える。何故だろう、もう何度も見ているはずなのに、ここから見る世界は今までに見たことがないほど美しいと思えた。
「どう? 素敵だと思わない?」
隣に立った輝夜が囁く。それに答えず、天子はただただ目の前に広がる世界に見入っていた。
「お昼にしましょうか」
どれくらい、そうやって眺めていただろうか。妹紅と共に昼食の準備をしていた永琳が、二人を呼ぶ。
「なんというか、普通のピクニックね」
永琳が作ったのだという弁当を食べながら、天子は呟く。永琳の料理はいつか食べた紅魔館のメイド、十六夜咲夜の作る小洒落たそれとは違って素朴なものだったが、咲夜のそれと同じく、天界の料理より遥かに美味に感じた。
「それでいいのよ。最初から劇的な事をしたんじゃ、すぐに飽きちゃうわ。それに、これは見届ける会だもの。見ることに最大の意義があるの。腹が減っては見届けられぬ。腹ごしらえだって大切よ」
なによそれ、と天子が苦笑すると、輝夜は真面目な顔を作る。さっきも少し言ったが、永遠のない世界を、永遠の存在である自分達が見届けて記憶する。それは私達にしかできないことで、私達がするからこそ意義があるのだと、輝夜は語る。なるほど、以外と考えているのね、と感心していると。
「まぁ、今思い付いたんだけど」
途端におどけた表情になる。天子と、あぁ輝夜、立派に成長したのね、なんて感涙しそうになっていた永琳は思わずずっこけた。それを見て、輝夜はまたくすくすと笑った。
「……あら妹紅、どうしたのよ、さっきからだんまりで」
ふと、山についてから殆ど黙ったままの妹紅に、輝夜が声をかける。食事にも殆ど手をつけずにぼうっとしていた妹紅は、数拍おいてから反応した。
「ん? ……いや、あっさり登っちゃったなぁ、なんて思ってね」
「?」
妹紅の言葉に、三人はそろって首を傾げる。それはそうだろう、何しろ空を飛んでここまでやってきたのだから。だから大して疲労もしていない。そんな当たり前の事が、一体どうしたというのだろうか。しかし、妹紅はなんでもないよ、と言って唐揚げの最後の一個をつまみ上げて口に放り込む。
「あ、それ私の!」
「なにを言っているのやら、口にしなければ誰のものでもないに決まってるでしょ? あー美味しい、最高だわ」
それを合図に、輝夜と妹紅が争い始める。そんなささいな事から始まった二人の戦いは、やがて山の妖怪達までもが出張ってくる大騒ぎに発展した。
妖怪の山の山頂で盛大に殺し合う二人を、これはスクープだとカメラを構える天狗達ややれそこだ、やれ右にかわせなどと無責任に野次る河童達の輪の中で取り押さえながら、天子と永琳は思わず顔を見合わせて苦笑いする。
幻想郷の行く末を見届ける会。その記念すべき第一回目の活動は、波乱の末の記念撮影で幕を降ろした。
六十年後。
波乱の内に幕を降ろした第一回目の活動から、かれこれ六十年。ちょうどその年に生まれた人間にとっては還暦を迎える年であり、妖怪にとっては記憶が一巡する年である。活動時期がもう少し早ければ、外の世界で爆発的に増加した幽霊達が幻想郷に押し寄せていたことだろう。そんな、全てが変化を迎える節目の年を基本の活動年にしようというのは、永琳の意見だった。
人間の会ならば一年の空白期間でも長いだろうが、不老不死である彼女達にとっては逆にそれでは短かすぎる。同じ時間を過ごそうとも、彼女達が感じる感覚は、人間のそれとは遥かに異なるのだ。
六十年前はまだまだ新参者だった天子も、今となってはすっかり幻想郷の馴染みの顔になり、様々な人妖と知り合いになっていた。どこか閉鎖的な印象を受けていた竹林の住人達もまた、人里の人間達との関わりをより深めている。不変の存在であったとしても、外と関わりを持つ以上はその周囲の環境は不変ではないのだと知った。
そんな彼女達の二度目の活動場所は、博麗神社。六十年前と同じく桜の咲き乱れ、幻想郷随一の花見の名所であり続けているここでは、新たな博麗の巫女の任命式が執り行われていた。
その式を仕切るのは、最近更に姿を見せなくなった幻想郷の賢者、八雲紫と先代の博麗の巫女、そして存命する歴代巫女の中では最古参の、博麗霊夢である。
四、五十年程前に引退して人里に隠居した彼女は、今では生ける伝説として語り継がれていた。スペルカードルールを発案し、またそれを用いて史上最も多くの異変を解決してきた天才。もう八十近い彼女の英雄譚は、同じく数々の異変を解決してきたもう一人の英雄、霧雨魔理沙と同じく本となって人里に出回っていた。それを読んで、霊夢が異変の解決に見返りを求めず清貧であり続けたとか、魔理沙は異変解決の為に日々飽くなき研究をしていたなんて記述を見た際にはあの怠けた巫女や泥棒三昧の魔法使いがここまで美化されるのかと笑い転げ、同時に時間の流れを実感したものである。
神社にはその二人以外にも見知った顔ぶれが大勢集まり、騒いでいた。吸血鬼に亡霊嬢、山の風神に里の寺の住職、仙界の聖人といった各勢力の代表を始め、人形使いや天狗に河童、向日葵の妖怪や毒人形、更には彼岸の閻魔までもが式を見守っているたし、少し離れた場所では、鬼達と地底の地獄烏、そして妖精達が祝い酒と称して楽しげに盃を交わしている。皆、異変という形で霊夢と関わってきた者達だ。
恐らく、彼女達は次代の巫女ではなく霊夢を見にきたのだろう。何物にも染まらずに全てを平等に受け入れ、しかしその全てから独立した立場をとる不思議な巫女など、今日に至るまで彼女一人である。けれど、そんな彼女も寄る年波には勝てないのか日に日に弱っていると言う話であった。それを心配するものは多く、天子もその一人である。
「にしても、お祭りじゃあるまいし騒ぎすぎよねぇ」
神聖な儀式の場にも関わらず騒ぐ妖怪達を見てそんなことを天子が言うと、隣に立つ永琳がそうね、と苦笑する。妖怪達は、相変わらず好き勝手な連中だった。まぁ流石に、六十年程度では妖怪や幻想郷そのものにさしたる変化はないというのはわかっていたことなのだが。それでも敢えて変化と呼べるものを上げるならば、十年ほど前に外の忘れられた建造物が幾つか流れ込んできた事くらいだろうか。今ではそれも妖精の住み処となって自然に溢れ、すっかり幻想郷の風景の一部となっている。
しかし、六十年という歳月は、人間達には様々な変化をもたらしていた。外見一つとっても、霊夢をはじめ純粋な人間達は年老いて往時の面影を残している程度で、随分変わってしまっている。そして何より、集まった霊夢に縁のある者の中で二人ほどこの場にいないものがいるのだ。
一人は九代目の御阿礼の子、稗田阿求。彼女は丁度霊夢が引退して次代の巫女に代替わりした頃に寿命が尽き、今は閻魔の元で転生を待つ身である。天子自身も数える程しか会ったことはないが、次代の阿礼乙女に会うことがあれば、同じく幻想郷を見届ける者として話をしてみたいと思っていた。
そして、もう一人は、霧雨魔理沙。不老不死にとりわけ強い興味を持ち、魔法、薬、道教とそれに至るためのあらゆる研究をしていた筈の彼女が最後に選んだのは、拍子抜けする程平凡な人生だった。勘当された実家の父が急逝し、店の跡継ぎとなるよう懇願された彼女は、葛藤の末に里一番の大店を受け継いだ。
そして、かつてその店で働いていた半妖の青年と結ばれ、その後は良き妻、良き母として子や孫達に囲まれて波乱に満ちたその一生を終えたという。
彼女の結婚式に招かれた際、今までの霧雨魔理沙とは一体なんだったのかと思うほど貞淑な女性となった彼女を見て周りの出席者共々目を丸くしたことを、天子は今でもはっきりと覚えている。
そして、そんな彼女が幸せの内に天寿を全うし、棺に納められて火炉の中へと消えていく姿と、それが今まで不老不死の存在しか周りにいなかった自分にとって、始めての親しい者との永い別れであったことも、よく覚えていた。
「これより、新たなる博麗の巫女の任命の儀を執り行う」
幻想郷の創世以来、ずっと巫女の移り変わりを見届けて来たという紫が、普段出さないような厳かな声で儀式の始まりを告げたことで、天子は感傷から引き戻される。同時に、周囲の騒ぎ声もぴたりと止んだ。
幻想郷に住まう猛者達の視線を欠片も動じず受け止めるその姿は、普段の胡散臭さなど微塵も感じさせず、いかにも長い時を生きてきた妖怪の重鎮と言った様相を表していた。普段の姿を見慣れている者の目にはその姿が逆に滑稽にも映るが、しかし一人としてそれを茶化す者はいない。酒を飲んで騒いでいた連中でさえ、盃を傾ける手を休めて静かに紫の声に耳を傾けていた。
新たな巫女に選ばれた小柄な少女もまた、緊張で顔を真っ赤にしながら紫の言葉を聞いている。
紫が新たな博麗の巫女として見出した少女が如何様な人間であるかを語る中でふと、その様子を先代の巫女と共に見守っている霊夢を見る。彼女は、天子が今までに見たことがない顔をしていた。勿論、長い年月と共に刻まれた皺だらけの顔を見るのは初めてだったとか、そういう話ではない。
新たに博麗の名を背負う少女へ向けるその表情が、今までに見たことがないものだったのだ。
それはまるで何かを悟ったような、吹っ切れたような、穏やかで優しい顔。四、五十年程前にあった先々代や、二十年前の先代の儀式の時は、あんな顔をしていなかった。それどころか、こいつで大丈夫なのか、とまだまだ未熟であった自らの後継達への不安感で一杯の顔をしていたように思う。けれど今の霊夢の表情は、それらとはかけ離れていた。
でも、もう長くない自分の命への諦観だとか、新たな巫女になる少女にかつての自分の姿を重ねて時の流れを実感して感傷に浸っている、という訳ではなさそうだ。なんというか、ただただ穏やかにありのままを受け入れている様に見える。不思議な表情だと、天子は思った。そして、そんな風に今までに見せた事のない顔をする霊夢が、今までよりもさらに遠くへ行ってしまったようにも思えた。
「霊夢、祝詞を」
紫が普段の口調に戻り、霊夢にバトンタッチする。博麗神社に存在しない神主の代わりとして静かに祝詞をあげ始めた霊夢から目を離し、天子はふと自分の辺りを見回す。大勢の妖怪達の間には、人間も何人か見受けられる。皆、妖怪達と同じく霊夢と関わってきた者達であり、霊夢と同じく年老いた姿に変わっていた。そんな彼女達と自分達人ならざる者達とを見比べると、やはり人間は余りにもその一生が短いのだと再確認してしまう。
妖怪や自分達は変わらないのに、人間達はすぐにその姿を変えていく。今目の前で貫禄たっぷりに祝詞をあげる霊夢も、老いて尚腰も曲がらず瀟洒に主の横で日傘をさす紅魔館のメイドも、今では売り上げをちょろまかすこともなく(その必要がなくなったこともあるが)一人で店を切り盛りするようになった、しょっちゅう妖怪騒ぎを起こしては霊夢に叱られていた貸本屋の娘も、次の幻想郷の行く末を見届ける会の活動をする頃には誰一人として残ってはいない。それは当たり前の事のはずなのに、何故か目頭が熱くなった。
「どうしたの?」
軽く目をおさえていると、永琳が声をかけてくる。なんでもない、と悟られぬように笑顔でおどけてみせる。
「それにしてもさ、霊夢ったらあんなにしわくちゃで、髪も真っ白になってさ。昔と変わらないとこなんてもう、あの頑固なくらいまっすぐな気質くらいしかないの。人間って、本当にすぐ変わっちゃうのね」
けれど、続けて口をついて出た言葉は、どこか切ない感傷を含んでいて。
祝詞をあげ終え、手近な椅子に座る霊夢。
続けて先代から博麗神社の御神体であり、同時に歴代の巫女と共に数々の妖怪を退治してきた陰陽玉を受け取ったことでこの儀式は終わりを迎える。
晴れて新しい巫女になった少女が真っ赤な顔のままぺこりと頭を下げると、観衆達から盛大な拍手が起きた。
そうして誰もが新たな巫女に注目する中、先代の巫女とともにそれを見守る霊夢の気質を覗く。
あの頃と何も変わらない、眩しい快晴だった。曲がらず、来るものは拒まず、去るものは追わない、なにもかもを受け入れながら決してなにものにも染まらない、どこまでも優しく、どこまでも残酷な気質。彼女はきっと、自分の死でさえも拒むことはないのだろう。
一通り新米巫女を弄った後、妖怪達がこぞって霊夢達に群がっていく。少し離れた場所で見ていた輝夜と合流し、その様子を遠巻きに眺めていると、やがてその中から妹紅が出てくる。妹紅は、壮年の女性と連れだっていた。特徴的な帽子を被っている彼女は、妹紅の無二の親友である人里の半獣、上白沢慧音だった。
「ごめん、遅れた」
「こらこら、謝る時はもっと誠実にしなきゃだめじゃないか」
大して悪びれる風でもない妹紅の頭を、慧音が無理矢理下げさせる。いいじゃん、ちょっと寝坊したくらい、とブー垂れる妹紅だが、慧音に睨まれると流石に不味いと思ったらしく、渋々自分から頭を下げた。
「怒られてるー」
「う、うるさいよ輝夜」
「いつまでも子供なんだから。私のようなお姉さんを見習いなさいな」
「ハッ、あんたみたいな我儘がお姉さんだなんて何の冗談? 笑わせるわ」
「あらあら、これはお仕置きが必要な様ね」
互いの下らない挑発に乗った二人が同時に掴みかかり、その騒ぎを聞き付けた霊夢に群がっていた者達が一斉に振り返る。しかし、争っているのがいつもの二人だと理解した瞬間、彼女達は二人を止めるどころか囃し立てて煽り、どっちが勝つか賭けまでやり始める者もいた。霊夢に至っては記念すべき初仕事よ、などと言って任命されたばかりの新人巫女をけしかける始末である。
「……変わらないな、あいつらは。こっちはどんどん変わっていくっていうのに」
呆れたような声を出しながら、慧音はこんなところでなにをやってると止めに入った映姫に叱られる二人の姿を見る。その眼差しには、どこか憧憬が混じっているように見えた。
「最近、貴方の話をよく聞くよ。一緒に幻想郷を見て回ってるんだって?」
不意に、慧音が向き直ってそんな言葉を口にした。教師という仕事柄か、張りがあってよく通る声をしている。
「えぇ、そうよ。楽しくやってるわ」
いつもあんな感じでやりあってるけどね、とついでに言ってやると、慧音はそうか、と苦笑して、
「あんなだけど、本当は良いやつなんだ。よろしく頼むよ」
なんて遺言めいた言葉を口にする。まるで保護者ね、と皮肉まじりに言うと、あいつの方がずっと年上なんだけどな、とまた笑い、未だ映姫に説教されている妹紅達を優しい目で見つめる。
その横顔は、どこか寂しげで。彼女はきっと、できることならずっと妹紅の親友として側にいてやりたいのだろう。けれど、それは出来ない。彼女の命は、永遠には余りに遠い。それを誰よりも理解しているから、あんなことを言ったのだろう。なんとなく、そう思った。
それと同時に、たとえどんなに生きる時間が違ってもそんな風に想ってくれる友人が妹紅にいることが、天子にはとても眩しく、羨ましく思えた。
六十年後。
六十年前は新人だった博麗の巫女も、今となってはあの時の霊夢と同じく隠居の身となって久しい。現在の博麗の巫女は、霊夢から数えて六代目である。時の流れとは早いもので、霊夢達の活躍を直接知る人間は、三十年程前に子供達の一人立ちを見届けて森に戻った霖之助を除けば、人里には一人しか残っていなかった。
幻想郷の行く末を見届ける会、ゲストを一人加えて行う第三回目の活動場所は、そのただ一人の当時を知る者の家だった。
「皆よく来てくれたな。それから、君は一応はじめましてなのかな」
車椅子に乗ったまま、慧音が長年の教師生活と老いによってすっかり嗄れた声で五人を迎え入れる。足腰も弱っていつ寝たきりになるともわからないそうだが、彼女は変わらず一人で暮らしている。
それを可能としている理由には、幻想郷の生活様式が変化したことも関係しているのだろう。外の世界で型落ちとなって忘れ去られた技術や物品が、人里で用いられるようになったのだ。慧音が座っている車椅子も、外の技術が用いられた電動で動く便利な品とのことだった。
しかし、自動車とかいう乗り物はどうにも普及していない。それというのも、それを使うには色々と手間がかかるわりに人里は狭いので使う意義が薄く、かといって里の外で使っても、舗装されていない道が多くて乗り心地が悪く、何より用事で数分も離れようものなら妖精の悪戯で使い物にならなくなってしまうからだ。これでは普及するはずもない。
自動車の他にも、列車とかいう、八雲紫が弾幕ごっこで時折使っていた長い金属の建物とも箱ともつかない形のものも外の世界から大量に流れ込んで来ているが、こちらはもっぱら妖精の住み処や妖怪達の即席の寝床として使われている。ほかにも、心なしか見かけない生き物が増えている気がする。永琳が言うには、外で絶滅した動物がここへ流れ着いたのだろうということだった。
幻想郷の在り方も段々変化してきている。けれど、妖怪と人間の関係は今までとさして変わらない。人里で用いられている電気は山の神が供給しているし、里の中では大人しい妖怪も一度里の外を出れば人間を襲う。 相変わらず、人間にとっての妖怪は『得体の知れない飲み仲間』であり、妖怪にとっての人間も『食料にもなる飲み仲間』なのだ。
天子は時々、そんな人妖の関係が変わらないものであるかもしれないと思うと同時に、そうでなければ何れはこの絶妙な関係も変わってしまうのかと考える事があった。
「は、ははは初めまして! き、今日は貴重なお時間を割いて頂き、真にきょうえいれす!」
あ、こいつ最後の最後で盛大に噛んだな、と誰もが分かるくらい情けない挨拶をした少女――十代目の阿礼乙女は、気心の知れた天子達とは違い、初対面となる慧音を前に緊張でガチガチに体を強ばらせて椅子に座る。まぁ、生ける伝説の最後の生き残りに会っているのだから無理もないか。
「ふふ、そんなに緊張しなくたって大丈夫だよ。けど、君の前世はもっと物怖じしない、歯に衣着せぬ物言いの毒舌家だったんだけどねぇ、転生と言っても人格は変わるものなのかな?」
どうにも気圧されている様子の少女の肩を、慧音が優しく叩いてやる。それで少しは緊張も解れたのか、リラックスした様子で息をつく御阿礼の子に満足気に頷いて、慧音は皺だらけになった顔をよりいっそうしわくちゃにして笑った。生涯を歴史の編纂に捧げ、引く手あまただったというのに結局独身を貫いた彼女のそんな姿は、まるで孫に接する祖母の様だった。
「さて、今日は異変の話を聞きたいそうだが……そうだな、まずはあの永い夜の異変の話をしようか。丁度当事者達がここにいるし」
慧音が少し意地悪な笑みを浮かべて五人を見やると、永琳と輝夜が少々罰が悪そうな顔になる。何故二人がそんな顔をするのか小声で妹紅に聞くと、その異変にはこの二人の勘違いが大いに関わっているからだ、と言われた。
「当事者って……あの異変は先代の縁起にも謎が多くて記録に遺せないとありましたが」
「あはは、そりゃあ謎だろう。なにしろあの異変を起こしたのは霊夢達の方なんだから。そんな都合の悪いこと、話す訳がないさ」
あの夜にあったもう一つの異変の当事者達が口々に、懐かしさに頬を弛めてあの夜の真相を語る。百余年越しに語られる真実に、天子は御阿礼の子共々目を丸くして聞き入っていた。
異変を解決する巫女が異変を起こすなんて、後にも先にもそれっきりだったという。あぁ、そんなに楽しい事があったのならもっと早くに地上に降りていればよかったのに、なんて百年越しの後悔をした。
また、その異変は輝夜達が竹林の外のもの達と関わるようになった切っ掛けでもあったのだそうだ。永遠に変わることがない筈だった彼女達は、その時から変わりはじめたのだという。
否、異変という形で外界と関わりを持った時点で、既に不変ではなかったのだろう。かつて、天子自身がそうであったように。
「……おっと、もうこんな時間か。そろそろ君は帰った方がいいだろう。続きはまた明日にでも」
永い夜の話を夢中になって聞くうちに、辺りも夜になってしまったらしい。濃紺に染まった空の下、御阿礼の子は新たな幻想郷の歴史を知ることができてよかったとしきりに頭を下げ、これだけでも転生した価値はある、と誇らしげな顔で帰って行った。
「……ふぅ、いつ以来だろう、こんなに喋ったのは。少し、疲れてしまった。年甲斐の無いことをしてしまったせいかな」
異変の当事者であり、また両方の異変の被害者として最も饒舌に語っていた慧音が、最近はすぐこうなってしまうな、と茶を飲みながら苦笑する。
「何言ってるのよ、まだまだ若いんだからもっと元気出さないと」
妹紅の言葉に、天子は思わず苦笑する。それはそうだろう、確かにこの五人の中では慧音が一番若い。だが、比較対象が酷すぎる。
「妹紅もブラックジョークを言うようになったんだな。悪くない、なかなかキレがいいじゃないか。しかし、時の流れは恐ろしいな。最近はめっきり衰えて、弾幕の一つも撃てなくなってしまった」
まぁ、今更弾幕をする機会もないんだけどな、と慧音は笑った。弾幕ごっこは少女の遊び。いつまでも変わらぬ姿で居続ける自分達とは違い、慧音や霊夢、魔理沙に咲夜と言った人間達は、大人になってしまうと自然に一線から退いていった。その理由は肉体的な問題も勿論あったのだろうが、何よりも少女達の遊びの中に年のいった自分達が混ざるのは場違いだと感じたのだろう。
長い時を生きる者達にとって、百年かそこらしか生きられない人間など死ぬまで小娘も同然だし、気にすることはないと思うのだが、だからといってそんな長命の者達の価値観を押し付けて身を退く事を責めるのは理不尽だということも理解している。だから、弾幕の名手であった彼女達の引退を惜しみこそすれどだれも引き留めはしなかった。
人間が人間である以上、いつまでも同じ時間を共有することは叶わないのだ。
「……私も、もうそろそろ潮時なのかもしれないな」
ぽつりと、慧音が漏らす。「縁起でもないこと言わないでよ」と妹紅が言うと曖昧に笑って見せたが、慧音はきっと、もうじき自分も霊夢達の元へ逝ってしまう事を自覚しているのだろう。
「もう、そういう洒落にならないジョークはやめてよ」
「ははは、すまない。けど、妹紅もさっき言ってたじゃないか、これでおあいこだ。なに、心配しなくても、まだまだ生きるよ」
むすっとする妹紅に小さく喉を鳴らしながら「じゃあ、長生きの為に今日はもう休むかな」なんて冗談めかして言う慧音の顔は、とても穏やかで。その顔は、どこか六十年前に見た霊夢のそれに似ていた。
「また会いに来るわ」
「養生しなさいよ?」
「わかってるさ。じゃあ妹紅、頼む」
「はいはい。じゃあね皆」
言葉少なに別れの挨拶を交わして、今回の活動はおしまい。妹紅がおどけた調子で語る他愛のない話にうん、うんと楽しそうに頷きながら奥へ消えていく慧音を永琳達と共に見送って、もしかすると、彼女が独身であり続けたのは少しでも長く妹紅と接していようとしていたからなのかもしれない、なんて考えが頭に浮かんだ。
半獣と言えども、所詮は人間より少し長い程度の寿命しか持たない。永遠を生きる妹紅と共に歩むには、彼女に許された時間は余りにも短すぎる。それでも尚、彼女は時間の許す限り妹紅と共にあろうとし続けている。百数十年変わらない友情。素敵なものだと素直に思えた。
そして、そんな友人がもしも自分にもいたのなら。なんて六十年前と同じ憧憬を抱いてしまう。何故だか、ちくりと胸が痛んだ。
六十年後。
「暑い! 五月蝿い! うっとおしい!」
桶に汲んだ水を溢さぬように運びながら、耐えきれずに天子は叫ぶ。それにしても嫌な三拍子である。勿論こんなことを言ったところでどうにもならないのは彼女だって理解している。それでも叫んでしまうのは、まだ春告精が出てきたばかりだというのに蝉達が七日間の儚い命を誇示せんとやかましく喚きたてているせいに違いない。
「うるさいのはあんたよ、天人は汗かかないんだからいいじゃない」
無いよりはまし、と扇子でぬるい風をおくりながら言う輝夜は、天子とは違い汗だくになっている。不尽の命を持つ蓬来人といえど人は人、代謝は勿論存在するわけで。それのない天子は同じ不死の身としてちょっぴり優越感を覚えてみたり。……もっとも、天人にとって汗、特に腋の下からの汗は五衰の一つ『腋下汗出』を意味しており、死に直結しているためそう暢気な話ではないのだが。
「汗かかなくたって暑いもんは暑いの。ねぇ、なんかこう、体を冷やす薬とかないの?」
しかし、それはそれ、これはこれ。暑いものは暑い。天才なんだからなんとかしなさいよ、と永琳をつつく。
「そうねぇ。えーと確かこの辺に……」
それを受けた永琳が帽子の中に手をいれてまさぐりだした。おまえどこに物を入れてるんだという妹紅のツッコミはさておき、流石は天才、話が分かると天子は期待を込めた眼差しで永琳を見つめる。やがて、一つの小瓶が出てきた。
「これなんかどうかしら」
小瓶の中にはドロリとした紫色の毒々しい色の薬が入っている。なんだか嫌な色だが、この際細かいことは抜きだ。
「どんな効果があるの?」
「暑さも寒さも痛みも感じなくなって、おまけにぐっすり眠れるわ。月の民でもイチコロよ」
「ごめんやっぱいいわ、そのまま起きれなさそうだし」
いかにも良さげに効能を謳っているがどう考えても毒のそれ。こいつ、肝をピンポイントで冷やしに来やがった。相変わらずの天災的な発想には脱帽である。なんて思う彼女の胸の内などつゆ知らず、永琳は「そう?」とだけ言って毒薬を帽子の中にしまう。どこまで本気なのやら。
「それにしても、暑いわね。いつになったら解決するのかしら?」
毒薬話など我関せずと狂い咲く桜の木の幹で狂ったように鳴く蝉を見ていた妹紅がぼやく。そう、これはただの異常気象ではなく、異変なのだ。その異変の発端は、春の訪れに浮かれきったミスティアの歌にある。
リリーホワイトの姿を見て頭の中が春満開になったこの夜雀は、よせばいいのに妖怪の山の近くでその自慢の歌声を余すことなく披露したのだ。そこまでならこれといって大したことでもないのだが、間の悪いことに神を宿す地底の地獄烏、霊烏路空がその歌声に反応してミスティアと出会ってしまったのだからさあ大変。
鳥頭同士通ずる所があったのか、二羽のお馬鹿はすぐに意気投合。なんかでかいことをやりましょうと二人して立ち上がり、結果はご覧の有り様である。蝉が満開の桜の木で鳴いているこの異様な光景も、夜雀の歌に煽動された妖精達が集めた夏度と、張り切って核融合しまくる地獄烏の余りの暑さに夏と勘違いしたものが出てきたためだ。
そして更に間の悪いことに、当代の博麗の巫女は『ポンコツ』として定評のあるへっぽこで、これが異変の長さにも拍車をかけている。なにしろこの巫女、道半ばで倒れ続けてかれこれ数十回も仕切り直しをしておきながら、一度たりとも異変の原因であるお空とミスティアに出会った試しがない。今朝がたも暑さにひいひい言いながら飛んでいくのが見えたが、あの様子では中間地点である霧の湖のチルノの所へすら辿り着けないだろうと天子達は思った。
「さ、もう目的地についたことだし、煩くしないようにね」
「あぁ、やっとついたのね。もう何度これを頭から浴びようと思ったか」
そんなわけで燦々と降り注ぐ陽光に照らされ、丁寧に磨かれた石が眩しく光る。照り返しの眩しさに目を細めながら、手近な場所に桶を置いた天子達は花を供え、手を合わせた。
死者の魂が行き着く果てが彼岸ならば、幻想郷において死者の肉体の多くが行き着く果てはこの命蓮寺の共同墓地だろう。幻想郷の行く末を見届ける会、第四回目の活動は、この場所で行われる。
ざっと百八十年程前に作られたここでは、数多くの人々が眠っている。彼女達がやってきたのは、土地の広さや、必要な費用の関係か『〇〇家の墓』といった一族が纏めて葬られているものが多い中では珍しい、個人の為に建てられた墓である。
「ここに来るのも二十年ぶりくらいね」
などと輝夜が懐かしげに語るその墓碑に刻まれている名は『上白沢 慧音』。妹紅のただ一人の親友である。前回の活動から五年後に眠るように息を引き取った彼女は、里の多くの人間に惜しまれながらここに埋葬された。その安らかな最期を看取った妹紅は、今でもこうしてよく墓参りに来るのだといい、事実墓には塵一つ落ちていなかった。
彼女の死以来、妹紅は変わった。自発的に輝夜を襲うことが少なくなり、今では輝夜が挑発しても乗るのは三回に一回あるかどうかというくらいである。
そのかわりに、永琳に会いに来る事が多くなったという。しかし、二人が何をしているのか輝夜でさえも教えて貰えないらしく、以前不満気に頬を膨らませて愚痴られたことがある。勿論天子も知ってるわけがない。
この三人とも随分長い付き合いになっているが、それでもまだ天子と彼女達との間には大きな隔たりがあるように思える。けれど、それも不変ではなかった。そう言いきれるのはきっと、少しずつでもその隔たりが狭まっていることを実感しているからだろう。
この百八十年あまりの時間の中で、妹紅は今まで語ろうとしなかった過去を教えてくれるようになり、輝夜も出会った当初よりもさらに奔放に自分を振り回すようになった。永琳も、『主の友人』として接する一歩引いた態度ではなく、『自らの友人』として気安く接してくれることが多くなっている。そして、この会の活動も六十年に一度の定期会以外でも頻繁に集まって幻想郷を探検することが多くなった。自分達の関係は、決して不変などではない。
それと同じように、妖怪や幻想郷そのものにも変化が見られるようになった。その代表例と言えば、チルノだろうか。かねてから妖精には過ぎた力を持っていた彼女は、四十年程前から妖怪へとその存在を変化させていた。自然が有る限り存在し続ける妖精としての生を捨てた彼女が最初にしたことは、異変を起こすことだった。妖怪になったことでますます増大した力を振るい、幻想郷中の水を凍らせたのである。水は人妖問わない生命線。それを掌握し、人間を脅かしてお酒を巻き上げようとしたのだ。
しかし、チルノの目論見は見事に外れてしまった。酒を作るには水が必要だが、それを使えなくしてしまったのだから酒など手に入る筈もない。妖怪になっても頭の中身は大して変わっていない様である。
幸い、当時の巫女は今の巫女と違って実力派であり、その上鬼と飲み比べをするほどの酒豪だったために酒が作れないと知るやいなや飛び出して、異変は発生してからたったの三日で制圧されてしまった。こうしてチルノの妖怪デビューは惨憺たる結果に終わり、今でも妖怪達の間でお笑い草になっている。
その他にも、生まれてからずっと紅魔館に幽閉されていた悪魔の妹、フランドール・スカーレットが、ある日突然太陽を克服すると宣言して紅魔館を出たとか、八雲紫の式の式であった化け猫、橙が八雲の姓を賜ったとか、今年10歳になったという、顔も性格も魔理沙に瓜二つの霧雨家の末娘がご先祖様の偉業に感動し、自分も魔法使いを目指さんとアリスに弟子入りしたとか、あげればキリがない。
これは変化というより成長と呼ぶへきかも分からないが、永琳を師と仰いでいた兎、鈴仙・優曇華院・イナバが一人前となり、彼女に次ぐ永遠亭の医師兼薬剤師として大成したというのを永琳本人が自分の事のように喜んで言っていたのも覚えている。
少しずつだが確実に、幻想郷の妖怪達も変化しているのだ。
「慧音、今日は他の連中も連れてきたよ。相変わらず、私達は不死身で元気にやってる。……あぁ、暑い。そうそう、今、異変の真っ只中でね。まだ春だってのに、真夏みたいに暑いんだ。そっちは暑さも寒さもないんだっけか。羨ましいなぁ。こっちはおまけに今の巫女がポンコツでさぁ、なかなか解決しないんだ。霊夢達に会ったら、説教するように言っといてくれない? それから……」
濡らした布で墓石を磨いてやりながら、妹紅は独り、滔々と慧音の墓前に語りかける。無論、墓に語りかけたところでその言葉が慧音に届く筈はない。そんなことは彼女も分かっていてやっているのだろう。
これはきっと、一種の儀式なのだ。決して尽きることのない命を持つ妹紅と、死んでしまった慧音は、恐らくもう二度と会うことはない。例え長い長い時の果てに慧音の魂が転生したとしても、生まれ出でるそれはまた別の存在であり、慧音その人ではない。御阿礼の子のように記憶を引き継ぐこともない以上、妹紅がそれまで重ねた慧音との歴史は五十五年前から動くことはない。
だから、せめて『上白沢 慧音』という存在を刻むこのささやかな石碑に語りかけることで、自分達の繋がりを確かめようとしているのだ。そう思い、天子達は何も言わずに妹紅の儀式を見守った。
「また、来るよ」
慧音への報告を終え、天子達に向き直った妹紅が、「ありがとう」と真面目な顔で小さく呟いた。
「なに言ってるの、ただ黙ってただけなんだからお礼なんて要らないわ。それより、歴代の巫女全員に夢枕に総立ちで説教なんかされたらあの子、再起不能になっちゃうんじゃない? 酷い奴ねぇ」
「いや、案外全員霊夢に恐縮して他は何も言わないかも」
「あー、それはありそう。霊夢って怒り出だしたらなかなか止まらないからねぇ」
湿っぽい空気を打ち払おうと、輝夜がいつもの調子で妹紅の揚げ足をとる。こういう時は変に故人の事に触れずいつも通りに振る舞う方がいいと思ったのだろう。その意図を察して、永琳と天子も続く。
「はは、それはそれで怖いかも」
一人がみがみと叱る霊夢の回りで無言で立つ歴代の巫女に囲まれて縮み上がる当代の巫女を想像したらしく、妹紅はくしゃりと笑う。気持ちのいい笑顔だった。
「あーでも、霊夢も人のこと言えるほど真面目じゃなかったしなぁ」
「じゃあ全員だんまりかしら。それじゃ無意味ねぇ。妹紅があの狭いあばら屋の中に頑張ってお漬け物を隠すくらい無意味だわ」
「あれ、またお前の仕業だったのか! 今日という今日は許さないぞ!」
「ごちそうさまでした。やれるものならやってみなさいな」
そしていつものように輝夜と妹紅が下らない事で燃え上がり、火花を散らす。墓場の外でやりなさい、と二人の背を押していく永琳に続こうとして、天子はもう一度慧音の墓を振り返った。
勿論、どれだけ真面目に眼差しを向けようと、どれだけ真摯に語りかけようと石がそれに応える訳はない。けれど、彼女は微笑みかける。
「大丈夫、私は――私達は、変わらないもの。心配いらないわ」
紡がれた言葉は未だ己の居所を声高に叫ぶ蝉達の喧騒に消えていき、石碑に向けた優しい笑みも、誰にも見られることはない。
それでいい、今の言葉は誰かに向けたものではない。だから、聞き届ける者など必要ない。それは、自分達が持つ永遠の確認。いくら世界が変わり続けようとも、例え他の誰がいなくなろうとも、自分達は変わらず在り続ける事を信じる言葉。
誰にも届かなくていい、他ならぬ天子自身が確かに知っていれば、それだけでその想いは永遠になるのだから。
「なにやってんのさ天子ー」
「置いてっちゃうわよー」
「あ、待ちなさいよ!」
さっきまでいがみ合っていた筈の二人が、口を揃えて天子を呼ぶ。それを聞いて我に返り、いつの間にやら随分離れたところに立っている三人の元へ駆けていく彼女を、陽光に照らされる墓石と蝉が見送った。
六十年後。
「……賑やかねぇ」
空間を拡げる者が居なくなった事で少し小さくなった紅い屋敷。その時計塔の真上に昇った満月から降り注ぐ月光を存分に浴び、誰も居ないバルコニーで独りごちる天子の身は、普段とは違い鮮やかなスカイブルーのドレスに包まれていた。
そんな、いつもと違う彼女は手にしたグラスを揺らしながら、バルコニーの外を見る。 彼女の眼下に広がる広大な庭園には、先程の言葉通りの光景が広がっている。そこは、幻想郷中から招待された人妖達によってかつてないほどの喧騒に満ちていた。他愛ない世間話をする者に、元気に走り回る者。
まだ本格的に宴は始まっていないというのに、既にすっかり出来上がっている者もいる。そんな連中はきっと倒れるまで飲むことだろう。酒は微酔に飲め、なんて言葉はここの連中には到底実行できそうもないな、と思わず苦笑する。
けれど、そんな喧騒を彼女は楽しんでいた。品格がどうだなどという建前を馬鹿正直に守り、酒は僅かに楽しむ程度に済ませ、後は決まりきった歌と踊りに賛辞を送るだけのつまらない天界の宴などより、余程性に合っているからだ。
「えー、諸君、今日は我が紅魔館の晴れの日によくぞ集まって……予想はしてたけどやっぱり誰も聞いてないな。もういいや、悪魔に祝福ってのもなんだか変だしね。まぁ好きに楽しんで頂戴」
壇上に上がったレミリアが早々に進行役としての役割を放棄し、魔法で大きくなった声でしまらない挨拶を終える。それを皮切りに屋敷の中から様々な料理や大きな酒樽が運ばれてきて、一部の食いしん坊な客人達から、歓声があがった。
簡単なつまみが乗せられていたテーブルが、次々運ばれてくるご馳走で一気に華やぐ。
豚の丸焼きに血も滴るステーキ、フライドチキン、ピザ、ピラフ、グラタン、スープ、冷しゃぶ、棒々鶏と料理はこってりからさっぱりまで和洋中問わず揃っていた。おまけに今日は八雲紫の協力の元、刺身やパエリア、ブイヤベースにカルパッチョ等といった魚介類を使ったものまである。滅多に食べられないような珍しいご馳走に、誰もが興奮して飛び付いた。
そして最後に、最上段に『HAPPY BIRTHDAY FRANDLE』と書かれたプレートを乗せた、クランベリーをふんだんに使った特大バースデイケーキがメイド妖精の賑やかな演奏と共に運ばれてくる。
そう、今宵は悪魔の妹、フランドール・スカーレットの久々の紅魔館への帰還と七百四十年目の生誕を祝うパーティーなのだ。ちなみに、幻想郷の行く末を見届ける会、五度目の定例会でもある。
「あぁ、やっぱり地上の宴会は最高ねぇ」
気の効いた妖精が運んできてくれた料理に舌鼓をうち、天子は今日の特別な日の記念として振る舞われた、フランドールの五百歳の誕生日に作られたという血のように紅い葡萄酒が満たされたグラスを傾ける。即席ではない二百四十年もののヴィンテージワインは、刻んだ歴史の分だけ深い味わいを出していた。
ますます膨れ上がる熱気と地上の美酒に酔いしれながら、彼女は再びバルコニーから宴を眺める。
この宴の主賓であるフランドールはこの百二十年間、太陽に打ち勝つ為に紅魔館を飛び出した後、風見幽香に弟子入りしていたらしい。
何故幽香なのかと言えば、今まで外に出たことが無かったために世間知らずの箱入り娘であったフランドールが、名前に太陽とあるのだからそこに行けば攻略の糸口が掴めるに違いない、と向かった『太陽の畑』で日光を浴びすぎて倒れてしまったところを偶然通りかかった幽香に助けられたのだという。
実に間抜けな話だが、そんな縁から彼女のもとで暮らしているフランドールは、今では健康的な小麦色の肌をして、日光を浴びてもそうそうまずいことにはならないのだそうだ。
一体どんな暮らしをしていたのかは二人揃って語ろうとしないので分からないが、フランドールが種族的にありえない芸当をやってのけたのは多分、思い込みの要素が多いのだというのが紅魔館の知識人、パチュリー・ノーレッジの見解であった。妖怪は精神にその存在の重きをおく生き物だから、思い込めば思い込む程よくも悪くも作用するのだろうとのことである。
そうしてある意味偉業を成し遂げた当の彼女は、そんな小難しい理屈になどおかまいなしに、幽香との暮らしの中で仲良くなったというリリーホワイトと共に宴会の中を忙しなく動いては幽香を引っ張りまわしていた。 あっちに行っては一輪と雲山にブランデーをぶっかけ、こっちに行ってはその強さから布都に幽香共々尸解仙呼ばわりされて満更でもない顔になり。実に奔放に宴を楽しんでいる。
無論、紅魔館に集まった他の人妖達も無礼講で好き勝手な事をやっている。八雲の姓を賜り妖怪としての格を随分上げ、主に引けを取らぬ結界術の使い手となったにも関わらず相変わらず奔放で、この宴の席でも酔った勢いに任せてナズーリンをひっきりなしに追いかけ回している橙と、その手懐け方についての教えを請う藍に、マタタビを嗅がせた星を見本に自慢のテクニックを実演するさとり。
その二人の間にいるこいしとメディスンは、姉の頬を引っ張ったり藍の尻尾の中に埋もれてみたりと本能が赴くままに大暴れしている。
別の方向に目を向ければ、ヤマメが即興で建てた舞台の上でプリズムリバー三姉妹と、六十年前の異変以来すっかり意気投合したお空を新たに加えた新生鳥獣妓楽、さらには九十九姉妹と堀川雷鼓が様々な音楽を奏でれば、それに乗せて特別性の巨大水槽に入ったわかさぎ姫が歌ったり、幽々子と衣玖に雛、ヤマメらがそれぞれ得意とするダンスを披露している。
そんな音楽やダンスに区切りがつくたび、リグルにルーミア、ぬえに村紗、影狼といった面々が喝采を送るし、それを見ながら鈴仙や椛、半人半霊から幽霊剣士へとその身を変えた妖夢達苦労人トリオが愚痴をこぼしあっている。
そのまた別の場所では勇儀と萃香に掴まった華扇とパルスィがアリス監修のもとに着せ替え人形にされて哀れな悲鳴をあげているかと思えば、すぐ近くでお燐と青娥が死体談義に花を咲かせていると見せかけて芳香を巡っての熾烈な争いを繰り広げている。
普段から培っている色彩感覚を活かそうと静葉がメイク教室なんかを開けば、その講義を光の三妖精やパチュリーが熱心に耳を傾けるし、小傘が見事な傘芸を披露する横では、今夜限りは羽目を外しましょうと白蓮が三味線をかき鳴らす。あちこちで行われる余興は、どこを巡ったって楽しいだろう。
宴会の場でくらいしか会う機会がないからと、すっかり話し込んでいる連中もいる。マミゾウとてゐは酒を酌み交わしながら何やら怪しげな儲け話をしているし、穣子とにとりは農業への新しい耕作機械の導入について真面目に語り合っている。
小町と映姫の登場にすっかり警戒して腰にしがみつく屠自古の頭を撫でてやりながら、死後の世界について訊ねる神子なんかの姿もある。ちなみに、妹紅と輝夜は相変わらず争い、取り合っていたご馳走を横から来たキスメと正邪にかっさらわれて揃って落胆していた。こんな時くらいよせばいいのに、仲がいいのか悪いのか。
そんな、幻想郷の日常的な宴会風景を眺めていると。
「あら、貴方はあっちに行かないの? 楽しいわよきっと」
ふと声をかけられて振り返れば、永琳がそこに立っていた。
「いいのいいの、見てるだけで楽しいし、あっちに行ったらもみくちゃにされそうだしね。それに、見届ける会なんだから一人くらいこうして見守るやつが居ないとだめでしょ?」
バルコニーの柵にもたれかかり、ひらひらと手を振って見せる。実際、めまぐるしく変わっていく妖怪達の宴は、一瞬たりとも同じ姿を見せない故に実に面白く、飽きさせない。こうやって見ている今も、人妖達の宴は姿を変えていく。ただただ歌って踊るだけの退屈な天界のそれとこうも違って見えるのは、変わり行く者達が開いた宴だからだろうか、なんて思う。
「そう。楽しんでいるなら、いいんだけど」
「心配ご無用。天人が楽しめなくなるときは死ぬときだけなのです、えっへん。ところで、そういうあんたはどうしたの?」
「ん、ちょっと疲れちゃってね」
見てみれば、今日のパーティーの為に輝夜が用意してくれたというシックな黒色のパーティードレスが少々くたびれて見える。なんでも、いつの間にか隣にいたこいしに振り回されてあちこち走り回る羽目になったのだという。
「あらそう。でも、ちょうど良かったわ。だって、もうすぐここは特等席になるもの」
指で永琳に上空を示す。そこではレミリアとフランドールが空に上がってにらみ合っていた。どうやら酔った勢いに任せて「今ならお姉様にだって余裕で勝てる」と豪語したフランドールに、じゃあやってみろ、とレミリアが言ったらしい。
そんな訳で始まった姉妹喧嘩を、地上にいる者達も皆余興の傍らで空を見上げて注視している。それを誰よりも間近で見られるのだから、なるほど確かにここは特等席と言えるだろう。
睨みあっていた二人が、同時に動く。レミリアが通った後に小弾をばら蒔く大玉弾を真っ直ぐに撃てば、フランドールが同じものを変則的に曲げて対抗する。続けて閃光と共に放たれたダビデの星と、全てを破壊せんと輝く星虹が真っ向からぶつかりあってこの世のものとは思えぬ光が空を彩る。
その残光が消えぬ内に、禁忌の籠と複合され更に複雑怪奇となった恋の迷宮を深紅の不夜城が強引に討ち滅ぼす。迷宮や籠を吹き飛ばすのは想定内だと四人に増えて待ち構えていたフランドールの集中砲火がグレイズしたレミリアの帽子を吹き飛ばせば、レミリアが悪魔の鎖でその分身達を一網打尽にして叩き落とす。
そんな風に目まぐるしく変わり行く空の幻想がどこか切なく思えるのは、流石に感傷に浸りすぎだろうか。
自らが七百四十年生きた事を証明するフランドールの波紋が目も眩むような閃光を放ち、次いでやってきた暗闇の中に二人が消えてだれもいなくなる。
その闇を、レーヴァテインとグングニルの紅い閃光が突き抜ける。
吸血鬼達の莫大な魔力の塊が真っ向から激突し、爆煙と紅い光が空を覆いつくす。それを見た誰もがこの苛烈かつ過激、そして優美な弾幕勝負が終盤に差し掛かっていると悟り、じきに着く決着を見届けようと目を見開いた。
やがて、フランドールが煙の中から飛び出してきて、勝利の確信に満ちた笑みを浮かべる。しかし、その笑みは遅れてやってきた衝撃に歪み、フランドールは目を剥いた。なんの捻りもない突進という『奥の手』を使ったレミリアの一撃が直撃したのだ。
完全に油断した所を突かれて落ちていくフランドールを、レミリアが優しく抱き止め、地上からの喝采に余裕の笑みで答えてみせる。腕の中のフランドールは、悔しさと憧れの入り交じった表情でまだまだ何枚も上手の姉の顔を見上げた。 百二十年越しの姉妹喧嘩の終わりは、そんな呆気のない幕切れ。けれど、それでいいのだ。
どこまでも熱くなりながら、終わりはあと腐れなくあっさりと。そんな閃光の様に儚い幻想だからこそ、その向こうに人妖達は種を越えた楽しみを見いだし、交わらぬ筈の時間を共有できる。故に、弾幕ごっこは愛されているのだ。
二人の吸血鬼に触発されたのか、リグル・ナイトバグが群集の中から飛び出した。虫の王たる彼女は、自らの眷属である蛍達を一斉に放ち、夜の空に流星群を顕現させる。本来空から地上へと駆け降りる筈のそれは、リグルの指示によって地上から空へと駆け上がっていった。
それ続き、アリスが自慢の人形達を操り、激しくも美しい弾幕劇を披露する。親友にねだられたパチュリーが、滅多に見せない上級魔法を惜しみ無く空にばら蒔いた。勇儀と萃香を先頭とした地底の妖怪達が、剣呑ながらも美を忘れぬ粋な弾幕花火を打ち上げる。
そして地底の妖怪に負けていられないと触発された地上の妖怪やお祭り好きな神々も加わり、我も我もと空に昇る。
気づけば次から次へと空に一夜限りの弾幕の花が咲き、その散り際には星屑となって幻想郷の夜を煌々と照らす。天子はうっとりと、最高の特等席でそれを眺めていた。
「あら、こんないい場所を独占して独り酒? 風流ねぇ」
「あんたが居るなんて珍しいわね。もう巫女の選任の時くらいにしか出てこないと思ってたんだけど。で、なんの用?」
心地よい陶酔に水を差され、天子は不機嫌な声を出して振り向く。いつの間にかいなくなっていた永琳にかわり、八雲紫が立っていた。別に、たまたま見かけたから声をかけてみただけよ、なんて涼しい顔で抜かしながら彼女の隣に来た紫の姿は、初めて会ったときと変わらない美しくも胡散臭い雰囲気に満ちている。
「あっそ。じゃあ今良いところなんだから邪魔しないでね。もっとも、地上を這いつくばる妖怪如きにそんな真似ができるとは思えませんが」
などと過去を棚に上げて不敵な笑みを浮かべながら挑発してみても、紫は笑んでいるばかりでなにも言わず、天子は馬鹿馬鹿しくなって再び空を彩る弾幕に見惚れることにする。
上空では、マミゾウと藍が慇懃な口調で静かに互いを罵りながら化かし合いをしていた。お互い必死になりながら化けて化かされていく内に訳がわからなくなってきたのか、髭の生えた美少女やら腕が四本もある大仏やらとなんだかよく分からないものが弾幕と罵声を飛ばしあう有り様。そのくせ相対する相手に化ける時は完璧に再現するし、弾幕の美しさは欠片も損なわないのだからわからないものである。
自分の従者の滅多に見られぬ本能任せの痴態が琴線に触れたのか、紫が楽しそうに小さく喉を鳴らす。天子も、呆れたような声で笑う。
そうしていつまでも自分達ばかり目立つなとぬえと共に割り入って藍を空から引きずり下ろす橙に逞しくなったわねぇ、と目を細めながら呟いて、紫は不意に天子へと向き直り、
「……年年歳歳花相似たり、歳歳年年同じからず。そんな中での自分の存在が、場違いだと思った?」
そんな言葉を口にする。
その言葉に心の奥を見透かされた気がして、天子は振り返る。けれど、紫はただ変わらず微笑んでいるばかりで。
「そう、かもね」
小さく、肯定する。『年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず』。花は毎年同じように咲こうとも、それを見ている人は同じではないという意味だ。それと同じことで、きっとまた、今日のように盛大な宴は百年後、二百年後だって開かれる事だろう。
けれど、その時に今日見た顔触れが皆揃っているとは限らないし、もしかすれば霊夢や慧音達のように居なくなっている者も現れるかもしれない。その時までに現れた新たな住人達もいることだろう。長い時を生きても、強大な力を持っていても、人がそうであるように妖怪の命は決して不尽ではない。
今こうして彼女の隣に立つ得体の知れぬ賢者でさえ、不変には程遠い。
だが、天子自身は変わらず、百年後や二百年後、あるいはその先にも居続けるに違いない。不老長寿と不老不死、似たような言葉かもしれないが、そこには決して越えられぬ一線が引いてある。そして、同じ不死である永琳達とも、その存在の在り方は天子とは違う。彼女の存在は、この幻想郷に住まう誰からも遠い。だから、こうして独りでただ喧騒を眺めるばかりでいる。
「杞憂ね。あなたはまだ理解できていない。……幻想郷は全てを受け入れる。かくも残酷で、それはそれは優しい世界ですわ」
そんな天子の心の内を一笑に付し、紫は手にしたワインを口にする。月光を背にしたその妖艶な姿を見て、天子はどきりとした。
「生憎だけど、たとえ受け入れられていたって、貴方達はいずれ死んでしまうじゃない。それじゃあ意味がないでしょう。私にとっては、貴方達の命は短すぎるわ」
「それはどうかしら?」
憎たらしいスキマ妖怪に一瞬でも見とれてしまったことを誤魔化すように返した皮肉を、紫は涼しい顔で受け止めて続ける。今宵は何故か、いつも以上に饒舌なようだ。
「短いようで、本当はもっと長いかもしれない。循環し続けているように見える水の流れにも、それに交わらぬ淀みはある。変わり続ける物の中にも、変わらぬものは間違いなく存在する。貴方達はそれを探しているのでしょう?」
どういう意味だと、紫をじっと見据える。「あら、穴を開ける気かしら?」なんて減らず口を叩く彼女の意図は、表情からは読み取れない。しかし、紫の方は天子の心情を読み取ったのか、「いずれ分かるわ」と言って姿を消す。慌てて周りを見渡すと、紫は既に庭園に降りていて、今では立派な神となった早苗を始めとする守矢の神々や面霊気のこころ、そして早苗の頭の上に乗った小人の針妙丸達と共に、酒を飲んで談笑していた。
「どうしたのさ、こんなところで血相かえて」
「! ……なんだ、あんたか」
「なんだとは酷いなぁ」
今度は、妹紅がやってきていた。輝夜とやりあってたら汚れちゃってね、とリザレクションで体ごと再生したのであろう真新しいドレス姿でへらへら笑うその姿に、いささか呆れてしまった。
「お、よく見えるね。なんだ、こんないい席があるんなら教えてくれたってよかったのに」
様々な者達が入れ替わり立ち代わり披露する弾幕で彩られ続ける万華鏡のような空を見上げて、妹紅は目を細める。
「ねぇ、妹紅」
「あ、あれはここの門番の弾幕かな。あいつの弾幕って簡単だけど、結構綺麗なんだよねぇ……ん、何?」
空では彼女の言う通り、この館の門番である紅美鈴が弾幕を披露していた。虹を模した彩雨の弾幕が月光に照らされてきらきらと輝く。その七色の光を天子と共に浴びながら、 妹紅が返してきた。
一瞬迷った後、口を開く。
「あなたは、変わらないものってあると思う?」
会が結成されてからこの二百四十年、彼女が抱き続け、しかし一度も他のメンバーに聞いた事の無かった疑問を、妹紅にぶつける。ずっと気になっていたのだ、輝夜が言い出した『変わらないもの』の存在を、自分以外の者も信じているのか。
「変わらないもの、ねぇ。少なくとも、今はまだ分かんないわ」
文とはたてが巻き起こした旋風が、天子達の髪を好き勝手に弄ぶ。そこに続けて放たれたルーミアの弾幕で逆光になったせいで表情は分からないが、妹紅の言葉に嘘は無さそうだった。
「そっか。……まぁこの二百四十年、どんどん変わっていく人間達につきっきりだったものね。その中で変わらないものを見つけるのは、かなり難しい事だと思うわ」
変わり続けるものをずっと見てきたのだから、変わらないものなど分かるはずもないか。馬鹿なことを聞いたと、天子は肩を竦める。
「そうだね。……でも、輝夜の言う変わっていくものの中にある素敵なものっていうのは、見つけた気がする」
彼奴の言葉を借りるのは癪だけど――と言って、妹紅は空を指差す。
その瞬間、星屑が空を覆い尽くした。
「あれは……」
「覚えてるでしょ? あいつの弾幕」
ミルキーウェイ。スターダストレヴァリエ。そして、マスタースパーク。空を流れる星屑は、天子の知る、百八十年前にこの世を去った筈の少女のスペルカードによって生み出されたものだった。
その弾幕の先を見る彼女の目に、一人の少女の姿が映る。自力で飛べると言うのに箒に腰かけて飛び、時代錯誤なステレオタイプの魔女の格好をした、白黒の魔法使いがそこにいた。
「研究に三十年くらいかかったとか言ってたかな、あいつが森の家に遺した魔導書だかメモ書きだかに書いてあった弾幕を再現してるんだってさ」
よくやるよ、と妹紅が呆れた声で教えてくれる。そう、あれは霧雨魔理沙本人ではない。今こうして空にいるのは、彼女の英雄譚に憧れ、六十年前にアリスに弟子入りし魔法使いとなった、魔理沙の曾孫に当たる娘だ。
姿も性格も魔理沙に生き写しだという彼女は長年の研究が身を結んだ事が余程嬉しいのか、空を埋め尽くす星屑の中で輝くような笑顔を浮かべていた。
「ここに来る前に少し話をしたんだけどさ、あいつ『これでご先祖様に近付けた!』って凄く嬉しそうにしてたよ」
「でもあの子、とっくに魔法使いになってるんでしょ? 今更過ぎないかしら」
魔理沙は人間のままその生を終え、あの娘は魔法使いとなった。魔理沙が為し得なかった長寿を実現したのだから、その時点で魔理沙を越えているのではないのか。けれど、妹紅はそこが人間の面白いところなのよ、と続ける。
「確かに人間は私達から見たら短命だし、すぐに変わってしまう。けど、だからこそ人間は次の世代に色んなものを遺す事が出来るんだって思う」
魔理沙だけじゃない、里の子供達も慧音やその教え子達の為したことに憧れて教師を志したり、代々巫女に選ばれ、右も左も分からぬまま人里離れた神社に連れてこられる少女達も、かつてそこで暢気で気ままに暮らしていた霊夢の話を聞いて安堵し、またそうあれる様に努力しているのだという。
伝えるものも伝わるものも少しずつ変わっているのかもしれないが、形を変えても受け継がれ行くものは確かにあると、妹紅はいつになく雄弁に語った。
「なるほど、変わっていく中にある素敵なものっていうのは、そういう事か」
なんとなく、天子も理解する。閃光のように駆け抜けて行った彼女達の生涯は、変化を迎えつつも確かに人々を魅了し、憧れさせてやまない。それは確かに、とても素敵なものなのだろう。
それから暫く二人が黙っていると、妹紅が再び空を見上げる。魔法の星屑は既に消え、夜空には満月が浮かぶのみだった。
「……月が綺麗ね」
そんな月を見てふと、妹紅が呟いた。
「あら、告白して下さるの? 悪いけどそういう趣味はないわ」
などと茶化してやると、そんなわけないでしょうと苦笑される。
「いや、あいつと会ったのも、こんな月夜だったなって思ってさ」
あいつとはきっと、慧音の事なのだろう。慈しむように月を見つめて、妹紅は続ける。
「受け継がれることや、また会えることって、素晴らしいことだよ。今日ここに来て、改めてそう思えた」
妹紅の視線が、頭上の月から地上でお互いを振り回しあっているスカーレット姉妹に移る。不器用な姉妹のそんな姿は読み物にあるような感動の再会とは程遠いが、分かち合う喜びはきっと、陳腐な作り話のそれでは到底再現出来ない程大きな物に違いない。
「会いたくなったの?」
「なってはいないね。ずっとそう思い続けてるから」
妹紅は泣き笑いのような表情になってそう言った。天子は何も言わず、バルコニーの端に立って世界を見渡す。いつしか弾幕も打ち止めとなり、永遠に続くのではないかというほど盛り上がり続けていた宴もまた、変化を迎えようとしていた。
最後の最後で特大の炎を打ち上げたお空のせいで熱帯と化した紅魔館の空を、レティとチルノが起こした雪風が吹きすさぶ。空に広がる風花が辺りを優しく冷やしていくと、次第に会場の熱気も静かになっていった。
ルナサが静かな音楽を奏で初め、その音色に乗せて唄うように輝夜が遥か時の彼方であったという、 神々と人の切ない恋物語を語り始める。極上の音色に乗った鈴を転がすような澄んだ声で紡がれる儚くも悲しい物語に、誰もが聞き惚れていた。
それが終わると、輝夜が語り部の立場を永琳へと移す。指名され、気恥ずかしげに前に出た彼女は、その場にいる誰もが知らぬような幻想と不思議に満ちた神話を語りはじめる。勇壮で、しかしながらどこか物悲しいその物語は、掛け値無しに魅力的だった。
皆が黙ってその物語に聞き入り、静けさが満ちた紅魔館には最早、ルナサ達の演奏や語り部の声に混じり、時おり聴き手達の感動を込めた嘆息と、感極まって漏れでた啜り泣きが聞こえるばかり。けれど、場が白けた訳ではない。皆その物語に胸を踊らせ、続きを邪魔したくないと騒ぎだしたい衝動を抑えているのだ。
時を忘れ、夜明けを迎えてなお続く静かな宴を、天子と妹紅は微笑みながら見守っていた。
六十年後。
「ごめん、遅れたね」
「遅いじゃない、今回の集まりはここにしようって言ったの、あんたよ?」
「ごめんごめん、三日前から登ってたんだけど、途中で滑っちゃって。いやありゃ死んでたね」
とんでもないことをさらっと言ってのけてから、妹紅は頭をかく。そんな彼女に「間抜けねぇ」なんて言いながら、幻想郷を見渡す為に輝夜は崖の近くに向かう。
それに続こうと身を捻る直前、妹紅が永琳に目配せをした気がした。けれど、もう一度見ても二人はもう別々の方を向いている。どうやら、気のせいだったらしいと、天子は山の彼方へと視線を戻した。
「随分、変わっちゃったわねぇ」
世界を見渡して最初に浮かんだ感想を、素直に口に出す。三百年前と同じ高さから映る景色は、しかし三百年前とは別物になっていた。
かつて雑じり気のない深緑に染まっていた迷いの竹林や魔法の森は、外から流れ着いた建造物で所々灰色をその身に宿すようになっている。紅魔館とプリズムリバー邸が建っている霧の湖は一見変わらないように見えるが、その湖の中心にはチルノが造り出した溶けることのない氷の島と彼女の屋敷が建てられている。
山に鎮座する非想天則も、「もっとかっこよくしたい」と二十年くらい前に言い出した早苗の指導により先鋭的な姿に変わった。博麗神社にはなんと、今から三代ほど前の仏師の娘であった巫女が、文やはたてが撮っていた写真を元に作ったという歴代の巫女の精巧な像が立ち並んでいた。
他には無縁塚も、最近外から物や人が流れ着く事が多くなって拡張を余儀なくされている。外の世界は貧しくなってきているのかも知れないな、とすっかりおじいさんになってからも元気に里と森を行き来して子孫の手伝いと趣味を両立している霖之助が心配していたのを十年くらい前に聞いた。
変わらないといえば、相変わらずサボり魔の死神が船頭をしている三途の川くらいだろうか。ここだけは未だに懲りもせずに小町が六十年おきにやってくる魂を処理しきれず溢れさせては、これまた飽きもせずに映姫にしかられている様を見せている。
近くで見れば分からないが、こうやって俯瞰するとよくわかる。人間や妖怪がそうであるように、この世界もまた、確実に変化し続けているのだ。
「ねぇ妹紅、どうしてわざわざ山登りなんてしたの? 空を飛べばすぐなのに」
三百年前と同じく永琳の作った料理を食べながら、輝夜がそんな事を聞く。確かにそうだ。空を飛べば、いくら妖怪の山と言えど半時間もあれば頂上につく。だというのにわざわざ三日もかけて登るなど、酔狂にしか見えなかった。
「んー……けじめっていうか、なんていうか」
なんと言ったらいいのか、と困った様子で、妹紅が言葉を選びながらゆっくりと語り始める。
「会わなきゃいけない奴がいたんだ。会って、謝らなきゃいけない奴が」
「会いたい、やつ?」
うん、と妹紅が頷く。この山に住む連中と言えば天狗や河童、守矢の神々くらいだが、それなら態々徒歩で山を登らずともいつでも会えるだろう。かといって他に心当たりが有るわけもなく、天子は輝夜に視線を送る。しかし、輝夜も見当がつかないらしく、首を横に振った。
「それで、会えたの?」
永琳だけは何かを知っているらしく、特に疑問を挟むことなく続きを促す。そんな二人を見て、私達は蚊帳の外なのね、と輝夜がむくれる一方、慧音が死んで以来、二人が話していたという話とはきっと、この事だったのだろう、と天子はなんとなく察していた。
「うん、会えた。会って、これまでのことを全部話して、謝ってきた」
「許してくれたの?」
「わからない。あっちは何も言わなかったから。でも、なんだか胸のつっかえが取れたよ。もう思い残すことはないね」
ごく真面目な顔でそう答える妹紅の声音にも気質にも冗談の気はなく、天子は何故か衝撃を受けた。そんな、思い残す事はないなんて、まるで死に行く者みたいじゃないか。それに、自分達は不死なのに、もうこの世に未練がないというなら、
「――貴方、空っぽじゃない」
思わず、そんな言葉が口から飛び出す。その瞬間、天子は何か取り返しのつかない事をしてしまったような気分になった。けれど、一瞬キョトンした顔になって、
「そうだね、空っぽだ」
と言った妹紅のその顔は、どこまでも穏やかで。
世界から、音が消えた気がした。輝夜が何か言っているが、聞こえない。その間、天子はずっと妹紅の顔を見つめていた。……あの顔だ。三百年前の霊夢が、百八十年前の慧音が、二度と会う事の無い別れの間際に見せたあの顔だ。その顔の意味は、もう理解している。やめろ、そんな穏やかな顔は見たくない。貴方まで変わってしまうというのなら、私達でさえ不変ではなくなってしまうではないか。永遠など、存在しなくなってしまうではないかという思いが、彼女の脳裏に浮かんだ。
そんなことはあり得ない、妹紅は不死の存在なのだと分かっているのに、そう思わずにはいられない。けれど、そんなときに限って言葉が出ない。ギリ、と天子は唇を噛んでうつむいた。
「どうしたのよ、いきなり怖い顔して」
世界に、音が帰ってくる。顔を見上げると、輝夜が暢気な声を出しながら彼女の顔を覗きこんでいた。
「あんたは……いや……」
口にしかけて、絶句する。
「何よ」
「なんでも、ないわ」
やっとのことでそれだけ返し、天子は反射的に眼をそらす。
そして、「そう? ならいいんだけど」と相変わらず暢気に言って身を離す輝夜に、気づいてよ、心の中で呟いた。本当は、彼女の胸ぐらを掴んで大声で叫んででも気付かせてやりたい気持ちだった。何百年もの時を共に過ごしておいて、お前は妹紅の表情の意味に気づいていないのかとどやしつけ、この三百年の間、一体何を見てきたのかと、わめき散らしたかった。そんな胸の内に沸き上がる激情を、彼女は必死に押さえ込む。この考えは杞憂に過ぎないのだと、自分に言い聞かせる。
仮にここで自分の考えをぶちまければ、妹紅と永琳のしようとしている事を妨害できるかもしれない。今の心地よい永遠を、確かな物とすることが出来るかもしれない。輝夜だって協力してくれるだろう。けれど、それをしたとして、どうなるというのか?
もし本当に天子の考える可能性を現実にする術があったとして、それを阻止する方法はない。妹紅が自分で決めたことならば、邪魔をする権利は彼女にはない。彼女は我儘ではあるが、他人の事を考えられない程愚かでもなかった。
そして、ここに来て初めて気がつく。自分達が依って立つ永遠が、こうも頼りないものである事に。例え世界が滅んでも自分達は不変だと信じていたのに、そんなものは無いのだと、真っ向から否定されてしまったような気がした。
「輝夜」
そんな天子の葛藤になど気づかぬまま、妹紅はその穏やかな顔のまま千年来の腐れ縁の相手を呼ぶ。
「何よ、気持ち悪い顔ねぇ」
怪訝な顔の輝夜の言葉には答えず、妹紅は立ち上がって炎を灯す。鳳翼を象るその炎は、彼女が不死であることの象徴であり、戦う意思を示している事を意味していた。
「なるほど、ね。あなたから誘ってくるなんて、百年ぶりじゃない。いいでしょう、後悔させてあげるわ」
輝夜もその意図を察して、自らの誇る宝具を周りに浮かべる。
「あぁ、殺し合おう。殺し合って、決着をつけよう」
どこまでも真っ直ぐで、どこまでも歪んだ、千年以上も貫かれ続けてきた彼女達の不変が、ついに終わろうとしている。それを隣で見続けてきた永琳は、何も言わずに目を伏せているばかり。止める者も、止める理由も、そこにはない。
「待って!」
しかし、今にも火蓋が切られそうになったとき、天子は二人を呼び止める。邪魔をするな、と言わんばかりの二人の眼差しに気後れしそうになりながらも、天子は意を決して口を開く。
「その戦い、私も、参加させて頂戴」
輝夜と妹紅が何を言っているんだ、という顔になった。当然だ。水を差している事など、他ならぬ天子自身が一番理解している。それでも、二人の戦いをただ黙って見届けるだけでいるなど、できなかった。勿論、それがただの殺し合いなら、 そんな事は思わなかっただろう。けれど、これは違う。きっともう次は無いのだと、これが終わればこの四人の関係は決定的な変化を迎えてしまうのだと、嫌な確信が渦巻いている。でも、止めることは叶わない。
止められないのならば、せめて。この四人がこれまで共にしてきた不変は確かなものだったのだと、魂に刻み付けておきたい。三人が過ごしてきた永遠を、ほんの僅かでも共有させてほしい。これは我が儘だ。どうしようもない、独りよがりで身勝手な我が儘。けど、それの何が悪い。それが比那名居天子なのだ。唯我独尊を疑わず傲岸不遜、負けも仲間はずれも大嫌い、おまけに一度得たものは簡単には手放さない、それが自分の、今日に至るまで不変であり続ける気質なのだと、天子は真っ向から二人を見つめ返す。
「……わかったわ、好きになさい」
静観していた永琳が、静かに口を開く。何を言って、と口を挟もうとした輝夜を押し留め、彼女は続ける。
「そのかわり、私も参加させてもらいます」
「え?」
「はぁ?」
「ちょ、永琳?」
予想外の言葉にその顔を見ると、「だって、ずっと混ぜてもらいたかったんだもの。千年も隣で見てきたのよ?」なんて笑ってみせる。気質を見ることができる天子にしか分からないくらい、見事な嘘だった。そのまま永琳と目が合う。きっと彼女は、天子の心の内も理解しているのだろう。彼女に向けられたその眼差しは、 どこまでも優しく、そして全てを知るが故の寂しさを抱いていた。
「二人ともなに考えてるのやら……わかった、わかったわよ。でもね永琳、私の手助けも手加減も禁じます。 やるからには、全力で勝ちに来なさい。これだけは肝に銘じておくこと。妹紅もそれでいいわね?」
呆れたように輝夜が肩を竦めてみせる。妹紅も頷き、
「構わないよ。輝夜、これで負けの言い訳が出来るようになってよかったわね」
なんて挑発。再び二人が燃え上がる。
四人揃って山の頂上から離れ、幻想郷の遙か上空に浮かぶ。その下では、何事かと出てきた天狗や河童達が天子達を見上げている。そんな観衆に見守られていることもあってか、自然と皆、高揚していた。
一迅の風が薙ぐ。それを合図に、四人は一斉に動き出した。
先手を取ったのは永琳。一斉に展開した大量の使い魔の輪で、三人を囲む。壺中の大銀河を模して作られた使い魔の輪が全方位にばら蒔く弾幕は、別々の輪の中にいる三人の動きを同時に制限しかかる。
しかし、それをものともせず、三人はほぼ同時に使い魔の輪を撃ち破って各々の得意とする弾幕を展開した。
まず輝夜が、使い魔を突破する為に身に纏った火鼠の皮衣を脱ぎ捨て、永琳に投げつける。
しかし、その衣から連続で放たれた赤い炎の線を、永琳は最小限の動きで躱しきった上に反撃する。矢とともに放たれた繁栄と滅亡、そして蘇生を繰り返す生命遊戯を模した弾幕は、輝夜の動きを完全に封じてしまった。
その隙を突いて、妹紅が己の背負い続けて来た罪を象る弾幕で永琳と輝夜を狙う。同時に、天子も要石を縦横無尽に飛ばして三人を狙い打つ。
そうやって空で繰り広げられる弾幕勝負を、山の妖怪達は呆けたように、或いは新聞のネタにしようとカメラを向ける。
そう、これは端から見ればただの変則的な弾幕ごっこに過ぎない。無駄だらけで、滅茶苦茶で、しかしどこまでも美しい弾幕ごっこだ。けれど、これは同時に容赦の無い殺し合いだ。放たれる弾の一つ一つが、普段のそれとは比べ物にならない程の力が込められた必殺の一撃になっている。
何故、殺し合いの手段に弾幕ごっこを選んだのか、戦っている四人でさえもわかっていなかった。戦闘が始まり、気がつけばそうなっていた。先手を取った永琳が無意識的に放ったそれがきっかけとなったのだろうか。 否、他の誰が最初に動いていても、きっと同じ結果になっていたことだろう。それほどまでに、この幻想郷的な決闘手段は彼女達に染み付いているのだ。
誰一人、言葉を出さなかった。必要なかったのだ。己の伝えたい言葉は弾幕に乗せているし、相手のそれもまた、弾幕を通じて伝わってくる。それならば、言葉を紡ぐことなど最早無用であり、それは不粋。
生命遊戯を突破した輝夜が、龍の頸の玉から出る大量のレーザーを全方位に放射する。それを察知して互いに目と鼻の先まで肉薄していた妹紅と天子が飛び退いた空間を、レーザーとそれに遅れてやってきた永琳の矢が突き抜けていく。 お返しとばかりに天子の操る要石の群れが一瞬前まで輝夜が飛んでいた空間に雨霰と降り注ぎ、同時に妹紅の炎が次の矢をつがえようとしていた永琳を飛び退かせる。
輝夜の振り回す金閣寺の一枚天井が、その圧倒的な制圧力を惜しみ無く振り撒いて三人に迫る。
天子はその弾幕の壁に恐れもせずに立ち向かい、凛々とした勇気を込めた天界の至宝たる緋想の剣で真っ向から叩き斬る。しかし、そのまま輝夜をも斬り伏せんとした刃は、砕けぬ意志を秘めた金剛石の鉢によって受けとめられた。
膠着する二人を、永琳の薬が見せる夢の胡蝶が襲う。
胡蝶は見たものを恐怖させ、決して逃がさぬ悪夢の如き疾さで回避を試みる天子達を追い詰める。
しかしその胡蝶諸共、妹紅の放った黄昏時の日輪の様に紅く燃え盛る爆炎と凱風が全てを呑み込んだ。
空も山も深紅に染める爆炎の中で分断され、四人の戦いが止まる。しかし、それはほんの一瞬だけのことで、爆炎からそれぞれ飛び出した者達によって再び不変なる者達の飽くことなき決闘が再開される。
薄れ行く爆炎の先に天子の姿をみとめた永琳が、獲物を狙う猛禽の如き勢いで襲いかかり、ワンテンポ遅れて天子も永琳に向き直る。
天人や神々の系譜を模した光が襲いくる。その光の合間に飛び交う弾を避けながら、天子は小さく舌打ちする。
彼女は永琳と戦う内に、三百年前に永琳から感じた只者ならぬ気配の正体に確信を持ちはじめていた。そして今、こうして一対一で対峙してみて、理解した。永琳は強い。それも輝夜や妹紅、あるいは自分よりも圧倒的に。只者ならぬ雰囲気の正体は、彼女が隠していた絶対的な力だったのだ。
そして同時に、その力を隠していた理由も悟る。彼女は、どこまでも輝夜に忠実なのだ。だから、彼女は恐らく従者として主を立てる為に今に至るまで隠し通して来たのであろう。しかし、輝夜に本気で来いと言われたことでその不変をこうもあっさりとかなぐり捨て、惜しげもなく本来の実力を見せているのだ。そこまで輝夜に忠誠であり続ける理由は分からないが、その忠誠こそが彼女の貫き通してきた不変なのだということは、天子にも理解できた。
「――羨ましいじゃないの」
零れ落ちた言葉が、弾幕の向こうへ消えていく。
永琳が多量の使い魔を展開する。かつて永夜の異変が起こる切っ掛けとなった彼女の秘術、太古の月の幻影を映し出す弾幕が、一斉に天子へと殺到する。既に逃げ場はない。永琳は確実に天子を倒しにきていた。
しかし、天子は諦めない。彼女は可能な限り回避すると共に無念夢想の境地となることでその致命的な弾幕に耐え、緋想の剣に気質を集める。金剛不壊のこの我が身、ここで活かさずしてなんとすると言わんばかりに真っ向から弾幕に立ち向かう彼女の姿を見た永琳は、それでもなおこのまま押しきろうとしているのか、弾幕を更に苛烈なものとする。
後三発受けてしまえば。 後三発撃ち込めば。
後二発撃耐えれば。 後二発当てれば。
後一発を凌げば。 後一発で仕留めなければ。
この一撃で。 間に合わない……!
――轟音。
降り下ろされた緋想の剣から閃光と共に放たれた緋色の気質が、使い魔諸共永琳を薙ぎ、空を束の間極光に染める。山にいるもの達が、その儚くも美しき光の帯にどよめいた。
天子の渾身の一撃を浴びた永琳が山の頂上に墜ちていく様を見て彼女は勝利を確信し、輝夜と妹紅を探しに行こうと痛む体を動かす。
が。
「っ……!」
次の瞬間、体に受けた強い衝撃に、既に限界寸前だった天子は堪えきれず永琳の隣に墜ちてしまった。天人故の頑丈さで落下の衝撃の痛みは感じなかったが、何故だと空を見上げ、驚愕する。
ごく細い光の糸が、先程二人が戦っていた空間にところ狭しと張り巡らされているではないか。
「最後の最後に動かずごり押しで来るのは想定外だったけれど、これでおあいこね」
消えていく光の糸と極光を見ていた永琳が、してやったりと浮かべる笑顔を見て察する。『天文密葬法』は、目眩ましのフェイク。 永琳の本命は、使い魔達を囮にしている間に張り巡らせた、天地に巡り全てを捕らえる網の罠――『天網蜘網捕蝶の法』にこそあったのだ。
自分もやられることは流石に予想の外だったようだが、あの使い魔に囲まれた時点で天子は既に永琳の手の中だったのだ。
「……なーんか、負けた気分だわー」
ぎりぎりまで隠していた筈の奥の手をまさか先に出してしまっていたとは思わず、天子は少しがっかりしたような声を上げる。
「あら、私の方が先に墜ちたのだから負けたのは私じゃなくて?」
「心にも無いことを」
くすくすと笑う永琳の顔は、言葉よりも雄弁に彼女の勝利を語っていた。
「まぁ、なんでもいいけど。……あーあ、結局、あの二人の決着は見てるだけかぁ」
地面に寝そべったまま、天子は空を見上げる。その視線の先には、黄昏時になっても未だ熾烈な戦いを繰り広げる二人の姿があった。
妹紅が使い魔と共にばら蒔く大量の妖符を、輝夜の手にしたエイジャの赤石から出るレーザーが悉く焼き尽くしていく。しかしそのレーザーも飛び回る妹紅を捉えるには至らず、決定打にはなっていない。
「楽しそうね、二人とも」
「えぇ、千年以上もの間、ずっとあの調子だったわ」
満面の笑みで殺し合いを楽しむ輝夜と妹紅を見上げながら、いつまでもお転婆なんだから、と永琳は溜め息をつき、
「ねぇ、貴方はいつから気がついてたの?」
と変わらぬ調子で聞いてくる。
「六十年前から予感はしてたわ。でも、確信したのはついさっき。だってあいつ、霊夢や慧音と同じ顔、してたもの」
そう、と乱れて顔にかかった銀髪を気だるげに掻き上げながら、永琳は呟く。
「それで、こんなことを?」
「黙って見送るなんて、性に合わないのよ。楽しそうだし」
妹紅が鳳凰の翼から振り撒く焔を、輝夜の子安貝から溢れ出た水が掻き消していく。そうして八方に飛んだ水が日光を浴びて生まれた虹が消えるまで、永琳はくすくすと笑っていた。何がおかしいの、と少し頬を膨らませて問うと、
「我儘なとこ、輝夜にそっくりだと思って」
なんてウィンクしながら言われてしまった。
「そりゃ悪うございましたね」
「いいのいいの、我儘に付き合うのは慣れているもの。今更一つや二つ増えたって、どうってことないわ」
フォローする気すらない様子で、永琳は笑い続けている。そんな彼女にこのまま負けっぱなしというのは嫌なので、少し意地の悪い事を言ってやることにする。
「じゃあ、我儘な私から一つ、貴女に忠告して差し上げましょう」
偉そうで、もったいぶった天人らしい口調で続けてやる。
「我儘な奴ってね、独占欲がとっても強くて、おまけに自分が何でも知ってなきゃ気が済まないの。だから一度自分の楽しいことは簡単にはやめたがらないし、内緒事や裏切りなんて大嫌い」
どうせ、輝夜にはこの事を知らせていないのだろう。知れば、彼女は間違いなく反対するだろうから。
「妹紅はともかくさ、貴方、きっと責められるわよ。もしかしたら、嫌われてしまうかもしれないわ」
それこそ、これまで続いてきた二人の不変が覆りかねない程に。仮にそこまでいかなかったとしても、間違いなくその関係の変化は避けられないだろう。
「……分かってるわ、そんなこと」
しばらく黙りこんでから、返ってきたのはそんな言葉。けれど、その瞳は辛い覚悟に満ちていて、強がりなことは一目で分かる。
「だって、あの子の最大の楽しみを奪ってしまうんだもの。それも勝手にね。怒られたって無理もないわ」
「辛くなるわよ?」
「そうね、もしかしたら、耐えられないかも」
それでも、私は妹紅の願いを叶えてあげなければいけない。そう言って目を伏せる永琳の姿は、いつになく弱気に見えた。それほどまでに、これから来るであろう永い永い輝夜の糾弾は、彼女にとって何よりも辛いことなのだろう。
だからこそ天子は、
「耐えられなくなったら、私の所へ来るといいわ。気が済むまで慰めて差し上げますよ?」
なんて冗談っぽく笑いかけてみせる。これは三人の問題で、所詮天子は部外者に過ぎない。しかし、部外者であるからこそ、どちらにも肩入れせず中立の立場でこれからの永琳達の変化に接する事ができる。そして、それは曲がりなりにも不死を共有する自分にしかできない事だと思っていた。
「ふふっ、じゃあ、いざとなったら頼らせて頂くわ」
「ええ、いつでも来なさい」
薄い胸を張って、ちょっとでも頼もしく見えるように天子は言ってやる。
「ところで、輝夜にはいつ話すの?」
「そうね……時期をみて、かしら。いつになるかわからないけれど」
歯切れが悪い。このままではきっと機を逃してしまう。だったら、こっちが決めてやろうではないか。彼女は思い付くままに提案する。
「じゃ、六十年後にでもするといい。怒り続けることは難しい。だからその頃には、きっと疲れちゃってると思うわ。それで、その時に私も全部聞かせてもらう」
もしそうでなくとも、引っ張ってやるまでだ。この会の活動は彼女が言い出したのだから、六十年後の定例会には必ず顔を揃えさせてやる。天子は、そう心に決めた。
「それはいいけど、知らないことがあるのは気に入らないんじゃないの?」
貴女には今教えても構わないのに、と永琳。わかってないなぁ、この賢者はどこか抜けてる所があるわ、なんて天子は少し可笑しくなってしまう。
「それはそうだけどね、自分だけが知らないのと他に知らない奴がいることのショックの差って結構大きいのよ? だから、輝夜と一緒のタイミングで聞いてあんたへの風当たりを弱めてあげようっていうのよ」
我儘者の事なんてなんでも知ってるのよ、と豪語する。それもそのはず、なにしろ彼女自身が千年以上もの間それで通してきた筋金入りの我儘娘なのだから。
「……優しいのね」
「ふふん、天人は誰よりも思いやりがなくてはいけないのです。……なーんてね。私は口が軽いから、黙ってるのが面倒なだけよ」
なんだか照れ臭くなってしまって、慌てて誤魔化す。けれどもそんな彼女に向ける永琳の眼差しは、どこまでもあたたかい。
これでは、どっちがフォローに回ってるのかわからないな、と思ってしまった。
「ありがとう。……最も、私が一枚噛んでることくらいあの子はすぐに分かるでしょうけど」
だってこれは、恐らく私にしか出来ないことだから。
そう言って、永琳は空を見上げる。既に太陽は沈みかけ、宵闇が顔を出し始めている。
そんな空の上で続く二人の戦いは、より苛烈さを増していた。
今の今まで神宝のみで戦っていた輝夜がついに能力を使い、時を逆流させてこの場で使われた全ての弾幕を妹紅の周囲へ呼び出す。
永琳の術と矢が、輝夜の神宝の力が、天子の気質と要石が、そして他ならぬ妹紅自身の妖術が、彼女へと同時に殺到する。そこに隙間はなく、逃れる事は叶わない。
通常の弾幕ごっこならば間違いなく禁じ手の、しかし殺し合いにおいては最善の、「不可避」の一手が、妹紅を包み込んだ。
爆煙の内に妹紅の姿が消える。跡形もなく吹き飛んでしまったのか。無音になったこの空間で、天狗達が固唾を飲む音が聞こえた。
けれど、勝利を得た筈の輝夜の顔は堅いまま。この程度で終わる筈がない、まだ何かあると確信している顔だった。
パッと、空が一瞬赤く照らされる。
その直後、輝夜がその眼を見開いて自らの背に目を向ける。天子達もまた、輝夜の視線の先にあるものを見て驚愕する。
灼熱色の翼が、彼女の背から生えていた。
パゼストバイフェニックス。血肉を棄て魂のみの存在となった妹紅が他者へと憑き、不死の火で焼き殺す一撃。 いかに輝夜が須臾や永遠を操ろうとも、この焔から逃れられはしない。
翼から産み出された焔の顎が輝夜の体を欠片も残さず呑み込み、太陽と見紛う程の巨大な火球が空に出現する。
その火球から、肉体を再生し、燃え盛る紅蓮の翼を背に負った妹紅が現れた。
その姿はまるで、蘇る不死鳥の様な――否、まさに不死鳥そのもの。
そんな妹紅が己の存在を誇示するように飛翔する姿に、天子達は目を奪われる。
しかし、妹紅もまた、警戒の色を更に強め、両の手に焔を宿す。
そして、不死の民の終わらぬ狂宴は今、終幕へと加速する。
妹紅が生まれ出でた炎の卵が、真っ二つに切り裂かれる。消えて行く炎の名残が残す陽炎の向こうに立つのは勿論、傷一つない体へ再生した輝夜の姿。その手には、彼女達の因縁の根源となった宝具、蓬莱の玉の枝が携えられていた。
輝夜は笑っていた。つい先程まで業火にその身を灼かれていたというのに、まるで何事もなかったかのように、彼女が浮かべる笑みはどこまでも不敵。
上等、と言わんばかりに妹紅の顔も剣呑な笑みに歪む。
蓬莱人故命は無限。されど人故体力は有限。この一撃で全てが決まる。己は勿論互いの限界を嫌というほど知っている二人は、自らの持てる最高の一撃を放つ瞬間を図り、宵闇に染まる空に対峙する。
強風が吹き荒れ、永琳の帽子を吹き上げる。帽子は風に踊らされながら睨みあう両者の頭上へと舞い上がった。
「ねぇ、天子」
風向きが変わり、帽子が落ちていく。くるくると、落ちていく。
「なに?」
帽子が彼女達の眼の高さまで落ちてくる。ぐ、と二人はその身を撓める。
「もしも姫様が――輝夜が望むのならば、私はそれについていくわ。どこまでも、ね」
帽子が遙か彼方へと消えて行く。同時に、二人の蓬莱人が激動した。
「何を今更。あなたがそうすることなんて、言われなくても察しがつくわ」
輝夜が飛び退きながら振るう蓬莱の玉の枝から、得も言われぬ美しさを誇る五色の玉が解き放たれる。この世の穢れをその実に孕む玉の一つ一つから生み出された、一度触れれば二度と戻れぬ弾幕の樹海が輝夜の姿を覆い隠し、また妹紅を呑み込まんとその虹色の弾の枝を伸ばす。だが、妹紅は臆することなく自分からそれに突っ込んだ。
これまで幾度となく再誕を繰り返してきた不死鳥の翼から振り撒かれる鳥の姿を模した妖しき火が、行く手を阻む蓬莱の樹海を真っ向から啄み、焼き払い、駆け抜けて行く。対し、これまでいかなる者の踏破をも阻み、惑わせてきた樹海の弾の枝も、その役目を果たさんとばかりに妹紅の火を捕らえ、絡め、握り潰す。喰らいあう二つの不死の弾幕は、その獰猛さとは裏腹にどこまでも美しい。
「なら、もしも輝夜が望んで、私がそれに従ったら」
樹海は枝一つ残らず焼き払われ、不死の鳥は一羽残らず食い殺される。玉は輝夜の手元へ還り、焔は再び妹紅の背で燃え上がる。
奥の手を互いに相殺しあいながら、なおも二人の勢いは止まらない。弾の枝で身体中に傷を負った妹紅が鳳翼を限界まで広げて天を翔け、同じく身体のあちこちを焼け焦げさせた輝夜が蓬莱の玉の枝にあらんかぎりの力を籠め、虹色の輝きを手に構える。
「そのとき、貴女は――」
二人が激突し、虹色の閃光と深紅の焔が宵闇さえも明るく染める。それから数拍遅れてやってきた轟音に、永琳の言葉は掻き消されてしまった。
力尽きた二人が、山の向こうへ墜ちて行く。もう飛ぶ力すら残っていないのか、頭からまっ逆さまに。いくら不死とはいえ、この峻険に剥き出しとなっている岩にぶつかれば痛いでは済まないだろうと、天子達は二人を受け止めに行く。
「私、勝った?」
炎と虹の残滓が舞い落ちる中で天子に抱えられた傷だらけの妹紅が最初に出した言葉は、それだった。輝夜もきっと、永琳に同じことを聞いているのだろう。
「残念、引き分け」
「……そっか。あーあ、結局勝てなかったかぁ」
悔しがる妹紅。けれどその実、彼女は勝敗などに頓着していない様子で、晴れやかな顔をしていた。
「あんたさ、ホントにもう、思い残す事は無いの?」
天子はもう一度、尋ねる。聞いた所でどうにもならないのは、分かっていたけれど。妹紅は暫く黙って眼を伏せた後、
「そうだね。ちょっと寂しくはあるけど」
と呟いた。
「……そっか。なら、最後に永琳にはちゃんと謝っておきなさいよ?」
「え? なんで?」
キョトンとする妹紅。これは少々きつく叱ってやらなくてはと、天子は妹紅を抱き寄せる。
「あのねぇ、輝夜の事を全部永琳に押し付けていくんだから、そこは謝んなきゃダメでしょ? いくら永琳が輝夜大好き蓬莱人だからって、いや、だからこそこれから辛い思いをするんだから」
「どうしてそんなこと言い切れるのよ」
「輝夜が、我儘だからよ」
輝夜が基本的には暢気で心根の優しい性格だというのは、気質を見る目をもつ天子は理解している。しかし同時に、その下に潜む月の民としての傲慢さや、不自由のない箱入り娘として育ったが故の我儘な気質も、彼女の目は見抜いていた。
そして、この三百年の間に、輝夜が永琳におく信頼は、ある種の依存にも似ていることも知った。
そんな彼女が、他ならぬ永琳の手によって同類――妹紅との殺し合いという楽しみを奪われたらどうなるのか?
先程永琳に言ったように、我儘な者というのは自分の楽しみを手放したがらないし、裏切りや秘密を嫌う。なら、その先にある出来事は、きっと想像もつかないことだろう。
「あんたはさ、別に復讐の為にこういうことをする訳じゃないんでしょ? むしろ、そんな気がなくなったから、こうするって決めたんでしょう?」
「…………うん」
そこまで言われて、妹紅は初めて気がついた。自分との殺し合いなんてどうでもいいかもしれない。けれど、ずっと傍で尽くしてきてくれた筈の永琳に裏切られることはきっと、輝夜に何よりも大きな傷を与えるのではないかと。そしてそれは、かつて己が狂おしい程に求め続けた、輝夜への最大の復讐になり得るのだと。
「……まさか、こんな形で叶うなんてね。そんなの、もうどうでも良くなってたのに」
望んでいた頃には一度も為し得なかったのに、こうもあっさりと叶ってしまうとは。なんという皮肉だと、自嘲する。
「なんで謝らなきゃいけないか、分かった?」
叱るような、諭すような口調で、天子は静かに、確認する。
「……うん。後でちゃんと、謝るよ」
今日は謝ってばかりだ、と苦笑して、妹紅は問いかける。
「ねぇ、これで、本当にいいのかな。わからなくなってきたよ」
身勝手な事をして、望まなくなった筈の復讐をしてしまうことに後ろめたさを感じたのか、妹紅は今更ながら迷いを露にする。今、「よくない」と一言天子が言えば。妹紅を引き留めれば。彼女達の永遠は、きっとまた終わらなくなるだろう。そして妹紅は、あの穏やかな顔を二度と浮かべなくなるだろう。
「悩む必要はない。貴方は己の是とする行いをせよ」
けれど、彼女は敢えて、その背中を押した。人を導く天人として厳かに、迷いなく、妹紅に道を示す。
「大丈夫。あなたがそう決めたのだから、それでいいのよ。望むままに、進みなさい。……これから起きることは、並大抵の事ではないかもしれない。けれど、それは不変などではなくただの変化よ。なら、また変えてゆけばいい」
だから後は、私が見届けてあげる。貴方は迷う必要などないのだと、天子は力強く笑いかけ、約束した。
「……ありがとう。今度こそ、吹っ切れた気がする」
妹紅の顔から迷いが消え、穏やかな表情が戻る。それでいい。なぜだか、そう思えた。
「……さて、もう一人で行けるわね? 傷も大分治ったみたいだし」
「ん、そうだね。ありがと」
腕から離れ、妹紅が前を飛んでいく。なんとなく立ち止まって天子がそれを見送っていると、不意に妹紅が振り返る。彼女はなにやら、奇妙な顔をしていた。
「どうしたのよ」
「あーいや、そういえばあんたが説教するの、意外だなって」
「ふふん、年下の妹分を諭すのも年長者の役目なのです。それに、私の説教はレアなのよ? 最後に聞けた貴方は幸運だわ」
ちょっとお姉さんぶって言ってみると、誰が妹分だ、と即答で返された。しかし、今日の私はちょっぴり大人なのよと涼しく返してやる。
「まぁ、いいけど。じゃ、先に行ってるよ」
「あ、私は先に帰るわ。二人にもそう言っておいて頂戴」
そう言って呼び出した要石に腰かけ、天子はゆっくりと昇っていく。妹紅の姿や地上の景色が、段々と遠ざかっていく。
「どうしたのさ」
「天人のお姉さんは忙しいのよ。じゃあまたね、妹分」
「だーかーらー、誰が妹分だってば。我儘なんだから……」
呆れながら去っていく妹紅の背中を見送ってから、なにも見えなくなるくらい帽子を目深に被る。これでいい。ちゃんとした別れの挨拶なんて自分には似合わないし、出来そうにないと天子は思っていた。
それに何より、これ以上妹紅達と一緒にいれば、折角押し殺した感情が出てしまいそうだから。
もっと遠くへ。もっと高くへ。誰にも見られないように、誰にも聞こえないように。
「謝る相手がもう一人いるってこと、最後まで気付かないまんまなのね」
別れを惜しむ者が、他に居ないとでも思ったのか。気づいていなければ、きっと身勝手だと怒っていたものがもう一人、それもあんなに近くにいたことに気づかなかったのか。これだから人間は視野が狭くて困ると、天子はひとりごちる。
「自分でそう言っていた癖に。……あんただって人間なんだから、せめて言葉くらいちゃんと遺していきなさいよ……」
一人漏らしたその言葉は誰にも届かず、虚しく蒼天へと消えていく。言ってやりたいことなど、まだまだいくらでもある。そんな押し殺していた感情を全部吐き出す為に彼女は一人、遙か空の果てへと昇って行く。
その夜、ほんの少しの間だけ、幻想郷に温かな雨が降った。
六十年後。
ざく、ざく、と白砂の上を裸足で歩く音と、一定のリズムで寄せては返す波の音が、輝夜の耳に心地よく響く。遠くからは、無邪気に水をかけあう妖精達のはしゃぐ声や、太公望気取りの妖怪達が互いの釣果を聞き合う声も聞こえた。
空の様に蒼く澄んだ水を見て、水の酸っぱさを表すのはペーハーだけど、しょっぱさを表すのはなんという言葉だろうか――などと、とりとめも無いことを考えながら、彼女は一人、ただ黙々と歩き続けていた。
そう、ここは海。これまで幻想郷に存在しなかったこの大きな塩辛い水溜まりが姿を現したのは、つい十五年くらい前の話だった。
懐かしい、と輝夜は思う。何しろ、本物の海を見たのはもう二千年近く前の話なのだから。四百年程前に吸血鬼が気まぐれに作ったプールも見るには見たが、やはり本物の海は違う。
しかし、地上の海は彼女が二千年近く前に見た月の海とも違い、生命に、穢れに満ちていた。魚が泳ぎ、潮流に藻や苔の類が揺られ、陸のそれとは異なる生態系があった。
今まで流れ着いて来なかった海が幻想郷に現れたのは、寿命が伸びた事で人が死ににくくなって増えた人口の為に、盛んに埋め立てが行われたせいだという話を、誰かから聞いた事があった。
けれど輝夜にとって、海の出現など、この六十年間に知り合いが次々に消えていった事に比べれば大した変化ではなかった。そう思えるほど、幻想郷からは多くのものが去っているのだ。
まず、プリズムリバー三姉妹。相変わらず幻想郷の人気者だった筈の彼女達はある日突然、霧の湖の畔に構えていた邸宅ごと冥界に移転してしまったのだ。何故それを思い立ったのかは解らないが、消える数日前に冥界の主、西行寺幽々子が彼女達に直接会っていたという話を聞く。
そして次に、八雲紫。妖怪の賢者であり、誰よりもこの世界を愛していた筈の彼女もまた、幻想郷を去ったものの一人だった。当代の巫女の選任の儀を終えて数日後、彼女は突然、式である八雲藍に自らのもつ幻想郷の結界に関する全権を譲り渡すと宣言し、冥界に幽居していった。
同時に、彼女は春雪異変以来曖昧になっていた幽明の境を元に戻したうえ、その強力な結界術で徹底的に顕界と冥界を隔絶してしてしまい、冥界に住む者、つまり先のプリズムリバー三姉妹や西行寺幽々子、魂魄妖夢などは二度と、この世に姿を現すことはなくなってしまった。何故そんな事をしたのか、幻想郷中で様々な憶測が飛んだが、結局誰にもその意図は読めなかった。
そして、最後に。
彼女の好敵手であり、親友とも呼べる仲であった少女、藤原妹紅が、不死の呪いから解き放たれてその長き生に終止符を打っていた。
それは輝夜にとって、本当に唐突で、信じがたい事だった。山での戦いが終わり、一足先に帰ってしまった天子について文句を垂れながら三人でお酒を飲んで、どっちが勝ったか言い争って。それから、里に用があるからと永琳がいなくなり、二人で戻った竹林の途中でまた会おうと別れを交わして――
それっきりだった。
次に輝夜が妹紅の姿を見たのは、命蓮寺だった。多くの人妖に囲まれ、冷たくなって棺の中で眠る姿を見て、最初は何かの冗談だと思った。そんな感情のまま、火炉の中へ消えていく棺を見てもまだ、大がかりなドッキリなのだと思い、どうせそこから復活していつものように喧嘩の一つも吹っ掛けてくるのだろうと信じていた。
けれど、妹紅が再生することはなかった。そのまま彼女が灰と骨だけになり、小さな骨壺に納められていく様を見て、初めてそれが悪ふざけや質の悪い冗談などではなく、現実なのだと知った。
そして同時に、彼女は自らの傍らに立つ従者の裏切りに気がついてしまう。なまじこれ以上無いほど信頼し、なんでも出来ると知っているからこそ、不尽の身である筈の妹紅に起きたこの異変の正体が何であるかをすぐに察してしまったのだ。
彼女は、普段の温厚さや暢気さなど微塵も伺わせぬ程の怒りを見せた。狂ったように吼え猛り、手当たり次第に辺りのものを破壊し、永琳の首を掴んで竹林中を引きずり回し、二人以外の誰にも理解できない月の古い言語で知りうる限りの呪いの言葉と罵倒を浴びせ、時には命さえ奪った。普段使うことのない永遠の力を用いて時の狭間に閉じ込め、果てのない拷問を繰り返し続けることもあった。
だが、頭の隅では理解していた。永琳が訳もなくこんなことをする筈がないと。これは妹紅が望んだことなのだと。そして、もし自分がそれを知っていれば、きっと妨害してしまっていたであろうことも。それでも、彼女は自分だけは決して裏切らないと信じていた永琳のしたことを許せなかった。
だから、彼女は身を突き動かす激情が一通り収まると、押し寄せる自己嫌悪に潰れて泣きわめき、永琳に与えたものと同じ責苦を自らに与えて死に続けた。だが、彼女は不死の身。死ぬことはかなわない。故に再生し、また永琳と自分を呪う。そんな気の狂いそうな時を過ごしても、蓬莱の呪いは狂うことさえ許さなかった。
輝夜を止めることは、誰にも出来なかった。彼女の荒れ狂う怒りは凄まじく、大成し、昔より遥かに胆の座るようになった鈴仙をも怯えさせ、下手をすれば永琳よりも狡猾で物怖じすることのないてゐでさえも縮み上がらせた。しかし、そんな怒りを間近で一身に受ける永琳は、ただただその果てのない責め苦を黙って受け続けるのだった。けれどそんな健気さは、彼女の怒りに更に拍車をかけてしまう。なぜ何も言わない、なぜ裏切ったのだと、奪ったものを返せと、会わせろと、既に答えなど出ている筈の問いを、解くことなど出来る筈もない難題を、血を吐くような叫びとして輝夜の口から引きずり出すのだった。
永琳が何も言わなかったのはきっと、怒り狂った彼女になにを言った所で聞き入れないであろう事を知っていたからなのだろう。たとえ裏切ろうとも、永琳が輝夜の最大の理解者であることに変わりはなかったのだ。
そんな歪で血みどろの日々を、この六十年間、彼女達はずっと繰り返している。
けれど、それも不変ではなかった。輝夜は、疲れていたのだ。怒ることも、自己嫌悪に陥って泣きわめくことにも。だから最近は永琳を責めなくなり、罵倒や呪いの言葉を浴びせることもなくなった。かわりに、彼女はこうして一人で永遠亭の外を出歩き、極力永琳と顔を会わせないようにして過ごす事が多くなった。必然的に彼女が結成した集まりも、この六十年間は一度も活動することはなかった。
「六十年、か」
そういえば、と今日はその会の定例会を行う筈の日だった事を思い出し、回想する。六十年おきのこの日は、四人全員で幻想郷の変化を見届け、記憶に刻む日だった。だからこの三百年余り、受け継がれて行く人の記憶や役目を、変わって行くこの世界の景色を、変化の果てにこの世を去ったものと遺されたものの関わりを、妖怪の生誕を祝う宴を、他ならぬこの会の一員の変化を、彼女達は見届けて来た。
その始まりはなんというとはない、いつもと同じ好奇心からなる思いつきだった。地上に住まう民として自分の為したいこと、自分にしか為し得ないことを探し、考える内に、『穢れによって永遠を奪われ、寿命を得ている地上にあるありとあらゆるものに永遠や不変など存在しない』というのは、本当なのだろうか、という疑問にぶつかったのだ。
確かに穢れによって寿命があるのは本当の事だ。生き物は年老いて死んでいくし、物も時の流れと共に劣化し、朽ちていく。けれど、他ならぬ自分達には、寿命がないではないか。もし穢れが絶対ならば、そこに矛盾が生じるのではないかと、そう思ったのだ。
そしてある時、鈴仙の話から蓬莱の薬以外で不死を手に入れたものがいると知った。気を抜けば妖怪に殺されてしまう仙人や魔法使いのような半端な存在ではなく、寿命を超越し、死神に打ち勝つ力を手に入れる事で地獄にすら我を通す民、天人だ。その話を聞いて、確信した。永遠は、不変は、この地上にも確かにあると。そして、そんな存在がもっとあるのではないかと、確かめたくなった。
その事を話すと、永琳は勿論「それが貴方の望むことなら」と一も二もなく了承してくれた。そうして、彼女はこの「幻想郷の行く末を見届ける会」を結成したのである。
折角会を結成したのだから、自分と永琳以外にも仲間が欲しいと彼女は言った。すると永琳は、ならば会の目的や方針をきちんと決め、勧誘の際にそれを示す必要があると言って、共に考えてくれた。目的も何もない集団に、自分から加わるものは居ないからだ。
それからの彼女は、自分でも驚く程に能動的だった。目的や活動内容、方針を考え、紙に書き起こす。ただ変わって行く世界を眺めるだけでは味気ないからと、不変を探すだけでなく、かつて自分達が月の民からの追跡に怯え続ける事をやめて人妖と共に暮らすようになったような、明るく楽しい変化を探すことも目的とした。
掴みは大事だからと、一回目の活動に相応しい場所を求めて幻想郷中を巡り、幻想郷を見渡せる妖怪の山の山頂をその場所に決めもした。
そして最後は、メンバー集め。まずはいつものように襲い来る妹紅に賭けを持ち掛け、 その日の殺し合いに勝つことで仲間に引き入れた。それから天界に赴き、この活動のきっかけとなった話の天人、比那名居天子を勧誘し、幻想郷の行く末を見届ける会は、六十年前までの姿となったのだ。
その活動は、彼女にとってとても刺激的で、退屈など感じさせなかった。共に不死であり続ける仲間と共に目まぐるしく変わっていく世界を見て、まだ見ぬものを探求して過ごしてきた。そんな活動こそが、或いは永遠なのではないかと思うこともあった。けれど、それは幻想に過ぎなかった。
現に今、彼女は一人、全てを拒絶してあてもなく退屈と戯れている。致命的な変化が訪れてしまったと、苦い後悔を噛み締めている。
ざく、ざく、と、金剛石をばら蒔いたように白く輝く砂浜を歩き続ける。海は、青玉のように澄んだ紺碧の中に太陽の金色の輝きを湛えていた。六十年前の自分なら、この美しい景色に目を輝かせ、三人を振り回して遊んでいたのだろうか、と考える。今となっては、もう出来ないけれど――
「久しぶりね、輝夜」
諦めにも似た思いに俯いていると、声が聞こえた。そして顔を上げ、彼女は小さく息を呑む。
「少しは、落ち着いた?」
天子と永琳が、そこに立っていた。
「っ!」
「あ、待ちなさい!」
永琳の顔を見て、反射的に輝夜は逃げようとする。けれどそれはかなわず、天子に腕を掴まれて止められてしまう。
「離してよ!」
「それは出来ない相談ね」
逃れようと身を捻るが、見かけからは想像も付かない程の強い力をもつ天子の手は、微動だにしなかった。
「これからね、永琳に妹紅の事について聞くの。だから、あんたも付き合いなさい」
妹紅の事。それを聞いて、輝夜は僅かに身を震わせる。この六十年間、輝夜がずっと知りたいと思ってやまなかったことだ。それまで一度も口にしなかったことを、永琳が話すというのか。ようやく、彼女達の真意を聞くことができるというのか。願ってもないことだと、輝夜は思う。
「……それが、なんだっていうのよ。あんただけで勝手に聞けばいいじゃない。私には、関係ないわ」
しかし、口から出るのは嘘にまみれた拒絶。自分でも馬鹿馬鹿しくなるくらい、下らない意地だった。
「嘘ね」
けれど、その言葉をあっさりと一蹴し、天子は見つめてくる。哀れんでいるとでもいうのかと思い、輝夜は激昂した。
「どうしてそう言いきれるの、たかだか四百年足らずしか共に過ごしていないあんたになにが分かる!」
怒声を浴びせ、宝具を取り出して恫喝する。心を見透かされるのは気に入らなかった。振るった蓬莱の玉の枝の力が、天子を無理矢理弾き飛ばした。それでも彼女は立ち上がり、真っ直ぐに見つめてくる。
「見えるのよ、気質の揺らぎがね。だから、覚程ではないにしろ心は読める。千年来の旧友だろうが、一瞬前にすれ違ったばかりの他人だろうが、私に虚飾は通用しない」
違う。哀れみなどではない。しかし、それなら何の感情を含んでいるのか分からない。天子の意図が分からず、少し気味が悪くなって輝夜は飛び退いた。
「黙れ! そんなこと――」
「あぁもう、面倒くさいわね!」
更に拒絶の言葉を浴びせようとして、輝夜は不意に足元から隆起した岩に動きを封じられてしまった。天子が地面に緋想の剣を突き立て、地中深くの岩塊を呼び起こしたのだ。
「あんたの意地に付き合う気はない。私が一緒に聞けと言った、だからあんたは一緒に聞く! 拒否権はない! 以上! 私は我儘だからね、あんたがどう思おうが知ったことじゃないのよ」
無茶苦茶な理屈。かつて私にこれ程一方的な自分の意見を押し付けた者がいただろうか、と輝夜は怒りを通り越して呆れてしまった。我儘もここまでくればいっそ清々しい。しかし、彼女自身の中では筋が通っているようで、天子は堂々と続ける。
「さぁ、分かったら観念しなさい。今日の私は一度決めたら絶対やる主義だから。まだ抵抗するなら今度は――って、痛い! 痛いって! 冗談よ、冗談! だから永琳やめて、地味に痛いから!」
意地の悪い笑みを浮かべて緋想の剣を振り上げていた天子が、突然顔をしかめて情けない声を上げる。何事かと思っていると、体勢を崩す天子の首に、永琳が取り乱した様子で矢を突き付けているのが見えた。
「……はっ! ご、ごめんなさい、つい」
「あーいたた、私が天人じゃなかったら多分死んでたわ……」
我に返った永琳が顔を赤らめながら謝罪する。彼女は努めて平静を装って成り行きを見ていたのだが、天子が緋想の剣を輝夜に向けるのを見て居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。
「輝夜を放してあげて貰える?」
永琳は申し訳なさそうな笑みを浮かべて頼む。岩塊を直接輝夜に当ててはいないことはわかっていたが、閉じ込められる輝夜は見たくなかったからだ。
天子は先程輝夜に見せた眼差しで二人を暫く見比べた後、大仰に溜め息をつき、
「……仕方ないわねぇ、わかった、ここはあんたの顔を立ててあげるわ」
と、わざとらしく大声でのたまってから輝夜を解放した。
「それで、あんたはどうするの? 高々六十年ぽっちでこれまでの事を全部捨てた気になって、意地張ったままこれからもいるつもり?」
砂浜に投げ出されるままに座り込んだ所を、天子に問いかけられる。
輝夜はなにも言えずに俯いた。さっきのやりとりで、やはり永琳は永琳なのだということはわかっていた。自分に危害が及びそうになったとき、天子を殺そうとしてでも助けようとしてくれた彼女は、二千年近く前に月の使者から彼女を助け、連れ出してくれた永琳と全く変わっていないのだと、輝夜は確信していた。それと同時に、たった一度思い通りにならなかっただけで責めてしまったことを申し訳なく思う気持ちで一杯になった。
このまま、下らない意地を張ってその真意を知らぬまま永遠を過ごすのか。こんなにも苦しい日常を、不変のものにしてしまうのか。
そんなのは嫌だと、輝夜は思った。
「……聞かせて」
もう元には戻れないかもしれない。けれど、戻ろうとする努力をしないまま終わってしまうのは嫌だ。そんな想いを込めて、輝夜は永琳の目を確りと見据えてそう言った。
「だってさ。これで心置きなく話してくれるわよね?」
その言葉を聞いた天子が破顔し、永琳に振り返る。永琳も小さく頷いた。
砂浜のど真ん中では人目につきすぎるからと、三人は高台まで移動していた。あまりおおっぴらにするような話でもないし、あんな場所では妖精辺りに水を差されかねないからだ。
「……始まりは、私の傲りが生んだ罪だったわ」
二人に向き合い、永琳はぽつりぽつりと語り始める。これまで誰にも話したことのない、彼女が今日に至るまで胸のうちに隠し続けてきた秘め事を。
「月に住まう神々の中でも特に秀でた頭脳、知識を持っていた私は、己の叡智に絶対の自信を持っていたわ」
それ故に自分に不可能などないと、己が歩む道が、行いが、全て正しいのだと信じてやまなかったと、吐露する。
「けれど、いや、だからこそ私は、月の禁忌である蓬莱の薬を造り、輝夜に大罪を犯させてしまった。望む望まないに関わらず、罪を犯させて、最早月で暮らすことなど出来ない身にしてしまった。私はそれを悔やんだ。悔やんで、償おうとした。でも、月の民が私を罰することはなかった」
彼女は罰を望んでいた。それ故に、輝夜だけを咎め自分には何の贖罪も課さなかった月を憎んだ。
「それから暫くして、あなたの罪は赦され、私はあなたを連れ帰る使者に任ぜられた。私は、償いの為にあなたの望みをなんでも叶えると、誓ったわ」
それからは、貴方の知っての通り――と、永琳は一旦言葉を切る。輝夜は、自らのスカートを強く握った。他ならぬ自分が望んで犯した罪なのに、それが永琳を苦しめてしまっていたのかと、愚かで身勝手な過去の自分を呪った。
「それからの月の刺客からの二人きりの逃避行は、少し窮屈だったけれど楽しかった。高みから見下ろして居ただけの地上と、自分の足で踏みしめる地上は、こうも違って見えるのかと感動さえしたわ。そんな世界と時間を輝夜と二人で過ごせて、私は間違いなく幸せだった」
自責の念に小さく震える輝夜の頭を安心させるように優しく撫でてやりながら、永琳は懐かしむように目を細める。その幸福に、嘘は微塵もなかった。
「そうして地上の民として暮らす途中で、私は多分、変わったわ。自分と地上の民が対等であると考えるようになっていた。地上で暮らすのに、いつまでもつまらない矜持にしがみついていても仕方ないからね」
月の民など自分を入れて二人しかいないのだから、と永琳は言った。
その変化は、輝夜もよく知るところだった。自身と同じで、これまで道具としか思っていなかったはずの地上の民に対する認識が、明らかに変わっていたからだ。
「その内に、私はもう一人の蓬莱人に出会った。彼女は私が犯した罪の、もう一人の被害者だった」
妹紅のことだ。彼女の生が、蓬莱の薬と、それによって地上に降りた輝夜のせいで狂ってしまっていたと、最初に彼女が輝夜へと襲いかかってきた時に知ってしまったのだ。
「私は、彼女にも償わなくてはならないと思った。だって、私はもう地上の民だったもの。ならば一人の人間として、彼女を同類にしてしまったことの責任を取らなくてはならないでしょう?」
月にいたころの、地上の民など道具としか思っていなかった私なら考えることすらしなかったでしょうけど、と自嘲する。
「そしてある日、輝夜の刺客として妹紅に会った時、聞いてみたの。不死であるのは、どんな気分かって。そしたらあの子、『色々あったけど、生きてるって、素晴らしいと思う』って言ったの」
だから、その時は安堵し、なにもしなかった。不死を受け入れ、終わらない生を謳歌しているのなら、自分の出る幕などないし、殺し合いが二人の楽しみになっているのなら、わざわざそれを奪うこともないとも思ったからだ。
「けれど、そこに永遠は無かった」
妹紅は永い生の中でようやく得ることができた無二の親友、上白沢慧音が年老いていくのを見る内に、別れを怖れるようになっていた。蓬莱の民となって人を捨てて以来、人から離れ、隠れ住まう中でようやく手に入れた人との関わりが失われてしまうことに怯えたのだ。けれど、時は無情に流れ、慧音は妹紅と袂を分かってしまった。
「慧音の葬式の後、妹紅は私の元へやって来て、言ったわ。『不死を解く方法はないか。心が腐りきってしまう前に、私は死んでしまいたい』、とね」
それを聞いた輝夜は、昔月から帰ってきた霊夢に寿命が伸びたら地上の民はどうするのかと問いかけたことを思い出す。
心が腐っても生き続ける事の無いように、寿命を減らすことを目指すのではないか。それが、霊夢の答えだった。そして、今しがた永琳が語った妹紅の言葉は、それとほぼ同じものだった。
つまり、妹紅はどこまでも地上の民だったのだ。寿命が無いに等しい月で暮らし、身近に不死を共有できるものがいた上に長く永遠の中に居た永琳や輝夜とも、天界に住み、家族を初めとした不死の同類がいくらでもいる天子とも、妹紅の不死のあり方は違った。
彼女の周囲は、死に満ちすぎていた。無限の時間を共有できる者も、不死がありふれた特別な世界で暮らすこともなかった彼女は、不死が故の辛さを分かち合える者がいなかったのだ。だから、大切なものはすぐに無くなってしまうものばかりで、肉体は不死でも価値観や心が人間のままであった妹紅には、それが耐えられなかったのだ。
「そんな彼女の呪いを解くのが、私にできる償いだと思った。だから、なんとしても叶えてあげたいと思った。例え、それが輝夜を裏切る事になったとしても……」
それから、二人は定期的に会って語り合うようになり、永琳は蓬莱の呪いを解く術を研究するようになった。そして、紅魔館でフランドールの誕生会が開かれた年に、不死を解く術が完成したのだと言った。
「私は材料さえあればいかなる薬でも作る事ができる。それは蓬莱の呪いを解く薬でも例外ではない。私は、蓬莱の薬からその解毒剤を作った」
「待って、蓬莱の薬は私の力無しじゃ作れないんじゃないの?」
思わず、輝夜は口を挟む。蓬莱の薬からその解毒剤を作ると言うのは、言ってみれば毒から血清を作るようなものだからまだわかる。しかし、その蓬莱の薬を作るには、永遠を操る能力がなくてはならない筈だ。それに、月ならまだしもここは地上。永遠を操れるものなど、自分以外にはいない。ならば、どうやって?
「ええ、その認識は間違っていないわ。貴方の能力無しでは地上で新たに蓬莱の薬を作ることはできない。けれど、既に作られた薬は、幻想郷でも手に入るのよ」
そう言って、永琳は自分の腹を軽く押さえてみせる。
「蓬莱の薬は肝に溜まる。私は妹紅の肝から取り出した蓬莱の薬を使ったの」
かくして、不死を解く薬は完成した。それは、不変であるはずの蓬莱人の命が、不変ではなくなった瞬間でもあった。
「妹紅にそれを話したら、あの子は全部にけじめをつけてからそれを使うと言ったわ。山に徒歩で登ったのも、あの山に住む神に、かつて犯してしまった罪を懺悔するためだった」
そしてこれまでずっと、背負ってきた物を下ろした彼女は、最後の最後に輝夜との決闘を望み、その末にこの世を去ったのだった。
「あの子は最後に、私に謝ったわ。なんでかしらね、悪いのは私なのに。それから、貴方達に礼を伝えるように言って、薬を飲んだ。……これで、全部よ」
それから、永琳は輝夜を抱き寄せ、
「ごめんなさい。あなたには、辛い思いをさせてしまったわね」
と、掠れた声で囁いた。
「ち、違、永琳、私は、私が――」
謝るのは、私の方だ。彼女はただ、犯してしまった罪を、それも自分の我儘が発端となった罪を償っただけなのに、私は何も知らず、知ろうともせずにそれを裏切りと決めつけ、苦しめてしまった。だから、謝るのは彼女ではなく、私の方なのに――と、輝夜は謝ろうとした。けれど、伝えたい事が多すぎて、感情が溢れすぎて、言葉が出ない。それでもと、やっと紡ぎ出そうとした言葉さえ、他ならぬ輝夜自身の咽び泣きにおぼれてしまった。
そんな輝夜を、永琳は強く抱き締める。言葉などなくとも、輝夜の思いは伝わっていた。
夕凪の海辺に、泣きじゃくる輝夜の声が響く。天子はそれを見届け、邪魔にならぬようにと静かにその場を離れた。
いつしか遊んでいた妖精も釣りをしていた妖怪も帰り、潮騒ばかりが聞こえる静かな砂浜を裸足で歩く。寄せては返し、足を濡らす冷たい海水が心地よかった。
海は、発見で一杯だった。外の世界では最早幻想となってしまった「美しい海」は、どこまでも澄んでいて、深い深い海底まで見えそうだし、砂浜には無粋な塵など一つもなく、長旅の果てに打ち上げられた流木や宝石のように美しい貝殻に彩られていた。
「あの二人は、まだなんにも見てなさそうねぇ。ずっとお互いの事しか考えてなさそうだったし」
苦笑し、まだ二人がいるであろう高台を見つめる。その眼差しには先ほど二人を見た時と同じ、羨望が込められていた。
天子はずっと、羨ましく思っていたのだ。彼女には、輝夜にとっての永琳の様にどんな悩みや悔いをも受け止めてくれる相手も、永琳にとっての輝夜の様にどんなことがあろうとも尽くし続ける事のできる者も、妹紅にとっての慧音のような、大きすぎる命の差を理解してなお受け入れ、想ってくれる者もいなかった。それは、どれ程我儘を言おうとも得られぬものだ。
勿論、永琳や輝夜のような、語るに足る友はいる。けれど、永遠を共にできる者はいなかった。一見同族に見える他の天人でさえ、おまけで成り上がったにすぎない不良天人の自分を良く思わない者がほとんどなのだから。そういう意味では、彼女は孤独であり、故に輝夜や妹紅に憧れていた。
しかし、だからこそ自分はこの六十年間、中立であれたのだと天子は思っていた。彼女は今日まで、罪の意識に苦しみ続ける二人を見届けてきた。時に輝夜が自己嫌悪と怒りの板挟みになっていれば傍にいてその行き場のない感情の捌け口となって話を聞いてやり、時に永琳が輝夜の責め苦に押し潰され、耐えきれなくなれば天界へと招いて気が済むまで泣かせてやった。逝ってしまった妹紅の代わりに、二人の行く末を見続けていた。
その間、彼女は輝夜に明確な答えを与えて導くことも、永琳に同情し彼女の代弁者として輝夜を糾弾することもなかった。あくまでも傍らに居続けてやるだけだった。彼女は二人の理解者だったが、同時にどちらの味方でもなかった。
そんなことが出来たのは、自分が両者とも同じくらいの距離にある中立の立場にいたからだと、彼女は知っていた。もしもどちらかに傾いていれば、きっとそれに同調してもう一人を責め、あの決別を永遠にしていたことだろう。
もしかしたら、逆にそうすることで、天子自身が輝夜にとっての永琳、或いはその逆の立場に成り代わることが出来たかもしれない。
彼女が憧れてやまない、無二の存在を手に入れられたかもしれなかった。
でも、彼女はそうしなかった。
そんなことをして手に入れたところで、きっといつか、何故そんなことをしたのだと後悔するに違いなかったし、なによりも、六十年前の妹紅との約束を果たしたかったからだ。
だから、彼女は今日まで見届けてきた二人の最後の変化の為に、永琳には『六十年前の約束』として、輝夜には『自分の我儘』として二人を引き合わせ、泥を被って見せてでも二人が話すきっかけを作り、不変になりかけていた決別を打ち破ってみせた。
「どーせ、見えてないだろうけどさぁ、あんたとの約束、ちゃんと守ったわよ!」
誰もいない海へ向けて、彼女は叫ぶ。約束は果たされた。変化は成された。もう二人が互いを想って苦しむことはないだろう。
海の向こうへ沈んでいく夕陽が、最後に赤金色の光を一筋、水面へと投げ掛ける。
天子の目には、それが妹紅の灯す焔に見えた。なんだ、ちゃんと見てたんじゃないか、と天子は笑う。
「……まぁ、おかげで私の立場がますますなくなっちゃうんだけどね」
夕陽が完全に海へと沈んだ後、天子は笑顔のまま、寂しそうに呟いた。二人の絆はきっと、元に戻っただけでなく、より固いものとなった筈だ。降りしきる雨は、同時に地をより確かなものにするのだから。
それこそ、天子が間に入る余地など無いほどに。
また少し遠ざかっちゃったかな、と困ったように笑って、天子は高台へと戻る。
二人は静かに、肩を寄せ合って星屑の光を秘める深い瑠璃色の海を眺めていた。
いい加減帰るわよ、と声をかけようとして、思いとどまる。折角六十年ぶりに分かり合えたのだから、今日くらい水入りは勘弁してやろうと思ったのだ。
その代わり、明日は二人共へとへとになるまで振り回してやる、と決意する。二人してすっぽかした定例会を、一日日を改めてやるのだ。なんと寛大な私だろう、なんて一人で得意になる。
だから今日は、いつも通りに、この世界を見届けてやろう。
三百六十年前に、山から世界を見渡したように。
三百年前の神社であった、新たなる巫女の誕生のように。
二百四十年前の、慧音と御阿礼の子の対談のように。
百八十年前の、妹紅の墓参りのように。
百二十年前の、吸血鬼の誕生日のように。
そして、六十年前の、輝夜と妹紅の最後の決闘のように。
天子は、いつだって傍観者だった。
六十年後。
「うわー、ごちゃごちゃしてるわねぇ」
「風情もない、彩りもない、面白みもない。ないないづくしであるのは少々の頑丈さだけ、か。よくもまぁこんなつまらないものの中に住めるものだわ」
無縁塚に広がる大量の灰色の残骸に、天子と輝夜は思わず呆れと驚嘆の入り混じった声をあげる。灰色の名前は、コンクリート。
これらが前々から少しずつ幻想入りしてきているのは知っていたが、一度にここまで沢山流れて来たのは、今回が始めてのことだった。
「殆ど劣化して、もう使い物にならないわね。だからこそ流れ着いたのだろうけど」
手を触れた途端にぼろぼろと崩れ去るそれを見ながら、永琳は呟く。
人間の間では長く頑丈であり続けるものと持て囃されてきたのだろうが、彼女達の目にはどうしようもないほど脆く儚く映った。
「色々なものが流れ着くのはいいけど、こんなものまで来るのはちょっと迷惑ねぇ」
「まったくだ」
辟易した様子の輝夜の呟きに、同じくうんざりした風な声が答える。余り聞きなれていない声に、三人が同時に振り返ると。
「どうも」
艶やかな毛並みの、見事な尻尾が九本。八雲藍が、そこに立っていた。
「あら、妖怪の賢者様じゃない。どうしたのこんな辺鄙な場所に」
よせよせ、賢者なんて柄じゃないと首を降りながら、藍は肩を竦めて見せる。
「これを結界の外に放り出すんだ。妖精も寄り付かないこんなもの、置いてたって仕方ない」
言いながら、藍はてきぱきと術の準備を整えていく。ものの数分もしないうちに、天子達の目の前にあった灰色の山は結界の外に弾き出されて消えて行った。
「お見事」
「どうってことないさ。それに、紫様なら軽く指を振るだけで終わらせてしまうよ」
永琳の世辞に苦笑して、最近はこんなことばかりだと藍はぼやく。
「ここのところ、色々と不穏でね。だからこうして色んなものが流れて来るんだ」
外の世界は今、膨れ上がった人口と、なくなりつつある資源を巡って不毛な争いを始めようとしていると藍は言った。
大国は我先にと小国を押し潰してはその土地や資源を手にし、僅かばかりの延命を図っている。
その余波を受けて破壊され、朽ち果て、忘れられたものがこの地に流れているのだそうだ。
「もしかして、これも月の民が仕組んだことだったりするのかな?」
くっくっ、と笑いながら藍が問う。無論、本心から出た言葉ではない。彼女なりのジョークだ。紫の式ではなくなった彼女は、心なしか以前よりもっと感情豊かになっている気がした。
「さぁね、私達はもう地上の民だから分からないわ。もっとも、月の民がそんな不毛な争いを起こすとは思えないけれど」
「月の民が戦争を煽るのは、いつだって地上人の発展を促すためだからね。それにしても、貴方の口からそんな言葉を聞くとは。飼い主に似たのかしら」
二人の答えに、あぁ、分かっているよと藍は言って、
「紫様に似てきた、か。どう? 威厳とか、あるように見える?」
などとおどける。そんな人をくったような仕草は、確かに紫に似ていた。
「そうねぇ、まだまだ胡散臭さが足りないわ。なんというか、あいつの読めなさは底なしだった気がする」
その点、あなたはまだまだ素直な方だと天子がいうと、藍はそうだな、と笑って、目を細める。
「千年近くあの方の傍に居続けたが、未だに紫様の考えは分からないよ。最後まで読めないお方だった」
紫が突然この世を去り、冥界を隔絶してから早六十年と少し。未だわからぬ主の意図を考え、首を捻りながら藍は呟く。
「もしかしたら、紫様は今幻想郷が直面している問題を読んで見切りをつけていたのかもしれないな。そうでもなければ、誰よりもこの地を愛していたあの方が寿命でもないのに去るとは思えない」
「問題って?」
天子が聞くと、藍はやや険しい顔になって続ける。
「さっき、外の世界で争いが起こりつつあると言っただろう。それによって、外の世界で滅び、忘れられた土地の技術や物品が次々に流れ込んできている。人間の暮らしは、どんどん豊かになってきている」
「なにか問題が?」
豊かになるのなら、それはいいことなのではないかと天子は思った。しかし、大有りだと藍は続ける。
「暮らしがただ豊かになるならそう悪いことじゃあない。だが、豊かになりすぎている。人は自分が全能だと思い始めている」
技術や物品が豊かになれば成る程、人は出来ないことが無くなっていき、思い上がるようになる。それは、妖怪をはじめとする幻想の存在には致命的なことだ。
「怪奇を恐れる必要が無くなれば、妖怪や妖精は恐れられなくなる。自分でなんでもできるなら、手助けや施しを神仏に願う必要はなくなる。特別な修行をしなくても長命になれるのなら、長生きの為に仙人や魔法使いになる必要はなくなる。私達は、存在する意義がなくなってしまう」
つまり、かつて幻想郷が世界から隔絶される前の外の世界と、同じ道を辿りつつあると言うことらしい。
「どうにかならないの?」
「ならないな。物でさえ完全に遮断することもできないのに、人の心を完全に支配することなんてできやしない」
諦めの表情で、藍は溜め息をつく。
「盛者必滅。仕方ないと言えば、仕方ないのかもしれないな」
形あるものはいずれ滅ぶ。それは摂理だから。夢はいつまでも見続けられない。蓬莱の民でさえ、そうだったように。
「とはいえ、ここが人間の天下になるとも思えないけどね。何しろ外の世界は滅び始めている。それが現実となったとき、この世界は――」
「藍様」
言い切る前に、橙が藍の元へ飛んでくる。彼女は少し焦った様子で、博麗神社の裏側に外の廃屋が流れてきていると言った。
「わかった。このまま巫女ごと神社を押し潰されても困る。すまない、行ってくるよ」
三人に会釈をし、藍と橙は空へ消えていく。
「……盛者必滅、か」
それを見送った後、輝夜が口を開く。
「それでも、私は永遠があると思うわ」
その言葉は力強く、希望的観測や願望ではない、確信に満ちていた。
「あら、なにか見つけたの?」
「ふふっ、秘密よ」
悪戯っぽく笑って、輝夜は問いかけてきた永琳に抱きつく。六十年前の一件以来、二人は以前よりももっとその仲を深めていた。よそでやってよ、と呆れながら言って、天子は永琳を振り回す輝夜を眺める。本当に、彼女は不変と思える存在を見つけることが出来たのだろうか。
ならば、私達の活動は完結を迎えたのではないだろうか。なし得ることなど、それ以上はないのではないだろうか。そこまで考えて、天子はふと、ある疑問に思い至る。
不変の存在を見つけたとして、その先はどうなるのだろう。探し続けて来た物を手にいれて、その先は?
八雲藍が言ったように、世界は滅びつつある。けれど、天子達は妹紅のように自分から死を迎えない限り、そのまま生き続けることだろう。それなら、なにもかもが滅びた末に、その何ともわからぬ不変と永遠を過ごし続けるのだろうか?
否――と、天子は否定する。きっと、変わらぬ物を見つけたとき、自分達は変わるのだ。どんな形であれ、きっと。不尽の命など仮初めの不変にすぎない事は知っている。そのうえ天人の命は、死を受け入れないという精神、生きていたいという欲に裏打ちされたものだ。ならば、生きていたいという気持ちがなくなり、死すらも受け入れる気持ちになれば、自分の不変は変化を迎える筈だ。
そして、他の天人ならいざ知らず、歌と踊りばかりの暮らしにさえ飽きている自分では、例え不変のものが共にいたとしても、何もかもが滅んだ世界に流れる時間の中でいつまでも生き続けることができるとは、到底思えなかった。だからきっと、死を受け入れる日が来る。それこそがきっと、不変を見つけるその瞬間なのだ。
不変を見つけて始めて、自分達の不変は変わる。矛盾しているかもしれないが、きっとそうなのだろう。天子は、確信する。
それなら、と思う。既に不変を見つけたらしい輝夜は、もうすぐ変わってしまうのではないか。それに、妹紅が去った時にあれほど取り乱した彼女が、これから来るであろう永遠亭の兎達との別れに耐えられるとは思えなかった。恐らく、その時に輝夜は変わる。そして、それに従うと言っていた永琳も。二人は共に去っていくだろう。そこまで考えて、輝夜の永遠の正体に見当がついた気がした。同時にそれは確かに永遠で、 しかし自分にはないものだということにも。
輝夜達との別れは、刻々と近づいている。永遠のあとの答えを出してしまった天子には、そう思えてならなかった。
でも、自分はそれに付いていくことはないだろうとも思った。その時はまだ、不変を見つけられてはいないだろうから。
「どうしたのよ、天子」
「何か考え事?」
ボーッとしているようにでも見えたのだろうか。輝夜と永琳が、少し心配そうに声をかけてくる。
「いや、なんでもない。それにしてもあんたたちさぁ、もうちょっと場の空気ってもんを考えなさいよ。ベタベタベタベタ、見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
「あら、それは失礼しました。けど、これでも外じゃおさえてる方なのよ? 家じゃあもっともっと激しいわよね、輝夜?」
「へぇぇー?」
「ばっ、馬鹿、違う、違うから!」
赤面する輝夜をからかいながら、天子達は別の場所へと変化を探し、不変を求めに行く。例え自分一人になったとしても、この旅は不変を見つけられるまで終わることはない。だから、それまでの変化は見届け続けよう。天子は、そう心に決めた。
「で、次はどこいく?」
「うーん、地底とかどう? 貴方、行ったことないでしょう?」
「仙界はどうかしら。あれも不老不死を目指す人間の作った世界だし、なにか面白いものもあるかもしれないわ」
空を飛びながら、三人は行く先を話し合う。変わらぬものが見つからずとも、変わり行く素敵なものはあるに違いない。不変が見つかるまで、それも見届けたいと思う。
「じゃ、地底にしましょう! 急がないと日が暮れちゃうし、飛ばすわよ!」
「地底は日が暮れなくたって暗いんじゃないかしら」
「細かいことはいいのよ!」
「まぁまぁ永琳、この際だし、のんびり温泉旅行でもしましょうよ」
二人を置いて、加速する。地底も、仙界も、彼女にとっては未知の世界だ。幻想郷は、まだまだ私を飽きさせてくれそうにない。
そんな未知に心を踊らせ、まだ見ぬ不変を求め、天子は空を駆けた。
六十年後。
「はじめまして。お会いできて光栄です」
落ち着いた声と共に、愛飲している銘柄だという紅茶を勧められる。少女の周りには、古めかしい書物がうず高く積み上げられていた。
十三代目の御阿礼の子。彼女に会いに行こうというのは、天子の提案だった。
「はじめまして。それにしても、凄い数の資料ね。これ全部幻想郷縁起?」
「えぇ、歴代の私達の、記憶の結晶ですよ」
途方も無い努力ねぇ、と漏らす天子に、そうでしょうそうでしょう、と御阿礼の子は誇らしげに言った。
「見せて貰ってもいいかしら?」
「えぇ、勿論ですよ」
快く頷く御阿礼の子から、手近な一冊を受けとる。それは奇しくも、丁度彼女たちが幻想郷に初めて姿を現した頃の御阿礼の子、九代目阿礼乙女、稗田阿求が記した幻想郷縁起だった。
「それは九代目のものですね。それなら改訂版がいくつかありますから、お二人もどうですか?」
永琳と輝夜にも、別の縁起が手渡される。妖怪達とも、自分達のような人を超越した者達とも違う、人間の視点から描かれた、幻想郷。それがどんなものなのか、まるで宝箱を開けるような気持ちで、三人はそれぞれの縁起を開いた。
「懐かしい顔ぶれね」
ぽそりと、永琳が呟く。確かにその通りだった。
天子が読むのは、初版の縁起。まだ、花の異変の頃までの事しか書かれていないものだ。
まだ妖精だった頃のチルノ。
悪戯好きの妖精の中では珍しく、吉兆とされているリリーホワイト。
三人でつるんでは悪戯ばかりしていたサニーミルク、ルナチャイルド、スターサファイア。
剣を振り回すだのいきなり斬りつけてくるだのと色々と物騒な事を書かれている妖夢。
人間たちに評判がよく、ファンクラブもあったというルナサ、メルラン、リリカ。
恐ろしいのか間抜けなのかよくわからないルーミア。
寒がりな者たちにはちょっと敬遠されがちのレティ。
関係のない虫の被害まで擦り付けられているリグル。
妖怪なのに対策として普通の鳥と同じ鳥もちを推奨されているミスティア。
まともに門番をしている様子の報告が存在しない美鈴。
本当に妖怪だったのかとさえ疑われているメディスン。
過剰なまでに危険視されている幽香。
絶対的な存在として書かれている紫。
本人よりも人形の方が恐れられているアリス。
魔法使いらしい魔法使いと評価されているパチュリー。
まだ頼りなく、一介の妖獣に過ぎなかった橙。
尻尾について霊夢に興味を持たれている藍。
詳細な目撃報告例かもしれないものを妄言や夢と切り捨てられてしまっている鈴仙。
生きる上での幸運を得るために死ぬような思いをしなければ会えないという、矛盾した立場にあるてゐ。
まだ若く、授業の難解さを酷評されている慧音。
夜に活動すると書かれていながら昼の目撃報告例が真っ先にあげられているレミリア。
まだ引きこもりであり、表に出ている姉よりも危険とされるフランドール。
弱点になりかねない逸話を堂々と書かれている幽々子。
カフェでの読み物として新聞が人気だったという文。
やはり当時から宴好きだったらしい萃香。
阿求本人とは稀にしか会わないだろうにサボりを疑われている小町。
説教臭いと敬遠されている映姫。
これが書かれる頃には既に並みの人間ならば伝説になるような冒険をしていた霊夢。
努力家であることを評価されつつも泥棒稼業のことで一気に株を下げられてしまっている魔理沙。
長く壮大な過去話……と見せかけた阿求の想像話にその項の三分の一程を割かれてしまっている咲夜。
後に起きることなど想像すらされていないであろう、変人扱いの霖之助。
「あら、変な勘繰りをされてしまっていたようね。やっぱりちゃんとお金はとっておくべきだったかしら」
「私が琵琶法師の末裔ですって? 失礼しちゃうわー」
自分達の項目を見たらしい永琳と輝夜が、それぞれの感想を述べる。天子も、妹紅が忍者の末裔かもしれないというトンデモ説に思わず吹きだしてしまった。
阿求達の見てきた幻想郷は、実に楽しいものだったに違いない。そう思った。
一通り読み終わり、三人は自分達の持つ縁起を交換する。永琳の読んでいた二版の縁起には先程の項目に加え、守矢神社がここに移転してから起きた騒動に関わった者たちが紹介されていた。
初版では未確認とされていた項目も、その多くが埋まっている。八百万の神の項目には諏訪子、穣子、静葉、雛。付喪神として、小傘。河童の項目にはにとり。神霊には神奈子。仙人の項目には神子、青娥、布都が紹介されていた。勿論既存の項目にも変化があり、幽霊に村紗。妖怪にヤマメ、パルスィ、さとり、こいし、一輪、雲山、ぬえ、響子。魔法使いに白蓮、妖獣に燐、空、ナズーリン、星、マミゾウ。
亡霊に屠自古、鬼に勇儀、英雄には早苗が加えられている。しかしなぜか天子や衣玖の事は書かれておらず、輝夜の持っていた三版に華扇、はたてらと共にようやく載せられていた。その事を問うと、九代目はあなたの起こした地震が怖かったと遺書に書いていたから、ちょっと恨まれていたのだろうと言われてしまい、なんだか妙な気分になってしまった。
「……懐かしいわね。あの頃は、みんな居たのよね」
ぽつりと、輝夜が感慨深そうに呟く。
「そうね、確かに、幻想郷にいた。そして今でも、こうして歴史に刻まれている」
輝夜の言う通りだと、天子は強く肯定した。みんな、確かにそこにいたのだ。 往時の姿を模した阿求自筆の画と共に、彼女たちは皆、確かにその存在を刻まれている。
けれど。
「一体、どれくらい今の幻想郷に残っているのかしらね」
永琳が目を伏せながら言った。妖怪たちは、この世界からさえも消えつつある。六十年前の藍の危惧が、現実になり始めているのだ。
人が妖怪を恐れ、神を敬うことは殆どなくなってしまい、その為人の恐怖や信仰心を糧とする妖怪達や神々は日に日にその力を弱めている。それだけではない。恐れることも信ずる必要もないと知った人間たちは、妖怪や神の存在を否定し始めたのだ。物が豊かになる代わりに、人は心の豊かさを失ってしまった。
「スペルカードルールが撤廃されて、もう二十年。妖怪は酷く弱体化し、博麗の巫女も、今や結界を繋ぎ止めるだけの形骸化した役割の人柱に過ぎなくなってしまいました」
御阿礼の子の言う通り、今の幻想郷の妖怪にはもう、異変を起こすほどの力は残されていないし、巫女も不思議な力を使えなくなっていた。だから、スペルカードルールは機能しなくなり、いつしか撤廃されてしまった。今や、弾幕ごっこを知るものすら人間の中には殆どいない。
つまらない、味気のない世界になってしまったと天子は思う。
「…………」
振り向くと、輝夜が俯いて唇を噛んでいた。無理もないだろう、何しろ彼女と永琳には、共に暮らす妖怪兎がいるのだから。妖怪達が衰弱してゆく様を、誰よりも身近に見ているのだから。輝夜の哀しみは予想してはいたことだが、いざ目の当たりにすると天子も少し辛くなってしまった。
「……時の流れと言うものは、本当に残酷なものですね」
ぽつりと、誰に言うでもなく御阿礼の子が呟く。約百年おきにしか転生できず、生まれ変わる度に違う世界で過ごすことを宿命付けられてきた少女の言葉は、凄まじい重みを含んでいた。
「この幻想郷縁起も、長い長い時の中で変化を繰り返してきたのですよ」
うず高く積み上げられた縁起、歴代の御阿礼の子達がその生涯をかけて紡いできた歴史の山を愛おしそうに撫でながら、少女は言った。
「始まりは、幻想郷に住まう妖怪達に人間が対抗するための方法を記したものに過ぎませんでした」
原初、妖怪は人を襲って喰らい、恐怖させた。そして人は様々な計略を駆使し、妖怪に対抗し、退治してきた。それが本来の、人妖の関係であった。
「そんな関係は、八代目の頃、大結界がこの地を他から隔絶する頃まで続きました」
そうして人の数に限りができ、スペルカードルールが確立されて、人妖の関係は大幅に変わったと、少女は言った。
「九代目の頃には、人と妖怪は争いあうだけの関係ではなく、良き隣人としての関係ももつようになりした。それを受け、幻想郷縁起もただ妖怪への対抗法を書くのではなく、人となりを紹介し、友好的な関係を築く方法を書くものへと変化しました」
共に遊び、語り合い、酒を酌み交わす。人は襲われ、妖怪は退治されるという根本的な部分こそそのままだが、朋友としての側面を持つようになったのだ。
「九代目は縁起の最後の独白で、自分のいる絶妙な距離感を保っているその時代こそが人妖にとって最高の時代だと述べていました。彼女の手記は、実に希望に満ちていた」
その通りだと、天子は思った。馴れ合いすぎることはないが、過剰に恐れることもない。その絶妙な均衡こそが、人妖が共存できた由縁なのだから。
「けれど、そんな均衡も、今となっては崩れてしまった。人間が自ら崩してしまったのです」
御阿礼の子は悲しそうに微笑む。記憶を薄れさせながらも、空白を明けながらも見てきたこの世界がこのような変化を迎えてしまったことを嘆いているようだった。
「何れ幻想郷縁起の在り方を考え直さなくてはならないとも、九代目は記していました。でも、もうそんな必要はないでしょう」
妖怪を否定した世界において、幻想郷縁起はその立場を変えていた。人ならざる者達の存在を刻んだそれは、人にとって稀少な歴史書から、ありふれた娯楽本の一つにすぎなくなっていたのだ。ならばもう、この書の存在意義など。
「……実は先日、閻魔様に最後のお願いをしてきた所なんです。人並みの時間を、過ごせるように」
長きに渡る御阿礼の子の役目は、終わりを迎える。だから最後くらい――そんなささやかな願いを、この少女は抱いたのだ。
「幸せ、だった?」
思わず、天子は聞いていた。紡いできた歴史を虚構であると否定されることは、幾度となく転生を繰り返してきた彼女達の存在を否定されることと同義だ。そんな残酷な世界を、受け入れられるのか。
「勿論ですよ。私は、私達は間違いなく幸せでした。それに今日、あなた達が来てくれたおかげで、これまで記し続けてきた歴史が、真実だって確認できましたから」
力強く答え、もう少し欲を言うなら、妖怪達と共に時を過ごしたり、弾幕ごっこをしてみたかったですが、なんて冗談めかして、最後の御阿礼の子はもう一度微笑んだ。その笑みには、先程の寂しげなそれとは違い、天子が今まで見続けてきた者達と同じ、輝くような喜びと、全てを受け入れた穏やかさがあった。
「よかった。それなら、いいの」
それならば、もう心配はない。天子は安堵し、笑顔を返した。
「これからも、幸せにね」
「人生、精一杯謳歌しなさいよ?」
「よかったら、いつでも永遠亭へ来なさいな。月の事とか、色々教えてあげるわ。月には私の弟子の姉妹とか、あなたの知らない神々が沢山いるから、きっと気に入って貰えると思うわ」
「はい! また、会いましょう!」
笑顔で見送られ、三人は稗田の屋敷を後にする。
「幸せに、か。人の幸せって、どんなものなのかしら?」
初めて過ごす人並みの人生を、彼女はどうやって送るのだろうか。普通に恋愛をして、愛しい人と結ばれて子を為して、やがて次の世代へとあの偉大な歴史書を受け継いで安らかな眠りにつくのだろうか。そんな月並みな想像しかできなかったけれど、今までの彼女達にはできなかったことだろうから。
「どんな平凡も、これからのあの子にとっては初体験の、魅力的な刺激になるのでしょうね」
隣を歩く輝夜が、少し羨ましそうに言った。そうだ、人としての平凡を、今日に至るまであの少女は経験していない。それならば、きっと平凡さえ素敵な変化として彼女の目に映る事だろう。
どうか、素晴らしき一生を。天子達は、長き旅を続けてきた少女の、最後の生の手向けにと、そう祈った。
六十年後。
しんしんと降りしきる冷たい光が、静かに竹林を照らす。今宵は満月。中秋には早すぎるけれど、十二分に名月だと天子は思った。
一人縁側に腰掛け、手にした盃に月を映す。少しだけ波打つ酒に、月はゆらゆらと揺れた。
「飲まないの?」
後ろから、涼やかな声がかけられる。輝夜だった。
「ん、あんまり綺麗な水月だから、少し勿体無いかなって」
「そう」
盃に映る水月を見つめたまま天子が言うと、輝夜は隣にやってきて、腰を降ろす。
「永琳は?」
「向こうで、準備してる」
「そっか」
他には誰もいない永遠亭の縁側に、二人の静かな声だけが響く。かつててゐを筆頭に奔放に暴れまわっては大騒ぎしていた地上の兎も、それを追いかけては頭を悩ませていた鈴仙も、今や誰も残っていない。妖怪達は皆、既にこの世界から消えてしまっていた。
「ねぇ」
「な、なに?」
ずい、と輝夜が身を寄せてくる。月光に照らされ、白磁のように白く輝く彼女の顔は、この世のものとは思えぬ程に美しい。そんな彼女が、なぜだかとても尊いものに見えて、天子は気恥ずかしくなって直視できず、前を向いたまま返事をする。
「本当に、あなたは一緒に来ないの?」
輝夜は無防備に、ともすれば口付けしてしまうのではないかと思えるほどに天子の耳元に顔を近付け、囁く。その声音には、誘惑するような甘い願望が籠っていた。ますます気恥ずかしくなって天子は少し頬を染め、少しだけ輝夜を恨んだ。そんな風に誘われてしまったら、決意が揺らいでしまいそうだから。
「……魅力的なお誘い、ありがとう。とても嬉しいわ。……でも、駄目よ。だってまだ、私は永遠を見つけられていないから」
ぐい、と水月を一息に飲み干して気持ちを落ち着け、向き直る。そして、天子は静かに、けれどはっきりと答える。大丈夫、もう、揺らぐことはない。そんな確固とした意思を宿した彼女の瞳を見て、輝夜は目を見開いた後にふっ、っと小さく息をはき、
「……あなたと妹紅だけは、本当に思い通りにならないのね。他は全て、望むままだったのに」
と言っておかしそうに、けれど寂しそうに微笑んだ。
「望月の欠けたることも、って? ふふふ、ずっと満月じゃつまらないでしょ? 月は満ち欠けするからこそ美しいのよ」
天子も、笑いながら軽口を叩く。本音を言えば、私だって寂しい。別れを惜しむのなんて当たり前だ。誘いに乗って、ついていきたい、とさえ思う。けれど、それでは駄目なのだ。これは、私が決めたことだから。その決意に、揺るぎはない。そんな思いを告げるために、彼女は続ける。
「私はね、私なりの不変を見つけるまで、変わっていく世界を見続けるって決めたの。だから、それまでに去っていってしまうものも見届ける。あんた達のことだって、ちゃんと私が見送ってあげる」
それじゃあ、と、輝夜が、心配そうな声をあげる。全てが去り過ぎたあとの世界で、誰が貴方を見送るというのだと、天子を見つめて言った。
「心配いらない。その時は、私の見つけた変わらないものが私を見届けてくれるわ。というか、見届けさせる」
だから、これからの不変を探す楽しみは独り占めよだなんて、安心させるようにふざけて笑ってみせた。
「そう……強いのね」
輝夜には、天子の強さが眩しく見えた。それは、彼女が持たない強さだったから。果てがあるかさえも分からない世界を一人で見届けるなど、自分には耐えられないと思ったのだ。
「輝夜」
永琳が、二人のもとへやって来る。別れの準備ができたことを、告げに来る。
「わかった。じゃあ、今度は私が向こうに行って待ってるから、二人でゆっくり話しなさいな」
今はまだ、時間がいくらでもあるのだから。
「ありがとう、そうさせてもらうわ」
永琳の答えに満足気に頷き、輝夜は用意が整えられた自分の部屋へ向かう。そして、最後に思い出したように振り向いて、
「あ、でも永琳、口説いたって無駄よ? 私、振られちゃったもの」
と、いつもの調子で言った。本当にいつもと変わらない、暢気な彼女であり続けた。苦笑しながらその後ろ姿を見送り、永琳は天子に向き直る。
「輝夜の誘いを断るなんて罪な天人ね」
「残念、私が恋してるのは永遠よ。それに、あの子には先約があるしね」
「あら、そんなのがいるの? 誰かしら」
わかってるくせに、と惚ける永琳を、輝夜の見つけた永遠を、軽くつつく。くすくすと、永琳はおかしそうに笑い、それから、遠い目で月を見上げた。
「……今が夢なんじゃないかって、思う事があるの。目が覚めたら、ずっと昔に戻っているんじゃないかって、思ったりするの」
彼女らしくない願望だと、天子は思った。それは永琳自身も思っているらしく、そんなはずはないのにね、と寂しげに呟く。恐らく彼女も、共に暮らしていた兎達との別れは、辛かったのだろう。そして、天才と持て囃されながらなにもできずにいた自分に、無力さを覚えたのだろう。だから、そんな幻想を抱いている。
「いいんじゃない、そんな夢も。だってここは、幻想の集う郷だもの」
夢であるように。それも悪くないではないかと、天子は、彼女の夢をごく真面目に肯定する。
「そうね。……ここは、そういうところだものね。らしくない夢を、抱いてもいいのよね」
「勿論よ。それに、元を正せば貴方達は月におわす高貴な神々じゃない。神様なら、それくらい大きな夢を見なきゃ」
そうだ、彼女達は、今や信仰心さえ失われた地上に、唯一残った神々なのだ。
「神々、か。そうだったわね。遠い遠い、昔の話だけれど」
だから、蓬莱の呪いを解いた時、彼女達は。その先は、二人ともなにも言わなかった。
「天子」
その代わりとでも言わんばかりに、永琳は天子に背中から抱きつく。神ではなく、人としての温もりが、背中越しに天子へと伝わる。
「ありがとう」
これまでの全てに。そんな思いを込めた一言が、囁かれる。天子は、答える代わりに永琳の手を少しだけ強く握った。
「……さぁ、もう行きなさい。貴方の永遠が、待ちくたびれてるわ」
「えぇ」
最後にぎゅっと、痛いほどに天子の体を抱き締め、永琳は去っていく。天子は振り返らぬまま、酒を満たした盃にもう一度水月を映す。
遠ざかっていく気配を感じながら、二つの美しい月を見比べる。一人きりの、月見酒だ。
永琳と輝夜の気配が一ヶ所に集まるのを感じて、天子は目の高さまで盃をあげた。天地に輝く二つの月が、重なりあう。
音も声も、前触れすらもなく、二つの気配が消える。天子は盃を置き、緋想の剣に集めた気質で雨雲を生み、月を隠した。
満月は雨月へ。消えてしまった二つの月に思いを馳せ、天子は一人、雨に濡れた。
―――――――――――――
「この場所なら、幻想郷の彼方まで一望できる」
かつて共にこの場所に立った少女が、そう言っていたのを思い出す。けれど、そんな少女が素敵だと言った景色は最早、その面影さえ残っていない。
深緑の森も竹林の迷宮もその身を大いに小さくし、内外から拡げられた茫漠たる灰色が広がるばかり。山の湖と海の存在から不要とされた霧に満ちていた湖は、その中心に称えていた凍土諸共姿を消して爆発的に増えた人間達を養う為の田畑へと変わり、その畔に佇んでいた紅い館も住む者が居なくなったことで朽ちている。神々の技術を誇示していた核熱の巨人も地に沈み、生命に満ちていた海は岸辺を無機質な灰色の壁で固められている。哀れな末路を辿った外からの迷い人を弔っていた塚も向日葵の咲き乱れる丘も削られ、或いは切り崩されてその姿を消していた。
人によって管理され尽くしたその姿は、かつての外の世界によく似ていると、分かるものが見ればきっと目を丸くしたことだろう。
人はこれを進歩なのだという。けれど、かつてこの地に住んでいた幻想の存在達はきっと、これを荒廃だと呼んだだろう。そんな世界を、彼女は一人、見渡していた。
人々はもう、何も恐れなくなっていた。宵闇は人を喰らわず、溶けぬ氷はなく、道に迷うのは誰かの悪戯などではなく不注意のせい。人の血を啜る悪魔もその従者達も存在しない。
冬の寒気は気象の変化によるもので、人語を話す獣などいるはずはなく、魔法等と言う不可思議な力も存在せず、人が死後に行くところなどない。境界を操り、全てを隔て、交わらせてきた賢者も、消えてしまった。
蟲を束ねるものも夜目を眩ます雀もいなければ、月から来た兎や人など竹林に住んではいない。
天子が今こうして頂上に立つ峻険には住まうものなどいないのだから、人々が信じ仰ぐべきものなどありはしない。
死して行く場所が無いのなら、地底にはかつて地上を震撼させた百鬼夜行の猛者の住まう都などなく土が埋まっているだけ。
棄てられた傘はただ朽ち行くのみであり、山彦は残響に過ぎず、居もしない人ならざる者を救う寺も忘れ去られ、祭る神もいない。
死体が動く事はないし、偉大なる徳を持っていた聖人もそれに仕えていた者も古代の人々が生み出した偶像にすぎず、この世の何処にもいるわけがない。
それと同時に、そんな人ならざる者達と人間がかつて繰り広げた美しくも苛烈な戦いを刻んだ歴史も、それを正しく紡ぎ続けてきた者がいなくなったことで、今では偉大な、けれどありふれたお伽噺に過ぎなくなっていた。
運命を見る幼き悪魔が太陽の昇る昼の世界さえ我が物にせんと生み出した、世界を覆い尽くす紅き霧も。
忘れ去られた悲劇を秘めた咲かぬ桜の開花を望む死の亡霊が呼んだ、全てを凍てつかせる長き冬も。
酒好きな鬼が朋友との再会を夢見て萃めた、幾度となく繰り返し続けようとも冷めることのない宴の熱気も。
逃避の末に手に入れた安息を守ろうとする尊き国の民と力の根源を奪われる事を恐れた妖魔達がそれぞれの思惑の元に創り出した、贋作の月と紛い物の永遠の夜も。
廻り続ける時の流れの中で回帰した魂達が流れ込み、多くの者が浮かれ騒ぐ、六十年おきの花の怪奇も。
再起を図りこの地へと来た神が信仰の在るべき姿を説いた、新たなる騒動の幕開けを告げた一迅の新風も。
他ならぬ彼女が退屈しのぎと新たなる世界を求めて起こした、世界を揺るがす未曾有の危機を秘めた緋色の雲も。
かつて敗れ去った尊き国へのささやかな復讐を望んだ妖怪と、それに踊らされた者達の、かくも儚く、穢れなき戦いも。
身に過ぎた力を得て思い上がった友を止めるべく身を挺した火車によって起きた、地の上も底も巻き込んだ怨霊騒ぎも。
恩に報わんと師を救うために集った妖怪達の魔界への決死行が巻き起こした、空を行く宝船の冒険譚も。
偉大なる聖人の復活に呼応し、望みを聞き届けて貰わんとこの世に姿を現した、欲望の具現たる無数の神霊も。
太古の道具に宿った付喪神の感情を司る面が失われて起きた、人々の感情の暴走も。
天邪鬼の甘言に乗せられた英雄の末裔が解放を夢見て臨んだ、小さくも大いなる反逆も。
それらは皆、遥か時の果てに幻想へと追いやられてしまった。
もう人と人ならざる者達が織り成す、心踊る美しき軌跡は描かれることはない。
最早人知を越えた存在は居らず、それが望まれることもなくなってしまったから。
かつて妖魔が、神々が、人々が、そして彼女が恋焦がれ、愛してやまなかった素晴らしきこの世界は、それほどまでに味気なく、色褪せてしまっていた。
全ては、発展を象徴する灰色に染まってしまったから。
忘れ去られた幻想が行き着く郷。そこに住まう自分達もまた幻想の存在に過ぎないというのに。
人々はそれを否定し、忘却してしまった。
故に今、かつてこの地で暮らしていた『居もしない者達』の存在が確かなものだったのだと知っているのは、今こうして朽ち果てた岩山に佇み、今日に至るまでこの世界の行く末を見届けてきた彼女ただ一人。彼女の不変は、否定や忘却すらも曲げることは敵わない。
けれど、と彼女は以前から変わらず、思い続けていた。自分もまた、変わるときがくるのだと。きっとそれは、未だ見たことのない、変わらぬものを見つける時に――
ド、という音がして、世界が激動する。外の世界で朽ち果て、忘れ去られた灰色の濁流が、彼女の見渡す世界に押し寄せていた。
「嗚呼」
嘆息を漏らす。『外の世界は滅び始めている。それが現実となったとき、この世界は――』いつかまだ幻想が消え行く前、この地を世界から切り離した妖怪の式たる九尾が言っていた事を、彼女は思い出していた。
そして、それが今なのだと理解する。滅びを迎え、崩れ去り、認識する者のいなくなった現実が、幻想へと変わってこの世界へ押し寄せているのだ。
「嗚呼」
同時に、気がつく。自分の他に、今日まで不変であり続けた存在に。どうして今まで気が付かなかったのだろう。ずっと見てきていたというのに。
どうして気が付かなかったのだろう。例え人が、神々が、妖魔がその存在の在り方を変えようと、決して変わることはなかったというのに。
どうして気が付かなかったのだろう。例え世界から隔てられようと、例え共に歴史を刻んだ者が消えようと、いかなる存在が己の中へ流れ込み、そして消えていったとしても、決して拒むことなく全てを受け入れ、その果てを見届け、そして最期を見送って来た、気高くも残酷なあなたに。
「嗚呼……」
繁栄の頂点へ達した人里を、朽ち果てた紅い屋敷を、僅かに残った深緑の森と竹林の迷宮を、地に伏した核熱の巨人を、神々が住んでいた山を、封じられ、忘れ去られていた地の底への入り口を、楽園の要であった神の社を、見渡す限りの母なる大地を、かつて外の世界の繁栄の象徴であった灰色が呑み込んでゆく。
「嗚呼……!」
嗚咽にも似た声をあげ、空を見上げる。何処までも澄み渡っていた蒼天は今や、滅びゆく者達から溢れ出た気質によって生まれた、美しき極光の帯をその身に纏っていた。
言葉にならぬ想いを、緋想の剣に纏わせた自らの気質に委ねて空に解き放つ。今、私は、あなたがその手に抱き、見守ってきた世界の変化の行く末を見届けていると、ついに見つけた不変なるものへと伝える想いを。
楽園に住まう者達が迎える終末を見届ける。
しかしこれは、あなた――不変なる幻想郷そのものが内包してきた小さな変化に過ぎないのだ。幾度となく変化と繁栄、滅亡を繰り返し、そして再生する。幻想郷はこれからも、その行く末を見届け続けるのだろう。
ふわりと、この怒濤の如き終焉の中で吹きすさぶ風が、天子の帽子をさらってゆく。天上の果実を乗せた彼女の帽子は、未だ地上を駆け続ける灰色の濁流の中へと飲み込まれていった。
「嗚呼――」
ついに、自分にもその時が来たのだと悟る。それでいい。答えは得た。ならばもう、思い残す事などない。世界の終焉と共に訪れた自分の変化に、その身を委ねる。きっと今の自分は、遙か昔に去っていった者達と同じ顔をしているのだろう。
吹き荒れる風が、今度は彼女自身を持ち上げる。灰色の世界が遠ざかり、得も言われぬ程に美しき極光が近づいてくる。空など今まで数えきれない程に飛んできた筈なのに、この浮遊感は、かつて無いほどに心地よい。
死への苦痛は無い。
この世を去る事への悲しみも無い。
かと言って、何か喜びがあるわけでもない。
それはただただ穏やかで、安らかで。
まるで愛しいものの腕に抱かれるかのような心地よさに、全てを委ねる。
遙かなる天空へ。偉大なる大地へ。
不変を求め、幻想を見届け続けた彼女は、やっと見つけた決して変わらぬただ一つのものへと、その身を捧げた。
―――――――――――――
……眩しい!
閉じている筈の目に、光が差し込んでくる。ここは、どこなのだろう?
「……子、天子!」
彼女の耳に、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。呼んでいるのなら、答えなくては。なんとなくそう思い、彼女は目を開き、そして。
「……!?」
息をのみ、目を疑う。そんな筈はないと、否定する。けれど、目の前に広がっているのは。
「あ、起きた!」
飛び付かれる。呆けていた所にやられたので、天子はまた倒れてしまった。
「なにやってるのよ、驚いてるじゃない」
聞きなれた、しかし遠い昔に消えた筈の声が聞こえる。
「嘘、でも、どうして?」
訳も解らず、そんな言葉ばかりが飛び出す。
輝夜が、永琳が、そして妹紅とそれに寄り添う、在りし日の姿そのままの慧音が、そこにいた。それだけではない。彼女達の様子に気がついたらしい者達――妖精や妖怪達が、取り囲む様に輪を為していた。
「夢でも、見てるの?」
思わず呟く。だとすれば、覚めないでほしい。淡い希望と、気づいてしまった以上はもう覚めてしまうのだろうという諦観が、彼女の頭をよぎる。
「夢ではないわ。貴方は全てを受け入れて、確かに此岸を去った」
けれど、輪の中から飛び出した声が、天子の不安を拭い去る。
「循環し続けているように見える水の流れにも、それに交わらぬ淀みはある。変わり続ける物の中にも、変わらぬものは間違いなく存在する。以前、貴方にそう言ったわよね? ここは、その淀みよ」
聞き覚えのある声――八雲紫の声だ。その声と言葉を聞いて、天子はここがどこなのかを察した。
「さぁ、貴方も早く。宴会はもう、始まっているわ」
身を起こした輝夜が、天子の手を取り、走り出す。輪を為していた者達も、宴へともどっていく。いつも通りの幻想郷の姿が、そこにあった。
そこにもうひとつの変わらぬものを見つけて、天子は自然と笑っていた。そうだ、去って、それで終わりではないのだ。死や滅亡では、彼女達を変えることなど、できはしない。
人も妖も皆、在りし日の、幻想を駆けていた頃の少女の姿をしている。
霊夢達歴代の巫女が、自分に憧れて魔法の特訓をする子孫たちを霖之助と共に見守る魔理沙が、少しだけ成長したスカーレット姉妹に変わらず瀟洒に仕える咲夜が、明るい音色を奏でるプリズムリバー三姉妹が、ゆったりと座って酒を吞む紫の命で奔走する藍と橙が、幽々子に振り回される妖夢が、悪戯をするてゐとそれを追う鈴仙が、空を駆け回る文とはたてが、神遊びを楽しむ早苗たちが、陽気に酒を交わす地底の妖怪達が、騒ぎ回る鳥獣妓楽をたしなめる命蓮寺の妖怪達が、死後の世界を謳歌する神子や布都が、そして、そんな世界を見続け、自分達も交わる御阿礼の子達が。皆、変わらずにここにいる。
幾度となく滅び、生まれ、回帰して、幻想は再び世界へ還る。
宴は終わらない。盃を交わし、弾幕の花を咲かせ、笑いあう。例え存在する場所を変えようと、肉体が無くなってしまおうと、魂の在り方は変わらない。別れがなく、楽しみが潰えないのなら、腐り果てることもない。
「ほら、早く!」
いつしか先に行っていた輝夜達が、天子を呼ぶ。
「わかってる!」
永い永い旅路の果てに、ついに辿り着いた、変わらない、終わらない世界へ。
溢れんばかりの喜びと共に、天子は、駆け出した。
六十年ごとという絶妙な区切りで見せられる幻想郷の変化は実に美しい。
山を登った妹紅が空っぽになった時など迫りくる虚無感に思わずヒャッハーと精神テンション上がりました。
不老不死になっても人間は人間。『妹紅はどこまでも地上の民だったのだ』っていう結論がいい。
穢れに満ちた海が幻想郷にこんにちは。ミスティアとお空の迷惑な異変や、チルノの妖怪デビューなど。
感慨深く語られたり、さらっと語られたり、ああこいつ等幻想郷に生きてんだなって空気を感じました。
天子が、傍観者であり続けたために取り残されたさみしい終焉。
嗚呼。嗚呼。なんとも心地よいエンディングよ――。
と思ったらこれだよ!
粘り強い方々だこと、死んだくらいじゃどうこうならんとは。終わり無きハッピーエンドで末永く達者でな!
そして最後は宴会するよ!という明るい展開で締めたのも東方らしくて良かった。
文章の端々から作者さまの東方への愛が伝わってくるようで、特に四人のスペルカード戦は「こう使ってくるのか!」と非常に驚かされました。
ただ天子たちの科白は少々役者っぽい(東方らしいと言えなくもない)ような気がします。
誤字がちらほらとあったのも少し残念でした。
とても綺麗なお話でした
この作品に出会えたことを幸せに想います
各々が永遠を見つけて去っていっても自分は残ると決めた天子は強いですね。
ところで御役目を引き継いだ藍様は途中のどこかで消えてしまったんでしょうかね。
個人的には全てを最後まで見届けていて欲しかったと思います。
またこんな天子を見たいです
紙媒体で読みたい。
時に激しく、時に淡々とした語り口も、展開と相まって素晴らしかったです
時間の流れと共に移ろいゆく幻想郷の姿の描写がいい。
こういう話はとても好きです。
東方無限螺旋みたいな…と言いたいところですが、他の作品の名前を出すのも不味いと思うのでやめておきます。
まあ個人的には別に似てるとは思わないですし、それはこの作品の評価を下げるようなことではないと思います
最後に遺った、変わらない唯一つの果てを見つめる天子
心情含めて見事に描き切っていて素晴らしい
中盤あたりで気付いたときには登場人物がどんなひどい目に遭い、それが坦々と語られるのか戦々恐々としていましたが、ハッピーエンドでよかった
時間って残酷ですね。
天子と蓬莱トリオの珍しい組み合わせ面白いですね
輝夜も永琳も、もこたん同様終焉を迎えられたようですね
幻想郷滅亡後の蓬莱人とかよく考えたりします
輝夜と永琳は月に戻ることにしたが、妹紅は結局誰も住むもののいない地上に残ることにしたとか、色々妄想が広がりますな
→ よくぞ言ってくれた。
願わくばまた繰り返されることを。
それ以外の言葉は思いつかない。
が、簡易の50では足りるはずもない。この100も無論足りない。
長くなってしまった。語り手の片隅氏への賛辞と共に、評を切り上げよう。
こういう寂しい終焉をいい意味で裏切る大団円は大好きです。
申し分無し。無量大数の活用場を見出だせるであろうかという評価。
とても楽しく読めました
これしか言えなくてすいません。
次のステージが用意されていることの嬉しさに、そうそう、こういう事もあり得ると常々思ってたんだよ、となりました。
素敵なキャラ達による素敵なお話をありがとう。
楽しみだ
周りからどう映ろうと本人が満ち足りれば、それが一番なんだよな。
自分もそうなれるように生きていこうと思いました。
また、他の方もコメントしているように、随所の小ネタから情景描写まで全て美しい。
文句なしの100点です。
見届けていく天子の心移りが胸に痛かったです。
誤字を2つ見つけました。えっと、見つけたんですけど……。
あの、それで、読んでる最中に見つけたのはいいんですけど、読み終わった後どこが誤字ってたのか忘れちゃって……。
取りあえず、序盤に一つと真ん中に一つあったのは覚えてます。
申し訳ない。
続いて、感想に移りたいと思います。
永遠の者たちで変わらないものを見つけよう、っていうのは、すごい良いテーマだな、と思って読み始めました。
しかしながら、読み進めていくに当たって、いくつか疑問に思うところがありました。
たったの540年。果たして、こんな短い年月でここまでの変化があるのだろうか、とか、神や妖怪といった人々の空想の者たちが消えたのに、同じく空想の天人である天子はどうして消えないのだろう、とか。
こんな風に疑問に思った個所はいくつかあったのですが、ストーリー展開が上手いのでしょうか、続きが気になって、どんどん読み進めちゃいました。
自分は、長編は肩が凝ってあまり読まない傾向にあるのですが、この作品はそんなことも気にせずに楽しめました。読後感も、何か達成感というか爽快感というか、気分の良いものでした。
なんか、色々書いちゃいましたが、とても、良い作品だったと思います。
読ませていただいてありがとうございます。
すごく面白かったです。
すごく面白かったんですが、残念ながら私にはあまり合いませんでした。
天子個人はこれでいいのかもしれませんが、変化の無い閉じた冥界って結局永夜異変前の永遠亭と変わらない気がして。
妹紅が1人で墓の手入れをしている間、先生は宴会してたんですね。
そして妹紅と慧音が再会の感動を分かち合ってる間、姫は死ぬほど苦しんでたんですよね。
それを思うといたたまれないなー、と。
でも輝夜が激怒するシーンはすごくよかったです。
輝夜の永琳への信用が伺い知れました。
この手の問答を真面目に考えると、多分、今の自分に答えは出せません。それこそ死ぬ前に、もう一度考えてみたい。その時に、天子達のような顔でこの世を去れるのでしょうか。
ただただ感無量。
滅びゆく者、終わりある者たちが美しい世界の表現と素晴らしハーモニーを作っていました。
最後の、明るいエンドも素敵でした!
自分の語彙力じゃあこれしか言えなくてすいません。
最後の場面の捉え方には個人差があるでしょうけれど、作者さんが後書きで述べたことに、自分も同じ思いです。
辿り着く先は何処でもない。彼女たちは幻想少女なのですから。
あーしかし面白かった!今これを読めたことに感謝を!
地味に某潜水艦の小説を思い出しました。
幻想郷も変わっていく。その果ての救いは、ありきたりで安易なものになってしまいがちなのに、こうも受け入れられるのは、やはり幻想であるからでしょうか。
幻想郷よ、永遠なれ。
神主と同じ信州出身のジャーナリストの言葉です
良い終わり方だったと思いますよ
ところで霊夢の猛悪狂暴ぶりは相変わらずなのでしょうね、南無三(合掌)
宴会芸で夢想天生とかサマソとか・・・
とりあえず、輝夜の危機にオートカウンターを発動させる永琳に笑いました。
が、冥界でしたか。
なんか感想もたくさんあるはずなんですが、上手く整理もつかないので書くのはここらで。
見えない月を想像する。
原作を知っているから伝わる心情描写。
そのあたりをうまく使いながら、
作られて行く未来が面白かったです。
見えない月を想像する。
原作を知っているから伝わる心情描写。
そのあたりをうまく使いながら、
作られて行く未来が面白かったです。
文量に見合うだけの大作でした。御馳走様でした。
時の流れに対する四人の気持ちが伝わってきました!
100点じゃ足りないくらいです!
また読みたいと思えたのでお気に入りにも追加しました
滅びと再生の美学が込められた、刻々と変化していく幻想郷の描写の妙(+30点)
永琳と天子のバトルなど、Webならではのマンガ的な工夫が施された文体が全体の雰囲気にマッチしています(+20点)
心理描写が少しくどいです(-10点)
これ以外にはないと思わせるさっぱりとした結末。何百年にも渡る壮大なスケールの叙情詩をよく書ききりました(+30点)
10点オーバーで110点!100点しかつけられないのがとても残念です。ありがとうございました!
泣けた。
幻想郷に「n → ∞」を導入した先には何があるのか、という途轍もなく大きな思考実験を大団円へと持っていく気概と技量が素晴らしいです。
本当にありがとうございました。
ところで、「うつろわざるもの」は二次創作の否定とも取れます(成し得る事が~のあたり)。そして神主達も人間で移ろいゆく者で…100年後、東方はどうなっているのでしょうか?歌詞通り、成し得る事がなくなってしまい(二次創作が創れなくなり)完結してしまうのでしょうか?それとも…
次々と居なくなる同類を見送るあたりは、切なかったけど、それでも強く生きる天子が素敵でした。
素晴らしい時間を過ごせました。ありがとうございます。
まるであなたが不老不死かのように思えてしまう
全く持って同感です。よく言ってくださった