Coolier - 新生・東方創想話

すきま妖怪の式とでっかいものコンプレックス

2013/04/30 00:27:28
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 丁度一つ式を解説し終えたところで、時計の針が授業の終了時刻を告げた。何の合図もなかったのにも関わらず、生徒達はガヤガヤし始める。

「では、今日はここでお仕舞いにしましょう。質問がある方は、後で個人的に私の所へ」

 いつも通りの定形文でそう締めくくり、私はそそくさと教室を出た。
 もう何度目かの体験だが、どうにもこうやって人前で講釈垂れるのは慣れない。周りに人目がないのを確認してから、大きく溜息を吐く。
 そのまま真っすぐ、依頼者の待つ私室へ向かう。傍から見れば、きっと今の私はさぞ覚束ない足取りをしていただろう。
 私室兼職員室兼校長室の襖の前は、期待のままに閑散としていた。私はそのまま襖を開き、踏み込みながら中へ声をかける。

「慧音、戻ったぞ」
「ん、来たか」

 彼女は部屋の奥のところで筆をとっていた。視線はこちらを向かなかったが、軽く片手を上げて返事をした。
 青みがかった銀色の髪に、真っ青なドレス。ところどころに真っ赤な色が散りばめられていて、それが鮮烈である。かなり小柄……というより、見た目は丸っきり小娘だ。相当作業に没頭していたらしく、頭に乗った変な帽子は若干傾いていた。
 名を上白沢慧音という。半妖の癖に里で寺子屋なんぞを開いて歴史を教えている変人である。
 私が目の前に座ると、慧音は筆を置いて大きく伸びをした。ついでに大欠伸をして、大儀そうに首を回す。
 普段慇懃に振る舞う彼女の姿を知る里の人間どもがこれを見たら、みんななんと言うだろうか。

「ご苦労だ。どうだ、生徒の反応は」
「難しくてわからないってさ。半分は寝てるよ」
「……まぁ、しょうがないだろう。式神はまだ普及していないからな」

 慧音は若干呆れた素振りを見せたが、すぐにそんなことを言った。生徒を責めるでなく、まず庇おうとする辺りやはり教師の器だ。妖怪にしては若い部類に入るが、見習うべき点はいくつもある。
 ――何故私がこんなところにいるのかと言えば、それはこの慧音からとある依頼があったからである。
 本来この寺子屋では、慧音による歴史の授業しか行われていない。しかし最近、人間たちの間から「子供たちの将来のために、算盤を教えてやって欲しい」という申し出がぽつりぽつりと出始めた。とは言え慧音は生まれてこの方歴史のことばっかり勉強していて、数字には疎い。そこで私に白羽の矢が立ったのだ。
 「式神としての仕事が済んだらこちらを手伝ってほしい。どうせお前暇だろう」というのが、慧音からの依頼だった。少し気に食わなかったが、暇なのは事実である。私は二つ返事で承諾し、空き時間に講義を行うことが決定された。
 私が受け持つことになったのは算学と式神……つまりプログラミングの二つだ。前者は民の要求。後者は「ちょっと変わった科目があった方が話題になるんじゃない?」という慧音の提案。
 因みに言っておくと、慧音が受け持っているのは歴史だけである。本職よりも雇われの私の方が働いているとは一体どういうことだろうか。さらに言うと賃金に関する契約もない。基本的にタダ働きだ。突っ込んだ話をすれば、算学ならまだしも、式神の講義を受けているのはみんな大人である。子供相手に和やかに進行できると思っていた私はどうやら浅はかだったようだ。
 纏めれば、私の労働環境はあらゆる意味で劣悪なのだった。基本的に私自身に得なんて一つもない。そう気付いた時点でさっさとばっくれてしまうべきなのだろうが、残念ながら私にそんな気概など微塵もないのであった。
 裏切れば後が怖い。あいつの頭突きは岩をも砕く。考えただけで脳の芯がずきずきする。
 それに、慧音は私の数少ない友人なのだ。友人の頼みとあれば、無下にするわけにもいかない。その上でもう一つ、私には続ける理由がある。

「ところで慧音。隣に行っていいか」
「いや、まぁそれは構わんが……」

 慧音の返答は若干困惑気味だったが、否定的な響きはなかった。私はそそくさと立ち上がり、慧音のすぐ近くまで駆け寄った。
 そして肩を寄せて、小さく欠伸をする。

「ふぁあ。疲れたよぉ」
「まだ慣れないのか? もう三回目だろう」
「相手が子供なら良いんだけどね。大人だと、どうも身構えてしまって……」

 私が付き合いを持っている妖怪連中は、みんな精神が幼い奴ばかりだ。みんな我儘だし、何が何でも我を通そうとする。そんな連中ばかりだから、人間を相手にするときも子供の方がやりやすいのだ。
 実際、子供の生徒が多い算学の講義ではこんなに疲れない。

「しかし疲れると言っても、色々あるだろう」
「怖いんだよ、大人はさ」

 授業中の様子を思い出す。人間の大人達はみんな濁った目をしていて、何を考えているのかわからない。それ以前に、考えているのか考えていないのかわからない顔ばっかりなのだ。どうにも気色が悪い。

「未だに、目を合わせて会話したことがないよ」

 それだけではない。こちらが新しいことを教えても、彼らは自らの常識でそれを否定してくるのだ。視界があまりにも狭く、その上自分の主観がみんな正しいと思っているから、頭ごなしである。
 怒声を浴びせられる度に、私は萎縮してしまうのだ。
 妖怪や子供が相手ならそんなこともないのだけれど。

「ふぅむ、それは少し問題かも知れんなぁ」

 慧音は私の尻尾を撫でながら、ぼんやりとそう言った。

「私の言ってること、わかってくれるのか?」
「わかるよ。私も伊達に教育者をやっているわけではないからなぁ」

 慧音がこの寺子屋を始めてから、大体十年ほどが経つ。妖怪の歴史から考えればそんな程度は一瞬ではあるが、もしも私だったらもたないだろう。十年間、このストレスを受け続けると思うと、それだけで頭が痛くなる。

「よく、ここまで続けられたな」
「私には一応大義があったからな。人の歴史認識を正すという、御大層な目標が」
「私に言わせてもらえば、それで耐えられるのが驚異的だよ」
「それに私は満月の夜以外人間だ。彼らの考えていることも、大人になるってことの意味も、わかってるつもりだよ」

 こうして会話していると、まだ若い慧音の方がよっぽど歳を重ねた妖怪のように思えるから不思議である。私の式神としての千年が無駄だったとは決して思わないが、それでも中身は慧音の十年のほうが濃かろう。

「で、藍。どうする? もし大人の相手が嫌なら、式神の授業の方は取り止めてもいいんだぞ?」

 元々私の我儘だからな、と言って、慧音は小さく笑う。
 今の幻想郷では式神も普及していないし、教育を施す必要も感じない。その上生徒諸君にもやる気は見られないときた。とてもこのストレスに見合った成果が出るとも思えぬ。
 しかし、こんなところでやめたくはなかった。

「いや、続けるよ。少なくとも誰か一人に礼を言われるまではね」

 式神としての私の人生の内、紫様以外の誰かに頼られたこともなかった。私からも、紫様以外の誰かのために働こうとしたこともない。
 これは私に与えられた、ある意味での転機なのだ。

「私もそろそろ他人のために働かないと、紫様に叱られてしまう」
「ふぅん、ならば止めんよ。お前にしては随分と殊勝な心がけだ」

 あまり興味無さげに言う慧音の口調は、なんだか少しだけ嬉しそうだった。
 …………。
 ……まぁ、しかし。格好つけてそう宣言したは良いものの、問題はなにも解決してはいないのであった。心意気だけで大人に対する恐怖が拭えるのなら、苦労などしないのだ。

「というわけで慧音、私はどうすればいいのだろうか」
「お前、実は間が抜けてるだろう」

 紫様や霊夢にもよく言われる。

「……ふむ、まぁ教育者の立場から言わせて貰うと、やはりお前自身を教育してやる他にないな」
「教育? 私を? どういう意味だよ」

 首を傾げる私に対し、そう急くなとでも言わんばかりに手の平を突きつける慧音。どうやら妙案があるようだ。

「少しここで待っていろ。二度と大人の前で萎縮しない体にしてやる」

 そしてそう言うと、意味深な笑みを湛えつつ部屋から出て行った。




 寄り添い、心を休める支えを失った私は、そのまましばらく放心したように呆然としていた。慧音がどこかに言ってしまってから、もう大体四半刻程が経っている。奴が帰ってくる気配もなく、どうにも手持ち無沙汰だ。
 既に日は傾き始め、この部屋にも自然光が入るようになってきた。始めの内は正座のまま待機していた私も、そのうちひだまりの誘惑に負けて日向ぼっこを始めてしまったのだった。
 窓際に寝転がって体を丸めると、全身がぽかぽかと幸せな気分に包まれる。こういう点では、私もまだまだ子供で獣である。

「ふぁああ……」

 私は床に爪を立てて大きく伸びをした。こうすると自然に尻尾の筋肉が弛緩し、同時に全身から力が抜けて非常に心地いいのだ。
 そんな風に蕩けているから、すぐそばにまで慧音が来ていることに気付かなかった。

「おい藍、生徒を連れてきたぞ」
「ふ、はひっ!?」

 耳元でぼそっと、囁かれて、私の意識は急速に現実に引き戻された。思わず変な声が出て、体が数寸浮き上がる。

「……せい、生徒? なんの話?」

 混乱した頭のまま、なんとか理性的な会話を試みた結果、口から出たのはそんな阿呆みたいな言葉であった。慧音の失笑がますます私の心を抉る。

「くっふふ……。いや、だから生徒だ。お前に質問があると言っている」
「ちょ、ちょっと待ってよ。お前が出て行ったのは私を教育するためで……」
「それも含めて、だ」

 慧音はずずいと顔を近づけてきながら、小さな声で囁くように言った。その様子を見るに、件の生徒とやらは既に襖の向こうにいるようだ。釣られて私も声を落として、聞き返した。

「どういう意味よ」
「大人の生徒と一対一で話をするんだよ。向こうの質問に応え、お前の抱く忌避感も生徒の抱く疑問も纏めてとっぱらってやろうという作戦だ」
「少し対症療法過ぎないか、それは」
「対人関係においてはそれが一番手っ取り早いんだよ。私を信じろ」

 普段知的な教師なんぞを演じている癖に、変なところで熱血な奴である。その上こうやって熱の入った慧音は、誰がなんと言おうと折れることを知らないから厄介だ。
 しかし、ふむ。そういう根性論は結構好きだ。信じていれば案外うまくいってしまうかもしれないし、それに失敗しても言い訳が容易い。

「じゃあ、乗っからせてもらうよ。その生徒とやらを入れてくれ」
「ああ、待っていろ」

 この時、期待していなかったのかと言えば嘘になる。私は慧音の策を信用していた。十年間人を見続けた彼女の観察眼を、確かに信じていたのである。

「失礼します」

 しかし入ってきたのは、身の丈六尺を超える大男であった。手足は筋肉を纏って丸太のようであり、その目は如何にも「今妖怪退治してきました」と言わんばかりの凶暴性を滾らせている。
 期待した私が馬鹿だったよ。

「あの、えっと、兎に角そこに座って下、さい……」

 私は今にも泣き出しそうになりながら、一先ずその男を座らせた。立ったまま見下されていては私の精神が持たない。
 幸いにも男は消え入りそうな声をしっかり聴きとってくれたようだ。私と机を挟んだところに腰を降ろし、意外にも正座のするのだった。
 しかし座ってもなお、私と男の体格差は絶対的だ。斜め上から降り注ぐ視線に、どうしても俯いてしまう。相手の表情をどうしても視界に入れられず、もう何を喋っていいのか全くわからなくなった。

「し、しし、質問、ですよね?」

 もはや大人だとか子供だとかなんて関係なく、私は生物の根源的な恐怖に震えていた。蛇に睨まれた蛙とはこういうことを言うのであろう。
 男が何事かを発した。しかし私の意識はこれを受け取らず、どこか遠くに流してしまった。
 怖い、怖い、怖い。この人怖い。
 慧音よ、貴様の策は間違いなく失策だぞ。もはや本当に十年も教師をやっているのかどうかすら胡乱である。獣を相手にこういう威圧的なのを当てるのはやってはいけない行為なのだ。

「……せん。少し居……」

 男が何か言っている。しかしすっかり気が動転していて、まったく理解できなかった。頭のなかで何度も慧音を毒づき、それでも恐怖心が拭えずに、私は頭を抑えて小さく震えていた。

「そこ……のですが……」

 ああ、きっとまともな質問をしているのだろうな。しっかり聴けなくてごめんなさい、人間さん。でもあなたが大人だから怖くてたまらないのです。

「こ……となる……?」

 ああ、もうだめだ。

「うわあああああっ、慧音ぇええええっ!」

 緊張が頂点に達した瞬間、私は逃げ出していた。吃驚した表情をする男を押し退け、襖を蹴り飛ばして、部屋から脱出する。そして外で聞き耳を立てていたらしい慧音を見つけると、無意識なまま抱きついてしまった。

「おい、どうしたんだよ」
「無理無理、無理だよあんなの! せめてお前も一緒に居てくれないと……っ」
「それじゃ教育にならんだろう」
「でも、怖いものは怖いんだよっ!」






 それから半刻。私たちは酒屋に行って、盃を交わしていた。だがいつもは楽しいはずの時間も、今は重苦しい鬱屈した空気に包まれている。
 結局あの後、私は慧音立ち会いの元、件の生徒の疑問を解決することとなった。と言っても、私がしたのは慧音の後ろに隠れて、耳打ちしていただけなのだが。そうでもしないと、まともに会話も出来ないとは我ながら情けない。
 因みに、彼の質問は初歩の初歩、二進数の問題であった。こんな簡単なものから逃げようとするなど、生徒から見たらどう思うのだろうか。
 恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

「何というか、お前は本当に……」
「うるひゃいっ」

 こんな真昼間から獨酒なんぞを浴びているのは、名目上は「八雲藍教諭、これからの対策会議」だったものの、実質はただ単に私の鬱憤ばらしだ。
 思い出す度に赤くなる顔をますます赤くして、ひたすら一升瓶を呷る。妖怪故、お酒に強いのが幸いである。既に十五本の空瓶が転がっていた。

「まったく、あんな怖い思いをしたのは始めてだ」
「相手は人間だろうに。なにをそんな恐れたんだよ、お前は」
「そりゃあ人間と妖怪じゃ、比ぶべくもなく私たちの方が強力だよ。でも、私は獣だ」

 慧音は首を傾げ、わからんとでも言いたげにグラスを空にする。

「獣の恐怖の基準は意外に低俗だってことだよ。あれだけでかくって威圧的なのが目の前に来たら、怖くって仕方がない」
「つまりなんだ、大きい奴が苦手なのか」

 えらくざっくばらんな言い方だったが、間違っているわけではない。私は頷いて、そこであることに気付く。

「というか慧音、お前も妖獣だろうに。私の気持ちはわかってくれないのか」
「……まぁ、わからないでもないと言っておこう。先ほどの生徒は私から見ても相当怖かった」
「そうだろう、そうだろう」

 今思い出しただけでも縮こまってしまうくらい、あの巨漢は恐ろしかった。あれだけ太い腕ならば、人の身であっても私の胴を捻ることが出来る……と、そんな錯覚を覚えてしまうくらいだ。
 動物界において、体格差はそのまま力、地位の差となる。式神になって千年が経つ私からもその本能は抜けず、それどころかますます程度を酷くしているのが現状である。
 ああもう、だから大人は苦手なのだ。

「だが、お前が九尾の妖狐にしては小さいというのも原因じゃあないのか」
「人の気にしてることをよくもずけずけと言ってくれるな。つくづくお前は悪い子だ」
「そう拗ねるなよ。事実だろうに」
「言って良いことと悪いことの区別はつけろ、な?」

 私は少し泣きそうになりながら、しかしその事実を認めざるを得なかった。実際私の背丈は成長期前の子供と同じくらいしかないのだ。慧音よりは高いとはいえ、生きてきた時間を考えれば小さいにも程が有る。
 故に恐怖を抱く対象も多いのであった。大体十八を超えた人間とは、男女を問わずまともに付き合うことも出来ない。
 それに、私には大人の区別もあまり付かないのである。没個性的で、みんながみんな同じ顔で同じ行動をするのだ。そういうのがどうも気味が悪くって、ますます嫌になる。

「同じということはなかろう。あんなに個性豊かな種族もなかなかないぞ?」
「それはお前が元人間だからだ。妖怪から見れば人間は一括りになるんだよ」

 相当個性的な人間でもない限り、能面を被っているようにしか見えない。

「うぅむ……」

 慧音はいよいよ困り果てたらしく、天井を仰いで唸った。
 私としてもこのままではまずいとわかってはいるものの、どうしたら良いのか判断がつかぬ。

「私だって、人間と話したりしたいんだよ……」

 ただ方法がわからないだけで。
 そういう意思はきちんと持ちあわせているのだ。

「これはまた難題だな。本当に面倒な奴だ」
「むー……」
「ああ、おい。泣きそうな顔をするな」

 慧音はますます当惑の色を濃くしたものの、その後すぐに何事かを思いついたようだった。
 そうして上半身をこちらに倒して、体重を預けてきた。私の肩の上に慧音の頭が乗っかる。その上腕まで絡ませてくる。

「わ、な……っ」
「どうだ、藍」
「どうもなにも、いきなり過ぎて困るよ!」
「もうちょっと落ち着いて、どんな感じがするのか考えてみろ」

 行動が突発的すぎて冗談かとも思ったが、慧音の口ぶりは至って真面目だった。一瞬混乱した私もすぐに冷静になって、その言葉通りに感覚を澄ませてみる。するととても暖かくて、どういうわけだかとても落ち着いた。
 全身をふわふわの毛布ですっぽり覆われたような心地よさを感じているのがわかる。

「なんだか、安心する」
「そうか。そう感じられるなら、お前は大丈夫だよ」
「む、どういう意味?」
「人間っていうのは、みんなこういう温もりを持ってるんだよ。きちんとわかりあえば、大人だってさ」

 まったく、如何にも教育者らしいよくわからない理屈を言ってくれるものである。見ろ、自分から言っておいて恥ずかしくなってるではないか。
 いや、でも、まぁ。

「ありがと、慧音」
「どういたしまして、藍」






「なぁ、慧音よ」
「ん、どうした?」
「私たちは「友人」だったはずだよな」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、なんで私の財布だけがこんなに軽くなってるんだよ」
「さぁ?」

 不思議なこともあるもんである。数十本の一升瓶分のお金がまるごと私の財布から消えたのだ。勿論、慧音が飲んだ分も、である。
 とぼけるものだから軽く頭をぶとうとすると、、慧音は舌を出して笑うのだった。こういう時ばっかり子供らしい仕草をするのはずるい。手が出せないではないか。

「いやぁ、相談費ということで観念してはもらえないか。寺子屋だってそんなに繁盛しているわけではないのだ」
「もう、今度はお前が払えよな」

 まぁよかろう。私だって数万数十万の損失程度で青筋立てるほど狭量ではないのだ。たまにはこうやって器の大きさを見せておかないと、他の妖怪から文句も出かねない。
 私は八雲の式神筆頭。結界の管理をし、妖怪たちに威厳も見せる。両方やらなきゃいけないのが優秀な式神の辛いところなのだ。覚悟は出来ている。財布が空になろうが、些細なことだ。

「はっはー、お前は優しいなぁ」
「今度馬鹿なことを言ったら毛玉を飲ませるぞ」

 相当量のお酒を飲んだせいか、慧音は少し浮ついている様子だった。
 寺子屋に戻るまではしっかり淑女らしい振る舞いをしていたと言うに、私室に腰を落ちつけた途端にこれである。人間は内と外を隔てる生き物だと言うが、これではどちらが本性だかわかったものではない。
 私の中の恐怖の対象が、大人から人間全体へと広がってしまいそうだった。

「……それで? これからどうしようってのさ」

 当初の予定では、あの酒屋で不満をぶちまけて帰るはずだったのに、慧音は私を解放しようとはしなかったのだ。酒屋を出てすぐに私の腕を掴んで、寺子屋にまで引っ張ってきてしまった。
 先ほどと同じように二人並んで、暫くはなんとなくふわふわした会話を交わしていたのだが、そろそろ私も我慢がならなくなってきた。
 少し不機嫌気味になってしまった私の言葉を受けても、慧音は特に怯む素振りも見せない。

「お前の大人対策教育だよ。当然、帰すわけにもいかないからな」
「何か具体的な方法でも思いついたのか」
「別にそういうわけではないがな。だが私だってもう立派な大人なんだ、こうやって話していればそのうちお前も慣れるかもしれないだろ?」
「どこがオトナだよ。お前なんか態度ばっかりでかいだけのお子様じゃないか」
「な、何を言うっ。お前だって同じだ、このちんちくりんめ!」

 ちん、ちく、りん。
 この娘は。人の気にしていることを。
 
「ふんっ。先に碌でもないことを言ったのはお前のほうだろうが」
「だ、だってお前が子供なのは事実だろうっ。私はこう見えても……」
「こう見えても?」
「あ、いや、ちが……っ」

 ああ、もう。駄目だ。自覚していることを否定できるほど、私は器用にできていないのであった。融通の効かない演算能力だ。

「こう見えても、千年は、生きて……」
「はいはい、それで?」

 自信を失して尻すぼみになる私の言葉を、慧音は無慈悲にも煽り立てる。私は赤面する顔を隠そうとして、膝を抱えて塞ぎこむような体勢をとった。

「私は、お前より、大人だもん……」
「ははっ」
「笑うなーっ!」

 ほとんど反射的に叫んでしまってから、ますます顔が真っ赤になるのを感じて、にっちもさっちもいかなくなってしまう。伏せた膝の隙間から、慧音が覗き込んでいるのを感じる。見るな見るな。

「ああ、もう、いじけちゃって……」
「いじけてない。勝手に決め付けるな」
「おや、泣いてないのか。偉いぞ」

 後頭部を優しく撫でる慧音。口調は至って真面目であったが、なんだか著しく馬鹿にされている気分だ。若干幼児退行しつつある私には、それだけで十分に響くのであった。

「むー、むーっ!」
「おいおい、あんまり乱暴するなよ。お前って力ばっかり強いんだから」
「馬鹿にしてっ」

 とうとう自制の効かなくなった私は、慧音を押し倒してその平坦な胸の上に馬乗りになった。しかし手を出すだけの勇気はないもので、ただ威嚇するばっかりでがーがー喚いているのみである。

「慧音さん、一体何用ですかー? ……」

 ただ意識だけは集中していたから、こちらに近付いてくる者の気配にまるで気付かなかったのだ。

「慧音さん? 一体何を騒いでおられるので?」
「ら……っ!」
「け……っ!」

 私と慧音の視線が、開いた襖の隙間に集中する。そこに居たのは、背の低い女の子だ。鮮やかな色の着物を着た、如何にも身分の良さそうな……。

「あの、お二人が、その、そういう関係で……」

 阿求様、だ。もみくちゃになっている我々の姿を見て、ばつが悪そうに立ち尽くしている。目を凝らすと、その頬は紅潮して、なにやらもじもじやっていた。
 この状況は。いったいなんだと言うのだ。

「いえ、私は別に、そういうのは良いと思いますよ? ですが、ほら、お二人とも、それなりの地位があるのですから、もっと慎ましやかにですね。ああ、いや、別に反対しているわけではないのですよ? 殊に幻想郷においては、あらゆる非常識が認可されているのですから、性別に囚われぬ間柄というのも良いでしょう。しかしながら私が意見を申し上げたいのはですね、簡単に言えば程度の問題なのです。人間の里は閉鎖的ですし、変に噂が広がれば困るでしょう? 慧音さんは大義が果たせなくなってしまいますし、藍さんは八雲の妖怪の権威を失墜させることにもなりかねません。幸福な関係を望むからこそ、節度を保った振舞いが必要なのではないのでしょうか」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ、阿求様」
「少し待て、阿求。お前なにか勘違いしてないか」

 慧音は私を蹴飛ばして、その場で上半身を起こして若干喧嘩腰に阿求様を睨んだ。さすがに歴史関連で付き合いがあるとあって、他人に対する淑女っぽさは微塵もない。阿求様も慣れているらしく、袖を口元に当てて受け流している。
 そんな二人の様子を、私は蹴飛ばされて床にひっくり返った姿のまま見つめていたが、そのうち事態の深刻さを知った。阿求様は何か大変な思い違いをされている。
 このまま呆けているわけにはいかない。私は才気煥発、退行していた理性を呼び覚まし、阿求様の前に膝を突いた。

「阿求様、違うのです。あのような痴態に陥るまでには事情があったのです」
「事情? ふむ、お聴かせ願えますか?」

 阿求様の目はほんの少しだけ濁った豚のそれの如く輝いていたが、しかしそれでも理知的な閃きを失してはいなかった。
 私はすっかり安心し、昼間からの出来事を事細かに話し始める。無論、慧音のことを考えれば主観で話すわけにもいかないため、式が記録した事実のみの説明である。
 幸い、事情説明は滞り無く完了し、その頃には阿求様も普段の綺麗な乙女の瞳を取り戻していた。一先ず安心である。これが天狗連中であったら、幻想郷から命が一つ吹き消えることにもなりかねなかった。

「ふむ、そんなことがあったのですね。少し意外ではありますが」

 意外と言うのは、きっと私の性癖のことであろう。確かに人間たちから見た私のイメージとはあまりそぐわないのかも知れない。しかしそれは真実であり、今の私を一番困らせているものなのだ。

「なるほど、慧音さんが私を喚んだのはこういうことだったのですね。いいでしょう、私に出来ることならば、幾らでも協力いたしますよ。それに、ほら。慧音さんの力だけでは色々と不安でしょう」
「おい、阿求」
「本当ですかっ。ぜひともご教授願いますっ」

 私はまるで犬のように九つの尻尾を揺さぶりながら、阿求様に頭を垂れた。私ではこの御方のご尊顔を拝むことなど出来ぬ。ああ、偉大なり御阿礼の子。

「と言っても私は教育者ではないので、どのくらいお役に立てるかはわかりませんけど……」
「そんな、ご謙遜なさらずに。少なくともこの性悪瑞獣よりはずっと良い方法を挙げてくれると信じております」
「おい、藍」
「まぁ、確かに慧音さんよりは自信がありますけどね」
「おい、おい……」

 声を少し枯らした慧音を尻目に、阿求様は紙と筆を要求した。動く素振りを見せない慧音の代わりに、私がそれらを渡してみせる。この私室には何度も入っているから、構造は手に取るようにわかるのだ。

「では一計案じて見ますので、暫く待っていてくださいね。そこの慧音さんのご機嫌でも取ってあげてると良いでしょう」

 そうしてにこやかに言うと、いつも慧音が使っている机に向かって筆を走らせ始めた。なにが役に立てるかわからぬ、か。随分スムーズな書き始めではないか。その様子を見てすっかり安心した私は、ふと気になって隣の慧音に視線を向ける。
 慧音は私と阿求様に蔑ろにされたことがよっぽど応えたらしく、呆けた顔でぼんやりとしていた。どうにも痛々しくて見ていられない。
 私は放り出された慧音の手を取って、なるだけ自然に微笑みかけた。するとほんの少しだけ頬を緩ませる慧音。だが強情にも、すぐに膨れて外方を向いてしまう。
 まぁ、珍しいこともあるものね。お酒が入っているからかしら。
 しかし私もそれは同じことであった。更に悪いことに、今の私は妙なところにスイッチを抱えているのだった。
 この慧音を弄り回したい。さっきこいつが私にそうやったのと同じように。

「けーいねっ」
「わ、うわっ、なにするんだよ!」

 まず抱きついて、そのほっぺたに頬ずりをしてやる。飛び退いたとて逃しはせぬ、私は無駄に演算能力を発動させて、慧音の経路を塞いだ。空に投げ出された脚を掴んで、そのまま組み伏せる。

「捕まえたぞ、さぁ、さっきの続きだっ」
「阿求ーっ! 助けろーっ!」
「私は人間なので……。あ、でも場所はわきまえた方がいいかと」

 えらい淡白な反応であった。集中しているときの阿求様は基本的に容赦がない。
 そのまま慧音とじゃれていると、やがて机の方から「でーきたっ」という明るい声が上がった。言うまでもなく、阿求様の声である。
 掲げられた半紙には、達筆な文字が踊っている。曰く「妖怪には学習の機会がない」とのこと。隅っこには、鉛筆で書かれた猫が可愛らしく鳴いていた。
 私はすぐに慧音をほっぽり出して、そちらに食い付く。すぐに慧音もこちらにやってきて、私の隣に座った。

「他にもいくつか思いついたのですが、これが一番の原因ではないかと」

 小さく山を築いた紙が目に付いた。それらには「そもそも相容れられぬ」「人間側が無意識に出している排他心」「藍さんの頭が悪い」などなど、あまり適当とは思えぬ言葉が書かれている。傍らの猫もぱっとしない表情ばかりだ。

「つまり、どういうことなんです?」

 しかし幾ら本人が満足気であっても、阿求様の掲げた言葉ですら私には不明瞭に感じられる。その上私一人の問題にしてがテーマが壮大過ぎて、なんだか萎縮してしまう。

「人は生まれた時からずっと人の間で、関わり方を学びながら生きていきます。言わば天然の教育でしょうね。一度も学び舎で学を得なかった人であっても、人との付き合いはできます」
「ええ、まぁ、それはそうでしょうね」

 人間に限らず、ほとんどの動物は親や群れから生きていく術を学ぶ。人間の場合は、それが人付き合いの方法だということで。

「裏を返せば、人でなければ人付き合いを学習する機会がないということなのですよ。それに幾ら頭脳明晰とはいえ貴女は式神ですから、見稽古で習得するのも難しいでしょう」
「……ふむ」

 阿求様はそこで一旦言葉を切って、私を上から下まで舐めるように見る。

「時に藍さん。貴女が人と関わり合いを持つようになったのはいつ頃でしたっけ」

 そう言われ、私は記憶を探るような仕草をして見せた。わざわざそんなことをせずとも答えは決まっているのだが、素直にそれをそうと認めるのは少し厳しい。もとい、恥ずかしい。

「……春雪異変の後、ですね」
「それはつまり、霊夢さんと会った時?」

 やはりそう繋がろうなぁ。あまり認めたくないのだが、実際あのホエホエ巫女に出会ってから(極めて厳密に言うのであれば、霊夢に出会ったのが原因で私の痴態が紙面を飾ってから、となるのだろうけど)、私と人間の関わりは活発になり始めた。結界の検査のために里を歩けば、ちょっとアレの入った老人に拝まれたりもするし、子供に尻尾を掴まれたりもする。買い物をすれば店員に世間話を振られる。
 それより以前は、如何にも淡白な関わりしかなかったのに。
 九年前のあの日。やや不本意ながらも、私の対人歴は幕を上げたのだ。

「なるほどなぁ、お前が何かとつけて霊夢がーって言うのはそのせいなのか」
「あ、や、ちが……」
「霊夢さん大好きですものねぇ、藍さん」
「あう、あう」

 違くて、そうじゃなくって、私に霊夢に好意を抱いているのは、その、なんというか、簡単に言えば刷り込み効果であって、変な意味ではなくて……。
 二人に揃って私を微笑ましげに見やるものだから、私はすっかり混乱して、自分でもなにがなんだかわからなくなってしまっていた。
 一頻りわたわたしていると、阿求様は満足したのか、こほんと一つ咳払いをした。私の意識はそっちに引っ張られて、なんとか均衡を取り戻した。

「……まぁ冗談は置いといて、ですよ。春雪異変から人付き合いを初めたということは、十年分程度の経験しかないわけです」
「……十年」

 妖怪の感覚にしても、人間の感覚にしても、あまりに短い期間だ。

「あなたの知能を考慮したとしても、人間関係を理解するには難しい期間でしょう。それに藍さんは式神なのですから、人のことばっかり考えて生きるわけにもいかないでしょうからね」
「要するに、経験不足であると?」

 阿求様は頷いて、それから「みっちり人間世界で生きる十の子供ですら理解できないのですから」と言う。
 経験不足。経験不足か。私の頭のなかで、その言葉がぐるぐる巡る。まさかこの歳にもなって、そう評されるとは思いもしなかった。

「それを解決するには、経験を積むしかありません。苦手だからと大人を避けていれば、きっとずっと苦手なままでしょう。私に言えるのはそれだけです」
「……むぅ。ありがとうございます」
「さ、慧音さん。ここからはあなたの範疇ですよ」
「あー? なんだ、つまり、経験不足を補う教育法を考えろと?」

 にっこり笑う阿求様。それを肯定とみたらしい慧音は、乱れた髪に指を通しながら一つ溜息を吐いた。

「難しいことを言ってくれるなぁ。妖怪教育は私の専門ではないというに」
「ですが教育者でしょう。大丈夫ですよ、慧音さんは優秀なんですから」

 慧音はなんとも形容しがたい笑みを浮かべると、今度は私に向き直った。

「じゃあ藍、お前みたいなダメ狐にもわかるような教育をしてやる。期待しておけ」

 そう語る表情はなんだかとても楽しそうで、微妙に私を不安にさせる。しかし慧音の教師としての手腕は信用に足るものなので、反面期待も抱いてしまう。
 どうせ抱くのならば後者の方が良い。私は先行投資の意味も込めて、慧音に抱きついておいた。阿求様はそれを見るなり、なんだかよくわからぬ呻きを上げて倒れこむのであった。








「おい、慧音。これは一体どういうことだ」
「見ての通り、あなたの教室ですよ」

 慧音は対人用の慇懃な態度を見繕ったまま、とぼけたことを嘯いた。普段、式の講義の時は空席の目立つ教室、しかし今日は全ての席が埋まっており、その上全ての生徒が二十歳そこいらの若者であった。
 覗き込むだけで怖気が走る。

「違うでしょ、なんでこんなんになってるのかと訊いてるんだ」
「これが私の教育ですよ。いつも中途半端な人数を相手にしているから慣れないのです。でもこれだけの人数だったら、その分早く馴染めるでしょう?」

 酷い精神論、もといごり押しである。そんな簡単に克服出来れば世話はないというに。

「このために、良かれと思って昨晩のうちに生徒を募って置きました。良かれと思って若者ばかりを」

 期待した私が馬鹿だったと、そういうことなのだろうか。せめて昨日抱きつくに使ったエネルギーくらいは返してほしい。そんなケチな気分になるくらい、私はすっかりあきれ果てていた。

「ああん、もうっ! 馬鹿馬鹿っ、余計なことをして!」
「余計とはなんですか。私はあなたのために……」

 口論になりかけたところで、私ははっと気付いて慧音の口を噤んでしまった。生徒たちの視線がこちらに集中している。見られるのはちょっとまずい。
 この段階であまり目立ちたくはない。眺めた感じ知り合いと言えるレベルの人間は少ないし、一人二人の阿呆に妙な印象をつけられればろくな事になるまい。

「……責めるのは後でにしといてやる。覚えておけよ」
「どうしてそう邪険にするのですか。これもそれもあなたのためなんですからね」
「むー……」

 そう言われてはどうにも弱い。人に思われていると考えると、自分の筋を通すのがちょっとむずかしい。

「ほら、時間稼ぎなんてしてないで、行ってみたらどうです? 一度やってみればどうにでもなります。人付き合いなんてそんなもんなんですから」

 慧音はまんまと私の思惑を看破すると、ぐいぐいと私を押し始めた。腕に力を込めて、思いっきり。勿論、そのベクトルの先は教室の入口である。不意を突かれてよろめいた私は、特に抵抗も出来ずに教室に放られてしまった。
 それだけなら良い。後で仕返しの一つでもやってやれば気が済む話だ。
 問題は、それだけではなかったということで。
 よろめき、たたらを踏んで、教室の中を数歩進み、一瞬静止する。しかし現実は非情であった。私はそのまんまつんのめって、盛大にすっ転んでしまった。
 鼻の頭を強かに打ったおかげで、脳が揺れる。目も眩む。意識が現実に追いつくと、さらに頭まで痛くなった。
 この僅かな時間の間に、教室中の目は全て私に向けられていて、もうこそこそとやれる雰囲気ではない。たくさんの人間の前で、酷い醜態を晒してしまった。その事実が私を虐める。
 ふと入り口を睨んでみると、外で青いのがお腹を抱えて笑っていた。その姿には貞淑さの欠片もない。わざとか。わざとだな。
 おもむろに体を起こして、教室中をぐるりと見回す。若者どもはみんな今にも吹き出しそうな顔をして、私をじろじろ、にたにた見つめている。顔が熱い。火を噴いてしまいそうなくらい。息が粗くなる。一度深呼吸して落ち着こうとすると、俄に肺が締め付けられるように痛んだ。
 ああ、ああ、もうっ。もうどうにでもなぁれっ!

「……っ、全員ッ! 起立ッ!」

 捨て鉢になった私が発したのは、無駄に大妖怪めいた重っくるしい声だった。それが教室中に反響し、意図しない緊張が場を支配する。生徒は揃って背筋を伸ばして、一部の連中なんぞは小さく震えてもいた。
 或いは失禁してる者もいるかも知れないが、考慮する程の余裕はない。内心がっくがくである。

「あ、う……、は、早くしろッ! 授業を開始するッ!」

 一度怒声を放ってしまった以上、退くに退けなくなった私は、若干無理に低い声を作ってそう叫んだ。喉が痛い。後で何か報いでもなければ割に合わぬ。
 生徒達は如何にも困惑した様子で互いに目配せをしている。なんだかとても申し訳ない気分になったが、私にはこうするより他に道はない。是非もなし。
 暫くすると、ぽつりぽつり立ち始める者が出てきた。徐々に伝播し、五分が経つ頃に漸く全員が起立する。遅れて立ち上がった者の表情を見るに、私を甘く見ているのではなくて、恐怖で体が動かないようであった。
 本当、最悪な幕開けだ。緊張に弱い自分の性癖が嫌になる。
 内心泣き出したい気分になりながら、立ち上がった生徒たちの顔を一人ひとり確認していく。目が合うと視線を逸らされた。そのうち一人が、礼を命令されたと思ったらしく、裏声で「れェイっ!」と叫んだ。追従して全員が頭を下げる。
 私も慌てて礼をすると、終えた頃には全員が着席していた。
 気にしている余裕はない。私は生徒達の視線を意識しないよう、背を向けてチョークを持った。これ以上見つめられたら精神が保たぬ。
 式も解説も全て並べ立てて、なるだけ生徒たちの法を見なくて済み、声もなるだけ出さなくて済む方法で授業を進めていく。時折怖ず怖ずと質問してくる輩も居たが、返答は全て板書である。
 しかし、そう効かぬ事態も発生するわけで。

「せんせー、ここがわかりませーん」

 震えるばかりのはずの生徒の中から、どうも軽薄な声が一つ。白々しさすら感じる、少女の声。
 恐る恐る振り返ってみると、鮮やかな色の着物に身を包んだ少女が満面の笑みを浮かべながら手を振っていた。見覚えのある、というより昨日出会った少女だ。
 どうみても阿求様である。なにやってんだあの方は。
 と、呆けている場合ではない。考えて見れば、この状況は非常にまずい。
 生徒に対しては一度取ってしまった態度を崩すわけにはいかず、かといって阿求様にあんな不遜な態度をとるわけにもいかない。重要度で言うならば当然後者なのだが……。ああ、ああ。

「せんせー、どうしたんですかー?」

 鬼だ。あの阿求様には鬼が取り付いているのだ。そうとしか思えぬ。
 私はとりあえずあちらの意思を確認するため、つかつかと阿求様の席に近付いて行った。周囲の視線が痛い。そうして席に最接近すると、一先ずその額に触れた。普通の人間には聴き取れない波長の音を聞こえるようにするためである。

「阿求様、一体どういうおつもりですかっ」
「あな……」

 反応しかけた阿求様の口を慌てて塞ぐ。今私が出しているのは人間の可聴域外の声なので、阿求様にしか聞こえていない。これに返事をしたらまるで独り言のようになってしまうのだから、止めるのもやむなしである。
 私が紙を指さして、「ここに書いて下さい」と伝えると、阿求様は理解した様子で頬を赤くした。

「もう一度訊きますが、どういうおつもりなのですか? まさか私をいじめるため、とかじゃあないですよね」

 阿求様が筆を走らせる。曰く『そんなつもりは御座いません』だそうで。さらに阿求様の弁明は続く。

『あんな授業の仕方では矯正にならないでしょう。もっとコミュニケーションを図りなさいな』

 なかなか難しいことをさらりと言ってのけるものである。それが出来れば苦労しないのですよ、と胸中で呟いて、私は小さく溜息を吐いた。

「コミュニケーションと言っても、どうすれば良いのですか? 私にはわかりません」

 今度は阿求様が溜息を吐く番であった。やれやれ、とでも言いたげに首を振る。

『いつも通り授業を行えば良いのです。意識せずにそれが出来るようになれば合格だ、とけーねさんは仰ってましたよ』

 いつも通り。それが行えなかったからあんなオモシロオカシイ開幕になってしまったと言うに、どうしろと言うのだろうか。私はその場に膝を付いて、頭を抱えた。

「……無理ですよぉ」

 耳を塞いで目を閉じて、そうして蹲る。周囲からの視線を感じる。もうやだ。
 しかし阿求様はそれを許さなかった。唐突に私の肩を叩き、私が顔を上げたところで思いっきりでこピンされる。

「うひゃあっ!」

 さしたる痛みもないが、不意を突かれたため少し大袈裟な反応をしてしまった。頭を抑え、床に倒れこむ。幾人かの生徒が立ち上がって、私と阿求様の様子を観察していた。

「いきなり何を……っ」
「まったくもー、まったくもーですまったくもう」

 困惑する私を見下ろしながら、阿求様は腕組みをして苛立たしげにそう言った。普段の阿求様らしからぬ見下しっぷりである。私はすっかり萎縮してしまい、呆けた顔で阿求様を見つめていた。

「そんなんだから、あなたは何時まで経っても紫様にボコボコにされるし霊夢さんにも適当にあしらわれるのです。見ず知らずの人の相手くらい出来ないでどうするのですか、もう。あなたから見れば、こんな連中ただの小物ばかりでしょうに、どこにそこまで恐れる必要があるのですか。見栄も張る必要はないでしょう。あなたはあなたらしく、いつものように話せば良いだけです。ただ、話す対象が少し多いだけなのですから」

 阿求様は休むことなくそう言うと、周りに視線を巡らせて「しまった」とでも言いたそうな表情を浮かべてから、粛々と腰を下ろした。その様子を、私は呆然と見送っていた。

「……って、慧音さんが仰っていました」
「……? ……?」

 私がぼうっとしているのを何か別の理由であると勘違いしたらしく、取ってつけたようにそう続けた。ますます困惑する。

「……、ほら、みなさん待ってますから、授業再開してくださいよ、これじゃあ私がバカみたいじゃないですかっ」

 阿求様はまたしても私の額を小突いて、それからぐいぐいと押してきた。いじる気にもなれず、私はすごすごと教卓に戻った。
 講義を続けなければなるまい。それが私に与えられた責務なのだから。しかし、黒板を目の前にして、チョークを持ったは良いものの、体を動かす事が出来ない。
 人目に晒されて緊張している、と言うのも勿論ある。しかしそれ以上に、阿求様の言葉が私を悩ませていた。人間の大人への恐怖を払拭するにあたって、「相手が格下である」と簡単に割り切れるほど、私は成熟してはいないのである。
 こつ、と黒板に頭を当てる。チョークの粉が髪にかかった気がするが、構うものか。私は少しづつ、決断を促すための思考に没入していった。




「ねぇ、藍」
「どうかしましたか、紫様」

 私の脳裏にこだまする、いつの日かの記憶。私は紫様の頭を太ももに乗せて、ゆったりと月を見上げていた。半月という事もあって、綺麗に星も見える。たしかこれは、秋のことだったかと思う。

「ちょっとお願いがあるんだけど」
「別にそんなかしこまらなくても、私はご主人様の奴隷なのです。如何なることでもご命令を……」

 そこまで言いかけて、私はなんとなく、自分は何かとんでもないことを口走ってしまったのでは、と直感した。途端に不安になって視線を下ろすと、案の定紫様は口角を吊り上げておられる。
 ああ、やっちゃった、やっちゃった。後悔先に立たずだ。

「ん、今如何なることでもって言ったわよね」
「え、あ、それは。その、言葉の綾でして……」

 紫様は私の腰に手を回し、固く拘束した。感触ではあまりきつくないのだが、全く抜けられる気がしない。紫様がこうやって接してくる時は、大抵おかしな企みがある時ばかりだ

「言い訳しないの」
「あぅ、申し訳ございません……」
「ま、そんなことは置いといて。藍、ちょっと敬語崩して話してみてくれないかしら」
「えっ!?」

 これまた難しいことを命令してきたものである。私は式神という立場上、主人に対して無礼な口を効くことなど許されることではない。かといって命令を無視すれば、式神の存在意義に関わる。
 こういった場合、当然重要になるのは後者だ。可能な限り命令を優先せねばならない。しかし私の心情まで考慮すると、そう簡単に割り切れる問題ではない。
 式によって無理やり屈服させられている狐狸どもならいざしらず、私は心の底から紫様に服従を誓っている身である。それが紫様に対して……ああ、ああ。

「む、無理です。そんなことできませんっ」
「これでも、だめ?」

 紫様は上目遣いで、如何にも弱々しそうな少女の体を見繕いながら私にそう囁いた。若干心は揺らぐものの、なんとか自制する。紫様のお姿があとちょっとでも幼ければ危ないところだった。

「そんな顔したって駄目ですっ」
「もー、釣れないわね。そんなんじゃもてないよ?」
「そういう問題じゃないです。私にだって譲れないものがあるんですから」

 私の言葉を受けた紫様は、不機嫌そうに首を振った。

「はぁあ。そうして藍ってそう、頭が堅いのかしら。なんとかしないと後々困ったことになるわよ」
「なんとかって……。できませんよ、私は式神ですから」
「いつまでそういう言い訳をするのかしらね」

 …………え?
 呆然とする私をそのままに、紫様は言葉を続ける。

「式神だから式神だからって、あなたはいつもそう言うけどさ。それって逃げてるだけじゃあないの?」

 紫様は私の脇腹をくすぐりながらそう言った。反論できぬ、二重の意味で。

「式神のくせに、妙なところに拘りがあるのよねぇ。別に他人は誰も気にしてないって言うのにさ」

 袖から腕を突っ込まれて、脇やら脇腹やらを直接くすぐられる。頭がおかしくなりそうだ。

「ま、今日は私の興が削がれるだけで済んだからいいけど、後でもっと面倒な場面に出くわしたら知らないわよ」
「は、はひぃ……」

 そうして日が昇るまで脇腹を攻められ続けた。以来私は色々と敏感な体になってしまったのだが、それはまた別の話だ。
 まぁ、そんなことがあったのだ。大体今から五十年くらい前に。





 私の意識は再び現在に戻る。痛いところを突かれ、無意識に忘れようとしていた記憶を思い出して、軽く目眩がした。
 しかし、うぅむ。今更になって「もっと面倒な場面に出くわ」すとは思ってもみなかった。妙なこだわりを盾にして逃げ回ってきた結果だろうか。

「……はぁ」

 誰にも聞こえぬよう押し殺した溜息を吐く。すると、少しは気分も楽になった。
 しかしそれで問題が解決するわけではない。私は阿求様と紫様の言葉を胸中で反芻し、逡巡の後に覚悟を決めた。このままではいかん。ここで逃げれば、もっと面倒なことになるかも知れぬ。
 黒板を一度まっさらな状態に戻して、生徒たちの方へ向き直る。私はまだ負なのだ。ここいらで清算しておかないと、永遠に負債を抱えて生きていくことになる。

「みなさん、すみません。ちょっと緊張していたみたいで……」

 なるだけ自然に、はにかみながらいつもの口調に戻していく。これで良い。誰も文句なんて言わないはずだ。







 現実は非情である。
 私は居酒屋の席に突っ伏して、必死に涙を堪えていた。隣の慧音がぽんぽんと肩を叩いてくれる。

「おい藍。元気だせよ、なにも割りきってすぐやれるほど器用な奴なんていないんだ」
「うん、ありがと慧音……」

 結局、講義は失敗だった。努めて明るく、にこやかに進行しようと思ったのに、気張りすぎて噛みに噛みに噛みまくってしまったのだ。伝えるべきところが伝わらず、それを補おうとして解説を試みれば舌が止まる。そんなことを繰り返して五十分間を無駄に消費してしまった。
 時が進むにつれて徐々に追い詰められていき、時計の針が三千回目の音を刻むと同時に色々と限界を迎えた私は、そのまま寺子屋を飛び出して居酒屋に逃げ込んだのである。
 後から慧音も追いかけてきて、反省会の流れになり今に至る。

「で、だ。今の講義のことはおいといて、お前はどう思ったんだ?」
「どうって、なにさ」
「これからどうする? まだ人間は怖いか?」

 慧音がそう問う。あれだけの人数を一度に相手どっても、まだ人間の大人に対する恐怖は拭えていない。覚悟を決めただけで拭えるのなら、あそこまでの醜態を晒すことはなかったのだ。
 大人は怖い。怖いし、目の前にすると緊張してままならなくなる。
 しかし、それでも。

「教師は続けるよ。この程度でへこたれるほど、私は愚かじゃあない。それに、阿求様も経験を積めと仰っていたからな」

 それに、今回である程度吹っ切れることも出来た。このまま諦めないでいれば、恐怖を克服することも、もっと上手く教えることも、出来るかもしれない。

「そうか」

 慧音は満足気に頷く。お前なにもしてないんだけどな。むしろ妨害しただけで。
 いや、考えようによってはそうでもないか。こいつが相談に乗ってくれねば阿求様から助言を貰うこともなかったし、こいつが押さなければ教室に入る前に逃げてしまっていたかもしれぬ。

「いや、そう言ってくれてよかったよ。お前以外に算学を教えられる奴はいないからなぁ」
「だったら、もう少し待遇を良くしてほしいものね」
「もっとよく働いてくれれば考えてやるとも」
「ふん、今に見てな。お前が払えなくなるほど働いてやるよ」

 今泣く分の涙が終わったら、もう殊教育に関することで泣くのは止めにしよう。私はこれでも出来る式神なのだから、さしたる苦労もなしに慣れるだろう。
 やっと見つけた他人のための仕事なのだ。大切にせねば罰が当たる。
 私は一升瓶から直接お酒を流しこんで、小さくげっぷをした。
気がついたら前の投稿から半年も経ってました。毎日書いてたはずなのになぁ。
そんな感じで藍と慧音とちょっぴり阿求のお話です。
藍は変なところで抜けてるキャラだと思いました(小学生並みの感想)
( ゜Д゜)
http://twitter.com/#!/kuukotenko
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コメント



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1.80名前が無い程度の能力削除
藍さまがヘタレで子どもでビビリで対人恐怖症だなんて、珍しいどころか初めて見ました。通例橙とセットで保護者役か、あるいは紫とセットでできる女枠になるからでしょうか。しかし珍しい。
阿求様のあきゅまっぷりにも驚き。しかも様付け。まあ屋敷がバカでかいですからね、様付けしたくもなるでしょう。
10.100名前が無い程度の能力削除
コミュ障……と言うかこれは小動物か。
ちっこい藍しゃま可愛いなぁ……。
慧音ともふもふしあっているのが微笑ましい。
橙がしっかり者ならなおよし。
15.90奇声を発する程度の能力削除
この藍さま良いな
16.803削除
なんだこの蘭さま! 初めて見るタイプだ。
>実際私の背丈は成長期前の子供と同じくらいしかないのだ
!?
>慧音よりは高いとはいえ
!!??
切り口が面白いなぁと思いました。
17.100名前が無い程度の能力削除
なんじゃ!この藍さま。