満ち切らない十四番目の月は、いまや姫君の掌中にすっぽり収まっている。それが何だか可笑しくって、少女は時折くすくすと笑った。
姫君の部屋の畳は今日張り替えられたばかりだ。真新しい藺草の緑が勝った香りが、彼女の鼻を快く擽る。こんな気持ちは随分と久しぶりだった。終わらない夜の異変があってから、幻想の人妖たちと相対してから、姫君の心中には驚くべき様々な変化が訪れている。「何も変わらない」という永遠の魔法を彼女が解いてしまったのも、何とも可笑しなあの者たちに心動かされたせいだ。
明日にはついに月が満ちる。隠遁を止めてから初めて迎える満月だ。
そしてここ永遠亭にて、月の事物を博く展示する月都万象展が初めて開かれる。
蓬莱山輝夜は、その嫋(たおやか)な両手で朱塗りの杯を捧げ持っていた。その中へ波と注がれた酒に、扁平な丸い月が写って揺らめいている。月は今、永遠の罪人の手中だ。
しばらくその様をしげしげと眺めていた姫君だったが、やがてその小さな口へと杯をつけて、一息に中身を干してしまった。こくり、こくり。白く輝く喉が、彼女にしか聞こえない音で鳴る。
輝夜は再び杯を覗いた。そこには当然もう酒はなく、水面に写っていた月だって影も形もない。
はて、と彼女は考える。自分はもう月の住人ではない。かといって地上の民であるともまだ言えない。
では今の自分は、果たして何処にいるのだろう?
◆ ◆ ◆
永遠亭は一見して静謐な印象を受けるが、一度入ってみれば沢山の音で溢れていることに気づくだろう。風が吹けば竹の葉がさらさらと鳴るし、それが強い風ならば竹同士がぶつかり合ってこおんと高い音が響く。そこかしこに住み着く兎たちの跳ねる音だって姦しい。一日ごとに様相を変える迷いの竹林の生命力が、一種の音楽を生みそのバックグラウンドを満たしているのだ。
鈴仙・優曇華院・イナバにとって、その音は耳に悪いものではない。人混みがあまり好きではない彼女にとって、それはむしろ好ましい音であった。てゐによれば「マイナスイオンだよ。疲労に効くんだ」とのことである。外の世界の人間は森や湖で聞こえる自然の音を「マイナスイ音」と呼ぶのだとか。成程この兎は外の世界の健康法にも通じているのか、と鈴仙は感心したものだ。傍らで聞いていた師匠の物申したげな表情は、不幸なことに彼女の目には入っていなかった。
さて、今日の永遠亭はそれとはまた違った騒がしさであった。つまり、鈴仙の苦手とする方の騒がしさだ。
「 ―― 何でこんなに来てるのよ、人」
姫君と師匠と、あとは兎。普段はそれしかいないはずの永遠亭を、今や数え切れないほどの人妖が満たしていた。庭や屋敷の中をめいめいに歩き回り、建物や展示物の素晴らしさに感嘆の息を漏らす。
月都万象展は早くも大盛況の様相を見せていた。まだ真っ昼間だというのに、こいつら仕事はどうしたんだ。
この催しは輝夜の発案である。永夜異変の直後、「もう隠さなくていいんだし、折角だから自慢したい」というワガママ度最高な提案を姫君がブチ上げたのだ。
姫君に異を唱える者が永遠亭にいようはずもない。なので月が欠けて満ちるまでの二十日あまりの間、準備は急ピッチで進められることになった。主に鈴仙一人の手によってである。その苦労をここに記すにはとてもじゃないが紙面が足りない。彼女がよく訓練された月兎だったからこそ成し得た偉業と言えよう。
圧倒的重労働をこなしながらも、鈴仙にはこれが徒労に終わる気がしてならなかった。月の物といったって何がそんなに面白いのか分からないし、第一迷いの竹林は普通に遭難できるレベルのダンジョンである。まともな人妖がわざわざ好き好んで来るとは思えなかったのだ。
鈴仙の誤算。それは幻想郷の住人たちが揃いも揃って全然まともじゃなかったことであった。
「姉ちゃん、餅まだー?」
「……え、あぁはい。ちょっと待ってね」
子供の声に我に返る。人間の少年がぐぅと力なく腹を鳴らしていた。鈴仙はわたわたと慌てながらも、搗きたての餅を幾つか紙皿に乗せ渡してやる。すると途端に元気になって、「ありがとう!」と頭を下げると一目散に家族の許へと戻っていった。
今日の鈴仙の役目は、正門入ってすぐの最も目立つところで、ただひたすら餅を搗き振る舞うことである。
まるで意味が分からない役目であったが、師匠にとっては意味があるらしい。「餅搗きなんて誰でもできるじゃないですか」との彼女の反論は永琳の歯牙にもかからなかった。それどころか「貴女にしかできない、とても大事な役目なの」と真剣な眼差しで口説かれ、逆に丸め込まれる始末である。そのときは思わず前言撤回のち快諾してしまったが、今となっては自分のチョロさが恨めしい。
だから朝からずっと、鈴仙は杵を振るいっぱなしなのだ。ご丁寧にも立てられている「お餅をご自由にどうぞ」「月の兎ふれあいコーナー」の看板が恨めしい。何だよふれあいって。こちとら全然触れ合いたくなどないんだ。
来場者が多ければ、振る舞う餅の量も増える。必然的に鈴仙は忙殺されることになる。予想を上回る客の勢いに、彼女はもうクタクタであった。いくら妖怪といっても体力の限界はあるのだ。
それ以前に、蒸した餅米も底を尽きそうだし。
「餅しか搗いてないなぁ、今日は……。ん、待てよ。餅米がなけりゃそもそも餅は搗けないんだから、私の仕事終わりじゃない? これやっと私の時代が来たんじゃない? やったー!」
「はい鈴仙、追加の餅米だよ」
「……ぬか喜びだったか」
怨嗟とともに、傍らで笊(ざる)を抱える小さな影を見下ろす。
因幡てゐはとてもいい笑顔で、蒸された餅米をずいと差し出した。
「いやぁ、よく働いてるねぇ。感心感心」
「……そりゃどうも」
「あれ、随分とお疲れみたいだね。ちゃんと休息取ってる?」
「お陰様でほとんど眠れてないけど、師匠の滋養強壮薬のせいで全然眠くないのよねこれが。絶対に後からキツい反動来るよねこれ。いやぁ今からホント楽しみだなぁ、ふふふ」
「ダメだよちゃんと寝ないと。お肌が荒れるよ。ついでに心も荒れちゃうよ」
「誰かさんが私の言うこと聞かないせいでしょうが!」
「む、失敬な。ちゃあんと言うことは聞いてるじゃない。ただそれを実行しないというだけで」
「きぃぃぃぃぃぃ!」
鈴仙は臼の中身を搗いた。ただひたすらに搗いた。これを目の前の兎の顔だと思って搗いた。本物を杵で殴らなかったその我慢強さはもっと誉められてもいい。
「大体ヒマ過ぎでしょ、どいつもこいつも! 何でこんなに人来てるの?」
「それには聞くも涙、語るも爆笑の裏話があってだね」
てゐが人差し指を立てて解説モードに入る。賭けてもいい、その裏話とやらは絶対に泣けない。
「まずお師匠さんが、ここの存在を嗅ぎつけた天狗に広報を頼んだのさ。新聞で月都万象展をばんばん宣伝してくれってね。報酬は胡蝶夢丸エターナルナイトメアタイプの解毒剤」
「いやそれ脅迫でしょ。師匠ってば天狗に毒盛ったの……?」
「そんで竹林に関しては、姫様が一計を案じた。あの藤原何たらって蓬莱人の前でわざと溢したんだ。『月都万象展に沢山人来たらとっても困るわ。竹林の案内なんかされたらたまったものじゃないわ』ってね。そしたら姫様への嫌がらせになら命をかけるアイツのこと、進んで自分で案内やってるどころか、竹林のあちこちに案内板まで立てる始末」
「うぅ……。疑ってごめんね、てゐ。その話凄く泣けるわ……」
その二人の境遇には同情して余りある。天狗の不憫さも蓬莱人のチョロさも自分を遙かに凌駕していて、鈴仙は袖でそっと目元を拭った。
「それだけじゃないよ」
「まだあるの!?」
「この前の異変関係者やら、幻想郷のあちこちに招待状を出したのさ。たとえば、ほら」
ちょうど餅が搗き上がったところで杵の動きを一旦止め、てゐの指さした方向を見る。
そこには正門を潜って入ってくる、大勢の子供の姿があった。家族連れではない。引率者一人に対して、子供たちは二十人ほどいるようだ。
集団を率いている少女は、子供たちの歩みに合わせてゆっくりとこちらへ近づいてくる。そして臼の側までくると、皆を引き止めて口を開いた。
「はい皆、注目。ここで餅を搗いているのは妖怪兎です。でもただの兎じゃありません。空に浮かぶあの月からやって来た兎なんです。じゃあご挨拶しましょう。さんはい、こんにちは!」
「こんにちはー!」
「あ、ど、どうもこんにちは」
声を揃えての元気のいい挨拶に、鈴仙はタジタジになった。
生徒たちの様子に満足げに頷くと、引率の寺子屋教師は懐より何かを取り出し鈴仙に差し出した。
「あぁ失礼。招待状を頂いた上白沢ですけども、これは貴女に渡せば?」
「あいあい、私が受け取るよ」
何が何やら分からない鈴仙の脇から、てゐが招待状を受け取る。
上白沢慧音は上機嫌であった。何だか今にもルンルンとスキップでも始めそうだ。晴れ晴れとした笑顔で、彼女は鈴仙へ礼を言う。
「いやこの度の招待、本当に有り難いよ。子供たちにとってはいい課外授業になる。妹紅も頑張ってくれているしね」
「いえいえ、招待したのは私ではないですし。私がやったのは、掃除と調達と工作と警備と展示と整備と、あとはこの餅搗きくらいで。あ、お餅いかがですか?」
「では頂こうかな」
慧音は生徒たちを振り返って言った。
「皆、兎のお姉さんがお餅を下さるそうですよ。お礼を言いましょう。さんはい、ありがとうございます!」
「ありがとうございます!!」
再びの唱和。何だかこそばゆい。
鈴仙とてゐが餅を配る間も、慧音は説明を続ける。
「皆も聞いたことがありますね。月では兎がお餅を搗いているのです。皆もお正月にはお餅を食べるでしょう」
子供たちは素直に先生の説明を聞いている。本当は月兎が搗いているものは薬なのだが。
鈴仙が皿を渡すと、素直にお礼も言ってくれる。何と真っ直ぐな子供たちだろう。永遠亭の兎たちもこれくらい素直ならいいのに。
「お餅は長生きの象徴。それを年の始めに頂くことで、家族の長生きを祈るのですよ。月の兎たちも、きっと長生きを願ってお餅を搗いているのでしょうね」
はて、と配り終わった鈴仙は思う。月の兎はどうして薬を搗かなきゃいけないんだっけか。長寿祈願といっても、月の都の住人たちにはそもそも死がない。寿命を定めてしまう穢れがないからだ。
そしてなぜ、自分は今日ひたすら餅を搗くハメになったのか。師匠が長寿を祈る? 冗談にすらなりゃしない。
「皆お餅を貰ったかな? では頂きましょう。さんはい、いただきます!」
「いただきます!!」
「あいあい、どうぞ召し上がれ。大したものじゃないけど」
「……何故てゐがそれを言うのかな?」
子供たちはめいめいに餅へかぶりつく。「おいしー」「うめー」と声が上がった。
「うん、確かにこれは美味しい。月のお餅はやはり違う」
「いやぁ、それほどでも。でも誰が搗いても同じですよ。材料だって地上の餅米ですし」
「それもそうか」
邪気なく慧音に返されて内心ズッコケる。そこはお世辞でも否定しろよ。
「まぁ、今日はいい勉強の機会になるよ。中に姫もいらっしゃるんだろう?」
「えぇ……あっ」
そういえば、と鈴仙は思い当たる。慧音は妹紅との縁が深かったはずだ。招待状を出したのは輝夜だろうけど、大丈夫なのだろうか。
そんな困惑をよそに、慧音はまた生徒へ向き直る。
「皆、お皿はちゃんとゴミ箱に入れること。お皿を捨てたら中へ行きますよ。では兎のお姉さんにさよならを言いましょう。さんはい、さようなら!」
「さようなら!」
慧音と子供たちは、またぞろぞろと建物の中へと入っていく。鈴仙はそれにひらひらと手を振った。やはり子供とはあぁあるべきだ。外見だけチビっこくても中身がアレなのは、傍らのこいつだけで十分だ。
「お、失礼しちゃうね。私は中身もまだまだ若いのだよ」
「しまった、口に出してたか。若いっていうなら替わってよ、餅搗き。私もうヘトヘトで」
「残念ながら、若い内の苦労を買う金はない。ゴメンねー」
「屁理屈こねるなっ」
「おっと」
突き出された杵を、てゐは空中へ跳んでかわす。そのまま一回転を加えながら臼を飛び越え、丸めた餅を並べていた盆の側へ着地した。出し物と勘違いでもしたのか、客が疎らにぱちぱちと拍手した。
しまった、と思ったときにはもう手遅れである。搗き上げたばかりの餅が乗った盆をひょいと持ち上げて、てゐはにやりと笑った。そして読んで字のごとく脱兎の勢いで、あっと言う間に走り去って行く。
客に供する餅が減れば、鈴仙の労働量はその分増える。至極単純な方程式は、彼女の疲労を指数関数的に積み重ねた。
庭の向こうじゃ、てゐに群がる大勢の兎たち。餅を分け与えられて、悩みなどなさそうな幸せな笑顔で ――。
「うおぉぉぉぉ、やってられっかぁぁぁぁ!」
鈴仙は全ての怒りを餅にぶつけた。そうして出来上がっていく餅は皮肉にもコシがあって美味いと評判になり、ますます彼女の仕事は増えるのだった。
◆ ◆ ◆
輝夜は美少女である。いやむしろ、美少女とは輝夜なのである。二つの概念は完全に同値であり、一分とて他者に介入の余地はない。必要十分条件というやつだ。
そのことを輝夜自身、十分に理解している。自惚れでも自慢でもなく、純然たる事実として己に刻みつけている。彼女にはそうしなければならない義務があった。自らの美しさに無自覚な者は、いつか必ず悲劇に陥ってしまうからだ。
そして美をその掌中に入れようとするならば、相応しい対価が必要なのだ。
「三千世界よ」
輝夜の返答に、言い寄ってきた男の顔が凍り付く。
「幻想郷の砂粒から、結界外の摩天楼に至るまで。そして太陽と月と満天の星の全て。ひとつ残らず私の前に積み上げたら、考えてあげる」
そう言い放ってくすくす笑ってみせると、彼はすごすごと引き下がった。足早に去っていくその後ろ姿はちょっとだけ可哀想だった。
人里の映画館へ二人で出かけるというプランが嫌なわけではない。むしろどちらかといえば興味をそそられる話だ。しかし輝夜は美少女であるが故、それに軽々しく応じるわけにはいかないのである。「傾国の美」という言葉がある通り、美女は指先ひとつで世界を滅ぼしてしまえるのだから。
あぁ、美しいとは何という罪なのだろうか。
「うーん、やっぱり永琳の言う通り、部屋から出ない方が良かったかも」
輝夜は頬に指を当てて呟いた。何せナンパ撃退もこれで八人目である。声をかけてこなくとも、遠巻きに自分を眺める視線は無数に感じる。自分が発案したイベントだからと、半ば無理矢理に出てきたのだが。護衛も付けずに人前に出るのは、やはり姫らしくなかったのだろうか。
何より、人ばかりの永遠亭という非日常にもちょっと退屈してきた。永遠の魔法をかける前だって経験したことのない人混みは、初めのうちは確かに物珍しくて楽しかった。しかしながら輝夜は箱入りの姫君であるからして、不特定多数との付き合いには少々不慣れである。端的に言えば、疲れた。
うーん、とひとつ大きく伸びをすると「ふわぁ」なんて欠伸までついてきた。口元を袖で隠す暇もない。姫様度がストップ安を記録しそうだ。やっぱり部屋に戻ってのんびりしようか、と輝夜が考え出したとき、覚えのある姿が目に入った。
「 ―― はい皆、御覧なさい。これは月の石だそうですよ。外の世界の人間がロケットで月まで行って、持ち帰ってきたものなのです……本当か? ただの石にしか見えないが……。で次のこっちが、えーと何だこの妙ちくりんな装置は。パンフレットに載ってないじゃないか。ちょっとそこの兎さん、これは一体」
退屈しのぎ、発見。
すすす、と静かな急ぎ足で輝夜はその集団に近づく。人里の子供たちの後ろに彼女が着いたことに、引率の先生は兎への質問に夢中で気がついていない。振り向きぎょっとした子供に輝夜は静かに微笑み、立てた人差し指で自分の唇を叩いて見せた。
「ふむ……へぇ……成程。はい皆、お待たせしました。この機械は ―― む」
ようやく振り向いた慧音が、輝夜に気がつく。姫君はひらひらと片手を振った。
「……えー、皆後ろを向いて。こちらがこの永遠亭のご主人、蓬莱山輝夜さんだ。ご挨拶をしましょう。さんはい、こんにちは」
「こんにちはー!」
「はい、こんにちは。元気な子たちねぇ」
ちびっ子たちのきらきらとした瞳を見ていると、輝夜の頬も自然と綻ぶ。自分がいかに美しかろうと、この微笑ましさだけはもう持ち合わせていないな、と思う。
輝夜と慧音は、一応の面識があった。二人の間に藤原妹紅という蓬莱人がいるためだ。もっともそう頻繁に会うわけではないし、親しく言葉を交わしたこともない。それでも妹紅を介して姫君は慧音のことをよく覚えていたし、妹紅と繋がりの強いワーハクタクが輝夜のことを忘れようはずもなかった。
つんつんと袖が引っ張られる。見ると、幼女が輝夜を真っ直ぐに見上げていた。
「おねーさん、先生の知り合い?」
「平たく言えば恋のライバルよ」
「それはいくら何でも平たくしすぎです。というか私は妹紅とそういう仲では……」
慧音があたふたし始めた。真面目っ娘はからかうととても楽しい。
「もこねーちゃんの知り合い? 仲間?」
「あんな住所不定無職は仲間じゃないわ。住所がある分だけ私の方が凄いのよ」
「でももこねーちゃんはたまに寺子屋の手伝いしてるし」
「あと竹林の案内もしてるから無職じゃないよ」
そんな馬鹿な。妹紅はいつの間に人里まで手を回していたんだ。あいつ人間嫌いじゃなかったっけ。自分の知らない妹紅の姿を感じて、輝夜の機嫌はちょっとだけ傾いた。
慧音が「こほん」とこれ見よがしな咳払いをしてみせる。
「えーと、お取り込み中申し訳ないんですが、説明に戻っていいですか? 今日はこの子たちの遠足兼社会科見学なので」
「あ、そうそう、それなんだけど。そんな展示物なんかより、もっといいものを見せてあげたいと思わない?」
「いいもの?」
輝夜の提案に、慧音が訝しむ。輝夜の本題はこれだ。ワーハクタクを見つけたときから、もう退屈を潰す方法は心に決まっていた。
身体の芯から練り上げた魔力を展開する。輝夜を中心とした周回軌道に乗ったそれは、やがてすぐに札の形を取った。
「あ、スペルカードだ!」
目敏い子供が叫んで、生徒たちは騒めいた。その声に、周囲の来場者たちも驚きの目で輝夜を見た。
慧音の瞳に込められた警戒感がさらに増した。
「なぜ今、ここで?」
「あら、理由が必要かしら?」
合理的な説明を求められても困る。輝夜が弾幕勝負をしたい。理由はただそれだけなのだから。それに説明なんて面倒臭いし。
なので輝夜は手っとり早い手段を選択する。
「ねぇ皆、先生がスペルカード使うところ見たいよね?」
「見たい、見たい!」
姫君の提案に、生徒たちは手を叩いて喜んだ。彼女は知っていた。先日の永夜異変の際に、慧音がその原因となった人妖と相対していたことを。そして、勝敗はともかく結果的に脅威を追い払うことに成功した半妖教師の武勇伝が、尾鰭付きで人間の語り草になってしまったことを。
「皆落ち着きなさい。今日は月都万象展を見学に来たのであって……」
慧音が懸命に制止するも、それはもはや何の効力も持たない。騒がしい子供たちの心持ちは、きっと輝夜と同じだ。もう退屈は懲り懲りなのだ。
「せんせーは博麗の巫女より強いんだよね!」
「そんなことありません」
「こーまかんの吸血鬼も一発で倒したんでしょ?」
「倒してません」
「何でも斬っちゃう幽霊剣士が泣いて謝ったんだって!」
「ちょっと」
「魔理沙おねーちゃんにおしりペンペン百回喰らわせたんだよ」
「あの」
「諦めなさい、先生。人生が長かろうと短かろうと、とにかく楽しまなきゃ損なのよ」
子供たちに取り囲まれた慧音を後目に、輝夜は縁側からふわりと浮き上がる。周回する札がその速度を増した。足下には輝夜を興味深げに見上げる何人もの来場者。
その顔はいずれも、これから始まる何かを期待している。
「今日なら観客にも困らないわ。この状況で断って、私に恥をかかせるつもり?」
輝夜はくすくすと笑ってみせた。場の全てを味方につけたという確信があった。こうなるともう彼女の思い通りに事は進むのである。そういった気配に輝夜は敏感だ。伊達に千年以上もお姫様をしていたわけではない。
「……あぁもう、分かった、分かったから!」
半妖教師がついに音を上げた。子供たちの歓声が一際大きくなる。
「全くもう、授業計画が全部滅茶苦茶だ」
「計画なんて立てるから計画通りに行かないの。最初から計画がなければ、全ては計画通りなのよ」
「そんなものは屁理屈です。……何枚だ?」
その問いに対する答えはもう決まっていた。輝夜は広げた右手で五を示す。
弾幕決闘には『事前に示し合わせた枚数のスペルカードを互いに使う』という基本ルールがある。そして規定回数被弾した方か投了した方の負けだ。穴の多そうなルールだが不思議と引き分けにはならない。八雲のスキマが弾幕決闘法を制定した際に、勝敗の境界をきっちり引いたのかもしれない。
「なら被弾限度は二回というところか。皆、退いて」
背の低い人垣が割れる。永遠亭の庭まで、彼らの担任のための即席花道を作り出す。差し渡り五歩ほどのその距離を慧音は駆け、そして縁側の縁を蹴って空へ舞い上がった。晴れた空の下でもはっきりと分かる蒼い妖力が彼女の全身から湧き上がり、輝夜と同じように五枚の札を形成してくるくると周り始めた。
「先に言っておくが、私は勝つつもりでやる」
輝夜と同じ高度まで上がってきた慧音が言う。そこにはもう、先程までの礼儀正しい教育者の姿はない。輝夜を睨む視線には、策に嵌められたという悔しさはない。ただ勝負に挑むためだけの純粋な覚悟がきらきらと輝いていた。
「負けず嫌いな性分でね。手加減だって苦手だし、そもそも貴女に華を持たせるつもりもない」
「望むところよ。接待プレイなんかしたら、二度と永遠亭の敷居は跨がせないわ」
そう言い放って右手を真っ直ぐ振り上げる。するとそれに呼応するように、太陽が何かに覆い隠されていく。辺りが暗くなり始め、観衆にどよめきが走った。
交互に巡る昼夜も、稀にその理を曲げることがある。太陽が空に在りながら消えてしまう現象、すなわち日食だ。輝夜はその世界を永遠亭の周囲にのみ現出させた。永琳より授けられた秘術の一端である。
弾幕決闘はその美麗さで競う勝負でもある。無数の光弾が舞い飛ぶ光景は、昼よりも夜の方が映えるというものだ。昼の世界に突如として現れた夜闇。輝夜の腕のひと振りだけで、辺りはある種の異界と化していた。
「面妖な……」
「これくらいの膳立ては許してほしいわね。じゃあ ―― 」
それぞれの周囲を回転している五枚のスペルカードが、その輝きを増す。両名ともに臨戦態勢だ。
一匹の兎が足下へやってきて、小さな信号弾を撃ち上げた。光弾が、昇って、昇って、昇って。
「 ―― 歴史家先生のお手並み拝見と行きましょう」
炸裂。闇が一瞬だけ霧散した。決闘開始だ。
花火が開花したそのときには、もう慧音の全身からは強烈な妖気が湧き上がっていた。
「一歩入ったときから感じていた。長いこと閉ざされていたこの場所には、歴史の匂いがない」
牽制の弾を撒くことすらそこそこに、彼女が早速一枚目のカードを切る。二つの使い魔より放たれる無数の光条が夜を裂き、輝夜を捕えんとする巨大な網と化した。
「ならば私が教えて差し上げよう!」
《虚史「幻想郷伝説」》
「……いくら何でも、ちょっと肩に力入り過ぎてない?」
網を成す糸のひと刺しひと刺しを、輝夜はふわふわと避けていく。先手を取られた格好だが彼女は焦らない。彼女がそのペースを乱されたことなど、生まれてこの方片手で数えられるほどしかない。
光線は複雑な幾何学模様を描いている。その隙間を抜けていかなければならないわけだが、もちろんその位置は絶えず変化し、輝夜が一所に留まることを許さない。
「幻想郷の歴史とは、すなわち人間と妖怪の歴史です」
二つの弾幕発生源の中心点で、慧音は静かに話し出した。教壇の上で、黒板の前で、普段彼女がそうしているであろう口調で。
「か弱い人間を妖怪は脅かし、強大な妖怪を人間は退治する。その関係を通じて、実体と幻想は互いに高め合ってきたのです」
なるほど、と輝夜は合点した。彼女は人間と妖怪の性質を併せ持つワーハクタクであるという。二つの使い魔を人と妖へと見立て、彼女はその中心に立つ。そのどちらでもない存在として。
「進歩に必要なのは、関係と交流です。古今に東西、須らくと交わることで人は前へ進むのです。 ―― 貴女も分かっているはずだ、竹林の姫よ」
「永琳じゃないのに私にお説教だなんて、一億年は早いわ」
速射性重視の小粒弾を全方位へ一気に放つ。慧音本人へ狙いも定められており、当然向こうはこれを回避するため動かざるを得ない。輝夜からみて右手へ、二つの使い魔も術者に合わせて動く。夜闇を裂く光の網が釣られて編み変わった。
網の目が向きと形を変える一瞬は、回避難度が非常に高くなる。輝夜にとっては危険だ。
しかし姫君は撃ち手を緩めない。複雑な網目の変換点が、同心円の波として伝わり彼女へと迫る。
光条がその身体を貫こうとしてたその瞬間、輝夜は前へと避けた。そしてその勢いを緩めることなく、小玉花火のごとき弾幕もそのままに、慧音へ向けて突進する。
回避を捨てた行動にはもちろん意味があった。輝夜の本当の狙いは、向こうのスペルが切れる直前に可能な限り慧音へと近づいておくことだ。
「でも癪だけど、貴方の言う通りよね」
リスクを承知で前へ進むこと。それは変化を拒んでいた今までの永遠亭からは排除されていた概念であった。輝夜も忘れかけていた思考だ。
「危険を冒さなければ、収穫はない。今までの私たちがそうだったように」
永遠亭は、輝夜は、変化を受け入れた。変化とは非日常であり、非日常の箇条書きが歴史となる。今日この日、月都万象展だって、いつの日か歴史に連なるのだろう。
慧音へと接近するにつれて、網目がどんどん狭まっていく。
そしてついに、光線が輝夜の身体を捉え ――
「……ところでさっき、月の石がどうのとか言ってたわよね?」
《新難題「月のイルメナイト」》
そこから一秒間の間に、三つの出来事が連続して起こった。
まず輝夜が、被弾する直前に一枚目のカードを切っていた。スペルカードの発動に伴う魔力の奔流は、使い手や技の性質にもよるが、最大数秒間の対弾幕結界を生む。弾幕決闘を嗜もうとする者がいの一番に教わる知識だ。これを用いて輝夜は自信の被弾を帳消しにしたのだ。
それとほぼ同時に、慧音のスペルに限界時間が訪れていた。これもスペルカードの基本的性質の一つであり、どんなスペルでも時間経過によって数十秒ほどで終了してしまう。使い魔と弾幕が一瞬にして消え失せ、慧音は単身で夜空に放り出された。
そしてそのときには、輝夜の切ったスペルが展開を始めていた。姫君の周囲から、極彩色の丸い弾が無数に湧き始める。夜空をゆっくりと揺蕩うその弾幕は、直線的な慧音のそれとは対照的であった。
「月の石がただの石かどうか、その身で確かめてみたらどう?」
イルメナイト、月の石。宇宙開発競争時代、人間たちが夢の資源として追い求めたそれも、今や幻想だ。
趨勢は完全に逆転した。自身に近いところでカードを使われ、しかも無防備な半妖教師が一気に不利となる。術者の制御が緩い故に、輝夜のこの弾幕は先読みがし辛い。
おそらく慧音は迷ったのだろう。初手から大技を出したということは、それで輝夜を仕留めるつもりだったはずだ。しかし輝夜に切り抜けられ、あまつさえ逆にスペルを撃たれたのだ。ここで防御のため更に一枚の枠を消費するかどうかを、彼女は躊躇してしまった。
そして弾幕決闘においては、その一瞬が命取りとなる。
「がっ……」
被弾を示す甲高い破裂音とともに、慧音は大きく後ろへと吹き飛ばされた。
「やった!」
狙った通りの展開に、輝夜は頬が緩むのを抑えられない。まずは一本先取したのだ。しかもスペルはまだこちらが発動したばかりという絶対有利の状況。このまま二連続被弾を狙うことさえできる。
眼下で騒めきが広がるのが分かった。慧音の生徒たちはもちろん、他の観客たちもどよめいている。
「ねぇ、まさかもう終わりなの?」
輝夜はくすくすと笑った。その間にも、体勢を立て直そうとする慧音に向かって五色の飛沫が降り注いでいく。
「お粗末過ぎて拍子抜けなんだけど」
「……ふん」
幾重の弾の向こうから、慧音がこちらを睨む。その手には、光輝く二枚目のカード。
「勝ちを急ぎ過ぎたようだ。仕切り直させてもらおう」
《始符「エフェメラリティ137」》
輝夜へ向けて無数の弾が散弾銃のごとく放たれた。それはやはり慧音を中心とした放射状であり、躱わすことはそれほど難しくない。もちろんこれは、ただそれだけのスペルではないだろう。さて、どう出る。
「私は貴女や妹紅とは違う。本当の永遠を知ることはないだろう、きっと永遠に」
眉がぴくりと震えた。輝夜が蓬莱人であることは、もちろん大っぴらには公開していない。やはり妹紅からいくらかの話を聞いているのだろうか。
「貴女たちと比べれば、私の命など ―― 」
突然、背筋が凍るような予感が走る。何かが、危険だ。
「 ―― 泡のようなものだ」
輝夜の眼前で、迫ってきていた弾群が弾けた。まるで打ち上げ花火の中に仕込まれた花火のように、弾の中から弾が現れたのだ。
悪寒を感じたそのときには、輝夜はすでに全力で後ろへ退いていた。それでも“泡”の軌道は先ほどよりもずっと複雑さを増し、壁を構成してこちらを押し潰さんとしている。
赤い弾で構成された第一波をすり抜ける。その途中で、輝夜の頭に電球が点った。
エフェメラリティ、すなわち、短命なる者。
輝夜と永琳と妹紅、三人の蓬莱人から見れば、自分たち以外の全ての存在がそれだ。
つまり蓬莱人は人間とも妖怪とも異なる存在であり。
「あら、お揃いね私たち」
それは、このワーハクタクも同じではないか。
「……は?」
対戦相手との奇妙な共通点を見い出して、輝夜は上機嫌になった。慧音は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている。自分の意図した通りに発言を受け取られなかったと思ったのだろう。しかし、宇宙人の思考回路は地上の民のそれとは完全に異なるのだ。
輝夜は考える。自分はもう月の住人ではない。かといって地上の民であるともまだ言えない。
この半妖教師が、人間でも妖怪でもないように。
「どっちつかずで、中ぶらりんな、はぐれ者」
今の自分は、果たして何処にいるのだろう?
人間でも妖怪でも、月の民でも地上の民でもないのなら、自分は一体何なのだろう?
慧音の表情が苦みに歪む。
「違う、私は……」
第二波、第三波。慧音が次々と弾を放つ。それは幾度も弾けては輝夜を襲う。対するこちらのスペルもまだ終わってはいない。輝夜の周囲からは泉のごとく彩り豊かな流れが生じている。
躱わして、撃って、躱わして、撃つ。二人の鍔迫り合いは夜空に鮮やかな点描画を描き出し、観客はそれをやんやと囃し立てた。
「理由が欲しいのよね、貴女は。だから教師なんてやってるんでしょう」
撃ち合いとは会話に似ている。行動と反応とを繰り返すうち、輝夜には黙り込んでしまった慧音の心境が分かるような気がした。
「私はそんなもの要らないの。だって永遠を生きる者にとって、一番大事なのはいつだって今この瞬間だから」
未来が無限にあるならば、それはいくらでも手に入る。だが今この一瞬は唯一だ。
両者が同時にスペルを発動しているこの状況だが、膠着していては今度は輝夜の不利となる。先にカードを切ったのはこちらであり、輝夜の方が先に限界時間を迎えてしまうからだ。
「理由というものは、過去や未来を定義する。貴女はそれを求めている。私が望むのは今この時だけ。そう、私が知りたいのは ―― 」
そしてついに、月の石がその限界を迎えた。極彩色が消え失せ、夜空には慧音の放つ赤と蒼だけが残る。好機に追撃を加えようと、慧音は更なる波状攻撃を重ねた。
しかしそのときには既に、輝夜は自身を周る札を一枚、その手に掴み取っている。
「 ―― 私が知りたいのは、この場所が何処なのかということだけよ」
《不可解「クルイシンズオービット」》
二枚目のカードに、慧音は身構える。輝夜の実力は十分に知っているだけに、次も無数の弾が襲い来るものだと考えたのだ。
しかし予想に反し、出現した光はただ一つだけだった。それも極々小さな。飛んでくるのかと思ったが、その弾はくるくると不思議な軌道で周り、慧音と付かず離れずの距離を保つ。そしてそこから、遅めな弾で慧音を狙い撃ってくる。どちらかというと、使い魔に近い性質のものらしい。
「この前ね、永琳にも同じことを聞いたの。月でも地上でもなければ、私は何処にいるのか、って」
回避に動くと、その弾も慧音を追ってくる。彼女の後方をうろうろと周りながらこちらへの攻撃を加えるのだ。
通常、自分の攻撃を補助する使い魔は自身を基準に配置するものである。慧音もそのセオリーに従って自らのスペルを考案した。しかしこのスペルカードは、対戦相手の軌跡をトレースする使い魔を用いている。それも一定距離を保ったままにだ。こちらが逃げれば追いかけ、逆に迫れば離れる。正しく不可解な軌道だ。
謎めいたスペルの回避に専念する余り、慧音は自分のスペルが切れてしまった後も、次の一手を考えられずにいた。使い魔からの攻撃は徐々に激しくなっていく。
一体何だ、これは。
「そしたら、永琳は教えてくれたわ。あの月でもなく、この地上でもない。それでもここから離れられない、不思議な星の話を」
輝夜は慧音の牽制射撃にだけ最低限の回避をしながら、言った。
「そう、私は今、クルイシンにいる」
◆ ◆ ◆
「派手にやってるみたいね。まったく、輝夜ったら」
八意永琳は溜息を吐いた。嫌な予感は当たってしまった。「明日は自分で来場者を出迎えたい」と言い出したときから、どだい無理だと思っていたのだ。案の定、早速飽きて弾幕ごっこに興じている。彼女の研究室の窓からは、輝夜と慧音の弾幕がよく見えた。
「日食まで起こしちゃってまぁ……。とっておきだとあれほど言ったのに」
「呆れるくらいなら叱ったらどう? お目付け役として」
「嫌よ。あの娘は全力で守る。あの娘が助言を求めるなら親身になってあげる。しでかしたことの後始末だっていくらでもやってあげるけど、それでも叱ることだけは嫌」
「甘やかす主義なわけね、成程」
いつの間にか研究室に入り込んでいたてゐは、棚に並んだ小瓶を手に取っては翳して中身を確かめている。手頃な物をちょろまかすつもりかもしれないが、生憎とそこにあるのは風邪薬くらいのものだ。どんな風邪でも飲めばたちどころに治ってしまうという風邪薬である。
「鈴仙がさ、悲鳴を上げてたよ。餅搗きなんて誰だってできるでしょう、って」
「あら、誰でもいいわけないじゃない。ウドンゲがあの場所で餅を搗いてくれているから、私たちは安心してお祭が開けるのよ」
「へぇ。お師匠様がそう言うんなら余程だね。準備から何から、鈴仙も大変だ」
「準備はあんたが手伝ってあげても良かったの」
悪戯兎に釘を刺す。成程、あの娘は全部一人でやっていたという訳だ。道理で疲れた顔をしていると思った。
薬漁りをさっさと諦めたてゐは、窓から仮初の夜空を見上げている。
「ありゃ、姫様はまた新しいスペルカードを作ったね」
「本当? どれどれ……」
永琳も自分の椅子から輝夜の弾幕を見た。
逃げる慧音の軌道を追って、一つの射撃源がくるくると回っている。そこから放たれる弾は3WAYの中速狙撃弾だ。相手へ回避を強制しつつ、着実に逃げ場を塞いでいくタイプの弾幕。
光点が描く軌道は円ではない。歪んだ空豆のようなその図形は。
「あら、馬蹄型軌道」
「バテイ……馬のヒヅメのこと?」
「えぇ。輝夜ったらあの話、随分と気に入ったようね」
頭上にクエスチョンマークを浮かべたてゐに、永琳は問い掛ける。
「クルイシン、って知ってるかしら?」
「うんにゃ全く。狂い心だって? 不吉な名前だね」
「そう邪険にするものじゃないわ。外の世界の天文学の話なんだけどね」
クルイシン。それはある小惑星の名前である。
ルネッサンスの時代にコペルニクスやガリレオが提唱して以来、地動説モデルは万人の常識となっている。地球は太陽を周回し、月は地球を周回する。すなわち、地球は太陽系の惑星の一つであり、月は地球の衛星であると現される。
そして小惑星とは、太陽系に無数に存在する小天体の一部を指す言葉だ。それは火星軌道と木星軌道の間、アステロイドベルトと呼ばれる一帯に多く分布しているが、地球軌道に近づくものも数多く存在する。
一九八六年、そんな天体の一つとしてクルイシンは発見された。しかし後に、直径数キロのその小惑星の特異性が知られるようになる。
「クルイシンを地球という定点から観測すると、まるで背後霊のようにふらふらとした動きを見せるの。地球の公転軌道中心にした凹みのある歪つな円形、つまり馬蹄型の軌道を保ちながら、太陽を周る地球の後ろを追いてくる」
「ふむん、さっぱり分からん」
「要は、あのスペルみたいな動きに見えるわけよ」
輝夜の作り出した使い魔が相手を追尾していく様が、クルイシンの軌道を模しているわけだ。
「この現象は、クルイシンが地球とほぼ同じ公転周期を保ち、なおかつ地球公転軌道の付近を周っているせいで起こるの。結構安定した軌道だから、この星が地球から離れていってしまうことは当分ない」
「当分って?」
「あと数万年はこの状態よ」
「意外とすぐじゃないか」
永琳は苦笑した。数万年をすぐだと言ってしまえるのは、ここにいる二人とあそこの我儘姫君くらいのものだろう。
「あの娘が私に聞いてきたのよ。『月でも地上でもなければ、自分は今どこにいるのか』ってね。だから私はこの星を教えてあげた。地球でも月でもない、だけどその二つに常に付き纏う、小さな小さな星」
「永遠亭が、それだって?」
てゐが空を見上げたまま言った。その目はどうやら、回避を続ける慧音の動きを追っているようだった。夜空はもう、輝夜によって展開された無数の弾群によって埋め尽くされている。姫君が好むゆっくりとした弾は、空間を制圧する能力が高い。
辛うじて残っている逃げ道を、ワーハクタクは縫うように抜けて行く。
「そんな屑星じゃ、満足できやしないね。何たらってロケットで、月まで行って見せた人間以下じゃないか」
「言うわねぇ」
夜になったと勘違いした蝙蝠が一匹、研究室の窓を横切った。
「心を動かすものはいつだって憧れだ。それは人間も妖怪も、どっちじゃない奴だって、変わらない。地上の兎たちはずぅっと月に憧れている。月で餅を搗くという夢がある。月の兎にとっちゃ餅搗きなんて下らないんだろうけど、私たちにしてみれば悲願なのよ。何かに恋い焦がれなきゃ、何も変わらない。姫様が、永遠亭が、変わろうと言うなら……」
憧れるものが、必要だ。
「ふむ」
永琳は考え込む。それは長らく地べたを這いずり回ってきた因幡の素兎らしい意見であった。地上の生き物たちは、交流と交配の中で自己を発見し成長する。対して月の頭脳たる永琳は、自分一人で全てが最初から完成していた。変化の必要性など、だから彼女は感じたことがない。
それは輝夜にとっても同じことだと思っていた。だけど。
「 ―― なら、手伝ってあげなくちゃね」
永琳は席を立った。
姫君が変化を望んでいるというのなら、それを助けるのが自分の役目だ。己が全てを輝夜のために使うと決めたあの時から、それはこの八意永琳の使命だ。輝夜が発するあらゆる難題をこなしてやれるのは、私の頭脳を置いて他にない。
「いや、お師匠さん。そう気負わなくてもいいと思うよ」
しかしそれを、てゐが呼び止めた。研究室を出ようとしていた永琳は振り返る。
「別に気負ってなんか」
「姫様のために全てを擲つ、なんて一見美談だけどさ。実は前から思ってたんだ。永遠にそれを続けるってなら、こんなに悲しいことはないよ」
「どうして?」
今更何を、と永琳は思う。輝夜は永琳に甘え、永琳は輝夜を保護する。これは絶対の前提だ。永遠亭はそのための場所なのだから。
てゐは弾の華から目を離さずに言う。
「そういうのは二人っきりの場所でやっていればいいのさ。大勢参加している宴会で、隅っこでずっと縮こまってられると周りは白けるでしょ? だったらそもそも宴会になんて来るなってこと。姫様は他にもっと甘え先を知るべきだし、お師匠さんはもっとその頭で他人を見るべきだ」
「私はともかく、あの娘が他人に? 難しいんじゃないかしら」
「そんなことないよ。現にあの蓬莱人とはそれなりに懇ろにやってるじゃないか。長いこと引き籠もっていたせいで勘が鈍っているだけ。それに、ほら ―― 」
てゐが空を指さした。すると一際強い光が、窓硝子から差し込んでくる。
永琳にはとても見覚えのある、白銀の光だった。しかしそれが、今この時に空にあるはずがない。慌てててゐの横まで駆け、空を見上げる。
そこには目映い真円が浮かんでいた。
日食によって生じた偽りの夜にはあるはずのない、完璧な満月。
「そんな馬鹿な……」
「なぁお師匠さん。ここは幻想郷だよ。善も悪も功も罪も、全てが赦される坩堝。この期に及んで、まだ閉じ込もっているつもりなの?」
てゐの指さす先で、満月はゆっくりと彷徨う。そこでようやく永琳は気づいた。あれはスペルカードだ。
「姫様がいるのはその何とかって屑星じゃないし、今更もう月も地上も同じだよ。唯一の違いを挙げるとすれば、月からは月見ができないってことくらいさ」
輝夜が月を模したスペルなど作るはずがないし、あれは対戦相手であるワーハクタクのものだろう。彼女は満月の光によって妖怪へと変じる人間だという。成程、と永琳は笑みを零した。確かにそんな者は地上にしか存在し得ない。先日の異変騒ぎの際に殴り込んできた連中とはまた違った意味で、彼女は地上の民の象徴だ。
それを輝夜が月都万象展での弾幕決闘相手に選んだのは、果たして偶然か。
「……お姫様のダンスのお相手役、今回は譲ることになりそうね」
「お師匠様も王子様って柄じゃないでしょ」
永琳は今度こそ研究室を後にする。輝夜の元へ向かうのではない。目指すのは永遠亭の正門だ。
何から何まで一人で頑張ってくれた愛弟子を、少しくらいは労ってあげてもいいかもしれない。そう思ったのだ。
◆ ◆ ◆
「ほえー……」
輝夜の口から間抜けな声が漏れた。弾幕決闘の最中だというのに、しばしそれに見入ってしまっていた。自分の遠近感が狂ったような不思議な感覚だ。あるいは空に漂う巨人となれば、このような体験もできるかもしれない。
何せ、文字通り手の届きそうな位置に満月があった。
普段は遠くに見上げるばかりの、そして追っ手に脅えるばかりの、空に浮かぶ月。
もちろん本物ではない。輝夜に追いつめられた慧音が、土壇場で発動したカウンタースペルである。
《「月影幻想」》
出現したのは満月を模した弾がただ一つだけ、それも輝夜へ向かってくるわけでもなく、ゆっくりと上へ昇っていくばかりだ。目を瞑っていたって、こんなものに当たるわけがない。
しかし、肝心の慧音の姿が見えなかった。隠れたつもりだろうか。無駄な足掻きだ。
「クルイシンは貴女を追い続けるわ、どこまでも」
弾幕小惑星の軌道は、輝夜が操作しているわけではない。あくまで相手を追跡するのみである。つまり慧音がどこに隠れ逃れようと、クルイシンは彼女を目がけて弾を放ち続けるのだ。
術式に従って、小惑星はゆっくりとその軌道を変えていく。月へと大きく舵を切り、そして ――
「……え?」
予想外の結果に輝夜の顔が凍り付いた。
対戦相手をどこまでも追尾するはずの小惑星は、そのままくるくると月面へ墜落していった。強い衝突光が瞬いて、展開されていた弾幕も散逸していく。
クルイシンの衛星軌道は潰えた。スペルブレイクだ。
そんな馬鹿な、どういうことなのか。慧音を追うはずの小惑星が、なぜ月へ。
依然として、どこからも慧音の攻撃は来ない。身を潜めたまま、彼女は何かを待っている。しかし、一体何を?
「時間稼ぎなんて、させないわよ」
何にせよ、被弾数で輝夜が有利なことに変わりはない。相手の思惑を潰し、勝負を決めるには。
自身の周囲を巡る札、残りは三枚。うち一つを輝夜は指で挟み取った。さらなるスペルカードで、慧音を確実に追い詰める!
《難題「燕の子安貝 -永命線-」》
使い魔が再び放たれる。今度はそれは一所に留まって、月夜に大輪を咲かせた。交差するレーザーと、回転しながら拡がっていく粒弾の円。
弾幕のみで夜空を制圧する、巨大なスペルだ。
「どこ行ったのよ……」
見渡す限りをその華で埋め尽くすも、未だ慧音は姿を現さない。ひょっとして、逃げ出したのだろうか。しかし彼女がスペルによって生み出した満月はまだ残っている。この戦場のどこかにはいるはずだ。
では隠れている? 隠れる場所など、空の上のどこにも。
―― 上?
「……まさか」
輝夜は夜空を見上げた。本物と見紛うばかりの、大きな月を。
予想が正しいのなら、先程のクルイシンの奇妙な挙動にも説明が付く。
だがそれは、少々過ぎた挑発ではなかろうか。
「やってくれるじゃない」
ちょっとだけ行儀悪い台詞を吐き捨てて、輝夜は自身の能力を発現した。
『須臾と永遠を操る程度の能力』はスペルには反映させていない力である。
例えるならば、須臾とは点であり、永遠とは直線である。点には長さという概念がないが、それが集まって構成される直線は無限の長さを持つ。その分離と結合、あるいは概念操作を自在に行えるのが、輝夜の本当の能力だ。
須臾を跳ぶ限り彼女が弾に当たることはない。被弾の直前の時間から被弾の直後の時間まで、輝夜はその一瞬を跳んでしまえるのだ。だから弾幕決闘で使うのは反則すれすれなのである。そもそも疲れるから使うのはイヤなのだが。
だがそんなことは、もはやどうでもよかった。
点から点へと時間を飛び渡るようにして、輝夜は偽りの月へと突入する。
「……『月へ逃げ込む』っていうのは、私への皮肉?」
被弾しないのだから、弾の内部へだって容易く侵入することができる。
輝夜の呟きは慧音に聞こえるはずもないが、それでも独りごちずにはいられない。
果たして、そこには対戦相手の姿があった。もっともその姿は先ほどまでとは大きく変わっている。頭には一対の大きな真珠色の角、装いも蒼ではなく碧だ。
満月の夜にだけ妖怪となる存在。そうだ、彼女がそれだったことを今思い出した。ならばこの月は、変身のためのスペルというわけか。
重ねて慧音は、それを防御に使用した。攻撃性能がほぼ無いに等しいこの月は、代わりに圧倒的な固さを持つ。クルイシンは月の内部にいる慧音を正しく追尾したが、その表面によって阻まれたわけだ。
地上へと落とされた罪人の前で、月へと逃げ込んでみせる。何と言う当てつけか。
いや、当人にその意識はないのだろうが、それでもちょっとカチンと来た。
「おおかた、貴女の考えてることは読めたわ」
生真面目で石頭な教師のこと、きっと彼女は、こんな姿を。
「 ―― だから、その思い通りにはさせたげない。悪いわね、先生」
慧音の肩口を掴む。ハクタクを引き連れたまま、彼女は再び時を跳ぶ。
月を抜け下降し、そしてその場所で、輝夜の力は解かれた。
「……………………っ!?」
目に見えて狼狽する慧音を、輝夜は肩で息をしながら見ていた。疲れるからイヤなのだ、これを使うのは。
二人は地面に立っていた。流れ弾が来ないよう、そこには防護結界が張られている。未だ上空ではスペルの大輪が華開き続けていて、満月も煌々と輝いていた。
輝夜が慧音を引きずり落としたのは、観衆の只中である。それも。
「 ―― え、何でこんな、どうして私はここに?」
慧音が連れてきた、子供たちのど真ん中だった。
半分は妖怪でありながら、彼女は妖怪の恐ろしさを人間に教えている。それが幻想郷のためだと考えている。
だから自分が妖怪となった姿を、人前で晒したくはなかったのだろう。特に子供たちの前では、尚更に。慧音が月の中に逃げ込んだのは、観衆の目を逃れるためでもあると輝夜は踏んでいた。
そして慧音の狼狽を見るに、それは図星だったらしい。
寄ってきた子供たちの前で、彼女は自身をかき抱くように屈む。頭の角をその手で必死に隠そうとするも、隠し切れる大きさではなかった。
「や、止めなさいお前たち、私を見るんじゃない! ……姫、貴女がやったのか?」
「えぇ。月に閉じこもるなんて真似されたら、流石の私も黙っていられないしね」
「だからって、こんな、どうして ―― ひゃうっ!」
沈痛な面持ちだった慧音が、突然跳び上がった。そしてその顔がみるみる赤くなっていき、やがて身を捩り出す。
「だ、ダメだ止めなさい、ちょ、尻尾はダメ……」
輝夜にもすぐ事態が飲み込めた。慧音の背後には、いつしか子供たちが集まっていた。変身した先生に現れた尻尾を、皆してぺたぺたもふもふと触っている。
「尻尾かわいー」
「すっげー柔らけー」
「いいなー、私も欲しい」
「あ、あ、ひゃめ、やめて、しっぽは、くすぐったい、から……だぁーもう! 止めなさい!」
群がっていた子供たちが、一喝にきゃっきゃと散っていく。
その中から少年が一人、振り向いて言った。
「先生が変身したとこ、初めて見た! カッコいい!」
「か、格好……え?」
「どれどれ、えい」
「ひゃうわっ!」
おぉ。この尻尾凄い。手を沈めてもふんわりと押し返してくる。
輝夜はしばしモフモフを堪能した。尻尾の短いのしかいないイナバたちでは、なかなか味わえない感触なのである。手だけでは我慢できなかったのでぎゅうっと抱き締めてみたりする。わさわさと少しだけ暴れるのがまた心地いい。
「あぁ、いいわぁこれ……。三食昼寝付きでうちの子にならない?」
「何の誘いだそれは……っ! お願いだから手を離して」
「ちぇー」
名残惜しくも引き下がると、慧音は涙目になりながら後ずさった。尻尾を守るように抱えたまま。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃない。誰も貴女を虐めたりしないわ」
「全然、全く、説得力がないぞ、その言葉は……」
「自分で変身しておいて、今更見られたくないもないじゃない」
その言葉に慧音は俯く。叱られた犬のようにも見えた。
「ねぇ、どうして貴女はそこを選んだの? 見せたくないものを抱えているのに」
沈黙とともに、観衆は二人をただ見つめていた。不自然なまでに静寂が鳴り響いた。
慧音に問いながら、何故自分がそれを聞いているのか、輝夜には分からなかった。永琳のくれた解答に納得していないのか、などと考えてしまう。月にも地上にも、輝夜はいる理由がない。理由がなければ居場所などない。だから不可解なるクルイシンこそが、自分の相応しい居場所であるはずだった。
そこまで考えて、輝夜は失笑する。自嘲だった。
理由を欲しているのは他でもない、自分の方だ。
「 ―― なぜ、だろうな」
絞り出すような声で、慧音が答える。
「私には、分からない。いや、そもそもどうだっていいのかもしれない。私がいることができるのは、いつだってこの足で立っている此処だけだ。貴女だってそうだろう。だから、私に弾幕なんて幻想郷の流儀で決闘を持ちかけてきたんじゃないのか」
二つのスペルは未だ、夜空の中で術者を残して繰り広げられている。
そうだ、理由を強いて挙げるのなら、自分たちにはそれだけだ。
両者の周囲を再びスペルカードが周回し始めたのは、ほとんど同時だった。それは幻想郷が幻想郷たる所以であり、少女たちが少女たちである証拠だ。
示し合わせるでもなく、二人は空へと舞い戻った。結界を抜け、月と大輪の支配する空へ。
まだ決着は着いていない。二人の舞は終わらない。
「理由は分からないが、意味なら分かった気がする」
月を振り仰ぎ、慧音が言った。
ハクタクの手にカードが光り、三枚目が宣言される。月の光が消えてしまう前に、その力を使おうというのだ。
「歴史を創る私の力、やはりこの郷のためには必要なものだ。特に、このような場所のためには」
《「無何有浄化」》
―― 共に刻む、覚悟はあるか?
そう問われた気がした。覚悟か、と輝夜は回想する。そんなものを求められたのは何時ぶりだろう。
慧音によって夜空に描かれたのは波紋だった。それは拡散するのではなく、術者に向かって収束していく。
無何有、すなわち何も無きこと。彼女が先程評したように、輝夜が時間を止めていた永遠亭には歴史がなかった。これはそれを正す力というわけだ。随分とお人好しではないか。
だが回避難度は高い。波紋の只中に巻き込まれる形となった輝夜は、つまり背後から飛来する弾幕を避けなければならない。
慧音に背を向けたまま躱わすのも手だが。
「ここは堅実に行きましょう」
咲いていた大輪と入れ替わりに、輝夜も四枚目のカードを切った。
《難題「仏の御石の鉢 -砕けぬ意思-」》
大量の使い魔が一斉に展開される。それは本来なら輝夜の前面へ整然と並び、相手に無数のレーザーを浴びせる砲台となるのだが。
今回はそれを逆に展開する。使い魔たちを背後に並べ、飛び来る弾幕への盾をも兼ねさせるのだ。
丸みを帯びた壁のように固定された使い魔は、多少の攻撃にはびくともしない。この壁の守る範囲にいる限り、輝夜が波紋に飲まれることはない。
両者ともに、残すカードは一枚となった。だが一回被弾している慧音の方が不利であることに変わりはない。
通常とは逆の戻り弾幕。これさえ抜けてしまえば、輝夜の勝利は約束されたようなものだ。
「 ―― ふふっ」
だが輝夜は、それ故に油断していた。見惚れてしまっていたのだ、ハクタクが構築していく歴史に。
時間を表すとき、人は過去を「前」と言い、未来を「後」と言う。そして時は未来に向かってしか進まない。時間という道を、誰しも後ろ歩きで進んでいくしかない。その積み重ねこそが歴史であり、慧音のこの戻り弾幕はきっとそれを表している。
「礼を言うわ、先生」
歴史とは常に過去に存在し、そしてその上に未来を積み上げていくものだ。今がいくらあろうと、未来を紡ごうというのなら過去がなければならない。
月都万象展とこの弾幕勝負は、これを見る皆にとっての良き思い出となるだろう。それはすなわち過去だ。幻想郷に永遠亭が存在を始めるための、礎となるのだ。
「貴女の創る歴史のおかげで、私たちはまた始められる。もっともっと、ずっとずっと、何もかもを、私は楽しめる!」
「歴史を創る力など、誰でも持っているもの。私のそれは少し応用が利くというだけに過ぎない」
高まっていた慧音の妖力が、さらに倍する。
「壁とは考えたものだ。だが貴女はそうやって、まだ未来を拒んでいる」
膨れ上がった妖力を、そのまま慧音は放ってきた。逆弾幕の中を、大弾が逆らって輝夜へ飛来する。挟み撃ちだ!
「……だけどただの狙い撃ちなんて」
しかしまだ焦ることはない。普通、放った後で弾の軌道は変わらない。こちらを狙って真っ直ぐに飛来するだけの弾であれば、半身の回避だけで十分に対処できる。
輝夜はそれをすんでのところで躱し……。
「そう、狙い撃ちだけでは貴女を仕留められない。だが ―― 」
ぱりん、と何かが割れる音。輝夜は振り向く。
やり過ごした大弾が、盾となっていた使い魔を破壊していた。
穿たれた穴から、波紋が再び襲いかかってくる!
「ほら、姫。未来がやってくるぞ」
「くっ……!」
再び放たれた大弾攻撃が、御石の鉢に二つ目の大穴を開けた。
砕けない筈の意志が、歴史家の暴虐によってぼろぼろにされていく。
拒み続けていた未来が、輝夜に容赦ない牙を剥く。
やがて輝夜の努力も空しく、甲高い被弾音が響いた。未来が姫君の手を浚った。
これで勝負は振り出しに戻される。
「……いやぁ、してやられたわ」
そう言いながら、輝夜の顔は朗らかであった。
両者のスペルは展開を終え、夜空は一時の静寂を取り戻した。慧音の作り出した満月も消え、その姿は人間へと戻っている。
二人は静かに、空の上で向かい合っていた。それぞれの周りを一枚の札が周回している。
「ねぇ、最後は同時に出しましょう」
「……スペルカードをか?」
「えぇ。小細工なし、真っ向からの真剣勝負」
輝夜の手には、いつしか極彩色の実をつけた一枝が握られていた。蓬莱の玉の枝だ。
彼女がそれを滅多に持ち出さないことは、永遠亭の住人くらいしか知らない。
それを知る由もない慧音が、訝しむような顔を見せた。
「どうして、また」
「理由なんて、要らないんでしょう?」
そうだ、後はもう、何も必要ない。進むだけだ、「後ろ」へと。
二人はどちらともなく少しだけ笑い、そしてカードを掴み取る。
《神宝「蓬莱の玉の枝 -夢色の郷-」》
《未来「高天原」》
闇夜が何度も、サイケデリックに染め直される。
直線と曲線が、何千億通りもの紋様を描き出す。
今このときだけではなく、これから何度も繰り返されるだろう光景。
―― 永遠の束の間にしては、悪くない。
輝夜は満面の笑みで、輝くレーザーの海に飛び込んでいった。
◆ ◆ ◆
鈴仙は幸せな夢を見ていた。とっても幸せな夢だった。
何と言ったって師匠が自分を……あれ、何だったっけ? 今の今まで見てた夢のはずなのにもう忘れている。思い出せないことが惜しいが、とにかく素晴らしい夢だった。何だか甘くてふわふわしていた。
「……あれ?」
目が覚めて思う。ところでここはどこだろう?
見慣れた自分の部屋ではない、ということしか分からない。やたらと弾力性の高い枕が頭の下にあるが、頬を撫でる風の具合からするにここは屋外だ。辺りが暗いのでもう夜なのだろう。
そういえば、今日は月都万象展じゃなかったっけ。
意識が覚醒していくにつれて、鈴仙は自分の置かれた状況を思い出していく。
自分はずっと餅を搗いていて、何だか急に暗くなったと思ったら、姫様が誰かと弾幕勝負しているのが見えて、来場者も皆そっちを見に行っちゃったので、すっかり暇になってぼんやり眺めていたら、師匠の薬が切れたらしく眠気がどっとやってきて、そのまま臼にもたれて意識を手放したんだった。
「……うぁ、これ師匠にバレたら怒られるー……」
「もうバレてるけどね」
頭のすぐ上から、聞き覚えのありすぎる声。
そんなバカな、と思いながらも、カクカクとした動きで鈴仙はそちらを見上げる。
「可愛らしい寝顔だったわ」
「…………!?!?」
そして声を失った。永琳の顔がすぐそこにあった。
鈴仙の頭の中を幾つかの弁明が巡った。これは怒られるだけで済めばまだマシな事案である。何せ仕事中に完璧に寝こけていたのだ。いくら疲れていたとはいえ、これを何とか釈明しなければ自分に明日は来ない。
「あ、あ、うぅー、えーと、師匠、これは、その」
「ウドンゲ」
永琳は微笑んで、鈴仙の髪を梳いた。何これ、こんな師匠見たことない。
まだ見ぬお仕置きを覚悟した哀れな月兎の耳に飛び込んできたのは、しかし俄かには信じられない言葉だった。
「御免ね。大変だったでしょう」
あまりにもまさかの言葉だったので、しばらく何を言われたのかが分からなかった。労りの言葉だということを理解したときには、鈴仙は逆に落ち着きを取り戻していた。
というか、自分の頭を抱くようにして師匠は地べたに座っているわけで。
これって、いわゆる膝枕っていうやつですよね。
色んな言葉がいっぺんにぐるぐると頭を泳ぎ回って、どれを口から出すべきか分からない。
夜空に描かれる弾幕を、二人はただ静かに見上げていた。
鈴仙・優曇華院・イナバは、決してダメな月兎ではない。むしろ彼女は、月の都始まって以来の才覚を持っていた。
何せあの綿月依姫が、真剣に自分の補佐として育てることを考えていたくらいである。自分以外を戦闘要員として見ていない彼女をして、「才能がある」と言わしめた唯一の月兎なのだ。
しかし生来の臆病さ故に、鈴仙は月から逃げ出した。その先にいたのが八意永琳であったことが、ある意味で彼女の不運であった。
永琳も彼女が優秀な月兎であることをすぐに見出し、自らの弟子となることを許した。そして修行のため、自身の能力でこなせる仕事の、その百分の一程度を課し続けた。それだけであっても普通の月兎ならば一目散に投げ出すほどの仕事であったが、鈴仙の才覚と忍耐力がそれを辛うじて可能に変えてしまったのだ。
永琳はずっと、鈴仙は修行を難なくこなしていると思っていた。だから、たまには労ってやろうと彼女の元を訪れたとき、力尽きるように眠っている彼女を見て少なからず衝撃を受けていた。
「貴女じゃなきゃ駄目だったのよ」
「へ、何がですか?」
「餅搗き。月の兎が地上で搗く餅、それはつまり蓬莱の薬。地上人の不老不死への欲望の具現。それは月人にとって最も忌み嫌うべき穢れだから」
もしも月からの刺客が現われても、それを目にするだけで震え上がっただろう。
満月の日に開かれる月都万象展、曲者がいつ入り込んでもおかしくはなかった。輝夜と永遠亭を守るため、永琳は鈴仙を魔除け代わりに配置したのだ。
「だけど、疲れたでしょう。もう大丈夫。あとは私が何とかする。何日か休暇にしていいから、ゆっくりしなさい」
「師匠、何か悪いものでも食べたんですか?」
「私に毒は効かないわ」
永琳は微笑みを絶やすことなく、ただ鈴仙を撫でる。こそばゆいが心地良い。いつまでも、こうされていたい。
それでも、鈴仙は身を起こした。
「……師匠、折角ですけど」
「なぁに?」
「今日いっぱいくらいは、餅搗き、続けますよ」
何せ、ないと思っていた理由があったのだから。
もうダメかとも思ったけれど、理由があるのなら、意味があるのなら、もう少しくらいは。
「頑張れると、思います」
「……そう」
永琳は静かに頷いて、鈴仙に続き腰を上げた。
さて餅米の具合は、と櫃(ひつ)を確かめる。それは眠りこけている間に、すっかり冷えて固まってしまっていた。
「あちゃー、炊き直さないと」
「はい鈴仙、追加の餅米だよ」
ずいと笊が差し出された。振り向くと、とてもいい笑顔のてゐが炊き立ての餅米を差し出している。
「……ん、ありがと、てゐ」
「え、お、おう」
拍子抜けしたようなてゐの顔に、二人は笑った。
ここは月でも地上でもなく、クルイシンであった。だがそれは、永遠の魔法が解かれる前までの話だ。これからはここも幻想郷になる。その不可思議な歴史のひとつになって、共に明日を積み上げていく。
月都万象展は、まだ終わらない。輝夜の思いつきで始まったことだから分からないけれど、もしかしたら二度目や三度目もあるのかもしれない。永遠を知る永遠亭の住人たちでさえも、未来は誰も知らない。確かなことは、次の一歩をどこかに踏み出さなければならないということだけだ。
閃光満ちる空を舞いながら、屑星姫も多分また笑っていた。
いや、あの空に在るのはもうきっと、屑星姫ではないのだ。
永遠亭が書きたいという気持ちは伝わりました。
永夜抄を初めてプレイしたあの頃を思い出す、良い作品でした。
個人的には輝夜と慧音のスペルカード戦を決着させてほしかったな。
とにかく、やっぱり東方はいいなって思いました。
永遠亭メンバーにけーね(&もこ)の描写が見事ですね。
みんなカワイイですね!
もう少しそれぞれに凛としたところがあってもよかったかな、と思います。
最後に地上ではなく月に吸収されていったのが印象的でした。
永遠亭がこれからどんな方向に歩いていくのか、それを輝夜が作中のみんなに伝わるようにしてほしかったような。
妹紅……ちょろすぎる……