「いつもうちを利用していただいてほんとにありがとうだわ」
「いえいえ、ここの野菜はいつも美味しいのでいつも美味しくいただいていますよ」
「そう言ってもらえると助かるわねぇ」
代金を支払い色とりどりの野菜を受けとると、老婆は私に頭を下げた。私も日頃からの感謝を込めて彼女に礼を言い、自宅への帰路につく。
結界の見回りのついでに人里の様子を覗き、何か紫さまに報告すべき点がないかを確認するのが私の仕事だ。ついでに用事があれば済ませているのでここの人間たちとは自然と関わりが深くなる。
いくら人里の人間が妖怪に対して警戒しているとはいえ、幻想郷の管理者の式で、自分達の益になるようなことをしている存在を敵視はしていない。親しみを持ってくれることもあり、そういった者たちとこうやってコミニュケーションをとることも私の楽しみの一つだった。
「ちわっす!」
まだ二十歳にも満たない少年が、元気に私に挨拶をしてくれた。
「ああ、こんにちは」
彼のような体育会系のノリは私も嫌いじゃない。私の方も少し語気を強めて応じてやる。少年はランニングの途中だったらしく、私とは逆の方に走っていった。
人里の中で飛ぶというのはあまりにも浮いているため、里の外れの方までは歩いて移動する。毎回その途中途中でかなりの人数と会話を交わす。これも里の守護者である慧音女史の教育の賜物だろうか。
「おや、お前は八雲の」
「! なんだ慧音か」
意外な人物に話しかけられ、思わず体を硬直させてしまう。私が今しがた思い浮かべていた人物、上白沢慧音だ。しかしちょうどいいときに慧音が現れた。こういうときにも噂をすれば影というのは適用されるのだろうか。
「…………何をしていたんだ……?」
「いや、いつもの見回りだ」
「本当か? ……怪しいな、おかしな真似をしていたらただじゃおかないぞ」
私の反応を見て慧音が不信感を抱いてしまったらしい。いくら相手の素性や力を知っているとはいえ、里のために堂々と踏み込んでくるのはさすがといったところだ。
しかしこれ以上ややこしくなるのは御免だし、なんとか誤解を解いて帰りたい。
「人々の往来を見ていてな、慧音の教え子たちは皆いいやつばかりだなと思ってただけさ」
ありのままに思ったことを話す。変に取り繕っては逆に相手には怪しく映るというものだからだ。
「面と向かって言われるのは嬉し恥ずかしいが……ありがとう。みんなかわいい生徒たちだ。無論悪ガキもいたが……手間のかかる子供ほどってな」
「なるほど」
気恥ずかしそうな慧音を見て、やはり素晴らしい先生だと思う。授業はつまらないらしいが面倒見も良く指導すべきところはきちんと指導する、なるほど慕われるわけだ。
私にとっての先生は誰だったのだろうと考えてみると、一人しか思い付かなかった。妖艶に微笑むあの方は得体の知れない雰囲気を醸しながらも、一緒にいると不思議と優しさを肌に感じることがある。
あの方に拾われ式として使役されるようになってからいろんなことを教わったし、時には甘えて、時にはこっぴどく叱ってくださった。それは私のためを思ってのことでもあり、そうすることで幻想郷に更なる安寧が訪れると考えてのことだっただろう。
その姿は多少違いはあれど慧音と重ね合わせることができて妙に懐かしさを覚えた。
「すまない、本当に疑ってたわけではないんだ」
「いや、それぐらいはわかってましたよ。慧音さんの体面もありますし」
二人で静かに笑い合う。私を九尾と知っているものは大体気が引けて余所余所しく喋るが中には対等のように話す面子もいる。霊夢や魔理沙辺りは私が大妖怪ということを無視しているため、減らず口も叩いてきてなかなか微笑ましい。しかし、あの八雲紫の式ということを念頭に置いても、重要な役に就きながらも策謀関係なしに変わらず接してくれる慧音みたいなやつと会話をするということもたまにはしたくなる。
「こんにちはー!」
私の足元から幼くも元気のいい声が聞こえてきた。見下ろしてみると、髪をうなじらへんでまとめた小さな女の子が私を見上げてきている。
「狐さんこんにちはー!」
「うん、こんにちは」
弾けたような笑顔につられて私も満面の笑みで返してあげる。
「けいねせんせーもこんにちはー!」
「おお、大きな声だな。こんにちは、偉いぞ」
「うん!」
彼女は慧音にも活き活きとした声で挨拶をした。慧音も柔らかな面持ちで少女を誉め、その様子に女の子はさらに喜びを弾けさせる。
女の子は私たちの反応を見ると踵を返し向こうでこちらを見ていた女性の元に駆けていった。
「おかーさん、あいさつちゃんとできたよー!」
「よしよし、よくできました」
女性が私たちに軽くお辞儀をした。彼女に女の子が抱きつく。女性は戻ってきた女の子の頭に手をやり、その髪を撫で始めた。女の子はくすぐったそうに身を捩らせ、やがて二人は手を繋ぎ里の外れへと歩いていった。
「……元気な子だったな」
「…………ええ」
慧音に別れを告げ、先程親子と思しき二人が行ったのとは違う道に移る。それから、少しだけ呆然としながらも外れまで歩き始めた。
さっきの光景を目にしたとき、私は確かに哀愁感を覚えていた。懐かしさと共に、寂しさや憧れなんぞまでも顔を見せている。何故だろうか。
私がまず思い浮かべたのは、私が紫様の式に成り立ての時、その豊満な胸に抱かれて頭を撫でられている光景だった。何か私が成功したとき、泣いていたとき、暇な時間に紫様に誘われたりお願いをしたとき、よくナデナデされていたものだ。
その時の紫様の優しい表情が大好きだった。それ見たさにナデナデをよくせがんでいた気がする。しかし紫様が私を撫でなくなったのはいつの頃だっただろうか。
そこでまた、私はうら淋しさを覚えた。私は紫様にまたあの時のように頭を撫でてもらいたいと思っているというのか。
だが、もう私も九尾だ。まだ小さかった頃から大分経っているし、今さらおねだりをするのも少し気恥ずかしい。でも、あの温もりも再度噛み締めたいと願う自分がいるのもまた事実だ。周りに人がいなくなりつつあるとはいえ、そんな矛盾につい苦笑してしまう。
そろそろ里と森の境界線が見えてきた。ここからなら気兼ねなく飛び立てる。ふわりと風を起こさず浮かび上がると、紫様が待っているだろう家へと急ぐ。しかしそれなりに時間がかかるため、その間は思索にふけることができる。
そこで私は思い出せる限りで一番最近の、ナデナデされた記憶を掘り返してみた。すると、それは私がまだ七尾の頃だった。
ここは紫様がいつも難しい計算をなさるときに使われる部屋だ。大きな黒板が部屋の前後に取り付けられていて、どんな長い計算式でも書ききれるようになっている。
今日紫様に出された課題は円周率を一時間で一京桁まで計算することだった。実はこのトレーニングは三百年ほど前から繰り返していて、最初は一ヶ月経っても計算することができなかった。それでも紫様の期待に応えたくて頑張り続け、紫様が示したラインである三時間まであと少しというところまで来ている。
今日こそは、という強い決意を胸に私は取り組み始めた。
ここからはしばらく単調な作業の繰り返しになる。
黒板に白い軌跡が描かれていき、軽い擦過音だけが部屋に残響していく。途中手首が悲鳴をあげ始めた。しかしそんなことになにふり構っていられない。正確に、計算をこなしていくだけだ。
気がつくと二枚ある黒板全てが数字で埋め尽くされていた。もちろん一時間を切っている。
手首が多少かくついているが、すぐに治るだろうと放っておくことにする。
「そろそろできたかしらー?」
熱を持った手首の関節をぶらつかせていると、後ろから少し間延びした口調の声が聞こえ、振り向くと紫様が来てくれていた。
「紫様、できました!」
「それじゃあ見せてもらいましょうか。どれどれ……」
部屋を挟んでいる数字の羅列を紫様は流し見ていく。
「正解よ、藍」
紫様は私のところにたどり着くまでに検算を済ませたようで、正解という吉報を私に届けてくれた。
しかしさすがは紫様だ。これほどの計算を一目見ただけで確かめてしまう。この前も大焦熱地獄で罪人が落ちきるのにかかる時間や孤地獄の広さの範囲をも暗算で三十秒かからずに計算しきってしまっていた。逆に恐ろしくも感じるが、いつか紫様に追い付いてみたい、というそんな思いも芽生え始めていた。
紫様は私の帽子を外すと、まるで髪を整えるように優しく撫で始める。まだ紫様の方が身長はあったものの、お互いに見た目の年齢はあまり変わらないのでなんだか恥ずかしかった。
「ゆ、紫様。もうそんな風にしてもらわなくても…………」
別に誰かに見られているというわけでもないが、数えるのが馬鹿らしくなるほど長く付き合っているからきまりが悪い。
「なーに言ってるの、貴女はいつまで経っても私の子供のような存在よ。もしくは教え子ね」
しかし紫様はやめようとはしない。さらには手持ち無沙汰だったもう一方の手を私の方に添えてきた。撫でていた手もだんだんその位置は下がっていき、両手で私の顔を持ち上げる形になっている。
紫様の透き通る肌が、すべてを知っておられるような目が、整った鼻筋が、蠱惑的な魅力を発する唇が私の視界を覆い、つい気が遠くなってしまいそうだ。なんとか持ちこたえているものの、一瞬でも気を抜いてしまえば理性が吹き飛んでしまいそうだった。
紫様の表情を見ると私の成長を喜んでいるのが一目でわかるのだが、少しだけ寂しそうにも見えた。しかし紫様がそんな顔をする理由がわからない。式の成長は嬉しいものではないのか。
私が戸惑っているうちに紫様が手を離すと、ようやく見えない束縛から解放されたように感じた。
「でも抱きついたりしないからいいじゃないの」
紫様が普段通り私をからかいにきた。やはり杞憂だったみたいだ。
「そういう問題じゃありませんって」
苦笑ぎみに答えると、紫様は振り返り部屋から去ろうとした。
「…………あなたももう一人前の式になったわね」
そう言って紫様は部屋を出ていった。
「あ、ありがとうございます!」
私の胸を喜びが支配し騒ぎ立て、紫様が見ているわけでもないのに、深々とお辞儀をしてしまった。努力が報われた! と踊り出してしまいそうになるぐらい私は気分が高揚していた。
でもちょっとだけ、紫様の背中が小さく見えた。あまり気に留めもしなかったが、私の心境に変化があったからなのか、紫様に何かあったからなのかはわからない。
その日の夕食は少しだけ豪勢だった。紫様も久しぶりに腕をふるい、その確かな腕に私は感心させられた。
「練習してるところなんて見たこともありませんでしたけど」
「乙女に秘密は付き物ですのに」
私は内緒で練習をしていると睨んだが、はぐらかされてしまう。
食後、居間で私たちはゴロゴロしていた。紫様は椅子に腰掛け上半身をだらしなくテーブルに投げ出していた。
紫様も賢者として日々大変そうにしている。私と一緒にいるときはのんびりとしていることが多いものの、そのときと寝ている時以外で何時休んでいるのかと心配になるほど紫様は奔走している。しかし今日はあれからずっとこんな調子で、なんだかいつもと様子がおかしい。
隣で読書をしている私も気が気でしょうがなかった。不意に紫様の美貌が脳裏に蘇り、私の集中を途切らせる。顔も赤くなっているのが自分でわかり、開いたページで紅潮しているのを隠すのもしばしばあった。
「藍ー」
いつのまにか紫様の顔が私の方を向いていた。
「はい、なんでしょうか」
読んでいる本を置き、姿勢を正す。いったいどんなお話があるのかと心構えを作った。
「膝枕してあげる」
暫し思考に空白が生じる。その一瞬、私は紫様にあれよあれよという間に横たえられ膝枕の体制に持ち込まれていた。
「ゆ、紫様!」
いきなりの行動に私も動揺を隠せない。しかし逃れられないと悟った私は渋々紫様の太ももに頭を落ち着かせることにしたのだった。
柔らかい感触と共にいい香りが頭を揺さぶる。かなり久しぶりの心地だった。
「どうしていきなり…………」
「私がしたいんだから別にいいでしょ」
「それは……文句はありませんが」
「あなたもされて嬉しいって思っているくせに」
「…………」
紫様に本心を当てられてつい無言になってしまう。しかしその無言は何よりも肯定を表していた。
「今日までよく頑張ったわね」
「紫様が応援してくださったお陰です」
「いいえ、あなたが目標を見失わずきちんとやり続けてきたからよ。私はその手伝いをしただけ。いったいその目標ってなんなのかしらねぇ」
「そ、それは…………」
「フフッ、無理に言わなくていいわ。それは貴女の心の中にしまっておきなさい。いつかまたあなたを救ってくれるでしょうから」
「…………」
紫様は何時も人の心を見透かしたようなことを言う。当てずっぽうなのか読心術を使っているのか定かではないが、私の考えは何時も紫様に筒抜けになっている気がする。そう思うと余計に照れくさかった。
その後しばらく話をした後、紫様の強引な誘いにより一緒に寝ることになった。そこでも一波乱あったのだが、その頃になると私の体力は尽きかけていて今では何があったのかほとんど覚えていない。しかし、あんなにはしゃぐ紫様を見たのはあれきりだった。
その日から紫様は撫でてくれるのをやめた。
自然に頭に手がいっていた。紫様が撫でてくれていた箇所の名残を確かめるように手をのせる。帽子が邪魔だと思ったので、帽子をとってもう一度触れてみる。しかしあの暖かみはいかほども思い出すことができず、寂しいというより悔しくて思わず髪を巻き込んで拳を握りこんでしまう。
紫様が冬眠をして、しばらくお話ができなくなる季節がすぐそこまで来ているのを肌で感じたからかもしれない。空気はそこまで冷たくないが、日中でもさほど気温は上がらず時折吹く強い風は肌にナイフを突き立てるような痛みを運んでくる。
しかし、そんな痛みなど紫様が遠くに行かれることに比べれば蚊に刺される程度のものだ。まあ私には自慢の尻尾があり暖には困らないのだが。
毎年の事とはいえ、慣れないものは慣れない。橙も冬の間は私たちと共に過ごすことが多くなるが、私の中の大部分を占めている紫様が空白になってしまうのだ。紫様と食卓を共にしようともそこにはいない。紫様に言われて結界を修繕しに行くこともない。ちょっとだらけすぎているのではと紫様に注意をすることもできない。紫様の声を聞けない。紫様がそこにいない。
最初の私は泣きじゃくって紫様を困らせていたものだ。どうしても紫様の力の維持のためにしなくてはならないものだが、当時の私は寂しいのが嫌で、必死に駄々を捏ねていた。今となっては赤面ものだが、現在も私はあまり変わっていないんだなと気がつき複雑な気分になった。
「…………いかんいかん。紫様が安心してお休みになられるように私が頑張らなければいけないのに、そんな私が腑抜けてどうする」
普段と違い弱気になりがちな私に言い聞かせるように呟く。紫様の信頼を裏切ることなどあってはならない。
「藍さまー!」
誰かが私を呼んでいる。聞き覚えのある声だなぁとぼんやりしながらそれを聞いていた。
「藍さま!」
今度はよりはっきりと私の耳朶を打った。そうだこの声は…………。
「やっと気がついた…………どうしたんですか藍さま、心ここに有らずでしたよ」
私が俯いていた顔をあげると、見慣れた顔があった。私の式で、将来八雲の姓を授かるはずの妖獣、橙だ。
さっきからずっと私を呼んでいたのにそれを無視されていたようでずいぶんご立腹だ。
「ああ、ごめんね橙」
「いいですけど…………体調が悪いんだったらいつでも言ってくださいね」
かなり橙を心配させていたみたいで、これではいけないと自分を叱咤する。自分の式の状況も把握しきれていないなんてまだまだと紫様に言われたことがあり、でもそれ以降もやはりうまくいっていない。
私がもっと気丈に振る舞わなければ、橙も安心できないだろう。だからこそ私はしっかりしなければならないのだ。紫様もこんな苦労をしていらしたのだろうか、という疑問が頭に浮かぶもすぐに振り払う。
「よし、いつもの藍さまだ…………よーし」
橙もいつもの陽気な調子に戻り、少し開けた広場へと戻っていった。
そういえば今は橙の様子を見に来ていたんだったと思い出した。私と紫様は一緒に暮らしているが橙はマヨイガで過ごしている。橙も猫の里の統率の訓練をする必要があるし、八雲として拘束される前に自由な立場でこの幻想郷に触れておいて欲しいという方針があるからだ。
たまに経過を見に来るが、ここ数年目立った変化はない。やはりまだ上に立つものとしては未熟すぎるのだろう。野性動物はそういうところに敏感なのだ。
「お前ら、全員整列!」
『にゃーん』
今日も橙が頑張っているが、今日は驚くべき事が起きた。橙が人差し指を天に突き立て叫ぶと、なんと今まで言うことを聞いていなかった猫たちが命令に従い横一列に並んだではないか。
「よしよし…………」
それを見て橙が満足げに何度も頷く。主人として橙の成長は喜ぶべき事だ。でもそれと同時に何かよくわからないものがこみ上げてくる。それが一体何なのかはわからない。
橙が挙げている指を開いた。思い思いの方向を向いている猫たちを今度は注目させようと企んでいるようだ。
「私にちゅうもーく!」
『にゃーん』
「何でみんなして後ろを振り向くのさ! 私の方を見て私の方を!」
『にゃーん』
「だーかーらー! 地面の石ころなんて数えなくていいからこっちを向いてってば!」
『にゃーん』
「あーもー!」
しかし今度は打って変わって猫たちは橙の指示とは逆の事を実行し始める。少し違った意味だが、猫たちの間で統率がとれていると言えるのではないではないだろうか。
「オーイ、橙ー! こっちおいでー」
今にも泣きそうな橙を呼び寄せる。強がって涙を溢すまいとしているものの、そのせいで物凄い顔になってしまっている。
「よしよし、泣かない泣かない」
「うぅー、後もう少しだったのにー…………」
橙の帽子を外して優しく髪を撫でてやる。かつて紫様が泣き止まない私をあやしてくれたように、橙がへこたれないように強さを分け与えれていたらなと思いながら。橙の小さな体を急に抱き締めてあげたくなって、思わず手を伸ばしかける。
「…………ハッ! こんなんじゃいけない!」
突然橙が目に涙を残しながらもそう言った。
「藍さま、もう大丈夫です!」
と言って私を振り払うと、決意を込めた目で私に宣言した。
「私がこんなんだから猫たちにナメられちゃうんだ、だからもう平気です!」
そう言って橙は再び猫たちの集っている場所まで駆けていった。暫し何をされたかわからなかったが、ようやく思考が追い付いてきた。
橙も一人前として認められたいのだ。猫たちからも、私からも、誰からも。だから私が抱き締めようとするのを制したし、強くありたいと告げたのだ。
なんとも言えない微妙な嬉しさが私の胸に広がり、嬉しそうな悲しそうなそんなちぐはぐな表情を私はしている。
だが、そこで私は気づいてしまった。今のこの表情が、紫様のしていた形容しがたいあの面持ちとおなじな事に。無論私の顔など鏡もないのに見ることはできないが、安易に想像ができた。
私の奮闘する姿を見て紫様も同じようなことを思ったり考えていたのだろうか。だからこそ紫様は私の頭を撫でることをやめたんじゃないかという考えが至るのにそう時間はかからなかった。
「お帰り、藍」
家に帰り居間に向かうと紫様が私の帰宅を待っていた。何やら話があるらしい。本当はその内容が怖くて聞きたくなかったが、そういうわけにもいかないし、ここで拒絶して紫様を傷つけてしまってもいけない。例え自分が恐れていることを口にされても、私は受け入れるという覚悟を無理矢理にも作った。
そうして紫様の前に正座をすると、私の本心がバレないように心に仮面を被り、できるだけ無表情になろうと努めた。
「今日の夜から冬眠に入るわ」
「…………そうですか」
紫様はそんな私の気を知らないように簡単に口にした。そのあっけなさに少し苛立ちを覚えるが、あまりにエゴが過ぎると自分で自分を諌める。
現実から目をそらさないように、私の目もまた紫様の目から視線を外さなかった。今私がどんな表情をしているかはわからないが、とりあえずは無表情を保てているはずだ。
さて、これから寒い季節がやって来る。千年以上も繰り返しているのだから、今年もやり過ごせるだけだ。だけど今年は、いつもよりも苦しくなりそうだった。
「今日は私もおゆはんを作るの手伝うわ」
「いえ、私に任せてください」
「しばらく藍と会えなくなるんだもの、思い出作りに共同作業なんて素敵じゃない」
「いやいやこれが今生の別れじゃないんですから…………」
この流れも通過儀礼のようなものだ。そして毎年のように押しきられ、たいして豪華でもない食事を二人で食べて紫様は眠りにつく。
私も紫様と一緒に台所に立つのがたまらなく好きだった。いつも行っている家事がいつもの何百倍も楽しい。一緒に作った料理は筆舌に尽くしがたい美味しさを誇る。
そんな楽しい行事を前に暗い気持ちでいてはいけない。その内気分も晴れていくだろうことを期待して、私は材料を用意するために立ち上がった。
「はぁ、わかりました。とりあえず材料を確認してきますね」
「あ、ちょっと待って」
紫様が珍しく焦ったように私を引き留める。何事かと振り向くと、紫様がゆっくりと自分の膝元に手を拱いているではないか。しかも少し頬がつり上がっている。
「ど、どうしたのですか?」
若干の恐怖を感じて恐る恐る近づいていき、紫様と一メートルもない地点に私は腰を下ろした。私の経験則でいうと、こういうときは折檻をされるときが多い。最近も何回かあったし、幼少の頃などしょっちゅうあった。でも折檻をされるときは私の身を案じての事が多かったし、最近私は何か危ないことをしただろうかと自身の行動を振り返ってみる。しかし特には思い当たらなかった。
「もう少し寄って」
「は、はい」
紫様が自分の膝と十センチも離れていないところをポンポンと叩き、私に座れと言ってくる。
もう紫様は目と鼻の先だ。こんなに近くで、しかも真っ正面から向かい合ったのも久しぶりだった。何時見ても紫様の美貌は素晴らしい。前よりもさらに磨きがかかっているのではないか。
「わっプッ!」
いきなり紫様の手が飛びかかってきたと思った瞬間、私の視界は黒に塗りつぶされていた。
「んんんんん! んっんんんんん!」
紫様! 一体何を! と叫んでみるも顔全体に柔らかい何かが押し付けられていて喋ることすらままならない。だんだん息が苦しくなってくる。後頭部に腕と思しきものの感触があり、それが私の頭をガッチリとホールドしているのだ。
「ぷはっ! ゆ、ゆゆゆゆゆゆゆゆ紫様ぁ?!」
腕を振り回した末どうにかして拘束から逃れたものの、紫様は私の頭を抱えることをやめなかった。
さらに視界がぐるりと回転し、いつのまにか横向きになっていた。顔の横半分に弾力のある肌触りを感じる。特徴のある紫色が目に飛び込んできて、私は今紫様に膝枕をされているのだと気がついた。
「ごめんなさい、やっぱり無理だったわ」
私が何を言うよりも早く紫様が私に語りかけてきた。
「貴女が私に認めてもらいたくて頑張ってるのを見て、私もそろそろ子供扱いをするのは控えめにしようと思ってたの。
私の出した課題をあなたがクリアしたとき、あなたを私の式であると同時に一人の大妖怪として見てあげることに決めたわ。だってそうしないと藍に失礼だものね」
「紫様…………」
「そんな前の事……って思ってるでしょうけど、私の中であの日は一、二番目に大切な思い出なのよ。だって私が育ててきた子がこんなに立派に成長したんですもの、喜ばない親はいませんわ」
あの日のように、優しく私の頭を撫でる紫様。その表情はとても満足げだ。
「でもね、時々貴女をこうして甘やかしてみたくなるときがあるの。だからもう我慢できなくなっちゃった。自分で決めたことを貫き通せないなんてほんとお馬鹿よね、私も」
「そんなことありません! 紫様はとても立派な方で、私の尊敬する大事なご主人様です」
自虐を始める紫様を私は慰める。こうしてされるがままになっている私が言うのもおかしいが、今みたいに紫様が悲しそうな顔をされるのが何より辛かったから、堪えきれなかった。
「……ありがと。でもね、貴女もいけないのよ、藍。甘えたいなら甘えたいで素直にならないとどうすることもできないじゃないの」
「っ……」
紫様にはどうやらお見通しだったようだ。やはり紫様には敵わない。昔から紫様だけには隠し事をすることはできなかった。前よりも秘め事は巧くなったとは思っていたが、まだまだ甘かったみたいだ。
私一人で寂しがって強がって、そんな私を気遣ってくれる紫様を見て勝手にイライラして、これでは橙の方が私より立派ではないのか。
「……紫様」
「なあに、藍」
小さく呟いたような私の声を紫様はしっかりと聞き届けてくれた。私は安心して鼻孔から肺にまで行き渡る心地よい香りを全身で味わい、睡眠時の枕よりも格段に優しい膝のクッションを堪能する。
紫様の、夜に子供を寝かしつけるために読み聞かせをする母親のような声色を聞いて穏やかな気持ちになり、幼子みたいに頬を緩めてしまう。
「もう少しだけ、このままでもよろしいでしょうか」
カッコがつかないとわかりながらも、この一時を簡単に手放したくない。やっぱり私は紫様の子なのだなとしみじみと感じた。
「……ふふっ、よろしくってよ。何時でも甘えたくなったらいらっしゃいな」
「紫様の方こそ遠慮なさらずに、言ってくださればいつでも甘えますよ」
「…………減らず口は一人前になったわね。でも結局藍が甘えたいだけじゃない」
「…………」
私はなにも言わなかった。紫様もそれ以上言わなかった。言葉はなくとも、心が繋がっている気がしている。紫様の愛情が、私の心を満たしてくれている。
その後、橙がやって来てそれを皮切りに夕食の支度を始めるまで、私たちは二人っきりの時間を過ごしたのだった。
これからもなんとか頑張れそうな気がする。
「いえいえ、ここの野菜はいつも美味しいのでいつも美味しくいただいていますよ」
「そう言ってもらえると助かるわねぇ」
代金を支払い色とりどりの野菜を受けとると、老婆は私に頭を下げた。私も日頃からの感謝を込めて彼女に礼を言い、自宅への帰路につく。
結界の見回りのついでに人里の様子を覗き、何か紫さまに報告すべき点がないかを確認するのが私の仕事だ。ついでに用事があれば済ませているのでここの人間たちとは自然と関わりが深くなる。
いくら人里の人間が妖怪に対して警戒しているとはいえ、幻想郷の管理者の式で、自分達の益になるようなことをしている存在を敵視はしていない。親しみを持ってくれることもあり、そういった者たちとこうやってコミニュケーションをとることも私の楽しみの一つだった。
「ちわっす!」
まだ二十歳にも満たない少年が、元気に私に挨拶をしてくれた。
「ああ、こんにちは」
彼のような体育会系のノリは私も嫌いじゃない。私の方も少し語気を強めて応じてやる。少年はランニングの途中だったらしく、私とは逆の方に走っていった。
人里の中で飛ぶというのはあまりにも浮いているため、里の外れの方までは歩いて移動する。毎回その途中途中でかなりの人数と会話を交わす。これも里の守護者である慧音女史の教育の賜物だろうか。
「おや、お前は八雲の」
「! なんだ慧音か」
意外な人物に話しかけられ、思わず体を硬直させてしまう。私が今しがた思い浮かべていた人物、上白沢慧音だ。しかしちょうどいいときに慧音が現れた。こういうときにも噂をすれば影というのは適用されるのだろうか。
「…………何をしていたんだ……?」
「いや、いつもの見回りだ」
「本当か? ……怪しいな、おかしな真似をしていたらただじゃおかないぞ」
私の反応を見て慧音が不信感を抱いてしまったらしい。いくら相手の素性や力を知っているとはいえ、里のために堂々と踏み込んでくるのはさすがといったところだ。
しかしこれ以上ややこしくなるのは御免だし、なんとか誤解を解いて帰りたい。
「人々の往来を見ていてな、慧音の教え子たちは皆いいやつばかりだなと思ってただけさ」
ありのままに思ったことを話す。変に取り繕っては逆に相手には怪しく映るというものだからだ。
「面と向かって言われるのは嬉し恥ずかしいが……ありがとう。みんなかわいい生徒たちだ。無論悪ガキもいたが……手間のかかる子供ほどってな」
「なるほど」
気恥ずかしそうな慧音を見て、やはり素晴らしい先生だと思う。授業はつまらないらしいが面倒見も良く指導すべきところはきちんと指導する、なるほど慕われるわけだ。
私にとっての先生は誰だったのだろうと考えてみると、一人しか思い付かなかった。妖艶に微笑むあの方は得体の知れない雰囲気を醸しながらも、一緒にいると不思議と優しさを肌に感じることがある。
あの方に拾われ式として使役されるようになってからいろんなことを教わったし、時には甘えて、時にはこっぴどく叱ってくださった。それは私のためを思ってのことでもあり、そうすることで幻想郷に更なる安寧が訪れると考えてのことだっただろう。
その姿は多少違いはあれど慧音と重ね合わせることができて妙に懐かしさを覚えた。
「すまない、本当に疑ってたわけではないんだ」
「いや、それぐらいはわかってましたよ。慧音さんの体面もありますし」
二人で静かに笑い合う。私を九尾と知っているものは大体気が引けて余所余所しく喋るが中には対等のように話す面子もいる。霊夢や魔理沙辺りは私が大妖怪ということを無視しているため、減らず口も叩いてきてなかなか微笑ましい。しかし、あの八雲紫の式ということを念頭に置いても、重要な役に就きながらも策謀関係なしに変わらず接してくれる慧音みたいなやつと会話をするということもたまにはしたくなる。
「こんにちはー!」
私の足元から幼くも元気のいい声が聞こえてきた。見下ろしてみると、髪をうなじらへんでまとめた小さな女の子が私を見上げてきている。
「狐さんこんにちはー!」
「うん、こんにちは」
弾けたような笑顔につられて私も満面の笑みで返してあげる。
「けいねせんせーもこんにちはー!」
「おお、大きな声だな。こんにちは、偉いぞ」
「うん!」
彼女は慧音にも活き活きとした声で挨拶をした。慧音も柔らかな面持ちで少女を誉め、その様子に女の子はさらに喜びを弾けさせる。
女の子は私たちの反応を見ると踵を返し向こうでこちらを見ていた女性の元に駆けていった。
「おかーさん、あいさつちゃんとできたよー!」
「よしよし、よくできました」
女性が私たちに軽くお辞儀をした。彼女に女の子が抱きつく。女性は戻ってきた女の子の頭に手をやり、その髪を撫で始めた。女の子はくすぐったそうに身を捩らせ、やがて二人は手を繋ぎ里の外れへと歩いていった。
「……元気な子だったな」
「…………ええ」
慧音に別れを告げ、先程親子と思しき二人が行ったのとは違う道に移る。それから、少しだけ呆然としながらも外れまで歩き始めた。
さっきの光景を目にしたとき、私は確かに哀愁感を覚えていた。懐かしさと共に、寂しさや憧れなんぞまでも顔を見せている。何故だろうか。
私がまず思い浮かべたのは、私が紫様の式に成り立ての時、その豊満な胸に抱かれて頭を撫でられている光景だった。何か私が成功したとき、泣いていたとき、暇な時間に紫様に誘われたりお願いをしたとき、よくナデナデされていたものだ。
その時の紫様の優しい表情が大好きだった。それ見たさにナデナデをよくせがんでいた気がする。しかし紫様が私を撫でなくなったのはいつの頃だっただろうか。
そこでまた、私はうら淋しさを覚えた。私は紫様にまたあの時のように頭を撫でてもらいたいと思っているというのか。
だが、もう私も九尾だ。まだ小さかった頃から大分経っているし、今さらおねだりをするのも少し気恥ずかしい。でも、あの温もりも再度噛み締めたいと願う自分がいるのもまた事実だ。周りに人がいなくなりつつあるとはいえ、そんな矛盾につい苦笑してしまう。
そろそろ里と森の境界線が見えてきた。ここからなら気兼ねなく飛び立てる。ふわりと風を起こさず浮かび上がると、紫様が待っているだろう家へと急ぐ。しかしそれなりに時間がかかるため、その間は思索にふけることができる。
そこで私は思い出せる限りで一番最近の、ナデナデされた記憶を掘り返してみた。すると、それは私がまだ七尾の頃だった。
ここは紫様がいつも難しい計算をなさるときに使われる部屋だ。大きな黒板が部屋の前後に取り付けられていて、どんな長い計算式でも書ききれるようになっている。
今日紫様に出された課題は円周率を一時間で一京桁まで計算することだった。実はこのトレーニングは三百年ほど前から繰り返していて、最初は一ヶ月経っても計算することができなかった。それでも紫様の期待に応えたくて頑張り続け、紫様が示したラインである三時間まであと少しというところまで来ている。
今日こそは、という強い決意を胸に私は取り組み始めた。
ここからはしばらく単調な作業の繰り返しになる。
黒板に白い軌跡が描かれていき、軽い擦過音だけが部屋に残響していく。途中手首が悲鳴をあげ始めた。しかしそんなことになにふり構っていられない。正確に、計算をこなしていくだけだ。
気がつくと二枚ある黒板全てが数字で埋め尽くされていた。もちろん一時間を切っている。
手首が多少かくついているが、すぐに治るだろうと放っておくことにする。
「そろそろできたかしらー?」
熱を持った手首の関節をぶらつかせていると、後ろから少し間延びした口調の声が聞こえ、振り向くと紫様が来てくれていた。
「紫様、できました!」
「それじゃあ見せてもらいましょうか。どれどれ……」
部屋を挟んでいる数字の羅列を紫様は流し見ていく。
「正解よ、藍」
紫様は私のところにたどり着くまでに検算を済ませたようで、正解という吉報を私に届けてくれた。
しかしさすがは紫様だ。これほどの計算を一目見ただけで確かめてしまう。この前も大焦熱地獄で罪人が落ちきるのにかかる時間や孤地獄の広さの範囲をも暗算で三十秒かからずに計算しきってしまっていた。逆に恐ろしくも感じるが、いつか紫様に追い付いてみたい、というそんな思いも芽生え始めていた。
紫様は私の帽子を外すと、まるで髪を整えるように優しく撫で始める。まだ紫様の方が身長はあったものの、お互いに見た目の年齢はあまり変わらないのでなんだか恥ずかしかった。
「ゆ、紫様。もうそんな風にしてもらわなくても…………」
別に誰かに見られているというわけでもないが、数えるのが馬鹿らしくなるほど長く付き合っているからきまりが悪い。
「なーに言ってるの、貴女はいつまで経っても私の子供のような存在よ。もしくは教え子ね」
しかし紫様はやめようとはしない。さらには手持ち無沙汰だったもう一方の手を私の方に添えてきた。撫でていた手もだんだんその位置は下がっていき、両手で私の顔を持ち上げる形になっている。
紫様の透き通る肌が、すべてを知っておられるような目が、整った鼻筋が、蠱惑的な魅力を発する唇が私の視界を覆い、つい気が遠くなってしまいそうだ。なんとか持ちこたえているものの、一瞬でも気を抜いてしまえば理性が吹き飛んでしまいそうだった。
紫様の表情を見ると私の成長を喜んでいるのが一目でわかるのだが、少しだけ寂しそうにも見えた。しかし紫様がそんな顔をする理由がわからない。式の成長は嬉しいものではないのか。
私が戸惑っているうちに紫様が手を離すと、ようやく見えない束縛から解放されたように感じた。
「でも抱きついたりしないからいいじゃないの」
紫様が普段通り私をからかいにきた。やはり杞憂だったみたいだ。
「そういう問題じゃありませんって」
苦笑ぎみに答えると、紫様は振り返り部屋から去ろうとした。
「…………あなたももう一人前の式になったわね」
そう言って紫様は部屋を出ていった。
「あ、ありがとうございます!」
私の胸を喜びが支配し騒ぎ立て、紫様が見ているわけでもないのに、深々とお辞儀をしてしまった。努力が報われた! と踊り出してしまいそうになるぐらい私は気分が高揚していた。
でもちょっとだけ、紫様の背中が小さく見えた。あまり気に留めもしなかったが、私の心境に変化があったからなのか、紫様に何かあったからなのかはわからない。
その日の夕食は少しだけ豪勢だった。紫様も久しぶりに腕をふるい、その確かな腕に私は感心させられた。
「練習してるところなんて見たこともありませんでしたけど」
「乙女に秘密は付き物ですのに」
私は内緒で練習をしていると睨んだが、はぐらかされてしまう。
食後、居間で私たちはゴロゴロしていた。紫様は椅子に腰掛け上半身をだらしなくテーブルに投げ出していた。
紫様も賢者として日々大変そうにしている。私と一緒にいるときはのんびりとしていることが多いものの、そのときと寝ている時以外で何時休んでいるのかと心配になるほど紫様は奔走している。しかし今日はあれからずっとこんな調子で、なんだかいつもと様子がおかしい。
隣で読書をしている私も気が気でしょうがなかった。不意に紫様の美貌が脳裏に蘇り、私の集中を途切らせる。顔も赤くなっているのが自分でわかり、開いたページで紅潮しているのを隠すのもしばしばあった。
「藍ー」
いつのまにか紫様の顔が私の方を向いていた。
「はい、なんでしょうか」
読んでいる本を置き、姿勢を正す。いったいどんなお話があるのかと心構えを作った。
「膝枕してあげる」
暫し思考に空白が生じる。その一瞬、私は紫様にあれよあれよという間に横たえられ膝枕の体制に持ち込まれていた。
「ゆ、紫様!」
いきなりの行動に私も動揺を隠せない。しかし逃れられないと悟った私は渋々紫様の太ももに頭を落ち着かせることにしたのだった。
柔らかい感触と共にいい香りが頭を揺さぶる。かなり久しぶりの心地だった。
「どうしていきなり…………」
「私がしたいんだから別にいいでしょ」
「それは……文句はありませんが」
「あなたもされて嬉しいって思っているくせに」
「…………」
紫様に本心を当てられてつい無言になってしまう。しかしその無言は何よりも肯定を表していた。
「今日までよく頑張ったわね」
「紫様が応援してくださったお陰です」
「いいえ、あなたが目標を見失わずきちんとやり続けてきたからよ。私はその手伝いをしただけ。いったいその目標ってなんなのかしらねぇ」
「そ、それは…………」
「フフッ、無理に言わなくていいわ。それは貴女の心の中にしまっておきなさい。いつかまたあなたを救ってくれるでしょうから」
「…………」
紫様は何時も人の心を見透かしたようなことを言う。当てずっぽうなのか読心術を使っているのか定かではないが、私の考えは何時も紫様に筒抜けになっている気がする。そう思うと余計に照れくさかった。
その後しばらく話をした後、紫様の強引な誘いにより一緒に寝ることになった。そこでも一波乱あったのだが、その頃になると私の体力は尽きかけていて今では何があったのかほとんど覚えていない。しかし、あんなにはしゃぐ紫様を見たのはあれきりだった。
その日から紫様は撫でてくれるのをやめた。
自然に頭に手がいっていた。紫様が撫でてくれていた箇所の名残を確かめるように手をのせる。帽子が邪魔だと思ったので、帽子をとってもう一度触れてみる。しかしあの暖かみはいかほども思い出すことができず、寂しいというより悔しくて思わず髪を巻き込んで拳を握りこんでしまう。
紫様が冬眠をして、しばらくお話ができなくなる季節がすぐそこまで来ているのを肌で感じたからかもしれない。空気はそこまで冷たくないが、日中でもさほど気温は上がらず時折吹く強い風は肌にナイフを突き立てるような痛みを運んでくる。
しかし、そんな痛みなど紫様が遠くに行かれることに比べれば蚊に刺される程度のものだ。まあ私には自慢の尻尾があり暖には困らないのだが。
毎年の事とはいえ、慣れないものは慣れない。橙も冬の間は私たちと共に過ごすことが多くなるが、私の中の大部分を占めている紫様が空白になってしまうのだ。紫様と食卓を共にしようともそこにはいない。紫様に言われて結界を修繕しに行くこともない。ちょっとだらけすぎているのではと紫様に注意をすることもできない。紫様の声を聞けない。紫様がそこにいない。
最初の私は泣きじゃくって紫様を困らせていたものだ。どうしても紫様の力の維持のためにしなくてはならないものだが、当時の私は寂しいのが嫌で、必死に駄々を捏ねていた。今となっては赤面ものだが、現在も私はあまり変わっていないんだなと気がつき複雑な気分になった。
「…………いかんいかん。紫様が安心してお休みになられるように私が頑張らなければいけないのに、そんな私が腑抜けてどうする」
普段と違い弱気になりがちな私に言い聞かせるように呟く。紫様の信頼を裏切ることなどあってはならない。
「藍さまー!」
誰かが私を呼んでいる。聞き覚えのある声だなぁとぼんやりしながらそれを聞いていた。
「藍さま!」
今度はよりはっきりと私の耳朶を打った。そうだこの声は…………。
「やっと気がついた…………どうしたんですか藍さま、心ここに有らずでしたよ」
私が俯いていた顔をあげると、見慣れた顔があった。私の式で、将来八雲の姓を授かるはずの妖獣、橙だ。
さっきからずっと私を呼んでいたのにそれを無視されていたようでずいぶんご立腹だ。
「ああ、ごめんね橙」
「いいですけど…………体調が悪いんだったらいつでも言ってくださいね」
かなり橙を心配させていたみたいで、これではいけないと自分を叱咤する。自分の式の状況も把握しきれていないなんてまだまだと紫様に言われたことがあり、でもそれ以降もやはりうまくいっていない。
私がもっと気丈に振る舞わなければ、橙も安心できないだろう。だからこそ私はしっかりしなければならないのだ。紫様もこんな苦労をしていらしたのだろうか、という疑問が頭に浮かぶもすぐに振り払う。
「よし、いつもの藍さまだ…………よーし」
橙もいつもの陽気な調子に戻り、少し開けた広場へと戻っていった。
そういえば今は橙の様子を見に来ていたんだったと思い出した。私と紫様は一緒に暮らしているが橙はマヨイガで過ごしている。橙も猫の里の統率の訓練をする必要があるし、八雲として拘束される前に自由な立場でこの幻想郷に触れておいて欲しいという方針があるからだ。
たまに経過を見に来るが、ここ数年目立った変化はない。やはりまだ上に立つものとしては未熟すぎるのだろう。野性動物はそういうところに敏感なのだ。
「お前ら、全員整列!」
『にゃーん』
今日も橙が頑張っているが、今日は驚くべき事が起きた。橙が人差し指を天に突き立て叫ぶと、なんと今まで言うことを聞いていなかった猫たちが命令に従い横一列に並んだではないか。
「よしよし…………」
それを見て橙が満足げに何度も頷く。主人として橙の成長は喜ぶべき事だ。でもそれと同時に何かよくわからないものがこみ上げてくる。それが一体何なのかはわからない。
橙が挙げている指を開いた。思い思いの方向を向いている猫たちを今度は注目させようと企んでいるようだ。
「私にちゅうもーく!」
『にゃーん』
「何でみんなして後ろを振り向くのさ! 私の方を見て私の方を!」
『にゃーん』
「だーかーらー! 地面の石ころなんて数えなくていいからこっちを向いてってば!」
『にゃーん』
「あーもー!」
しかし今度は打って変わって猫たちは橙の指示とは逆の事を実行し始める。少し違った意味だが、猫たちの間で統率がとれていると言えるのではないではないだろうか。
「オーイ、橙ー! こっちおいでー」
今にも泣きそうな橙を呼び寄せる。強がって涙を溢すまいとしているものの、そのせいで物凄い顔になってしまっている。
「よしよし、泣かない泣かない」
「うぅー、後もう少しだったのにー…………」
橙の帽子を外して優しく髪を撫でてやる。かつて紫様が泣き止まない私をあやしてくれたように、橙がへこたれないように強さを分け与えれていたらなと思いながら。橙の小さな体を急に抱き締めてあげたくなって、思わず手を伸ばしかける。
「…………ハッ! こんなんじゃいけない!」
突然橙が目に涙を残しながらもそう言った。
「藍さま、もう大丈夫です!」
と言って私を振り払うと、決意を込めた目で私に宣言した。
「私がこんなんだから猫たちにナメられちゃうんだ、だからもう平気です!」
そう言って橙は再び猫たちの集っている場所まで駆けていった。暫し何をされたかわからなかったが、ようやく思考が追い付いてきた。
橙も一人前として認められたいのだ。猫たちからも、私からも、誰からも。だから私が抱き締めようとするのを制したし、強くありたいと告げたのだ。
なんとも言えない微妙な嬉しさが私の胸に広がり、嬉しそうな悲しそうなそんなちぐはぐな表情を私はしている。
だが、そこで私は気づいてしまった。今のこの表情が、紫様のしていた形容しがたいあの面持ちとおなじな事に。無論私の顔など鏡もないのに見ることはできないが、安易に想像ができた。
私の奮闘する姿を見て紫様も同じようなことを思ったり考えていたのだろうか。だからこそ紫様は私の頭を撫でることをやめたんじゃないかという考えが至るのにそう時間はかからなかった。
「お帰り、藍」
家に帰り居間に向かうと紫様が私の帰宅を待っていた。何やら話があるらしい。本当はその内容が怖くて聞きたくなかったが、そういうわけにもいかないし、ここで拒絶して紫様を傷つけてしまってもいけない。例え自分が恐れていることを口にされても、私は受け入れるという覚悟を無理矢理にも作った。
そうして紫様の前に正座をすると、私の本心がバレないように心に仮面を被り、できるだけ無表情になろうと努めた。
「今日の夜から冬眠に入るわ」
「…………そうですか」
紫様はそんな私の気を知らないように簡単に口にした。そのあっけなさに少し苛立ちを覚えるが、あまりにエゴが過ぎると自分で自分を諌める。
現実から目をそらさないように、私の目もまた紫様の目から視線を外さなかった。今私がどんな表情をしているかはわからないが、とりあえずは無表情を保てているはずだ。
さて、これから寒い季節がやって来る。千年以上も繰り返しているのだから、今年もやり過ごせるだけだ。だけど今年は、いつもよりも苦しくなりそうだった。
「今日は私もおゆはんを作るの手伝うわ」
「いえ、私に任せてください」
「しばらく藍と会えなくなるんだもの、思い出作りに共同作業なんて素敵じゃない」
「いやいやこれが今生の別れじゃないんですから…………」
この流れも通過儀礼のようなものだ。そして毎年のように押しきられ、たいして豪華でもない食事を二人で食べて紫様は眠りにつく。
私も紫様と一緒に台所に立つのがたまらなく好きだった。いつも行っている家事がいつもの何百倍も楽しい。一緒に作った料理は筆舌に尽くしがたい美味しさを誇る。
そんな楽しい行事を前に暗い気持ちでいてはいけない。その内気分も晴れていくだろうことを期待して、私は材料を用意するために立ち上がった。
「はぁ、わかりました。とりあえず材料を確認してきますね」
「あ、ちょっと待って」
紫様が珍しく焦ったように私を引き留める。何事かと振り向くと、紫様がゆっくりと自分の膝元に手を拱いているではないか。しかも少し頬がつり上がっている。
「ど、どうしたのですか?」
若干の恐怖を感じて恐る恐る近づいていき、紫様と一メートルもない地点に私は腰を下ろした。私の経験則でいうと、こういうときは折檻をされるときが多い。最近も何回かあったし、幼少の頃などしょっちゅうあった。でも折檻をされるときは私の身を案じての事が多かったし、最近私は何か危ないことをしただろうかと自身の行動を振り返ってみる。しかし特には思い当たらなかった。
「もう少し寄って」
「は、はい」
紫様が自分の膝と十センチも離れていないところをポンポンと叩き、私に座れと言ってくる。
もう紫様は目と鼻の先だ。こんなに近くで、しかも真っ正面から向かい合ったのも久しぶりだった。何時見ても紫様の美貌は素晴らしい。前よりもさらに磨きがかかっているのではないか。
「わっプッ!」
いきなり紫様の手が飛びかかってきたと思った瞬間、私の視界は黒に塗りつぶされていた。
「んんんんん! んっんんんんん!」
紫様! 一体何を! と叫んでみるも顔全体に柔らかい何かが押し付けられていて喋ることすらままならない。だんだん息が苦しくなってくる。後頭部に腕と思しきものの感触があり、それが私の頭をガッチリとホールドしているのだ。
「ぷはっ! ゆ、ゆゆゆゆゆゆゆゆ紫様ぁ?!」
腕を振り回した末どうにかして拘束から逃れたものの、紫様は私の頭を抱えることをやめなかった。
さらに視界がぐるりと回転し、いつのまにか横向きになっていた。顔の横半分に弾力のある肌触りを感じる。特徴のある紫色が目に飛び込んできて、私は今紫様に膝枕をされているのだと気がついた。
「ごめんなさい、やっぱり無理だったわ」
私が何を言うよりも早く紫様が私に語りかけてきた。
「貴女が私に認めてもらいたくて頑張ってるのを見て、私もそろそろ子供扱いをするのは控えめにしようと思ってたの。
私の出した課題をあなたがクリアしたとき、あなたを私の式であると同時に一人の大妖怪として見てあげることに決めたわ。だってそうしないと藍に失礼だものね」
「紫様…………」
「そんな前の事……って思ってるでしょうけど、私の中であの日は一、二番目に大切な思い出なのよ。だって私が育ててきた子がこんなに立派に成長したんですもの、喜ばない親はいませんわ」
あの日のように、優しく私の頭を撫でる紫様。その表情はとても満足げだ。
「でもね、時々貴女をこうして甘やかしてみたくなるときがあるの。だからもう我慢できなくなっちゃった。自分で決めたことを貫き通せないなんてほんとお馬鹿よね、私も」
「そんなことありません! 紫様はとても立派な方で、私の尊敬する大事なご主人様です」
自虐を始める紫様を私は慰める。こうしてされるがままになっている私が言うのもおかしいが、今みたいに紫様が悲しそうな顔をされるのが何より辛かったから、堪えきれなかった。
「……ありがと。でもね、貴女もいけないのよ、藍。甘えたいなら甘えたいで素直にならないとどうすることもできないじゃないの」
「っ……」
紫様にはどうやらお見通しだったようだ。やはり紫様には敵わない。昔から紫様だけには隠し事をすることはできなかった。前よりも秘め事は巧くなったとは思っていたが、まだまだ甘かったみたいだ。
私一人で寂しがって強がって、そんな私を気遣ってくれる紫様を見て勝手にイライラして、これでは橙の方が私より立派ではないのか。
「……紫様」
「なあに、藍」
小さく呟いたような私の声を紫様はしっかりと聞き届けてくれた。私は安心して鼻孔から肺にまで行き渡る心地よい香りを全身で味わい、睡眠時の枕よりも格段に優しい膝のクッションを堪能する。
紫様の、夜に子供を寝かしつけるために読み聞かせをする母親のような声色を聞いて穏やかな気持ちになり、幼子みたいに頬を緩めてしまう。
「もう少しだけ、このままでもよろしいでしょうか」
カッコがつかないとわかりながらも、この一時を簡単に手放したくない。やっぱり私は紫様の子なのだなとしみじみと感じた。
「……ふふっ、よろしくってよ。何時でも甘えたくなったらいらっしゃいな」
「紫様の方こそ遠慮なさらずに、言ってくださればいつでも甘えますよ」
「…………減らず口は一人前になったわね。でも結局藍が甘えたいだけじゃない」
「…………」
私はなにも言わなかった。紫様もそれ以上言わなかった。言葉はなくとも、心が繋がっている気がしている。紫様の愛情が、私の心を満たしてくれている。
その後、橙がやって来てそれを皮切りに夕食の支度を始めるまで、私たちは二人っきりの時間を過ごしたのだった。
これからもなんとか頑張れそうな気がする。
卒業式では子どもより親の方が泣くことが多いものです。子どもの成長とは未熟な部分を削ぎ落とし変化の年輪を刻むこと。ならば本人と周囲からすればそれは、その子と緩やかな出会いと別れを続けているようなものなのでしょう。