その日まで、稗田阿弥は猫を一匹飼っていました。
猫の名前はミケ。三毛猫だからミケです。命名のよしが安直なのは、阿弥のそういった感性がなまくら刀のように鈍かったゆえであります。
されど猫には瑣末事。自分の名前がどうであろうと、なにも変わるまい――と、まったく歯牙にもかけませんでした。
そんなことより、ミケにとっては阿弥と過ごす時間だけがただ大切だったのです。
一人と一匹は、毎日、ずっとずっと一緒にいました。
朝、ミケは阿弥の腕のなかで目を覚まします。三食すべてをともの部屋で取り、閑暇の時間ももっぱら一緒です。
外出の多くない阿弥は、部屋に篭りとおしでした。文机に向かって、編纂にと筆を持つか、時間つぶしに手垢のついた書物をめくるのです。
そのあいだも、ミケはずっと彼女に寄り添っていました。甘えたいときは膝の上に乗り、愛撫を促します。
すると、相手は邪険にすることもなく、笑みながら喉もとを優しく撫でるのです。お腹の毛を梳くように指でなぞるのです。
ごろごろ。
ミケは目をつぶり、喉を鳴らします。それは幸せを噛みしめている音でした。
撫でるのをやめれば、三毛猫は不服そうに阿弥を見あげ、彼女には聞こえない鳴き声をあげます。
すると阿弥はいっそう笑みを深めて、撫で続けてくれるのです。
ごろごろ。
ミケには人間のつくった抽象概念がよく分かりません。恋や友情がその最たる例です。
しかし、一つだけしっかと理解できるものがありました。
それは、『幸せ』でした。
主人に撫でてもらえる時間は、紛れもなく幸せだったのです。
加えて、ミケにはもう一つの幸せがありました。
部屋のすみに鎮座している大型な機械。一見すると近寄りがたい不気味なもの。
一番の特徴は、金色でアサガオの蕾のようなものがにょっきり生えていることです。
阿弥はこう言いました。
――これは、蓄音機というものです。
ミケは最初、この機械に近づけませんでした
なにせ、全体は自分の体よりも大きく、金色の蕾は周りのものを吸い込むかのように咲いているのです。
猫の耳と尻尾は、常にぴんと立っていました。
だけど凝り固まった警戒心が解けたのはすぐのこと。契機は突然訪れました。
阿弥が蓄音器になにかしらの操作をすると――それは、古けた恋歌を奏し始めたのです。
にわかの曲は停滞していた部屋の空気をゆるりと振るわせ、少しだけ居心地の悪さを感じました。
しかし、空気と曲の調子が同調してくると、ミケの感じ方も変わってきました。
とろとろと尾を引く緩慢な曲調。温めた牛乳のようにどこか安らかな甘さを感じさせるのです。
それは、優しく撫でるみたいにミケの毛の先を滑っていき、耳に入った音楽は、全身の血潮をしずしずと湧き立たせます。
むず痒い気持ちになりました。だけど、全然嫌とは思いませんでした。
体は弛緩し切って、ともすればとろけてしまい畳の目に染み渡ってしまいそうなほど力が抜けて――。
聴いているうちに、だんだんとミケの心にある感情が湧いてきました。だしぬけにはその感情の名前が分かりませんでした。
だけど、まどろむような頭で曖昧に思ったのです。
幸せだなあ……。
ミケはその日以来、蓄音器が大好きになりました。
阿弥とミケが過ごす日々は本当になんでもないものでした。
もしその日々を画布にして色を塗るなら、淡色だらけで描かれる味気ない作品に仕上がるでしょう。額縁に入れて公衆の面前に飾れば笑われてしまうような作品。
それでも、ミケはそんな作品を愛していました。
大好きな主人と四六時中一緒にいて、甘えたいときは撫でてもらい、蓄音機から流れる恋歌を聞く。
いつも笑んでくれる阿弥さえいてくれれば、ミケはつれづれな日々も愛せたのです。
ミケは人間のつくった『幸せ』以外の抽象概念がよく分かりません。
だけど、薄ぼんやりと想像できることがありました。
それは、『永遠』でした。
この日々がずっと続いてほしい。続いてつづいて、世界の時間軸から外れて、終わりを迎えなければいい――。
永遠という概念は、今自分が願っているものなんだろうな、とミケは考えていました。
だけど、ぼくも馬鹿じゃないんだ――ミケは悲しそうに胸中で呟きます。
それが無理なことぐらい知ってるんだ。
生けるものは総じて寿命がある。神様が引いた線があって、それを超えると生物は二度と目覚めぬ眠りにつく。
それにね、とミケはつけ足します。ご主人は阿礼乙女で、人一倍寿命が短いのだ。
残酷だといつも思っていました。
だから、毎日毎日を心より愛しました。阿弥から離れまいと日がな一日そばにいました。
死が、怖かった。もう膝の上で頭を撫でてもらえなくなるのが、隣で恋歌が聞けなくなるのが、たまらなく怖かったのです。
ミケは祈りました。生物に寿命という線を引いた神様に祈りました。
どうか。
どうか、神様。
ぼくに、永遠を――。
幻想郷縁起を編纂しおえた次の日のことでした。阿弥が小刀を自分の喉もとに突き立てたのは――
終わらない猫の歌 ~Loved Loving Love Song~
◆ ◆ ◆
「おはよう。なんだか久しぶりね。元気?」
「にゃー」
妹紅は心底後悔した。なぜ誰かも確かめずに戸を開けてしまったのだろう――。
省みている彼女は髪を梳かしている真っ最中であった。
戸の前には、輝夜がいる。首に巻かれた黄緑色のマフラーが冬の朝の風に揺れていた。
「なんか用か?」
輝夜は笑顔でうなずいた。にゃんという合いの手が入る。
――だろうな。
妹紅は玄関を開けて、彼女と対面したときから話があるのは分かっていた。
なぜなら、輝夜がそれを抱きかかえているからである。
一匹の猫を。
その猫は、体を白と黒と橙で染めていた。つまり、三毛猫だった。土埃でところどころが汚れており、首輪がついていなかった。
輝夜は脇の下に手を入れて持っていた。それが不満なのか、三毛猫は妹紅を不機嫌面で睨んでいた。
不満は、私にじゃなくて輝夜に言ってくれよ――妹紅は呆れ顔で猫を見つめ返した。
「この子ね、さっき拾ったの。迷いの竹林で迷子になっていてね」
拾われちゃったよ、と不平を言いたそうな顔の猫である。
「でね、可哀想だから飼いたいなって思ったの」
「……勝手にしてくれ」
「えっ、いいの?」
「いや、私が判断することじゃないだろ。永遠亭に帰って、永琳に訊けよ」
すると、輝夜は不思議そうに首をひねった。
「なんで? 私はあなたの家で飼おうとしているのに」
「はあっ!?」
妹紅が頓狂な声を出すと、三毛猫はきょとんと目を丸くした。
「なんで私の家なんだよ!」
「だってさぁ」と輝夜は駄々っ子のように唇をとがらす。
「ウサギたちと猫って相性悪そうじゃない。ケンカとかしちゃったらどうするの」
「知らん。てゐに上手く仕切ってもらえよ」
「それに、うちに永琳がいるじゃない」
だからどうしたと言外で訴えると、「分かってないわね」と呆れられた。
「にゃにゃー」と猫が鳴いた。
「永琳はきっとこの子がいいモルモットに見えてしまうわ」
「ないだろ」
「誇張じゃないの。実際、永遠亭の妖怪ウサギが永琳の実験台にされそうになったんだから。そのときはてゐがレジスタンスを企てちゃって大変だったのよ」
あの女医、そんなに危ないのか。
妹紅は永琳の認識をあらためた。
「ねえ、ダメ?」
輝夜は心配そうな顔で見てくる。親にペットをねだるような純真さが瞳にはやどっていた。
妹紅は腕を組み、眉間にしわを刻んで目をつむる。
三回うなってから、片目を開けて猫を見て、お前はどうされたいんだと胸中で問いかけた。
脇の下が痛いんでとにかくおろしてほしいです、という顔だった。
たっぷり黙考してから言った。
「――分かった」
組んでいた腕を解く。「飼うよ」
輝夜がうれしそうに破顔して、三毛猫に頬ずりをした。困ったように「にゃん」と鳴いた。
「よかったわ。正直、断られると思ってた」
適当に笑ってごまかす。「まあ、なかに入れよ」と促して輝夜と猫を室内に招き入れた。
恥ずかしくて、言えなかった。
実は、前々から猫を飼ってみたかったなんて――。
一人と一匹を居間へと案内すると、輝夜はやっと三毛猫を解放した。
畳におろされた三毛猫は、鼻をすんすんと動かしながら部屋を見回している。ヒゲはぴんと立っていた。
輝夜は家主の許可も取らずにごろんと横になった。そして、猫の頭を人さし指でかくように撫で始めた。
妹紅は一つ嘆息し、茶を準備するため台所へ向かう。
ところどころ凹んだやかんに水を注ぎ、それをコンロにおく。ポケットからお札を一枚取り出してやかんの下に入れた。ふうっと息をお札に吹きかけると、数秒してからお札は発火した。
すぐ後ろの居間から「にゃにゃ」という高い声が聞こえた。猫のものではない。輝夜のものだ。
にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ。
しばらく輝夜の鳴き声が続いた。やかんを見つめたままの妹紅は、頭をかきながら「おい」と声をかける。
「猫にあんまり構うなよ。人間も猫もうるさいのは嫌いだろ」
「あら、人間も猫も会話は大事じゃない」
「へえ、お前は猫語を解するのか。じゃあ、そいつは今なんて言ってるんだ?」
「ふむふむ……、なるほど! お茶と一緒に大福も持ってきて、だそうよ」
ふっふっとやかんが白い湯気を吹き始めた。お札も燃えつきて、火が消える。
急須と湯のみ二つ、それといただきものの大福も二つ乗ったお盆を持って、居間へ向かった。まず目に入ったのは、寝ている三毛猫のお腹をわしゃわしゃと撫で回す輝夜の姿だった。
お盆をちゃぶ台におきながら、問う。
「……猫の腹を強く撫でるのもコミュニケーションなのか?」
「ボディランゲージも大切よ」
頭をもたげた三毛猫と目が合う。助けてください、と今にも沈痛な声で訴えてきそうな顔だった。
湯のみにお茶を注ぐと、輝夜は手を止め四つん這いでちゃぶ台に寄ってきた。三毛猫は起きあがり、輝夜から逃げるように部屋のすみへ行った。
「何度も言うけど、あんまり構うなよ。引っかかれても知らないぞ」
「そしたら撫で返すまでよ」
「引っかき返されるぞ」
お盆の上の大福を見つけると、彼女の目はきらきらと輝き始めた。
妹紅は少し苦いお茶をすすり、大福をかじる。
輝夜も大福に手を伸ばす。
「大福をねだったのは、猫じゃないのか?」
「私に譲るってさっき言ってたの」
三毛猫は大福などにまったく興味を示すことなく毛づくろいを始めた。
「さっき調べたんだけどね」
輝夜が大福をほお張りながら言った。「あの子、オスだったわ」
「へえ」
「へえ、じゃないわよ。すごいじゃない」
「なにが?」
信じられない、というふうに目を開く輝夜。まるで食べた大福に餡子が入っていなかったかのようだった。
「三毛猫のオスよ。数万分の一の確率でしか生まれないのよ」
「……そういえば、そんな話を聞いたことがあるな」
三毛猫に目をやる。猫は目を細めて座布団の上で寝転がっている。自分の生まれを誇っているようには見えず、やっぱり興味なさげだった。
妹紅はぼんやりとした頭で茶をすする。曖昧な思考が、緑茶の苦みで少しだけクリアになった。
すごいと言われたところで、数万分の一という概念が妹紅にはいまいち感得できなかった。滅多にない、という一言で集約されてしまう。
数万分の一といったらあれだろ? つまり……つまり……
上手いたとえも浮かばない。必死に考えたすえに思いついたのは、数万枚の白紙のくじが入った箱のなかから、たった一枚だけ色のついたくじを引き抜く確率だ、という安易なたとえだった。
頭をひねったところでよく分からない。結局、輝夜の感動は一割も理解できなかった。
素直な感想を述べると、輝夜は面白くなさそうな顔で言った。
「別に無理して理解してもらわなくてもいいわよ。まあ、ここらへんに育ちの違いが出てしまうけどね」
輝夜が大福を噛みちぎる。咀嚼する。白い粉がひらひらと舞う。
「育ちは関係ないだろ。あと、粉を畳に落とすな。掃除するのは私なんだからな」
妹紅が湯のみ口をつけていると、輝夜は三毛猫のほうを振り向いた。
「この人はうるさいわねー。ほんと、育ちが分かるわー。ねー、かぐもこー」
むせた。妹紅はあやうくお茶を吹き出すところだった。
「も、もしかして、かぐもこって猫の名前か?」
「そうよ。あなたと私の名前をもじったの」
輝夜は自信ありげに笑み、ふふんと胸を張る。「素敵でしょ」
「全然」
妹紅はぶっきらぼうに答えた。無感動な対応は、にじみ出そうになる本音を隠すためのものである。
少し照れくさかったのだ。
妹紅の輝夜への認識は昔と違っていた。確かに最初は、父親を侮辱されたのを根に持って憎悪だけを抱いていた。
しかし、長いながい年月を彼女と過ごすうちに、棘だらけだった心は徐々に丸みを帯びてきた。今では昔ほど憎いとは思っていない。むしろ友達としての関係も築き始めたくらいだ。暇なときは一緒に人里の饅頭屋を訪れたりしている。それでも、過去のできごとをすべて水に流したわけではないが……。
とにかく、ほどほどの仲よしになったため、名前をくっつけるなどの親近に変な照れを感じるのだった。
「かぐもこが不満って言うなら、あなたはなにかいい名前が思いついているの?」
「私?」
「そう」
言われてから頭を働かせてみるが、まったく浮かばない。『ネコ』という名を候補にあげたところで自分に吐きかけるようにため息をついた。
応えない妹紅を見て、輝夜はもう一度ふふんと鼻を鳴らしてから、
「じゃあ、かぐもこで決定ね」
と言い切った。
そっぽを向いて口をへの字に結んだ。釈然としないものの、反論ができない。
輝夜は最後に大福を口に放り、立ちあがった。
「私はそろそろ帰るわね。明日から毎日、今日と同じような朝の時刻に来るからね」
「勝手にしろい」
もごもごと、水に落としたら沈んでいってしまいそうな重い声で答える。
「じゃーねー、かぐもこ、妹紅」
輝夜は喜色を浮かべて出ていった。しばらくしてから玄関の開閉の音が聞こえた。
やにわに居間が静寂に抱かれる。妹紅はふつふつとくすぶる不燃焼の感情を大福で収めようと、ちゃぶ台の上を見た。
自分の皿に大福はなかった。
あるのは、大福がそこにいたという証拠の白い粉だけ。それが雪のように見えて、余計に心が冷えびえとした。
あいつが去り際に食べたのは私のものだったのか――妹紅はごろんと仰向けになった。
抑揚のない笑い声が静寂に溶ける。
顔を横に向けると、猫と目が合った。双眸はぱちくりと開かれている。猫の瞳は、新品のビー玉のように綺麗で丸かった。
妹紅は口から深いため息を吐いた。
「――お前は、どう思う?」
気がついたら言葉も吐いていた。「かぐもこっていう名前、気に入ったか?」
馬鹿みたいだな、ともう一人の自分が笑っている。
猫は両耳をぴこんと動かしてから、「にゃん」と鳴いた。
「にゃんじゃ分からないよ」
もう一人の自分が、もうやめろって、と笑いながらも諫めてくる。
猫になに言ってるんだか――
「ぼくはなんだっていいよ」
「そうかそうか、なんでもいいの……か」
妹紅は目を瞬かせた。誰だ、今の?
ここにいるのは自分と猫のみ。言ったのは自分じゃない。ならば、帰ったように見せかけて輝夜がまだこの家にいるのだろうか?
「かぐもこでもなんでも、名前はなんだっていいんだ」
また声が聞こえた。そして、今、言葉が聞こえているあいだに猫の口が動いてた。
もしかして――
思考がほろほろと散っていく。世界の輪郭がぼやけてぶれていく。
「……お前が、しゃべったのか?」
これは、現実なのか。
笑いをこらえているような声で、目の前の『三毛猫』が言った。
「人間も猫も、会話は大事だもんね」
◆ ◆ ◆
寒いさむい冬の朝のことでした。
本来、出不精の彼女が外を歩くなどは珍しいこと。しかしこの日は私事があったのです。
彼女が人里を歩いていると、ゴミ捨て場に三毛猫がいました。
三毛猫はぐたりとゴミ袋の上に身を横たえ、虚ろな目で里人の往来を眺めていました。その女性が近づいてきても、瞳をちらりと向け、すぐに正面を向きます。
このとき、三毛猫は自分の死を覚悟していたのです。もう一週間近くなにも食べていません。そして暖を取る術もない。
ただ動くことが億劫で、無性に眠たかったのです。加えて、この世界からいなくなってしまうことになんら抵抗もありませんでした。
どうせ生きていても苦しいだけ。他の猫とゴミ捨て場の腐りかけた食べものを奪い合う日々が続くだけ。なら――
三毛猫はとうとう目をつむりました。もう二度とは帰ってこれないこの眠りに身をゆだねようと思ったのです。
突然体が温かいものに包まれました。それはゴミ袋の無機物的な温度とは明らかに違っていました。
薄目を開けると、人間の女性の横顔――。どうやら自分は抱きかかえられているらしい。
もう寝かせてよ、と三毛猫は思いふたたび瞑目しました。
「どうぞ」
意識の外から声が聞こえ、次にいい匂いが鼻をくすぐりました。重いまぶたを開けると目の前には小皿に盛られたおかかご飯がありました。
ほとんど考える暇もなく、気がついたらおかかご飯を食べていました。胃袋に流し込むかのようにぱくついていたのです。
小山を成していたご飯を食べおえると、三毛猫は今さらながらあたりを見回しました。
奥には文机。机はがっしりとしていて大きい。左にはたくさんの書物を並べた本棚。右を向くと窓があって、青空を四角形に切り取っていました。視線を落とすと少々ささくれた畳が目に入りました。
そして正面には女性がいました。そこで、やっと三毛猫は自分がこの女性の部屋にいるのだと思い至ったのです。
「お口に合いましたか?」
女性は、言葉に変な抑揚をつけながら訊ねてきました。三毛猫はどうして自分がここにいるのだろうと考えていました。
「私は稗田阿弥といいます」
彼女は名乗りました。そして、「これからあなたを飼おうと思うのです」と続けたのです。その声には、まるで揺るぎない世界の摂理を告げるかのような強さがこもっていました。
三毛猫は驚きました。なぜ自分なのだろう。さっきまでゴミ捨て場で死を覚悟していた、やせ細り不衛生なぼくのどこがいいのだろう――。
阿弥は猫の心を見透かしたようにいました。
「私は、会話ができない生き物にそばにいてほしいのです。みんな、私と会話をするとき面倒くさそうな顔をするんです。なら、最初から会話が必要ない相手がほしくて」
三毛猫は彼女の主張がまったく理解できませんでした。普通、人間は意思疎通のできない猫などは疎く思うのではないか。なのに目の前の女性はそこがいいと言う。
不思議な人もいるんだな、と関心を抱いていると、
「それと」
と、阿弥は笑顔で言いました。「あなたの名前はミケです。三毛猫だからミケです」
そして頭を優しく撫でてくれました。ミケは目を細めて喉を鳴らします。
心がぽかぽかしたまま、視線を窓にやりました。
窓の外では、風に吹かれるちぎれ雲が二つ、寄り添うように青空を流れていました。
◆ ◆ ◆
空を見あげると、小さなちぎれ雲が一つ、寂しそうに青空に浮いていた。迷いの竹林から見える空はせまいな、と妹紅はしみじみ思った。
彼女は今、人里に向かっていた。猫のための餌を買いにいくためである。トイレ用の砂や爪とぎの遊具も必要かと思っていたが、猫が「それはいらない」と言ったため不要になった。
果たして、しゃべるペットと打ち合わせをしてから買い物に出かける飼い主というのは、幻想郷にどれほどいるのだろうか。
妹紅は視線を横にやり、ついさっきの会話を思い返しながら口を開いた。
「――つまり、お前は普通の猫じゃないんだな」
「そうだよ」
隣を歩く三毛猫がうなずく。そして、にょっきりと生えた竹をよけてから言った。
「ぼくは妖怪なんだ」
三毛猫から聞いた話を簡単にまとめるとこうだった。
昔はごくごく平凡な三毛猫であった。しかし、どういうわけか寿命は十年二十年経とうが訪れず、気がついたら百年ぐらいは生きていた。理由は当人にもからきし分からない。また、長い人生を生きているうちに人間の言語も操れるようになったとのこと。
どうやら自分はいつの間にか妖怪に変じていたらしい――三毛猫は少しうれしそうに言い切った。
話を聞きおわったあと、妹紅はなるほどと一言だけ言った。
氷を砕いて混ぜたように冷たい風が吹く。もうすぐ正午になるというのに気温はあがらない。手袋をしていなければ今ごろは霜焼けになっていただろう。
冬は嫌いだ、と心のなかで愚痴をもらし、首に巻いたオレンジと白のストライプのマフラーに口をうずめた。
「……なるほど、って。あんまり驚かないね。人語をしゃべるんだよ?」
三毛猫が面白くなさそうな声を出す。「珍しいでしょ?」
風に吹かれて竹が縦に揺れた。
「ほら、竹もそうだとうなずいているよ」
「そうは言ってもなぁ」
妹紅の呟きは、マフラーの内側で生温かい空気になった。
もちろん会話のできる猫が珍しくないわけではない。妹紅だって最初に猫がしゃべったときは驚き入った。
しかし、しかしだ――。妹紅は考える。
自分は千年以上生きている。三毛猫は百年生きていると言っていたが、こちらはその十倍だ。
生涯でたくさんの妖怪を見てきた。巨大なクモの妖怪や、眼球の飛び出しているグロティスクな見た目の奴など。だてに昔、退魔師を務めていないのだ。
また、ここは幻想郷である。人ならぬ妖怪が平然と闊歩する世界。げんに妹紅の知己に半獣がいるし、自分だって不老不死という凡夫とは一線を画す能力がある。あまりにも奇々怪々に満ちみちた場所なのだ。
つまり、言語を操ることを驚いてほしい猫にとっては、出会う人物も場所も悪かったのである。
そのことを傷つけないように伝えると、
「なら今度はもっと驚いてもらえるように、空も飛べるようになっておくよ」
と、少し悄然としながらもおどけるような口ぶりで三毛猫が言った。
しばらく歩いたのち、生えている竹がまばらになっていることに気がついた。迷いの竹林の終わりが近づいている証拠である。
「――――」
音が聞こえた。竹の葉をこすり合わせた音よりもかすかな音が。
妹紅は疑問に思いあたりに目をやるが、不審なところはない。
「――――なー」
また聞こえた。その音は自分の近くから聞こえていた。
もしかして――と、顔を下に向ける。
「なーなーなー」
やっぱりと妹紅はため息を吐いた。
三毛猫が歌っていた。『な』という一文字にリズムをくっつけただけの歌だった。
話しかけようか迷ったが、興味があったので訊ねてみた。
「なーななー」
「……おい」
「ん?」
猫がこちらを見あげてくる。「どうかした?」
「その歌はなんだ? 聴いたことがないけど」
リズムもお粗末なものなので、たとえ知っている歌でも気づけるかどうか分からない。
三毛猫はふっふっと楽しげな笑い声をこぼした。
「これはね、恋歌だよ」
「恋歌?」
「そう。ラブソング」
そう言うと、三毛猫は目の前の風景に楽譜が書いてあるかのように正面を向きながら「なーなな」と歌った。
その声は、美声ではないがずっと聴いていられる不思議な温度があった。
「好きな子に告白するときのために練習しているのか?」
「そんなんじゃないって。ただ――」
三毛猫ははずんだ声で言った。 「今日がラブソング日和だから」
妹紅が眉間にしわを刻んで首をかしげた。
「なんじゃそりゃ」
「なんかさ、ラブソングを口ずさみたくなる日とかない?」
「ないな」
「じゃあさ、どんなでもいいからとにかく歌を歌いたくなるときとか」
「それは……あるかも」
うれしいときなどがそうだろう。たとえば悩みが吹っ切れたとき、気持ちの高ぶりをリズムに変えて口で転がしたくなると思う。
確かに、あるかもしれない。
「でも、ラブソングが歌いたくなる日ってあるか?」
誰かへの告白が成功したときだろうか?
「あるよ。妹紅はまだ経験してないだろうけど、あるんだ」
三毛猫の言葉は自信だけでできていた。妹紅は相手の口ぶりに気圧される。
「ただの楽しいだけの歌じゃない。悲しいだけの歌でもダメ。誰かに向けられた愛がしっかと込められた恋歌――それを口ずさみたくてたまらない日があるんだ」
三毛猫は言い切った。騒いでいた竹は猫の言葉を汚さぬようにと静かになっていた。
妹紅はうなずいた。そんなことは経験したことがないが、存在しているのだろうとなぜだか信じ始めていた。
「いつか妹紅にもラブソング日和が訪れるといいね」
三毛猫は笑うように目を細め、
「なーなな」
とリズムを転がした。
妹紅はそのリズムをつかむように手を握り、ポケットへ突っ込んだ。
『人里』の対義語は『静けさ』だ、と妹紅はここを訪れるたびに思わずにはいられない。
幻想郷にとどろかそうとばかりに声を張りあげる店主、井戸端会議に心血を注ぐおばちゃんグループ、宿題の多さに愚痴をこぼしながら友達と歩く子供たち――。
老若男女のさまざまな声で人里は満ちているのだ。最後に訪れたのが一週間前だが、もちろんなにも変化はない。
妹紅はその声に窒息しそうになりながらも、猫の餌を売っている店を探す。しかし彼女はここに詳しくないため、さまよい歩き続けるしかなかった。
隣を見る。三毛猫が無言でついてくるばかりだった。
こいつに訊いたら教えてくれるだろうか? いや、無理だ。
三毛猫は人里についてから一言もしゃべっていない。おそらく変に目立つのをさけているのだろう。猫がしゃべれば人目を引くに決まっている。
しょうがないので妹紅は、ベンチにいた寸胴を飲み込んだようなお腹のおばちゃんに訊ねた。がははと笑いながら道筋を教えてくれた。そう遠くない。お礼を述べてから歩きを再開する。
実は、彼女には人里に来てから気になっていることが一つあった。
それは、屋根の上にいる猫や道のすみっこにいる猫がこちらを見るたびに「にゃー」と鳴くことだ。声に敵意は感じられない。むしろ気安さがあった。
妹紅はできるだけ歩くことのみに傾注しようとしていた。
餌を売っている店が見えてきたとき、左の書店の屋根にいた猫が鳴いた。白と黒の二色の猫。他の猫とは違った鳴き声だった。
三毛猫の足が止まる。妹紅もなんだと止まった。
白黒の猫がしばらく鳴いていた。「にゃーおにゃーお」と変に間延びした声。
その瞬間だった。三毛猫がいきなり駆け出したのは。
意表を突かれて立ちつくしていた妹紅だが、三毛猫が店と店のあいだの路地裏に消えていったのを見、にわかにはっとする。
一体なんなのだ!
頭が疑問符でうまるが、とにもかくにも走って追った。
路地裏には陰気くさい臭いが立ち込めていて、片手を広げるのが精いっぱいのせまさだった。
少し進んだところにあるポリバケツの隣――それが三毛猫が座っている位置だった。妹紅の顔を見あげている。
「――突然どうしたんだよ」
詰問するような口調で訊ねる。声にはいささかの怒りもにじんでいた。
「ごめんね」
三毛猫はさらりと謝り、続けた。「しゃべるために、人目のないところへ行きたかったんだ」
「なにを話すつもりだ? かぐもこって名前が嫌っていうことか?」
「まさか。用件は――」
そこで三毛猫はちらりと妹紅の後ろを見た。彼女もつられて見るが、人々の往来があるだけだった。
「実はね、どうやらぼくたちは誰かに尾行されているらしい」
驚いて前を見る。三毛猫は「誰だろうね」と期待するようにつけ加えた。
「誰だろうねって――えーと、なんだ、お前が気づいたのか?」
三毛猫はかぶりを振った。猫も人間のような否定のそぶりをするのだな、という場違いな発見があった。
「最後に鳴いた白黒の猫が教えてくれたんだ。彼は、ぼくたちが人里に入ったばかりのころに一度こちらの姿を見たらしい。それでさっきもう一回会った。
そしたら、どうやら最初見たときに後ろにいた人がまだいたらしいんだ」
「……たまたまじゃないか?」
「ぼくもそう思う」
三毛猫は楽しそうに言った。この状況に心を踊らしているのかもしれない。
妹紅は少し考えたが、追跡者などいないという結論を出した。
人里にはたくさんの人がいるのだ。後ろにいた人は偶然行き先が一緒で、ずっとあとをつける形になってしまっただけだろう。
「でも、もしかしたら妹紅のファンがいたのかもしれないよ」
「そんな物好きな奴はいないだろ。むしろお前のほうがファンは多いんじゃないのか。歩いているあいだ、よく猫が鳴いてたけど、どうせお前に反応していたんだろ」
三毛猫は小さく「まいっちゃうよ」と呟いた。
「長生きすると、猫たちがぼくのことを目上のように扱ってくるんだ。そんな立場は望んでないんだけどね。どんなところで会っても挨拶をしてくるんだ」
「どうせ顔も広いんだろうな」
「猫の額ほどだよ」
たぶん謙遜した言葉なのだろうが、三毛猫はどこか誇らしげだった。
妹紅はそろそろ店に行こうと思い、踵を返した。三毛猫がすぐに横に並ぶ。
「尾行のことは気にしてないみたいだけど、一応伝えておくね。どうやらその人は黒髪で和装の女性らしい」
はあと大きく息をもらした。
表通りに出ると人々の群れに混じった。あたりを見回して、もう一度ため息を吐いた。
ここにいる女性のほとんどが黒髪で和装なのだ。
なんてヒントにならない情報だろうか。
妹紅は餌を売っている店に入った。適当に見繕って会計をしているとき、追跡者の特徴を思い返した。
――輝夜も当てはまるな。
店を出て、妹紅は目的地なしに歩き出す。扉の横に置き物のように座っていた三毛猫がついてきた。
確かに輝夜と同じ特徴だがあいつのわけがないか。なんせそんなことをする理由がないし、会ったら一声かけてくるだろう。
それでも気になって顧みる。もちろん輝夜の姿はない。
自嘲めいた笑みを浮かべて前を向いた。ないない――。
寺子屋が視界に入った。妹紅はポケットに手を突っ込んだまましばし立ちつくす。
そして、かたわらの三毛猫を抱えて路傍に持っていき、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
人目を引かないように早口で手短に伝える。
「友達に会ってくる」
三毛猫はこくりとうなずき、どこかへ走っていった。挨拶をしてくれた猫と遊ぶのだろうか。
妹紅は、三色に染められた猫の尻尾を見つめてから、寺子屋へと向かった。
廊下を歩く。それは踏むたびにぎい、ぎいと引きつり泣くような音を立てた。毎回思うが気分のいいものではない。
もうお昼は過ぎているので子供たちの声はしなかった。今ごろ自宅で昼食を摂っているか、友達とどこかへくり出していることだろう。
『準備室』と書かれた戸の前で止まり、がらりと開けた。
「――すまないが、お願いするぞ」
「はいはい。お願いされるわ」
畳の上に座っている慧音は頭をさげていた。相手は面倒くさそうにうなずいている。
頭をあげた慧音と目が合った。つられてもうひとりの人物もこちらを見てくる。
全身が紅白の二色で染まった人間。腋が見える特徴的な衣服。楽園の素敵な巫女。
「――霊夢、か」
妹紅はぽつりと呟いた。霊夢は無表情でふんと鼻を鳴らした。
「ええ、いかにも霊夢よ。ご不満かしら?」
「別に。不満を持つほどお前を知らないし」
「私は不満があるわ。頭の大きなリボンがかぶってる」
「ほっとけ。こっちにはちゃんと理由があるんだよ」
「なによ」
「これを取ると羽が生える」
「私は尻尾が生えるわ」
つまらなそうに言う霊夢。そして慧音に「じゃ、解決したら伝えるわ」と一言残して、妹紅の脇を通り出ていった。退室する間際、ちらりと睨まれた。
愛想のない巫女だこと。
「あいつになにを頼んだんだよ」
妹紅は畳にあがり、苦笑いを浮かべる慧音の対面に座った。餌の入った袋をおいたとき、部屋に充満したカビくさい臭いが鼻に入ってきた。
ここは慧音の住居スペースだった。が、授業で使う色あせた資料や、持っているだけで筋力がつきそうなほどに厚い古書がところせましと積み重なっている。本と同居している、というよりは本の家に彼女が住まさてもらっている、というような有り様だった。
お茶を注がれた湯のみが妹紅の前におかれる。生温かい湯気が顔を撫でた。
「最近、人里のまわりで鳥型の妖怪が出るらしくてな。その退治を依頼したんだ」
「やめておけよ。あいつは見境なく妖怪を退治する。慧音にもお札を投げかねない」
妹紅が苦い顔で頬杖をつくと、慧音はふふっと小さく笑った。
「もしかして、永夜異変のあとの肝試しをまだ引きずっているのか?」
「そうじゃない。ただ、あいつは妖怪にも人間にも肩入れしないって聞いたからな。用心は必要ってことだ」
「心配はないさ。私は退治されるような荒事はしない」
慧音は柔和な顔でお茶をすすった。
妹紅は目の前の半獣を眺めて不思議な気持ちになった。確かにこいつは、妖怪の血が混じっているけど、荒事とは無縁だな。
寺子屋で生徒たちに教鞭を振るい、またこの人里の自治に人一倍努めて大人たちからの信頼も厚い。里を守るために野蛮な妖怪とも戦う。
英雄譚の絵本の主人公になれるような素質を兼ね備えているのだ。
すごいな、と妹紅はただただ感心するばかりだった。
慧音はそんなことはつゆ知らず、うれしそうに醤油煎餅をかじっている。お煎餅が好きとは本人の言である。
綺麗に食べおえ、お茶を一口飲んでから訊ねてきた。
「――どうだ? 人里は楽しいところだろ?」
今日の人里彷徨を思い出し、ふたたび頭が痛くなる。
「全然! ここのやかましさといったらないね。鼓膜を太鼓みたいにバチでたたかれてるみたいだった」
「しかし、いつまでも竹林でひっそりと暮らすのも寂しいだろうに。ここらで人里にも積極的に関わったらどうだ?」
「耳栓をつけてそうさせてもらうよ」
お茶を一口飲み、妹紅はお煎餅に手を伸ばした。ばりばり。
豪快にかじるがかけらは落ちないように気を払う。こう見えても昔は貴族の娘だったのだ。
「人里の歴史というのも興味深いものだぞ。知れば知るほど楽しくなる」
「やめてくれ。私は興味ない」
妹紅はずっと人里とは関わりなく生きてきた。接触を持てば交友ができる。交友を持てば『静けさ』は捨てることになる。
迷いの竹林でひっそりと生きたいと思っていたのだ。しかし約半年前の永夜異変のあと、昔からの友である慧音に「交流を大切に」と諭されたのだった。
よく考えてみれば、ひっそりとした生き方を望んでいるのに友達がいるのもおかしな話だ。
もしかしたら、賑やかさを望んでいたのかもしれない――と思ったのだが、今日の人里彷徨でその思いは打ち消した。
やはり『静けさ』は大事だ。
お煎餅を口に放り、お茶を飲み干した。
「ごちそうさま。そろそろ暇とさせてもらうよ」
「もう帰るのか?」
「ああ。今日は心配症の我が友に顔を見せようと思っただけだからね。なんせ少し音沙汰ないだけで私の家を訪ねてくるほどだからな」
「もうお前にはさし入れをやらん」
ぷいっと慧音が顔をそらした。子供たちに教鞭を振るう先生はときおり、子供のような所作をする。
「冗談だよ」
「妹紅なんて餓死してしまえばいいんだ」
「死なないけどね」
「なら懲りるまで飢えればいい」
ごめんごめんとひたすら謝って、慧音はやっと機嫌を直した。
彼女が子供たちに人気がある理由が少し分かった気がした。生徒たちは彼女にシンパシーを感じているのかもしれない。
餌を忘れずに持って、戸まで歩いていった。
「――あっ、そうだ」
慧音が出し抜けに声を出したので、妹紅は振り返った。
「どうした?」
「実は、お前にお願いがあったんだ」
「お願い?」
首をひねる。
「ああ。明日、阿求が墓参りをしにいくらしい。そのつき人を頼みたいんだ。さっき言ったとおり、妖怪が出るものだから用心棒をしてほしくてな」
私が行ければよかったんだけど――慧音は申し訳なさそうに言った。「明日は私事があるんだ」
稗田阿求。見たものを絶対に忘れない少女。九代目の阿礼の子供。
接点はない。しかしいつも世話になっている友の頼みなので、無下には断れなかった。
できるだけ渋い顔にならぬよう気をつけながら答えた。
「……いいよ。何時だ?」
時間と待ち合わせ場所を聞く。朝、人里の東口――。
うなずいて帰ろうとしたところで妹紅は質問を重ねた。
「墓参りって、誰のだ? 自分の先代のか?」
「違うんだ」
かぶりを振ると慧音は眉を八の字にした。理解が追いつかない、という顔だった。
「じゃあ、誰なんだ?」
うーんとかむーとか言葉を濁らす慧音が、
「なぜか毎年、彼女の代の命日だけ墓参りをするんだよなぁ」
と前置きするように呟いてから、言葉を続けた。
「三十四代目博麗の巫女。霊夢から見て、曾祖母にあたる人物だ」
◆ ◆ ◆
無音の世界に、閉じ込められているのです。
小刀を左手首に当てて、すっと引きました。
途端に手首に一文字の赤い筋が浮かびます。あまねく色を自分の色に染める黒色にも勝る、濃い赤でした。
痛みは、ありません。
血がこぼれ落ちました。床に広がるそれは、蟲惑的な赤い花――まるで、彼岸花のようでした。
ああ――。
声も続けて床に落ちます。しかし血と違って痕跡は残りません。
無音の世界に、閉じ込められているのです。
もっと。もっとあふれればいい。
体中の血液があふれ出せばいい。
こぼれた血は彼岸花のように咲き、ここを三途の川と錯覚してしまいそうになりました。
目を閉じます。そして、祈るのです。
目を開けたとき、本当にその川を渡れていますように――。
瞳からは透明な液体もこぼれ出しました。血の赤とも混ざらない、確立された透明さ。
泣いて泣いて、泣いて。叫びながら、泣いて。
でも、慟哭も残りません。
無音の世界に、閉じ込められているのです。
◆ ◆ ◆
清浄、高貴、高尚、高潔――。
菊を携えた阿求がやってきたのは、妹紅が両手をポケットに突っ込んだ少しあとだった。手袋をしているというのに北風は容赦なく指先を冷やしてくる。それがたまらなかったのだ。
待ち合わせ場所は人里の東口。こちらは大通りから遠いのでずいぶんと静かだ。
静けさ万歳。
「――おはようございます。朝からすみません」
折り目正しくお辞儀をする阿求。妹紅も倣うように頭をさげた。
阿求は赤いマフラーと手袋をつけていた。その赤が移ってしまったように頬も鼻の頭も赤い。今日はことさら寒いのだ。
両手で抱えるように持つのは供花の黄色い菊。ただ、首にかかった竹製の水筒が少し気になった。
「初めまして。私は稗田阿求という者です。幻想郷縁起の編纂をさせてもらっています」
「えーと、私は藤原妹紅、です。それで……」
どうしよう、と言葉が詰まる。こちらには生業がないのだ。
阿求は続けた。
「慧音さんから妹紅さんのことは常々うかがっていますよ」
「へえ、なんて?」
「根はいい人、って」
ははっと乾いた笑みしか浮かべられなかったのは、阿求が屈託なく笑っていたのも理由である。
根はいい人――ならば、根以外には悪いところがあるというわけだ。
ふんっ、どうせ私は内向的ですよ――と、妹紅は心のうちで拗ねた声をもらした。
「……じゃあ、行こうか」
「はい」
二人は並んで歩き出した。ここからお墓まで約一キロと聞いている。ずっと田んぼ道らしいのでそこまで難儀ではない。
まあ、気張らずに行くか。
妹紅はポケットに手を入れたまま欠伸をひとつした。ふわぁ、とまどろみを引きずっているような欠伸であった。
と、そのとき、不意に三毛猫のことを思い出した。
あいつには用事があると伝えて出てきたのだ。たぶん輝夜が来るだろうから存分に撫でてもらえ、と言ったら三毛猫はくしゃりと顔をゆがめた。
――輝夜はぼくにかまいすぎだ。ずっと撫でられるもんだから、体中の毛が抜け切ると思ったよ。
心底困ったという声色だったが、妹紅は他人事のように笑った。
実際他人事なのだが。いや、猫事か?
気になることは、三毛猫が輝夜の前で人語をしゃべるのかどうかぐらいだった。
まあ、なんとかなるだろう――ゆるゆるとしたスピードで田畑に囲まれたあぜ道を歩き続けた。
「――可愛いですね」
阿求がやにわに口を開いた。
妹紅は目を丸くしながら彼女を見る。こちらを見ながら笑んでいた。
なにか変なことでも言ってたかな、と急に心配になってきた。
ふふっと阿求は笑みを深めた。
「そのマフラーと手袋、柄が一緒なんですね。どちらもオレンジに白のストライプが入っている」
ああ、そのことか……。安心するとともに少し気恥ずかしくなった。
確かに妹紅のマフラーと手袋は、どちらもオレンジの生地に白のストライプが入っていた。
「買ったんですか?」
「いや、違うんだが……」
阿求が驚いた顔をする。
「じゃあ、自分で編んだのですか?」
「自分でもないんだ」
妹紅の頬は寒さ以外の理由で赤くなった。
て、照れくさい。
「そ、そんなことより」と上ずった声で言った。
「お前の――失礼、阿求、さんのマフラーと手袋はどうなんだ?」
「これですか? 手製ですよ」
それから、呼び捨てでかまいません――彼女はおかしそうにつけ加えた。
赤い、マフラーと手袋。どちらも綺麗に編まれていてほつれなどまったくない。買ったと言われても信じただろう。
「上手だな」と素直な感想を述べると、両手を腰にあてがい、胸を張った。
「でしょう? 実は料理も得意なんですよ」
どうだと言わんばかりの誇らしげな顔。「十八番は卵焼きです!」
「いいじゃないか。結婚したら旦那さんが喜ぶぞ」
「もっと褒めてください」
「よっ、幻想郷一の良妻!」
えへへと顔をほころばす阿求。まるでいたいけな少女だった。
妹紅はつられて笑い――それから少し寂しくなった。
昨日、慧音から阿礼乙女がどんなものなのかを簡単に聞いた。
見聞きしたものを忘れない。転生して約百年に一度産まれてくる。
そして――三十歳までは生きられない。
この少女には、常人とは違って叶えられない夢がいっぱいあるんじゃないか。
急ぐことなく誰かと恋をして結婚したり、産まれた子供の将来をずっと見守ったり――。自分の子供の結婚式を見たことなど一度もないに違いない。
できることなら蓬莱人の寿命を分けてあげたい。心ゆくまで人生を歩んでほしい。
なんだか、寂しくなった。
「妻といえば、妹紅さんはどんな人と結婚したいですか?」
阿求は笑いながら問いかけた。
突飛な質問に当惑する。そうだなあ、と考えてみるが浮かばなかった。
「阿求は、どんな人がいいんだ?」
ぴりっと心に鋭い痛みが一瞬走った。
相手は笑顔を絶やさずに答えた。
「そうですね……。私は、どんな人というより、結婚するなら慧音さんがいいですね」
「なにっ!?」
頓狂な声を出す。三毛猫がしゃべったとき並みの驚きだった。
確かに慧音は人格者だと思う。しかし、それと同じくらい堅苦しい奴でもあるのだ。
「やめておけ。あいつはお節介だし、融通は利かないし、説教は大好きだし」
それでもいいのです――阿求はさらりと言った。
「あの人だけは、まわりの人と同じように私を扱ってくれるんです」
彼女はうれしそうな顔をして、寂しそうな声で言った。
なにも答えられなかった。頭にはいろんな言葉が浮かぶのに、喉まで行くと途端に消えてしまうのだ。
たっぷりと時間が空いてから、阿求は楽しそうに続けた。
「でも、慧音さんと結婚したらすごいですよね。同性婚なんて、阿礼乙女九代目にして初めてでしょうに」
さんざん考えた結果、妹紅は相手に合わせることにした。それしかできないと思ったのだ。
「確かにな」
「面白そうですよね」
「むしろ、慧音のために、器用なお前が伴侶になってやったほうがいい」
きょとんとした顔で、どういうことだと言葉に出さずに訊いてくる。
おどけた口調で言った。
「誰か片づける人がいなければ、あの家は本でうもれてしまうだろう」
阿求はしばらくの無言ののち、ぷっと吹き出した。
「間違いないですね。そのうち、慧音さんは本に家を追い出されちゃいますよ」
二人の笑い声は、澄んだ声によく馴染んだ。
そのあともどうでもいい話をしながら歩いた。初対面なのに気まずい空気など微塵も感じなかった。
だけど――。
妹紅の心には、ときおり鋭く痛む傷が刻まれたままだった。
道のりの半分ぐらい過ぎたあたりで、阿求の呼吸が乱れ始めた。
大丈夫かと訊くと、大丈夫ですと答えるものの、息が切れていた。
――阿求は体が弱いんだ。
慧音の言葉を思い出す。ちょうど人が座れるような石があったので、そこに腰かけて休憩することにした。
ほうっと一息ついていると、「どうぞ」とお茶の注がれた水筒の蓋を渡された。湯気がかすかに出ている。
礼を述べてから、飲み干す。ほのかに温かいお茶が体のすみずみまで沁みるようだった。
「ごちそうさま」
ふたを返す。そこで、今まで続いていた会話が切れた。
静かな時間がただように過ぎる。悪くはないが、少々気まずかった。
風が吹き、今朝に梳かした妹紅の髪を撫でた。
「――今日は、つき合っていただき、本当にありがとうございます」
横を見ると、阿求が頭をさげていた。慌てて手を振る。
「や、やめてくれよ。そんな感謝されるようなことはしてないって」
毎日が暇だしね――茶化すように言った。
さげていた頭をあげた阿求は、それでも真剣な顔をしていた。
褒められるのに慣れていない妹紅はしどろもどろになっていた。
「そ、それに、ほら、最近妖怪が出るみたいだし」
「それでも――」
ここで違和感を感じた。阿求は苦しそうな顔をしている。
「私は、きっと一人で来るべきだったのでしょう」
阿求がすっくと立ちあがった。無理やりつくった笑顔を浮かべている。
「さあ、そろそろ行きましょう」
なにも言う前から歩き出す。妹紅は釈然としないものを感じながらも隣に並んだ。
右側に大きな森が見えた。鬱蒼と茂っていて昼前だというのに暗く、光など届いていない。
誰もが、この大きな森を心に持っているのだろうと思った。
「妹紅さんは――」
視線を阿求に移す。正面を向いている横顔が目に入った。
瞳が、あの大きな森のように黒かった。
「妹紅さんは、菊の花言葉をご存知ですか?」
彼女が胸に携えた供花へ目をやった。くらむほどに黄色い菊。
黒い瞳。赤いマフラー。黄色い菊。
妹紅は大きく息を吸った。
「清浄、高貴、高尚、高潔、だろう?」
「……博識なのですね」
「そんなじゃないよ。ただ――」
花言葉を調べるのが好きだったんだ――気恥ずかしくて、続けようとした言葉を飲み込んだ。
昔は花言葉の載っている本を片っぱなしから読みあさっていた。なにに惹かれたのか、今じゃ思い出せない。
「私は、花言葉が嫌いなんです」
あたりの空気が凍ってしまいそうなほど冷えた声だった。
「そうなのか」と短く返事をしてから、妹紅は息を吐く。
「可哀そうじゃありませんか。ただでさえ自由の利かない花々に、なおも人間は肩書きじみた言葉を与えるんです。まるで生き方を強要しているみたいに」
視界の先に小さく墓場が見えた。
阿求は大きくない口を精いっぱい広げて、主張した。姿のないものに訴えていた。
「花は制約にがんじがらめにされているんです。生まれてくる時期も決められ、咲ける時期も決められ、散る時期も決められている。
可哀そうじゃありませんか。もしかしたら、桜だって雪に染まった白銀の世界を見たいかもしれない。向日葵だって鈴虫の鳴く十五夜の満月を見たいのかもしれない」
もっと、自由になりたいのです――阿求は言った。悲しくなるような言葉だった。
阿礼乙女。
彼女の立場をあらためて考える。でも、想像できないことだらけで、どうしても単純な一言で感想が集約されてしまう。
なんて、可哀そうなのだろう。
陳腐だな、と妹紅は深いため息を吐いた。空気が白くけぶるばかりでなにも変わりはしなかった。
「――またあんたに会うとはね」
阿求のものではない突然の声にぎょっとする。あたりを見て、目的地の墓場に到着していたことを知った。
前を向き――妹紅は呆れた顔をした。
「お前はどこにもいるんだな。なんだ、博麗の巫女は何人もいるものなのか」
「そしたら私はずっと家にいれるわね」と、霊夢は冗談なのか本気なのか分からない声で言った。
阿求がいつの間にか、愛想のいい笑顔を浮かべている。
「お久しぶりですね」
「ええ、そうね。あなた、今年も来たの?」
阿求は眉をくもらせた。菊の花束を持つ手に力が入る。
その不愛想な物言いで気分を害したのだと思い、妹紅は口をはさんだ。
「そういうお前はなんでここにいるんだよ」
「私? そりゃご先祖の墓参りに決まっているでしょう」
妹紅は霊夢の後ろにある墓石を見渡す。
ここは博麗の巫女の系譜が収められている墓場らしい。慧音が言っていた。確かに見るかぎり、墓石がすべて上等なものに感じる。
「つまり、お前は毎年、先祖の命日になったらそいつの墓参りに来ているのか?」
「そうよ。そういう決まりだからね。阿求も歴代の阿礼乙女の命日には墓参りをしてるわよね?」
「はい」
小さな声で阿求が答える。
妹紅は、それはどんな気持ちなのだろう、と考えてみたが皆目分からなかった
水桶を持ったまま、霊夢がうーんと伸びをする。
「じゃ、私はこのあともやることがあるから帰るわね。――妹紅」
「なんだよ」
「阿求を襲うじゃないわよ」
「襲うわけないだろ!」
「それと、阿求」
霊夢が睨むように阿求を見た。
阿求は苦笑いを浮かべているのに、どうしてか泣きそうな顔に見えた。
ふうっとため息を吐いてから霊夢が言った。
「もう、許してあげてもいいんじゃない?」
その言葉の意味は分からなかったが、阿求はなにも答えなかった。
「じゃあね」
霊夢はすうっと飛んで、どこかへ向かっていった。そういえば、彼女が昨日妖怪退治を依頼されていたのを思い出した。
飛んでいく霊夢が小さくなるまでそちらを見ていた。晴天によく映える飛行姿である。
「――行きましょう」
今まで黙っていた阿求が口を開いた。すたすたと歩くその後ろに続く。
しばらくついていくと、ある墓石の前で彼女が足を止めた。
『三十四代目博麗の巫女』
仰々しい字体で刻まれている。なるほど、ここがお目当ての場所か。霊夢が掃除したらしく、他と比べて綺麗だった。
阿求は花瓶に自分の菊をさした。しゃがんで目をつぶりながら手を合わせている。
やることのない妹紅はただ墓石を見つめていた。今なにかを言っても、その声はすべてこの石に吸い込まれてしまうような気がした。
なぜ、阿求がこの代の博麗の巫女の墓参りにだけ毎年行くのか――慧音は教えてくれなかった。
とても苦々しい顔で言葉を濁すだけだった。
昨日はそこまで気にならなかったのだが、花瓶にある阿求の持ってきた菊を見ていると、無性に知りたくなった。
阿求が立ちあがる。そして妹紅の顔を見た。
おたがい押し黙っていた。
物言わぬ死者が眠る場で、生者までもが口をつぐめば、ここが無音の世界になるのは道理だった。
妹紅の胸中を読み取ったような顔で阿求が笑った。
「私は前世のことをすべて覚えているわけじゃないんです。基本は幻想郷縁起に関わることだけ。
でも、先代の阿弥については例外的に覚えていることがいくつかあるのです」
誰かと頼んだお願い事なんてものも覚えています――阿求は笑みを薄めた。
代わりに悲しそうな顔をした。
「この人のことは絶対に忘れません。忘れることができないのです」
それが私にできる唯一の罪滅ぼしです――。
風が吹く。ごうごうと音が鳴る。
なんの音だ。
そうか。
これは。
これは、死者の声だ。
死者がむせび泣いているのだ。
生者は今、死者の世界に、閉じ込められているのだ。
「三十四代目の博麗の巫女は、前世の私が殺したのです」
◆ ◆ ◆
蓄音機が恋の歌を垂れ流していました。
ミケは阿弥の膝の上で目をつぶって聴き入っています。しかし、歌にまぎれて誰かが廊下を歩いている音が聞こえてきました。
ぎい、ぎい――。
阿弥の部屋の前で足音は止まりました。
ミケは見あげて阿弥の顔を仰ぎました。彼女もまた、目を閉じています。
にゃー。
歌の調子のあいだに沁みさせるように鳴きました。無意味だと知りながらも、にゃーともう一度。
次にお饅頭大の頭を主人の胸にすりつけます。そこでやっと彼女は目を開けました。
曲を聴いているときはいつもこうでした。阿弥はずっと瞠目してあらゆることに鈍感になるのです。
別に寝ているから聞こえない、ということではないので不満の気持ちはありませんが、ときおりどうしようもなく悲しい気持ちになりました。
蓄音機の流す旋律がどうしようもなく苦しいときがあるのです。
なのに、ミケのそんな気持ちはおかまいなしに阿弥は柔らかく笑いかけてくるのです。外で照っている太陽より温かい笑顔で。
泣きたいという気持ちはこういうことなのだろう――ミケは猫ながら思いました。
部屋の戸が軽くたたかれます。「失礼します」という声とともに、続けて戸がすうと開きました。
ミケがそちらに目をやります。つられて阿弥が顔を向けます。
紅白の巫女服で身をおおった女性が立っていました。頭に結ばれた大きなりぼんが特徴的でした。
「――もうそんな時間でしたか」
呟き、阿弥が慌てて立ちあがりました。ミケはしぶしぶといった様子で彼女の膝の上からおります。
「すみません」
巫女服の女性は柔和な笑顔をくずさず、ゆるゆるとかぶりを振りました。頭のりぼんが合わせて揺れて、なんだか特大の蝶が羽ばたいているみたいだ、とミケは思いました。
阿弥が蓄音機を止めました。空気は震えるのをやめて寂々と静まります。
ぽかぽかと暖かった部屋が途端に冷えびえしたように感じられました。
「留守番をしていてくださいね」
ミケに言い聞かせ、阿弥は巫女服の女性と並びました。そして、二人は廊下を歩いていきました。
ぎい、ぎい――。
つまんないな。
部屋に残された猫はふて寝をしようと目を閉じました。
ミケは知りませんでした。
巫女服の女性が、博麗の巫女と呼ばれる大それた人物であることを。
ミケは知りませんでした。
彼女たちが、どこへ行き、なにをするのかを。
ミケは知るよしもありませんでした。
その日の夕方、血まみれで虫の息の阿弥と、同じく血まみれで絶命した博麗の巫女が、森の奥で見つかることを。
◆ ◆ ◆
人々がとうに昼餉を終えているような時刻、妹紅は迷いの竹林を歩いて自分の家に向かっていた。
正午前に帰ることはできた。しかし当の本人が帰路につかなかったのだ。
小さくお腹が鳴る。
私はなにをしていたんだと妹紅はため息を吐いた。
墓参りの帰り、妹紅と阿求は一言も口を利かなかった。妹紅は墓石を飲み込んだように重たい気持ちで足を動かしていた。
――三十四代目の博麗の巫女は、私が殺したのです。
その真意は結局訊けずじまいだった。踏み込んでいいのかだめなのか、妹紅は線引きが引けなかったのだ。
人里に到着すると、阿求は「ありがとうございました」と深々とお辞儀をした。
曖昧に返事をすることしかできなかった。
彼女と別れたあと、妹紅は人里に入っていった。昨日、あれほど嫌がった大通りに向かっていた。
たぶん、生者の活発な声を耳に流し込みたかったのだろう、と自分を顧みる。
もう墓場には行きたくない。
騒音の濁流に呑まれながらもあてどなく歩き続けた。呆然とさまよった。
そのくせ、昼すぎまでぶらついたのに団子のひとつも食べなかったのだから、我ながら馬鹿なことをしたと思う。
空っぽの胃袋のままで人里を気が済むまで歩いた妹紅は、やっと帰路についたのだった。
そして、現在に至る。
ふたたびお腹が鳴る。北風が頬を撫でる。
二度目のため息を吐いた。と、ほぼ同時にはたと足を止めた。
開けた場所にいた。なかなかに広いここには竹が全然生えていない。
妹紅は渋面をつくった。
ここは、昔輝夜と殺し合いをしていた場所である。無意識のうちに辿りついていたとは――。
そこで今日の墓場のことを思い出した。
永遠の眠りにつかない蓬莱人は、絶対に墓石の下に収められることはない。つまり、蓬莱人の墓というのは存在しないのである。
ただ――。
ぐるりと見回す。ここで自分は幾度なく死んだ。輝夜もたくさん死んだ。
ならば少々不足はあるものの、ここは――この空間は、蓬莱人の墓場と呼んでもいいのではないか。
そう思うと妹紅はぞくりとした。自分と輝夜の亡霊がどこかで笑っているような気がしたのだ
ふるふると頭を横に振って、早く帰ってご飯を食べようと一歩踏み出した。
「――道惑いか?」
が、足を止めて妹紅は出し抜けに訊ねた。三度目のため息を前置きに、体ごと振り返った。
ちょうど妖怪がおもむろに地面におり立っていた。鳥のような羽をシンメトリーに広げている。
夜雀に似ていた。しかし決定的に違うのは羽がカラスのそれのように真っ黒であること。
着地すると、羽を畳みながら妖怪はにこりと笑った。
短髪の黒髪が風にたゆたっている。
「――こんにちは」
「ああ」
ぶっきらぼうに答える。お腹が減ってしょうがないのだ。
「別に迷子になったわけじゃないわ」
だろうね。
迷いの竹林は確かに迷いやすいが、竹より高く飛べば簡単に脱出できるのだ。こいつはさっき飛んでいたからそれができるはずだ。
「じゃあ、私になにか用か?」
「……そうね。そういうことになるわね」
鳥妖怪はうなずく。妹紅は相手の長い爪にちらりと目をやった。
「なら早く用件を済ましてくれ。私はこれから家に帰って昼ご飯を食べたいんだ」
「ええ。さっさと終わらせるつもりよ」
鳥妖怪は笑みをいっそう深めた。
次の瞬間――
笑顔が酷薄なものにゆがめられた。
「こちらのお昼ご飯を!」
妹紅の背後で風を切る音が聞こえた。慌てて前へ踏み出す。が、すぐに背中に鋭い痛みを感じた。
「おっしい」
「あとちょっとだったのに」
最初からいた妖怪の両脇に、奇襲を仕かけてきたあとの二匹が並ぶ。三匹とも同じ格好をしていた。
妹紅の背中には二本の赤い線。自分ではそれらは見えないが、痛みで引っかかれたことが分かった。
「やばい!」
そう言って、妹紅はまず自分のマフラーをほどき、まじまじと眺めた。
どこも切れていない。かすかにほつれてはいるが注視しなければ分からないだろう。
ふうっと安堵の息をもらす。そして外した手袋をマフラーで巻き、なるべく土がつかなそうな場所においた。
「そんなものの心配をしている場合かしら」
右側の鳥妖怪があざけるように笑っている。爪についた血を舐めて「美味しいわ」とうっとりした声を出した。
ありがとう。隠し味は蓬莱の薬だ。
妹紅はうーんと伸びをしてからポケットに手を入れた。
「なんならこちらの昼食後に襲ってくれよ。太らせてから食べるのは常套手段だろ?」
「私たちが待てないの」
「せっかちだなぁ。さっさと終わらせろよ」
「むかつくー」
左側が唇をとがらした。「人間のくせに」
蓬莱人を人間とくくれるなら、しゃべる猫も人間に区分されるかもしれない。
「ご所望どおり、手早く終わらせるつもりよ」
真ん中の奴がにやりと口の端を吊りあげ――低空飛行で突撃してきた。
速い。しかし視認できないほどじゃない。
左へ踏み出しよける。次に右側が笑いながら突っ込んでくる。身を大きくよじった。最後に左の妖怪が来た。翻りながらかわした。
そのあとも三匹はとにかく突進してきた。右から左から正面から。
なのに妹紅にはかすりもしない。上着に爪があたりそうにはなるが、すんでのところで身をよける。
行動がワンパターンすぎるのだ。いくら方々から来たって、突進だけならすぐに読めてしまう。
右上方から下降するように来る。身を低くしながら左へ。前から。体を横向きに。視界の外から。音で察し後ろへさがる。
三匹いるのだからもっと連携すればいいのに――妹紅は襲われながらも思った。
ポケットに手を入れたままステップを踏むような足取り。だんだん妖怪たちのスピードが落ちてきた。
「――はぁ、はぁ」
三匹の妖怪が息を荒くする。肩が大きく上下していた。
「なんで当たらないのよ」
「くそっ」
「ほんとむかつく」
妹紅は意地悪い笑みで応えた。
「ほら、早く私をつかまえろよ。じゃないと昼食が夕食になるぞ」
三匹の鳥妖怪は見るからに気色ばんだ。殺気をひしひしと感じる。
そこで妹紅は右手をポケットから出して、手のひらを相手に向けた。
「と、まあ、挑発しといてなんだが、少し私の話を聞いてほしい」
「……なによ。まさか今さら命乞いをするつもり?」
「まさか」
そもそも、億劫なだけで命は惜しくないのだ。
「お前らに二つだけ伝えたいことがあるんだ。のちの人生に関わることだ。聞きおわったらまた襲ってきてもかまわない」
鳥妖怪たちの顔に困惑の色がにじむ。眉をしかめて顔を見合わせていた。
「一つ目」と妹紅は人さし指を一本立てて、続けてそれで自分の右側を指した。
三匹がいっせいにそちらを見る。
「この先に池がある。あまり広くはないがお前らが同時に入ることはできるだろう」
「二つ目」と言い、今度は人さし指と親指を合わした。
呆れた笑みを浮かべながら、
「ケンカを売る相手はよく選べ」
ぱちん、と指を鳴らした。
――その瞬間、彼女たちの背中が燃え出した。火炎が猛くさかっている。
突然のことに鳥妖怪はただただ慌てた。
「な、なによこれ!」
「熱い!」
「丸焦げになるー!」
実は突進してくるときに、ポケットのなかのお札を彼女たちの背中に貼っていたのだ。
妹紅特製の札。自分の妖力を注ぎ込むことによって、こちらの合図で発火したり消火したりでき、護身用に常備している。
背中の熱に右往左往している鳥妖怪たちだが、池の存在を思い出したらしくそちらへ全速力で飛んでいった。
見えなくなるまで三匹を見送ったあと、はあっと深いため息をついた。
妹紅はマフラーのおいてあるところまで歩いた。拾いあげて胸に抱く。
「……痛い」
ひりひりとした痛みを背中から感じる。だがこちらは蓬莱人だ。再生能力が高いため、明日には傷跡も残っていないだろう。
「まったく」と一人ごちてまた家に向かい始めた。
――今日は厄日だ。
お腹が、大きく鳴った。
◆ ◆ ◆
「そういえば」
帰ろうと玄関に手をかけていた輝夜は、しかし戸を開けることなく後ろの妹紅を振り返った。
細い眉毛がにゅうとゆがめられている。
これは怒っているな。
「昨日の朝はなんでいなかったの?」
頬をふくらませてぐいっと顔を近づけてくる。妹紅はあははと乾いた声で笑って目をそらした。
「あなたの家に行ったらかぐもこしかいないし」
「ちょっと用事がね……」
「猫を可愛がるより大事な用があるの?」
そりゃあるだろ――心のなかで呟いた。
さて、問題は輝夜への適切な受け答えだ。
こういうときの対応は、謝罪――ではない。こいつに限っては謝るなどして下手に出てはいけないのだ。もし頭でもさげれば彼女はこのことをダシにさまざまな要求を求めてくるだろう。
数百年のつき合いだ、そのぐらいは分かっている。
「そ、そもそも、なんでお前はそんなに怒ってんだよ」
すばやく息継ぎをして、相手が答える前に続けた。
「お前の目当ては猫じゃないか。永遠亭では飼えないせいで私の家で飼ってるだけで、つまり猫に会おうとしたら私に会っちゃうのは不可抗力で、本来目的じゃないんだろ。なら私に会えないからといって怒るのはおかしいだろ」
我ながら上手く切り返したと妹紅は自分を褒めた。
なのに――輝夜はきょとんとした顔で首をひねっている。
「なにを言ってるの?」
彼女は右にかしげていた首を次は左に倒した。「かぐもこに会うのもそうだけど、あなたに会うのも目的よ」
「……へっ?」
「あなたにも会いたいからここを訪れているの。だから昨日いなかったことを怒ってるの」
妹紅は口を半開きにして目を瞬いていた。ぱちりぱちり。
輝夜はくすりと妖艶に笑った。なんで五人に求婚されたのか――理由が分かる笑顔だった。
「数百年のつき合いだから、そのぐらい分かってると思った」
そう言ってから、「やっぱり許してあげる」と続けた。声には余裕がにじんでいた。
また言い負かせなかった。
いつもだ。つるんでから幾星霜、こいつに口で勝ったためしがないのだ。
なのに悔しく思わない自分がいる。それが少し悔しかった。
「そうそう、明日はちょっと用事があるから来れないから覚えておいて」
怒らないでね――からかう口調。ふんと妹紅はそっぽを向いた。
「じゃあね」
出ていって玄関が閉じられる。あとに残ったのは仏頂面の妹紅と、輝夜の言葉でかき乱された空気だけだった。
ふんともう一度鼻を鳴らし、踵を返す。数歩で歩きおえてしまう廊下を通って居間に戻った。
さっきまで輝夜が座っていた座布団の上に三毛猫が寝ていた。首をもたげて妹紅を見ると、
「楽しそうな話をしていたね」
と澄ました声で言った。猫に皮肉を言われる日が来るとは思わなかった。
なにも答えずに三毛猫の隣の座布団に座った。さっきも自分が座っていたところだ。
目の前の湯のみにはちょっぴり残ったお茶。ぐいっと飲み干したが、薄く淹れすぎたせいでただの色水を飲んだように味がしなかった。
「さっきのは愛の告白?」
「どこがだ」
「妹紅に会うために来てる、っていうやつだよ」
すうっと目を細めた三毛猫が問うた。
「違う。そんなじゃない。そんな関係じゃない」
「そうなの?」
猫は続けて妹紅の後ろを見た。視線を追うと、手袋とマフラーがあった。
「でも昨日輝夜が言ってたよ。五日前、私は妹紅に手袋とマフラーをあげたんだって」
ぎくりとし、次に頬が発火したように熱くなった。
その話は駄目なのだ。なのに、輝夜はこの猫が普通の猫だと思って話してしまったらしい。
なんてことだ。
「最初は妹紅があげるために編んだのだけど、そのときすでに輝夜は手袋もマフラーも手編みのものを持ってて。それを見た妹紅が悲しそうな顔をするものだから、相手のものをもらって自分のをあげた、って言ってたよ」
三毛猫は楽しそうに語っていた。性格悪いな。
だがすぐに猫は解せないといった口調になった。
「そうやって二人でプレゼントの交換なんてしちゃうんだから、やっぱり恋仲なんじゃないの?」
「だから違うって」
きっぱりと言い切る。これは決して照れ隠しから来た否定じゃなく、心からそう思えたから断言できたのだ。
しかし言ったものの、
「じゃあ、妹紅と輝夜はどういう関係なのさ?」
という問いには、言葉が詰まってしまった。
どんな関係なんだろう……。
違う、とは言えた。だけど中身を訊かれると――。
たとえるならコップのなかに入った水を指さして、これは氷じゃないと決然と言えたものの、その水の形が言い表せないのだ。
確かに存在するのだ。なのに適切な言葉が見つからない。
むーと妹紅が腕を組む。手袋とマフラーを交換し合った。わざわざ会いたいがために毎朝家を訪れる。でも恋仲とはずれている。
なんなのだ、これは。
「……どんな関係なんだろ」
「当人に分からなければ、ぼくに分かるはずないよ」
三毛猫は立ちあがり、うーんと伸びをした。ほわっと大きな欠伸を一つ。
「まあ別に、興味があるわけじゃないからなんだっていいんだけどね。それよりも――」
三毛猫が妹紅の目を見てきた。白いヒゲが琴の線のようにぴんと張られている。
「実は妹紅にお願いがあるんだ」
「お願い?」
「うん」とうなずく。妹紅は首をひねった。
「なにを――」
「とりあえず外を一緒に歩いてほしい。不躾でごめんね。
でもそこで話そうと思うんだ。ぼくが妹紅に拾われようとした目的も」
突然のことに呆気にとられるが、三毛猫はすたすたと玄関へ向かっていった。
拾われようとした? つまり、あいつが来たのは計算ずくのことだったのか?
どういうことだと訝りながら、妹紅は手袋とマフラーを引き寄せた。髪はもう梳いたから大丈夫だ。
オレンジのマフラーには三本の白いボーダー。手袋もオレンジ色で、手のひらから指先まで白のボーダーが入っている。
――あっ。
ふと、あることに気づいた。これは……。
昨日の前に人里に行ったのは一週間前。この手袋とマフラーは五日前。
ならば――。
ふうっと妹紅は息を吐き、ゆるゆると手袋をはめる。
三毛猫の目的はいまだ分からないが、ある別件はほとんど解決した。
森のなかを歩く。顔をあげても、木々に遮られて青空が少ししか視界に映らなかった。
薄暗い。そのせいでまわりの木がなにか恐ろしいものに思えてしょうがなかった。
ここは迷いの竹林の近くの森である。存在は知っていたが、妹紅が実際になかに入ったのは今日が初めてだった。
とにかく雰囲気が悪いのだ。ここを歩いていたら地獄に辿りついてしまってもおかしくない。
なのに今自分はここにいる。しかもかたわらではしゃべる猫がのん気に恋歌を口ずさんでいる。
三毛猫の軽い調子の歌は、この陰鬱な森にはひどくミスマッチだった。
「――よく平然と歌ってられるな」
「通い慣れてるからね」
三毛猫は淡々と言い、「それに今日もラブソング日和だ」とつけ加えた。
ラブソング日和――ラブソングが歌いたくなるときのこと。
一昨日も歌っていた。昨日も歌っていた。そして今日も――。
「なあ、お前がその歌を歌わなかった日ってあるのか?」
「ないだろうね」
妹紅は胡乱な目で相手を睨みつけた。三毛猫はふふんと笑って、
「だって毎日がラブソング日和だもの」
と答えた。
途端に猫のことが胡散くさくなってきた。
森の風景は変わらない。こちらの気分は落ち込むばかりであった。
「……おい」
とがった声で訊ねる。「これからどこに行くんだよ」
実は、妹紅はまだ三毛猫の目的を聞いていないのだ。
最初のとき、三毛猫は話しかけづらいオーラを放っており、まあ、ついていけば分かるだろうと思って楽観視していた。しかし、和やかに歌を口ずさみ始めるわ鬱蒼とした森に入るわ目的地にはつかないわ――妹紅の我慢も限界となった。
それに、妹紅に拾われようとした理由もまだ話していない。
これでただの散歩などとのたまったらただじゃおかないぞ――。
口の端を吊りあげ、眉間に深々としわを刻んだ。
「そうだね。そろそろ話さないといけないよね」
三毛猫は答える。はあはあと息が切れ始めていた。
「でもこの目的を話す前に、ぼくの昔話を聞いてほしい。目的を聞くのはそれからにしてほしいんだ」
百年前、ある少女に飼われていた話を――三毛猫は歌うときのような声色で言った。
木々で蓋をされて青空は見えなくなっていた。
「ぼくは輝夜に拾われる前――ずっとずっと前――ある少女に飼われていたんだ。ミケと名づけられてね。
その少女の名前は、稗田阿弥。妹紅も知ってるでしょ? 八代目阿礼乙女だよ」
「ああ」とうなずく。慧音から教えてもらった。稗田家は約百年に一度、阿礼乙女が生まれると。
もちろん人里に全然かかわっていなかった妹紅は、阿弥という人物がどんな者なのかは知らない。
「彼女は普通の人とは違っていた。だから侍女とかも嫌っていたらしい。これはまわりの環境にも恵まれなかったんだと思う。でもね――」
――ぼくは大好きだったんだよ。
照れくさそうだった。そして、悲しそうだった。
「特別なことはなにもなかった。ただ一日中一緒にいてくれた。膝の上に乗せてくれて、頭を撫でてくれて、笑いかけてくれたんだ。
きっと人間には分からないことだと思う。でもね、動物ってなにかしてくれなくたって、安心感を与えてくれるだけで満たされるんだよ」
三毛猫は目を細めた。せばまった視界に過去を見ようとしているのだろう。
理解できないことじゃない。人間だって常に刺激を求めているわけじゃないし、平々凡々な日々を抱きしめたいほど大切に感じられることがある。
毎日自分を愛してくれてる人がいれば、その人をいつの間にか愛し返しているものだ。
「それとね、実は好きなものがもう一つあったんだ」
ラブソングより軽やかな声。宝物を自慢する子供の声だった。
「それが歌なんだ。ご主人は蓄音機っていうのを持っててね。知ってる?」
「ああ。幻想郷に来る前に一度見たことがある」
「蓄音機ってさ、金色のアサガオみたいなのがついてるでしょ。最初、あれがすっごく怖くて近づけなかったなあ……」
三毛猫ははにかむように呟いた。
すうと日光が細く森のなかにさす。
「そこから流れる曲が好きでさ。なんかすごくゆっくりしたリズムなんだけど、心がふわふわして。
ご主人に飼われてるあいだはほぼ毎日聴いてたよ。その曲は、ぼくの幸せの日々の象徴なんだ」
「……お前が口ずさんでるやつか?」
少し黙ったのち、「そうだよ」と三毛猫はうなずいた。
ふたたび木に遮られて日光が届かなくなった。
「ぼくはご主人のことが本当に好きだったんだ。淡い毎日がずっと続いてほしかったんだ。
だけど、それも終わってしまった――」
言わんとしていることは分かった。阿礼乙女は三十歳まで生きられないなから、早々に寿命を迎えたのだろう。
「違うよ」
三毛猫は妹紅を見ながら察したように首を振った。「ご主人は寿命で死んだんじゃない」
えっ、と驚きの声をもらした。
ざわざわと木が揺れる。森全体が落ちつきをなくす。
「彼女は自殺をしたんだ」
世界はだんだんと色を落とし始め、黒さだけが残っていく。
私は今、迷子になっていないだろうか――妹紅は不安に駆られた。
「自ら命を絶った。ただでさえ短命なのに、それでも寿命を待つことができないくらい、生きるのが嫌だったということさ。
どうやら単純で、もっとも大切なことが共有できていなかったらしい。恥ずかしい話だよね」
大切な人が死ぬ。これは言うまでもなく悲しいことだ。
でももっと悲しいことは、その大切な人が自分と幸せを共有していなかったと知ったときではないか。
自分の幸せは色あせ、愛おしい思い出は焼け焦げてあとには炭化した切れ端しか残らない。でも幸せと思い出がたくさん積み重なっていればいるほど、それらの残骸も数え切れないぐらいできるのだ。
捨てるあてが見つからない。すべてを背負えるほど強くない。
そんな奴が、この三毛猫なのではないか?
こいつの心は墓石のように、焼き残った残骸を収めているのではないだろうか――。
妹紅はなにも答えられなかった。自分の言葉に意味が込められるとは微塵も思えなかったのだ。
一人と一匹はしばらく沈黙したまま歩き続けていた。
「――でもね」
三毛猫は言葉をつむいだ。しかし、続きの言葉を心底ためらっているようでなかなか言わない。
さんざん躊躇したあと、おもむろに口を開いた。
「でもね、ぼくは、ご主人が死ぬ前に――」
――がさがさ。
近くの茂みが揺れた。音の大きさからして風によるものでない。
誰か、いる。
妹紅と三毛猫は足を止めた。不思議そうに猫は妹紅を見あげる。
昨日の鳥妖怪のことが頭をよぎり、ポケットに手を入れて札をにぎる。
何者かは着々と近づいてきた。がさがさという揺れが手前まで迫ってくる。
ごくりと飲み込んだ唾が渇いた喉を通る。
そして、とうとう相手の姿が現れた――。
「――ほんと、思うよ」
妹紅は緊張を解きながら言った。「幻想郷に博麗の巫女は何人いるんだって」
「たったの一人よ。蓬莱人より少ないわ」
茂みから出てきたのは、連日出会っている博麗霊夢であった。
ふうと大儀そうに巫女服についた木の葉を払っている。頭に乗っていた葉っぱをつまみ、指ではじいた。
「もしかして私のあとをつけているのか?」
「その言葉、そっくりお返ししますわ、妹紅さん」
渋面で霊夢が応える。続けて、頭に乗ったリボンを調整しながら、
「そんで? あんたはこんな森のなか、猫連れてなにしてんの?」
と訊ねた。
もちろん妹紅だってなぜここにいるのか知らない。
この三毛猫が説明なしに私を連れてきたんだよ――と言ったら、目の前の少女は笑うだろうな。
「……あれだ、キノコ集めだよ。最近、キノコ収集に凝っててね」
「なら一人紹介するわ。キノコと魔法が大好きで口うるさい奴をね」
「遠慮しておくよ。賑やかなのはあまり好きじゃないもんで。
それと、この猫にはキノコ探しを手伝ってもらってるんだ。犬がここ掘れワンワンとお宝を見つけられるんだから、猫だってキノコぐらいは見つけられるかなってさ」
信じてもらえるとは端から思っていない。第一、キノコ探しと言っておきながら妹紅はキノコを一本も持っていないのだ。
妹紅の涼しい顔を睨めつけるように見つめた霊夢は、「そう」と短く答えた。
次に霊夢はしゃがんで三毛猫の顔を見た。猫はぎょっと目を剥いて、ついと顔をそらした。
彼女は凝視したままだ。双眸が、指でなぞれば切れてしまいそうなほど鋭く細められている。
頑張れ三毛猫、となにを頑張ればいいのか分からないのに妹紅は心のうちでエールを送り続けた。
しばらくして霊夢が立ちあがった。ふーんと曖昧な音を出す。
「ねえ、妹紅」
顔を妹紅に向ける。
「なんだよ」
「博麗神社に来たらお茶の一杯ぐらいは奢るわよ」
「はぁ?」
突然の言葉に困惑する。これはあれか、遠回しに博麗神社への来訪を促されているのか?
釈然としない面持ちでいると、霊夢は「じゃあね、キノコ探し頑張って」と言って妹紅たちは逆方向に歩き出した。
「……なあ」
妹紅はその背中に呼びかける。
「なによ。私は忙しいの」
「鳥妖怪探しにか?」
ぴくりと霊夢の肩が揺れた。図星だな。
慧音に依頼されていたのを思い出し、訊いてみたのだ。
「だったらなに? まだ退治できてないって笑うの?」
霊夢の声がかすかに震える。後ろ姿になっていて顔は見えない。
「違うよ。昨日、そいつらに会ったんだ」
予想外の反応だった。霊夢が驚き入った顔でこちらを顧みて、妹紅に寄ったのだ。
「どこで!?」
そこで妹紅の言葉が詰まった。上気した霊夢の赤い頬に涙の筋が残っていたのだ。
さっき、泣いていたのか――?
「どこよ!」
「迷いの竹林だよ」
「ありがとっ」
急ぎ足でくるりと振り返った。一歩を踏み出した瞬間――
霊夢がぐらりとよろけた。慌てて妹紅が体を支える。
「お、おい、大丈夫か?」
「……ええ」
息を荒くさせながら答え、そそくさと妹紅の腕から逃げるようにふたたび歩き出した。
「おい、無理するなよ」
足が止まった。半身で振り返った霊夢は、
「ありがとう」
意外にも笑顔を浮かべていた。だがすぐに前を向き、飛んでいった。
森が笑い声のような音を立てていた。まるで暗闇にからめ取られた人間をあざけるような笑い声――。
妹紅はしばらく立ちすくんでいたが、やがて歩き出した。三毛猫も隣に並ぶ。
「――あの巫女さん、大丈夫かな?」
「どうだろうな」
最後に見せた笑顔がどうにも頭から離れなかった。
気持ちを入れ替えるべく、話題を変える。
「それで、お前はなにを言いかけたんだ?」
「えっ?」
三毛猫はきょとんとしていたが、すぐに合点した。
「あの巫女さんに会う前のことでしょ?」
「ああ」
「それはね……」
また逡巡している。しかし今度は、
「いや、なんでもない」
と首を振った。「どうでもいいことだよ」
納得がいかない顔をしていた妹紅だが、三毛猫は変わらない声色で言った。
「行こう。目的の場所はもうすぐだ」
目の前には大きなおおきな木が屹立していた。幹は、大人が十人で手をつないでつくった輪に収まるかも怪しいほど太い。
妹紅は惚けながらそれを見あげた。上では枝が円状に広がって、青空ごとつかまえようとしているみたいである。
この木をなにかに例えようと頭をひねったが、結局出てきたのは『馬鹿でかいキノコ』という言葉だった。
「――ねえ、妹紅」
三毛猫の声。妹紅は顔を下に向けた。
「ずっと訊きたいことがあったんだ」
「なんだ?」
「妹紅はさ、ぼくと一緒に住んでいて、おかしいと思ったことはないかい?」
「そりゃあるよ。人語をしゃべるんだもの」
「違うちがう、そこじゃなくて。ぼくが妖怪であるということを前提にしてさ」
三毛猫は目を細めて妹紅をためすように見る。肝要なことを見逃していないかい?――猫は言外で訊ねてきた。
妹紅はため息をつく。そんな挑発的に問いかけなくても、前々から一つの疑問点には気づいていたさ。
そして、自分なりの答えもすでに出ている。
無表情を保ったまま、口を開いた。
「……お前は自分を妖怪だと言った。別に疑ってはいないさ。なにせ言葉をしゃべっているしな。百年以上生きているというのも無根拠ながら信じてる。
でも、解せないことがあるのは確かだ」
妹紅は巨木の幹に目を向けた。ひび割れた樹皮は見てて痛々しかった。
「なんで私と輝夜が最初に会ったときに気づけなかったのか。
妖怪というのはみな『妖力』というものを持っている。これは生来的な妖怪も、後天的に妖怪に変じた者も、あまねく持っていて、練って放出すれば攻撃としての魔弾にもなる品物だ。
なのにお前からは感じられないんだ。今こうしているあいだも。だから私は見抜けなかったし、輝夜にいたってはまだ気づけていない」
三毛猫はぺたりとお尻をつけて座り込んでいた。まるで最初からしゃべれないかのように黙り込んでいる。
「妖力とはその妖怪のエネルギーの量と直結している。ここでいうエネルギーっていうのは、生きていくための活力なんだ。
こっから言えることはただ一つ――」
乾いた樹皮を撫でながら、すうっと息を吸った。
「お前の生エネルギーはとにかく少ない――有り体に言ってしまえば、お前の寿命が、近いということだ」
そこまで言い切ると、三毛猫はどこか満足げにうなずいた。
「うん、そのとおりだ。最近は体力だってめっきり減ったし、不調も体の節々に出てきているんだ。
もうすぐ、ぼくは終わるんだ」
終わるんだ――それは、自分の命をラインなどに例えているのだろうか。
三毛猫は申し訳なさそうな声で、
「ごめんね。十分な説明もせずにこんなところに連れてきちゃって。でも、もうほんとにおしまい。この木の後ろが目的地さ」
と言い、ゆっくりと巨木の周に沿って歩き出した。妹紅もあとに続く。
地面にはこれまた太い根っこが張られていた。だけどこの地中にはもっとたくさんの根がクモの巣のように広がっているのだ。
妹紅はこの巨木が地面にしがみついているようにも思えた。
抜けないように、倒れないように、枯れないように。それじゃあまるで、この木が生に貪欲にすがりついているようじゃないか。
途端に巨木が哀れに思えてきた。
「――ここだよ」
一匹は足を止め、つられて一人も止まる。
太い根っこが地面からかすかに浮きあがってできた小さなスペース。茂みもくっついているそこに、三毛猫は顔を突っ込み、やがてのろのろと首を出した。
口には大きな長方形の紙がくわえられていた。表にはよく分からない文字が書かれている。それを地面において、ふうと息をついた。
「これを妹紅に渡したかったんだ」
妹紅は不思議そうな顔で紙を持ちあげる。思ったよりずっしりとしていた。
どうやらなかになにか入っているらしい。薄くて円状で――。
「それは、レコードだよ」
「レコード?」
「うん。ぼくが前のご主人のところで飼われていたとき、毎日のように聴いていた。
捨てられていたのを拾ってきたんだ」
これは、ぼくが口ずさんでいるラブソングさ――三毛猫は平らな声で言った。
レコードが急に重くなった気がした。
「噂を聞いていたんだ。不老不死の蓬莱人という者が迷いの竹林にいるって。もちろん最初は信じていなかった。
でもね、昔に妹紅と輝夜の殺し合いを見たとき、確信したんだ。この二人は本物だって」
三毛猫は巨木を見あげながら続けた。
「ぼくが妖怪だということをあまり知られたくなかったから、同居人の多い輝夜より一人暮らしの妹紅に拾われたいと思った。それまでにぼくが妖怪と知っていたのは一人しかいなかったからね。
そして一昨日の話になるんだ。妹紅の家を探していたら竹林で迷っちゃって、そんで今度は輝夜に拾われちゃって。あのときはどうなるのかと心底焦ったね。でも結局は、妹紅の家で飼われることになって、とうとう本来の目的のこのレコードを渡すところまで来れたんだ。よかったよ」
安堵のため息を深く吐いて、顔を妹紅に向ける。
「ぼくのレコードを、ぼくが死んだあとも家で預かってくれないかい? 壊さないようにしてくれるだけでいいんだ。自然に朽ちるまで持っておくだけでいいんだ」
なんて卑怯な頼み方だ――妹紅は呆れた顔をした。
外堀が完璧にうめられ、良心に訴えるような頼み方だ。
これでは引けない。
降参だと言わんばかりに両手をあげた。
「分かったよ、引き取るよ。持っとくだけでいいんだろ」
「ありがとう!」
心から喜んでいる声だ。三毛猫は何度も何度もありがとうをくり返した。
妹紅はしっかとレコードを抱えた。
「……だけど質問がある」
「なに?」
「お前の出た賭けはひどく勝率が低い。こんなことにならない確率のほうが高いじゃないか。
もし迷いの竹林で輝夜にも私にも会えなかったら? 拾った輝夜が自分の家で飼うことを決めてしまったら? 私の家に来ても、私が飼わないと言ったら? レコードは預からないと私が首に振ったら?
この賭けには不確定要素が多すぎる」
ちらりと猫を見た。
三毛猫は――「そうだね」と短く答え、妹紅の目を真正面から見てきた。
目の前の巨木さえも揺らいでしまいそうなほど鋭い眼差しだった。
「でも、それでも、ぼくはこの分の悪い賭けに乗るしかなかったんだ。
だってそうだろ? ぼくはもうすぐ死ぬんだ。転々とレコードの保管位置を変える人はいなくなってしまう。あとは外気に当てられながら風化するのみだ。
それだけはさけたかった」
ご主人もぼくも死ぬけど、このレコードだけは残したかったんだ――三毛猫は切々と言った。
ああ――。
妹紅は想像する。
この三毛猫は、どんな気持ちでこのレコードを隠し続けていたのだろう。
曲だけじゃない、もっとたくさんのものが刻まれたレコードをくわえ、息を切らしながら安全な場所を探す。
音盤を茂みに隠すとき、そこにご主人のにおいとか温かさとか柔らかさも一緒にしまい込む。
そして――ラブソングを歌うのだ。誰かに向けられた愛がしっかと込められた恋歌を口で転がすんだ。
あめ玉のように口のなかで広がる甘さも酸っぱさも、ごくりと飲み込みながら。
幸福の残骸をリズムに変えながら。
どんな、気持ちなのだろう。
三毛猫が呟く。
「――ぼくは、死なない妹紅がうらやましいよ」
さっき、地面に根を張り生きようとする巨木を哀れだと思った。
しかし目の前にいる三毛猫も、四本の足を根のように地面に立ててしゃんと構えている。
この姿を見ても、哀れだと言えるだろうか?
生に憧れることを見くだせるだろうか?
「今日はありがとう」とお礼を述べ、「じゃあ帰ろうか」と踵を返す三毛猫。
妹紅は自分の心臓の上にレコードを当て、抱きしめるように持った。
そして、三毛猫のあとに続きながら心から祈る。
――今だけは、ラブソングを歌いませんように。
◆ ◆ ◆
ラブソング日和だね――と三毛猫はうれしそうに言った。
妹紅はちゃぶ台に頬杖をついたまま生返事をした。
壁時計は朝の時間を示している。昨日伝えられていたとおり、今日は輝夜はやってこなかった。用事があると言っていたが、なにがあるのかは知らない。
「なーなーなーなーななー」
三毛猫に預けられたレコードは押し入れのなかにしまった。輝夜などに見つからないような場所で、丁寧に保管している。
妹紅は歌っている三毛猫を見てから、次に押し入れに視線をやった。
「ななななーなな」
レコードが音楽を奏で出しそうな気がしてついと顔をそらす。
「――あのさ」
三毛猫と正反対の壁を見ながら問うた。「お前は阿求に会わないのか?」
ぴたりと歌がやむ。空気中に残った歌の残滓もだんだんと沈黙に食われていった。
壁に話しかけるような体で妹紅は続ける。
「阿礼乙女っていうのはさ、よく知らないけれど前世の記憶も少しは覚えてるもんなんだろ。ならお前のことを覚えているかもしれないじゃないか」
薄汚れた壁に阿求の顔を思い描いた。阿弥にはもう会えないけれど、昔話ぐらいは語り合えられるかもしれないじゃないか。
「……そうだね。もっともな意見だ。でもね、ぼくは今まで阿求に会ったこともないし、これからも会おうとも思わない」
じゃあなんで――妹紅の問いかけはすぐに遮られた。
「怖いんだ。たまらなく、怖いんだよ」
三毛猫の声は弱くなっていって、言葉尻はほとんど聞こえなかった。
猫というのも泣くのだろうか、とぼんやり考えた。
「昨日、巫女さんに会う前にぼくが言いかけた言葉を、伝える決心がついた」
小さく息を吸う音が聞こえた。妹紅は目を閉じる。
「ぼくは阿弥に捨てられたんだ。段ボールに詰められて、人里から離れた森で」
よかった――。
妹紅は下唇を噛みながら安心した。今、三毛猫の顔を見ていなくて本当によかった。
「大好きな飼い主に捨てられる動物の気持ちはきっと分からないだろうね。ぼくはその日のことを絶対に忘れない。
心臓が穴ぼこだれけになったみたいに苦しくなって、呼吸をするたんびに冷えた空気がうちから体を凍えさせていく。なのに全身はそれとは違う理由で震え続ける。瞳はご主人の離れていく後ろ姿だけを捕らえるんだ。
もちろん、過去に何度か会おうとしたこともあったさ。でも駄目なんだ。彼女の家の門の前に立ったら、体が震え出すんだ。遠くなっていく後ろ姿が見えるんだ」
ぼくの感じた幸せってなんだったんだろうね――答えを探すことすら諦めた声色で問いかけられる。世界をさかさまにしても答えは出てこないだろうという確信が込められていた。
当たり前だ。その答えを知っている者はもうこの世にいなのだから。
しばらくの無言ののち、三毛猫が、
「ごめん。外に出たいから引き戸を開けてくれないかい?」
と言った。
「ああ」と答える。目をゆるゆると開いて、立ちあがった。引き戸に近づいてそれを開ける。
動作をしているあいだ、できるだけ三毛猫を視界に入れないようにした。
外の風が家のなかに入る。ひゅるりと下手くそに奏でる歌みたいな音を立てながら。
「……妹紅、いろいろありがとう。じゃあ、レコードを頼んだよ」
三毛猫は外に飛び出て、ゆっくりと歩いていった。
もう帰ってこないだろうな――毅然と足を進める三毛猫を見ながら思った。
胸に空いた穴を風が通り抜けていくような心地がした。
引き戸を閉めて押し入れを見る。矛盾しているな、と思った。
捨てられた身だというのに、過去を偲び続ける。
でもそういうものじゃないかと考えを打ち消した。どうしようもないことじゃないか。
嬉しいことより悲しいことのほうが多くて。
死にたがりより生きたがりのほうが多くて。
明瞭なものより曖昧なもののほうが多くて。
そんな世界を自分たちは生きてるのだから。
顔を寝室のほうに向ける。
大好きな人。
妹紅は頭のなかでぽつりと呟く。私が、大好きな人――。
最初に浮かんだのは、彼だった。
少女だった妹紅の頭を撫でる、無骨な彼の手のひら。その温かさが空っぽの心にじわりと広がった。
笑い合った。手をつないだ。抱きしめてくれた。
そして、顔にもやのかかった彼は、妹紅に向かって言った。
「――――――」
彼女は寝室に移動する。
すみに据えつけてある姿見の前に座り、櫛をにぎった。
◆ ◆ ◆
昼ごろ、妹紅は輝夜の姿を見つけて足を止めた。
迷いの竹林で、座り込んでいる輝夜の姿を。
なにをしているんだ?
後ろ姿しか見えないのでやっていることが全然分からない。警戒しながら近づき訊ねた。
「――お前、なにしてんだ?」
「あら、妹紅じゃない」
前に回って相手の顔をのぞき込む。輝夜は妹紅の顔を認めると、驚くでも喜ぶでもないかすかな笑みを浮かべた。
「用事はもう済んだのか?」
「ええ」
「そうか」
彼女は続けて輝夜の手もとに視線を落とし――そして面食らった。
白黒の色の猫がいた。白い毛に墨汁をこぼしたようにところどころ黒くなっている。妹紅を睨みながら、耳と尻尾がまち針みたいにぴんと立っていた。
見たような気がすると思えば、先日、人里で追跡者がいると報告した猫であった。
「……今日の用事っていうのは、こいつの世話か?」
「まさか。鈴仙が風邪でダウンしちゃったから、あの子の代わりに人里まで薬売りに行ってきたの」
「お前が仕事をするなんて初めて聞いたよ」
「失敬ね。私は女王蜂のようにカリスマを持つレディーでありながら、それでいて働き蜂のようにあくせくと労働するわ」
かたわらには薬箱がおいてあった。薬売りをしたというのはなるほど本当らしい。
輝夜は薬箱に手を伸ばし、引き出しから包帯を取り出した。短く切って、それを猫の右足に巻く。
「ん? そいつ、ケガをしてるのか?」
「なんかで切っちゃったみたいね」
でも消毒したから大丈夫よ――その言葉は、猫を安心させるためのものに聞こえた。
巻いた包帯にじわりと血の赤がにじむ。傷口は深いのかもしれない。
よしよしと輝夜が頭を撫でてやると、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「はい、おしまい。今度から気をつけるのよ」
輝夜が立ちあがると、猫は「にゃー」と鳴いて駆けていった。ありがとうと言ったのだろうか?
後ろ姿をしばらく眺める。しゃべらなかったな、とぼんやり考えてから一人で微苦笑した。
猫は普通しゃべらないものじゃないか。
「……じゃあ、これお願いね」
気がついたら薬箱を持たされていた。ずしりとした重さが手にかかる。
「永遠亭までお願いするわね」
「なんで私が荷物持ちをしなきゃいけんのだ」
妹紅が渋面をつくって応えた。
「ずっと持ちっぱなしで疲れたの」
「でも私が手伝ってやる義理はない」
すると輝夜は意地悪い笑みを浮かべて、
「あら、あなたの髪の毛はずいぶんと整っていますわ」
と言った。
このやろう。まさかそれを引き合いに出すとは。
しかしこうなると反論はできなくなる。しょうがない、こちらが折れるか。
「分かったよ。永遠亭まで運べばいいんだろ」
「助かるわ。これも女王蜂並みのカリスマのおかげね」
断じて違う。働き蜂の毒のような反則技のたわものである。
二人はそうして歩き出し、妹紅は片手に携えた薬箱を見、ため息を吐いた。
面倒くさいなあ……。
声に出さずに愚痴ると、輝夜がふふと笑った。
「なに笑ってんだよ」
「ちょっとうれしくてね」
「そりゃあ荷物持ちがいてれれば楽だもんな」
「違うわよ」
あなたの髪のこと――彼女は笑みを深めながら言った。
「ちゃんと毎日梳かしてるみたいね」
「悪いかよ」
「別に」
妹紅は頬を朱に染めて、そっぽを向いた。
このあいだの話である。妹紅は輝夜にお願いして髪の梳き方を教えてもらったのは。
生まれてこの方、身だしなみに気をつかったことのない妹紅だったが、どうしても髪だけは綺麗にしておきたいと思ったのだ。
だって――。
「よかったわね」
「まあな」
そこは否定しない。これで大切なものをいつまでも保てるのだから。
輝夜は「でも」と声の調子をさげた。
「あなた、浮かない顔をしているわ」
「荷物持ちを務めて喜べるほどお前に忠義はないもので」
かぶりを振る輝夜。彼女は妹紅の瞳の奥まで見通さんと凝視してくる。
「今日、最初に私に会ったときから沈んだ顔をしてた」
ぎくりと息を詰まらせる。こいつの観察眼は馬鹿にならない。
左手の薬箱ががたがたと音を立てている。
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないわ」
輝夜の眼光がいっそう鋭くなった。
「なにか、あったの?」
あまりにも真剣で、でもどこか優しさが込められていて、妹紅は嘘も言い訳もすべて飲み込んでしまった。
「……なにか、あったんだろうな」
伸ばして薄くしたような笑みを浮かべて、ふうと息を吐く。自分の呟いた言葉がずいぶんとあやふやなことに少し驚いた。
――なにか、あったの?
声に出さずにもう一度己に問いかけてみる。すると、なにか、あったんだよ、とまた曖昧な返事が返ってきた。
昨日の夜から、なにをしようにも頭の片すみには三毛猫が居座っていた。口を少し開けてラブソングをずっと歌い続けているのだ。
話してしまおうか。輝夜にすべてを。
飼っている三毛猫は言葉をしゃべること。その三毛猫がラブソングを口ずさむこと。もうすぐ死ぬこと。とても苦しんでいること。
でもあいつは自分のことが口外されるのを嫌っていた。それにこの問題は相談したところで完璧な解決はしないだろう。
どうしようかと頭のなかが回っていると、しびれを切らした言葉が口から転がり出てきた。
「――私の友達の話なんだ」
三毛猫であることを伏せて、話だけでも聞いてもらおうと言ってから思った。
「慧音のこと?」
「あー、あいつじゃない。最近、人里で新しくできてさ」
疲れてきたので薬箱を持つ手を変える。
「そいつはさ、大好きな人がいたんだ。恋愛感情的なものじゃない。上手く言えないけど、そういうのとは違って、だけどそういう気持にも引けを取らないぐらい強いものだと思う。
一緒に住んでいたらしい。毎日が幸せだったらしい。
だけど大好きだった人はもう死んでいて、私の友人もそろそろ寿命で死ぬんだ」
言葉をつむぎながら、胸の奥にある自分でも分からない本心を探っていく。完成図を知らないジグソーパズルを、しゃべりながら一個一個ピースをはめていくような感じだ。
果たして、どんな絵ができるのだろうか。
「そいつは歌を歌うんだ。昔に大好きな人と一緒に聴いていたラブソングらしい。大切な過去を思い返しながら歌うんだ」
耳の奥で三毛猫の歌っていた曲がよみがえってくる。転がすように歌っていた歌だ。
輝夜は黙ったまま妹紅の目を見ている。
妹紅は言葉を続けようとして、ほんのりと苦い笑みを浮かべた。
「大切な過去――なのかな。自分で言っておきながら分かんないや。
大好きな人は自殺したらしい。友人を残してね。しかも、残酷な形でお別れを言われてるんだ。あいつは、幸せだと感じていたのは自分だけだったんだと悲しそうにもらしていた」
妹紅は苦い笑みをこぼした。冷たい風が慰めるように吹いていった。
組み立てていたジグソーパズルは着々とできていく。あともう少しで絵が分かるんだ。
「そして昨日、昔に聴いていたというレコードを渡された。ぼくは死ぬから預かっていてほしい――とのことで、な」
ふうと妹紅は息を吐いた。その息に込められた感情は自分でも分からない。
「これで話は終わりだ。すまない、取りとめのない話だったな。こんなことに時間を割いてもらってありがとう」
「……あなたは、なにを思った?」
久しぶりに輝夜が口を開いた。竹立ちがざわりと騒ぐ。
「あなたはどう思ったの? 友人になにをしてほしいの?」
「……私は」
ジグソーパズルに最後のピースをはめ込む。距離を取って俯瞰し、全体図を眺めた。
私は、どうしたいんだ――?
妹紅は最後に自分に訊ねた。返事はないけど、やっと形の持った答えを得た。
ジグソーパズルの絵は、安らかに眠る三毛猫だった。
「私は、友達が安らかな最期を迎えてほしいんだ。さんざん苦しめてきた自分の過去を捨て去って」
そうだ、これが答えだ――妹紅は声に力を込めた。
「もう大好きな人もラブソングも、忘れてほしいんだ」
世界が音をどこかにおいてきたみたいに静かになる。自分の熱の入った言葉が所在なさげに浮いている。
「――ねえ」
横に輝夜はいなくて、斜め後ろに立っていた。相手が止まったのに気づかずに数歩歩いていたらしい。
「訊かせてちょうだい」
妹紅は、心底驚き入った。ごくりと唾を飲み込む。
輝夜の顔は憎々しげにゆがめられていたのだ。心から嫌悪を抱いている――そんな表情である。
「さっきの言葉、本気で言ったの?」
彼女の声は呼吸ができなくなるほど冷え切っていて、妹紅の心胆を寒からしめた。
当惑しながらやっとのことでうなずく。
「あ、ああ」
「そう」
短く返事をすると、輝夜は徐々に顔の力をゆるめていった。
しかし、戻った顔は今日最初に会ったときのような笑顔ではなく、喜怒哀楽をそこから刈り取られたような無表情だった。
竹がおののきながら揺れている。
「分かったわ」
輝夜はすたすたと歩いて、妹紅を追い抜いた。それでも止まることなく歩き続けている。
「ど、どこ行くんだよ」
返事はない。慌ててあとを追いかけると、すぐに輝夜は足を止めた。
妹紅は自分たちがいる場所を見回す。開けた場所で竹は一本も生えていない。下を見ると、黒々とした土が露見していた。
春夏秋冬、姿を変えないここは――
二人で殺し合いをした場所だった。
「ありがとう」
感情のこもらない声で伝えると、輝夜は相手から薬箱をひったくるように取った。そのまま歩き出し、妹紅から七、八メートル離れたすみに薬箱おいた。
「手袋とマフラーは外しなさい。邪魔になるだけだから」
輝夜は自分の手袋とマフラーを薬箱の上においた。妹紅は状況がつかめないながらも指示に従う。
「スペルカードは捨てなさい。興が削がれるだけだから」
「お、おい、お前もしかして――」
「早く」
にべもなく言い、輝夜はスペルカードを地面にばら撒いた。
そして、無感動に呟いた。
「あなたと殺し合いをするのはどれくらいぶりかしらね。最近は生ぬるい関係をずいぶんと続けていたし」
やはりか――妹紅はぎりっと奥歯を噛みしめる。
「なんで、お前と殺し合いをしなくちゃいけないんだ」
「たまにはいいじゃない」
こちらの言葉をかわすような返しにより怒りを覚える。
昔は輝夜が憎くてにくくてしょうがなく殺し合いをしていた。しかし年が過ぎるにつれてそのとがった感情は川底で角を落としていく石のように丸くなっていき、殺し合いを長々と休止していたのだ。なのに突然の再開。理由がないわけがない。
先ほどの輝夜の顔を思い出し、妹紅は途端に不安で顔をくもらせた。
「なあ、私はなにか間違えたことを言ったのか? もしそれで気分を悪くしたのなら謝るよ」
やめたかった。なまじ良好なつき合いをしてきてしまったので、無限の命といえども殺めるには抵抗があったのだ。
それ聞いて、輝夜は冷ややかに笑っていた。
「あなたを見ていると、先達は良識あふれる言葉を残しているんだなって思うわ。
こんな言葉はご存知?」
――馬鹿は死なないと治らない。
輝夜は吐き捨てるように言って右手を上に向けた。彼女の周囲に妖力がたまっていき、そこだけ空間がゆがみ始めた。
「さあさ、お馬鹿さん。悟れるまで果てるといいわ」
右手のひらを妹紅に向ける。いくつかの小さな魔弾が妹紅目がけて飛んでいった。
横によけられたものの、今しがた自分がいた地面は深くえぐれる。
冷や汗をかいた。――輝夜は本気だ。
説得はもはや無意味。されど背を向けて逃げるのはプライドが許さない。
ならば残された行動はただ一つだ。忌々しげに口の端を吊りあげる。
「――後悔すんなよ」
妹紅は姿勢を低くしてポケットに手を入れた。魔弾がふたたび狙ってくる。横に跳びながら数枚の札を投げつけた。
宙で札は発火し猛々しく燃え、火の粉を撒き散らしながら輝夜に向かっていく。
輝夜は表情ひとつ変えずに魔弾を放つ。札一枚一枚に過たずぶつけ、すべてを相殺した。
輝夜が不躾な笑みを浮かべる。
妹紅が不敵な笑みを浮かべる
妹紅は両手の五指でたくさんの札をはさみ持っている。そしてそれらを投げつけた。
燃える、燃える、燃える――。
無数の札があまねく燃え、輝夜の視界が紅蓮に染まる。まるで炎の壁が迫ってきてるようにも見えた。
輝夜はふたたび冷静に魔弾を当てて札を落としていく。ぶつかるたびに水が蒸発するときに似た音がした。
動くことなく炎の壁を破った輝夜は――驚いた。
目の前に誰もいないのだ。妹紅の姿がどこにもない――。
「――こっちだ」
後ろから声。「残念」
姿勢を低くした妹紅が札をにぎりしめる。刹那、彼女の右手がうずを巻く炎に包まれた。
それで輝夜の背中をぶん殴る。めりっと深く拳が入った。
「ぐっ……」
輝夜はすぐさま翻って妹紅から距離を取った。乱れた息を乱しながら相手を睨む。
妹紅は小馬鹿にしたような顔で、鎮火した右手を開いた。炭がはらはらと落ちる。手は少しすすけただけで火傷などはない。
「一本取られたわね」
言うやいなや、輝夜の周囲がもう一度ひずむ。「でもこっからよ」
水色、黄色、赤色――。
さまざまな色の弾が無数に現れる。それらはまるで縮尺の違えたアメ玉のようでもあった。
竹が揺れた。それが合図だった。
カラフルな弾が飛んでくる。妹紅は二枚の札を投げる。
二枚はそれぞれ大人一人分の大きさの火の鳥に姿を変え、輝夜に食らいつこうと羽ばたいてゆく。
だが、輝夜の弾が火の鳥の息の根を止めにかかった。当たるほどに体は削られていき、勢いはなくなっていく。二匹はなかばを過ぎたあたりで――とうとう失せた。
なおも止まらぬ猛攻。青白い楕円状の弾を加わり、妹紅を追い詰める。
空に浮かび、右に迂回しながら追撃弾をかわす。それでも追ってくるが、精いっぱい強がる。
妹紅が不躾な笑みを浮かべる。
輝夜が不敵な笑みを浮かべる。
猛攻がだしぬけにやんだ。妹紅は怪訝な顔でスピードをゆるめた。
さっきの、カラフルな弾に混じった、楕円の弾。
あれだけ異質だった。記憶を掘り返す。あれにはなにか、特殊効果がなかったか?
輝夜は笑みをくずさぬまま、妹紅と同じ高さまで浮かんでくる。
頭をひねる。楕円、楕円、楕円……。
――あっ。
思い出したときはもう遅かった。背中に焼けるような熱さ、次に神経に針を突き立てられたような鋭い痛み。
顔だけ振り向くと、背中に楕円の弾が被弾していた。
頬をつたった汗が顎から落ちる。
そうだよな、こいつには返ってくる効果があったんだ。
「――仕返しよ」
輝夜が陰気くさく言う。
「いい性格してるよ、お前は」
「お褒めの言葉、光栄ですわ」
そこで二人は呼吸を整えた。
地面から数メートル離れているのに、まわりの風景は変わらず緑色の竹ばかりだ。面白くない。
「こうやって殺し合うのは、ほんとに久しいわね。いつぶりかしら?」
「さあな。覚えてないよ」
「あのときのあなたの目はぎらぎらとしてたわ。煩わしいこと、考えてなかったものね」
輝夜が冷ややかに笑う。妹紅はついと顔をそらした。
こいつを殺したかった理由はたった一つだった。唯一で無二なもの。
父親をたぶらかされたゆえだった。難題などというものでないものを探させられ、でも結局見つけられずじまい。輝夜にただ踊らされたせいで、彼の名誉は大きく傷つけられ、人々からはあざけられた。
それが許せなかった。許せなくてゆるせなくて、どうしても輝夜を殺して、そして報いてほしかった。謝ってほしかった。
妹紅は奥歯をぎりっと噛みしめる。こいつさえいなければ――
「――あなたの大好きな人は、みんなに笑われることはなかったわね」
大好きだった。自分の父親のことが、たまらなく。
撫でられたむず痒さも、つないだ手の柔らかさも、彼の温かな言葉たちも、全部覚えている。
「あなたは父親のことが好きだった。だから私に髪の梳き方を習ったのでしょう?
あの人に、髪を褒められたから」
蓬莱の薬を飲んだせいで褒められた黒髪は白髪になってしまったけれど、それでも髪を綺麗なままにしたかった。
大好きな人に誇れるものを永遠にしたかった。
父親にまた会えたなら、もう一度褒めてもらえるために。
だから――輝夜は絶対に許せない。
妹紅はあたりを見回した。この空間で私はあいつを何度も殺した。何度も殺された。
ここは、蓬莱人の墓だ。
その瞬間、するりとなにかが腑に落ちた。欠けていたなにかが、この空間のなかでやっと満たされたのだ。
しずしずと妹紅は小さな笑みをこぼす。
――じゃあ、妹紅と輝夜はどういう関係なのさ?
昨日、三毛猫にされた質問に、やっと過不足なく答えられる気がした。
そうだよ。二人の関係を説明するときに、この気持ちは忘れちゃいけないんだ。
「……なあ、輝夜」
「なにかしら?」
「手袋とマフラー、ありがとうな」
輝夜がきょとんとした顔をする。
妹紅はかまわず続けた。
「大切に使わせてもらってるからさ、心配はいらない。――そんでもって、今は、しっかりお前を殺してやるよ」
輝夜は呆気にとられていたが、なにかを感得すると、次に絹糸で縫いあげたように柔らかな笑顔を浮かべた。
「あなたは本当に馬鹿ね」
でもね、あなたのそのぎらぎらした目、嫌いじゃないわ――うれしそうに言い、くすりと笑い声を風に溶かした。
「気が済むまでやらせてもらうよ」
「ご自由に。大丈夫、あなたの骸の乱れた髪は私が梳いてあげるから」
「うれしいことを言ってくれる。じゃあ私はお前の亡骸に膝枕してやるよ」
二人が、不敵な笑みを浮かべる。そして――
「楽しみだね!」「楽しみだわ!」
声を、合わせた。
輝夜が濃密なカラフル弾を展開させる。ほぼすき間がないほど敷き詰めて、妹紅へと迫ってゆく。
弾幕ごっこなら禁忌になる技だ。よけれることなぞ眼中に入れぬ密度。
明色が視界いっぱいに広がり、少しくらんだ妹紅だがあえて前進する。
真っ向から打ち破ってやる!
札を取り出して投げつけた。弾は消えるものの、いかんせん数が多い。輝夜の姿はいっとう見えないままだ。
しかしそれでいいのだ。目的は、少しでも数を削りすき間をつくり出すことなのだから。
空いたすき間に体を滑り込ませる。端々がかすり、服が破ける。
絶対にあいつにたどり着く!
前方に札を投げつつも進むことをやめない。右に左に飛びつつも着々と距離を縮めていく。
かすって頬が裂け、血が顎からしたたった。
あと少し。
歯を噛みしめる。あと少しだ。
最後はなかば無理やり前進し、弾の群れを抜ける。右の肩から肘まで服は破け、赤黒くただれた肌が見えていた。
輝夜の姿が見える。残り数メートル。
――これがいけなかった。敵を視界に捕らえたせいで、緊張がいささかゆるんでしまったのだ。
目の前に白弾があらわれる。妹紅がぎょっと目を剥くと同時、白弾は一線の光を放ってきた。
体をひねるようにして旋回する。一拍遅れた長い髪が数本、はらりと焼き落ちる。
体勢を立て直せていないうちにふたたび眼前に白弾。そして、光線。バランスが悪く上手く動けなかった。無理やりに旋回したものの、右脇腹に激痛が走った。
脇腹の痛みで体が一瞬硬直した。輝夜はその一瞬を見逃さなかった。
魔弾がいっせいに飛んでくる。妹紅はことごとく被弾し、体から力が抜けた。
地面が近づいてくる。妹紅は自分が落ちたのだと気づいたのは、強い衝撃とともに薬箱が視界に映ったからだった。
「――大丈夫? ずいぶんと痛そうだけど」
輝夜の茶化すような声が上から降ってくる。なにか言い返してやろうと口を開いても、出てくるのは真っ赤な血だけだった。
腕をつき、次に笑っちゃうぐらい震える足で立ちあがった。
ふらりと視線が揺れる。ともすれば失神してしまいそうな激痛が脇腹に走っている。視線をそこにやった。
服の生地の白も、皮膚の肌色もそこにはなかった。
深々とえぐれていたのだ。見えるのは、黒と赤をぐちゃぐちゃに混ぜたようなグロテスクな色合い。
どの部位か分からない臓物がのぞいている。上部にかすかに見える白い色はたぶんあばら骨だろう。
血が止まらない。
「もうやめる?」
見あげると、輝夜が涼しい顔をしていた。「このままだと出血で死ぬわよ」
妹紅はへんと鼻を鳴らして笑ってみせる。
「まさか。脇っぱらがえぐれただけだろ? むしろ、最近甘い物の食べすぎで腹まわりを気にしてたんだ。感謝したいぐらいだね」
「強がっちゃって」
妹紅は視線をおろして後ろを見た。そして、
「しかしはだけすぎてお腹が冷えそうだ。ちょいと腹巻を貸してもらうよ」
と言って、おいてある薬箱を開けた。
なかから取り出したのは――包帯だった。それを何重にも腹に巻く。
輝夜は呆れながらため息をついた。
「……請求書、書かないとね」
妹紅はにっかりと笑う。
「ツケといてくれよ」
頭はかすみがかかっているようにぼやけている。まぶたは鉛のように重たい。
もはや自分がなんのために頑張っているのかも分からなくなってきているが、どうしても膝を折りたくなかった。
「髪結いの札を使ったら?」
「使うまでもないね」
もう、今さらだ。
包帯を巻いたところで、死ぬのがちょっと先延ばしになっただけなのだ。所詮あがいたところで――。
残りはポケットのなかの札すべて使い切る。
一発お見舞いできれば僥倖!
ポケットに手を入れ、ありったけの札をつかむ。つかんだものを、みな宙に投げた。
まるで画鋲で留められたようにそれらが宙でぴたりと止まる。
「さあ、最後の踏ん張りどころさ!」
妹紅が指をはじくと、止まっていた札たちは――火の鳥に姿を変えた。
さっきより小さい姿であった。しょうがない、妹紅には妖力がほとんど残っていないのだ。
火の鳥たちはいっせいに輝夜へ飛んでいく。
「いいわ。その挑戦、乗ったわ」
輝夜も今自分に残された妖力をありったけかき集めて練って、色とりどりの弾をつくっていく。
しかしさっきとは違って密度が薄い。こちらも残っている妖力が少ない証拠である。
次の瞬間――火の鳥と弾たちがぶつかった。その衝撃で突風が起こり、あたりの竹が荒れ狂ったように揺れすさぶ。
二人の頬に汗がつたう。
火の鳥は羽が落ちようが腹を穿たれようが、首だけを残して輝夜に食らいつかんと飛んでいく。
しばらくの衝突ののち――輝夜の弾は果てた。
一匹の――いや、一つの頭が輝夜に食らいついた。
彼女の着物が燃えていく。ごうごうと音を立てながら。
妹紅はふうと息を吐くと同時、足の力が抜ける。がくんと膝を折って、もう一度深々とため息を吐いた。
――勝った。
血を失いすぎた。頭がくらくらする。重いまぶたをなんとかこじ開ける。
脇腹をどうしようかと自分の体を見たとき――
胸を一線が貫いてることに気がついた。
なんだ、これ?
じわりとした熱さと痛みを感じる。
「私の勝ちね」
後ろから声。全力を振り絞って首だけ顧みると、輝夜がいた。
白い長襦袢姿だった。
そこで妹紅は合点する。
「……着物を、脱いだ、のか」
「ええ」
人間で一番最初に燃えるのは、言わずもがな、服である。ならば、冷静に服を脱げたなら焼死せずにすむ、という簡単な理屈であった。
妹紅は最後、満足げに笑った。うつ伏せに倒れたとき、かすかに「おやすみなさい」と聞こえた。
ぷつりと意識が暗転した――。
「――おはよう」
目を開いたとき、最初に視界に映ったのは、遠い青空を背景にして柔和な笑みを浮かべる輝夜の顔だった。
妹紅は二、三回瞬く。自分の頭の後ろになにか柔らかいものが当たっている。
現状がいまだつかめない。
「約束どおり、目覚めるまで髪を梳いていてあげたわ。手櫛だったけどね」
さらりさらりと撫でるように髪に指を通されている。「プラス、サービスで膝枕もしてあげてるけどね」
どうやら頭の後ろの柔らかいものは、輝夜の膝らしい。
ああ、私はリザレクションをしたのか――。
妹紅は横になっていた自分の体を起こし、胡坐をかいた。
輝夜は正座をしながらふうと息を吐く。彼女の長襦袢の白さが目に沁みた。
「足が痺れちゃったわ」
「……膝枕までしなくよかったじゃないか」
「勝者の威厳を見せたかったの」
膝枕のどこに威厳があるのだろうか――妹紅は照れ隠しに視線を輝夜から自分の体にやる。
服はかなり破けていた。しかしそこからのぞく肌に一切の傷はなく、さっきまでの痛みも全然なかった。
血がべったりとついた腹の包帯を外す。脇腹もすっかり元通りになっていて、包帯が赤く染まっているのが嘘のようだ。
服の胸部にできた丸い穴。それを見て、自分は負けたのだとあらためて実感した。
「もう一戦する?」
「いいや。なんだか満足したし」
変な話だ。一線で胸に風穴が空いたというのに、貫かれた瞬間に胸の奥のなにかが満たされてしまったのだ。
はあと喜びも悔しさもないまぜになったため息を吐く。
「いい夢は見れたかしら」
「死神の船頭に追い返される夢を見た」
「あら素敵。死神とは一度まみえたいものだわ」
「……それで、さ」
妹紅は一拍おき、輝夜に顔を向けた。「なんで急に殺し合いをしようと思ったんだよ」
返事はすぐには来なかった。輝夜は曖昧な笑みでしばらく宙を眺めてから、言った。
「寒いわ」
「えっ?」
「着物がないからとても寒いの。近づいてもいいかしら?」
疑問形のくせをして、輝夜は妹紅が答える前に相手に身を寄せた。
体が触れようか触れまいかの距離に腰を落ちつかせ、ふたたび前を向いたまま黙りこくる。
そういえば私が燃やしてしまったのだな――妹紅は彼女の白い襦袢を見て、申し訳なさを感じた。
輝夜は、まるで宙から文字を拾い集めるようにゆっくりと言葉をつむいだ。
「あなたは優しいわね」
「……いきなりなんだよ」
「どうせ私の姿を見て、申し訳なくなったんでしょ」
ぎくりと肩を揺らす。輝夜は呆れたふうに笑った。
「あなただって服がぼろぼろなんだから、こっちにまで気を回す必要はないわ」
「そうは言ってもさ……。お前と私の着てる服は価値が全然違うんだし――」
「いいのよ、そんなの。服の価値がよくたって、着てる人の価値まで変わりはしないんだから」
輝夜はえへんと胸を張った。
「私がたとえぼろきれをまとってもあふれる気品は止めどないし、あなたが綺麗な着物を着ても引っ込み思案なのは変わらないわ」
「悪うござんしたね。生まれつきなもんでして」
妹紅が拗ねたように鼻を鳴らした。
輝夜は笑みを深める。
「そして、あなたがどんな服を着ようがあなたの優しさも変わらないの」
一瞬呆気にとられたが、すぐに妹紅は頬を赤くしながら口をもごもごさせた。
相手を肘で小突いてから輝夜は続ける。
「でもね、あなたの友人に対しての優しさは――どうしても許せなかった」
はっと息を飲む。やはり自分の意見はどこか間違えていたのか。
「たとえばの話、私がハサミであなたの髪をチョキチョキって切ったら――妹紅はどうする?」
「それは……」
大好きな父親に褒められた髪。ずっと残したいもの。
それを切られたら――
「――怒るでしょ?」
「そうだな」
「だけど、あなたの意見はそういうことなの」
すうっと輝夜が妹紅を見すえる。眼光には少し険が混じっていた。
「あなたの友人にとって、ラブソングはあなたの髪のようなものなの。大好きな人のために残しておきたいものなの。
確かにご友人は寂しい思いをしたのかもしれない。やり切れなさを感じたことでしょう。
でもね、それはあなたも同じこと。父親を私にたぶらかされて、悔しくて悲しくて。それなのにあなたは自分の思い出を捨てたいとは思わないでしょ?
二人とも一緒だわ。苦しい思い出が、しかしただ残酷なものとは言い切れない愛おしささえもあわせ持ってる。だから妹紅は髪を梳き、ご友人はレコードをあなたに預けたんでしょうね」
そうだ、そのとおりだ。父親と過ごした時間は、ときおり心に突き刺さる針のようにとがるけど、でも抱きしめたいほど大切なものなんだ。
そのことを頭の片すみに追いやっていた。
突然、三毛猫の姿が頭にふっと浮かんだ。下手くそにラブソングを歌って、ぼろぼろな体でレコードを隠して――
最後はすべてを託したんだ。
一緒にいたはずなのに、どうして気づけなかったんだろう。あいつが阿弥を語ったときの恥ずかしくもうれしそうな声色を、なぜ思い出せなかったのだ。
答えなんてもう目に見えていたじゃないか。三毛猫は自分の死に方をしっかりと選んでいたじゃないか。
なのに、歌を忘れてほしいなんて勝手に願って――私はなんて馬鹿なんだ。
妹紅が唇を強く噛むと、左手が温かいものに包まれた。見ると、それは輝夜の右手だった。
輝夜は慈しむような穏やかな顔をしていた。
「あなたは誰かの不幸に真剣に悩めるような優しい人で。だけど核心をたまに見失ってしまうお馬鹿さんで。
どうか忘れないで。自分にとっての最良が、必ずしも他人の最良にはならないことを」
そう言うと、輝夜は儚さのにじんだ笑顔をこぼした。
しばし、言葉をはさまずに二人は見つめ合っていたが、
「さーてと」
と、急に輝夜は立ってうーんと伸びをする。「もう寒いし、帰りますか」
妹紅もゆるゆると立ちあがった。左手を触ってみると、確かな温かさがあった。
「……そういえば、なんで殺し合いをしようって言ったんだ?」
「ああ、それね。あなたの意見に物申す前に、昔に殺し合っていたときの気持ち――つまりあなたが父親に抱いていた気持ちを想起させたほうが説得力があるなあ、て思ったの」
なるほど、と妹紅は小さくうなずいた。少し遠回しだなとも思った。
ふと押し入れの奥のレコードを思い出す。なんだかそれがいっそう愛おしくなった。
そして、
――どうか忘れないで。自分にとっての最良が、必ずしも他人の最良にはならないことを。
輝夜のさっきの言葉を強くつよく噛みしめた。
「――じゃあ、薬箱をお願いね」
はいはいと最初のように携える。ずしりと重いけど、今日の輝夜のお礼と思えば億劫にはならなかった。
しかしいつか包帯代は払わなくては、と苦笑する。
二人はゆっくりと歩き出し、この場を去っていった。
――が、手袋とマフラーを忘れた妹紅が輝夜に怒られながらも取りに戻ったのはすぐのことである。
◆ ◆ ◆
こんな苦労はしなくてもいいものだ。
長いながい石階段をのぼりながら妹紅はふうと息を吐く。
飛べば楽に到着できることなんて知っているが、それをしないのは妹紅が楽することになんとなく後ろめたさを感じるからだった。
神社という神聖なところを訪れる場合、ずるをせず、自分の足を使わないとなんとなく神様を侮辱している気になるのだ。
もちろん確固たる理由はない。すべてはなんとなくの話なのである。
のぼり切ると、赤と茶色の中間色をした鳥居にたどり着いた。鳥居の無数の剥げとひびにこの場所の長い歴史を感じる。
石畳が本社まで伸びていた。呼吸を整いてから歩みを再開する。
庭をほうきで掃いていた少女は、近づいてくる妹紅に気づくと口をへの字にした。
「おはよう。一昨日ぶりかな」
「なにしにきたのよ?」
「なにって――神社に来たらお茶の一杯は奢ってくれるって巫女様が言ってくれたもので」
霊夢はほうきで体を支えるように立ち、じろりと睨むような目つきで妹紅を見てくる。不機嫌そうにも見えるのだが、会うたんびにこんな顔をしているのでたぶんこれが普通なのだろう。
口を一文字に結んでいた霊夢は、だしぬけに妹紅へほうきを突き出した。
「ん」
「な、なんだよ」
「庭掃除お願い」
なんだかお地蔵さんのような重苦しさと威圧感でほうきを渡してくるものだから、ついつい受け取ってしまった。
「お茶の準備してくるわ」
霊夢は踵を返して縁側にあがり、そのまま本社のなかに消えていった。
つくねんと立ちつくす妹紅。吹いた風に枯れ葉はかさかさと乾いた笑い声をこぼした。
とりあえず、掃除するか。
働かざる者食うべからず――どうやら博麗神社では掃除をしなければお茶の一杯にもありつけないらしい。難儀なものである。
ざっざっと庭を掃いていく。冬ということで落ち葉はとても少なかった。
あらかたの葉を集めたところで、縁側におぼつかない足取りで霊夢があらわれた。お盆には急須と湯のみ二つとお煎餅が乗っている。
働いたしいただいてもいいのだろうと判断して、縁側に腰かけた。マフラーと手袋を外す
霊夢は二つの湯のみにこぽこぽとお茶を注ぎながら、
「庭掃除、ありがとう」
と、ぶっきらぼうながらもどこか幼さが残る声で言った。
少女だ、と妹紅は思った。
「どういたしまして」
隣に霊夢が落ちついたのを横目で見、湯のみに口をつけた。
薄いのに苦みのはっきりした味だった。
ずりずりとお煎餅の乗った皿が妹紅に近づいてくる。正面を向いたままの霊夢が押していた。
頭を小さくさげてから一枚食べた。
醤油のしょっぱさが強い味だった。
かき集めた落ち葉を朝日が照らしている。
「――なあ、私たちが会った一昨日の話なんだけど」
「なに?」
霊夢はちょうど顔をほころばせながらお煎餅を食べているところだった。本日初の彼女の笑顔が自分にじゃなくてお煎餅に向けられるのはなかなか悲しいことである。
「あなたが猫と一緒にキノコ狩りをしてたときでしょ」
はて、キノコ狩り?――首をかしげた妹紅だが、そういえばそんな言い訳を言ったっけと遅れながら合点した。
なんで博麗神社に誘ってきたのかを訊ねようと口を開く。が、あのときに霊夢が泣いていたことを思い出して言葉が喉もとにとどまった。
「……三毛猫」
「うん?」
霊夢が妹紅の目を見た。
「私が訊きたかったのは、なんであなたがあんな三毛猫を連れていたかよ」
「あんなって――どういう意味だ?」
「そのまんまの意味よ。わずかに、ほんのわずかにあの猫から妖力を感じたわ。妖怪なんでしょ?」
妹紅は心底驚き入った。
自分も輝夜も感じられなかったあいつの妖力を、こいつは初見で見抜いたのか?
博麗の巫女。幻想郷のバランサー。それゆえ、人間にも妖怪にも肩入れをせず、常に境界線上でやじろべえのように平衡を保ち続ける者がこいつなのだ。
それは、もしかしたら彼女の存在自体も煮え切らないということを意味するのではないだろうか?
つまりこいつは、人間でありながら人間一辺倒ではなく、妖怪ではないのにどこか妖怪じみているということだ。だから三毛猫の正体を聡く見破れたのではないか。
私は案外、すごい奴とお茶を飲んでいるのかもしれない――妹紅はぽつりと考える。
「ねえ、話聞いてる?」
大根ぐらいならすっぱり切れてしまいそうな鋭い眼光で睨んできた。
幻想郷のバランサーはご機嫌斜めである。
「あ、ごめん」
「――まあいいわ。それで質問よ。なんで妖怪猫なんか連れてたの?」
「拾ったんだ。んで、飼ってる」
ぴりっと心が痛くなる。正確には『飼ってた』、かもしれないな。
昨日出ていったきり、三毛猫は妹紅の家に帰ってこなかった。今朝、輝夜は来たものの三毛猫の不在を聞くと不平を垂れ、しばらく妹紅と駄弁を弄して帰っていった。
そのあと、妹紅は手持ちぶたさでなんとなしに博麗神社を訪れたのだった。
「ふーん」と曖昧な声をもらしてから霊夢は前を向いてお茶をすすった。そしてお煎餅を手に取り、自分の口をしゃべることから食べることへとシフトしてしまった。
話が途切れる。沈黙がお茶請けに加わった。
空気が硬くなったような居心地の悪さ。妹紅はあたふたと一人で慌てた。
「えーと……」
「どうかした?」
「なんかさ、他に質問とかないのか?」
「たとえば? 名前とか?」
「んー、ほら、妖怪猫と暮らしてみてどんな感じとか、なんか特殊なことなんかなかったのか、とかさ」
「あなた、もしかしてかまってちゃん?」
「違うやい。ただ、私の話にもうちょっと興味とか湧かないのかよ」
「湧かないわね」
ほうきで掃ける枯れ葉のように軽い調子で答える。妹紅はいささか気圧された。
「あなたが誰と暮らそうと興味ないし、妖怪猫だってどうでもいい。
もっと言っちゃえば、私は、他者にも自分にも絶対に固執しないの」
「冷たいなあ」
「冷たくて結構」
そこで霊夢は顔に陰を落として、ぽつりと呟いた。
「どうせ、悲しくなるだけだし」
「なんか言ったか?」
「別に」
霊夢はふたたびうれしそうな顔でお煎餅をかじり出した。妹紅は不思議そうに相手の様子を眺めていた。
さっき、なんと言ったのだろうか。
気になったが、答えてくれなさそうなので忘れることにした。
妹紅は湯のみを両手のひらで包むように持ちながらぼんやりと考える。
博麗霊夢。彼女のことがよく分からない。
もちろんまだ出会って日も浅いから当然といえば当然なのだが、なにか腑に落ちない。
なんだか霊夢は纏っているものが凡夫とは異なっている気がするのだ。
輝夜は昨日、どんな服を着たところで人の価値は変わらないと言った。しかし霊夢にいたっては、本人の価値さえも変えてしまうような服を着ているような気がするのだ。それは純粋な衣服のことではない。
もっと曖昧で、不明瞭で、でも確固なもので――。
分からない。言葉が見つからない。
妹紅は視線を霊夢にやった。
いつもは不機嫌そうな顔をしている少女。お煎餅を食べるとうれしがる少女。
そして――
涙を流す少女。
また一昨日のことを思い出す。あのときの霊夢の涙は――。
質問しようかと口を開いたが、また閉じる。訊いてもいいのか線引きがなかなか引けない。
妹紅が煩悶していると――
やにわに強い風が吹いた。
せっかく集めた枯れ葉が舞う。反射的に妹紅は自分の髪を抑えた。
そのとき、霊夢のスカートのすそが少しだけ翻った。
はっと息を飲む。妹紅は驚き、続けて渋面をつくった。
「――なあ、膝を見せてくれないか」
衣服を正していた霊夢は肩を揺らし、次に悔しそうな顔をした。
それでも茶化すように答える。
「なんでよ。そう言って私の下着でも見るつもりなの?」
妹紅は無言で相手の顔を見つめた。霊夢は俯きながら耐えるように歯を食いしばっていた。
根負けしたのは霊夢だった。
「……分かったわよ」
ゆるゆるとスカートのすそを膝の少し上までたくしあげる。
妹紅はそれを認めると、眉間にしわを刻んで苦しそうな顔をした。
霊夢の両膝には白い包帯が巻いてあった。その包帯にはじわりと血が大きくにじんでいる。
まるで赤い斑を持つ白蛇が彼女の足を締めあげているようだった。
「――どうしたんだよ、それ」
霊夢はなにも答えない。俯いたままだった。
妹紅は訊ねたものの、心当たりが一つあった。
「これは、私の想像なんだけど、慧音に退治を依頼された妖怪にやられたんじゃないか?」
相変わらずの無言だったが、彼女はおもむろにスカートのすそを戻した。
「……なあ、もしかして体中傷だらけなのか?」
妹紅は静かに、切々と言葉を相手に投げかける。
前髪がはらりと目を隠していた霊夢は、やがて顔をあげて深くため息をついた。
諦観の色が吐息ににじんでいた。
前を見たまま、
「まったく、包帯代がえらくかかるわ」
と言い、微風にも消えてしまいそうな淡い笑顔を浮かべた。
「ねえ」
「ん」
「一つ、お願い」
霊夢は妹紅を向いた。
「少しだけ寄っかかってもいいかしら? ちょっときつくてね」
妹紅はなにも言わずに横に動いて二人の距離を縮めた。
かたむいて霊夢が相手の左肩にこてんと頭を乗せる。
「ありがとう」
かすかな温かさが肩に伝わる。彼女の髪が左頬をくすぐる。
心がぴりっと痛くなる。
「――あなたと阿求が墓参りに来たとき、私と会ったでしょ?
あのあとね、件の妖怪の巣を見つけたの。意気込んで行ったら、数がびっくりするぐらい多くて、返り討ちに遭っちゃったわ。まさか他の奴らが奇襲してくるとは思わなかったわ。どっか油断してたんでしょうね、私」
おかげでこの有り様――わざと重さをなくして軽い調子にした彼女の言葉が、妹紅の心に小さな切り傷をたくさんつくる。
「あいつら、巣を移したみたいで一昨日は一日中探したけど見つかんなくて。
そんで昨日。やっと発見してもう一回突撃したら、また返り討ち」
当然だ。ぼろぼろな体がそんなすぐに回復するわけがない。コンディションが最悪なままで再戦を迎えたのだろう。
「あなたは運がいいわ。今日もこれからあいつらのねぐらを探しにいかないといけないの。そろそろ出発しようかなってところであなたが来たものだから、入れ違いにならずに済んだわね」
「……なんでそこまでやるんだよ」
「あなたには分からないわ」
心にできた傷から熱いものがこぼれて、それらが言葉になっていく。
「おかしいじゃないか。きつかったら誰かに頼ればいいじゃないか。ちょっとぐらい休んでもいいじゃないか。なのになんでだよ」
「あなたには分からないわ」
霊夢は平らな声でくり返し、それから、
「私は博麗の巫女だもの」
と小さな声で言った。
「なんだよ、そりゃ」
「私は博麗の巫女なの。幻想郷の秩序を守り、この世界のイレギュラーを正す役目を背負ってるの。
だから私は妖怪退治を一人でやりこなさなければいけない」
「分かんないね」
「私は、ここ博麗神社に永住させられ、巫女服以外を着ることは許されない。
化粧だって禁則事項。博麗の巫女はいつだって着飾らぬありのままの姿で行動し、民草の余計な感情をあおってはいけない」
「ますます分かんないね」
「それでもかまわないわ」
霊夢を言葉を発するたびに、彼女の寄っかかった重さはするすると妹紅の体を通り抜けて、自分が誰かを支えているという実感もなくなっていく。
こいつを支えてあげられているという気持ちは私の驕りだったんだ――言い知れぬ悔しさが込みあげてきた。
「博麗の巫女は、いわば幻想郷の大事な歯車なの。潤滑に万事を動かすために絶対必要不可欠な存在。
また――そうね、住民の指標ともいえる。私が依頼の完遂という期待に応えられなければ、この指標は揺らいでしまう。指標がおぼつかなかったら、人々はなにを信じていいのかも分からなくなってしまうでしょ?
それじゃ駄目なの。だから、私はあまねくものに固執しない。固執しちゃ――いけないの」
ゆっくりと霊夢の頭が妹紅から離れていく。かたむいていた体はすっと伸ばされる。
あらゆる意味で均衡を保っていないといけない彼女は、かたむき続けてはいけないのだろう。
妹紅はふと、霊夢の体中が包帯で巻かれている姿を幻視する。
その包帯は想像上で白い蛇へと変じ、いっそう強い力で巻きついて彼女をがんじがらめにする。
それでも霊夢は耐えている。体のいたるところから血がにじもうとも気丈に。
――そうか。
妹紅は合点した。
霊夢に感じた、一般人とは異なるなにかを霊夢は纏っていると思ったが、その正体はたった今幻視した白い蛇だ。
絶対に外すことのできない白い蛇――。
納得するやいなや、今度は急激に頭に熱がのぼった。
「――やっぱり、おかしい」
「無理に理解しなくて結構」
「なんでお前はそんな平然としてるんだよ!」
叫んだせいで喉がひりひりと痛くなる。霊夢は宙を見たまま動かない。それがいっそう腹立たしかった。
もちろん妹紅だって知っている。彼女に怒りをぶつけたところで、なににもならないことぐらい。でも言葉が止まらなかったのだ。
「自分を無味乾燥な歯車にたとえておきながら、どうして落ちついてられるんだよ! お前だって血が通ってるんだろ!?」
「関係ないわ」
「ある! お前は生きてるんだ。冷たい言葉で自分を割り切るな!
お前に夢とかないのか? 憧れとかないのか? やってみたいこととかないのかよ!?」
そこで霊夢が妹紅を睨んだ。悔しそうに口もとをゆがめながら、頬に一滴のしずくがつたいながら。
こいつだって泣くのだ――。
霊夢は小さな手で相手の胸倉をつかみ、もう一粒、涙を流した。
「あんたになにができんのよ! 今、私がここで弱音を吐いたら博麗の巫女の任は解かれるの!? 自由の身になれるの!?
やりたいことだってあるわよ! 私だって――」
すうっと息継ぎをする。彼女の頬の涙はもはや数え切れない。
「――私だっておめかしをしてみたい! 綺麗な洋服を着てみたい! 唇に朱をさして、おしろいなんかもつけてみたいの!
だけど、できやしないの……」
霊夢の怒声は弱くなっていき、後半は涙声になっていった。
妹紅は惚けたように黙り込み、しばし彼女の叫びの余韻に身を沈めていた。
「――ごめん」
やっとのことで絞り出した言葉に自分でも馬鹿らしさを感じる。
霊夢はすっと胸倉をつかんでいた手を離した。ごしごしと拳で顔を拭ってから、
「今の言葉、絶対に秘密だからね」
と照れくさそうに、でもぶっきらぼうに言い放った。赤い目と頬に涙の残滓を見た。
そうか。
こいつは、少女なのだ。
人間離れした力を持ち、浮世離れした役職をになっていても――
こいつは、どうしようもなく人間じみた少女なのだ。
己を捨てようと腐心するばかりに、いっそう愛おしく抱きしめてしまった少女なのだ。
妹紅は気づくと同時に、自己嫌悪におちいった。
二人はしばらく無言を続ける。お互い空になった湯のみを、しかし手に持ったままだった。
後悔を手土産に、妹紅がそろそろ帰ろうをしたとき、空に浮かぶ小さな黒い粒を認めた。
カラスなんかではない。その黒い粒はだんだんとこちらに近づいてきているようだった。
「――魔理沙だわ」
霊夢が空を見ながらぽつりと呟いた。続けて、妹紅を向いて、
「私が妖怪退治を依頼されてるの、あの子には内緒にして」
反論せずにこくりとうなずく。どうせ自分の言葉に意味なぞないのだ。
「どうせ言ったら、魔理沙は私のために首を突っ込む。それでケガでもされたら、私――」
なにも答えぬ妹紅にしっかと言い切った。
「あいつはね、キノコと魔法が大好きで口うるさい――私の大切な奴なの」
そこで、霊夢が今日一番の笑顔を見せた。
妹紅の心にまた一つ、切り傷が増えた。
魔理沙が庭におり立つ。巻き起った風がふわりと落ち葉を舞わせた。
「――よお」
にかっと輝いた笑顔を浮かべ、挨拶をする。が、妹紅を見て首をひねった。
「珍しい奴がいるな」
「ちょっと暇でね」
「そうかそうか。ならゆっくりしていきな」
「ちょっと、魔理沙。ここは私の家なんだけど」
「おお、もちろん存じてるぜ。ここは博麗霊夢さんの家。霧雨魔理沙さんの家だったらこんなことは言わん。なんせ私の家はゆっくりできるスペースなんてないからな」
「あんたまた散らかしたの? この前の大掃除で片づけたでしょうに」
「そうだな。じゃあちょくちょくガラクタを賽銭代わりに持ってくるよ」
自分のとき以上によくしゃべる霊夢に驚いた。呆気にとられながら二人のやり取りを眺める。
美味しそうにお煎餅をかじっている魔理沙に、霊夢はお盆を持ちながら言った。
「せっかく来てくれたところ悪いけど、用事があるから私はここを空けるわよ」
「まじかよ。つれないなー」
ぶーぶーと不満をもらしているうちに、霊夢は障子を開けて本社のなかに入っていった。
お煎餅を食べおえた魔理沙は、妹紅をまじまじと見ながら言った。
「ほんと、珍しい来客だな」
「そうだろうね」
「霊夢とお前がなにを話すのかなんて、皆目見当もつかんな」
「私も来る前に見当もつかなかった」
「なにを話したんだ? たがいの頭に乗った大きなリボンの話か?」
「違うわ」
妹紅はそこで少し言葉を濁し、すぐにおどけるように言った。
「まあ、あれだ、しゃべる三毛猫の話だな」
「なんだそりゃ」と魔理沙が笑う――ことはなかった。むしろ、
「ああ、あいつのことか」
とこともなげに相槌を打った。
妹紅は予想外のことに慌てる。
「し、知ってるのか?」
「ああ、ちょっとな。あっ、これは口止めされてるんだっけ。……まあ、自分の存在を他言するなって言ってただけだし、あいつの存在を知ってる奴には隠さなくてもいいか」
ひとりでに納得する魔理沙に、妹紅は詰め寄った。
「なんか話したのか?」
「まあな」
「どんな内容だ?」
「うーん、会話、というよりは『お願い』をあいつにされたな」
「お願い?」
「そう。しかも奇天烈なお願いだ。
面白そうだから乗ったけど、あまりにも突拍子もなくて、魔法使い仲間に訊いたり、紅魔館の図書館に行ったりと大変だったよ」
妹紅の頭のなかに三毛猫が浮かぶ。あいつが、魔法使いに願うこと――?
一体、なんだ?
「なあ、教えてくれよ」
「いいぜ」
魔理沙はしかつめらしい顔で、もったいぶりながら言葉を続けた。
「それが――」
◆ ◆ ◆
それが、そもそもの間違いだったのです。
博麗の巫女様につき添いを頼んだことが、そもそもの間違いだったのです。
――いや。
この悲劇の原因は、もっと根っこの部分なのでしょう。
つまり、私が生まれたこと。
不十分な阿礼乙女の誕生。
そうだ、分かり切っていたことではないですか。
私は忌むべきことに気づいていながら、さも羊水に浸る胎児のように安穏な日々に身を沈めていたのです。
外道という言葉さえ生ぬるい。
しかしたった今、私の目は覚めて、睡余の思考は妥当な答えをはじき出しました。
すなわち――
ごめんね、ミケ。
このような人非人があなたを拾ってしまったことを、ただ詫びるばかりです。
あなたは私を怨むのでしょう。捨てられた理由も分からず途方に暮れ、それでも心のうちでたぎる黒い感情を死ぬまで抱えるのでしょう。
でもね、いつの日か――絶対に来ないでしょうけど、いつの日か、私の本心に気づいてくれたらうれしいと、道理の通らぬ希望をいだいてしまうのです。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
そして、さようなら。
私は最後まで、あなたのことが――
◆ ◆ ◆
博麗神社をあとにし、人里で昼食を取っているうちに空模様は怪しくなっていき、阿求の家を訪ねたときには綿埃をすき間なく敷き詰めたような曇天になっていた。
空気が冷え切っている。雨ではなく、雪が降るかもしれない。
立派な門をたたくと女中が出てきた。阿求に会いたいと用件を伝えたら、しばらくしたのに客室に通された。
客室の広さは十六畳あり、妹紅は自分の家と鑑みてたいそう驚いた。そこで、廊下を歩いていたら襖がいくつも見たことを思い出す。自分と阿求の違いを形でもって認識した瞬間であった。
出されたお茶をすすっていると、襖が開いて、
「――お待たせしてしまい、すみません」
と、なかに入ってきた阿求が折り目正しくお辞儀をした。
彼女は端正な動きで妹紅の対座に落ちつき、ふたたび頭をさげた。
「先日はどうもお世話になりました」
「いやいや、気にしないでくれよ」
かしこまられて、胡坐をかいていた妹紅がいそいそと正座をする。
そして、阿求は相変わらずの人当たりのよさそうな笑みを浮かべながら、
「ときに、本日はどういったご用件で?」
と訊ねた。
妹紅はためらいながらも言った。
「あー、えーとさ、もしかしたら長話になるかもしれなくてさ――まあ言い切れないんだけど――だから、時間は大丈夫か?」
「ええ、もちろん。私は人一倍寿命が短いくせに、人並み以上に暇な時間が多いのです。なのでお客様はいつだって大歓迎ですよ」
「幻想郷縁起の編纂とかいろいろあるんじゃないか?」
「もう大方できていまして。それに取材などはあるものの、この仕事は時間に縛られることはほとんどないんです」
妹紅は「分かった」と相槌を打ち、それから顔に浮かべた笑みを薄めた。
本当は言及するつもりなどなかった。だけど、博麗神社で魔理沙の話を聞いて訊ねたくなったのだ。
「そうだな、まず本題に入る前に確認させてくれ」
「どうぞどうぞ」
妹紅はすうと相手の顔を見すえる。
「私たちは、三日前の墓参り以前に、会ったことがあるか?」
ぴくりと阿求の眉が動いた。しかしすぐに愛想のいい笑みでそれも隠される。
「ないですよ。あのときが初めてです」
「……そうか。その言葉を聞いて自信が持てた。
実はな、私は四日前に人里に行ったんだ。そんときにどうやら私は誰かにあとをつけられていたらしい。
――その追跡者は、阿求、お前じゃないのか?」
妹紅の言葉は放たれると同時、まったくの余韻を残さず部屋のなかに消えていった。
阿求は笑みをくずさずに答える。
「正解か不正解かはのちに分かること。今はとりあえず、根拠を聞かせてください」
「ああ。証拠は持ってきているんだ」
妹紅は仰々しくない自然の仕草で、かたわらに畳んでいた手袋とマフラーをテーブルの上においた。
さすがに阿求も動揺して笑みが揺らいだ。
「――手袋とマフラー、ですか?」
「そうだ。これらとお前の発言を鑑みると分かるんだ」
「ではおっしゃってみてください」
足が痺れてきたので胡坐をかいた。小さく息を吸う。
「墓参りのときだ。あのとき、お前は私のマフラーと手袋が同じ柄――オレンジに白のストライプだと言った。もちろん覚えてるよな」
「当然です。むしろ交わした会話、一語一句違えずそらんじることだってできます」
「さすがだな。――お前はきっとなんとなしに言ったその発言は、その実おかしなことなんだ」
「なぜでしょう? 私の目は節穴ではないので、ちゃんと見えますよ」
「見えていたなら、お前の目は節穴どころかもっと異常だよ。
墓参りの行きのとき、私は、お前が来る前から柄を言及されれるまで――手袋をポケットに入れてたんだ」
あっ、と阿求が声をもらす。塗ったような笑顔が消え、今は苦い表情をしていた。
当たり前のことだ。本来はポケットにしまった手袋の柄を当てられたなら、それは透視をしたか、はたまた一度見たことがあるかのどっちかである。
阿礼乙女には求聞持の能力はあるものの、透視はできまい。ならば理由はただ一つ――。
「確かに手首の部分はのぞいていただろう。でもさ、私の手袋、手のひらから白のボーダーが入ってるんだ。なのにお前はマフラーと柄が一緒だと言ったわけだ。考えられる理由は――墓参り以前、お前は私を見たことがある」
ここまで来ると妹紅の口は止まらなかった。阿求はいつの間にかつくりものでない諦観の笑みをたたえていた。
「じゃあ、お前が私を――いや、この手袋を見たのはいつか。
実はこれは最近、私の友達からもらったものなんだ。もらってからある一日を除いて、墓参りまで私はずっと家にいた。阿求が迷いの竹林を訪れるというのは考えられないから、その一日に手袋を見たんだと思う。
その日は、墓参りの前日――人里を訪れた日だ」
妹紅はそこでテーブルの上の手袋とマフラーを自分の横におく。
「なのにお前は墓参り以前に会ったことはないと言った。でも前日に会っていなきゃ説明ができない。
私はこう考える。これは、前日に言えないような後ろめたい形で私と会っていたんじゃないかと」
それがつまり、追跡という形なんじゃないか?――最後は疑問形にして、妹紅は自分の推理を結んだ。
はあと息を吐いてからお茶を飲み干す。久しぶりに長々としゃべったせいで喉がひどく乾いた。
湯のみをテーブルの上に戻して、もう一度息を吐いた。
「と、まあ、まどろっこしい説明をさせてもらったけど、私はこの推論が合ってると胸を張れるわけじゃない。違うなら違うって言ってくれ。人をいやしめたんだ、頭をさげて詫びさせてもらう」
「――その必要はありません」
答えると同時、阿求は無駄のない動きで妹紅の湯のみにお茶を注いだ。そして、
「妹紅さんの推測どおりです。あなたのあとをつけたのは私です。すみませんでした」
と頭をさげながら詫びた。妹紅は慌てながらたしなめる。
「いや、別にいいって」
追跡されただけでこちらには物理的にも精神的にも実害はなかったのだ。だから気にしないでほしかった。
やっとのことで頭をあげた阿求は、小さな声で「すみません」とふたたび謝った。
「いいって。迷惑かけられたわけじゃないし」
だけど――妹紅はばつの悪そうに続けた。
「なんでついてきたのかは、気になる、かな」
「それがですね――」
阿求の歯切れが悪くなる。
喉もとまで言葉はせりあがっているのに、その正当性にはなはだ疑問を抱いているような雰囲気だった。
どうしたのだろう。
妹紅は釈然としないものを感じる。
苦い顔をしていた阿求が、観念したように言った。
「実は――私も理由が分からないのです」
「へっ?」
どういうことだ、それは。体を誰かに乗っ取られたとでも言うのか。
しかし、相手の本気で困っている顔を見ると、どうやら冗談ではないらしい。
「私にも分かりません。でも、たまたま妹紅さんの隣の三毛猫を見つけたら、なぜか体が動いていて、ずっとついていってしまって。途中で妹紅さんと三毛猫が路地裏に消えていったところではっとなって、帰ったんです」
「……もしかして、『三毛猫』というものに懐かしさを感じるのか?」
「どうでしょう、上手く言えません。でも三毛猫を見たとき、心がじくじく痛くなり、でも痛む心をあったかいものが包みまして。とにかく目が離せなくなってしまったのです」
そうか――。
今日魔理沙に会って、阿求が前世のことがどこまで覚えているのかが気になったのだ。
三毛猫のことを覚えているのかが心配になったのだ。
だけどこの話を聞いて分かった。彼女は、覚えていない。曖昧な感情しか思い出せていないんだ。
報われないと一言で片づけるのは楽だけど、それこそあいつへの冒涜だ。
「――どんなことなら覚えてるんだ?」
気がついたら質問していて驚いた。どうやら自分は彼女の記憶のかけらをかき集めようとしているらしい。
往生際が悪いな。
阿求は少し俯き、目鼻に拭えぬような陰を落とした。
「幻想郷縁起に関わること。そして阿弥の代の、博麗の巫女についてです」
――三十四代目の博麗の巫女は、私が殺したのです。
墓場で言われた台詞を思い返す。あのときは踏み込んでいいのか線引きが引けなかった。
だけど――
「すまないが、覚えていることを教えてくれないか? なんでもいいんだ。もちろん苦しいなら無理をしなくてもいい」
今はためらうことなく踏み込める。
しばらく間を空けたのち、
「分かりました」
と阿求がうなずき、妹紅をしっかと見つめた。
空気がきりりと引き締まった気がした。
お茶で喉を湿らせた彼女は、口を開く。
「――阿弥は、一人ぼっちだったのです。人に囲まれながらも、常に孤独だったのでした。
彼女はみなから嫌われていて、自分の立っている居場所が分かりませんでした。そして自分自身でも嫌ってしまったせいで、立っていることさえできなかった」
前世の自分を『彼女』と呼称することに少し驚く。
どうやら『阿求』と『阿弥』の自己は異なっているらしい。
「歴代の阿礼乙女と鑑みても八代目は異端でした。だから――」
「なあ、前から思っていたんだが、阿弥はどういう人物だったんだ? 他の奴もあいつは変わってるって言っているんだが、そんなにおかしかったのか?」
三毛猫も彼女は普通の人とは違うと言っていた。
阿求は困惑の色を浮かべる。
「知らないのですか?」
「全然知らないんだ。恥ずかしい話、阿礼乙女という存在の詳細は最近慧音に教えてもらったばかりだ」
「妹紅さんはずっと生きていたんですよね? その、阿弥の代から」
「そうだな。でも人里にかかわり始めたのは半月前ぐらいの永夜異変のあとからだ。それまでは迷いの竹林にこもるように生きててね。
歴史自体に興味もなくて、慧音から人里の昔話なんかも聞いてないんだ」
百年ぐらい前の話だ。妹紅は迷いの竹林で長々と自給自足の生活をし、人里はおろか、幻想郷ともかかわりを持っていなかったといっても過言ではない。
人里を訪れた回数など片手で足りてしまうほどの出不精――というより、もはや病的なまでに内向的であった。
面倒くさいと思ったのだ。人と縁を持ったところで、なにになるのだと真剣に分からなかった。
なにせ自分は永遠を生きる蓬莱人。相手は絶対に寿命で死んでしまう。そんな刹那的な関係など、悲しいだけじゃないか。
しかしひょんなことから慧音とかかわって、外というものを知っていった。
そのころにはすでに阿弥は死んでおり、慧音は思うところがあったのか彼女の話題は話さなかった。妹紅も興味がなかったので訊ねなかった。
そして、変わらぬ状態で現在にいたる。
なので阿求の話す阿弥がどういった人物かはまったく分からないのだ。
阿求は「そうなのですね」と小さく言ってから、「了解しました、彼女のそれを話しましょう」と続けた。
「阿礼乙女というのは爾来、体が弱いのです。だから病弱なのは阿弥も変わりません。
しかし生まれて間もないころ、阿弥は病気で大切なあるものを失いました」
悲しげな視線で妹紅を見やる阿求は、右手の人さし指で耳をさした。
「そ、それって――」
「そうです。稗田阿弥は――耳がまったく聞こえなかったのです。聾者と呼ばれる障害者でした」
返す言葉が見つからない。出かかるものの、すんでのところで声にならない。
押し入れにしまったレコードが頭をよぎる。三毛猫がずっと聴いていたもの。
あいつは、曲を主人と一緒に聴いたことがなかったのだ。
共有、できていなかった――。
妹紅の頭のなかでレコードを預けたいと言ったときの三毛猫の声が、壊れた蓄音機のようにリフレインした。
「この欠陥が彼女を不幸たらしめた原因です。
もっとも致命的だったのが、阿弥の仕事に多大な支障をもたらしたことでした。幻想郷縁起の編纂のための取材は一人ではできませんでした」
そこでつき添いとして、博麗の巫女が選ばれたのです――阿求は懺悔するように言った。
湯のみのお茶はとうに熱を失っている。
「妖怪たちと会話するときは彼女を仲介しました。とても手間がかかったというのに、博麗の巫女はいつだって嫌な顔をせずに手伝ってくれた。
――そして阿弥は、取材が終わるたびに自宅で手首を切りました」
妹紅が眉をくもらせる。なんと答えていいのか分からない。
「阿礼乙女は幻想郷縁起を執筆するためにこの世に生を受け、生きるのです。閻魔様のもとで百年近く準備して、生まれ変わったら幻想郷のために働くのです。このことは知っていますよね?
それが、絶対の使命。
されど阿弥はこの使命は満足にこなすことができなかった。いつだって人の手を煩わせる。一人じゃできやしない
彼女は自分の生きている意味を見失っていました。だから手首を切ったのです。己の真っ黒なぐちゃぐちゃの気持ちをそこに刻み込むように」
「使命、か……」
ぽつりと呟くと、さっき会った霊夢の顔が浮かんだ。
博麗の巫女。幻想郷のバランサー。
今日、泣いていた少女。
そうか、幻想郷で使命をになうというのはそういうことなのか。
「苦しみながらも生き続けた彼女は、しかし大きな契機を迎えました。それが、博麗の巫女の死です。
その日もいつもどおりに二人で取材に行き、終えたあとの帰り道に悲劇は起こりました。
獣じみた妖怪に囲まれてしまったのです。博麗の巫女は強かったけど、いかんせん数が多かった。彼女は必死に戦ってくれましたが駄目だった。どうやら里の人々が助けに来てくれたらしくて、阿弥は重傷を負いつつも助かりました。だけど――」
声を震わせて、阿求は黙り込む。俯いているが歯を食いしばっている口は見えた。
「阿弥は後日、幻想郷縁起を編纂しおえた次の日に命を絶ちました。手首を切るんじゃない。喉もとに小刀を突き立てたのです。
でも罪の意識は私の代にも消えないのです。腕を半分食いちぎられようと全身を鮮血で染めようとも戦うことをやめなかったあの人の姿が、いつでも浮かぶのです。
だから、博麗の巫女は前世の私が殺したのです」
阿弥のことを彼女と呼称していた阿求は、しかし殺した人物だけ『前世の私』と言った。
小さな肩を震わせる彼女を見ていると、自分と相手のあいだのテーブルがどんどん広がって、言葉を発しようとも手を伸ばそうとも届きやしない、という諦めを感じた。
壁時計の無機質な秒針の音にいら立ちを覚える。
「――話を聞いてすまなかった」
「いいのです。勝手にしゃべり出したのは私だったのですから」
違う。三毛猫のためといえ、不躾に話を振ったのはこちらなのだ。
何度も謝罪をしてから、妹紅は立ちあがった。
「じゃあ、お暇させてもらう」
「では見送ります」
「いいよ」
「遠慮なさらず」
そう言うと、阿求も立って妹紅の先導を始めた。もう一度謝ってからあとに続く。
広い屋敷。長い廊下。
似たような景色を見続けていると、幻術にとらわれているような心持ちになって不安定な気分に拍車がかかる。
玄関にたどり着き、靴を履いていると阿求が言った。
「――でも、おかしいとは思うんです」
なにがだ?――マフラーを首に巻きながら妹紅が訊ねる。
「手首を切るというのは、擬似的な死を経験してその場しのぎで心の安穏を得る、いわば精神薬みたいなものなんです。
だけどこの薬は劇薬で、心への負担も大きい。こんなものだけに数十年も頼っていたらもっと早く命を絶ってもおかしくはないと思うのです」
「つまり、どういうことだ?」
手袋をはめている妹紅に、いつもどおりの笑みを浮かべた阿求が答えた。
「つまりですね、他にも私の心を支えてくれたものがあるじゃないか、ということです。記憶にはありませんが。
もっと温かくて、死ぬことがためらえるほどの幸せな時間が、阿弥にもあったのではないか、とときおり考えるんです」
そこで阿求は少し照れくさそうに目を伏せた。
「おかしいですよね、こんなの」
「……あったんだよ」
「えっ?」
妹紅は相手に背を向けたまま続ける。
顔を見たら泣いてしまいそうだったのだ。
「きっと、そんな時間があったんだ。それだけじゃない。阿弥のことが好きでたまらなかった奴もいたんだよ」
「いませんよ、そんな人」
「いるんだ。長いあいだ悲しんで苦しんで、それでも歌を口ずさむ奴がな」
「歌……」
阿求の声色が変わる。そして「関係あるか分かりませんけど」と前おきをしてから、彼女はおずおずと言葉をつむいだ。
「笑わないでくださいね。私、ある頼み事をしたのを覚えてるんです。誰に言ったかは分からないけど」
「どんな頼みだ?」
「変な内容なんですけど。
――歌を聴かせてほしい、と伝えた気がするんです。
歌というのもなんだか分かりません。相手も思い出せないんですけど。――やっぱり、おかしいですよね」
「――叶うといいな、それ」
妹紅はそれだけ答えると、「お邪魔しました」と言って玄関を開けた。
雪が、降っていた。
しんしんと静かに、しかしたくさん降っている。
幻想郷にばら撒かれる真っ白い結晶を妹紅は無感動に見つめた。
「はい」と後ろの阿求が番傘を渡してきた。
「いいよ」
「駄目です。風邪を引いてしまいます」
しぶしぶ受け取ってからお礼を述べ、妹紅は歩き出した。
最後に見た阿求は笑っていた。
番傘をさしながら道を行く。
人里は雪のなかでも賑やかさを忘れていない。
頭のなかに浮かぶのは、三毛猫と、霊夢と、阿求と、そして顔も知らぬ阿弥。
くらりと目が回った。
妹紅は番傘を強くにぎりながら雪に祈った。
幻想郷に深く積もってくれ。どこに目をやってもただ白一色しか存在しない世界にしてくれ。
そうすれば、こんな気持ちにならないで済むんだ。
冷たい雪は、降りしきる。
◆ ◆ ◆
「えー」と輝夜が唇をとがらした。続けて「つまんないわ」と文句を垂れながら妹紅を睨みつける。
「私に不平を言ってもしょうがないじゃないか」
「あなたがかぐもこに愛を注がないばかりに、あの子は拗ねてしまったのだわ。どうせ私に見ていないあいだに、猫背を直せとか無茶な注文もしたのでしょ」
「違うわい」
「じゃあ、どうして今日もいないのよ」
そこで妹紅は言葉を詰まらせ、ふんと鼻を鳴らしたあとに「知るか」と言った。
三毛猫は昨日に続き、今日も帰ってこなかった。雪が降っていたからふらりと帰ってくるものだと思っていたのだが――。
輝夜は今日とて朝に来訪し、面白くなさそうな顔でごろりと横になっている。
三毛猫以上にふてぶてしい奴である。
「最近触ってないなあ。あのもふもふした体を撫で回さなきゃ、私の朝は始まらないというのに」
「一生始まらなくていい。ずっと昨日を引きずっていろ」
妹紅が答えると、輝夜は上体を起こして不満そうな顔で見た。
「あなた、ずっとずっと不機嫌面してる。私が来たときから。まだ今日は妹紅の笑顔を私は見ていないわ」
「いつものことだろ」
「ううん」
輝夜は首を横に振ると、自分のほっぺたを両手で引っ張り「今のあなたはこんな顔してるの」と言った。
おたふく風邪をこじらせたような顔である。
「してない」とぶっきらぼうに答えると、輝夜が妹紅の頬目がけて手を伸ばしてきた。
「事実を歪曲するな」
がしりと相手の腕をつかみ阻止する。くっと輝夜が悔しそうに息をもらした。
「もう、ほんとにつまんない」
「頬を引っ張られるぐらいなら、つまらなくて結構」
「いつまでふて腐れてるのよ」
妹紅は気色ばみ「ふて腐れてなんかいない」と語勢を荒げた。
「いいえ、あなたは子供のようにへそを曲げてるだけ」
「だから違う――」
「認めなさい。どうせ私の知りえないなにかにまた頭を悩ませてるのでしょう。万事か解決する方法を考えながらも、見つからなくていら立ってるだけなんでしょう」
「……解決策を探してるわけじゃない」
小さな声で返し、妹紅は肩を落とした。ぎゅっと膝の上の拳をにぎる。
「ただ、疲れただけなんだ」
ぽつりぽつりと言葉をこぼす。
なにかしたいなんて大層な志は掲げていない。だって、なにもできないことぐらい知っているから。
自分にできることなど、ないのだ。
「私は、ただの傍観者にしかなれない」
「……そう」
輝夜は一言だけ呟くと、感情の読み取れない顔つきですっくと立ちあがった。
「そろそろ帰るわね」
「ああ」
「実は、鈴仙だけじゃなくててゐも体調くずしちゃってね。二人ともインフルエンザになっちゃたみたいなの。だから家のことを永琳一人に任せるにはいかないのよ」
「困ったわ」と平らな声で言うものだから、本心なのか判断がつかない。
妹紅が無反応でいると、彼女は、
「あら、見送りぐらいしてちょうだいな」
と続けた。
ゆっくりと立って、廊下を行く輝夜の後ろを歩いた。
さらりと揺れる黒髪を見ていたら、自分はまだ髪を梳かしていないことを思い出した。
玄関についた輝夜はしゃがんで靴を履いている。妹紅は下駄箱に引っかかった借りものの番傘をぼんやりと眺めた。
「――私ね、ずっと思ってることがあるの」
妹紅はかがんでいる輝夜の後ろ姿を見やった。
「私と長いつき合いの、藤原妹紅という人物は、要領も悪くて上手く立ち回れないし、そのくせ他者に感情移入をしやすいどうしようもない奴で。一言で表すなら、お馬鹿さんてことね」
一瞬頭に血がのぼったが、すぐに冷めて悄然とする。
靴を履きおわった輝夜は腰をあげて、くるりと振り返った。
満面の笑みをたたえていた。まるであまねく問題の解決策を知っているような清々しさだった。
後ろ手を組みながら上目づかいで歯を見せる。
「でもね私は、あなたみたいなお馬鹿さんが、難局でも惚れちゃうぐらいカッコいいことをしでかしてくれると信じてるの」
呆然としている妹紅をよそに、輝夜はすぐに顧みて、「じゃあまた今度」と言って戸を開けた。
外は白銀の世界に染まっていた。だが彼女は外に出て戸を閉めたので、白い世界は視界から消えた。
しばし立ちつくす妹紅。輝夜の笑顔と雪の白さが瞳に焼きついて離れない。
もう一度下駄箱のほうを見、それから居間へと戻っていった。
ふうと息を吐き、廊下を歩く。
――番傘、返しに行かなくちゃな。
居間には、輝夜の残り香がただよっていた。
太陽が西に大きくかたむき始めたころ、阿求に番傘を返そうと思い家を訪ねたが、彼女は不在ということで女中に渡しておいた。
途端に用事のなくなった妹紅は、昼食がまだだったことを思い出してたまたま目に入った茶屋に寄った。
外に据えてある長椅子の腰かけながら、注文した品が来るまで人里を眺める。
大通りの雪は路傍に寄せられていて、人が歩けるようになっていた。頭にはちまきを巻いた壮齢の男たちがスコップを携えて雪をかいたり、屋根の上で雪おろしをしている。
みな、寒いさむいとひとりごちたり友と歓談しながら往来を行く。店主と主婦は豪雪を話のネタに語り合っている。寒さに顔を赤くした子供たちはせっせと雪だるまをつくっている。
いつもどおり賑やかだ――妹紅は湯のみに口をつけた。冷えた体が奥のほうからあったまる。
頼んだ団子やら饅頭がやってきて、もそもそと口に運び始めたとき、
「――店主、私にもお茶と饅頭を頼む」
と言いながら誰かが隣に座った。「もう帰ってきたのか」
ちらりと横を見てから、ここは私の家じゃないと妹紅はため息を吐いた。面白くない冗談だ。
話を変えて訊ねる。
「雪かきか?」
「ああ。自警団と一緒にな」
「お前と同じはちまきを巻いているあの男たちのことか」
「そうだ」
隣の女性――慧音は、『自警団』と書かれたはちまきを外して首にかかっているタオルで額を拭いた。
こんな寒いなかで汗をかいている人間もいるのかと驚く。
「今日一日やってたのか?」
「まあな。朝からずっとスコップを振っているもんだからさすがに疲れたよ。
なあ、私汗くさくないか?」
「お前もそういうの気にするんだな」
「失敬な! 私だって女性だ、身なりには気を使っている」
慧音の顔をまじまじと見てみると、なるほど確かにうっすらと化粧がしてあった。
ふんと拗ねてそっぽを向く彼女は、しかし大福が来ると同時に顔をほころばせる。
頬を上気させながらかぶりついた。
「いやー、うまい。疲れてるときに食べる甘いものはやっぱりいいな」
「口の横に餡子ついてるぞ。それも化粧か?」
「ほ、ほっといてくれ」
頬に朱をさした慧音は慌ててお手拭きで口のまわりを拭った。
妹紅はみたらし団子を一つかじってゆっくりと噛む。甘しょっぱい味が口になかに広がる。
お茶を一口すする。濃い味で苦みの薄い緑茶。
博麗神社で飲んだものとは正反対である。
「……あのさ、やっぱり女性っていうのは化粧をしたいものなのかな」
「はあっ? お前も女性だろうに。質問がおかしいぞ」
「私は、もとよりそういうのに興味がないからさ。どうなんだ?」
慧音は胡乱な目つきでしばらく妹紅を見てから、とつとつと語った。
「みながみな、とはもちろん言い切れない。お前みたいな奴もいるだろうし。
しかし、人里の住人で妙齢の女性はほとんどが化粧をしているな」
「慧音も、おめかしをしたいと思ったか?」
「さっきも言ったが、私だって女性だ。その、なんだ、願望は、む、昔からあったさ」
照れくさそうに頬をかいている。そして「笑いたきゃ笑え」とやけっぱちに言い捨てた。
――私だっておめかしをしてみたい!
ぐっと拳をにぎると、肩に乗った彼女の体温がよみがえってきた。
まったくもって笑えやしない。
「そうか、教えてくれてありがとう」
「お礼を言うほどじゃないだろ。大げさだな」
大福の残りを口に入れてから、お茶を飲み干した慧音は伸びをした。
「さて、そろそろ雪かきに戻るか」
「忙しいんだな。無理するなよ」
「ありがとう。妹紅も今日はありがとうな」
「ありがとうって――お礼を言われるようなことはなにもしていないぞ」
「おいおい、謙遜するなよ」
「また世話になったな」と喜色を浮かべながら妹紅を向いてくる。
ぞわりと背中の鳥肌が立った。
怪訝な顔の妹紅を見ているうちに、慧音も次第に眉をひそめ始めた。
「なあ慧音、お前はなんの話をしているんだ?」
「……本気で言っているのか?」
「冗談なんかじゃない」
二人が唾をごくりと飲み込む。
「今日、お前は――阿求が、阿弥の墓参りに行くのをつき添ったんじゃないのか?」
耳もとで聞こえるドアをたたくような低い音。遅れてこれが自分の鼓動の音だと気づいた。
胸がどんどん苦しくなっていく。
「そんなことしていない。私は迷いの竹林から阿求の家を訪ねて、そのままこの店に来たんだ」
「だ、だって、数十分前に阿求を人里で見つけたからどうしたんだと訊いたら、先代の阿礼乙女の命日だから墓参りに行くって。
それでついていこうかと言ったら、妹紅さんに頼んであるので大丈夫ですと答えて――」
ふわりと体から感覚が消える。人里の喧騒が耳に届かない。
無音の世界に閉じ込められているようだ。
――いや、違う。
動揺で聴覚が鈍くなったんじゃない。本当に、この世界が静かになったんだ。
往来を行く人々は足を止めて一点を見ている。路傍で立ち話をしていた人々は口を半開きにして一点を見ている。
隣の慧音はみなの視線の先に目をやり――血相を変えた。
「なにがあった!」
彼女の怒声に似た声がとどろき、妹紅はひるむ。
慧音は立ちあがり、駆けていった。
ゆっくりと――さっきまでの穏やかな空気に長く浸れるようにゆっくりと、その方向に顔を向けた。
なんだ、おかしくないじゃないか。
博麗霊夢が歩いているだけじゃないか。
よたよたと歩を進めているだけじゃないか。
ぼろぼろな体を血で染めているだけじゃないか。
真っ赤で、真っ赤で真っ赤でまっ赤でまっかで――。
妹紅はいつの間にか霊夢へ走っていた。
慧音が彼女を抱きとめている。
近づいてみると鼻をおおいたくなるような濃厚な血の臭いがした。
服は破れてやぶれて、その下の白いはずの包帯が露わになっている。だけど髪も頭も腕も胸も腹も足も真っ赤で、その色以外を見つけることなんてできなかった。
「どうした!」
慧音は霊夢をがっしりと抱きながら、叫ぶ。彼女の青のワンピースまでもが血で赤くなっていく。
霊夢の双眸は乱れた髪で隠されていて表情はうかがえないが、口はかすかに動き続けていた。
妹紅は馬鹿みたいに立ちつくすばかりであった。
「―――――――――」
蚊の羽音にもかき消されてしまうような声量で、霊夢がなにかを言う。
慧音が耳を近づける。
もう一度彼女が小さく呟くと、聞き取れたらしく慧音が目を剥いた。
「霊夢はなんて言ったんだ!?」
訊くと、慧音は血の気のうせた顔を妹紅に向けた。
ごうごうと音が鳴る。
死者たちの声だ。
いや、違う。ここは人里だ。墓場じゃない。
だけど、耳には確かに死者たちの慟哭が響いている。
なんで?
ここは、どこだ――?
「――阿求が、妖怪に攫われた」
◆ ◆ ◆
慧音を含む自警団が、幻想郷の地図が乗ったテーブルを囲んでいる。時間がなかったため、大通りのすみに長テーブルをこしらえて作戦を練っていた。
妹紅は視線を自警団から周囲へと転じた。
みんな心配そうな、または不安そうな顔で慧音のグループを見つめている。ひそひそと耳打ちで会話し合う人々が幾ばくか、残りは口を一文字に結んでいる。
いつもの賑やかさはどこにもない。住民たちの鼓動の音や唾を飲み込む音まで聞こえてきそうなほど静かである。
西日が人里を真っ赤に焼くから、どこを見ても血の色しかない。
妹紅は逃げるように目をつむってベンチに腰かけた。
霊夢は満身創痍のまま、阿求が攫われるまでの経緯を語った。単語を並べただけのような証言だったので理解するのには時間がかかった。
どうやら今日も霊夢は妖怪の巣を探していたらしい。飛びながら当てどなく幻想郷をさまよっていたとのこと。
そして彼女は『東の森』と呼ばれる、阿求と墓参りの道中で妹紅が見た森に踏み込んだ。その森を抜けたところに歴代の稗田の墓があるとは慧音の言である。
霊夢は森のなかで、阿求を見つけた。ちょうど数匹のあの鳥妖怪に囲まれている彼女を。
もちろん霊夢は助けに入った。
絶不調といえどもそこは博麗の巫女。みるみるうちに相手を圧倒し追い払うことに成功した――
と思えたとき、不運にも妖怪に増援が来てしまった。しかも今度は二十近くいたらしい。
きっと普段ならそれでも勝てたのだろうが、いかんせん彼女は体中の傷が癒えぬ身だった。優勢は一転して劣勢になった。
それでも戦った。阿求を守るために。
博麗の巫女であるために。
されど健闘空しく、霊夢は負けた。薄れる意識で最後に見たのは攫われた阿求だった。
気がついたら妖怪たちは消えていたという。
あとを追うことは叶わない。ならば人里に助けを呼ぼうと、ぼろぼろの体を引きずるようにしてやってきたのだった。
妹紅は目を開ける。眼前の残雪は西日の赤に白さを奪われていた。
時間がない。いや、もしかしたら――
なにもできぬ傍観者のくせに、妹紅は気がついたら立ちあがっていた。
「――じゃあ、行くぞ!」
慧音が声をあげ、続いて自警団が動き出した。男たちはなにかしらの得物を携えている。
遠くの彼女たちに近づこうと通りを横切っていると、誰かが自分の隣で足を止めた。そちらに目をやる。
「――寝てなきゃ、駄目じゃないか」
妹紅は努めて感情のこもらぬ声で言う。「ケガ人は休んでおけよ」
霊夢が、血だらけの身なりで足を一歩前に出した。
「ベッド抜け出しやがって。さっさと帰れよ」
もう一歩を踏み出す。妹紅は彼女の体を抱きとめた。
喜怒哀楽の剥がれ落ちた声で続ける。
「言うこと聞けって。今行ったところでお前は役に立ちやしない」
「――退治、しない、と。阿求を、助けなきゃ」
「気にすんなって。今から自警団の奴らが行くから、お前が無理することはない」
「博麗の、巫女、なの、私は。だから、行くの」
霊夢は苦しそうに息をしながら、言葉をつむぐ。たらりと一筋の血が口端から垂れる。
妹紅は腕に力を込めた。
「いいんだ。休め」
「博麗の、巫女、なの」
「言うこと聞け」
「博麗、の、巫女」
「もうしゃべるな」
「博麗、巫女」
「しゃべるな!」
無意識に叫んでいた。
つくろえない。心の切り傷からだらだらと感情がこぼれてきて、それが瞳から出ると涙になった。
「なにも、言わないでくれ……」
誰か。
誰かこいつを、ただの少女にしてくれよ――。
横から手が伸びてきて、その手は霊夢の頭に優しくおかれた。
「――すまない、霊夢。私がお前に妖怪退治を依頼したばかりに」
血で固まった髪を梳くように撫でる。そして、
「今は、ゆっくり眠れ」
と慧音が子守唄を歌うような声で言った。
手のうちが少し光ったあと、霊夢は途端に脱力した。
慧音は妹紅の手から霊夢を引き寄せておんぶする。
「な、なあ、なにをしたんだよ?」
「慌てるな、死んだわけじゃない。ただ、霊夢から博麗の巫女になった歴史を一時的に隠しただけだ」
そう言うと、慈愛に満ちた顔をしていた彼女は表情を引きしめて、
「すぐに追いつくから、お前たちは先に行っていろ。私は霊夢を診療所に戻してから行く」
と自警団に声をあげて伝えた。男たちは返事をしてから南門に向かって駆けていく。
慧音はふうと息を吐き、「じゃあな、妹紅」と言い残して診療所へと入っていった。
ぽつねんと立ちつくす妹紅。人々も、表情をくもらせながらも各々の帰路につき始めた。店主もそそくさと閉める準備をする。
ありがとう。
胸中で慧音に言い忘れた礼を呟き、おもむろに自警団とは正反対の方向へ歩き出した。
これでいいんだ――噛んで含めるように妹紅は口のなかで同じ言葉をくり返す。これでいいんだ。
ゆっくりと動いていた足は徐々に速くなっていく。これでいいんだと呟くたびにスピードがあがる。
気がつけば、自分の後ろについてくる黒い影を振り切るように走っていた。
妹紅は断言できた。もしここが人里じゃなかったら――誰もいない場所だったら、私はむせび泣いていた、と。
石につまずき、転んで倒れる。だがすぐに立ちあがり疾走を再開する。走っていなければ自分がどうにかなってしまいそうだったのだ。
北門が見えてきて、そこを抜けたあたりで自分がひどく疲れていることに気づき、やっと足を自分の意思で止めた。
苦しくて、肩を大きく上下させながら息をする。息をしても苦しいのは変わらない。
自分の肺が役立たずになったみたいだ。
いや、肺だけじゃない。『藤原妹紅』そのものが役立たずになっているんだ。
泣くものかと決意していたのに、瞳には火傷してしまいそうなほど熱い液体がたまってきた。
妹紅は深呼吸を数回したのち、俯きながら隣の奴に話しかけた。
「――阿求が攫われた」
「知ってるよ。他の猫から聞いた」
淡々とつむがれる声。
隣の地べたに座っている三毛猫は、ただただ正面だけを向いている。
「捜索に猫の手でも借りたいの?」
「猫の手を借りたら見つけられるのか?」
「もちろん。猫というのは人里に限らず幻想郷のあらゆるところに散在しているんだ。呼びかければ阿求を見つけ出すのに時間はかからない」
じゃあ――妹紅は言葉を続けた。
「お前は、呼びかけてくれるのか? 手伝ってくれるのか?」
返事は、なかった。
空は夕陽の茜色から月が主役となる夜へと色を変えつつある。
歯が欠けてしまいそうなほど口を食いしばる妹紅。もう大嫌いだ、と腹のなかで叫ぶ。
みんなみんな、大嫌いだ!
「――昨日、阿求に会った。あいつは前世に三毛猫を飼っていたことを覚えてなかったよ」
「……そうかい」
三毛猫は、積もった雪にもあとをつけられぬほどの弱々しい声で答えた。
「でも、阿弥がお前を捨てた理由はなんとなく分かった」
「ぼくも知ってる」
「違う、お前の思っているようなものじゃない。きっと、お前のことが大好きだったんだ。たぶんずっとな」
そこで妹紅が三毛猫に視線をやると、猫は彼女から顔をそむけていた。
「下手な慰めはやめてよ」
「慰めでも出まかせでもない。私は自信を持って言い切れる。
――お前は阿弥の耳が聞こえなかったのは知ってるだろ?」
「もちろん」
「じゃあ、あいつが自殺する前から手首を切っていたことは?」
三毛猫が目を大きく見開きながら、妹紅のほうを向いた。
思い出したように瞬きをしつつ、
「ほ、ほんと?」
と訊ねてきた。
「嘘じゃない。阿求もそのことについては覚えていたから、間違いなく真実だ」
「な、なんで? ぼくはご主人が自殺した理由も知らないんだ。どうして、ご主人は――」
「阿礼乙女だったからさ」
「……どういうこと?」
妹紅はさっきの霊夢の姿を思い返す。そして次に顔も見たことがない阿弥も夢想する。
「阿弥は呪いにかかっていたんだ。誇張なしに呪いといえるものだ。
さっき、霊夢という少女は死にそうな姿になりながらも妖怪と戦おうとしていた。一見すれば大馬鹿野郎さ。
でも理由はある。あいつは『博麗の巫女』という呪いに冒されていた。この呪いというのは、使命とも言い換えられるものだ」
妹紅の服には霊夢の血がついていた。じわりと染み込んでいて落ちそうにない。
霊夢を知っていなければ、自分も阿礼を理解することはできなかっただろう。
理解はした。
したけれど。
納得はいまだできていない。
「この幻想郷の呪いに毒されると、人は己の命を投げ打ってまで動こうとするんだ。きっとその呪いが自分のアイデンティティーにまで食い込んでいるんだろうな。
別に矜持があるわけじゃない。ただ役目を遂行しなければ、自分の存在価値さえ分からなくなってしまう。
――じゃあ、阿弥はどうだ?」
三毛猫はただ力なく俯いている。小さな後ろ姿はこれから始まる夜に溶けていってしまいそうだった。
寒い風が吹き抜けた。
「阿礼乙女として生まれた者の使命は幻想郷縁起を編纂すること。人間が妖怪と共存するすべを記すこと。
だけど、阿弥は耳が聞こえなくて、自分の使命を満足にこなせない。いつだって誰かの手にすがるしかなかったんだ。
だからこそ、彼女の自己はぼろぼろになって日々を生きることも苦しくなって、悔しくて――」
と、そこで妹紅は阿弥の心情を語るのをやめた。
無駄だ。自分がいくら熱心に語ろうが、上っ面をなぞるだけのようなしかつめらしい言葉で阿弥の胸中を過不足なく言い表せることなど不可能なのだ。
妹紅はいったん口をつぐみ、間をおいてから続けた。
「最後、阿弥は一番助けてくれた人の死に責任を感じて、自殺した。
これが、真相だ」
「――ぼくは、笑い草だよね」
三毛猫が自嘲めいた笑いをこぼしてから言う。
「ずっとずっとそばにいたのに、ご主人の苦しみをなにも分かっていなかった。裏方で手首を切っていたのに、ぼくは表の顔だけを見てのうのうと暮らしていたんだ。
最低だ。ほんと、最低だ」
「まだ、気づかないのかよ」
お前はどれだけ鈍いんだ――と妹紅は語勢を荒げる。
三毛猫は怪訝そうに「なにが?」と答えた。
「きっと、お前の前だと阿弥はいつでも笑っていたんだろ? どうしてだ? どうして苦しい思いをしているのにずっと笑えていたのか、察しろよ」
はっと息を飲む三毛猫。妹紅はかまわず続けた。
「阿弥もお前といれた時間が楽しかったんじゃないのか。幸せだったんじゃないのか。
だからさ、ぼろぼろにすり切れた精神でもお前といるときは苦しさを微塵も出さなかったんだと思えるんだ。
幸せを共有できなかった――お前がいつか言っていた言葉だ。でも、もう分かっただろ」
妹紅は三毛猫をしっかと見つめて、声を出した。
「お前らは、ちゃんと幸せだったんだ」
三毛猫と阿弥が過ごしている風景を、彼女は想像する。
音楽が流れている部屋のなかで、笑っている女性の膝の上で和やかに眠る三毛猫。
この部屋のなかで女性は、『阿礼乙女』から『稗田阿弥』になれたのだろう。
彼女のそばで三毛猫は、『ミケ』になれたのだろう。
一人と一匹と一曲でつむがれた過去を思い、妹紅は温かさとやるせなさを同時に感じた。
――永遠にしてやっても、よかったじゃないか。
西には満月には一歩届かない月が見え始めていた。
「――だ、だけど」
三毛猫が焦っているような声色で言う。
長いあいだ信じていたものがくずれてしまったのだから当然かもしれない。
「阿求はぼくのことを覚えていないんでしょ? なら、会ったところで無駄じゃないか」
「お前にお願いしたことは、覚えていたんだよ。
歌を聴かせてほしい――ていう依頼をね。
来世の自分が生まれるときには生きていないし、あまつさえ相手は猫だ。そんな奴にお願いしても叶う確率はかなり少ないのに、なんで覚えていたんだろうな」
どうしてもすがりたかったんだろうな。
現世では聴くことができなかった曲を、健全者になれた来世で確認をしたかったのだろう。
ミケが大好きだった曲が、どんなものだったのかを。
三毛猫は目を閉じたまま、正面に顔を向いている。どこか安らかな表情にも見えた。
「お前、そのお願いを覚えていたんだろ?
だからレコードを保存していて――そんで魔法使いに、お願いもしたんだ」
「……妹紅はなんでも知ってるんだ」
「魔法使いの依頼はたまたまなんだけどね。
依頼、それが――」
――それが、猫又になったときに裂けた尻尾をもとに戻してくれ、て内容でさ。
――私はなんでそんなことをと訊ねたんだ。
――そしたら三毛猫が答えたんだよ。
――ちょっとでも昔の姿を維持できたら、あの人はぼくを見たときに思い出してくれるかもしれない、てね。
――あの人、ていうのが誰かは言わなかったけど、きっとすんごく大好きな人だったんだろうな。
「お前はずっと会おうとしていたんだろ。なら、会おうじゃないか。もう過去におびえる必要はないんだから。
そんで歌を聴かせてやろうじゃないか。阿弥の最後の願い、叶えてやろうよ。
お前の大好きだった時間を、彼女に届けてやろうよ!」
言い切ったあと、しばしの沈黙が起こった。
そして、三毛猫は小さくため息を吐いて、
「ねえ、妹紅」
と話しかけた。
「どうした」
「今日はさ――ラブソング日和かな?」
心底不安そうな声だった。おぼつかなくて、ぐらりと揺れている声色。
妹紅は、力強くうなずいた。
「ラブソング日和だよ」
三毛猫はもう一度ため息をついて、「そうだよね」とさっきより強く言う。
「今日は、ラブソング日和だ」
いつもの口調だった。
大丈夫、届くよ。
そこで妹紅は――笑った。
しかしすぐに笑みを引っ込めた彼女は、早口で続けた。
「よし、じゃあさっそく猫たちに阿求の居場所を探させてくれ。もう一秒たりとも無駄にはできないんだ」
「心配には及ばない」
そろそろだね――と三毛猫は呟いた。
その瞬間、横から茶トラの猫が駆けてきた。妹紅たちのそばに来ると足を止める。
次に茶トラはにゃーにゃーとせわしなく鳴いて、三毛猫は相槌を打つように合間あいまに鳴き返した。
ああ、会話をしているんだなと気づいたときには茶トラは一段と大きな声を出してふたたびどこかへ走っていった。
三毛猫が妹紅を見あげる。
「阿求の場所が分かった。ぼくがこの前までレコードを隠していた森だ。あの大きな木のもうちょっと先だって」
「お前、最初から調べておいてくれたのか?」
「今はどうでもいい話だよ」
そう言って三毛猫はそっぽを向いた。照れているのだろうか。
素直じゃないな、と呆れたふうに妹紅は鼻を鳴らした。
「とにかく助かった。ありがとうな。行ってくるよ」
「待って。ぼくも連れていって」
「……自分がなにを言っているのか、分かっているのか?」
これから暴虐な妖怪たちが巣食っている場所へおもむくのだ。自分の身だって保障できないのに、ほぼ無力な猫がついてくるなど言語道断である。
なにか言い返そうと口を開いたのだが、言葉は三毛猫の瞳をのぞいているうちに消えうせた。
妹紅を真正面から見つめ続けている。
不思議な話だった。これから死地を訪れようとしているのに、まるでそこに行かないと自分は死んでしまうと思い込んでいるような必死さがあった。
そうか――。
妹紅はやっと合点した。こいつは自分とまったく同じなのだ。
自分もこいつも、傍観者を決め込むことのできない大馬鹿野郎なのだ。
「――自分の身は自分で守れよ。あくまで目的は阿求の奪還なんだから」
「知ってる。それに、死ねるわけがないじゃないか。あの歌を届けなくちゃいけないんだからね」
楽しそうな声だった。
妹紅は三毛猫を持ちあげて、胸に抱きかかえる。
「お前もつかまっていろよ。最高速で飛んでいくからな」
「うん」
ふわりと浮かびあがり、力をためていく。
三毛猫が胸にいる。
心臓の上に、温かさがある。
それだけで体をめぐる血潮も熱を帯び始めた。
阿求を、助けるんだ。
「――行くぞ!」
自信の影が追いつかなくなるようなスピードで妹紅は飛んでいった。
迷いの竹林を抜けて、件の森のなかに入る。ここには日ざしだけでなく、月光や星の瞬きさえも木で遮られてしまう。
夜とはまた違う不愛想な暗さが森のなかを支配しているのだ。
妹紅のスピードが少しだけ落ちていた。
急がないといけないのは十二分に承知しているのが、いかんせんずっと自分の最高速を維持してきていたので、疲れがいささか出始めていたのだ。
耳もとで聞こえる風切り音が弱まる。巨大な昆虫の羽音のようなそれに倦んでいた妹紅にとってはうれしいことだった。
暗い道を相変わらず飛んでいると、
「ねえ」
という問いかけが聞こえてきた。
最初は空を切る音が生み出した幻聴かと思ったが、もう一度聞こえたときに、抱えている三毛猫の声だということに気づいた。
「どうした?」
通常より大きな声で訊き返す。「今さら怖くなったか?」
「違うよ」
「だろうね」
「ただ、伝えておきたいことが一つあるんだ」
三毛猫はすうと息を吸った。
「ぼくの知り合いの猫たちはみな野良猫でさ、人間にこっぴどくいじめられた奴や、ぼくみたいに捨てられた奴ばかりなんだ。
だから、優しくされたことのないあいつらは絶対に人間に頼ろうとしない。信じることもしない。
なにが言いたいかというと、ぼくたちが妖怪と応戦してるときに猫が人間に助けを求めることはないから、自警団がこっちを見つけてくれない限り増援はありえない、ていうこと」
「……気がめいるような情報提供、ありがとう」
皮肉じみた口調で答える。風になびくマフラーが羽のように揺れていた。
三毛猫は、くすりと笑った。
「ぼくは阿求と歌を聴きたいために頑張るんだ。でも、妹紅はなんの得もないくせに妖怪たちと戦うんでしょ」
妹紅は優しいね――小さいのにやけに通る声が耳に届いた。
くすぐったいような痛みが胸に沁み入る。
「そうじゃない。私は優しいわけじゃないんだ」
輝夜にも優しいと言われた。でもそれはどう考えても過大評価にしか思えないのだ。
妹紅は己を顧みる。内向的で、誰かに頼み事をされれば面倒くさいとも思うし、捨て猫を介護してやるような真似はきっとできない。
自分は罵られるようなことはあっても褒められるようなことはないと断言できる。
「阿求を助けるのだって、正直なことを言ってしまえば、自分のためだ。自分が気に食わないからやってるだけで、結果論で誰かのためになっているだけさ。
それにさ、私は思うんだけど――」
三毛猫を抱きしめる腕に力を込める。
「本当の優しい人っていうのは、お前のご主人のように、聴こえない曲を流すことができる人だと思うんだ」
本来は、曲を流したところで彼女は自分の劣等感をいっそう強めるだけである。
なのに蓄音機をかけ続けた。心から笑うことだってできた。
それこそが、優しさなのではないのだろうか。
数秒ののち、三毛猫は妹紅の胸に顔をうずめながら、
「温かったよ」
と呟いた。まるで妹紅の心臓に直接言葉を届けたようだった。
少しだけスピードをあげる。
――その瞬間、目の前に暗いながらもあの巨木が現われた。
さすがにてっぺんまでは視認できなかったが、太い幹は闇のなかでもぼんやりと見えた。
その幹を迂回していると、
「この木の裏側、その向こうに阿求はいる!」
と三毛猫が指示を出した。
妹紅はうなずいた。
レコードを隠していた茂みを横目で確認しながら、木が乱立して道もないところへ突っ込んでいく。
手にじっとり汗をかいているのに気づいて、どうやら自分は緊張しているらしいと他人事のように思った。
「――おい、本当に来るんだな? 引き返すって言うならおろしてやるし、もちろんそれは恥じることではないよ」
「このまま連れてって。きっとすぐにやられちゃうと思うんだけど、どうしても行きたいんだ。
ぼくは、あらゆることからずっと逃げてきた。だから、もう逃げたくない」
「……そうかい。私はお前を守れないだろうけど、絶対に死ぬなよ」
耳もとで風が空を切る。
それが一瞬、ラブソングに聞こえた。
そして――
妹紅たちは、たどり着いたのだった。
そこは輝夜と殺し合いをする場所のように開けていて、空をおおうものなど一切ない。ゆえに昨日の雪が広い地面を真っ白におおっていた。
残雪が夜空にいすわる月の光を乱反射しているおかげで、ここはひどく明るかった。
だからこそ、奴らの姿が見えた。
眼前には無数の鳥妖怪がいる。みな、呆然と闖入者である妹紅を見すえていた。
彼女たちは森の暗闇から生み出されたように黒々としていた。
離れた向こう側に、恐怖と驚きを混ぜ込んだような顔をする和装の女性が見えた。
阿求だ。まだ生きている。
妹紅は安堵の息を吐く。
「――間に合った」
「誰よ、あんた」
一匹の妖怪がとげとげしく訊ねると、せきを切ったように他の妖怪たちも言葉を吐き始めた。
「一人じゃん」
「猫もいるね」
「これから里の人間を食べるとこだったのに」
「あの乱入者も食べちゃおうか」
「腕は私がほしい」
「私は足」
「みんなで分けたら足りないよ」
「私、猫って食べたことない」
「お腹空いたなあ」
下卑た言葉がいっきに耳に流れ込んでくるものだから、妹紅は表情をゆがめた。
マフラーを外していると一匹が前に出た。
「久しぶりね」
「そうなのか? いっとう覚えていないが」
次に手袋を外す。妖怪は忌々しげな顔をした。
「忘れたとは言わせないわよ。迷いの竹林でしたことを」
「ああ、思い出した、あの三人組の一人か。焼き鳥にならなくてよかったな。池の水加減はどうだった?」
妖怪は憎悪を満面にたたえて、「最高だったわ」と答えた。
隣の三毛猫が低い声でうなっている。
「で、あなたはどんな用件でここに来たの? 私たちのご飯になってくれるのかしら」
「逆さ。お前らのお食事を邪魔しにきたんだ」
妹紅は手袋とマフラーを後ろにおいた。「今日攫った人間を助けようと思ってね」
しんと静かになった。しかしそれも束の間。次の瞬間には鳥妖怪たちがいっせいにげらげらと笑い出した。
まるで鼓膜に汚泥を塗られるような不快感にさいなまれる。
しばらくすると下品なにやけ顔をした妖怪が訊ねてきた。
「あなた、本気で言ってるの?」
「もちろん」
「人間って面白いのね」
彼女は後ろの仲間たちに目配せをしてから質問を重ねた。
「ねえ、私たちがなんでまだあの人間を食べてないか知ってる? 攫ってからだいぶ時間が経つのに」
「さあね。食事前のお手洗いでもしてたんじゃないのか」
「手を洗っても、食事を始めたら血で真っ赤に染まるんだから意味ないじゃない。理由は、仲間を全員ここに集めていたからよ。
最近、博麗の巫女が私たちを退治しようとしててね、人間を食べれていないの。だから、久しぶりの人間はみなで分けようと思ってね」
「こんな大人数で分けたら、小指にありつくことだって厳しいだろうに」
「食べることができなくてもいい。ただ、人間を攫うことができた、という現実を知ることさえできれば、今まで人間をつかまえられなかった仲間の士気もあがるでしょ?」
妖怪の笑みがいっそう品のないものになる。
「そういうわけだから、今現在、ここには百以上の私の仲間がいるわ。どうする? あなたはそれでもあの里の人間を助ける?」
「……私はちゃんと、迷いの竹林でお前に進言したんだけどな。ケンカを売る相手はよく選べって」
妹紅はポケットに手を入れて、自分のすべてのスペルカードをつかみ出した。
そして――それらを風に乗せてばら撒いた。
「全員でかかってこいよ。たかが百匹で来たことを後悔させてやるから」
妖怪たちがいっきに気色ばむ。暴力的な呟きがそこらかしこから聞こえてくる。
一触即発の雰囲気がただよい始めていた。
妹紅が髪を結っているお札を一枚右手の人さし指と中指ではさんですっと引っ張ると、それは音もなくほどけた。そのまま札を妖怪へと向ける。
『髪結いのお札』と呼んでいるものだった。これは本来輝夜との殺し合いのときにしか使わない。
理由は単純だ。
威力が、護身用の札よりもはるかに高いのだ。だから本当なら木っ端の妖怪相手に使う品物ではない。
なのに使おうとしているのは、もちろん敵の数が多いのもあるが、それ以上に――
最上級の戒めを与えてやろうと思っているからであった。
先頭にいた妖怪は口の端を大きく吊りあげる。
「あなたは相変わらずむかつくわね」
「お前はさ、あなたあなたうるさいんだよ。私はお前の旦那様になった記憶はないね。
私にはちゃんとした名前があるんだ」
妹紅はにやりと笑った。
「私は藤原妹紅。永遠を歩む蓬莱人。そして――」
――でもね私は、あなたみたいなお馬鹿さんが、難局でも惚れちゃうぐらいカッコいいことをしでかしてくれると信じてるの。
「カッコつけのお馬鹿さんさ」
札が発火する。鳥妖怪たちがいっせいに突撃し出す。三毛猫が前へと駆ける。阿求は震えながらも目の前をしっかと見すえている。
世界が、色めき立っていた。
妹紅の右腕に紅蓮がうずを巻き始める。そして彼女が札を前方に投じると――
それは、巨大な炎となった。
小屋ぐらいなら包み込めそうな大きさで、業火のように紅色だ。ここら一帯の残雪を溶かしつくしてしまいそうなほどの熱を帯びている。
先頭の数匹の妖怪がすぐに火だるまになって地に落ちた。そのときに赤々としていた炎は跡形もなく消えうせる。本来なら燃え続けるのだがあえてのことである。
彼女たちはわずかに息をしていた。
戦闘不能にはするが殺さない――これは妹紅のせめてもの慈悲だった。
夜空をしみ込ませたように黒い羽を広げて、妖怪たちは飛んでくる。妹紅はふたたび髪結いの札を投げた。
業火が相手に食らいつく。それでもあとに続いた突進をよけるために横へ跳んだ。
鳥妖怪たちはひたすらに突撃してきた。札を投げて落としても途絶えることはない。
妹紅は、鈴仙が前に話していた『機関銃』という月の兵器を思い出した。
なんでも一直線に飛んでいく鉄の弾を連続して出せる品物で、当たると致命傷を受けるらしい。
まさしくこいつらではないか。長い爪でこちらを穿たんとむこうみずな攻撃をくり返す。
そして一番の問題は、弾数もかなりあるということだ。
軽口をたたいたものの、やはり百以上の猛攻はなかなかに骨である。阿求のもとまで行くにはある程度数を減らさないときついだろう――
「危ない!」
「つっ!」
三毛猫の声で自分の状況を知った。
妖怪が後ろにいたのだ。あとちょっとで爪が背中に刺さる距離。
当然のことである。森を通って迂回でもすればこちらに気づかれずに四方を取れる。
なぜそれに思い至らなかった……!
爪がもう目前まで迫ったとき――
三毛猫が妖怪に跳びついた。
胸から顔までのぼり後ろ足で引っかいている。
「離れろ!」
鳥妖怪は体を大きく揺さぶる。妹紅はポケットから普通の札を取り出して、
「おりろ!」
と三毛猫に声をかけてから相手へ放った。猫はすぐにおりた。
火のついた妖怪は悶えながら逃げていった。
「ありがとう」
妹紅はそこであらためて三毛猫の姿を見た。
切り傷だらけで体中に血がにじんでいる。はあはあと白い息がやつぎばやに口からもれている。
「お前――」
「ぼくのことはどうだっていい! このぐらい覚悟ずみだ!」
そう言うと三毛猫は前に駆けてまた別の奴に跳びついた。
いくら引っかこうが傷は微々たるものだ。影響はさして出ないだろう。
一方で自分の命は確実に削られている。
どうして――と訊ねたくなったが、答えはすぐに思い出す。
あいつも、どうしようもない馬鹿野郎なのだ。
なら止めるのは無粋である。
横からの攻撃を翻りながらかわして、妹紅は思考を切りかえる。すなわち、自身の戦い方についてである。
四方からやってくる。まわりに気を余すことなく向けるのは不可能だ。
ならば――
彼女は上を見た。ここだ。
浮かびあがって高度をあげていく。ある程度俯瞰できるところまで行くと上昇をやめた。
下から妖怪たちが来る。
両手で一枚ずつ髪の札をほどいて、放った。
刹那、それらは猛火を発し――次に翼を広げた鳥をかたどった。
大きさには自信がある。間近で見た者は、こいつの双翼が幻想郷をおおっているのではないかと錯覚してしまうほどであろう。
そいつが今二羽いるのだ。妖怪たちがおののいているのもしょうがないことだと妹紅は思った。
猛る鳥が声にならない雄たけびをあげて飛んでいく。火の羽が蛍火のようにはらりはらりと散っている。
二匹はためらうことなく妖怪たちを飲み込んだ。あがってくる奴らを次々とおのが体をもって焼いていく。
焼かれた者は例外なく、全身を真っ黒にすすけさせて落ちていった。
「な、なによ、あの化け物!」
妖怪の一匹が火の鳥を見て頓狂な声をあげる。妖怪にも化け物と言わしめる――妹紅は不敵に笑った。
この術は妖力をやたらに使うため多用はできない。しかしその分、戦果は満足に足るものだ。
妹紅は二匹のあとについて下降していった。こいつらが道を開けてくれる。このまま行けば阿求の救出に行けるかもしれない。
面食らって固まる妖怪ら。業火の鳥はそいつらを無遠慮に食らい、そのたびに己の火勢を弱めた。
一匹はいつの間にか終わっていた。だが、もう一匹は最初のときの半分以下の大きさになりながらしっかと羽ばたいている。
大丈夫だ、阿求のもとまでこの術は持つだろう。
ときおり鳥をかわして妹紅に突っ込んでくる相手には、髪結いの札を投げていく。敵が燃えるごとにむせ返るような熱風が彼女の髪を揺らした。
地面まであと少し。
妹紅は阿求のほうへ向かおうと体を翻した――
そのときだった。
視界のすみに横たわる三毛猫が映った。雪で真っ白になった地面にぼろぼろになった塊。
その塊に今、一匹の妖怪が近づいている。長いながい爪が月光を反射してきらりと光っている。
三毛猫は、動かない。いや、動けないのだろう。
なら、待っている結末はたった一つじゃないか。
歯を食いしばったとき、声を思い返した。
――今日は、ラブソング日和だ。
妹紅は方向を三毛猫へと変えていた。
阿求の救出をしなければいけないのに。まったく、私は馬鹿なことをしているよ。
でも。
でもさ――
あいつは、あの歌を届けないといけないんだ。
妖怪の爪が降りおろされる。
鋭利な切っ先は――妹紅の背中に深々と突き刺さった。
彼女は、なにより安心した。
間に合った。
三毛猫を身をていして守れたのだ。
「よかった……」
呟きをもらし、続けて三毛猫を抱えたまま妖怪たちから離れていった。
この場所の端に移動し、かがむ。そして抱いた状態で声をかけた。
「おい、おい、大丈夫か?」
あらためて見てみると、ひどい状態だった。
全身の三毛は血の赤一色で塗りたくられている。傷は深く、今なお鮮血がしたたっていた。
お腹がかすかに上下している。
「頑張ったよ。もう休んどけ。あとは私がやる」
そこで、三毛猫はゆるゆると顔を妹紅に向けた。ヒゲは力なくさがっている。まぶたは瞳がのぞけないほど垂れて閉じられていた。
口が、おもむろに開いた。
なにかを言おうとしている。妹紅は耳を口に近づけた。
――なー。
顔に熱い血が流れてきた。
苦しそうな息づかいに紛れてしまいそうな弱々しい声。だけど、聞きもらすことはなかった。
一文字にお粗末な抑揚をつけただけにも思える。でも、確信を持って断言できた。
これは、あの歌だ。
こいつが、抱きしめるように毎日歌っていたラブソングだ。
すっと耳を離す。顔を見やると――三毛猫は、小さく、しかし力強くうなずいた。
ほんと――
妹紅は、泣きそうに表情をゆがめながら笑った。
ほんと、お前には妬けちゃうよ。
優しく三毛猫を下におろす。地面をいろどる雪化粧が赤く染まっていく。
「待ってろ」
妹紅は立ちあがり、前を見た。
妖怪たちが不快そうな顔をこちらに向けている。
今の今まで襲ってこなかったところを見ると、さっきの術が、三毛猫と会話をする時間を稼いでくれたのだろう。
ふうっと息を吐き、きりりと顔を引きしめて焦点を一点に絞る。
視線の先では阿求が立ちつくしている。
凝視するは阿求のみ。
しゅるりと髪結いをほどき、それを前に突き出す。
目をつぶって大きく深呼吸をした。底をつき始めた妖力を練って、札に込める。
髪結いが少なくなったせいで、はらはらと纏まりのない白髪が夜風にたゆたう。
妹紅は目を開けて、札をはじいた。
その瞬間、髪結いの札はふたたび猛火を纏った鳥へと変じた。
前方の敵はこいつに任せる。後ろについていき、阿求の奪還を目ざすのだ。
生み出された怪鳥は巨大な羽を広げて、前へ飛んでいく。妹紅はもう一度大きく息を吸った。
――これが、最後のチャンスだ!
そして、地を駆けながらあとに続いた。
濁った声々が聞こえたのち、前方の妖怪たちがいっせいに突進してきた。
怪鳥が敵を食らう。俊敏によけて回り込んだ者も、妹紅が確実に燃やしていく。
右からの引っかきを上体を低くしてかわす。左上方からの突進は右足に重心をかけて身をよじる。そして、相手へ札を投じる。
行けるぞ。
妹紅はできるだけ頭のなかを空にしていた。無駄な思考は排斥し、ただただ前向きな言葉だけを口のなかで呟いた。
大丈夫だ。
このまま、このまま――。
上から音がする。見あげると、上空から一匹が飛んできていた。
髪結いを右手で持って投げようとした――
そのときだった。
背中に激痛が走る。思わず顔をしかめた。
どうやらさっきの三毛猫をかばったときの傷が、今ごろ痛み出したらしい。
上半身が一瞬が動かなくなる。
そして、左肩にも鋭い痛みが走った。
上から来た奴の攻撃に当たったらしい。真っ赤な血が肘のほうまで垂れている。
次は右腕だった。
右側後方からの奇襲にまったく対処できぬまま、爪でえぐられる。
つい札を取り落としてしまった。
しかし、それでも妹紅は走り続ける。止まることに恐怖感さえも抱いていた。
阿求を救うのだ!
右脇腹が穿たれる。胸を一文字に切られる。右太ももに血が深くにじむ。左側の腰に伝わる激痛。
どんどん血の赤に染まっていく妹紅だが、足を止めない。口から顎へと血がつたった。
妖怪たちは攻撃を休めない。前方以外のあらゆるところからの襲撃に、もはやなす術などなかった。
彼女はただ、自分の体の肉が裂けていく感覚だけを味わっていた。
それでも地を蹴り、走り続けている。地面の雪には足跡と血がずっと伸びていた。
阿求を――。
頭のなかは彼女だけだった。それだけしか考えなかった。
しかし、
「――いい加減、しつこいのよ!」
その一撃で、思考が真っ白になる。
背中を深くえぐったそれは、とうとう妹紅の足を止めた。
がくりと膝をつく。次に地面に倒れ込んだ。
前方を飛んでいた鳥はゆっくりと消えていった。
顔を前に向ける。数匹の妖怪の群れ、その先約十メートルのところに阿求がいた。
あともう少しなんだ。
腕で這って動く。体中が燃えるように熱い。痛い、ではなくて熱い。
阿求は下唇を噛みしめながら泣いていた。妹紅はその涙を止められる自信がなくなっていた。
ここまでなのだろうか。
もしここで死んでしまったら、こいつらは阿求を連れてまたどこかへ移動するだろう。そして、怒りをぶちまけるように彼女を殺して、食べるのだろう。
こちらが復活するまでには時間がかかる。ならば、今死んでしまえばすべてが無駄になるのだ。
妹紅は祈った。慧音ひきいる自警団がここに到着してくれることを。
どうにかして、阿求が助かることを。
「あんた、なんなのよ」
妖怪の不快そうな声。視線だけ動かすと、前に一匹いることを認めた。
「仲間をこんなにやってくれたんだから、覚悟はできているんでしょうね」
「……頼む」
なんとか声を絞り出す。「阿求だけは、助けてくれ」
「いやよ。二人はそろって私たちに食べられるの。そういう運命なの」
「嫌な運命だ」
「前世になにか悪いことでもしたんじゃない?」
品のない笑い声。今すぐにもぶん殴ってやりたいのに、体が上手く動かない。
腕に力を込めて、やっと上体だけ起こせた。
にやついた相手の顔が目に入る。
妹紅の近くまで寄ってくると、右腕をあげた。
動け!
脳はさんざ命令を送るのに、他人の体のように言うことを聞かない。
「くそっ」
自分の声は震えていた。
地に落ちた一粒の涙に妹紅は気づかない。
「じゃあね」
妖怪は月を背にして、無慈悲に腕を降りおろした。
――はずだった。
ここにいる者全員が言葉を失っていた。みな馬鹿みたいに口を半開きにして、目を見開いている。
月光は空想じみた今の状況をなおも照らしていた。
妹紅は目の前で起こったことを脳内でリフレインする。そして思い至るのは、やはり浮世離れした展開。
爪を突き立てようとした妖怪が――吹っ飛んだのである。
指ではじかれたどんぐりのように軽々しく後方へ消えていった。
なにが、起こった?
片膝をついたまま、呆然とすくむ妹紅は、後ろから音を聞いた。さくさくと雪を踏みながら近づいてくる足音。
なぜか足音に気品を感じた。まるで舞踏会会場に敷かれた上等のレッドカーペットを踏みしめているみたいだった。
自警団の者だろうか?――妹紅が顧みるより早く、その人物は沈黙を破った。
「――久方ぶりの大雪に、無粋極まりない」
よく響く声だった。月光のごとく透き通っていて、しかし月のそれのように耿々と輝いている。
「せっかく雪が積もったこんな夜に、血なまぐさい活劇をくり広げるなんて愚の骨頂。野暮天という言葉はあなた方のためにあるのでしょう。
私みたいな風人はね、そんな野卑なことをしないわ。だって、雪後におこなう行為なぞただの一つですもの」
「……じゃあ、お前はなにをするんだよ」
妹紅は横に立った相手に薄笑いで問いかける。顔を見ないでも分かったのだ。
彼女は、胸を張って答えた。
「もちろん、雪だるまづくりでしょ!」
「そりゃあ、お前しか思いつかないな」
小さく息を吐く。「風人の、蓬莱山輝夜さんしかな」
ふふんと鼻高々に笑む輝夜は、妹紅に手をさしのべた。
「すまない」
その手につかまって立ちあがる。
妖怪たちはいまだに硬直していた。
「なんでこの場所が分かったんだよ」
「迷いの竹林で雪だるまをつくってたら、可愛らしい水先案内人が来てね」
にゃーと下から声がした。そちらに目をやると、一匹の猫がいた。
白と黒の猫。腕に巻かれた小さな包帯を見て、この前輝夜に手当てをされた奴だということを思い出した。
ぼくの知人はみな人間を信じていない――と、三毛猫は言っていた。
だけど、いたのだ。些細なきっかけだけど、それでも人間を信用しようとした猫が。
妹紅がその猫の頭を優しく撫でると、相手は気持ちよさそうに目を細めた。
「ありがとうな」
「……さて、ときに妹紅さん。この状況は一体どういったものでしょうか?」
「相変わらず余裕そうだな」
輝夜がきょろきょろと見回す。妹紅は言葉を考えたが結局、「阿求が攫われ中だ」と簡潔に述べた。
「なるほど」とうなずく。そして、
「ここの入り口にいたあの子は、もしかしてかぐもこかしら?」
と質問を重ねた。
「……ああ」
「そう」
輝夜は短く返事をすると、次に茶化すように続けた。
「あなたが無茶なこと、注文したのでしょ?」
返事はしなかった。
「だからあの子の猫背を矯正するのはやめなさいってば。それか猫舌を直そうとしたとか――」
「危ない!」
妹紅はとっさに輝夜を自分の身に抱き寄せた。妖怪の奇襲に輝夜のすそが切れる。
襲った張本人は舌打ちをしていた。
「惜しいなー」
どうやら輝夜を新たな敵だと認識した相手は、さっそく攻撃を仕かけてきたらしい。
「積極的ね」
その言葉が、敵に送った皮肉なのか、いきなり抱きしめた自分への茶々なのかは判然としなかった。
妹紅の腕からすっと離れていった。
「ほらほら、無駄口をたたいているから綺麗なおべべが裂けてしまったよ」
鳥妖怪はさげずんだ笑みを満面にたたえている。
輝夜は自分の着物のすそを見、「あらら」ともらした。
そして、自分の手で引き裂いて腰のあたりまでスリットを入れた。
「どんなに野卑な妖怪かと思ったけど、意外に粋なこともするのね」
この着物、動きづらくていけないの――彼女は屈託なく笑いながら言った。
妖怪は不愉快そうな顔をして無言で応える。
「――あんまりふざけていると、次は本当にケガするぞ」
妹紅がいさめると、少しの間を開けたあとに冷えびえとした声が返ってきた。
「ふざけてないと、やってられないわ」
「えっ?」
「あなたは休んでなさい。あとは私が引き継ぐ」
輝夜の周囲がひずみ始め、ひびの入ったガラスに囲まれているかのように輪郭がおぼつかない。加えて、強風がうずを巻きながら吹き荒れてきた。
先日、殺し合いをしたときとはけた違いの妖力を感じた。
やがて輝夜のまわりに色とりどりの弾が生み出される。しかしすべてがすべて以前より大きく、また数が多い。
妖怪たちの顔に余裕はなく強張っていた。
それでも弾を生み出し続ける輝夜。
「愛しいペットをこっぴどく痛みつけて――」
敵の数はもう四十もいないのに、彼女のまわりの魔弾は最初にいた妖怪の数ほどつくられていた。
「私の大切な人まで傷つける――」
輝夜はぎゅっと手をにぎりしめて、憎悪と怒りで顔をゆがめた。
「こう見えても私、結構むかっ腹を立ててるのよ」
その言葉を契機に、怒涛の猛攻がくり広げられた。あまねく魔弾がいっせいに相手へ飛んでいったのだ。
赤色、青色、黄色、白色――目が回るような色々が妖怪を襲う。ほとんどの妖怪が動けなかった。
途切れることなどなかった。虫の子一匹通れるすき間もなかった。
一個を目で追うのがやっとの速さゆえ、多数で来れば脳はよけようと筋肉に命令を出すことさえあきらめるのだ。命令したところで、行動に移す前に被弾するようなスピードなのだが。
低いうめき声をもらしながら妖怪たちは落ちていく。逃げ惑うすきはいっとうない。
妹紅は惚けながらこの光景を眺めて、そうかと納得した。
これこそが、鈴仙の言っていた『機関銃』なのだ。
輝夜の猛攻に比べてしまえば、先ほどの妖怪たちの突進がなまやさしく思えてくる。
ドラのように低く沈む音が被弾の音だった。その音に鼓膜を震わせっぱなしで、あまつさえ視界に映るのはくらむような明色たち。
妹紅はこの状況に酔っていた。固く目を閉じる。なのに輝夜は一貫して毅然と立っていた。
三半規管が上下を忘れ始めたとき、音がやんだ。おずおずと目を開き――驚き入った。
妖怪がみな、地面の上で倒れていたのだ。声一つあげずに転がっている。
目を瞬く妹紅をよそに、息を少し切らしている輝夜は深々と息を吐いた。
「さすがに疲れたわ」
続けて妹紅のほうを見、小さく笑んだ。妹紅は曖昧な顔で応えた。
なにか言葉をかけようと口を開いたとき――
前方から悲鳴が聞こえた。
急いで顔を向ける。全身をすすけさせた妖怪が一匹、阿求をつかまえながら夜空へと浮上していた。
地上から十メートルあたりのところで月を背にして止まる。下から見ると、まるで傷だらけの体にむち打って月を背負い込んでいるようでもあった。
「――なんなのよ!」
妖怪が金切り声をあげた。「なんであんたたちは死なないのよ!」
憤然としていた彼女はしかし、またたく間に大粒の涙を両目からこぼして、十メートル上から涙雨を降らせた。
甲高い声も一緒に降ってくる。
「なんでよ! 私たちだって人間を食べてもいいじゃない! やだやだやだやだ! お腹空いてるの!
なのに炎出したり変な弾を飛ばしたりして邪魔をする! おかげで仲間たちがぼろぼろだわ!
あんたたちは頭がおかしいのよ! 気違いなのよ! 二人だけじゃない、あの猫も――あの猫も大馬鹿よ! 狂ってる狂ってる狂ってる!」
極度の興奮状態におちいっている妖怪が言葉をばら撒く。ばら撒かなければ呼吸さえもができないと信じ込んでいるようでもあった。
はあはあと息を乱しながら、少しだけ語勢を和らげた。
「動くんじゃないわよ。動いたらこの腕のなかの人間を殺す。もちろんみんな殺すけど、動いたらこいつを最初に葬ってやる。
みんなみんな、あの猫みたいなぼろ雑巾にしてやる」
輝夜は無表情で言葉を聞いている。
――あいつはなにも分かっちゃいない。
妹紅は渋面で頬をかいた。自分の吐いている言葉が蓬莱山輝夜の怒りを研ぎ澄ますものでしかないことに、思い至っていないのだ。
このままではぼろ雑巾にされるのは相手である。
そのことに気づいていない妖怪は、妹紅を指さした。
「あ、あんたはポケットの札と髪に結いつけてある札をすべて捨てなさい」
輝夜がちらりと視線を向けてきたので、妹紅は小さくうなずいた。
サインが意味することは、『私がやる』。数百年のつき合いだ、このぐらい分かり合える。
ならご自由にといわんばかりに、ついと輝夜は目をそらした。
妹紅がポケットのなかに手を入れて、ありったけの札を地面に散らした。ひらりひらりと落ちる札は、冬口に散る紅葉を想起させた。
「――なあ、妖怪さん」
ちらりと視線をあげて訊ねる。「お前は、猫のことを狂ってるって言ったよな」
「言ったわ。言ってやったわ。だってそうでしょ! 意味が分からないもの。非力なくせしてこんなところに来る意味が分からない」
「……そうか、分かんないか」
妹紅は残り数少ない髪結いの札をほどいて放る。そのたびに結び目がうせる彼女の長い白髪は、はらはらと纏まりなく夜風を泳いだ。
最後の妖力を練って準備をこしらえる。
「じゃあさ、お前は大切な人を失ったことがあるか?」
「はあっ?」
妖怪が困惑の色を浮かべる。
宵闇に溶けていってしまいそうな顔の阿求は、苦々しそうに視線を外に逃がした。
「あるわけないじゃない」
「なら、誰かのために、永遠を祈ったことは?」
「ないわ!」
「そうか」
髪結いの札が落ちていく。ひらりひらり。
とうとう後頭部に結ばれたひときわ大きなリボンの札だけとなった。妹紅は仰々しくそれをほどいて、自分の背後に落とした。
「――――」
小さなちいさな声で詠唱する。途端にリボンは火を出さずにぶすぶすと炭化していく。
だけど、それは、自分の背後という妖怪の死角で起こっているので相手からは見えていない。
「私はさ、実のところお前の気持ちも分かるんだ。確かにあの猫は大馬鹿者だ。こんなところにわざわざ赴くんだからな」
まあ、私も人のこと言えないけど――声に出さずにつけ加える。
「でも、狂ってるとは違うんだ。馬鹿には馬鹿なりに馬鹿らしい理由があるんだ」
「へえ、面白いわ。ぜひぜひ教えてちょうだいな」
「いいよ」
妹紅はにやりと笑い、たくわえておいた自分の妖力をいっきに解放する。
――その瞬間、猛々しい紅蓮が地をおおった。
彼女の背中から不死鳥の羽が広がる。燃えさかる羽は雄々しく火炎を散らす。
相手が呆気に取られているうちに、妹紅は地面を蹴った。
頭に結ばれたリボン――その効能は、他と同じく直接的な攻撃、ではない。
運動能力を爆発的にあげるのだ。
そのため、今の彼女は常人では視認もできぬコンマの世界を駆けている。たとえ妖怪でも視認はかなわない。
いや、もっと言ってしまえば、幻想郷最速を謳う烏天狗の追従も許さないスピードで妹紅は飛んでいるのだ。
空気は高速がぶつかることによって固さをも持つ。しかしそれさえもこの速さの前では足枷にならなかった。
妖怪がやっと一回瞬きを終えようとしたとき――すべては決着していた。
「――なっ!」
肺を出た空気が喉の声帯を震わせるより早く、妹紅の拳は妖怪の頬をぶん殴っていた。
阿求を手放して後方へ飛んでいき、遠くとおくに姿を消す。
傍観者にとっては意識の埒外で、終わりを迎えたのだった。
「……あいつは、お前らにこんな一発をお見舞いしたかったのさ」
術を解くと、不死鳥の羽がふっとうせる。そして急いで阿求を空中で抱きかかえた。
どっと疲労感を味わいながら、妹紅はゆるゆると地上におりてきた。
阿求は解放されてもなお、曖昧な顔をしている。おぼつかない足で立ち、やにわに夢見から覚めたような顔で妹紅の顔を見つめた。
たっぷりと時間をかけてから、阿求は現実を認識し始めた。
「――あ、ありがとうございます」
「いいよ、別にお礼なんて」
答えると、阿求はすぐに暗い顔になって俯いてしまった。
妹紅が大きく息を吸う。
「妖怪に攫われて、心身ともにきついのは分かる。だから恨んでくれてもかまわない」
そして彼女は――阿求の頬を張った。乾いた音が月夜に響く。
輝夜は無表情のまま、二人を眺めていた。
頬を抑えながら目を丸くする相手に、冷たい声で訊ねる。
「どうして、一人で墓参りに行ったんだ? 慧音にも私にも声をかけずに」
阿求は眉間にしわを寄せなにかに耐えるような顔をして、目もとに涙をためた。
「慧音から言われていただろ。妖怪が出るから危ないって」
妹紅が切々と語る。しかし届いているのかは心もとない。
静寂に耳が痛くなってきたとき、阿求は顔をゆがめて自嘲の笑みをつくった。
「皮肉なものですね。前世で博麗の巫女を死に追いやり、現世でも彼女を傷だらけにしてしまった。
私はやはり――」
生きている意味がないのです――その言葉を皮切りに月光をたっぷりと吸った涙が、彼女の頬をつたった。
大事なものまで一緒にこぼしているような気がして、妹紅は悲しくなり、虚しくなり、そして腹が立った。
「ふざけるなよ」
「え?」
もう一度誰に向けているかも分からずに同じ台詞を呟いた。
ああ、だから世界をただ一色にしてほしかったのだ。
「お前を心配していたんだぞ。なのに、どうしてさ。どうしてお前は気づかないんだ!」
きっと相手を睨み、胸にたくわえていた言葉を吐き出す。
「お前は愛されていたんだよ! なんでそれに気づいてやれないんだ! なんで――」
三毛猫の気持ちに気づいてやれなかったんだ
悔しくてやり切れなかった。人里のみんなが彼女を愛しているなどという大きなことは言えない。
それでも一つだけ言えることはあった。
抱きあげられるほど小さな体をした一匹が、百年前から愛し続けているのだ。好きで好きでたまらずに、命果てるそのときまで思い焦がれてるいのだ。
それをどうか知ってほしかった。直接言葉では表せないけど、なにかをきっかけに理解してほしかった。
阿求の顔から乾いた笑みが消え、
「ごめんなさい」
と震える声で謝った。「ごめんなさいごめんなさい」と何度もなんども謝り続ける。
謝辞は涙にぬれてあのレコードのように重くなっていた。
「ある奴が言っていた。自分の最良が、必ずしも他人の最良にならないと」
脇で立つ輝夜はすっと横を向いた。
「死にたいんだろう? 前世が体に巻きついて苦しいんだろう? でも、頼む。お願いだ」
どうか、生きてくれよ――すべてを込めてその言葉をつむぐ。
阿求は大きくうなずいた。涙はもうこぼれていなかった。
自分の説得が相手を変えたとは思っていない。きっと今回の誘拐によって改心したというほうが正しいのだろう。
だけど理由なんてなんでもよかった。ただ、生きてくれると決意してくれるだけで満足だったのだ。
と、そのとき、背後から男たちの声が聞こえた。振り向くと、行燈の明かりが森のなかで照っている。
どうやら自警団が来たらしい。
「やっと来たの」
不満げにぼやく輝夜は、しかしどこかうれしそうな顔をしていた。そして三毛猫のもとへ駆けていき胸に抱いた。妹紅と阿求は声のするほうにゆっくりと歩いていった。
妹紅はふっと顔をあげて夜空を仰ぐ。
星のまばたきが目に沁みた。
◆ ◆ ◆
風に吹かれるちぎれ雲が二つ、寄り添うように青空を流れていた。
いつか大切な日にこの風景を見たような気がするが、思い出せない。はてさて、いつだろう?
「――なんか用か?」
隣からだしぬけに訊ねられて、驚きながらそちらに顔を向けると、墨汁を全身に被ったように真っ黒な猫がいた。
ヒゲを立てて胡乱な目つき。弁解しようと慌てて口を開く。
「え、えーと、ここの家主に用があって――」
「やぬしー? ――あっ、お前もしかして、ここら辺の野良猫を牛耳ってる三毛猫か」
「牛耳ってるわけじゃないよ」
ぼくは言い返す。野良猫のみんなはこちらを慕ってくれているが、ボスなどという大層な肩書きを持った覚えはない。覚えはないのだけど、なぜか目上に対するような態度で接してくる。
ただ友達としてつき合いたいだけなのに……。
黒猫は言葉を続ける。
「ていうことは、先日おれのご主人の阿求を妖怪たちから救ってくれたのもお前なのか」
「まさか! そんなの嘘っぱちさ」
「でもよ、この前人里を歩いていたら野良猫たちが噂していたぜ。あのお方は妖怪を相手に丁々発止の立ち振る舞いでもって蹴散らした、ってね」
なんていう誇張なのだ! まるでにぼしを人食い大魚と言い張っているようなものじゃないか。
そんなカッコいい役回りをぼくはしていない。勝手についていってぼこぼこにされて気を失って――むしろありったけのカッコ悪さを演じただけである。
頑張ってくれたのは言わずもがな、妹紅だ。妖怪たちと互角に渡り合い、阿求救出のために全力をついやした彼女こそがその評価にふさわしい。
あと、意識がなかったから戦闘は見なかったが、輝夜も来てくれたらしい。彼女も妹紅に負けず劣らずの大活躍だったとのこと。
「勘違いだって。ぼくは醜態をさらしただけだよ」
「慎み深いなあ」
快活に黒猫は応える。駄目だ、信じてくれない。
人間が動物よりも同じ種族の人間に信頼をおくように、猫も同族を過信するきらいがあるのだ。
むむとうなりながら視線を前に向ける。立派な門扉が威嚇するように立っていた。
自分が今、阿求の家の前にいるのだとあらためて考えるとむず痒く、そしてちょっぴり胸が痛くなった。
阿求誘拐から三日が経っていた。帰還した阿求を、人里のみんなは温かく迎えた。目をつむると、彼女をまるで我が子のように慈しむ人々の姿を色濃く思い出せる。
妹紅はもちまえの自然治癒力でケガを一日で完治させた。
それに対してぼくときたら、一時的に人里の診療所に連れていかれたものの、次に輝夜がうちのほうがいいと永遠亭へ連れていき薬を浴びるように塗られた。すっごく沁みて、何度か意識が飛びかけたものである。
ただあそこの女医は薬剤師としても凄腕らしく、ぼくの体中の傷はみるみるうちに治っていき、まだ二日目の今日には申し訳程度に包帯が巻かれているだけである。他は跡がうっすらと残っているものの、毛でほとんど見えなくなっていた。
お礼はいくらしても足りないくらいだ。
そして、現在である。お昼というには一歩およばない時刻。
ぼくは長いながい遠回りのすえ、阿求の家を訪ねようとしていた。
後ろには大通りがあり、やかましい喧騒がぼくの背中を強めに撫でていく。たぶん『人里』の対義語は『静けさ』だ。
ふうと呼吸を整いていると、黒猫が言った。
「そういやあ、自己紹介をしてなかったな。おれはクロっていう名前なんだ。ここの主の阿求に飼われてる」
ふわりと心があったかくなった。
クロ――。
そうか。彼女も阿弥と一緒でそういった感性がとっても鈍いんだ
小さく笑い声をこぼすと、自分の名前を笑われたのかと勘違いしたクロが唇をとがらした。
「わ、笑うなよぉ。どうだっていいじゃないか、名前なんて」
「うん、どうだっていいよね」
「ところで、お前にも名前があるのか?」
「あるよ」
ミケ――と無意識のうちに言ってしまいそうになって、慌てて「かぐもこっていうんだ」と答えた。
まるで自分にも自己紹介をしているみたいだった。
「へえ、不思議な名前。かぐもこの主人は人里にいるの?」
「いるよ」
クロとは正反対のほうを向く。「あの長い白髪の女性」
そこには八百屋があり、顔が角ばった店主に大根を渡されようとしている妹紅がいた。彼女は慌てふためきながら手のひらを向けて首を横に振っているが、そばにいる店主の奥さんも小松菜を携えて参戦してきてより焦っていた。
三日前から、輝夜と妹紅は人里の英雄的存在になっていた。理由はもちろん阿求の一件である。
駆けつけた自警団は居合わせた彼女たちとことごとく倒れている妖怪を見て、二人が助けてくれたのだと合点した。
「そんな大それたことはしてない」というのが妹紅の言で、「雪だるまをつくっていた」というよく分からない言が輝夜のものである。たがいに必死で謙遜していたが、阿求の「この二人が助けてくれたのです」という証言により、妹紅と輝夜はいっきにヒーローとなった。
二日前、人里を訪れた妹紅は、行きは手ぶらだったのに、帰ってきたときは照れくさそうな顔で両手でたくさんのものを抱えていた。どうやら道行くたびにいろんな人から感謝の言葉と商品をもらってきたらしい。
彼女は、家で「大げさだ」と困ったように呟いていた。
そして今日も今日とて店主につかまっている妹紅である。旬の野菜をあげようとオクラのような粘りを見せる夫婦との戦いはなおも終わりそうがない。
「――なんであんなに店主に言い寄られてるかは分からないけど、ずいぶんと低姿勢だな」
クロが呟くように言った。
「まあね」
「礼儀正しい人なのか」
礼儀正しい――というのだろうか? いかんせん恐縮し切って頭をへこへこさげているので、まるで万引きの見つかったお客さんのようでもある。
ぼくは彼女に向けていた顔をクロに向けた。黄色い瞳と目が合う。
「お前の主人、優しい?」
「優しいよ。ちょっと不器用だけどね。そっちは?」
「おれのご主人も優しいぜ」
クロが少しだけ誇らしげに言った。
「めったに怒らないでさ、大抵のことは笑って許してくれるんだ。あっ、でもこの前、字を書いた半紙に墨を引っくり返しちゃったときは泣きながらこっぴどく叱られたな」
それでさ――とうれしそうに言葉を続ける。
「さんざん怒って泣いて、なのにちょっとしたら謝りながら撫でてくれて。おかしいよね、おれが悪いっていうのに。
そうそう、ご主人は撫でるのがとっても上手いんだ。手のひらはぬくぬくしててさ、優しくやさしく梳くように撫でてくれるんだぜ。膝の上でやってもらうとすっごく気持ちよくてさ。おれ、幸せだなあって思うんだ」
相手の話を噛みしめながら聞く。耳を通った声は次に温かいものになってすとんと胸に落ちていく。
知っているよ。ぼくも、その幸せを知っているんだ。
楽しげなクロを見ていると、ちくちくと心が痛くなって――でも、それ以上に満足している自分がいた。
これでいいんだ、とうなずける自分がいた。
長々と語っていたクロは突然はっとし、
「退屈な話をすまん。つい……」
とばつが悪そうに言った。
「全然、退屈じゃなかったよ。ぼくも聞いてて楽しかった」
「ほんとごめんな。どうもご主人の話をするときは熱が入っちゃうんだ」
「分かるよ、その気持ちは。ぼくだってそうさ」
「なら、次はお前のご主人の話を聞かせてくれよ」
「ぼくの?」
「そうさ」とクロは答える。
少し考えていると、妹紅が八百屋の前から動き出していることに気づいた。
ぼくは「ごめんね」と謝った。
「今はちょっと無理かもしれない。もし今度会ったら、そのときに聞いてよ」
「ああ、分かった。じゃあ、おれは散歩に行ってくる。またな、かぐもこ」
「またね」
大通りのすみを駆けていく黒猫の背中はずいぶんと目立った。ぼくは視界から消えるまで眺め続けていた。
『今度会ったら』『またね』
――嘘っぱちだ。
ふと、隣に人の気配を感じた。
見やるとそこには、レコードは持っているものの、野菜は持っていない妹紅がいた。どうやら野菜を受け取らずに済んだらしい。
ちらりとぼくを一瞥し、次に門をたたいて、
「すみませーん」
と大きな声を出した。かすかに女中の返事が聞こえた。
ぱたぱたと走ってくる音がする。
妹紅はもう一度ぼくに視線を寄こし、小さくため息を吐いた。
そして、
「ポケットにジャガイモが入ってる」
と呟くように言った。
がらりと門が開き、丸顔の女中が出てきた。妹紅の姿を見ると、柔らかそうなほっぺたに和やかな笑みを浮かべた。
「妹紅さんではありませんか」
なにか答えようと口を開いたのに、女中は「先日は――」から始めてお礼の言葉をとうとうと述べ出した。
妹紅は照れくさそうにうなずきながら困っていた。
「――して、今日はどんなご用件で?」
最初に言うべき言葉が出たのは、聞いてるほうもむずむずするくらい感謝されたあとだった。
辟易とした妹紅が答える。
「阿求に会いたいんだ」
「阿求様ですか。分かりました、お聞きしてきますね」
「あっ、それと――」
「はい?」
「できれば阿求の部屋で会いたいんだ。そんでもって、この猫も連れていきたいんだ」
きょとんとしていた女中だが、すぐに柔らかな笑みで応えた。
そしてぼくの前でかがみ込み、「可愛らしいお方ですね」と優しく撫でてくれた。
家のなかに入っていき、しばらくしてから喜色を浮かべたまま帰ってきた。
「了承が出ましたので、どうぞこちらへ」
女中のあとに妹紅が続く。ぼくも一歩を踏み出そうとしたが、びっくりしたことに足が動かなかった。
なにしてんだよ。
自分にげきを飛ばす。どこまでカッコ悪さを演じるんだ。
妹紅がこちらを振り返った。そのとき、彼女の腕にあるレコードが目に入り、足が震えながらも動いてくれた。
不安そうにこちらを見つめる妹紅に、大きくうなずき返す。
とうとう家のなかへと入った。
懐かしいにおいがした。
二人の後ろに続いているあいだ、できるだけなにも考えずに行く。もし途中で一度でも止まってしまったらふたたび歩き出せる自信がないのだ。
二階にあがる。ガラスのように光を反射する木目の廊下をなおも進んでいると――女中が足を止めた。合わせるようにぼくらも止まる。
上等な和紙が張られた襖があった。
「ここが阿求様のお部屋です。普段ならここで無礼のないように、と忠言を言うころなのですが、妹紅さんなら言わなくても大丈夫でしょう」
慇懃に頭をさげた女中は今来た道を帰っていった。
ごくりと唾を飲むと、妹紅がこちらを見る。
ためしに前足を動かそうとするとぎこちないがしっかり動いてくれた。
さっきと同じようにうなずく。彼女もうなずいた。
「――妹紅だ」
襖の向こうに声をかけると、「どうぞ」と綺麗な声が返ってきた。
すっと開けて入る。ぼくも後ろをついていく――。
そして、呼吸が止まった。そのことに気づくにも、たっぷりと時間がかかった。
阿求と妹紅がなにか話をしているのだが、声はまったく届かなく、五感すべてがこの部屋に吸い込まれていた。
どうやら百年前に迷い込んでしまったようらしい。
奥にはがっしりとした文机、左には書物を並べた本棚、右には青空を四角く切り取る窓――。
昔々とまったく変わっていなかったのだ。大好きな時間がずっと止まっていた。
ぼくは彼女を探した。早く大好きなレコードを流してほしくて、撫でてほしくて、いや、もっともっとしてほしいことがあって――。
「――かぐもこ、こんにちは」
部屋の正しい時間を告げる声に、ぼくは止まる。そちらに目を向けると柔和な笑みを浮かべる阿求がいた。悲しそうな顔の妹紅がいた。
彼女は、いなかった。
無機質な時計の針の音が聞こえている。
「実は、今日用事があるのは私じゃなくて、この猫なんだ」
阿求は不思議そうな顔で妹紅を見る。
「この子ですか?」
「ああ。信じてもらえるか分かんないが、しゃべるんだよ」
「しゃべる猫……」
「あと、このレコードを受け取ってくれ」
持っていたレコードを阿求に手渡す。そして、妹紅は「じゃあ」と言って、立ちあがりそそくさと退室してしまった。
相手に背を向けたとき、彼女の浮かべた泣き出しそうな顔を見逃さなかった。
ごめんね。
声に出さずに妹紅に謝る。
呆気に取られている阿求の前に、ぼくはおずおずと近づき、畳にお尻をつけて座った。
ここからは一匹で頑張らなくては。
石ころをたくさん飲み込んだようにお腹が重くなっていくなか、なんとか声を出す。
「――こ、こんにちは」
驚き入る阿求。しかしだんだんと強張った顔をゆるめていく。
「本当にしゃべれる猫さんなんですね」
「うん。その、どうやら妖怪になっちゃったらしくて」
「なるほど。危険で近づけていませんが、地底にも同じような猫がいるとは聞いたことがあります。もしかしたらそんなに珍しくないのかもしれませんね」
冷静に語りつつ、こちらを見つめてくる。
ついつい目をそらしてしまったぼくに、彼女は、
「初めまして。稗田阿求です」
と自己紹介をした。
さっき、なにかを期待して初めましてと言えなかった自分に気づき、ふっと寂しさが込みあげてくる。
こっから逃げてしまいたくもなった。
なにも言い返せぬぼくは、窓の外に目をやった。
風に吹かれるちぎれ雲が二つ、寄り添うように青空を流れていた。
ふっとあの日を思い出した。
そうだ、この風景はぼくがご主人に拾われたときに見たんだ。
生きることに疲れ切っていたぼくを、ご主人は拾ってくれて、ご飯をくれて、撫でてくれて。
その日から、この窓の外ではさまざまな世界が広がった。
ふっくらと花芽吹く春、セミの鳴き声と暑さに満たされた夏、清閑な十五夜が映える秋、しんしんと雪が降りしきる冬。
どんな季節になろうとも、ご主人はぼくの隣にいたんだ。
大丈夫、あの日々は、幻なんかじゃなかったんだ。
「――いきなりこんなことを頼むのは失礼だと思う。でも、お願いがあるんだ」
ぼくは相手の顔をしっかと見た。「妹紅に渡されたレコードを、流してほしい」
阿求は快諾して、部屋のすみへと寄っていく。そこには、蓄音機があった。
金色のアサガオは今なおしなびることなく咲いている。
「この音盤は、一体なんなのですか?」
「ぼくの大好きな曲なんだ」
「かぐもこさんは曲を聴くんですね。私はまったく聴かないんです。でも――」
レコードを入れて、針をおく。
「でも、おかしな話なんですが、ずっと聴きたかった曲があるんです。名前も調子も分からない。なのにずっと聴きたいと望んでいる曲。
前世は――関係ないですよね。私、前世は耳が聞こえなかったんですよ」
知っているよ――と答えたところで、なににもならないだろう。ぼくは初めて知ったかのようにつくろった。
「じゃあ、流しますね」
言いおわると同時に、部屋は安らかな旋律に満たされた。ぼくは目を閉じた。
あったかくてどこか優しさも感じる曲調――ゆっくりなのに退屈とは思わない。
耳から入る音楽は、全身の血潮をしずしずと湧き立たせる。
部屋の時間がふたたびさかのぼり、穏やかなメロディーがぼくをあの日に連れていった。
どうしてここに彼女がいないのか疑問に思えてくる。なんでもう会えないのか分からなくなる。
この曲が流れているときは、いつだって隣にいてくれたんだ。
なのに、今じゃあ――
蓄音機が流す曲は、この部屋に溶けていくように尾を引き消えていく。その尾をつかんでいつまでも抱きしめていたかった。
もし、蓄音機のレコードを逆回しにしたら、時間は戻ってくれるだろうか?
あの日々を、くり返せれるだろうか?
寂しいんだ、とっても。
ぼくは目を開けて、前を向く。そして――
驚いた。
同じく目を開けた阿求が、笑いかけてくる。
なんで?
そこで彼女も自分の異変に気づいたらしく、恐るおそる頬に触れた。
なんで、阿求は泣いているの?
「――あ、れ……?」
困惑しながら涙を拭っている。何度も袖を当てるのに、一向にそのしずくたちは止まらなかった。
ぽたぽた、ぽたぽたと。
こぼれ続ける涙は、まるでこの曲の形のないメロディーが凝って生まれた結晶のように、温かくて優しそうだった。
「なんで、泣いているの?」
「どうして、でしょうか……。わ、分かりません」
頬を筋となってつたう透明な結晶に当惑している阿求は、しかし突然涙と一緒に笑みもこぼした。
「分からないんですけど、でも、なぜか変なことを思ってしまって――」
窓から入る日光が、世界を明るく照らしている。
「この曲を、いつか聴いたことがある気がするんです」
メロディーが近くなった。
ぼくはなんて答えていいのか分からなかった。
そんなはず、ないじゃないか。
だってさ、阿求は前世の記憶がほとんどなくて、いや、そもそも、ご主人は耳がまったく聞こえなくてさ。ぼくの鳴き声に応えてくれたことなんでただの一度もないんだよ。
なのに――
そんなの、嘘に決まってる!
「変、ですよね」
「そ、そうだよ」
震える声で返す。そうだ、これは変なことだ。ありえないことだ。
おかしな――
「おかしいなことです。でもね、ずっとずっと、幾度もいくども聴いていたように懐かしく思えるんです」
そう言うと、阿求はぼくを抱いて膝の上においてくれた。
温かい。
「馬鹿な、話ですよね」
ほんとだ。これは、なんて馬鹿な話なんだ。
なんだよ――
届いて、いたんじゃないか。
目を閉じる。
温かい膝の上、ぼくは優しく彼女に撫でられていた。耳に入るのは大好きなラブソング。
まぶたの裏には、あの毎日が広がった。
本当になんでもなかった。それでも、心から愛することができた。
だって、ご主人がいてくれたから。
――どうして。
ねえ、ご主人。ぼくは、幸せだったんだよ。
永遠を願っていたんだよ。
ずっと甘えたかった。
ずっと膝の上に乗せてほしかった。
ずっと撫でてほしかった。
ずっと曲をともに聴きたかった。
ずっと名前を呼んでほしかった。
ずっとずっと――
ずっと、一緒にいたかった。
ラブソングは静かに流れている。あの日から、ずっと流れている。
ご主人――
ぼくを飼ってくれて、本当にありがとう。
◆ ◆ ◆
迷いの竹林で、ばったりと輝夜に出会った。
「あら、妹紅じゃない」
「輝夜か」
うれしそうに近づいてくる彼女は、薬箱を持っていた。
「また薬売りか?」
「ええ。ほら、この前、鈴仙とてゐがインフルエンザにかかったって言ったでしょ? あのふたりは昨日に治ったんだけど、今日の朝、今度は永琳がインフルエンザになっちゃって。つきっきりで看護してたものだから。
だから、今日一日休む彼女の穴うめを私たち三人でするはめになったの」
「じゃあ、診療所は閉まってるのか」
「まあね。でもこれが大変なのよ。なにせ月の頭脳と呼ばれる天才が一日でこなす事務仕事を我ら一般人がこなすの。大変でたいへんで、フォロー側に回ってあらためて彼女のすごさが分かったわ」
「なるほど。しかし永琳が体調くずすというのは驚きだな。医者の不養生――って言うのは可哀そうだけど、本当に珍しい」
鬼の霍乱、永琳のインフルエンザ――と輝夜は楽しそうに言った。
しかし次に疲れたように、自分の左手で持っている大根を見やり、ため息をついた。
「行く家行く家でお礼を言われるわ、道すがら店主に商品を渡されそうになるわ、困ったものよ」
彼女も阿求を助けに行った一人として、英雄として扱われている。
妹紅は「立派な大根だな」と皮肉を言ってやった。
「他の店はさ、辛抱強く断れば折れてくれるんだけど、八百屋は押しとおしてくるわ」
「分かるわかる。私もこの前ジャガイモをポケットに突っ込まれたし」
「あの八百屋は粘りっぷりと言ったら、オクラと納豆を混ぜたレベルね」
「変なたとえ」
そうして二人は歩き出した。家に帰ったら先日のジャガイモを使ってお昼ご飯をつくろうと妹紅は思った。
阿求の家に三毛猫を連れていって三日が経っていた。
見あげると、雲一つない晴天である。ここまで青一色だと、なんだか特大の色紙が自分の上をおおっているだけなのではないかと疑えてくる。
風の寒さがほんの少しだけ和らいでいる。でもまだ春の匂いはしない。
手袋とマフラーをしていない妹紅に、同じく防寒具のない輝夜が、
「そうそう」
と話しかけてきた。
「ん?」
「これ持って」
重そうな薬箱をずいと押しつけてくる。もちろん言い返した。
「やだ! なんで二回もお前の荷物持ちを務めなきゃいかんのだ」
「包帯代」
「へっ?」
「殺し合いのとき、あなたが勝手に使った包帯代よ」
「あ、あー……」
使ったな、確かに。
これは反論できないな――そうそうに諦めて薬箱を受け取った。これが代金に換えられるのだからむしろお得だ、と自分に言い聞かせながら。
相変わらず手にずしんとくる重さである。
渋面でいるとあることに気づいた。
なるほど、八百屋に横暴さと狡猾さをつけ加えたら輝夜になるのか。
「大根は自分で持つから結構よ」
そう言って大根一本を大切そうに抱きかかえた。「人の好意はもらった人が受け持たないとね」
竹のあいだを縫って降り注ぐこもれ日があったかい。もしそれらをかき集められたなら、一足早い春を迎えられるだろう。
かさりかさりと枯れ葉を踏んで歩いていると、
「訊き忘れてたけど、あなたはどこに行ってたの?」
と輝夜が訊ねてきた。
「ん……」
「私と一緒で入口のほうから来たんだから、どっかに行ってたんでしょ?」
「まあね」
あまり話したくはなかった。この話がこもれ日のように素敵なものではないからだ。
言葉を濁してしていたが、妹紅はため息にも似た声で言った。
「博麗神社、だよ」
「そう――」
輝夜はそれ切りなにも答えなかった。彼女は人の気持ちを察するのが上手い。
妹紅は右手をポケットに入れ――なかの櫛をにぎった。
霊夢が退院したと聞いて、自分でも驚くほどせきながら博麗神社を訪れた。
石階段をのぼり鳥居をくぐると、ほうきで庭掃除をしている霊夢がいた。彼女は妹紅を見るといささか呆気に取られたが、すぐに普段の仏頂面に戻った。
体のところどころにはまだ包帯が巻かれていた。
「――なによ」
掃除をしながら素っ気なく応える。大して枯れ葉のないところをずっと掃いている。
妹紅はただ「掃除代わるよ」と相手からほうきを受け取った。霊夢はおびえるような顔で応え、本社のなかへ入っていった。
そんな顔を望んでたわけじゃない。
お茶と煎餅の乗ったお盆を持って霊夢は出てきた。そのあと、二人は無言でお茶をすすっていた。
飲んでも食べてもお腹にたまっている気がしない。
しばらくしてから、
「ごめんなさい」
と、霊夢が胸にため込んだ黒い感情をたった一言にして吐き出すように言った。
そんな言葉を望んでたわけじゃない。
妹紅は相手の目を見つめた。
「ここに姿見はあるか?」
「えっ、ええ……。寝室に」
「すまないが、案内してくれないか?
怪訝な顔を浮かべていたが、おずおずと案内人を務めてくれた。
途中で訊いてくる。
「一体どうしたのよ」
「髪の手入れをしてやる」
呆然とする博麗の巫女だった。
姿見の前に座った霊夢は、思案顔で鏡に映る妹紅を見つめていた。
妹紅はポケットから自分の櫛を取り出し梳き始める。
手入れはしているのかと訊ねると、頬を染めながらしている、でも恥ずかしくて人に訊けなくて我流だと答えた。
その我流はお世辞にも上手とは言えなかった。髪はふにゃりとして整っていない。
「これはかぐや姫直伝のものだからさ、出来栄えだけは保証できるんだ」
「い、一体、なんなのよ」
「……ごめんな」
「えっ?」
鏡で霊夢の顔を見ずに、髪だけを眺めて謝った。相手の顔を見れなかったのだ。
自分のやっていることに意味があるのかは分からない。ただのお節介というものかもしれない。
でも、傍観者ではいたくなかった。
「こんなことしかできなくて、ごめん」
感得した霊夢はただ俯いた。
本当は輝夜を呼んで、頬におしろいをつけてあげたかった。唇に朱をさしてあげたかった。綺麗な着物を着つけてあげたかった。
だけど、博麗の巫女には叶わぬ夢なのだ。
霊夢は頭のリボンを外し、小さな声で「お願い」と言った。
するすると櫛が通っていく。髪質はもとよりいいらしく、少し当てるだけで途端に整った。
できるだけなにも考えず、目の前の髪だけを見つめ続ける。彼女の黒髪になにか祈りを込めるように、手を動かし続ける。
十二分に時間をかけてまんべんなく梳かしおえる。すると、極端な変化はないものの、雰囲気は変わったように感じた。
やっぱり小さなことだ、と思っていると、霊夢がにわかに動いた。
目を見開きながらゆるゆると自分の髪に触れる。割れやすいビードロを扱うようなぎこちない仕草であった。
「髪、綺麗になってる」
鏡のなかの霊夢をのぞくと、彼女はだんだんと頬をゆるめていき、鏡に映った妹紅を見た。
泣きそうなくせに笑っていた。うれしそうに照れていた。
「ねえ、妹紅。私さ、可愛くなったかな」
深くうなずいた拍子に、妹紅の目から温かなしずくがこぼれて頬をつたう。
霊夢は、いつまでも包帯の巻かれた手で自分の髪を撫でていた。
手のひらの痛みで我に返る。どうやら櫛を強くにぎりしめて食い込んでいたらしい。
隣の輝夜は黙々と歩いていた。わざと黙っていてくれたように感じて申し訳なかった。
妹紅がいささかばつの悪い思いに駆られていると――ふいに風が吹いた。
どこか鼻歌じみた音――。
「――今日も、三毛猫は帰ってこなかったよ」
「……そう」
あいつを阿求の家に連れていってから三日前から今日まで、三毛猫は帰ってこなかった。
一昨日、昨日と我が家を訪れた輝夜はほとんどしゃべらなかった。
妹紅だって日を追うごとに胸にわだかまるもやもやを持て余している。
「あのさ、猫って、死ぬときは人目のないところで死ぬらしいんだ」
もやもやは喉もとで言葉になって口からあふれた。
痛かった。どこかは分からないけど。
「もしかして、あいつもさ――」
「かぐもこよ」
輝夜が言葉を遮って言った。「あいつじゃなくて、かぐもこよ」
相手の真意がつかめずに目を丸くする。輝夜は拗ねたように続けた。
「私はあの子の名前をかぐもこにしたっていうのに、あなたはただの一度も呼んでくれなかったわね。どうして?」
「どうしてって……。なんていうか……」
「こんな素敵な名前、なかなかないわよ」
「素敵、か?」
「もちろん」
自信ありげにうなずく輝夜。そして釈然としない妹紅を向いて、ふふんと笑った。
「終わらない蓬莱人二人の名前を冠しているんだもの」
輝夜は『死なない』じゃなくて『終わらない』と表現した。そっちのほうが胸にすとんと落ちた。
そうか、終わらないのか――。
素敵な名前じゃないか、と今さらながら思った。名前で呼んでやればよかったと後悔もした。
妹紅は口を開きかぐもこと声に出そうとしたが、今まで言わなかったつけが回ってきて急に恥ずかしくなってしまった。中途半端に口を開け続けるのもおかしなことなので閉じようとする。
と、そのとき、あれが浮かんできた。嫌というほど聞いたあれが。
思い出すと同時に、口ずさんでいた。
「――なーなーなー」
まるで自分の息に吹かれたように、竹が揺れる。
歌ってみると、口のなかに温かい甘さが広がった。
その甘さを伸ばすように歌う。
「なーななー」
「下手くそな歌」
輝夜が吹き出して笑った。その笑い声さえも、この歌の一部に聞こえた。
「ほっとけ。最初に歌ってた奴が下手だったんだよ」
言い返しながらも歌い続ける。幻想郷中に知れ渡ってほしくて、歌詞をこの世界に溶かし込むように。
ななななーななーなななーななーななななー
そうか。そうだったんだ。
この歌こそが、あいつの永遠なんだ――。
妹紅は思った。明日から、人里に行こう。そこで慧音だけじゃなくて他にも友人をつくろう。たくさんたくさんつくろう。
どうせどんな友人も自分より早く死んでしまう。きっとそのお別れはどうしようもなく寂しいのだろう。
だけど、この歌を知ってしまった自分は、つながりというものに憧れてしまったのだ。
私はやはり、あいつに妬けているんだろうな。
竹が優しく揺れている。
輝夜が柔らかく笑っている。
妹紅はずっと歌い続けている。
いつまでも歌っていたかった。
なあ、かぐもこ。
お前もそう思うだろう?
だって――
今日は、絶好のラブソング日和なんだから。
猫の名前はミケ。三毛猫だからミケです。命名のよしが安直なのは、阿弥のそういった感性がなまくら刀のように鈍かったゆえであります。
されど猫には瑣末事。自分の名前がどうであろうと、なにも変わるまい――と、まったく歯牙にもかけませんでした。
そんなことより、ミケにとっては阿弥と過ごす時間だけがただ大切だったのです。
一人と一匹は、毎日、ずっとずっと一緒にいました。
朝、ミケは阿弥の腕のなかで目を覚まします。三食すべてをともの部屋で取り、閑暇の時間ももっぱら一緒です。
外出の多くない阿弥は、部屋に篭りとおしでした。文机に向かって、編纂にと筆を持つか、時間つぶしに手垢のついた書物をめくるのです。
そのあいだも、ミケはずっと彼女に寄り添っていました。甘えたいときは膝の上に乗り、愛撫を促します。
すると、相手は邪険にすることもなく、笑みながら喉もとを優しく撫でるのです。お腹の毛を梳くように指でなぞるのです。
ごろごろ。
ミケは目をつぶり、喉を鳴らします。それは幸せを噛みしめている音でした。
撫でるのをやめれば、三毛猫は不服そうに阿弥を見あげ、彼女には聞こえない鳴き声をあげます。
すると阿弥はいっそう笑みを深めて、撫で続けてくれるのです。
ごろごろ。
ミケには人間のつくった抽象概念がよく分かりません。恋や友情がその最たる例です。
しかし、一つだけしっかと理解できるものがありました。
それは、『幸せ』でした。
主人に撫でてもらえる時間は、紛れもなく幸せだったのです。
加えて、ミケにはもう一つの幸せがありました。
部屋のすみに鎮座している大型な機械。一見すると近寄りがたい不気味なもの。
一番の特徴は、金色でアサガオの蕾のようなものがにょっきり生えていることです。
阿弥はこう言いました。
――これは、蓄音機というものです。
ミケは最初、この機械に近づけませんでした
なにせ、全体は自分の体よりも大きく、金色の蕾は周りのものを吸い込むかのように咲いているのです。
猫の耳と尻尾は、常にぴんと立っていました。
だけど凝り固まった警戒心が解けたのはすぐのこと。契機は突然訪れました。
阿弥が蓄音器になにかしらの操作をすると――それは、古けた恋歌を奏し始めたのです。
にわかの曲は停滞していた部屋の空気をゆるりと振るわせ、少しだけ居心地の悪さを感じました。
しかし、空気と曲の調子が同調してくると、ミケの感じ方も変わってきました。
とろとろと尾を引く緩慢な曲調。温めた牛乳のようにどこか安らかな甘さを感じさせるのです。
それは、優しく撫でるみたいにミケの毛の先を滑っていき、耳に入った音楽は、全身の血潮をしずしずと湧き立たせます。
むず痒い気持ちになりました。だけど、全然嫌とは思いませんでした。
体は弛緩し切って、ともすればとろけてしまい畳の目に染み渡ってしまいそうなほど力が抜けて――。
聴いているうちに、だんだんとミケの心にある感情が湧いてきました。だしぬけにはその感情の名前が分かりませんでした。
だけど、まどろむような頭で曖昧に思ったのです。
幸せだなあ……。
ミケはその日以来、蓄音器が大好きになりました。
阿弥とミケが過ごす日々は本当になんでもないものでした。
もしその日々を画布にして色を塗るなら、淡色だらけで描かれる味気ない作品に仕上がるでしょう。額縁に入れて公衆の面前に飾れば笑われてしまうような作品。
それでも、ミケはそんな作品を愛していました。
大好きな主人と四六時中一緒にいて、甘えたいときは撫でてもらい、蓄音機から流れる恋歌を聞く。
いつも笑んでくれる阿弥さえいてくれれば、ミケはつれづれな日々も愛せたのです。
ミケは人間のつくった『幸せ』以外の抽象概念がよく分かりません。
だけど、薄ぼんやりと想像できることがありました。
それは、『永遠』でした。
この日々がずっと続いてほしい。続いてつづいて、世界の時間軸から外れて、終わりを迎えなければいい――。
永遠という概念は、今自分が願っているものなんだろうな、とミケは考えていました。
だけど、ぼくも馬鹿じゃないんだ――ミケは悲しそうに胸中で呟きます。
それが無理なことぐらい知ってるんだ。
生けるものは総じて寿命がある。神様が引いた線があって、それを超えると生物は二度と目覚めぬ眠りにつく。
それにね、とミケはつけ足します。ご主人は阿礼乙女で、人一倍寿命が短いのだ。
残酷だといつも思っていました。
だから、毎日毎日を心より愛しました。阿弥から離れまいと日がな一日そばにいました。
死が、怖かった。もう膝の上で頭を撫でてもらえなくなるのが、隣で恋歌が聞けなくなるのが、たまらなく怖かったのです。
ミケは祈りました。生物に寿命という線を引いた神様に祈りました。
どうか。
どうか、神様。
ぼくに、永遠を――。
幻想郷縁起を編纂しおえた次の日のことでした。阿弥が小刀を自分の喉もとに突き立てたのは――
終わらない猫の歌 ~Loved Loving Love Song~
◆ ◆ ◆
「おはよう。なんだか久しぶりね。元気?」
「にゃー」
妹紅は心底後悔した。なぜ誰かも確かめずに戸を開けてしまったのだろう――。
省みている彼女は髪を梳かしている真っ最中であった。
戸の前には、輝夜がいる。首に巻かれた黄緑色のマフラーが冬の朝の風に揺れていた。
「なんか用か?」
輝夜は笑顔でうなずいた。にゃんという合いの手が入る。
――だろうな。
妹紅は玄関を開けて、彼女と対面したときから話があるのは分かっていた。
なぜなら、輝夜がそれを抱きかかえているからである。
一匹の猫を。
その猫は、体を白と黒と橙で染めていた。つまり、三毛猫だった。土埃でところどころが汚れており、首輪がついていなかった。
輝夜は脇の下に手を入れて持っていた。それが不満なのか、三毛猫は妹紅を不機嫌面で睨んでいた。
不満は、私にじゃなくて輝夜に言ってくれよ――妹紅は呆れ顔で猫を見つめ返した。
「この子ね、さっき拾ったの。迷いの竹林で迷子になっていてね」
拾われちゃったよ、と不平を言いたそうな顔の猫である。
「でね、可哀想だから飼いたいなって思ったの」
「……勝手にしてくれ」
「えっ、いいの?」
「いや、私が判断することじゃないだろ。永遠亭に帰って、永琳に訊けよ」
すると、輝夜は不思議そうに首をひねった。
「なんで? 私はあなたの家で飼おうとしているのに」
「はあっ!?」
妹紅が頓狂な声を出すと、三毛猫はきょとんと目を丸くした。
「なんで私の家なんだよ!」
「だってさぁ」と輝夜は駄々っ子のように唇をとがらす。
「ウサギたちと猫って相性悪そうじゃない。ケンカとかしちゃったらどうするの」
「知らん。てゐに上手く仕切ってもらえよ」
「それに、うちに永琳がいるじゃない」
だからどうしたと言外で訴えると、「分かってないわね」と呆れられた。
「にゃにゃー」と猫が鳴いた。
「永琳はきっとこの子がいいモルモットに見えてしまうわ」
「ないだろ」
「誇張じゃないの。実際、永遠亭の妖怪ウサギが永琳の実験台にされそうになったんだから。そのときはてゐがレジスタンスを企てちゃって大変だったのよ」
あの女医、そんなに危ないのか。
妹紅は永琳の認識をあらためた。
「ねえ、ダメ?」
輝夜は心配そうな顔で見てくる。親にペットをねだるような純真さが瞳にはやどっていた。
妹紅は腕を組み、眉間にしわを刻んで目をつむる。
三回うなってから、片目を開けて猫を見て、お前はどうされたいんだと胸中で問いかけた。
脇の下が痛いんでとにかくおろしてほしいです、という顔だった。
たっぷり黙考してから言った。
「――分かった」
組んでいた腕を解く。「飼うよ」
輝夜がうれしそうに破顔して、三毛猫に頬ずりをした。困ったように「にゃん」と鳴いた。
「よかったわ。正直、断られると思ってた」
適当に笑ってごまかす。「まあ、なかに入れよ」と促して輝夜と猫を室内に招き入れた。
恥ずかしくて、言えなかった。
実は、前々から猫を飼ってみたかったなんて――。
一人と一匹を居間へと案内すると、輝夜はやっと三毛猫を解放した。
畳におろされた三毛猫は、鼻をすんすんと動かしながら部屋を見回している。ヒゲはぴんと立っていた。
輝夜は家主の許可も取らずにごろんと横になった。そして、猫の頭を人さし指でかくように撫で始めた。
妹紅は一つ嘆息し、茶を準備するため台所へ向かう。
ところどころ凹んだやかんに水を注ぎ、それをコンロにおく。ポケットからお札を一枚取り出してやかんの下に入れた。ふうっと息をお札に吹きかけると、数秒してからお札は発火した。
すぐ後ろの居間から「にゃにゃ」という高い声が聞こえた。猫のものではない。輝夜のものだ。
にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ。
しばらく輝夜の鳴き声が続いた。やかんを見つめたままの妹紅は、頭をかきながら「おい」と声をかける。
「猫にあんまり構うなよ。人間も猫もうるさいのは嫌いだろ」
「あら、人間も猫も会話は大事じゃない」
「へえ、お前は猫語を解するのか。じゃあ、そいつは今なんて言ってるんだ?」
「ふむふむ……、なるほど! お茶と一緒に大福も持ってきて、だそうよ」
ふっふっとやかんが白い湯気を吹き始めた。お札も燃えつきて、火が消える。
急須と湯のみ二つ、それといただきものの大福も二つ乗ったお盆を持って、居間へ向かった。まず目に入ったのは、寝ている三毛猫のお腹をわしゃわしゃと撫で回す輝夜の姿だった。
お盆をちゃぶ台におきながら、問う。
「……猫の腹を強く撫でるのもコミュニケーションなのか?」
「ボディランゲージも大切よ」
頭をもたげた三毛猫と目が合う。助けてください、と今にも沈痛な声で訴えてきそうな顔だった。
湯のみにお茶を注ぐと、輝夜は手を止め四つん這いでちゃぶ台に寄ってきた。三毛猫は起きあがり、輝夜から逃げるように部屋のすみへ行った。
「何度も言うけど、あんまり構うなよ。引っかかれても知らないぞ」
「そしたら撫で返すまでよ」
「引っかき返されるぞ」
お盆の上の大福を見つけると、彼女の目はきらきらと輝き始めた。
妹紅は少し苦いお茶をすすり、大福をかじる。
輝夜も大福に手を伸ばす。
「大福をねだったのは、猫じゃないのか?」
「私に譲るってさっき言ってたの」
三毛猫は大福などにまったく興味を示すことなく毛づくろいを始めた。
「さっき調べたんだけどね」
輝夜が大福をほお張りながら言った。「あの子、オスだったわ」
「へえ」
「へえ、じゃないわよ。すごいじゃない」
「なにが?」
信じられない、というふうに目を開く輝夜。まるで食べた大福に餡子が入っていなかったかのようだった。
「三毛猫のオスよ。数万分の一の確率でしか生まれないのよ」
「……そういえば、そんな話を聞いたことがあるな」
三毛猫に目をやる。猫は目を細めて座布団の上で寝転がっている。自分の生まれを誇っているようには見えず、やっぱり興味なさげだった。
妹紅はぼんやりとした頭で茶をすする。曖昧な思考が、緑茶の苦みで少しだけクリアになった。
すごいと言われたところで、数万分の一という概念が妹紅にはいまいち感得できなかった。滅多にない、という一言で集約されてしまう。
数万分の一といったらあれだろ? つまり……つまり……
上手いたとえも浮かばない。必死に考えたすえに思いついたのは、数万枚の白紙のくじが入った箱のなかから、たった一枚だけ色のついたくじを引き抜く確率だ、という安易なたとえだった。
頭をひねったところでよく分からない。結局、輝夜の感動は一割も理解できなかった。
素直な感想を述べると、輝夜は面白くなさそうな顔で言った。
「別に無理して理解してもらわなくてもいいわよ。まあ、ここらへんに育ちの違いが出てしまうけどね」
輝夜が大福を噛みちぎる。咀嚼する。白い粉がひらひらと舞う。
「育ちは関係ないだろ。あと、粉を畳に落とすな。掃除するのは私なんだからな」
妹紅が湯のみ口をつけていると、輝夜は三毛猫のほうを振り向いた。
「この人はうるさいわねー。ほんと、育ちが分かるわー。ねー、かぐもこー」
むせた。妹紅はあやうくお茶を吹き出すところだった。
「も、もしかして、かぐもこって猫の名前か?」
「そうよ。あなたと私の名前をもじったの」
輝夜は自信ありげに笑み、ふふんと胸を張る。「素敵でしょ」
「全然」
妹紅はぶっきらぼうに答えた。無感動な対応は、にじみ出そうになる本音を隠すためのものである。
少し照れくさかったのだ。
妹紅の輝夜への認識は昔と違っていた。確かに最初は、父親を侮辱されたのを根に持って憎悪だけを抱いていた。
しかし、長いながい年月を彼女と過ごすうちに、棘だらけだった心は徐々に丸みを帯びてきた。今では昔ほど憎いとは思っていない。むしろ友達としての関係も築き始めたくらいだ。暇なときは一緒に人里の饅頭屋を訪れたりしている。それでも、過去のできごとをすべて水に流したわけではないが……。
とにかく、ほどほどの仲よしになったため、名前をくっつけるなどの親近に変な照れを感じるのだった。
「かぐもこが不満って言うなら、あなたはなにかいい名前が思いついているの?」
「私?」
「そう」
言われてから頭を働かせてみるが、まったく浮かばない。『ネコ』という名を候補にあげたところで自分に吐きかけるようにため息をついた。
応えない妹紅を見て、輝夜はもう一度ふふんと鼻を鳴らしてから、
「じゃあ、かぐもこで決定ね」
と言い切った。
そっぽを向いて口をへの字に結んだ。釈然としないものの、反論ができない。
輝夜は最後に大福を口に放り、立ちあがった。
「私はそろそろ帰るわね。明日から毎日、今日と同じような朝の時刻に来るからね」
「勝手にしろい」
もごもごと、水に落としたら沈んでいってしまいそうな重い声で答える。
「じゃーねー、かぐもこ、妹紅」
輝夜は喜色を浮かべて出ていった。しばらくしてから玄関の開閉の音が聞こえた。
やにわに居間が静寂に抱かれる。妹紅はふつふつとくすぶる不燃焼の感情を大福で収めようと、ちゃぶ台の上を見た。
自分の皿に大福はなかった。
あるのは、大福がそこにいたという証拠の白い粉だけ。それが雪のように見えて、余計に心が冷えびえとした。
あいつが去り際に食べたのは私のものだったのか――妹紅はごろんと仰向けになった。
抑揚のない笑い声が静寂に溶ける。
顔を横に向けると、猫と目が合った。双眸はぱちくりと開かれている。猫の瞳は、新品のビー玉のように綺麗で丸かった。
妹紅は口から深いため息を吐いた。
「――お前は、どう思う?」
気がついたら言葉も吐いていた。「かぐもこっていう名前、気に入ったか?」
馬鹿みたいだな、ともう一人の自分が笑っている。
猫は両耳をぴこんと動かしてから、「にゃん」と鳴いた。
「にゃんじゃ分からないよ」
もう一人の自分が、もうやめろって、と笑いながらも諫めてくる。
猫になに言ってるんだか――
「ぼくはなんだっていいよ」
「そうかそうか、なんでもいいの……か」
妹紅は目を瞬かせた。誰だ、今の?
ここにいるのは自分と猫のみ。言ったのは自分じゃない。ならば、帰ったように見せかけて輝夜がまだこの家にいるのだろうか?
「かぐもこでもなんでも、名前はなんだっていいんだ」
また声が聞こえた。そして、今、言葉が聞こえているあいだに猫の口が動いてた。
もしかして――
思考がほろほろと散っていく。世界の輪郭がぼやけてぶれていく。
「……お前が、しゃべったのか?」
これは、現実なのか。
笑いをこらえているような声で、目の前の『三毛猫』が言った。
「人間も猫も、会話は大事だもんね」
◆ ◆ ◆
寒いさむい冬の朝のことでした。
本来、出不精の彼女が外を歩くなどは珍しいこと。しかしこの日は私事があったのです。
彼女が人里を歩いていると、ゴミ捨て場に三毛猫がいました。
三毛猫はぐたりとゴミ袋の上に身を横たえ、虚ろな目で里人の往来を眺めていました。その女性が近づいてきても、瞳をちらりと向け、すぐに正面を向きます。
このとき、三毛猫は自分の死を覚悟していたのです。もう一週間近くなにも食べていません。そして暖を取る術もない。
ただ動くことが億劫で、無性に眠たかったのです。加えて、この世界からいなくなってしまうことになんら抵抗もありませんでした。
どうせ生きていても苦しいだけ。他の猫とゴミ捨て場の腐りかけた食べものを奪い合う日々が続くだけ。なら――
三毛猫はとうとう目をつむりました。もう二度とは帰ってこれないこの眠りに身をゆだねようと思ったのです。
突然体が温かいものに包まれました。それはゴミ袋の無機物的な温度とは明らかに違っていました。
薄目を開けると、人間の女性の横顔――。どうやら自分は抱きかかえられているらしい。
もう寝かせてよ、と三毛猫は思いふたたび瞑目しました。
「どうぞ」
意識の外から声が聞こえ、次にいい匂いが鼻をくすぐりました。重いまぶたを開けると目の前には小皿に盛られたおかかご飯がありました。
ほとんど考える暇もなく、気がついたらおかかご飯を食べていました。胃袋に流し込むかのようにぱくついていたのです。
小山を成していたご飯を食べおえると、三毛猫は今さらながらあたりを見回しました。
奥には文机。机はがっしりとしていて大きい。左にはたくさんの書物を並べた本棚。右を向くと窓があって、青空を四角形に切り取っていました。視線を落とすと少々ささくれた畳が目に入りました。
そして正面には女性がいました。そこで、やっと三毛猫は自分がこの女性の部屋にいるのだと思い至ったのです。
「お口に合いましたか?」
女性は、言葉に変な抑揚をつけながら訊ねてきました。三毛猫はどうして自分がここにいるのだろうと考えていました。
「私は稗田阿弥といいます」
彼女は名乗りました。そして、「これからあなたを飼おうと思うのです」と続けたのです。その声には、まるで揺るぎない世界の摂理を告げるかのような強さがこもっていました。
三毛猫は驚きました。なぜ自分なのだろう。さっきまでゴミ捨て場で死を覚悟していた、やせ細り不衛生なぼくのどこがいいのだろう――。
阿弥は猫の心を見透かしたようにいました。
「私は、会話ができない生き物にそばにいてほしいのです。みんな、私と会話をするとき面倒くさそうな顔をするんです。なら、最初から会話が必要ない相手がほしくて」
三毛猫は彼女の主張がまったく理解できませんでした。普通、人間は意思疎通のできない猫などは疎く思うのではないか。なのに目の前の女性はそこがいいと言う。
不思議な人もいるんだな、と関心を抱いていると、
「それと」
と、阿弥は笑顔で言いました。「あなたの名前はミケです。三毛猫だからミケです」
そして頭を優しく撫でてくれました。ミケは目を細めて喉を鳴らします。
心がぽかぽかしたまま、視線を窓にやりました。
窓の外では、風に吹かれるちぎれ雲が二つ、寄り添うように青空を流れていました。
◆ ◆ ◆
空を見あげると、小さなちぎれ雲が一つ、寂しそうに青空に浮いていた。迷いの竹林から見える空はせまいな、と妹紅はしみじみ思った。
彼女は今、人里に向かっていた。猫のための餌を買いにいくためである。トイレ用の砂や爪とぎの遊具も必要かと思っていたが、猫が「それはいらない」と言ったため不要になった。
果たして、しゃべるペットと打ち合わせをしてから買い物に出かける飼い主というのは、幻想郷にどれほどいるのだろうか。
妹紅は視線を横にやり、ついさっきの会話を思い返しながら口を開いた。
「――つまり、お前は普通の猫じゃないんだな」
「そうだよ」
隣を歩く三毛猫がうなずく。そして、にょっきりと生えた竹をよけてから言った。
「ぼくは妖怪なんだ」
三毛猫から聞いた話を簡単にまとめるとこうだった。
昔はごくごく平凡な三毛猫であった。しかし、どういうわけか寿命は十年二十年経とうが訪れず、気がついたら百年ぐらいは生きていた。理由は当人にもからきし分からない。また、長い人生を生きているうちに人間の言語も操れるようになったとのこと。
どうやら自分はいつの間にか妖怪に変じていたらしい――三毛猫は少しうれしそうに言い切った。
話を聞きおわったあと、妹紅はなるほどと一言だけ言った。
氷を砕いて混ぜたように冷たい風が吹く。もうすぐ正午になるというのに気温はあがらない。手袋をしていなければ今ごろは霜焼けになっていただろう。
冬は嫌いだ、と心のなかで愚痴をもらし、首に巻いたオレンジと白のストライプのマフラーに口をうずめた。
「……なるほど、って。あんまり驚かないね。人語をしゃべるんだよ?」
三毛猫が面白くなさそうな声を出す。「珍しいでしょ?」
風に吹かれて竹が縦に揺れた。
「ほら、竹もそうだとうなずいているよ」
「そうは言ってもなぁ」
妹紅の呟きは、マフラーの内側で生温かい空気になった。
もちろん会話のできる猫が珍しくないわけではない。妹紅だって最初に猫がしゃべったときは驚き入った。
しかし、しかしだ――。妹紅は考える。
自分は千年以上生きている。三毛猫は百年生きていると言っていたが、こちらはその十倍だ。
生涯でたくさんの妖怪を見てきた。巨大なクモの妖怪や、眼球の飛び出しているグロティスクな見た目の奴など。だてに昔、退魔師を務めていないのだ。
また、ここは幻想郷である。人ならぬ妖怪が平然と闊歩する世界。げんに妹紅の知己に半獣がいるし、自分だって不老不死という凡夫とは一線を画す能力がある。あまりにも奇々怪々に満ちみちた場所なのだ。
つまり、言語を操ることを驚いてほしい猫にとっては、出会う人物も場所も悪かったのである。
そのことを傷つけないように伝えると、
「なら今度はもっと驚いてもらえるように、空も飛べるようになっておくよ」
と、少し悄然としながらもおどけるような口ぶりで三毛猫が言った。
しばらく歩いたのち、生えている竹がまばらになっていることに気がついた。迷いの竹林の終わりが近づいている証拠である。
「――――」
音が聞こえた。竹の葉をこすり合わせた音よりもかすかな音が。
妹紅は疑問に思いあたりに目をやるが、不審なところはない。
「――――なー」
また聞こえた。その音は自分の近くから聞こえていた。
もしかして――と、顔を下に向ける。
「なーなーなー」
やっぱりと妹紅はため息を吐いた。
三毛猫が歌っていた。『な』という一文字にリズムをくっつけただけの歌だった。
話しかけようか迷ったが、興味があったので訊ねてみた。
「なーななー」
「……おい」
「ん?」
猫がこちらを見あげてくる。「どうかした?」
「その歌はなんだ? 聴いたことがないけど」
リズムもお粗末なものなので、たとえ知っている歌でも気づけるかどうか分からない。
三毛猫はふっふっと楽しげな笑い声をこぼした。
「これはね、恋歌だよ」
「恋歌?」
「そう。ラブソング」
そう言うと、三毛猫は目の前の風景に楽譜が書いてあるかのように正面を向きながら「なーなな」と歌った。
その声は、美声ではないがずっと聴いていられる不思議な温度があった。
「好きな子に告白するときのために練習しているのか?」
「そんなんじゃないって。ただ――」
三毛猫ははずんだ声で言った。 「今日がラブソング日和だから」
妹紅が眉間にしわを刻んで首をかしげた。
「なんじゃそりゃ」
「なんかさ、ラブソングを口ずさみたくなる日とかない?」
「ないな」
「じゃあさ、どんなでもいいからとにかく歌を歌いたくなるときとか」
「それは……あるかも」
うれしいときなどがそうだろう。たとえば悩みが吹っ切れたとき、気持ちの高ぶりをリズムに変えて口で転がしたくなると思う。
確かに、あるかもしれない。
「でも、ラブソングが歌いたくなる日ってあるか?」
誰かへの告白が成功したときだろうか?
「あるよ。妹紅はまだ経験してないだろうけど、あるんだ」
三毛猫の言葉は自信だけでできていた。妹紅は相手の口ぶりに気圧される。
「ただの楽しいだけの歌じゃない。悲しいだけの歌でもダメ。誰かに向けられた愛がしっかと込められた恋歌――それを口ずさみたくてたまらない日があるんだ」
三毛猫は言い切った。騒いでいた竹は猫の言葉を汚さぬようにと静かになっていた。
妹紅はうなずいた。そんなことは経験したことがないが、存在しているのだろうとなぜだか信じ始めていた。
「いつか妹紅にもラブソング日和が訪れるといいね」
三毛猫は笑うように目を細め、
「なーなな」
とリズムを転がした。
妹紅はそのリズムをつかむように手を握り、ポケットへ突っ込んだ。
『人里』の対義語は『静けさ』だ、と妹紅はここを訪れるたびに思わずにはいられない。
幻想郷にとどろかそうとばかりに声を張りあげる店主、井戸端会議に心血を注ぐおばちゃんグループ、宿題の多さに愚痴をこぼしながら友達と歩く子供たち――。
老若男女のさまざまな声で人里は満ちているのだ。最後に訪れたのが一週間前だが、もちろんなにも変化はない。
妹紅はその声に窒息しそうになりながらも、猫の餌を売っている店を探す。しかし彼女はここに詳しくないため、さまよい歩き続けるしかなかった。
隣を見る。三毛猫が無言でついてくるばかりだった。
こいつに訊いたら教えてくれるだろうか? いや、無理だ。
三毛猫は人里についてから一言もしゃべっていない。おそらく変に目立つのをさけているのだろう。猫がしゃべれば人目を引くに決まっている。
しょうがないので妹紅は、ベンチにいた寸胴を飲み込んだようなお腹のおばちゃんに訊ねた。がははと笑いながら道筋を教えてくれた。そう遠くない。お礼を述べてから歩きを再開する。
実は、彼女には人里に来てから気になっていることが一つあった。
それは、屋根の上にいる猫や道のすみっこにいる猫がこちらを見るたびに「にゃー」と鳴くことだ。声に敵意は感じられない。むしろ気安さがあった。
妹紅はできるだけ歩くことのみに傾注しようとしていた。
餌を売っている店が見えてきたとき、左の書店の屋根にいた猫が鳴いた。白と黒の二色の猫。他の猫とは違った鳴き声だった。
三毛猫の足が止まる。妹紅もなんだと止まった。
白黒の猫がしばらく鳴いていた。「にゃーおにゃーお」と変に間延びした声。
その瞬間だった。三毛猫がいきなり駆け出したのは。
意表を突かれて立ちつくしていた妹紅だが、三毛猫が店と店のあいだの路地裏に消えていったのを見、にわかにはっとする。
一体なんなのだ!
頭が疑問符でうまるが、とにもかくにも走って追った。
路地裏には陰気くさい臭いが立ち込めていて、片手を広げるのが精いっぱいのせまさだった。
少し進んだところにあるポリバケツの隣――それが三毛猫が座っている位置だった。妹紅の顔を見あげている。
「――突然どうしたんだよ」
詰問するような口調で訊ねる。声にはいささかの怒りもにじんでいた。
「ごめんね」
三毛猫はさらりと謝り、続けた。「しゃべるために、人目のないところへ行きたかったんだ」
「なにを話すつもりだ? かぐもこって名前が嫌っていうことか?」
「まさか。用件は――」
そこで三毛猫はちらりと妹紅の後ろを見た。彼女もつられて見るが、人々の往来があるだけだった。
「実はね、どうやらぼくたちは誰かに尾行されているらしい」
驚いて前を見る。三毛猫は「誰だろうね」と期待するようにつけ加えた。
「誰だろうねって――えーと、なんだ、お前が気づいたのか?」
三毛猫はかぶりを振った。猫も人間のような否定のそぶりをするのだな、という場違いな発見があった。
「最後に鳴いた白黒の猫が教えてくれたんだ。彼は、ぼくたちが人里に入ったばかりのころに一度こちらの姿を見たらしい。それでさっきもう一回会った。
そしたら、どうやら最初見たときに後ろにいた人がまだいたらしいんだ」
「……たまたまじゃないか?」
「ぼくもそう思う」
三毛猫は楽しそうに言った。この状況に心を踊らしているのかもしれない。
妹紅は少し考えたが、追跡者などいないという結論を出した。
人里にはたくさんの人がいるのだ。後ろにいた人は偶然行き先が一緒で、ずっとあとをつける形になってしまっただけだろう。
「でも、もしかしたら妹紅のファンがいたのかもしれないよ」
「そんな物好きな奴はいないだろ。むしろお前のほうがファンは多いんじゃないのか。歩いているあいだ、よく猫が鳴いてたけど、どうせお前に反応していたんだろ」
三毛猫は小さく「まいっちゃうよ」と呟いた。
「長生きすると、猫たちがぼくのことを目上のように扱ってくるんだ。そんな立場は望んでないんだけどね。どんなところで会っても挨拶をしてくるんだ」
「どうせ顔も広いんだろうな」
「猫の額ほどだよ」
たぶん謙遜した言葉なのだろうが、三毛猫はどこか誇らしげだった。
妹紅はそろそろ店に行こうと思い、踵を返した。三毛猫がすぐに横に並ぶ。
「尾行のことは気にしてないみたいだけど、一応伝えておくね。どうやらその人は黒髪で和装の女性らしい」
はあと大きく息をもらした。
表通りに出ると人々の群れに混じった。あたりを見回して、もう一度ため息を吐いた。
ここにいる女性のほとんどが黒髪で和装なのだ。
なんてヒントにならない情報だろうか。
妹紅は餌を売っている店に入った。適当に見繕って会計をしているとき、追跡者の特徴を思い返した。
――輝夜も当てはまるな。
店を出て、妹紅は目的地なしに歩き出す。扉の横に置き物のように座っていた三毛猫がついてきた。
確かに輝夜と同じ特徴だがあいつのわけがないか。なんせそんなことをする理由がないし、会ったら一声かけてくるだろう。
それでも気になって顧みる。もちろん輝夜の姿はない。
自嘲めいた笑みを浮かべて前を向いた。ないない――。
寺子屋が視界に入った。妹紅はポケットに手を突っ込んだまましばし立ちつくす。
そして、かたわらの三毛猫を抱えて路傍に持っていき、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
人目を引かないように早口で手短に伝える。
「友達に会ってくる」
三毛猫はこくりとうなずき、どこかへ走っていった。挨拶をしてくれた猫と遊ぶのだろうか。
妹紅は、三色に染められた猫の尻尾を見つめてから、寺子屋へと向かった。
廊下を歩く。それは踏むたびにぎい、ぎいと引きつり泣くような音を立てた。毎回思うが気分のいいものではない。
もうお昼は過ぎているので子供たちの声はしなかった。今ごろ自宅で昼食を摂っているか、友達とどこかへくり出していることだろう。
『準備室』と書かれた戸の前で止まり、がらりと開けた。
「――すまないが、お願いするぞ」
「はいはい。お願いされるわ」
畳の上に座っている慧音は頭をさげていた。相手は面倒くさそうにうなずいている。
頭をあげた慧音と目が合った。つられてもうひとりの人物もこちらを見てくる。
全身が紅白の二色で染まった人間。腋が見える特徴的な衣服。楽園の素敵な巫女。
「――霊夢、か」
妹紅はぽつりと呟いた。霊夢は無表情でふんと鼻を鳴らした。
「ええ、いかにも霊夢よ。ご不満かしら?」
「別に。不満を持つほどお前を知らないし」
「私は不満があるわ。頭の大きなリボンがかぶってる」
「ほっとけ。こっちにはちゃんと理由があるんだよ」
「なによ」
「これを取ると羽が生える」
「私は尻尾が生えるわ」
つまらなそうに言う霊夢。そして慧音に「じゃ、解決したら伝えるわ」と一言残して、妹紅の脇を通り出ていった。退室する間際、ちらりと睨まれた。
愛想のない巫女だこと。
「あいつになにを頼んだんだよ」
妹紅は畳にあがり、苦笑いを浮かべる慧音の対面に座った。餌の入った袋をおいたとき、部屋に充満したカビくさい臭いが鼻に入ってきた。
ここは慧音の住居スペースだった。が、授業で使う色あせた資料や、持っているだけで筋力がつきそうなほどに厚い古書がところせましと積み重なっている。本と同居している、というよりは本の家に彼女が住まさてもらっている、というような有り様だった。
お茶を注がれた湯のみが妹紅の前におかれる。生温かい湯気が顔を撫でた。
「最近、人里のまわりで鳥型の妖怪が出るらしくてな。その退治を依頼したんだ」
「やめておけよ。あいつは見境なく妖怪を退治する。慧音にもお札を投げかねない」
妹紅が苦い顔で頬杖をつくと、慧音はふふっと小さく笑った。
「もしかして、永夜異変のあとの肝試しをまだ引きずっているのか?」
「そうじゃない。ただ、あいつは妖怪にも人間にも肩入れしないって聞いたからな。用心は必要ってことだ」
「心配はないさ。私は退治されるような荒事はしない」
慧音は柔和な顔でお茶をすすった。
妹紅は目の前の半獣を眺めて不思議な気持ちになった。確かにこいつは、妖怪の血が混じっているけど、荒事とは無縁だな。
寺子屋で生徒たちに教鞭を振るい、またこの人里の自治に人一倍努めて大人たちからの信頼も厚い。里を守るために野蛮な妖怪とも戦う。
英雄譚の絵本の主人公になれるような素質を兼ね備えているのだ。
すごいな、と妹紅はただただ感心するばかりだった。
慧音はそんなことはつゆ知らず、うれしそうに醤油煎餅をかじっている。お煎餅が好きとは本人の言である。
綺麗に食べおえ、お茶を一口飲んでから訊ねてきた。
「――どうだ? 人里は楽しいところだろ?」
今日の人里彷徨を思い出し、ふたたび頭が痛くなる。
「全然! ここのやかましさといったらないね。鼓膜を太鼓みたいにバチでたたかれてるみたいだった」
「しかし、いつまでも竹林でひっそりと暮らすのも寂しいだろうに。ここらで人里にも積極的に関わったらどうだ?」
「耳栓をつけてそうさせてもらうよ」
お茶を一口飲み、妹紅はお煎餅に手を伸ばした。ばりばり。
豪快にかじるがかけらは落ちないように気を払う。こう見えても昔は貴族の娘だったのだ。
「人里の歴史というのも興味深いものだぞ。知れば知るほど楽しくなる」
「やめてくれ。私は興味ない」
妹紅はずっと人里とは関わりなく生きてきた。接触を持てば交友ができる。交友を持てば『静けさ』は捨てることになる。
迷いの竹林でひっそりと生きたいと思っていたのだ。しかし約半年前の永夜異変のあと、昔からの友である慧音に「交流を大切に」と諭されたのだった。
よく考えてみれば、ひっそりとした生き方を望んでいるのに友達がいるのもおかしな話だ。
もしかしたら、賑やかさを望んでいたのかもしれない――と思ったのだが、今日の人里彷徨でその思いは打ち消した。
やはり『静けさ』は大事だ。
お煎餅を口に放り、お茶を飲み干した。
「ごちそうさま。そろそろ暇とさせてもらうよ」
「もう帰るのか?」
「ああ。今日は心配症の我が友に顔を見せようと思っただけだからね。なんせ少し音沙汰ないだけで私の家を訪ねてくるほどだからな」
「もうお前にはさし入れをやらん」
ぷいっと慧音が顔をそらした。子供たちに教鞭を振るう先生はときおり、子供のような所作をする。
「冗談だよ」
「妹紅なんて餓死してしまえばいいんだ」
「死なないけどね」
「なら懲りるまで飢えればいい」
ごめんごめんとひたすら謝って、慧音はやっと機嫌を直した。
彼女が子供たちに人気がある理由が少し分かった気がした。生徒たちは彼女にシンパシーを感じているのかもしれない。
餌を忘れずに持って、戸まで歩いていった。
「――あっ、そうだ」
慧音が出し抜けに声を出したので、妹紅は振り返った。
「どうした?」
「実は、お前にお願いがあったんだ」
「お願い?」
首をひねる。
「ああ。明日、阿求が墓参りをしにいくらしい。そのつき人を頼みたいんだ。さっき言ったとおり、妖怪が出るものだから用心棒をしてほしくてな」
私が行ければよかったんだけど――慧音は申し訳なさそうに言った。「明日は私事があるんだ」
稗田阿求。見たものを絶対に忘れない少女。九代目の阿礼の子供。
接点はない。しかしいつも世話になっている友の頼みなので、無下には断れなかった。
できるだけ渋い顔にならぬよう気をつけながら答えた。
「……いいよ。何時だ?」
時間と待ち合わせ場所を聞く。朝、人里の東口――。
うなずいて帰ろうとしたところで妹紅は質問を重ねた。
「墓参りって、誰のだ? 自分の先代のか?」
「違うんだ」
かぶりを振ると慧音は眉を八の字にした。理解が追いつかない、という顔だった。
「じゃあ、誰なんだ?」
うーんとかむーとか言葉を濁らす慧音が、
「なぜか毎年、彼女の代の命日だけ墓参りをするんだよなぁ」
と前置きするように呟いてから、言葉を続けた。
「三十四代目博麗の巫女。霊夢から見て、曾祖母にあたる人物だ」
◆ ◆ ◆
無音の世界に、閉じ込められているのです。
小刀を左手首に当てて、すっと引きました。
途端に手首に一文字の赤い筋が浮かびます。あまねく色を自分の色に染める黒色にも勝る、濃い赤でした。
痛みは、ありません。
血がこぼれ落ちました。床に広がるそれは、蟲惑的な赤い花――まるで、彼岸花のようでした。
ああ――。
声も続けて床に落ちます。しかし血と違って痕跡は残りません。
無音の世界に、閉じ込められているのです。
もっと。もっとあふれればいい。
体中の血液があふれ出せばいい。
こぼれた血は彼岸花のように咲き、ここを三途の川と錯覚してしまいそうになりました。
目を閉じます。そして、祈るのです。
目を開けたとき、本当にその川を渡れていますように――。
瞳からは透明な液体もこぼれ出しました。血の赤とも混ざらない、確立された透明さ。
泣いて泣いて、泣いて。叫びながら、泣いて。
でも、慟哭も残りません。
無音の世界に、閉じ込められているのです。
◆ ◆ ◆
清浄、高貴、高尚、高潔――。
菊を携えた阿求がやってきたのは、妹紅が両手をポケットに突っ込んだ少しあとだった。手袋をしているというのに北風は容赦なく指先を冷やしてくる。それがたまらなかったのだ。
待ち合わせ場所は人里の東口。こちらは大通りから遠いのでずいぶんと静かだ。
静けさ万歳。
「――おはようございます。朝からすみません」
折り目正しくお辞儀をする阿求。妹紅も倣うように頭をさげた。
阿求は赤いマフラーと手袋をつけていた。その赤が移ってしまったように頬も鼻の頭も赤い。今日はことさら寒いのだ。
両手で抱えるように持つのは供花の黄色い菊。ただ、首にかかった竹製の水筒が少し気になった。
「初めまして。私は稗田阿求という者です。幻想郷縁起の編纂をさせてもらっています」
「えーと、私は藤原妹紅、です。それで……」
どうしよう、と言葉が詰まる。こちらには生業がないのだ。
阿求は続けた。
「慧音さんから妹紅さんのことは常々うかがっていますよ」
「へえ、なんて?」
「根はいい人、って」
ははっと乾いた笑みしか浮かべられなかったのは、阿求が屈託なく笑っていたのも理由である。
根はいい人――ならば、根以外には悪いところがあるというわけだ。
ふんっ、どうせ私は内向的ですよ――と、妹紅は心のうちで拗ねた声をもらした。
「……じゃあ、行こうか」
「はい」
二人は並んで歩き出した。ここからお墓まで約一キロと聞いている。ずっと田んぼ道らしいのでそこまで難儀ではない。
まあ、気張らずに行くか。
妹紅はポケットに手を入れたまま欠伸をひとつした。ふわぁ、とまどろみを引きずっているような欠伸であった。
と、そのとき、不意に三毛猫のことを思い出した。
あいつには用事があると伝えて出てきたのだ。たぶん輝夜が来るだろうから存分に撫でてもらえ、と言ったら三毛猫はくしゃりと顔をゆがめた。
――輝夜はぼくにかまいすぎだ。ずっと撫でられるもんだから、体中の毛が抜け切ると思ったよ。
心底困ったという声色だったが、妹紅は他人事のように笑った。
実際他人事なのだが。いや、猫事か?
気になることは、三毛猫が輝夜の前で人語をしゃべるのかどうかぐらいだった。
まあ、なんとかなるだろう――ゆるゆるとしたスピードで田畑に囲まれたあぜ道を歩き続けた。
「――可愛いですね」
阿求がやにわに口を開いた。
妹紅は目を丸くしながら彼女を見る。こちらを見ながら笑んでいた。
なにか変なことでも言ってたかな、と急に心配になってきた。
ふふっと阿求は笑みを深めた。
「そのマフラーと手袋、柄が一緒なんですね。どちらもオレンジに白のストライプが入っている」
ああ、そのことか……。安心するとともに少し気恥ずかしくなった。
確かに妹紅のマフラーと手袋は、どちらもオレンジの生地に白のストライプが入っていた。
「買ったんですか?」
「いや、違うんだが……」
阿求が驚いた顔をする。
「じゃあ、自分で編んだのですか?」
「自分でもないんだ」
妹紅の頬は寒さ以外の理由で赤くなった。
て、照れくさい。
「そ、そんなことより」と上ずった声で言った。
「お前の――失礼、阿求、さんのマフラーと手袋はどうなんだ?」
「これですか? 手製ですよ」
それから、呼び捨てでかまいません――彼女はおかしそうにつけ加えた。
赤い、マフラーと手袋。どちらも綺麗に編まれていてほつれなどまったくない。買ったと言われても信じただろう。
「上手だな」と素直な感想を述べると、両手を腰にあてがい、胸を張った。
「でしょう? 実は料理も得意なんですよ」
どうだと言わんばかりの誇らしげな顔。「十八番は卵焼きです!」
「いいじゃないか。結婚したら旦那さんが喜ぶぞ」
「もっと褒めてください」
「よっ、幻想郷一の良妻!」
えへへと顔をほころばす阿求。まるでいたいけな少女だった。
妹紅はつられて笑い――それから少し寂しくなった。
昨日、慧音から阿礼乙女がどんなものなのかを簡単に聞いた。
見聞きしたものを忘れない。転生して約百年に一度産まれてくる。
そして――三十歳までは生きられない。
この少女には、常人とは違って叶えられない夢がいっぱいあるんじゃないか。
急ぐことなく誰かと恋をして結婚したり、産まれた子供の将来をずっと見守ったり――。自分の子供の結婚式を見たことなど一度もないに違いない。
できることなら蓬莱人の寿命を分けてあげたい。心ゆくまで人生を歩んでほしい。
なんだか、寂しくなった。
「妻といえば、妹紅さんはどんな人と結婚したいですか?」
阿求は笑いながら問いかけた。
突飛な質問に当惑する。そうだなあ、と考えてみるが浮かばなかった。
「阿求は、どんな人がいいんだ?」
ぴりっと心に鋭い痛みが一瞬走った。
相手は笑顔を絶やさずに答えた。
「そうですね……。私は、どんな人というより、結婚するなら慧音さんがいいですね」
「なにっ!?」
頓狂な声を出す。三毛猫がしゃべったとき並みの驚きだった。
確かに慧音は人格者だと思う。しかし、それと同じくらい堅苦しい奴でもあるのだ。
「やめておけ。あいつはお節介だし、融通は利かないし、説教は大好きだし」
それでもいいのです――阿求はさらりと言った。
「あの人だけは、まわりの人と同じように私を扱ってくれるんです」
彼女はうれしそうな顔をして、寂しそうな声で言った。
なにも答えられなかった。頭にはいろんな言葉が浮かぶのに、喉まで行くと途端に消えてしまうのだ。
たっぷりと時間が空いてから、阿求は楽しそうに続けた。
「でも、慧音さんと結婚したらすごいですよね。同性婚なんて、阿礼乙女九代目にして初めてでしょうに」
さんざん考えた結果、妹紅は相手に合わせることにした。それしかできないと思ったのだ。
「確かにな」
「面白そうですよね」
「むしろ、慧音のために、器用なお前が伴侶になってやったほうがいい」
きょとんとした顔で、どういうことだと言葉に出さずに訊いてくる。
おどけた口調で言った。
「誰か片づける人がいなければ、あの家は本でうもれてしまうだろう」
阿求はしばらくの無言ののち、ぷっと吹き出した。
「間違いないですね。そのうち、慧音さんは本に家を追い出されちゃいますよ」
二人の笑い声は、澄んだ声によく馴染んだ。
そのあともどうでもいい話をしながら歩いた。初対面なのに気まずい空気など微塵も感じなかった。
だけど――。
妹紅の心には、ときおり鋭く痛む傷が刻まれたままだった。
道のりの半分ぐらい過ぎたあたりで、阿求の呼吸が乱れ始めた。
大丈夫かと訊くと、大丈夫ですと答えるものの、息が切れていた。
――阿求は体が弱いんだ。
慧音の言葉を思い出す。ちょうど人が座れるような石があったので、そこに腰かけて休憩することにした。
ほうっと一息ついていると、「どうぞ」とお茶の注がれた水筒の蓋を渡された。湯気がかすかに出ている。
礼を述べてから、飲み干す。ほのかに温かいお茶が体のすみずみまで沁みるようだった。
「ごちそうさま」
ふたを返す。そこで、今まで続いていた会話が切れた。
静かな時間がただように過ぎる。悪くはないが、少々気まずかった。
風が吹き、今朝に梳かした妹紅の髪を撫でた。
「――今日は、つき合っていただき、本当にありがとうございます」
横を見ると、阿求が頭をさげていた。慌てて手を振る。
「や、やめてくれよ。そんな感謝されるようなことはしてないって」
毎日が暇だしね――茶化すように言った。
さげていた頭をあげた阿求は、それでも真剣な顔をしていた。
褒められるのに慣れていない妹紅はしどろもどろになっていた。
「そ、それに、ほら、最近妖怪が出るみたいだし」
「それでも――」
ここで違和感を感じた。阿求は苦しそうな顔をしている。
「私は、きっと一人で来るべきだったのでしょう」
阿求がすっくと立ちあがった。無理やりつくった笑顔を浮かべている。
「さあ、そろそろ行きましょう」
なにも言う前から歩き出す。妹紅は釈然としないものを感じながらも隣に並んだ。
右側に大きな森が見えた。鬱蒼と茂っていて昼前だというのに暗く、光など届いていない。
誰もが、この大きな森を心に持っているのだろうと思った。
「妹紅さんは――」
視線を阿求に移す。正面を向いている横顔が目に入った。
瞳が、あの大きな森のように黒かった。
「妹紅さんは、菊の花言葉をご存知ですか?」
彼女が胸に携えた供花へ目をやった。くらむほどに黄色い菊。
黒い瞳。赤いマフラー。黄色い菊。
妹紅は大きく息を吸った。
「清浄、高貴、高尚、高潔、だろう?」
「……博識なのですね」
「そんなじゃないよ。ただ――」
花言葉を調べるのが好きだったんだ――気恥ずかしくて、続けようとした言葉を飲み込んだ。
昔は花言葉の載っている本を片っぱなしから読みあさっていた。なにに惹かれたのか、今じゃ思い出せない。
「私は、花言葉が嫌いなんです」
あたりの空気が凍ってしまいそうなほど冷えた声だった。
「そうなのか」と短く返事をしてから、妹紅は息を吐く。
「可哀そうじゃありませんか。ただでさえ自由の利かない花々に、なおも人間は肩書きじみた言葉を与えるんです。まるで生き方を強要しているみたいに」
視界の先に小さく墓場が見えた。
阿求は大きくない口を精いっぱい広げて、主張した。姿のないものに訴えていた。
「花は制約にがんじがらめにされているんです。生まれてくる時期も決められ、咲ける時期も決められ、散る時期も決められている。
可哀そうじゃありませんか。もしかしたら、桜だって雪に染まった白銀の世界を見たいかもしれない。向日葵だって鈴虫の鳴く十五夜の満月を見たいのかもしれない」
もっと、自由になりたいのです――阿求は言った。悲しくなるような言葉だった。
阿礼乙女。
彼女の立場をあらためて考える。でも、想像できないことだらけで、どうしても単純な一言で感想が集約されてしまう。
なんて、可哀そうなのだろう。
陳腐だな、と妹紅は深いため息を吐いた。空気が白くけぶるばかりでなにも変わりはしなかった。
「――またあんたに会うとはね」
阿求のものではない突然の声にぎょっとする。あたりを見て、目的地の墓場に到着していたことを知った。
前を向き――妹紅は呆れた顔をした。
「お前はどこにもいるんだな。なんだ、博麗の巫女は何人もいるものなのか」
「そしたら私はずっと家にいれるわね」と、霊夢は冗談なのか本気なのか分からない声で言った。
阿求がいつの間にか、愛想のいい笑顔を浮かべている。
「お久しぶりですね」
「ええ、そうね。あなた、今年も来たの?」
阿求は眉をくもらせた。菊の花束を持つ手に力が入る。
その不愛想な物言いで気分を害したのだと思い、妹紅は口をはさんだ。
「そういうお前はなんでここにいるんだよ」
「私? そりゃご先祖の墓参りに決まっているでしょう」
妹紅は霊夢の後ろにある墓石を見渡す。
ここは博麗の巫女の系譜が収められている墓場らしい。慧音が言っていた。確かに見るかぎり、墓石がすべて上等なものに感じる。
「つまり、お前は毎年、先祖の命日になったらそいつの墓参りに来ているのか?」
「そうよ。そういう決まりだからね。阿求も歴代の阿礼乙女の命日には墓参りをしてるわよね?」
「はい」
小さな声で阿求が答える。
妹紅は、それはどんな気持ちなのだろう、と考えてみたが皆目分からなかった
水桶を持ったまま、霊夢がうーんと伸びをする。
「じゃ、私はこのあともやることがあるから帰るわね。――妹紅」
「なんだよ」
「阿求を襲うじゃないわよ」
「襲うわけないだろ!」
「それと、阿求」
霊夢が睨むように阿求を見た。
阿求は苦笑いを浮かべているのに、どうしてか泣きそうな顔に見えた。
ふうっとため息を吐いてから霊夢が言った。
「もう、許してあげてもいいんじゃない?」
その言葉の意味は分からなかったが、阿求はなにも答えなかった。
「じゃあね」
霊夢はすうっと飛んで、どこかへ向かっていった。そういえば、彼女が昨日妖怪退治を依頼されていたのを思い出した。
飛んでいく霊夢が小さくなるまでそちらを見ていた。晴天によく映える飛行姿である。
「――行きましょう」
今まで黙っていた阿求が口を開いた。すたすたと歩くその後ろに続く。
しばらくついていくと、ある墓石の前で彼女が足を止めた。
『三十四代目博麗の巫女』
仰々しい字体で刻まれている。なるほど、ここがお目当ての場所か。霊夢が掃除したらしく、他と比べて綺麗だった。
阿求は花瓶に自分の菊をさした。しゃがんで目をつぶりながら手を合わせている。
やることのない妹紅はただ墓石を見つめていた。今なにかを言っても、その声はすべてこの石に吸い込まれてしまうような気がした。
なぜ、阿求がこの代の博麗の巫女の墓参りにだけ毎年行くのか――慧音は教えてくれなかった。
とても苦々しい顔で言葉を濁すだけだった。
昨日はそこまで気にならなかったのだが、花瓶にある阿求の持ってきた菊を見ていると、無性に知りたくなった。
阿求が立ちあがる。そして妹紅の顔を見た。
おたがい押し黙っていた。
物言わぬ死者が眠る場で、生者までもが口をつぐめば、ここが無音の世界になるのは道理だった。
妹紅の胸中を読み取ったような顔で阿求が笑った。
「私は前世のことをすべて覚えているわけじゃないんです。基本は幻想郷縁起に関わることだけ。
でも、先代の阿弥については例外的に覚えていることがいくつかあるのです」
誰かと頼んだお願い事なんてものも覚えています――阿求は笑みを薄めた。
代わりに悲しそうな顔をした。
「この人のことは絶対に忘れません。忘れることができないのです」
それが私にできる唯一の罪滅ぼしです――。
風が吹く。ごうごうと音が鳴る。
なんの音だ。
そうか。
これは。
これは、死者の声だ。
死者がむせび泣いているのだ。
生者は今、死者の世界に、閉じ込められているのだ。
「三十四代目の博麗の巫女は、前世の私が殺したのです」
◆ ◆ ◆
蓄音機が恋の歌を垂れ流していました。
ミケは阿弥の膝の上で目をつぶって聴き入っています。しかし、歌にまぎれて誰かが廊下を歩いている音が聞こえてきました。
ぎい、ぎい――。
阿弥の部屋の前で足音は止まりました。
ミケは見あげて阿弥の顔を仰ぎました。彼女もまた、目を閉じています。
にゃー。
歌の調子のあいだに沁みさせるように鳴きました。無意味だと知りながらも、にゃーともう一度。
次にお饅頭大の頭を主人の胸にすりつけます。そこでやっと彼女は目を開けました。
曲を聴いているときはいつもこうでした。阿弥はずっと瞠目してあらゆることに鈍感になるのです。
別に寝ているから聞こえない、ということではないので不満の気持ちはありませんが、ときおりどうしようもなく悲しい気持ちになりました。
蓄音機の流す旋律がどうしようもなく苦しいときがあるのです。
なのに、ミケのそんな気持ちはおかまいなしに阿弥は柔らかく笑いかけてくるのです。外で照っている太陽より温かい笑顔で。
泣きたいという気持ちはこういうことなのだろう――ミケは猫ながら思いました。
部屋の戸が軽くたたかれます。「失礼します」という声とともに、続けて戸がすうと開きました。
ミケがそちらに目をやります。つられて阿弥が顔を向けます。
紅白の巫女服で身をおおった女性が立っていました。頭に結ばれた大きなりぼんが特徴的でした。
「――もうそんな時間でしたか」
呟き、阿弥が慌てて立ちあがりました。ミケはしぶしぶといった様子で彼女の膝の上からおります。
「すみません」
巫女服の女性は柔和な笑顔をくずさず、ゆるゆるとかぶりを振りました。頭のりぼんが合わせて揺れて、なんだか特大の蝶が羽ばたいているみたいだ、とミケは思いました。
阿弥が蓄音機を止めました。空気は震えるのをやめて寂々と静まります。
ぽかぽかと暖かった部屋が途端に冷えびえしたように感じられました。
「留守番をしていてくださいね」
ミケに言い聞かせ、阿弥は巫女服の女性と並びました。そして、二人は廊下を歩いていきました。
ぎい、ぎい――。
つまんないな。
部屋に残された猫はふて寝をしようと目を閉じました。
ミケは知りませんでした。
巫女服の女性が、博麗の巫女と呼ばれる大それた人物であることを。
ミケは知りませんでした。
彼女たちが、どこへ行き、なにをするのかを。
ミケは知るよしもありませんでした。
その日の夕方、血まみれで虫の息の阿弥と、同じく血まみれで絶命した博麗の巫女が、森の奥で見つかることを。
◆ ◆ ◆
人々がとうに昼餉を終えているような時刻、妹紅は迷いの竹林を歩いて自分の家に向かっていた。
正午前に帰ることはできた。しかし当の本人が帰路につかなかったのだ。
小さくお腹が鳴る。
私はなにをしていたんだと妹紅はため息を吐いた。
墓参りの帰り、妹紅と阿求は一言も口を利かなかった。妹紅は墓石を飲み込んだように重たい気持ちで足を動かしていた。
――三十四代目の博麗の巫女は、私が殺したのです。
その真意は結局訊けずじまいだった。踏み込んでいいのかだめなのか、妹紅は線引きが引けなかったのだ。
人里に到着すると、阿求は「ありがとうございました」と深々とお辞儀をした。
曖昧に返事をすることしかできなかった。
彼女と別れたあと、妹紅は人里に入っていった。昨日、あれほど嫌がった大通りに向かっていた。
たぶん、生者の活発な声を耳に流し込みたかったのだろう、と自分を顧みる。
もう墓場には行きたくない。
騒音の濁流に呑まれながらもあてどなく歩き続けた。呆然とさまよった。
そのくせ、昼すぎまでぶらついたのに団子のひとつも食べなかったのだから、我ながら馬鹿なことをしたと思う。
空っぽの胃袋のままで人里を気が済むまで歩いた妹紅は、やっと帰路についたのだった。
そして、現在に至る。
ふたたびお腹が鳴る。北風が頬を撫でる。
二度目のため息を吐いた。と、ほぼ同時にはたと足を止めた。
開けた場所にいた。なかなかに広いここには竹が全然生えていない。
妹紅は渋面をつくった。
ここは、昔輝夜と殺し合いをしていた場所である。無意識のうちに辿りついていたとは――。
そこで今日の墓場のことを思い出した。
永遠の眠りにつかない蓬莱人は、絶対に墓石の下に収められることはない。つまり、蓬莱人の墓というのは存在しないのである。
ただ――。
ぐるりと見回す。ここで自分は幾度なく死んだ。輝夜もたくさん死んだ。
ならば少々不足はあるものの、ここは――この空間は、蓬莱人の墓場と呼んでもいいのではないか。
そう思うと妹紅はぞくりとした。自分と輝夜の亡霊がどこかで笑っているような気がしたのだ
ふるふると頭を横に振って、早く帰ってご飯を食べようと一歩踏み出した。
「――道惑いか?」
が、足を止めて妹紅は出し抜けに訊ねた。三度目のため息を前置きに、体ごと振り返った。
ちょうど妖怪がおもむろに地面におり立っていた。鳥のような羽をシンメトリーに広げている。
夜雀に似ていた。しかし決定的に違うのは羽がカラスのそれのように真っ黒であること。
着地すると、羽を畳みながら妖怪はにこりと笑った。
短髪の黒髪が風にたゆたっている。
「――こんにちは」
「ああ」
ぶっきらぼうに答える。お腹が減ってしょうがないのだ。
「別に迷子になったわけじゃないわ」
だろうね。
迷いの竹林は確かに迷いやすいが、竹より高く飛べば簡単に脱出できるのだ。こいつはさっき飛んでいたからそれができるはずだ。
「じゃあ、私になにか用か?」
「……そうね。そういうことになるわね」
鳥妖怪はうなずく。妹紅は相手の長い爪にちらりと目をやった。
「なら早く用件を済ましてくれ。私はこれから家に帰って昼ご飯を食べたいんだ」
「ええ。さっさと終わらせるつもりよ」
鳥妖怪は笑みをいっそう深めた。
次の瞬間――
笑顔が酷薄なものにゆがめられた。
「こちらのお昼ご飯を!」
妹紅の背後で風を切る音が聞こえた。慌てて前へ踏み出す。が、すぐに背中に鋭い痛みを感じた。
「おっしい」
「あとちょっとだったのに」
最初からいた妖怪の両脇に、奇襲を仕かけてきたあとの二匹が並ぶ。三匹とも同じ格好をしていた。
妹紅の背中には二本の赤い線。自分ではそれらは見えないが、痛みで引っかかれたことが分かった。
「やばい!」
そう言って、妹紅はまず自分のマフラーをほどき、まじまじと眺めた。
どこも切れていない。かすかにほつれてはいるが注視しなければ分からないだろう。
ふうっと安堵の息をもらす。そして外した手袋をマフラーで巻き、なるべく土がつかなそうな場所においた。
「そんなものの心配をしている場合かしら」
右側の鳥妖怪があざけるように笑っている。爪についた血を舐めて「美味しいわ」とうっとりした声を出した。
ありがとう。隠し味は蓬莱の薬だ。
妹紅はうーんと伸びをしてからポケットに手を入れた。
「なんならこちらの昼食後に襲ってくれよ。太らせてから食べるのは常套手段だろ?」
「私たちが待てないの」
「せっかちだなぁ。さっさと終わらせろよ」
「むかつくー」
左側が唇をとがらした。「人間のくせに」
蓬莱人を人間とくくれるなら、しゃべる猫も人間に区分されるかもしれない。
「ご所望どおり、手早く終わらせるつもりよ」
真ん中の奴がにやりと口の端を吊りあげ――低空飛行で突撃してきた。
速い。しかし視認できないほどじゃない。
左へ踏み出しよける。次に右側が笑いながら突っ込んでくる。身を大きくよじった。最後に左の妖怪が来た。翻りながらかわした。
そのあとも三匹はとにかく突進してきた。右から左から正面から。
なのに妹紅にはかすりもしない。上着に爪があたりそうにはなるが、すんでのところで身をよける。
行動がワンパターンすぎるのだ。いくら方々から来たって、突進だけならすぐに読めてしまう。
右上方から下降するように来る。身を低くしながら左へ。前から。体を横向きに。視界の外から。音で察し後ろへさがる。
三匹いるのだからもっと連携すればいいのに――妹紅は襲われながらも思った。
ポケットに手を入れたままステップを踏むような足取り。だんだん妖怪たちのスピードが落ちてきた。
「――はぁ、はぁ」
三匹の妖怪が息を荒くする。肩が大きく上下していた。
「なんで当たらないのよ」
「くそっ」
「ほんとむかつく」
妹紅は意地悪い笑みで応えた。
「ほら、早く私をつかまえろよ。じゃないと昼食が夕食になるぞ」
三匹の鳥妖怪は見るからに気色ばんだ。殺気をひしひしと感じる。
そこで妹紅は右手をポケットから出して、手のひらを相手に向けた。
「と、まあ、挑発しといてなんだが、少し私の話を聞いてほしい」
「……なによ。まさか今さら命乞いをするつもり?」
「まさか」
そもそも、億劫なだけで命は惜しくないのだ。
「お前らに二つだけ伝えたいことがあるんだ。のちの人生に関わることだ。聞きおわったらまた襲ってきてもかまわない」
鳥妖怪たちの顔に困惑の色がにじむ。眉をしかめて顔を見合わせていた。
「一つ目」と妹紅は人さし指を一本立てて、続けてそれで自分の右側を指した。
三匹がいっせいにそちらを見る。
「この先に池がある。あまり広くはないがお前らが同時に入ることはできるだろう」
「二つ目」と言い、今度は人さし指と親指を合わした。
呆れた笑みを浮かべながら、
「ケンカを売る相手はよく選べ」
ぱちん、と指を鳴らした。
――その瞬間、彼女たちの背中が燃え出した。火炎が猛くさかっている。
突然のことに鳥妖怪はただただ慌てた。
「な、なによこれ!」
「熱い!」
「丸焦げになるー!」
実は突進してくるときに、ポケットのなかのお札を彼女たちの背中に貼っていたのだ。
妹紅特製の札。自分の妖力を注ぎ込むことによって、こちらの合図で発火したり消火したりでき、護身用に常備している。
背中の熱に右往左往している鳥妖怪たちだが、池の存在を思い出したらしくそちらへ全速力で飛んでいった。
見えなくなるまで三匹を見送ったあと、はあっと深いため息をついた。
妹紅はマフラーのおいてあるところまで歩いた。拾いあげて胸に抱く。
「……痛い」
ひりひりとした痛みを背中から感じる。だがこちらは蓬莱人だ。再生能力が高いため、明日には傷跡も残っていないだろう。
「まったく」と一人ごちてまた家に向かい始めた。
――今日は厄日だ。
お腹が、大きく鳴った。
◆ ◆ ◆
「そういえば」
帰ろうと玄関に手をかけていた輝夜は、しかし戸を開けることなく後ろの妹紅を振り返った。
細い眉毛がにゅうとゆがめられている。
これは怒っているな。
「昨日の朝はなんでいなかったの?」
頬をふくらませてぐいっと顔を近づけてくる。妹紅はあははと乾いた声で笑って目をそらした。
「あなたの家に行ったらかぐもこしかいないし」
「ちょっと用事がね……」
「猫を可愛がるより大事な用があるの?」
そりゃあるだろ――心のなかで呟いた。
さて、問題は輝夜への適切な受け答えだ。
こういうときの対応は、謝罪――ではない。こいつに限っては謝るなどして下手に出てはいけないのだ。もし頭でもさげれば彼女はこのことをダシにさまざまな要求を求めてくるだろう。
数百年のつき合いだ、そのぐらいは分かっている。
「そ、そもそも、なんでお前はそんなに怒ってんだよ」
すばやく息継ぎをして、相手が答える前に続けた。
「お前の目当ては猫じゃないか。永遠亭では飼えないせいで私の家で飼ってるだけで、つまり猫に会おうとしたら私に会っちゃうのは不可抗力で、本来目的じゃないんだろ。なら私に会えないからといって怒るのはおかしいだろ」
我ながら上手く切り返したと妹紅は自分を褒めた。
なのに――輝夜はきょとんとした顔で首をひねっている。
「なにを言ってるの?」
彼女は右にかしげていた首を次は左に倒した。「かぐもこに会うのもそうだけど、あなたに会うのも目的よ」
「……へっ?」
「あなたにも会いたいからここを訪れているの。だから昨日いなかったことを怒ってるの」
妹紅は口を半開きにして目を瞬いていた。ぱちりぱちり。
輝夜はくすりと妖艶に笑った。なんで五人に求婚されたのか――理由が分かる笑顔だった。
「数百年のつき合いだから、そのぐらい分かってると思った」
そう言ってから、「やっぱり許してあげる」と続けた。声には余裕がにじんでいた。
また言い負かせなかった。
いつもだ。つるんでから幾星霜、こいつに口で勝ったためしがないのだ。
なのに悔しく思わない自分がいる。それが少し悔しかった。
「そうそう、明日はちょっと用事があるから来れないから覚えておいて」
怒らないでね――からかう口調。ふんと妹紅はそっぽを向いた。
「じゃあね」
出ていって玄関が閉じられる。あとに残ったのは仏頂面の妹紅と、輝夜の言葉でかき乱された空気だけだった。
ふんともう一度鼻を鳴らし、踵を返す。数歩で歩きおえてしまう廊下を通って居間に戻った。
さっきまで輝夜が座っていた座布団の上に三毛猫が寝ていた。首をもたげて妹紅を見ると、
「楽しそうな話をしていたね」
と澄ました声で言った。猫に皮肉を言われる日が来るとは思わなかった。
なにも答えずに三毛猫の隣の座布団に座った。さっきも自分が座っていたところだ。
目の前の湯のみにはちょっぴり残ったお茶。ぐいっと飲み干したが、薄く淹れすぎたせいでただの色水を飲んだように味がしなかった。
「さっきのは愛の告白?」
「どこがだ」
「妹紅に会うために来てる、っていうやつだよ」
すうっと目を細めた三毛猫が問うた。
「違う。そんなじゃない。そんな関係じゃない」
「そうなの?」
猫は続けて妹紅の後ろを見た。視線を追うと、手袋とマフラーがあった。
「でも昨日輝夜が言ってたよ。五日前、私は妹紅に手袋とマフラーをあげたんだって」
ぎくりとし、次に頬が発火したように熱くなった。
その話は駄目なのだ。なのに、輝夜はこの猫が普通の猫だと思って話してしまったらしい。
なんてことだ。
「最初は妹紅があげるために編んだのだけど、そのときすでに輝夜は手袋もマフラーも手編みのものを持ってて。それを見た妹紅が悲しそうな顔をするものだから、相手のものをもらって自分のをあげた、って言ってたよ」
三毛猫は楽しそうに語っていた。性格悪いな。
だがすぐに猫は解せないといった口調になった。
「そうやって二人でプレゼントの交換なんてしちゃうんだから、やっぱり恋仲なんじゃないの?」
「だから違うって」
きっぱりと言い切る。これは決して照れ隠しから来た否定じゃなく、心からそう思えたから断言できたのだ。
しかし言ったものの、
「じゃあ、妹紅と輝夜はどういう関係なのさ?」
という問いには、言葉が詰まってしまった。
どんな関係なんだろう……。
違う、とは言えた。だけど中身を訊かれると――。
たとえるならコップのなかに入った水を指さして、これは氷じゃないと決然と言えたものの、その水の形が言い表せないのだ。
確かに存在するのだ。なのに適切な言葉が見つからない。
むーと妹紅が腕を組む。手袋とマフラーを交換し合った。わざわざ会いたいがために毎朝家を訪れる。でも恋仲とはずれている。
なんなのだ、これは。
「……どんな関係なんだろ」
「当人に分からなければ、ぼくに分かるはずないよ」
三毛猫は立ちあがり、うーんと伸びをした。ほわっと大きな欠伸を一つ。
「まあ別に、興味があるわけじゃないからなんだっていいんだけどね。それよりも――」
三毛猫が妹紅の目を見てきた。白いヒゲが琴の線のようにぴんと張られている。
「実は妹紅にお願いがあるんだ」
「お願い?」
「うん」とうなずく。妹紅は首をひねった。
「なにを――」
「とりあえず外を一緒に歩いてほしい。不躾でごめんね。
でもそこで話そうと思うんだ。ぼくが妹紅に拾われようとした目的も」
突然のことに呆気にとられるが、三毛猫はすたすたと玄関へ向かっていった。
拾われようとした? つまり、あいつが来たのは計算ずくのことだったのか?
どういうことだと訝りながら、妹紅は手袋とマフラーを引き寄せた。髪はもう梳いたから大丈夫だ。
オレンジのマフラーには三本の白いボーダー。手袋もオレンジ色で、手のひらから指先まで白のボーダーが入っている。
――あっ。
ふと、あることに気づいた。これは……。
昨日の前に人里に行ったのは一週間前。この手袋とマフラーは五日前。
ならば――。
ふうっと妹紅は息を吐き、ゆるゆると手袋をはめる。
三毛猫の目的はいまだ分からないが、ある別件はほとんど解決した。
森のなかを歩く。顔をあげても、木々に遮られて青空が少ししか視界に映らなかった。
薄暗い。そのせいでまわりの木がなにか恐ろしいものに思えてしょうがなかった。
ここは迷いの竹林の近くの森である。存在は知っていたが、妹紅が実際になかに入ったのは今日が初めてだった。
とにかく雰囲気が悪いのだ。ここを歩いていたら地獄に辿りついてしまってもおかしくない。
なのに今自分はここにいる。しかもかたわらではしゃべる猫がのん気に恋歌を口ずさんでいる。
三毛猫の軽い調子の歌は、この陰鬱な森にはひどくミスマッチだった。
「――よく平然と歌ってられるな」
「通い慣れてるからね」
三毛猫は淡々と言い、「それに今日もラブソング日和だ」とつけ加えた。
ラブソング日和――ラブソングが歌いたくなるときのこと。
一昨日も歌っていた。昨日も歌っていた。そして今日も――。
「なあ、お前がその歌を歌わなかった日ってあるのか?」
「ないだろうね」
妹紅は胡乱な目で相手を睨みつけた。三毛猫はふふんと笑って、
「だって毎日がラブソング日和だもの」
と答えた。
途端に猫のことが胡散くさくなってきた。
森の風景は変わらない。こちらの気分は落ち込むばかりであった。
「……おい」
とがった声で訊ねる。「これからどこに行くんだよ」
実は、妹紅はまだ三毛猫の目的を聞いていないのだ。
最初のとき、三毛猫は話しかけづらいオーラを放っており、まあ、ついていけば分かるだろうと思って楽観視していた。しかし、和やかに歌を口ずさみ始めるわ鬱蒼とした森に入るわ目的地にはつかないわ――妹紅の我慢も限界となった。
それに、妹紅に拾われようとした理由もまだ話していない。
これでただの散歩などとのたまったらただじゃおかないぞ――。
口の端を吊りあげ、眉間に深々としわを刻んだ。
「そうだね。そろそろ話さないといけないよね」
三毛猫は答える。はあはあと息が切れ始めていた。
「でもこの目的を話す前に、ぼくの昔話を聞いてほしい。目的を聞くのはそれからにしてほしいんだ」
百年前、ある少女に飼われていた話を――三毛猫は歌うときのような声色で言った。
木々で蓋をされて青空は見えなくなっていた。
「ぼくは輝夜に拾われる前――ずっとずっと前――ある少女に飼われていたんだ。ミケと名づけられてね。
その少女の名前は、稗田阿弥。妹紅も知ってるでしょ? 八代目阿礼乙女だよ」
「ああ」とうなずく。慧音から教えてもらった。稗田家は約百年に一度、阿礼乙女が生まれると。
もちろん人里に全然かかわっていなかった妹紅は、阿弥という人物がどんな者なのかは知らない。
「彼女は普通の人とは違っていた。だから侍女とかも嫌っていたらしい。これはまわりの環境にも恵まれなかったんだと思う。でもね――」
――ぼくは大好きだったんだよ。
照れくさそうだった。そして、悲しそうだった。
「特別なことはなにもなかった。ただ一日中一緒にいてくれた。膝の上に乗せてくれて、頭を撫でてくれて、笑いかけてくれたんだ。
きっと人間には分からないことだと思う。でもね、動物ってなにかしてくれなくたって、安心感を与えてくれるだけで満たされるんだよ」
三毛猫は目を細めた。せばまった視界に過去を見ようとしているのだろう。
理解できないことじゃない。人間だって常に刺激を求めているわけじゃないし、平々凡々な日々を抱きしめたいほど大切に感じられることがある。
毎日自分を愛してくれてる人がいれば、その人をいつの間にか愛し返しているものだ。
「それとね、実は好きなものがもう一つあったんだ」
ラブソングより軽やかな声。宝物を自慢する子供の声だった。
「それが歌なんだ。ご主人は蓄音機っていうのを持っててね。知ってる?」
「ああ。幻想郷に来る前に一度見たことがある」
「蓄音機ってさ、金色のアサガオみたいなのがついてるでしょ。最初、あれがすっごく怖くて近づけなかったなあ……」
三毛猫ははにかむように呟いた。
すうと日光が細く森のなかにさす。
「そこから流れる曲が好きでさ。なんかすごくゆっくりしたリズムなんだけど、心がふわふわして。
ご主人に飼われてるあいだはほぼ毎日聴いてたよ。その曲は、ぼくの幸せの日々の象徴なんだ」
「……お前が口ずさんでるやつか?」
少し黙ったのち、「そうだよ」と三毛猫はうなずいた。
ふたたび木に遮られて日光が届かなくなった。
「ぼくはご主人のことが本当に好きだったんだ。淡い毎日がずっと続いてほしかったんだ。
だけど、それも終わってしまった――」
言わんとしていることは分かった。阿礼乙女は三十歳まで生きられないなから、早々に寿命を迎えたのだろう。
「違うよ」
三毛猫は妹紅を見ながら察したように首を振った。「ご主人は寿命で死んだんじゃない」
えっ、と驚きの声をもらした。
ざわざわと木が揺れる。森全体が落ちつきをなくす。
「彼女は自殺をしたんだ」
世界はだんだんと色を落とし始め、黒さだけが残っていく。
私は今、迷子になっていないだろうか――妹紅は不安に駆られた。
「自ら命を絶った。ただでさえ短命なのに、それでも寿命を待つことができないくらい、生きるのが嫌だったということさ。
どうやら単純で、もっとも大切なことが共有できていなかったらしい。恥ずかしい話だよね」
大切な人が死ぬ。これは言うまでもなく悲しいことだ。
でももっと悲しいことは、その大切な人が自分と幸せを共有していなかったと知ったときではないか。
自分の幸せは色あせ、愛おしい思い出は焼け焦げてあとには炭化した切れ端しか残らない。でも幸せと思い出がたくさん積み重なっていればいるほど、それらの残骸も数え切れないぐらいできるのだ。
捨てるあてが見つからない。すべてを背負えるほど強くない。
そんな奴が、この三毛猫なのではないか?
こいつの心は墓石のように、焼き残った残骸を収めているのではないだろうか――。
妹紅はなにも答えられなかった。自分の言葉に意味が込められるとは微塵も思えなかったのだ。
一人と一匹はしばらく沈黙したまま歩き続けていた。
「――でもね」
三毛猫は言葉をつむいだ。しかし、続きの言葉を心底ためらっているようでなかなか言わない。
さんざん躊躇したあと、おもむろに口を開いた。
「でもね、ぼくは、ご主人が死ぬ前に――」
――がさがさ。
近くの茂みが揺れた。音の大きさからして風によるものでない。
誰か、いる。
妹紅と三毛猫は足を止めた。不思議そうに猫は妹紅を見あげる。
昨日の鳥妖怪のことが頭をよぎり、ポケットに手を入れて札をにぎる。
何者かは着々と近づいてきた。がさがさという揺れが手前まで迫ってくる。
ごくりと飲み込んだ唾が渇いた喉を通る。
そして、とうとう相手の姿が現れた――。
「――ほんと、思うよ」
妹紅は緊張を解きながら言った。「幻想郷に博麗の巫女は何人いるんだって」
「たったの一人よ。蓬莱人より少ないわ」
茂みから出てきたのは、連日出会っている博麗霊夢であった。
ふうと大儀そうに巫女服についた木の葉を払っている。頭に乗っていた葉っぱをつまみ、指ではじいた。
「もしかして私のあとをつけているのか?」
「その言葉、そっくりお返ししますわ、妹紅さん」
渋面で霊夢が応える。続けて、頭に乗ったリボンを調整しながら、
「そんで? あんたはこんな森のなか、猫連れてなにしてんの?」
と訊ねた。
もちろん妹紅だってなぜここにいるのか知らない。
この三毛猫が説明なしに私を連れてきたんだよ――と言ったら、目の前の少女は笑うだろうな。
「……あれだ、キノコ集めだよ。最近、キノコ収集に凝っててね」
「なら一人紹介するわ。キノコと魔法が大好きで口うるさい奴をね」
「遠慮しておくよ。賑やかなのはあまり好きじゃないもんで。
それと、この猫にはキノコ探しを手伝ってもらってるんだ。犬がここ掘れワンワンとお宝を見つけられるんだから、猫だってキノコぐらいは見つけられるかなってさ」
信じてもらえるとは端から思っていない。第一、キノコ探しと言っておきながら妹紅はキノコを一本も持っていないのだ。
妹紅の涼しい顔を睨めつけるように見つめた霊夢は、「そう」と短く答えた。
次に霊夢はしゃがんで三毛猫の顔を見た。猫はぎょっと目を剥いて、ついと顔をそらした。
彼女は凝視したままだ。双眸が、指でなぞれば切れてしまいそうなほど鋭く細められている。
頑張れ三毛猫、となにを頑張ればいいのか分からないのに妹紅は心のうちでエールを送り続けた。
しばらくして霊夢が立ちあがった。ふーんと曖昧な音を出す。
「ねえ、妹紅」
顔を妹紅に向ける。
「なんだよ」
「博麗神社に来たらお茶の一杯ぐらいは奢るわよ」
「はぁ?」
突然の言葉に困惑する。これはあれか、遠回しに博麗神社への来訪を促されているのか?
釈然としない面持ちでいると、霊夢は「じゃあね、キノコ探し頑張って」と言って妹紅たちは逆方向に歩き出した。
「……なあ」
妹紅はその背中に呼びかける。
「なによ。私は忙しいの」
「鳥妖怪探しにか?」
ぴくりと霊夢の肩が揺れた。図星だな。
慧音に依頼されていたのを思い出し、訊いてみたのだ。
「だったらなに? まだ退治できてないって笑うの?」
霊夢の声がかすかに震える。後ろ姿になっていて顔は見えない。
「違うよ。昨日、そいつらに会ったんだ」
予想外の反応だった。霊夢が驚き入った顔でこちらを顧みて、妹紅に寄ったのだ。
「どこで!?」
そこで妹紅の言葉が詰まった。上気した霊夢の赤い頬に涙の筋が残っていたのだ。
さっき、泣いていたのか――?
「どこよ!」
「迷いの竹林だよ」
「ありがとっ」
急ぎ足でくるりと振り返った。一歩を踏み出した瞬間――
霊夢がぐらりとよろけた。慌てて妹紅が体を支える。
「お、おい、大丈夫か?」
「……ええ」
息を荒くさせながら答え、そそくさと妹紅の腕から逃げるようにふたたび歩き出した。
「おい、無理するなよ」
足が止まった。半身で振り返った霊夢は、
「ありがとう」
意外にも笑顔を浮かべていた。だがすぐに前を向き、飛んでいった。
森が笑い声のような音を立てていた。まるで暗闇にからめ取られた人間をあざけるような笑い声――。
妹紅はしばらく立ちすくんでいたが、やがて歩き出した。三毛猫も隣に並ぶ。
「――あの巫女さん、大丈夫かな?」
「どうだろうな」
最後に見せた笑顔がどうにも頭から離れなかった。
気持ちを入れ替えるべく、話題を変える。
「それで、お前はなにを言いかけたんだ?」
「えっ?」
三毛猫はきょとんとしていたが、すぐに合点した。
「あの巫女さんに会う前のことでしょ?」
「ああ」
「それはね……」
また逡巡している。しかし今度は、
「いや、なんでもない」
と首を振った。「どうでもいいことだよ」
納得がいかない顔をしていた妹紅だが、三毛猫は変わらない声色で言った。
「行こう。目的の場所はもうすぐだ」
目の前には大きなおおきな木が屹立していた。幹は、大人が十人で手をつないでつくった輪に収まるかも怪しいほど太い。
妹紅は惚けながらそれを見あげた。上では枝が円状に広がって、青空ごとつかまえようとしているみたいである。
この木をなにかに例えようと頭をひねったが、結局出てきたのは『馬鹿でかいキノコ』という言葉だった。
「――ねえ、妹紅」
三毛猫の声。妹紅は顔を下に向けた。
「ずっと訊きたいことがあったんだ」
「なんだ?」
「妹紅はさ、ぼくと一緒に住んでいて、おかしいと思ったことはないかい?」
「そりゃあるよ。人語をしゃべるんだもの」
「違うちがう、そこじゃなくて。ぼくが妖怪であるということを前提にしてさ」
三毛猫は目を細めて妹紅をためすように見る。肝要なことを見逃していないかい?――猫は言外で訊ねてきた。
妹紅はため息をつく。そんな挑発的に問いかけなくても、前々から一つの疑問点には気づいていたさ。
そして、自分なりの答えもすでに出ている。
無表情を保ったまま、口を開いた。
「……お前は自分を妖怪だと言った。別に疑ってはいないさ。なにせ言葉をしゃべっているしな。百年以上生きているというのも無根拠ながら信じてる。
でも、解せないことがあるのは確かだ」
妹紅は巨木の幹に目を向けた。ひび割れた樹皮は見てて痛々しかった。
「なんで私と輝夜が最初に会ったときに気づけなかったのか。
妖怪というのはみな『妖力』というものを持っている。これは生来的な妖怪も、後天的に妖怪に変じた者も、あまねく持っていて、練って放出すれば攻撃としての魔弾にもなる品物だ。
なのにお前からは感じられないんだ。今こうしているあいだも。だから私は見抜けなかったし、輝夜にいたってはまだ気づけていない」
三毛猫はぺたりとお尻をつけて座り込んでいた。まるで最初からしゃべれないかのように黙り込んでいる。
「妖力とはその妖怪のエネルギーの量と直結している。ここでいうエネルギーっていうのは、生きていくための活力なんだ。
こっから言えることはただ一つ――」
乾いた樹皮を撫でながら、すうっと息を吸った。
「お前の生エネルギーはとにかく少ない――有り体に言ってしまえば、お前の寿命が、近いということだ」
そこまで言い切ると、三毛猫はどこか満足げにうなずいた。
「うん、そのとおりだ。最近は体力だってめっきり減ったし、不調も体の節々に出てきているんだ。
もうすぐ、ぼくは終わるんだ」
終わるんだ――それは、自分の命をラインなどに例えているのだろうか。
三毛猫は申し訳なさそうな声で、
「ごめんね。十分な説明もせずにこんなところに連れてきちゃって。でも、もうほんとにおしまい。この木の後ろが目的地さ」
と言い、ゆっくりと巨木の周に沿って歩き出した。妹紅もあとに続く。
地面にはこれまた太い根っこが張られていた。だけどこの地中にはもっとたくさんの根がクモの巣のように広がっているのだ。
妹紅はこの巨木が地面にしがみついているようにも思えた。
抜けないように、倒れないように、枯れないように。それじゃあまるで、この木が生に貪欲にすがりついているようじゃないか。
途端に巨木が哀れに思えてきた。
「――ここだよ」
一匹は足を止め、つられて一人も止まる。
太い根っこが地面からかすかに浮きあがってできた小さなスペース。茂みもくっついているそこに、三毛猫は顔を突っ込み、やがてのろのろと首を出した。
口には大きな長方形の紙がくわえられていた。表にはよく分からない文字が書かれている。それを地面において、ふうと息をついた。
「これを妹紅に渡したかったんだ」
妹紅は不思議そうな顔で紙を持ちあげる。思ったよりずっしりとしていた。
どうやらなかになにか入っているらしい。薄くて円状で――。
「それは、レコードだよ」
「レコード?」
「うん。ぼくが前のご主人のところで飼われていたとき、毎日のように聴いていた。
捨てられていたのを拾ってきたんだ」
これは、ぼくが口ずさんでいるラブソングさ――三毛猫は平らな声で言った。
レコードが急に重くなった気がした。
「噂を聞いていたんだ。不老不死の蓬莱人という者が迷いの竹林にいるって。もちろん最初は信じていなかった。
でもね、昔に妹紅と輝夜の殺し合いを見たとき、確信したんだ。この二人は本物だって」
三毛猫は巨木を見あげながら続けた。
「ぼくが妖怪だということをあまり知られたくなかったから、同居人の多い輝夜より一人暮らしの妹紅に拾われたいと思った。それまでにぼくが妖怪と知っていたのは一人しかいなかったからね。
そして一昨日の話になるんだ。妹紅の家を探していたら竹林で迷っちゃって、そんで今度は輝夜に拾われちゃって。あのときはどうなるのかと心底焦ったね。でも結局は、妹紅の家で飼われることになって、とうとう本来の目的のこのレコードを渡すところまで来れたんだ。よかったよ」
安堵のため息を深く吐いて、顔を妹紅に向ける。
「ぼくのレコードを、ぼくが死んだあとも家で預かってくれないかい? 壊さないようにしてくれるだけでいいんだ。自然に朽ちるまで持っておくだけでいいんだ」
なんて卑怯な頼み方だ――妹紅は呆れた顔をした。
外堀が完璧にうめられ、良心に訴えるような頼み方だ。
これでは引けない。
降参だと言わんばかりに両手をあげた。
「分かったよ、引き取るよ。持っとくだけでいいんだろ」
「ありがとう!」
心から喜んでいる声だ。三毛猫は何度も何度もありがとうをくり返した。
妹紅はしっかとレコードを抱えた。
「……だけど質問がある」
「なに?」
「お前の出た賭けはひどく勝率が低い。こんなことにならない確率のほうが高いじゃないか。
もし迷いの竹林で輝夜にも私にも会えなかったら? 拾った輝夜が自分の家で飼うことを決めてしまったら? 私の家に来ても、私が飼わないと言ったら? レコードは預からないと私が首に振ったら?
この賭けには不確定要素が多すぎる」
ちらりと猫を見た。
三毛猫は――「そうだね」と短く答え、妹紅の目を真正面から見てきた。
目の前の巨木さえも揺らいでしまいそうなほど鋭い眼差しだった。
「でも、それでも、ぼくはこの分の悪い賭けに乗るしかなかったんだ。
だってそうだろ? ぼくはもうすぐ死ぬんだ。転々とレコードの保管位置を変える人はいなくなってしまう。あとは外気に当てられながら風化するのみだ。
それだけはさけたかった」
ご主人もぼくも死ぬけど、このレコードだけは残したかったんだ――三毛猫は切々と言った。
ああ――。
妹紅は想像する。
この三毛猫は、どんな気持ちでこのレコードを隠し続けていたのだろう。
曲だけじゃない、もっとたくさんのものが刻まれたレコードをくわえ、息を切らしながら安全な場所を探す。
音盤を茂みに隠すとき、そこにご主人のにおいとか温かさとか柔らかさも一緒にしまい込む。
そして――ラブソングを歌うのだ。誰かに向けられた愛がしっかと込められた恋歌を口で転がすんだ。
あめ玉のように口のなかで広がる甘さも酸っぱさも、ごくりと飲み込みながら。
幸福の残骸をリズムに変えながら。
どんな、気持ちなのだろう。
三毛猫が呟く。
「――ぼくは、死なない妹紅がうらやましいよ」
さっき、地面に根を張り生きようとする巨木を哀れだと思った。
しかし目の前にいる三毛猫も、四本の足を根のように地面に立ててしゃんと構えている。
この姿を見ても、哀れだと言えるだろうか?
生に憧れることを見くだせるだろうか?
「今日はありがとう」とお礼を述べ、「じゃあ帰ろうか」と踵を返す三毛猫。
妹紅は自分の心臓の上にレコードを当て、抱きしめるように持った。
そして、三毛猫のあとに続きながら心から祈る。
――今だけは、ラブソングを歌いませんように。
◆ ◆ ◆
ラブソング日和だね――と三毛猫はうれしそうに言った。
妹紅はちゃぶ台に頬杖をついたまま生返事をした。
壁時計は朝の時間を示している。昨日伝えられていたとおり、今日は輝夜はやってこなかった。用事があると言っていたが、なにがあるのかは知らない。
「なーなーなーなーななー」
三毛猫に預けられたレコードは押し入れのなかにしまった。輝夜などに見つからないような場所で、丁寧に保管している。
妹紅は歌っている三毛猫を見てから、次に押し入れに視線をやった。
「ななななーなな」
レコードが音楽を奏で出しそうな気がしてついと顔をそらす。
「――あのさ」
三毛猫と正反対の壁を見ながら問うた。「お前は阿求に会わないのか?」
ぴたりと歌がやむ。空気中に残った歌の残滓もだんだんと沈黙に食われていった。
壁に話しかけるような体で妹紅は続ける。
「阿礼乙女っていうのはさ、よく知らないけれど前世の記憶も少しは覚えてるもんなんだろ。ならお前のことを覚えているかもしれないじゃないか」
薄汚れた壁に阿求の顔を思い描いた。阿弥にはもう会えないけれど、昔話ぐらいは語り合えられるかもしれないじゃないか。
「……そうだね。もっともな意見だ。でもね、ぼくは今まで阿求に会ったこともないし、これからも会おうとも思わない」
じゃあなんで――妹紅の問いかけはすぐに遮られた。
「怖いんだ。たまらなく、怖いんだよ」
三毛猫の声は弱くなっていって、言葉尻はほとんど聞こえなかった。
猫というのも泣くのだろうか、とぼんやり考えた。
「昨日、巫女さんに会う前にぼくが言いかけた言葉を、伝える決心がついた」
小さく息を吸う音が聞こえた。妹紅は目を閉じる。
「ぼくは阿弥に捨てられたんだ。段ボールに詰められて、人里から離れた森で」
よかった――。
妹紅は下唇を噛みながら安心した。今、三毛猫の顔を見ていなくて本当によかった。
「大好きな飼い主に捨てられる動物の気持ちはきっと分からないだろうね。ぼくはその日のことを絶対に忘れない。
心臓が穴ぼこだれけになったみたいに苦しくなって、呼吸をするたんびに冷えた空気がうちから体を凍えさせていく。なのに全身はそれとは違う理由で震え続ける。瞳はご主人の離れていく後ろ姿だけを捕らえるんだ。
もちろん、過去に何度か会おうとしたこともあったさ。でも駄目なんだ。彼女の家の門の前に立ったら、体が震え出すんだ。遠くなっていく後ろ姿が見えるんだ」
ぼくの感じた幸せってなんだったんだろうね――答えを探すことすら諦めた声色で問いかけられる。世界をさかさまにしても答えは出てこないだろうという確信が込められていた。
当たり前だ。その答えを知っている者はもうこの世にいなのだから。
しばらくの無言ののち、三毛猫が、
「ごめん。外に出たいから引き戸を開けてくれないかい?」
と言った。
「ああ」と答える。目をゆるゆると開いて、立ちあがった。引き戸に近づいてそれを開ける。
動作をしているあいだ、できるだけ三毛猫を視界に入れないようにした。
外の風が家のなかに入る。ひゅるりと下手くそに奏でる歌みたいな音を立てながら。
「……妹紅、いろいろありがとう。じゃあ、レコードを頼んだよ」
三毛猫は外に飛び出て、ゆっくりと歩いていった。
もう帰ってこないだろうな――毅然と足を進める三毛猫を見ながら思った。
胸に空いた穴を風が通り抜けていくような心地がした。
引き戸を閉めて押し入れを見る。矛盾しているな、と思った。
捨てられた身だというのに、過去を偲び続ける。
でもそういうものじゃないかと考えを打ち消した。どうしようもないことじゃないか。
嬉しいことより悲しいことのほうが多くて。
死にたがりより生きたがりのほうが多くて。
明瞭なものより曖昧なもののほうが多くて。
そんな世界を自分たちは生きてるのだから。
顔を寝室のほうに向ける。
大好きな人。
妹紅は頭のなかでぽつりと呟く。私が、大好きな人――。
最初に浮かんだのは、彼だった。
少女だった妹紅の頭を撫でる、無骨な彼の手のひら。その温かさが空っぽの心にじわりと広がった。
笑い合った。手をつないだ。抱きしめてくれた。
そして、顔にもやのかかった彼は、妹紅に向かって言った。
「――――――」
彼女は寝室に移動する。
すみに据えつけてある姿見の前に座り、櫛をにぎった。
◆ ◆ ◆
昼ごろ、妹紅は輝夜の姿を見つけて足を止めた。
迷いの竹林で、座り込んでいる輝夜の姿を。
なにをしているんだ?
後ろ姿しか見えないのでやっていることが全然分からない。警戒しながら近づき訊ねた。
「――お前、なにしてんだ?」
「あら、妹紅じゃない」
前に回って相手の顔をのぞき込む。輝夜は妹紅の顔を認めると、驚くでも喜ぶでもないかすかな笑みを浮かべた。
「用事はもう済んだのか?」
「ええ」
「そうか」
彼女は続けて輝夜の手もとに視線を落とし――そして面食らった。
白黒の色の猫がいた。白い毛に墨汁をこぼしたようにところどころ黒くなっている。妹紅を睨みながら、耳と尻尾がまち針みたいにぴんと立っていた。
見たような気がすると思えば、先日、人里で追跡者がいると報告した猫であった。
「……今日の用事っていうのは、こいつの世話か?」
「まさか。鈴仙が風邪でダウンしちゃったから、あの子の代わりに人里まで薬売りに行ってきたの」
「お前が仕事をするなんて初めて聞いたよ」
「失敬ね。私は女王蜂のようにカリスマを持つレディーでありながら、それでいて働き蜂のようにあくせくと労働するわ」
かたわらには薬箱がおいてあった。薬売りをしたというのはなるほど本当らしい。
輝夜は薬箱に手を伸ばし、引き出しから包帯を取り出した。短く切って、それを猫の右足に巻く。
「ん? そいつ、ケガをしてるのか?」
「なんかで切っちゃったみたいね」
でも消毒したから大丈夫よ――その言葉は、猫を安心させるためのものに聞こえた。
巻いた包帯にじわりと血の赤がにじむ。傷口は深いのかもしれない。
よしよしと輝夜が頭を撫でてやると、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「はい、おしまい。今度から気をつけるのよ」
輝夜が立ちあがると、猫は「にゃー」と鳴いて駆けていった。ありがとうと言ったのだろうか?
後ろ姿をしばらく眺める。しゃべらなかったな、とぼんやり考えてから一人で微苦笑した。
猫は普通しゃべらないものじゃないか。
「……じゃあ、これお願いね」
気がついたら薬箱を持たされていた。ずしりとした重さが手にかかる。
「永遠亭までお願いするわね」
「なんで私が荷物持ちをしなきゃいけんのだ」
妹紅が渋面をつくって応えた。
「ずっと持ちっぱなしで疲れたの」
「でも私が手伝ってやる義理はない」
すると輝夜は意地悪い笑みを浮かべて、
「あら、あなたの髪の毛はずいぶんと整っていますわ」
と言った。
このやろう。まさかそれを引き合いに出すとは。
しかしこうなると反論はできなくなる。しょうがない、こちらが折れるか。
「分かったよ。永遠亭まで運べばいいんだろ」
「助かるわ。これも女王蜂並みのカリスマのおかげね」
断じて違う。働き蜂の毒のような反則技のたわものである。
二人はそうして歩き出し、妹紅は片手に携えた薬箱を見、ため息を吐いた。
面倒くさいなあ……。
声に出さずに愚痴ると、輝夜がふふと笑った。
「なに笑ってんだよ」
「ちょっとうれしくてね」
「そりゃあ荷物持ちがいてれれば楽だもんな」
「違うわよ」
あなたの髪のこと――彼女は笑みを深めながら言った。
「ちゃんと毎日梳かしてるみたいね」
「悪いかよ」
「別に」
妹紅は頬を朱に染めて、そっぽを向いた。
このあいだの話である。妹紅は輝夜にお願いして髪の梳き方を教えてもらったのは。
生まれてこの方、身だしなみに気をつかったことのない妹紅だったが、どうしても髪だけは綺麗にしておきたいと思ったのだ。
だって――。
「よかったわね」
「まあな」
そこは否定しない。これで大切なものをいつまでも保てるのだから。
輝夜は「でも」と声の調子をさげた。
「あなた、浮かない顔をしているわ」
「荷物持ちを務めて喜べるほどお前に忠義はないもので」
かぶりを振る輝夜。彼女は妹紅の瞳の奥まで見通さんと凝視してくる。
「今日、最初に私に会ったときから沈んだ顔をしてた」
ぎくりと息を詰まらせる。こいつの観察眼は馬鹿にならない。
左手の薬箱ががたがたと音を立てている。
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないわ」
輝夜の眼光がいっそう鋭くなった。
「なにか、あったの?」
あまりにも真剣で、でもどこか優しさが込められていて、妹紅は嘘も言い訳もすべて飲み込んでしまった。
「……なにか、あったんだろうな」
伸ばして薄くしたような笑みを浮かべて、ふうと息を吐く。自分の呟いた言葉がずいぶんとあやふやなことに少し驚いた。
――なにか、あったの?
声に出さずにもう一度己に問いかけてみる。すると、なにか、あったんだよ、とまた曖昧な返事が返ってきた。
昨日の夜から、なにをしようにも頭の片すみには三毛猫が居座っていた。口を少し開けてラブソングをずっと歌い続けているのだ。
話してしまおうか。輝夜にすべてを。
飼っている三毛猫は言葉をしゃべること。その三毛猫がラブソングを口ずさむこと。もうすぐ死ぬこと。とても苦しんでいること。
でもあいつは自分のことが口外されるのを嫌っていた。それにこの問題は相談したところで完璧な解決はしないだろう。
どうしようかと頭のなかが回っていると、しびれを切らした言葉が口から転がり出てきた。
「――私の友達の話なんだ」
三毛猫であることを伏せて、話だけでも聞いてもらおうと言ってから思った。
「慧音のこと?」
「あー、あいつじゃない。最近、人里で新しくできてさ」
疲れてきたので薬箱を持つ手を変える。
「そいつはさ、大好きな人がいたんだ。恋愛感情的なものじゃない。上手く言えないけど、そういうのとは違って、だけどそういう気持にも引けを取らないぐらい強いものだと思う。
一緒に住んでいたらしい。毎日が幸せだったらしい。
だけど大好きだった人はもう死んでいて、私の友人もそろそろ寿命で死ぬんだ」
言葉をつむぎながら、胸の奥にある自分でも分からない本心を探っていく。完成図を知らないジグソーパズルを、しゃべりながら一個一個ピースをはめていくような感じだ。
果たして、どんな絵ができるのだろうか。
「そいつは歌を歌うんだ。昔に大好きな人と一緒に聴いていたラブソングらしい。大切な過去を思い返しながら歌うんだ」
耳の奥で三毛猫の歌っていた曲がよみがえってくる。転がすように歌っていた歌だ。
輝夜は黙ったまま妹紅の目を見ている。
妹紅は言葉を続けようとして、ほんのりと苦い笑みを浮かべた。
「大切な過去――なのかな。自分で言っておきながら分かんないや。
大好きな人は自殺したらしい。友人を残してね。しかも、残酷な形でお別れを言われてるんだ。あいつは、幸せだと感じていたのは自分だけだったんだと悲しそうにもらしていた」
妹紅は苦い笑みをこぼした。冷たい風が慰めるように吹いていった。
組み立てていたジグソーパズルは着々とできていく。あともう少しで絵が分かるんだ。
「そして昨日、昔に聴いていたというレコードを渡された。ぼくは死ぬから預かっていてほしい――とのことで、な」
ふうと妹紅は息を吐いた。その息に込められた感情は自分でも分からない。
「これで話は終わりだ。すまない、取りとめのない話だったな。こんなことに時間を割いてもらってありがとう」
「……あなたは、なにを思った?」
久しぶりに輝夜が口を開いた。竹立ちがざわりと騒ぐ。
「あなたはどう思ったの? 友人になにをしてほしいの?」
「……私は」
ジグソーパズルに最後のピースをはめ込む。距離を取って俯瞰し、全体図を眺めた。
私は、どうしたいんだ――?
妹紅は最後に自分に訊ねた。返事はないけど、やっと形の持った答えを得た。
ジグソーパズルの絵は、安らかに眠る三毛猫だった。
「私は、友達が安らかな最期を迎えてほしいんだ。さんざん苦しめてきた自分の過去を捨て去って」
そうだ、これが答えだ――妹紅は声に力を込めた。
「もう大好きな人もラブソングも、忘れてほしいんだ」
世界が音をどこかにおいてきたみたいに静かになる。自分の熱の入った言葉が所在なさげに浮いている。
「――ねえ」
横に輝夜はいなくて、斜め後ろに立っていた。相手が止まったのに気づかずに数歩歩いていたらしい。
「訊かせてちょうだい」
妹紅は、心底驚き入った。ごくりと唾を飲み込む。
輝夜の顔は憎々しげにゆがめられていたのだ。心から嫌悪を抱いている――そんな表情である。
「さっきの言葉、本気で言ったの?」
彼女の声は呼吸ができなくなるほど冷え切っていて、妹紅の心胆を寒からしめた。
当惑しながらやっとのことでうなずく。
「あ、ああ」
「そう」
短く返事をすると、輝夜は徐々に顔の力をゆるめていった。
しかし、戻った顔は今日最初に会ったときのような笑顔ではなく、喜怒哀楽をそこから刈り取られたような無表情だった。
竹がおののきながら揺れている。
「分かったわ」
輝夜はすたすたと歩いて、妹紅を追い抜いた。それでも止まることなく歩き続けている。
「ど、どこ行くんだよ」
返事はない。慌ててあとを追いかけると、すぐに輝夜は足を止めた。
妹紅は自分たちがいる場所を見回す。開けた場所で竹は一本も生えていない。下を見ると、黒々とした土が露見していた。
春夏秋冬、姿を変えないここは――
二人で殺し合いをした場所だった。
「ありがとう」
感情のこもらない声で伝えると、輝夜は相手から薬箱をひったくるように取った。そのまま歩き出し、妹紅から七、八メートル離れたすみに薬箱おいた。
「手袋とマフラーは外しなさい。邪魔になるだけだから」
輝夜は自分の手袋とマフラーを薬箱の上においた。妹紅は状況がつかめないながらも指示に従う。
「スペルカードは捨てなさい。興が削がれるだけだから」
「お、おい、お前もしかして――」
「早く」
にべもなく言い、輝夜はスペルカードを地面にばら撒いた。
そして、無感動に呟いた。
「あなたと殺し合いをするのはどれくらいぶりかしらね。最近は生ぬるい関係をずいぶんと続けていたし」
やはりか――妹紅はぎりっと奥歯を噛みしめる。
「なんで、お前と殺し合いをしなくちゃいけないんだ」
「たまにはいいじゃない」
こちらの言葉をかわすような返しにより怒りを覚える。
昔は輝夜が憎くてにくくてしょうがなく殺し合いをしていた。しかし年が過ぎるにつれてそのとがった感情は川底で角を落としていく石のように丸くなっていき、殺し合いを長々と休止していたのだ。なのに突然の再開。理由がないわけがない。
先ほどの輝夜の顔を思い出し、妹紅は途端に不安で顔をくもらせた。
「なあ、私はなにか間違えたことを言ったのか? もしそれで気分を悪くしたのなら謝るよ」
やめたかった。なまじ良好なつき合いをしてきてしまったので、無限の命といえども殺めるには抵抗があったのだ。
それ聞いて、輝夜は冷ややかに笑っていた。
「あなたを見ていると、先達は良識あふれる言葉を残しているんだなって思うわ。
こんな言葉はご存知?」
――馬鹿は死なないと治らない。
輝夜は吐き捨てるように言って右手を上に向けた。彼女の周囲に妖力がたまっていき、そこだけ空間がゆがみ始めた。
「さあさ、お馬鹿さん。悟れるまで果てるといいわ」
右手のひらを妹紅に向ける。いくつかの小さな魔弾が妹紅目がけて飛んでいった。
横によけられたものの、今しがた自分がいた地面は深くえぐれる。
冷や汗をかいた。――輝夜は本気だ。
説得はもはや無意味。されど背を向けて逃げるのはプライドが許さない。
ならば残された行動はただ一つだ。忌々しげに口の端を吊りあげる。
「――後悔すんなよ」
妹紅は姿勢を低くしてポケットに手を入れた。魔弾がふたたび狙ってくる。横に跳びながら数枚の札を投げつけた。
宙で札は発火し猛々しく燃え、火の粉を撒き散らしながら輝夜に向かっていく。
輝夜は表情ひとつ変えずに魔弾を放つ。札一枚一枚に過たずぶつけ、すべてを相殺した。
輝夜が不躾な笑みを浮かべる。
妹紅が不敵な笑みを浮かべる
妹紅は両手の五指でたくさんの札をはさみ持っている。そしてそれらを投げつけた。
燃える、燃える、燃える――。
無数の札があまねく燃え、輝夜の視界が紅蓮に染まる。まるで炎の壁が迫ってきてるようにも見えた。
輝夜はふたたび冷静に魔弾を当てて札を落としていく。ぶつかるたびに水が蒸発するときに似た音がした。
動くことなく炎の壁を破った輝夜は――驚いた。
目の前に誰もいないのだ。妹紅の姿がどこにもない――。
「――こっちだ」
後ろから声。「残念」
姿勢を低くした妹紅が札をにぎりしめる。刹那、彼女の右手がうずを巻く炎に包まれた。
それで輝夜の背中をぶん殴る。めりっと深く拳が入った。
「ぐっ……」
輝夜はすぐさま翻って妹紅から距離を取った。乱れた息を乱しながら相手を睨む。
妹紅は小馬鹿にしたような顔で、鎮火した右手を開いた。炭がはらはらと落ちる。手は少しすすけただけで火傷などはない。
「一本取られたわね」
言うやいなや、輝夜の周囲がもう一度ひずむ。「でもこっからよ」
水色、黄色、赤色――。
さまざまな色の弾が無数に現れる。それらはまるで縮尺の違えたアメ玉のようでもあった。
竹が揺れた。それが合図だった。
カラフルな弾が飛んでくる。妹紅は二枚の札を投げる。
二枚はそれぞれ大人一人分の大きさの火の鳥に姿を変え、輝夜に食らいつこうと羽ばたいてゆく。
だが、輝夜の弾が火の鳥の息の根を止めにかかった。当たるほどに体は削られていき、勢いはなくなっていく。二匹はなかばを過ぎたあたりで――とうとう失せた。
なおも止まらぬ猛攻。青白い楕円状の弾を加わり、妹紅を追い詰める。
空に浮かび、右に迂回しながら追撃弾をかわす。それでも追ってくるが、精いっぱい強がる。
妹紅が不躾な笑みを浮かべる。
輝夜が不敵な笑みを浮かべる。
猛攻がだしぬけにやんだ。妹紅は怪訝な顔でスピードをゆるめた。
さっきの、カラフルな弾に混じった、楕円の弾。
あれだけ異質だった。記憶を掘り返す。あれにはなにか、特殊効果がなかったか?
輝夜は笑みをくずさぬまま、妹紅と同じ高さまで浮かんでくる。
頭をひねる。楕円、楕円、楕円……。
――あっ。
思い出したときはもう遅かった。背中に焼けるような熱さ、次に神経に針を突き立てられたような鋭い痛み。
顔だけ振り向くと、背中に楕円の弾が被弾していた。
頬をつたった汗が顎から落ちる。
そうだよな、こいつには返ってくる効果があったんだ。
「――仕返しよ」
輝夜が陰気くさく言う。
「いい性格してるよ、お前は」
「お褒めの言葉、光栄ですわ」
そこで二人は呼吸を整えた。
地面から数メートル離れているのに、まわりの風景は変わらず緑色の竹ばかりだ。面白くない。
「こうやって殺し合うのは、ほんとに久しいわね。いつぶりかしら?」
「さあな。覚えてないよ」
「あのときのあなたの目はぎらぎらとしてたわ。煩わしいこと、考えてなかったものね」
輝夜が冷ややかに笑う。妹紅はついと顔をそらした。
こいつを殺したかった理由はたった一つだった。唯一で無二なもの。
父親をたぶらかされたゆえだった。難題などというものでないものを探させられ、でも結局見つけられずじまい。輝夜にただ踊らされたせいで、彼の名誉は大きく傷つけられ、人々からはあざけられた。
それが許せなかった。許せなくてゆるせなくて、どうしても輝夜を殺して、そして報いてほしかった。謝ってほしかった。
妹紅は奥歯をぎりっと噛みしめる。こいつさえいなければ――
「――あなたの大好きな人は、みんなに笑われることはなかったわね」
大好きだった。自分の父親のことが、たまらなく。
撫でられたむず痒さも、つないだ手の柔らかさも、彼の温かな言葉たちも、全部覚えている。
「あなたは父親のことが好きだった。だから私に髪の梳き方を習ったのでしょう?
あの人に、髪を褒められたから」
蓬莱の薬を飲んだせいで褒められた黒髪は白髪になってしまったけれど、それでも髪を綺麗なままにしたかった。
大好きな人に誇れるものを永遠にしたかった。
父親にまた会えたなら、もう一度褒めてもらえるために。
だから――輝夜は絶対に許せない。
妹紅はあたりを見回した。この空間で私はあいつを何度も殺した。何度も殺された。
ここは、蓬莱人の墓だ。
その瞬間、するりとなにかが腑に落ちた。欠けていたなにかが、この空間のなかでやっと満たされたのだ。
しずしずと妹紅は小さな笑みをこぼす。
――じゃあ、妹紅と輝夜はどういう関係なのさ?
昨日、三毛猫にされた質問に、やっと過不足なく答えられる気がした。
そうだよ。二人の関係を説明するときに、この気持ちは忘れちゃいけないんだ。
「……なあ、輝夜」
「なにかしら?」
「手袋とマフラー、ありがとうな」
輝夜がきょとんとした顔をする。
妹紅はかまわず続けた。
「大切に使わせてもらってるからさ、心配はいらない。――そんでもって、今は、しっかりお前を殺してやるよ」
輝夜は呆気にとられていたが、なにかを感得すると、次に絹糸で縫いあげたように柔らかな笑顔を浮かべた。
「あなたは本当に馬鹿ね」
でもね、あなたのそのぎらぎらした目、嫌いじゃないわ――うれしそうに言い、くすりと笑い声を風に溶かした。
「気が済むまでやらせてもらうよ」
「ご自由に。大丈夫、あなたの骸の乱れた髪は私が梳いてあげるから」
「うれしいことを言ってくれる。じゃあ私はお前の亡骸に膝枕してやるよ」
二人が、不敵な笑みを浮かべる。そして――
「楽しみだね!」「楽しみだわ!」
声を、合わせた。
輝夜が濃密なカラフル弾を展開させる。ほぼすき間がないほど敷き詰めて、妹紅へと迫ってゆく。
弾幕ごっこなら禁忌になる技だ。よけれることなぞ眼中に入れぬ密度。
明色が視界いっぱいに広がり、少しくらんだ妹紅だがあえて前進する。
真っ向から打ち破ってやる!
札を取り出して投げつけた。弾は消えるものの、いかんせん数が多い。輝夜の姿はいっとう見えないままだ。
しかしそれでいいのだ。目的は、少しでも数を削りすき間をつくり出すことなのだから。
空いたすき間に体を滑り込ませる。端々がかすり、服が破ける。
絶対にあいつにたどり着く!
前方に札を投げつつも進むことをやめない。右に左に飛びつつも着々と距離を縮めていく。
かすって頬が裂け、血が顎からしたたった。
あと少し。
歯を噛みしめる。あと少しだ。
最後はなかば無理やり前進し、弾の群れを抜ける。右の肩から肘まで服は破け、赤黒くただれた肌が見えていた。
輝夜の姿が見える。残り数メートル。
――これがいけなかった。敵を視界に捕らえたせいで、緊張がいささかゆるんでしまったのだ。
目の前に白弾があらわれる。妹紅がぎょっと目を剥くと同時、白弾は一線の光を放ってきた。
体をひねるようにして旋回する。一拍遅れた長い髪が数本、はらりと焼き落ちる。
体勢を立て直せていないうちにふたたび眼前に白弾。そして、光線。バランスが悪く上手く動けなかった。無理やりに旋回したものの、右脇腹に激痛が走った。
脇腹の痛みで体が一瞬硬直した。輝夜はその一瞬を見逃さなかった。
魔弾がいっせいに飛んでくる。妹紅はことごとく被弾し、体から力が抜けた。
地面が近づいてくる。妹紅は自分が落ちたのだと気づいたのは、強い衝撃とともに薬箱が視界に映ったからだった。
「――大丈夫? ずいぶんと痛そうだけど」
輝夜の茶化すような声が上から降ってくる。なにか言い返してやろうと口を開いても、出てくるのは真っ赤な血だけだった。
腕をつき、次に笑っちゃうぐらい震える足で立ちあがった。
ふらりと視線が揺れる。ともすれば失神してしまいそうな激痛が脇腹に走っている。視線をそこにやった。
服の生地の白も、皮膚の肌色もそこにはなかった。
深々とえぐれていたのだ。見えるのは、黒と赤をぐちゃぐちゃに混ぜたようなグロテスクな色合い。
どの部位か分からない臓物がのぞいている。上部にかすかに見える白い色はたぶんあばら骨だろう。
血が止まらない。
「もうやめる?」
見あげると、輝夜が涼しい顔をしていた。「このままだと出血で死ぬわよ」
妹紅はへんと鼻を鳴らして笑ってみせる。
「まさか。脇っぱらがえぐれただけだろ? むしろ、最近甘い物の食べすぎで腹まわりを気にしてたんだ。感謝したいぐらいだね」
「強がっちゃって」
妹紅は視線をおろして後ろを見た。そして、
「しかしはだけすぎてお腹が冷えそうだ。ちょいと腹巻を貸してもらうよ」
と言って、おいてある薬箱を開けた。
なかから取り出したのは――包帯だった。それを何重にも腹に巻く。
輝夜は呆れながらため息をついた。
「……請求書、書かないとね」
妹紅はにっかりと笑う。
「ツケといてくれよ」
頭はかすみがかかっているようにぼやけている。まぶたは鉛のように重たい。
もはや自分がなんのために頑張っているのかも分からなくなってきているが、どうしても膝を折りたくなかった。
「髪結いの札を使ったら?」
「使うまでもないね」
もう、今さらだ。
包帯を巻いたところで、死ぬのがちょっと先延ばしになっただけなのだ。所詮あがいたところで――。
残りはポケットのなかの札すべて使い切る。
一発お見舞いできれば僥倖!
ポケットに手を入れ、ありったけの札をつかむ。つかんだものを、みな宙に投げた。
まるで画鋲で留められたようにそれらが宙でぴたりと止まる。
「さあ、最後の踏ん張りどころさ!」
妹紅が指をはじくと、止まっていた札たちは――火の鳥に姿を変えた。
さっきより小さい姿であった。しょうがない、妹紅には妖力がほとんど残っていないのだ。
火の鳥たちはいっせいに輝夜へ飛んでいく。
「いいわ。その挑戦、乗ったわ」
輝夜も今自分に残された妖力をありったけかき集めて練って、色とりどりの弾をつくっていく。
しかしさっきとは違って密度が薄い。こちらも残っている妖力が少ない証拠である。
次の瞬間――火の鳥と弾たちがぶつかった。その衝撃で突風が起こり、あたりの竹が荒れ狂ったように揺れすさぶ。
二人の頬に汗がつたう。
火の鳥は羽が落ちようが腹を穿たれようが、首だけを残して輝夜に食らいつかんと飛んでいく。
しばらくの衝突ののち――輝夜の弾は果てた。
一匹の――いや、一つの頭が輝夜に食らいついた。
彼女の着物が燃えていく。ごうごうと音を立てながら。
妹紅はふうと息を吐くと同時、足の力が抜ける。がくんと膝を折って、もう一度深々とため息を吐いた。
――勝った。
血を失いすぎた。頭がくらくらする。重いまぶたをなんとかこじ開ける。
脇腹をどうしようかと自分の体を見たとき――
胸を一線が貫いてることに気がついた。
なんだ、これ?
じわりとした熱さと痛みを感じる。
「私の勝ちね」
後ろから声。全力を振り絞って首だけ顧みると、輝夜がいた。
白い長襦袢姿だった。
そこで妹紅は合点する。
「……着物を、脱いだ、のか」
「ええ」
人間で一番最初に燃えるのは、言わずもがな、服である。ならば、冷静に服を脱げたなら焼死せずにすむ、という簡単な理屈であった。
妹紅は最後、満足げに笑った。うつ伏せに倒れたとき、かすかに「おやすみなさい」と聞こえた。
ぷつりと意識が暗転した――。
「――おはよう」
目を開いたとき、最初に視界に映ったのは、遠い青空を背景にして柔和な笑みを浮かべる輝夜の顔だった。
妹紅は二、三回瞬く。自分の頭の後ろになにか柔らかいものが当たっている。
現状がいまだつかめない。
「約束どおり、目覚めるまで髪を梳いていてあげたわ。手櫛だったけどね」
さらりさらりと撫でるように髪に指を通されている。「プラス、サービスで膝枕もしてあげてるけどね」
どうやら頭の後ろの柔らかいものは、輝夜の膝らしい。
ああ、私はリザレクションをしたのか――。
妹紅は横になっていた自分の体を起こし、胡坐をかいた。
輝夜は正座をしながらふうと息を吐く。彼女の長襦袢の白さが目に沁みた。
「足が痺れちゃったわ」
「……膝枕までしなくよかったじゃないか」
「勝者の威厳を見せたかったの」
膝枕のどこに威厳があるのだろうか――妹紅は照れ隠しに視線を輝夜から自分の体にやる。
服はかなり破けていた。しかしそこからのぞく肌に一切の傷はなく、さっきまでの痛みも全然なかった。
血がべったりとついた腹の包帯を外す。脇腹もすっかり元通りになっていて、包帯が赤く染まっているのが嘘のようだ。
服の胸部にできた丸い穴。それを見て、自分は負けたのだとあらためて実感した。
「もう一戦する?」
「いいや。なんだか満足したし」
変な話だ。一線で胸に風穴が空いたというのに、貫かれた瞬間に胸の奥のなにかが満たされてしまったのだ。
はあと喜びも悔しさもないまぜになったため息を吐く。
「いい夢は見れたかしら」
「死神の船頭に追い返される夢を見た」
「あら素敵。死神とは一度まみえたいものだわ」
「……それで、さ」
妹紅は一拍おき、輝夜に顔を向けた。「なんで急に殺し合いをしようと思ったんだよ」
返事はすぐには来なかった。輝夜は曖昧な笑みでしばらく宙を眺めてから、言った。
「寒いわ」
「えっ?」
「着物がないからとても寒いの。近づいてもいいかしら?」
疑問形のくせをして、輝夜は妹紅が答える前に相手に身を寄せた。
体が触れようか触れまいかの距離に腰を落ちつかせ、ふたたび前を向いたまま黙りこくる。
そういえば私が燃やしてしまったのだな――妹紅は彼女の白い襦袢を見て、申し訳なさを感じた。
輝夜は、まるで宙から文字を拾い集めるようにゆっくりと言葉をつむいだ。
「あなたは優しいわね」
「……いきなりなんだよ」
「どうせ私の姿を見て、申し訳なくなったんでしょ」
ぎくりと肩を揺らす。輝夜は呆れたふうに笑った。
「あなただって服がぼろぼろなんだから、こっちにまで気を回す必要はないわ」
「そうは言ってもさ……。お前と私の着てる服は価値が全然違うんだし――」
「いいのよ、そんなの。服の価値がよくたって、着てる人の価値まで変わりはしないんだから」
輝夜はえへんと胸を張った。
「私がたとえぼろきれをまとってもあふれる気品は止めどないし、あなたが綺麗な着物を着ても引っ込み思案なのは変わらないわ」
「悪うござんしたね。生まれつきなもんでして」
妹紅が拗ねたように鼻を鳴らした。
輝夜は笑みを深める。
「そして、あなたがどんな服を着ようがあなたの優しさも変わらないの」
一瞬呆気にとられたが、すぐに妹紅は頬を赤くしながら口をもごもごさせた。
相手を肘で小突いてから輝夜は続ける。
「でもね、あなたの友人に対しての優しさは――どうしても許せなかった」
はっと息を飲む。やはり自分の意見はどこか間違えていたのか。
「たとえばの話、私がハサミであなたの髪をチョキチョキって切ったら――妹紅はどうする?」
「それは……」
大好きな父親に褒められた髪。ずっと残したいもの。
それを切られたら――
「――怒るでしょ?」
「そうだな」
「だけど、あなたの意見はそういうことなの」
すうっと輝夜が妹紅を見すえる。眼光には少し険が混じっていた。
「あなたの友人にとって、ラブソングはあなたの髪のようなものなの。大好きな人のために残しておきたいものなの。
確かにご友人は寂しい思いをしたのかもしれない。やり切れなさを感じたことでしょう。
でもね、それはあなたも同じこと。父親を私にたぶらかされて、悔しくて悲しくて。それなのにあなたは自分の思い出を捨てたいとは思わないでしょ?
二人とも一緒だわ。苦しい思い出が、しかしただ残酷なものとは言い切れない愛おしささえもあわせ持ってる。だから妹紅は髪を梳き、ご友人はレコードをあなたに預けたんでしょうね」
そうだ、そのとおりだ。父親と過ごした時間は、ときおり心に突き刺さる針のようにとがるけど、でも抱きしめたいほど大切なものなんだ。
そのことを頭の片すみに追いやっていた。
突然、三毛猫の姿が頭にふっと浮かんだ。下手くそにラブソングを歌って、ぼろぼろな体でレコードを隠して――
最後はすべてを託したんだ。
一緒にいたはずなのに、どうして気づけなかったんだろう。あいつが阿弥を語ったときの恥ずかしくもうれしそうな声色を、なぜ思い出せなかったのだ。
答えなんてもう目に見えていたじゃないか。三毛猫は自分の死に方をしっかりと選んでいたじゃないか。
なのに、歌を忘れてほしいなんて勝手に願って――私はなんて馬鹿なんだ。
妹紅が唇を強く噛むと、左手が温かいものに包まれた。見ると、それは輝夜の右手だった。
輝夜は慈しむような穏やかな顔をしていた。
「あなたは誰かの不幸に真剣に悩めるような優しい人で。だけど核心をたまに見失ってしまうお馬鹿さんで。
どうか忘れないで。自分にとっての最良が、必ずしも他人の最良にはならないことを」
そう言うと、輝夜は儚さのにじんだ笑顔をこぼした。
しばし、言葉をはさまずに二人は見つめ合っていたが、
「さーてと」
と、急に輝夜は立ってうーんと伸びをする。「もう寒いし、帰りますか」
妹紅もゆるゆると立ちあがった。左手を触ってみると、確かな温かさがあった。
「……そういえば、なんで殺し合いをしようって言ったんだ?」
「ああ、それね。あなたの意見に物申す前に、昔に殺し合っていたときの気持ち――つまりあなたが父親に抱いていた気持ちを想起させたほうが説得力があるなあ、て思ったの」
なるほど、と妹紅は小さくうなずいた。少し遠回しだなとも思った。
ふと押し入れの奥のレコードを思い出す。なんだかそれがいっそう愛おしくなった。
そして、
――どうか忘れないで。自分にとっての最良が、必ずしも他人の最良にはならないことを。
輝夜のさっきの言葉を強くつよく噛みしめた。
「――じゃあ、薬箱をお願いね」
はいはいと最初のように携える。ずしりと重いけど、今日の輝夜のお礼と思えば億劫にはならなかった。
しかしいつか包帯代は払わなくては、と苦笑する。
二人はゆっくりと歩き出し、この場を去っていった。
――が、手袋とマフラーを忘れた妹紅が輝夜に怒られながらも取りに戻ったのはすぐのことである。
◆ ◆ ◆
こんな苦労はしなくてもいいものだ。
長いながい石階段をのぼりながら妹紅はふうと息を吐く。
飛べば楽に到着できることなんて知っているが、それをしないのは妹紅が楽することになんとなく後ろめたさを感じるからだった。
神社という神聖なところを訪れる場合、ずるをせず、自分の足を使わないとなんとなく神様を侮辱している気になるのだ。
もちろん確固たる理由はない。すべてはなんとなくの話なのである。
のぼり切ると、赤と茶色の中間色をした鳥居にたどり着いた。鳥居の無数の剥げとひびにこの場所の長い歴史を感じる。
石畳が本社まで伸びていた。呼吸を整いてから歩みを再開する。
庭をほうきで掃いていた少女は、近づいてくる妹紅に気づくと口をへの字にした。
「おはよう。一昨日ぶりかな」
「なにしにきたのよ?」
「なにって――神社に来たらお茶の一杯は奢ってくれるって巫女様が言ってくれたもので」
霊夢はほうきで体を支えるように立ち、じろりと睨むような目つきで妹紅を見てくる。不機嫌そうにも見えるのだが、会うたんびにこんな顔をしているのでたぶんこれが普通なのだろう。
口を一文字に結んでいた霊夢は、だしぬけに妹紅へほうきを突き出した。
「ん」
「な、なんだよ」
「庭掃除お願い」
なんだかお地蔵さんのような重苦しさと威圧感でほうきを渡してくるものだから、ついつい受け取ってしまった。
「お茶の準備してくるわ」
霊夢は踵を返して縁側にあがり、そのまま本社のなかに消えていった。
つくねんと立ちつくす妹紅。吹いた風に枯れ葉はかさかさと乾いた笑い声をこぼした。
とりあえず、掃除するか。
働かざる者食うべからず――どうやら博麗神社では掃除をしなければお茶の一杯にもありつけないらしい。難儀なものである。
ざっざっと庭を掃いていく。冬ということで落ち葉はとても少なかった。
あらかたの葉を集めたところで、縁側におぼつかない足取りで霊夢があらわれた。お盆には急須と湯のみ二つとお煎餅が乗っている。
働いたしいただいてもいいのだろうと判断して、縁側に腰かけた。マフラーと手袋を外す
霊夢は二つの湯のみにこぽこぽとお茶を注ぎながら、
「庭掃除、ありがとう」
と、ぶっきらぼうながらもどこか幼さが残る声で言った。
少女だ、と妹紅は思った。
「どういたしまして」
隣に霊夢が落ちついたのを横目で見、湯のみに口をつけた。
薄いのに苦みのはっきりした味だった。
ずりずりとお煎餅の乗った皿が妹紅に近づいてくる。正面を向いたままの霊夢が押していた。
頭を小さくさげてから一枚食べた。
醤油のしょっぱさが強い味だった。
かき集めた落ち葉を朝日が照らしている。
「――なあ、私たちが会った一昨日の話なんだけど」
「なに?」
霊夢はちょうど顔をほころばせながらお煎餅を食べているところだった。本日初の彼女の笑顔が自分にじゃなくてお煎餅に向けられるのはなかなか悲しいことである。
「あなたが猫と一緒にキノコ狩りをしてたときでしょ」
はて、キノコ狩り?――首をかしげた妹紅だが、そういえばそんな言い訳を言ったっけと遅れながら合点した。
なんで博麗神社に誘ってきたのかを訊ねようと口を開く。が、あのときに霊夢が泣いていたことを思い出して言葉が喉もとにとどまった。
「……三毛猫」
「うん?」
霊夢が妹紅の目を見た。
「私が訊きたかったのは、なんであなたがあんな三毛猫を連れていたかよ」
「あんなって――どういう意味だ?」
「そのまんまの意味よ。わずかに、ほんのわずかにあの猫から妖力を感じたわ。妖怪なんでしょ?」
妹紅は心底驚き入った。
自分も輝夜も感じられなかったあいつの妖力を、こいつは初見で見抜いたのか?
博麗の巫女。幻想郷のバランサー。それゆえ、人間にも妖怪にも肩入れをせず、常に境界線上でやじろべえのように平衡を保ち続ける者がこいつなのだ。
それは、もしかしたら彼女の存在自体も煮え切らないということを意味するのではないだろうか?
つまりこいつは、人間でありながら人間一辺倒ではなく、妖怪ではないのにどこか妖怪じみているということだ。だから三毛猫の正体を聡く見破れたのではないか。
私は案外、すごい奴とお茶を飲んでいるのかもしれない――妹紅はぽつりと考える。
「ねえ、話聞いてる?」
大根ぐらいならすっぱり切れてしまいそうな鋭い眼光で睨んできた。
幻想郷のバランサーはご機嫌斜めである。
「あ、ごめん」
「――まあいいわ。それで質問よ。なんで妖怪猫なんか連れてたの?」
「拾ったんだ。んで、飼ってる」
ぴりっと心が痛くなる。正確には『飼ってた』、かもしれないな。
昨日出ていったきり、三毛猫は妹紅の家に帰ってこなかった。今朝、輝夜は来たものの三毛猫の不在を聞くと不平を垂れ、しばらく妹紅と駄弁を弄して帰っていった。
そのあと、妹紅は手持ちぶたさでなんとなしに博麗神社を訪れたのだった。
「ふーん」と曖昧な声をもらしてから霊夢は前を向いてお茶をすすった。そしてお煎餅を手に取り、自分の口をしゃべることから食べることへとシフトしてしまった。
話が途切れる。沈黙がお茶請けに加わった。
空気が硬くなったような居心地の悪さ。妹紅はあたふたと一人で慌てた。
「えーと……」
「どうかした?」
「なんかさ、他に質問とかないのか?」
「たとえば? 名前とか?」
「んー、ほら、妖怪猫と暮らしてみてどんな感じとか、なんか特殊なことなんかなかったのか、とかさ」
「あなた、もしかしてかまってちゃん?」
「違うやい。ただ、私の話にもうちょっと興味とか湧かないのかよ」
「湧かないわね」
ほうきで掃ける枯れ葉のように軽い調子で答える。妹紅はいささか気圧された。
「あなたが誰と暮らそうと興味ないし、妖怪猫だってどうでもいい。
もっと言っちゃえば、私は、他者にも自分にも絶対に固執しないの」
「冷たいなあ」
「冷たくて結構」
そこで霊夢は顔に陰を落として、ぽつりと呟いた。
「どうせ、悲しくなるだけだし」
「なんか言ったか?」
「別に」
霊夢はふたたびうれしそうな顔でお煎餅をかじり出した。妹紅は不思議そうに相手の様子を眺めていた。
さっき、なんと言ったのだろうか。
気になったが、答えてくれなさそうなので忘れることにした。
妹紅は湯のみを両手のひらで包むように持ちながらぼんやりと考える。
博麗霊夢。彼女のことがよく分からない。
もちろんまだ出会って日も浅いから当然といえば当然なのだが、なにか腑に落ちない。
なんだか霊夢は纏っているものが凡夫とは異なっている気がするのだ。
輝夜は昨日、どんな服を着たところで人の価値は変わらないと言った。しかし霊夢にいたっては、本人の価値さえも変えてしまうような服を着ているような気がするのだ。それは純粋な衣服のことではない。
もっと曖昧で、不明瞭で、でも確固なもので――。
分からない。言葉が見つからない。
妹紅は視線を霊夢にやった。
いつもは不機嫌そうな顔をしている少女。お煎餅を食べるとうれしがる少女。
そして――
涙を流す少女。
また一昨日のことを思い出す。あのときの霊夢の涙は――。
質問しようかと口を開いたが、また閉じる。訊いてもいいのか線引きがなかなか引けない。
妹紅が煩悶していると――
やにわに強い風が吹いた。
せっかく集めた枯れ葉が舞う。反射的に妹紅は自分の髪を抑えた。
そのとき、霊夢のスカートのすそが少しだけ翻った。
はっと息を飲む。妹紅は驚き、続けて渋面をつくった。
「――なあ、膝を見せてくれないか」
衣服を正していた霊夢は肩を揺らし、次に悔しそうな顔をした。
それでも茶化すように答える。
「なんでよ。そう言って私の下着でも見るつもりなの?」
妹紅は無言で相手の顔を見つめた。霊夢は俯きながら耐えるように歯を食いしばっていた。
根負けしたのは霊夢だった。
「……分かったわよ」
ゆるゆるとスカートのすそを膝の少し上までたくしあげる。
妹紅はそれを認めると、眉間にしわを刻んで苦しそうな顔をした。
霊夢の両膝には白い包帯が巻いてあった。その包帯にはじわりと血が大きくにじんでいる。
まるで赤い斑を持つ白蛇が彼女の足を締めあげているようだった。
「――どうしたんだよ、それ」
霊夢はなにも答えない。俯いたままだった。
妹紅は訊ねたものの、心当たりが一つあった。
「これは、私の想像なんだけど、慧音に退治を依頼された妖怪にやられたんじゃないか?」
相変わらずの無言だったが、彼女はおもむろにスカートのすそを戻した。
「……なあ、もしかして体中傷だらけなのか?」
妹紅は静かに、切々と言葉を相手に投げかける。
前髪がはらりと目を隠していた霊夢は、やがて顔をあげて深くため息をついた。
諦観の色が吐息ににじんでいた。
前を見たまま、
「まったく、包帯代がえらくかかるわ」
と言い、微風にも消えてしまいそうな淡い笑顔を浮かべた。
「ねえ」
「ん」
「一つ、お願い」
霊夢は妹紅を向いた。
「少しだけ寄っかかってもいいかしら? ちょっときつくてね」
妹紅はなにも言わずに横に動いて二人の距離を縮めた。
かたむいて霊夢が相手の左肩にこてんと頭を乗せる。
「ありがとう」
かすかな温かさが肩に伝わる。彼女の髪が左頬をくすぐる。
心がぴりっと痛くなる。
「――あなたと阿求が墓参りに来たとき、私と会ったでしょ?
あのあとね、件の妖怪の巣を見つけたの。意気込んで行ったら、数がびっくりするぐらい多くて、返り討ちに遭っちゃったわ。まさか他の奴らが奇襲してくるとは思わなかったわ。どっか油断してたんでしょうね、私」
おかげでこの有り様――わざと重さをなくして軽い調子にした彼女の言葉が、妹紅の心に小さな切り傷をたくさんつくる。
「あいつら、巣を移したみたいで一昨日は一日中探したけど見つかんなくて。
そんで昨日。やっと発見してもう一回突撃したら、また返り討ち」
当然だ。ぼろぼろな体がそんなすぐに回復するわけがない。コンディションが最悪なままで再戦を迎えたのだろう。
「あなたは運がいいわ。今日もこれからあいつらのねぐらを探しにいかないといけないの。そろそろ出発しようかなってところであなたが来たものだから、入れ違いにならずに済んだわね」
「……なんでそこまでやるんだよ」
「あなたには分からないわ」
心にできた傷から熱いものがこぼれて、それらが言葉になっていく。
「おかしいじゃないか。きつかったら誰かに頼ればいいじゃないか。ちょっとぐらい休んでもいいじゃないか。なのになんでだよ」
「あなたには分からないわ」
霊夢は平らな声でくり返し、それから、
「私は博麗の巫女だもの」
と小さな声で言った。
「なんだよ、そりゃ」
「私は博麗の巫女なの。幻想郷の秩序を守り、この世界のイレギュラーを正す役目を背負ってるの。
だから私は妖怪退治を一人でやりこなさなければいけない」
「分かんないね」
「私は、ここ博麗神社に永住させられ、巫女服以外を着ることは許されない。
化粧だって禁則事項。博麗の巫女はいつだって着飾らぬありのままの姿で行動し、民草の余計な感情をあおってはいけない」
「ますます分かんないね」
「それでもかまわないわ」
霊夢を言葉を発するたびに、彼女の寄っかかった重さはするすると妹紅の体を通り抜けて、自分が誰かを支えているという実感もなくなっていく。
こいつを支えてあげられているという気持ちは私の驕りだったんだ――言い知れぬ悔しさが込みあげてきた。
「博麗の巫女は、いわば幻想郷の大事な歯車なの。潤滑に万事を動かすために絶対必要不可欠な存在。
また――そうね、住民の指標ともいえる。私が依頼の完遂という期待に応えられなければ、この指標は揺らいでしまう。指標がおぼつかなかったら、人々はなにを信じていいのかも分からなくなってしまうでしょ?
それじゃ駄目なの。だから、私はあまねくものに固執しない。固執しちゃ――いけないの」
ゆっくりと霊夢の頭が妹紅から離れていく。かたむいていた体はすっと伸ばされる。
あらゆる意味で均衡を保っていないといけない彼女は、かたむき続けてはいけないのだろう。
妹紅はふと、霊夢の体中が包帯で巻かれている姿を幻視する。
その包帯は想像上で白い蛇へと変じ、いっそう強い力で巻きついて彼女をがんじがらめにする。
それでも霊夢は耐えている。体のいたるところから血がにじもうとも気丈に。
――そうか。
妹紅は合点した。
霊夢に感じた、一般人とは異なるなにかを霊夢は纏っていると思ったが、その正体はたった今幻視した白い蛇だ。
絶対に外すことのできない白い蛇――。
納得するやいなや、今度は急激に頭に熱がのぼった。
「――やっぱり、おかしい」
「無理に理解しなくて結構」
「なんでお前はそんな平然としてるんだよ!」
叫んだせいで喉がひりひりと痛くなる。霊夢は宙を見たまま動かない。それがいっそう腹立たしかった。
もちろん妹紅だって知っている。彼女に怒りをぶつけたところで、なににもならないことぐらい。でも言葉が止まらなかったのだ。
「自分を無味乾燥な歯車にたとえておきながら、どうして落ちついてられるんだよ! お前だって血が通ってるんだろ!?」
「関係ないわ」
「ある! お前は生きてるんだ。冷たい言葉で自分を割り切るな!
お前に夢とかないのか? 憧れとかないのか? やってみたいこととかないのかよ!?」
そこで霊夢が妹紅を睨んだ。悔しそうに口もとをゆがめながら、頬に一滴のしずくがつたいながら。
こいつだって泣くのだ――。
霊夢は小さな手で相手の胸倉をつかみ、もう一粒、涙を流した。
「あんたになにができんのよ! 今、私がここで弱音を吐いたら博麗の巫女の任は解かれるの!? 自由の身になれるの!?
やりたいことだってあるわよ! 私だって――」
すうっと息継ぎをする。彼女の頬の涙はもはや数え切れない。
「――私だっておめかしをしてみたい! 綺麗な洋服を着てみたい! 唇に朱をさして、おしろいなんかもつけてみたいの!
だけど、できやしないの……」
霊夢の怒声は弱くなっていき、後半は涙声になっていった。
妹紅は惚けたように黙り込み、しばし彼女の叫びの余韻に身を沈めていた。
「――ごめん」
やっとのことで絞り出した言葉に自分でも馬鹿らしさを感じる。
霊夢はすっと胸倉をつかんでいた手を離した。ごしごしと拳で顔を拭ってから、
「今の言葉、絶対に秘密だからね」
と照れくさそうに、でもぶっきらぼうに言い放った。赤い目と頬に涙の残滓を見た。
そうか。
こいつは、少女なのだ。
人間離れした力を持ち、浮世離れした役職をになっていても――
こいつは、どうしようもなく人間じみた少女なのだ。
己を捨てようと腐心するばかりに、いっそう愛おしく抱きしめてしまった少女なのだ。
妹紅は気づくと同時に、自己嫌悪におちいった。
二人はしばらく無言を続ける。お互い空になった湯のみを、しかし手に持ったままだった。
後悔を手土産に、妹紅がそろそろ帰ろうをしたとき、空に浮かぶ小さな黒い粒を認めた。
カラスなんかではない。その黒い粒はだんだんとこちらに近づいてきているようだった。
「――魔理沙だわ」
霊夢が空を見ながらぽつりと呟いた。続けて、妹紅を向いて、
「私が妖怪退治を依頼されてるの、あの子には内緒にして」
反論せずにこくりとうなずく。どうせ自分の言葉に意味なぞないのだ。
「どうせ言ったら、魔理沙は私のために首を突っ込む。それでケガでもされたら、私――」
なにも答えぬ妹紅にしっかと言い切った。
「あいつはね、キノコと魔法が大好きで口うるさい――私の大切な奴なの」
そこで、霊夢が今日一番の笑顔を見せた。
妹紅の心にまた一つ、切り傷が増えた。
魔理沙が庭におり立つ。巻き起った風がふわりと落ち葉を舞わせた。
「――よお」
にかっと輝いた笑顔を浮かべ、挨拶をする。が、妹紅を見て首をひねった。
「珍しい奴がいるな」
「ちょっと暇でね」
「そうかそうか。ならゆっくりしていきな」
「ちょっと、魔理沙。ここは私の家なんだけど」
「おお、もちろん存じてるぜ。ここは博麗霊夢さんの家。霧雨魔理沙さんの家だったらこんなことは言わん。なんせ私の家はゆっくりできるスペースなんてないからな」
「あんたまた散らかしたの? この前の大掃除で片づけたでしょうに」
「そうだな。じゃあちょくちょくガラクタを賽銭代わりに持ってくるよ」
自分のとき以上によくしゃべる霊夢に驚いた。呆気にとられながら二人のやり取りを眺める。
美味しそうにお煎餅をかじっている魔理沙に、霊夢はお盆を持ちながら言った。
「せっかく来てくれたところ悪いけど、用事があるから私はここを空けるわよ」
「まじかよ。つれないなー」
ぶーぶーと不満をもらしているうちに、霊夢は障子を開けて本社のなかに入っていった。
お煎餅を食べおえた魔理沙は、妹紅をまじまじと見ながら言った。
「ほんと、珍しい来客だな」
「そうだろうね」
「霊夢とお前がなにを話すのかなんて、皆目見当もつかんな」
「私も来る前に見当もつかなかった」
「なにを話したんだ? たがいの頭に乗った大きなリボンの話か?」
「違うわ」
妹紅はそこで少し言葉を濁し、すぐにおどけるように言った。
「まあ、あれだ、しゃべる三毛猫の話だな」
「なんだそりゃ」と魔理沙が笑う――ことはなかった。むしろ、
「ああ、あいつのことか」
とこともなげに相槌を打った。
妹紅は予想外のことに慌てる。
「し、知ってるのか?」
「ああ、ちょっとな。あっ、これは口止めされてるんだっけ。……まあ、自分の存在を他言するなって言ってただけだし、あいつの存在を知ってる奴には隠さなくてもいいか」
ひとりでに納得する魔理沙に、妹紅は詰め寄った。
「なんか話したのか?」
「まあな」
「どんな内容だ?」
「うーん、会話、というよりは『お願い』をあいつにされたな」
「お願い?」
「そう。しかも奇天烈なお願いだ。
面白そうだから乗ったけど、あまりにも突拍子もなくて、魔法使い仲間に訊いたり、紅魔館の図書館に行ったりと大変だったよ」
妹紅の頭のなかに三毛猫が浮かぶ。あいつが、魔法使いに願うこと――?
一体、なんだ?
「なあ、教えてくれよ」
「いいぜ」
魔理沙はしかつめらしい顔で、もったいぶりながら言葉を続けた。
「それが――」
◆ ◆ ◆
それが、そもそもの間違いだったのです。
博麗の巫女様につき添いを頼んだことが、そもそもの間違いだったのです。
――いや。
この悲劇の原因は、もっと根っこの部分なのでしょう。
つまり、私が生まれたこと。
不十分な阿礼乙女の誕生。
そうだ、分かり切っていたことではないですか。
私は忌むべきことに気づいていながら、さも羊水に浸る胎児のように安穏な日々に身を沈めていたのです。
外道という言葉さえ生ぬるい。
しかしたった今、私の目は覚めて、睡余の思考は妥当な答えをはじき出しました。
すなわち――
ごめんね、ミケ。
このような人非人があなたを拾ってしまったことを、ただ詫びるばかりです。
あなたは私を怨むのでしょう。捨てられた理由も分からず途方に暮れ、それでも心のうちでたぎる黒い感情を死ぬまで抱えるのでしょう。
でもね、いつの日か――絶対に来ないでしょうけど、いつの日か、私の本心に気づいてくれたらうれしいと、道理の通らぬ希望をいだいてしまうのです。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
そして、さようなら。
私は最後まで、あなたのことが――
◆ ◆ ◆
博麗神社をあとにし、人里で昼食を取っているうちに空模様は怪しくなっていき、阿求の家を訪ねたときには綿埃をすき間なく敷き詰めたような曇天になっていた。
空気が冷え切っている。雨ではなく、雪が降るかもしれない。
立派な門をたたくと女中が出てきた。阿求に会いたいと用件を伝えたら、しばらくしたのに客室に通された。
客室の広さは十六畳あり、妹紅は自分の家と鑑みてたいそう驚いた。そこで、廊下を歩いていたら襖がいくつも見たことを思い出す。自分と阿求の違いを形でもって認識した瞬間であった。
出されたお茶をすすっていると、襖が開いて、
「――お待たせしてしまい、すみません」
と、なかに入ってきた阿求が折り目正しくお辞儀をした。
彼女は端正な動きで妹紅の対座に落ちつき、ふたたび頭をさげた。
「先日はどうもお世話になりました」
「いやいや、気にしないでくれよ」
かしこまられて、胡坐をかいていた妹紅がいそいそと正座をする。
そして、阿求は相変わらずの人当たりのよさそうな笑みを浮かべながら、
「ときに、本日はどういったご用件で?」
と訊ねた。
妹紅はためらいながらも言った。
「あー、えーとさ、もしかしたら長話になるかもしれなくてさ――まあ言い切れないんだけど――だから、時間は大丈夫か?」
「ええ、もちろん。私は人一倍寿命が短いくせに、人並み以上に暇な時間が多いのです。なのでお客様はいつだって大歓迎ですよ」
「幻想郷縁起の編纂とかいろいろあるんじゃないか?」
「もう大方できていまして。それに取材などはあるものの、この仕事は時間に縛られることはほとんどないんです」
妹紅は「分かった」と相槌を打ち、それから顔に浮かべた笑みを薄めた。
本当は言及するつもりなどなかった。だけど、博麗神社で魔理沙の話を聞いて訊ねたくなったのだ。
「そうだな、まず本題に入る前に確認させてくれ」
「どうぞどうぞ」
妹紅はすうと相手の顔を見すえる。
「私たちは、三日前の墓参り以前に、会ったことがあるか?」
ぴくりと阿求の眉が動いた。しかしすぐに愛想のいい笑みでそれも隠される。
「ないですよ。あのときが初めてです」
「……そうか。その言葉を聞いて自信が持てた。
実はな、私は四日前に人里に行ったんだ。そんときにどうやら私は誰かにあとをつけられていたらしい。
――その追跡者は、阿求、お前じゃないのか?」
妹紅の言葉は放たれると同時、まったくの余韻を残さず部屋のなかに消えていった。
阿求は笑みをくずさずに答える。
「正解か不正解かはのちに分かること。今はとりあえず、根拠を聞かせてください」
「ああ。証拠は持ってきているんだ」
妹紅は仰々しくない自然の仕草で、かたわらに畳んでいた手袋とマフラーをテーブルの上においた。
さすがに阿求も動揺して笑みが揺らいだ。
「――手袋とマフラー、ですか?」
「そうだ。これらとお前の発言を鑑みると分かるんだ」
「ではおっしゃってみてください」
足が痺れてきたので胡坐をかいた。小さく息を吸う。
「墓参りのときだ。あのとき、お前は私のマフラーと手袋が同じ柄――オレンジに白のストライプだと言った。もちろん覚えてるよな」
「当然です。むしろ交わした会話、一語一句違えずそらんじることだってできます」
「さすがだな。――お前はきっとなんとなしに言ったその発言は、その実おかしなことなんだ」
「なぜでしょう? 私の目は節穴ではないので、ちゃんと見えますよ」
「見えていたなら、お前の目は節穴どころかもっと異常だよ。
墓参りの行きのとき、私は、お前が来る前から柄を言及されれるまで――手袋をポケットに入れてたんだ」
あっ、と阿求が声をもらす。塗ったような笑顔が消え、今は苦い表情をしていた。
当たり前のことだ。本来はポケットにしまった手袋の柄を当てられたなら、それは透視をしたか、はたまた一度見たことがあるかのどっちかである。
阿礼乙女には求聞持の能力はあるものの、透視はできまい。ならば理由はただ一つ――。
「確かに手首の部分はのぞいていただろう。でもさ、私の手袋、手のひらから白のボーダーが入ってるんだ。なのにお前はマフラーと柄が一緒だと言ったわけだ。考えられる理由は――墓参り以前、お前は私を見たことがある」
ここまで来ると妹紅の口は止まらなかった。阿求はいつの間にかつくりものでない諦観の笑みをたたえていた。
「じゃあ、お前が私を――いや、この手袋を見たのはいつか。
実はこれは最近、私の友達からもらったものなんだ。もらってからある一日を除いて、墓参りまで私はずっと家にいた。阿求が迷いの竹林を訪れるというのは考えられないから、その一日に手袋を見たんだと思う。
その日は、墓参りの前日――人里を訪れた日だ」
妹紅はそこでテーブルの上の手袋とマフラーを自分の横におく。
「なのにお前は墓参り以前に会ったことはないと言った。でも前日に会っていなきゃ説明ができない。
私はこう考える。これは、前日に言えないような後ろめたい形で私と会っていたんじゃないかと」
それがつまり、追跡という形なんじゃないか?――最後は疑問形にして、妹紅は自分の推理を結んだ。
はあと息を吐いてからお茶を飲み干す。久しぶりに長々としゃべったせいで喉がひどく乾いた。
湯のみをテーブルの上に戻して、もう一度息を吐いた。
「と、まあ、まどろっこしい説明をさせてもらったけど、私はこの推論が合ってると胸を張れるわけじゃない。違うなら違うって言ってくれ。人をいやしめたんだ、頭をさげて詫びさせてもらう」
「――その必要はありません」
答えると同時、阿求は無駄のない動きで妹紅の湯のみにお茶を注いだ。そして、
「妹紅さんの推測どおりです。あなたのあとをつけたのは私です。すみませんでした」
と頭をさげながら詫びた。妹紅は慌てながらたしなめる。
「いや、別にいいって」
追跡されただけでこちらには物理的にも精神的にも実害はなかったのだ。だから気にしないでほしかった。
やっとのことで頭をあげた阿求は、小さな声で「すみません」とふたたび謝った。
「いいって。迷惑かけられたわけじゃないし」
だけど――妹紅はばつの悪そうに続けた。
「なんでついてきたのかは、気になる、かな」
「それがですね――」
阿求の歯切れが悪くなる。
喉もとまで言葉はせりあがっているのに、その正当性にはなはだ疑問を抱いているような雰囲気だった。
どうしたのだろう。
妹紅は釈然としないものを感じる。
苦い顔をしていた阿求が、観念したように言った。
「実は――私も理由が分からないのです」
「へっ?」
どういうことだ、それは。体を誰かに乗っ取られたとでも言うのか。
しかし、相手の本気で困っている顔を見ると、どうやら冗談ではないらしい。
「私にも分かりません。でも、たまたま妹紅さんの隣の三毛猫を見つけたら、なぜか体が動いていて、ずっとついていってしまって。途中で妹紅さんと三毛猫が路地裏に消えていったところではっとなって、帰ったんです」
「……もしかして、『三毛猫』というものに懐かしさを感じるのか?」
「どうでしょう、上手く言えません。でも三毛猫を見たとき、心がじくじく痛くなり、でも痛む心をあったかいものが包みまして。とにかく目が離せなくなってしまったのです」
そうか――。
今日魔理沙に会って、阿求が前世のことがどこまで覚えているのかが気になったのだ。
三毛猫のことを覚えているのかが心配になったのだ。
だけどこの話を聞いて分かった。彼女は、覚えていない。曖昧な感情しか思い出せていないんだ。
報われないと一言で片づけるのは楽だけど、それこそあいつへの冒涜だ。
「――どんなことなら覚えてるんだ?」
気がついたら質問していて驚いた。どうやら自分は彼女の記憶のかけらをかき集めようとしているらしい。
往生際が悪いな。
阿求は少し俯き、目鼻に拭えぬような陰を落とした。
「幻想郷縁起に関わること。そして阿弥の代の、博麗の巫女についてです」
――三十四代目の博麗の巫女は、私が殺したのです。
墓場で言われた台詞を思い返す。あのときは踏み込んでいいのか線引きが引けなかった。
だけど――
「すまないが、覚えていることを教えてくれないか? なんでもいいんだ。もちろん苦しいなら無理をしなくてもいい」
今はためらうことなく踏み込める。
しばらく間を空けたのち、
「分かりました」
と阿求がうなずき、妹紅をしっかと見つめた。
空気がきりりと引き締まった気がした。
お茶で喉を湿らせた彼女は、口を開く。
「――阿弥は、一人ぼっちだったのです。人に囲まれながらも、常に孤独だったのでした。
彼女はみなから嫌われていて、自分の立っている居場所が分かりませんでした。そして自分自身でも嫌ってしまったせいで、立っていることさえできなかった」
前世の自分を『彼女』と呼称することに少し驚く。
どうやら『阿求』と『阿弥』の自己は異なっているらしい。
「歴代の阿礼乙女と鑑みても八代目は異端でした。だから――」
「なあ、前から思っていたんだが、阿弥はどういう人物だったんだ? 他の奴もあいつは変わってるって言っているんだが、そんなにおかしかったのか?」
三毛猫も彼女は普通の人とは違うと言っていた。
阿求は困惑の色を浮かべる。
「知らないのですか?」
「全然知らないんだ。恥ずかしい話、阿礼乙女という存在の詳細は最近慧音に教えてもらったばかりだ」
「妹紅さんはずっと生きていたんですよね? その、阿弥の代から」
「そうだな。でも人里にかかわり始めたのは半月前ぐらいの永夜異変のあとからだ。それまでは迷いの竹林にこもるように生きててね。
歴史自体に興味もなくて、慧音から人里の昔話なんかも聞いてないんだ」
百年ぐらい前の話だ。妹紅は迷いの竹林で長々と自給自足の生活をし、人里はおろか、幻想郷ともかかわりを持っていなかったといっても過言ではない。
人里を訪れた回数など片手で足りてしまうほどの出不精――というより、もはや病的なまでに内向的であった。
面倒くさいと思ったのだ。人と縁を持ったところで、なにになるのだと真剣に分からなかった。
なにせ自分は永遠を生きる蓬莱人。相手は絶対に寿命で死んでしまう。そんな刹那的な関係など、悲しいだけじゃないか。
しかしひょんなことから慧音とかかわって、外というものを知っていった。
そのころにはすでに阿弥は死んでおり、慧音は思うところがあったのか彼女の話題は話さなかった。妹紅も興味がなかったので訊ねなかった。
そして、変わらぬ状態で現在にいたる。
なので阿求の話す阿弥がどういった人物かはまったく分からないのだ。
阿求は「そうなのですね」と小さく言ってから、「了解しました、彼女のそれを話しましょう」と続けた。
「阿礼乙女というのは爾来、体が弱いのです。だから病弱なのは阿弥も変わりません。
しかし生まれて間もないころ、阿弥は病気で大切なあるものを失いました」
悲しげな視線で妹紅を見やる阿求は、右手の人さし指で耳をさした。
「そ、それって――」
「そうです。稗田阿弥は――耳がまったく聞こえなかったのです。聾者と呼ばれる障害者でした」
返す言葉が見つからない。出かかるものの、すんでのところで声にならない。
押し入れにしまったレコードが頭をよぎる。三毛猫がずっと聴いていたもの。
あいつは、曲を主人と一緒に聴いたことがなかったのだ。
共有、できていなかった――。
妹紅の頭のなかでレコードを預けたいと言ったときの三毛猫の声が、壊れた蓄音機のようにリフレインした。
「この欠陥が彼女を不幸たらしめた原因です。
もっとも致命的だったのが、阿弥の仕事に多大な支障をもたらしたことでした。幻想郷縁起の編纂のための取材は一人ではできませんでした」
そこでつき添いとして、博麗の巫女が選ばれたのです――阿求は懺悔するように言った。
湯のみのお茶はとうに熱を失っている。
「妖怪たちと会話するときは彼女を仲介しました。とても手間がかかったというのに、博麗の巫女はいつだって嫌な顔をせずに手伝ってくれた。
――そして阿弥は、取材が終わるたびに自宅で手首を切りました」
妹紅が眉をくもらせる。なんと答えていいのか分からない。
「阿礼乙女は幻想郷縁起を執筆するためにこの世に生を受け、生きるのです。閻魔様のもとで百年近く準備して、生まれ変わったら幻想郷のために働くのです。このことは知っていますよね?
それが、絶対の使命。
されど阿弥はこの使命は満足にこなすことができなかった。いつだって人の手を煩わせる。一人じゃできやしない
彼女は自分の生きている意味を見失っていました。だから手首を切ったのです。己の真っ黒なぐちゃぐちゃの気持ちをそこに刻み込むように」
「使命、か……」
ぽつりと呟くと、さっき会った霊夢の顔が浮かんだ。
博麗の巫女。幻想郷のバランサー。
今日、泣いていた少女。
そうか、幻想郷で使命をになうというのはそういうことなのか。
「苦しみながらも生き続けた彼女は、しかし大きな契機を迎えました。それが、博麗の巫女の死です。
その日もいつもどおりに二人で取材に行き、終えたあとの帰り道に悲劇は起こりました。
獣じみた妖怪に囲まれてしまったのです。博麗の巫女は強かったけど、いかんせん数が多かった。彼女は必死に戦ってくれましたが駄目だった。どうやら里の人々が助けに来てくれたらしくて、阿弥は重傷を負いつつも助かりました。だけど――」
声を震わせて、阿求は黙り込む。俯いているが歯を食いしばっている口は見えた。
「阿弥は後日、幻想郷縁起を編纂しおえた次の日に命を絶ちました。手首を切るんじゃない。喉もとに小刀を突き立てたのです。
でも罪の意識は私の代にも消えないのです。腕を半分食いちぎられようと全身を鮮血で染めようとも戦うことをやめなかったあの人の姿が、いつでも浮かぶのです。
だから、博麗の巫女は前世の私が殺したのです」
阿弥のことを彼女と呼称していた阿求は、しかし殺した人物だけ『前世の私』と言った。
小さな肩を震わせる彼女を見ていると、自分と相手のあいだのテーブルがどんどん広がって、言葉を発しようとも手を伸ばそうとも届きやしない、という諦めを感じた。
壁時計の無機質な秒針の音にいら立ちを覚える。
「――話を聞いてすまなかった」
「いいのです。勝手にしゃべり出したのは私だったのですから」
違う。三毛猫のためといえ、不躾に話を振ったのはこちらなのだ。
何度も謝罪をしてから、妹紅は立ちあがった。
「じゃあ、お暇させてもらう」
「では見送ります」
「いいよ」
「遠慮なさらず」
そう言うと、阿求も立って妹紅の先導を始めた。もう一度謝ってからあとに続く。
広い屋敷。長い廊下。
似たような景色を見続けていると、幻術にとらわれているような心持ちになって不安定な気分に拍車がかかる。
玄関にたどり着き、靴を履いていると阿求が言った。
「――でも、おかしいとは思うんです」
なにがだ?――マフラーを首に巻きながら妹紅が訊ねる。
「手首を切るというのは、擬似的な死を経験してその場しのぎで心の安穏を得る、いわば精神薬みたいなものなんです。
だけどこの薬は劇薬で、心への負担も大きい。こんなものだけに数十年も頼っていたらもっと早く命を絶ってもおかしくはないと思うのです」
「つまり、どういうことだ?」
手袋をはめている妹紅に、いつもどおりの笑みを浮かべた阿求が答えた。
「つまりですね、他にも私の心を支えてくれたものがあるじゃないか、ということです。記憶にはありませんが。
もっと温かくて、死ぬことがためらえるほどの幸せな時間が、阿弥にもあったのではないか、とときおり考えるんです」
そこで阿求は少し照れくさそうに目を伏せた。
「おかしいですよね、こんなの」
「……あったんだよ」
「えっ?」
妹紅は相手に背を向けたまま続ける。
顔を見たら泣いてしまいそうだったのだ。
「きっと、そんな時間があったんだ。それだけじゃない。阿弥のことが好きでたまらなかった奴もいたんだよ」
「いませんよ、そんな人」
「いるんだ。長いあいだ悲しんで苦しんで、それでも歌を口ずさむ奴がな」
「歌……」
阿求の声色が変わる。そして「関係あるか分かりませんけど」と前おきをしてから、彼女はおずおずと言葉をつむいだ。
「笑わないでくださいね。私、ある頼み事をしたのを覚えてるんです。誰に言ったかは分からないけど」
「どんな頼みだ?」
「変な内容なんですけど。
――歌を聴かせてほしい、と伝えた気がするんです。
歌というのもなんだか分かりません。相手も思い出せないんですけど。――やっぱり、おかしいですよね」
「――叶うといいな、それ」
妹紅はそれだけ答えると、「お邪魔しました」と言って玄関を開けた。
雪が、降っていた。
しんしんと静かに、しかしたくさん降っている。
幻想郷にばら撒かれる真っ白い結晶を妹紅は無感動に見つめた。
「はい」と後ろの阿求が番傘を渡してきた。
「いいよ」
「駄目です。風邪を引いてしまいます」
しぶしぶ受け取ってからお礼を述べ、妹紅は歩き出した。
最後に見た阿求は笑っていた。
番傘をさしながら道を行く。
人里は雪のなかでも賑やかさを忘れていない。
頭のなかに浮かぶのは、三毛猫と、霊夢と、阿求と、そして顔も知らぬ阿弥。
くらりと目が回った。
妹紅は番傘を強くにぎりながら雪に祈った。
幻想郷に深く積もってくれ。どこに目をやってもただ白一色しか存在しない世界にしてくれ。
そうすれば、こんな気持ちにならないで済むんだ。
冷たい雪は、降りしきる。
◆ ◆ ◆
「えー」と輝夜が唇をとがらした。続けて「つまんないわ」と文句を垂れながら妹紅を睨みつける。
「私に不平を言ってもしょうがないじゃないか」
「あなたがかぐもこに愛を注がないばかりに、あの子は拗ねてしまったのだわ。どうせ私に見ていないあいだに、猫背を直せとか無茶な注文もしたのでしょ」
「違うわい」
「じゃあ、どうして今日もいないのよ」
そこで妹紅は言葉を詰まらせ、ふんと鼻を鳴らしたあとに「知るか」と言った。
三毛猫は昨日に続き、今日も帰ってこなかった。雪が降っていたからふらりと帰ってくるものだと思っていたのだが――。
輝夜は今日とて朝に来訪し、面白くなさそうな顔でごろりと横になっている。
三毛猫以上にふてぶてしい奴である。
「最近触ってないなあ。あのもふもふした体を撫で回さなきゃ、私の朝は始まらないというのに」
「一生始まらなくていい。ずっと昨日を引きずっていろ」
妹紅が答えると、輝夜は上体を起こして不満そうな顔で見た。
「あなた、ずっとずっと不機嫌面してる。私が来たときから。まだ今日は妹紅の笑顔を私は見ていないわ」
「いつものことだろ」
「ううん」
輝夜は首を横に振ると、自分のほっぺたを両手で引っ張り「今のあなたはこんな顔してるの」と言った。
おたふく風邪をこじらせたような顔である。
「してない」とぶっきらぼうに答えると、輝夜が妹紅の頬目がけて手を伸ばしてきた。
「事実を歪曲するな」
がしりと相手の腕をつかみ阻止する。くっと輝夜が悔しそうに息をもらした。
「もう、ほんとにつまんない」
「頬を引っ張られるぐらいなら、つまらなくて結構」
「いつまでふて腐れてるのよ」
妹紅は気色ばみ「ふて腐れてなんかいない」と語勢を荒げた。
「いいえ、あなたは子供のようにへそを曲げてるだけ」
「だから違う――」
「認めなさい。どうせ私の知りえないなにかにまた頭を悩ませてるのでしょう。万事か解決する方法を考えながらも、見つからなくていら立ってるだけなんでしょう」
「……解決策を探してるわけじゃない」
小さな声で返し、妹紅は肩を落とした。ぎゅっと膝の上の拳をにぎる。
「ただ、疲れただけなんだ」
ぽつりぽつりと言葉をこぼす。
なにかしたいなんて大層な志は掲げていない。だって、なにもできないことぐらい知っているから。
自分にできることなど、ないのだ。
「私は、ただの傍観者にしかなれない」
「……そう」
輝夜は一言だけ呟くと、感情の読み取れない顔つきですっくと立ちあがった。
「そろそろ帰るわね」
「ああ」
「実は、鈴仙だけじゃなくててゐも体調くずしちゃってね。二人ともインフルエンザになっちゃたみたいなの。だから家のことを永琳一人に任せるにはいかないのよ」
「困ったわ」と平らな声で言うものだから、本心なのか判断がつかない。
妹紅が無反応でいると、彼女は、
「あら、見送りぐらいしてちょうだいな」
と続けた。
ゆっくりと立って、廊下を行く輝夜の後ろを歩いた。
さらりと揺れる黒髪を見ていたら、自分はまだ髪を梳かしていないことを思い出した。
玄関についた輝夜はしゃがんで靴を履いている。妹紅は下駄箱に引っかかった借りものの番傘をぼんやりと眺めた。
「――私ね、ずっと思ってることがあるの」
妹紅はかがんでいる輝夜の後ろ姿を見やった。
「私と長いつき合いの、藤原妹紅という人物は、要領も悪くて上手く立ち回れないし、そのくせ他者に感情移入をしやすいどうしようもない奴で。一言で表すなら、お馬鹿さんてことね」
一瞬頭に血がのぼったが、すぐに冷めて悄然とする。
靴を履きおわった輝夜は腰をあげて、くるりと振り返った。
満面の笑みをたたえていた。まるであまねく問題の解決策を知っているような清々しさだった。
後ろ手を組みながら上目づかいで歯を見せる。
「でもね私は、あなたみたいなお馬鹿さんが、難局でも惚れちゃうぐらいカッコいいことをしでかしてくれると信じてるの」
呆然としている妹紅をよそに、輝夜はすぐに顧みて、「じゃあまた今度」と言って戸を開けた。
外は白銀の世界に染まっていた。だが彼女は外に出て戸を閉めたので、白い世界は視界から消えた。
しばし立ちつくす妹紅。輝夜の笑顔と雪の白さが瞳に焼きついて離れない。
もう一度下駄箱のほうを見、それから居間へと戻っていった。
ふうと息を吐き、廊下を歩く。
――番傘、返しに行かなくちゃな。
居間には、輝夜の残り香がただよっていた。
太陽が西に大きくかたむき始めたころ、阿求に番傘を返そうと思い家を訪ねたが、彼女は不在ということで女中に渡しておいた。
途端に用事のなくなった妹紅は、昼食がまだだったことを思い出してたまたま目に入った茶屋に寄った。
外に据えてある長椅子の腰かけながら、注文した品が来るまで人里を眺める。
大通りの雪は路傍に寄せられていて、人が歩けるようになっていた。頭にはちまきを巻いた壮齢の男たちがスコップを携えて雪をかいたり、屋根の上で雪おろしをしている。
みな、寒いさむいとひとりごちたり友と歓談しながら往来を行く。店主と主婦は豪雪を話のネタに語り合っている。寒さに顔を赤くした子供たちはせっせと雪だるまをつくっている。
いつもどおり賑やかだ――妹紅は湯のみに口をつけた。冷えた体が奥のほうからあったまる。
頼んだ団子やら饅頭がやってきて、もそもそと口に運び始めたとき、
「――店主、私にもお茶と饅頭を頼む」
と言いながら誰かが隣に座った。「もう帰ってきたのか」
ちらりと横を見てから、ここは私の家じゃないと妹紅はため息を吐いた。面白くない冗談だ。
話を変えて訊ねる。
「雪かきか?」
「ああ。自警団と一緒にな」
「お前と同じはちまきを巻いているあの男たちのことか」
「そうだ」
隣の女性――慧音は、『自警団』と書かれたはちまきを外して首にかかっているタオルで額を拭いた。
こんな寒いなかで汗をかいている人間もいるのかと驚く。
「今日一日やってたのか?」
「まあな。朝からずっとスコップを振っているもんだからさすがに疲れたよ。
なあ、私汗くさくないか?」
「お前もそういうの気にするんだな」
「失敬な! 私だって女性だ、身なりには気を使っている」
慧音の顔をまじまじと見てみると、なるほど確かにうっすらと化粧がしてあった。
ふんと拗ねてそっぽを向く彼女は、しかし大福が来ると同時に顔をほころばせる。
頬を上気させながらかぶりついた。
「いやー、うまい。疲れてるときに食べる甘いものはやっぱりいいな」
「口の横に餡子ついてるぞ。それも化粧か?」
「ほ、ほっといてくれ」
頬に朱をさした慧音は慌ててお手拭きで口のまわりを拭った。
妹紅はみたらし団子を一つかじってゆっくりと噛む。甘しょっぱい味が口になかに広がる。
お茶を一口すする。濃い味で苦みの薄い緑茶。
博麗神社で飲んだものとは正反対である。
「……あのさ、やっぱり女性っていうのは化粧をしたいものなのかな」
「はあっ? お前も女性だろうに。質問がおかしいぞ」
「私は、もとよりそういうのに興味がないからさ。どうなんだ?」
慧音は胡乱な目つきでしばらく妹紅を見てから、とつとつと語った。
「みながみな、とはもちろん言い切れない。お前みたいな奴もいるだろうし。
しかし、人里の住人で妙齢の女性はほとんどが化粧をしているな」
「慧音も、おめかしをしたいと思ったか?」
「さっきも言ったが、私だって女性だ。その、なんだ、願望は、む、昔からあったさ」
照れくさそうに頬をかいている。そして「笑いたきゃ笑え」とやけっぱちに言い捨てた。
――私だっておめかしをしてみたい!
ぐっと拳をにぎると、肩に乗った彼女の体温がよみがえってきた。
まったくもって笑えやしない。
「そうか、教えてくれてありがとう」
「お礼を言うほどじゃないだろ。大げさだな」
大福の残りを口に入れてから、お茶を飲み干した慧音は伸びをした。
「さて、そろそろ雪かきに戻るか」
「忙しいんだな。無理するなよ」
「ありがとう。妹紅も今日はありがとうな」
「ありがとうって――お礼を言われるようなことはなにもしていないぞ」
「おいおい、謙遜するなよ」
「また世話になったな」と喜色を浮かべながら妹紅を向いてくる。
ぞわりと背中の鳥肌が立った。
怪訝な顔の妹紅を見ているうちに、慧音も次第に眉をひそめ始めた。
「なあ慧音、お前はなんの話をしているんだ?」
「……本気で言っているのか?」
「冗談なんかじゃない」
二人が唾をごくりと飲み込む。
「今日、お前は――阿求が、阿弥の墓参りに行くのをつき添ったんじゃないのか?」
耳もとで聞こえるドアをたたくような低い音。遅れてこれが自分の鼓動の音だと気づいた。
胸がどんどん苦しくなっていく。
「そんなことしていない。私は迷いの竹林から阿求の家を訪ねて、そのままこの店に来たんだ」
「だ、だって、数十分前に阿求を人里で見つけたからどうしたんだと訊いたら、先代の阿礼乙女の命日だから墓参りに行くって。
それでついていこうかと言ったら、妹紅さんに頼んであるので大丈夫ですと答えて――」
ふわりと体から感覚が消える。人里の喧騒が耳に届かない。
無音の世界に閉じ込められているようだ。
――いや、違う。
動揺で聴覚が鈍くなったんじゃない。本当に、この世界が静かになったんだ。
往来を行く人々は足を止めて一点を見ている。路傍で立ち話をしていた人々は口を半開きにして一点を見ている。
隣の慧音はみなの視線の先に目をやり――血相を変えた。
「なにがあった!」
彼女の怒声に似た声がとどろき、妹紅はひるむ。
慧音は立ちあがり、駆けていった。
ゆっくりと――さっきまでの穏やかな空気に長く浸れるようにゆっくりと、その方向に顔を向けた。
なんだ、おかしくないじゃないか。
博麗霊夢が歩いているだけじゃないか。
よたよたと歩を進めているだけじゃないか。
ぼろぼろな体を血で染めているだけじゃないか。
真っ赤で、真っ赤で真っ赤でまっ赤でまっかで――。
妹紅はいつの間にか霊夢へ走っていた。
慧音が彼女を抱きとめている。
近づいてみると鼻をおおいたくなるような濃厚な血の臭いがした。
服は破れてやぶれて、その下の白いはずの包帯が露わになっている。だけど髪も頭も腕も胸も腹も足も真っ赤で、その色以外を見つけることなんてできなかった。
「どうした!」
慧音は霊夢をがっしりと抱きながら、叫ぶ。彼女の青のワンピースまでもが血で赤くなっていく。
霊夢の双眸は乱れた髪で隠されていて表情はうかがえないが、口はかすかに動き続けていた。
妹紅は馬鹿みたいに立ちつくすばかりであった。
「―――――――――」
蚊の羽音にもかき消されてしまうような声量で、霊夢がなにかを言う。
慧音が耳を近づける。
もう一度彼女が小さく呟くと、聞き取れたらしく慧音が目を剥いた。
「霊夢はなんて言ったんだ!?」
訊くと、慧音は血の気のうせた顔を妹紅に向けた。
ごうごうと音が鳴る。
死者たちの声だ。
いや、違う。ここは人里だ。墓場じゃない。
だけど、耳には確かに死者たちの慟哭が響いている。
なんで?
ここは、どこだ――?
「――阿求が、妖怪に攫われた」
◆ ◆ ◆
慧音を含む自警団が、幻想郷の地図が乗ったテーブルを囲んでいる。時間がなかったため、大通りのすみに長テーブルをこしらえて作戦を練っていた。
妹紅は視線を自警団から周囲へと転じた。
みんな心配そうな、または不安そうな顔で慧音のグループを見つめている。ひそひそと耳打ちで会話し合う人々が幾ばくか、残りは口を一文字に結んでいる。
いつもの賑やかさはどこにもない。住民たちの鼓動の音や唾を飲み込む音まで聞こえてきそうなほど静かである。
西日が人里を真っ赤に焼くから、どこを見ても血の色しかない。
妹紅は逃げるように目をつむってベンチに腰かけた。
霊夢は満身創痍のまま、阿求が攫われるまでの経緯を語った。単語を並べただけのような証言だったので理解するのには時間がかかった。
どうやら今日も霊夢は妖怪の巣を探していたらしい。飛びながら当てどなく幻想郷をさまよっていたとのこと。
そして彼女は『東の森』と呼ばれる、阿求と墓参りの道中で妹紅が見た森に踏み込んだ。その森を抜けたところに歴代の稗田の墓があるとは慧音の言である。
霊夢は森のなかで、阿求を見つけた。ちょうど数匹のあの鳥妖怪に囲まれている彼女を。
もちろん霊夢は助けに入った。
絶不調といえどもそこは博麗の巫女。みるみるうちに相手を圧倒し追い払うことに成功した――
と思えたとき、不運にも妖怪に増援が来てしまった。しかも今度は二十近くいたらしい。
きっと普段ならそれでも勝てたのだろうが、いかんせん彼女は体中の傷が癒えぬ身だった。優勢は一転して劣勢になった。
それでも戦った。阿求を守るために。
博麗の巫女であるために。
されど健闘空しく、霊夢は負けた。薄れる意識で最後に見たのは攫われた阿求だった。
気がついたら妖怪たちは消えていたという。
あとを追うことは叶わない。ならば人里に助けを呼ぼうと、ぼろぼろの体を引きずるようにしてやってきたのだった。
妹紅は目を開ける。眼前の残雪は西日の赤に白さを奪われていた。
時間がない。いや、もしかしたら――
なにもできぬ傍観者のくせに、妹紅は気がついたら立ちあがっていた。
「――じゃあ、行くぞ!」
慧音が声をあげ、続いて自警団が動き出した。男たちはなにかしらの得物を携えている。
遠くの彼女たちに近づこうと通りを横切っていると、誰かが自分の隣で足を止めた。そちらに目をやる。
「――寝てなきゃ、駄目じゃないか」
妹紅は努めて感情のこもらぬ声で言う。「ケガ人は休んでおけよ」
霊夢が、血だらけの身なりで足を一歩前に出した。
「ベッド抜け出しやがって。さっさと帰れよ」
もう一歩を踏み出す。妹紅は彼女の体を抱きとめた。
喜怒哀楽の剥がれ落ちた声で続ける。
「言うこと聞けって。今行ったところでお前は役に立ちやしない」
「――退治、しない、と。阿求を、助けなきゃ」
「気にすんなって。今から自警団の奴らが行くから、お前が無理することはない」
「博麗の、巫女、なの、私は。だから、行くの」
霊夢は苦しそうに息をしながら、言葉をつむぐ。たらりと一筋の血が口端から垂れる。
妹紅は腕に力を込めた。
「いいんだ。休め」
「博麗の、巫女、なの」
「言うこと聞け」
「博麗、の、巫女」
「もうしゃべるな」
「博麗、巫女」
「しゃべるな!」
無意識に叫んでいた。
つくろえない。心の切り傷からだらだらと感情がこぼれてきて、それが瞳から出ると涙になった。
「なにも、言わないでくれ……」
誰か。
誰かこいつを、ただの少女にしてくれよ――。
横から手が伸びてきて、その手は霊夢の頭に優しくおかれた。
「――すまない、霊夢。私がお前に妖怪退治を依頼したばかりに」
血で固まった髪を梳くように撫でる。そして、
「今は、ゆっくり眠れ」
と慧音が子守唄を歌うような声で言った。
手のうちが少し光ったあと、霊夢は途端に脱力した。
慧音は妹紅の手から霊夢を引き寄せておんぶする。
「な、なあ、なにをしたんだよ?」
「慌てるな、死んだわけじゃない。ただ、霊夢から博麗の巫女になった歴史を一時的に隠しただけだ」
そう言うと、慈愛に満ちた顔をしていた彼女は表情を引きしめて、
「すぐに追いつくから、お前たちは先に行っていろ。私は霊夢を診療所に戻してから行く」
と自警団に声をあげて伝えた。男たちは返事をしてから南門に向かって駆けていく。
慧音はふうと息を吐き、「じゃあな、妹紅」と言い残して診療所へと入っていった。
ぽつねんと立ちつくす妹紅。人々も、表情をくもらせながらも各々の帰路につき始めた。店主もそそくさと閉める準備をする。
ありがとう。
胸中で慧音に言い忘れた礼を呟き、おもむろに自警団とは正反対の方向へ歩き出した。
これでいいんだ――噛んで含めるように妹紅は口のなかで同じ言葉をくり返す。これでいいんだ。
ゆっくりと動いていた足は徐々に速くなっていく。これでいいんだと呟くたびにスピードがあがる。
気がつけば、自分の後ろについてくる黒い影を振り切るように走っていた。
妹紅は断言できた。もしここが人里じゃなかったら――誰もいない場所だったら、私はむせび泣いていた、と。
石につまずき、転んで倒れる。だがすぐに立ちあがり疾走を再開する。走っていなければ自分がどうにかなってしまいそうだったのだ。
北門が見えてきて、そこを抜けたあたりで自分がひどく疲れていることに気づき、やっと足を自分の意思で止めた。
苦しくて、肩を大きく上下させながら息をする。息をしても苦しいのは変わらない。
自分の肺が役立たずになったみたいだ。
いや、肺だけじゃない。『藤原妹紅』そのものが役立たずになっているんだ。
泣くものかと決意していたのに、瞳には火傷してしまいそうなほど熱い液体がたまってきた。
妹紅は深呼吸を数回したのち、俯きながら隣の奴に話しかけた。
「――阿求が攫われた」
「知ってるよ。他の猫から聞いた」
淡々とつむがれる声。
隣の地べたに座っている三毛猫は、ただただ正面だけを向いている。
「捜索に猫の手でも借りたいの?」
「猫の手を借りたら見つけられるのか?」
「もちろん。猫というのは人里に限らず幻想郷のあらゆるところに散在しているんだ。呼びかければ阿求を見つけ出すのに時間はかからない」
じゃあ――妹紅は言葉を続けた。
「お前は、呼びかけてくれるのか? 手伝ってくれるのか?」
返事は、なかった。
空は夕陽の茜色から月が主役となる夜へと色を変えつつある。
歯が欠けてしまいそうなほど口を食いしばる妹紅。もう大嫌いだ、と腹のなかで叫ぶ。
みんなみんな、大嫌いだ!
「――昨日、阿求に会った。あいつは前世に三毛猫を飼っていたことを覚えてなかったよ」
「……そうかい」
三毛猫は、積もった雪にもあとをつけられぬほどの弱々しい声で答えた。
「でも、阿弥がお前を捨てた理由はなんとなく分かった」
「ぼくも知ってる」
「違う、お前の思っているようなものじゃない。きっと、お前のことが大好きだったんだ。たぶんずっとな」
そこで妹紅が三毛猫に視線をやると、猫は彼女から顔をそむけていた。
「下手な慰めはやめてよ」
「慰めでも出まかせでもない。私は自信を持って言い切れる。
――お前は阿弥の耳が聞こえなかったのは知ってるだろ?」
「もちろん」
「じゃあ、あいつが自殺する前から手首を切っていたことは?」
三毛猫が目を大きく見開きながら、妹紅のほうを向いた。
思い出したように瞬きをしつつ、
「ほ、ほんと?」
と訊ねてきた。
「嘘じゃない。阿求もそのことについては覚えていたから、間違いなく真実だ」
「な、なんで? ぼくはご主人が自殺した理由も知らないんだ。どうして、ご主人は――」
「阿礼乙女だったからさ」
「……どういうこと?」
妹紅はさっきの霊夢の姿を思い返す。そして次に顔も見たことがない阿弥も夢想する。
「阿弥は呪いにかかっていたんだ。誇張なしに呪いといえるものだ。
さっき、霊夢という少女は死にそうな姿になりながらも妖怪と戦おうとしていた。一見すれば大馬鹿野郎さ。
でも理由はある。あいつは『博麗の巫女』という呪いに冒されていた。この呪いというのは、使命とも言い換えられるものだ」
妹紅の服には霊夢の血がついていた。じわりと染み込んでいて落ちそうにない。
霊夢を知っていなければ、自分も阿礼を理解することはできなかっただろう。
理解はした。
したけれど。
納得はいまだできていない。
「この幻想郷の呪いに毒されると、人は己の命を投げ打ってまで動こうとするんだ。きっとその呪いが自分のアイデンティティーにまで食い込んでいるんだろうな。
別に矜持があるわけじゃない。ただ役目を遂行しなければ、自分の存在価値さえ分からなくなってしまう。
――じゃあ、阿弥はどうだ?」
三毛猫はただ力なく俯いている。小さな後ろ姿はこれから始まる夜に溶けていってしまいそうだった。
寒い風が吹き抜けた。
「阿礼乙女として生まれた者の使命は幻想郷縁起を編纂すること。人間が妖怪と共存するすべを記すこと。
だけど、阿弥は耳が聞こえなくて、自分の使命を満足にこなせない。いつだって誰かの手にすがるしかなかったんだ。
だからこそ、彼女の自己はぼろぼろになって日々を生きることも苦しくなって、悔しくて――」
と、そこで妹紅は阿弥の心情を語るのをやめた。
無駄だ。自分がいくら熱心に語ろうが、上っ面をなぞるだけのようなしかつめらしい言葉で阿弥の胸中を過不足なく言い表せることなど不可能なのだ。
妹紅はいったん口をつぐみ、間をおいてから続けた。
「最後、阿弥は一番助けてくれた人の死に責任を感じて、自殺した。
これが、真相だ」
「――ぼくは、笑い草だよね」
三毛猫が自嘲めいた笑いをこぼしてから言う。
「ずっとずっとそばにいたのに、ご主人の苦しみをなにも分かっていなかった。裏方で手首を切っていたのに、ぼくは表の顔だけを見てのうのうと暮らしていたんだ。
最低だ。ほんと、最低だ」
「まだ、気づかないのかよ」
お前はどれだけ鈍いんだ――と妹紅は語勢を荒げる。
三毛猫は怪訝そうに「なにが?」と答えた。
「きっと、お前の前だと阿弥はいつでも笑っていたんだろ? どうしてだ? どうして苦しい思いをしているのにずっと笑えていたのか、察しろよ」
はっと息を飲む三毛猫。妹紅はかまわず続けた。
「阿弥もお前といれた時間が楽しかったんじゃないのか。幸せだったんじゃないのか。
だからさ、ぼろぼろにすり切れた精神でもお前といるときは苦しさを微塵も出さなかったんだと思えるんだ。
幸せを共有できなかった――お前がいつか言っていた言葉だ。でも、もう分かっただろ」
妹紅は三毛猫をしっかと見つめて、声を出した。
「お前らは、ちゃんと幸せだったんだ」
三毛猫と阿弥が過ごしている風景を、彼女は想像する。
音楽が流れている部屋のなかで、笑っている女性の膝の上で和やかに眠る三毛猫。
この部屋のなかで女性は、『阿礼乙女』から『稗田阿弥』になれたのだろう。
彼女のそばで三毛猫は、『ミケ』になれたのだろう。
一人と一匹と一曲でつむがれた過去を思い、妹紅は温かさとやるせなさを同時に感じた。
――永遠にしてやっても、よかったじゃないか。
西には満月には一歩届かない月が見え始めていた。
「――だ、だけど」
三毛猫が焦っているような声色で言う。
長いあいだ信じていたものがくずれてしまったのだから当然かもしれない。
「阿求はぼくのことを覚えていないんでしょ? なら、会ったところで無駄じゃないか」
「お前にお願いしたことは、覚えていたんだよ。
歌を聴かせてほしい――ていう依頼をね。
来世の自分が生まれるときには生きていないし、あまつさえ相手は猫だ。そんな奴にお願いしても叶う確率はかなり少ないのに、なんで覚えていたんだろうな」
どうしてもすがりたかったんだろうな。
現世では聴くことができなかった曲を、健全者になれた来世で確認をしたかったのだろう。
ミケが大好きだった曲が、どんなものだったのかを。
三毛猫は目を閉じたまま、正面に顔を向いている。どこか安らかな表情にも見えた。
「お前、そのお願いを覚えていたんだろ?
だからレコードを保存していて――そんで魔法使いに、お願いもしたんだ」
「……妹紅はなんでも知ってるんだ」
「魔法使いの依頼はたまたまなんだけどね。
依頼、それが――」
――それが、猫又になったときに裂けた尻尾をもとに戻してくれ、て内容でさ。
――私はなんでそんなことをと訊ねたんだ。
――そしたら三毛猫が答えたんだよ。
――ちょっとでも昔の姿を維持できたら、あの人はぼくを見たときに思い出してくれるかもしれない、てね。
――あの人、ていうのが誰かは言わなかったけど、きっとすんごく大好きな人だったんだろうな。
「お前はずっと会おうとしていたんだろ。なら、会おうじゃないか。もう過去におびえる必要はないんだから。
そんで歌を聴かせてやろうじゃないか。阿弥の最後の願い、叶えてやろうよ。
お前の大好きだった時間を、彼女に届けてやろうよ!」
言い切ったあと、しばしの沈黙が起こった。
そして、三毛猫は小さくため息を吐いて、
「ねえ、妹紅」
と話しかけた。
「どうした」
「今日はさ――ラブソング日和かな?」
心底不安そうな声だった。おぼつかなくて、ぐらりと揺れている声色。
妹紅は、力強くうなずいた。
「ラブソング日和だよ」
三毛猫はもう一度ため息をついて、「そうだよね」とさっきより強く言う。
「今日は、ラブソング日和だ」
いつもの口調だった。
大丈夫、届くよ。
そこで妹紅は――笑った。
しかしすぐに笑みを引っ込めた彼女は、早口で続けた。
「よし、じゃあさっそく猫たちに阿求の居場所を探させてくれ。もう一秒たりとも無駄にはできないんだ」
「心配には及ばない」
そろそろだね――と三毛猫は呟いた。
その瞬間、横から茶トラの猫が駆けてきた。妹紅たちのそばに来ると足を止める。
次に茶トラはにゃーにゃーとせわしなく鳴いて、三毛猫は相槌を打つように合間あいまに鳴き返した。
ああ、会話をしているんだなと気づいたときには茶トラは一段と大きな声を出してふたたびどこかへ走っていった。
三毛猫が妹紅を見あげる。
「阿求の場所が分かった。ぼくがこの前までレコードを隠していた森だ。あの大きな木のもうちょっと先だって」
「お前、最初から調べておいてくれたのか?」
「今はどうでもいい話だよ」
そう言って三毛猫はそっぽを向いた。照れているのだろうか。
素直じゃないな、と呆れたふうに妹紅は鼻を鳴らした。
「とにかく助かった。ありがとうな。行ってくるよ」
「待って。ぼくも連れていって」
「……自分がなにを言っているのか、分かっているのか?」
これから暴虐な妖怪たちが巣食っている場所へおもむくのだ。自分の身だって保障できないのに、ほぼ無力な猫がついてくるなど言語道断である。
なにか言い返そうと口を開いたのだが、言葉は三毛猫の瞳をのぞいているうちに消えうせた。
妹紅を真正面から見つめ続けている。
不思議な話だった。これから死地を訪れようとしているのに、まるでそこに行かないと自分は死んでしまうと思い込んでいるような必死さがあった。
そうか――。
妹紅はやっと合点した。こいつは自分とまったく同じなのだ。
自分もこいつも、傍観者を決め込むことのできない大馬鹿野郎なのだ。
「――自分の身は自分で守れよ。あくまで目的は阿求の奪還なんだから」
「知ってる。それに、死ねるわけがないじゃないか。あの歌を届けなくちゃいけないんだからね」
楽しそうな声だった。
妹紅は三毛猫を持ちあげて、胸に抱きかかえる。
「お前もつかまっていろよ。最高速で飛んでいくからな」
「うん」
ふわりと浮かびあがり、力をためていく。
三毛猫が胸にいる。
心臓の上に、温かさがある。
それだけで体をめぐる血潮も熱を帯び始めた。
阿求を、助けるんだ。
「――行くぞ!」
自信の影が追いつかなくなるようなスピードで妹紅は飛んでいった。
迷いの竹林を抜けて、件の森のなかに入る。ここには日ざしだけでなく、月光や星の瞬きさえも木で遮られてしまう。
夜とはまた違う不愛想な暗さが森のなかを支配しているのだ。
妹紅のスピードが少しだけ落ちていた。
急がないといけないのは十二分に承知しているのが、いかんせんずっと自分の最高速を維持してきていたので、疲れがいささか出始めていたのだ。
耳もとで聞こえる風切り音が弱まる。巨大な昆虫の羽音のようなそれに倦んでいた妹紅にとってはうれしいことだった。
暗い道を相変わらず飛んでいると、
「ねえ」
という問いかけが聞こえてきた。
最初は空を切る音が生み出した幻聴かと思ったが、もう一度聞こえたときに、抱えている三毛猫の声だということに気づいた。
「どうした?」
通常より大きな声で訊き返す。「今さら怖くなったか?」
「違うよ」
「だろうね」
「ただ、伝えておきたいことが一つあるんだ」
三毛猫はすうと息を吸った。
「ぼくの知り合いの猫たちはみな野良猫でさ、人間にこっぴどくいじめられた奴や、ぼくみたいに捨てられた奴ばかりなんだ。
だから、優しくされたことのないあいつらは絶対に人間に頼ろうとしない。信じることもしない。
なにが言いたいかというと、ぼくたちが妖怪と応戦してるときに猫が人間に助けを求めることはないから、自警団がこっちを見つけてくれない限り増援はありえない、ていうこと」
「……気がめいるような情報提供、ありがとう」
皮肉じみた口調で答える。風になびくマフラーが羽のように揺れていた。
三毛猫は、くすりと笑った。
「ぼくは阿求と歌を聴きたいために頑張るんだ。でも、妹紅はなんの得もないくせに妖怪たちと戦うんでしょ」
妹紅は優しいね――小さいのにやけに通る声が耳に届いた。
くすぐったいような痛みが胸に沁み入る。
「そうじゃない。私は優しいわけじゃないんだ」
輝夜にも優しいと言われた。でもそれはどう考えても過大評価にしか思えないのだ。
妹紅は己を顧みる。内向的で、誰かに頼み事をされれば面倒くさいとも思うし、捨て猫を介護してやるような真似はきっとできない。
自分は罵られるようなことはあっても褒められるようなことはないと断言できる。
「阿求を助けるのだって、正直なことを言ってしまえば、自分のためだ。自分が気に食わないからやってるだけで、結果論で誰かのためになっているだけさ。
それにさ、私は思うんだけど――」
三毛猫を抱きしめる腕に力を込める。
「本当の優しい人っていうのは、お前のご主人のように、聴こえない曲を流すことができる人だと思うんだ」
本来は、曲を流したところで彼女は自分の劣等感をいっそう強めるだけである。
なのに蓄音機をかけ続けた。心から笑うことだってできた。
それこそが、優しさなのではないのだろうか。
数秒ののち、三毛猫は妹紅の胸に顔をうずめながら、
「温かったよ」
と呟いた。まるで妹紅の心臓に直接言葉を届けたようだった。
少しだけスピードをあげる。
――その瞬間、目の前に暗いながらもあの巨木が現われた。
さすがにてっぺんまでは視認できなかったが、太い幹は闇のなかでもぼんやりと見えた。
その幹を迂回していると、
「この木の裏側、その向こうに阿求はいる!」
と三毛猫が指示を出した。
妹紅はうなずいた。
レコードを隠していた茂みを横目で確認しながら、木が乱立して道もないところへ突っ込んでいく。
手にじっとり汗をかいているのに気づいて、どうやら自分は緊張しているらしいと他人事のように思った。
「――おい、本当に来るんだな? 引き返すって言うならおろしてやるし、もちろんそれは恥じることではないよ」
「このまま連れてって。きっとすぐにやられちゃうと思うんだけど、どうしても行きたいんだ。
ぼくは、あらゆることからずっと逃げてきた。だから、もう逃げたくない」
「……そうかい。私はお前を守れないだろうけど、絶対に死ぬなよ」
耳もとで風が空を切る。
それが一瞬、ラブソングに聞こえた。
そして――
妹紅たちは、たどり着いたのだった。
そこは輝夜と殺し合いをする場所のように開けていて、空をおおうものなど一切ない。ゆえに昨日の雪が広い地面を真っ白におおっていた。
残雪が夜空にいすわる月の光を乱反射しているおかげで、ここはひどく明るかった。
だからこそ、奴らの姿が見えた。
眼前には無数の鳥妖怪がいる。みな、呆然と闖入者である妹紅を見すえていた。
彼女たちは森の暗闇から生み出されたように黒々としていた。
離れた向こう側に、恐怖と驚きを混ぜ込んだような顔をする和装の女性が見えた。
阿求だ。まだ生きている。
妹紅は安堵の息を吐く。
「――間に合った」
「誰よ、あんた」
一匹の妖怪がとげとげしく訊ねると、せきを切ったように他の妖怪たちも言葉を吐き始めた。
「一人じゃん」
「猫もいるね」
「これから里の人間を食べるとこだったのに」
「あの乱入者も食べちゃおうか」
「腕は私がほしい」
「私は足」
「みんなで分けたら足りないよ」
「私、猫って食べたことない」
「お腹空いたなあ」
下卑た言葉がいっきに耳に流れ込んでくるものだから、妹紅は表情をゆがめた。
マフラーを外していると一匹が前に出た。
「久しぶりね」
「そうなのか? いっとう覚えていないが」
次に手袋を外す。妖怪は忌々しげな顔をした。
「忘れたとは言わせないわよ。迷いの竹林でしたことを」
「ああ、思い出した、あの三人組の一人か。焼き鳥にならなくてよかったな。池の水加減はどうだった?」
妖怪は憎悪を満面にたたえて、「最高だったわ」と答えた。
隣の三毛猫が低い声でうなっている。
「で、あなたはどんな用件でここに来たの? 私たちのご飯になってくれるのかしら」
「逆さ。お前らのお食事を邪魔しにきたんだ」
妹紅は手袋とマフラーを後ろにおいた。「今日攫った人間を助けようと思ってね」
しんと静かになった。しかしそれも束の間。次の瞬間には鳥妖怪たちがいっせいにげらげらと笑い出した。
まるで鼓膜に汚泥を塗られるような不快感にさいなまれる。
しばらくすると下品なにやけ顔をした妖怪が訊ねてきた。
「あなた、本気で言ってるの?」
「もちろん」
「人間って面白いのね」
彼女は後ろの仲間たちに目配せをしてから質問を重ねた。
「ねえ、私たちがなんでまだあの人間を食べてないか知ってる? 攫ってからだいぶ時間が経つのに」
「さあね。食事前のお手洗いでもしてたんじゃないのか」
「手を洗っても、食事を始めたら血で真っ赤に染まるんだから意味ないじゃない。理由は、仲間を全員ここに集めていたからよ。
最近、博麗の巫女が私たちを退治しようとしててね、人間を食べれていないの。だから、久しぶりの人間はみなで分けようと思ってね」
「こんな大人数で分けたら、小指にありつくことだって厳しいだろうに」
「食べることができなくてもいい。ただ、人間を攫うことができた、という現実を知ることさえできれば、今まで人間をつかまえられなかった仲間の士気もあがるでしょ?」
妖怪の笑みがいっそう品のないものになる。
「そういうわけだから、今現在、ここには百以上の私の仲間がいるわ。どうする? あなたはそれでもあの里の人間を助ける?」
「……私はちゃんと、迷いの竹林でお前に進言したんだけどな。ケンカを売る相手はよく選べって」
妹紅はポケットに手を入れて、自分のすべてのスペルカードをつかみ出した。
そして――それらを風に乗せてばら撒いた。
「全員でかかってこいよ。たかが百匹で来たことを後悔させてやるから」
妖怪たちがいっきに気色ばむ。暴力的な呟きがそこらかしこから聞こえてくる。
一触即発の雰囲気がただよい始めていた。
妹紅が髪を結っているお札を一枚右手の人さし指と中指ではさんですっと引っ張ると、それは音もなくほどけた。そのまま札を妖怪へと向ける。
『髪結いのお札』と呼んでいるものだった。これは本来輝夜との殺し合いのときにしか使わない。
理由は単純だ。
威力が、護身用の札よりもはるかに高いのだ。だから本当なら木っ端の妖怪相手に使う品物ではない。
なのに使おうとしているのは、もちろん敵の数が多いのもあるが、それ以上に――
最上級の戒めを与えてやろうと思っているからであった。
先頭にいた妖怪は口の端を大きく吊りあげる。
「あなたは相変わらずむかつくわね」
「お前はさ、あなたあなたうるさいんだよ。私はお前の旦那様になった記憶はないね。
私にはちゃんとした名前があるんだ」
妹紅はにやりと笑った。
「私は藤原妹紅。永遠を歩む蓬莱人。そして――」
――でもね私は、あなたみたいなお馬鹿さんが、難局でも惚れちゃうぐらいカッコいいことをしでかしてくれると信じてるの。
「カッコつけのお馬鹿さんさ」
札が発火する。鳥妖怪たちがいっせいに突撃し出す。三毛猫が前へと駆ける。阿求は震えながらも目の前をしっかと見すえている。
世界が、色めき立っていた。
妹紅の右腕に紅蓮がうずを巻き始める。そして彼女が札を前方に投じると――
それは、巨大な炎となった。
小屋ぐらいなら包み込めそうな大きさで、業火のように紅色だ。ここら一帯の残雪を溶かしつくしてしまいそうなほどの熱を帯びている。
先頭の数匹の妖怪がすぐに火だるまになって地に落ちた。そのときに赤々としていた炎は跡形もなく消えうせる。本来なら燃え続けるのだがあえてのことである。
彼女たちはわずかに息をしていた。
戦闘不能にはするが殺さない――これは妹紅のせめてもの慈悲だった。
夜空をしみ込ませたように黒い羽を広げて、妖怪たちは飛んでくる。妹紅はふたたび髪結いの札を投げた。
業火が相手に食らいつく。それでもあとに続いた突進をよけるために横へ跳んだ。
鳥妖怪たちはひたすらに突撃してきた。札を投げて落としても途絶えることはない。
妹紅は、鈴仙が前に話していた『機関銃』という月の兵器を思い出した。
なんでも一直線に飛んでいく鉄の弾を連続して出せる品物で、当たると致命傷を受けるらしい。
まさしくこいつらではないか。長い爪でこちらを穿たんとむこうみずな攻撃をくり返す。
そして一番の問題は、弾数もかなりあるということだ。
軽口をたたいたものの、やはり百以上の猛攻はなかなかに骨である。阿求のもとまで行くにはある程度数を減らさないときついだろう――
「危ない!」
「つっ!」
三毛猫の声で自分の状況を知った。
妖怪が後ろにいたのだ。あとちょっとで爪が背中に刺さる距離。
当然のことである。森を通って迂回でもすればこちらに気づかれずに四方を取れる。
なぜそれに思い至らなかった……!
爪がもう目前まで迫ったとき――
三毛猫が妖怪に跳びついた。
胸から顔までのぼり後ろ足で引っかいている。
「離れろ!」
鳥妖怪は体を大きく揺さぶる。妹紅はポケットから普通の札を取り出して、
「おりろ!」
と三毛猫に声をかけてから相手へ放った。猫はすぐにおりた。
火のついた妖怪は悶えながら逃げていった。
「ありがとう」
妹紅はそこであらためて三毛猫の姿を見た。
切り傷だらけで体中に血がにじんでいる。はあはあと白い息がやつぎばやに口からもれている。
「お前――」
「ぼくのことはどうだっていい! このぐらい覚悟ずみだ!」
そう言うと三毛猫は前に駆けてまた別の奴に跳びついた。
いくら引っかこうが傷は微々たるものだ。影響はさして出ないだろう。
一方で自分の命は確実に削られている。
どうして――と訊ねたくなったが、答えはすぐに思い出す。
あいつも、どうしようもない馬鹿野郎なのだ。
なら止めるのは無粋である。
横からの攻撃を翻りながらかわして、妹紅は思考を切りかえる。すなわち、自身の戦い方についてである。
四方からやってくる。まわりに気を余すことなく向けるのは不可能だ。
ならば――
彼女は上を見た。ここだ。
浮かびあがって高度をあげていく。ある程度俯瞰できるところまで行くと上昇をやめた。
下から妖怪たちが来る。
両手で一枚ずつ髪の札をほどいて、放った。
刹那、それらは猛火を発し――次に翼を広げた鳥をかたどった。
大きさには自信がある。間近で見た者は、こいつの双翼が幻想郷をおおっているのではないかと錯覚してしまうほどであろう。
そいつが今二羽いるのだ。妖怪たちがおののいているのもしょうがないことだと妹紅は思った。
猛る鳥が声にならない雄たけびをあげて飛んでいく。火の羽が蛍火のようにはらりはらりと散っている。
二匹はためらうことなく妖怪たちを飲み込んだ。あがってくる奴らを次々とおのが体をもって焼いていく。
焼かれた者は例外なく、全身を真っ黒にすすけさせて落ちていった。
「な、なによ、あの化け物!」
妖怪の一匹が火の鳥を見て頓狂な声をあげる。妖怪にも化け物と言わしめる――妹紅は不敵に笑った。
この術は妖力をやたらに使うため多用はできない。しかしその分、戦果は満足に足るものだ。
妹紅は二匹のあとについて下降していった。こいつらが道を開けてくれる。このまま行けば阿求の救出に行けるかもしれない。
面食らって固まる妖怪ら。業火の鳥はそいつらを無遠慮に食らい、そのたびに己の火勢を弱めた。
一匹はいつの間にか終わっていた。だが、もう一匹は最初のときの半分以下の大きさになりながらしっかと羽ばたいている。
大丈夫だ、阿求のもとまでこの術は持つだろう。
ときおり鳥をかわして妹紅に突っ込んでくる相手には、髪結いの札を投げていく。敵が燃えるごとにむせ返るような熱風が彼女の髪を揺らした。
地面まであと少し。
妹紅は阿求のほうへ向かおうと体を翻した――
そのときだった。
視界のすみに横たわる三毛猫が映った。雪で真っ白になった地面にぼろぼろになった塊。
その塊に今、一匹の妖怪が近づいている。長いながい爪が月光を反射してきらりと光っている。
三毛猫は、動かない。いや、動けないのだろう。
なら、待っている結末はたった一つじゃないか。
歯を食いしばったとき、声を思い返した。
――今日は、ラブソング日和だ。
妹紅は方向を三毛猫へと変えていた。
阿求の救出をしなければいけないのに。まったく、私は馬鹿なことをしているよ。
でも。
でもさ――
あいつは、あの歌を届けないといけないんだ。
妖怪の爪が降りおろされる。
鋭利な切っ先は――妹紅の背中に深々と突き刺さった。
彼女は、なにより安心した。
間に合った。
三毛猫を身をていして守れたのだ。
「よかった……」
呟きをもらし、続けて三毛猫を抱えたまま妖怪たちから離れていった。
この場所の端に移動し、かがむ。そして抱いた状態で声をかけた。
「おい、おい、大丈夫か?」
あらためて見てみると、ひどい状態だった。
全身の三毛は血の赤一色で塗りたくられている。傷は深く、今なお鮮血がしたたっていた。
お腹がかすかに上下している。
「頑張ったよ。もう休んどけ。あとは私がやる」
そこで、三毛猫はゆるゆると顔を妹紅に向けた。ヒゲは力なくさがっている。まぶたは瞳がのぞけないほど垂れて閉じられていた。
口が、おもむろに開いた。
なにかを言おうとしている。妹紅は耳を口に近づけた。
――なー。
顔に熱い血が流れてきた。
苦しそうな息づかいに紛れてしまいそうな弱々しい声。だけど、聞きもらすことはなかった。
一文字にお粗末な抑揚をつけただけにも思える。でも、確信を持って断言できた。
これは、あの歌だ。
こいつが、抱きしめるように毎日歌っていたラブソングだ。
すっと耳を離す。顔を見やると――三毛猫は、小さく、しかし力強くうなずいた。
ほんと――
妹紅は、泣きそうに表情をゆがめながら笑った。
ほんと、お前には妬けちゃうよ。
優しく三毛猫を下におろす。地面をいろどる雪化粧が赤く染まっていく。
「待ってろ」
妹紅は立ちあがり、前を見た。
妖怪たちが不快そうな顔をこちらに向けている。
今の今まで襲ってこなかったところを見ると、さっきの術が、三毛猫と会話をする時間を稼いでくれたのだろう。
ふうっと息を吐き、きりりと顔を引きしめて焦点を一点に絞る。
視線の先では阿求が立ちつくしている。
凝視するは阿求のみ。
しゅるりと髪結いをほどき、それを前に突き出す。
目をつぶって大きく深呼吸をした。底をつき始めた妖力を練って、札に込める。
髪結いが少なくなったせいで、はらはらと纏まりのない白髪が夜風にたゆたう。
妹紅は目を開けて、札をはじいた。
その瞬間、髪結いの札はふたたび猛火を纏った鳥へと変じた。
前方の敵はこいつに任せる。後ろについていき、阿求の奪還を目ざすのだ。
生み出された怪鳥は巨大な羽を広げて、前へ飛んでいく。妹紅はもう一度大きく息を吸った。
――これが、最後のチャンスだ!
そして、地を駆けながらあとに続いた。
濁った声々が聞こえたのち、前方の妖怪たちがいっせいに突進してきた。
怪鳥が敵を食らう。俊敏によけて回り込んだ者も、妹紅が確実に燃やしていく。
右からの引っかきを上体を低くしてかわす。左上方からの突進は右足に重心をかけて身をよじる。そして、相手へ札を投じる。
行けるぞ。
妹紅はできるだけ頭のなかを空にしていた。無駄な思考は排斥し、ただただ前向きな言葉だけを口のなかで呟いた。
大丈夫だ。
このまま、このまま――。
上から音がする。見あげると、上空から一匹が飛んできていた。
髪結いを右手で持って投げようとした――
そのときだった。
背中に激痛が走る。思わず顔をしかめた。
どうやらさっきの三毛猫をかばったときの傷が、今ごろ痛み出したらしい。
上半身が一瞬が動かなくなる。
そして、左肩にも鋭い痛みが走った。
上から来た奴の攻撃に当たったらしい。真っ赤な血が肘のほうまで垂れている。
次は右腕だった。
右側後方からの奇襲にまったく対処できぬまま、爪でえぐられる。
つい札を取り落としてしまった。
しかし、それでも妹紅は走り続ける。止まることに恐怖感さえも抱いていた。
阿求を救うのだ!
右脇腹が穿たれる。胸を一文字に切られる。右太ももに血が深くにじむ。左側の腰に伝わる激痛。
どんどん血の赤に染まっていく妹紅だが、足を止めない。口から顎へと血がつたった。
妖怪たちは攻撃を休めない。前方以外のあらゆるところからの襲撃に、もはやなす術などなかった。
彼女はただ、自分の体の肉が裂けていく感覚だけを味わっていた。
それでも地を蹴り、走り続けている。地面の雪には足跡と血がずっと伸びていた。
阿求を――。
頭のなかは彼女だけだった。それだけしか考えなかった。
しかし、
「――いい加減、しつこいのよ!」
その一撃で、思考が真っ白になる。
背中を深くえぐったそれは、とうとう妹紅の足を止めた。
がくりと膝をつく。次に地面に倒れ込んだ。
前方を飛んでいた鳥はゆっくりと消えていった。
顔を前に向ける。数匹の妖怪の群れ、その先約十メートルのところに阿求がいた。
あともう少しなんだ。
腕で這って動く。体中が燃えるように熱い。痛い、ではなくて熱い。
阿求は下唇を噛みしめながら泣いていた。妹紅はその涙を止められる自信がなくなっていた。
ここまでなのだろうか。
もしここで死んでしまったら、こいつらは阿求を連れてまたどこかへ移動するだろう。そして、怒りをぶちまけるように彼女を殺して、食べるのだろう。
こちらが復活するまでには時間がかかる。ならば、今死んでしまえばすべてが無駄になるのだ。
妹紅は祈った。慧音ひきいる自警団がここに到着してくれることを。
どうにかして、阿求が助かることを。
「あんた、なんなのよ」
妖怪の不快そうな声。視線だけ動かすと、前に一匹いることを認めた。
「仲間をこんなにやってくれたんだから、覚悟はできているんでしょうね」
「……頼む」
なんとか声を絞り出す。「阿求だけは、助けてくれ」
「いやよ。二人はそろって私たちに食べられるの。そういう運命なの」
「嫌な運命だ」
「前世になにか悪いことでもしたんじゃない?」
品のない笑い声。今すぐにもぶん殴ってやりたいのに、体が上手く動かない。
腕に力を込めて、やっと上体だけ起こせた。
にやついた相手の顔が目に入る。
妹紅の近くまで寄ってくると、右腕をあげた。
動け!
脳はさんざ命令を送るのに、他人の体のように言うことを聞かない。
「くそっ」
自分の声は震えていた。
地に落ちた一粒の涙に妹紅は気づかない。
「じゃあね」
妖怪は月を背にして、無慈悲に腕を降りおろした。
――はずだった。
ここにいる者全員が言葉を失っていた。みな馬鹿みたいに口を半開きにして、目を見開いている。
月光は空想じみた今の状況をなおも照らしていた。
妹紅は目の前で起こったことを脳内でリフレインする。そして思い至るのは、やはり浮世離れした展開。
爪を突き立てようとした妖怪が――吹っ飛んだのである。
指ではじかれたどんぐりのように軽々しく後方へ消えていった。
なにが、起こった?
片膝をついたまま、呆然とすくむ妹紅は、後ろから音を聞いた。さくさくと雪を踏みながら近づいてくる足音。
なぜか足音に気品を感じた。まるで舞踏会会場に敷かれた上等のレッドカーペットを踏みしめているみたいだった。
自警団の者だろうか?――妹紅が顧みるより早く、その人物は沈黙を破った。
「――久方ぶりの大雪に、無粋極まりない」
よく響く声だった。月光のごとく透き通っていて、しかし月のそれのように耿々と輝いている。
「せっかく雪が積もったこんな夜に、血なまぐさい活劇をくり広げるなんて愚の骨頂。野暮天という言葉はあなた方のためにあるのでしょう。
私みたいな風人はね、そんな野卑なことをしないわ。だって、雪後におこなう行為なぞただの一つですもの」
「……じゃあ、お前はなにをするんだよ」
妹紅は横に立った相手に薄笑いで問いかける。顔を見ないでも分かったのだ。
彼女は、胸を張って答えた。
「もちろん、雪だるまづくりでしょ!」
「そりゃあ、お前しか思いつかないな」
小さく息を吐く。「風人の、蓬莱山輝夜さんしかな」
ふふんと鼻高々に笑む輝夜は、妹紅に手をさしのべた。
「すまない」
その手につかまって立ちあがる。
妖怪たちはいまだに硬直していた。
「なんでこの場所が分かったんだよ」
「迷いの竹林で雪だるまをつくってたら、可愛らしい水先案内人が来てね」
にゃーと下から声がした。そちらに目をやると、一匹の猫がいた。
白と黒の猫。腕に巻かれた小さな包帯を見て、この前輝夜に手当てをされた奴だということを思い出した。
ぼくの知人はみな人間を信じていない――と、三毛猫は言っていた。
だけど、いたのだ。些細なきっかけだけど、それでも人間を信用しようとした猫が。
妹紅がその猫の頭を優しく撫でると、相手は気持ちよさそうに目を細めた。
「ありがとうな」
「……さて、ときに妹紅さん。この状況は一体どういったものでしょうか?」
「相変わらず余裕そうだな」
輝夜がきょろきょろと見回す。妹紅は言葉を考えたが結局、「阿求が攫われ中だ」と簡潔に述べた。
「なるほど」とうなずく。そして、
「ここの入り口にいたあの子は、もしかしてかぐもこかしら?」
と質問を重ねた。
「……ああ」
「そう」
輝夜は短く返事をすると、次に茶化すように続けた。
「あなたが無茶なこと、注文したのでしょ?」
返事はしなかった。
「だからあの子の猫背を矯正するのはやめなさいってば。それか猫舌を直そうとしたとか――」
「危ない!」
妹紅はとっさに輝夜を自分の身に抱き寄せた。妖怪の奇襲に輝夜のすそが切れる。
襲った張本人は舌打ちをしていた。
「惜しいなー」
どうやら輝夜を新たな敵だと認識した相手は、さっそく攻撃を仕かけてきたらしい。
「積極的ね」
その言葉が、敵に送った皮肉なのか、いきなり抱きしめた自分への茶々なのかは判然としなかった。
妹紅の腕からすっと離れていった。
「ほらほら、無駄口をたたいているから綺麗なおべべが裂けてしまったよ」
鳥妖怪はさげずんだ笑みを満面にたたえている。
輝夜は自分の着物のすそを見、「あらら」ともらした。
そして、自分の手で引き裂いて腰のあたりまでスリットを入れた。
「どんなに野卑な妖怪かと思ったけど、意外に粋なこともするのね」
この着物、動きづらくていけないの――彼女は屈託なく笑いながら言った。
妖怪は不愉快そうな顔をして無言で応える。
「――あんまりふざけていると、次は本当にケガするぞ」
妹紅がいさめると、少しの間を開けたあとに冷えびえとした声が返ってきた。
「ふざけてないと、やってられないわ」
「えっ?」
「あなたは休んでなさい。あとは私が引き継ぐ」
輝夜の周囲がひずみ始め、ひびの入ったガラスに囲まれているかのように輪郭がおぼつかない。加えて、強風がうずを巻きながら吹き荒れてきた。
先日、殺し合いをしたときとはけた違いの妖力を感じた。
やがて輝夜のまわりに色とりどりの弾が生み出される。しかしすべてがすべて以前より大きく、また数が多い。
妖怪たちの顔に余裕はなく強張っていた。
それでも弾を生み出し続ける輝夜。
「愛しいペットをこっぴどく痛みつけて――」
敵の数はもう四十もいないのに、彼女のまわりの魔弾は最初にいた妖怪の数ほどつくられていた。
「私の大切な人まで傷つける――」
輝夜はぎゅっと手をにぎりしめて、憎悪と怒りで顔をゆがめた。
「こう見えても私、結構むかっ腹を立ててるのよ」
その言葉を契機に、怒涛の猛攻がくり広げられた。あまねく魔弾がいっせいに相手へ飛んでいったのだ。
赤色、青色、黄色、白色――目が回るような色々が妖怪を襲う。ほとんどの妖怪が動けなかった。
途切れることなどなかった。虫の子一匹通れるすき間もなかった。
一個を目で追うのがやっとの速さゆえ、多数で来れば脳はよけようと筋肉に命令を出すことさえあきらめるのだ。命令したところで、行動に移す前に被弾するようなスピードなのだが。
低いうめき声をもらしながら妖怪たちは落ちていく。逃げ惑うすきはいっとうない。
妹紅は惚けながらこの光景を眺めて、そうかと納得した。
これこそが、鈴仙の言っていた『機関銃』なのだ。
輝夜の猛攻に比べてしまえば、先ほどの妖怪たちの突進がなまやさしく思えてくる。
ドラのように低く沈む音が被弾の音だった。その音に鼓膜を震わせっぱなしで、あまつさえ視界に映るのはくらむような明色たち。
妹紅はこの状況に酔っていた。固く目を閉じる。なのに輝夜は一貫して毅然と立っていた。
三半規管が上下を忘れ始めたとき、音がやんだ。おずおずと目を開き――驚き入った。
妖怪がみな、地面の上で倒れていたのだ。声一つあげずに転がっている。
目を瞬く妹紅をよそに、息を少し切らしている輝夜は深々と息を吐いた。
「さすがに疲れたわ」
続けて妹紅のほうを見、小さく笑んだ。妹紅は曖昧な顔で応えた。
なにか言葉をかけようと口を開いたとき――
前方から悲鳴が聞こえた。
急いで顔を向ける。全身をすすけさせた妖怪が一匹、阿求をつかまえながら夜空へと浮上していた。
地上から十メートルあたりのところで月を背にして止まる。下から見ると、まるで傷だらけの体にむち打って月を背負い込んでいるようでもあった。
「――なんなのよ!」
妖怪が金切り声をあげた。「なんであんたたちは死なないのよ!」
憤然としていた彼女はしかし、またたく間に大粒の涙を両目からこぼして、十メートル上から涙雨を降らせた。
甲高い声も一緒に降ってくる。
「なんでよ! 私たちだって人間を食べてもいいじゃない! やだやだやだやだ! お腹空いてるの!
なのに炎出したり変な弾を飛ばしたりして邪魔をする! おかげで仲間たちがぼろぼろだわ!
あんたたちは頭がおかしいのよ! 気違いなのよ! 二人だけじゃない、あの猫も――あの猫も大馬鹿よ! 狂ってる狂ってる狂ってる!」
極度の興奮状態におちいっている妖怪が言葉をばら撒く。ばら撒かなければ呼吸さえもができないと信じ込んでいるようでもあった。
はあはあと息を乱しながら、少しだけ語勢を和らげた。
「動くんじゃないわよ。動いたらこの腕のなかの人間を殺す。もちろんみんな殺すけど、動いたらこいつを最初に葬ってやる。
みんなみんな、あの猫みたいなぼろ雑巾にしてやる」
輝夜は無表情で言葉を聞いている。
――あいつはなにも分かっちゃいない。
妹紅は渋面で頬をかいた。自分の吐いている言葉が蓬莱山輝夜の怒りを研ぎ澄ますものでしかないことに、思い至っていないのだ。
このままではぼろ雑巾にされるのは相手である。
そのことに気づいていない妖怪は、妹紅を指さした。
「あ、あんたはポケットの札と髪に結いつけてある札をすべて捨てなさい」
輝夜がちらりと視線を向けてきたので、妹紅は小さくうなずいた。
サインが意味することは、『私がやる』。数百年のつき合いだ、このぐらい分かり合える。
ならご自由にといわんばかりに、ついと輝夜は目をそらした。
妹紅がポケットのなかに手を入れて、ありったけの札を地面に散らした。ひらりひらりと落ちる札は、冬口に散る紅葉を想起させた。
「――なあ、妖怪さん」
ちらりと視線をあげて訊ねる。「お前は、猫のことを狂ってるって言ったよな」
「言ったわ。言ってやったわ。だってそうでしょ! 意味が分からないもの。非力なくせしてこんなところに来る意味が分からない」
「……そうか、分かんないか」
妹紅は残り数少ない髪結いの札をほどいて放る。そのたびに結び目がうせる彼女の長い白髪は、はらはらと纏まりなく夜風を泳いだ。
最後の妖力を練って準備をこしらえる。
「じゃあさ、お前は大切な人を失ったことがあるか?」
「はあっ?」
妖怪が困惑の色を浮かべる。
宵闇に溶けていってしまいそうな顔の阿求は、苦々しそうに視線を外に逃がした。
「あるわけないじゃない」
「なら、誰かのために、永遠を祈ったことは?」
「ないわ!」
「そうか」
髪結いの札が落ちていく。ひらりひらり。
とうとう後頭部に結ばれたひときわ大きなリボンの札だけとなった。妹紅は仰々しくそれをほどいて、自分の背後に落とした。
「――――」
小さなちいさな声で詠唱する。途端にリボンは火を出さずにぶすぶすと炭化していく。
だけど、それは、自分の背後という妖怪の死角で起こっているので相手からは見えていない。
「私はさ、実のところお前の気持ちも分かるんだ。確かにあの猫は大馬鹿者だ。こんなところにわざわざ赴くんだからな」
まあ、私も人のこと言えないけど――声に出さずにつけ加える。
「でも、狂ってるとは違うんだ。馬鹿には馬鹿なりに馬鹿らしい理由があるんだ」
「へえ、面白いわ。ぜひぜひ教えてちょうだいな」
「いいよ」
妹紅はにやりと笑い、たくわえておいた自分の妖力をいっきに解放する。
――その瞬間、猛々しい紅蓮が地をおおった。
彼女の背中から不死鳥の羽が広がる。燃えさかる羽は雄々しく火炎を散らす。
相手が呆気に取られているうちに、妹紅は地面を蹴った。
頭に結ばれたリボン――その効能は、他と同じく直接的な攻撃、ではない。
運動能力を爆発的にあげるのだ。
そのため、今の彼女は常人では視認もできぬコンマの世界を駆けている。たとえ妖怪でも視認はかなわない。
いや、もっと言ってしまえば、幻想郷最速を謳う烏天狗の追従も許さないスピードで妹紅は飛んでいるのだ。
空気は高速がぶつかることによって固さをも持つ。しかしそれさえもこの速さの前では足枷にならなかった。
妖怪がやっと一回瞬きを終えようとしたとき――すべては決着していた。
「――なっ!」
肺を出た空気が喉の声帯を震わせるより早く、妹紅の拳は妖怪の頬をぶん殴っていた。
阿求を手放して後方へ飛んでいき、遠くとおくに姿を消す。
傍観者にとっては意識の埒外で、終わりを迎えたのだった。
「……あいつは、お前らにこんな一発をお見舞いしたかったのさ」
術を解くと、不死鳥の羽がふっとうせる。そして急いで阿求を空中で抱きかかえた。
どっと疲労感を味わいながら、妹紅はゆるゆると地上におりてきた。
阿求は解放されてもなお、曖昧な顔をしている。おぼつかない足で立ち、やにわに夢見から覚めたような顔で妹紅の顔を見つめた。
たっぷりと時間をかけてから、阿求は現実を認識し始めた。
「――あ、ありがとうございます」
「いいよ、別にお礼なんて」
答えると、阿求はすぐに暗い顔になって俯いてしまった。
妹紅が大きく息を吸う。
「妖怪に攫われて、心身ともにきついのは分かる。だから恨んでくれてもかまわない」
そして彼女は――阿求の頬を張った。乾いた音が月夜に響く。
輝夜は無表情のまま、二人を眺めていた。
頬を抑えながら目を丸くする相手に、冷たい声で訊ねる。
「どうして、一人で墓参りに行ったんだ? 慧音にも私にも声をかけずに」
阿求は眉間にしわを寄せなにかに耐えるような顔をして、目もとに涙をためた。
「慧音から言われていただろ。妖怪が出るから危ないって」
妹紅が切々と語る。しかし届いているのかは心もとない。
静寂に耳が痛くなってきたとき、阿求は顔をゆがめて自嘲の笑みをつくった。
「皮肉なものですね。前世で博麗の巫女を死に追いやり、現世でも彼女を傷だらけにしてしまった。
私はやはり――」
生きている意味がないのです――その言葉を皮切りに月光をたっぷりと吸った涙が、彼女の頬をつたった。
大事なものまで一緒にこぼしているような気がして、妹紅は悲しくなり、虚しくなり、そして腹が立った。
「ふざけるなよ」
「え?」
もう一度誰に向けているかも分からずに同じ台詞を呟いた。
ああ、だから世界をただ一色にしてほしかったのだ。
「お前を心配していたんだぞ。なのに、どうしてさ。どうしてお前は気づかないんだ!」
きっと相手を睨み、胸にたくわえていた言葉を吐き出す。
「お前は愛されていたんだよ! なんでそれに気づいてやれないんだ! なんで――」
三毛猫の気持ちに気づいてやれなかったんだ
悔しくてやり切れなかった。人里のみんなが彼女を愛しているなどという大きなことは言えない。
それでも一つだけ言えることはあった。
抱きあげられるほど小さな体をした一匹が、百年前から愛し続けているのだ。好きで好きでたまらずに、命果てるそのときまで思い焦がれてるいのだ。
それをどうか知ってほしかった。直接言葉では表せないけど、なにかをきっかけに理解してほしかった。
阿求の顔から乾いた笑みが消え、
「ごめんなさい」
と震える声で謝った。「ごめんなさいごめんなさい」と何度もなんども謝り続ける。
謝辞は涙にぬれてあのレコードのように重くなっていた。
「ある奴が言っていた。自分の最良が、必ずしも他人の最良にならないと」
脇で立つ輝夜はすっと横を向いた。
「死にたいんだろう? 前世が体に巻きついて苦しいんだろう? でも、頼む。お願いだ」
どうか、生きてくれよ――すべてを込めてその言葉をつむぐ。
阿求は大きくうなずいた。涙はもうこぼれていなかった。
自分の説得が相手を変えたとは思っていない。きっと今回の誘拐によって改心したというほうが正しいのだろう。
だけど理由なんてなんでもよかった。ただ、生きてくれると決意してくれるだけで満足だったのだ。
と、そのとき、背後から男たちの声が聞こえた。振り向くと、行燈の明かりが森のなかで照っている。
どうやら自警団が来たらしい。
「やっと来たの」
不満げにぼやく輝夜は、しかしどこかうれしそうな顔をしていた。そして三毛猫のもとへ駆けていき胸に抱いた。妹紅と阿求は声のするほうにゆっくりと歩いていった。
妹紅はふっと顔をあげて夜空を仰ぐ。
星のまばたきが目に沁みた。
◆ ◆ ◆
風に吹かれるちぎれ雲が二つ、寄り添うように青空を流れていた。
いつか大切な日にこの風景を見たような気がするが、思い出せない。はてさて、いつだろう?
「――なんか用か?」
隣からだしぬけに訊ねられて、驚きながらそちらに顔を向けると、墨汁を全身に被ったように真っ黒な猫がいた。
ヒゲを立てて胡乱な目つき。弁解しようと慌てて口を開く。
「え、えーと、ここの家主に用があって――」
「やぬしー? ――あっ、お前もしかして、ここら辺の野良猫を牛耳ってる三毛猫か」
「牛耳ってるわけじゃないよ」
ぼくは言い返す。野良猫のみんなはこちらを慕ってくれているが、ボスなどという大層な肩書きを持った覚えはない。覚えはないのだけど、なぜか目上に対するような態度で接してくる。
ただ友達としてつき合いたいだけなのに……。
黒猫は言葉を続ける。
「ていうことは、先日おれのご主人の阿求を妖怪たちから救ってくれたのもお前なのか」
「まさか! そんなの嘘っぱちさ」
「でもよ、この前人里を歩いていたら野良猫たちが噂していたぜ。あのお方は妖怪を相手に丁々発止の立ち振る舞いでもって蹴散らした、ってね」
なんていう誇張なのだ! まるでにぼしを人食い大魚と言い張っているようなものじゃないか。
そんなカッコいい役回りをぼくはしていない。勝手についていってぼこぼこにされて気を失って――むしろありったけのカッコ悪さを演じただけである。
頑張ってくれたのは言わずもがな、妹紅だ。妖怪たちと互角に渡り合い、阿求救出のために全力をついやした彼女こそがその評価にふさわしい。
あと、意識がなかったから戦闘は見なかったが、輝夜も来てくれたらしい。彼女も妹紅に負けず劣らずの大活躍だったとのこと。
「勘違いだって。ぼくは醜態をさらしただけだよ」
「慎み深いなあ」
快活に黒猫は応える。駄目だ、信じてくれない。
人間が動物よりも同じ種族の人間に信頼をおくように、猫も同族を過信するきらいがあるのだ。
むむとうなりながら視線を前に向ける。立派な門扉が威嚇するように立っていた。
自分が今、阿求の家の前にいるのだとあらためて考えるとむず痒く、そしてちょっぴり胸が痛くなった。
阿求誘拐から三日が経っていた。帰還した阿求を、人里のみんなは温かく迎えた。目をつむると、彼女をまるで我が子のように慈しむ人々の姿を色濃く思い出せる。
妹紅はもちまえの自然治癒力でケガを一日で完治させた。
それに対してぼくときたら、一時的に人里の診療所に連れていかれたものの、次に輝夜がうちのほうがいいと永遠亭へ連れていき薬を浴びるように塗られた。すっごく沁みて、何度か意識が飛びかけたものである。
ただあそこの女医は薬剤師としても凄腕らしく、ぼくの体中の傷はみるみるうちに治っていき、まだ二日目の今日には申し訳程度に包帯が巻かれているだけである。他は跡がうっすらと残っているものの、毛でほとんど見えなくなっていた。
お礼はいくらしても足りないくらいだ。
そして、現在である。お昼というには一歩およばない時刻。
ぼくは長いながい遠回りのすえ、阿求の家を訪ねようとしていた。
後ろには大通りがあり、やかましい喧騒がぼくの背中を強めに撫でていく。たぶん『人里』の対義語は『静けさ』だ。
ふうと呼吸を整いていると、黒猫が言った。
「そういやあ、自己紹介をしてなかったな。おれはクロっていう名前なんだ。ここの主の阿求に飼われてる」
ふわりと心があったかくなった。
クロ――。
そうか。彼女も阿弥と一緒でそういった感性がとっても鈍いんだ
小さく笑い声をこぼすと、自分の名前を笑われたのかと勘違いしたクロが唇をとがらした。
「わ、笑うなよぉ。どうだっていいじゃないか、名前なんて」
「うん、どうだっていいよね」
「ところで、お前にも名前があるのか?」
「あるよ」
ミケ――と無意識のうちに言ってしまいそうになって、慌てて「かぐもこっていうんだ」と答えた。
まるで自分にも自己紹介をしているみたいだった。
「へえ、不思議な名前。かぐもこの主人は人里にいるの?」
「いるよ」
クロとは正反対のほうを向く。「あの長い白髪の女性」
そこには八百屋があり、顔が角ばった店主に大根を渡されようとしている妹紅がいた。彼女は慌てふためきながら手のひらを向けて首を横に振っているが、そばにいる店主の奥さんも小松菜を携えて参戦してきてより焦っていた。
三日前から、輝夜と妹紅は人里の英雄的存在になっていた。理由はもちろん阿求の一件である。
駆けつけた自警団は居合わせた彼女たちとことごとく倒れている妖怪を見て、二人が助けてくれたのだと合点した。
「そんな大それたことはしてない」というのが妹紅の言で、「雪だるまをつくっていた」というよく分からない言が輝夜のものである。たがいに必死で謙遜していたが、阿求の「この二人が助けてくれたのです」という証言により、妹紅と輝夜はいっきにヒーローとなった。
二日前、人里を訪れた妹紅は、行きは手ぶらだったのに、帰ってきたときは照れくさそうな顔で両手でたくさんのものを抱えていた。どうやら道行くたびにいろんな人から感謝の言葉と商品をもらってきたらしい。
彼女は、家で「大げさだ」と困ったように呟いていた。
そして今日も今日とて店主につかまっている妹紅である。旬の野菜をあげようとオクラのような粘りを見せる夫婦との戦いはなおも終わりそうがない。
「――なんであんなに店主に言い寄られてるかは分からないけど、ずいぶんと低姿勢だな」
クロが呟くように言った。
「まあね」
「礼儀正しい人なのか」
礼儀正しい――というのだろうか? いかんせん恐縮し切って頭をへこへこさげているので、まるで万引きの見つかったお客さんのようでもある。
ぼくは彼女に向けていた顔をクロに向けた。黄色い瞳と目が合う。
「お前の主人、優しい?」
「優しいよ。ちょっと不器用だけどね。そっちは?」
「おれのご主人も優しいぜ」
クロが少しだけ誇らしげに言った。
「めったに怒らないでさ、大抵のことは笑って許してくれるんだ。あっ、でもこの前、字を書いた半紙に墨を引っくり返しちゃったときは泣きながらこっぴどく叱られたな」
それでさ――とうれしそうに言葉を続ける。
「さんざん怒って泣いて、なのにちょっとしたら謝りながら撫でてくれて。おかしいよね、おれが悪いっていうのに。
そうそう、ご主人は撫でるのがとっても上手いんだ。手のひらはぬくぬくしててさ、優しくやさしく梳くように撫でてくれるんだぜ。膝の上でやってもらうとすっごく気持ちよくてさ。おれ、幸せだなあって思うんだ」
相手の話を噛みしめながら聞く。耳を通った声は次に温かいものになってすとんと胸に落ちていく。
知っているよ。ぼくも、その幸せを知っているんだ。
楽しげなクロを見ていると、ちくちくと心が痛くなって――でも、それ以上に満足している自分がいた。
これでいいんだ、とうなずける自分がいた。
長々と語っていたクロは突然はっとし、
「退屈な話をすまん。つい……」
とばつが悪そうに言った。
「全然、退屈じゃなかったよ。ぼくも聞いてて楽しかった」
「ほんとごめんな。どうもご主人の話をするときは熱が入っちゃうんだ」
「分かるよ、その気持ちは。ぼくだってそうさ」
「なら、次はお前のご主人の話を聞かせてくれよ」
「ぼくの?」
「そうさ」とクロは答える。
少し考えていると、妹紅が八百屋の前から動き出していることに気づいた。
ぼくは「ごめんね」と謝った。
「今はちょっと無理かもしれない。もし今度会ったら、そのときに聞いてよ」
「ああ、分かった。じゃあ、おれは散歩に行ってくる。またな、かぐもこ」
「またね」
大通りのすみを駆けていく黒猫の背中はずいぶんと目立った。ぼくは視界から消えるまで眺め続けていた。
『今度会ったら』『またね』
――嘘っぱちだ。
ふと、隣に人の気配を感じた。
見やるとそこには、レコードは持っているものの、野菜は持っていない妹紅がいた。どうやら野菜を受け取らずに済んだらしい。
ちらりとぼくを一瞥し、次に門をたたいて、
「すみませーん」
と大きな声を出した。かすかに女中の返事が聞こえた。
ぱたぱたと走ってくる音がする。
妹紅はもう一度ぼくに視線を寄こし、小さくため息を吐いた。
そして、
「ポケットにジャガイモが入ってる」
と呟くように言った。
がらりと門が開き、丸顔の女中が出てきた。妹紅の姿を見ると、柔らかそうなほっぺたに和やかな笑みを浮かべた。
「妹紅さんではありませんか」
なにか答えようと口を開いたのに、女中は「先日は――」から始めてお礼の言葉をとうとうと述べ出した。
妹紅は照れくさそうにうなずきながら困っていた。
「――して、今日はどんなご用件で?」
最初に言うべき言葉が出たのは、聞いてるほうもむずむずするくらい感謝されたあとだった。
辟易とした妹紅が答える。
「阿求に会いたいんだ」
「阿求様ですか。分かりました、お聞きしてきますね」
「あっ、それと――」
「はい?」
「できれば阿求の部屋で会いたいんだ。そんでもって、この猫も連れていきたいんだ」
きょとんとしていた女中だが、すぐに柔らかな笑みで応えた。
そしてぼくの前でかがみ込み、「可愛らしいお方ですね」と優しく撫でてくれた。
家のなかに入っていき、しばらくしてから喜色を浮かべたまま帰ってきた。
「了承が出ましたので、どうぞこちらへ」
女中のあとに妹紅が続く。ぼくも一歩を踏み出そうとしたが、びっくりしたことに足が動かなかった。
なにしてんだよ。
自分にげきを飛ばす。どこまでカッコ悪さを演じるんだ。
妹紅がこちらを振り返った。そのとき、彼女の腕にあるレコードが目に入り、足が震えながらも動いてくれた。
不安そうにこちらを見つめる妹紅に、大きくうなずき返す。
とうとう家のなかへと入った。
懐かしいにおいがした。
二人の後ろに続いているあいだ、できるだけなにも考えずに行く。もし途中で一度でも止まってしまったらふたたび歩き出せる自信がないのだ。
二階にあがる。ガラスのように光を反射する木目の廊下をなおも進んでいると――女中が足を止めた。合わせるようにぼくらも止まる。
上等な和紙が張られた襖があった。
「ここが阿求様のお部屋です。普段ならここで無礼のないように、と忠言を言うころなのですが、妹紅さんなら言わなくても大丈夫でしょう」
慇懃に頭をさげた女中は今来た道を帰っていった。
ごくりと唾を飲むと、妹紅がこちらを見る。
ためしに前足を動かそうとするとぎこちないがしっかり動いてくれた。
さっきと同じようにうなずく。彼女もうなずいた。
「――妹紅だ」
襖の向こうに声をかけると、「どうぞ」と綺麗な声が返ってきた。
すっと開けて入る。ぼくも後ろをついていく――。
そして、呼吸が止まった。そのことに気づくにも、たっぷりと時間がかかった。
阿求と妹紅がなにか話をしているのだが、声はまったく届かなく、五感すべてがこの部屋に吸い込まれていた。
どうやら百年前に迷い込んでしまったようらしい。
奥にはがっしりとした文机、左には書物を並べた本棚、右には青空を四角く切り取る窓――。
昔々とまったく変わっていなかったのだ。大好きな時間がずっと止まっていた。
ぼくは彼女を探した。早く大好きなレコードを流してほしくて、撫でてほしくて、いや、もっともっとしてほしいことがあって――。
「――かぐもこ、こんにちは」
部屋の正しい時間を告げる声に、ぼくは止まる。そちらに目を向けると柔和な笑みを浮かべる阿求がいた。悲しそうな顔の妹紅がいた。
彼女は、いなかった。
無機質な時計の針の音が聞こえている。
「実は、今日用事があるのは私じゃなくて、この猫なんだ」
阿求は不思議そうな顔で妹紅を見る。
「この子ですか?」
「ああ。信じてもらえるか分かんないが、しゃべるんだよ」
「しゃべる猫……」
「あと、このレコードを受け取ってくれ」
持っていたレコードを阿求に手渡す。そして、妹紅は「じゃあ」と言って、立ちあがりそそくさと退室してしまった。
相手に背を向けたとき、彼女の浮かべた泣き出しそうな顔を見逃さなかった。
ごめんね。
声に出さずに妹紅に謝る。
呆気に取られている阿求の前に、ぼくはおずおずと近づき、畳にお尻をつけて座った。
ここからは一匹で頑張らなくては。
石ころをたくさん飲み込んだようにお腹が重くなっていくなか、なんとか声を出す。
「――こ、こんにちは」
驚き入る阿求。しかしだんだんと強張った顔をゆるめていく。
「本当にしゃべれる猫さんなんですね」
「うん。その、どうやら妖怪になっちゃったらしくて」
「なるほど。危険で近づけていませんが、地底にも同じような猫がいるとは聞いたことがあります。もしかしたらそんなに珍しくないのかもしれませんね」
冷静に語りつつ、こちらを見つめてくる。
ついつい目をそらしてしまったぼくに、彼女は、
「初めまして。稗田阿求です」
と自己紹介をした。
さっき、なにかを期待して初めましてと言えなかった自分に気づき、ふっと寂しさが込みあげてくる。
こっから逃げてしまいたくもなった。
なにも言い返せぬぼくは、窓の外に目をやった。
風に吹かれるちぎれ雲が二つ、寄り添うように青空を流れていた。
ふっとあの日を思い出した。
そうだ、この風景はぼくがご主人に拾われたときに見たんだ。
生きることに疲れ切っていたぼくを、ご主人は拾ってくれて、ご飯をくれて、撫でてくれて。
その日から、この窓の外ではさまざまな世界が広がった。
ふっくらと花芽吹く春、セミの鳴き声と暑さに満たされた夏、清閑な十五夜が映える秋、しんしんと雪が降りしきる冬。
どんな季節になろうとも、ご主人はぼくの隣にいたんだ。
大丈夫、あの日々は、幻なんかじゃなかったんだ。
「――いきなりこんなことを頼むのは失礼だと思う。でも、お願いがあるんだ」
ぼくは相手の顔をしっかと見た。「妹紅に渡されたレコードを、流してほしい」
阿求は快諾して、部屋のすみへと寄っていく。そこには、蓄音機があった。
金色のアサガオは今なおしなびることなく咲いている。
「この音盤は、一体なんなのですか?」
「ぼくの大好きな曲なんだ」
「かぐもこさんは曲を聴くんですね。私はまったく聴かないんです。でも――」
レコードを入れて、針をおく。
「でも、おかしな話なんですが、ずっと聴きたかった曲があるんです。名前も調子も分からない。なのにずっと聴きたいと望んでいる曲。
前世は――関係ないですよね。私、前世は耳が聞こえなかったんですよ」
知っているよ――と答えたところで、なににもならないだろう。ぼくは初めて知ったかのようにつくろった。
「じゃあ、流しますね」
言いおわると同時に、部屋は安らかな旋律に満たされた。ぼくは目を閉じた。
あったかくてどこか優しさも感じる曲調――ゆっくりなのに退屈とは思わない。
耳から入る音楽は、全身の血潮をしずしずと湧き立たせる。
部屋の時間がふたたびさかのぼり、穏やかなメロディーがぼくをあの日に連れていった。
どうしてここに彼女がいないのか疑問に思えてくる。なんでもう会えないのか分からなくなる。
この曲が流れているときは、いつだって隣にいてくれたんだ。
なのに、今じゃあ――
蓄音機が流す曲は、この部屋に溶けていくように尾を引き消えていく。その尾をつかんでいつまでも抱きしめていたかった。
もし、蓄音機のレコードを逆回しにしたら、時間は戻ってくれるだろうか?
あの日々を、くり返せれるだろうか?
寂しいんだ、とっても。
ぼくは目を開けて、前を向く。そして――
驚いた。
同じく目を開けた阿求が、笑いかけてくる。
なんで?
そこで彼女も自分の異変に気づいたらしく、恐るおそる頬に触れた。
なんで、阿求は泣いているの?
「――あ、れ……?」
困惑しながら涙を拭っている。何度も袖を当てるのに、一向にそのしずくたちは止まらなかった。
ぽたぽた、ぽたぽたと。
こぼれ続ける涙は、まるでこの曲の形のないメロディーが凝って生まれた結晶のように、温かくて優しそうだった。
「なんで、泣いているの?」
「どうして、でしょうか……。わ、分かりません」
頬を筋となってつたう透明な結晶に当惑している阿求は、しかし突然涙と一緒に笑みもこぼした。
「分からないんですけど、でも、なぜか変なことを思ってしまって――」
窓から入る日光が、世界を明るく照らしている。
「この曲を、いつか聴いたことがある気がするんです」
メロディーが近くなった。
ぼくはなんて答えていいのか分からなかった。
そんなはず、ないじゃないか。
だってさ、阿求は前世の記憶がほとんどなくて、いや、そもそも、ご主人は耳がまったく聞こえなくてさ。ぼくの鳴き声に応えてくれたことなんでただの一度もないんだよ。
なのに――
そんなの、嘘に決まってる!
「変、ですよね」
「そ、そうだよ」
震える声で返す。そうだ、これは変なことだ。ありえないことだ。
おかしな――
「おかしいなことです。でもね、ずっとずっと、幾度もいくども聴いていたように懐かしく思えるんです」
そう言うと、阿求はぼくを抱いて膝の上においてくれた。
温かい。
「馬鹿な、話ですよね」
ほんとだ。これは、なんて馬鹿な話なんだ。
なんだよ――
届いて、いたんじゃないか。
目を閉じる。
温かい膝の上、ぼくは優しく彼女に撫でられていた。耳に入るのは大好きなラブソング。
まぶたの裏には、あの毎日が広がった。
本当になんでもなかった。それでも、心から愛することができた。
だって、ご主人がいてくれたから。
――どうして。
ねえ、ご主人。ぼくは、幸せだったんだよ。
永遠を願っていたんだよ。
ずっと甘えたかった。
ずっと膝の上に乗せてほしかった。
ずっと撫でてほしかった。
ずっと曲をともに聴きたかった。
ずっと名前を呼んでほしかった。
ずっとずっと――
ずっと、一緒にいたかった。
ラブソングは静かに流れている。あの日から、ずっと流れている。
ご主人――
ぼくを飼ってくれて、本当にありがとう。
◆ ◆ ◆
迷いの竹林で、ばったりと輝夜に出会った。
「あら、妹紅じゃない」
「輝夜か」
うれしそうに近づいてくる彼女は、薬箱を持っていた。
「また薬売りか?」
「ええ。ほら、この前、鈴仙とてゐがインフルエンザにかかったって言ったでしょ? あのふたりは昨日に治ったんだけど、今日の朝、今度は永琳がインフルエンザになっちゃって。つきっきりで看護してたものだから。
だから、今日一日休む彼女の穴うめを私たち三人でするはめになったの」
「じゃあ、診療所は閉まってるのか」
「まあね。でもこれが大変なのよ。なにせ月の頭脳と呼ばれる天才が一日でこなす事務仕事を我ら一般人がこなすの。大変でたいへんで、フォロー側に回ってあらためて彼女のすごさが分かったわ」
「なるほど。しかし永琳が体調くずすというのは驚きだな。医者の不養生――って言うのは可哀そうだけど、本当に珍しい」
鬼の霍乱、永琳のインフルエンザ――と輝夜は楽しそうに言った。
しかし次に疲れたように、自分の左手で持っている大根を見やり、ため息をついた。
「行く家行く家でお礼を言われるわ、道すがら店主に商品を渡されそうになるわ、困ったものよ」
彼女も阿求を助けに行った一人として、英雄として扱われている。
妹紅は「立派な大根だな」と皮肉を言ってやった。
「他の店はさ、辛抱強く断れば折れてくれるんだけど、八百屋は押しとおしてくるわ」
「分かるわかる。私もこの前ジャガイモをポケットに突っ込まれたし」
「あの八百屋は粘りっぷりと言ったら、オクラと納豆を混ぜたレベルね」
「変なたとえ」
そうして二人は歩き出した。家に帰ったら先日のジャガイモを使ってお昼ご飯をつくろうと妹紅は思った。
阿求の家に三毛猫を連れていって三日が経っていた。
見あげると、雲一つない晴天である。ここまで青一色だと、なんだか特大の色紙が自分の上をおおっているだけなのではないかと疑えてくる。
風の寒さがほんの少しだけ和らいでいる。でもまだ春の匂いはしない。
手袋とマフラーをしていない妹紅に、同じく防寒具のない輝夜が、
「そうそう」
と話しかけてきた。
「ん?」
「これ持って」
重そうな薬箱をずいと押しつけてくる。もちろん言い返した。
「やだ! なんで二回もお前の荷物持ちを務めなきゃいかんのだ」
「包帯代」
「へっ?」
「殺し合いのとき、あなたが勝手に使った包帯代よ」
「あ、あー……」
使ったな、確かに。
これは反論できないな――そうそうに諦めて薬箱を受け取った。これが代金に換えられるのだからむしろお得だ、と自分に言い聞かせながら。
相変わらず手にずしんとくる重さである。
渋面でいるとあることに気づいた。
なるほど、八百屋に横暴さと狡猾さをつけ加えたら輝夜になるのか。
「大根は自分で持つから結構よ」
そう言って大根一本を大切そうに抱きかかえた。「人の好意はもらった人が受け持たないとね」
竹のあいだを縫って降り注ぐこもれ日があったかい。もしそれらをかき集められたなら、一足早い春を迎えられるだろう。
かさりかさりと枯れ葉を踏んで歩いていると、
「訊き忘れてたけど、あなたはどこに行ってたの?」
と輝夜が訊ねてきた。
「ん……」
「私と一緒で入口のほうから来たんだから、どっかに行ってたんでしょ?」
「まあね」
あまり話したくはなかった。この話がこもれ日のように素敵なものではないからだ。
言葉を濁してしていたが、妹紅はため息にも似た声で言った。
「博麗神社、だよ」
「そう――」
輝夜はそれ切りなにも答えなかった。彼女は人の気持ちを察するのが上手い。
妹紅は右手をポケットに入れ――なかの櫛をにぎった。
霊夢が退院したと聞いて、自分でも驚くほどせきながら博麗神社を訪れた。
石階段をのぼり鳥居をくぐると、ほうきで庭掃除をしている霊夢がいた。彼女は妹紅を見るといささか呆気に取られたが、すぐに普段の仏頂面に戻った。
体のところどころにはまだ包帯が巻かれていた。
「――なによ」
掃除をしながら素っ気なく応える。大して枯れ葉のないところをずっと掃いている。
妹紅はただ「掃除代わるよ」と相手からほうきを受け取った。霊夢はおびえるような顔で応え、本社のなかへ入っていった。
そんな顔を望んでたわけじゃない。
お茶と煎餅の乗ったお盆を持って霊夢は出てきた。そのあと、二人は無言でお茶をすすっていた。
飲んでも食べてもお腹にたまっている気がしない。
しばらくしてから、
「ごめんなさい」
と、霊夢が胸にため込んだ黒い感情をたった一言にして吐き出すように言った。
そんな言葉を望んでたわけじゃない。
妹紅は相手の目を見つめた。
「ここに姿見はあるか?」
「えっ、ええ……。寝室に」
「すまないが、案内してくれないか?
怪訝な顔を浮かべていたが、おずおずと案内人を務めてくれた。
途中で訊いてくる。
「一体どうしたのよ」
「髪の手入れをしてやる」
呆然とする博麗の巫女だった。
姿見の前に座った霊夢は、思案顔で鏡に映る妹紅を見つめていた。
妹紅はポケットから自分の櫛を取り出し梳き始める。
手入れはしているのかと訊ねると、頬を染めながらしている、でも恥ずかしくて人に訊けなくて我流だと答えた。
その我流はお世辞にも上手とは言えなかった。髪はふにゃりとして整っていない。
「これはかぐや姫直伝のものだからさ、出来栄えだけは保証できるんだ」
「い、一体、なんなのよ」
「……ごめんな」
「えっ?」
鏡で霊夢の顔を見ずに、髪だけを眺めて謝った。相手の顔を見れなかったのだ。
自分のやっていることに意味があるのかは分からない。ただのお節介というものかもしれない。
でも、傍観者ではいたくなかった。
「こんなことしかできなくて、ごめん」
感得した霊夢はただ俯いた。
本当は輝夜を呼んで、頬におしろいをつけてあげたかった。唇に朱をさしてあげたかった。綺麗な着物を着つけてあげたかった。
だけど、博麗の巫女には叶わぬ夢なのだ。
霊夢は頭のリボンを外し、小さな声で「お願い」と言った。
するすると櫛が通っていく。髪質はもとよりいいらしく、少し当てるだけで途端に整った。
できるだけなにも考えず、目の前の髪だけを見つめ続ける。彼女の黒髪になにか祈りを込めるように、手を動かし続ける。
十二分に時間をかけてまんべんなく梳かしおえる。すると、極端な変化はないものの、雰囲気は変わったように感じた。
やっぱり小さなことだ、と思っていると、霊夢がにわかに動いた。
目を見開きながらゆるゆると自分の髪に触れる。割れやすいビードロを扱うようなぎこちない仕草であった。
「髪、綺麗になってる」
鏡のなかの霊夢をのぞくと、彼女はだんだんと頬をゆるめていき、鏡に映った妹紅を見た。
泣きそうなくせに笑っていた。うれしそうに照れていた。
「ねえ、妹紅。私さ、可愛くなったかな」
深くうなずいた拍子に、妹紅の目から温かなしずくがこぼれて頬をつたう。
霊夢は、いつまでも包帯の巻かれた手で自分の髪を撫でていた。
手のひらの痛みで我に返る。どうやら櫛を強くにぎりしめて食い込んでいたらしい。
隣の輝夜は黙々と歩いていた。わざと黙っていてくれたように感じて申し訳なかった。
妹紅がいささかばつの悪い思いに駆られていると――ふいに風が吹いた。
どこか鼻歌じみた音――。
「――今日も、三毛猫は帰ってこなかったよ」
「……そう」
あいつを阿求の家に連れていってから三日前から今日まで、三毛猫は帰ってこなかった。
一昨日、昨日と我が家を訪れた輝夜はほとんどしゃべらなかった。
妹紅だって日を追うごとに胸にわだかまるもやもやを持て余している。
「あのさ、猫って、死ぬときは人目のないところで死ぬらしいんだ」
もやもやは喉もとで言葉になって口からあふれた。
痛かった。どこかは分からないけど。
「もしかして、あいつもさ――」
「かぐもこよ」
輝夜が言葉を遮って言った。「あいつじゃなくて、かぐもこよ」
相手の真意がつかめずに目を丸くする。輝夜は拗ねたように続けた。
「私はあの子の名前をかぐもこにしたっていうのに、あなたはただの一度も呼んでくれなかったわね。どうして?」
「どうしてって……。なんていうか……」
「こんな素敵な名前、なかなかないわよ」
「素敵、か?」
「もちろん」
自信ありげにうなずく輝夜。そして釈然としない妹紅を向いて、ふふんと笑った。
「終わらない蓬莱人二人の名前を冠しているんだもの」
輝夜は『死なない』じゃなくて『終わらない』と表現した。そっちのほうが胸にすとんと落ちた。
そうか、終わらないのか――。
素敵な名前じゃないか、と今さらながら思った。名前で呼んでやればよかったと後悔もした。
妹紅は口を開きかぐもこと声に出そうとしたが、今まで言わなかったつけが回ってきて急に恥ずかしくなってしまった。中途半端に口を開け続けるのもおかしなことなので閉じようとする。
と、そのとき、あれが浮かんできた。嫌というほど聞いたあれが。
思い出すと同時に、口ずさんでいた。
「――なーなーなー」
まるで自分の息に吹かれたように、竹が揺れる。
歌ってみると、口のなかに温かい甘さが広がった。
その甘さを伸ばすように歌う。
「なーななー」
「下手くそな歌」
輝夜が吹き出して笑った。その笑い声さえも、この歌の一部に聞こえた。
「ほっとけ。最初に歌ってた奴が下手だったんだよ」
言い返しながらも歌い続ける。幻想郷中に知れ渡ってほしくて、歌詞をこの世界に溶かし込むように。
ななななーななーなななーななーななななー
そうか。そうだったんだ。
この歌こそが、あいつの永遠なんだ――。
妹紅は思った。明日から、人里に行こう。そこで慧音だけじゃなくて他にも友人をつくろう。たくさんたくさんつくろう。
どうせどんな友人も自分より早く死んでしまう。きっとそのお別れはどうしようもなく寂しいのだろう。
だけど、この歌を知ってしまった自分は、つながりというものに憧れてしまったのだ。
私はやはり、あいつに妬けているんだろうな。
竹が優しく揺れている。
輝夜が柔らかく笑っている。
妹紅はずっと歌い続けている。
いつまでも歌っていたかった。
なあ、かぐもこ。
お前もそう思うだろう?
だって――
今日は、絶好のラブソング日和なんだから。
ただただ、最高でした。
どこに持って行きたいか目標があって、それに必要なエピソードを組み込んだら200kになりました的な。……外れてたら恥ずいな。
ともあれとても大好物なお話でした。こういうのを読みたいが為に私は創想話に日参しているのです。
素敵なお話をどうも有難う御座いました。
昔飼っていたペットの事を考えてしまいました
面白かったです
不器用な妹紅が他人に影響していくところに惹かれました。
ある、と言われてしまうとぜひとも裏話をお聞きしたいなぁ…と思いますね。
素晴らしかったです。
ミケだった彼は真実に辿り着いて救われたのでしょう。
そして、いつまでもラブソングは響き続けることでしょう。
所々で泣き出しそうになりました。
このようなお話を読めて感無量といった感じです。
本当にありがとうございました。
見所が多過ぎて、ちょっと語り切れません。
猫の歌、聞かせていただきました。
以前の作品にもふれていて、すごく楽しめました。
月並みな事しか言えなくて申し訳ありませんが、感動しました。
阿求霊夢の葛藤もよく表現されてますね
文章もうまいなあ……
ところどころ誤字があるのが非常に残念
あと、もこたん&姫様は絶対に怒らせちゃいけない、絶対に絶対に……
結構な長さなのにまったく気にならなかった
ありがとう。いいもの読まさせてもらいました
素晴らしい時間をどうもありがとうございました。
ここで読める完璧な作品の一つだと思います
あと比喩にもっと自信持って良いと思いますよ
素敵なお話をありがとうございました!
自分の中の霊夢や博麗の巫女の認識とは少々違いましたが、
こうなのかもしれないと納得させられました
またお願いします
誤字報告です
>こちらの合図で発火したり消化したりでき → 消火ですね
あと「役不足」ですが、妹紅の時代(律令時代)には、官位と役職とには相応という大原則があり、用語も定められていました、下位の者が上位の役職を務める場合には「守」
上位の者が下位の役職を務める場合は「行」です
一例ですが、
「従三位藤原○○行春宮大夫(従三位の藤原○○が、本来四位相当の役職である皇太子付きを、官位に見合わないけれども、敢えて務める」
官位が高い者が、見合わない仕事を担う事を「役不足」と言います
Wikiなどもご参考下さい
このお話しの場合、どうなのかちょっと計り兼ねていますけれども・・・
書きたいことは山ほどあります。が、それを全部書くのは無粋というものでしょう。
私の感じた感情。この点数を入れることでささいなお返しとさせて下さい。
この作品に対する作者様の丁寧な姿勢・想いがそのまま反映されているように感じました
素敵なラブソングをありがとうございます