宴会の席は、誰かが煙草をふかしているわけでもないのに、どこかしらくすんでいるように思えた。立ち込める酒気と熱気が混ざり合って、目には見えないが他の四感に働きかけるある種の湯気のようなものが、この部屋に充満しているのかもしれない。
霊夢は宴会が好きだ。異変が終わって達成感とともにそれまで争っていた相手と盃を酌み交わすのもいいが、今のように、昼に魔理沙がぷらっと訪れて、唐突な宴会の提案をして、あきれているところに萃香その他宴会好きな連中が何らかの手段で聞きつけて、あれよあれよの間に準備が始まって夕闇が神社に流れ込み、日が沈むのを合図として皆で一斉に乾杯の音頭。いつの間にやら魔女吸血鬼幽霊半霊亡霊蓬莱人ウサギその他有象無象が集まってわいわい楽しくやっている。日々楽しく過ごしてはいても、さすがに一人が続くとさみしくもなってくる霊夢としては、はかったようなタイミングで魔理沙が宴会話を持ち込んでくるので、見張られているんじゃないかと疑ったことももちろんある。でも、ま、いいや、ちょうどいいし。霊夢も肩をすくめそうつぶやいて、酒宴の混沌の中に身をゆだねるのだった。
夏が近く、夜の闇はいつもよりもねっとりしている。腋の下がじっとりと汗ばんでいる。不快さをごまかすために杯を空けると、すぐさま次のが注ぎ足され、一瞬遅れてじんわりと、酔いと熱で頭がぬかるんでくる。
「どうかしたか? 霊夢」
「ん……いや」
朗らかな魔理沙の声にぼんやりと答える。その向こうで、いつの間にやら紛れ込んでいた紫が、扇子で口元を隠しながら目を細めた。
魔理沙は「ふぅん?」と返事をすると、春風のような身軽さでアリスの即興の人形芝居の見物に戻った。それはもっぱら妖精たちに受けがよく、チルノなどが子供じみた歓声をあげている横で三妖精は額を寄せ合って悪巧みの計画らしきことをしている。あんにゃろう。他はだいたいグループごとに分かれていて、どっかから持ち込んだらしい大仰な椅子に座ってレミリアがおよそこの場に相応しくないヴィンテージもののワインをグラスでくいっとやりつつ咲夜に団扇を仰がせている。冥界組はもっぱらおしゃべりと食べることに集中しており、妖夢は幽々子や藍のお酌をするのに甲斐甲斐しい。苦労性。鈴仙と文は兎か鳥かでいつもの取り止めのない議論をしている。同盟であるはずのてゐは知らん顔で諏訪子神奈子と古代にまで遡る思い出話に興じているが。とどのつまり、あっちでわいわい、こっちでわいわい。その様子はおおいに楽しそうで――
すこし、だるい。
とたんに、霊夢の身体がぷかりと浮いた。煙管を吸ったとき、遊び心でぷくぅと息を吐き出すと、ちっちゃめで可愛らしいけむりの輪っかがやぁと挨拶するようなものだった。霊夢は重力のくびきから解き放たれた。天井にぶつかる。さほど痛くはない。でもよどんだ空気が上にたまっていた。ここではだめだ。外へ。外へ出ないと。
「霊夢?」
誰かしらが声をあげた。誰かはわからなかった。ぶっちゃけどうでもよかった。霊夢は風船のように天井でぽんぽんはねつつ、広々とした夜へと漂いだしていった。
袖がはためく。腋を胸を腕を脚を、爽快な風が清めていく。汗はそれで吹き飛んだ。気持ちがいい。神社を少し離れ、暗色の汁でとっぷり煮られた黒い森の上をふわふわと浮かんでいく。霊夢がそばを通ると、葉がどうぞどうぞと言わんばかりにざわめいて道を開ける。ちょっといい気味。機嫌がよくなって、両腕を伸ばして鳥みたいに羽ばたいてみる。それで速度は変わらなかったけど、こういうのは気分が大事だ。夜の鳥。ならぬ、夜の蝶。いかがわしいって? 知るか!
なんて考えてたら、本物の夜雀に行きあった。彼女はうかない顔で座りやすそうな木の枝にちょこなんと腰かけている。その横には、何もささってない串を名残おしげにぺろぺろなめている宵闇の妖怪。そういえばこの二人は宴会で見かけなかった。
「こばんは」
目が合ってしまったので、霊夢はなんとなく略式の挨拶をした。ミスティアは顔をあげて、いぶかしげな表情。
「どうしたの? 宴会は?」
「抜け出して、散歩」
「ふぅん……いいご身分だね? こっちは客とられて商売あがったりなのにさ」
「どうせあれ、趣味でやってんでしょ」
「まぁ、ね」
ミスティアがふっと笑うと、ルーミアが彼女の脇腹をつんつんした。
「ねぇねぇ、お腹すいたー。もっとない?」
「我慢してよ。下まで取りにいくのめんどくさいんだから」
「んー……じゃあ、巫女、食べる?」
「やめなさいよ。そんな気分じゃないし」
「そ。我慢我慢」
二人に言われて、ルーミアはうつむいてしょぼんとした。ミスティアはやれやれという風にその金色の頭をなでる。仲がいいのは結構だけれど、今の自分の目的はそれではない。さっきも言ったとおり、空中散歩である。
「じゃ、またね。人間襲うんじゃないわよ」
そう言い残して、霊夢はその場をあとにした。
二人は仲が良くて、たとえ相手が妖怪とはいえ、見ていて気分が良いものだった。でも、此度の目的はそれを見ることじゃないのだ。今は独りがいい。たった一人で、空を自由に漂っているのが大事だ。でも、こんな低空を飛んでいたら、いつまでもそんな気分に浸れる気がしなかった。だって、これくらいの高度の空を自由にしている連中なんて、ここにはごまんといるのだから。そいつらからも見つからないようにするには、どうすればいい?
天蓋、濃い目の珈琲に、とろりとした白いミルクを流し込んだような。それで暗闇の苦味はちょっと薄れて、遥かにとっつきやすいものになっているだろう。光の粒は親しげに瞬いて霊夢を誘っているのだし、星空の招待に応じて、あの銀河へと漂っていったら? もっと気持ちがいいんじゃないだろうか。
体を上に向かせたとたん、どこかから微かな声が聞こえ始めた。
「……む……れいむ、霊夢、聞こえる?」
「紫?」
でもどこから? 周囲に亀裂が浮かんでいる様子はない。あちこち体をまさぐって見ると、いつぞやの通信用陰陽玉が転がり出てきた。
「まだ使えたのね、これ」
「みんなびっくりしてるわよ。突然いなくなって」
「そっちは? まだ飲んでるの」
「いいえ。なんせ、貴女がいなくちゃあね。いまいち盛り上がらないのよ」
少し罰の悪い思い。
「……私のことは構わずに続けてって、伝えてよ。どうせ気まぐれだし」
「わかったわ。で、どうすればその気まぐれが済むのかしら」
「さぁ。あてなんてないし。もうちょっと漂ってみるつもり。せっかくだから上まで行ってみることにするわ」
「あんまり遠くまで行っちゃだめよ? それで困る人もいるのだから」
「あんたが? それとも、ほかのみんなが?」
「両方よ」
「わかったわよ」
直角方向へ針路をとる。いくつもの雲を越えて夜空へ向かう。陰陽玉は何も言わずについてきた。おせっかい。気にしないことにして、霊夢は先を急いだ。どこまで行っても空気は薄くならない。寒くもない。頭の中がさっぱりして、ぬかるみはすっかり乾いて固まったように思えた。今は澄明な風が吹きすぎていくだけ。おかしいな。前宇宙に行ったときは、もっともっと、苦労したはずだけれど。あれは、夢だったのかな。
「……まだ、行くのね?」
もうすっかり地上は遠くなっている。幾つもの雲をこえ、幾重もの層を抜けた。最後の硝子をぶち破ってしまえば、そこはすっかり宇宙だ。紫の確認を待つ暇もなく、霊夢は無限の暗がりへと飛び出していった。宇宙の風が吹き荒んでいる。星は手を伸ばせばすぐ近くにあった。衝動に駆られて、一つ手にとって、ぱくっとやる。魔理沙がいっつもまき散らしている星のように、甘かった。
「これなら、食糧事情には困らないわね」
「栄養価はどれくらいかわからないわよ」
「大丈夫よ、きっと。だって、こんなに楽しいし」
そう、楽しい。完全に独りというわけじゃないけれど。星はそこらへんに無数にあるし、泳いでゆっくりとミルクの流れる川を渡っていくのはわくわくした。木星みたいな大きな惑星は、ちょっと怖いけど。月に目をやると、どこかで見たことのあるブレザー姿の兎たちが手を振ってくれた。このままどこまでも行ける。そんな気がした。
「霊夢……どうして宴会を抜け出したの?」
そんな気がした。
「みんなと一緒にいるのが、嫌になったの?」
そんな気がした。
「独りっきりのほうがいいのね?」
そんな気がしていた。
「なら、何も言わないわ」
それきり、紫は何も言わなくなってしまった。
しばらく、風に流されるままに、ふよふよと飛んでいった。気の向くまま、お腹が空いたら星を食べて、喉が乾いたら、どこかの惑星に降りて渇きを癒す。そこには様々な生き物がいて、それぞれに多様な頭を悩ませる課題があるようだった。火星では戦争が、木星ではガスが、海王星では洪水が、冥王星では暗闇が、悩みのタネだった。霊夢は相変わらず飛んでいた。
そのうちに、ふっと芽生えた感情があった。神社で、なんの異変もなく、誰も来ないで、ただ時間を浪費していると、心の表面を鋭い刃先ですっと撫でるだけのあの感情。それにどう名前を付けていいか霊夢にはわからない。
「ゆかり――」
「うん?」
すぐに声がしたので、霊夢は安心した。
安心?
「霊夢、さみしくなった?」
悪戯っぽいその問いかけに答えるのもしゃくだったので、黙っておいた。どっちみち、ここまで来たら、もう戻れない。風は地球から遠ざかる方向へ絶え間なく吹き続けて、霊夢を押し流していく。このまま、太陽系の外へと出てしまうだろう。
「帰りたい?」
「できるの?」
「あら、やっぱり帰りたいのね?」
「いいや」
ぷい、と霊夢がそっぽを向くと、くすくす笑いが漏れてきた。
「なによ」
「いや、かわいいなぁって」
「なっ――」
「ささ、陰陽玉にしっかりつかまっておきなさい。行先は幻想郷、お荷物は寂しがりやの巫女さん一名ね」
なんだかまるっとお見通しの感があって、悔しかった。でもしょうがない。ここは自由に満ち溢れているけれど、あるものが決定的に欠けているのだから。
陰陽玉をしっかりと両手で握ると、それはなんの前触れもなく、猛スピードで風に逆らい進みだした。腕を胸を脚を腋を、冷え切った風が貫いていく。いまは霊夢自体が一つの流れ星となっているらしい。それにつられてかはどうかはわからないが、小さな屑星たちがちろちろと明滅しながら後を追いかけてくる。それらのいくつかは霊夢の身体に張り付いて子供のように離れなかった。それは霊夢も同じだ。絶対に離さないように、両手両腕に力を込める。惑星を避け、輪っかをくぐり、小流星群を尻目に、月の兎たちがまた手を振っているのにも脇目を振らず、青く暖かい星のある場所を目指していく。再び幾重もの層。雲のベールをかき分けて、群れをなして飛んでいた鳥たちをびっくりさせ、行き着く先は――
「えっ、ちょっ」
もう神社の屋根が目前に迫って――
どぐお、と嫌な音を立てて、板や梁を盛大に突き破り、何人かの唖然とした顔、そして、紫のかざしているもう一つの陰陽玉に――
ごっちん。
それで旅のお供が粉々に砕け散ったのは言うまでもない。
気が付くと、何かやわらかいものに包まれていた。体の芯から凍えていたのだけれど、すぐさま、そのやわらかいものが何かに気が付いて、霊夢は飛びのいた。
「あら、つれないわねぇ」
玉越しに聞いたのと同じ、あのくすくす笑いが迎えてくれた。
「それで、どうでした? 星空の一人旅は」
「……悪くなかったわ」
霊夢は精一杯の抵抗としてそう呟いたあと、どうせぜんぶわかってるんだろうな、と思って、ぽりぽりと頭を搔いた。くっついてきた星屑たちが、安心して眠りにつくように、ふっと、少しの瞬きのあと零れ落ちた。
霊夢は宴会が好きだ。異変が終わって達成感とともにそれまで争っていた相手と盃を酌み交わすのもいいが、今のように、昼に魔理沙がぷらっと訪れて、唐突な宴会の提案をして、あきれているところに萃香その他宴会好きな連中が何らかの手段で聞きつけて、あれよあれよの間に準備が始まって夕闇が神社に流れ込み、日が沈むのを合図として皆で一斉に乾杯の音頭。いつの間にやら魔女吸血鬼幽霊半霊亡霊蓬莱人ウサギその他有象無象が集まってわいわい楽しくやっている。日々楽しく過ごしてはいても、さすがに一人が続くとさみしくもなってくる霊夢としては、はかったようなタイミングで魔理沙が宴会話を持ち込んでくるので、見張られているんじゃないかと疑ったことももちろんある。でも、ま、いいや、ちょうどいいし。霊夢も肩をすくめそうつぶやいて、酒宴の混沌の中に身をゆだねるのだった。
夏が近く、夜の闇はいつもよりもねっとりしている。腋の下がじっとりと汗ばんでいる。不快さをごまかすために杯を空けると、すぐさま次のが注ぎ足され、一瞬遅れてじんわりと、酔いと熱で頭がぬかるんでくる。
「どうかしたか? 霊夢」
「ん……いや」
朗らかな魔理沙の声にぼんやりと答える。その向こうで、いつの間にやら紛れ込んでいた紫が、扇子で口元を隠しながら目を細めた。
魔理沙は「ふぅん?」と返事をすると、春風のような身軽さでアリスの即興の人形芝居の見物に戻った。それはもっぱら妖精たちに受けがよく、チルノなどが子供じみた歓声をあげている横で三妖精は額を寄せ合って悪巧みの計画らしきことをしている。あんにゃろう。他はだいたいグループごとに分かれていて、どっかから持ち込んだらしい大仰な椅子に座ってレミリアがおよそこの場に相応しくないヴィンテージもののワインをグラスでくいっとやりつつ咲夜に団扇を仰がせている。冥界組はもっぱらおしゃべりと食べることに集中しており、妖夢は幽々子や藍のお酌をするのに甲斐甲斐しい。苦労性。鈴仙と文は兎か鳥かでいつもの取り止めのない議論をしている。同盟であるはずのてゐは知らん顔で諏訪子神奈子と古代にまで遡る思い出話に興じているが。とどのつまり、あっちでわいわい、こっちでわいわい。その様子はおおいに楽しそうで――
すこし、だるい。
とたんに、霊夢の身体がぷかりと浮いた。煙管を吸ったとき、遊び心でぷくぅと息を吐き出すと、ちっちゃめで可愛らしいけむりの輪っかがやぁと挨拶するようなものだった。霊夢は重力のくびきから解き放たれた。天井にぶつかる。さほど痛くはない。でもよどんだ空気が上にたまっていた。ここではだめだ。外へ。外へ出ないと。
「霊夢?」
誰かしらが声をあげた。誰かはわからなかった。ぶっちゃけどうでもよかった。霊夢は風船のように天井でぽんぽんはねつつ、広々とした夜へと漂いだしていった。
袖がはためく。腋を胸を腕を脚を、爽快な風が清めていく。汗はそれで吹き飛んだ。気持ちがいい。神社を少し離れ、暗色の汁でとっぷり煮られた黒い森の上をふわふわと浮かんでいく。霊夢がそばを通ると、葉がどうぞどうぞと言わんばかりにざわめいて道を開ける。ちょっといい気味。機嫌がよくなって、両腕を伸ばして鳥みたいに羽ばたいてみる。それで速度は変わらなかったけど、こういうのは気分が大事だ。夜の鳥。ならぬ、夜の蝶。いかがわしいって? 知るか!
なんて考えてたら、本物の夜雀に行きあった。彼女はうかない顔で座りやすそうな木の枝にちょこなんと腰かけている。その横には、何もささってない串を名残おしげにぺろぺろなめている宵闇の妖怪。そういえばこの二人は宴会で見かけなかった。
「こばんは」
目が合ってしまったので、霊夢はなんとなく略式の挨拶をした。ミスティアは顔をあげて、いぶかしげな表情。
「どうしたの? 宴会は?」
「抜け出して、散歩」
「ふぅん……いいご身分だね? こっちは客とられて商売あがったりなのにさ」
「どうせあれ、趣味でやってんでしょ」
「まぁ、ね」
ミスティアがふっと笑うと、ルーミアが彼女の脇腹をつんつんした。
「ねぇねぇ、お腹すいたー。もっとない?」
「我慢してよ。下まで取りにいくのめんどくさいんだから」
「んー……じゃあ、巫女、食べる?」
「やめなさいよ。そんな気分じゃないし」
「そ。我慢我慢」
二人に言われて、ルーミアはうつむいてしょぼんとした。ミスティアはやれやれという風にその金色の頭をなでる。仲がいいのは結構だけれど、今の自分の目的はそれではない。さっきも言ったとおり、空中散歩である。
「じゃ、またね。人間襲うんじゃないわよ」
そう言い残して、霊夢はその場をあとにした。
二人は仲が良くて、たとえ相手が妖怪とはいえ、見ていて気分が良いものだった。でも、此度の目的はそれを見ることじゃないのだ。今は独りがいい。たった一人で、空を自由に漂っているのが大事だ。でも、こんな低空を飛んでいたら、いつまでもそんな気分に浸れる気がしなかった。だって、これくらいの高度の空を自由にしている連中なんて、ここにはごまんといるのだから。そいつらからも見つからないようにするには、どうすればいい?
天蓋、濃い目の珈琲に、とろりとした白いミルクを流し込んだような。それで暗闇の苦味はちょっと薄れて、遥かにとっつきやすいものになっているだろう。光の粒は親しげに瞬いて霊夢を誘っているのだし、星空の招待に応じて、あの銀河へと漂っていったら? もっと気持ちがいいんじゃないだろうか。
体を上に向かせたとたん、どこかから微かな声が聞こえ始めた。
「……む……れいむ、霊夢、聞こえる?」
「紫?」
でもどこから? 周囲に亀裂が浮かんでいる様子はない。あちこち体をまさぐって見ると、いつぞやの通信用陰陽玉が転がり出てきた。
「まだ使えたのね、これ」
「みんなびっくりしてるわよ。突然いなくなって」
「そっちは? まだ飲んでるの」
「いいえ。なんせ、貴女がいなくちゃあね。いまいち盛り上がらないのよ」
少し罰の悪い思い。
「……私のことは構わずに続けてって、伝えてよ。どうせ気まぐれだし」
「わかったわ。で、どうすればその気まぐれが済むのかしら」
「さぁ。あてなんてないし。もうちょっと漂ってみるつもり。せっかくだから上まで行ってみることにするわ」
「あんまり遠くまで行っちゃだめよ? それで困る人もいるのだから」
「あんたが? それとも、ほかのみんなが?」
「両方よ」
「わかったわよ」
直角方向へ針路をとる。いくつもの雲を越えて夜空へ向かう。陰陽玉は何も言わずについてきた。おせっかい。気にしないことにして、霊夢は先を急いだ。どこまで行っても空気は薄くならない。寒くもない。頭の中がさっぱりして、ぬかるみはすっかり乾いて固まったように思えた。今は澄明な風が吹きすぎていくだけ。おかしいな。前宇宙に行ったときは、もっともっと、苦労したはずだけれど。あれは、夢だったのかな。
「……まだ、行くのね?」
もうすっかり地上は遠くなっている。幾つもの雲をこえ、幾重もの層を抜けた。最後の硝子をぶち破ってしまえば、そこはすっかり宇宙だ。紫の確認を待つ暇もなく、霊夢は無限の暗がりへと飛び出していった。宇宙の風が吹き荒んでいる。星は手を伸ばせばすぐ近くにあった。衝動に駆られて、一つ手にとって、ぱくっとやる。魔理沙がいっつもまき散らしている星のように、甘かった。
「これなら、食糧事情には困らないわね」
「栄養価はどれくらいかわからないわよ」
「大丈夫よ、きっと。だって、こんなに楽しいし」
そう、楽しい。完全に独りというわけじゃないけれど。星はそこらへんに無数にあるし、泳いでゆっくりとミルクの流れる川を渡っていくのはわくわくした。木星みたいな大きな惑星は、ちょっと怖いけど。月に目をやると、どこかで見たことのあるブレザー姿の兎たちが手を振ってくれた。このままどこまでも行ける。そんな気がした。
「霊夢……どうして宴会を抜け出したの?」
そんな気がした。
「みんなと一緒にいるのが、嫌になったの?」
そんな気がした。
「独りっきりのほうがいいのね?」
そんな気がしていた。
「なら、何も言わないわ」
それきり、紫は何も言わなくなってしまった。
しばらく、風に流されるままに、ふよふよと飛んでいった。気の向くまま、お腹が空いたら星を食べて、喉が乾いたら、どこかの惑星に降りて渇きを癒す。そこには様々な生き物がいて、それぞれに多様な頭を悩ませる課題があるようだった。火星では戦争が、木星ではガスが、海王星では洪水が、冥王星では暗闇が、悩みのタネだった。霊夢は相変わらず飛んでいた。
そのうちに、ふっと芽生えた感情があった。神社で、なんの異変もなく、誰も来ないで、ただ時間を浪費していると、心の表面を鋭い刃先ですっと撫でるだけのあの感情。それにどう名前を付けていいか霊夢にはわからない。
「ゆかり――」
「うん?」
すぐに声がしたので、霊夢は安心した。
安心?
「霊夢、さみしくなった?」
悪戯っぽいその問いかけに答えるのもしゃくだったので、黙っておいた。どっちみち、ここまで来たら、もう戻れない。風は地球から遠ざかる方向へ絶え間なく吹き続けて、霊夢を押し流していく。このまま、太陽系の外へと出てしまうだろう。
「帰りたい?」
「できるの?」
「あら、やっぱり帰りたいのね?」
「いいや」
ぷい、と霊夢がそっぽを向くと、くすくす笑いが漏れてきた。
「なによ」
「いや、かわいいなぁって」
「なっ――」
「ささ、陰陽玉にしっかりつかまっておきなさい。行先は幻想郷、お荷物は寂しがりやの巫女さん一名ね」
なんだかまるっとお見通しの感があって、悔しかった。でもしょうがない。ここは自由に満ち溢れているけれど、あるものが決定的に欠けているのだから。
陰陽玉をしっかりと両手で握ると、それはなんの前触れもなく、猛スピードで風に逆らい進みだした。腕を胸を脚を腋を、冷え切った風が貫いていく。いまは霊夢自体が一つの流れ星となっているらしい。それにつられてかはどうかはわからないが、小さな屑星たちがちろちろと明滅しながら後を追いかけてくる。それらのいくつかは霊夢の身体に張り付いて子供のように離れなかった。それは霊夢も同じだ。絶対に離さないように、両手両腕に力を込める。惑星を避け、輪っかをくぐり、小流星群を尻目に、月の兎たちがまた手を振っているのにも脇目を振らず、青く暖かい星のある場所を目指していく。再び幾重もの層。雲のベールをかき分けて、群れをなして飛んでいた鳥たちをびっくりさせ、行き着く先は――
「えっ、ちょっ」
もう神社の屋根が目前に迫って――
どぐお、と嫌な音を立てて、板や梁を盛大に突き破り、何人かの唖然とした顔、そして、紫のかざしているもう一つの陰陽玉に――
ごっちん。
それで旅のお供が粉々に砕け散ったのは言うまでもない。
気が付くと、何かやわらかいものに包まれていた。体の芯から凍えていたのだけれど、すぐさま、そのやわらかいものが何かに気が付いて、霊夢は飛びのいた。
「あら、つれないわねぇ」
玉越しに聞いたのと同じ、あのくすくす笑いが迎えてくれた。
「それで、どうでした? 星空の一人旅は」
「……悪くなかったわ」
霊夢は精一杯の抵抗としてそう呟いたあと、どうせぜんぶわかってるんだろうな、と思って、ぽりぽりと頭を搔いた。くっついてきた星屑たちが、安心して眠りにつくように、ふっと、少しの瞬きのあと零れ落ちた。
親子っぽいゆかれいむごちそうさまです
ほのぼのとしていて良かったです。
そのくせ何故か、毒々しい何かがある気がします
ほのぼのとしているようで本当はとても怖いようなそうでもないような・・・・・
引力から浮遊して自由になることは、素敵なんですが反面とてもよろしくないような・・・
一度地面を離れた霊夢を呼び戻してくれる紫達は優しいんでしょう
なんとも不思議な雰囲気のSSでした。