Coolier - 新生・東方創想話

盤面この一手

2013/04/21 13:39:46
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 雲一つない夜空に膨らんだ月が煌々と照っている。地面にくっきりと象られた影が、共に歩行を続けていた。
 無風。葉の擦れる音はなく、虫たちの騒ぎが際だつ。森は既に抜けた。後戻りはできない。徐々に視界の中で大きさを増していく赤い建造物を見上げる。
 紅魔館。
 幻想郷の中では無視できない勢力の居城だ。人間はもちろん、並の妖怪は近づくことさえしない。君子危うきに近寄らず。
 つまりは愚者である自分が、ゆえにそこへ近づいているわけだ。
 さて、さて、と。
 歩調、呼吸は常の通り。気持ちは落ち着いている。勝負は転がってみないとわからないが、わからないことで気を揉んでも仕方ない。テンパって手順を違えてもつまらない。うん、いいコンディションだ。万に一つの勝ち目は今のところ存在してる。このまま行こう。
 ふと秋風が顔を撫でる。夜気は澄んで、草木の香りを微かに乗せていた。
 第一関門は目の前にある。文字通りの門、だ。
 鉄格子が物々しい門扉は、しかし開かれている。というより、むしろ閉じられていたことの方を自分は知らない。まあ、それも当然。閉じる必要がないからだろう。より堅固な障壁がそこにいるからだ。
 緑の帽子と服を身につけた女性が、解放された門の左側に寄りかかっている。腕組みをしてウツラウツラと頭、そして腰まで流れる赤髪を揺らしていた。
 夜だから? いや、彼女は昼間も似たようなものだ。日がな一日、器用にも立ったまま船を漕いでいる。その船の出航先は知らないが、常に投げナイフでツッコミをもらっていることから、三途の川辺りなのかもしれない。
 けれど、これを以て彼女を不真面目と評するのは適当ではないだろう。なにせ一日中、休みと言える休みも取らずに、ずっと門に貼り付いているのだ。さらにそれが連日となっては、睡魔に襲われるのも無理はない。むしろ適宜睡眠を取らなくては仕事に支障が出る。
 今は出ていないのかという疑問が出たなら、支障など出るはずがないと明確に回答しよう。
 実力者というのは力に見合ったプライドを持っている。夜の世界で最強を誇る種族が、生半可な者を館の真ん前に据える道理がない。
 館の「顔」として認められた者。それが彼女、紅美鈴だ。
 ほーら、その証拠と言わんばかりに、こちらが歩を進めるごとに変化してるじゃないか。さながら外の世界に聞くネオンの如しだ、この「看板娘」は。
まずは上下する頭の動きが止まる。
 さらに右足、左足とこちらが地下足袋を踏み出すと、彼女の目は薄く開く。
 右足、左足。
 彼女の顔が上がる。
 右足、左足。
 瞬きが為され、瞳が対象を見据える。
 右足、左足。
 組まれた腕が、ああ、組まれたまんまだ。微動だにせず。
 こちらに敵意がないからというのもあるのだろう。その上、服装が半袖・ハーフパンツの甚平に地下足袋だし。敵襲!という認識より、夜の散歩を楽しんでいる酔狂な男?という認識のが普通だ。でも、まあ、構えを取らない第一の理由は、実力差が相当隔たっていると見くびったからだろうな。
 やれやれ。音に聞く紅魔館の門番、その目は存外フシ穴、ではないようだ。よぉくわかってらっしゃる。
 実際、彼我の実力差は隔絶している。月とスッポンもいいとこだ。
(いや、この場合は星とスッポンかな)
 彼女の帽子にあつらえられた星の紋章を見つつ、言い換えてみる。月と星の地上からの距離差を考えても、そっちの方がふさわしかろう。
 会釈をすると向こうも会釈を返す。わざわざ腕組みを解いてだ。礼儀正しい。
 普通の声が普通に届く位置まで来たので、改めて挨拶をする。
「こんばんわ、スッポンです」
「? こんばんわ」
 意味不明な言葉にも律儀に返してくれる。人間(妖怪)ができてる。というか、人(妖怪)がいいってレベルだ。そもそも、自分のこの姿を見ても普通に接する時点で新鮮。初対面からニュートラルな対応を受けるのは、氷精ちゃん以来だ。
 さて、他愛のない、他意のある会話を続けよう。
「月がキレイですね」
「ええ、キレイですね、本当に」
 明月を見上げて同調された。
 今の言葉は愛の告白の隠喩でもあるのだが、世事にも世辞にも疎いようだ。男性から女性に対しての言葉なのだから、顔を赤らめるなり、眉をひそめるなりしてくれると反応としては楽しいのだが。まあ、これはこれで。
(純朴を絵に描いたような娘さんだね。方々で人気なのも頷けるな)
 などと考えつつ、整った顔立ちにも要因を認めて、その横を通り過ぎる。ついでに労いの言葉も掛ける。
「お仕事、あまり根を詰めないでくださいね」
「あ、はい、どうも──って、ちょっとちょっと!」
 門番は慌てて前に回り込み、闖入者を押し戻す。
「え、何で?」
「不思議そうな顔をしないでください! こっちが『何で?』ですよ!」
「はぁ、でも用事があって来たのですが」
「あ、何だ、それならそうと言ってください。アポは取っているんですね」
「…………」
 沈黙のままニコリと笑みを浮かべて、再び館へと足を向けた。すぐさま両手を広げて立ち塞がれる。
「取ってないんじゃないですか! ナチュラルに不法侵入しないでください!」
「えー」
「だから何で不満そうな顔なんですかっ。明らかにおかしいでしょう!」
「でも、無理矢理不法侵入してもまずいんですよね」
「当たり前です!!」
「なら、どういう不法侵入ならOKなんですかッ!」
「逆ギレ?! いやいやいや、不法侵入自体やろうとしないでくださいよ」
「そこでちょっとした発想の転換ですよ。『不法』と『侵入』、それぞれ悪い意味の言葉ですが、ここで、何と、これら二つを組み合わせることによってですね、」
「悪事じゃないですか、結局!」
「ですよねー」
 我ながら頭の悪い会話だが、ちょこちょこネタは挟んでおいた方がいいだろう。とはいえ、メインディッシュを疎かにしては意味がない。ここから先が肝要だ。
「何とか入れさせてくれません?」
「そうもいきませんよ」
「せめて先っちょだけでも」
「変な言い方しないでください! ……まぁ、用事によりけりですね。場合によっては取り次ぎますよ。誰にどのようなご用件で?」
「ただでは教えられないですなぁ~」
「何で上から目線?! 無理です、そんなのでは通せません! 理由がどんなだかも言えないなんて!」
「いやあ、そう申されましても、実際、そちらのご主人様に直接会ってでないと言えないんですよ」
「直接会う? レミリア様に、ですか」
 唾を飲み込んでマジマジと見つめる瞳は、精肉所に送られる豚を見るそれだ。
 うん、確かにですね、並の妖怪なら一瞬で消し飛ばせる吸血鬼の前に立とうというのはアレなんですけども。それでも別に自殺志願者じゃないので、憐れむ眼差しはご遠慮願いたい。そう、自分はただ、死刑台の階段を自ら上っているだけです。違い? 知らん。
「というわけで、通りますが」
「ダメです」
「ダメですか」
「あなたから伝わってくる『気』から、襲撃とか興味本位とかという類の理由でないことはわかります。事情があってのことなんでしょう。でもですね──」
「はぁ、わかるんですか。流石は『気を使う程度の能力』、雰囲気・気配を察して心まで読めるとは」
「いや、心までなんてそんな、何となく感じたってだけで。……じゃなくて、話の腰を折らないでください」
「かくいう自分も『体を使う程度の能力』でね。一応それなりには、」
「だから! 話を聞いてくださ」
 彼女の顔に右手をかざし、言葉を遮る。喉の奥に「い」の字が消えた。
「どれだけ言葉を重ねようと、とまれこうまれ、どうにもならない。互いの目的はかち合っている。自分は中に入りたいし、そちらはこちらを入れたくない。なれば、行き着く先は一つだけ」
 胸の前で拳と掌を合わせる。
「弾幕勝負で決めましょう」
 さあ、言った。言ってしまった。メインディッシュに手が掛かった。美味しく調理できるかな?
「え? 私と? あなたが?」
 目をパチクリさせる紅美鈴。
(自分との実力差をわきまえていると思っていたのに、そんなことを言うなんて意外)と表情が如実に語っている。
 うん、「無鉄砲なバカ」とは違うと感覚的に認識してくれたようだが、それは当たっているにしても、生憎と自分は「手の込んだバカ」だ。いや、わきまえてますよ。よーく、わきまえてます。その上でやりあいたいんです。
「厳つい姿に足がすくむのかもしれないけど、自分は見た目ほどの力は持ってないですよ」
「えーと……」
「空は飛べないし、弾幕を張ることもできない。その点、妖精や毛玉にも劣ってます」
「うーん……」
「だから何も怖がることはないですよ」
「いや、その……」
 さっきから意味のある言葉が出てこない彼女だが、考えていることはわかっている。どうやって断ろうか、ということだ。できればこちらを傷つけずに。優しいからね、この門番。
 けれど、厨房に立ったコックが、包丁も握らずに奥に引っ込むなどできはしない。それなりに勝負できると証明しておくか。
「さっき『体を使う程度の能力』があると言ったでしょ。身体能力にはちょっと自信があるんですよ、自分」
 右手で拳を作ってみせる。一歩後に下がって、距離を取る。
「硬度とか強度とかを変化できるんです。こんな風に」
 短く息を発して、上半身を落とした。重たい響きが秋の夜を揺らす。
「ね?」
 手首まで地面にめり込んだ拳を抜いて、土埃を払う。鱗の端々に粒が入り込んだが、まあ気にはするまい。
 さて、先ほどの卑屈めいた言葉はこの自惚れの裏返し、とでも思われているだろうか。門番の表情を窺うと、素直に感心の色が見て取れた。呆れも憐れみも無い。
 わずかな所作に拳法の心得があると見抜いたわけだ。弾幕勝負の土俵に上がることを認めたということでもある。
 と、彼女の右手が握られているのに気づく。
「では、私の方からも一つ披露します」
 言うが早いか、紅美鈴の正拳が地面へと奔る。激突。
 轟音に耳をかばい、爆風に目をつぶった。夜の世界が掻き乱される。
同じ動作で段違いの結果。格上に過ぎる。
「どうです?」
 スリットの入った服がはたかれ、白い太腿が月光に映える。邪気のない微笑が上目遣いでこちらを見た。
 どうですも何も、出来立てホヤホヤのクレーターを見るまでもなく理解してます。酷い格差社会だ。
 拳に圧縮させた「気」を、接触と同時に爆散。拳自体は「気」でコーティングされているから傷一つ負わない。
 改めて間近から見るとやっぱり凄いね、どうも。当たり前だが真似できるはずもない。手の中に発破でもしこたま仕込めば、穴くらいは近いものをこさえられようが、漏れなくこっちの腕も吹っ飛ぶオマケがつくだろう。
 そして、彼女が技を披露した意味を考える。
 弾幕勝負は、弱者が強者に勝てる可能性のあるゲームだ。どのような強者であれ、相手に勝つための道筋を一切用意しないのは無作法とされる。揉め事の決着はこれでつけることが多い。
 弱肉強食の世界に、蟻の穴程度の公平さが穿たれたわけだ。弱者は一方的に蹂躙・搾取・虐待されることはなくなった。形の上では、まあ一応。
 しかし、蟻が恐竜に勝つ可能性はどの程度のものなのかというと──完全にゼロではないというだけのことであり──強者は強者、弱者は弱者で線引きはされたままだ。
 で、話を戻すが、要は彼女はこう言いたいわけだ。『恐竜に勝負を挑むんですか、蟻さん?』
 彼我の差を見せ付けた上で、退くか挑むかの選択をさせようとしている。嫌味などではなく、純粋に親切心で。『弾幕勝負は死者が出ることも珍しくないんですよ。覚悟できてます?』
 緑色の禿頭を撫でて苦笑する。
 気持ちは有難いが、挑むしかないのだよね、どうしても。しかも、基本、勝たなきゃいけないし。さらに勝ち方まで条件が付いている。
 その条件を満たすためには、もう少し自分について知ってもらわないといけないか。
「いやぁ、当たったらただじゃ済みませんね。どんなに鱗を硬くしても内臓までグチャグチャになるでしょう」
「はい」
「でも、心配は要りません」
 頭と胸をそれぞれ指す。
「脳と心臓を同時に潰されない限りは死なないんです」
「へえ」
 彼女には無い能力だが、驚きはない。そりゃ、ご主人様は全身が粉微塵になっても復活できるからねぇ。
「どっちか潰されると行動不能にはなりますがね、『体を使う能力』は伊達じゃないってことです。首を切られても胴体だけで動くことさえ可能ですよ。まあちょっと運動性能は落ちちゃいますけど」
 我ながら情けない自己PRだ。主人でなく門番と比しても、攻撃力が段違いで低く耐久力のみ勝っているって、サンドバッグに最適ということじゃないか。やれやれ。
 けれど、さらに言葉と恥を重ねると決めているので、そうする。
「あと、見ての通りの体なんで蜥蜴の特性があるんですが、爬虫類全般の身体能力も持てるんです」
「そうですか」と門番が指を口元に当てて考えを述べる。「その姿と『体を使う程度』というのを併せて、尻尾以外も再生ができるとは予想してましたが、」
「御明察」
片目でウインク、内心でため息をつく。洞察力があることは予想していたが、察しが良すぎる。この先どこまで読んでくるのかを思うと気が休まらないね。
「爬虫類というと蛇なども含むわけですね。口に牙とか生えて、いえ、生やせるのですか」
「またまた御明察」
 こちらの言葉、「爬虫類全般の身体能力も『持てる』」というのをよく捉えている。「持っている」のではなく、「持てる」であるから、出し入れ自由という理屈だ。……あぁ! もう、大した能力じゃないのだから、軽く流しておいてくれ。
 喉の奥で愚痴りながら口を開けてみせる。
「あーい、おんああんいえす」
「普通に口を閉じてしゃべってください」
「了解しました。はーい、こんな感じです」
 歯科医のように口内を視界に入れる美鈴に司会する。何かダジャレになってるな。
 ズラリと並んだ白い尖りの群れ。その一部、犬歯の箇所が伸びる。鋭く、細く。成長するは、内側に向かって生えた、獲物を逃がさない切っ先。
「毒牙、ですね」
「注射針みたいな穴に注目しましたか。そう、ここから毒を注入することができます。神経毒、出血毒、筋肉毒と色々調合いたしますよ。どのようなカクテルがお好みで?」
「私は遠慮しておきます。咬まれるのは蚊にでも嫌な方なので」
「うぅん、そこは『ブラッディーマリーが好き』とか言ってもらえると、『あ、出血毒ですね』とか答えられたんですが」
「咬もうとした側が出血することになるでしょうね、牙を折られて」
「いやいや、これでも今まで何人もの女性をその毒牙に掛けて──ないな。どっちの意味でも」
「はぁ……?」
 よくわかってない様子だ。まあ、観客がわかってくれればいい。
「じゃあ、そろそろ始めましょうか。長引いてもアレなんで、一本勝負で」
「そうですね。ところで、」
 まだ何かあるのかーい。
「腕が伸びたり、もう一本生えたりということはないんですよね」
「ええ、そういう爬虫類はいませんからね。舌を伸ばしたりはできますけど。そういう爬虫類はいるので」
 嘘や誤魔化しはしない。自分が正々堂々を信条とする武人、だからでなく、それをやってしまうと勝ちの目がなくなるからだ。こちらが嘘をついたら、あちらが嘘をついても良くなってしまう。
 一応の能力説明ができたお陰で、勝負の前提条件が整ったはずではあるが、どうだろう。「恐竜に挑む蟻」から「ドラゴンに挑む蜥蜴」くらいには昇格できたかね。戦い方も、一気に踏み潰すのではなく、ちょっと手の内を確認した後で噛み殺すのに変更されたか?
 ついでに、自分という存在を認識してもらい、興味を持ってくれれば最上だ。今の段階でそれは虫がいいだろうか。まあ、いずれにせよ、ここからだ。
困ったのはこの門番の性格だよ。まったくもって人が良すぎる。
 格下の相手に対してここまで聞くか? 兎を狩るために獅子が全力で警戒心を働かせているというのでもないだろう。対戦相手に敬意を払っている──というより、万人に友好的に接しているからこその態度ってとこか。
「こいつキモ過ぎだしぃー、ちゃっちゃと片づけよぉっと♪」とはちぃとも考えてはいまい。生々しいリザードマンの姿態を目の当たりにしてもだ。
 緑の鱗と白く滑った肌。黄色い瞳に細い瞳孔。尖った口先の上で開閉する鼻孔。野太く長い尻尾。
 ここまで人外の形態は、幻想郷にはそういない。閉鎖された場において些細でも異なる存在は拒絶されるものだから、直立歩行する蜥蜴などはその最たるものとなる。一目で「沼」の住人とわかるし。
 にも関わらず、彼女は普通に接してきた。普通に接しようと意識することもなく、普通に接した。
 この世に生を受けてからそれなりに経つが、「幻想郷は全てを受け入れる」という文言を体現したのは、今の彼女以外にそれほどいない。
 そういう人格者を自分の目的のために扱うってのは、どうも気が引けるねぇ。
 でも、やるけど。
 自分の特技というか特性は、感情の起伏を行動に影響させないことだ。心と体を別々に動かせる。動いてしまう。男ってそういうものだ、うん。
 屈伸を始める。手首をひらひら動かす。少し急かさせてもらおう。会話をうち切りたいという思いはおくびにも出さず。
 パシンという音。紅美鈴の右拳が左掌に当てられたのだ。
 よし、ようやくか。
 と、思ったが、
「スペルカードは使わないルールで?」
 そんなことを言ってくる。
 いいねー、強者は勝ち方を選択できて。使えないこちらに合わせる余裕があるのだもの。
「いや、いいですよ。有りの方向で。スペルカードのない弾幕勝負って、具のない味噌汁みたいなもんでしょう。一応形だけでもちゃんとしときましょ」
「え、でも」
「そりゃ弾幕は張れません。でも、貰い物ですけどカード、あるんです」
「貰い物ですか……」
「大丈夫大丈夫。発動がすごく速いやつをお願いしたので、それなりに使えるはずです」
「…………」
 心配されてるな。他人のカードなんて不慣れな道具と同じ。ガンマンに鎖鎌を使わせるようなもんだ。本人が酷いことになってしまう可能性を懸念されて仕方ない。
 実際、不慣れどころか、一度も使用したことがない。どんな弾幕が飛び出るのか自身でさえ未知だったりする。酷いことになるどころか、始めから酷い。
「いや、本当に大丈夫ですよ。暴発してもさっき言ったような体なんで」
「そうですか。わかりました」
 門番はニコリと笑みを浮かべた。が、微かに眉根が寄っている。本人が納得しているならいいだろうという、飲みにくいものを飲み込んだような納得をしたのだ。
暴発することを想定して、相手を心配、自分のことは思考の台にも載せないというのは──繰り返しになるが、人がいい。そして、これも繰り返しになるが、実力の差は歴然としており、それは互いが理解している──ということだ。
しかし、だからこそ、このカードは紅美鈴に対しての切り札になる。という可能性を持っている。かもしれない。
軽く跳ねるように二歩後に下がる。門番とは三歩の距離。
 彼女は既に構えを取っていた。半身になって開いた両手を前に出している。
 自分も両手を開いて、腰を落とす。ただし、こちらは半身を取らず相手に正対した状態だ。
 門番の構えに変化はない。組み付きを迎撃する気満々だ。
 尻尾をくねらせ、先端で小石を取った。目の位置まで上げる。
「この石が落ちたら開始で」
「はい、わかりました。で、あの、」
「ん~……」
「いえ、大したことじゃないんです。でも、さっきから少し気になっていて」
 嫌な予感。
「以前どこかでお会いしませんでしたっけ」
「いや、初対面ですよ」
「そ、そうですよね。ごめんなさい、変なこと聞いて」
「いえいえ」
 平然と答えたその心中、肛門に爆竹食らった思いだった。
 初対面というのは事実。
 で、ありながら、初めて会った気がしないというのも、実は勘違いでも何でもない。
 大した能力だ。予想の範囲内だが、勝負の直前に不意打ち過ぎる。
 正しい事実認識、詳しい原因分析には至らないにしても、気の動きから直感的にこちらの意図を読みとるかもしれない。
 いや、今は今のことだけを考えよう。こちらの読みを相手の読みが上回れば、実力通りの結果になるだけのことだ。
 100%はありえない。やれることしかやれないのだ。
「では」
と、述べると、
「はい」
 と応えられる。
 月光にぬめる尻尾により、合図の小石が真上へ投げられた。
 頭上で頂点に達してから、重力に従い落下してくる。
 まずは再び目の位置に。
 ──門番は動かない。構えはそのまま。スペルカードを出す気配もない。この距離ではスペル名を宣言しようとする隙を衝かれるだろうから当然だ。本当に名前だけのスペルカードルールになるな。
 小石は肩の横を通過。
──しかも、弾を撃つ気もなさそうだ。距離のことを考慮しても、牽制くらいには使えるだろうに。徹頭徹尾体術のみで戦うつもりだ。距離さえ取れば圧倒的に有利になると知っていながら。
 腰の位置を通過。
 ──相手に格闘技の素養がある。そして、相手は接近戦でしか勝つ見込みがない。そう認識したときから近接戦闘の心づもりでいたのだ。
 膝を通過。
 ──そこまではこちらの読み通り。彼女の性格・行動傾向に基づき、そうなるように条件を整えた結果でもある。同じ様にその他諸々も上手く結果に繋がってほしいものだ。まあ、いずれにせよ、
 くるぶし。
──後は結果をご覧じろ、か?
 小石が接地した瞬間、地を蹴り突進する。
 カウンターで用意されていた相手の打撃は放たれない。正面から下段へ向かうはずの蜥蜴が、直前で軌道を変えたからだ。体躯は相手の斜めへ。右足が相手の足の横につく。そう、始めから組み付くつもりはない。
 外側からの裏拳が門番の頭部に打ち込まれる。不意を付いたのだからボーナスで当たってくれても罰は当たらんと思うのだが、あっさり外へ弾かれた。まあ、カウンターをもらわなかっただけで御の字だ。
 弾かれた勢いを得て、右拳は内側から再び頭部を襲う。腕が掲げられ防がれる。危ない。打撃が流されるままに引き込まれるのを、体を引いて踏みとどまった。人はいいのに食えないね。裏拳を弾いた腕、左手でつかむ隙も与えてくれない。
もっとも、全てが決められた動きなのだけど。
 相手の足が閃き、こちらの前に出た膝の外側を擦過する。受けた感覚やスリットから映えたしなやかな太腿に気を取られていたなら、次の攻撃をまともに食らっていただろう。意識は下に移さず、身を引く準備をする。
 足が宙にあるままで、中華娘の腰がひねられる。連動して、足は体重を載せて軌道を変えた。狙いは鳩尾。鋭い爪先はこちらの体が存在していた空間をえぐる。回避が間に合った。
 すぐさま攻撃へ移る。上段蹴りのモーション。門番の手が顔面をガードする気配を見せたところで、軌道を下に変えて太腿を打つ。
 上げられた左脛で受け止められる。攻防一体、仲良く連れ立ってきた左拳が喉に向かってくるが、首を曲げてかわす。抜けたグーがチョキに変化。かぎ爪になって頸動脈を引っかけようとするが、体ごと動いて逃げる。
 月光の下、互いに夜気を切り裂き合う。二人でテンポの速いダンスを踊っている。美女と蜥蜴の奇妙な夜会。
 攻防の中、上衣の紐が解け、白い胸部から腹部が露わになる。蜥蜴フェチ歓喜のサービスシーン。
 さて、そろそろ気づいたかな?
 ここまで攻撃や防御が連続している理由。まともなヒットといえるヒットがない理由。チョモランマとマリアナ海溝ほどの実力差がありながら、なぜなのか。
 こちらが彼女の動きを先回りできるからだ。どんな攻撃が来るかわかるから防御や回避が可能となり、どんな対処をするかわかるから躊躇無い攻撃が可能となる。
 最初、格闘技だか武道だかの素養があると見て取っただろうが、それだけではここまでの先読みは説明が付かない。太極拳や蟷螂拳などの技術を身につけても、彼女独自のアレンジには対応できない。しかし、現実に対処し続けている。
出てくる結論は、「彼女自身の動きそのもの」を知っているということ。
 初対面でありながらデジャブを感じたのが勘違いでなかったこともわかったろう。
ずっと観察していたのだ。遠くから、枝葉に隠れて、高木の上で。そこからでも「気」を感じるとは恐れ入ったけどね。いやはや、もっと時間を掛けていたら危なかったな。
言葉を放った。束の間の息継ぎタイムに。
「一年っ!」
 門番が笑みで応える。ちゃんと所要時間として受け取ったわけだ。
 改めて、初めまして。そして、お久しぶり、紅美鈴。口に出して言えるほどの暇は無いので、意識だけの挨拶でご勘弁。
 でも、伝わっているだろう? 息を潜め、気配を絶っていても、それでも察知できるようなお人だもの。まあ、こっちの存在に確信持たれて、菓子折持参で挨拶に来られたりでもしたら迷惑だったけどね。
──自分が「迷惑」などと言える筋合いもないか。
 彼女の鍛錬なり対戦なりをずっと観察していたわけだからな。昼夜を問わず、雨の日も雪の日も。世が世ならストーカーでしょっぴかれてる。
 言い訳にもなりませんが、どうしても目的を達するためには必要だったのでお許し下さいな。おはようからおやすみまで、暮らしを見つめるトカゲってのも可愛いでしょ。
 さて……そろそろ事態を変化させないと。
 今のところ、膠着状態が維持されているように見えている。勝負というより仲良く訓練をしているようにさえ、傍目には。
 実際、二人は少しずつ大きな円を描きながら移動している。套路、いや、この場合は二人で行うから推手か。八卦掌の歩法「走圏」を取り入れたものと思われるそれを続けている。
しかし、現実が弾幕勝負である以上、終わりは来る。実力が拮抗していない以上、早い終わりとなろう。先にボロが出るのはこちらだ。
 では、どうするか。結論は既に出ている。
──こちらがボロを出す前に、あちらにボロを出してもらう。
 普通に考えれば無理だろう。何百、何千、何万と繰り返して身につけた動きに綻びが生じるはずがない。
 偶発的には起こりえない。
 ならば、そう、人為的に起こせばいいのだ。
腕に脚にと繰り出しつつ、緩やかな曲線軌道を描く、すぐその先──勝機の存在地点だ。
 ふいに門番の体が傾ぐ。連関した動作が途切れ、隙が生じた。足は窪みを踏んでいる。
 対戦前の示威行為で開けた小規模クレーターだ。
 文字通り墓穴を掘ったな!!
 と言わんばかりに自分は破顔し、渾身の右拳を勢い付いた大振りで放つ。
 被弾すべき彼女の顔面は、しかし、余裕の色。
 体は傾いでいる。なのに重心は崩れていなかった。
 腰、右肩、左膝、それぞれのわずかな初動が、続く一連の動作を想像させた。一年物の観察眼により、それこそ目に浮かぶようにはっきりとした映像が現出する。
 まず左腕が上がり、こちらの右腕を跳ね上げる。同時に強烈な踏み込みと共に、腰溜めの右拳がガラ空きの土手っ腹に叩き込まれる。
 そうして体勢の崩れた相手に、紅美鈴の華麗な連撃が延々と決まる…………
 彼女にも同じヴィジョンが見えているのだろう。目は、顔は、勝利を確信していた。
 ゆえにこそ、こちらの勝利も確信できた。
紅美鈴の目が見開かれる。
 左腕でかち上がるはずの相手右腕は──弾け飛んでいた。スポンジケーキのように粉々になって、月光を散り散りに反射する。
 腹に決まった右拳はそのまま背後に突き抜けていた。何の抵抗もなく、皮に、肉に、内臓にと破砕された腹部は、マントとはためく甚平の後へと散る。
 意表を突いたようだったが、この現象を起こした能力について隠しておいたつもりはない。事前に説明は済んでいる。「硬度とか強度とかを変化できる」と確かにはっきりと述べた。硬くできるのなら、反対に脆くもできる。道理ですな。
 紅魔館の門番はそれでも流石だった。重心は崩れはチラとも見えない。
だが──強く当たってくるはずの質量が皆無。離れるはずの間合いがより肉迫──そうして生じた意識の間隙はたとえ僅かであっても致命的だ。追い込ませてもらう。一気呵成に投了へと!
 門番の左膝裏に右脚が踏み込み、左手は襟首を掴む。鱗の左脚は白い右脚を跳ね上げ、隻腕の蜥蜴は中華小娘を押し倒す。
 組み付くと見せかけて打撃、と見せかけて組み付きが本命の狙い。肉を切らせて骨まで断たせる代償の甲斐あって、紅美鈴の背中が地面を叩き、土埃を噴かせる。
倒れた彼女は抵抗しなかった。首筋に札が突きつけられていたからだ。蜥蜴の尖った口先にくわえれているスペルカードはヌラヌラと濡れ光っている。さっきまで胃の中に収納してあったので仕方ない。
「レディに対シて汚らシいとは思わないでもないでスけど、」
 カードをくわえながらなので、少々しゃべりづらい。
「両手両足が忙シいので、口に働いてもらうシかなかったんでス」
 それを聞いて、紅美鈴は息をつくと、一言、
「参りました」
 敗北を宣言したのだった。



 差し伸べた手を、紅美鈴は礼を述べながら掴んだ。敗者でありながら素直に応じる、か。しかも格下の相手に対して。つくづく真っ直ぐな性格だ。
「やられましたね。裏の裏をかいたつもりでしたが」
 窪みを踏んだシーンのことを言っているのだ。反省会の始まりですか。溢れる向上心には頭が下がる。
 小細工に付き合ってもらった礼に、これ以上強くなって手がつけられなくなる過程に手を貸そう。傷の修復の時間も取りたいしね。
 風通しの良くなった腹に手を当てて、会話を始める。
「無数に繰り返して身につけた動作が、安易に崩れるはずがありません。だとすると、崩れること、イコール、釣り餌」
「釣り餌に食いついたフリを、逆に釣り餌にされましたか」
「たかが段差を踏んだくらいで殊更体勢を崩してみせたりせず、何食わぬ顔で普段通りの型を行っていれば良かった。そうすれば、こちらも何もアクションを起こせず、遠からずゲームオーバーに達せざるをえなかったでしょうね」
 断裂部は、アドレナリンやドーパミンなど多量に分泌されていても、ジクジク痛んだ。意識を集中することで回復は早まるが、痛みも強まる。盛り上がる肉、広がる鱗の肌が新たな痛みを生むのだ。とりわけ神経の伸長は目が裂けるほどの痛さ。されど、何食わぬ顔を続ける。
「その選択肢が無かったわけじゃないんですけど……でも、あそこまであからさまに『狙ってる』感を出されちゃうと」
「裏を掻きたくもなるでしょう。その心理こそがこちらの真の狙いだったわけです」
「始めからそのつもりで?」
「そうですけど、ここまで上手くいくと感無量ですね。万馬券貰いたいくらい」
「結果だけで満足なのか、賞品が欲しいのか、どっちですか」
 紅美鈴は苦笑しつつ、
「でも、お見事です。完敗しました」
 冷たい月下にそぐわない、カラリと晴れた笑顔で締めた。
 ……締めちゃっていいのか?
 粗方塞がったもののまだ違和感の残る腹部をそのままに、落ちた右腕を拾いにいく。そして、終わったはずの会話に言葉を繋げた。
「完敗ねえ」
口の端を平たく伸ばす。持たれた右手首が反らされ、掌が上を向く。欧米式ジェスチャー。
「こちらは大怪我、そちらは無傷の状態でそう言えるならそうなんでしょう」
 さらに言えば、徹頭徹尾、相手の善意と甘さに寄りかかっての結果だ。
 断裂面を合わせると、グチリと生々しい音が鼓膜を逆撫でる。
「立派じゃないですか」
 中国拳法の達人は言うのだった。
「覚悟の上で立ち会ったんでしょう? 入念に準備する中で捨て身を戦法に組み込むなんて、誰にでもできることじゃありません」
 腕部の接合は腹部よりも痛みを伴うはずだったが、不思議と気が紛れた
全てわかった上で言っているわけだ。先ほど『始めからそのつもりで?』と言っていたのは、その「全て」を折り込んだ台詞だった。
 素直に受け取らざるをえないな。意をそこまで汲んでくれたんじゃあ無下にはできまい。
 この会話を聞いた観客も、また。
 たとえわだかまりがあろうと受け入れざるをえないはずだ。
 対門番戦はこれにて投了。
「じゃあ、『完全勝利』の栄光はいただいときます。アイム・チャンピオン!」
 くっつききれてない右腕、その指先がVサインを作る。
 素直と言ったって、こちらでおどけるくらいはやっとかないとな。麗しの乙女は皮肉の一つも言えないのだから。
たおやかな手が門の内側へ向けられる。
「では、お通りください」
 庭を通る石畳が続く先には、紅くそびえる館がある。人影一つない。
「エスコートはしてくれないので?」
「もう、何言ってるんですか」
 朗らかに流された。
「はぁ、でも、自分をほっといたら、全裸で盆踊りするかもですよ」
「本当に何言ってるんですか!」
「だって誰も見てないとなれば開放感から、ねぇ?」
「何一つ同意できないですよ! あなたを通した私の責任も問われるのでやめてください!」
「はいはい、もう、わかりましたよ」
「確かですね?」
「脱ぐのは下半身だけにします」
「より高度な変態にっ?!」
 バカなことをやってる間に腕がくっついた。
 外部の者を一人で歩かせても問題ないことはわかっている。門番を凌ぐ戦力がこれより先にゾロゾロ控えているわけで、そんな中で、
「ヘタなことをしたら一瞬でミンチ肉に加工されますからね。冗談は口だけにしときますよ」
「……ホントですよ」
「いくら再生力に自信がある自分でも、メンチカツになっては元に戻れず、生きてはいけません」
「いや、調理までは」
「そう、顔がコロモまみれになるのは耐え難い。この美貌は唯一の生き甲斐ですから」
「今までよく生きてこれましたね?!」
「……何とさりげなくも酷いツッコミ」
「え、あ、や」
慌ててバタバタと手が振られる。
「あの、決して! 悪い意図はないんです、ただ、」
「ただ、まったく見られた顔じゃないと」
「いえいえいえ、そうじゃないんです、私が言いたいのは、」
「視界に入ると吐き気を催すので消えてほしいと。なるほど、流石に地上に降り立った中華風のヴィーナスは言うことが違う」
 ここに至り、ようやく彼女はからかわれていることに気づいたようだ。
「もう! いい加減にしてください! いいからさっさと行かないと力ずくで押しやりますよ!」
「おお怖い怖い」
 腕を振り上げて威嚇する門番に追い立てられ、紅魔館の敷地内に駆け込んだ。
 石畳の上。中庭の中。煉瓦塀の内側。
そのまま道の中程まで小走りに進むと、言葉がぶつけられる。透き通った夜気に声は真っ直ぐ届いた。
「頑張ってくださいねーっ!」
 見れば、大きく上がった手は開らかれ、振られている。
 一度だけ手を振り返すと、後は大股の早足で館の扉へ向かった。
「────…………」
いや、恥ずかしーね!
 参った参った。あんな送り方をするとは。
 ゆっくり歩いて気持ちを整えてからって予定がフイになってしまった。
 この後、一手を誤るとそのまま終わり、下手すりゃ人生そのものが投了になりかねないって盤面だ。それがわかっているからこそ、落ち着かなければならないのに──あんな激励を受けてしまっては──
気分が高揚してしまう。
 勝利の女神と二人三脚している心持ちだ。コケたらコケたでそれもまた良し的な感覚。敗北の恐れが白く塗りつぶされる。
 危険な徴候だ。最悪を想定できない者は最悪に到達しうる。しかし、それを理解していても、ついニヤけてしまうのを抑えられない。
 やれやれ、これで勝利を逃したら、紅美鈴はきっちり門番としての役目、「侵入者の阻止」を果たしたことになるわけだ。本人にその気がなかろうと。
 自分に食らわせた彼女最大の一撃だな。こちらがありがたく思ってしまっているあたりも含めてね。
 ──あーもー、やめやめ!
リセットしよう。一旦心を真っさらにする。庭でも眺めて気分転換だ。
 ──とはいえ、扉まであと三歩の距離なのだが。
 一歩目で右を向き、二歩目で左を向く。よし、落ち着いた。
庭木と花壇のある中庭は、各所に照明が設置してあるのだが、全て消えていた。月夜が綺麗な晩はそうしておくのだ。月光を愛する主の趣向だろう。くっきりとした月明かりが、庭全体を白々と浮かび上がらせている。
西洋の特徴である幾何学的に整えられた庭園であるが、右手の奥には熊の形に刈り取られた庭木が立ち、左手の奥にはちょっとした家庭菜園がある。
 貴族然とした佇まいの中にユーモアと生活感を織り交ぜる。その庭の状態は、主の人となりをよく表していた。……と考えられる。
 本人を遠目でしか見たことがなく、それも大した数じゃない。伝聞は相当数収集したが、それでも人柄は推測でしかない。外れているとも思えないが、実際はどうなるかは100%確実なはずもなく。まあ、外れていたら一年が無駄になるだけの話だ。あと、死ぬかも。
なにはともあれ落ち着いた。一瞬の視認だが予定通りの運行は平常心を取り戻させてくれる。この庭をこの位置で見るのは始めてでも、頭の中で思い描いた通りの眺めだった。
 さて、三歩目。扉の前に立つ。ノックもしなかったが、一呼吸の間を置いて、扉は重々しく両開きに内部を見せた。温かな室内の空気が足下から撫でてくる。
開いた向こう側には、銀髪のメイド服が一人お辞儀をしていた。豪奢な洋風のエントランスホール、広がる紅い絨毯に、その容姿はよく映えていた。
「ようこそおいでなさいました」
両のもみあげのあたりから垂れる三つ編みが揺れた。双方の先端を飾る緑のリボンがわずかに目を引く。
 逆に言えば、他に目を引くようなものがない。門番の燃えるような赤い髪、夏草のような深緑の服とは違い、冷たい白と抑えた青で構成された全体は、「我」というものを感じさせなかった。
 ヒラヒラがあちこちに付いた、カチューシャまで備えた出で立ちをこれほど無個性にするとは。あるいは、それが彼女の「我」であり、個性であると言えようか。
 頭が上げられ、青色の目が蜥蜴を映す。
「私はここ紅魔館でメイド長を務めております、」
「十六夜咲夜」
 言葉を継ぐ、というより、話の腰を折るように台詞を差し込んだが、
「はい。私のようなものの名を知っていただけて光栄ですわ」
 全然光栄じゃない様子で彼女は言った。
それでも、不愉快さを表情に滲ませることもない。ただ淡々と規定通りの言葉を返し、業務を遂行している。
「ちょいとお邪魔しますよ。まさかスーツにネクタイ着用とか言わんよね?」
 それにしたって素肌に甚平、地下足袋なんてラフ過ぎる上にチグハグな格好はないだろう。我ながらそう思う。とはいえ、服なんてこれくらいしか持ってないからなぁ。ついでに先ほどの一戦で、体液がべっとりと付着している。
十六夜咲夜の反応は、
「ご案内いたします。こちらへ」
と、素っ気ないものだった。門番とはえらい違いだ。ツッコミも無し。
微少こそあるが、口元に貼り付いたような笑みだ。ここまで事務的に相好を崩すことができる人間はそういまい。そう思わせるほどの営業スマイルだった。
無感情な人間──と評するのは間違っているな。そういう情報は入ってきていない。それにここ紅魔館は彼女の領域。その神聖なる場で、自分のような蜥蜴が我が物顔で振る舞うことに、隙のない装束と完璧な所作のメイド長が何とも思わないはずがない。
 完璧な仮面で覆う必要がある──それが彼女の持っている実際の感情だ。
 つまりは「怒り」。
 ムカついてるわけですな。そうでなくっちゃ。
 ちょっと解せないのは、怒る理由は確かにあるのだけど、無礼な態度だけだとそれには足りてないってことだ。
 ともあれ、気を入れ直さないとな。油断大敵。勝って兜の緒を締めよ。オレ達の戦いはこれからだ。うん。
 キリリと表情を引き締め、尖った口先で紡いだ言葉を十六夜咲夜へ放った。
「あ、その前にちょっと、トイレ貸してもらえますかね。大きい方、出したくなったんで」
 振り向いた彼女は、顔こそ冷静ではあったが、その目はそりゃもうバナナで釘が打てるほどに凍てついていた。

 やや長めのキジ撃ちを挟み、改めてメイド長の後からついていく。紅い絨毯と白い壁が続いていた。
 水に濡れた甚平のあちこちが、体に冷たく触れる。手を洗うついでに適当に水洗いして体液の汚れを落としたのだが、絞っただけでは乾くのに時間が掛かりそうだ。
 玄関ホールもそうだったが、館内部はやや暗さを感じた。照明を抑えているのは庭での配慮の延長だろう。月明かりを取り入れるつもりはないにしても(取り入れるつもりなら全ての照明を消すのが道理だ)、ふと窓を開けて白い光の冴えを楽しむには、人工の強い光を側に置くのは無粋となる。鎧戸は固く閉じられていて照明の光が外に漏れることはないが、月の光と差のあるそれは印象を大いに損ねる……といったところか。
 足を進めるそのそこかしこから視線を感じる。館で働く使用人たちのものだろう。自分を見る目には、馴染みのある感情が付帯している。
 嫌悪と侮蔑だ。ちなみに侮蔑が8割。
 それは自分の人間離れした容姿によるところも大いにあるのだが、何より「沼」の住人であることが最大の理由になるだろう。
忌み嫌われ、澱んだ奥地に潜む者たち。力がないため地底に封じられることもない。格も力も、妖怪の中では最下層に属する。
だから、この手の視線には慣れっこだ。むしろ何ら負の感情を交えなかった、あの氷精の反応みたいなのが例外なのだ。ただ、もの珍しさに体のあちこちをペチペチやられはしたが。
さて、ではこのメイド長は自分をどのように見ているのか?
 漠然とした「怒り」という以外、今の段階ではわからない。感情は押し込められたままであり、口は開かれないままだ。
 まあ、おいおいわかるだろう。今はとりあえず、沈黙の背中を追いながら、ホッと一息ついておきましょうかね。
 『ようこそおいでくださいました。──では、ごきげんよう』とナイフを投げられる展開もなく、紅魔館館主に対する性格分析は一応的を外してないことが証明されたわけですからな。
メイド長が怒気を押さえ込んでいるのはご主人様の命令あればこそだ。客人を招き入れよという命。蜥蜴は吸血鬼のお眼鏡に適ったってことだ。
 ゲームオーバーは回避されたことだし、このままハッピーエンドと相成りたいね。
「ハハッ」
「何か?」
 思わず出た笑いに、十六夜咲夜が目線だけを向けて問う。
「いや、何も。ちょっと虫のいい話過ぎるなと思って」
「…………」
 意味を聞くこともせず、メイド長は再び前を向いた。再開される沈黙の行進。
「で、そちらさんは虫の居所が悪いと。それで『ムシ』するわけですか。それとも、いつでも誰に対しても同じ対応なのかな? 公平無私」
 沈黙は続く。背中で『黙れ』と語っているのがビシビシ伝わってくるが、しゃべり続けさせてもらう。一息ついた後は、さっさと仕込みをやっとかないとな。
「いやー、それにしても、今日ほど男として生まれてきて良かったと思ったことはないですね。上品な女性達のひしめくお宅の空気を思いっきり鼻孔に吸い込める至福! 性別が違うものなら、これほど幸せに感じることはなかったでしょう!」
 オーバーアクションを取る。見ていないだろうが構わない。雰囲気は伝わるだろう。
「この容貌だと沼以外の女性と触れあう機会がなくてですねぇ……女であれば人間と変わりない姿だったのに。まっ、しょうがないんですけどね、自分が生まれた年は異常気象で……あ、爬虫類って生まれる前の温度で性別が決まるんですよ。あんまり蒸されてしまったので、この通り、ハードボイルドに仕上がりました」
 反応は、やはり、沈黙。
 廊下に敷かれた紅い絨毯を踏む音だけが耳に入る。
 やれやれ、今の状況に「沈黙の春」ならぬ「沈黙の秋」ってタイトルを付けたいね。
 ムカつかせているのは確かなのだけど、不快感をくすぐっているという程度のものだ。仮面にヒビすら入らない。これじゃあ足りない。
 品性を低俗にするって方向性では逆鱗に届かないというわけだ。
 怒りのツボは何なんだろう。ねえ、教えてくれないか、十六夜咲夜。
 一年見てきて、門番と対話したり、外出したり、一戦交えたりする姿は何度か見ていたが、どうにもわからずじまいなんだよ。
 弾幕勝負の傾向は一応つかめたつもりではいる。でも、性格の把握については時間も観察力も足りなかった。直に接することが一度もないと、一年間と灰色の脳味噌では君のことは理解しきれなかったんだ。
この短いランデブーで満足しろって? 目的地までの案内が終わるその時までに、私のことを知ってみせろって?
 OK、やってやろうじゃないか。こういうのは障害があるほど燃えるものだ。
 じゃ、会話の流れを自然に、刺激するポイントをシフトさせてみよう。
「そうそう、だからさっきの門番を見たときはすごいなーと思いましたよ。沼ではあんな大きいおっぱいはお目にかかれませんでしたから」
本当はそこまで言うほど巨乳でもないが、誇張しておこう。
「それでいてあの強さ! あの佇まい! 思慮深さ! 中国の諺に『胸の大きい人は脳が小さい』というのがあるらしいですが、デタラメだということがわかりましたよ。そう考えると、あなたが聡明ではない可能性もあるのかな」
我ながらゲスい台詞だ。言っていて楽しくなってきた。さて、どう出る?
「お客様」
「ん?」
「今すぐに黙るか、黙るしかない状態にされるか、選択なさいませ」
「口を塞ぐってこと? 驚いたね、そんな可愛い顔をしといてキス魔なのか」
 いい反応が来た。死亡フラグを乱立させた甲斐があったな。
 分析すべきはどのキーワードに怒りを覚えたかだ。
自分の品性に対してではないな。そして、館内で対面した当初から彼女は怒気を孕んでいた。二つに重ねた本人への揶揄も、特に大きな変化をもたらした様子はない。ふむ。
「まあ、自分もペタンコなわけで、それならやっぱり諺はデタラメなんでしょう。そちらの門番に勝ったという事実がそれを裏付けている」
「──美鈴は、」
 この反応。やっぱり。
 それが逆鱗か。
 そして、十六夜咲夜「も」あの勝負を見ていた。朗報。
「彼女はいつでもあなたを倒せた。何度でも殺せた。その気になれば……でも、やらなかった」
 わかっている。こちらは重傷、あちらは無傷だ。
 メイド長の背中は語り続ける。
「門番として侵入者を食い止める責務を負っていながら、その役目を続ける自分に誇りを持っていながら──勝負を受け、行った者として、身を切る思いで相手の勝利を認めたの」
それには異議を申し立てたいところだな。
 紅美鈴からは悔しさといったものは感じられなかった。陽光のような笑みには一切の陰がなかった。「良い勝負をした」。思いがあるなら、ただそれだけだ。
 それとも門番とメイド長にしか知り得ない何かがあるのだろうか。長い付き合いの中で育まれる感情の機微とか。
 ……ではないな。違う。これは、あれだ。門番のことを慮っているんだ。門番のあるかないかの感情を、メイド長は拡大解釈して怒りを感じている。
 その倍加の比率が、そのまま十六夜咲夜の紅美鈴に対する想いの大きさなのだ。多分。
 憶測でしかないから、これ以上は何とも言えない。
 ただ、確定しているのは、目の前のメイド長が憤懣を募らせていることだ。怒りの度合いは大きく、対象は蜥蜴。うわあ、逃げたい。
「まあまあ、もう勝負はついたことですし? 済んだことをとやかく言ってもしょうがないでしょう。今更自分の勝利をひっくり返すなんてご無体は勘弁願いますよ」
こちらの勝ち、つまりは門番の負けを殊更強調する。死亡フラグの補強。
「壊れた時計も日に二度は正しい時を示しますわ。間違った者が勝つ間違いも起きうるでしょう」
「強い者が勝つのではなく、勝った者が強いのでしょ。それにあれでも手心加えたんですよ。首に毒牙を差し込むこともできたのに敢えてやらなかった。年頃の娘さんにキスマークを付けるのは宜しくないでしょ。紳士たる者、女性に対する配慮は欠かしてはならない」
 キリッ、と芝居がかった顔の引き締めを行うと、メイド長の足が止まった。実力行使で口を閉じさせるつもり、ではないようだ。
 目の前に扉。両開きであることや周囲の壁の広さなど考慮すると、中はかなり広そうである。
扉が開かれる。
 『一切の希望を捨てよ』というフレーズが脳裏をよぎったが、鼻で笑って吹き飛ばす。似つかわしくない。出てくるタイミングが遅すぎるという意味で。自分は既に悪魔の体内奥深くにいるのだ。
 部屋の中はやはり広かった。いや、広いってもんじゃない。白壁に鎧戸の閉まった窓がズラーッと並んでいるが、奥の奥の方になると芥子粒よりも小さい点描と化している。見上げれば天井も高く、中に神社がすっぽり入るほどだ。
 ありえない。外から見た館全体の大きさからしても、部屋の用途からしても、不自然だ。まあ、無論それは普通に考えればの話で、この場にあてはまることじゃない。
 噂に聞く魔力による空間拡張だろう。そして用途は、やっぱりあれだろうな。他の所より明るいし。やれやれ、自然な流れちゃあ、自然だ。ここも紅い絨毯だしなぁ……汚れても目立たない配慮とさえ思える。
 十六夜咲夜が正面に向き直って、言葉を紡ぐ。
「我が主、レミリアお嬢様がお会いになられるそうです」
「ああ、門番との対戦だけじゃなく、こちらが用件を言うのまで見ていたわけですか。そりゃ話が早い」
 我ながら白々しい。こちらの用件も知らずにここまで案内されるはずもない。それを自分が認識していることを、彼女は知っているだろう。だから、お互い「用件」について一言も触れなかった。
「それじゃあ、ここで待っていれば拝謁できるんですか? それともこの先に案内してくれるとか?」
「お嬢様は奥の間におられます」
「じゃあ、早く会いにいきましょう」
「案内いたしますわ。ただし──私に勝つことが条件です」
 その言葉を受けた我が胸中はというと、
(めでたさも中くらいなり、だな)
 と、喜んではいない。素直に喜べたら幸せなんだろうが、まずは悲観が先に立つ。勝つ見込みがほぼ100パーないというわかりきった理由からではなく、言葉を真っ直ぐ受け取れないからだ。
 勝っても「やっぱり会わない」となることは普通にありえる。
 逆に負けても「やっぱり会う」となることもあろう。
 飛び入りの蜥蜴に会う意志を見せながらもう一戦交えさせるあたり、ここのお嬢様の性格は「気まぐれ」ってことだからな。サラダを作るシェフ並だ。
 とはいえ、負ける手はない。思いつかなかった。目的達成のゴールへは、勝つ道しか開通してなかった。そしてその道の歩き方が一番大事なことなのだった。勝たなきゃならない上に、勝ち方まで限定される。その条件は先ほどと同じだが、メイド長は門番よりも難易度が高い。至難の業だ。
 ただ、やっぱりそれでも第二戦を挑まれたことについては喜ぶべきなのでしょうな。一次試験を突破し、二次試験を受ける許可を得たわけですから。
 心の中でため息をつく。まったく、これが最終試験であることを祈るばかりだ。
「うん、ええと、そういう命令を受けているのはわかりますけどね、ほら、さっき自分は一戦交えたばかりなんでね、その辺りを考慮してもらえますと、ね」
 またしても白々しい台詞を吐く。何にも無しにお嬢様にお会いできるのは「虫がいい」と自分で述べたくせに。しかし、おどけておいた方が、観客は楽しめるし、対戦相手は腹を立てるだろう。効果は微かかもだが、やっといて損はない。
「まあ、そんなわけで一戦交えるというのは、どうも」
「問題はないと存じますが? 強い人なら何度でも勝ちますから」
「あっはっは」
 意地が悪いな。自分が強い、イコールこちらが弱いことを証明するつもりだ。自分が勝利することで。
 それで門番の汚名をそそぐ腹なわけね。たわけた蜥蜴なんぞに負けた汚名を。
「ッ!」
 突如、毒々しい色彩の放射に、メイド長が体を固くする。
 反射的に構えを取ったのは流石だが、彼女の内心は穏やかではないだろう。肩の力を意識して抜いてから、冷たい声で尋ねてくる。
「……何ですか、それは」
「戦うというんでね、自分の手の内を明かしておこうかと」
 首の周囲に広がった皮膜を折り畳みつつ、答える。
「これ、エリマキトカゲの特性です。外の世界で大人気」
「あなたの能力は知っています。爬虫類の猿真似ができるのでしょう?」
 やはりいらついてるな。格下の蜥蜴相手にビビッたことを恥じ入り、それがそのまま相手への怒りに転化している。
「ああ、そこまで覗き見していたのでしたね。それにしても爬虫類なのに『猿』とはなかなかやりますね、頭が回る。いわば……猿の浅知恵?」
 挑発をお返ししながら首筋を撫でつけると、ささくれのような皮膜の残滓も鱗の底に消えた。
 と、目前のメイド長も消えている。
喉元に金属の光。刃物。
 視線を左横にやると、ナイフの柄を十六夜咲夜が握っていた。
「こちらの能力もお見せしますわ。もっとも一年も覗き見していたのですから、とっくに御存知でしょうけど」
 時間停止の能力か。初見であれば瞬間移動と勘違いしていたところだ。長く時間を止めるには、その分だけ長い精神集中を要するが、今回のようにわずかな間を詰めるだけなら、いつでもできるわけだ。
「──おふざけも度が過ぎますと、命を落とした状態で時間停止が解除されますわよ」
「いやはや、言い方が回りくどい。端的に『殺す』って言えばいいでしょう」
「殺されるのをご所望? いつでも承りますわ」
「是非お願いしたいなぁ。糸屋の娘のように目で殺してほしい」
 殺す、ね。それはないだろう。確かに死亡フラグは立てまくり、その内一本はさらに杭打ちまで施したわけだが、彼女自身がそれをへし折るはずだ。
 理由は他でもない、レミリア=スカーレットの命があるからだ。
 「悪魔の犬」。それが彼女の二つ名だ。悪魔たるヴァンパイアの忠実なる僕。その呼び名は広まっているものであるし、彼女はそれを嫌がっているふうはない。幸運にも紅魔館近辺の上空で「悪魔の犬」と呼ばれているのを見たときは──遠くだったので読唇術による観察だったが──彼女の表情には不快さは一切無く、むしろ矜持の微笑があった。猟犬のように控え、動く、プライド。
人間、感情が理性を上回ることもあるが、彼女については当てはまらない。自己を律する強さは相当のものだ。それはわずかばかりのコミュニケーションからも察せられるし、隅々まで埃一つない館内部からも裏付けが取れる。
どんなに彼女が怒りを覚えていても、行動原理の最上位を蔑ろにはすまい。
『はい、先生、質問があります』
うん、なんだね。
『今の話だと、十六夜咲夜はご主人様を一番大事に思ってるんですよね?』
そういうことだね。
『じゃあ、怒らせるならそこを攻めたら良かったんじゃないんですか』
 ふむ、実にバカだね、君は。
 そんなことをしてみなさい。死亡フラグが純度100%の保証書付きになってしまうでしょう。そもそも本来の目的を忘れてはならない。そちらの機嫌まで損ねては本末転倒もいいとこです。わかりましたか?
『はい、わかりました。でも、生徒をバカ呼ばわりするのはいけないと思います』
 それは失礼しましたね。気をつけます。これからは腐ったミカンと呼びましょう。
──というアホな脳内劇場はともかく、彼女は蜥蜴を殺さない。お嬢様から仰せつかった審査員としての役目を果たすだけだ。……その範囲内で憂さを晴らすことはするだろうが。そんなわけだから、
「そう言えば、脳と心臓を両方潰されなければ死なないのでしたわね」
こんな確認もされる。
「ええ、どちらか片方だけなら死にません。再生するまで行動不能にはなりますが」
「聞けて良かったですわ。いくら切り刻んでも延々と悲鳴を奏でられる、ということでしょう? 止めた時間の中で四肢を切断するのも楽しそうですわね」
 ナイフをかざしながら脅される。やる気満々ですな。
 ただ、一方でこれはフェアな取引を行っているのでもある。扱っているものは情報。十六夜咲夜はこちらの生命力や死亡条件の情報を得た分だけ、自分の時間停止能力の存在を知らせたわけだ。
「とりあえず光り物はしまってくれませんかね。丸腰の相手に武器というのも大人げない。スペルカードも一枚しかもってないんですよ、こっちは」
「刺しつ刺されつのもてなし方もあるのですわ。スペルカードもあなたに合わせて一枚きりでお相手するので、平等この上ありません」
 取引は続く。十六夜咲夜としては主の命に従いつつ、蜥蜴を最高の形で敗北させるために。こちらとしてはこすっからく勝利し、目的を達成するために。とはいえ、現段階では既に知っていることの確認でしかない。取引を進めていこう。
 彼女は一応ナイフを収めてくれて、聞いてくる。
「で、その貰い物のスペルカード、ちゃんと効果は把握していますのかしら。そもそも使用に足るのかも怪しいですけれど」
 うーん、よく聞いているな。門番とのやり取りの中で『使えるはず』・『暴発』の言葉が出てきたのを、しっかり把握している。
「どうなるかわからないですよ。使ったことなかったのでね」
「あら、効果について説明していたとお見受けしましたが、嘘ということになります?」
「いぃや。できるだけ発動の速いやつをお願いしたのは事実ですよ。何でも『サイキョー』のスペルだそうで」
 門番との勝負では、発動した瞬間に暴発する危険性を突きつけて、決着を迫ったわけだ。互いに頭部を損傷した場合、自分に分がある。もっとも、暴発するかは確率的には低い方だし、紅美鈴が気によるガードを掛ければ大したダメージは受けなかったかもしれない。結局は譲ってもらった勝利ってことだ。メイド長の手前、思い上がった演技はするが。
 彼女は口元に手を当てた。
「『サイキョー』ですか」
 何か心当たりがありそうな口調だ。実際、あるのだろう。あの氷精ちゃんは結構顔が広い。
「ちなみにスペルカード名は?」
「『エターナルフォースブリザード』」
「強そうですね、名前だけは」
「相手が即死するくらいにはね。それであなたのカードはどのような?」
「『インフレーションスクウェア』」
「はぁ、効果はデフレスパイラルを相殺するとか? 経済政策に投入すべきスペルですね」
「そこまで役立つものではありませんわ。せいぜいたくさんのナイフを出すくらい」
 すると『エターナルミーク』に近いものだろうか。
(いや、やめておこう)
 思い直す。
 彼女のスペルカードの内、こちらで把握しているのは『ミスディレクション』『殺人ドール』『ザ・ワールド』を加えた四枚だけだ。後は名称のみであったり、真偽の定かでない噂だけ。少ない情報からの憶測はかえって裏を掻かれる穴になりかねない。
 第一、スペルというのは普通は弾幕を張るものだから、「たくさんのナイフ」なんてのは大した情報じゃない。まあ、こっちのスペルカードの効果が不明なもんだから、等価交換としては妥当なわけか。
 ふと、門番とのやり取りを思い返した。あの時は情報交換はしなかった。
 そもそも紅美鈴はこちらに質問をしてはいない。あれは単純に相手を気遣っての質問であって、それ以外の他意はない。
 自分も自己紹介を兼ねて手の内を説明した。自分が相手のことを知っている分だけ、相手は自分のことを知ってはいないのだし、それにここはフェアに────と言えたらカッコよかったのだけど、その実は情報を与えることも作戦のうちだった。
 ヒントは与えて根本は隠す。主力と見える能力を伝えて結局使わない。本人も不確定な危険性をほのめかして突きつける。
 「正々堂々裏を掻く」という胸を張って裏街道を歩むやり口だ。
 ギブ・アンド・テイクと言えないこともないが、善意につけ込んで一杯食わせたとするのが適切だろう。もしかして、このことについても怒っているのかな、十六夜咲夜。
「でも、しこたまナイフを放ったところで当たるかどうか心配ですのよ。相手が蚤の心臓だったり、恐竜並の脳だったりしたら」
「いつだって人間並サイズですよ。いかに剛胆かつ頭脳明晰な自分でもね。というか、ナイフ投げの腕の方が心配だ」
「30センチも30メートルも変わらないほどの命中率ですわ」
 ここまで双方に嘘はない。これも事実だろう。居眠りする門番の頭にナイフを当てるとき、近くに本人の姿は見えなかった。どこから投げたのかまではわからないが、屋敷の扉から門扉までの距離を投げたと考えても不可思議ではない。人間の筋力などからしてありえないが、時間操作能力を応用した空間干渉を用いたとすれば説明がつく。
「では、弾幕勝負の勝利条件ですが」
「あー、はいはい」
 あらら、情報交換会は終わりになっちゃったか。お互いのスリーサイズとか好きな異性のタイプとか教え合いたかったのに。
 まあ、冗談はともかく、
「相手に『参った』と述べること。あるいは相手に一撃を加えること」
 とりあえず「ふむふむ」と頷いておく。
「ただし、私については前者の条件だけでいいですわ」
「わーぉ、太っ腹!」大げさに驚くジェスチャー。「でも、それじゃあそっちに厳し過ぎやしませんかね?」
 メイド長は刃先のように薄く唇を開いた。絵に描いたような冷笑だ。
「確かに……そちらが『参った』さえ言えなくなったら私は勝てなくなりますものね。では、あなたが意識不明になることも私の勝利条件に含めましょう」
「あ、そう言う意味?」
 まーったく、何が「確かに」だ。始めから折り込み済みのくせに。
 門番戦の観戦で情報を得た分、自分の方が有利だから自分の勝利条件を敢えて厳しくしたんだろう。もっとも第一の目的は、ムカつく蜥蜴を思う存分切り刻めるという利点。ただの一度も手を触れさせず、完膚無きまでに攻撃を食らわせた後、敗北を認めさせる──彼女が今一番やりたいことだろう。
「じゃあ後から変更は無しですよ。何度攻撃を食らっても負けないなら楽勝だ」
 んなわきゃない。
 無数に挑戦できるジャンケンだとて、チョキしか出せないなら負けは延々続く。時を止める少女にとっては、自分など指二本で固定された相手に過ぎない。
「気が変わらないうちにやっちゃいましょう。さっ、勝負、勝負」
 入り口から小走りに二、三歩歩き、メイド長に顔を向ける。
 彼女は合わせて足を踏み出した。こちらの位置からさらに部屋の奥、中央へと歩いていく動きだったが、蜥蜴が気ぜわしくジャンプしたり屈伸したりしているのを見て歩みを止める。
 うん、普通は広間の中央で開始なんだろうけど、自分としては壁の近くが都合いいのでね。ありがたいことに、空が飛べないハンデとして許容してくれたようだ。
 メイド長は右手を胸元にまで挙げる、と、ナイフが逆手に握られていた。時間を止めて取り出したか。
「おー、十六夜氏十八番のタネ無し手品ですか。……って言うと、16なのか18なのかややこしいな。あれ、糸屋の娘は16歳でしたっけ?」
「これが下に落ちたら開始ということで」
 シカトかい。ノリが悪いね。「ここから先は18禁」くらい言っても良さそうなもんだ。まあ、別の部分で大いにノッてんだろうけどさ。門番戦の開始合図と同じにするとは「意趣返し」としては最高だね。
 双方を隔てる距離は、大きく一歩踏み込んで二歩目で拳打が当たるというごく近いものだ。ナイフを投擲するにはもう少し離れていた方が適当だろう。ということは──
 考える暇もあらばこそ、ナイフは彼女の手を放れ、引力の支配下に置かれた。重力加速を伴って一直線に切っ先を床へ急接近させる。
 自分はボーっと突っ立っていた。ナイフの切っ先と床がキスする寸前で、ハァと気のないため息をついて肩を落とし、膝を脱力させ、
「ッ!」
開始と同時に全力突進をかました。倒れ込みそうなほどの前傾姿勢で地を蹴り、猛然と腕を振る。
 向かう対象たる十六夜咲夜の姿が消えた。代わりに放られたナイフが刃先を向けている。
(だろうな!)
 踏み出した足を軸に半回転し、ナイフをかわしてメイド長の移動先を捕捉。当てるつもりのナイフではないのだろうが、予測していなければよけられなかった。
 弾幕を撃てないこちらは接近戦を仕掛けるしかない──それを受ける気のない彼女としては、時間を止めて距離を置くだろう。接近戦が苦手なわけではなく、
 ①相打ち覚悟で来られるとマグレ当たりの恐れがある。
 ②ナイフと硬質化した腕とのやり合いの中で血が飛び散り、汚れることを嫌った。
 以上、二つの理由があるのだろう。
 移動先は、格下相手に後方へは下がらず、瞬間的な時間停止でできるだけ距離を稼ぐことを考慮すれば、自ずと限定される。
 理想的な対応を自分はしたはずだったが、ナイフは次々と投げられ、進路を阻む。当たり前だが、そう簡単にはいかせてくれないか。
 接近戦に持ち込んだ時点で「参った」の言葉がいただけるのはほぼ確定。泥仕合など彼女にとって瀟洒ではない。だからこそ決して近づけさせまいとするし、それを突破したなら負けたも同然とするだろう。こちらに敬意を払っているなら話は別だが、まあ、ここまで唾棄すべきゲス野郎の振る舞いしかしていないからな。あはは。
 ナイフは計算高く投擲され、一歩、また一歩と後退を強いられる。接近戦に至った時点で勝ちとしたが、逆に距離が開きすぎると──つまりは、十六夜咲夜の狙い通りの状況に陥れられつつあるわけだが──自分の目は段々と慣れてきてもいる。
(そろそろ行けるか)
 距離を詰めようと足を踏み出さんとした矢先、
「曲げます」
ナイフの合間に声が投げられた。
 凛と通った音声だったから聞き間違えではないだろう。「曲げる」? 何を? こちらの性格は既にひん曲がって手の施しようがないぞ?
 コゥッという音に反応して、「うひゃっ」と慌てて前足を引っ込める。間一髪。ナイフが誰もいないところから飛んできた。正確には、ナイフが飛んでいってそれきりでお終いと思われた方向から、こちらへ再び狙いを定めて襲いかかってきたのだ。
 十六夜咲夜は真っ直ぐに刃先を向けて投げてくるナイフに加え、竹トンボのように回転させるナイフをあちこちに投げている。それが床に当たると、コゥッと跳ね返るのだ。十分な殺傷力を保持したまま。
 ナイフで跳弾とはね。曲げてくるのは軌道のことだったか。
 わかったところで事態は好転しない。前方からの攻撃だけでも大変だというのに、横から後から斜めからとプラスされ、まさに四方八方からの予測困難な攻撃が襲い来るのだ。
 それでも何とか被弾せずに済んでいる。かすり傷一つ負わずに前衛的なダンスをせわしいステップで行い続けている。その奇跡的な状況に、メイド長がやや目を見開いているのがわかったが、自分はそれ以上に大きく目ン玉をひん剥いている。
 張り出した眼球が左右別々に縦横無尽の動きを見せる。それが360°の方向からの攻撃にかろうじて対応させていた。爬虫類万歳。生命の神秘に感謝だ。
とはいえ、それでも今度こそ目が慣れるというようなことはなく、双方の距離はじわりじわりと離され──ついに壁を背負うこととなった。
追いつめられたわけじゃない。むしろ壁があることでこれ以上後へ下がらずに済んでいる。そして、退路も確保できた。
数本のナイフが突き刺さる。自分がさっきまでいた壁面に。
 十六夜咲夜は視線を上げた。先には壁に貼り付く蜥蜴がいる。飛べない自分が上へ移動するには、ここを利用するしかない。
「掃除は念入りに行っておりますので、あまり汚してほしくはないのですけど」
冷静そのものの声色で語るメイド長。まあ、この動きは予想してだろうからな。
「ああ、大丈夫ですよ、吸盤や粘液で引っ付いているわけじゃないですから。ヤモリなんかが細かい毛で、ファンデルワールス力というのを……というか、刃物を突き立てた人間が壁の心配しますかね」
「では、あなたの心配をすればよろしいのかしら? 動きが鈍さなどを気に掛けましょうか?」
「お気遣いいただき恐悦至極。いや何、夜更かしは苦手でしてね、夜行性でないので」
 やっぱり目に見えて運動性能は落ちるか。まあ、事情があるんで仕方ないところだ。それに万全の身体状態であったとしても、双方の力量差は隔絶したままだろうし。──そして、どれほど弱体化していても想定通りことが運べば、勝ちは拾える。
さて、このまま射的の的になるのも芸がない。甚平の紐を片手で解く。足に力を込める。
 一気に蹴り出した。相手に一直線に飛びかかる。
 彼女は「は?」と口を開けていた。馬鹿なの?って思うのはわかる。当然のようにナイフ一本、頭部目がけて投げてきた。空を飛べない者が空中でそれをかわすことはできない。現代の爬虫類に飛行能力を持ったものはいない。
 ──でも、ねぇ。
あばら骨が横に広がった。間に皮膜が張って翼のようになっている。これにより羽ばたくことはできないにしても、
 ──滑空はできるんですよ、奥さん!
 トビトカゲの生態は御存知なかったかな。日本にはいない種だからね。
 体を横に傾ける。空気抵抗、揚力が変化して右へと急速に流れる。すれ違いざまに一撃でも加えられればと期待したが、更なるナイフ投擲により距離を離され、もう片方の手に隙無くナイフを構えられれば尻尾すら振る気になれなかった。意表を突くには意外性が不足していたか。
 悪手を打った蜥蜴に容赦なく刃物は襲いかかる。横向きのまま片手で着地。一拍置く余裕もない。皮膜を回収しつつ側転から、バック転と連続して回避動作。眼前を金属の先端が走る。足下を狙った攻撃をバック宙でかわした。
 勢いでバックステップしたとき、ナイフの雨が止んだことに気づく。悪寒。
 十六夜咲夜の右手が掲げられており、二本の指先に白い札が挟まれていた。スペルカード。距離が、離れ過ぎた。発動の隙を与えてしまった。濃密な死の香り。
「『インフレーションスクウェア』」
 冷たい宣言によりスペルカードが発動した刹那、室内の色が変わった。変わったように見えた。窓の黒や絨毯の赤が白っぽくなったと感じたのだ。
 実際は、全てがナイフだった。銀に煌めく刀身が視界全体を覆っていた。見渡す限り、刃、刃、刃。行使者たる十六夜咲夜の姿も無数の刃物に隠れていた。
 先端恐怖症でなくとも発狂しかねない状況に、自分がとった行動は、臆病者が生命保持のためにするものとしては最適だったと思う。
もはやかわすどころの話じゃない。かといって、自身の硬質化程度で防ぎきれるものではない。亀の甲羅を顕現させれば何とかなるかもしれないが、完全に行うには脊椎やら鎖骨やらまでを大きく変形させなくてはならず、時間が足りない。骨甲板は捨てて角質甲板のみ、それも頭部に集中させる。せめてそこだけは!
 顔面は両腕で抱え、頭部を一極集中で防御した。覚悟は決めた。最悪は想定した。そして、
 想定した通りの「最悪」が来た。
 全身に刃物が突き刺さる。生半可な鱗・筋肉などものともせず根本まで刀身が食い込んでくる。身体はナイフに置き換わり、激痛に激痛が重なり激痛が感覚の全てとなる。
 倒れた。
 足の腱のことごとくを断ち切られたから当然だ。天井が目に映り、背中のナイフがより食い込んで、反射的にやや横倒れになったが別のナイフが食い込んだ。
 脳や心臓を狙わなくても行動不能にするに十分じゃないか。わかっていたことではあるが、圧倒的だ。圧倒的に無慈悲。
 気絶せずにいられたのは「最悪」が想定を超えなかったからだ。けど、あれだ、気絶したら負けって条件がなければとっくに気絶したかった。それくらい猛烈に痛くて辛い。まさに生き地獄と言っていい。
 痛覚を遮断する余裕があればなどと思っている間に、足音。ギ、ギギと錆び付いた蝶番の如くに首を起こせば、十六夜咲夜がこちらへ一歩一歩近づいていた。
 その光景が視認できるということは、眼球と脳が無事であること、つまりは頭部だけは酷い損傷を免れたことを証明するものである。防いだ腕はナイフの剣山と化しているが、脳に達する射線の攻撃はまるでなかった。
 要するに脳味噌だけは傷つけないような弾幕を張ったわけだ。そして、逃げ道は用意されていた。
 「勝利の道筋は必ず残しておく」という弾幕勝負の作法はきっちり守ったことになる。そして、その理に恐怖から目を背け、自ら視界を覆って脱出の機会を逃した蜥蜴は、無様極まりない有様をさらす。
 全てを思い通りにした切り裂き魔が、ナイフの繁茂した足下に立った。
「何かおっしゃることはございませんか?」
(この上、さらに、)
 自ら敗北を口にさせることで最高の屈辱を与えるか。容赦無さ過ぎ。
 片手にはナイフ。油断も無しだ。心臓を体内で移動させ、顔面に内包しておく可能性を考慮に入れている。そんなことしちゃいないがね。ったく、尻尾を大振りしたところで切り裂かれて終わりだろうな。
沈黙を守ったままでいることはナイフが許さない。意識を刈り取るために投擲するだろう。下手をすれば死ぬという際にありながら意地は張らない──彼女はそう踏んでいるに違いない。そういう人格を演じてきたし、実際そういう蜥蜴だ、自分は。死ぬためにここに来たわけじゃない。
「喉と舌は無事なのでしょう? 早めの一言をお勧めしますわ」
 促され、口を開く。弱々しく震えていた。穴だらけの肺腑は木枯らしのような音を立てる。かすれ声が出た。
「……チ」
「ち?」
 聞き取ろうと顔が近づく。
「チェックメイト」
はっきりと発声したとき、とっさに判断すべき彼女の反応は明確に遅れた。
さらに思いも掛けないところから攻撃が飛んできて、反応はもう一拍遅れる。
 首筋から液体が噴射したのだ。
 毒蛇ヤマカガシはヒキガエルを餌にしたとき、ヒキガエルが持つ毒を取り込んで蓄えることができる。牙から出す自製した毒とは別に、この毒は頸部から発射することができるのだ。
毒の効果は期待していない。期待しているのは──うん、カメレオンが長い舌を伸ばすのよりも、サバクツノトカゲが目から血液を放つよりも、ビックリドッキリしたんじゃないかな。意外性十分だ。
 ナイフでは液体を防げない。かといってかわすことはもはやできない。ただ、それは普通の人間ならばの話であり、十六夜咲夜には時を止める能力がある。瞬間的な能力行使であっても、右か左へ毒液の範囲外へ退くことはギリギリ可能だ。
 ──だが、自分は嘘をつかない。普段食ってるものはザリガニとか水苔とか酷いもんだが、こと弁舌に関しては「本物しか口にしていない」。よし、上手いこと言った。……ともかく、「チェックメイト」を告げた以上、彼女が詰みであることは覆らないのだ。
毒の噴射の際、自分は気持ち顔を右に傾げている。そちら側には体を横にしたせいで太い尻尾がのさばっている。液体は右へ飛び、攻撃の可能性が右に控えているという状況で、とっさの回避をするならば自ずと左に行くわけだ。
 想定通り、彼女の姿はその場から消え、やや左方に出現していた。顔には驚愕の色が表れ、視線は後方へ向いていた。
 自分の敗北を信じられないようだった。
 せいぜい小突かれた程度ではあるのだが、それでも一撃は一撃だ。
 絨毯の色に紛れていた「それ」が、緑の色を取り戻してゆく。勝利をもたらした我が肉片だ。
「赤色の蛇って珍しくないんですよ。カメレオンなども体色を変化させるし。あ、そうそう、眼球を左右別々に動かすのもカメレオンならではです。舌を伸ばすのもね」
 一応ヒントは出したというアピール。戦闘中、そして門番との会話で。
 肉片はウニウニと五本の指を動かしてこちらへにじり寄ってくる。肉の内部できしり合う刃を感じつつ腕を動かし、何とか地下足袋を脱いで待ち受けてやる。
「……いつ?」
メイド長が尋ねるので、「トイレで」と答える。右足のつま先部分をむしり取っておいたのだ。後は激しい戦闘のどさくさで落としておくって寸法だ。
 メイド長が時を止めて避けるタイミングと合わせて、予想待避方向に控えさせておいたつま先を飛び跳ねさせる。後は結果の通り。彼女は自ら一撃をもらいにきた形となる。
 つま先はどこに忍ばせておいたかって? 懐に入れておいたのでは、はだけた甚平からこぼれ落ちる。となると…………うん、まあ、言わぬが花というやつだ。女には隠し場所がいくつもあるらしいが、男にはしがみつかせておくところが一カ所しかない。幸いにも十六夜咲夜からのその件につきましてのご質問はなかった。
 足の断面部が接し合う。しばらくぶりの出会いだ。首から下において、ナイフが刺さってないのがそこだけってのが妙に笑える。
「地下足袋を履いてるってとこ疑いを持つべきでしたね。これ、必要とする爬虫類はいませんよ? 自分も裸足で十分です。面の皮ほどではないけれど、足の裏の皮は十二分に厚いのでね」
 足袋が履き古されたものだから考えが及ばなかったのだろうか。でも、半年履き続けるくらいの配慮は当然する。
 脱いだ地下足袋を中の詰め物ごと脇におく。もう片方も脱いだ。今後は必要ない。
「わざわざ館内でこっそりやるよりも、紅魔館へお越しになる前から仕込んでおけば宜しかったのでは? 先の対戦で使える手が増えたでしょうに」
「たちの悪い冗談を。あの門番相手に体術で張り合う、いや、足下に及ぶくらいになるには、片足でも不十分じゃ無理でしょ」
 もう高飛車でいる必要はないので、正直なところを話しておく。屈辱返しってな状況になったままじゃ寝覚めが悪いし、目的達成の障害にもなりかねん。積極的に神経を逆撫でしようとしていた点までは否定できないが。
少なくとも、紅美鈴に敬意を払っていることだけは伝えておこうと思った。
「わざわざ怒らせようとする作戦だった……? それともサディスト?」
「そこはマゾヒストでしょう。まあ、どっちの性癖も否定はしませんが、ともかく、そう、ご立腹させるのは計画の内でした。ご容赦くださいね、こちらは勝ち方を選べないので、勝ち方を選べる側に、勝ち方を限定してもらいたかったんです。エリマキトカゲの挑発だって意味のあることでしてね、あれがあったから液体を回避する行動が遅れた。でしょう?」
 『チェックメイト』の言葉も単なる挑発で、その後の行動がコケオドシでしかなかったら。もしまた身構えたりなどしたら恥となってしまう。そんな恐れが枷となったわけだ。
「…………」
十六夜咲夜は、何とも言えない表情を浮かべて沈黙した。どういう感情で相手を見ればいいのか決めかねているのだ。
 勝利を得るためにいじましい努力を重ねたことを称賛すべきか、侮蔑すべきか、あるいは人様をいいようにたぶらかしたことを怨嗟すべきか。
どう思われても、自分にはこの勝ち方しかなかった。チョキしか出せない状況で勝ちを得るには、差し出された握手の手に対してチョキを出すのだ。ずるいといえばずるい。それでも相手の決めたルールに則った上での勝利だ。
「最後に一つ、聞きたいことがあるのですが」
「何なりと」
「心臓は無傷なのですか?」
「ええ、そうです」
「どういうことかわからないのですが」
「切り離した肉体を動かすことが可能だというのは御存知ですよね。首チョンパされても体を動かせるとも門前で話しています。それならですね、『心臓から切り離した肉体も動かせる』って考えのコペルニクス的転回で理解できません? 運動性能が落ちていたことはつま先が欠けていただけが理由ではありませんよ」
 十六夜咲夜は少しだけ考えを巡らし、そしてハッと両眉を上げる。
「心臓を摘出した……まさか、あそこで」
「ええ、つま先と合わせて大手術を敢行したってわけです。一応ヒントも出したでしょ」
 ニッと奥歯までの連なりを見せる。
「『大きいのを出す』って」



「…………ん?」
気づけば、見慣れない大扉の前にいた。頑丈な造りで、凝った装飾がしてある。全体的に赤の目立つ色合い。どうやら、この先にお目当ての館主様が鎮座ましましているらしい。
 自分の体を捨て駒にした甲斐あって、第二戦もかろうじて勝利した。約束通りにメイド長は「では、お嬢様のもとに案内します」と串刺しの刑に遭ったままの蜥蜴に言った。そして、言った瞬間に目の前の大広間は扉へと変貌したのだった。
時間を止めている間にここまで連れてきたのか。すぐには自分で歩くのは辛かったので、助かるといえば助かる。
 座ったままで自分の体を見回す。無数に突き刺さっていたナイフは全て抜かれており、残るのは無数に空いた穴のみだ。痛い。
 ただ、回復する間を与えてくれると有り難かったんだけどなぁ。ティータイムを二人で過ごしつつ、なんて幻想も抱いていたりして。それは虫が良すぎるとしても、いくら何でもこれじゃ余裕なく「紅い悪魔」と対峙しなけりゃならなくなる。
 意地悪されたのかな? 確かに何をやられても文句言えないくらいのことはしているのだが。
 右側に視線を移すと、盆の上にお絞りがいくつか重ねられていた。これで体液まみれの体を拭いていいらしい。こういう気遣いをしてくれる辺り、時を止めて運んだのは照れ隠しもあったのかもしれないな。邪険に接していた相手に今更かいがいしく接するのは、どういう顔をしていいか少女にはわからなかった……なんて考えるとカワイイな。
 ふと、左側に視線を移すと、脱いだ地下足袋と一緒に屑籠が置いてあった。見覚えがある。トイレの備品だ。蓋付きのものだが、中を見なくても何が入っているかわかった。何せ自分の一部分であり、自らの手で入れたのだ。
「うへぇ~……」
 いくらなんでもそのまんま持ってくるかね。胸部を割り開いて中に収めてくれることまでは期待しないにせよ、重要器官をゴミにまみれた状態で「はい、どうぞ」って。
 やっぱり嫌がらせなのかもしれなかった。
 座っているところが白いことに今気づいたが、タオルケットかバスタオルが敷かれている。あちこち汚れているのは、恐らく自分の体液だ。丁重にもこれに包んで運んできてくれたのか。
 しかし、これだって見方を変えれば直に触りたくなかったからとも……うーん、お絞りも「体を綺麗にするならセルフサービスで」ってことか?
 悪く考えるときりがないな。好意的に解釈すればだ、回復しきらない穴だらけの状態じゃ拭き取ったところで体液が漏れるわけだから、対応として酷すぎるとは言えない。
 ……いやはや、こんなふうに煩悶させるのを狙っていたのかもね。
お絞りを手に取りあちこちを拭く。色々考えを巡らした時間とプラスして、普通に歩いて普通にしゃべれるくらいには回復した。
 地下足袋を懐に入れ、屑籠を手に取る。タオルケットはこのままでいいよな。よっこらせ、と立ち上がる。
「さて、最終戦、あるいはエピローグだ」
 心臓はこのまんまでいいだろう。流石にこの中のものをそのまま移植ってのは抵抗がある。
 いや、特に衛生上の問題が生じるわけじゃないんだけどさ。爬虫類はその辺り強力だから。たとえばワニは汚水の中で傷だらけになっても平気の平左で、その免疫能力はエイズウィルスをも死滅させるほどだ。
 それでもやらないのは単にこちらの気分。水洗いくらいはしないと嫌なんだよね。
 他の理由を付け加えるならば、回復能力がそちらに取られるのを避けたということ、そして、
(普通に胸に戻すより、片手に心臓を持っていた方が面白いだろう)
 そんな思惑がある。細かい演出は重ねておいて損のないはずだ。
「では、ご対面といきますか」
空いた手で取っ手をつかむ。引いた。重い手応えを伴って、隙間の向こうの暗闇が幅を広げる。
 と、部屋の照明が落ちた。全くの闇が包む。
 いや、つかんでいたはずの取っ手が消えている。照明などではなく、幻術の類か。
 ただただ立ちつくす。幻の創り出した世界の中では、暗闇に目が慣れたところで何も見えないだろう。動くだけ無駄だ。立っている場所があやふやになるが平衡感覚を失わないように己の「軸」を意識する。
 やがて、声が投げかけられた。
「なかなか肝が据わっているな。微動だにせず、動じもせずか」
幼い少女のもの、だが威厳たっぷりだ。声のする方を仰ぎ、応える。
「それはもう『闇』の中では『無闇』に動けませんので」
 クックッと漏れる笑いが鼓膜に触れる。言葉遊びはお好きなようだ。
赤黒い満月が大きく宙に現れた。それを背景にした人物のシルエット。
 まず目が紅く光り、そして全身が発光してその姿を明らかにする。
レミリア=スカーレット。この館の主だ。
 背中に大きく蝙蝠の羽が広がっている。それ以外は特に変わった容姿には見えない。紅いレースやリボンで飾ったピンクのドレスは小さく、身に纏う少女もまた幼い。ナイトキャップに似た被り物を銀髪に載せているのも童顔をより印象づける。これで500年生きる吸血鬼というのだから、見かけで人を判断するのは宜しくないな。いや、相手は悪魔か。
 油断しているわけじゃない。何しろ門番やメイド長を凌駕する力の持ち主だ。自分など一秒も掛からずに九回は殺せるだろう。猫でも生き残れない。だが、ここまで来た以上は死ぬことはないはずだ。手順さえ間違えなければ。
幼顔の夜王が言葉を落とす。
「さて、顔を合わせた直後だが、さっそく死んでもらうことにしよう」
「ありゃ」
 掲げた右手に紅い閃光が放たれる。そして、槍の形を取った。強力なエネルギー。長大な死の先端はこちらに向けられていた。
「我が手の者がさんざん虚仮にされたからな、その礼だ」
予測・期待通り一部始終をご覧になっていたわけだ。そりゃこれだけの魔力を持っていれば、部屋から一歩も出ずに状況を把握するくらい息をするようにできるわな。アンデッドだけど。
 酷薄な歯列を見せて、吸血鬼は言葉を足す。
「ああ、逃げても逃げなくてもいいぞ。一瞬で片が付く」
 実際、その気になれば指先を動かすほど容易く、蜥蜴の命を消し飛ばせるだろう。
「あの、」
「ん、何だ。遺言か?」
「手土産も持たずに失礼しました。代わりの物と言っては何ですが、これを」
 恭しく心臓の入った屑籠を差し出す。
「いらんわっ!」
 ボヒュンと空気を裂いて紅の光槍は後方へすっ飛んでいった。ナイス・ツッコミ。
「お初にお目に掛かりましたので、新鮮なハツをと思ったのですが、お気に召しませんでしたか」
「召さないし、召し上がりたくもない。……まったく、少しは物怖じしたらどうだ。私自らが脅しを掛けているんだぞ」
「ご厚意痛み入ります。ですが、その気がない脅迫に恐れおののくのもなかなか難しいものでして」
「その気がない、か。どうしてそう思う?」
「ここまで通されたことがその理由です。それは自分を処刑するため? いえいえ、蜥蜴一匹始末するのに夜の支配者様が自らのお手を汚すはずもないでしょう。であれば、直接お会いになったのは、自分個人に興味を持ってくださったからということしか考えられなく──謁見を認められた光栄に感謝はすれど、恐れおののくなんて失礼はできませんですよ、はい」
フン、と鼻を鳴らし、吸血鬼は口角を上げた。
「よく回る口だ」
「長口舌を振るうのは得意でしてね」
 カメレオンの舌をビョインと伸ばし、口内へ戻す。
「頭も回るようだがな。吹けば飛ぶような命でよくやったものだ」
「ありがとうございます」
「会話の端々で妙に学を感じるが、どこから仕入れたものなんだ?」
「川と沼の繋がりによりまして、河童とある程度親交があるので、幻想郷内外の読み物は比較的手に入りやすいのですよ」
 ただ、すこぶる偏りのある知識にはなったけれどね。それでも対手の理解や興味関心に問題は生じないはずだ。紅魔館の大図書館の蔵書や主の好みも大分偏りがあると聞いている。マニアックな分野や衒学趣味には寛容に、楽しんでもらえると踏んだ。
「なるほどな。まあ、いろいろと面白いものを見せてもらった」
「喜んでもらえたようで何よりです」
「さて、ではそろそろ目的を聞かせてもらおうか」
「目的」
 ちょっともったいぶってみる。そりゃ聞いてみたいだろうな。そこのところも計算の内だ。
「余程大層な事なんだろう? 一年も入念に手を掛けて、自分の命を賭け金に、そして駒にした。少々演出が鼻につかないでもなかったが、それも含めて良い見せ物だった。だが、お代は私の尊顔を目に焼き付けさせるだけで足りるのか?」
 よくわかってらっしゃる。一連の弾幕勝負及び茶番は、全てあなたに見せるためにやっていたのですよ。しかし──
「目的は、ここに招かれた時点で九割九分は達成しています。残りの一分は一言の用件」
「うん、いいぞ。言ってみろ」
しかし、次の台詞は予想もできないだろう。
「今度飲み会がありまして、『沼』の長がお招きしたいそうです。その使いで自分は来ました」
レミリア=スカーレットの目が点になる。
 直後、笑声が発破となった。開けた口から二本の牙が白く見えている。誰にはばかることなく、幼い悪魔は身をのけぞらせ、またはくの字に折って笑い続けていた。
「それだけ! ハハハッ! それだけか! ハハッ! たかがそれだけのために我が居城に乗りこんできたか! 一年も費やして! ハハハハハハハッ!」
 そう、まったく本当にそれだけのために自分はここに来たのだった。飲み会のお誘い。艱難辛苦の果てにそれだけ。酔狂にもほどがあるね、飲む前なのに。
未だ笑いを抑えきれない様子でレミリア嬢は言った。
「クックック、いいだろう、乗ってやる。こうまで楽しませてくれたんだ。当日は期待できるだろう! ハハハッ!」
投了。
 ありがとうございました、だ。
 目的は達成された。考えに考え、一手一手を打ってきた甲斐があった。
 自分のことを酔狂だと言ったが、同類は少なくとも二名いる。一名は目の前のお嬢様だ。
 低俗と見なされる「沼」への訪問を高貴なる夜王が行うなど普通はありえない。酔狂であるからこそ、吸血鬼は蜥蜴に関心を抱き、それを配下とする沼の長に興味を持った。興味関心の方を大きく取ったのだ。
自分は、そんなお嬢様の好みに合うように行動して、目論見を達成することと相成った。
 そして、酔狂な輩のもう一名は、我が主、沼の長だ。互いに酔狂であるからこそ、沼の長は吸血鬼を招待したいと考えた。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。下手すれば「沼」そのものを壊滅されかねないというのに、ねぇ。
 会ってみてよくわかった。沼の長と紅魔館の主はよく似ている。かの「紅霧異変」から気になりだしたと長は言っていたが、思いつきで大それたことをしでかすのはどちらも同じだ。能力的な差はあるにせよ。
 もっとも一番変わり者なのは自分なのかもしれない。
 他愛ない目的のために長い月日を掛けて死地に向かう。紅い吸血鬼でなくとも全くの笑い種だ。であるにも関わらず、それは楽しかった。勝敗、生死、可否を分かつラインを綱渡りしていくスリル。一年の準備期間も含めて本当に充実していた。そんなふうに考えられてしまう辺り、やはり自分が一番の変わり者──
「それで、」
「はい?」
 感傷に浸っているのを断ち切られて、意識を前方へ戻す。
「酒宴の当日、お前は当然ずっと私の側で酌をしてくれるのだろうな?」
「えっ」
 いつものように軽口で返すことができなかった。それどころか言葉に詰まり、唖然と口を開けてしまった。演技でなく、本音で。
 完全に想定外の、そしてよく考えれば必然的な台詞だった。
「いや……あ、まあ、それは挨拶くらいはしに参りますが、『ずっと』というのは如何せん……独占するほどの価値は自分にはありませんし、全幻想郷の美女達が嫉妬の鬼と化すことも……」
「言っていることに矛盾があるぞ。なに、お前のような者を送り込んでくる奴だ、沼の長とやらは面白いには違いなかろうさ。しかし、お前ほど面白がらせてくれる者が揃っているとも限らないしな。この私が出向くんだ、保証として蜥蜴の随身くらいはあって然るべきだろう?」
 悪手を打っている自分を認識していながら、しかし、どうにもできない。対するレミリア嬢は一手一手が論理的で、詰みに来ている。
 いや、既に勝負はついていた。どう足掻こうとも投了は見えていた。自分にとって好ましからざる結末が。
 今回の一刻に満たない一局に、自分は一年掛けた。紅い悪魔を楽しませ、酒宴に招待するために。
 今度は一晩だって? 大して準備期間もないのに? 難題にも程がある。一度でも機嫌を損ねれば、それどころか、興に乗せることを持続できないってだけで、最悪死ぬこともありうる。
(そんなモンなよ竹のかぐや姫でも出さんぞ)
 苦虫を噛み潰した表情を出さないだけで今は精一杯だ。
「自分が長から命じられたのはレミリア嬢の招待だけ」、という逃げ道は封じられている。夜の支配者から直々のご指名を受けて断ることは、蜥蜴風情にできるはずもない。
 なんてこったい。最後の最後で、というか、最初から読み違えていた。招待に成功してからが、最終局面の始まりだった。目の前のことしか見えてなかったというのが最大の大ポカだ。
(あ……)
 そこまで考えて、ある結論が形を為す。
 暗闇の中に縦横の線が走っているのが幻視できた。自分はその盤上に置かれた駒だった。その指し手は──
 長、か。
 あんにゃろう、始めからわかっていたのか。しかし……いや、間違いない。絶対にそうだ。自分を駒と動かして、首尾良く思い通りに事を運んで、さぞご満悦だろう。
 核弾頭を自陣に招き入れて楽しむが、管理は人任せ。美味しいとこ取りで酒宴を満喫できる。
 一枚も二枚も上手ってことか。飛車角二枚落ちでも太刀打ちできんかもしらん。流石は曲者揃いの「沼」を統べているだけはある。いやあ、惚れ直した。そして、可愛さ余って憎さ百倍だ。殺したいほど愛してる。
決意した。
(絶対一泡吹かせてやろう。大方こちらが青息吐息の四苦八苦している姿を酒の肴にするつもりだろうが、フグの肝となって中毒死させてやる)
強い意志を希望で固め、星を臨むが如く仰ぎ見れば、現実が待っていた。
 紅の吸血鬼が口を三日月に開いている。
 こちらの葛藤やら煩悶やらを認識しているのだろう。ハヤニエにされた蜥蜴を見てあざ笑うような素敵スマイル。ああ、わかっています。よぉく理解していますよ。他者をどうこうする前に、自分の命の方が大事だってんでしょ。
両頬に手をやり、グイと引っ張る。同じように笑ってやる。笑みの形は心をハッピーなペンキで塗ったくってくれる。よーし、楽しくなってきた。
 考えてみれば幸福な要素満載だ。勝負はまだ続いている。目的を達成しようと足掻くことができる。自分の生を実感できる。これこそが人生だ。
 転がった屑籠からは心臓がはみ出ており、元気に脈打っていた。
 さあ、次はどんな手を打とうか。
考えねばならんのは、うまくいきすぎている時ですよ。──大山 康晴

現状は悲観的に、将来は楽観的に。──谷川浩司

勝敗を決定するのは、“ただの一手”であったりする。絶妙の一手。あるいは絶妙に見えて最悪の一手。──羽生善治

勝負は、その勝負の前についている。──升田幸三

過程でまったく笑いがない場合には、どこかで破綻が生じる。──米長邦雄
らいじう
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コメント



0.560簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
よく考え込まれた戦闘、洒落た台詞回し、個性的な主人公、どれをとっても素晴らしいです。
夢中で最後まで読みました
4.無評価名無しの権米削除
とても面白かったです
次回期待してます
6.100小説を読む程度の能力削除
こりゃすげえ
12.100暇神削除
パネェ

似たようなものをかける人がいくらいるか……
15.100名前が無い程度の能力削除
所々、蜥蜴の煽りにビキビキ来るのは、自分が直情的だからか、それとも文章が巧みだからか、まあ前者二割後者八割ですね、間違いなく。本当に巧みで動きのある文章でした。
16.100奇声を発する程度の能力削除
凄い、この一言
17.100名前が無い程度の能力削除
よく考えてあるなぁ。
ただただ、すごいと思った。…小学生かよ()

米長さんの言葉は私も好きです。
この言葉をここで見かけるとは思いがけない僥倖でした。
18.1003削除
何これ。半端無く面白い。
オリキャラの蜥蜴さんが生き生きしていること!
最後に一杯食わされるところは彼も一妖なんだなあと思わされますね。
兎も角、お見事です。
19.100名前が無い程度の能力削除
実に面白かった
22.100名前が無い程度の能力削除
凄く面白かったです
オリキャラの目を通して紅魔組の性格がいきいきと伝わってきましたし、とかげさんのキャラも非常に魅力的で、言動がかなりウザいのに、そのウザさが誠実で、ちょっと忘れられないキャラになりそうです