爽やかな夏風に、さわさわと揺れる緑の大きな葉と甘い香り漂わす花弁。
夏の太陽の畑には、さんさんと陽の光が降り注いでいる。
そんな畑の柔らかな白い日傘の下、緑髪を揺らし、白い肌は零れた日を照り返し、紅い唇は弓状を描いていた。
夏は色とりどりの花が太陽の畑を彩り、甘い香りに誘われて蜂や蝶が其処彼処で蜜を吸っている。
これだけたくさんの花が咲いていれば、人間もこの光景のために来ていてもおかしくないのだが、今ここにいるのは彼女一人のみ。
花の大妖怪、風見幽香のいるこの場所に、人が寄り付くことなどない。
日傘をくるりくるりと回して、陽気に花を眺めている。
一方花達は、太陽の光を一身に受けながら太陽を仰ぎ見ていた。
「私には見向きもしてくれないものね」
それでも花を責めたって何もないことはわかっているし、幽香がいなければこれほど様々で、尚且つ綺麗な花が咲き誇ることもない。
そもそも、花は人間のように喋ることもできなければ、長い間生きることもない存在である。
妖怪という存在の前では、何とも弱すぎる生き物だ。
しかし、弱者なれども、他の誰にも真似のできない美しさを持って生きている。
そんな儚くも美しい花に、幽香は恋したのだ。
それは叶うことのない一方的な片思いかもしれない。
そんな思いで幽香は花達に愛情を注ぎ始めた。
己の有する妖力を、花を操るというとても小さくて弱々しい、力を有する者とは思えない能力へと変えたのだ。
そうすることによって少しずつ、それぞれの花達の意思が分かるようになった。
花達が持つ、唯一の言葉。
ここから、花達は心の奥底で幽香に感謝していることを知ることができた。
今や幽香は、花達にとってのもう一つの太陽とも言うべき存在とも言えるだろう。
本物の太陽はといえば、そんなもう一つの太陽を見下ろすように、高い上空で眩しい笑顔を振りまいている。
そんな表情を覆うように、幽香は太陽に手を伸ばし、妖しく笑って見せた。
「いつかは貴方が必要なくなるまで私は強くなってみせる。それまで貴方はそこで能天気に陽を注ぎ続けていればいいわ」
太陽の暑さに負けない燃えたぎる闘志が、幽香をまた一層強くするのである。
花に対する熱い愛情が、太陽をも燃やし尽くす時はあるのだろうか。
「ん?」
そんな中、何か視線を感じて、太陽から手を放した。
珍しい来客かと目を離し、視線を辿った先には当然、人影などあるわけもなかった。
沢山の向日葵が斜め上を見つめる中、一本の花がぽつりとこちらだけを見ている。
じーっと。その真っ黒な瞳で幽香を見つめていた。
「去年は一本へたれた向日葵があったけど、今度はなぁに? 毎年へんなのが出てくるわね」
ツンツンと指で突き、花弁を斜め上に向けようとするも、頑なに幽香から目線を外そうとしない。
右に行けばそちらを向き、左に行けば左を向く。
向日葵から顔を背け、ゆっくり歩いては不意にまたその向日葵に目を向ける。
幽香から視線を外すことなく、じーっと眺め続ける向日葵がそこにはあった。
「貴方にとっては私が太陽ってことかしら? 嬉しいものね。まずは手始めに向日葵一本は私の虜と言ったところかしら」
ふふっと微笑んで上機嫌。
これからこの向日葵のように、すべての花が幽香の方を向くと考えるとゾクゾクする。
幻想郷の花々が、太陽などにも目もくれず、幽香だけを見るようになるのが、密かな野望であった。
まるで音楽隊のように。
幽香が指揮者で、奏者は花。
これが現実となる前に、博麗の巫女に邪魔されそうなのは容易に想像できることだが。
「まぁ、霊夢はその頃に生きているかわからないけど」
花の異変と銘打って、飛んできそうな気がする。
きっとその時は、霊夢がやってきたころの事を懐かしく思うのだろうかと、幽香は想像を膨らませる。
まだその夢が実現したわけでもないのに。
「来年の事を言えば鬼が笑う、ね。ま、来年どころの話じゃないだろうけど」
幽香を見つける向日葵に、ひらひらと手を振って、その場を後にした。
◆
その日は、しっとりと梅雨が降っていた。
紫陽花の花から滴り落ちた雫が、蒼をより鮮明にし、葉を大きく弾ませる。
花達は雨に打たれてただただ頭を垂れるのみであった。
厚い雲に覆われたその向こうに太陽があると信じて、上目遣いのように空を窺う。
地面にできた水溜りに映る空を覗いては、太陽が現れるのではないかと祈るような思いの花々。
万能日傘を片手に、幽香はぴしゃぴしゃと濡れた地面を行く。
香霖堂で手に入れた長靴を履き、足が濡れることも汚れることも無くなってちょっと雨の日も以前と比べて機嫌が良い。
「ほら、貴方達の太陽が来ましたよ?」
花々に語りかけるも、それらは重い頭を下げたまま、幽香の事など目もくれなかった。
貴方は本当の太陽じゃないでしょう? と言わんばかりの反応だ。
そりゃそうよ、と心の中で幽香は返すも、ただ一本、その花は幽香の方をじっと見ていた。
「でも、やっぱり貴方は変よ」
雨の中でも、その黒い瞳は幽香だけを見ている。
幽香は、その花のぐいと近寄り、彼に雨がかからないように日傘を被せた。
滴り落ちる水滴を、幽香は手のひらで掬う。
「貴方は本当に花なのかしら? あの空にある太陽がなくっても生きていけるんじゃなくて?」
そんな問いかけに答えるわけもなく、ただただ幽香をじっと見つめている。
それに対して幽香も、紅い瞳でじーっと見つめ返した。
視線で穴を空けるような勢いで、その花の心を読むように。
水溜りを叩く音色、雨を弾く傘の音、ざわざわと風に揺れる草木のざわめき。
人の手によって作られた音のない静寂が訪れる。
やがて固く閉ざした唇をそっと開く。
「ちょっと試してみようかしら」
根負けした幽香は、すっと腰を上げて、うーんと唸り声を上げる。
手を振り、向日葵に別れを告げると、幽香は家へと帰っていく。
遠ざかる幽香の姿を、向日葵は一度たりとも視界から外すことはなかった。
◆
「なにこの縦に長い箱」
「花を虐めてるの」
「貴女が?」
「そう、私が」
ふらふらと何処からともなく現れた霊夢は、異様な縦長の黒い箱に興味を持ったようだった。
花を虐めていると平然と言ってのける幽香にも違和感を抱いたようだ。
何かよからぬことを考えているのではないかと。
「あんた何考えてんのよ」
「何って、私はいつも幻想郷の花々の事を思っているわ」
「そういうことじゃないのよ」
「じゃあどういうことかしら?」
「あーっ! もう!」
我慢できない霊夢は、幽香の事など無視して、黒い箱を雑に取り払った。
中からはなんということもない、ただ一本の向日葵が元気に伸びていた。
幽香をじっと見つめながら。
「なんだ本当に花が入ってるだけじゃない」
「だから言ったでしょう。それにしても、一週間は箱に入れたまんまだったんだけど……」
「はぁ。なんかこの花じっとあんたの方見てるけど。仕込んだの?」
「まさか。花は自然に咲いてこそ美しいの。そんな無粋なことしないわ」
頬を膨らませ怒ったようなしぐさを見せる。
しかし目を見るとにこやかであった。
「あんた能力で花咲かせられるじゃない」
「あれは気まぐれなの。私はあくまで自然に花が開くのをお手伝いするだけなんだから」
花の心なんてわからない霊夢としては、どっちも同じだろうとため息をついた。
しかし、この不気味な花にどうやら興味を持ったのか、霊夢は向日葵をじっと見つめる。
向日葵は霊夢の事など何処吹く風である。
「嫌われ者ね」
「別に花に好かれようなんて思ってないわ」
「あら悲しい」
「うーん……。別に妖怪っぽい風には見えないしなぁ。でも絶対おかしいわよねぇ」
「何故妖怪っぽく見えないって言えるのかしら?」
「勘」
何でも勘で済ませるのはよくないと思うが、その勘が大体当たっているのも事実。
以前紫が、勘だけに頼っちゃだめよと言っていたが、彼女は聞く耳を持たない。
幽香も、霊夢が勘だというのなら、と納得してしまっているところがある。
ほぼ間違いがないためそうやって納得してしまう背景がある。
「でも妖しいわね。引っこ抜いちゃってもいいかしら」
「だめよ霊夢。これは私の研究対象なんだから。私が最終的な目的とする物に……おっと」
「ん? 最終的な目的? あんた何を企んで――」
「なんのことかしらねー。ほらほら、立ち話でもなんだし、お茶でもしましょうか」
「話そらすの?」
口を滑らせた幽香は何事もなかったかのようにお茶へと誘う。
当然のことながら霊夢はそれを逃すわけもなく、食いついてくるのは予想済み。
そういう時の霊夢への対応はもう慣れっこだ。
「美味しいお菓子があるのよ」
「いきましょう」
この切り替えの早さである。
異様な向日葵にはもう目もくれずに一目散に幽香の家へと向かう霊夢。
そんな霊夢をしり目に、幽香はくるりと踵を返し、あの向日葵に目を向ける。
黒い箱に一週間囲まれ、念のために少し妖力を注いで完全に太陽も水も遮断した状態であったにも関わらず咲き続けた向日葵。
「確かに貴方は私が求める姿ではある。でも、それはあくまで花でなければならないの。貴方は今の姿で花と言い切れるのかしら?」
それに反応するかのように、花は左右へと体を揺らした。
「それに貴方、元居た場所より少しずつ私の家に近づいてきているのね、知ってた?」
知っているもくそもない、彼が自身でそうしているはずだから。
とにかく今回でただの花ではないということに気付いた。
ただ、幽香はあくまでそれが花であってほしいと思い続けている。
まだ諦めたというわけではない。
「それじゃあ、私は行くわ。あのお客は待たせるとうるさいし」
ふぅ、と一息ついて、家へと歩を進める。
ちらりと流し目で向日葵を見ると、いっちゃうの? と言わんばかりにさわさわと揺れた。
それを遮るように日傘を被せ、向こうで幽香の名を叫ぶ少女の元へと向かった。
◆
太陽の畑が、焼けるような真紅に染まっている。
紅い空では烏達はカァカァと騒がしく鳴き散らかしながら、帰路へと着いている。
それと共に、烏天狗達も山の方へと帰っていくのが見えた。
金木犀の甘い香りが畑には広がっている。
夏も終わり、少し冷たい秋風が、金木犀の香りを人里の方へと運んでいく。
花に光を送り続けた太陽も、役目を終えてゆっくりと沈んでいた。
そんな沈みかけの夕日に、花々はまた明日と手を振っているようである。
生まれつきのその赤を、さらに夕日の紅で染めた秋茜は、宙を行ったり来たりだ。
そんな中、サラサラと涼しげな音を響かせるススキに捕まりながら、異様なその光景に秋茜も首を傾げていた。
コスモスやマリーゴールド、ダリアといった秋の花々が咲く中に一本だけぽつんと、向日葵が聳え立つ。
幽香の家の近くまで寄ってきたその向日葵は一人の妖怪と対峙している。
「夏が終わって貴方が枯れるんだったら私はそれでよかったの。だけど、ダメよ。貴方は輪廻転生の輪から外れちゃってるわ」
向日葵が喋るわけもなく、ただ秋風に揺れるだけ。
生ある者は必ず死を迎え、その器は無くなれど、念は消えることなく、また新たな器に魂を宿す。
不老不死といわれる者を除き、その輪からは逃れられない。
しかし、この花は来るべき死を避け、咲き続けている。
向日葵のその視線から、死にたくないんだという気迫に似たようなものを幽香は感じた。
そして、向日葵は幽香に自身の思いを訴えかけてくる。
「花を愛し花のために生きるその生き様への憧れ。私には貴方しかいませんという崇拝。貴女を心から愛すという熱愛……」
いずれも、幽香に対しての熱い思い。
花に愛情を注ぐ幽香に応えるように、この向日葵はずっと見つめ、そしてどの花よりも幽香を愛していたのだ。
その結果がただの花から、一つの強い思いが輪廻の輪から逃れようと力を高め、向日葵は枯れることなく咲き続けたのだろう。
人のように足がなくても、その根っこで少しずつ愛する者の元へと近寄って行ったのだ。
自分をもっと見てほしい。
もっとあなたを見ていたいという思いの一身で。
「私の目は貴方だけを見つめている、ね。貴方の思いはありがたいわ。でもね、さっきも言ったけど、今の貴方は花じゃない、化け物よ。だから私は貴方の愛に答えることができないわ」
風はそれほど強くないというのに、向日葵は激しく頭を左右に振った。
何故わかってくれないのかと言わんばかりのアピール。
そんな揺れる向日葵に内緒話をするように、そっと唇を近づける。
優しく手を大きな花弁に触れて、囁くように。
「貴方自身が一番わかっているでしょう? こんなことしたって無駄だってこと」
ちょっと背伸びをして。
花のてっぺんにある黄色の花びらに、紅い唇がそっと触れる。
夕日の赤に染まる向日葵が、さらに赤くなるように見えた。
どこか恥ずかしそうにも見える。
「私の手で貴方を枯らしたくないの。お願い、わかって」
その時、向日葵は初めて幽香から目線を外し、沈みゆく夕日を見つめた。
そして、もう一度幽香を見つめる。
じっと目に焼き付けるように見つめた後、向日葵は俯くように視線を落とす。
「ごめんね。でも、嬉しかったわ」
最後にもう一度だけ、幽香を見つめた。
幽香はそれに対して、優しく微笑みで返す。
やがて、向日葵は途端に花も葉も色を変え、静かに朽ちて土へと還った。
「また生まれ変わりなさい。その時もまた、私の事をめいっぱい思ってくれると嬉しいわ」
地面に散らばった向日葵の種を一つひとつ拾い上げて、幽香はポケットの中にそっと入れた。
またその季節が来る時に植えてあげれば、きっとあの向日葵としても本望だろう。
この種から生まれる向日葵だけが、幽香をじっと見つめ、長生きするようなことがなければよいのだが。
それもまた面白いか、と幽香はくすっと笑った。
「夏にまた会いましょう。今度は貴方に頼ることなく、自力で何とかしてみせるんだから」
大きく膨らんだポケットに手を当てて、朽ち果てた向日葵に目をやる。
幽香を本当の太陽のように愛し、求めた一つの花に再度、優しい笑みを投げかけた。
そして、沈みゆく夕日に傘を向ける。
「貴方もうかうかしてられないわよ? 私にできない事なんてないんだから」
そんな幽香の言葉に、太陽は逃げるようにして沈んでいった。
夏の太陽の畑には、さんさんと陽の光が降り注いでいる。
そんな畑の柔らかな白い日傘の下、緑髪を揺らし、白い肌は零れた日を照り返し、紅い唇は弓状を描いていた。
夏は色とりどりの花が太陽の畑を彩り、甘い香りに誘われて蜂や蝶が其処彼処で蜜を吸っている。
これだけたくさんの花が咲いていれば、人間もこの光景のために来ていてもおかしくないのだが、今ここにいるのは彼女一人のみ。
花の大妖怪、風見幽香のいるこの場所に、人が寄り付くことなどない。
日傘をくるりくるりと回して、陽気に花を眺めている。
一方花達は、太陽の光を一身に受けながら太陽を仰ぎ見ていた。
「私には見向きもしてくれないものね」
それでも花を責めたって何もないことはわかっているし、幽香がいなければこれほど様々で、尚且つ綺麗な花が咲き誇ることもない。
そもそも、花は人間のように喋ることもできなければ、長い間生きることもない存在である。
妖怪という存在の前では、何とも弱すぎる生き物だ。
しかし、弱者なれども、他の誰にも真似のできない美しさを持って生きている。
そんな儚くも美しい花に、幽香は恋したのだ。
それは叶うことのない一方的な片思いかもしれない。
そんな思いで幽香は花達に愛情を注ぎ始めた。
己の有する妖力を、花を操るというとても小さくて弱々しい、力を有する者とは思えない能力へと変えたのだ。
そうすることによって少しずつ、それぞれの花達の意思が分かるようになった。
花達が持つ、唯一の言葉。
ここから、花達は心の奥底で幽香に感謝していることを知ることができた。
今や幽香は、花達にとってのもう一つの太陽とも言うべき存在とも言えるだろう。
本物の太陽はといえば、そんなもう一つの太陽を見下ろすように、高い上空で眩しい笑顔を振りまいている。
そんな表情を覆うように、幽香は太陽に手を伸ばし、妖しく笑って見せた。
「いつかは貴方が必要なくなるまで私は強くなってみせる。それまで貴方はそこで能天気に陽を注ぎ続けていればいいわ」
太陽の暑さに負けない燃えたぎる闘志が、幽香をまた一層強くするのである。
花に対する熱い愛情が、太陽をも燃やし尽くす時はあるのだろうか。
「ん?」
そんな中、何か視線を感じて、太陽から手を放した。
珍しい来客かと目を離し、視線を辿った先には当然、人影などあるわけもなかった。
沢山の向日葵が斜め上を見つめる中、一本の花がぽつりとこちらだけを見ている。
じーっと。その真っ黒な瞳で幽香を見つめていた。
「去年は一本へたれた向日葵があったけど、今度はなぁに? 毎年へんなのが出てくるわね」
ツンツンと指で突き、花弁を斜め上に向けようとするも、頑なに幽香から目線を外そうとしない。
右に行けばそちらを向き、左に行けば左を向く。
向日葵から顔を背け、ゆっくり歩いては不意にまたその向日葵に目を向ける。
幽香から視線を外すことなく、じーっと眺め続ける向日葵がそこにはあった。
「貴方にとっては私が太陽ってことかしら? 嬉しいものね。まずは手始めに向日葵一本は私の虜と言ったところかしら」
ふふっと微笑んで上機嫌。
これからこの向日葵のように、すべての花が幽香の方を向くと考えるとゾクゾクする。
幻想郷の花々が、太陽などにも目もくれず、幽香だけを見るようになるのが、密かな野望であった。
まるで音楽隊のように。
幽香が指揮者で、奏者は花。
これが現実となる前に、博麗の巫女に邪魔されそうなのは容易に想像できることだが。
「まぁ、霊夢はその頃に生きているかわからないけど」
花の異変と銘打って、飛んできそうな気がする。
きっとその時は、霊夢がやってきたころの事を懐かしく思うのだろうかと、幽香は想像を膨らませる。
まだその夢が実現したわけでもないのに。
「来年の事を言えば鬼が笑う、ね。ま、来年どころの話じゃないだろうけど」
幽香を見つける向日葵に、ひらひらと手を振って、その場を後にした。
◆
その日は、しっとりと梅雨が降っていた。
紫陽花の花から滴り落ちた雫が、蒼をより鮮明にし、葉を大きく弾ませる。
花達は雨に打たれてただただ頭を垂れるのみであった。
厚い雲に覆われたその向こうに太陽があると信じて、上目遣いのように空を窺う。
地面にできた水溜りに映る空を覗いては、太陽が現れるのではないかと祈るような思いの花々。
万能日傘を片手に、幽香はぴしゃぴしゃと濡れた地面を行く。
香霖堂で手に入れた長靴を履き、足が濡れることも汚れることも無くなってちょっと雨の日も以前と比べて機嫌が良い。
「ほら、貴方達の太陽が来ましたよ?」
花々に語りかけるも、それらは重い頭を下げたまま、幽香の事など目もくれなかった。
貴方は本当の太陽じゃないでしょう? と言わんばかりの反応だ。
そりゃそうよ、と心の中で幽香は返すも、ただ一本、その花は幽香の方をじっと見ていた。
「でも、やっぱり貴方は変よ」
雨の中でも、その黒い瞳は幽香だけを見ている。
幽香は、その花のぐいと近寄り、彼に雨がかからないように日傘を被せた。
滴り落ちる水滴を、幽香は手のひらで掬う。
「貴方は本当に花なのかしら? あの空にある太陽がなくっても生きていけるんじゃなくて?」
そんな問いかけに答えるわけもなく、ただただ幽香をじっと見つめている。
それに対して幽香も、紅い瞳でじーっと見つめ返した。
視線で穴を空けるような勢いで、その花の心を読むように。
水溜りを叩く音色、雨を弾く傘の音、ざわざわと風に揺れる草木のざわめき。
人の手によって作られた音のない静寂が訪れる。
やがて固く閉ざした唇をそっと開く。
「ちょっと試してみようかしら」
根負けした幽香は、すっと腰を上げて、うーんと唸り声を上げる。
手を振り、向日葵に別れを告げると、幽香は家へと帰っていく。
遠ざかる幽香の姿を、向日葵は一度たりとも視界から外すことはなかった。
◆
「なにこの縦に長い箱」
「花を虐めてるの」
「貴女が?」
「そう、私が」
ふらふらと何処からともなく現れた霊夢は、異様な縦長の黒い箱に興味を持ったようだった。
花を虐めていると平然と言ってのける幽香にも違和感を抱いたようだ。
何かよからぬことを考えているのではないかと。
「あんた何考えてんのよ」
「何って、私はいつも幻想郷の花々の事を思っているわ」
「そういうことじゃないのよ」
「じゃあどういうことかしら?」
「あーっ! もう!」
我慢できない霊夢は、幽香の事など無視して、黒い箱を雑に取り払った。
中からはなんということもない、ただ一本の向日葵が元気に伸びていた。
幽香をじっと見つめながら。
「なんだ本当に花が入ってるだけじゃない」
「だから言ったでしょう。それにしても、一週間は箱に入れたまんまだったんだけど……」
「はぁ。なんかこの花じっとあんたの方見てるけど。仕込んだの?」
「まさか。花は自然に咲いてこそ美しいの。そんな無粋なことしないわ」
頬を膨らませ怒ったようなしぐさを見せる。
しかし目を見るとにこやかであった。
「あんた能力で花咲かせられるじゃない」
「あれは気まぐれなの。私はあくまで自然に花が開くのをお手伝いするだけなんだから」
花の心なんてわからない霊夢としては、どっちも同じだろうとため息をついた。
しかし、この不気味な花にどうやら興味を持ったのか、霊夢は向日葵をじっと見つめる。
向日葵は霊夢の事など何処吹く風である。
「嫌われ者ね」
「別に花に好かれようなんて思ってないわ」
「あら悲しい」
「うーん……。別に妖怪っぽい風には見えないしなぁ。でも絶対おかしいわよねぇ」
「何故妖怪っぽく見えないって言えるのかしら?」
「勘」
何でも勘で済ませるのはよくないと思うが、その勘が大体当たっているのも事実。
以前紫が、勘だけに頼っちゃだめよと言っていたが、彼女は聞く耳を持たない。
幽香も、霊夢が勘だというのなら、と納得してしまっているところがある。
ほぼ間違いがないためそうやって納得してしまう背景がある。
「でも妖しいわね。引っこ抜いちゃってもいいかしら」
「だめよ霊夢。これは私の研究対象なんだから。私が最終的な目的とする物に……おっと」
「ん? 最終的な目的? あんた何を企んで――」
「なんのことかしらねー。ほらほら、立ち話でもなんだし、お茶でもしましょうか」
「話そらすの?」
口を滑らせた幽香は何事もなかったかのようにお茶へと誘う。
当然のことながら霊夢はそれを逃すわけもなく、食いついてくるのは予想済み。
そういう時の霊夢への対応はもう慣れっこだ。
「美味しいお菓子があるのよ」
「いきましょう」
この切り替えの早さである。
異様な向日葵にはもう目もくれずに一目散に幽香の家へと向かう霊夢。
そんな霊夢をしり目に、幽香はくるりと踵を返し、あの向日葵に目を向ける。
黒い箱に一週間囲まれ、念のために少し妖力を注いで完全に太陽も水も遮断した状態であったにも関わらず咲き続けた向日葵。
「確かに貴方は私が求める姿ではある。でも、それはあくまで花でなければならないの。貴方は今の姿で花と言い切れるのかしら?」
それに反応するかのように、花は左右へと体を揺らした。
「それに貴方、元居た場所より少しずつ私の家に近づいてきているのね、知ってた?」
知っているもくそもない、彼が自身でそうしているはずだから。
とにかく今回でただの花ではないということに気付いた。
ただ、幽香はあくまでそれが花であってほしいと思い続けている。
まだ諦めたというわけではない。
「それじゃあ、私は行くわ。あのお客は待たせるとうるさいし」
ふぅ、と一息ついて、家へと歩を進める。
ちらりと流し目で向日葵を見ると、いっちゃうの? と言わんばかりにさわさわと揺れた。
それを遮るように日傘を被せ、向こうで幽香の名を叫ぶ少女の元へと向かった。
◆
太陽の畑が、焼けるような真紅に染まっている。
紅い空では烏達はカァカァと騒がしく鳴き散らかしながら、帰路へと着いている。
それと共に、烏天狗達も山の方へと帰っていくのが見えた。
金木犀の甘い香りが畑には広がっている。
夏も終わり、少し冷たい秋風が、金木犀の香りを人里の方へと運んでいく。
花に光を送り続けた太陽も、役目を終えてゆっくりと沈んでいた。
そんな沈みかけの夕日に、花々はまた明日と手を振っているようである。
生まれつきのその赤を、さらに夕日の紅で染めた秋茜は、宙を行ったり来たりだ。
そんな中、サラサラと涼しげな音を響かせるススキに捕まりながら、異様なその光景に秋茜も首を傾げていた。
コスモスやマリーゴールド、ダリアといった秋の花々が咲く中に一本だけぽつんと、向日葵が聳え立つ。
幽香の家の近くまで寄ってきたその向日葵は一人の妖怪と対峙している。
「夏が終わって貴方が枯れるんだったら私はそれでよかったの。だけど、ダメよ。貴方は輪廻転生の輪から外れちゃってるわ」
向日葵が喋るわけもなく、ただ秋風に揺れるだけ。
生ある者は必ず死を迎え、その器は無くなれど、念は消えることなく、また新たな器に魂を宿す。
不老不死といわれる者を除き、その輪からは逃れられない。
しかし、この花は来るべき死を避け、咲き続けている。
向日葵のその視線から、死にたくないんだという気迫に似たようなものを幽香は感じた。
そして、向日葵は幽香に自身の思いを訴えかけてくる。
「花を愛し花のために生きるその生き様への憧れ。私には貴方しかいませんという崇拝。貴女を心から愛すという熱愛……」
いずれも、幽香に対しての熱い思い。
花に愛情を注ぐ幽香に応えるように、この向日葵はずっと見つめ、そしてどの花よりも幽香を愛していたのだ。
その結果がただの花から、一つの強い思いが輪廻の輪から逃れようと力を高め、向日葵は枯れることなく咲き続けたのだろう。
人のように足がなくても、その根っこで少しずつ愛する者の元へと近寄って行ったのだ。
自分をもっと見てほしい。
もっとあなたを見ていたいという思いの一身で。
「私の目は貴方だけを見つめている、ね。貴方の思いはありがたいわ。でもね、さっきも言ったけど、今の貴方は花じゃない、化け物よ。だから私は貴方の愛に答えることができないわ」
風はそれほど強くないというのに、向日葵は激しく頭を左右に振った。
何故わかってくれないのかと言わんばかりのアピール。
そんな揺れる向日葵に内緒話をするように、そっと唇を近づける。
優しく手を大きな花弁に触れて、囁くように。
「貴方自身が一番わかっているでしょう? こんなことしたって無駄だってこと」
ちょっと背伸びをして。
花のてっぺんにある黄色の花びらに、紅い唇がそっと触れる。
夕日の赤に染まる向日葵が、さらに赤くなるように見えた。
どこか恥ずかしそうにも見える。
「私の手で貴方を枯らしたくないの。お願い、わかって」
その時、向日葵は初めて幽香から目線を外し、沈みゆく夕日を見つめた。
そして、もう一度幽香を見つめる。
じっと目に焼き付けるように見つめた後、向日葵は俯くように視線を落とす。
「ごめんね。でも、嬉しかったわ」
最後にもう一度だけ、幽香を見つめた。
幽香はそれに対して、優しく微笑みで返す。
やがて、向日葵は途端に花も葉も色を変え、静かに朽ちて土へと還った。
「また生まれ変わりなさい。その時もまた、私の事をめいっぱい思ってくれると嬉しいわ」
地面に散らばった向日葵の種を一つひとつ拾い上げて、幽香はポケットの中にそっと入れた。
またその季節が来る時に植えてあげれば、きっとあの向日葵としても本望だろう。
この種から生まれる向日葵だけが、幽香をじっと見つめ、長生きするようなことがなければよいのだが。
それもまた面白いか、と幽香はくすっと笑った。
「夏にまた会いましょう。今度は貴方に頼ることなく、自力で何とかしてみせるんだから」
大きく膨らんだポケットに手を当てて、朽ち果てた向日葵に目をやる。
幽香を本当の太陽のように愛し、求めた一つの花に再度、優しい笑みを投げかけた。
そして、沈みゆく夕日に傘を向ける。
「貴方もうかうかしてられないわよ? 私にできない事なんてないんだから」
そんな幽香の言葉に、太陽は逃げるようにして沈んでいった。
季節感が感じられて読んだあとリアルで今何月だったかを思い出すのに時間かかったりしてしまったなど。
幽香さんの魅力を補充できて満足でした。幽香さんお美しい。
幽香は姿も心も美しいかぎりです。