「なあ妹紅、キンエン、してみないか」
春の、うららかな陽気が漂う季節である。友人の上白沢慧音が、一切合切の虫干しを行うというので、それならば私も手伝おう、と買って出たは素晴らしき友情、なのだが、半刻も立たぬ内に暇を貰い、庭先で取り出したるは紙巻煙草。桜の花もその大分が散り、青々とした葉を眺めながら、紫煙を燻らせていた藤原妹紅は、慧音の言葉を反芻した。
キンエンとは、聞きなれぬ言葉である。金園、近縁、筋炎、禁煙、ああ、禁煙か。煙草を止めないか、と慧音は言っているのか。
「いきなり何を言うんだ。煙草は美味いぞ。止める必要が、何処に有る」
「臭い」
凛とした声で、端的に告げられた言葉は紛れも無い事実であり、妹紅はうっ、と一声挙げるだけしか出来ず、まだ半分も吸っていない煙草を靴の裏で揉み潰した。貧乏性であり、常々煙草は根本まで吸い尽くす彼女を以ってしても、半分も吸わぬ煙草を消させる程、その言葉は深く、突き刺さったのであろう。
「悪かったよ、確かに虫干しの最中に吸うもんじゃ無かった。本に脂が付いちまったら、意味が無いものな」
春の穏やかな風が吹いている時分である。妹紅の居る庭先から、本が並べられている縁側まで、たっぷり十尺以上は離れているので、煙草の臭いが届くとも思えないのだが、煙草を吸わぬ者にとっては、しっかと感じられるのか、慧音が過敏なのかは兎も角。
「煙草は虫干しが終わってから頂くよ。すまなかったな、ちゃんと手伝うから、再開しよう」
半刻程度で手を止めて、暢気に煙草を吸いに行ったのは悪かった、だからそんなに怒らないでおくれ、言外にそのような意味を込め、さあ働くぞと気合を入れて縁側へ近づいた妹紅だ、が。
「別に今煙草を吸っている事に腹を立ててるんじゃない。妹紅、自分の臭いに気付かないのか?」
そう発する慧音の目は薄粥濁り。胡乱な眼付きで妹紅を注視する。
ぴたり、足を止め、肩口に鼻を押し当て息を吸い込む。幽かに、煙草の臭いが染み付いている、ような。
「臭う、ようなそうでもないような。そんなに煙草、染み付いてるか?」
妹紅の言葉を聞いて、慧音は腕を組みの仁王立ち。普段が寺子屋で腕白坊主共を相手にしている彼女が行うと、不思議な威圧感めいた物を感じさせ、自然と頭は垂れてしまう。かくも教師とは、こんなに強いものなのか。
「ちと臭うだとかそんなものじゃない。今朝妹紅がやってきた時、遂に地獄の釜が開いて、哀れ妹紅、臭気地獄とやらに一日入れられて来たのかと感じた程だ。一体どうすればそんなえらい臭いを漂わせられる」
臭気地獄たあなんぞこれ、とは言えぬ雰囲気。相手の目を見て確りと、臭いの原因を早急に伝えなければ、慧音先生のお説教が飛んでくることは確実だろう。日頃から自分の行動を一々考えろ、気を抜いてのんべんだらりと過ごしているから、そんな原因も分からんのだ――と。耳に痛い説教はどうぞ勘弁願いたい。考えを纏めながら、おずおずと言葉を紡ぎだした。
「昨日、は特に何もしていない。道案内の予定も無し。そこらを歩けば沢山の食料が有る中で、備蓄をする必要も無し。まあ、最も昨日はなんとなしに面倒臭くて、自宅の戸を一度も開けること無く、飯も食わずに延々と煙草を吸い続けていたんだけど」
「其れだ」
ぴしゃりと突き付けられたのは、延々煙草を吸い続けていたと言う事。成程納得、狭っ苦しい東屋で、日がな一日換気もせず、煙草を灰に変えていれば、臭いも付くだろう。実はこの時、永遠亭の姫君が妹紅の元を訪ねども、小屋の隙間隙間から絶え間なく流れ出る煙に、なんでこいつは家を燃やしているのだろうと勘違いした話が有るのだが、閑話休題。
「昨日は一体何本煙草を吸ったんだ。完全に依存になっている事を気付かないのか。そんなに吸っていたら、煙草代だけで幾ら掛かることやら。病気にはならんとはいえ、金は大切だ。止めるに越したことはないぞ」
ぐうの音も出ぬ正論である。止めるに越したことは無いなぞは、重々承知している。だがそれでも止められぬのが喫煙者の性。慧音からついと視線を滑らせ、僅かに残っていた桜の花弁が、風に吹かれて流れゆくを、見るとも無しに眺めて妹紅は。
「でも、臭いが付かないように注意して、煙草を吸わない奴らに迷惑が掛からないよう吸えば、うん。今すぐに煙草を止めろだなんて、御無体な」
駄々っ子そのものである。今問題に挙げられているのは金の問題だというに、論点をずらそうとする魂胆が見え見えの。この態度に、慧音の教師魂が火を吹いた。
「駄目だ駄目だ、そんなんじゃ駄目だ! 前々から思っていたが妹紅、お前の生活態度はだらけきっている。健全な躰は健全な心が育むように、健全な心は健全な生活習慣が育むんだ! 特にお前なんて、これから先幾つもの世代を乗り越えて生きてゆくのだから、そんなだらけた生活では、いずれ心が完全に死んでしまうぞ。私は、私が居なくなった後まで、お前には確りと御天道様に顔向け出来る人間になって欲しいんだから、な」
慧音が、自分の身を案じてくれている事はよく分かった。その真摯な態度に、軽い感動さえ覚えた。しかしそれとこれとは話が別である。と言うか、話を聞いて感動すら覚えたはずなのだが、未だに煙草に対する未練は捨てきれぬ。
うう、だの、その内、だの、うだうだ言う妹紅に流石に諦めたか、または呆れたか、ふう、と慧音は溜息吐いて。
「分かった分かった。いきなり一生止めろ、だなんてどうせ出来ないだろう。ならば、とりあえず三日、煙草を止めてみろ。徐々に慣らしていけばいい」
妹紅が伏せた顔に、ほっ、と安堵の表情を垣間見たのは錯視ではあるまい。その条件なら、と意気揚々と慧音の提案、受けることにした。
「其れくらいなら、うん、そうしよう。私は煙草に依存なんてしてないからな。余裕綽々さ。明日から明々後日まで、しっかと禁煙して見せよう」
「……いや、今日から始めようか。今日から明々後日の、もう昼時だな。明々後日の昼までだ。丸々三日間、絶対に吸うなよ」
言葉を聞いた妹紅に、驚愕の表情。家へ帰ってから、暫しの別れを悲しむように、秘蔵の酒でも開けて、今持っている煙草を吸い付くそうと思ってたのに。
「どうせ妹紅のことだから、家へ帰ってから、暫しの別れを悲しむように、秘蔵のウヰスキイでも開けて、今持っている煙草を吸い付くそうとか思ってるだろうと考えてな」
お見通しである。思考を完全に見透かされていたことに愕然とした。
しかし女妹紅、さんざっぱら悪いことなどやってきたが、慧音との約束を違える訳にはいかぬ。約束も然り、これは自分の矜持を賭けた戦いなのだ。やらねばならぬ。やらねばならぬ。藤原妹紅は、三日の禁煙も出来ぬ程、意志薄弱な奴だとは思われてはならぬ。私は出来る。煙草など只の嗜好品だ。金の代わりに、一時の快楽を与えてくれるだけの不用品だ。だがその快楽がまた至高なのだ。ああ、さっきは半分も吸わぬ内に揉み潰してしまったから、吸い足り無かった。脂を躰が求めている。正午までは時間が有る。後一本くらいは、良いか。
「なあ慧音、最後の接吻を、煙草と最後の接吻をさせてくれないか」
拳骨を喰らった。
虫干しをやっとこ終わらせ、妹紅は慧音の家で、昼餉に同伴していた。春の山菜をふんだんに使った汁物と、川魚を焼いたのが卓に並ぶ。昨日煙しか口に入れてないと言う妹紅は、餓鬼の如く川魚を口に運び、白米をがっつく。汁物を飲み干し、満足気な表情。慧音の作る料理は、無論料亭などには及ばぬが、家庭的な安心感を感じさせ。妹紅の胃も心も充足させていた。
慧音は、かふかふと飯を口に運ぶ妹紅をちらと見て、微笑。自分の手料理を、こんなに美味そうに食べてくれるのが嬉しいのだろうか。
「そういえば妹紅、実は今日の夜、村の人達が宴を開いてくれることになってるんだ」
「ほう、一体何の宴なんだい」
曰く、常日頃から寺子屋で教鞭を振るう、慧音の慰安であると。また、ひょんなことから竹林の道案内が慧音の友人であると知れ、それならば、是非世話になっている案内の方にも来て欲しい、と。
「どうだい、良い話だろう。永遠亭へ行けるようになって、里の人達も大分助かっているようだ。好意は、受けるもんだぞ」
そうまで言われては、別段妹紅に断る理由も無しに、最近まともに酒を飲んでいない。今日は大いに飲み明かそう、と、今から宴が楽しみになってきた。
さて、腹もくちくなった所で、一服しようか、と懐を弄るが、手に触れるは布の感触ばかり。昼餉の以前に、「今日から禁煙するのだから、こいつは預かっておくぞ」と、慧音に煙草を取り上げられていたのを思い出した。
全く参った。食事の後は茶でも啜りながら、一服やるのが習慣の妹紅である。どうにも煙草を吸わないと、食事が終わった気にならない。卓の前に座したまま、決まりが悪そうにそわそわり。慧音は、そんな妹紅の気持ちを知ってか知らずか、悠々と食事を終え、茶でも淹れてこよう、と一言残して奥へ消えていった。
茶を淹れるのに掛かる時間は、今から湯を沸かすとするならば相当必要だろう。しかし、湯を予め沸かしてあるとするならば、精々が二分もあるかないか。ちらと様子を窺って、湯を沸かしているようなら、棚の上に置いてある、煙草箱から一本くすねても――いや、どちらにせよ今一本くすねて、厠へでも行くふりをして吸えば良いじゃないか。
なんたる妙案かとほくそ笑みながら、妹紅は棚へ近づく。さあばれぬようそうっと取り出そう、と手を掛けた所で、
「何をしている」
軽い怒気を孕んだ声。悪戯を咎められたが如くにびくり、躰を震わせ視線を上げてみれば、涼し気な硝子の洋杯に茶を入れ、もろ手に其れを持った慧音の姿。
「ああ、冷茶か。春爛漫な今に飲む冷茶は美味いだろうな」
「そうだな。直ぐに出せるように、予め淹れといたのだが、正解だったようだ」
ことり、両手に持っていた洋杯を卓に置き。
拳骨を喰らった。
参った。宴はやはり辞退しておくべきだったのだ。妹紅は頭を抱えた。
目の前には笑顔の村人達。思い思いに酒盃を掲げ、宴に興じている。気の良い人々ばかりで、余り話が得意ではない妹紅を以ってして、十分に楽しめている。
今は数人が妹紅の周りに座し、やんややんやと四方山話に花を咲かす、村人達の、ああ右隣に居る者は刻み煙草を煙管に詰め、一服やって、ぷっと煙草盆に灰を落とす。目の前に座る村人は、これは珍しい、パイプを咥え、甘い匂いを漂わせている。左隣は矢継早に、半分程度吸った紙巻煙草を揉み潰し、また新しい一本に火を点ける。
只でさえ酒と煙草は切り離せぬもの。酒精を帯びた妹紅の頭が、脂を求めてぐうるぐる。いまここで煙草を一本貰えるかしら、と聞いたならば、気の良い村人達は嫌な顔を見せず、煙草を差し出してくれることだろう。
しかしもう拳骨は喰らいたくない。慧音の方へ縋るような目線を送ると、満面の笑顔で首を横に振られた。その笑顔が、絶対に許さぬぞとの意思込められている気がして。破れかぶれに、杯を一気に煽る。歓声が挙がった。
ふっと目を開けると見慣れぬ天井が目に入る。がば、と起き上がり、周りを睨め付けるように見渡す。慧音の家、の客間か。
昨夜宴が終わった後、自宅へ帰った記憶が無い。と言うか途中から宴の記憶が無い。こんなに飲んだのは何時かたぶりか。頭痛はないが、酒精の残る躰を起こし、居間へと向かった。
「あっ、おはよう妹紅。し、食欲は有るか? 直ぐに出来るから、待ってろ」
おや、回りきらぬ頭を活性化させるように、かぶりを振る。慧音の様子が可怪しい。妹紅の顔を見た瞬間、仄かに赤面し、其れを隠すように奥へと引っ込んでしまった。
さて、私は昨日何かを仕出かしてしまったのだろうか。記憶を無くすほど飲んでいたのならば、何か痴態を演じていてもおかしくはない。普段はそこまで飲まぬのだが、煙草を吸えぬ鬱憤を晴らすが如く、杯を重ねたのがいけなかったか。
考えを巡らすが、どうにも要領を得ず。そうこうしている間に、慧音が朝餉の支度を終えていた。
一汁一菜、それに香の物が付いた素朴な食卓。酒が抜けきっていない妹紅には、丁度良い飯である。卓に着き、飯を頂く、が、どうにも気まずい雰囲気の。慧音は、妹紅の顔をちらちらと窺う様子だし、妹紅は妹紅で、何故そんな視線を投げ掛けるのか分からぬ様子の首捻り。昨日、自分が何かしたのだろうかと尋ねども、いやいや別にとの返事ばかり。そのくせ、時折慧音は夢心地の様な顔をするものだから、益々意味が分からぬ。幾度目かに尋ねた時、あからさまに話題を逸らすよう、「そういえば今日は何の予定もないのか」と聞いてきた。
「昼過ぎに道案内の客が来るな。此れを食べたら御暇するよ」
慧音は残念がる様な、ほっとした様な、不可思議な表情を浮かべたが、帰ってきた言葉は、そうか、と一言だけ。また黙々と食事に取り掛かる。
朝餉は終わり、ああまた、脂への欲求が妹紅を支配する。しかし慧音はそわそわとしたまま、座している。これでは埒が明かない。棚の上の煙草を掠め取る事も叶わぬ。仕方なしに、妹紅は、「それじゃ失礼するよ」と、言い残し、腰を上げた。
慧音の家から妹紅の小屋までは歩いて一刻程。道案内予定まではまだ時間が有る。昨日は酒をたらふく飲んだし、酒気を帯びたまま客人に会うのも良くないな、と思い立ち、湯浴みの支度を始めた。
五右衛門風呂に水を貯め、火を起こす。濛々と煙が立つ。竹筒を右手に持ったまま、妹紅は思案顔。煙を吸い込んでみた。酷く咽た。涙が出て来ただけだった。
風呂に浸かると、酒精が湯へ融けていくようで心地が良い。空を見上げると、雲が空を埋め尽くしている。一雨来るかも知れないな、と、取り留めもなく考えた。
ちとゆっくり浸かりすぎたか、早足で竹林を進む妹紅。竹林の入り口まで来ると、女性がなにやら紙片に目を落として居るのが見えた。
「やあ、お待たせして済みません。道案内の依頼を為された方ですか」
「あ、大丈夫です。永遠亭まで宜しくお願い致しま、す」
紙片を袂に仕舞い、深々と礼をする。礼儀正しそうな気品漂う女性である。が、頭を上げ、妹紅の顔を見た瞬間、目を丸くし、微笑んだ。
「ん? どうかなさいましたか? 私の顔に何か?」
「いえ、何でも御座いませんよ。こんなに若くて可愛らしい方だとは思わなくって」
柔和な微笑みを湛えたまま、答える。釈然としない気持ちを抱きながらも、此方へどうぞ、と竹林を先導し始めた。
さてこの竹林、巷では迷いの竹林と呼ばれている。逸れたら事なので、些か歩を緩めて先導していたが、線の細そうに見えた女性は意外と健脚で。足元の悪さも感じさせず、飄々と妹紅に付いて来た。
「随分と健脚ですね。少し、意外です」
「ええ、脚には少し自信があるんです。躰が丈夫なのが取柄だと思っていたんですけど、どうにも最近は臓腑が優れなくって。貴女のようにお酒を召し上がる事も、出来なくなってしまいました」
他愛も無い会話の中で、疑問が生じる。なんでこの女性は私が酒を飲むと知っているのか。湯浴みをしたが、まだ臭いが残っていたか。
「済みません。酒の臭い、漂っていますか?」
そう問い掛けられた女性は目をぱちくり。ごそり、と袂から何かを取り出そうとする。
「あら、ご存知無いのですか? ここに来る時に、こんな号外を貰ったのですけど」
手渡された紙片を見遣ると、文々。新聞 号外との文字が目に入る。天狗の発行している新聞か。人里にもそれなりに浸透しているのは知っていたが、号外まで出しているとは思わなかった。
どれどれ、と記事を読み始める妹紅の顔が、一瞬にして上気した。わなわなと腕を振るわせ、号外を破らぬよう、懸命に堪えているのが見て取れる。
「あら、本当にご存知無かったようですね。知らせない方が、良かったのかしら。御免なさいね」
「いえ……別に……構いません、が。ほら、永遠亭は、直ぐそこです。ちと、申し訳ない、私は、これで、失礼させて、貰います」
耳まで真っ赤にした妹紅が指差す先に、永遠亭の文字。女性は、あら、意外と近いのね。と呟き、妹紅に丁重な礼を述べて、屋敷に向かっていった。
永遠亭に消える女性を見届けた後、妹紅は。
「うあああああああああああああっ!」
と絶叫し、竹林の奥へと全速力で駆け出した。号外が宙に舞う。紙面には、こう書かれていた。
文々。新聞 号外 昨日の夜半、K氏の邸宅で行われた酒宴の席で、M氏がK氏へ思いを告げる所を、本紙が独占入手。予てより噂されていた、かの竹林の道案内M氏と、寺子屋の教師K氏が遂にその恋仲を添い遂げたようだ。宴も酣と言う所で、K氏に対し、宴の参加者の一人が、「儂の孫の嫁に来てくれんかのう、なあ先生」等と発言。其れを聞いたM氏が、発奮した様子で詰め寄り、K氏を力強く抱き締めた後、「慧音は私のもんだ! 誰にも渡さん!」と大声で宣言した。K氏は為されるがまま、何を言っているんだ妹紅、と発言していたが、その顔は酷く赤らみ、満更でも無い様子が記者には見て取れた。周りの参加者も、終始和やかな様子で二人を眺めていた。本紙はこの独占入手した情報を更に追求し、読者諸賢に届ける心積りである。
申し訳程度に目線を隠した写真が、でかでかと乗っている号外記事であった。
妹紅の危惧した通り、夜半を迎えた頃、遂にしとしと、春雨が地面を濡らし始めた。ゆるりと水気を帯びてゆく東屋の中で、妹紅は独り、毛布に顔を埋めて。
酔って痴態を演じるのは覚悟していたが、まさかあのような形で慧音に迷惑を掛けてしまうとは。全く自己嫌悪してもしきれない。秘め事が公になった羞恥も途轍もなく。襤褸の小屋に相応しく、雨漏りが床を湿らせる。しかし、妹紅には其れを止める気概も起きなくて。
今宵こそ酒が飲みたい。記憶を無くし、倒れ、天に召される程に酒が飲みたい。だが妹紅はその日暮しの赤貧住まい。常備している酒の一滴も無く、秘蔵の酒も空っかす。ああ、煙草が吸いたい。脂に塗れて自己嫌悪、緩やかな自殺行為とも言える喫煙をすれば、この心中少しは収まる事だろうか。
結局、悶々とし続けの、夜は静かに明けてゆく。
雨は、まだ止まぬ。
夜が明け、もう既に正午も過ぎた頃、妹紅は一睡も出来ず、のそりと立ち上がった。
このまま家へ引き篭っていようと、事態が好転することなぞ無い。其れならば、いっそ慧音に会って、謝罪の言葉でも並べ立てよう。その結果、どうなろうと構わぬ。慧音に、峻拒されるならば其れまでだ。元が根無し草の放浪人。幻想郷を後にせども、生きるのに困ることはあるまい。死ぬ事に、困るのは何時もだが。
小屋を出て、慧音の家へ向かう妹紅。雨具を持たず、しっとりと衣服を重くしながら、妹紅は往く。往く。
慧音の家へ着いた時には、泳いで来たかのように、全身がしとどに濡れていた。
「おい、どうしたんだ妹紅。そんなに濡鼠で」
家に入ると、慧音が至極慌てた様子で飛び出してきた。大方、通りをふらふら歩く妹紅が目に入ったのだろう。手拭いを持ってきて、丹念に躰を拭いてくれる。それがまた、妹紅には気恥ずかしくて、酷く心地よいもので。
「あっ、あの、慧音! おとついの、宴の事で!」
一昨日の宴と聞いて、慧音も顔を真赤にし、いや、あれは、全然、等と、しどろもどろの受け答え。あたふたする慧音を目の前に、少し滑稽で、そんな慧音がまた愛おしくなって。
「あのな、慧音、あの、おとついの事は、確かに酔っ払ってたかもしれないけど、嘘なんかじゃあないんだ。私の、心内、酔に任せて、飛び出してきちまったんだと思う。御免な、今まで良くしてくれたのに、最後の言葉が、こんなのになっちまって」
ふう、と一息つき、さあ最早語ること無しと踵を返す、妹紅の、濡れた袖口抓むのは。
「いや、全然、気にしてない、と言うか、とても嬉しいし、妹紅が本当にそう思ってるなら、全く、その通りにしても良いと言うか、寧ろ、此方からお願いしたい所存でだな……」
振り返れば慧音がちょこんと袖口掴み、ぼそぼそと聞き取れぬほどの声で呟いている。なんだ? 慧音、と声を掛けようとしたが、その言葉は出ず、それは口を塞がれていたからで。
たっぷり、一分は過ぎただろうか。長い、永い接吻であった。慧音の唇の柔らかさ、舌なぞは入らぬ、清廉潔白な接吻で有るけれど、妹紅、その感触に、大いに恐慌をきたし。
ぷは、と唇が離れて、慧音の顔の全景が目の前に。臭気地獄があるならば、その獄卒ですら、前に平伏すであろう笑顔を讃えて、慧音は、
「煙草の臭い、しなくなったな。私との約束、守ってくれて嬉しいぞ。妹紅」
と言った。
太陽が、顔を出した。
春の、うららかな陽気が漂う季節である。友人の上白沢慧音が、一切合切の虫干しを行うというので、それならば私も手伝おう、と買って出たは素晴らしき友情、なのだが、半刻も立たぬ内に暇を貰い、庭先で取り出したるは紙巻煙草。桜の花もその大分が散り、青々とした葉を眺めながら、紫煙を燻らせていた藤原妹紅は、慧音の言葉を反芻した。
キンエンとは、聞きなれぬ言葉である。金園、近縁、筋炎、禁煙、ああ、禁煙か。煙草を止めないか、と慧音は言っているのか。
「いきなり何を言うんだ。煙草は美味いぞ。止める必要が、何処に有る」
「臭い」
凛とした声で、端的に告げられた言葉は紛れも無い事実であり、妹紅はうっ、と一声挙げるだけしか出来ず、まだ半分も吸っていない煙草を靴の裏で揉み潰した。貧乏性であり、常々煙草は根本まで吸い尽くす彼女を以ってしても、半分も吸わぬ煙草を消させる程、その言葉は深く、突き刺さったのであろう。
「悪かったよ、確かに虫干しの最中に吸うもんじゃ無かった。本に脂が付いちまったら、意味が無いものな」
春の穏やかな風が吹いている時分である。妹紅の居る庭先から、本が並べられている縁側まで、たっぷり十尺以上は離れているので、煙草の臭いが届くとも思えないのだが、煙草を吸わぬ者にとっては、しっかと感じられるのか、慧音が過敏なのかは兎も角。
「煙草は虫干しが終わってから頂くよ。すまなかったな、ちゃんと手伝うから、再開しよう」
半刻程度で手を止めて、暢気に煙草を吸いに行ったのは悪かった、だからそんなに怒らないでおくれ、言外にそのような意味を込め、さあ働くぞと気合を入れて縁側へ近づいた妹紅だ、が。
「別に今煙草を吸っている事に腹を立ててるんじゃない。妹紅、自分の臭いに気付かないのか?」
そう発する慧音の目は薄粥濁り。胡乱な眼付きで妹紅を注視する。
ぴたり、足を止め、肩口に鼻を押し当て息を吸い込む。幽かに、煙草の臭いが染み付いている、ような。
「臭う、ようなそうでもないような。そんなに煙草、染み付いてるか?」
妹紅の言葉を聞いて、慧音は腕を組みの仁王立ち。普段が寺子屋で腕白坊主共を相手にしている彼女が行うと、不思議な威圧感めいた物を感じさせ、自然と頭は垂れてしまう。かくも教師とは、こんなに強いものなのか。
「ちと臭うだとかそんなものじゃない。今朝妹紅がやってきた時、遂に地獄の釜が開いて、哀れ妹紅、臭気地獄とやらに一日入れられて来たのかと感じた程だ。一体どうすればそんなえらい臭いを漂わせられる」
臭気地獄たあなんぞこれ、とは言えぬ雰囲気。相手の目を見て確りと、臭いの原因を早急に伝えなければ、慧音先生のお説教が飛んでくることは確実だろう。日頃から自分の行動を一々考えろ、気を抜いてのんべんだらりと過ごしているから、そんな原因も分からんのだ――と。耳に痛い説教はどうぞ勘弁願いたい。考えを纏めながら、おずおずと言葉を紡ぎだした。
「昨日、は特に何もしていない。道案内の予定も無し。そこらを歩けば沢山の食料が有る中で、備蓄をする必要も無し。まあ、最も昨日はなんとなしに面倒臭くて、自宅の戸を一度も開けること無く、飯も食わずに延々と煙草を吸い続けていたんだけど」
「其れだ」
ぴしゃりと突き付けられたのは、延々煙草を吸い続けていたと言う事。成程納得、狭っ苦しい東屋で、日がな一日換気もせず、煙草を灰に変えていれば、臭いも付くだろう。実はこの時、永遠亭の姫君が妹紅の元を訪ねども、小屋の隙間隙間から絶え間なく流れ出る煙に、なんでこいつは家を燃やしているのだろうと勘違いした話が有るのだが、閑話休題。
「昨日は一体何本煙草を吸ったんだ。完全に依存になっている事を気付かないのか。そんなに吸っていたら、煙草代だけで幾ら掛かることやら。病気にはならんとはいえ、金は大切だ。止めるに越したことはないぞ」
ぐうの音も出ぬ正論である。止めるに越したことは無いなぞは、重々承知している。だがそれでも止められぬのが喫煙者の性。慧音からついと視線を滑らせ、僅かに残っていた桜の花弁が、風に吹かれて流れゆくを、見るとも無しに眺めて妹紅は。
「でも、臭いが付かないように注意して、煙草を吸わない奴らに迷惑が掛からないよう吸えば、うん。今すぐに煙草を止めろだなんて、御無体な」
駄々っ子そのものである。今問題に挙げられているのは金の問題だというに、論点をずらそうとする魂胆が見え見えの。この態度に、慧音の教師魂が火を吹いた。
「駄目だ駄目だ、そんなんじゃ駄目だ! 前々から思っていたが妹紅、お前の生活態度はだらけきっている。健全な躰は健全な心が育むように、健全な心は健全な生活習慣が育むんだ! 特にお前なんて、これから先幾つもの世代を乗り越えて生きてゆくのだから、そんなだらけた生活では、いずれ心が完全に死んでしまうぞ。私は、私が居なくなった後まで、お前には確りと御天道様に顔向け出来る人間になって欲しいんだから、な」
慧音が、自分の身を案じてくれている事はよく分かった。その真摯な態度に、軽い感動さえ覚えた。しかしそれとこれとは話が別である。と言うか、話を聞いて感動すら覚えたはずなのだが、未だに煙草に対する未練は捨てきれぬ。
うう、だの、その内、だの、うだうだ言う妹紅に流石に諦めたか、または呆れたか、ふう、と慧音は溜息吐いて。
「分かった分かった。いきなり一生止めろ、だなんてどうせ出来ないだろう。ならば、とりあえず三日、煙草を止めてみろ。徐々に慣らしていけばいい」
妹紅が伏せた顔に、ほっ、と安堵の表情を垣間見たのは錯視ではあるまい。その条件なら、と意気揚々と慧音の提案、受けることにした。
「其れくらいなら、うん、そうしよう。私は煙草に依存なんてしてないからな。余裕綽々さ。明日から明々後日まで、しっかと禁煙して見せよう」
「……いや、今日から始めようか。今日から明々後日の、もう昼時だな。明々後日の昼までだ。丸々三日間、絶対に吸うなよ」
言葉を聞いた妹紅に、驚愕の表情。家へ帰ってから、暫しの別れを悲しむように、秘蔵の酒でも開けて、今持っている煙草を吸い付くそうと思ってたのに。
「どうせ妹紅のことだから、家へ帰ってから、暫しの別れを悲しむように、秘蔵のウヰスキイでも開けて、今持っている煙草を吸い付くそうとか思ってるだろうと考えてな」
お見通しである。思考を完全に見透かされていたことに愕然とした。
しかし女妹紅、さんざっぱら悪いことなどやってきたが、慧音との約束を違える訳にはいかぬ。約束も然り、これは自分の矜持を賭けた戦いなのだ。やらねばならぬ。やらねばならぬ。藤原妹紅は、三日の禁煙も出来ぬ程、意志薄弱な奴だとは思われてはならぬ。私は出来る。煙草など只の嗜好品だ。金の代わりに、一時の快楽を与えてくれるだけの不用品だ。だがその快楽がまた至高なのだ。ああ、さっきは半分も吸わぬ内に揉み潰してしまったから、吸い足り無かった。脂を躰が求めている。正午までは時間が有る。後一本くらいは、良いか。
「なあ慧音、最後の接吻を、煙草と最後の接吻をさせてくれないか」
拳骨を喰らった。
虫干しをやっとこ終わらせ、妹紅は慧音の家で、昼餉に同伴していた。春の山菜をふんだんに使った汁物と、川魚を焼いたのが卓に並ぶ。昨日煙しか口に入れてないと言う妹紅は、餓鬼の如く川魚を口に運び、白米をがっつく。汁物を飲み干し、満足気な表情。慧音の作る料理は、無論料亭などには及ばぬが、家庭的な安心感を感じさせ。妹紅の胃も心も充足させていた。
慧音は、かふかふと飯を口に運ぶ妹紅をちらと見て、微笑。自分の手料理を、こんなに美味そうに食べてくれるのが嬉しいのだろうか。
「そういえば妹紅、実は今日の夜、村の人達が宴を開いてくれることになってるんだ」
「ほう、一体何の宴なんだい」
曰く、常日頃から寺子屋で教鞭を振るう、慧音の慰安であると。また、ひょんなことから竹林の道案内が慧音の友人であると知れ、それならば、是非世話になっている案内の方にも来て欲しい、と。
「どうだい、良い話だろう。永遠亭へ行けるようになって、里の人達も大分助かっているようだ。好意は、受けるもんだぞ」
そうまで言われては、別段妹紅に断る理由も無しに、最近まともに酒を飲んでいない。今日は大いに飲み明かそう、と、今から宴が楽しみになってきた。
さて、腹もくちくなった所で、一服しようか、と懐を弄るが、手に触れるは布の感触ばかり。昼餉の以前に、「今日から禁煙するのだから、こいつは預かっておくぞ」と、慧音に煙草を取り上げられていたのを思い出した。
全く参った。食事の後は茶でも啜りながら、一服やるのが習慣の妹紅である。どうにも煙草を吸わないと、食事が終わった気にならない。卓の前に座したまま、決まりが悪そうにそわそわり。慧音は、そんな妹紅の気持ちを知ってか知らずか、悠々と食事を終え、茶でも淹れてこよう、と一言残して奥へ消えていった。
茶を淹れるのに掛かる時間は、今から湯を沸かすとするならば相当必要だろう。しかし、湯を予め沸かしてあるとするならば、精々が二分もあるかないか。ちらと様子を窺って、湯を沸かしているようなら、棚の上に置いてある、煙草箱から一本くすねても――いや、どちらにせよ今一本くすねて、厠へでも行くふりをして吸えば良いじゃないか。
なんたる妙案かとほくそ笑みながら、妹紅は棚へ近づく。さあばれぬようそうっと取り出そう、と手を掛けた所で、
「何をしている」
軽い怒気を孕んだ声。悪戯を咎められたが如くにびくり、躰を震わせ視線を上げてみれば、涼し気な硝子の洋杯に茶を入れ、もろ手に其れを持った慧音の姿。
「ああ、冷茶か。春爛漫な今に飲む冷茶は美味いだろうな」
「そうだな。直ぐに出せるように、予め淹れといたのだが、正解だったようだ」
ことり、両手に持っていた洋杯を卓に置き。
拳骨を喰らった。
参った。宴はやはり辞退しておくべきだったのだ。妹紅は頭を抱えた。
目の前には笑顔の村人達。思い思いに酒盃を掲げ、宴に興じている。気の良い人々ばかりで、余り話が得意ではない妹紅を以ってして、十分に楽しめている。
今は数人が妹紅の周りに座し、やんややんやと四方山話に花を咲かす、村人達の、ああ右隣に居る者は刻み煙草を煙管に詰め、一服やって、ぷっと煙草盆に灰を落とす。目の前に座る村人は、これは珍しい、パイプを咥え、甘い匂いを漂わせている。左隣は矢継早に、半分程度吸った紙巻煙草を揉み潰し、また新しい一本に火を点ける。
只でさえ酒と煙草は切り離せぬもの。酒精を帯びた妹紅の頭が、脂を求めてぐうるぐる。いまここで煙草を一本貰えるかしら、と聞いたならば、気の良い村人達は嫌な顔を見せず、煙草を差し出してくれることだろう。
しかしもう拳骨は喰らいたくない。慧音の方へ縋るような目線を送ると、満面の笑顔で首を横に振られた。その笑顔が、絶対に許さぬぞとの意思込められている気がして。破れかぶれに、杯を一気に煽る。歓声が挙がった。
ふっと目を開けると見慣れぬ天井が目に入る。がば、と起き上がり、周りを睨め付けるように見渡す。慧音の家、の客間か。
昨夜宴が終わった後、自宅へ帰った記憶が無い。と言うか途中から宴の記憶が無い。こんなに飲んだのは何時かたぶりか。頭痛はないが、酒精の残る躰を起こし、居間へと向かった。
「あっ、おはよう妹紅。し、食欲は有るか? 直ぐに出来るから、待ってろ」
おや、回りきらぬ頭を活性化させるように、かぶりを振る。慧音の様子が可怪しい。妹紅の顔を見た瞬間、仄かに赤面し、其れを隠すように奥へと引っ込んでしまった。
さて、私は昨日何かを仕出かしてしまったのだろうか。記憶を無くすほど飲んでいたのならば、何か痴態を演じていてもおかしくはない。普段はそこまで飲まぬのだが、煙草を吸えぬ鬱憤を晴らすが如く、杯を重ねたのがいけなかったか。
考えを巡らすが、どうにも要領を得ず。そうこうしている間に、慧音が朝餉の支度を終えていた。
一汁一菜、それに香の物が付いた素朴な食卓。酒が抜けきっていない妹紅には、丁度良い飯である。卓に着き、飯を頂く、が、どうにも気まずい雰囲気の。慧音は、妹紅の顔をちらちらと窺う様子だし、妹紅は妹紅で、何故そんな視線を投げ掛けるのか分からぬ様子の首捻り。昨日、自分が何かしたのだろうかと尋ねども、いやいや別にとの返事ばかり。そのくせ、時折慧音は夢心地の様な顔をするものだから、益々意味が分からぬ。幾度目かに尋ねた時、あからさまに話題を逸らすよう、「そういえば今日は何の予定もないのか」と聞いてきた。
「昼過ぎに道案内の客が来るな。此れを食べたら御暇するよ」
慧音は残念がる様な、ほっとした様な、不可思議な表情を浮かべたが、帰ってきた言葉は、そうか、と一言だけ。また黙々と食事に取り掛かる。
朝餉は終わり、ああまた、脂への欲求が妹紅を支配する。しかし慧音はそわそわとしたまま、座している。これでは埒が明かない。棚の上の煙草を掠め取る事も叶わぬ。仕方なしに、妹紅は、「それじゃ失礼するよ」と、言い残し、腰を上げた。
慧音の家から妹紅の小屋までは歩いて一刻程。道案内予定まではまだ時間が有る。昨日は酒をたらふく飲んだし、酒気を帯びたまま客人に会うのも良くないな、と思い立ち、湯浴みの支度を始めた。
五右衛門風呂に水を貯め、火を起こす。濛々と煙が立つ。竹筒を右手に持ったまま、妹紅は思案顔。煙を吸い込んでみた。酷く咽た。涙が出て来ただけだった。
風呂に浸かると、酒精が湯へ融けていくようで心地が良い。空を見上げると、雲が空を埋め尽くしている。一雨来るかも知れないな、と、取り留めもなく考えた。
ちとゆっくり浸かりすぎたか、早足で竹林を進む妹紅。竹林の入り口まで来ると、女性がなにやら紙片に目を落として居るのが見えた。
「やあ、お待たせして済みません。道案内の依頼を為された方ですか」
「あ、大丈夫です。永遠亭まで宜しくお願い致しま、す」
紙片を袂に仕舞い、深々と礼をする。礼儀正しそうな気品漂う女性である。が、頭を上げ、妹紅の顔を見た瞬間、目を丸くし、微笑んだ。
「ん? どうかなさいましたか? 私の顔に何か?」
「いえ、何でも御座いませんよ。こんなに若くて可愛らしい方だとは思わなくって」
柔和な微笑みを湛えたまま、答える。釈然としない気持ちを抱きながらも、此方へどうぞ、と竹林を先導し始めた。
さてこの竹林、巷では迷いの竹林と呼ばれている。逸れたら事なので、些か歩を緩めて先導していたが、線の細そうに見えた女性は意外と健脚で。足元の悪さも感じさせず、飄々と妹紅に付いて来た。
「随分と健脚ですね。少し、意外です」
「ええ、脚には少し自信があるんです。躰が丈夫なのが取柄だと思っていたんですけど、どうにも最近は臓腑が優れなくって。貴女のようにお酒を召し上がる事も、出来なくなってしまいました」
他愛も無い会話の中で、疑問が生じる。なんでこの女性は私が酒を飲むと知っているのか。湯浴みをしたが、まだ臭いが残っていたか。
「済みません。酒の臭い、漂っていますか?」
そう問い掛けられた女性は目をぱちくり。ごそり、と袂から何かを取り出そうとする。
「あら、ご存知無いのですか? ここに来る時に、こんな号外を貰ったのですけど」
手渡された紙片を見遣ると、文々。新聞 号外との文字が目に入る。天狗の発行している新聞か。人里にもそれなりに浸透しているのは知っていたが、号外まで出しているとは思わなかった。
どれどれ、と記事を読み始める妹紅の顔が、一瞬にして上気した。わなわなと腕を振るわせ、号外を破らぬよう、懸命に堪えているのが見て取れる。
「あら、本当にご存知無かったようですね。知らせない方が、良かったのかしら。御免なさいね」
「いえ……別に……構いません、が。ほら、永遠亭は、直ぐそこです。ちと、申し訳ない、私は、これで、失礼させて、貰います」
耳まで真っ赤にした妹紅が指差す先に、永遠亭の文字。女性は、あら、意外と近いのね。と呟き、妹紅に丁重な礼を述べて、屋敷に向かっていった。
永遠亭に消える女性を見届けた後、妹紅は。
「うあああああああああああああっ!」
と絶叫し、竹林の奥へと全速力で駆け出した。号外が宙に舞う。紙面には、こう書かれていた。
文々。新聞 号外 昨日の夜半、K氏の邸宅で行われた酒宴の席で、M氏がK氏へ思いを告げる所を、本紙が独占入手。予てより噂されていた、かの竹林の道案内M氏と、寺子屋の教師K氏が遂にその恋仲を添い遂げたようだ。宴も酣と言う所で、K氏に対し、宴の参加者の一人が、「儂の孫の嫁に来てくれんかのう、なあ先生」等と発言。其れを聞いたM氏が、発奮した様子で詰め寄り、K氏を力強く抱き締めた後、「慧音は私のもんだ! 誰にも渡さん!」と大声で宣言した。K氏は為されるがまま、何を言っているんだ妹紅、と発言していたが、その顔は酷く赤らみ、満更でも無い様子が記者には見て取れた。周りの参加者も、終始和やかな様子で二人を眺めていた。本紙はこの独占入手した情報を更に追求し、読者諸賢に届ける心積りである。
申し訳程度に目線を隠した写真が、でかでかと乗っている号外記事であった。
妹紅の危惧した通り、夜半を迎えた頃、遂にしとしと、春雨が地面を濡らし始めた。ゆるりと水気を帯びてゆく東屋の中で、妹紅は独り、毛布に顔を埋めて。
酔って痴態を演じるのは覚悟していたが、まさかあのような形で慧音に迷惑を掛けてしまうとは。全く自己嫌悪してもしきれない。秘め事が公になった羞恥も途轍もなく。襤褸の小屋に相応しく、雨漏りが床を湿らせる。しかし、妹紅には其れを止める気概も起きなくて。
今宵こそ酒が飲みたい。記憶を無くし、倒れ、天に召される程に酒が飲みたい。だが妹紅はその日暮しの赤貧住まい。常備している酒の一滴も無く、秘蔵の酒も空っかす。ああ、煙草が吸いたい。脂に塗れて自己嫌悪、緩やかな自殺行為とも言える喫煙をすれば、この心中少しは収まる事だろうか。
結局、悶々とし続けの、夜は静かに明けてゆく。
雨は、まだ止まぬ。
夜が明け、もう既に正午も過ぎた頃、妹紅は一睡も出来ず、のそりと立ち上がった。
このまま家へ引き篭っていようと、事態が好転することなぞ無い。其れならば、いっそ慧音に会って、謝罪の言葉でも並べ立てよう。その結果、どうなろうと構わぬ。慧音に、峻拒されるならば其れまでだ。元が根無し草の放浪人。幻想郷を後にせども、生きるのに困ることはあるまい。死ぬ事に、困るのは何時もだが。
小屋を出て、慧音の家へ向かう妹紅。雨具を持たず、しっとりと衣服を重くしながら、妹紅は往く。往く。
慧音の家へ着いた時には、泳いで来たかのように、全身がしとどに濡れていた。
「おい、どうしたんだ妹紅。そんなに濡鼠で」
家に入ると、慧音が至極慌てた様子で飛び出してきた。大方、通りをふらふら歩く妹紅が目に入ったのだろう。手拭いを持ってきて、丹念に躰を拭いてくれる。それがまた、妹紅には気恥ずかしくて、酷く心地よいもので。
「あっ、あの、慧音! おとついの、宴の事で!」
一昨日の宴と聞いて、慧音も顔を真赤にし、いや、あれは、全然、等と、しどろもどろの受け答え。あたふたする慧音を目の前に、少し滑稽で、そんな慧音がまた愛おしくなって。
「あのな、慧音、あの、おとついの事は、確かに酔っ払ってたかもしれないけど、嘘なんかじゃあないんだ。私の、心内、酔に任せて、飛び出してきちまったんだと思う。御免な、今まで良くしてくれたのに、最後の言葉が、こんなのになっちまって」
ふう、と一息つき、さあ最早語ること無しと踵を返す、妹紅の、濡れた袖口抓むのは。
「いや、全然、気にしてない、と言うか、とても嬉しいし、妹紅が本当にそう思ってるなら、全く、その通りにしても良いと言うか、寧ろ、此方からお願いしたい所存でだな……」
振り返れば慧音がちょこんと袖口掴み、ぼそぼそと聞き取れぬほどの声で呟いている。なんだ? 慧音、と声を掛けようとしたが、その言葉は出ず、それは口を塞がれていたからで。
たっぷり、一分は過ぎただろうか。長い、永い接吻であった。慧音の唇の柔らかさ、舌なぞは入らぬ、清廉潔白な接吻で有るけれど、妹紅、その感触に、大いに恐慌をきたし。
ぷは、と唇が離れて、慧音の顔の全景が目の前に。臭気地獄があるならば、その獄卒ですら、前に平伏すであろう笑顔を讃えて、慧音は、
「煙草の臭い、しなくなったな。私との約束、守ってくれて嬉しいぞ。妹紅」
と言った。
太陽が、顔を出した。
まー煙草絶ち難いってのは単純に生活習慣なんだと思うんですが、生活リズム改めるのって慣れるまでは意外と労力要るんだよね
慣れちまえば必要なくなるんだろうけど
これも一種の生活習慣病なのかなぁ
接吻の後の台詞の言い回しに、初めてではないんじゃなかろうかとゲスの勘繰り。風呂焚きの煙を吸い込んでむせる妹紅に共感してしまいました。
折れそうになりながらも、禁煙を成し遂げた妹紅は強いですね。
副流煙で咳き込む私から見れば、逆に羨ましい話ですわ。
あと末永く爆発しろ!
しかし妹紅の中毒具合だと、一度全身を焼いての煙除去を使った上で吸い続けそうな気配すらありますねw
いやこの二人の様子だとそこまで積極的にならんかな?
逆に禁煙を続けさせようとする慧音の方が恥ずかしがりつつも「代わりにこれを」と自分の唇を……というのもそれはそれで!
あとK氏とかM氏とか書きつつ台詞で思いっ切り妹紅だの慧音だの書いてる文が実にいやらしくて好きです。
と考えてけーねが吸い始めちゃう展開を幻視した
とても面白かったです。
あやは神出鬼没…
慧音『いいか妹紅、絶対吸うなよ、絶対だぞ』
妹紅『ああ、分かった(フリだな キリッ)』
妹紅『煙草ウマウマ~♪』
慧音『………』
慧音のターン ドロー 魔法カード『拳骨』 こいつでプレイヤーにダイレクトアタック!
妹紅 ライフ4000→0
妹紅は視界がブラックアウトした
と、読んでる途中に勝手な想像をした俺は何だったのかw
末長く爆発しなさい!
すごく良い……!
シガーは紳士のたしなみとかで、紙巻きとは違い
いろいろとうるさい作法があるそうだが
香りも全然違うしね、同じタバコとは思えないほど
まあ、妹紅には日本古来の刻みタバコが似合うと思う
手作りの竹キセルで一服とかね
「………わかった、引き受けよう」
道案内だか狙撃だか分からなくなる
しかし、煙草の話からこのような甘い話に持って行くとは。