「霊夢~、ご飯よ~。早く起きなさい~!」
その声で私はううん、と寝返りを打って目を覚ます。
目をこすりながら、まだぼ~っとする頭をゆらゆら揺すりながら覚醒を待つ。
覚醒したと同時に、私はため息をついてしまった。
私はこの博麗神社に一人で暮らしている身である。間違っても、誰かに朝起こされる事はありえないのだ。
と、なるとこの声の主は勝手に忍び込んできた紫か萃香か、はたまたふざけて母親のマネをしてみた魔理沙か……。
どちらにせよ朝から面倒な事に巻き込まれてしまうのは間違いだろう。
「やれやれ……」
ぼさぼさになった髪を手櫛で整えながら、どうやって文句を言おうか考えていた。
ご飯を作ってくれるのは嬉しいけど、それだったら前日のうちから言ってほしい。アポも無しに来るなんて無断侵入じゃないか。
いや、それを言っても分かってくれない連中だって事ぐらいは私も分かっているが。
「霊夢。早く起きなさいって言ってるでしょ?」
声の主が襖をあけて部屋へと入ってくる。
彼女は私の予想していなかった人物ではあったものの、予想範囲内でもあった。
「あんたか、青娥。今日は一体何の用?
弟子入りなら断ったはずだけど」
つっけんどんに言うと、なぜかいきなり青娥に頭を叩かれた。
「こらっ、母親に向かってアンタなんて言ったらダメでしょ!」
「は? ……母親? 誰が?」
青娥の言った事が分からずに聞き返す。
「まったく……。霊夢ったらまだ寝ぼけているのね。
顔でも洗ったらすっきりするでしょ。ご飯冷めちゃうから早く来てね」
ぱたん、と。さも当たり前のように去っていく青娥。
私はその後ろ姿を見送る事しかできなかった。
おそらく今の茶番は青娥が仕込んだ新しい策だとは思っているのだが、それにしては演技が当たり前すぎた。
まるで昔からこの状況が続いていたような……。
「いやいや、そんな事あるわけないから」
頭を振って、過ぎった考えを打ち消す。
どちらにせよ、今結論を出すのは早計というものだろう。
茶番なら茶番で相手がボロを出すのを待てばいい。三日もすれば青娥の方も飽きてくるだろう。彼女は元から飽きっぽい性格なのだ。
もし、これが茶番ではなく異変ならば解決するだけである。
そこまで考えて、私は――青娥の言う通りにするのは癪だと思ったが――顔を洗う事にした。
「でも……」
一抹の不安が頭の底から消えなかった。
異変なら自分の巫女としての勘が働くはずなのに、それがなかった。
……じゃあ、これは異変ではなく現実?
青娥の登場は予想範囲内であった。
だから次もきっと私を驚かせるような人物が登場するんだろうなぁ、とか薄々考えていたらやはり次の登場人物も予想していなかったが、予想範囲内の人物であった。
3人目の登場人物も然り。
しかし、こうも予想できない登場人物に囲まれてしまうと、それは予想を越える。
疑い様のない疑いが私の目の前に広がっていた。
「メディの卵焼きも~らいっ!」
卵焼きを美味しそうに頬張るこいし。
「ふぇ~ん、こいしお姉ちゃんが私の卵焼き取ったぁ~」
泣きじゃくるメディ。
「こらっ、こいし。妹のご飯取っちゃダメでしょ!」
それを当たり前のように叱る青娥。
なんだ、これ……。なんなんだろう、これ……。
全く共通性のない登場人物が、私の知らない日常を目の前で繰り広げられている。
頭がごちゃごちゃで白飯を口の中に入れても味なんて分からなかった。
焼き魚をほぐして、それに醤油と大根おろしを乗せて食べても同じ事だった。
「お姉ちゃん、どうしたの? 食欲ないの?」
「こいしお姉ちゃんが霊夢お姉ちゃんを苛めたからだ~」
しかも、こいしとメディは私の事を姉と呼ぶのだ。
そういえば、先ほどは青娥が私の母親だと言っていたような気がする。
と、なると、これが私の家族という事になるのだろうか?
家族? ……これが?
どう考えても信じられなかった。
目の前にいる三人はどれも異変の際に弾幕ごっこをしてきた相手なのだ。
さらに青娥は仙人、こいしは妖怪、メディは毒人形、そして私は人間とそれぞれ種族も違う。
何の共通点もない私達四人が家族と言われても、納得する事なんてできるはずもない。
「いつもに比べてぼ~っ、としているわね。
熱でもあるのかしら?」
青娥が自分のおでこを私のおでこにくっつけてきた。
私は何かされるのかと警戒したが、そんな事はなく、逆に彼女の温もりのようなものを感じていた。
「熱はないみたいね……。でも少し風邪気味かもしれないわ」
「じゃあ私、ご飯食べ終わったらお医者さんのところに薬を取ってきてあげるよ」
「あら、こいしが? 珍しいわね、いつもならこういう厄介事はお姉ちゃんかメディに押しつけるのに」
「ふふん♪ だって私は泣き虫メディとは違うからね♪」
「お母さん! 私がお医者さんのところに行くよ! こいしお姉ちゃんなんかに任せないで!!」
こんな家族は信じられないのに。
なんでだろう。自分のために何かしてくれる人達を見るのはなんだか嬉しい。
……いや、何を考えているんだ、私は!
自分で自分を叱責する。
どう考えても、これは異変だ。異変なら博麗の巫女であるこの私が解決しないといけないのだ。
だんっ! と、私が勢いよく立ち上がると、周りの三人が驚いて私に注目した。
「あんた達が何を考えているのか知らないけどね、私を標的にしたのが運の尽きだったわね!
外に出なさい! あんた達の化けの皮を剥いでやるわっ!」
啖呵を切ってみたものの、ぽか~んとする三人。
おかしい、行動としては私が正しいはずなのに、この三人に見つめられると私が間違っているような気がしてくる。
「ふふふっ、よくぞ見破ったなお姉ちゃん!」
「あんたがこの異変の黒幕だったのね、古明地こいし!!
……って、あれ? お姉ちゃん!?」
「ご飯に砂糖をふりかけたのに気付くなんて、さすがに私のお姉ちゃんだね。
でもね、残念だよ、お姉ちゃん。私が仕掛けた罠はまだ後二つ残ってる!!」
「いや、だから、あのね……」
異変の解決といきたかったのに、これではまるで姉妹漫才ではないか。
私は一体何をしているんだ……。
「ふふん、霊夢お姉ちゃんもこいしお姉ちゃんもまだまだ甘々なんだね。
私が仕掛けた真の罠に気付かないなんてね」
メディも参戦してきては、もうこれは異変解決でなくただの三姉妹の朝食光景であった。
私のペースがことごとく崩されていくのが分かっている。
本来の私の仕事を遂行しないといけない事は分かっている。
でも、なぜかこれが嫌ではなくなってきている自分が、今は一番の異変だと思えてしまった。
「三人とも静かにご飯を食べなさい!!」
当然の如く叱り始める母親。
家族というものに違和感が拭えないのも確かに私の中に存在する。
だけど、その家族の輪に入りたいと思ってしまう自分がいるのも確かだった。
……私はどうすればいいのだろう?
風邪気味だからという理由で布団をしかれて、そこに強引に寝かされる事となった。
おでこには濡れ布巾を乗せられて動いたらダメと釘を刺された。
「何をやってんだか……」
この間抜けな光景を改めて思う。
魔理沙やアリスが今の私を見たらどう思うだろうか?
魔理沙は絶対に笑い物にする気がする。でも、彼女は意外と家庭的だから家から持ってきた茸のスープでも作ってくれるかもしれない。
アリスの場合は……彼女は言うまでもないだろう。きっと献身的に介護してくれるだろう。
でも、彼女ら二人は友人だけど、他人だ。
彼女らには彼女らの生活があり、きっと夜になれば自分の家に帰ってしまう事だろう。
そしたら私は夜の間一人で過ごさないといけないのだ。
それが今までの現実だった。
今はどうだろうか……。
「こいし?」
「んぅ? どうしたの、お姉ちゃん?」
すぐ近くに誰かがいてくれる。
きっとこいしに水が飲みたいと頼めばすぐに持ってきてくれる事だろう。
一緒に寝てと頼めば――私がそんな事を言うのはありえないが――、こいしは承諾してくれる事だろう。
家族なのだ。この世界では、私はこいしの姉なのだ。
妹がいつも姉にそばにいてくれる事はおそらく当然の事で、当たり前の事なのだろう。
私はそれを知らないから、余計にこの状況に混乱してくる。
「あんたはいつまでそこにいるつもり?」
聞き方が少しぶっきらぼうになってしまった。
こういう時にどうやって接したらいいのか分からない。
「お姉ちゃんが元気になるまでずっといてあげるよ」
「夜も?」
「お姉ちゃんがそうして欲しいっていうなら、お母さんに頼んで一緒に寝てあげる」
こいしは即答だった。
迷いなく、さも当たり前のように私のそばにいてくれる。
これは間違いなく異変なのだから解決しなければいけない。
この世界は現実ではなく夢なのだから、いつかは抜け出さなくてはいけない。
人を夢に誘う事なんて妖怪の常套手段なのだから、それを退治しなくてはいけない。
それは分かってる。分かってるんだけど……。
帰りたくないっていう気持ちも……間違いなく私の中で存在していた。
「もし、もしもの話なんだけどね」
「そんなに改まってどうしたの?」
口調を変えたつもりはなかったが、こいしには微妙な変化を覚られたらしい。
読んでいた本から顔をあげてこちらを見た。
「私が本当はあなたの姉ではなくて、別の誰かだったらどうする?」
そう、私の元いた世界ではあなたの姉は古明地さとりだった――とまでは言えなかった。
それを言ってしまったら、この夢の世界が終わってしまうような気がした。
現実に帰りたい気持ちもあるのに、夢の世界が終わってしまう事を危惧するなんて、本当に今の私はどうにかしている。
「何言ってるの? 私のお姉ちゃんは霊夢お姉ちゃんただ一人だよ」
その、こいしのにこにこ笑顔には嘘や虚言が微塵にも感じられなかった。
私は目の前にいるこいしを完全に信用してはいないのに、こいしは私に安心しきっている。
私が姉であると思いこまされている――いや、目の前のこいしにとって、私はずっと前から姉なのだろう。
だから疑いようもなく、私にそんな純粋な笑顔を見せる事ができるのだ。
「そうだったわよね。ごめん、変な事を聞いて」
「いいよ~。風邪引いてる時って不思議と不安になるものだからね」
早々に会話を打ち切って眠るフリをする。
これ以上こいしとしゃべっていたら――こいしの純粋な笑顔を見ていたら、この夢の世界にいたいという気持ちが強くなりそうで怖かった。
目を瞑ると、すぐに睡魔が訪れた。
誰かがそばにいてくれると、こんなにも安心して眠れるんだなって思った。
目覚めると、もう辺りは薄暗くなっていた。
こいしはたしかに私のそばにずっといてくれたらしい。ただし、途中で寝てしまったようで、私の布団に潜り込む形になっていた。
「……まったく」
ため息をついて、こいしに毛布をかけてやる。
「お姉ちゃん」と呼ばれたような気がしたが、おそらく寝言だったのだろう。
寝返りをうち、く~く~、と寝息を立て始めたのが聞こえた。
こいしの『お姉ちゃん』という言葉は、私に対してのものだろうか? それとも古明地さとりに対してのものだろうか? それとも、私の知らない第三者に対してのものだろうか?
いや、考えるだけ無意味だろう。それにこれは答えが分かりきっている問いでもある。
私は静かに襖を閉めて部屋を後にした。
居間に行くと、青娥が慌ただしい様子で出かける準備をしていた。
のんびりとした今までの空気と違って、何か切羽詰まったものを私は感じ取り、青娥に声をかけていた。
「何かあったの?」
「あら、霊夢。風邪はもう治ったの?」
「おかげさまでね」
会話の最中にも青娥は準備の手を止めない。
「メディがね、人里に行ったきり帰ってこないのよ。
いつも辺りが暗くなる前に帰ってきなさいって口が酸っぱくなるくらい言ってるのに、今日はずいぶんと帰りが遅いから」
「それって、私のせい?」
ふと朝食時の会話を思い出していた。
こいしが私のために薬を取ってくると言い出し、メディがそれに対抗して自分が行くと言い出した。
「違うわ、霊夢。あなたのせいではなく、頼んだのは私よ。
それにあの子は自分の意思で霊夢お姉ちゃんの薬を取りに行くって言ったのよ」
「だけど……!!」
言葉では言い表す事のできないやるせない気持ちがあふれ出してくるのが分かっていた。
いつもならもっと広い視野で周りが見られるのに、今はメディの事しか考えられなかった。
自分のせいでメディが危険な目に合ってるかもしれないと考えると、自分を無性に許せなくなる。
「……私が行くわ」
「駄目よ、霊夢。あなたは病み上がりなのだから、今日一日は安静にしていないと」
「そんな単純な問題じゃないっ」
「え?」
青娥が手を止めた。
言葉に思った以上に感情が込められていて、自分でもびっくりした。
でも、止めたくなかった。
「あんたが行ってしまったら、この家は私とこいしだけになる。
母親までいなくなったら、子供は絶対に悲しい想いをする事になるわ。
だから、あんたは絶対にこの家を離れてはダメ。この家にいて、明かりを灯して、夕食の美味しい香りでも漂わせて、みんなの帰りを迎えてあげて。
それがあんたの仕事よ」
「…………」
青娥は無言だった。
娘の反抗期に絶句する母親――そんな図式が頭の中で浮かんでしまって、私は苦笑してしまった。
そんな事を考えてしまうくらいに、私はこの世界に足を踏み入れてしまったらしい。
だけど、私にだって譲れないものはある。
「子供の帰りを待つのが母親の仕事。
なら、困っている人達を助けるのが博麗霊夢の仕事よ」
私は青娥を見つめ続けた。
邪仙と対する態度ではなく、子供を心配する一人の母親と対する態度を私は取り続けた。
やがて、青娥は顔を上げて言った。
「メディを見つけたらすぐに帰ってくる事。それが条件だわ。
いくらあなたが年頃の娘だからって夜の外出は許可できないからね」
「……母親が暖かいご飯を用意して待っているのに、外出する娘の気が知れないわね」
「分かったわ。メディはあなたに任せる」
そこでようやく私の外出許可が出た。
過保護にも程があると思うのだが、娘に厳しい母親というのも見ていて微笑ましくもなるのも事実だった。
私はすぐに準備を整え、ドアに手をかける。
「あぁ、一つ聞いておきたい事を忘れていたわ」
後ろを振り向き、見送りに来た青娥に質問にする。
「私があなたの知っている娘ではなく、別の誰かだったらどうする?」
「……やっぱり霊夢ったら風邪が治ってないんじゃないの?」
即答で心配された。
私はうめきながら言葉を返す。
「私は大丈夫だってば。だから質問に答えて」
「……霊夢という人間が二人いると仮定して、でもその二人の霊夢は同じ場所に存在する事はできない。
なら、霊夢は元から一人ではないのか? 一緒にいる姿を目撃された事は一度もないのに、それでも霊夢が二人いるとは言えるのかしらね?」
「?」
私は青娥の言っている意味が分からず視線で問いかける。
青娥はふふっ、と含み笑いを洩らしてから答えてくれた。
「私は目の前にいるあなたしか信じないって事よ。
例え、あなたが私の知らない霊夢だとしても、私の目の前にいるのは私の娘なのだからそれ以上でもそれ以下でもないって事」
「……よく分からないけど、とてもあんたらしい答え方だと思うわ。
仙人が言いそうな、答えているようで実ははぐらかしているところが特にね」
「こらっ、母親の事をあんたって言ったら駄目って言ったばかりでしょ!?
今度言ったらキョンシーに食べられちゃうわよ」
私はぷっ、と吹きだしそうになった。
「分かったわ。それじゃあ行ってくるわね、青娥」
「母親を呼び捨てにするのも駄目だったらっ」
後ろから聞こえてくる青娥の怒り声を私は無視して歩き始めた。
だって、私はあなたの――じゃないもの。
あれだけ心配したのにも関わらず、メディはあっさりと見つかった。
子供を心配する気持ちまで子供に伝わる事は敵わず……。
正直な話、私はメディを殴りたくなった。
「で、どうしてあんたは帰りが遅くなったの?」
できるだけ怒り口調で言う。
メディはそれに対して怖がるかと思ったが、反対に満面な笑顔を浮かべた。
「えへへっ、これを霊夢お姉ちゃんにプレゼントしようと思ったの」
そう言ってメディが差し出してきたのは。
「鈴蘭……。
いや、そこまでしてアイデンティーを守らなくてもいいとは思うけど」
「何の事?」
「あんたには知らなくてもいい話だわ。
っていうか、毒草をプレゼントするってどうなの?」
「えぇっ!? 霊夢お姉ちゃん知らないの?
鈴蘭にも毒性があるのとないのがあるんだよ。これはもちろん毒性がない花だよ。
そもそも鈴蘭っていうのはね……」
メディに渡されたものの、鈴蘭=毒の花としてイメージを持っている私としてはあまり触りたくないのも事実だった。
すぐさまポケットの中へとしまう。
メディの鈴蘭の解説は未だ続いていた。
別名がキミカゲソウとか、花言葉は純潔だとか、私には興味のない話をメディはひたすらしゃべり続けた。
子供には一体どこに元気が収納されているのか不思議に思う事があるが、今のメディが正にそれだった。
私は昼寝から起きたばっかりとはいえ、いろいろな事があったせいで疲れ切っていた。
早く家に帰って熱い緑茶を飲みたい。そう考えていた。
そんな時にメディがその一言を言い放った。
「お花を見れば心が安らぐって言うでしょ?
今日の霊夢お姉ちゃんは元気がなかったから、鈴蘭を見れば元気になるかなぁって思って摘んできたの?」
「…………」
何も言葉を返せなかった。
そんな事のために帰りが遅くなったの? と、叱るつもりだったのに言葉が出なかった。
私はメディが思っているような姉ではなく、違う世界からやってきた博麗霊夢なのに……。
私にはメディに優しくしてもらう資格もないのに……。
そもそも、私のせいでメディに手間をかけさせてしまったのに……。
様々な想いが浮かんできては霧散して、そのたびに込み上げてくる想いがあった。
でも、それを私は肯定する事ができなくて、強引に飲み込んだ。
思っている事と言っている事は違う事。それが分かっていても、私はこう言葉を紡ぐ事他なかった。
「バカじゃないの」
言ってしまったら、それが本心みたいな気がして豪く傷ついた。
「……バカだよ」
だから、少し言葉を軽くしたら、今度はまたあの想いが喉を競り上がってくるのを感じた。
それを必死に止めようとしたけど、駄目だった。
想いは私の頭の中を全て塗り替えて、意識とは別の何かが私のせき止めていた言葉を勝手に発散させる。
「……ありがとう」
理想だったから。
家族で仲良く団らんし、時には姉妹喧嘩をする――この世界は私の思い描いていた理想だったから。
例え、嘘でもいい。夢の中でも構わない。
博麗霊夢としてではなく、一人の女の子として、この世界を愛おしく思った。
「霊夢お姉ちゃん、それ……」
メディが私の顔を指差す。
「え……」
言われて初めて気付いた。
いつの間にか、私は涙を流していた。
「どうしたの、お姉ちゃん。痛いの? それとも苦しいの?」
「大丈夫……大丈夫だから……」
心配してくれるメディに対して、私はそれしか言葉にする事しかできなかった。
これではどちらが助けに来たのか分からなくなる。
だけど、私は涙を止められなかった。
一度崩壊した感情のダムは、どんな堤防すらも飲み込んで水を放出させるのだ。
私は声をあげて泣いた。
その反面で、私は人前でこんなにおもいっきり泣いたのはいつぶりだろうと、まるで他人行儀のような事を考えていた。
☆ ☆ ☆
「お目覚めは如何でしょう?」
その声に目覚めると同時に、私は無意識のうちに目尻を拭った。
濡れていない。
当然だ。あれは全て夢の話なのだから。
それを頭の中で理解すると意識が一気に覚醒した。
それと同時に、目の前に彼女が座っているのが分かった。
「最悪だわ……。まさかあんたに起こされるなんてね」
皮肉たっぷりに言う。
彼女はそれを分かっているはずなのに、わざと分からないフリをしてふふふっ、と怪しげに笑った。
「あら、これでも起こすのには自信があったんですけどね。
手のかかる妹を持つ姉の宿命とでも言いましょうか。あの子の寝起きは本当に悪いですからね」
「……一応確認しておきたいんだけど」
前置きをしたのは、そうしないと彼女がいつまでも話をはぐらしそうだったから。
あの仙人もタチが悪かったが、彼女はそれ以上だ。
いや、彼女以上にタチが悪いのなんて少なくとも私は知らない。
彼女こそが幻想郷最低最悪の妖怪なのだから。
「あの夢はあんたが作り出したもの。
そういう解釈で構わないわよね、古明地さとり」
「夢ではありませんよ、霊夢さん。あれはあなたの理想郷です」
何の悪びれた様子もなく淡々と言うさとり。
「理想郷……、つまり私が一番見たいと思っていた幻想というわけね。
なるほど、たしかに一番見たくないトラウマを見せられるあなたなら可能な芸当よね」
「『理想郷から戻ってきたら巫女の勘が戻ってきた』ですか……。
そこがあなたの一番の防波堤でしたしね」
相変わらず目の前にいる極悪妖怪は容赦なく私の心を抉っていく。
だから私は彼女が嫌いなのだ。
「この世界において自分が博麗霊夢であった事。それを忘れて、あの世界の住人だと認識してしまえば、こちらの世界に戻ってこられないのではないかと考えて、あなたは恐れた」
「…………」
黙っている事しかできなかった。
黙らせる事もできなかった。
「だからこそ、あなたは一番に母親と呼ぶ事を頑なまでに拒否し、わざと一線を画する素っ気ない態度を取り続けた。
……それと、あぁ、こいしが妹役として登場していたのですか。ですが、あの子は私の妹なので勝手に取らないでくださいね」
「誰が取るのよっ」
さとりがまた不気味な笑いを見せる。
こちらの思考は筒抜けだというのに、相手の意図が全く分からないから尚更恐ろしく感じてしまう。
さとりが言う事は本心なのか冗談なのか。
「まぁ、でも楽しんで頂けたようで何よりです。
私も久しぶりにこちらの能力を使った甲斐がありました」
「どういう意味? あんたは私を楽しませるためにわざわざ理想郷を見せたというの?」
「理由として何かおかしいですか?」
それに対して、私は視線で疑問を投げかける。
それが容易に伝わったようで、さとりはふぅっ、と息をついてから湯のみに注いであったお茶を一口飲んだ。
勝手に人の台所を漁って、と憤慨を覚えたが、これが口を割らすための代金と思えば安いものだろう。
「生物というのはですね、自分の下に誰かがいる事に満足を覚えるのです。
幻想郷でも同じ、いくら自分が駄目だと思っても幻想郷には最低な地底妖怪がいると思うから頑張れるのです。
その地底妖怪の中でも最低を誇るこの私がいるから、幻想郷の人々は安心して暮らせるというわけですね」
「最低自慢とは新しい趣向ね」
皮肉をたっぷり込めたつもりだったが、案の定あっさりと無視された。
「でも、最低妖怪の私でも時々疲れる事があるんですよ。
誰かに感謝されたいと、まるで善人のような思考に陥ってしまう事がたまに、ごくたまにありましてね」
「その今回の標的が私っていうわけ? えらく自分勝手な感謝を要求するのね」
「唐傘妖怪やら正体不明妖怪なんかは相手を驚かせる事で自らを保つでしょう?
要はアレと同じような感じです。覚り妖怪というのは、相手を怖がらせたり感謝させたりする事で自らを保っているんです」
大真面目な表情で語るさとりだったが、相変わらずそれが真実かどうかは分からない。
ただ楽しいからやっただけです、と言われても私は納得してしまうだろう。
「じゃあ、あんたの性格は覚り妖怪だから仕方ないというの?」
「えぇ、先ほど霊夢さんが理想郷に行っている間に考えた設定ですがよくできているでしょう?」
「やっぱり脳内設定だったのね……」
さとりという人物は、表情を全く変えずにそういう事を言ってのける少女なのだ。
怒りを通り越して呆れてしまう。
やはり、さとりの性格は覚り妖怪関係なく元からだと思う。
「ですが、楽しめたのは事実です。
まさか泣く程嬉しかったとは思いませんでした」
「その事は忘れて。すぐに忘れて。今忘れて」
「えぇ、今後霊夢さんとの交渉の時のために大事に閉まっておきます」
さとりに飛びつこうと思ったが、ひらりとかわされる。
どこまでも嫌な奴だった。
さとりはそのまま玄関へと向かって行き、私はなんとなくそれについて行った。
外に出て春の陽光を浴びると、なんだかとてもなつかしいような気分がした。
さとりの作った理想郷に行っていたのは一日もないのに、どこか遠いところへ長い時間行っていたように感じられた。
「あら、霊夢さん、それは……?」
さとりが指差したのは私のスカートのポケット。
「これって……メディからもらった鈴蘭じゃない。
って事は、あの理想郷は現実に起きた事? ……そんなわけないか」
自らで馬鹿馬鹿しいとその思考を放り捨てる。
理想はあくまでも理想であり現実ではないのだ。
「そうとは限りませんよ」
「え?」
「鈴蘭の花ことばって知ってますか?」
さとりの問いに、私はメディが言っていた事を思い出す。
鈴蘭の事をひたすらしゃべっていた時に、彼女は花ことばについても何か言っていたような。
「純潔、だったかしら」
「えぇ。それにもう一つ。
幸せの再来というものもあるんです。
理想はあくまでも理想であり現実ではありません。ですが、現実もそう捨てたものでもないのでしょうね」
さとりの言葉にうなずこうとしたその瞬間。
一陣の突風が吹き荒れて、私の手から鈴蘭を攫って行った。
夢の中でもらった鈴蘭は風に乗ってはるか上空、陽光の中へと消えていく。
私はそれをいつまでも眺めていた。
了。
その声で私はううん、と寝返りを打って目を覚ます。
目をこすりながら、まだぼ~っとする頭をゆらゆら揺すりながら覚醒を待つ。
覚醒したと同時に、私はため息をついてしまった。
私はこの博麗神社に一人で暮らしている身である。間違っても、誰かに朝起こされる事はありえないのだ。
と、なるとこの声の主は勝手に忍び込んできた紫か萃香か、はたまたふざけて母親のマネをしてみた魔理沙か……。
どちらにせよ朝から面倒な事に巻き込まれてしまうのは間違いだろう。
「やれやれ……」
ぼさぼさになった髪を手櫛で整えながら、どうやって文句を言おうか考えていた。
ご飯を作ってくれるのは嬉しいけど、それだったら前日のうちから言ってほしい。アポも無しに来るなんて無断侵入じゃないか。
いや、それを言っても分かってくれない連中だって事ぐらいは私も分かっているが。
「霊夢。早く起きなさいって言ってるでしょ?」
声の主が襖をあけて部屋へと入ってくる。
彼女は私の予想していなかった人物ではあったものの、予想範囲内でもあった。
「あんたか、青娥。今日は一体何の用?
弟子入りなら断ったはずだけど」
つっけんどんに言うと、なぜかいきなり青娥に頭を叩かれた。
「こらっ、母親に向かってアンタなんて言ったらダメでしょ!」
「は? ……母親? 誰が?」
青娥の言った事が分からずに聞き返す。
「まったく……。霊夢ったらまだ寝ぼけているのね。
顔でも洗ったらすっきりするでしょ。ご飯冷めちゃうから早く来てね」
ぱたん、と。さも当たり前のように去っていく青娥。
私はその後ろ姿を見送る事しかできなかった。
おそらく今の茶番は青娥が仕込んだ新しい策だとは思っているのだが、それにしては演技が当たり前すぎた。
まるで昔からこの状況が続いていたような……。
「いやいや、そんな事あるわけないから」
頭を振って、過ぎった考えを打ち消す。
どちらにせよ、今結論を出すのは早計というものだろう。
茶番なら茶番で相手がボロを出すのを待てばいい。三日もすれば青娥の方も飽きてくるだろう。彼女は元から飽きっぽい性格なのだ。
もし、これが茶番ではなく異変ならば解決するだけである。
そこまで考えて、私は――青娥の言う通りにするのは癪だと思ったが――顔を洗う事にした。
「でも……」
一抹の不安が頭の底から消えなかった。
異変なら自分の巫女としての勘が働くはずなのに、それがなかった。
……じゃあ、これは異変ではなく現実?
青娥の登場は予想範囲内であった。
だから次もきっと私を驚かせるような人物が登場するんだろうなぁ、とか薄々考えていたらやはり次の登場人物も予想していなかったが、予想範囲内の人物であった。
3人目の登場人物も然り。
しかし、こうも予想できない登場人物に囲まれてしまうと、それは予想を越える。
疑い様のない疑いが私の目の前に広がっていた。
「メディの卵焼きも~らいっ!」
卵焼きを美味しそうに頬張るこいし。
「ふぇ~ん、こいしお姉ちゃんが私の卵焼き取ったぁ~」
泣きじゃくるメディ。
「こらっ、こいし。妹のご飯取っちゃダメでしょ!」
それを当たり前のように叱る青娥。
なんだ、これ……。なんなんだろう、これ……。
全く共通性のない登場人物が、私の知らない日常を目の前で繰り広げられている。
頭がごちゃごちゃで白飯を口の中に入れても味なんて分からなかった。
焼き魚をほぐして、それに醤油と大根おろしを乗せて食べても同じ事だった。
「お姉ちゃん、どうしたの? 食欲ないの?」
「こいしお姉ちゃんが霊夢お姉ちゃんを苛めたからだ~」
しかも、こいしとメディは私の事を姉と呼ぶのだ。
そういえば、先ほどは青娥が私の母親だと言っていたような気がする。
と、なると、これが私の家族という事になるのだろうか?
家族? ……これが?
どう考えても信じられなかった。
目の前にいる三人はどれも異変の際に弾幕ごっこをしてきた相手なのだ。
さらに青娥は仙人、こいしは妖怪、メディは毒人形、そして私は人間とそれぞれ種族も違う。
何の共通点もない私達四人が家族と言われても、納得する事なんてできるはずもない。
「いつもに比べてぼ~っ、としているわね。
熱でもあるのかしら?」
青娥が自分のおでこを私のおでこにくっつけてきた。
私は何かされるのかと警戒したが、そんな事はなく、逆に彼女の温もりのようなものを感じていた。
「熱はないみたいね……。でも少し風邪気味かもしれないわ」
「じゃあ私、ご飯食べ終わったらお医者さんのところに薬を取ってきてあげるよ」
「あら、こいしが? 珍しいわね、いつもならこういう厄介事はお姉ちゃんかメディに押しつけるのに」
「ふふん♪ だって私は泣き虫メディとは違うからね♪」
「お母さん! 私がお医者さんのところに行くよ! こいしお姉ちゃんなんかに任せないで!!」
こんな家族は信じられないのに。
なんでだろう。自分のために何かしてくれる人達を見るのはなんだか嬉しい。
……いや、何を考えているんだ、私は!
自分で自分を叱責する。
どう考えても、これは異変だ。異変なら博麗の巫女であるこの私が解決しないといけないのだ。
だんっ! と、私が勢いよく立ち上がると、周りの三人が驚いて私に注目した。
「あんた達が何を考えているのか知らないけどね、私を標的にしたのが運の尽きだったわね!
外に出なさい! あんた達の化けの皮を剥いでやるわっ!」
啖呵を切ってみたものの、ぽか~んとする三人。
おかしい、行動としては私が正しいはずなのに、この三人に見つめられると私が間違っているような気がしてくる。
「ふふふっ、よくぞ見破ったなお姉ちゃん!」
「あんたがこの異変の黒幕だったのね、古明地こいし!!
……って、あれ? お姉ちゃん!?」
「ご飯に砂糖をふりかけたのに気付くなんて、さすがに私のお姉ちゃんだね。
でもね、残念だよ、お姉ちゃん。私が仕掛けた罠はまだ後二つ残ってる!!」
「いや、だから、あのね……」
異変の解決といきたかったのに、これではまるで姉妹漫才ではないか。
私は一体何をしているんだ……。
「ふふん、霊夢お姉ちゃんもこいしお姉ちゃんもまだまだ甘々なんだね。
私が仕掛けた真の罠に気付かないなんてね」
メディも参戦してきては、もうこれは異変解決でなくただの三姉妹の朝食光景であった。
私のペースがことごとく崩されていくのが分かっている。
本来の私の仕事を遂行しないといけない事は分かっている。
でも、なぜかこれが嫌ではなくなってきている自分が、今は一番の異変だと思えてしまった。
「三人とも静かにご飯を食べなさい!!」
当然の如く叱り始める母親。
家族というものに違和感が拭えないのも確かに私の中に存在する。
だけど、その家族の輪に入りたいと思ってしまう自分がいるのも確かだった。
……私はどうすればいいのだろう?
風邪気味だからという理由で布団をしかれて、そこに強引に寝かされる事となった。
おでこには濡れ布巾を乗せられて動いたらダメと釘を刺された。
「何をやってんだか……」
この間抜けな光景を改めて思う。
魔理沙やアリスが今の私を見たらどう思うだろうか?
魔理沙は絶対に笑い物にする気がする。でも、彼女は意外と家庭的だから家から持ってきた茸のスープでも作ってくれるかもしれない。
アリスの場合は……彼女は言うまでもないだろう。きっと献身的に介護してくれるだろう。
でも、彼女ら二人は友人だけど、他人だ。
彼女らには彼女らの生活があり、きっと夜になれば自分の家に帰ってしまう事だろう。
そしたら私は夜の間一人で過ごさないといけないのだ。
それが今までの現実だった。
今はどうだろうか……。
「こいし?」
「んぅ? どうしたの、お姉ちゃん?」
すぐ近くに誰かがいてくれる。
きっとこいしに水が飲みたいと頼めばすぐに持ってきてくれる事だろう。
一緒に寝てと頼めば――私がそんな事を言うのはありえないが――、こいしは承諾してくれる事だろう。
家族なのだ。この世界では、私はこいしの姉なのだ。
妹がいつも姉にそばにいてくれる事はおそらく当然の事で、当たり前の事なのだろう。
私はそれを知らないから、余計にこの状況に混乱してくる。
「あんたはいつまでそこにいるつもり?」
聞き方が少しぶっきらぼうになってしまった。
こういう時にどうやって接したらいいのか分からない。
「お姉ちゃんが元気になるまでずっといてあげるよ」
「夜も?」
「お姉ちゃんがそうして欲しいっていうなら、お母さんに頼んで一緒に寝てあげる」
こいしは即答だった。
迷いなく、さも当たり前のように私のそばにいてくれる。
これは間違いなく異変なのだから解決しなければいけない。
この世界は現実ではなく夢なのだから、いつかは抜け出さなくてはいけない。
人を夢に誘う事なんて妖怪の常套手段なのだから、それを退治しなくてはいけない。
それは分かってる。分かってるんだけど……。
帰りたくないっていう気持ちも……間違いなく私の中で存在していた。
「もし、もしもの話なんだけどね」
「そんなに改まってどうしたの?」
口調を変えたつもりはなかったが、こいしには微妙な変化を覚られたらしい。
読んでいた本から顔をあげてこちらを見た。
「私が本当はあなたの姉ではなくて、別の誰かだったらどうする?」
そう、私の元いた世界ではあなたの姉は古明地さとりだった――とまでは言えなかった。
それを言ってしまったら、この夢の世界が終わってしまうような気がした。
現実に帰りたい気持ちもあるのに、夢の世界が終わってしまう事を危惧するなんて、本当に今の私はどうにかしている。
「何言ってるの? 私のお姉ちゃんは霊夢お姉ちゃんただ一人だよ」
その、こいしのにこにこ笑顔には嘘や虚言が微塵にも感じられなかった。
私は目の前にいるこいしを完全に信用してはいないのに、こいしは私に安心しきっている。
私が姉であると思いこまされている――いや、目の前のこいしにとって、私はずっと前から姉なのだろう。
だから疑いようもなく、私にそんな純粋な笑顔を見せる事ができるのだ。
「そうだったわよね。ごめん、変な事を聞いて」
「いいよ~。風邪引いてる時って不思議と不安になるものだからね」
早々に会話を打ち切って眠るフリをする。
これ以上こいしとしゃべっていたら――こいしの純粋な笑顔を見ていたら、この夢の世界にいたいという気持ちが強くなりそうで怖かった。
目を瞑ると、すぐに睡魔が訪れた。
誰かがそばにいてくれると、こんなにも安心して眠れるんだなって思った。
目覚めると、もう辺りは薄暗くなっていた。
こいしはたしかに私のそばにずっといてくれたらしい。ただし、途中で寝てしまったようで、私の布団に潜り込む形になっていた。
「……まったく」
ため息をついて、こいしに毛布をかけてやる。
「お姉ちゃん」と呼ばれたような気がしたが、おそらく寝言だったのだろう。
寝返りをうち、く~く~、と寝息を立て始めたのが聞こえた。
こいしの『お姉ちゃん』という言葉は、私に対してのものだろうか? それとも古明地さとりに対してのものだろうか? それとも、私の知らない第三者に対してのものだろうか?
いや、考えるだけ無意味だろう。それにこれは答えが分かりきっている問いでもある。
私は静かに襖を閉めて部屋を後にした。
居間に行くと、青娥が慌ただしい様子で出かける準備をしていた。
のんびりとした今までの空気と違って、何か切羽詰まったものを私は感じ取り、青娥に声をかけていた。
「何かあったの?」
「あら、霊夢。風邪はもう治ったの?」
「おかげさまでね」
会話の最中にも青娥は準備の手を止めない。
「メディがね、人里に行ったきり帰ってこないのよ。
いつも辺りが暗くなる前に帰ってきなさいって口が酸っぱくなるくらい言ってるのに、今日はずいぶんと帰りが遅いから」
「それって、私のせい?」
ふと朝食時の会話を思い出していた。
こいしが私のために薬を取ってくると言い出し、メディがそれに対抗して自分が行くと言い出した。
「違うわ、霊夢。あなたのせいではなく、頼んだのは私よ。
それにあの子は自分の意思で霊夢お姉ちゃんの薬を取りに行くって言ったのよ」
「だけど……!!」
言葉では言い表す事のできないやるせない気持ちがあふれ出してくるのが分かっていた。
いつもならもっと広い視野で周りが見られるのに、今はメディの事しか考えられなかった。
自分のせいでメディが危険な目に合ってるかもしれないと考えると、自分を無性に許せなくなる。
「……私が行くわ」
「駄目よ、霊夢。あなたは病み上がりなのだから、今日一日は安静にしていないと」
「そんな単純な問題じゃないっ」
「え?」
青娥が手を止めた。
言葉に思った以上に感情が込められていて、自分でもびっくりした。
でも、止めたくなかった。
「あんたが行ってしまったら、この家は私とこいしだけになる。
母親までいなくなったら、子供は絶対に悲しい想いをする事になるわ。
だから、あんたは絶対にこの家を離れてはダメ。この家にいて、明かりを灯して、夕食の美味しい香りでも漂わせて、みんなの帰りを迎えてあげて。
それがあんたの仕事よ」
「…………」
青娥は無言だった。
娘の反抗期に絶句する母親――そんな図式が頭の中で浮かんでしまって、私は苦笑してしまった。
そんな事を考えてしまうくらいに、私はこの世界に足を踏み入れてしまったらしい。
だけど、私にだって譲れないものはある。
「子供の帰りを待つのが母親の仕事。
なら、困っている人達を助けるのが博麗霊夢の仕事よ」
私は青娥を見つめ続けた。
邪仙と対する態度ではなく、子供を心配する一人の母親と対する態度を私は取り続けた。
やがて、青娥は顔を上げて言った。
「メディを見つけたらすぐに帰ってくる事。それが条件だわ。
いくらあなたが年頃の娘だからって夜の外出は許可できないからね」
「……母親が暖かいご飯を用意して待っているのに、外出する娘の気が知れないわね」
「分かったわ。メディはあなたに任せる」
そこでようやく私の外出許可が出た。
過保護にも程があると思うのだが、娘に厳しい母親というのも見ていて微笑ましくもなるのも事実だった。
私はすぐに準備を整え、ドアに手をかける。
「あぁ、一つ聞いておきたい事を忘れていたわ」
後ろを振り向き、見送りに来た青娥に質問にする。
「私があなたの知っている娘ではなく、別の誰かだったらどうする?」
「……やっぱり霊夢ったら風邪が治ってないんじゃないの?」
即答で心配された。
私はうめきながら言葉を返す。
「私は大丈夫だってば。だから質問に答えて」
「……霊夢という人間が二人いると仮定して、でもその二人の霊夢は同じ場所に存在する事はできない。
なら、霊夢は元から一人ではないのか? 一緒にいる姿を目撃された事は一度もないのに、それでも霊夢が二人いるとは言えるのかしらね?」
「?」
私は青娥の言っている意味が分からず視線で問いかける。
青娥はふふっ、と含み笑いを洩らしてから答えてくれた。
「私は目の前にいるあなたしか信じないって事よ。
例え、あなたが私の知らない霊夢だとしても、私の目の前にいるのは私の娘なのだからそれ以上でもそれ以下でもないって事」
「……よく分からないけど、とてもあんたらしい答え方だと思うわ。
仙人が言いそうな、答えているようで実ははぐらかしているところが特にね」
「こらっ、母親の事をあんたって言ったら駄目って言ったばかりでしょ!?
今度言ったらキョンシーに食べられちゃうわよ」
私はぷっ、と吹きだしそうになった。
「分かったわ。それじゃあ行ってくるわね、青娥」
「母親を呼び捨てにするのも駄目だったらっ」
後ろから聞こえてくる青娥の怒り声を私は無視して歩き始めた。
だって、私はあなたの――じゃないもの。
あれだけ心配したのにも関わらず、メディはあっさりと見つかった。
子供を心配する気持ちまで子供に伝わる事は敵わず……。
正直な話、私はメディを殴りたくなった。
「で、どうしてあんたは帰りが遅くなったの?」
できるだけ怒り口調で言う。
メディはそれに対して怖がるかと思ったが、反対に満面な笑顔を浮かべた。
「えへへっ、これを霊夢お姉ちゃんにプレゼントしようと思ったの」
そう言ってメディが差し出してきたのは。
「鈴蘭……。
いや、そこまでしてアイデンティーを守らなくてもいいとは思うけど」
「何の事?」
「あんたには知らなくてもいい話だわ。
っていうか、毒草をプレゼントするってどうなの?」
「えぇっ!? 霊夢お姉ちゃん知らないの?
鈴蘭にも毒性があるのとないのがあるんだよ。これはもちろん毒性がない花だよ。
そもそも鈴蘭っていうのはね……」
メディに渡されたものの、鈴蘭=毒の花としてイメージを持っている私としてはあまり触りたくないのも事実だった。
すぐさまポケットの中へとしまう。
メディの鈴蘭の解説は未だ続いていた。
別名がキミカゲソウとか、花言葉は純潔だとか、私には興味のない話をメディはひたすらしゃべり続けた。
子供には一体どこに元気が収納されているのか不思議に思う事があるが、今のメディが正にそれだった。
私は昼寝から起きたばっかりとはいえ、いろいろな事があったせいで疲れ切っていた。
早く家に帰って熱い緑茶を飲みたい。そう考えていた。
そんな時にメディがその一言を言い放った。
「お花を見れば心が安らぐって言うでしょ?
今日の霊夢お姉ちゃんは元気がなかったから、鈴蘭を見れば元気になるかなぁって思って摘んできたの?」
「…………」
何も言葉を返せなかった。
そんな事のために帰りが遅くなったの? と、叱るつもりだったのに言葉が出なかった。
私はメディが思っているような姉ではなく、違う世界からやってきた博麗霊夢なのに……。
私にはメディに優しくしてもらう資格もないのに……。
そもそも、私のせいでメディに手間をかけさせてしまったのに……。
様々な想いが浮かんできては霧散して、そのたびに込み上げてくる想いがあった。
でも、それを私は肯定する事ができなくて、強引に飲み込んだ。
思っている事と言っている事は違う事。それが分かっていても、私はこう言葉を紡ぐ事他なかった。
「バカじゃないの」
言ってしまったら、それが本心みたいな気がして豪く傷ついた。
「……バカだよ」
だから、少し言葉を軽くしたら、今度はまたあの想いが喉を競り上がってくるのを感じた。
それを必死に止めようとしたけど、駄目だった。
想いは私の頭の中を全て塗り替えて、意識とは別の何かが私のせき止めていた言葉を勝手に発散させる。
「……ありがとう」
理想だったから。
家族で仲良く団らんし、時には姉妹喧嘩をする――この世界は私の思い描いていた理想だったから。
例え、嘘でもいい。夢の中でも構わない。
博麗霊夢としてではなく、一人の女の子として、この世界を愛おしく思った。
「霊夢お姉ちゃん、それ……」
メディが私の顔を指差す。
「え……」
言われて初めて気付いた。
いつの間にか、私は涙を流していた。
「どうしたの、お姉ちゃん。痛いの? それとも苦しいの?」
「大丈夫……大丈夫だから……」
心配してくれるメディに対して、私はそれしか言葉にする事しかできなかった。
これではどちらが助けに来たのか分からなくなる。
だけど、私は涙を止められなかった。
一度崩壊した感情のダムは、どんな堤防すらも飲み込んで水を放出させるのだ。
私は声をあげて泣いた。
その反面で、私は人前でこんなにおもいっきり泣いたのはいつぶりだろうと、まるで他人行儀のような事を考えていた。
☆ ☆ ☆
「お目覚めは如何でしょう?」
その声に目覚めると同時に、私は無意識のうちに目尻を拭った。
濡れていない。
当然だ。あれは全て夢の話なのだから。
それを頭の中で理解すると意識が一気に覚醒した。
それと同時に、目の前に彼女が座っているのが分かった。
「最悪だわ……。まさかあんたに起こされるなんてね」
皮肉たっぷりに言う。
彼女はそれを分かっているはずなのに、わざと分からないフリをしてふふふっ、と怪しげに笑った。
「あら、これでも起こすのには自信があったんですけどね。
手のかかる妹を持つ姉の宿命とでも言いましょうか。あの子の寝起きは本当に悪いですからね」
「……一応確認しておきたいんだけど」
前置きをしたのは、そうしないと彼女がいつまでも話をはぐらしそうだったから。
あの仙人もタチが悪かったが、彼女はそれ以上だ。
いや、彼女以上にタチが悪いのなんて少なくとも私は知らない。
彼女こそが幻想郷最低最悪の妖怪なのだから。
「あの夢はあんたが作り出したもの。
そういう解釈で構わないわよね、古明地さとり」
「夢ではありませんよ、霊夢さん。あれはあなたの理想郷です」
何の悪びれた様子もなく淡々と言うさとり。
「理想郷……、つまり私が一番見たいと思っていた幻想というわけね。
なるほど、たしかに一番見たくないトラウマを見せられるあなたなら可能な芸当よね」
「『理想郷から戻ってきたら巫女の勘が戻ってきた』ですか……。
そこがあなたの一番の防波堤でしたしね」
相変わらず目の前にいる極悪妖怪は容赦なく私の心を抉っていく。
だから私は彼女が嫌いなのだ。
「この世界において自分が博麗霊夢であった事。それを忘れて、あの世界の住人だと認識してしまえば、こちらの世界に戻ってこられないのではないかと考えて、あなたは恐れた」
「…………」
黙っている事しかできなかった。
黙らせる事もできなかった。
「だからこそ、あなたは一番に母親と呼ぶ事を頑なまでに拒否し、わざと一線を画する素っ気ない態度を取り続けた。
……それと、あぁ、こいしが妹役として登場していたのですか。ですが、あの子は私の妹なので勝手に取らないでくださいね」
「誰が取るのよっ」
さとりがまた不気味な笑いを見せる。
こちらの思考は筒抜けだというのに、相手の意図が全く分からないから尚更恐ろしく感じてしまう。
さとりが言う事は本心なのか冗談なのか。
「まぁ、でも楽しんで頂けたようで何よりです。
私も久しぶりにこちらの能力を使った甲斐がありました」
「どういう意味? あんたは私を楽しませるためにわざわざ理想郷を見せたというの?」
「理由として何かおかしいですか?」
それに対して、私は視線で疑問を投げかける。
それが容易に伝わったようで、さとりはふぅっ、と息をついてから湯のみに注いであったお茶を一口飲んだ。
勝手に人の台所を漁って、と憤慨を覚えたが、これが口を割らすための代金と思えば安いものだろう。
「生物というのはですね、自分の下に誰かがいる事に満足を覚えるのです。
幻想郷でも同じ、いくら自分が駄目だと思っても幻想郷には最低な地底妖怪がいると思うから頑張れるのです。
その地底妖怪の中でも最低を誇るこの私がいるから、幻想郷の人々は安心して暮らせるというわけですね」
「最低自慢とは新しい趣向ね」
皮肉をたっぷり込めたつもりだったが、案の定あっさりと無視された。
「でも、最低妖怪の私でも時々疲れる事があるんですよ。
誰かに感謝されたいと、まるで善人のような思考に陥ってしまう事がたまに、ごくたまにありましてね」
「その今回の標的が私っていうわけ? えらく自分勝手な感謝を要求するのね」
「唐傘妖怪やら正体不明妖怪なんかは相手を驚かせる事で自らを保つでしょう?
要はアレと同じような感じです。覚り妖怪というのは、相手を怖がらせたり感謝させたりする事で自らを保っているんです」
大真面目な表情で語るさとりだったが、相変わらずそれが真実かどうかは分からない。
ただ楽しいからやっただけです、と言われても私は納得してしまうだろう。
「じゃあ、あんたの性格は覚り妖怪だから仕方ないというの?」
「えぇ、先ほど霊夢さんが理想郷に行っている間に考えた設定ですがよくできているでしょう?」
「やっぱり脳内設定だったのね……」
さとりという人物は、表情を全く変えずにそういう事を言ってのける少女なのだ。
怒りを通り越して呆れてしまう。
やはり、さとりの性格は覚り妖怪関係なく元からだと思う。
「ですが、楽しめたのは事実です。
まさか泣く程嬉しかったとは思いませんでした」
「その事は忘れて。すぐに忘れて。今忘れて」
「えぇ、今後霊夢さんとの交渉の時のために大事に閉まっておきます」
さとりに飛びつこうと思ったが、ひらりとかわされる。
どこまでも嫌な奴だった。
さとりはそのまま玄関へと向かって行き、私はなんとなくそれについて行った。
外に出て春の陽光を浴びると、なんだかとてもなつかしいような気分がした。
さとりの作った理想郷に行っていたのは一日もないのに、どこか遠いところへ長い時間行っていたように感じられた。
「あら、霊夢さん、それは……?」
さとりが指差したのは私のスカートのポケット。
「これって……メディからもらった鈴蘭じゃない。
って事は、あの理想郷は現実に起きた事? ……そんなわけないか」
自らで馬鹿馬鹿しいとその思考を放り捨てる。
理想はあくまでも理想であり現実ではないのだ。
「そうとは限りませんよ」
「え?」
「鈴蘭の花ことばって知ってますか?」
さとりの問いに、私はメディが言っていた事を思い出す。
鈴蘭の事をひたすらしゃべっていた時に、彼女は花ことばについても何か言っていたような。
「純潔、だったかしら」
「えぇ。それにもう一つ。
幸せの再来というものもあるんです。
理想はあくまでも理想であり現実ではありません。ですが、現実もそう捨てたものでもないのでしょうね」
さとりの言葉にうなずこうとしたその瞬間。
一陣の突風が吹き荒れて、私の手から鈴蘭を攫って行った。
夢の中でもらった鈴蘭は風に乗ってはるか上空、陽光の中へと消えていく。
私はそれをいつまでも眺めていた。
了。
キャラの選択はそういう意図ではないとはいえ、夢というもののアトランダムさ、奇抜さが上手く表されていて良いと感じました
確かに身寄りがいない、いるかどうかすらもわからない霊夢には「家族」というものは得がたく、
離し難いものなのかもしれませんね
霊夢の感情を食べる為に、最後の小物まで含めたさとりの黒い策略とも見えておもしろかった。
文章も分かりやすく読みやすかったのですが、「溜め」が足りない感じがして
読者として話に乗りきれなかったような気がしています。
起承転結で言えば「起」「転」「結」はよく出来ているのに「承」の部分が薄い印象です。
霊夢が異常な状況に馴染むというか受け入れるのがあっさりすぎるせいで、
いつもと違う青蛾、こいし、メディに深い愛着を抱いているのがしっくり来なかったとでも言いましょうか。
せめて数日ほどでも一緒に過ごさせて、戸惑いながらも少しずつ彼女たちに愛着を抱いていく様子が描かれていたらもっと話に入りこめていたかもな、と思います。
何と言いますか、作中の霊夢は三人に対する好感度が0から100まで一気に上がってしまったような印象です。
この夢は霊夢の理想の投影だったようですから最初から好感度が高くても設定的には矛盾していないのですが、
設定的にどうだという話と読んでいて感情移入できるかという話はまた別物かと思いますので。
なんだか難癖ばかりになってしまいましたが、設定や雰囲気自体は凄く好みだったので惜しいなという気持ちなのです。
特に最後の鈴蘭が風にさらわれていくシーンは夢の中の儚い幸せを象徴しているようで、その情景が鮮やかに浮かびました。
それ故、三人との交流や別れの様子がもっと描かれていたら更に感動できただろうなあ、と勿体ない気分になってしまったのです。
もっとも、この夢がさとりによって作り出されたものだったという設定や終盤のさとりのブラックな語りからして、
くさなぎさんは感動させる意図でこのSSを書いたわけではないのかもしれませんが……
ともかく、設定は凄く好みだからもう少しボリュームが欲しかった、というのが自分の感想です。
おもしろかったです。
理想郷とはいえ、霊夢の夢は叶ったのでしょうか。
とても良い話でした。
>キャラソート一位から三位
そういう作者様の欲望(?)がたっぷりのSSを読んでみたかった!