Coolier - 新生・東方創想話

幻想郷

2013/04/12 04:28:11
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  一

 三年前の夏のことです。私は人並みにリュックサックを背負い、あの諏訪の温泉宿から八ヶ岳に登ろうとしました。八ヶ岳に登るのには御承知のとおり玉川をさかのぼらなければなりません。私は前に八ヶ岳山系に登ったことがありましたから、朝霧の下りた玉川の谷を案内者もつれずに登ってゆきました。朝霧の下りた玉川の谷を──しかしその霧はいつまでたっても晴れる景色は見えません。のみならずかえって深くなるのです。私は一時間ばかり歩いた後、一度は諏訪の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。けれども諏訪へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上にしなければなりません。といって霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、いっそ登ってしまえ」──私はこう考えましたから、玉川の谷を離れないように熊笹の中を分けてゆきました。
 しかし私の目をさえぎるものはやはり深い霧ばかりです。もっとも時々深い霧の中から太いブナやモミの枝が青々と葉を垂らしたのも見えなかったわけではありません。それからまた放牧の馬や牛も突然私の前に顔を出しました。けれどもそれらは見えたと思うと、たちまち濛々と霧の中へ隠れてしまうのです。そのうちに足もくたびれてくれば、腹もだんだん減り始める、──おまけに霧に濡れた登山服や毛布なども並大抵の重さではありません。私はとうとう諦めて、水の音をたよりに玉川の谷へ下りることにしました。
 私は水際の岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コーンドビーフの缶を切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、──そんなことをしているうちにかれこれ十分はたったでしょう。その間にどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。私はパンをかじりながら、ちょっと懐中時計を覗いてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味が悪い顔が一つ、円い懐中時計の硝子の上へちらりと影を落としたことです。私は驚いて振り返りました。すると、──私の後ろにある岩の上には帽子を被った少女が一人、片手は野蒜の葉を持ち、片手は目の上に翳したなり、珍しそうに私を見下ろしていました。
 私は呆気に取られたまま、しばらくは身動きもせずにいました。少女もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ動かしません。そのうちに私は飛び立つが早いか、岩の上の少女へ踊りかかりました。同時にまた少女も奇声を上げて逃げ出しました。いや、おそらくは逃げ出したのでしょう。実はひらりと身をかわしたかと思うと、たちまちに何処かへ消えてしまったのです。私はいよいよ驚きながら、熊笹の中を見回しました。すると少女は逃げ腰をしたなり、二三メートル隔たった向こうに私を振り返って見ているのです。それは不思議でも何でもありません。しかし私に意外だったのは少女が着ている服の色です。岩の上に私を見ていた少女の服は一面に灰色を帯びていました。けれども今はすっかり緑色に変わっているのです。私はあやかしに違いないと思い大声を上げ、もう一度少女に飛びかかりました。少女が逃げ出したのはもちろんです。それから私は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二少女を追い続けました。
 少女もまた足の速いことは決して私に劣りません。私は夢中になって追いかける間に何度もその姿を見失おうとしました。のみならず足を滑らせて転がったことも度々です。が、大きな二股の木が一本、太々と枝を張った下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、少女の往く先へ立ちふさがりました。しかもそれは角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。少女は牡牛を見ると、再び悲鳴を上げながら、一際高い熊笹の中へもんどり打つように飛び込みました。私は、──私も「しめた」と思いましたから、そのあとへ追いすがりました。するとそこには私の知らない穴でもあいていたのでしょう。私は少女の帽子にやっと指先がさわったかと思うと、たちまち深い闇の中へ真っ逆さまに転げ落ちました。私は「あっ」と思う拍子に、少女の帽子の下、頭の上に皿が乗っているのを見ました。そして、諏訪の温泉宿のそばに「河童橋」という橋があるのを思い出しました。
 それから、──それから先のことは覚えていません。私はただ目の前に稲妻に似たものを感じたきり、いつの間にか正気を失っていました。

  二

 そのうちにやっと気がついてみると、私は仰向けに倒れたまま、大勢の人にとり囲まれていました。のみならず髪を束ねた女性が一人、私のそばでひざまずきながら、私の胸へ聴診器を当てていました。その女性は私が目を開けたのを見ると、私に「静かに」という手真似をし、それから誰か後ろにいる少女へ声をかけました。するとどこからか頭に耳を生やした少女が二人、担架を持って歩いてきました。私はこの担架にのせられたまま、大勢の人の群がった中を静かに抜けて進んで行きました。しばらく山道を進むと、小さな集落に辿り着きました。私の両側に並んでいる町は少しも知らない風景で、時代を感じさせる平屋が続くばかりです。ブナの並み木の陰にいろいろの店が日除けを並べ、そのまた並み木に挟まれた道を沢山の人が歩いているのです。
 やがて私をのせた担架は細い横町を曲がったかと思うと、ある家の中へ担ぎ込まれました。それは後に知ったところによれば、あの髪を束ねた女性の診療所、──永琳という医者が里に建てた出張診療所だったのです。永琳は私を小綺麗なベッドの上へ寝かせました。それから何か透明な水薬を一杯飲ませました。私はベッドの上に横たわったなり、永琳のするままになっていました。実際まだ私の体はろくに身動きもできないほど、節々が痛んでいたのですから。
 永琳は一日に二三度は必ず私を診察に来ました。また三日に一度ぐらいは私が最初に見かけた少女、──にとりという河童も尋ねてきました。どうやらここは幻想郷という場所らしく、沢山の妖怪とほんの少しの人間が暮らしている場所らしいのです。妖怪は我々人間が妖怪のことを知っているよりも遥かに人間のことを知っています。それは我々人間が妖怪を退治することよりもずっと妖怪が人間を喰らうことが多いためでしょう。喰らうというのは当たらないまでも、我々人間は私の前にも度々幻想郷へ来ているのです。のみならず一生幻想郷に住み込むものも多かったのです。なぜと言ってごらんなさい。私は幻想郷の妖怪ではない、外の世界の人間であるという特権のために、外の技術を持っていると期待されるのです。もっとも、それに見合った知識や利器を持っていなければ喰らわれるまでです。現ににとりの話によれば、ある若い漁師などはやはり偶然この国に来た後、目ぼしい知識を持っていないと知るや否や喰われてしまったということです。
 幸いにも私はある程度の教養と携帯電話という道具を持っていましたので、一週間ばかりたった後、「外来人」として診療所の隣に住むことになりました。私の家は小さい割にいかにも瀟洒に出来上がっていました。幻想郷の文明は外の世界の文明──少なくとも日本の文明などとあまり大差はありません。往来に面した客間の隅には小さいピアノが一台あり、それからまた壁には額縁へ入れたエッティングなども懸っていました。
 私はいつも日暮れがたになると、この部屋に少女たち──永琳やにとり、また私の様子を見に来た霊夢や魔理沙、早苗という人間の少女──を迎え、幻想郷について習いました。いや、彼女たちばかりではありません。外来人だった私に誰もみな好奇心を持っていましたから、毎日血圧を調べてもらいに、わざわざ永琳を呼び寄せる慧音という寺子屋の教師もやはりこの部屋へ顔を出したものです。しかし最初の半月ほどの間に一番私と親しくしたのは、やはりあのにとりという河童だったのです。にとりは自分が住む山の社会や環境をつぶさに教えてくれました。
 ある生暖かい日の暮れです。私はこの部屋のテーブルを中に河童のにとりと向かい合っていました。するとにとりはどう思ったか、急に黙ってしまった上、大きい目を一層大きくしてじっと私を見つめました。私はもちろん妙に思いましたから、「どうしたの」と言いました。が、にとりは返事をしません。のみならずいきなり立ち上がると、奇声を上げるなり左手を縮め、右手を蛙の跳ねるように伸ばしました。私はいよいよ不気味になり、そっと椅子から立ち上がると、一足飛びに戸口へ飛び出そうとしました。ちょうどそこへ顔を出したのは、山に住む天狗で新聞記者の文です。
「ちょっと、何をしているの?」
 文は訝しんでにとりを睨みつけました。するとにとりは恐れいったと見え、何度も頭へ手をやりながら、こう言って文に謝るのです。
「あいや、申し訳ない。実はこの人が気味悪がるのが面白かったものだから、つい調子に乗って悪戯をしたのさ。ほら盟友、そんなに怯えないで許しておくれ」

  三

 私はこの先を話す前にちょっと幻想郷というものを説明しておかなければなりません。幻想郷はいまだに実在するかどうかも疑問になっている空間です。が、それは私自身が彼女たちと生活をともにした以上、少しも疑う余地はないはずです。ではまたどういう場所かと言えば、山の奥地に存在する桃源郷で、みな幸せに暮らしていることも「桃花源記」などに出ているのと著しい違いはありません。明治時代より博麗大結界という障壁で以て外界と隔絶されており、その結界は博麗神社の巫女である霊夢が管理しているということです。それから無数にいる妖怪の中でも最も強大な力をもつのは紫という女性で、幻想郷の成立にも一枚かんでいるそうです。現に博麗神社にも紫はしばしば姿を見せるそうですし、他の妖怪たちも紫には一目置いているのです。しかし一番不思議なのは人間と妖怪が共存していることでしょう。この幻想郷では不思議と人妖のバランスが保たれているのです。また、妖怪は我々人間のように一定の姿を持っていないはずなのですが、少女の姿で現れることが多いのです。これが幻想郷特有の事実なのかは判りませんが、私はこの事実を発見した時、民俗学上の記録を疑わざるを得ませんでした。のみならず少女たちはみな私に友好的でしたし、とくににとりは私を山に住まわせたいと言うようになりました。里に住んでいた私でしたが、河童や天狗たちとはよく交流していましたし、山社会の様子もにとりから聞いていましたので、実際にそのように考えていたのですが、人間が山に住むというのは幻想郷の中においては随分と難しい事のようでした。何故なら妖怪の山は人間禁制とされているからです。私はある時この慣習をなぜかと文に尋ねてみました。すると文は嘲るように笑って、私の全身を舐め回すように見ました。おまけに「登れるものなら登ってみなさい」と返事をしました。

  四

 私はだんだんと幻想郷の常識を覚えてきました。従って幻想郷の風俗や慣習ものみこめるようになってきました。その中でも不思議だったのは妖怪は我々人間と感じている時間が違うという事です。たとえば我々人間は明日のことを考えて生活するし昨日何があったかを覚えている、しかし妖怪はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。つまり妖怪における時間という観念は我々の時間という観念と全然基準を異にしているのでしょう。私はある時医者の永琳と懐中時計の話をしていました。すると永琳は大口を開いて、腹を抱えて笑い出しました。私はもちろん腹が立ちましたから、何がおかしいのかと詰問しました。なんでも永琳の返答は大体こうだったように覚えています。もっとも多少細かいところは間違っているかもしれません。何しろまだその頃は月人という存在をすっかり理解していませんでしたし、その後の話で永琳は妖怪では無いという事に衝撃を受けたばかりでしたから。
「秒単位で時間を計るのはおかしいですからね。どうもあまりに不便ですからね」
 その代わりに我々人間から見れば、実際また妖怪の暦ぐらい、おかしいものはありません。現に私はしばらくたってから、鈴仙とてゐ──私を担架に乗せて運んだ二人──たちが例月祭を行うところを永琳が住む永遠亭へ見物に行きました。妖怪──月人──もお祭りをするのは我々人間と同じことです。やはり暦や吉凶にたよってお祭りをするのです。けれどもお祭りをするとなると、永琳は主人である輝夜とカレンダーを取り出すのですが、そのカレンダー上では例月祭は毎日行われているのです。輝夜は膝をつきながら、何度も繰り返してこう言いました。
「一年後には祭具の新調があるから、今から吉日を探さないといけないわ」
 何もおかしく無いように思われますが、彼女たちが見ている暦を確認すればすぐに判るでしょう。つまり永遠亭で使われている暦は最小単位が月で、人間時間に相当する六十年が一年なのです。輝夜の言う一年とは我々の時間の観念でいう六十年なのですから、いかに妖怪の時間の観念が我々と異なっているかが判るでしょう。
 人間と妖怪の話をしたついでですから、私が幻想郷へ来た三ヶ月目──これは人間時間においてです──に偶然里で見かけた、大きいポスターの話をしましょう。その大きいポスターの下には喇叭を吹いている天狗だの剣を持っている天狗だのが十二三人描いてありました。それからまた上には大層乱雑に、ちょうど鈴奈庵の蔵書にあるような筆文字が一面に並べてありました。この筆文字の解読が難しいのですが、大体こういう意味になるのです。これもあるいは細かいところは間違っているかもしれません。が、とにかく私としては私と一緒に歩いていた、魔理沙という魔法使いが読み上げてくれる言葉をいちいちノートにとっておいたのです。
   虚報的天狗新聞を誅す!
   健全なる幻想郷の人間よ!
   悪文を撲滅するために
   不健全なる勧誘を断固拒否せよ!
 私はもちろん文のような清く正しい新聞記者を知っていましたので、その限りでは無いことを魔理沙に話して聞かせました。すると魔理沙ばかりではない、ポスターの近所にいた人間はことごとくげらげら笑い出しました。
「その限りでは無い? だってお前の話では文もやっぱり記事のネタに飢えていると思うぜ。お前は霊夢が平然と脱税していたり、アリスが毎晩丑の刻参りをしているというのも事実だと思っているのか? いやまあ、アリスはあるかもしれないが、文は無意識的に虚報を続けているんだよ。第一この間お前が話した天狗の報道機関よりも、──人の弱みばかりに付け込むパパラッチだ、──ああいう新聞記者に比べれば、ずっと稗田の幻想郷縁起の方がまともな事を書いていると思うぜ」
 魔理沙は笑いながら、妖怪だからという理由で天狗の新聞を否定し、人間の記事を信用するのです。が、私は笑うどころか、あわててある男を掴まえようとしました。それは私の油断を見すまし、ある男が私の万年筆を盗んだことに気がついたからです。しかし体の小さな男は容易に我々には捕まりません。その男もするりと滑り抜けるが早いか一散に逃げ出してしまいました。ちょうど蚊のように痩せた体を倒れるかと思うぐらいのめらせながら。

  五

 私はこの魔理沙という魔法使いににとりにも劣らぬ世話になりました。が、その中でも忘れられないのは霖之助という商人を紹介されたことです。霖之助は魔理沙の交友関係の中では珍しい男性で古物商です。私は時々霖之助の店へ退屈しのぎに遊びに行きました。霖之助はいつも狭い部屋に外の世界の道具を並べ、本を読んだり水煙草をのんだり、いかにも気楽そうに暮らしていました。そのまた部屋の隅には朱い翼を生やした妖怪が座り込んで読書か何かしていました。霖之助は私の顔を見ると、いつも微笑してこう言うのです。(もっとも商人の微笑するのはあまりいいものではありません。少なくとも私は最初のうちはむしろ不気味に感じたものです)
「やあ、よく来たね。まあ、その椅子にかけたまえ」
 霖之助はよく道具の薀蓄だの理想の生活だのの話をしました。霖之助の信ずるところによれば、当たり前の人間の生活ぐらい、莫迦げているものはありません。親子夫婦兄弟などというのは悉く互いに苦しめ合うことを唯一の楽しみにして暮らしているのです。ことに家族制度というものは莫迦げている以上にも莫迦げているのです。霖之助はある時本の頁を指さし、「見たまえ。この莫迦さ加減を!」と吐き出すように言いました。本の中には年の若い人間が一人、両親らしい人間をはじめ、七八人の子供を連れながら、息も絶え絶えに歩いていました。しかし私は年の若い人間の犠牲的精神に感心しましたから、かえってその健気さをほめ立てました。
「君は幻想郷でも暮らす資格を持っているね。──時に君は社会主義者かい?」
 私は「そうだ」と答えました。
「では百人の凡人のために甘んじて一人の天才を犠牲にすることも顧みないということだ」
「じゃあ貴方は何主義者なの? だれか霖之助さんの信条は無政府主義だと言っていたけど──」
「僕かい? 僕は超人だよ」
 霖之助は昂然と言い放ちました。こういう霖之助は読書の上にも独特な考えを持っています。霖之助の信ずるところによれば、知識は何ものの支配をも受けない、知識のための知識である、従って読書家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬということです。もっともこれは必ずしも霖之助一人の意見ではありません。幻想郷に住む読書家たちは大抵同意見を持っているようです。現に私は霖之助と一緒に度々超人倶楽部へ遊びに行きました。超人倶楽部に集まってくるのは魔理沙、アリス、慧音、パチュリー、小鈴、阿求、鈴仙、白蓮ら幻想郷の書痴等です。しかしいずれも超人です。超人たちは薄暗いサロンにいつも快活に話し合っていました。のみならず時には得々と超人ぶりを示し合っていました。たとえば慧音などは話を聞かずに眠ってしまう魔理沙を掴まえながら、しきりに頭突きをかましていました。また鈴仙などはテーブルの上に立ち上がったなり、永琳特製の薬を四本飲んで見せました。もっともこれは四本目にテーブルの下に転げ落ちるが早いか、たちまち失神してしまいましたが。
 私はある月のいい晩、霖之助と超人倶楽部から帰ってきました。霖之助はいつになく沈みこんで一言も口をきかずにいました。そのうちに私たちは火かげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。そのまた窓の向こうには夫婦らしい人間が二、三人の子供たちと一緒に晩餐のテーブルに向かっているのです。すると霖之助は溜め息をしながら、突然こう私に話しかけました。
「僕は超人だと思っているけどね、ああいう家庭の様子を見ると、やはりうらやましさを感じるんだよ」
「でもそれはどう考えても、矛盾していると思わない?」
 けれども霖之助は月明かりの下にじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向こうを、──平和な五人の人間たちの晩餐のテーブルを見守っていました。それからしばらくしてこう答えました。
「あそこにある本はなんと言っても、家族などよりも衛生的だからね」

  六

 実際また幻想郷の恋愛──これを恋愛と呼ぶべきかは難しいのですが──は我々外の世界の恋愛とはよほど趣を異にしています。幻想郷の少女はこれぞという少女を見つけるが早いか、その少女をとらえるのにいかなる手段を顧みません、一番正直な少女は遮二無二相手を追いかけるのです。現に私は気違いのように相手を追いかけている少女を見かけました。いや、そればかりではありません。少女はもちろん、その少女の友人や主人まで一緒になって追いかけるのです。狙われた者こそみじめです。何しろさんざん逃げまわったあげく、運よく捕まらずに済んだとしても、しばらくは床についてしまうのですから。私はある時私の家で小鈴から借りた本を読んでいました。するとそこへ駆け込んできたのはあの魔理沙という魔法使いです。魔理沙は私の家へ転げ込むと、床の上へ倒れたなり、息も切れ切れにこう言うのです。
「大変だ! とうとう私は被弾してしまった!」
 私は咄嗟に本を投げ出し、戸口の錠をおろしてしまいました。しかし鍵穴から覗いてみると、今にもグリモワールを開こうとするアリスが、まだ戸口にうろついているのです。魔理沙はその日から何日か私の床の上に寝ていました。のみならず被弾した魔理沙の服はすっかり破けてしまいました。
 もっともまた時には追いかけずにはいられないように仕向ける少女もいるのです。私はやはり気違いのように輝夜を追いかけている妹紅を見かけました。輝夜は逃げていくうちにも、時々わざと立ち止まってみたり、あえて感情を逆撫でするような言葉を掛けたりしてみせるのです。おまけにちょうどいい時分になると、さもがっかりしたように楽々と被弾してしまうのです。妹紅は輝夜を殺すなり、しばらくそこに立ち尽くしていました。が、やっと動き出したのを見ると、失望というか、後悔というか、とにかくなんとも形容できない、気の毒な顔をしていました。しかしそれはまだいいのです。これも私の見かけた中に、布都が屠自古を追いかけていました。屠自古は例のとおり、誘惑的遁走をしているのです。するとそこへ向こうから神子が右手を上げて歩いてきました。屠自古は何かの拍子に神子を見ると「大変です! 助けてください! 布都が私に弾を浴びせてくるのです!」と金切り声を出して叫びました。もちろん神子はたちまちに布都を捕まえ、往来の真ん中へねじ伏せました。布都は皿を手に二三度空をきるなり、とうとう気絶してしまいました。けれどももうその時には屠自古はにやにやしながら、神子の頸っ玉へしっかりしがみついてしまっていたのです。
 私の知っていた少女はだれも皆言い合わせたように誰かに追いかけられました。もちろん弾幕慣れしている魔理沙でもやはり追いかけられたのです。のみならず二三度は被弾したのです。ただヤマメという妖怪だけは(これは地底に入口にいる妖怪です)一度も追いかけられたことはありません。これは一つにはヤマメぐらい、嫌われている妖怪も少ないためでしょう。しかしまた一つにはヤマメだけはあまり地上へ姿を出さずに地底にばかりいるためです。私はこのヤマメの家へも時々話しに出かけました。ヤマメはいつも薄暗い部屋に七色の蜘蛛の糸を張り巡らし、脚の高い机に向かいながら、厚い本ばかり読んでいるのです。私はある時こういうヤマメと幻想郷の恋愛を論じ合いました。
「どうして幻想郷の少女たちは少女を追いかけるんだろう」
「それは一つには幻想郷の有力な人妖に男性が少ないためさ。女性は男性よりも一層嫉妬心は強いものだからね、男性さえ増えれば、きっと今よりも女性は追いかけられずに暮らせるだろう。しかしその効力もしれたものさね。何故と言ってごらん。そもそも女性は女性を追いかけるのが好きだからさ」
「じゃあ貴方のように暮らしているのは一番幸福なわけね」
 するとヤマメは椅子を離れ、私の両手を握ったまま、溜め息と一緒にこう言いました。
「あんたは外来人だから、判らないのももっともだ。でも私もどうかすると、あいつらに追いかけられたい気も起こるんだよ」

  七

 私はまた文と度々音楽会へも出かけました。が、いまだに忘れられないのは三度目に聴きにいった音楽会のことです。もっとも会場の様子などはあまり外の世界と変わっていません。やはりだんだんせり上がった席に人間や妖怪たちがいずれもプログラムを手にしながら、一心に耳を澄ませているのです。私はこの三度目の音楽会の時には文と文の同僚の椛のほかにもにとりと一緒になり、一番前の席に座っていました。するとセロの独奏が終わった後、妙に垢抜けた少女が一人、無造作に譜本を抱えたまま、壇の上へ上がってきました。この少女はプログラムの教えるとおり、プリズムリバー三姉妹の三女リリカです。プログラムの教えるとおり、──いや、プログラムを見るまでもありません。リリカは超人倶楽部の会員ですから、私もまた顔だけは知っているのです。
「Lied──Lyrica」(幻想郷のプログラムも大抵はドイツ語を並べていました)
 リリカは盛んな拍手のうちにちょっと我々に一礼した後、静かにピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に自作のリイドを弾き始めました。リリカは文の記事によれば、幻想郷の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才だそうです。私はリリカの音楽はもちろん、そのまた余技の抒情詩にも興味を持っていましたから、大きい弓なりのピアノ音に熱心に耳を傾けていました。文やにとりも恍惚としていたことはあるいは私よりもまさっていたでしょう。が、あの響子だけはしっかりプログラムを握ったなり、時々さもいらだたしそうに大きな耳を動かせていました。これは文の話によれば、なんでも鳥獣伎楽を結成したものの全く人気にならないものですから、同じ音楽家であるプリズムリバー三姉妹を目の敵にしているのだとかいうことです。
 リリカは全身に情熱を込め、戦うようにピアノを弾き続けました。すると突然会場の中に神鳴りのように響き渡ったのは「演奏禁止」という声です。私はこの声にびっくりし、思わず後ろを振り返りました。声の主は紛れもない一番後ろの席で腕を組んでいる霊夢です、霊夢は私が振り向いた時、悠然と腰を下ろしたまま、もう一度前よりも大声に「演奏禁止」と怒鳴りました。それから、──
 それから先は大混乱です。「巫女横暴!」「リリカ、弾け! 弾け!」「莫迦!」「畜生!」「ひっこめ!」「負けるな!」──こういう声のわき上がった中に椅子は倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけに誰が投げるのか、コーラの空き瓶やナイフやかじりかけの胡瓜さえ降ってくるのです。私は呆気にとられましたから、文に尋ねようとしました。が、文も興奮したとみえ、椅子の上に立ちながら、「スクープよ、やれ! やれ!」と喚き続けています。のみならず文の同僚の椛もいつの間に敵意を忘れたのか、「巫女横暴」を叫んでいることは少しも文に変わりません。私はやむを得ずにとりに向かい、「どうしたの?」と尋ねてみました。
「これかい? これは騒霊ライブではよくあることだよ。元来絵や文芸だのは──」
 にとりは何か飛んでくるたびにちょっと頸を縮めながら、相変わらず静かに説明しました。
「元来絵だの文芸だのは誰の目にも何を表しているかはとにかくちゃんと判るもんだから、幻想郷では決して公開禁止や創作禁止は行われないんだ。その代わりにあるのが演奏禁止だよ。何しろ幻想の音というものだけは、人間の耳を弄んで堕落させるものらしいからね」
「あの霊夢が風紀を守るために?」
「さあ、それは疑問だね。たぶん今の旋律を聴いているうちに嫌な事でも思い出したんだろうさ」
 こういう間にも大騒ぎはいよいよ盛んになるばかりです。リリカはピアノに向かったまま、傲然と我々を振り返っていました。が、いくら傲然としていても、色々のものの飛んでくるのは避けないわけにはいきません。従ってつまり二三秒置きにせっかくの態度も変わったわけです。しかしとにかく大体としては大音楽家の威厳を保ちながら、細い目を凄まじく輝かせていました。私は──私ももちろん危険を避けるために文を小楯にとっていたものです。が、やはり好奇心に駆られ、熱心ににとりと話し続けました。
「そんな八つ当たりは乱暴じゃない?」
「なに、霊夢の機嫌なんて最近じゃ良くなってきている方さ。たとえば守矢神社が出来た頃は教えたろ。現につい一月ばかり前にも、──」
 ちょうどこう言いかけた途端です。にとりはあいにく脳天に空き瓶が落ちたものですから、ひゅいっと一声叫んだきり、とうとう気を失ってしまいました。

  八

 私は守矢神社の巫女の早苗に不思議にも好意を持っていました。早苗は革命家中の革命家です。おそらく幻想郷の人間の中でも、早苗ほど常識からかけ離れた人間は一人もいなかったのに違いありません。しかし雨蛙に似た諏訪子や白蛇に似た神奈子を左右にしながら、安楽椅子に座っているところはほとんど幸福そのものです。私は時々巫女の霊夢や魔法使いの魔理沙に連れられて守矢神社の晩餐へ出かけました。また早苗の紹介状を持って早苗や早苗の友人たちが多少の関係を持っている色々の施設も見て歩きました。その色々の工場の中でもことに私に面白かったのは核融合発電所の工場です。私はにとりとこの工場の中へ入り、核融合反応を動力にした、大きい機械を眺めた時、今更のように幻想郷の技術力の進歩に驚嘆しました。なんでもそこでは一年間に水力発電の何百倍もの電気を製造するそうです。が、私を驚かしたのは電力の多さではありません。それだけのエネルギィを生み出すのに少しも手数のかからないことです。何しろ幻想郷では核融合反応を得るにはただ八咫烏の力を借りれば良いだけなのですから。それらの媒体は機械の中へ入ると、ほとんど五分と立たないうちに七色に輝いて力を生み出すのです。私は滝のように流れ落ちる媒体を眺めながら、反り身になった早苗にその媒質は何と言うものかと尋ねてみました。
「これですか? これは外来人の脳髄ですよ。ええ、何しろ燃料は必要ですから、霊烏路に燃やし続けてもらっているのです」
 もちろんこういう工業上の奇跡は核融合発電所にばかり起こっているわけではありません。河童の技術工場にも、天狗の印刷会社にも、同じように起こっているのです。実際また早苗の話によれば、幻想郷では平均一ヶ月に七八百の機械が新案され、なんでもずんずん人手を待たずに大量生産が行われるそうです。従ってまた原料となる外来人も四五万人を下らないそうです。そのくせまだ幻想郷では新聞を読んでいても、一度もその事実に出会いません。私はこれを妙に思いましたから、ある時また霊夢や医者の永琳と守矢神社に晩餐に招かれた機会にこのことをなぜかと尋ねてみました。
「それは幻想入りが増え続けているからですよ」
 食後の紅茶を口にした早苗はいかにも無造作にこう言いました。しかし「幻想入り」というのはなんのことだか判りません。すると永琳は私の不審を察したと見え、横合いから説明を加えてくれました。
「外の世界では自殺者が増えているから、それを原料にしているのよ。この外の新聞を御覧なさい。自殺者は三万人超と書いているけど、実際はこんなものじゃないわよ。それだけの人数が幻想郷に流れ着いてくるんだから」
「山の技術は、外来人が材料なの?」
「それは騒いでも仕方ないことよ。紫がそう定めてるんだから」
 これは並べられた食器を前に苦い顔をしていた霊夢の言葉です。私はもちろん不快を感じました。しかし早苗はもちろん、霊夢や永琳もそんなことは当然と思っているらしいのです。現に永琳は笑いながら、嘲るように私に話しかけました。
「つまり自殺者が増えるほど幻想郷は潤うということよ。なに、もう死んでいるから、さらに苦痛を与えるような話じゃないわ」
「けれどもその上に成り立つ文化というのは、──」
「冗談を言ってはいけません。あのにとりに聞かせたら、さぞ大笑いするでしょうね。外の世界では自殺者は蔑まれていないとでも言うの? 不用になった人間を利用することに憤慨するのは感傷主義よ」
 こういう問答を聞いていた早苗は手近いテーブルの上にあったサンドウィッチの皿を勧めながら、恬然と私にこう言いました。
「まあ、貴方も外来人ですからね。これも外来人の肉を使ってるんですよ」
 私はもちろん辟易しました。いや、そればかりではありません。霊夢や永琳の笑い声を後ろに守矢神社の客間を飛び出しました。それはちょうど家々の空に星明かりも見えない荒れ模様の夜です。私はその闇の中を私の住居へ帰りながら、のべつ幕なしに反吐を吐きました。夜目にも白々と流れる反吐を。

  九

 しかし守矢神社の巫女の早苗は人懐こい人間だったのに違いありません。私は度々早苗と一緒に早苗の属している倶楽部へ行き、愉快に一晩を暮らしました。これは一つにはその倶楽部は霖之助の属している超人倶楽部よりも遥かに居心地の良かったためです。のみならずまた早苗の話は霖之助の話のように深みを持っていなかったにせよ、私には全然新しい世界を、──広い世界を覗かせました。早苗は、いつも御幣を構えながら、快活に色々の話をしたものです。
 なんでもある霧の深い晩、私は冬薔薇を持った花瓶を中に早苗の話を聞いていました。それはたしか部屋全体はもちろん、椅子やテーブルも白い上に細い金の縁をとったセセッション風の部屋だったように覚えています。早苗は普段よりも得意そうに顔中に微笑をみなぎらせたまま、ちょうどそのころ政敵であった命蓮寺のことなどを話しました。里の近くに陣取り、縁日を開いたりして信仰を集めていますが、とにかく何よりも先に「妖怪の地位向上」ということを標榜していた寺院だったのです。
「命蓮寺を取り仕切っているものは名高い聖の白蓮です。『人間と妖怪は平等である』とは白蓮の言った言葉でしょう。でも白蓮は事実として妖怪を優遇しているのです。──」
「けれども白蓮の演説は──」
「まあ、私の言うことを聞いてください。あの演説はもちろん全部嘘です。が、嘘ということは誰でも知っていますから、畢竟正直と変わらないでしょう、それを一概に平等と言うのは妖怪だけの意見ですよ。我々人間は貴方がたのように、──失礼しました、貴方は人間でしたね。私が話したいのは白蓮のことです。白蓮は命蓮寺を支配している、そのまた白蓮を支配しているものは立地を定めた神奈子様です。が、神奈子様も彼女自身の主人というわけにはいきません。神奈子様から神託を受けているものは貴方の前にいる早苗です」
「けれども──これは失礼かもしれないけど、守矢神社は人間の味方をする神社でしょう。そこの神様である神奈子も貴方の影響下にあるというのは、──」
「守矢神社はもちろん人間の味方です。しかし山の社会や命蓮寺を支配するものは神奈子様の他はありますまい。しかも神奈子様はこの早苗の奇跡を受けずにはいられないのです」
 早苗は相変わらず微笑しながら、御幣をおもちゃにしています。私はこういう早苗を見ると、早苗自身を憎むよりも、妖怪の山の天狗や河童たちに同情の起こるのを感じました。すると早苗は私の無言にたちまちこの同情を感じたと見え、大きく頬を膨らませてこう言うのです。
「なに、天狗も河童も全部人間の味方ではありませんよ。少なくとも天狗というものは誰の味方をするよりも先に自身の味方をしますからね。──しかしさらに厄介なことには私自身さえやはり支配を受けているのです。貴方はそれを誰だと思いますか? それは私の遠い母ですよ。諏訪子様ですよ」
 早苗は大声に笑いました。
「それはむしろ幸せじゃないの」
「とにかく私は満足しています。しかしこれも貴方の前だけに、──妖怪でない貴方の前だけに手放しで吹聴できるのです」
「するとつまり命蓮寺は諏訪子が支配しているのね」
「さあそうも言うかもしれませんね。──しかしあの戦争などはたしかに諏訪子様のために始まったものに違いありません」
「戦争? 幻想郷にも戦争はあったの?」
「もちろんです。将来もいつあるかわかりません。私が言ったのは諏訪大戦のことですが、幻想郷という話でしたら月のある限りは、──」
 私は実際この時はじめて幻想郷も完全に孤立していないことを知りました。早苗の説明するところによれば、妖怪はいつも月人を仮設敵にしているということです。しかも月人は外来人にも負けない文明を備えているということです。私はこの月人を相手に妖怪の戦争した話に少なからず興味を感じました。(なにしろ妖怪の強敵に月人のいるなどということは「日本霊異記」の著者はもちろん、「妖怪談義」の著者柳田国男さんさえ知らずにいたらしい新事実ですから)
「あの戦争の起こる前にはもちろん双方とも油断せずにじっと相手を伺っていたそうです。というのはどちらも同じように相手を恐怖していたからです。生きるが故の恐怖と、死なないが故の恐怖と言うものでしょうか。そこへ幻想郷の妖怪が一人、ある月人の姉妹を訪問しました。その妖怪というのは月を支配するつもりでいたのです。何しろその妖怪は道楽者でしたからね。おまけに霊夢を連れて行ったことも多少の影響があったかもしれません」
「貴方はその姉妹を知っているの?」
「いえ、私が来る前のことですから。神奈子様などは姉妹を悪人のように言っていますがね。しかし私に言わせれば、悪人よりもむしろ死ぬことを恐れている被害妄想の多い狂人です。──そこでその妖怪は姉妹に決闘を挑んだのです。それをまたどう間違えたか、全敗してしまったのです。別の妖怪は土下座してしまいました。それから──」
「それから? まだ続きがあるの?」
「ええ、ある妖怪が酒を持っていたものですからね」
「戦争はどちらの勝ちになったのですか?」
「もちろん幻想郷の勝ちになったのです。遣いとして飛ばされていた式神はそのために健気にも戦死したそうですが。しかし月人に比べれば、そのくらいの被害は何ともありません。月人は霊夢の策によって穢れをもたらされてしまったのです」
「穢れをもたらされるとどうなるの?」
「もちろん寿命が生まれます。月人は穢れが無い故に、半永久的に生きていられるのですからね」
 ちょうどそこへ入ってきたのはこの倶楽部の会員の咲夜です。咲夜は早苗にお辞儀をした後、朗読でもするようにこう言いました。
「貴方の神社、火事みたいよ」
「火──火事!」
 早苗は驚いて立ち上がりました。私も立ち上がったのはもちろんです。が、咲夜は落ち着き払って次の言葉をつけ加えました。
「でももう消し止めておきました」
 早苗は咲夜を見送りながら、泣き笑いに近い表情をしました。私はこういう顔を見ると、いつかこの神社の巫女を憎んでいたことに気付きました。が、早苗はもう今では現人神でも何でもないただの人間になって立っているのです。私は花瓶の中の冬薔薇の花を抜き、早苗の手へ渡しました。
「しかし火事は消えたと言っても、神様はさぞ驚いているでしょう。さあ、これを持って帰ってあげて」
「ありがとう」
 早苗は私の手を握りました。それから急ににやりと笑い、小声で私に話しかけました。
「河童に頼んで一夜で建て直してやりましょう。奇跡を起こせば、金が集まるのですよ」
 私はこの時の早苗の微笑を──軽蔑することもできなければ、憎悪することもできない早苗の微笑をいまだにありありと覚えています。

  十

「どうしたの? 今日はまた妙に塞いでいるじゃない」
 その火事のあった翌日です。私はいつもの帽子も被らずに、私の客間の椅子に腰をおろした魔法使いの魔理沙にこう言いました。実際また魔理沙は右の脚の上へ左の脚をのせたまま、ぼんやり床の上ばかり見ていたのです。
「魔理沙、どうしたの」と言えば、
「いや、なに、つまらんことだぜ。──」
 魔理沙はやっと頭をあげ、悲しい鼻声を出しました。
「私は今日窓の外を見ながら、『おや虫取り菫が咲いた』と何気なしに呟いたんだ。すると家にいたアリスは急に顔色を変えたと思うと、『どうせ私は虫取り菫よ』と当たり散らすじゃないか。おまけに同席していた妖精どもは大の悪戯好きだから、やっぱり私に食ってかかりやがる」
「虫取り菫が咲いたということがどうしてアリスには不快なの?」
「さあ、たぶん私を捕まえるという意味にでも取ったんだろう。そこへ本を返しに来たパチュリーも喧嘩の仲間入りをしたもんだから、いよいよ大騒動になってな。しかも年中酔っ払っている萃香はこの喧嘩を聞きつけると、たれかれの差別無しに人を萃め出したんだ。それだけでも始末のつかないところへ紫はその間にパチュリーの本を盗むが早いか、スキマか何かに消えてしまった。私は──本当に私はもう、──」
 魔理沙は机に突っ伏し、疲労たっぷりに項垂れてしまいました。私の同情したのはもちろんです。同時にまた馴れ合いに対する商人の霖之助の軽蔑を思い出したのももちろんです。私は魔理沙の肩を叩き、一生懸命に慰めました。
「そんなことは何処でもあるわよ。まあ勇気を出して」
「でも──でも私は何処に行っても、──」
「それは諦める他は無いわ。さあ、香霖堂へでも行きましょう」
「香霖は私のことを良く思っていないんだ。私は香霖のようには生きられないから」
「じゃリリカのところへ行こう」
 私はあの音楽会以来、リリカとも友達になっていましたから、とにかくこのプリズムリバー邸へ魔理沙を連れ出すことにしました。リリカは霖之助に比べれば、遥かに贅沢に暮らしています。というのは資本家の早苗のように暮らしているという意味ではありません。ただ色々の楽器を、──イエスのグァルネリやベーゼンドルファーを部屋いっぱいに詰めた中にトルコ風の長椅子を据え、三姉妹とともに微笑む少女の肖像画の下にいつも妖精たちと遊んでいるのです。が、今日はどうしたのか両腕を胸へ組んだまま、苦い顔をして座っていました。のみならずそのまた足もとには紙屑が一面に散らばっていました。超人倶楽部の会員である魔理沙も霖之助と一緒に度々リリカには会っているはずです。しかしこの様子に驚いたとみえ、今日は静かに部屋に入ると、黙って隅の方に腰を下ろしました。
「どうしたの?」
 私はほとんど挨拶の代わりにこうリリカへ問いました。
「どうしたって? 稗田の阿呆め! 私の歌詞は霖之助の文章と比べ物にならないと言いやがるんだ」
「でも貴方は音楽家だし、──」
「それだけなら我慢もできるわよ。私はルナサ姉さんに比べれば、音楽家の名に値しないと言いやがるじゃないか!」
 プリズムリバーは三姉妹でリリカは末っ子です。長女ルナサはヴァイオリニスト、次女メルランはトランペッターですが、あいにく超人倶楽部の会員になっていない関係上、私は一度も話したことはありません。もっとも陰鬱な表情をした、一癖あるらしい顔だけはたびたび新聞でも見かけていました。
「ルナサも天才に違いないけど、でもルナサの音楽には貴方の音楽に溢れている幻想的情熱が無いと思うわ」
「本当にそう思ってるの?」
「もちろん」
 するとリリカは立ち上がるが早いか、ヤマハのキーボードをひっつかみ、いきなり不協和音を響かせました。魔理沙はよほど驚いたとみえ、何か声を上げて逃げようとしました。が、リリカは魔理沙や私にはちょっと「驚くな」という手真似をした上、今度は冷やかにこう言うのです。
「それは誰も幻想の音を知らないからよ。私は音楽を恐れている。──」
「貴方が? 謙遜家を気取ったって意味ないわよ」
「誰が謙遜家を気取るもんですか。 第一貴方たちに気取って見せるぐらいなら、稗田の前で気取って見せる。私は──リリカは天才よ。その点では姉さんにも劣らない」
「じゃあ何を恐れているの?」
「何か正体の知れないものを、──言わば音楽を支配している星を」
「どうも判りにくいわね」
「じゃあこう言えば判るでしょう。ルナサ姉さんは私の影響を受けない。でも、私はいつの間にかルナサ姉さんの影響を受けてしまうの」
「それは貴方の感受性の──」
「まあ、聞いて頂戴。感受性などの問題ではないの。ルナサ姉さんは八方美人でどんな仕事でも引き受ける。でも私はいらいらするの。それは姉さんの目から見れば、あるいは一歩の差かもしれない。けれども私には十由旬も違うのよ」
「しかし貴方の幻想曲は──」
 リリカは細い目を一層細め、忌々しそうに私と魔理沙を睨みつけました。
「黙れ! あんたらに何が判る? 私は姉さんの音楽を知っているんだ。ルナサという音楽家に平身低頭する幽霊どもよりもルナサを知っているんだ」
「まあまあ、ちょっと落ち着けよ」
「もし静かにしていられるなら、──私はいつもこう思っている。──私たちの知らない何者かは私を、──リリカを嘲るためにルナサを私の前に立たせたのだ。霖之助はこういうことを何もかも承知している。いつもあの色硝子のランタンの下に古ぼけた本ばかり読んでいるくせに」
「どうして?」
「この近ごろ霖之助の書いた『幻想の言葉』という本を見ればいいさ。──」
 リリカは私に一冊の本を渡す──というよりも投げつけました。それからまた腕を組んだまま、つっけんどんにこう言い放ちました。
「今日は帰ってくれないかい」
 私は魔理沙と一緒にもう一度里まで戻ることにしました。人通りの多い里は相変わらずブナの並み木の陰に色々の店を並べています。私たちは何と言うことも無しに黙って歩いていきました。するとそこへ通りかかったのは霖之助です。霖之助は私たちの顔を見ると、手を上げて近づいてきました。
「やあ、しばらく会わなかったね。僕は今日は久しぶりにプリズムリバー邸を尋ねようと思うんだけど、──」
 私はこの二人を喧嘩させては悪いと思い、リリカのいかにも不機嫌だったことを婉曲に霖之助に話しました。
「そうか。じゃあやめにしよう。何しろリリカは神経衰弱だからね。──僕もこの二三週間は眠られないのに弱っているんだ」
「じゃあ、私たちと一緒に散歩する?」
「いや、今日はやめにしよう。あっ!」
 霖之助はこう叫ぶが早いか、しっかり私の腕を掴みました。しかもいつか体中に冷汗を流しているのです。
「どうしたんだ?」
「どうしたの?」
「なにあの小屋の窓の中から緑色の目をした怪物が一匹首を出したように見えたのさ」
 私は多少心配になり、とにかくあの医者の永琳に診察してもらうように勧めました。しかし霖之助は何と言っても、承知する気色さえ見えません。のみならず何か疑わしそうに私たちの顔を見比べながら、こんなことさえ言い出すのです。
「僕は決して異常者ではないよ。それだけは忘れずにいてくれたまえ。──ではさようなら。永琳などはまっぴらごめんだ」
 私たちはぼんやり佇んだまま、霖之助の後ろ姿を見送っていました。私たちは──いや、「私たち」ではありません。魔理沙はいつの間にか往来の真ん中に脚を広げ、人通りを股眼鏡に覗いているのです。私はこの人も発狂したかと思い、驚いて魔理沙を引き起こしました。
「何をしているのよ」
 しかし魔理沙は目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。
「やっぱり長いものには巻かれないとな。それに、あまり憂鬱だから、逆さまに世の中を眺めて見たんだ。でも、同じだったぜ」

  十一

 これは古物商の霖之助の書いた「幻想の言葉」の中の何章かです。──
        ×
 幻想はいつも彼以外のものを幻想であると信じている。
        ×
 我々の幻想を愛するのは幻想は我々を憎んだり嫉妬したりしないためもないことはない。
        ×
 もっとも賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。
        ×
 我々のもっとも誇りたいものは我々の持っていないものだけである。
        ×
 何びとも幻想を破壊することに異存を持っているものは無い。同時にまた何びとも幻想になることに異存を持っているものも無い。しかし幻想の上に安んじて座っていられるものはもっとも世界に恵まれたもの、──善人か、聖人か、大悪党かである。(リリカはこの章の上へ爪の痕をつけていました)
        ×
 我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかもしれない。我々はただ古い薪に新しい炎を加えるだけであろう。
        ×
 我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としている。
        ×
 幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠を伴うとすれば、──?
        ×
 自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。疑うものは人間を見よ。
        ×
 矜持、愛欲、疑惑──あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。同時にまたおそらくはあらゆる徳も。
        ×
 物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには精神的欲望も減じなければならぬ。(リリカはこの章の上にも爪の痕を残していました)
        ×
 我々は外の世界の人間よりも不幸である。幻想郷は外の世界ほど進歩していない。(私はこの章を読んだ時思わず笑ってしまいました)
        ×
 成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。畢竟我々の生活はこういう循環論法を脱することはできない。──すなわち不合理に終始している。
        ×
 浦島子は白痴になった後、彼の人生観をたった一語に、──穢れの一語に表白した。しかし彼自身の語るものは必ずしもこう言ったことではない。むしろ彼の人生に、──彼の幸福を維持するに足る伝説的価値に信頼したために生命の一語を忘れたことである。(この章にもやはりリリカの爪の痕は残っていました)
        ×
 もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にした外の世界の文明に幸福が訪れたのはすなわち幻想郷よりも進歩していることを示すものである。

  十二

 ある割合に寒い午後です。私は「幻想の言葉」を読み飽きましたから、貸本屋の鈴奈庵を尋ねに出かけました。するとある寂しい町の角に蚊のように痩せた男が一人、ぼんやり壁によりかかっていました。しかもそれは紛れもない、いつか私の万年筆を盗んでいった男なのです。私はしめたと思いましたから、ちょうどそこへ通りかかった、堅苦しい教師を呼び止めました。
「ちょっとあの男を取り調べてください。あいつはちょうど一月ばかり前に私の万年筆を盗んだんだから」
 教師の慧音は右手を上げ、「おい、君」とその男へ声をかけました。私はあるいはその男は逃げ出しはしないかと思っていました。が、存外落ち着き払って慧音の前へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだまま、いかにも傲然と私の顔や慧音の顔をじろじろ見ているのです。しかし慧音は怒りもせず、鞄から手帳を出して早速質問を始めました。
「名前は?」
「夢次」
「生業は?」
「つい二三日前まで大工をしていました」
「そうか。そこで申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んでいったということだが」
「ええ、一月ばかり前に盗みました」
「何のために?」
「子供の玩具にしようと思ったのです」
「その子供は?」
 慧音ははじめて相手の男へ鋭い目を注ぎました。
「一週間前に死んでしまいました」
「届け出は済んだのか?」
 痩せた男はポケットから一枚の紙を取り出しました。慧音はその紙へ目を通すと、溜め息をついて相手の肩を叩きました。
「よろしい。どうも御苦労だったね」
 私は呆気に取られたまま、慧音の顔を眺めていました。しかもそのうちに痩せた男は何かぶつぶつ呟きながら、私たちを後ろにして行ってしまうのです。私はやっと気を取り直し、こう慧音に尋ねてみました。
「どうしてあの男を捕まえないの?」
「あの男は無罪ですよ」
「でも私の万年筆を盗んだのは──」
「子供の玩具にするためだったのでしょう。けれどもその子供は死んでいるのです。もし何か御不審だったら、是非曲直庁にでも尋ねてみなさい」
 慧音はこう言い捨てたなり、さっさと何処かへ行ってしまいました。私は仕方がありませんから、「是非曲直庁」を口の中に繰り返し、鈴奈庵へ急いで行きました。店主の小鈴は客好きです。現に今日も薄暗い部屋には巫女の霊夢や魔法使いの魔理沙や守矢神社の早苗などが集まり、部屋いっぱいに並べられた本棚の下に話し合っていました。そこに巫女の霊夢が来ていたのは何よりも私には好都合です。私は椅子にかけるが早いか、是非曲直庁を調べる代わりに早速霊夢へ問いかけました。
「ねえ、失礼かもしれないけど、幻想郷では人間を退治しないの?」
 霊夢は金色の湯呑みに入ったお茶をまず悠々と啜ってから、いかにもつまらなそうに返事をしました。
「するわけないでしょ。退治されるのは妖怪の役目なんだから」
「でも私は一月ばかり前に、──」
 私は委細を話した後、例の是非曲直庁のことを尋ねてみました。
「ああ、それはこういうことよ。──『いかなる犯罪を行ったといえども、その犯罪を行った事情が消失した後は犯罪者を処罰することはしない』人間だの妖怪だのの前に、幻想郷のルールというものよ。つまりあんたの場合で言えば、その男はかつては親だったけど、今はもう親じゃないから、犯罪も自然と消滅したってことね」
「それは何か不合理ね」
「冗談言わないでよ。親だった男も親である男も同一に見ることこそ不合理よ。ともすれば動物も妖怪に成り得るんだから、線引きは大事でしょう。そうそう、外の世界では同一に見ることになっているのね。それはどうも私たちには滑稽よね」
 霊夢は湯呑みを置いて、気のない表情を作りました。そこへ口を出したのは外の世界に疎い魔理沙です。魔理沙はちょっと考えてから、こう私に質問しました。
「外の世界の人間は人間を退治するのか?」
「もちろんよ。悪事を働いた者は絞罪です」
 私は冷然と澄ました霊夢に多少反感を感じていましたから、この機会に皮肉を浴びせてやりました。
「幻想郷の是非判断は外の世界よりも文明的に出来ているの?」
「もちろんよ」
 霊夢はやはり落ち着いていました。
「幻想郷に絞罪なんて無いわ。針の山を使うことはあるけど、でも大抵は針の山も使わない。ただその罪を言って聞かせるだけよ」
「それだけで人間は罰せられるの?」
「罰せられるわよ。人間のみならず妖怪とくれば精神攻撃には弱いからね」
「それは退治だけではありません。説教にもその手を使うのがあります──」
 早苗はランタンの光に顔中紅く染まりながら、人懐こい笑顔をして見せました。
「私はこの間も閻魔に出くわして『貴方は少し功利的過ぎる』と言われたので心臓麻痺を起こしかけました」
「そういうのは多いらしいぜ。私の知っていた悪霊はやっぱりそのために隠れてしまったからな」
 私はこう口を入れた少女、──魔理沙を振り返りました。
「そいつは皆から行方不明だと言われて、──もちろんお前も知っているだろう、幻想郷で噂が立ったらその通りになってしまうことぐらいは。──私は出ていいのかな? 出てはいけないのかな? と毎日考えているうちにとうとう伝説上の存在になってしまったんだ」
「それはつまり自殺ね」
「もっともその悪霊を行方不明だと言ったやつは消すつもりで言ったのだろうがな。お前の目からみれば、やはりそれも自殺という──」
 ちょうど魔理沙がそう言った時です。突然その部屋の窓の向こうに、──たしかに香霖堂の方角から鋭いピストルの音が一発、空気をはね返すように響き渡りました。

  十三

 私たちは香霖堂へ駆けつけました。霖之助は右の手にピストルを握り、頭から血を出したまま、非売品の壷の前で仰向けになって倒れていました。そのまたそばには朱い翼を生やした妖怪が一人、霖之助の胸に顔を埋め、大声を上げて泣いていました。私は妖怪を抱き起こしながら、「どうしたの?」と尋ねました。
「どうしたのだか、判らないの。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を撃ったのです。ああ、私はどうしたらいいの」
「何しろ発売日が延期続きだったから」
 守矢神社の早苗は悲しそうに頭を振りながら、霊夢にこう言いました。しかし霊夢は何も言わずに淹れなおした茶を啜っていました。すると今までひざまずいて、霖之助の傷口などを調べていた永琳はいかにも医者らしい態度をしたまま、私たちに宣言しました。
「この人は人間と妖怪のハーフです。この程度で死ぬはずがないわ。でも混血ゆえに精神的に不安定で、憂鬱になりやすかったのでしょうね」
「何か書いていたということらしいが」
 魔理沙は独り言をもらしながら、机の上の紙を取り上げました。私たちは皆頸を伸ばし、魔理沙の肩越しに一枚の紙を覗き込みました。
 「いざ、立ちてゆかん。娑婆界を隔つる谷へ。
  岩むらはこごしく、やま水は清く、
  薬草の花はにおえる谷へ」
 魔理沙は私たちを振り返りながら、微苦笑と一緒にこう言いました。
「こりゃ決意表明だな。すると香霖の奴、自殺したら外の世界に行けるとでも思っていたのか」
 そこへ偶然現れたのはあのプリズムリバーのリリカです。リリカはこういう光景を見ると、しばらく戸口に佇んでいました。が、私たちの前へ歩み寄ると、怒鳴りつけるように魔理沙に話しかけました。
「それは霖之助の遺書なの?」
「いや、お遊びだ。ポエムだ」
「ポエム?」
 やはり少しも騒がない魔理沙は色めき立つリリカに霖之助の詩稿を渡しました。リリカは辺りには目もやらずに熱心に詩稿を読み出しました。しかも魔理沙の言葉にはほとんど返事さえしないのです。
「お前はこれを見てどう思う?」
「いざ、立ちて、──私もまた外の世界には興味があるわ。──娑婆界を隔つる谷へ。──」
「でもお前も元々は外の世界にいたんだろう?」
「外の世界に? それは妹のことよ。──娑婆界を隔つる谷へ、──ただレイラは不幸にも、──岩むらはこごしく──」
「不幸にも?」
「やま水は清く、──私たちは幸福です。──岩むらはこごしく。──」
 私はいまだに泣き声を絶たない小さな妖怪に同情しましたから、そっと肩を抱えるようにし、部屋の隅の長椅子へ連れていきました。どうやら香霖堂にしばしば遊びに来る妖怪らしく、ここに来ては本を読んでいたようです。
「しかしこういう瞬間に出くわしてしまった彼女は気の毒ね」
「何しろ霖之助さんは、後のことは考えないからね」
 霊夢は相変わらず、熱いお茶を啜りながら、早苗に返事をしていました。すると私たちを驚かせたのはリリカの大声です。リリカは詩稿を握ったまま、誰にともなしに呼びかけました。
「しめた! 素晴らしい葬送曲が出来るぞ」
 リリカは細い目を輝かせたまま、ちょっと魔理沙の手を握ると、いきなり戸口へ飛んでいきました。もちろんもうこの時には里から人間が大勢、香霖堂の戸口に集まり、珍しそうに中を覗いているのです。しかしリリカはこの人間たちを遮二無二左右へ押しのけるが早いか、ひらりと空へ飛び立ちました。同時にまたリリカは爆音を立ててたちまち何処かへ行ってしまいました。
「こら、こら、覗いちゃだめよ」
 霊夢は皆の代わりに大勢の人間を押し出した後、香霖堂の戸を閉めてしまいました。店の中はそのせいか急にひっそりなったものです。私たちはこういう静かさの中に──古臭い本の香に混じった霖之助の血の匂いの中に後始末のことなどを相談しました。しかしあの早苗だけは倒れた霖之助を眺めたまま、ぼんやり何か考えています。私は早苗の肩を叩き、「何を考えているの?」と尋ねました。
「幻想郷の生活というものをですね」
「幻想郷の生活がどうしたの?」
「幻想郷の人妖は何と言っても、幻想郷の生活をまっとうするためには、──」
 早苗は多少楽しそうにこう小声でつけ加えました。
「とにかく人妖以外の何ものかの力を信ずることですね」

  十四

 私に宗教というものを思い出させたのはこういう早苗の言葉です。私は外来人でもちろん物質主義者ですから、真面目に宗教を考えたことは一度もなかったのに違いありません。が、この時は霖之助の自殺未遂にある感動を受けていたために一体幻想郷の宗教は何であるかと考え出したのです。私はさっそく早苗にこの問題を尋ねてみました。
「それは神道、仏教、道教なども行われています。まず一番勢力のあるものは何といっても神道でしょう。神道を宗教に入れるかどうかは難しい問題ですけどね」
「じゃあ幻想郷にも神仏を信じる人は沢山いるわけなのね?」
「冗談を言ってはいけません。信じるも何も実際に居るのですから。どうです、ちょっとお会いになられては?」
 ある生暖かい曇天の午後、早苗は得々と私と一緒に守矢神社の本殿を案内しました。なるほどそれは諏訪大社の十倍もある大建築です。のみならずあらゆる建築様式を一つに組み上げた大建築です。私はこの本殿の前に立ち、大きな注連縄や茅葺を眺めた時、何か不気味にさえ感じました。実際それらは天に向かって伸びた無数の触手のように見えたものです。私は入口に佇んだまま、(そのまた入口に比べてみても、どのくらい私は小さかったのでしょう!)しばらくこの建築よりもむしろ途方もない怪物に近い稀代の大本宮を見上げていました。
 本殿の内部もまた広大です。その朱色の円柱の立った中には、やはり私の小ささを感じるよりありません。そのうちに私は大きな注連縄を背負った女性に目通りが叶いました。すると早苗はその女性に深く頭を下げた上、丁寧にこう話しかけました。
「神奈子様、失礼致します」
 神奈子は頷いた後、思ったよりもフランクに返事をしました。
「もうお清めは終わったのかしら? 早苗も相変わらず、──(と言いかけながら、ちょっと言葉をつがなかったのは私がいたからでしょう)──ああ、その話は今晩にでも。が、そちらは──」
「この方はたぶん御承知の通り、──」
 それから早苗は滔々と私のことを話しました。
「ついてはどうかこの方に色々と神道について教えてあげたいと思うのですが」
 神奈子は大様に微笑しながら、まず私に挨拶をし、静かに天を指差しました。
「教えると言っても、役に立つかどうかは判らないわよ。大方の神道の信ずる者が崇拝するのは『天照大神』だけど、この神社は出雲系の系譜を引いているからね。それでは。まず葦原中国平定にあたって天照大神は建御雷神を遣わし、天鳥船を与えて降臨しました。大国主様と国譲りの交渉が行われた場所を『稲佐の浜』と言います。──」
 私はこういう説明のうちにもう退屈を感じ出しました。それはせっかくの神様の言葉も古い比喩のように聞こえたからです。私はもちろん熱心に聞いている様子を装っていました。が、時々は本殿の内部へそっと目をやるのを忘れずにいました。
 朱色の柱、荘厳な御扉、磨き抜かれた床、和洋折衷の内装、──こういうものの作っている調和は妙に野蛮な美を備えていました。しかし私の目をひいたのは何よりも両側の龕の中にある大きな神像です。私は何かそれらの像を見知っているように思いました。それもまた不思議ではありません。神奈子は国譲りの説明を終わると、今度は私や早苗と一緒に右側の龕の前へ歩み寄り、その龕の中の神像にこういう説明を加え出しました。
「これは我々の尊崇する御仁、──あらゆるものに反逆した建速須佐之男命です。この神様はさんざん泣き喚いた挙句、高天原を追放された悪神だとされています。が、実は悪神では無いのです。この神様はただ我々のように安泰な生活を望んでいたのです。──というよりも望む他は無かったのでしょう。正史として認められていない『古事記』という本を御覧なさい。この神様も亡くした母に会いたいと告白する人間のような一面を持っています」
 私はちょっと憂鬱になり、次の龕へ目をやりました。次の龕にある神像は口髭の太い武人です。
「これは景行天皇の皇子、倭建命です。倭建命は自らの悲劇的な境遇を倭姫命に明かし、救いを求めました。が、救われずに征伐の途中に亡くなられてしまったのです。しかしもし志半ばに亡くなられていなければ、あるいはこれほどに語り継がれることも無かったかもしれません。──」
 神奈子はちょっと黙った後、第三の龕の前へ案内しました。
「三番目にあるのは大国主様です。この神様は誰よりも苦行をしました。それは元来温厚であったために荒々しい性格の多い八十神に嫌われたからです。この神様は事実上何度も殺され、何度も復活しました。そうして、国土を固められて国を確かなものにされたのです。しかしとうとう晩年には天照大神に国土を明け渡すこととなりました。この神様の願いによって出雲大社が建てられたのは有名です。けれども出雲の話は正史である『日本書紀』に入っていないのですから、もちろん幻想かどうか疑われてきたわけです」
 第四の龕の中の像は我々人間の一人です。私はこの人間の顔を見た時、さすがに懐かしさを感じました。
「これは本居宣長です。失われた日本人の感性をはっきり知っていた国学者です。しかしそれ以上の説明は貴方には不必要に違いありません。では五番目の龕の中を御覧ください。──」
「これは平田篤胤?」
「そうです。宣長の没後の弟子だった神道家です。篤胤と宣長は晩年に墓前でようやく対面しました。彼らはもちろん儒教よりも神道を担う一人だったのです。篤胤の残した思想は、何度志士たちを討幕運動に駆りやったか判りません」
 私たちはもうその時には第六の龕の前に立っていました。
「これはラフカディオ・ハーンです。日本の文化に魅せられて永住し、小泉八雲と名前を変えた希臘の小説家です。左眼を御覧なさい。彼は十六歳のときに事故で隻眼になって以来、左眼を隠して写真を撮るようになったということです。第七の龕の中にあるのは──もう貴方はお疲れのようね。こちらへおいでなさい」
 私は実際疲れていましたから、早苗と一緒に神奈子に従い、日差しの明るい廊下伝いにある部屋へ入りました。そのまた小さい部屋の隅には白い蛇の像の下に卵が数個献じてあるのです。私はなんの装飾もない神居を想像していただけにちょっと意外に感じました。すると神奈子は私の様子にこういう気持ちを感じたと見え、私に椅子を薦める前に半ば気の毒そうに説明しました。
「どうか神道を他の宗教のように捉えないでほしいの。我々の神、──神は死ぬし、神道は『生きよ』と言うのですから。──早苗、貴方はこの人に他の宗教の教典というものを教えたのかしら?」
「いえ、──実は私自身、異教の教典はほとんど読んだことがないのです」
 早苗は頭を掻きながら、正直にこう返事しました。が、神奈子は相変わらず静かに微笑して話し続けました。
「それで良いのよ。我々の神道に教典はありません。神の存在などは証明するまでもなく、立ち所に顕れてくるものなのです。また神道は死後の世界を否定もせず肯定もしません。ただ人間があるがままに生きる中で生まれてきた信仰を伝えているだけ。──」
 私は神奈子の言葉のうちに商人の霖之助を思い出しました。霖之助は不幸にも私のように無神論者だったのでしょう。何しろ死後の世界が外の世界だと考えていたようなのですから。私は幸せな信仰を持てない霖之助を憐れみましたから、神奈子の言葉を遮るように霖之助のことを話し出しました。
「ああ、あの気の毒な商人ね」
 神奈子は私の話を聞き、深い息をもらしました。
「人間の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然だけです。(もっとも貴方がたはその他に遺伝を数えるでしょう)霖之助は不幸にも信仰を持っていないのね」
「霖之助さんは貴方を信じていないのでしょう。いや、私も信じていませんでした。早苗の言葉だけでは、──」
「私も心さえちゃんとしていればあるいは正直に伝わったのかもしれません」
 神奈子は私たちにこう言われると、もう一度深い息をもらしました。しかもその目は涙ぐんだまま、じっと白い蛇を見つめているのです。
「私も実は、──これは私の秘密だから、どうか誰にも言わないで欲しい。──私も実は神徳を顕し続けるのは困難なのです。しかしいつか我々の記憶は、──」
 ちょうど神奈子のこう言った時です。突然部屋の戸が開いたと思うと、痩せた男が一人、いきなり神奈子へ飛びかかりました。私たちがこの男を抱きとめようとしたのはもちろんです。が、男は咄嗟の間に床の上へ神奈子を投げ倒しました。
「この屑め! お前は結局何も救ってくれなかったじゃないか!」
 十分ばかりたった後、私は実際逃げ出さないばかりに早苗と神奈子を後に残し、守矢神社の鳥居を潜っていました。
「あのような者ばかりだから神様は忘れ去られていくのね」
 しばらく黙って歩いた後、私は独りごちましたが、思わず守矢神社を振り返りました。本殿はどんより曇った空にやはり大きな注連縄や茅葺を無数の触手のように伸ばしています。何か砂漠の空に見える蜃気楼の不気味さを漂わせたまま。──

  十五

 それからかれこれ一週間の後、私はふと白玉楼の幽々子に珍しい話を聞きました。というのは冥界に霖之助の生霊の出るという話なのです。その頃にはもう霖之助はすっかり快復しており、香霖堂も営業を再開していました。なんでも幽々子の話によれば、白玉楼で食事をしていると、霖之助の姿もいつの間にか必ず朦朧と妖夢の後ろに映っているということです。もっとも幽々子は亡霊ですから、生霊の存在などを信じていません。現にその話をした時にも悪意のある微笑を浮かべながら、「やはり霊魂というものも非売品にしないとね」などと謎めいたことを付け加えていました。私も生霊を信じないことは幽々子とあまり変わりません。けれども霖之助には親しみを感じていましたから、さっそく香霖堂へ駆けつけ、霖之助に最近の様子や冥界の話などを振ってみました。なるほどそれらの話を聞いてみると、どうやら霖之助は未だに外の世界に憧れを持っていて、それは完全な死によって実現できると考えているようなのです。幻想郷では死ぬと冥界に行くため、死への強い憧れが霖之助の霊魂を冥界にまで飛ばしたのでしょう。しかし私を驚かせたのは霖之助の執念よりも文が書いた記事、──ことに霖之助の生霊に関する心霊学協会の報告です。私はかなり逐語的にその報告をまとめておきましたから、下に大略を掲げることにしましょう。ただし括弧の中にあるのは私自身の加えた注釈なのです。──
 森近霖之助の生霊に関する報告。(文々。新聞号外所収心霊学協会編)
 我ら心霊学協会は先般自殺未遂したる霖之助が冥界は白玉楼に現れたる事、臨時調査会を開催せり。列席せる会員は下の如し。(氏名を略す)
 我ら十七名の会員は心霊協会会長アリス氏とともに九月十七日午前十時三十分、我らの最も信頼するメディアム、レティ氏を同伴し、白玉楼の一室に参集せり。レティ氏は白玉楼に入るや、既に心霊的空気を感じ、全身に寒気を抱きつつ、歓喜すること数回に及べり。レティ氏の語るところによれば、こは霖之助の強烈なる水煙草を愛したる結果、その心霊的空気もまたニコチンを含有するためなりという。
 我ら会員はレティ氏とともに円卓をめぐりて黙坐したり。レティ氏は三分二十五秒の後、きわめて急劇なる夢遊状態に陥り、かつ霖之助の霊魂の憑依するところとなれり。我ら会員はくじ順に従い、レティ氏に憑依せる霖之助の霊魂と左の如き問答を開始したり。
 問 君は何ゆえに生霊に出ずるか?
 答 外の世界を知らんがためなり。
 問 君──あるいは幽霊諸君は外の世界を欲するや?
 答 少なくとも予は欲せざるをあたわず。しかれども予の邂逅したる日本の一幽霊のごときは外の世界を軽蔑しいたり。
 問 君はその幽霊の姓名を知れりや?
 答 予は不幸にも忘れたり。ただ彼の好んで作れる十七字符の一章を記憶するのみ。
 問 その詩は如何?
 答「物言えば唇寒し秋の風」
 問 君はその詩を佳作なりとなすや?
 答 予は必ずしも悪作なりとなさず。ただ「唇」を「懐」とせんか、さらに光彩陸離たるべし。
 問 しからばその理由は如何?
 答 人間はいかなる生活にも金銭を求むること痛切なればなり。
 会長アリス氏はこの時にあたり、我ら十七名の会員にこは心霊学協会の臨時調査会にして合評会にあらざるを注意したり。
 問 幽霊諸君の生活は如何?
 答 諸君の生活と異なることなし。
 問 しからば君は君自身の自殺せしをなおも望むや?
 答 必ずしも望まず。予は幻想郷に倦まば、さらにピストルを取りて自活すべし。
 問 自活するは容易なりや否や?
 霖之助の霊魂はこの問に答うるにさらに問をもってしたり。こは霖之助を知れる者にはすこぶる自然なる応酬なるべし。
 答 自殺するは容易なりや否や?
 問 諸君の生命は永遠なりや?
 答 我らの生命に関しては諸説紛々として信ずべからず。幸いに我らの間にも基督教、仏教、道教、拝火教等の諸宗あることを忘るるなかれ。
 問 君自身の信ずるところは?
 答 予は常に懐疑主義者なり。
 問 しかれども君は死後の外の世界を疑わざるべし?
 答 諸君のごとく確信せざるをあたわず。
 問 君の幻想郷での交友の多少は如何?
 答 予の交友は古今東西にわたり、三百人を下らざるべし。その著名なるものをあぐれば、魅魔、神綺、カナ──
 問 君の交友は霊魂のみなりや?
 答 必ずしも然りとせず。幽霊を否定せる神子の如きは予が畏友の一人なり。ただ予は死にざりし厭世主義者、──月人の輩とは交際せず。
 問 月夜見は健在なりや?
 答 彼は月下厭世主義を樹立し、自活する可否を論じつつあり。しかれども大禍津日ありしを知り、少しも安堵せざるものの如し。
 我ら会員は相次いでエレン、明羅、くるみ、オレンジ、小兎姫、理香子など行方不明になった幻想郷の人妖の消息を質問したり。しかれども霖之助は不幸にも詳細に答うることをなさず、かえって霖之助自身に関する種々のゴシップを質問したり。
 問 予の名声は如何?
 答 ある批評家は「群小商人の一人」と言えり。
 問 彼女は予が歴史書を贈らざりしに怨恨を含める一人なるべし。予の歴史書はいつ出版せられしや?
 答 君の歴史書は来春に出版予定となり。
 問 予の歴史書は三百年の後、──すなわち著作権の失われたる後、万人に崇められるところとなるべし。予の店に通い詰めていた本読み妖怪は如何?
 答 彼女は今日も霊夢に虐められり。
 問 彼女はいまだ不幸にも十五巻を読破せざる身。魔理沙は如何?
 答 普段通り香霖堂にありと聞けり。
 霖之助はしばらく沈黙せる後、新たに質問を開始したり。
 問 予が店は如何?
 答 再び営業を始めたり。
 問 予の代わりがいるや?
 答 霖之助は命を繋ぎて顕界に残れり。君は自活の瞬間より出でた霊魂なり。
 問 しからば予は予の器を知らぬまま薄暮に沈まんとす。予は諸君と訣別すべし。さらば。諸君。さらば。我が善良なる諸君。
 レティ氏は最後の言葉とともに再び急劇に覚醒したり。我ら十七名の会員はこの問答の真なりしことを天地神明に誓って保障せんとす。(なおまた我らの信頼するレティ氏に対する報酬はかつてレティ氏が振るった最大の寒波の気温に従いて氷室を与えたり)

  十六

 私はこういう記事を読んだ後、だんだん幻想郷にいることも憂鬱になってきましたから、どうか外の世界へ帰ることにしたいと思いました。しかしいくら探しても、私の落ちた穴は見つかりません。そのうちにあのにとりという河童の話には、なんでも幻想郷のはずれにある年をとった妖怪が一人、本を読んだり、笛を吹いたり、静かに暮らしているということです。私はこの年をとった妖怪に尋ねてみれば、あるいは幻想郷を逃げ出す道も判りはしないかと思いましたから、さっそく出かけて行きました。しかしそこへ行ってみると、いかにも怪しい家の中に年をとった妖怪どころか、金色の髪を湛えた、やっと十二三の少女が一人、悠々と笛を吹いていました。私はもちろん間違った家へ入ったのではないかと思いました。が、念のために聞いてみると、やはりにとりの教えてくれた年をとった妖怪に違いないのです。
「しかし貴方は子供みたいだけど──」
「貴方はまだ知らないの? 私はどういう運命か、超人なのよ。容姿も年も思いのまま。けれども年を勘定すれば、かれこれ億は下らないでしょうね。もっともそれも思いのままですが」
 私は部屋の中を見回しました。そこには私の気のせいか、質素な椅子やテーブルの間に何か清らかな幸福が漂っているように見えるのです。
「貴方はどうも他の人妖よりもシアワセに暮らしているように見えます」
「さあ、それはそうかもしれないわね。私は沢山楽しい思いをしたし、年をとった今は若いものになっている。従って年寄りのように欲も渇かず、若いもののように色にも溺れない。とにかく私の生涯はたとい幸せではないにもしろ、安らかだったのには違いありませんわ」
「なるほどそれでは安らかなんでしょうね」
「いや、まだそれだけでは安らかにはなりませんよ。私は体も丈夫だったし、一生食うに困らないくらいの財産を持っていたのね。でも一番幸せだったのはやっぱり境界を覗き込んだことだと思っているわ」
 私はしばらくこの妖怪と霖之助の話だの山に暮らすにとりや文の話だのをしていました。が、何故か年をとった妖怪はあまり私の話などに興味のないような顔をしていました。
「では貴方は他の人妖のように格別生きていることに執着を持ってはいないのですね?」
 年をとった妖怪は私の顔を見ながら、静かにこう返事をしました。
「私も人間のように欲していたし、妖怪のように信じていましたよ」
「しかし私はふとした拍子に、幻想郷へ転げ落ちてしまったのです。どうか私に外の世界への道を教えてください」
「外の世界への道は一つしかありません」
「というのは?」
「それは貴方のここへ来た道よ」
 私はこの答えを聞いた時に何故か身の毛がよだちました。
「その道があいにく見つからないのです」
 年をとった妖怪は瑞々しい目にじっと私の顔を見つめました。それからやっと体を起こし、部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下がっていた一本の綱を引きました。すると今まで気のつかなかった天窓が一つ開きました。そのまた円い天窓の外には松や檜が枝を張った向こうに大空が青々と晴れ渡っています。いや、大きい鏃に似た八ヶ岳の峯もそびえています。私は飛行機を見た子供のように実際飛び上がって喜びました。
「さあ、あそこから出ていきなさい」
 年をとった妖怪はこう言いながら、さっきの網を指差しました。今まで私の網と思っていたのは実は綱梯子に出来ていたのです。
「ではあそこから出させてもらいます」
「ただ私は前もって言うけどね。出ていって後悔しないように。貴方なら山登りも得意でしょうし、人間という境遇が嫌なら天狗の一員に迎えることも可能よ。何しろ天狗の元は人間なんですからね」
「大丈夫よ。私は後悔などしないわ」
 私はこう返事をするが早いか、もう網梯子をよじ登っていました。年をとった妖怪の顔を遥か下に眺めながら。

  十七

 私は幻想郷から帰ってきた後、しばらくは外の世界の匂いに閉口しました。この世界に比べれば、幻想郷は実に清潔なものです。のみならずこの世界の人間たちは妖怪ばかり見ていた私にはいかにも気味の悪いものに見えました。これはあるいは貴方にはお判りにならないかもしれません。しかし目や口はともかくも、この耳というものは妙に恐ろしい気を起こさせるものです。私はもちろん出来るだけ、誰にも会わない算段をしました。が、この世界にもいつか次第に慣れ出したとみえ、半年ばかりたつうちに何処へでも出るようになりました。ただそれでも困ったことは何か話をしているうちにうっかり幻想郷の言葉を口に出してしまうことです。
「うーん、どうしよう」
「決闘で決めようよ」
「なんだって?」
「いや、じゃんけんということ」
 大体こういう調子だったものです。
 しかし幻想郷から帰ってきた後、ちょうど一年ほどたった時、私は大学受験に失敗したために──(S博士は彼女がそう言った時、「その話はおよしなさい」と注意をした。なんでも博士の話によれば、彼女はこの話をするたびに看護人の手にも負えないくらい、乱暴になるとかいうことである)
 ではその話はやめましょう。しかし大学受験に失敗したために私はまた幻想郷に帰りたいと思い出しました。そうです。「行きたい」のではありません。「帰りたい」と思い出したのです。幻想郷は当時の私には故郷のように感じられましたから。
 私はそっと家を抜け出し、中央線の電車へ乗ろうとしました。そこをあいにく巡査につかまり、とうとう病院へ入れられたのです。私はこの病院へ入った当座も幻想郷のことを想い続けました。医者の永琳はどうしているでしょう? 商人の霖之助も相変わらず古臭い店の中で何か考えているかもしれません。ことに私の親友だった魔理沙は、──ある今日のように曇った午後です。こんな追憶に耽っていた私は思わず声をあげようとしました。それはいつの間にか入ってきたか、にとりという河童が一人、私の前に佇みながら、何度も手を振っていたからです。私は心を取り直した後、──泣いたか笑ったかも覚えていません。が、とにかく久しぶりに幻想郷の者に会うことに感動していたことは確かです。
「にとり、どうして来たの?」
「へへ、お見舞いに来たんだよ。何でも盟友が病気だって聞いたからね」
「どうしてそんなことを知っているの?」
「私が作ったラジオで知ったのさ」
 にとりは得意そうに笑っているのです。
「それにしてもよく来られたね?」
「なに、簡単なことさ。考え方次第で外の世界なんかすぐに来れる」
 私は博麗大結界というものが意識の結界だったことに今更のように気がつきました。
「あれから幻想郷はどうなっているの?」
「文が随分と寂しがっているよ。ああ見えてあんたのことを好いていたからね」
「文が?」
「私が昔に言ったろ、山に住まないかって。早く病気を治して帰って来ておくれよ」
 それから私は二三日ごとに色々の人妖の訪問を受けました。私の病はS博士によれば早発性痴呆症ということです。しかしあの医者の永琳は(これは甚だ貴方にも失礼に当たるのに違いありません)私は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士をはじめ、貴方がた自身だと言っていました。医者の永琳も来るくらいですから、魔法使いの魔理沙や守矢神社の早苗の見舞いに来たことはもちろんです。が、あの河童のにとりの他に昼間は誰も尋ねてきません。ことに二三人いっしょに来るのは夜、──それも月のある夜です。私はゆうべも月明かりの中に魔理沙や早苗と話をしました。のみならずプリズムリバーのリリカにもピアノを一曲弾いてもらいました。ほら、向こうの机の上に黒百合の花束がのっているでしょう? あれもゆうべリリカが土産に持ってきてくれたものです。──
(僕は後ろを振り返ってみた。が、もちろん机の上には花束も何ものっていなかった)
 それからこの本もアリスがわざわざ持ってきてくれたものです。ちょっと最初の詩を読んでごらんなさい。いや、貴方に幻想郷の本が読めるはずもありません。では代わりに読んでみましょう。これは近ごろ出版になった霖之助の全集の一冊です。──
(彼女は古い電話帳をひろげ、こういう詩を大声に読み始めた)

 ──椰子の花や竹の中に
   仏陀はとうに眠っている。

   道ばたに枯れた無花果と一緒に
   基督ももう死んだらしい。

   しかし我々は休まなければならぬ。
   たとい芝居の背景の前にも。

  (そのまた背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ?)──

 けれども私は霖之助のように厭世的ではありません。人妖たちの時々来てくれる限りは、──ああ、このことは忘れていました。貴方は私の友だちだった天狗の文を覚えているでしょう。あの天狗は私を失った後、新聞記者を辞めてしまいました。なんでも今は山の印刷所で働いているということです。私はS博士さえ承知してくれれば、幻想郷に行って焚き付けてやりたいのですがね──。

(僕はこの話を終わった時の彼女の顔色を覚えている。彼女は一頻りの話を終えると、最後に身を起こすが早いか、たちまち拳骨を振り回しながら、誰にでもこう怒鳴りつけるのだ。──「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!」──僕はこういう彼女の話をかなり正確に記したつもりである。もしまただれか僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京都内のS精神病院を尋ねてみるがよい。彼女はまず丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指差すであろう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう)
原作:芥川龍之介 『河童
第二十三号
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コメント



0.350簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。
これほどまでに大規模で秀逸な原作改変は見たことがない。
よく辻褄を合わせましたね。
4.80名前が無い程度の能力削除
よかったよ
5.100名前が無い程度の能力削除
凄すぎて言葉がでないよ…
9.100名前が無い程度の能力削除
あんたは天才だ。ある種のクロスオーバーをこれほど見事にやる奴もいるめえよ。
10.20名前が無い程度の能力削除
これは「原作」ではなく「原文」ですね。ともすれば青空文庫からコピペしてきたと思われてしまうほどの。
やりきってしまうエネルギーはとても素晴らしいですが、話の内容は終始「辻褄合わせ」で終わっています。各エピソードが一つのテーマを軸に折り重なっているわけでもなく、ただ散発的に幻想郷らしいことを描いているだけのように読めてしまいました。それが幻想郷らしいというのであれば、「河童」を題材とする必要性も特にないです。
どうして冒頭に「出ていけ! この悪党めが!」というセリフがあったのか。またこのセリフをどうして主人公に言わせたのか。それが分からないのであれば、文庫版には必ずついている解説を読み返してから、もう一度河童を読み直すことをお勧めします。
……芥川龍之介はこういうことに向けて「この悪党めが!」と泣きそうな顔で書き綴ったわけですが……
11.無評価第二十三号削除
10氏は芥川龍之介ご本人様なのか、あるいは降霊術で芥川龍之介の心霊と会話でもされたのでしょうか。
おそらくそれ以上の回答は不必要に違いありません。
12.80名前が無い程度の能力削除
いい
14.100名前が無い程度の能力削除
芥川龍之介の河童と東方の両方が好きな俺得SSでした

雰囲気が壊れない程度に改変されていてとても楽しめました
15.100みかがみ削除
次は「アグニの神」でやってみたら面白そうだと思いました。
17.100名前が無い程度の能力削除
コピペ改変もここまでくればあっぱれですな。
パロディとしては大成功でしょう。
自分は「私」を姫海棠はたてと解釈しました。
18.無評価名前が無い程度の能力削除
あー、んーと。芥川龍之介はすごい、作者さんもよく頑張って改変した、かな。読んでないけど。
19.100名前が無い程度の能力削除
凄まじい
20.100名前が無い程度の能力削除
ところどころで噴出するユーモアに爆笑しました。楽しい作品ありがとう。
21.100名前が無い程度の能力削除
レティの寒気で歓喜とか霖之助の長い冬とか…
賛否両論有るかも知れんがうーむ、面白い
23.80奇声を発する程度の能力削除
良いですね、素晴らしかったです
25.703削除
原作は読んでいないのですが、
これは「投稿者のオリジナルである事」「創想話が初出の作品である事」に引っかからないんですかね?
そこを抜きにすれば面白かったです。

>何しろ発売日が延期続きだったから~
つらつらと綴られるなかでこういうギャグいれるのやめれw
28.100封筒おとした削除
読んでて違和感ないのが凄い