幾世を越え、星は巡り、時は過ぎ逝く。
転がった林檎は何時までも転がり続ける、誰の手に収まることなく、いつまでも、いつまでも――
彼女と初めて出会ったのは中学生の頃だった。
時は明治、季節は冬、特にその日は寒さが厳しく悴む手を吐息で温めながら勉学に励んでいた私は、不意に背筋に走った悪寒に震えた。
誘われるように振り返った背後には、山吹色の長く艶やかな髪を靡かせた明らかに日本人とは思えぬ少女が佇んでいて、私は驚愕の余り椅子から転げ落ちた。
「面妖なるや、お主は一体何者ぞ?」
震える声を必死に抑えつつも、転げ落ちた体勢のまま話す私は少女の目にさぞ滑稽に映っただろう。
少女は形の良い唇の端を吊り上げながら名乗った。
「こんばんは坊や。私の名はエリス、と言っても鴎外のエリスではないわ。よろしくね?」
エリスと名乗った私と同い年くらいに見える少女はそう言って微笑んだ。
「貴方はまだ青いけどとっても美味しそうな匂いがするわ。こんなに心躍るのはオルレアンの少女以来。今日は取りあえず私の顔だけでも覚えておいてね?」
その後も少女は私には理解できぬことを散々語った後、まるで幻のように姿を消した。
物音に気付いた父が部屋にやってきたが、私はただ足を滑らせただけだと説明した。
とてもではないが、今目の前で起こった自体を説明する気にはなれかったのだ。
不可思議な思い出として記憶された少女に再び見えたのは海軍兵学校を卒業して間もなくの日本海海戦、波飛沫の上がる戦場でのことだった。
「あらら、人間は蜥蜴と違って落とした身体は二度と生えてこないわよ? 可哀想に」
あれから数年程たっていたはずだが、彼女の姿は全く変わっていなかった。
私はと言うと、至近距離で破裂した砲弾の破片を左半身に浴び、身体を引き裂く激痛に悶え苦しんでいた。
「戦場での負傷は名誉の負傷……何も恥じることはない……ッ!」
私は余りの痛みに点滅する視界の中、振り絞るように声を吐きだした。
「うん、私が見込んだ貴方ならそう言ってくれると信じてた。精々頑張ってね? 私は何時でも貴方のことを見守っててあげるわ」
遠くなる意識の中、少女は満面の笑みを浮かべながらそう呟いた。
結局、私は指を二本失い左足にも深い傷を負った。それでも戦場において命があっただけ僥倖だったといえよう。
それから数十年後、時は大正、海軍大学を卒業した私はアメリカ駐在を命じられており、丁度その時はワシントンのとある喫茶店にいた。
「あ、私にも一つ、ハチミツもお願いね」
「お前は……あの時の」
隣の席に当然のように座ったのはいつぞやの少女であった。
「お久しぶり、やっぱり人間は老けるのが早いわね」
「そういうお前は初めて会った時と全く変わらないな」
「当然よ、たかが数十年くらいで変わる訳ないでしょ」
この時既に私は少女が人間ではないことを認めていた、というより認めざる負えなかった。
魍魎の類なのか何かは知らぬが、ここ異国の地にてコーヒーを啜ってるその姿は年相応の少女にしか映らない。
「お前は一体何者なんだ? 何故私に付きまとう」
「私はエリスよ。この世で最初のエリス。始原のエリスと言ってもいいわ」
取りつく島がない、というのはこのことを言うのだろう。
聞いては見たものの、目の前の少女からまともな答えが返ってくるとは最初から思っていなかった私は深いため息をついて頷いた。
「まぁいい、お前が何をしようと勝手だ。私は出るぞ」
私は二人分のコーヒー代を定員に渡し、店を出た。
「あ、ちょっと待ってよ! 全くせっかちなんだから」
慌ててエリスも追いかけてくる、今回はいつもと違ってすぐいなくなる訳ではないらしい。
「何だ、まだ何か私に用があるのか?」
「用がなきゃ一緒に居ちゃいけないの?」
大股で歩く私に小走り気味についてくるエリス。
「私はこう見えても忙しい、遊んでいる暇は無いのだよ」
「忙しいって、敵情視察に?」
順調だった私の歩みは一瞬にして止まり、エリスの華奢な肩を掴んで大通りから急いで小さな路地に駆けこんだ。
「ちょっとちょっと! 今度はいきなり人影のないところに連れ込むとか大胆にも程が無い?」
「どうしてそんなことを知っている? 一体誰の指示だ?」
私のアメリカでの主な目的は英語の習得だ、しかしこれはあくまで表向きの理由。
世界の大国であり仮想敵国でもあるアメリカの機械産業や油田を視察し、万が一に備えて日本はどうすれば良いのか?
その術を学び、日本に持ち帰ることが真の私の使命なのだ。
「知ってるも何も、小さな島国の軍人が大国ですることなんてそれ以外あるの?」
さも当然のことのように話すエリスを私は恐ろしいモノを見るような目で見つめた。
元々人間ではないとは思っていた。
だがここに来てその考えは甘かったのではないか?
この少女は私が思ってる以上の、とんでもない化け物なのではないか……と。
「そんな怖い顔しなくていいよ、私は直接歴史に干渉する気は全くないんだから。ただ私は争いを眺めるだけ、今までもそうだったしこれからもずっとそう」
その表情に一抹の、それでいて深い哀愁を感じた私は、掴んでいた小さな肩からそっと手を離した。
「警告しといてあげる。今貴方が危惧している最悪のビジョンは間違いなく現実になるよ。幾度の闘争を眺めてきた私が断言するわ」
「なっ……それはどういう――」
問い詰めようとした時には既にエリスは姿を消していた。
私はしばらくの間、独りその場に佇んでいた。
外は溢れんばかりの民衆の活気と喧騒に満ちている。
時は昭和十二年、日中戦争勃発。
エリスの予言通り、日本は私が危惧した最悪のシナリオを確実に突き進んでいた。
しかし私は諦める訳にはいかない、愛する祖国が破滅への道を行くならば何としでもそれを食い止めるのが軍人である私の使命なのだから――
「あら、死んだあとのことなんて気にしている暇があるの?」
もしもの時の遺書を書いてた私の手が止まった。
「備えあれば、という奴だ。まだ死ぬ気はない……それにしても、君は初めて会った時から全く変わらないな、エリス」
この家の入り口には憲兵が張り付いているのだがエリスには全く関係がない、彼女は幻のように現れて幻のように消えてしまうのだから。
「貴方が老け過ぎなのよ、あと自棄にお高い身分になったみたいじゃない?」
「私には荷が重すぎる、私は内地で若者達の面倒を見ていたかったんだ」
「でも現実、貴方が矢面に立たなければその若者達は死ぬわ。どっちにしても貴方は戦場から逃げられない」
「あぁ、分かっているさ。もしもの時の準備は既に進めている」
もしも、で済めばどれだけ良いだろうか――と私は内心ぼやいた。
「落ち込んだって仕方ないわ、最早戦争は不可避。やるしかないのよ」
エリスはそういうと、懐からトランプを取り出してチラつかせた。
私は苦笑しつつも筆を置き、エリスと向き合った。
「よかろう、景気づけにひと勝負いこうじゃないか」
「そう、貴方にはそんな顔の方が似合ってるわ。だけどよりによってこの私に景気づけなんて理由で勝負を挑むなんて……悪いけど私は強いわよ?」
「奇遇だな。私も賭け事にはめっぽう強いのだ。さぁて君は何を賭ける? 私からは今の私が出来る範囲で君の願いを叶えようではないか」
「あら? この身一つしかない私に賭けを求めるなんて……やっぱり貴方も男なのね」
エリスは起伏の乏しい自らの身体を眺めてから、男を煽る挑発的な視線で私を見上げてきた。
「おやおや、冗談のつもりだったのだが……その気なら受けて立とうじゃないか。据え膳食わぬは男の恥よ」
「言ったわね? その言葉必ず後悔させてあげるわ」
勝負好きの二人の夜は長く続いた。
どちらが勝ち、どのような代償を払ったのかは敢えて明記しない。
そして――
昭和十六年 真珠湾攻撃
昭和十七年 ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
そして、昭和十八年――四月十八日 ブーゲンビル島上空
エリスは黒い大きな翼を広げ大空を舞っていた。
エリスの見下ろす視線の先では苛烈な空中戦が行われている。
零式艦上戦闘機六機が一式陸上攻撃機二機を、アメリカ陸軍機P-38十六機の猛攻から守りながら戦っていた。
しかし零戦の奮闘も空しく、集中攻撃された一式陸上攻撃機の内一機が遂に被弾し、黒煙を上げながら墜落していった。
爪が手の平に食い込む程握りしめていたエリスだったが、墜落していった機体がジャングルの中に消えていったのを見て――音の壁を越えて急降下した。
ジャングルの緑を突き破り、煙の上がる方角へ飛翔する。
草木が容赦なくエリスの飛行を妨げるが、人外の身体は幾多の擦過傷を生みながらも止まらない。
そして遂に煙の上がる地点……墜落現場に到着した。
機体は見るも無残な姿に変わり果てていた。
エリスは機体から上がる炎を無視して乗っていたはずの男を探した。
途中炭に還りつつある人間を何人も見たが、それさえも無視して一人の男を探す。
そして、遂にその男を見つけた。
男は機体から座席ごと外に放りだされていた。
「……ッ! この間抜けが!!」
エリスは急いで駆け寄り、息を確かめた。
大丈夫、まだ息はある。
身体も目立った外傷は――
「また……会ったな。もう二度と会えないかと思ったよ」
途切れ途切れの小さな声が零れた。
エリスは顔をあげない。
確かに目立った外傷はない、けれども既に。
「人間は何でこんなに脆いのよ……ちょっと空から落ちたくらいで中身がぐちゃぐちゃじゃない……ッ!」
「そうか、私はもう……駄目か」
落下の衝撃は身体の内部を致命的なレヴェルで壊してしまっていたのだ。
「鈍くさい奴、思い切りだけは良い癖に肝心な所で臆病になるから戦争だって負けるのよ……この馬鹿ッ!!」
「全部見られてしまっていたか……面目ない、私の未熟な采配のせいで多くの命を失ってしまった。やはり私には司令官など向いておらぬ」
「全くその通りよ。貴方の未熟な戦術のせいで、この国の戦争はさっさと終わるでしょうね!!」
こりゃ手厳しい、と苦笑している男をエリスは更に怒鳴り散らそうとして……代わりに優しく抱擁した。
「おいおい勘弁してくれ。私には妻も子供もいるんだ。最後の最期まで女癖の悪い男では格好がつかぬ」
「悪いも何も真実じゃない、一体何人囲ってると思ってるのよ……私は全部知ってるわよ」
「そうか、お前はずっと私のことを見ていたのだから当然か。なら……一つ頼まれてくれないか?」
男は精いっぱいの笑顔を作りながらエリスに頼み込んだ。
いや、エリスは既に何を頼まれるかは知っていた、何故ならエリスはこの世で誰よりもこの男の傍でずっと見守っていたのだから……この男の考えていることなど分かりきっていた。
「分かっているわ。もう……言い残すことはないのね?」
「あぁ、軍人たる者。やはり最期くらいは格好つけたいのだ」
「馬鹿、全然格好よくないわよ……さようなら、連合艦隊司令長官 山本五十六」
乾いた音がジャングルを木霊した。
エリスの手にある拳銃から放たれた銃弾は確実に五十六の息の根を止めていた。
これで彼の名誉ある機上戦死を演出出来るであろう。
全身の内臓破裂状態で放っておいても苦しいだけだ、どうせ助からないなら即死させてあげた方が幸せだろう。
そう……自分に言い聞かせていた。
「……この馬鹿」
エリスの口から洩れた言葉は誰にも聞きとられることなかった。
昭和二十年 八月十四日 ポツダム宣言受諾
八月十五日 玉音放送
彼が回避しようとし、結局回避出来なかった戦争は終わった。
彼の祖国は多大なる犠牲を払ったが、長い戦争の歴史を眺めてきたエリスは知っていた。
世界が大きく変わる転換期は、いつも犠牲を伴うことを。
犠牲は決して無駄にはならない、してはならない。
彼の祖国はこれからどう変わっていくのだろうか? 興味が無いわけでもないが、どう変わるにしろもうそこに彼はいない。
私がこの国に留まる理由は……もうない。
私はこれからも彼のような人間を何人も見送るのだろう。
それが黄金の林檎を……争いを世界に投げ入れてしまった私への罰だ。
私は見守り続ける、歴史の犠牲者を、私の被害者を、私の罪を。
終
転がった林檎は何時までも転がり続ける、誰の手に収まることなく、いつまでも、いつまでも――
彼女と初めて出会ったのは中学生の頃だった。
時は明治、季節は冬、特にその日は寒さが厳しく悴む手を吐息で温めながら勉学に励んでいた私は、不意に背筋に走った悪寒に震えた。
誘われるように振り返った背後には、山吹色の長く艶やかな髪を靡かせた明らかに日本人とは思えぬ少女が佇んでいて、私は驚愕の余り椅子から転げ落ちた。
「面妖なるや、お主は一体何者ぞ?」
震える声を必死に抑えつつも、転げ落ちた体勢のまま話す私は少女の目にさぞ滑稽に映っただろう。
少女は形の良い唇の端を吊り上げながら名乗った。
「こんばんは坊や。私の名はエリス、と言っても鴎外のエリスではないわ。よろしくね?」
エリスと名乗った私と同い年くらいに見える少女はそう言って微笑んだ。
「貴方はまだ青いけどとっても美味しそうな匂いがするわ。こんなに心躍るのはオルレアンの少女以来。今日は取りあえず私の顔だけでも覚えておいてね?」
その後も少女は私には理解できぬことを散々語った後、まるで幻のように姿を消した。
物音に気付いた父が部屋にやってきたが、私はただ足を滑らせただけだと説明した。
とてもではないが、今目の前で起こった自体を説明する気にはなれかったのだ。
不可思議な思い出として記憶された少女に再び見えたのは海軍兵学校を卒業して間もなくの日本海海戦、波飛沫の上がる戦場でのことだった。
「あらら、人間は蜥蜴と違って落とした身体は二度と生えてこないわよ? 可哀想に」
あれから数年程たっていたはずだが、彼女の姿は全く変わっていなかった。
私はと言うと、至近距離で破裂した砲弾の破片を左半身に浴び、身体を引き裂く激痛に悶え苦しんでいた。
「戦場での負傷は名誉の負傷……何も恥じることはない……ッ!」
私は余りの痛みに点滅する視界の中、振り絞るように声を吐きだした。
「うん、私が見込んだ貴方ならそう言ってくれると信じてた。精々頑張ってね? 私は何時でも貴方のことを見守っててあげるわ」
遠くなる意識の中、少女は満面の笑みを浮かべながらそう呟いた。
結局、私は指を二本失い左足にも深い傷を負った。それでも戦場において命があっただけ僥倖だったといえよう。
それから数十年後、時は大正、海軍大学を卒業した私はアメリカ駐在を命じられており、丁度その時はワシントンのとある喫茶店にいた。
「あ、私にも一つ、ハチミツもお願いね」
「お前は……あの時の」
隣の席に当然のように座ったのはいつぞやの少女であった。
「お久しぶり、やっぱり人間は老けるのが早いわね」
「そういうお前は初めて会った時と全く変わらないな」
「当然よ、たかが数十年くらいで変わる訳ないでしょ」
この時既に私は少女が人間ではないことを認めていた、というより認めざる負えなかった。
魍魎の類なのか何かは知らぬが、ここ異国の地にてコーヒーを啜ってるその姿は年相応の少女にしか映らない。
「お前は一体何者なんだ? 何故私に付きまとう」
「私はエリスよ。この世で最初のエリス。始原のエリスと言ってもいいわ」
取りつく島がない、というのはこのことを言うのだろう。
聞いては見たものの、目の前の少女からまともな答えが返ってくるとは最初から思っていなかった私は深いため息をついて頷いた。
「まぁいい、お前が何をしようと勝手だ。私は出るぞ」
私は二人分のコーヒー代を定員に渡し、店を出た。
「あ、ちょっと待ってよ! 全くせっかちなんだから」
慌ててエリスも追いかけてくる、今回はいつもと違ってすぐいなくなる訳ではないらしい。
「何だ、まだ何か私に用があるのか?」
「用がなきゃ一緒に居ちゃいけないの?」
大股で歩く私に小走り気味についてくるエリス。
「私はこう見えても忙しい、遊んでいる暇は無いのだよ」
「忙しいって、敵情視察に?」
順調だった私の歩みは一瞬にして止まり、エリスの華奢な肩を掴んで大通りから急いで小さな路地に駆けこんだ。
「ちょっとちょっと! 今度はいきなり人影のないところに連れ込むとか大胆にも程が無い?」
「どうしてそんなことを知っている? 一体誰の指示だ?」
私のアメリカでの主な目的は英語の習得だ、しかしこれはあくまで表向きの理由。
世界の大国であり仮想敵国でもあるアメリカの機械産業や油田を視察し、万が一に備えて日本はどうすれば良いのか?
その術を学び、日本に持ち帰ることが真の私の使命なのだ。
「知ってるも何も、小さな島国の軍人が大国ですることなんてそれ以外あるの?」
さも当然のことのように話すエリスを私は恐ろしいモノを見るような目で見つめた。
元々人間ではないとは思っていた。
だがここに来てその考えは甘かったのではないか?
この少女は私が思ってる以上の、とんでもない化け物なのではないか……と。
「そんな怖い顔しなくていいよ、私は直接歴史に干渉する気は全くないんだから。ただ私は争いを眺めるだけ、今までもそうだったしこれからもずっとそう」
その表情に一抹の、それでいて深い哀愁を感じた私は、掴んでいた小さな肩からそっと手を離した。
「警告しといてあげる。今貴方が危惧している最悪のビジョンは間違いなく現実になるよ。幾度の闘争を眺めてきた私が断言するわ」
「なっ……それはどういう――」
問い詰めようとした時には既にエリスは姿を消していた。
私はしばらくの間、独りその場に佇んでいた。
外は溢れんばかりの民衆の活気と喧騒に満ちている。
時は昭和十二年、日中戦争勃発。
エリスの予言通り、日本は私が危惧した最悪のシナリオを確実に突き進んでいた。
しかし私は諦める訳にはいかない、愛する祖国が破滅への道を行くならば何としでもそれを食い止めるのが軍人である私の使命なのだから――
「あら、死んだあとのことなんて気にしている暇があるの?」
もしもの時の遺書を書いてた私の手が止まった。
「備えあれば、という奴だ。まだ死ぬ気はない……それにしても、君は初めて会った時から全く変わらないな、エリス」
この家の入り口には憲兵が張り付いているのだがエリスには全く関係がない、彼女は幻のように現れて幻のように消えてしまうのだから。
「貴方が老け過ぎなのよ、あと自棄にお高い身分になったみたいじゃない?」
「私には荷が重すぎる、私は内地で若者達の面倒を見ていたかったんだ」
「でも現実、貴方が矢面に立たなければその若者達は死ぬわ。どっちにしても貴方は戦場から逃げられない」
「あぁ、分かっているさ。もしもの時の準備は既に進めている」
もしも、で済めばどれだけ良いだろうか――と私は内心ぼやいた。
「落ち込んだって仕方ないわ、最早戦争は不可避。やるしかないのよ」
エリスはそういうと、懐からトランプを取り出してチラつかせた。
私は苦笑しつつも筆を置き、エリスと向き合った。
「よかろう、景気づけにひと勝負いこうじゃないか」
「そう、貴方にはそんな顔の方が似合ってるわ。だけどよりによってこの私に景気づけなんて理由で勝負を挑むなんて……悪いけど私は強いわよ?」
「奇遇だな。私も賭け事にはめっぽう強いのだ。さぁて君は何を賭ける? 私からは今の私が出来る範囲で君の願いを叶えようではないか」
「あら? この身一つしかない私に賭けを求めるなんて……やっぱり貴方も男なのね」
エリスは起伏の乏しい自らの身体を眺めてから、男を煽る挑発的な視線で私を見上げてきた。
「おやおや、冗談のつもりだったのだが……その気なら受けて立とうじゃないか。据え膳食わぬは男の恥よ」
「言ったわね? その言葉必ず後悔させてあげるわ」
勝負好きの二人の夜は長く続いた。
どちらが勝ち、どのような代償を払ったのかは敢えて明記しない。
そして――
昭和十六年 真珠湾攻撃
昭和十七年 ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
そして、昭和十八年――四月十八日 ブーゲンビル島上空
エリスは黒い大きな翼を広げ大空を舞っていた。
エリスの見下ろす視線の先では苛烈な空中戦が行われている。
零式艦上戦闘機六機が一式陸上攻撃機二機を、アメリカ陸軍機P-38十六機の猛攻から守りながら戦っていた。
しかし零戦の奮闘も空しく、集中攻撃された一式陸上攻撃機の内一機が遂に被弾し、黒煙を上げながら墜落していった。
爪が手の平に食い込む程握りしめていたエリスだったが、墜落していった機体がジャングルの中に消えていったのを見て――音の壁を越えて急降下した。
ジャングルの緑を突き破り、煙の上がる方角へ飛翔する。
草木が容赦なくエリスの飛行を妨げるが、人外の身体は幾多の擦過傷を生みながらも止まらない。
そして遂に煙の上がる地点……墜落現場に到着した。
機体は見るも無残な姿に変わり果てていた。
エリスは機体から上がる炎を無視して乗っていたはずの男を探した。
途中炭に還りつつある人間を何人も見たが、それさえも無視して一人の男を探す。
そして、遂にその男を見つけた。
男は機体から座席ごと外に放りだされていた。
「……ッ! この間抜けが!!」
エリスは急いで駆け寄り、息を確かめた。
大丈夫、まだ息はある。
身体も目立った外傷は――
「また……会ったな。もう二度と会えないかと思ったよ」
途切れ途切れの小さな声が零れた。
エリスは顔をあげない。
確かに目立った外傷はない、けれども既に。
「人間は何でこんなに脆いのよ……ちょっと空から落ちたくらいで中身がぐちゃぐちゃじゃない……ッ!」
「そうか、私はもう……駄目か」
落下の衝撃は身体の内部を致命的なレヴェルで壊してしまっていたのだ。
「鈍くさい奴、思い切りだけは良い癖に肝心な所で臆病になるから戦争だって負けるのよ……この馬鹿ッ!!」
「全部見られてしまっていたか……面目ない、私の未熟な采配のせいで多くの命を失ってしまった。やはり私には司令官など向いておらぬ」
「全くその通りよ。貴方の未熟な戦術のせいで、この国の戦争はさっさと終わるでしょうね!!」
こりゃ手厳しい、と苦笑している男をエリスは更に怒鳴り散らそうとして……代わりに優しく抱擁した。
「おいおい勘弁してくれ。私には妻も子供もいるんだ。最後の最期まで女癖の悪い男では格好がつかぬ」
「悪いも何も真実じゃない、一体何人囲ってると思ってるのよ……私は全部知ってるわよ」
「そうか、お前はずっと私のことを見ていたのだから当然か。なら……一つ頼まれてくれないか?」
男は精いっぱいの笑顔を作りながらエリスに頼み込んだ。
いや、エリスは既に何を頼まれるかは知っていた、何故ならエリスはこの世で誰よりもこの男の傍でずっと見守っていたのだから……この男の考えていることなど分かりきっていた。
「分かっているわ。もう……言い残すことはないのね?」
「あぁ、軍人たる者。やはり最期くらいは格好つけたいのだ」
「馬鹿、全然格好よくないわよ……さようなら、連合艦隊司令長官 山本五十六」
乾いた音がジャングルを木霊した。
エリスの手にある拳銃から放たれた銃弾は確実に五十六の息の根を止めていた。
これで彼の名誉ある機上戦死を演出出来るであろう。
全身の内臓破裂状態で放っておいても苦しいだけだ、どうせ助からないなら即死させてあげた方が幸せだろう。
そう……自分に言い聞かせていた。
「……この馬鹿」
エリスの口から洩れた言葉は誰にも聞きとられることなかった。
昭和二十年 八月十四日 ポツダム宣言受諾
八月十五日 玉音放送
彼が回避しようとし、結局回避出来なかった戦争は終わった。
彼の祖国は多大なる犠牲を払ったが、長い戦争の歴史を眺めてきたエリスは知っていた。
世界が大きく変わる転換期は、いつも犠牲を伴うことを。
犠牲は決して無駄にはならない、してはならない。
彼の祖国はこれからどう変わっていくのだろうか? 興味が無いわけでもないが、どう変わるにしろもうそこに彼はいない。
私がこの国に留まる理由は……もうない。
私はこれからも彼のような人間を何人も見送るのだろう。
それが黄金の林檎を……争いを世界に投げ入れてしまった私への罰だ。
私は見守り続ける、歴史の犠牲者を、私の被害者を、私の罪を。
終
それに巻き込まれる者たちは彼女の管轄の外なんでしょうか
そういう存在は役割に忠実であるべきだとは思うんですが、
この話のエリスのことを考えれば人間より人間くさいほうがらしいのかもしれないですね
歴史もキャラももう少し知っていればより楽しめたのかなーと思います。