あれ、と茨木華扇は感じていた。
疑問は直感的なものだ。違和感といっても差し支えない。目に映るのはいつもの見慣れた我が家の内装だし、確かに時たまこんな世界を見たこともある。そう、例えば朝の起床の際とかに。
そうだ。はた、と気付く。この光景は、まさしく朝の光景だ。早朝を告げる動物の鳴き声と共にゆっくりと浮上していく自分の意識。寝ぼけ眼をゆっくり開き、ぼんやりと捉えるおぼろげな世界。無我の最中でありながらも、何千回と繰り返せば嫌でも記憶に焼きつく。
違和感の正体とは、この圧倒的な視界高の不足だ。朝の光景とは、起床した時点での視界であり、つまり今の高さは起床時の横たわった状態での視点、ということなのだろう。
そんな朝の光景が、何故に目の前に広がっているのか。意識はしっかりとしているし、既に日は昇りきっていて正午を回りきっている。昼食を食べたのはずいぶん前だし、午後三時にはおやつも食べた。今日のおやつは人里で最近有名な洋菓子を買ってきた。しょーとけーきというらしいが、新鮮な果物をくりぃむと一緒に挟み込むとはこれまた素晴らしく美味であった。次はみるふぃーゆだ。
……まあ、見聞を広めるためです。ええ、ええ。
さて、問題は現在進行形だ。
おやつを食べた後に修行を開始し、今回は魔術の書物をかじってみていた。内容としては使い魔関連のものだ。借りてきたと言い張る霧雨魔理沙から没収したものだが、これまた興味深いものだった。しばらく借りておこう。大丈夫、返すから。
その内容を噛み砕くように模写していたのは覚えている。文章から始まり、図解まであったのは親切であると思った。そんな風に感じながら、文章と同様に図解も模写し……なるほど。
そうことか。華扇は何が起きているかはともかく、このような事態に陥った元凶は把握した。
まるで白昼夢のように訪れたこの状態。
何者でもない、自分自身のポカが原因だ。自分が描いた図解とは、つまりは魔法陣の類だったのだろう。さすがに本物の魔力を取り扱う書物を気軽に模写してしまっていたのは、気を抜きすぎだった。
さて困った。何かしらの弾みで身体が縮んだことが起因しているのだろう。とにかく考えるべきは解呪の方法だ。術の暴発が魔導書によるものなら、解呪の方法もまた魔導書にあるはず。読めばわかる、というのは都合がいいかもしれないが、取っ掛かりみたいなものは得られるはずだ。
思い立ったが即行動とばかりに、華扇は身体を動かす。身体は相当縮んでいるみたいで、視界の高さはそれこそ膝丈よりも低い程度だ。しかし、それに反して身体はよく動く。すっと頭を上げ、卓上を視線に収める。大丈夫、大した高さではない。術を使って飛ぶまでも無く、一息に跳躍して飛び乗った。
あったあった。
華扇の目の前には、似たような図柄が並んだ二枚の書物があった。そうしてもう一つ、
「にゃー」
猫だ。名前はマキビシ。ついこの間拾ってきて、さてこいつにどのような役目を与えようかと悩んでいた動物だ。今回の使い魔関連の魔導書に興味が沸いた原因だったりもする。地獄の猫は参考にしたくないし、八雲の猫は放任主義のようだし。
卓上を見やると、ところどころに黒い肉球痕が確認できる。模写に使用していた巻物にも同様で、自分が模写したほうの魔法陣の中央に、肉球痕がある。おかしい、あんなものを描いた覚えは無い。覚えているのは、魔法陣を模写したところで休憩を挟んだ事、そして模写の最中にマキビシの姿は無かった事だ。となると、答えはおのずと浮かんでくる。
華扇はふぅと息をつく。やれやれと、しかし一つ謎が解明された事への安堵の息だ。
「にゃー」
あなたが原因でしたか、と。
「…………にゃあ?」
言った筈、なんですけどねぇ?
「にゃ、にゃあにゃあ?」
あれ、あれあれ?
「にゃあー?」
えっと、つまり?
華扇は己の手を目の前に持ってきた。
ふっさふっさ。
その手で卓上をバンバン叩く。
ぽふぽふ。
なんとも気の抜けた音が響いてくるではないか。ははは、愛いやつめ愛いやつめ苦しゅうないぞははは。
……あー、うんそんな感じ。なんかマキビシ拾った晩にそんな事やってましたねー。
今この時になって、華扇はようやく自分に降りかかったモノの正体を思い知った。
「にゃあぁ…………」
ええい、そんな悩んでいても仕方ないではないか。起こってしまった物は仕方ないのだ。
華扇は腹をくくって、魔導書に向き合った。どうせやることは変わらないのだ。ならば一刻も早く解決策を見つけてやろうではないか。マキビシはとっととどっかへ行ってしまったようだ。幼いから仕方ないかもしれないが、イタズラも放置すればこんなことも発生し得るとわかった。近いうちにそれなりの躾を施す必要があるだろう。
しかしまあ、肉球がページをめくりづらい事めくりづらい事。爪を伸ばして引っ掛けるが、それすらコツがいる。しかも自分が縮んだ事により、相対的に魔導書が巨大だ。視界に収めるべき面積が広すぎて速読すら使えない。一文字一文字を追っていくしかないとは非効率極まりない。
だが、しばらくしてようやく目的の部分が見つかった。
これだ。項目は、使い魔との簡易的な肉体情報の共有。ようは使い魔に自分を補佐させるのに効率的な、例えば人間形態を与えるための術式のようだ。図解されている魔法陣に、情報共有元の体液を含んだ契約印を刻むことが条件。ただし、あくまで簡易であるため契約書を破棄すれば即座に解除が可能である、と。
なるほど、墨が浸された硯に片足つっこんだマキビシが魔法陣を踏んだ事で、簡易契約が結ばれてしまったわけだ。
自分が読んでいた項目は魔法陣の直前で止まっていた。どうやら項目の最初に図解がくる形式の魔導書のようだ。この形式はわかりづらいんですよねぇ、と。
とにかく元に戻る方法はわかった。幸い魔法陣に使用したのは墨だ。水にでも落としてやればすぐに掻き消えるだろう。
蹴っとばして床上を転がして浴場までいこう。そう思い、後ろ足を振り上げた瞬間、
「やぁ茨華仙。様子を見に来たよ。いやいやあたいの勤勉さには涙が出るね」
盛大にずっこけた。
「おやぁ留守かい。やれやれ、窓も閉めずに無用心なもんだ」
はっはっはと笑いながら突如現れた小野塚小町は窓枠から姿を消す。方向からして、おそらく表玄関へ向かったのだろう。
まずい。とにかくまずいと、華扇は直感する。
華扇は想像する。しばらくすればこちらに来るだろう小町を素直に猫の姿で出迎え、魔導書を読めと必死にアピールして、現状を理解させる…………おいおい待ってくれ。
それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。何が悲しくてこんな醜態さらして、これから未来永劫ずっとからかわれる様なドジを披露しなきゃならんのだ。これから会う時、きっと小町はこのように挨拶をしてくるのだ。
『やぁ、猫仙人様。今日は人間のままかい? 猫にはならないのかい? ん? ん? んー?』
想像しただけで右腕が荒ぶる。包帯の封印を解くこともやむを得ない事態だ。黄昏参戦にはまだ早い。
「まったく、玄関さえ施錠してないじゃないか。玄関さえしっかり鍵をかってあれば素直に退散するツモリだったが、やれやれ世話の焼ける仙人様だ。邪魔するよ」
玄関口の開く音と供に小町の声が聞こえる。
だめだ。時間はない。かといって上手い案も浮かばない。
ならば、策は一つしかない。
「にゃー」
誤魔化す。
「おや、子猫ちゃん。ご主人がどこにいったか知らんかね?」
「にゃん?」
「はっはっは、さすがにわからないか。まだ子供のようだし、仕方ないね。化け猫クラスになれば人語も御茶の子さいさいらしい。がんばりな」
「にゃーん」
よし、いける。完全に小町はこちらをただの猫だと思っている。このまま誤魔化しきって、とっとと帰らせるのだ。己の尊厳を守るには、今はこれしかない。
小町はこちらの頭を一撫ですると、開け放たれている窓辺へと向かう。観音開きの扉を閉じて、施錠。よし、と小町は一つ頷く。
「さて、他の部屋も見てやらないとかね。まったくそそっかしい。迂闊華仙に改名するべきだと思わないかい、子猫ちゃん?」
「にゃんにゃーん」
今度殴ろう。
一時の恥はかなぐり捨てるもの。華扇は目の前の誇りよりも未来への誇りを尊重して耐え忍ぶ。
すると、不意に小町に手が伸びてきた。
「えーと、猫はここが気持ちいいんだっけ? ほれほれほれほれ」
華扇の喉元をくすぐる様に、小町の指が踊る。
「にゃにゃにゃにゃ」
ふおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?
猫でよかったと、華扇は心の底から思う。
この未知なる快感は、きっと人間形態であればあられもない嬌声を上げて地べたをのったのったと転がり回っていたはずだ。痴態以外の何者でもない。それくらいはやばい。
猫ならばごろごろ喉を鳴らしていればいい。よかった。本当によかった。
「よっと……おやメスかい」
潰す。今度絶対に潰す。
両脇に手を差し込まれて掲げられた状態から、華扇はジタバタを足掻いて脱出を試みる。
「おやおや、元気なのはいいことだね。ただし、空回るとあんたのご主人と同じになっちまうから程々にしときな」
「にゃー」
余計なお世話だ。
しばらくして、華扇は小町の手からの脱出を成功させた。解放された身体は宙でくるりと回転し、四点着地を見事に成功させる。面白い動きだ。今度体術の参考にしてみようかしら、と。
もはやなりふり構っていられない。小町はすぐには出て行かないようだし、他の部屋も見て回ると言っている。泥棒はしないかもしれないが、こんな破廉恥な輩に我が屋敷中を散策させられるなど、獅子の眼前に兎肉を吊るすようなものだ。からかわれるレパートリーが三倍は膨れるに違いない。
華扇は自分が筆を走らせていた巻物の一部を爪と牙とで破り取る。今まで書いた分がもったいないが、緊急事態だ。
魔導書の解読が完全ではなかったため、契約書の破棄の詳細があやふやだ。火にくべるか、水で崩すか。今回の失敗から、最も短絡的な魔法陣を物理的に破り捨てる事だけは選択肢から外す。一体どんな不具合が起きるかわかったものではない。
「あ、こらお前さんなんてことを」
構うものか。元々自分の物だ。
破りとった紙片を咥え、華扇は浴場へ駆け出す。背中に小町の声が聞こえるが、無視だ。
小さな身体はよく動いた。歩幅が少ない事は仕方ないが、これが本能とばかりに獣の身体はしなやかに全身の筋肉を躍動させた。
しばらくして辿り着いた浴場に、華扇は飛び込んだ。フルタイム入浴を可能とする保温術式が我が屋敷には備わっている。地獄の間欠泉から湯を引く事も考えたが、そもそもの在り方が華扇は気に喰わない。それならば自分でどうにかしてやりますとも。
飛び込んだ先に浴槽を見つけ、跳躍。大きな着水音を立てて、全身が熱い湯に包まれた。口元に咥えていた紙片は一瞬にして紙としての強度を失い、そして紙片に描かれていた墨も湯に溶け出す。
同時、どくんと華扇は自身の大きな鼓動を耳にした。
成功だ。解除された身体共有の術式が、急激に力を失っていく。染み渡るように四肢に神経が伸び続ける。五指に力が行き渡り、強く拳を握り締める。凄まじいほどの充実感だ。猫になったのがこの逆だとしたら、その喪失感はどれほどのものだったのか。気を失ってしまうことも仕方なかったのかもしれない。
「よぉっし! 成功しましたね!!」
ざばぁと熱い水面を跳ね上げ、人間形態となった華扇は力強く立ち上がる。さあ、コレからが本番だ。
華扇は備え付けられている巨大な綿生地を身体に巻きつけ、濡れそぼった髪にも構わず浴場を飛び出した。先ほど走ってきた道を真逆に駆け抜ける。濡れた足と綿生地を押さえた手では速度を出せない。不恰好な走り方だと自覚しながら、華扇は書斎へと辿り着いた。
「おや、いたのかい仙人様。あー……実はね」
目前には先ほど華扇が破り取った巻物を手に、どうしたものかと頭を掻いている小町の姿があった。言い訳でも探しているのか。破ったのは自分なのだから気にしなくてもいいのに、と。今は後回しだ。
「あらあらあらあら死神! 不法侵入とは褒められた趣味ではありませんね! しかも私が湯浴みをしている最中に! 湯・浴・み・を! している最中に!!」
「なんで強調するんだい」
「ともかく!」
小町へ向かって、びっと。
「これは説教が必要ですね!!?」
決まった。華扇は確信した。
自分は湯浴みをしていた。その隙に不法浸入を果たした死神を発見した。不法侵入とはなんと許しがたい。仙人はこの不届き物を叱咤し、そしてありがたい説法をお見舞いする。かくして、今日という一日は終わりを告げるのだ。
なんて、完璧な理論。
人里ではどや顔というものが流行っているらしいが、なるほどこういうことか。気分がいい。高揚した優越感が自然と頬を緩めてしまう。こうか、こうなのであろう?
「あー、仙人様」
「なんです!?」
「えーと、その格好はなんだい」
おそらく、一枚の綿生地で身体を包んだこの状態のことだろう。
「ふふん、湯浴みをしていました!」
論破した。
「いや、そうじゃなくて」
小町は背負った大鎌をよっと持ち上げた。そして刃の一面に息を吹きつけ、きゅっきゅと自身のスカートで表面を磨く。よし、と頷いた小町がこちらにその刃の側面を向けた。
「ふん、何が目的か知りませ……ん、が……」
一笑に伏してやるつもりで鎌の表面を覗いた。
――途端、華扇は言葉を失った。
「あー、そのだね」
磨き上げられた表面は鏡のように世界を映し、そしてその世界に華扇はいる。濡れそぼり、いまだに水滴を零す髪の毛。少し自分でも気にしている幼さの残る相貌。間抜けに開け放たれた自分の口。なによりも、
「その頭の耳は、何の趣味だい」
華扇の頭部にちょこんと乗った、一揃いの猫耳。
「な――――ぇ」
なんてことだ。
先ほどの術の影響が、まだ残っている。
「やれやれ、新しい世界の扉を開いちまったようだね。あたいには眩しくてその先が見えないよ」
「ち、ちがっ……!」
「好きなだけ邁進してくれ。その道を歩むならあたいとはずっともう、平行線さ」
「これは違うのです! 話を……!」
「帰るよ、邪魔して悪かったね」
「待って! 待ちなさい!」
常々人の話を聞かない輩だとは思っていたが、ここまで人の話を聞かないとは。
まるで何かから目を逸らすようにして、小町はそそくさとその場を去った。
取り残されたのは、呆然と立ち尽くす華扇ただ一人。がくりと、華扇の膝が床を叩いた。
「な、なんていう失態を……」
小町へと伸ばしていた手は、力なく落ちた。
そうして、しばらく。
「やぁ、猫仙人様。今日は猫耳しないのかい?」
「潰しますか」
疑問は直感的なものだ。違和感といっても差し支えない。目に映るのはいつもの見慣れた我が家の内装だし、確かに時たまこんな世界を見たこともある。そう、例えば朝の起床の際とかに。
そうだ。はた、と気付く。この光景は、まさしく朝の光景だ。早朝を告げる動物の鳴き声と共にゆっくりと浮上していく自分の意識。寝ぼけ眼をゆっくり開き、ぼんやりと捉えるおぼろげな世界。無我の最中でありながらも、何千回と繰り返せば嫌でも記憶に焼きつく。
違和感の正体とは、この圧倒的な視界高の不足だ。朝の光景とは、起床した時点での視界であり、つまり今の高さは起床時の横たわった状態での視点、ということなのだろう。
そんな朝の光景が、何故に目の前に広がっているのか。意識はしっかりとしているし、既に日は昇りきっていて正午を回りきっている。昼食を食べたのはずいぶん前だし、午後三時にはおやつも食べた。今日のおやつは人里で最近有名な洋菓子を買ってきた。しょーとけーきというらしいが、新鮮な果物をくりぃむと一緒に挟み込むとはこれまた素晴らしく美味であった。次はみるふぃーゆだ。
……まあ、見聞を広めるためです。ええ、ええ。
さて、問題は現在進行形だ。
おやつを食べた後に修行を開始し、今回は魔術の書物をかじってみていた。内容としては使い魔関連のものだ。借りてきたと言い張る霧雨魔理沙から没収したものだが、これまた興味深いものだった。しばらく借りておこう。大丈夫、返すから。
その内容を噛み砕くように模写していたのは覚えている。文章から始まり、図解まであったのは親切であると思った。そんな風に感じながら、文章と同様に図解も模写し……なるほど。
そうことか。華扇は何が起きているかはともかく、このような事態に陥った元凶は把握した。
まるで白昼夢のように訪れたこの状態。
何者でもない、自分自身のポカが原因だ。自分が描いた図解とは、つまりは魔法陣の類だったのだろう。さすがに本物の魔力を取り扱う書物を気軽に模写してしまっていたのは、気を抜きすぎだった。
さて困った。何かしらの弾みで身体が縮んだことが起因しているのだろう。とにかく考えるべきは解呪の方法だ。術の暴発が魔導書によるものなら、解呪の方法もまた魔導書にあるはず。読めばわかる、というのは都合がいいかもしれないが、取っ掛かりみたいなものは得られるはずだ。
思い立ったが即行動とばかりに、華扇は身体を動かす。身体は相当縮んでいるみたいで、視界の高さはそれこそ膝丈よりも低い程度だ。しかし、それに反して身体はよく動く。すっと頭を上げ、卓上を視線に収める。大丈夫、大した高さではない。術を使って飛ぶまでも無く、一息に跳躍して飛び乗った。
あったあった。
華扇の目の前には、似たような図柄が並んだ二枚の書物があった。そうしてもう一つ、
「にゃー」
猫だ。名前はマキビシ。ついこの間拾ってきて、さてこいつにどのような役目を与えようかと悩んでいた動物だ。今回の使い魔関連の魔導書に興味が沸いた原因だったりもする。地獄の猫は参考にしたくないし、八雲の猫は放任主義のようだし。
卓上を見やると、ところどころに黒い肉球痕が確認できる。模写に使用していた巻物にも同様で、自分が模写したほうの魔法陣の中央に、肉球痕がある。おかしい、あんなものを描いた覚えは無い。覚えているのは、魔法陣を模写したところで休憩を挟んだ事、そして模写の最中にマキビシの姿は無かった事だ。となると、答えはおのずと浮かんでくる。
華扇はふぅと息をつく。やれやれと、しかし一つ謎が解明された事への安堵の息だ。
「にゃー」
あなたが原因でしたか、と。
「…………にゃあ?」
言った筈、なんですけどねぇ?
「にゃ、にゃあにゃあ?」
あれ、あれあれ?
「にゃあー?」
えっと、つまり?
華扇は己の手を目の前に持ってきた。
ふっさふっさ。
その手で卓上をバンバン叩く。
ぽふぽふ。
なんとも気の抜けた音が響いてくるではないか。ははは、愛いやつめ愛いやつめ苦しゅうないぞははは。
……あー、うんそんな感じ。なんかマキビシ拾った晩にそんな事やってましたねー。
今この時になって、華扇はようやく自分に降りかかったモノの正体を思い知った。
「にゃあぁ…………」
ええい、そんな悩んでいても仕方ないではないか。起こってしまった物は仕方ないのだ。
華扇は腹をくくって、魔導書に向き合った。どうせやることは変わらないのだ。ならば一刻も早く解決策を見つけてやろうではないか。マキビシはとっととどっかへ行ってしまったようだ。幼いから仕方ないかもしれないが、イタズラも放置すればこんなことも発生し得るとわかった。近いうちにそれなりの躾を施す必要があるだろう。
しかしまあ、肉球がページをめくりづらい事めくりづらい事。爪を伸ばして引っ掛けるが、それすらコツがいる。しかも自分が縮んだ事により、相対的に魔導書が巨大だ。視界に収めるべき面積が広すぎて速読すら使えない。一文字一文字を追っていくしかないとは非効率極まりない。
だが、しばらくしてようやく目的の部分が見つかった。
これだ。項目は、使い魔との簡易的な肉体情報の共有。ようは使い魔に自分を補佐させるのに効率的な、例えば人間形態を与えるための術式のようだ。図解されている魔法陣に、情報共有元の体液を含んだ契約印を刻むことが条件。ただし、あくまで簡易であるため契約書を破棄すれば即座に解除が可能である、と。
なるほど、墨が浸された硯に片足つっこんだマキビシが魔法陣を踏んだ事で、簡易契約が結ばれてしまったわけだ。
自分が読んでいた項目は魔法陣の直前で止まっていた。どうやら項目の最初に図解がくる形式の魔導書のようだ。この形式はわかりづらいんですよねぇ、と。
とにかく元に戻る方法はわかった。幸い魔法陣に使用したのは墨だ。水にでも落としてやればすぐに掻き消えるだろう。
蹴っとばして床上を転がして浴場までいこう。そう思い、後ろ足を振り上げた瞬間、
「やぁ茨華仙。様子を見に来たよ。いやいやあたいの勤勉さには涙が出るね」
盛大にずっこけた。
「おやぁ留守かい。やれやれ、窓も閉めずに無用心なもんだ」
はっはっはと笑いながら突如現れた小野塚小町は窓枠から姿を消す。方向からして、おそらく表玄関へ向かったのだろう。
まずい。とにかくまずいと、華扇は直感する。
華扇は想像する。しばらくすればこちらに来るだろう小町を素直に猫の姿で出迎え、魔導書を読めと必死にアピールして、現状を理解させる…………おいおい待ってくれ。
それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。何が悲しくてこんな醜態さらして、これから未来永劫ずっとからかわれる様なドジを披露しなきゃならんのだ。これから会う時、きっと小町はこのように挨拶をしてくるのだ。
『やぁ、猫仙人様。今日は人間のままかい? 猫にはならないのかい? ん? ん? んー?』
想像しただけで右腕が荒ぶる。包帯の封印を解くこともやむを得ない事態だ。黄昏参戦にはまだ早い。
「まったく、玄関さえ施錠してないじゃないか。玄関さえしっかり鍵をかってあれば素直に退散するツモリだったが、やれやれ世話の焼ける仙人様だ。邪魔するよ」
玄関口の開く音と供に小町の声が聞こえる。
だめだ。時間はない。かといって上手い案も浮かばない。
ならば、策は一つしかない。
「にゃー」
誤魔化す。
「おや、子猫ちゃん。ご主人がどこにいったか知らんかね?」
「にゃん?」
「はっはっは、さすがにわからないか。まだ子供のようだし、仕方ないね。化け猫クラスになれば人語も御茶の子さいさいらしい。がんばりな」
「にゃーん」
よし、いける。完全に小町はこちらをただの猫だと思っている。このまま誤魔化しきって、とっとと帰らせるのだ。己の尊厳を守るには、今はこれしかない。
小町はこちらの頭を一撫ですると、開け放たれている窓辺へと向かう。観音開きの扉を閉じて、施錠。よし、と小町は一つ頷く。
「さて、他の部屋も見てやらないとかね。まったくそそっかしい。迂闊華仙に改名するべきだと思わないかい、子猫ちゃん?」
「にゃんにゃーん」
今度殴ろう。
一時の恥はかなぐり捨てるもの。華扇は目の前の誇りよりも未来への誇りを尊重して耐え忍ぶ。
すると、不意に小町に手が伸びてきた。
「えーと、猫はここが気持ちいいんだっけ? ほれほれほれほれ」
華扇の喉元をくすぐる様に、小町の指が踊る。
「にゃにゃにゃにゃ」
ふおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?
猫でよかったと、華扇は心の底から思う。
この未知なる快感は、きっと人間形態であればあられもない嬌声を上げて地べたをのったのったと転がり回っていたはずだ。痴態以外の何者でもない。それくらいはやばい。
猫ならばごろごろ喉を鳴らしていればいい。よかった。本当によかった。
「よっと……おやメスかい」
潰す。今度絶対に潰す。
両脇に手を差し込まれて掲げられた状態から、華扇はジタバタを足掻いて脱出を試みる。
「おやおや、元気なのはいいことだね。ただし、空回るとあんたのご主人と同じになっちまうから程々にしときな」
「にゃー」
余計なお世話だ。
しばらくして、華扇は小町の手からの脱出を成功させた。解放された身体は宙でくるりと回転し、四点着地を見事に成功させる。面白い動きだ。今度体術の参考にしてみようかしら、と。
もはやなりふり構っていられない。小町はすぐには出て行かないようだし、他の部屋も見て回ると言っている。泥棒はしないかもしれないが、こんな破廉恥な輩に我が屋敷中を散策させられるなど、獅子の眼前に兎肉を吊るすようなものだ。からかわれるレパートリーが三倍は膨れるに違いない。
華扇は自分が筆を走らせていた巻物の一部を爪と牙とで破り取る。今まで書いた分がもったいないが、緊急事態だ。
魔導書の解読が完全ではなかったため、契約書の破棄の詳細があやふやだ。火にくべるか、水で崩すか。今回の失敗から、最も短絡的な魔法陣を物理的に破り捨てる事だけは選択肢から外す。一体どんな不具合が起きるかわかったものではない。
「あ、こらお前さんなんてことを」
構うものか。元々自分の物だ。
破りとった紙片を咥え、華扇は浴場へ駆け出す。背中に小町の声が聞こえるが、無視だ。
小さな身体はよく動いた。歩幅が少ない事は仕方ないが、これが本能とばかりに獣の身体はしなやかに全身の筋肉を躍動させた。
しばらくして辿り着いた浴場に、華扇は飛び込んだ。フルタイム入浴を可能とする保温術式が我が屋敷には備わっている。地獄の間欠泉から湯を引く事も考えたが、そもそもの在り方が華扇は気に喰わない。それならば自分でどうにかしてやりますとも。
飛び込んだ先に浴槽を見つけ、跳躍。大きな着水音を立てて、全身が熱い湯に包まれた。口元に咥えていた紙片は一瞬にして紙としての強度を失い、そして紙片に描かれていた墨も湯に溶け出す。
同時、どくんと華扇は自身の大きな鼓動を耳にした。
成功だ。解除された身体共有の術式が、急激に力を失っていく。染み渡るように四肢に神経が伸び続ける。五指に力が行き渡り、強く拳を握り締める。凄まじいほどの充実感だ。猫になったのがこの逆だとしたら、その喪失感はどれほどのものだったのか。気を失ってしまうことも仕方なかったのかもしれない。
「よぉっし! 成功しましたね!!」
ざばぁと熱い水面を跳ね上げ、人間形態となった華扇は力強く立ち上がる。さあ、コレからが本番だ。
華扇は備え付けられている巨大な綿生地を身体に巻きつけ、濡れそぼった髪にも構わず浴場を飛び出した。先ほど走ってきた道を真逆に駆け抜ける。濡れた足と綿生地を押さえた手では速度を出せない。不恰好な走り方だと自覚しながら、華扇は書斎へと辿り着いた。
「おや、いたのかい仙人様。あー……実はね」
目前には先ほど華扇が破り取った巻物を手に、どうしたものかと頭を掻いている小町の姿があった。言い訳でも探しているのか。破ったのは自分なのだから気にしなくてもいいのに、と。今は後回しだ。
「あらあらあらあら死神! 不法侵入とは褒められた趣味ではありませんね! しかも私が湯浴みをしている最中に! 湯・浴・み・を! している最中に!!」
「なんで強調するんだい」
「ともかく!」
小町へ向かって、びっと。
「これは説教が必要ですね!!?」
決まった。華扇は確信した。
自分は湯浴みをしていた。その隙に不法浸入を果たした死神を発見した。不法侵入とはなんと許しがたい。仙人はこの不届き物を叱咤し、そしてありがたい説法をお見舞いする。かくして、今日という一日は終わりを告げるのだ。
なんて、完璧な理論。
人里ではどや顔というものが流行っているらしいが、なるほどこういうことか。気分がいい。高揚した優越感が自然と頬を緩めてしまう。こうか、こうなのであろう?
「あー、仙人様」
「なんです!?」
「えーと、その格好はなんだい」
おそらく、一枚の綿生地で身体を包んだこの状態のことだろう。
「ふふん、湯浴みをしていました!」
論破した。
「いや、そうじゃなくて」
小町は背負った大鎌をよっと持ち上げた。そして刃の一面に息を吹きつけ、きゅっきゅと自身のスカートで表面を磨く。よし、と頷いた小町がこちらにその刃の側面を向けた。
「ふん、何が目的か知りませ……ん、が……」
一笑に伏してやるつもりで鎌の表面を覗いた。
――途端、華扇は言葉を失った。
「あー、そのだね」
磨き上げられた表面は鏡のように世界を映し、そしてその世界に華扇はいる。濡れそぼり、いまだに水滴を零す髪の毛。少し自分でも気にしている幼さの残る相貌。間抜けに開け放たれた自分の口。なによりも、
「その頭の耳は、何の趣味だい」
華扇の頭部にちょこんと乗った、一揃いの猫耳。
「な――――ぇ」
なんてことだ。
先ほどの術の影響が、まだ残っている。
「やれやれ、新しい世界の扉を開いちまったようだね。あたいには眩しくてその先が見えないよ」
「ち、ちがっ……!」
「好きなだけ邁進してくれ。その道を歩むならあたいとはずっともう、平行線さ」
「これは違うのです! 話を……!」
「帰るよ、邪魔して悪かったね」
「待って! 待ちなさい!」
常々人の話を聞かない輩だとは思っていたが、ここまで人の話を聞かないとは。
まるで何かから目を逸らすようにして、小町はそそくさとその場を去った。
取り残されたのは、呆然と立ち尽くす華扇ただ一人。がくりと、華扇の膝が床を叩いた。
「な、なんていう失態を……」
小町へと伸ばしていた手は、力なく落ちた。
そうして、しばらく。
「やぁ、猫仙人様。今日は猫耳しないのかい?」
「潰しますか」
猫仙人かわいい
猫華扇ちゃん飼いたい
やっぱ華扇ちゃんはこういうキャラが合いますねー。
冒頭、体が縮んでしまったという状況が少し分かりづらいかな? と思いましたが、
直接「体が縮んだ」とか書いてしまうと失われる味もある気がしますので難しいところですね。
向学心が強く真面目な華扇と、飄々とした雰囲気の小町の対比がとても魅力的。
特に「こんなことを知られたらあんな風にからかわれるに違いない」と想像して、
しかも結末を見る限り大体当たっていた華扇が好きです。
これもある意味、お互いをよく理解し合った友人関係の一つと言えましょう。
そして、華扇のようなキャラにはやっぱり小町のようなキャラが合うんだな、と再認識しました。
面白かったです。
猫仙人、可愛いじゃないですかー
シニョンの下は猫耳とか噂されるのかなこれはw
どうあがいても小町にからかわれることは確定事項だったわけですね。