「また、桜が咲く、か……」
荒れ果てた屋敷にたった一本残った桜の大樹は、天を仰ぐその腕を淡く桃色に染めようとしていた。
去年のように。一昨年のように。そして、これまでずっとそうであったように。
「また、私は…」
そう呟いた不老不死の少女は、そっと、しかし、どこか忌わしげにその老木へ目をやる。
開きかけた蕾が、風に揺れていた。
桜が咲くたびに、私は置き去りな自分の影に切なさを隠しきれなくなる。
どうしても意識してしまうのだ…私を、永遠不変の鎖に繋がれた私を置いたまま、無情に過ぎてゆく時間を。
かの呪わしい膏薬を口にした瞬間からずっと……。
そしてまた、思い出してしまう。あの日を。あの人を。
土を掘る手を止め、少女は過去に思いを馳せる。
あの日―あれからもう幾年月が経ったかも思い出せないが、今日のように空は澄み、開くその時を待ち侘びた桜の蕾が、静かに風に揺れていたことは覚えている。
不意に、蝶番の外れかけた戸を叩く音――何十年ぶりかに聞く、あの懐かしい音が静寂を破ったのだ。
「御免。」
男のようだった。
来客か、もてなしは……などと思いかけて、唐突にはっとする。
奇妙だ。いや、おかしい。変だ。
とうの昔に見捨てられ――私と一緒に――荒れるに任せて散々に傷み崩れた、この廃屋の如き不気味な屋敷の壊れた戸を、わざわざ叩く者が居るだなんて。
賊か?……いやまさか、訪問を請いなどするはずがない。
たとえそうだったとしても……どだい、最早そんなものは恐ろしくとも何でもないのだ。
兎に角…出向かない訳にはいかないだろう。
誰であれ、客ならば待たせる訳にはいかないだろう。
まさか、私の正体を知っているはずも無いだろうから。
何より、この化物屋敷の主に面会を請う稀有な男が、どんな奴か知りたい。
『ちょうど』暇にしていたところだ。
戸を開けた――いや、外した、と言った方が良いかもしれない。
あまりにも呆気なく、あの頑強だった蝶番は、引っ張られた途端に砂のように崩れ落ちたのだ。
満足して役目を終えたかのような様子を、つい厭わしく思う。
戸の向こうに立っていたのは…やはり男だった。
粗末な旅装束に太刀を一振り佩いているところを見るに、任国へ赴く武人のようだ。
「突然に失礼……私は怪しい者ではございません、恐れ多くも院にお仕えする者ですが…道に迷い、疲れ果てております…どうか一晩、宿らせては頂けませんか?」
やはり……どうにも怪しく思われた。
例え本当にそうだったとしても、この廃墟の戸を叩いたりなどするだろうか?
いや、しかし……かとい盗まれるような物も、もう何も残ってはいないのだ。――私、さえも。
構うまい。
それに、断ったが為にのたれ死なれても困る。
「構いませんよ、どうぞ、中に……『散らかっていても』宜しければ。ただ……その前に、貴方のお名前を伺っておりません。」
しまった、という顔をするが早いか、すまなそうに彼は答えた。
「佐藤……佐藤 義清、と申します。」
烏帽子を取り挨拶する彼の容貌は、まだまだ若い――二十歳ぐらいと見えた。
「私は……妹紅、と申します。」
家名――藤原の姓はあえて口にしなかった。
言おうものなら、面倒な詮索を招きかねないだろう。
不意に、春先のまだ冷たい風が吹きつけてくる。
「中へお入りください。おもてなしも出来ませんが……すみませんね。」
気恥ずかしそうに若人は答える。
「どうぞお構いなく。……こちらこそ、すみません。」
外れた瓦が散らばり、折れた梁が横たわり…ところどころ床に穴まで開いた、荒れ果てた寝殿造りに2人の人影がそっと消えていった。
男――義清は、戸惑っていた。
我が家に伝わる、かの「竹取物語」の秘本。
その結末は、異なったものだった――それこそが、真実だったのだ。
「不老不死になった少女は今も人知れず……」
しかし親も、その親達も「ただのお伽噺」と嗤った。
それでも、彼には或る確信があった。
院に仕える彼は、知っていたのだ。
歴代の帝たちが躍起になって探させていた秘本のことを。
彼らは必死だった。
「神」たる帝を上回る不老不死の人物が現れることを恐れて。
だからこそ、彼にとってはこれがかえって頼みの綱であった。
父祖の縁で、確かに院の衛士とはなったが…特に武芸に秀でている、ということは無いのが実だ。
いつか遠ざけられてしまうことは目に見えている。
だが……
もし万が一にでも、「不老不死の妙薬」を献上できればどうだろうか?
かつて唐土の大国・秦の始皇帝でさえ欲し、ついに叶わなかった――人を「神」へと変える禁断の宝物。
これしかない。
そして蓬莱人の生き胆にはその効用があるという、ならば……
そして彼はとうとう見つけてしまったのである。
見つけてはならなかった――存在してはならない、不老不死の人間を。
しかし……義清は、困惑した。
自分の想像した、「不老不死の幸福」……そのようなものは何処にも無かった。
近い者は皆とっくの昔に死に絶え、崩れかけたあばら家に、それでも死ぬことも出来ず――たった独りで「生きる」こと。
生きとし生ける全ての人の夢は、理想は、桃源郷は……かくも儚い幻想だったのか?
「いつまでも生きられたら」、そんな……誰もが抱く、希望は……?
いつか聞いた説教が反芻する。
「夢は夢だからこそ夢であり続けられる」
若者には、立ち尽くすことしかできなかった。
かくも恐ろしい物を献上しようなどという愚かな発想は、既に義清の意中にはなかった。
寧ろ身を滅ぼしかねない――かえって恨まれるだろう。
……しかし。
そうとはいえ、このまま何もなく帰るというのはあまりに口惜しい。
奥歯をぐっと噛み、こみ上げるものを押さえこむ。
せめて、真実を知りたい。
我が命運をかけた、この旅路の答えを。
戸を叩く彼の手に、迷いは無かったのだった。
「こちらへどうぞ。……一番『片付いて』いますから。」
私は、彼を縁側へ――あの桜の見える処へ通した。
流石に、汚い部分を見せたくはない……もう手遅れかもしれないが。
「失礼いたします。……満月の頃、でしょうか?」
意味のわからない答えに思わずたじろぐ。
彼はどうやら察してくれたようだ。
「ああ、いえ……この桜ですよ。」
その言葉にはっとする。
突如として襲い来た、めまいがするような感覚。
そうだ――桜だけではない。
いつしか私は、月さえも見なくなっていたのだ。
なのに、この人は、この『普通の』人間は――
「そ、そうですね……」
私には、ただぼんやりと、その場しのぎの言葉を返すことしか出来なかった。
冷たい風がまた、そっと私の伸びきった長い髪を撫でた。
「さて。」
太刀を外し、傍らに置いた若武者は優しく言う。
「歌、はご存知ですか?」
……歌?
武人が歌を持ち出すとは――しかし、きっと詠みもするのだろう。
本当に、この人は一体……?
思わず彼を見つめる。
向こうの方が戸惑ってしまったらしい。
「いえ、すみません……変な質問でしたね。」
気まずそうに顔を背ける彼に、悪いことをしたような気がして……私もまた、目を傍らへ反らす。
割れた床板から小さな花が覗いていた。
「知っております……一通りは。」
唐突にもぞり、と人の動く音。
「本当ですか!?良かった!」
身を乗り出し、嬉しそうに私を見つめる若武者。
まるであどけない子供のようだ―弓矢執る身とは思えない姿に、つい笑みを零してしまった。
あっ、と小さく声を漏らして姿勢を正す彼の様子がまた可笑しくて笑ってしまう。
壊れかけた屋敷、温かな日の差す縁側で、年をとり過ぎた少年と少女は親しげに語り合い続けた。
暮れてゆく日さえ気に掛けず、私たちは話し続けた。
歌の話。昔の話。世間話。物語。
変わる空の色さえ、私の目には入らなかった。
話題が尽きることもなかったのである。
それも当然だ―片や貴族の生まれで数百年を生きる人間、もう一方も良家の出で、院の近衛。
やがて月明かりが私たちを照らす頃、それに気付いてか彼は優しく言った。
「満月が……待ち遠しいですね。」
月が満ちる時。その時、この桜も咲き誇るのだ。
不思議と、この時に限って…咲いてほしい、と私は思った。
「そうですね。……この、桜も。」
この人と一緒にこの桜を見たい。
何百年もの暗い過去から抜け出した感情が、私に戻ってくるのを感じた。
「ところで」
月にかかった雲が、そっと私たちのまわりを暗くする。
「こんな話を知っていますか?」
闇に紛れ1冊の草紙を取りだした彼は、徐にそれを読み始める。
「竹取物語」
何か嫌な予感がした。
よりにもよって…この物語が出てくる、なんて。
何より、聞きたくない話だ。
「いえ……知っておりますよ、大丈夫です」
彼には悪いとは思いながら――話を遮ろうとする。
「ですが……この物語の本当の結末はご存知ですか?」
「……結末?本当、の?これは作り物語ではないのですか?」
その答えは自分が最もよく知っている。真実なのだ。
しかし、本当の結末、というのは……?
無邪気な好奇心が、そっと無情に私に囁きかける。
耳を貸さなければ良かったのに。
「本当の結末、とは何でしょう?」
聞いてしまった。
ふいにゆるりと動いた雲が、溢れだした月の光を彼の顔に注ぐ。
にこりと笑う、照らし出された彼の顔はどこか、不気味に思えた。
「では。お話ししましょう。」
沈んでゆく月が照らす、朽ちかけた縁側。
静かに草紙を開いた若者は、優しい声で、少女に読み聞かせる。
一番鳥が鳴いた。
しかし……私はそれどころではなかった。
彼が語ったこと。
それは紛れもない――真実だったのだ。
言葉も返せず、ただ愕然とする。
まさか……?
読み終えた草紙をぱさり、と閉じる彼。
しばしの静寂。
突如として、静けさを二番鳥が破る。
「もう夜も開けましたね……流石に、疲れました。」
言い終わるが早いか、彼はぱたり、と倒れこむ。
本当に疲れていたのだろう、もう眠ってしまったようだ。
あどけなさの残る寝顔にどこか安心する。
……そうとは言っても、きっと彼は――私がそれ、だとは知らないだろう。
知っていたら……もう……
私も、疲れた。
懐かしい感覚がまた蘇る。
自然な眠りは、優しく私を包み込んだ。
「お起きになりましたか?」
目をこすりながら身を起こす私に、彼は声を掛ける。
すこし戸惑ってから、彼は言った。
「やはり、貴女が――あの……」
かの悪い予感は当たってしまったのだ。
「……知っていたのね。」
気まずそうに俯いた彼は小さく、「はい。」と答える。
「それで?……私の生き胆を食おう、とでも?」
下を向いたままの彼の頬が、少し赤らんだように見えた。
ほんとうに……この人は、弓矢執る身には向いていない。
そうふと思った時、彼はおもむろに口を開いた。
隠しきれない、と思ったのだろうか。
彼は全てを話してくれたのだった――彼の知った、非情な真実さえも。
沈んでゆく夕陽の赤が、彼の涙を照らした。
「分かったわ。……良いのよ、そういうことなら、別に。」
安心した……と言えば、少し大げさかもしれない。
生き胆を取られたところで、『ちょっと』痛いぐらいでしかないのだから。
むしろ何より、本当に安心したのは彼の方だったようだ。
「宿もないのでしょう?――構わないわ、ここに居ても。」
気まずそうにしていた彼から笑みが零れる。
そして私は…自分でも、どうしてこんなことを言ったのか分からなかった。
ふと見上げれば、満ちかけの月が、空にぼんやりと浮かんでいた。
それからまた一晩、また一晩と彼と語り明かした。
それは本当に楽しくて…今までの寂しさを、切なさを、みんな忘れてしまいそうになる。
彼と夜通し語り合って、戯れ合って、朝日が昇れば眠る。
いつまでも続くなら――こんな日が続けばいいのに……。
なのに。
いつもは私を置き去りにしている癖に…どうして、今だとばかりに追いかけてくるのだろう?
こんな時に限って無情に早く過ぎ去ってゆく時間を、やってくる朝を恨みながら横になる。
義清は苦悶していた。
あの「お伽噺」――かの不老不死の少女は実在したのだ。
しかし、この自分が…彼女の数百年の孤独を、沈黙を――堅く閉ざした氷の扉を破ってしまった。
崩れた孤独から溢れる、「求める」心。
幾百年の長きに渡る寂しさを埋める人の心が、彼女にとってどれほど温かいことか……?
数年の孤独の私にとってさえ、そうなのだから。
そして――私もまた、彼女を好きになってしまっているのだ。
わずか数日前までずっと……その体に刃を突き立てんとしていた少女を。
かくて私はまた、今日も変わらずここに居る。
……これで良いのだろうか?
長く一緒に居れば居るだけ、その別れはますます酷く心を傷つけるものとなる。
……でも。
義清は苦悩した。
その別れは、私には来ないのだ。
長く居たい。一緒に語りたい。話したい。もっと……
でも、それだけ深く、むごく、彼女の心を抉ってしまう運命が待っている。
「永遠の命」――ここでもまた、彼女を苦しめるのか。
いや、まさか――。
彼女がこんな場所に住んでいるのは……?
その答えに思い当って、思わず地団太を踏む。
歯をぐっと食いしばり、額に手を押しつける。
気付くべきだったのだ――彼女の孤独の訳に。
出会いがあるから別れがある。
だから……別れの悲しみのために孤独の辛さを耐え続ける、これが「永遠の命」なのか?
堅く握りしめた手が震えを帯びる。
情けなさに、頬を伝って零れ落ちた涙。
星空を黒く染め、満ちた月を塗りつぶし突然に降り始めた雨は、彼の涙を隠した。
水の落ちる怒涛の音のなか、男の慟哭が聞こえてくる。
崩れそうな屋敷から足取りも覚束なく――逃げるように出てきた人影は、暗い森の中へ吸い込まれていった。
私が起きたとき……そこに、あの人――起こしてくれる人の影は無かったのだ。
壊れた屋根を叩きながら、土砂降りの、季節外れな雨は酷い音を立てていた。
彼は何処に居るのだろう?……汚い部屋に入っていなければいいけど。
ふと見る、庭。
あの桜が……散っていく……
打たれた花びらが名残惜しそうに、どこか悔しそうに、はらりと落ちる。
とうとう満開を見せられなかったな……あんなに楽しみにしてくれていたのに。
しかし、不思議とどこか……自分もまた、残念に思っているのだ。
あの桜―咲かないでほしいと願った、あの桜が散ることを。
どうか、これ以上――散らさないでほしい!
初めて身を流れる感情。
こんな私の空しい願いさえも、轟々と雨音はかき消していく。
それよりも……あの人は何処に?
腕に力を込め、重い腰を上げる。
探さなきゃ。
立ち上がり、顔を上げる。
そうだ――きっと、あの桜の裏にでも居るのだろう。
駆け出す。
勢いを増す雨のなか、裸足の少女は古い桜に走り寄る。
濡れた銀白の髪の筋が鈍く…妖しく、光った。
果たして、桜の裏に彼―気付かず想い人となった、あの客人は――居ないのだった。
嫌な予感が胸を刺す。
そんな、まさか。
濡れた肩が震えだす。
いやだ……!
焦りと戸惑いが駆け巡る。
何処に居るの……?ねぇ……出てきてよ!
私は思わず、また走り出す。
彼の名を呼びながら、泣きながら――祈りながら。
庭に彼の姿は無かった。
どうして……出てきてくれないの?
転びそうになりながら、屋敷に駆け入る。
どうか……どうか!
壊れた柱に、床の板に、落ちた梁につまづいて転ぶ。
膝を打ち、腕を打ち、顔を打っても立ち上がった。
きっと、きっと居るんだから……!
しかし、全てが無駄だったのだ。
屋敷中を駆け巡って、ようやく私は気付いた。
彼はいない。彼は――居ないのだ、と。
力が抜け、落ちるように座り込む。
そうか、私は……また……
目からぼろぼろと溢れる涙が、乾ききった床に滲みてゆく。
また、なのか…
床に突いた手を、鮮やかな赤が伝い落ちる。
……独り、棄てられたのか。
こらえられないものが、喉に、目に、頬にやってくる。
食いしばる歯が、力なく緩む。
声を上げて、私は泣いた。
気付かず怪我をした足から、紅の血が零れ落ちる。
どうして?……どうしてなの?
暗い部屋。
張られた蜘蛛の巣がだらしなく垂れ下がる部屋で、不死の少女は慟哭する。
その床に、紅の滲みを描きながら。
――これでもまだ、私は死ねないのか。
一晩泣き明かして、私の心も段々と落ち着いてきた。
しかし、それも束の間だった。
……あの人が恨めしい。
あの人に会ったがばかりに、話したがばかりに――
――私はまた、孤独の辛さを思い出してしまった。
悔しさにむせび泣く。
こんなことなら――会わなかったらよかったのに!
思わず立ち上がり、外へと走り出る。
雨はまだ、降り続いていた。
花がみんな散ってしまった桜が、枝と幹だけの無残な姿を晒していた。
天を仰ぎ、叫ぶ。
「どうか!どうか、神様……誰でも良い!もし居るのなら――聞いてくれているのなら……!」
降る雨は、より一層激しさを増す。
「私を!私を……!」
空しい願い。分かっている。
それでも――
私は、私の非力を恨むよりほかなかった。
長々と、ただ雨が降り続いていた。
義清は決意していた。
だからこそ、ここへやってきたのだ。
刀を棄て、家を棄て、名を棄て職を棄て――こうして今、自分は鞍馬山の山門に居る。
「御免!」
迷いなく上げた声が木霊する。
ゆっくりと、重々しく開いた門扉から僧が一人、出迎える。
「よくぞいらっしゃいました……さあ、こちらへ。」
僧に導かれるまま、男は後に従って登ってゆく。
永遠の命に焦がれて生きる人の宿命に、永遠の命の、永遠ゆえの悲しみに、そして――そんな命に恋い焦がれた我が身に失望した男は、髪を下ろすことにしたのだった。
「西行」、それが彼の新しい名。
「あれからどれくらいになるんだろうな……」
朽ちかけた縁側に座った少女は、咲いた桜に降る雨を眺めつつ思う。
何十年もの月日がまた、老いることのない彼女を置いたまま過ぎていたのだった。
降り続いた雨はいつの間にか止み、雲間から差す日が桜を照らす。
ふと、目に付く物がある。
「あれは……?」
雨に抉れた大地から覗くもの。
「あんな物、あったかしら?」
そっと近づいてみる。
照り映える綺麗な布の模様――包みのようだ。
細長い「それ」は少し重く、泥から引き抜くのにも苦労した。
「これは……?」
巻かれた紐を解き、そっと包みを開く。
現れたもの。
それに、彼女は見覚えがあった。
「あの人の刀だ……!」
不思議だ……あれからこんなに経ったのに……
あの日見たそのままの姿に、思わず息をのむ。
それは寧ろ生々しさすら感じさせた。
持ち上げてみる。
その重さにまた時間を感じるようで、あの切なさを思い出す。
どうして、今頃――?
また暗い雲が、日を覆い隠した。
開かれた布に目を落とす。
その先にある木の板に、自然と目が留まった。
描かれた墨の筋。
字が書かれているようだ。
刀を起き、そっと拾い上げてみる。
書かれた文字を目で追う。
和歌、だろうか。
「願はくは 花の下にて 春死なん」
その先の句に、私の目は――私の身体は、釘付けとなった。
「そのきさらぎの 望月のころ」
木片にそっと、水滴が落ちる。
あれ、どうして?私……?
本当の心が、ぽろぽろと零れ落ちていく。
滲んだ目の前――見えなくなった歌が心の中で何度も、何度も繰り返す。
いつしか降りだした雨。
私は全てを知った。
あの日――今日のように降った雨が、満月を隠してしまった。
それだけでない、満開の桜まで散らしてしまった。
彼も、ほんとうは……見たかったのだ、満ちた月を、咲き誇る桜を。
でも。
降りしきる雨のような運命。
いつか必ずやってくる別れ。
見てしまえば、きっと別れられなくなってしまう。
だからこそ……!
彼は私を棄てたんじゃない!
私のために。こんな私のために……!
「本当に……」
目から落ちるしずく、一筋。
「優しい、人。」
目から涙を零しながら、少女はくすっ、と笑った。
「あは、はは……は……は……」
小さな笑い声は、次第に涙声に変わる。
「でも……!」
きつく歯を食いしばり、少女は、どん、と強く桜を叩く。
「その優しさが――!」
切れた手から血が滴る。
嗚咽。
「私には……もっと、もっとつらいのに!苦しいのに!」
あの優しさを、もう届かないあの心を抱いたまま――それでも、生き続けるしかない宿命。
泣き崩れ、老木の幹に彼女はすがる。
無情に降り続ける雨だけが、少女を撫でた。
「あれからもう、どれぐらいになるのだろう……?」
桜の咲く、粗末な草庵。
焚いた火を前に、石に腰かけた老僧はぽつり、と呟く。
「煩悩、か。」
笑った彼はおもむろに、1冊の草紙を懐から取りだす。
表紙は折れ、泥が滲み、端は擦り切れている。
「これで、良いんだ……」
手に持ったそれを、彼はいたわる様に、火にくべる。
「――さようなら。」
うっすらと浮かぶ昼の月にそっと願いを込め、手を合わせる。
舞い上がった灰が、うっすらと桜を霞ませる。
この煙が、どうかあの月へ届きますように……
また、桜が咲く。
「散る桜 残る桜も――」
うそぶいた少女は、その桜も――土を掛けたその根元をも振りかえることもなく、崩れかけた、扉のない門を後にした。
荒れ果てた屋敷にたった一本残った桜の大樹は、天を仰ぐその腕を淡く桃色に染めようとしていた。
去年のように。一昨年のように。そして、これまでずっとそうであったように。
「また、私は…」
そう呟いた不老不死の少女は、そっと、しかし、どこか忌わしげにその老木へ目をやる。
開きかけた蕾が、風に揺れていた。
桜が咲くたびに、私は置き去りな自分の影に切なさを隠しきれなくなる。
どうしても意識してしまうのだ…私を、永遠不変の鎖に繋がれた私を置いたまま、無情に過ぎてゆく時間を。
かの呪わしい膏薬を口にした瞬間からずっと……。
そしてまた、思い出してしまう。あの日を。あの人を。
土を掘る手を止め、少女は過去に思いを馳せる。
あの日―あれからもう幾年月が経ったかも思い出せないが、今日のように空は澄み、開くその時を待ち侘びた桜の蕾が、静かに風に揺れていたことは覚えている。
不意に、蝶番の外れかけた戸を叩く音――何十年ぶりかに聞く、あの懐かしい音が静寂を破ったのだ。
「御免。」
男のようだった。
来客か、もてなしは……などと思いかけて、唐突にはっとする。
奇妙だ。いや、おかしい。変だ。
とうの昔に見捨てられ――私と一緒に――荒れるに任せて散々に傷み崩れた、この廃屋の如き不気味な屋敷の壊れた戸を、わざわざ叩く者が居るだなんて。
賊か?……いやまさか、訪問を請いなどするはずがない。
たとえそうだったとしても……どだい、最早そんなものは恐ろしくとも何でもないのだ。
兎に角…出向かない訳にはいかないだろう。
誰であれ、客ならば待たせる訳にはいかないだろう。
まさか、私の正体を知っているはずも無いだろうから。
何より、この化物屋敷の主に面会を請う稀有な男が、どんな奴か知りたい。
『ちょうど』暇にしていたところだ。
戸を開けた――いや、外した、と言った方が良いかもしれない。
あまりにも呆気なく、あの頑強だった蝶番は、引っ張られた途端に砂のように崩れ落ちたのだ。
満足して役目を終えたかのような様子を、つい厭わしく思う。
戸の向こうに立っていたのは…やはり男だった。
粗末な旅装束に太刀を一振り佩いているところを見るに、任国へ赴く武人のようだ。
「突然に失礼……私は怪しい者ではございません、恐れ多くも院にお仕えする者ですが…道に迷い、疲れ果てております…どうか一晩、宿らせては頂けませんか?」
やはり……どうにも怪しく思われた。
例え本当にそうだったとしても、この廃墟の戸を叩いたりなどするだろうか?
いや、しかし……かとい盗まれるような物も、もう何も残ってはいないのだ。――私、さえも。
構うまい。
それに、断ったが為にのたれ死なれても困る。
「構いませんよ、どうぞ、中に……『散らかっていても』宜しければ。ただ……その前に、貴方のお名前を伺っておりません。」
しまった、という顔をするが早いか、すまなそうに彼は答えた。
「佐藤……佐藤 義清、と申します。」
烏帽子を取り挨拶する彼の容貌は、まだまだ若い――二十歳ぐらいと見えた。
「私は……妹紅、と申します。」
家名――藤原の姓はあえて口にしなかった。
言おうものなら、面倒な詮索を招きかねないだろう。
不意に、春先のまだ冷たい風が吹きつけてくる。
「中へお入りください。おもてなしも出来ませんが……すみませんね。」
気恥ずかしそうに若人は答える。
「どうぞお構いなく。……こちらこそ、すみません。」
外れた瓦が散らばり、折れた梁が横たわり…ところどころ床に穴まで開いた、荒れ果てた寝殿造りに2人の人影がそっと消えていった。
男――義清は、戸惑っていた。
我が家に伝わる、かの「竹取物語」の秘本。
その結末は、異なったものだった――それこそが、真実だったのだ。
「不老不死になった少女は今も人知れず……」
しかし親も、その親達も「ただのお伽噺」と嗤った。
それでも、彼には或る確信があった。
院に仕える彼は、知っていたのだ。
歴代の帝たちが躍起になって探させていた秘本のことを。
彼らは必死だった。
「神」たる帝を上回る不老不死の人物が現れることを恐れて。
だからこそ、彼にとってはこれがかえって頼みの綱であった。
父祖の縁で、確かに院の衛士とはなったが…特に武芸に秀でている、ということは無いのが実だ。
いつか遠ざけられてしまうことは目に見えている。
だが……
もし万が一にでも、「不老不死の妙薬」を献上できればどうだろうか?
かつて唐土の大国・秦の始皇帝でさえ欲し、ついに叶わなかった――人を「神」へと変える禁断の宝物。
これしかない。
そして蓬莱人の生き胆にはその効用があるという、ならば……
そして彼はとうとう見つけてしまったのである。
見つけてはならなかった――存在してはならない、不老不死の人間を。
しかし……義清は、困惑した。
自分の想像した、「不老不死の幸福」……そのようなものは何処にも無かった。
近い者は皆とっくの昔に死に絶え、崩れかけたあばら家に、それでも死ぬことも出来ず――たった独りで「生きる」こと。
生きとし生ける全ての人の夢は、理想は、桃源郷は……かくも儚い幻想だったのか?
「いつまでも生きられたら」、そんな……誰もが抱く、希望は……?
いつか聞いた説教が反芻する。
「夢は夢だからこそ夢であり続けられる」
若者には、立ち尽くすことしかできなかった。
かくも恐ろしい物を献上しようなどという愚かな発想は、既に義清の意中にはなかった。
寧ろ身を滅ぼしかねない――かえって恨まれるだろう。
……しかし。
そうとはいえ、このまま何もなく帰るというのはあまりに口惜しい。
奥歯をぐっと噛み、こみ上げるものを押さえこむ。
せめて、真実を知りたい。
我が命運をかけた、この旅路の答えを。
戸を叩く彼の手に、迷いは無かったのだった。
「こちらへどうぞ。……一番『片付いて』いますから。」
私は、彼を縁側へ――あの桜の見える処へ通した。
流石に、汚い部分を見せたくはない……もう手遅れかもしれないが。
「失礼いたします。……満月の頃、でしょうか?」
意味のわからない答えに思わずたじろぐ。
彼はどうやら察してくれたようだ。
「ああ、いえ……この桜ですよ。」
その言葉にはっとする。
突如として襲い来た、めまいがするような感覚。
そうだ――桜だけではない。
いつしか私は、月さえも見なくなっていたのだ。
なのに、この人は、この『普通の』人間は――
「そ、そうですね……」
私には、ただぼんやりと、その場しのぎの言葉を返すことしか出来なかった。
冷たい風がまた、そっと私の伸びきった長い髪を撫でた。
「さて。」
太刀を外し、傍らに置いた若武者は優しく言う。
「歌、はご存知ですか?」
……歌?
武人が歌を持ち出すとは――しかし、きっと詠みもするのだろう。
本当に、この人は一体……?
思わず彼を見つめる。
向こうの方が戸惑ってしまったらしい。
「いえ、すみません……変な質問でしたね。」
気まずそうに顔を背ける彼に、悪いことをしたような気がして……私もまた、目を傍らへ反らす。
割れた床板から小さな花が覗いていた。
「知っております……一通りは。」
唐突にもぞり、と人の動く音。
「本当ですか!?良かった!」
身を乗り出し、嬉しそうに私を見つめる若武者。
まるであどけない子供のようだ―弓矢執る身とは思えない姿に、つい笑みを零してしまった。
あっ、と小さく声を漏らして姿勢を正す彼の様子がまた可笑しくて笑ってしまう。
壊れかけた屋敷、温かな日の差す縁側で、年をとり過ぎた少年と少女は親しげに語り合い続けた。
暮れてゆく日さえ気に掛けず、私たちは話し続けた。
歌の話。昔の話。世間話。物語。
変わる空の色さえ、私の目には入らなかった。
話題が尽きることもなかったのである。
それも当然だ―片や貴族の生まれで数百年を生きる人間、もう一方も良家の出で、院の近衛。
やがて月明かりが私たちを照らす頃、それに気付いてか彼は優しく言った。
「満月が……待ち遠しいですね。」
月が満ちる時。その時、この桜も咲き誇るのだ。
不思議と、この時に限って…咲いてほしい、と私は思った。
「そうですね。……この、桜も。」
この人と一緒にこの桜を見たい。
何百年もの暗い過去から抜け出した感情が、私に戻ってくるのを感じた。
「ところで」
月にかかった雲が、そっと私たちのまわりを暗くする。
「こんな話を知っていますか?」
闇に紛れ1冊の草紙を取りだした彼は、徐にそれを読み始める。
「竹取物語」
何か嫌な予感がした。
よりにもよって…この物語が出てくる、なんて。
何より、聞きたくない話だ。
「いえ……知っておりますよ、大丈夫です」
彼には悪いとは思いながら――話を遮ろうとする。
「ですが……この物語の本当の結末はご存知ですか?」
「……結末?本当、の?これは作り物語ではないのですか?」
その答えは自分が最もよく知っている。真実なのだ。
しかし、本当の結末、というのは……?
無邪気な好奇心が、そっと無情に私に囁きかける。
耳を貸さなければ良かったのに。
「本当の結末、とは何でしょう?」
聞いてしまった。
ふいにゆるりと動いた雲が、溢れだした月の光を彼の顔に注ぐ。
にこりと笑う、照らし出された彼の顔はどこか、不気味に思えた。
「では。お話ししましょう。」
沈んでゆく月が照らす、朽ちかけた縁側。
静かに草紙を開いた若者は、優しい声で、少女に読み聞かせる。
一番鳥が鳴いた。
しかし……私はそれどころではなかった。
彼が語ったこと。
それは紛れもない――真実だったのだ。
言葉も返せず、ただ愕然とする。
まさか……?
読み終えた草紙をぱさり、と閉じる彼。
しばしの静寂。
突如として、静けさを二番鳥が破る。
「もう夜も開けましたね……流石に、疲れました。」
言い終わるが早いか、彼はぱたり、と倒れこむ。
本当に疲れていたのだろう、もう眠ってしまったようだ。
あどけなさの残る寝顔にどこか安心する。
……そうとは言っても、きっと彼は――私がそれ、だとは知らないだろう。
知っていたら……もう……
私も、疲れた。
懐かしい感覚がまた蘇る。
自然な眠りは、優しく私を包み込んだ。
「お起きになりましたか?」
目をこすりながら身を起こす私に、彼は声を掛ける。
すこし戸惑ってから、彼は言った。
「やはり、貴女が――あの……」
かの悪い予感は当たってしまったのだ。
「……知っていたのね。」
気まずそうに俯いた彼は小さく、「はい。」と答える。
「それで?……私の生き胆を食おう、とでも?」
下を向いたままの彼の頬が、少し赤らんだように見えた。
ほんとうに……この人は、弓矢執る身には向いていない。
そうふと思った時、彼はおもむろに口を開いた。
隠しきれない、と思ったのだろうか。
彼は全てを話してくれたのだった――彼の知った、非情な真実さえも。
沈んでゆく夕陽の赤が、彼の涙を照らした。
「分かったわ。……良いのよ、そういうことなら、別に。」
安心した……と言えば、少し大げさかもしれない。
生き胆を取られたところで、『ちょっと』痛いぐらいでしかないのだから。
むしろ何より、本当に安心したのは彼の方だったようだ。
「宿もないのでしょう?――構わないわ、ここに居ても。」
気まずそうにしていた彼から笑みが零れる。
そして私は…自分でも、どうしてこんなことを言ったのか分からなかった。
ふと見上げれば、満ちかけの月が、空にぼんやりと浮かんでいた。
それからまた一晩、また一晩と彼と語り明かした。
それは本当に楽しくて…今までの寂しさを、切なさを、みんな忘れてしまいそうになる。
彼と夜通し語り合って、戯れ合って、朝日が昇れば眠る。
いつまでも続くなら――こんな日が続けばいいのに……。
なのに。
いつもは私を置き去りにしている癖に…どうして、今だとばかりに追いかけてくるのだろう?
こんな時に限って無情に早く過ぎ去ってゆく時間を、やってくる朝を恨みながら横になる。
義清は苦悶していた。
あの「お伽噺」――かの不老不死の少女は実在したのだ。
しかし、この自分が…彼女の数百年の孤独を、沈黙を――堅く閉ざした氷の扉を破ってしまった。
崩れた孤独から溢れる、「求める」心。
幾百年の長きに渡る寂しさを埋める人の心が、彼女にとってどれほど温かいことか……?
数年の孤独の私にとってさえ、そうなのだから。
そして――私もまた、彼女を好きになってしまっているのだ。
わずか数日前までずっと……その体に刃を突き立てんとしていた少女を。
かくて私はまた、今日も変わらずここに居る。
……これで良いのだろうか?
長く一緒に居れば居るだけ、その別れはますます酷く心を傷つけるものとなる。
……でも。
義清は苦悩した。
その別れは、私には来ないのだ。
長く居たい。一緒に語りたい。話したい。もっと……
でも、それだけ深く、むごく、彼女の心を抉ってしまう運命が待っている。
「永遠の命」――ここでもまた、彼女を苦しめるのか。
いや、まさか――。
彼女がこんな場所に住んでいるのは……?
その答えに思い当って、思わず地団太を踏む。
歯をぐっと食いしばり、額に手を押しつける。
気付くべきだったのだ――彼女の孤独の訳に。
出会いがあるから別れがある。
だから……別れの悲しみのために孤独の辛さを耐え続ける、これが「永遠の命」なのか?
堅く握りしめた手が震えを帯びる。
情けなさに、頬を伝って零れ落ちた涙。
星空を黒く染め、満ちた月を塗りつぶし突然に降り始めた雨は、彼の涙を隠した。
水の落ちる怒涛の音のなか、男の慟哭が聞こえてくる。
崩れそうな屋敷から足取りも覚束なく――逃げるように出てきた人影は、暗い森の中へ吸い込まれていった。
私が起きたとき……そこに、あの人――起こしてくれる人の影は無かったのだ。
壊れた屋根を叩きながら、土砂降りの、季節外れな雨は酷い音を立てていた。
彼は何処に居るのだろう?……汚い部屋に入っていなければいいけど。
ふと見る、庭。
あの桜が……散っていく……
打たれた花びらが名残惜しそうに、どこか悔しそうに、はらりと落ちる。
とうとう満開を見せられなかったな……あんなに楽しみにしてくれていたのに。
しかし、不思議とどこか……自分もまた、残念に思っているのだ。
あの桜―咲かないでほしいと願った、あの桜が散ることを。
どうか、これ以上――散らさないでほしい!
初めて身を流れる感情。
こんな私の空しい願いさえも、轟々と雨音はかき消していく。
それよりも……あの人は何処に?
腕に力を込め、重い腰を上げる。
探さなきゃ。
立ち上がり、顔を上げる。
そうだ――きっと、あの桜の裏にでも居るのだろう。
駆け出す。
勢いを増す雨のなか、裸足の少女は古い桜に走り寄る。
濡れた銀白の髪の筋が鈍く…妖しく、光った。
果たして、桜の裏に彼―気付かず想い人となった、あの客人は――居ないのだった。
嫌な予感が胸を刺す。
そんな、まさか。
濡れた肩が震えだす。
いやだ……!
焦りと戸惑いが駆け巡る。
何処に居るの……?ねぇ……出てきてよ!
私は思わず、また走り出す。
彼の名を呼びながら、泣きながら――祈りながら。
庭に彼の姿は無かった。
どうして……出てきてくれないの?
転びそうになりながら、屋敷に駆け入る。
どうか……どうか!
壊れた柱に、床の板に、落ちた梁につまづいて転ぶ。
膝を打ち、腕を打ち、顔を打っても立ち上がった。
きっと、きっと居るんだから……!
しかし、全てが無駄だったのだ。
屋敷中を駆け巡って、ようやく私は気付いた。
彼はいない。彼は――居ないのだ、と。
力が抜け、落ちるように座り込む。
そうか、私は……また……
目からぼろぼろと溢れる涙が、乾ききった床に滲みてゆく。
また、なのか…
床に突いた手を、鮮やかな赤が伝い落ちる。
……独り、棄てられたのか。
こらえられないものが、喉に、目に、頬にやってくる。
食いしばる歯が、力なく緩む。
声を上げて、私は泣いた。
気付かず怪我をした足から、紅の血が零れ落ちる。
どうして?……どうしてなの?
暗い部屋。
張られた蜘蛛の巣がだらしなく垂れ下がる部屋で、不死の少女は慟哭する。
その床に、紅の滲みを描きながら。
――これでもまだ、私は死ねないのか。
一晩泣き明かして、私の心も段々と落ち着いてきた。
しかし、それも束の間だった。
……あの人が恨めしい。
あの人に会ったがばかりに、話したがばかりに――
――私はまた、孤独の辛さを思い出してしまった。
悔しさにむせび泣く。
こんなことなら――会わなかったらよかったのに!
思わず立ち上がり、外へと走り出る。
雨はまだ、降り続いていた。
花がみんな散ってしまった桜が、枝と幹だけの無残な姿を晒していた。
天を仰ぎ、叫ぶ。
「どうか!どうか、神様……誰でも良い!もし居るのなら――聞いてくれているのなら……!」
降る雨は、より一層激しさを増す。
「私を!私を……!」
空しい願い。分かっている。
それでも――
私は、私の非力を恨むよりほかなかった。
長々と、ただ雨が降り続いていた。
義清は決意していた。
だからこそ、ここへやってきたのだ。
刀を棄て、家を棄て、名を棄て職を棄て――こうして今、自分は鞍馬山の山門に居る。
「御免!」
迷いなく上げた声が木霊する。
ゆっくりと、重々しく開いた門扉から僧が一人、出迎える。
「よくぞいらっしゃいました……さあ、こちらへ。」
僧に導かれるまま、男は後に従って登ってゆく。
永遠の命に焦がれて生きる人の宿命に、永遠の命の、永遠ゆえの悲しみに、そして――そんな命に恋い焦がれた我が身に失望した男は、髪を下ろすことにしたのだった。
「西行」、それが彼の新しい名。
「あれからどれくらいになるんだろうな……」
朽ちかけた縁側に座った少女は、咲いた桜に降る雨を眺めつつ思う。
何十年もの月日がまた、老いることのない彼女を置いたまま過ぎていたのだった。
降り続いた雨はいつの間にか止み、雲間から差す日が桜を照らす。
ふと、目に付く物がある。
「あれは……?」
雨に抉れた大地から覗くもの。
「あんな物、あったかしら?」
そっと近づいてみる。
照り映える綺麗な布の模様――包みのようだ。
細長い「それ」は少し重く、泥から引き抜くのにも苦労した。
「これは……?」
巻かれた紐を解き、そっと包みを開く。
現れたもの。
それに、彼女は見覚えがあった。
「あの人の刀だ……!」
不思議だ……あれからこんなに経ったのに……
あの日見たそのままの姿に、思わず息をのむ。
それは寧ろ生々しさすら感じさせた。
持ち上げてみる。
その重さにまた時間を感じるようで、あの切なさを思い出す。
どうして、今頃――?
また暗い雲が、日を覆い隠した。
開かれた布に目を落とす。
その先にある木の板に、自然と目が留まった。
描かれた墨の筋。
字が書かれているようだ。
刀を起き、そっと拾い上げてみる。
書かれた文字を目で追う。
和歌、だろうか。
「願はくは 花の下にて 春死なん」
その先の句に、私の目は――私の身体は、釘付けとなった。
「そのきさらぎの 望月のころ」
木片にそっと、水滴が落ちる。
あれ、どうして?私……?
本当の心が、ぽろぽろと零れ落ちていく。
滲んだ目の前――見えなくなった歌が心の中で何度も、何度も繰り返す。
いつしか降りだした雨。
私は全てを知った。
あの日――今日のように降った雨が、満月を隠してしまった。
それだけでない、満開の桜まで散らしてしまった。
彼も、ほんとうは……見たかったのだ、満ちた月を、咲き誇る桜を。
でも。
降りしきる雨のような運命。
いつか必ずやってくる別れ。
見てしまえば、きっと別れられなくなってしまう。
だからこそ……!
彼は私を棄てたんじゃない!
私のために。こんな私のために……!
「本当に……」
目から落ちるしずく、一筋。
「優しい、人。」
目から涙を零しながら、少女はくすっ、と笑った。
「あは、はは……は……は……」
小さな笑い声は、次第に涙声に変わる。
「でも……!」
きつく歯を食いしばり、少女は、どん、と強く桜を叩く。
「その優しさが――!」
切れた手から血が滴る。
嗚咽。
「私には……もっと、もっとつらいのに!苦しいのに!」
あの優しさを、もう届かないあの心を抱いたまま――それでも、生き続けるしかない宿命。
泣き崩れ、老木の幹に彼女はすがる。
無情に降り続ける雨だけが、少女を撫でた。
「あれからもう、どれぐらいになるのだろう……?」
桜の咲く、粗末な草庵。
焚いた火を前に、石に腰かけた老僧はぽつり、と呟く。
「煩悩、か。」
笑った彼はおもむろに、1冊の草紙を懐から取りだす。
表紙は折れ、泥が滲み、端は擦り切れている。
「これで、良いんだ……」
手に持ったそれを、彼はいたわる様に、火にくべる。
「――さようなら。」
うっすらと浮かぶ昼の月にそっと願いを込め、手を合わせる。
舞い上がった灰が、うっすらと桜を霞ませる。
この煙が、どうかあの月へ届きますように……
また、桜が咲く。
「散る桜 残る桜も――」
うそぶいた少女は、その桜も――土を掛けたその根元をも振りかえることもなく、崩れかけた、扉のない門を後にした。
楽しませて戴きました
しかし内容は面白いです。次回作に期待。