退屈だった。ひんやりとした石畳の上をぺたぺたと歩き回ってみる。おおい、と誰かを呼んでみてもやはり返事を返してくれる者はいない。
ここを訪れるのは、三日に一度ほど食事を運んでくる妖精メイドだけだ。たまに、それをぷちりと壊す。気が向いたら、退屈だったら、壊す。
退屈なのはいつもの事だが、特にそういった気持ちが強い時に。苛々した感情はもうとっくの昔に忘れた。しかし、かと言って穏やかではない。
私は、生物的な感情が無いのかもしれない。ただ、そこにもやもやと生きている事実があるだけ。
地下に入ってから、最初のうちは壁に傷をつけて日数を数えていたが、傷をつける壁の部分ももう使い果たして、無くなった。
姉に復讐してやろうという気持ちもあったが、淡々と過ぎてゆく暗い日々はさらさらとその感情を風化させて行くのであった。
ある日、石畳の上で座ったり寝転がったりを繰り返していると、遠くから足音が聴こえた。
おかしいな、妖精メイドは足音なんて無いはずなんだけど、と思っていると、こんこんとドアがノックされた。私は警戒した。
今まで経験したことのない感覚だ。もしかして、姉なのだろうか。いや、姉ならきっと足音なんて消してやって来ると思うのだが……。
「フランドール様。はじめまして。わたくし、新しく紅魔館の住人になりましたパチュリー・ノーレッジと申します。レミリア様に任命されて紅魔館図書室の管轄を承っております。よろしくお願いいたします」
そう、ドアの外から聞こえてきた。大人しそうだが、芯の通った細い声だった。
姉の名を聞いたのは久しぶりだったので、少し感情がもや、と動いたが特に何かしようという気にはならなかった。
それより、自分がそれにどう返せばいいのか分からなかった。まともな会話なんてした事がないし、そもそもなぜ、紅魔館の新入りがいちいち私に挨拶しようと思ったのだろうか。
妖精メイドですら、私の存在を知らない者も数多くいるだろうに。
私はこんなに思考を動かすのが久しぶりだったので、それに何も返せず押し黙っていると、その足音が動きだし、遠ざかって行った。
安堵したと同時に、石畳の上にもう一度寝っ転がった。
またとある日、足音が近づいてきた。あのパチュリーとかいう人かな、という予想はついた。そして、その足音はまたドアの前で止まると、
「フランドール様。こんばんは。パチュリー・ノーレッジです。今日は図書室からフランドール様用に選定した本を持って参りました。ドアの前に置いておくので、よろしければ一読ください」
と言った後、ことりと音をさせた。パチュリーという人は、その後もしばらくその場にいたようだが、諦めたのかまた足音は遠ざかって行った。
本というものは興味が無かったし、どうせ持ってくるならあの質素な食事をどうにかしてくれ、と思っていた。
姉にはずっと図書室に入るなと言われていたが、あのパチュリーとかいう人を雇ったのはどういう心境なのだろうか。
昔の姉しか知らないので、もしかしたら、今はもっと柔和になっているのかな、などと考えてもみる。
またある日、足音が近づいてきた。そしてドアの前で止まり、ことりと音をさせる。
「フランドール様、今度は別の本を持って参りました。前持って来た本はお気に召さなかったようで、申し訳ございません」
私は一つだけ置かれてある椅子に座って、足をぶらぶらさせているところだった。
足をぶらぶらさせるのは楽しくて、退屈が紛れる。その時間を邪魔されたので、少しだけもや、とした。
そして、パチュリーはまた別の本を置いて、しばらくその場にいるようだった。
「あ」
声を出してみる。
「ん、ん」
足をぶらぶらさせながらだと、喋れる気がした。声を出すのは久しぶりだったから、少し掠れている。
「フランドール様」
パチュリーはそれに返答してくれた。
「あ、あ」
会話形式なんてとっくの昔に忘れていた。
でも、誰かと喋ったのは久しぶりで、心がくすぐったかった。
「もしよろしければ、ここからご本を読んで差し上げましょうか」
パチュリーはそう提案した。内容が頭に入ってくるかどうかは定かではないが、退屈はしのげそうだと思ったので、
「う、うー」
と返した。
パチュリーは嬉しそうにことり、と先程置いた本をまた自分の手にとり、その場に座って本を朗読し始めた。
タイトルから始まり、ゆっくりと、穏やかな口調で語り始める。読み聞かせは慣れているのかもしれない。
ドアの向こうから聞こえてくるその声に、この言葉はどういう意味だったかな、この表現はどんな気持ちを表しているんだろう、などと思考が巡る。
そして、物語に惹きこまれるのと同じくらい、パチュリーの語り口調にも惹かれてゆくのだった。
「……幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」
物語はハッピーエンドで幕を閉じた。また、心がくすぐったくなると同時に、パチュリーに話しかけてみる。
「よ、かった」
ちゃんと言葉で気持ちを伝えられた。
「フランドール様、では、また明日、読み聞かせしにもう一冊持ってきますね。楽しんで下さったようで、幸いです」
パチュリーは一段と嬉しそうに言った。そして、また足音は遠ざかって行った。
足音が聴こえてきた。自分の心が、またくすぐったくなるのを感じる。足音は自分の部屋の前で止まり、少しだけ会話を交わしてまた読み聞かせしてもらった。
今日は、この前とは少し違う物語だった。でも、最後は皆幸せで、ハッピーエンドに終わる。
最初はパチュリーの語りに耳を傾けていたが、最後には嬉しくなって手を叩いて喜んでしまった。ちょっとはしたなかったかな、と思って少し恥ずかしくなる。
そして、今日は物語が終わったあとに紅魔館の話を沢山聞いた。人間のメイドがやって来た事、門番がいつも昼寝ばかりしている事。
私はうん、うん、と相槌を返せたし、時々自分のお話もできた。パチュリーが来るごとに、喋る内容と言葉が段々潤って行くのを感じていた。
パチュリーは、仲良くなるごとにフランドール様、ではなく妹様、と呼ぶようになった。
あの姉の妹なのが露骨に分かって、少し嫌だったが、それでもパチュリーが呼んでくれるなら、と受け入れた。
それからも、パチュリーと私は色んな話をして、本を一緒に読んだりもした。
ドアをこちらから開ける勇気はなく、お互い姿が見えないままだったが、パチュリーの読み聞かせの声と、お喋りができるだけで十分だと思っていた。
毎日欠かさずパチュリーは来てくれたし、自分に色んな事を教えてくれた。それが、とても嬉しかったのだ。
あの心のくすぐったさは、少し経って嬉しい気持ちだという事なんだという事が分かった。
しばらく経ったある日、今日も足音が聴こえた。だが、それは、ばたばたと急ぎ足で、いつものパチュリーでは無い事が分かった。一体どうしたんだろう、と思っていると、
「妹様、レミィが! 負け、負けちゃった」
姉が? 敗れたって? 誰に?
「紅白の巫女に! しかも、人間!」
紅白の巫女? 人間?
なんの事だかさっぱり分からなかったが、姉が敗北したという事実はかろうじて飲み込んだ。そして、只者ではない事も、感じ取った。
「地下にも向かってきています、こうしちゃいられない、応戦しなきゃ!」
そう言うと、パチュリーはまた急ぎ足で駆けて行った。
退屈な日々と共にいた、灰色の石畳を見つめる。
そのひんやりとした感覚を確かめて、そして、自分のいた境遇は自分で変えるものだと、頭の中にぱちんと光が走った。パチュリーの読んでくれた本の中にあった言葉だった。
そして、ドアを破壊する。きゅ、と握りこぶしを作って、ひねる。一度では壊れない。きゅ、ひねる。きゅ、ひねる。きゅ、ひねる。
何回繰り返したか分からなかったが、ドアはしゅうしゅうと音を立てて壊れた。
そして、目の前に――
「今日はいつもに増して暑いわね」
紅白の巫女がいた。確かに、妖怪ではない。翼はないし、犬歯も尖っていない。でも、人間というものを見た事がなかったので、これが、その人間だというものだろうと推測した。
パチュリーが言っていた、姉を倒したというのは本当なのだろうか。
……戦闘意欲がふつふつと沸いてきた。
その実力を、見せてもらおうじゃない。
壁を蹴って、弾幕を繰り出した。
巫女はそれをすっと避ける。そこにいたはずなのに、いつの間にか違う場所にいた。
いとも簡単そうにショットを撃ってくる。私も負けじと弾幕を繰り出す。そして、スペルカード。
巫女は弾幕の嵐に少し眉を動かしたが、パターンを組むゲームは得意なようで、すぐタイミングを掴んで避ける。なんだ、この人間は。自分より強いなんて、あり得ない。
そう思った瞬間、ボムを発動され、目の前が真っ白に――
「見た? これが神に仕えるものの力なのよ!」
私は、弾幕ごっこの末、敗北した。人間如き、と思っていたが、異様に強かった。あの弾幕を避ける動き、そしてショットを撃つタイミング、全てが完璧だった。悔しかった。
その日の夜は、部屋の石畳に寝っころがってぐずぐずと泣いていた。ドアは壊してしまってもう閉まらなかったが、そんな事はどうでも良かった。
「妹様」
「なに」
「毛布を持ってきました」
パチュリーに泣き顔を見せるのが恥ずかしかったので、うつ伏せになったまま返事をする。石畳が濡れて、独特の匂いがした。すると、ふわりと背中の上に暖かいものが触れて、
「妹様、私、嬉しかったです。最初に会った頃より、ずっとずっと成長していて。弾幕戦も、お見事でした。久しぶりの戦闘にしては、とても良く動けていましたよ」
そう言いながら、パチュリーは毛布をかけてくれているようだった。嬉しさと、疲れで力が少しずつ抜けて行く。
「本当?」
「ほんとうです。それに、妹様がとっても美人で、私、驚きました」
そ、そっかな。そういえば、パチュリーに姿を見せるのは、今までで初めてのことだった。少し照れくさい。
「ごほん、よんで」
パチュリーの穏やかな声が聞きたかった。パチュリーはにこ、と微笑むと本を持ってきて、語るようにゆっくりと読み始めた。
声をちゃんと聞きたい、と思っていても、少しずつ意識が遠のいて行くのを感じた。
ふわりふわりとした意識の中で、パチュリーの声だけが聴こえて、そして、足音のように遠ざかって行く。
パチュリーはフランが眠りに入ったのを見届けると、
「おやすみなさい、妹様。頑張りましたね」
と、穏やかにフランの頭を撫でるのだった。
パチュリーとの間に生まれた雰囲気であるとか、オチの展開であるとか。
もうちょい余裕を持たせてもいいかと思うのです。
子供なんだけど子供なりにたしかにいろいろ考えているんでしょうね