口からこぼれた憂鬱が、冷たい空気にさらされて、白く変わりながら薄青い空へと上っていった。
まわりを囲む冬枯れた木の梢が、ときおり鋭い風に吹かれて悲鳴をあげるほか物音はない。
ふもとの分社のはずれに造られた、隠し神を祭るささやかな広場であった。
早苗は、ずっと空を見ている。
ずっと、ずっと見ていて、心ここにあらずといった様子だった。
しばらくして、ふいに落ちるような感覚におそわれて、怖くなり足元を踏みしめたところ、白砂が乾いた音をたてて、それでようやく早苗は現実へと帰った。
ため息をつく。
いつも一緒にいる春風が、身をすっぽりとおおうフランネルの白マントにじゃれついているのが、口をついた息がいつまでも身辺にまとわりつくようだった。
東風谷早苗は、悩んでいた。
――最近、霊夢さんと話してないなあ……。
という他愛のないことではある。が、本人にとっては非常に悩ましい問題だった。
幻想郷に引っ越して来て、ひとつの年といくつかの月日を過ごした早苗だけど、親しくつきあえる人といえばまだ数えるほどもない。そのうちのひとりが急によそよそしくなって、それが一番の友人だとおもっていた博麗霊夢であったから、ちょっとこたえている。
いや、よそよそしいなんてものではなかった。霊夢のそれは無視というべきものだった。
――このあいだなんて……。
早苗は常識を投げ捨てて、約束もなしに博麗神社に泊まりにいったものである。そうすれば、さすがに無視できないだろう、向こうから何か言ってくるだろうと、おもったのだけど霊夢は何にも言ってこなかった。どころか、まるでそこに誰もいないかのように振る舞った。
早苗が目にちからを込めて、側でじっと見詰めていても、涼しい顔をしてお茶をすすり煎餅なんか齧っている。
日が暮れると、霊夢は台所に立ってひとり分の食事を作り、ひとりで夕飯をすませて、風呂を立てだした。早苗は、いちいち後について、ひと昔まえの大変な家事を淡々とこなす霊夢を、感心しながら眺めたものであるが、それはいい。
早苗は、霊夢が服を脱いで入っていった風呂場の中にまで着いて行ったのである。さすがにこれは一言あるだろうと、自身満々な顔を作って待ち構える早苗であったが、かかったのは声ではなくて、かかり湯のしぶきだけだった。
袴を濡らして風呂場を出た早苗は、
「あれっ?」
と首をかしげて、かしげたまま台所で勝手に食事をつくって食べた。冷めた風呂を立てなおして入ると、自分で布団をしいて霊夢と枕を並べて眠り、翌朝早くに帰っていった。
このような状況になった理由に、心当たりがないわけではない。
この冬のいつだったか、霊夢は地下深くに潜っていって、核融合を相手に戦ったという。その事の発端が、身内である八坂神と洩矢神であったので、霊夢の怒りが早苗にまで飛び火したのかもしれない。
「私は関わってないのになあ……」
事のいきさつを思いかえし、また気が沈んで、早苗は息をついた。
うつむいて足をもじもじ動かして、白砂のうえにバツの字を書いて、そのうえを何度もなぞった。
「霊夢さんって、見かけによらず、ほんと……」
変な人、とぼやいた。
そのとき。
「あんた何やってんのよ、こんな何にもない所で」
と後ろ頭のうえあたりで声がした。
「ひゃ」
あんまり近いところから急に話しかけられたので、早苗は反射的に一歩前に跳んだ。水溜りを飛び越えるやりかたで跳ねたから、ちょっとのめっている。それが屈めた身を戻さないままに空を振り仰げば、宙に浮かんでいるのは件の霊夢だった。
霊夢は、我が足の向くほうが地面だといわんばかりに、天地を逆さまにして空中に立っており、紅白の衣装と黒髪には少しの乱れもなかった。その難しい顔は、怒っているようであり、またどう話を切りだしたものかと考えているようでもあった。
早苗のほうは、影も落とさずに頭上までやって来たこの少女に目を丸くするばかりで、返事もできないでいる。
その視界から霊夢が、ふと消えた。
「えっ?」
と早苗が、消えた姿を探しかけたところ、もう目の前に立っている。
「霊夢さん!」
「なによ、その、たった今会ったばっかみたいな……」
と霊夢は困惑した顔をして、腰に片手を当てている。
「あ、そっか」
早苗は、こころもち目を大きくした。
「ここで何をしているか、ですね。えっと、それはですね……」
まさか、どうすればあなたと仲直りできるか考えていました、なんて言えない。
おっとりと首をかしげて、さてどう答えたものかと考えはじめたところ、すぐに霊夢が声をあげた。
「あー、うん。まあそれはいいわ。それより、あんたに聞きたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「いま泥棒を追いかけているところなんだけど……」
と、これだけで早苗は事のあらましを察した。
「あっ、私、誰も見かけませんけど」
といった。
そう、と返した霊夢が、すっと手を差しだした。そこには陰陽玉のようなものが握られている。受け取れということらしい。
陰陽玉は、怒ると怖い目の前の巫女が使う、凶悪な武器である。そんな物を渡して何をさせるつもりだろう。受け取れずにもじもじとしていると、無理やり握らされた。
「あの、これって?」
もう背を向けて飛び立とうとしている霊夢に問えば、ちらりと振りかえった。
「それに霊力をこめて話せば、離れていても私の所に声が届くのよ」
といってふわりと浮きあがった。
そうして、
「泥棒は、ものすごく人相が悪くて、顔に縦の大きな刀傷がある……」
と続けたけれど、結構な速さで飛んで行くものだから、言葉尻がよく聞き取れなかった。
木にぶつかりそうになる度に、短い瞬間移動で回避しながら木立の中を突っ切って行く霊夢を、半ば呆然と見送っていると、
『もし泥棒を見つけたら、それで教えてよね』
と手にしていた陰陽玉が、急に霊夢の声を出したので、早苗はちょっと飛びあがった。
「わあ……」
早苗は、両手で包みこむように持ちなおした陰陽玉を、胸のまえに上げて一心に見詰めている。その瞳に光が宿ると同時に、玉の色味が変わった。霊力が注ぎこまれたのである。
りんごに頬擦りするように持ち上げて、ひと呼吸、ふた呼吸待ってから、
「もしもし?」
といってみる。
『えっ、あっ、は?』
「ふふ、なんだか携帯電話みたいですね」
『あー、うん……』
「あの、もしかして、これ下さるんですか」
『まあ余ってるから、別にいいけど』
「ほんとですか。やった、これで夜寝る前とかにお話できますね」
と、かしげるように動いた早苗の顔から、屈託のない笑顔がこぼれた。
『は、なんでそんなことする必要があるのよ』
「えーっ、なんでですか。お話しましょうよ。女の子同士のお話を」
『なによ、女の子同士の話って。もしかして、ご飯なに食べたの、とか聞きあったりするわけ?』
「そう、そんな感じです。ちなみに私は、昼にお饂飩を食べました」
なんだか早苗は、はしゃいでいる。
『あー、うん。今日は寒いしね……って、その話は終わり。しばらく泥棒のほうに集中するから話しかけないでね』
と答える霊夢の声は、ほんとうに面倒くさそうだった。それっきり、しんとした。
早苗は、きょとんとしている。軽く息をつくと陰陽玉を下ろして、ちょっと胸に抱くようなことをしてから、そっとポッケにしまった。
なんだか、霊夢と携帯番号を交換したような、いままでよりもずっと親密になれたような気がして、心が温かい。
少しうつむいて、瞼を下ろし、
「霊夢さんって、やっぱり変な人……」
とつぶやいた口もとに笑みが浮かんだ。
「よし」
ぱっと目を開いた。
「お友達のために、ちょっと頑張っちゃいますか」
と早苗がいったのは、積極的に泥棒探しを手伝おうということである。
マントのなかで腰に差しておいた御幣を取りだすと、これを胸のまえに構えた。
呼応するように、お供の春風が強まって早苗の周囲を回り始めた。白いマントが泳ぐクラゲのように柔らかに波打っている。やがて、身体が音もなく浮きあがった。
ふわりふわりと程よい高さまで上昇したところで、
――吹け。
と念じた。
瞬間、ごっと音をたて、風が天を指して走った。
それに乗った早苗が、舞いあがる花弁のように、裏になり表になって回りながら空に駆け昇って行った。
それから、三十分ほど後のことである。
早苗は、戸惑っていた。
泥棒を見つけたのはいいけれど、その正体を知って、どう対処すればよいのか決めかねているのである。
所は、里の南の境界だった。
川と木立ちが、人と妖怪の領域を分かっている。それほど幅の広くない川に、十歩で渡れるくらいのちいさな橋が架かっており、そのうえに早苗が立っていた。
橋から里側を見やれば、冬なお青い木立のなかに道がのびている。その薄暗い日陰に泥棒の姿があった。早苗の目と鼻の先で油断なく身構えている。
確かに凶悪な面つき、それを縦に割る刀傷であった。ものすごい目をして睨みつけている。しかしそれは、年端の行かない子供だった。
妖怪でもなければ、特別なちからも持っていない、ただの人の子である。
「そこっ……そこどけよ!」
とその子がいった。
ちいさな子供が大人をまねて凄もうとして、声が変なふうにかすれたので、あせって言い直している。
痩せた、ちっぽけな身体の子供だった。
身につけた着物がやけに白茶けていて、叩けばさぞほこりが立つだろうとおもわれる。あちらこちらが継ぎだらけでほつれていた。
険しすぎる表情に、みすぼらしい身なり、そして顔の傷である。この子なら盗みを働いてもなんら不思議ではない。そうおもわせるものがあった。
が、そんな評価を背負うにはこの子は幼すぎる。それが早苗の胸を重くさせた。
「外にでたら危ないよ?」
早苗は、短い間に考えがまとまらないまま、かろうじてそういった。
これが相手には意外な言葉だったのだろう。一瞬、子供らしい顔にもどって驚いてみせたあと、ひねた顔つきになって皮肉らしく、へっと笑った。
歯を剥いて、
「どけよ!」
とわめくと、どこにしまっていたのか、棍棒のようなものを取りだした。怒った目を光らせながら、じりじりと近づいてくる。
「……」
早苗は、構えることも引くこともせずに、突っ立ったままでちいさなため息をついた。高圧的な態度をとられて、すこし懲らしめてやろうという気になった。
手に提げていた御幣をすっと持ち上げて、手首のみを使って、ひらりとひと振りした。
とたんに風が吹いた。
地面から吹きだしたような突風は、泥棒を突きあげるようにふっ飛ばして尻餅をつかせると、そのまま頭上にかぶさる木々の茂りに突っ込んで枝葉を激しくざわめかした。
東から西に吹き抜けたかとおもえば、吹き返してきて、また吹き返し、長々と高所の葉を鳴らしている。泥棒の子供は、地面にへたりこんで、呆然と天を見回すより他はしようがないようだった。
そのうちに、風が止んだ。木々から千切れ飛んだ小枝や葉っぱがはらはらと落ちてきて、ささやかな音をたてる。あとは川水さえ音をたてなかった。
あたりは静まりかえっている。
静寂をつゆも乱さぬまま、早苗の声がふわりと四辺に広がった。
「盗んだものをこっちに渡して」
返事はない。
子供は早苗の顔と御幣を交互に見ている。目を細めたりして、相手を値踏みしているらしかった。嫌そうに口を開いた。
「ねえよ……盗んだもんなんか」
「ないって、どういうこと? だって霊夢さんが……博麗神社の巫女さんが、泥棒だっていってあなたを探しまわっていたわよ?」
というと子供は、ふいっとうなだれて、汚れた足の指をいじりだした。ものすごい風にすっかり参ってしまったのか、しおらしい感じだった。
「そうだよ、あたいは泥棒だよ……どうしょうもないくらい黒だって閻魔さんも言ってたし、さっき神社に盗みに入ったのも本当。煎餅ひと箱……」
とここまでいうと、急にむくれて口をつぐんだ。
「お煎餅?」
早苗は子供とそのまわりを見直したけれど、それらしい箱は見当たらない。そのことを指摘すると、だからもうないんだって、と子供は悪びれもせずにいった。
「もしかして食べちゃった?」
盗ったものを返してあやまらせて、霊夢に許してもらおうと考えていた早苗は、困った顔をしてたずねた。
子供はきょとんとしている。のろのろと立ち上がって頭を振った。
「たべてない」
「じゃあどうしたの?」
「とりあげられた」
そういって気を許した猫のように、ほとほとと歩いてくる。顔から険がとれて、見上げてくる双眸がきれいだった。そうなると顔の傷がかわいそうで、早苗は胸が窮屈になった。
「誰にとりあげられたの?」
「その、なんとかっていう巫女さん」
「えっ、霊夢さんに?」
「そうさ、ものすごい怖い顔して……」
飛んできたかとおもうと、物もいわずに煎餅をふんだくったそうである。
「そんで、あたいの頭ぶって、どっか飛んでった」
とおもいだしたように頭をさすった。
「えーっ……」
早苗は情けないような顔をしている。なんのためにがんばったんだろう……って、考えてる。
空を斜めにちょっと見上げて気をとりなおした。
事実を確認するために、そそくさと陰陽玉をとりだして、霊力を注ぎこんだ。
「もしもし、霊夢さん?」
反応がない。かわりに、家のなかで暴れているらしい物音が聞こえる。霊夢さんと二度呼ぶと、ぴたりと音が止んで返事がした。
『あっ、えっ、早苗?』
なんでもない霊夢の声におもわず頬がゆるむ。
「はい。泥棒のことで……」
『ちょ、ちょっと待ってて』
と声がして、またどたばたやりはじめた。
早苗は、陰陽玉を耳から離して、うれしげにほっと息をした。ふと視線に気がついて振りむけば、すぐそばで子供が暗い目をしてじっと玉を見ている。
ああ、珍しいんだなと思って、よく見えるようにしてやると、なんとこれをふんだくられた。
「あっ」
と早苗が声をあげるのと、子供が体当たりをしかけてくるのが同時だった。武術の心得でもあるのか、小さな身体からは想像もつかない強烈な体当たりだったので、早苗は悲鳴をあげて大きくよろめいた。
ふたりぶんの幅しかない、欄干のない橋のうえであるから、大いに慌てた。足がもつれ、身体が落ちる。とっさに御幣を振るい風に助けてもらおうとしたら、こともあろうにこちらも奪い取られてしまった。
子供だてらになんという引ったくりの手際だろうと、感心している場合ではない。
早苗は、音をたてて橋板へ倒れこんだ。
その仰向いた顔からこぼれた苦悶の声を蹴っとばして黒い影が横切った。泥棒の子供が飛び越えていったらしい。駆ける足音が遠ざかってゆく。
同じ方から、
『おまたせ』
と霊夢の声が聞こえた。
「うるせえ、ばーか。ばーか、緑の毛、おひとよし、ばーか!」
子供が叫んでいる。なにっ!? と霊夢の怒声があがった。ああ、と早苗は嘆息した。
どこを打ったのがいけなかったのか、少し息がしづらい。急いで起きようとしても、なかなか身体がついてこなかった。まとっていた春風が失せて、橋上の寒気が身にしみる。
どれくらい、そのままでいただろう。
よろめき、よめろきつつ、やっと立ちあがり、痛む腰をマントの中でさすりながら、足音が遠ざかって行ったほうを見やったら、もう子供の姿はなかった。
目を閉ざせば、瞼の裏に体当たりの瞬間の獰猛な、そしてどこか懸命な子供の顔が浮かんだ。
――あの子は……。
大人しく猫をかぶりながら、反撃の機会を虎視眈々と待っていたのである。それと知らずに気を許してしまった早苗は、言われたとおりの、おひとよしだった。おひとよしが過ぎて大切な陰陽玉を取られてしまった。
――せっかく……せっかく霊夢さんにもらったのに。
苦痛とくやしさに顔を歪めた早苗が、目じりに指を這わせて、けれどすぐに目を見開いた。
「とりかえさなきゃ」
蛙の髪飾りを外して手にとって、これを五芒星の形に振り呪文を唱える。すぐに橋の両側からたくさんの石くれが、ぴょこぴょこ跳ねてきて足もとをうめつくした。
石は大小さまざまで、せいぜいが握りこぶしほどだったが、そのいくつかの上にちいさな洩矢神の姿が見えたようである。
身を屈めた早苗が、
「子供を追ってください」
というと、石たちは橋板をごつごついわせながら里の外へ、子供が逃げたほうへと蛙飛びに移動をはじめた。
早苗の焦る心をくんでか、石蛙たちの足は速かった。
腰を痛めた身では、歩いて着いてゆくのにも苦労していると、背中を押してくれていた北風がふと暖かくなった。切り裂くような冬の風が、体を押しつけてくるような初夏の風に変わっている。
風が、早苗をやわらかく抱きあげた。
わずかの間、八坂神の姿がおぼろに浮かび、まぼろしと消える。
なんで遠慮するのよと、笑った声が聞こえたようだった。
雄々しい初夏の風に抱かれて、早苗は地面にちかい空の底を飛んだ。先導するのは、石の蛙たちである。
やがて、荒れ野にたつ一軒屋へとたどりついた。
ひどく朽ちたあばら屋である。
あばら屋は、こんもりとした常緑の木立に隠れるように、ひっそりとたっていたが、普通に通りがかったのではわからないように、視覚をまどわす呪が周囲の地面に施されている。これは妖怪よけであって、なかで暮らすのが人であることを物語っている。
泥棒の子供は、なんのちからも持っていなかったけれど、その同居人はなかなか強いちからを持っているらしい。それが何人いるのか解らない。
早苗は気持ちをひきしめた。
足音を忍ばせてあばら屋へ近づいて、板戸の隙間からそっとなかをのぞきこんだ。
内側は土間になっていて、薄暗いなか水瓶が置かれているのが見える。正面奥には閉ざされた障子があり、これは日焼けしてあちらこちらが破れているものの、その向こうの部屋のようすまではわからなかった。
早苗は隙間から顔をはなして軽く息をついた。真剣な顔になって戸に手をかけると、そろりそろりと開きはじめる。半ばまで開いたところで、するりとなかに滑り込んだ。ここまで全く音をたてていない。ちょっとした奇跡だった。
土間のなかにはさっき見た水瓶のほかに、使っているのかいないのか解らないようなカマドがあって、数本の柴が転がっている。傷んだ柱に、ところどころが落ちた壁、くもの巣がやけに幅をきかしているのが、いかにも廃屋らしい。
そうして、臭いがした。
なんともいえない臭いがしている。早苗は眉をひそめた。
――なんだろう?
気にしながら、奥のやぶれた障子を慎重にのぞきこんだ。
いる。
泥棒の子供が、ちいさな背中を見せて、ささくれだった畳に正座をしている。
壁の穴や隙間から光が差し込んでいるおかげで、部屋のなかはおもいのほか明るい。
ほとんど物がない閑散とした部屋のまんなかに、長々と布団が延べてあり、人が横たわっている。ちょうど子供が枕頭に座しているので顔は見えなかったが、首から下のみで大人だとわかった。薄い布団に浮きあがった形からして女性であるとおもわれた。
さっきから気になっている臭いは、どうも布団とそのなかで寝ている人物が発しているものらしい。それは目の前の光景とあいまって早苗に重い病を連想させた。
他には誰もいないようである。
陰陽玉も御幣も、部屋のなかに見当たらないから、まだ泥棒の子供が持っているのだろう。
――さて、どうしょう?
病人の寝こんでいるところに乗り込むのはさすがに気が引ける。だから子供を呼びだしたい。が、ごめんくださいと声をかけて素直にでてくる相手とはおもえないので早苗は考えこんだ。
上がりかまちに片膝をのせて、身を乗りだして部屋をのぞいているその背後に、黒く濃密な煙が音もなく湧きあがったのは、このときである。
黒煙はみるまに大きな人の形をとったが、その手が刃のように鋭利でとがっている。
これは侵入者を排除するための呪であろうか。
早苗は気づいていない。
人型の煙が、ゆらりと動いて早苗の後ろに立った。そうして髪ごと首を掻っ切らんと、刃の手を振りあげた。
そのとき、開きっぱなしであった家の戸の隙間から一匹の石蛙が飛び込んできた。蛙は、にわかに吹いた風にのって、ぴゅんと空を切って走ると、煙の背中に何もいわずに突き刺さった。
ぱっと煙が散って、石蛙がぽとりと土のうえに落ちる。
そのわずかな物音に早苗が障子から顔を離しかけたとき、部屋のなかに、ものすごいうめき声が起こった。
病人が、苦しんでいる。
いままでピクリともしなかった身体が布団のなかで激しく波うっている。
子供は、じっと動かない。
数秒後、たまぎるような絶叫があがり、はたと静まりかえった。
早苗は、あっけにとられて固まっている。
その目のまえで子供が静かに立ちあがった。なんだか覚束ない足取りで近づいてきて、すらりと障子を開いた。早苗に目をとめて、
「あ」
といったが、それほど驚いたようではなかった。早苗に顔をむけていて、しかしどこを見ているのかわからないような目をして、動かない。
早苗のほうは、開いた障子ごしに、病臥する人物の顔を見ていた。
寝ているのはやはり女性であった。日に全くあたっていないような白い肌をして、長い黒髪を束ねて頭のよこに流している。枕のうえで仰向いた顔が、大口を開いたままこわばっており、まだなにか叫ぼうとしているかのように見えた。まるで尋常ではない様子だった。
「あ……あの人は?」
早苗は、女性に視線をさだめたままでたずねた。声が震えている。
「母ちゃん」
「あなたの、お母さん? お母さんはどうしたの?」
「死んだ」
「えっ?」
早苗は絶句して、いま恐ろしい言葉をはいた口を凝視した。
子供は、迷惑そうな顔をしている。視線をさまよわせて、早苗をどうあしらったらいいのか解らないようだった。それが、急におもいついたように、ふところから陰陽玉と御幣を取りだして、投げつけるように手渡した。
そうして、早苗のわきを抜けて土間へ飛び降りると、足早に歩いてゆく。
「ちょっと、あなた……どこへ行くの?」
早苗が呼び止めるのにも構わずに、子供は表に出ていってしまった。
「ちょっと……」
つぶやいて、早苗は部屋のなかがふと気になった。そこに横たわる非日常を足から頭までゆっくりとなぞって、えっと、うわずった声をあげた。うそっと、つづきそうな声音だった。
じりじりと尻ごみをすると、逃げるように外へ飛びだしていった。
家から出てみると、泥棒の子供が前かがみになって、手にした棒切れで石くれを弾きとばしていた。石の蛙たちは、まだ律儀に子供を追いかけていたと見えて、その足元でごろごろとしている。
「ねえ」
早苗が声をかけると子供は身を起こして振り向いたが、すぐにその場にしゃがみこんだ。石くれをいくつか無造作につかんで放り投げ、それらが地面に落ちたはなから戻ってくるのを見て、肩を落としてうなだれた。そのままの格好で、
「なに?」
と大儀そうにいった。
「あなた、お父さんは?」
「いない」
「どこにいったの?」
「だ、から、あたいには、お父さんなんかいないんだって」
「……じ、じゃあ」
ほかに誰か肉親はないのか尋ねようとしたところ、子供はそっぽを向いて立ちあがり、すたすたと歩きだした。どこへ行くのかと聞けば、盗みにと言う。石蛙たちを引き連れて、この場にはなんの未練もないようだった。
その背中へ、早苗は大きな声をたたきつけた。平気で母親を放っていく薄情な悪童に対し、これまでに積もった憤懣がついに爆発したのである。
「あなた……お母さん置いて、なにしにいくって言った? あなた……ねえ、お母さんひとり残してさあ、なにしにいくって? お母さん、死んじゃったんでしょ? なのに、あなたは、涙のひとつもこぼさないでッ!」
叫ぶと同時に早苗は駆けだしていた。激している。目に涙をためて、しゃくりあげるように息をして、子供に追いつくと肩をつかんで強引に振り向かせた。
そして、その肩のあまりにも細いことに、骨ばかりであることに驚いて、すぐに手を放してしまった。
「あっ……」
とこぼした目の前で子供が崩れるように倒れ伏した。ごろごろとした石のうえに転んだから、変な音がして、うめき声がもれる。
早苗が呆然として見下ろすなか、泥棒の子供は怪我をしたらしい剥きだしの足をさすりながら、顔をあげて必死で声をしぼりだした。
「だって……あたい。あたいだって、なんか食わないと……もう死んじゃうよ」
立ち上がろうとして立ち上がれず、もう一度石くれのうえに倒れて悲鳴をあげた。
へとへとに疲れたように息をあらげながら、それでも這って行こうとする。
「腹へったよぅ」
といって、おなかをさすった。
早苗は、立ちつくしたまま、
「ごめんなさい」
といった。
――なんで私が泣いてるの?
ぽろぽろと涙を流す自分のことが、嫌でたまらない。
このとき、陰陽玉がそっとため息をついたことに、早苗は気が付かなかった。
風が無数の白いものを乗せて吹きすさぶ山のうえで、その一帯だけは違っていた。
外では横殴りになり舞い上がりもする雪が、神社の境内ではただただ静かに落ちてくる。
この日、守矢神社は、朝から絶えることのない雪に、屋根も地面も白く染まっていた。
荒れる山のなかで神社ばかりが穏やかでいるのは、天を司る神である八坂神のなせる業だけど、まったく降らさないこともできるのにそうしないのは、神に風雅のこころが宿っているからだろう。八坂神は、寒いのに縁側の雨戸を開け放ち、けれど寒がりの同居神には遠慮をして、内のガラス戸は閉めたままで雪を肴に酒を飲む。そうしてうれしげに目を細めたりするのであった。
空から見るとまるでまっ白くて、物と物のさかい目もあいまいな神社で、何かが動いたようだった。目を凝らせば、湯気がふわりふわりと立ち上っている。
湯気はさほど高くまで行かずにほぐれるように消えて、消えたそばからまた次がやってくるが、その元をたどれば、片隅にたつ社務所兼住居へと行き着いた。
換気扇が音を立てて回っている。
それに連なる曇りガラス越しに、頭が緑色の人影が動いているのが見えた。ジーンズと太い毛糸でざっくり編んだセーターに着がえた早苗である。
早苗がエプロンを身につけて、システムキッチンをまえに料理をしている。
鍋をちょっと覗きこんで火を止めると、なかで煮える雑炊に卵を回し入れ、ふたを閉ざしてうなずいた。そうして、ふと背後をかえりみた。
居間のほうで声がしている。
同居の神様は二柱とも留守にしていたけれど、そのうちの洩矢神がいつのまにか帰っていて、泥棒の子供を相手になにやら話をしているらしい。
洩矢神は、あどけない女の子の姿に似合わぬ辛辣な物言いをしたりする神だから、いったい何を話しているのか気になって、早苗はちょっぴり眉根を寄せた。なんだか、いてもたってもいられなくなって、土鍋と湯のみなどを盆にのせ、台所をあとにした。
「ずるい……」
居間のまえに立った早苗は、そんな言葉を耳にした。泥棒の子供の弱々しい声だった。
「なにがよ?」
と返したのは洩矢神であるが、声にはからかうような響きがこもっている。
「だって、おんなじ子供なのに、あたいはあんなボロい家に住んでて、おまえはこんないいとこに住んでんだもん。ずるいよ」
「そう? だったらさ、そう思うんならこの家を乗っ取ってみたら? どこぞの神さまみたいに」
そういって洩矢神はクスクスと笑った。
ここで早苗はフスマをそっと開いた。部屋のなかから暖かい空気があふれてくる。
こたつに腕まで潜りこんで背中を丸めていた洩矢神が気がついて振り向いた。微笑んだその顔に早苗は、またその話ですかと言った。
「ときどきおっしゃいますけど、いったいどこの神さまの話なんですか?」
「さあ、どこのかしらねえ」
洩矢神はとぼけながら子供のほうへ顔をもどし、まだ笑っている。子供は、早苗が着せてやったネルのマントに包まって、こたつの向こう側にながながと寝そべっていた。
それが天井を見つめたまま、
「乗っ取らねえよ……」
とぽつりといった。
「緑の毛の人が困るから乗っ取らない」
少し力強い口調で付け加えて、疲れたように息をついた。
早苗が、“緑の毛”から“緑の毛の人”に格上げされているのは、足の怪我を手当てしてあげたからであり、食事をさせてあげると約束したからであるけれど、前者のほうがより子供の心を動かしたらしかった。
足の治療をするまえに、早苗は風呂場で子供のひどく汚れた足を、自らの手のひらを使ってやさしく撫でるように洗ってやった。怪我が痛むといけないからというその心遣いは十二分に伝わったようで、手当てが終わったときに子供は目をぱちぱちとしながら、ありがとうと言ったのである。
ちなみに怪我のほうはたいしたことはなくて、だからいま子供が青い顔をして寝ているのは空腹のせいだろう。
その証拠に早苗が、こたつに盆を置くと飛び起きてきた。
腹がはしたなく鳴り、洩矢神がそれをからかったが、その言葉も耳に入らないほど土鍋に集中している。
腹が音をたて、
「おや蛙が鳴いてるわ」
と洩矢神がいい、また腹が鳴る。
「はは、変な声の蛙ねえ。ねえ早苗」
「え?」
腰に貼った湿布を気にしながらぼんやりと座っていた早苗は、急に呼ばれて小首かしげに目をしばたたかせた。
「はやく食べさせてやりなよ」
と洩矢神が、こたつのうえにあごを乗せたままでいった。神の幼い顔に目を細めた穏やかな笑みが浮かんでいる。どうやら洩矢神は、泥棒の子供のことを気に入ったようだった。
「あ、もう少し蒸らしたほうがおいしいかなって思って……うん、そうですね」
うなずくと早苗は雑炊をよそい始めた。
「熱いから気をつけてね」
茶碗を差しだすと、子供は両手でうやうやしく受け取ったけれど、本当に熱かったらしくすぐに机のうえに落とすように置いた。そうして、しゃもじにすくいとったのを口をとがらせて無闇にふうふうと吹いている。
その様子を見て洩矢神が、
「早苗のおじやはうまいぞう」
とあおるようなことをいった。
それで子供は、がまんしきれなくなって、しゃもじにぱくりと食いついた。
とたんに目を輝かせ、すぐにふた口めをすくって口に運び、
「あつっ!」
やっぱり顔を真っ赤にして熱がったけれど、もう止まらなくなったらしかった。あつい、うまいと繰り返しながら忙しくしゃもじを動かしている。夢中になっていて、にわかに家中に響きはじめた大きな足音にも気がつかないようだった。
足音はどんどん近づいてくる。
早苗が廊下を振り返り、洩矢神は興がさめた様子でそっぽを向いた。
やがて、ひときわ大きな足音が居間のすぐ外で響いてしんとした。泥棒の子供もさすがに手をとめて顔をあげている。
フスマが豪快な音をたてて開き、そこに現れたのはやはり八坂神だった。
八坂神は年頃の娘の姿をした、眉目麗しくも颯爽とした神様である。
早苗が、おかえりなさいと言うと、ああただいまと返し、部屋には入らずになかを見回した。そうして子供に目をとめると、
「おお、いらっしゃい!」
とおおきな声をだした。そのまま意気揚々を絵に描いたような顔をしてつくづくと眺めている。
八坂神は、洩矢神とちがって、神威をあまり抑えたりしないから、それだけでなかなかの迫力があった。子供は水を浴びせられたような顔になって背を伸ばし、おかえりなさいと言っている。おもわず早苗のまねをしたらしかった。
それを聞いて八坂神は、あははと笑った。
「ゆっくりしていくといい」
今度は静かな声音でいって、そうして諏訪子と洩矢神を名前で呼んだ。
「ちょっと私の部屋に来てよ。地下センターのことで相談したいことがあってね」
小脇にかかえた設計図らしき紙をゆすってみせた。
洩矢神は向こうをむいて黙っている。諏訪子ともう一度呼ばれると苦笑して、しょうがないなあと言った。
神様が去って、部屋にはストーブにかけたやかんの音だけが残った。
ほんとうはそうではないのに温度が少し下がったようだった。
おもいだしたようにしゃもじを使う音が響きはじめ、二杯目が空になり、つぎが最後の一杯となって、もくもくと子供の食事は進んだ。
早苗はその様子を見るともなしに眺めている。
――さっきのこと霊夢さんになんて言おうかしら?
そんなことをぼんやりと考えている。もはや泥棒の子供とは打ち解けたのだから、ことさら彼女を悪く言うこともあるまいと思う。そして、それとは別に母親の亡き骸のことを考えた。これは諏訪子さまに相談しようかしら。そういえば、この子の名前、聞いてなかったわ。
とりとめもなく思考をめぐらす早苗が、子供の様子がおかしいことに気がついたのは、それから少しの時が流れてからだった。
子供は、空になった茶碗をこたつに置いて、まるでそこにまだ御飯が残っているかのようにしゃもじですくっている。そうしてゆっくりと胸の高さまで持ち上げると、また下ろしてなにもないところをすくいとった。顔を見れば、すこし上向いて上の空のようである。
「どうしたの?」
と問えば早苗を振り返って、まだぼんやりとしている。
「足りなかった?」
重ねて問いかけたとき、その瞳から玉のような涙がぽろりとこぼれ落ちた。カラリと音をたてて、しゃもじが茶碗のなかに落ちた。
「母ちゃん……」
と消えいるような声で子供が言った。
顔をくしゃくしゃにして、息を震わせながら、
「母ちゃんが」
といった。
洩矢諏訪子がひとりで居間に戻ったとき、早苗もまたひとりで雪を見ていた。
早苗は障子を細めに開き、そのあいだからのぞく曇りガラスを指先でひと拭きして、そうやって出来たちいさな窓から、庭に落ちる白いものをただ眺めている。
吐息に曇った窓をまたひと拭きして、障子に頭をもたせかけるようなことをしたが、諏訪子がそばに立つとふと顔をあげて振りむいた。
早苗はいま横座りになり身体を傾けているから、ずいぶん見上げるかたちになっている。憂いのあるさみしげな目の色をしていた。
諏訪子はその両のほっぺをかるくつまんでちょっと持ちあげてやった。早苗はいやいやをするように頭をうごかして指をはずしたけれど、戻した顔が少し微笑んでいる。
「あの子は?」
「眠っちゃったので、私の部屋に……」
「そう」
うなずいて諏訪子は障子を少し開いた。
「よく降るわねえ」
「そうですね」
「神奈子のやつもさ、雪見酒がしたいならそのときだけ降らせばいいのにね」
諏訪子は八坂神を名前で呼んでぼやいたけれど、早苗はそれには答えないで、諏訪子さまと言った。座りなおして、
「私……」
といったなり黙っている。
「なによ話してみなよ」
諏訪子がおかしそうにしてうながすと、心を決めたように話しはじめた。
「私、悩んでいたんです。お友達が私としゃべってくれなくって、いいえ、私がいないみたいに無視して……それで、だから、どうしたらいいんだろうって、すごく悩んでて……」
ここまでいうと早苗は強めに息をついで、けどと言った。
「それって、すごくつまらない悩みだったなあって、くだらないことを気にしていたんだなあって、気がついたんです」
諏訪子は黙って聞いている。
「だって、いま私の部屋で眠っているあの子は、お母さんが死んでも悲しんでる余裕がないくらいお腹が減っていたんですよ。そんな子が……飢えて死んじゃいそうな子がこの幻想郷にはいるのに、友達が話してくれない程度のことでくよくよして、しなきゃいけないこともできなくなって、いけませんよねこんなの、ぜいたくすぎます……だから私、なんだか自分が情けなくって」
懺悔をするように語って、早苗は目を伏せた。
諏訪子は顔に笑みを浮かべている。
それは早苗の言ったことがおかしかったからではなくて、やさしい声をしたかったから自然とそうなったようだった。早苗に寄り添うように立って、その頭にそっと手をのせた。
「ちがうよ早苗」
つややかな新緑色の髪をやわらかに撫でて、
「つまらなくないし、くだらなくもない」
といった。
早苗の言ったことは確かに立派であるけれど、自身のことを踏みつけにしすぎていて諏訪子には受け入れられなかった。
「悩みの深さはさ、どれだけこころを痛めたかで決まるんだよ? 悩みの対象の重さで決まるものじゃあない。あんた友達のことで悩んで、辛かったんじゃないの、悲しかったんでしょ。それのどこがつまらないことなの。人と比べてつまらないとか重大だとか、そんな考えかたこそくだらないよ」
いっきにいって諏訪子は、ちょっと真面目になりすぎたかなと、心中で舌をのばした。大事な早苗のことだから、まあ、これもありかと思いつつ、
「自分より困っている人がいたら、それがほっておけないのなら、悩みをいったん置いといて助けてあげる。それから自分の悩みに戻ったら、助けた人に今度は助けてもらえるかもしれない。そんな感じでいいんじゃない」
そう付け加えて、あーうー、
「うだうだと語っちゃった」
と、つとめて明るい声でいった。
早苗はどこまでも大人しい。
諏訪子は、瞼をおろしてひとしきり頭を撫でてから、
「あんまり思いつめちゃダメよ」
といって離れようとした。これを敏感に察した早苗が、ふと目覚めたように身じろぎをした。
「もう少しこのままで……」
いてくださいと、ちいさな声でいった。
曇ったガラスの向こうに、雪が降り続けている。
それからいくつかの月日が流れて、山のうえに遅い春がやってこようかという頃になった。
「あー、あるな、そういうこと」
と白黒の洋服に三角帽子をかぶった少女がいった。
社務所の一角に設けられた売店の前である。
少女は早苗にむけていた視線を外すと、売り物のお守りを手にとって、
「たまに、そういう風になることがあるんだよ、あいつは」
といってふたたび早苗に目をやると、いかにも女の子らしく肩をすくめてみせた。
手にしたお守りを、ちゃっかりエプロンのポケットに忍ばせて、良い顔で笑っているこの小柄な少女は霧雨魔理沙といって、素行が悪いことをもって人妖に知られる魔法使いだった。
早苗と魔理沙は仲良しで、魔理沙はまた博麗霊夢とも大の仲良しであったから、ふたりはよく霊夢のことを話題にした。
今日も例によって彼女の話になり、そのなりゆきで早苗は、冬の寒い日に霊夢におもいっきり無視されたことを語った。いや語ったというより、口を滑らせてしまった。
それを聞いた魔理沙が口にしたのが、
「あー、あるな……」
なのだった。
「私に対しても、そんな感じになることがあるんだぜ」
とつづけて魔理沙は、まったくしょうがないやつだよな、とでも言いだしそうな顔で笑っている。
「それ、ほんとうですか」
早苗は身をのりだした。売り場にきれいに並べられたお守りをひとつ取って、そっと魔理沙の手に握らせた。
「詳しく聞かせてください」
「いや、別にいらんが……」
と魔理沙は、ポケットに入れたお守りまで元に戻して、
「まあ、なんつーかあれだ。霊夢のアレは、あいつの能力の副作用だとかなんとか。どういう基準で選ばれるかはわからないけど、ごくたまに特定の相手から飛んでしまうんだと。飛ぶというのは、霊夢からは見ることも聞くことも触れることもできなくなるといってもいい……っとこれは本人が言ってたんだっけか、スキマ妖怪だったか」
ちょっと空を見上げて、
「ともかく、霊夢自身には自覚がないらしいが、パチュリーの喘息とおなじで持病みたいなものなんだろう。ま、私は気にしないことにしてるよ」
「なるほど」
早苗は目をぱちぱちとしている。
「逆に、霊夢にシカトされだしたらあれだ。神社でやりたい放題できるチャンスの到来と考えるんだ。あの居心地のいい家に自由に泊まれるんだぜ。ただ飯が食える」
「あっ!」
「お?」
「それ、私やりました」
早苗は常識を捨てて、無断でお泊まりしにいったときのことを語って聞かせた。
「まじでか、玄人だな」
魔理沙はあっけにとられている。それが、ん? と不審げな声をだした。
「あれは?」
と鳥居のほうをちょいと指さして、帽子のつばをつまんでみせた。
それを受けて早苗は、表情をやわらげる。
「あの子は……ここで新しくお勤めをすることになった巫女です」
といった。
ふたりの視線のさきでは、巫女の服に身を包んだ泥棒の子供が、ひとりでホウキを振りまわしてチャンバラをしている。ふもとのほうから飛んできた花びらでも相手にしているのだろう。
「ちかごろはずいぶんお行儀もよくなってきていたんですけどね」
うれしそうに話す早苗の長い髪が風にゆれている。ふわりと花びらがからまって、しばし遊んだあと、いずこへともなく去っていった。
この三ヶ月後、泥棒の子供は見習いの修行を終えて、ふもとの分社に移っていった。
そのまじめな働きぶりに、
「あの手に負えなかった悪ガキが、変われば変わるものだ」
と里ではたいそう評判になった。
「さすがは守矢さま」
人々は口々にいいあい、ちょっとした守矢ブームが起こり、神社へ信仰が集まることひととおりではなかったという。
このブームはやがておさまったが、三年の後、子供の顔から刀傷が忽然と消えたときに、
「守矢さまのご利益は、やはりたいしたものだ」
と再燃するのであった。もちろんその背後に蛙が好きな神様の暗躍があったことは記すまでもない。そして、
「信仰を得るためにやっただけよ」
とうそぶく神様が、照れ隠しにそう言っていることもまた記すまでもないことであった。
ちなみに子供の母親の亡き骸は、あの日、陰陽玉を通じて全てを聞いていた霊夢によって埋葬されている。正確には霊夢が知り合いの古道具屋に頼んで埋葬してもらった。
呪術士であった母親は、禁術を用いた罪で里を追いだされていたが、その後も古道具屋の青年とは取引を続けていたそうで、その縁から仏の供養は実にねんごろなものであったそうな。
(おわり)
荒涼と広がる荒れ野から、急速に光が失われつつあった。
薄闇のただよう大地のうえ、木立が明るく浮きあがっている。
木立のなかで、家屋が激しく燃えていた。
家は、縦長に張られた筒型の結界に囲まれているので、炎が他へ移ることはない。
結界の足元に開かれた隙間から入りこんだ空気が、炎をまとい渦を巻いて吹き上がり、うえに抜けて火の花を咲かせた。
荒れ狂う炎に興奮したのか、風がきつくなり始めたようだった。
衣や髪を風に乱しながら、霊夢は燃える家をじっと見ている。
やがて、霊夢の作った札でもって辺りの呪を祓ってまわっていた古道具屋の青年が、作業を終えて戻ってきた。霊夢を見やって、かすかに笑ったようだった。
名を森近霖之助というこの青年は、霊夢に並びかけると、無口なたちなので、そのまま突っ立って何にも言わない。眼鏡の位置をなおして、ちょっと満足そうにしているのは、自らが設計して霊夢に張らせた結界がうまく機能しているからだった。
しばらくして。
ふいに、腕を触られた気がして霖之助が横を見ると、霊夢の黒髪が束になってなびくのが肘の辺りに当たっている。なんとなく気になって、みぞおちほどの高さにある少女の顔をのぞくと、霊夢は白い顔を赤く照らされながらじっと炎を見ていた。意思のつよそうな面をまじめにして、瞳をキラキラときらめかせている。
霖之助は、柄にもなく黙っているのが落ち着かなくなった。
「すっかり暮れてしまうまえに始められてよかったよ」
と、だしぬけにそんなことをいった。
それに霊夢はなんにも答えなかったけれど、霖之助は気にしなかった。
自身の放った言葉が宙を漂って、立ちのぼる炎にのまれて昇っていくのを見送ったあと、しばらくぼんやりとして、それからこれからの手順を考えはじめた。
それでもう霊夢の手を借りなくてもすむことに思い当たった。
「あとは僕ひとりで大丈夫だけど、まだ手伝ってもらえるのかな」
そうたずねると霊夢は、ぱっと霖之助へ顔をあげた。
「とうぜん、帰るわ」
「そうか」
「そうよ」
「じゃあ、気をつけて」
あっさりしたものである。
霊夢は、それでもまだ炎を見つめていたけれど、なんとなく火勢が弱まってきたところで、だしぬけに音もなく浮きあがった。
ふわりふわりと頼りなげに昇ってゆくその姿を見上げて霖之助は、少女の名を呼んだ。別れ際に口が軽くなるのは、話をうちきるのが容易だからである。
「知らせてくれて、ありがとう。僕はむかし“あの人”に世話になったんだ」
「うん」
スカートをはためかせて浮かびながら、霊夢は霖之助を見下ろしている。にこりと微笑んだようだった。
「あと、お供えものも……いいものなんだろうあれ」
「そーよ。作ってる人がよぼよぼだから一日限定一箱ぶんしか焼けなくて、なかなか手に入らない高級品なの、あのお煎餅」
「そうか……」
としか霖之助が返さなかったので、これで話は終わった。
――よくそれを供える気になったねって、霖之助さんは私がどんなにケチだっておもってるのよ? まったく……。その煎餅を、どうしても“あの人”に食べさせたかった奴がいてね。私の神社から盗んだのを、腹ペコなのに、ひとつも手をつけないまま家まで持って帰ろうとしてて……まあ、これはあとから判ったんだけど。うん、だから少しだけしか惜しくないわ。えっ、ああ、それなら山の巫女がちゃんと面倒みてるから大丈夫よ。
霊夢が用意していた言葉たちは、発せられないまま、少女とともに宵の空へと飛んでいった。
全く話に絡んでこない上に投げっぱなしで終わってなんだそりゃって感じだったわ
作者さんなりの幻想の噛み砕き方が、なんとも心地よく、重い展開も引きずられずに読めました。
繊細な早苗さんが、というより早苗さんの繊細な部分が可愛いですね。