「おはよーございます!」
元気な声に古明地さとりは目を覚まし、地底独特の少し湿気た空気を吸い込んだ。目をこすり、上半身だけ起こす。朝、さとりを起こしに来る者は居ないはずだ。そういぶかりながら、さとりは声の主を探した。
「ん……?」
さとりのベッドの下に、声の発生源であろう妖怪が横たわっていた。
妖怪の口元は笑顔。しかし、目は涙ぐんでいる。なぜかその妖怪は青いリボンで胴体をぐるぐる巻きにされ、いもむしみたいになっていた。助けてくれと言わんばかりに妖怪の頭で犬耳がぴくぴく動いている。いや、実際に心の中で助けてくれと叫んでいるが。
「んーえーと……。はぁ……」
状況を理解できずにさとりは溜め息をつく。
とりあえず拘束から解放してやると、妖怪は自己紹介をしてきた。
「私は幽谷響子」
いちいち言葉にしなくても良い。けれど、それを言うのはお節介だろう。
あくびをし、涙ぐむ目と第三の目で響子を観察する。名前には聞き覚えがあった。確か、地上で雀の妖怪とバンドを組んでる山彦だ。
「古明地さとりのお嫁さんやってます!」
「!?」
心にもないうそを言いやがったわこいつ!?
一瞬でうそとわかる自己紹介にもびっくりだが、さとりがさらに驚いたのは、響子の心には『私は古明地さとりのお嫁さん』という思考が一寸たりともなかったことだ。うそをつくにしても、心の中に一度はその言葉が浮く。
顔がひくつくのを自覚しながらもさとりは響子の読心に集中する。
お腹すいたなー。
ご飯食べたいなー。
――自分がついたうそについて何か考えている様子はなかった。それに、たいそれたことはなにも考えていない。
心にもないことを言ってきたのは恐怖に値するが、とりあえず害はなさそうだ。そう判断し、さとりはひとまず安心する。
「私はさとりのお嫁さんだよ!? ねえ? 一緒に寝よ! 一緒に寝よ!」
ただどうしてかしら。物凄くうっとうしい。
うそをつく目的がわからない分、さとりとしてはなんと返せば良いのかわからなかった。
結局「んーそうねえ」と、さとりは適当に流したのだった。
「きぃぃぃぃ、もうちょっと喜んでくれても良いじゃない!」
この妖怪のもう一つ凄いところは、どう聞いても怒っているような台詞をにこにこ棒立ちのままで言ってしまうことだ。怒っている、という感情は声にしっかりこもっている。ちなみに、その間も響子は心中でひたすらご飯食べたいなーを繰り返しており、まったく怒っていない。説明しようとするとわけがわからなくなる。
言葉、心、体。あべこべなのだ。
ふいにさとりは、自分がめまいをおこしているのを自覚する。さとり妖怪として、心と体の関係について説明がつかない類が苦手なのだ。
とりあえず、縛っておこうかしら。それからゆっくり朝ご飯を食べて……考えよう。この妖怪の処分について。
響子は縛り、さとりの自室に転がしておいた。響子に涙目で見上げられ、刹那的に情は沸いたが頭痛の種に付き合っていられない。さとりが台所に行くと、黒猫が足に擦り寄ってきた。猫モードのお燐だ。
「おはよう。お燐」
二又の尻尾をゆらして、お燐はにゃーと鳴く。
その声を聞きつけたのか「うにゅー」と目をこすりながらお空も台所に入ってきた。
「……その半妖状態なんとかならないの?」
まぬけなことに、お空は頭は鳥、体は人間という奇妙な半妖モードになっていた。本人は全身地獄鳥モードにしているつもりだったようだ。はっと自分の体を見直すと、お空は台所の入り口にかけられているのれんをくぐり、出て行った。それから戻ってくるときには鶏サイズの立派な鳥の姿になっていた。彼女もまた、朝食をねだってくる。
「ちょっと待ってね」
香霖堂で買って以来、二匹が好んで食べているキャットフードをそれぞれの皿についでやる。鳥の妖怪であるお空もひどく気に入っているようだ。ペットにえさをやり、自分もゆっくり朝食を食べる。戻ってきたほのぼのとした日常に、さとりは口角を引き上げた。
キャットフードを盛った皿を両手にさとりはペットに笑いかける。
「はい。お待た――」
さとりは先の言葉が出なかった。
視界の端。非日常がさとりの邪魔をした。
台所の入り口。のれんの下に幽谷響子が立っていた。
「ねぇねぇ。どうして縛ったの!?」
満面の笑みで響子は言った。しかし声には確実に怒気がこもっている。されど心ではおいしそうな朝ご飯だなーとのんきにぼやいている。
さとりの中に芽生えていた恐怖の花が開花した。
関連性の見えない響子の感情は恐ろしいが、それ以前に響子は部屋に現れたときみたいに青いリボンで拘束したはずだ。一応、抜けれないように結んだはず。
けれど何事もなかったかのように笑みを浮かべ、響子はすたすたとさとりに歩み寄ってくる。
さとりは後ずさっていた。
「ちょっと食べても良い?」
キャットフードを指差し、響子は言った。その言葉にさとりのペット二匹が戦慄する。
相変わらず響子は笑みを絶やさない。彼女はキャットフードに手を伸ばした。
我慢ならぬ!
そう言わんばかりにお燐とお空は響子にとびかかった。それでもなお響子は不気味な満面の笑み。ペットなぞ歯牙にもかけていない。まったく動揺していなかった。
「にゃ!?」「うにゅ!?」
ペットの短い悲鳴。爪とくちばしが響子に届く寸前だ。お燐とお空の意識がとぎれたのがわかった。二匹の体が空中で急に勢いを失う。ばたんと地に落ち、二匹はうつぶせのまま動かなくなる。
響子は一切手を出していなかった。それどころか、殺気すら放っていない。
なにをしたの?
わからなかった。
皿からつまみ取ったキャットフードを口に放り込み、おいしいなーなどと呆けたことを考えている妖怪。
さとりの手からキャットフードの入った皿がするりと落ちる。
なにか超人的な力を持ち、お空とお燐を触れずに一瞬で気絶させた。さとり妖怪の能力も受け付けない。一見、害があるようには見えない。けれど、さとりは響子を怒らせてしまっている可能性がある。
もし、もしこの妖怪が私を倒そうとしたら……。おそらく一瞬だ。私はこの妖怪がどうしようもなく恐ろしい。
皿が割れる音を口きりに、さとりは気絶したお燐とお空を両わきに抱え、駆け出していた。なにか策があったわけではない。少しでも響子から離れておきたかった。
触らぬ神にたたりなし。
害意自体はない。追いかけてはこないはず――。
「まぁぁぁぁぁてぇぇぇぇぇぇぇ!」
――だった。
キョンシーみたく両腕を前に突き出して響子は追ってきた。
「なんなのよぉぉぉおおおおお!」
体面もなく情けない悲鳴を上げていた。
地霊殿の中庭から灼熱地獄跡に続く道を下る。
熱気で蜃気楼があちこちで揺れており、炎が赤々と燃え盛っている。まさに灼熱地獄。跡がつけどその名に恥じない場所だ。足場は火山地帯のようにおうとつの激しい岩石が続いている。
灼熱地獄にも関わらず、さとりは冷や汗しか掻いていなかった。炎が燃え盛る音の中、後ろからたしかに足音が迫ってきている。さとりは室内用のスリッパがこげるのもおかまいなく走った。けれど、ペットを両わきに抱えてるさとりは分が悪い。たちまち響子は距離を詰めてくる。
振り切れない。
「あっ」
焦りがさとりの足元を狂わせた。
しまった――。
おうとつに足を取られ、さとりの体が宙に浮く。視界が何倍速にもなって前から後ろに流れる。ペットを守るためにさとりは体をねじり、二匹を胸に抱き寄せた。そしてあっけなく肩から地面に落ちる。
満面の笑みを浮かべた響子がスピードを緩める。
「ふふふふふふ……」
勝利を確信した笑い。もう走る必要はないと判断したのだ。そして、この状況になってなお、もっと朝ご飯食べたいなーというマッチしない思考をしている響子が、さとりにはどうしようもなく恐ろしかった。
さとりにとってこれ以上の恐怖はない。
なんだかよくわからないけど、私はもうだめみたい。
あきらめ。けれど、救いの懇願をするつもりはなかった。
煮るなり焼くなり好きにしなさい!
そう心のうちで叫び、さとりは響子を睨みつけた。それが地霊殿の主としての最後の意地だった。けれど、やはり響子の満面の笑みが恐ろしく、防衛本能が意識を手放そうとした。
「お姉ちゃんに手を出すなー!」
ところが聞きなれた家族の声がさとりの意識を引き戻した。
響子からさとりを守るように、こいしが現れたのだ。彼女は両手をひろげ、どんとさとりの前に立つ。いつもどこかほっつき歩いているこいしが、帰ってきていたようだ。様子から察するに、地霊殿に帰ってきたときに異変に気付いてくれたみたいだった。
「こいし……」
妹の登場に、安堵しかけたがさとりは首を振る。
「だめ、こいし! なんだかよくわからないけど、そいつは危ない!」
いまだに気絶しているお燐とお空を抱く手に力を込める。
響子は触れもせずに、お燐とお空の意識を刈り取った。ただ者ではない。
こいしはそれを承知した上で、ではないだろう。けれど、やさしく笑った。
「大丈夫だよ。お姉ちゃん」
姉失格だろうか。情けないことに、安心してしまった。
普段は風のように儚く頼りない存在だが、今は岩のようにしっかりとした、確固たる存在を印している。
「本能『イドの解放』」
高らかにこいしはスペルカードを宣言する。ハート型の弾幕がこいしを中心に展開されていく。
「大声『チャージドヤッホー』」
呼応するように響子もスペルカードを宣言。
くさび型の弾幕が見えない球形の膜に圧縮されるように響子の眼前に集まっていく。
「えい!」
「ぎゃて!」
掛け声と共に、二人は弾幕を解き放つ。
轟音。四散する岩の破片。砂煙があたり一帯を包んだ。
「こいし!」
もうもうとわき立つ煙の中に、一つだけシルエットが浮かんだ。
唾を飲み、さとりは視界が晴れるのを待つ。
「危なかったね。お姉ちゃん」
晴れた砂煙の先で立っていたのはこいしだった。その先では、響子がぷすぷすと煙を上げて倒れている。
こいしは意味のわからない力を持つ響子に打ち勝った。
今はこの事実だけで十分だ。
「良かった……こいし」
安堵からか、さとりの体からふっと力が抜けた。
「とと、お姉ちゃん!」
今日くらいは妹の胸を借りても良いわよね。
さとりはこいしの胸の中で意識を手放したのだった。
さとりが目覚めたのは、自室のベットの上だった。
先ほどまでの出来事が夢ではないかと、さとりは一瞬疑った。けれど、ベッドの下に残っていた大蛇のように長い青のリボンがそれを否定する。
こいしは――。
さっきはろくにお礼を言っていない。
もう少し寝ていたいと訴えてくる体をさとりは強引に起こす。出来事の証明である青いリボンを袖に入れ、さとりは部屋を出た。
台所、居間、トイレ……こいしが居そうなところを探してまわる。
すると、玄関の方からこいしの声が聞こえてきた。いや、実際にはこいしともう一人。
物陰から、さとりはそっと玄関の様子をうかがった。
「いやぁ、良い演技だったよ響子! お姉ちゃんをあんなに驚かすことができたんだからね」
「まさか私でもさとり妖怪を驚かすことができるなんてね」
「響子が山彦だからできたんだよー」
「ひさびさに妖怪冥利に尽きることしたわー。あ、ところで、これで地霊殿でのライブを許可してくれるの!?」
「良いよ良いよ。古明地さとりの妹である私がどーんと認めちゃうよ! お姉ちゃんの私に対する株が上がっただろうし。えへ、えへへへへ」
例の幽谷響子とこいしが無防備にもこんな話をしていた。二人はさとりがまだ寝ているものと思っているようだ。
ものの一分、さとりは頭を抱えた。やはり自分は寝ているのではなかろうか? これは夢ではないか? 自分のほっぺたをつねったが、痛みは本物。夢であるはずがなかった。
こいしと響子が共謀してた?
今の会話で、今日の出来事の全体像ががらりと変わって見えた。
響子は山彦。山彦の本質は声を返すことだ。それは本能的に、ほぼ無意識にできるのだろう。これを利用すればいかにも響子が話しているように演じることができる。それも、心にも思ってないことを。言葉と心。この切っても切り離せない関係を千切りとれる。
ただ、これを成立させるには響子に話しかける役者が居る。それも響子以外、誰にも気付かれない必要があった。無意識を操り、存在を消すことができるこいしにぴったりの役目だ。
響子が心の中でひたすら意味のないことをつぶやいていたのは、さとりに余計な情報を与えないため。
こいしは響子にのみ姿を明かし、話しかけ、響子がそれを本能のままに返していたのだ。今までの響子の言葉はすべてこいしのもの。
それに、これならば響子が拘束を抜け出したこと、そしてお燐とお空が見えざる手に撃退されたことも説明が付く。響子の拘束を解き、お燐とお空の意識を刈り取ることはこいしならばできる。今考えれば、こいしが現れるタイミングも、彼女の放浪癖を考えれば不自然だ。
こいしがタイミングよくさとりを助けたのではない。もともとそうなるようにこいしが仕掛けていた。
全てはこいしの策略だ。
そういうことしちゃうかこいしちゃーん。
自然とどす黒い笑みがさとりの顔に浮いた。
「楽しそうねぇ、二人とも」
どうやらこいしにはお仕置きが必要なようね。
「おおおお姉ちゃん!?」
あからさまに動揺したあと、こほんと咳を割り込ませ、こいしは上目遣いでさとりの体をいたわるように言った。
「もう体は大丈夫なのお姉ちゃん?」
ご丁寧に瞳まで潤ませていたが、こいしの口元は引きつっていた。
こいしの問いに、口では答えない。
さとりは袖に入れていた青いリボンと壁の燭台に立ててあったろうそくを引っこ抜き、手に持つ。それに満面の笑みを加え、こいしの問いの答えにしたのだった。
元気な声に古明地さとりは目を覚まし、地底独特の少し湿気た空気を吸い込んだ。目をこすり、上半身だけ起こす。朝、さとりを起こしに来る者は居ないはずだ。そういぶかりながら、さとりは声の主を探した。
「ん……?」
さとりのベッドの下に、声の発生源であろう妖怪が横たわっていた。
妖怪の口元は笑顔。しかし、目は涙ぐんでいる。なぜかその妖怪は青いリボンで胴体をぐるぐる巻きにされ、いもむしみたいになっていた。助けてくれと言わんばかりに妖怪の頭で犬耳がぴくぴく動いている。いや、実際に心の中で助けてくれと叫んでいるが。
「んーえーと……。はぁ……」
状況を理解できずにさとりは溜め息をつく。
とりあえず拘束から解放してやると、妖怪は自己紹介をしてきた。
「私は幽谷響子」
いちいち言葉にしなくても良い。けれど、それを言うのはお節介だろう。
あくびをし、涙ぐむ目と第三の目で響子を観察する。名前には聞き覚えがあった。確か、地上で雀の妖怪とバンドを組んでる山彦だ。
「古明地さとりのお嫁さんやってます!」
「!?」
心にもないうそを言いやがったわこいつ!?
一瞬でうそとわかる自己紹介にもびっくりだが、さとりがさらに驚いたのは、響子の心には『私は古明地さとりのお嫁さん』という思考が一寸たりともなかったことだ。うそをつくにしても、心の中に一度はその言葉が浮く。
顔がひくつくのを自覚しながらもさとりは響子の読心に集中する。
お腹すいたなー。
ご飯食べたいなー。
――自分がついたうそについて何か考えている様子はなかった。それに、たいそれたことはなにも考えていない。
心にもないことを言ってきたのは恐怖に値するが、とりあえず害はなさそうだ。そう判断し、さとりはひとまず安心する。
「私はさとりのお嫁さんだよ!? ねえ? 一緒に寝よ! 一緒に寝よ!」
ただどうしてかしら。物凄くうっとうしい。
うそをつく目的がわからない分、さとりとしてはなんと返せば良いのかわからなかった。
結局「んーそうねえ」と、さとりは適当に流したのだった。
「きぃぃぃぃ、もうちょっと喜んでくれても良いじゃない!」
この妖怪のもう一つ凄いところは、どう聞いても怒っているような台詞をにこにこ棒立ちのままで言ってしまうことだ。怒っている、という感情は声にしっかりこもっている。ちなみに、その間も響子は心中でひたすらご飯食べたいなーを繰り返しており、まったく怒っていない。説明しようとするとわけがわからなくなる。
言葉、心、体。あべこべなのだ。
ふいにさとりは、自分がめまいをおこしているのを自覚する。さとり妖怪として、心と体の関係について説明がつかない類が苦手なのだ。
とりあえず、縛っておこうかしら。それからゆっくり朝ご飯を食べて……考えよう。この妖怪の処分について。
響子は縛り、さとりの自室に転がしておいた。響子に涙目で見上げられ、刹那的に情は沸いたが頭痛の種に付き合っていられない。さとりが台所に行くと、黒猫が足に擦り寄ってきた。猫モードのお燐だ。
「おはよう。お燐」
二又の尻尾をゆらして、お燐はにゃーと鳴く。
その声を聞きつけたのか「うにゅー」と目をこすりながらお空も台所に入ってきた。
「……その半妖状態なんとかならないの?」
まぬけなことに、お空は頭は鳥、体は人間という奇妙な半妖モードになっていた。本人は全身地獄鳥モードにしているつもりだったようだ。はっと自分の体を見直すと、お空は台所の入り口にかけられているのれんをくぐり、出て行った。それから戻ってくるときには鶏サイズの立派な鳥の姿になっていた。彼女もまた、朝食をねだってくる。
「ちょっと待ってね」
香霖堂で買って以来、二匹が好んで食べているキャットフードをそれぞれの皿についでやる。鳥の妖怪であるお空もひどく気に入っているようだ。ペットにえさをやり、自分もゆっくり朝食を食べる。戻ってきたほのぼのとした日常に、さとりは口角を引き上げた。
キャットフードを盛った皿を両手にさとりはペットに笑いかける。
「はい。お待た――」
さとりは先の言葉が出なかった。
視界の端。非日常がさとりの邪魔をした。
台所の入り口。のれんの下に幽谷響子が立っていた。
「ねぇねぇ。どうして縛ったの!?」
満面の笑みで響子は言った。しかし声には確実に怒気がこもっている。されど心ではおいしそうな朝ご飯だなーとのんきにぼやいている。
さとりの中に芽生えていた恐怖の花が開花した。
関連性の見えない響子の感情は恐ろしいが、それ以前に響子は部屋に現れたときみたいに青いリボンで拘束したはずだ。一応、抜けれないように結んだはず。
けれど何事もなかったかのように笑みを浮かべ、響子はすたすたとさとりに歩み寄ってくる。
さとりは後ずさっていた。
「ちょっと食べても良い?」
キャットフードを指差し、響子は言った。その言葉にさとりのペット二匹が戦慄する。
相変わらず響子は笑みを絶やさない。彼女はキャットフードに手を伸ばした。
我慢ならぬ!
そう言わんばかりにお燐とお空は響子にとびかかった。それでもなお響子は不気味な満面の笑み。ペットなぞ歯牙にもかけていない。まったく動揺していなかった。
「にゃ!?」「うにゅ!?」
ペットの短い悲鳴。爪とくちばしが響子に届く寸前だ。お燐とお空の意識がとぎれたのがわかった。二匹の体が空中で急に勢いを失う。ばたんと地に落ち、二匹はうつぶせのまま動かなくなる。
響子は一切手を出していなかった。それどころか、殺気すら放っていない。
なにをしたの?
わからなかった。
皿からつまみ取ったキャットフードを口に放り込み、おいしいなーなどと呆けたことを考えている妖怪。
さとりの手からキャットフードの入った皿がするりと落ちる。
なにか超人的な力を持ち、お空とお燐を触れずに一瞬で気絶させた。さとり妖怪の能力も受け付けない。一見、害があるようには見えない。けれど、さとりは響子を怒らせてしまっている可能性がある。
もし、もしこの妖怪が私を倒そうとしたら……。おそらく一瞬だ。私はこの妖怪がどうしようもなく恐ろしい。
皿が割れる音を口きりに、さとりは気絶したお燐とお空を両わきに抱え、駆け出していた。なにか策があったわけではない。少しでも響子から離れておきたかった。
触らぬ神にたたりなし。
害意自体はない。追いかけてはこないはず――。
「まぁぁぁぁぁてぇぇぇぇぇぇぇ!」
――だった。
キョンシーみたく両腕を前に突き出して響子は追ってきた。
「なんなのよぉぉぉおおおおお!」
体面もなく情けない悲鳴を上げていた。
地霊殿の中庭から灼熱地獄跡に続く道を下る。
熱気で蜃気楼があちこちで揺れており、炎が赤々と燃え盛っている。まさに灼熱地獄。跡がつけどその名に恥じない場所だ。足場は火山地帯のようにおうとつの激しい岩石が続いている。
灼熱地獄にも関わらず、さとりは冷や汗しか掻いていなかった。炎が燃え盛る音の中、後ろからたしかに足音が迫ってきている。さとりは室内用のスリッパがこげるのもおかまいなく走った。けれど、ペットを両わきに抱えてるさとりは分が悪い。たちまち響子は距離を詰めてくる。
振り切れない。
「あっ」
焦りがさとりの足元を狂わせた。
しまった――。
おうとつに足を取られ、さとりの体が宙に浮く。視界が何倍速にもなって前から後ろに流れる。ペットを守るためにさとりは体をねじり、二匹を胸に抱き寄せた。そしてあっけなく肩から地面に落ちる。
満面の笑みを浮かべた響子がスピードを緩める。
「ふふふふふふ……」
勝利を確信した笑い。もう走る必要はないと判断したのだ。そして、この状況になってなお、もっと朝ご飯食べたいなーというマッチしない思考をしている響子が、さとりにはどうしようもなく恐ろしかった。
さとりにとってこれ以上の恐怖はない。
なんだかよくわからないけど、私はもうだめみたい。
あきらめ。けれど、救いの懇願をするつもりはなかった。
煮るなり焼くなり好きにしなさい!
そう心のうちで叫び、さとりは響子を睨みつけた。それが地霊殿の主としての最後の意地だった。けれど、やはり響子の満面の笑みが恐ろしく、防衛本能が意識を手放そうとした。
「お姉ちゃんに手を出すなー!」
ところが聞きなれた家族の声がさとりの意識を引き戻した。
響子からさとりを守るように、こいしが現れたのだ。彼女は両手をひろげ、どんとさとりの前に立つ。いつもどこかほっつき歩いているこいしが、帰ってきていたようだ。様子から察するに、地霊殿に帰ってきたときに異変に気付いてくれたみたいだった。
「こいし……」
妹の登場に、安堵しかけたがさとりは首を振る。
「だめ、こいし! なんだかよくわからないけど、そいつは危ない!」
いまだに気絶しているお燐とお空を抱く手に力を込める。
響子は触れもせずに、お燐とお空の意識を刈り取った。ただ者ではない。
こいしはそれを承知した上で、ではないだろう。けれど、やさしく笑った。
「大丈夫だよ。お姉ちゃん」
姉失格だろうか。情けないことに、安心してしまった。
普段は風のように儚く頼りない存在だが、今は岩のようにしっかりとした、確固たる存在を印している。
「本能『イドの解放』」
高らかにこいしはスペルカードを宣言する。ハート型の弾幕がこいしを中心に展開されていく。
「大声『チャージドヤッホー』」
呼応するように響子もスペルカードを宣言。
くさび型の弾幕が見えない球形の膜に圧縮されるように響子の眼前に集まっていく。
「えい!」
「ぎゃて!」
掛け声と共に、二人は弾幕を解き放つ。
轟音。四散する岩の破片。砂煙があたり一帯を包んだ。
「こいし!」
もうもうとわき立つ煙の中に、一つだけシルエットが浮かんだ。
唾を飲み、さとりは視界が晴れるのを待つ。
「危なかったね。お姉ちゃん」
晴れた砂煙の先で立っていたのはこいしだった。その先では、響子がぷすぷすと煙を上げて倒れている。
こいしは意味のわからない力を持つ響子に打ち勝った。
今はこの事実だけで十分だ。
「良かった……こいし」
安堵からか、さとりの体からふっと力が抜けた。
「とと、お姉ちゃん!」
今日くらいは妹の胸を借りても良いわよね。
さとりはこいしの胸の中で意識を手放したのだった。
さとりが目覚めたのは、自室のベットの上だった。
先ほどまでの出来事が夢ではないかと、さとりは一瞬疑った。けれど、ベッドの下に残っていた大蛇のように長い青のリボンがそれを否定する。
こいしは――。
さっきはろくにお礼を言っていない。
もう少し寝ていたいと訴えてくる体をさとりは強引に起こす。出来事の証明である青いリボンを袖に入れ、さとりは部屋を出た。
台所、居間、トイレ……こいしが居そうなところを探してまわる。
すると、玄関の方からこいしの声が聞こえてきた。いや、実際にはこいしともう一人。
物陰から、さとりはそっと玄関の様子をうかがった。
「いやぁ、良い演技だったよ響子! お姉ちゃんをあんなに驚かすことができたんだからね」
「まさか私でもさとり妖怪を驚かすことができるなんてね」
「響子が山彦だからできたんだよー」
「ひさびさに妖怪冥利に尽きることしたわー。あ、ところで、これで地霊殿でのライブを許可してくれるの!?」
「良いよ良いよ。古明地さとりの妹である私がどーんと認めちゃうよ! お姉ちゃんの私に対する株が上がっただろうし。えへ、えへへへへ」
例の幽谷響子とこいしが無防備にもこんな話をしていた。二人はさとりがまだ寝ているものと思っているようだ。
ものの一分、さとりは頭を抱えた。やはり自分は寝ているのではなかろうか? これは夢ではないか? 自分のほっぺたをつねったが、痛みは本物。夢であるはずがなかった。
こいしと響子が共謀してた?
今の会話で、今日の出来事の全体像ががらりと変わって見えた。
響子は山彦。山彦の本質は声を返すことだ。それは本能的に、ほぼ無意識にできるのだろう。これを利用すればいかにも響子が話しているように演じることができる。それも、心にも思ってないことを。言葉と心。この切っても切り離せない関係を千切りとれる。
ただ、これを成立させるには響子に話しかける役者が居る。それも響子以外、誰にも気付かれない必要があった。無意識を操り、存在を消すことができるこいしにぴったりの役目だ。
響子が心の中でひたすら意味のないことをつぶやいていたのは、さとりに余計な情報を与えないため。
こいしは響子にのみ姿を明かし、話しかけ、響子がそれを本能のままに返していたのだ。今までの響子の言葉はすべてこいしのもの。
それに、これならば響子が拘束を抜け出したこと、そしてお燐とお空が見えざる手に撃退されたことも説明が付く。響子の拘束を解き、お燐とお空の意識を刈り取ることはこいしならばできる。今考えれば、こいしが現れるタイミングも、彼女の放浪癖を考えれば不自然だ。
こいしがタイミングよくさとりを助けたのではない。もともとそうなるようにこいしが仕掛けていた。
全てはこいしの策略だ。
そういうことしちゃうかこいしちゃーん。
自然とどす黒い笑みがさとりの顔に浮いた。
「楽しそうねぇ、二人とも」
どうやらこいしにはお仕置きが必要なようね。
「おおおお姉ちゃん!?」
あからさまに動揺したあと、こほんと咳を割り込ませ、こいしは上目遣いでさとりの体をいたわるように言った。
「もう体は大丈夫なのお姉ちゃん?」
ご丁寧に瞳まで潤ませていたが、こいしの口元は引きつっていた。
こいしの問いに、口では答えない。
さとりは袖に入れていた青いリボンと壁の燭台に立ててあったろうそくを引っこ抜き、手に持つ。それに満面の笑みを加え、こいしの問いの答えにしたのだった。
言ってる事と思考が剥離してるって響子どんだけヤバいんだ…と思ってたらこれだよ
面白かったです。
さとりは攻められると弱いタイプであるか
オチの前までは本当に怖いな