「エリー」
高い塀を構成する赤い煉瓦の壁面を見上げると、鈍色の雲り空。見下されているのか、招かれているのか。
「エリーあんたってさ」
ぱっとしない気分をもてあまして、私は考えるでもなく口を開いた。
「――その鎌、重くないの? ずっと持っているけど、死神でもないくせに、門番してるし、変に小奇麗な見た目してるし、帽子は日除け?
エリー、あんたってさ」
口を開いて視線を右隣に、言葉を畳み掛けた。
「うん、なんかようかい」
「なんの用かい――じゃない、妖怪。なに妖怪?」
「うーん? 鎌を持った妖怪」
「じゃあ私は翼の生えた妖怪かよ」
「分かりやすくていいじゃない」
「あんたはそれでいいかもしんないけど……」
そして、とぼけた喋り口に中身のない言葉での応酬へ。別段、゛この女゛の正体をそれほど暴きたいつもりじゃない……って言うのは嘘だ。けど、気になってたから訊いてみただけなのも間違いじゃない。そう気になるのは――と、この女――エリーの容姿を改めてざっと眺めてみる。
裾がくるぶしまでを覆うゆったりした袖の長衣に、鍔広帽子。髪先を緩く巻いた金髪、覚えるのに苦労しない記号的に整った顔立ち。
赤錆びて開ける前に崩れそうな外観の門扉を背に立っている長身の女は、どう見ても妖怪に身をやつすような容姿をしていないのに――酷く柄の湾曲した逆刃の鎌を、何気ない様子で携えているのが、何よりも、不釣合いだった。
湖のど真ん中で浮島に居座っている吸血鬼とかが言えたことでもないけど。
「そぉうねえ……、赤い妖怪」
服の裾を摘んで思案げに。さっきからどうも外見の要素しか挙げられていないのは特別な縛りでも行ってるのか。
「髪と帽子はどこにいったの」
「鎌の色も忘れてたわ」
「色はもういいって。含め出したらキリがない」
「じゃあ立ってる妖怪」
「私は飛んでる妖怪になる」
「かっこいいじゃない」
「普通だから、あんた飛べないわけじゃないじゃん」
「飛ぶって翼があってこそだと思わない?」
摘んだままの長衣を見立てて羽ばたかせるエリーは、あくまで邪気のない表情だった。
「やめなさいそれ、自虐の域に収まんないから」
「うーん、むずかしいのねえ」
エリーは鎌を持ったまま器用に腕を組んで唸り出す。日傘の間違いじゃないかと思えてくる、変な光景だ。足を少し開いた動きで赤い服裾から覗いた、どんな局地を踏破する目的で履いているのかも分からない堅牢なブーツが、正体不明な妖怪への疑問を増していく。はっきり言って装いの方向性が分からな過ぎる。奇抜よ、どうにも。
「ねえくるみ、刃の部分の鉄っぽい色は鈍い色って言えばいいのかしら」
自分の鎌を見上げながらどうでもいいことを訊かれた。
「まだ続けてたの……。そりゃ、あんたの脳の色よ」
「私の脳は何も切れないわよ?」
「そうね、まったくキレそうにないね」
ついでに言えば、呆が付くくらい落ち着いている、ほうっとするって言うしね。ボケているとも。怒りそうもないし、見たこともない。
――そんな風に侮って、のうのうと湖を通り抜けようとするエリーを阻止しようとした初対面時は、恐ろしいくらいの身体能力と機敏な身のこなし、さり気ないのに狙い目鋭い念動使いに手も足も出なかった。それは、忘れていない。けど、それはエリーをして普通のことであって、特に戦闘を始めたからと言って豹変したのでもなかった。こうして私が止めを刺されず終えて、今はその傍らの少し離れた場所から話かけている事実がそうだ。
正直に言うと、こうして距離を保ちながら探っているのはいつかエリーを破るためだと言えなくもない。得体も知れないモノに負けたまんま、という事実が私の自尊心を炙って、加熱させている。
そして出来上がった現状が、倒された吸血鬼とそれを退けた鎌を持つ赤い妖怪、前と後ろを守る門番同士、暇を持て余したお喋り仲間。何がなんだか分からない。私もこれがどんな関係なのか正しく言える自信がなくて――
急に感じ取った触覚に弾かれたように顔を上げると、少し近づいた位置にエリーが来ていて、私の羽の端を掴んで緩く揉んでいた。
「…………あにしてんの」
「ん? 何か、不機嫌そうだったから」
首を傾げて言われても。不機嫌です、と相槌を打てばいいのか。
「羽を揉めば私の機嫌が直るって?」
「くるみのここが一番動いていたから、つい」
そう言って、むいむいと触れた部分を揉まれ続けられる。けど、筋肉や神経の集中する翼膜じゃなく――骨組みを覆う皮を選ぶ考えが、どうも分からない。
「今、顔の一部がすごくひくついているのが自分で分かるんだけど」
「揉む? 目じり」
「いらないっての揉まなくていいから」
摘んで弄くってくるその手首を軽く、手の甲であしらった。
そうなの、残念。と、手を振ってあっさり諦めたエリーは言葉ほど残念そうに見えない。エリーの言う私の不機嫌とやらをそれで直せるつもりだったのか。そもそも残念ってどういう意味だもう。
「それじゃあ、私はどんな妖怪かしらね」
かしゃん、とエリーの寄りかかる門扉が静かに鳴いた。無理をさせるなと抗議の声か、やっかいな吸血鬼に絡まれた仲間を哀れむ慰めか。
「それをね今、私が聞いてるんだけども」
埒は一向に明かない。言いたくないのはよほど嫌われている種族だからか。それにしたって嫌悪のされようで最も分かりやすい吸血鬼の前でためらうなんて。場所と時代が合えば街一つ分の人間が滅ぼそうとやってきてもおかしくないくらいの怪物なのは、この呆けた妖怪だって知らないわけじゃないだろうに。
「……いいわよもう。言いたくないなら」
今日の手応えはこんなもんだろうと。どうせ焦ったって負けた事実は覆らない。けど、負けたままにしておくつもりもない。気長になれる寛容さが欲しい気分だった。
「焼いて食べられない?」
「黙ってたってそんな食べ方しないっての、火も吐けません」
「吸う方だものね」
「そうよ、黙って動かなかったらその首食いちぎる勢いなんだから……いつも夜には腹を決めていないと――」
「夜にも?」
来てくれるの――
ひたりと、止まる。止まるしかない。
溜めに溜めて脅しかけようと作ってやった表情から毒気を抜かれていくのが分かる。
とち狂ったのか私は。言葉続きを補完してしまうなんて。でも、仕方ないじゃない、まるでそんな、期待した声を出されたら。
それほど頻繁にエリーとこういった寄り合いをしているのでも無いし、同じ場所に居ても話す数は今日ほど多くない。だからエリーの声色なんて判別出来るわけがないのに。
息が苦しいのは、呼吸を無視して口がぱくぱくと空回りしているからだろう。とりあえず何か、何かを、言おうとして。
「………………夜は、休んでた。そう、だから、こんな所に来る暇なんてないわ。首は日が出るまでに洗っておきなさい」
とても吸血鬼として残念な回答をしてしまった。だって、暗くなれば眠くなって、明るくなれば目が覚めるものだし。
「そうなの、残念。夜も暇だから、くるみが来てくれると退屈しなかったのに」
「勝手にヒトのこと越してその後ろに門番構えたあんたに言われる筋合いないわほんと」
「でも、ここに来る者の通り道が湖だけってこともないでしょう」
「そりゃあ、ね。……けど、それくらい言うなら私を越した侵入者を防いでくれてもいいんじゃない? 門番さん」
「いっ、し、しかたないじゃない。くるみと戦った時みたいにはいかないのよ……」
茶化した口調で言ってやれば、口を尖らせてエリーは拗ねたようにそっぽを向く。
どうも穏やかなりにも技量や役目に対する志は高いようで、からかえばうろたえる反応が溜飲の下げ所でもあった。だからまだ、血なまぐさいことの二度目は起きてないかもしれない。単純、我ながら……と好ましくないしこりが心に出来るのが分かる。
肩甲骨辺りを使い、くっと反動で身を起こす。へそのちょうど真後ろに翼の付け根があるのでこの動作で下敷きにすることもないし、かゆい時も手が届きやすいので絶妙な位置だ。一つ伸びをして、畳んでいた羽もうんと広げる。まったく、この伸びのやり方はいつでも爽快で飽きがこなかった。
「もう帰るの? まだ日は高いのに」
「日も高いからこそ誰かが来るかもしれない。そうでしょ。平和呆けしたの?」
「いいことじゃない。役目を果たせなくても、その本懐が果たされているなら」
いいこと、とエリーは言った。門番の示す価値ではなく、それを行うことによって得られる、本来の目的。
識らざる者においては背負う先へ通すべからず、通る者なしにしても立つ所を変わらず、か。
「……ま、一途なことで」
「何かを守るヒトは誰だってそうよ。くるみは、違った?」
「別に、ただ驕ってただけよ。侮ったの、あんたを」
一途だったわけじゃない。エリーのようになんて。
「なら分かりやすく凶暴な見た目で、肌からも感じ取れるような相手だったら、くるみは見逃したの? 私を」
「そうよもう、どころか一目散、とんずらするって」
天上に腕を目一杯差し伸ばして、灰色の雲群を細く睨んだ。晴天より少ない日射なのに、肌着が覆っていない部分は大げさに熱を持っている。おかげでこの水場近くの肌寒い時期でも一人陽気分だった。
日光を掴んだつもりで両手を強かに、握って。
「それじゃあね、私が倒されたらよろしく」
「任せて」
振り向いて自虐と皮肉のお暇をすれば、瞬きの間で目の色変えた双眸に短く確かな一言で応えられる。これだから、私はエリーが嫌いだった。あなたなら大丈夫とも、言われるまでもじゃなく、任せて、と。さっき茶化してやったことだって、元を辿れば私の不始末。でも、今日に至るまでも一切責められなかった。
任せてと言うのは――何があっても大丈夫だから、あなたはあなたで存分に――なんてことだろうかと思うのは穿ちすぎで、ちょっとクサイ気もしてすぐに頭を振った。
羽をたわめて、魔力を強く打つ。一蹴りで身長ほどまで浮いた体をもっと上までやろうとした間際、エリーの声が聞こえたのはありがたかった。それ以上先だったらもう気にしていなかっただろうから。
「――なによっ?」
「ん。またねー、って」
変えた目の色ももう潜めると、にこやかに笑んでそんなことを。
何か、悔しい気持ちがどっと押し寄せる。ありもしないような思惑を読もうとして、一人勝手に惑っていることがどうしようもなく間抜けだと言われているようで。たまらず、大気を振り払うような加減で身をひねって指を突きつけてやった。
どうも私を――いっとう矜持にはうるさい吸血鬼であることを理解していない、緩そうに呆けた妖怪へ啖呵を切って。
「――言われなくても! 宿敵!」
それでも、エリーのふやけた顔を引き締めてやることは出来なかったのだった。
高い塀を構成する赤い煉瓦の壁面を見上げると、鈍色の雲り空。見下されているのか、招かれているのか。
「エリーあんたってさ」
ぱっとしない気分をもてあまして、私は考えるでもなく口を開いた。
「――その鎌、重くないの? ずっと持っているけど、死神でもないくせに、門番してるし、変に小奇麗な見た目してるし、帽子は日除け?
エリー、あんたってさ」
口を開いて視線を右隣に、言葉を畳み掛けた。
「うん、なんかようかい」
「なんの用かい――じゃない、妖怪。なに妖怪?」
「うーん? 鎌を持った妖怪」
「じゃあ私は翼の生えた妖怪かよ」
「分かりやすくていいじゃない」
「あんたはそれでいいかもしんないけど……」
そして、とぼけた喋り口に中身のない言葉での応酬へ。別段、゛この女゛の正体をそれほど暴きたいつもりじゃない……って言うのは嘘だ。けど、気になってたから訊いてみただけなのも間違いじゃない。そう気になるのは――と、この女――エリーの容姿を改めてざっと眺めてみる。
裾がくるぶしまでを覆うゆったりした袖の長衣に、鍔広帽子。髪先を緩く巻いた金髪、覚えるのに苦労しない記号的に整った顔立ち。
赤錆びて開ける前に崩れそうな外観の門扉を背に立っている長身の女は、どう見ても妖怪に身をやつすような容姿をしていないのに――酷く柄の湾曲した逆刃の鎌を、何気ない様子で携えているのが、何よりも、不釣合いだった。
湖のど真ん中で浮島に居座っている吸血鬼とかが言えたことでもないけど。
「そぉうねえ……、赤い妖怪」
服の裾を摘んで思案げに。さっきからどうも外見の要素しか挙げられていないのは特別な縛りでも行ってるのか。
「髪と帽子はどこにいったの」
「鎌の色も忘れてたわ」
「色はもういいって。含め出したらキリがない」
「じゃあ立ってる妖怪」
「私は飛んでる妖怪になる」
「かっこいいじゃない」
「普通だから、あんた飛べないわけじゃないじゃん」
「飛ぶって翼があってこそだと思わない?」
摘んだままの長衣を見立てて羽ばたかせるエリーは、あくまで邪気のない表情だった。
「やめなさいそれ、自虐の域に収まんないから」
「うーん、むずかしいのねえ」
エリーは鎌を持ったまま器用に腕を組んで唸り出す。日傘の間違いじゃないかと思えてくる、変な光景だ。足を少し開いた動きで赤い服裾から覗いた、どんな局地を踏破する目的で履いているのかも分からない堅牢なブーツが、正体不明な妖怪への疑問を増していく。はっきり言って装いの方向性が分からな過ぎる。奇抜よ、どうにも。
「ねえくるみ、刃の部分の鉄っぽい色は鈍い色って言えばいいのかしら」
自分の鎌を見上げながらどうでもいいことを訊かれた。
「まだ続けてたの……。そりゃ、あんたの脳の色よ」
「私の脳は何も切れないわよ?」
「そうね、まったくキレそうにないね」
ついでに言えば、呆が付くくらい落ち着いている、ほうっとするって言うしね。ボケているとも。怒りそうもないし、見たこともない。
――そんな風に侮って、のうのうと湖を通り抜けようとするエリーを阻止しようとした初対面時は、恐ろしいくらいの身体能力と機敏な身のこなし、さり気ないのに狙い目鋭い念動使いに手も足も出なかった。それは、忘れていない。けど、それはエリーをして普通のことであって、特に戦闘を始めたからと言って豹変したのでもなかった。こうして私が止めを刺されず終えて、今はその傍らの少し離れた場所から話かけている事実がそうだ。
正直に言うと、こうして距離を保ちながら探っているのはいつかエリーを破るためだと言えなくもない。得体も知れないモノに負けたまんま、という事実が私の自尊心を炙って、加熱させている。
そして出来上がった現状が、倒された吸血鬼とそれを退けた鎌を持つ赤い妖怪、前と後ろを守る門番同士、暇を持て余したお喋り仲間。何がなんだか分からない。私もこれがどんな関係なのか正しく言える自信がなくて――
急に感じ取った触覚に弾かれたように顔を上げると、少し近づいた位置にエリーが来ていて、私の羽の端を掴んで緩く揉んでいた。
「…………あにしてんの」
「ん? 何か、不機嫌そうだったから」
首を傾げて言われても。不機嫌です、と相槌を打てばいいのか。
「羽を揉めば私の機嫌が直るって?」
「くるみのここが一番動いていたから、つい」
そう言って、むいむいと触れた部分を揉まれ続けられる。けど、筋肉や神経の集中する翼膜じゃなく――骨組みを覆う皮を選ぶ考えが、どうも分からない。
「今、顔の一部がすごくひくついているのが自分で分かるんだけど」
「揉む? 目じり」
「いらないっての揉まなくていいから」
摘んで弄くってくるその手首を軽く、手の甲であしらった。
そうなの、残念。と、手を振ってあっさり諦めたエリーは言葉ほど残念そうに見えない。エリーの言う私の不機嫌とやらをそれで直せるつもりだったのか。そもそも残念ってどういう意味だもう。
「それじゃあ、私はどんな妖怪かしらね」
かしゃん、とエリーの寄りかかる門扉が静かに鳴いた。無理をさせるなと抗議の声か、やっかいな吸血鬼に絡まれた仲間を哀れむ慰めか。
「それをね今、私が聞いてるんだけども」
埒は一向に明かない。言いたくないのはよほど嫌われている種族だからか。それにしたって嫌悪のされようで最も分かりやすい吸血鬼の前でためらうなんて。場所と時代が合えば街一つ分の人間が滅ぼそうとやってきてもおかしくないくらいの怪物なのは、この呆けた妖怪だって知らないわけじゃないだろうに。
「……いいわよもう。言いたくないなら」
今日の手応えはこんなもんだろうと。どうせ焦ったって負けた事実は覆らない。けど、負けたままにしておくつもりもない。気長になれる寛容さが欲しい気分だった。
「焼いて食べられない?」
「黙ってたってそんな食べ方しないっての、火も吐けません」
「吸う方だものね」
「そうよ、黙って動かなかったらその首食いちぎる勢いなんだから……いつも夜には腹を決めていないと――」
「夜にも?」
来てくれるの――
ひたりと、止まる。止まるしかない。
溜めに溜めて脅しかけようと作ってやった表情から毒気を抜かれていくのが分かる。
とち狂ったのか私は。言葉続きを補完してしまうなんて。でも、仕方ないじゃない、まるでそんな、期待した声を出されたら。
それほど頻繁にエリーとこういった寄り合いをしているのでも無いし、同じ場所に居ても話す数は今日ほど多くない。だからエリーの声色なんて判別出来るわけがないのに。
息が苦しいのは、呼吸を無視して口がぱくぱくと空回りしているからだろう。とりあえず何か、何かを、言おうとして。
「………………夜は、休んでた。そう、だから、こんな所に来る暇なんてないわ。首は日が出るまでに洗っておきなさい」
とても吸血鬼として残念な回答をしてしまった。だって、暗くなれば眠くなって、明るくなれば目が覚めるものだし。
「そうなの、残念。夜も暇だから、くるみが来てくれると退屈しなかったのに」
「勝手にヒトのこと越してその後ろに門番構えたあんたに言われる筋合いないわほんと」
「でも、ここに来る者の通り道が湖だけってこともないでしょう」
「そりゃあ、ね。……けど、それくらい言うなら私を越した侵入者を防いでくれてもいいんじゃない? 門番さん」
「いっ、し、しかたないじゃない。くるみと戦った時みたいにはいかないのよ……」
茶化した口調で言ってやれば、口を尖らせてエリーは拗ねたようにそっぽを向く。
どうも穏やかなりにも技量や役目に対する志は高いようで、からかえばうろたえる反応が溜飲の下げ所でもあった。だからまだ、血なまぐさいことの二度目は起きてないかもしれない。単純、我ながら……と好ましくないしこりが心に出来るのが分かる。
肩甲骨辺りを使い、くっと反動で身を起こす。へそのちょうど真後ろに翼の付け根があるのでこの動作で下敷きにすることもないし、かゆい時も手が届きやすいので絶妙な位置だ。一つ伸びをして、畳んでいた羽もうんと広げる。まったく、この伸びのやり方はいつでも爽快で飽きがこなかった。
「もう帰るの? まだ日は高いのに」
「日も高いからこそ誰かが来るかもしれない。そうでしょ。平和呆けしたの?」
「いいことじゃない。役目を果たせなくても、その本懐が果たされているなら」
いいこと、とエリーは言った。門番の示す価値ではなく、それを行うことによって得られる、本来の目的。
識らざる者においては背負う先へ通すべからず、通る者なしにしても立つ所を変わらず、か。
「……ま、一途なことで」
「何かを守るヒトは誰だってそうよ。くるみは、違った?」
「別に、ただ驕ってただけよ。侮ったの、あんたを」
一途だったわけじゃない。エリーのようになんて。
「なら分かりやすく凶暴な見た目で、肌からも感じ取れるような相手だったら、くるみは見逃したの? 私を」
「そうよもう、どころか一目散、とんずらするって」
天上に腕を目一杯差し伸ばして、灰色の雲群を細く睨んだ。晴天より少ない日射なのに、肌着が覆っていない部分は大げさに熱を持っている。おかげでこの水場近くの肌寒い時期でも一人陽気分だった。
日光を掴んだつもりで両手を強かに、握って。
「それじゃあね、私が倒されたらよろしく」
「任せて」
振り向いて自虐と皮肉のお暇をすれば、瞬きの間で目の色変えた双眸に短く確かな一言で応えられる。これだから、私はエリーが嫌いだった。あなたなら大丈夫とも、言われるまでもじゃなく、任せて、と。さっき茶化してやったことだって、元を辿れば私の不始末。でも、今日に至るまでも一切責められなかった。
任せてと言うのは――何があっても大丈夫だから、あなたはあなたで存分に――なんてことだろうかと思うのは穿ちすぎで、ちょっとクサイ気もしてすぐに頭を振った。
羽をたわめて、魔力を強く打つ。一蹴りで身長ほどまで浮いた体をもっと上までやろうとした間際、エリーの声が聞こえたのはありがたかった。それ以上先だったらもう気にしていなかっただろうから。
「――なによっ?」
「ん。またねー、って」
変えた目の色ももう潜めると、にこやかに笑んでそんなことを。
何か、悔しい気持ちがどっと押し寄せる。ありもしないような思惑を読もうとして、一人勝手に惑っていることがどうしようもなく間抜けだと言われているようで。たまらず、大気を振り払うような加減で身をひねって指を突きつけてやった。
どうも私を――いっとう矜持にはうるさい吸血鬼であることを理解していない、緩そうに呆けた妖怪へ啖呵を切って。
「――言われなくても! 宿敵!」
それでも、エリーのふやけた顔を引き締めてやることは出来なかったのだった。
100点に極めて近い90点です。