ほんの少し前まで寒さに身体を震わせていたというのに、今は薄着でも汗ばむ陽気である。
照りつける太陽が勢いを増し、生物達も活発に活動を始める季節。
神社の巫女としては、冬眠から覚めた妖怪の相手や元気を取り戻した妖怪の相手や頭も春になる妖怪の相手に忙しい。
毎年度のことだが、今年も弥生の下旬の頃からやたらと活気づく環境変化に多少はまごつく。
というのも、冬の間は異変も妖怪退治も頻度が少なく身体がなまる傾向にあるからだった。
なまりつつある身体を雑魚を蹴散らしながら温める日々というのもささやかな春の楽しみではあったが、今は心に咎めることがあった。
「あふ…」
幻想卿の上空を急ぎもせず、穏やかに滑空しながら欠伸をかみ殺す。
春の日は季節の中で最も客人が多い季節だが、午前中はその限りではない。
春眠暁を覚えず
諺どおりに予定も目的もない気ままな連中はほぼ一日の半分を睡眠で食いつぶす。
幻想卿の春の日の午前はどこへ行こうとも人影を見かけることがない。
極上の無駄寝に匹敵する娯楽など、ここにはそうそうないのだから。
かといって神社の巫女はそうもいかない。
習慣どおりの生活をしなければ気持ち悪くて一日中腑に落ちない気分で過ごすことになる。
春夏秋冬を通して巫女は六時には目を覚まし、日課をこなす。
宴会が前の日にあっても起床時間に狂いはない。
春の日を怠惰にまかせて無為に過ごしはしないのだ。
かといって有意義なことをしているわけではないが、早起きはそれだけで三文程度は徳となる。
ちらりと下を見やる。
かなりの上空にいるせいで様々なものが目に入る。
毎年この世界になにかしらくだらないことを仕掛けては遊んでいる妖怪が、まだ戻ってこない。
冬眠というあいつ特有の行事から。
年ばかりくってろくなことをしない境界の妖怪、八雲紫。
「あのばか…」
午前中は春眠を貪る連中ばかりで来訪者もなく暇だったし、時間の有効活用を考えているだけだ。
普段は追い払う立場の自分がこちらから訪れるというのも癪にさわるが、暇つぶしだ。
他意などない。
しかし、心に巣食うのは二つの事象だった。
一つは暦である。
あの妖怪は早ければ弥生の上旬、遅くても中旬には神社に顔を出していた。
気紛れに見えてわりと正確に起きてくる。
冬眠に入るのはまず師走になる前である。
つまり最低三ヶ月は冬眠に入っていることになる。
そして、これは推量だが、冬眠から起きて最初に訪れるのは神社…だと思う。
少なくとも、起きた次の日には来るだろう。
それが今年は、もう卯月に入ってしまった。
桜の蕾もいまかいまかと咲くのを待っている。
自分より長寿の妖怪を心配するなど、くだらない児戯なのだろうがとりあえず暇つぶしだ。
他意はない。
二つ目は去年の冬眠に入る前の最後の会合。
あれが、奥歯にはさまった魚の骨のように心にひっかかっていた。
いつものように茶を飲みつつ畳の目の数を数えていた冬の日。
境界の妖怪、紫はこたつに入りながら顔をテーブルに押しつけて涎を垂らしていた。
もう雪が降ってきてもおかしくないという寒空の下の神社。
どれだけ着込んでも熱気が奪われていく。
そんな冬のことだった。
霊夢は頬杖をつきながら目の前の妖怪を眺める。
すやすやと気持ちよさそうに寝ているが、いかんせん目にはいるのは涎だ。
親しき仲にも礼儀ありという言葉は妖怪の辞書にはないらしい。
霊夢はテーブルのみかんの皮を紫の頭に投げつける。
ぽさりと紫の頭の上に見事に乗って帽子を被っているような格好になった。
「んに?」
紫が寝ぼけ眼を薄く開く。
霊夢はぼそりとつぶやいた。
「下品な妖怪って生きてる価値あるのかしら。」
紫は霊夢に視線を向けて涎をすすった。
「ううん…下品なだけで生存権を否定しては駄目よ霊夢…私みたいに上品な妖怪ばかりじゃないんだから…」
テーブルの上に広がった小さな水溜りにも似た円形の涎溜まりを見ながら、霊夢はため息をついた。
「あんたさ。そろそろ冬眠しないの?」
「まだ早いと思うわ。」
「早くはないわよ。さっさと寝ないと凍死するんじゃない?」
「霊夢。私に冬眠して欲しいの?」
「わりと…」
「ならまだいいわね」
「ううん。結構…」
「まだ起きてるわね」
「ごめんさっさと寝て下さい。」
紫は目元に手を当てて欠伸をした。
「さみしいわあ」
霊夢は答えず、紫が持ってきた酒で口を湿らす。
上玉の酒だ。
里で売っているものではない。
いつもどこから持ってくるのだろうといまさらながら思う。
結構な時間が経った。
紫は動こうとしない。
霊夢もこたつに入ったまま外の景色を眺めているだけだった。
正直意外だった。
寝て欲しいと言えば例年素直に帰っていくのだが、今年の紫はこたつから動こうとしない。
複数人で利用するこたつというのはとにかく相手の足の配置に気を遣わなければならず、リラックスできない。
どうにか今日は帰って欲しかった。
いつも帰って欲しいと思うときには帰るお手軽妖怪だっただけに、不満が溜まっていく。
「あんた泊まる気じゃあないわよね」
「そんなことしないわ」
また沈黙が続く。なんなのだろうこいつは。
「なんだかなあ」
霊夢は伸びをする。
「あんた。最近変じゃない?動きも鈍いし。ここにくるとやたらと長く居座るし。
頭まで鈍くなっちゃってるの?
私は自分ちで寝ろって言ってるんだけど」
「…」
黙り込む紫。ますますこいつらしくない。
まるでここから離れたくないかのようだ。
「霊夢。私が死んだら悲しい?」
なんの前触れもなくそんなことを言う。
一瞬頭に空白ができるが、すぐに理性が埋め尽くして、にらみつけてやる。
「悲しむように見える?」
紫は微笑んで外に目をやった。
「そうよねえ…」
「あんたの式神は悲しんでくれるんじゃないかしらね。
ほら、そんなことよりもうあんたが帰ってこなくて式神も悲しんでるわよ。」
しっしっと手で払いのけるしぐさをする。
紫はそれでも何か言い足りないかのように立ち去ろうとしない。
「なんなの?今日のあんた。こっちまで気が滅入るから欝になるなら帰ってからにしてよ。」
「ごめんね…」
紫は名残惜しそうに腰を浮かせるとしばらくその場に立ったまま、スキマを開けて動かなかった。
「病気には気をつけるのよ。霊夢。」
霊夢はため息をついた。
いいかげんにして欲しい。
相手が嫌がっているときは空気を読んでくれる妖怪だったと思ったのだが、
今日はご機嫌斜めというのが分からないらしい。
「もうずっと寝てなさい。永久にでも。」
紫はぴくりと肩を震わせたかと思うと、すばやい動作でスキマに入り消え去った。
いつもはどれほど悪口を言おうともニコニコと余裕の笑みを浮かべている妖怪だったが、今日はどうも様子が変だ。
別に来年の春まで会わない相手のことなど考えていてもしょうがないのだが。
霊夢はなんとも思わずにその日も安眠だった。
やはり気になるのはあの時のことだ。
明らかにいつもと違う調子だった紫。
何か問題でもあったのか。
言いかけた言葉はなんだったのか。
それが分からない。
今年もいつもと変わらずやってくるかと思ったら、この遅刻だ。
いや、遅刻というのも可笑しいか。
あいつが冬眠に入るのは、出会ってから三回目だ。
イレギュラーを発見するには日にちが浅い。
もしかしたら五月頃まで寝るということもあるのかもしれない。
しばらくほっておいても結界には異常はないし、問題はない。
だが、こちらの胸のうちに一方的に溜まった鬱積は消えることはない。
あんなことを言わなければ、五月まで待っていたとしても平気だったかもしれないのに。
口は災いの元だ。
吐いた言葉は取り消せない。
ーずっと寝てなさい。永久にでもー
まさかとは思うが、あの言葉を受け取って本当に永久の眠りについたのではないだろうか。
霊夢は笑い出しそうになった。
子供じゃあるまいし、そんな心配は無用だ。
誰もが分かっている。
そんなはずはないと。
けれどー
紫の冬眠につく前の暗い雰囲気と言葉。
別れの言葉にも似た台詞を聞かされ、今となってこの不気味な寝坊と符合してあらぬ想像を掻き立てる。
とりあえず、一度紫の住まいを訪ねていて助かった。
紫の家は結界に防御されており、一般の視力にはまず捕らえられることはない。
結界の専門家の霊夢ですら、教えられなければ見ぬけはしなかったろう。
あっさりと紫の住居にはたどり着いた。
閑静な日本風の住居。
言われなければ、人間達の住まいと見分けはつかない。
華奢にも見える玄関を手で開ける。
がらがらと大袈裟な音を立てて来訪者を出迎える古びた入り口に少し顔をしかめながら、そうっと中へ入る。
「こんにちは…」
自分らしからぬ謙虚な挨拶に不自然さを感じつつ中へと入る。
不気味なほど静まり返った住居は、返事を返すこともなく、ただ霊夢の声は木製の壁に吸い込まれていく。
「ゆかりぃ…いる?…」
友人の家に遊びに来た童女が返事がなかったからと言って不法侵入する状況に似ていると思いつつ、きしむ床を踏みしめて奥へと進む。
紫がどこに寝ているかなどということまで把握しているわけではないが、おおよそ最深部あたりの和室に寝てるんだろうと当て込む。
多分奥だ。主なわけだし。
「ゆかりー。もう春よー。おきなさーい。」
やはり返ってくるのは静寂だけだ。
式神の姿も無ければ、気配も感じられない。
本当にここは八雲の家だったろうか。
不安に感じて記憶を辿ってみる。
だが、何度思い返しても間違いない。
間取りだって覚えている。
どこか外界とは境界線が引かれているかのように寒々しい。
霊夢は身体を震わせながら襖を開けていく。
どこを開けても猫の子一匹いないばかりか、生き物の気配自体が感じられない。
自然と動悸が高鳴ってくる。
不意の訪問者に対しては、特別な結界でも張っているのだろうか。
辺りを見回しながら名前を呼んでみるが、変化はない。
仕方なしに式神の名前でも呼んでみることにする。
「らーん。ちぇーん。」
あいつが自分の式神を呼ぶ時そのままに気の抜けた声をあげてみるが、返る言葉はない。
気味が悪くなってきた。
神隠しにでも遭っている気分になり、どことなく空間に引きづりこまれそうな気がしてきた。
あいつのことだから誰の声も届かない静寂に包まれた快適な空間でぐうすか寝ているんだろう。
こっちが薄ら寒い家まで訪ねてやったというのに、今頃温かい布団で寝坊中ということだ。
胃がかすかにむかついてくるとともに、腹が立ってきた。
別にここまで来てやる義理はない。
下らない時間つぶしだ。
あと少しして見つからなかったら帰ろう。
前来た時ははあいつのぬるぬるした明るさのせいで、不気味さは緩和されていたが、改めて来てみると幽霊屋敷のように見えなくもない。
どこか妖怪めいた埃っぽい臭いも鼻をついてくるし、長居は肺にも健康にもよろしくないだろう。
「紫ー。せっかく来てやったんだから顔くらいみせなさい。もう帰るわよー。」
「お前は…?」
唐突な声に身体を180度反転させて身構える。
何の気配もなかった。自分の後ろを取れる妖怪はそう多くない。
これだけでそこそこの実力者であることが分かる。
しかし、どれほど唐突な出会いにも面食らうことなく立ち回れるのが巫女の嗜みである。
それが予期しない者だった場合は、即効の攻撃をするか、しばらく話した後攻撃すれば事足りる。
見知っていた者の場合は、話し込んでテンションが上がってきたら攻撃すれば上々。
今回は後者だったので、驚くこともなかった。
「藍…居るなら声くらいかけなさいよ。」
「居たから声をかけたんだ。さっきから不法侵入したかと思えば、我々の名前を連呼して何か用事か?」
紫の第一の式神、八雲藍。
紫について来ることが多かったので、顔を合わせる回数こそ重ねてきたが、会話の多さはそれに比例していなかった。
スキマ妖怪のことは苦手だが、こいつは主人とは真逆の正直系妖怪だったので、これはこれで苦手だった。
「あんたの主人を起こしに来たのよ。別に起きてこないならそれでもいいんだけどね。」
藍は目を見開いたかと思うと視線を外してきまり悪そうに言った。
「そうか…まだ…うん…知らせていなかったしな…」
「はあ?」
煮え切らない返事にいらつく。
「霊夢…」
自分の名を呼んで藍は表情を曇らせる。
何だ。自分を疫病神みたいに。
不幸の呪文みたいに人の名を唱えないでほしい。
「何?」
「落ち着いて聞いて…いやそうだな、見たほうが早いだろう。お前には遅かれ早かれ伝えなくてはならなかったしな。
私も事後処理に追われて忙しかったのだ。」
「全然何言ってるか意味不明なんだけど。主人の支離滅裂さが移っちゃったの?」
「まあいい。ついて来てほしい。そして何を見ても驚かないでほしい。」
そう言うと藍は背中を向けて歩き出す。
びっくり箱でも見せるつもりだろうか。
だが、おとなしくついて行くのが、あいつに会うのに一番の近道なのは間違いなさそうだ。
藍は長い廊下を歩く過程でときおりこちらを振り返りながら、一定のペースで進んでいく。
こちらをちらちら見やる視線がうっとおしかったが、口に出しても藍が歩くのを止めそうだったので黙っていた。
裏口まで辿り着いた。
藍は外行きの草履に履き替えた。
そして霊夢の方にスリッパを置く。
「こっちだ。」
命令口調に少し怯みながら、出されたスリッパを履いた。
どうも外に連れて行くつもりのようだ。
通常の家の構造を考えればこちらは裏庭に当たると思うが、そんなところで何を見せようと言うのか。
「ねえ。蟻の巣の観察とかなら一人でもできるからね?」
「…」
藍は黙って裏口の戸を開けて外へ出た。
おっくうになりつつ霊夢も後を追う。
ほんの10分前に入ってきたばかりだというのに、明るい日差しが目に痛い。
藍の行く手の左側に目をやる。
藍はそこで止まった。そして俯いたまま唇を噛み締めている。
なんの変哲もない裏庭…の中に明らかに異質な物質が広くない敷地の面積を陣取っていた。
石質の直方体。
どんな人間でも妖怪でもそれを見て何だか分からないという者はいないだろう。
生を受けし者、いづれ必ず世話になる黄泉の家。
石質の物体の前に置かれた線香…もう短くなっていた…から出ている煙を見ても死者を弔うそれであることは明白だった。
「新しいオブジェ?」
沈黙が面倒くさかったので適当に声をだしたが、藍はまたしても答えない。
客人に対して沈黙の多い奴だ。
誰が見たって墓石でしかないそれには文字が書いてあった。
とりあえず案内人が見せたいものというのはこれで間違いないようだったので、近づいてみる。
そして少しかがんで墓石に彫られた文字を目にとめる。
ー八雲紫之墓ー
「…」
「…」
霊夢は藍に白けた視線を向けるが藍は動かない。
「あんたさあ。こういうジョークやるようになったのはギャップあっていいかもしんなんけどさ、
さすがに怒られるんじゃない?大して面白くないし。」
「…」
また黙り込み…さすがに辟易してくる。
「もう帰っていい?」
「本当だ。」
「なにが」
「そこに書いてある文字。」
霊夢は再び墓を見るがこれは…
「やくもゆかりのはかーでいいのよね?」
「そうだ」
霊夢はため息をついた。
この妖怪。気でもおかしくなったのか。
少し乗ってやったほうがよかったのだろうか。
「もう少し冗談の形式から勉強しなおした方がいいわよ。
ごっそり抜け落ちてるからさ。主にセンスが。」
霊夢は帰ろうとしたが、そこに藍が走って回り込んできた。
罵倒の一言でも浴びせてやろうかとした霊夢より早く、藍が口を開いた。
「話を聞いてくれ。霊夢。冗談でもなんでもない。紫様はお亡くなりになった。」
霊夢は式神の脇を抜けようとしたが、袖をつかまれた。
それも決して逃すまいとする強さで握られていた。
「お前は妖怪が人間より早く死ぬなどと思いもしなかったのだろう?
気持ちは分かる。妖怪は人間より遥かに長く寿命を持つが、不死ではない。
しかもそれは、唐突にやってくるものなのだ。
人間は病気になったり、寝たきりになって、死の影を認めるのはそう難しくないかもしれんが、妖怪は違う。
死期の兆候が見えてから死までの長さは、人間の体感からしても短い。
お前は最近の紫様がおかしいとは思わなかったか?」
こいつは何を言ってるんだ。
おかしいもなにも日ごろ常におかしかったではないか。
まともな時があいつに一時でもあったのか?
「紫様が境界もうまく操れなくなり始めたのは昨年の師走の頃からだ。
お前は知らないかもしれないが、紫様は隠そうとしていた。
新年からは、そう、冬眠に入っても時折軽食などを摂られるのだが、今年はそれもなかった。
亡くなられたのは如月に入ってからすぐのことだった。」
おかしい態度。
もみ消そうとしても浮かんでくる昨年の最後に会った時のこと。
いつもの冬眠とは違う、あいつの心残りのあるような仕草。
病気に気をつけろだなんて言われたことはない。
心当たりがないと言ったら嘘になる。
口を開こうとするが、かすかに震えているのが自分でも分かった。
「…なの?」
「ん?」
「死ぬのって…そんなに急なの?」
「そうだな。妖怪の場合は死の2ヶ月前には行動に著しい制限が加わってきて一週間前には動くことも難しくなる。
紫様が強大な力を持っていたとしても例外ではなかった。」
霊夢は一点を見つめつつ、藍の手を外しにかかった。
藍も止めようとはしなかった。
霊夢はもう一度墓石に近づくと、紫の名が書いてある場所にそっと指を這わせる。
「本当なの?」
藍は答えなかったがそれが肯定であることは明らかだった。
「嘘でしょ…」
信じられない、あの馬鹿な妖怪がもうこの世にいないというのか。
ほんの数ヶ月前まではうっとおしいくらいにまとわりついてきたというのに。
だとしたら…あの別れが今生の別れになってしまったということだ。
「ばっかじゃない…死んでんじゃないわよ…」
霊夢は墓石の角を指で掴んだ。
指先が真っ白になっても力を緩めなかった。
心の準備もない。
ぽっかりと幻想卿に穴が空いてしまった。
雑言を言ってやりかったが、どうしても自分の言葉が思い出されて、ためらわれた。
ーずっと寝てなさい。永久にでもー
自分があんなことを言ったが為に紫は帰らぬ人になってしまったのではないか。
関係ないと思いつつも、後味の悪さは相当のものだった。
胃のものが逆流しそうになりながら堪えて立ち上がった。
藍の方を向こうとしたが足がもつれてその場に尻餅をついてしまった。
「ったく」
はき捨てながら泥を払ってもう一度立ち上がる。
下らない。
自分と紫の死は関係ない。
当然だ。
言葉で死ぬわけがない。
もう一度墓石に向き合った。
供えられた線香は今にも消えようとしていた。
思い出される思い出。
ろくな事を考えずに余計な暇つぶしに躍起になっている。
そんな奴だった。
いつも帰れって言っても帰らなくて。
どんなに馬鹿にしてもニコニコ笑ってて。
知ったかぶりで、他の誰よりも自分にまとわりついてこようとする奴だった。
「…」
考えてみれば紫は霊夢を否定する言葉は絶対に吐かない妖怪だった。
いくらこっちがあいつを否定しても、認めてくれていた。
じゃあ何であんなにうっとおしかったんだろう。
あんなに邪険にする必要はあったんだろうか。
追い払う必要はあっただろうか。
霊夢はその場に膝をついた。
いつまでも墓石の文字を見つめつづける。
そんなことをしていても何も変わらないと分かっていても、身体が動いてくれない。
「紫」
言うほど目障りじゃなかった。
本当はいっつも来てくれて嬉しかったのに
一度だって歓迎したことはなかった。
こっちがここに来た時は凄いご馳走で歓迎してくれた。
なのにこちらは茶を出すのがせいぜいだった。
霊夢は地面に膝をついたそのまま両手を地面についた。
「ごめんなさい」
自分にしか聞こえないように小さく呟く。
時間を戻したい。
今、神社に来てくれれば温かく迎えてやるのに、それも不可能だ。
水滴が地面に一つ二つと落ちていく。
顔を拭おうともしないで地面の砂利を握り締める。
ぐっと目を瞑っても涙は止まってくれない。
酷いことばかり言ってしまった。
「帰ってきて…紫…」
世界は何も変わることなく、霊夢の声に答える主もなく、
ただ、ちっぽけな裏庭に霊夢の嗚咽が響いていた。
藍は霊夢の背後にいた。
四つん這いになっている霊夢の背後からじりじりと後ずさりして、霊夢がこちらにまったく意識を向けていないことを確認し、
可及的速やかに屋敷の中に戻った。
そして一呼吸置いて、内履きのスリッパに履き替えるとクラウチングスタートを切った。
迷うことなく、走りながら数多い襖を開けていく。
一度来ただけでは絶対に把握できないであろう八雲家の構造を、当然ながら藍は把握していた。
息が切れても構わない。少しでも霊夢から離れたかった。
5分も走ろうかという時に最後の襖に辿り着く。
そして息を正して勢いよく襖を豪快にオープンした。
案の定、部屋の主がびくっと身体を震わせてこちらを怯える目で見ている。
藍はその部屋に唯一居るこたつに座っている妖怪に抱きついた。
「紫様!見てましたか?どどどどどうしましょう!」
「みみみみ見てたわよ!よよ良くやってくれたわね!」
「いやいやいや。見てたなら分かるでしょう?どうするんですか?」
こたつのテーブルの上には紫が見ていたであろうスキマから裏庭の様子が見えていた。
いまだ、霊夢は泣き崩れたままだ。
「まままだよ!まだ霊夢が見抜いていない可能性がないわけではない!」
「いやいや。100%信じてますって!いいんですか?収集つくんですか?」
「つくわよ。当然よ。私を誰だと思って?」
「私知りませんよ?私紫様に言われたとおりに喋っただけですからね!」
「ちょ!そうはいかないわよ!実行犯と企画犯は同罪なんだから!」
「知りません!まったくあなたが下らない事思いついたせいで…とんだことですよ」
「何よ!見てればあなたノリノリだったじゃない!あれじゃ誰でも引っかかるわ!」
「引っかかりませんよ。大体妖怪がすぐ死ぬって設定が危ういし、裏庭に墓地なんかあること事態突っ込みどころ満載じゃないですか!
家の敷地に墓作るとかどんな変人ですか?私だってあんなにもろにかかると思いませんでしたよ!」
「そうね。浮世離れしてるとは思ったけど、あの子予想以上だわ。あなたの演技とあの子の世間知らずが重なって起こった悲劇だったのね。」
「いやいや一番の責任はあなたでしょ!第三者ぶらないで下さい!」
紫は扇子でぱたぱたと己を扇いだ。
「あ、あなただって断ろうと思ったら断れたのよ…。」
「そ、そりゃあ。あの墓石作るのだって相当手間だったですからね。無駄にはしたくなかったというか。」
「作るときも結構ノリノリだったわよ。」
「それは…紫様が命令が聞けないなら式神を解雇するとか言うから。脅迫じゃないですか。」
紫は藍の言葉が聞こえなかったかのようにスキマに視線を戻した。
「でも嬉しいわあ!霊夢!私のこと心配してくれたのね!正直、霊夢が私を愛してくれていると信じてはいたけれど、
最近はさすがの私も疑わしくなってきていたから。
度重なるメンタルへのダメージの蓄積は相当なものだったわ。
どんなことを言われても諦めないことが肝要ね。
たまに本当に辛くて心が折れそうだった…というか折れたけど。
折れた心を何度も修理してツギハギだらけになってるけど、生きてきたかいがあったわ!」
「いやあ。もう死んでた方がいいんじゃないですかね?もうタイミング逃しましたよ。出て行ける空気じゃないですし。」
「いえ。ここまで待っていて行かないのはノーよ。多分、恐らく、いえ、あるいは大丈夫なことも…ある。」
紫は立ち上がった。無言で藍に立ち上がりを促す紫。
藍も嫌々ながら立ち上がった。
「ゆがりぃ…死ぬなあ…」
紫は迷っていた。背後から話しかけていいのかを。
霊夢はこちらにまったく気づいていない。
隣に寄り添うのが正解だろうか。
軽くチョップするか。
話しかける台詞。これが最も大事だ。
ー霊夢ー元気?ーおはよー
何事も無かったかのように声をかける。
無理だ。正気を取り戻した霊夢に裏拳を喰らって顔面陥没する未来が見える。
ー落ち込まないでー全部冗談だからー
即効のネタばらし。
これもきつい。いいところ下段の回し蹴りをみぞおちに喰らう未来だ。
ーいい人ーだったわねー
他人のフリ。
しかし、振り返った霊夢に自分であることがばれれば、彼女は目を突いてくる。恐らく正確に。
この先独眼で生きていくのは辛い。両眼潰しもあり得る。
ーごめんねー紫はたくさんいるのーだから寂しくないわよー
紫。量産化説。
無難な嘘なだけに無難にばれて無難に喉笛あたりをつぶされるだろう。
厳しい。どの選択肢も。
こちらからのアクティブな行動はすべて裏目に出る。
ここは姿を見せて、霊夢に判断をゆだねるとしよう。
こちらも冗談が過ぎた。
少々の肉体破壊は甘受しなくてはならない。
大事な娘を悲しませてしまった。
落ち度は自分にある。
さっさと行けという式神の無言のプレッシャーが痛いので迅速に動く。
泣いている霊夢の横に立った。
まだ霊夢は気づかない。
仕方なしに墓石の隣に立つ。
しかし、霊夢は地面に手をついたまま俯いていてこちらを見ようとはしない。
紫はちらりと藍を見るが藍は黙って頷いた。
ここに立っているのが正解なのだろう。多分。
しばらくして霊夢は顔を上げた。
しばらくボーっと涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で墓石を見つめていたが、隣の紫に気づいた。
二人の視線がぶつかる。
紫は引きつった笑いを浮かべる。
霊夢は表情を変えないまま、紫から視線を外さなかった。
「あえ?」
霊夢は墓石と紫を交互に見る。
そして墓石と紫を交互に指差した。
「あ、あれ?ん?え?なんで?」
「お、おはよう霊夢。」
「これ?あれ?生きてる?生き返って?あれ?」
霊夢は立ち上がって頭に手を当てる。まだ飲み込めていないようだ。
「ごめんなさい。霊夢。嘘です。死んでません。元気です。健康体です。」
霊夢は再びボーっと紫を見つめている。
「じゃ、じゃあなんで?この墓石?」
もっともな疑問だ。
恥ずかしいが、冗談の為だけに作ったのである。
「お、驚かせようとして…作ったのよ。あのね?今日何の日だか知ってる?」
霊夢は何秒かしてふるふると頭を振る。
「今日はね。外界ではエイプリルフールって言って、嘘をついてもいい日なのよ。
だから、その、ね…こんな冗談も許され…いえ、許してね?霊夢。」
霊夢は無言で俯いたまま紫の前に立った。
紫も直立不動になる。
くる。
致命打にも近い無慈悲な攻撃がこの至近距離から繰り出されるだろう。
一体どんな攻撃か。
まず、みぞおちにストレート。顎に昇拳を浴びせてからの夢想封印か。
それともいきなりの夢想封印からの夢想転生か。
地味に首の骨を折ってきたりするのだろうか。
どちらにせよ、しばらく行動不能になるのは覚悟しなくては。
紫はぎゅっと目を瞑った。
注射をされる前の子供のように。
しかし、紫が想像していたどんな攻撃も飛んでこなかった。
代わりに細く柔らかい腕に胴が包まれる感触があった。
「霊夢?」
霊夢は紫の腰に両手を回して胸に顔を埋めていた。
いきなり抱きしめられ、混乱と歓喜の中にあった紫の耳に小さく声が届く。
「…してるから…」
「え?」
「あんた多分勘違いしてるから。そのえいぷ…なんとかいう嘘つきのイベントのこと。」
霊夢は涙や鼻水を紫の胸元の布でふき取ると顔を上げる。
赤い目と鼻。
こんなに泣かせたかと思うと、改めて紫は申し訳なく思った。
「そのイベントさ…多分愉快な嘘をついて人を楽しませるお祭りなんでしょ。
あんたの嘘、全然、ぜんっぜん面白くないからね。」
ああ、その通りだ。
こんなことしなければ良かった。
紫は後悔しつつ必死に霊夢の頭を撫でた。
「ごめんね?本当にごめんね?許して霊夢。」
「ったく。嘘つきの日って日にちに幅があるの?」
「え?卯月の一日だけよ?」
「じゃあ、今日私が来なかったらどうするつもりだったの?」
「あ、明日辺りに顔を見せようかと。」
「じゃああんた。これまで起きてたくせに顔を見せないで、今日私が来るのに賭けてたのね。」
「はい…」
「来るかどうかも分かんないのに、あんな墓を作ってたの?無駄になるかもしれないのに?」
「はい…」
霊夢は呆れてものが言えないという表情を浮かべる。
「見事にはまちゃったのね。とんだ道化だわ。私」
「ごめんなさい。」
藍は我関せずという顔をしている。
霊夢もどうせ紫に脅迫されたんだと思い、藍のことは問い詰めなかった。
霊夢は紫から離れるとふうっと息をついた。
「本当にごめんね?ごめんね霊夢。」
「分かったわよ。私も疲れたし、もう謝らないで。それに、私も、今まで…」
「?」
「あんたさ。去年冬眠する前元気なかったじゃない?あれはなんか関係あったの?」
「あ、ああそうよ。4月1日の布石よ。霊夢があんまり冷たいから、それっぽく別れてみました。」
「あっそ」
霊夢は空を仰いだ。
かき乱された心とは裏腹に、空は澄み渡っている。
なんだか生き返った気分だ。
騙されたというのにどこか心地良かった。
「紫。これから神社に来る?」
「え、ええ。行きたいけど…いいの?」
「いいわよ。今日はご馳走したげる。」
紫が見せた驚愕の表情に一瞬霊夢はしかめっ面をしそうになったが、どうにか我慢しつつ顔を背ける。
「これから食材調達に里に行くわよ。当然材料費はあんた持ちよ。」
「うん。いいけど、それは、その、嘘じゃないわよね?」
「嘘じゃないわよ。あんたみたいに、イベントだからって羽目を外したりしないから。」
「うう、本当に今日はごめんね?」
「もういいって。こ…」
こっちこそ、といいかけて止めた。
それは癪に障る。
霊夢の頭にさっきから浮かんでいた言葉は、親孝行したい時には親はなし、という諺だった。
空に浮かび上がり、霊夢は紫に手を差し出した。
紫は笑顔でその手を掴もうと浮き上がる。
「そう言えば、挨拶がまだだったわね。」
「?」
霊夢はぐいっと紫の手を掴んで上空に引き寄せた。
「おはよう。紫。今年もよろしく。」
紫は、きょとんとした顔になったかと思うと湯沸かし器のように瞬時に赤くなって、こくこくと頷いた。
「こ、こちらこそ。」
藍は霊夢が全く紫に対して暴力を振るわなかったことに驚きを隠せなかった。
少なくとも怒りの感情は持ち合わせていないようだ。
どんな心境だったか知る由もないが、
二人の後をついて行くことにした。
藍は墓石の隣にあった桜の木にふと目をやった。
桜の蕾は今にも咲こうとしていた。
照りつける太陽が勢いを増し、生物達も活発に活動を始める季節。
神社の巫女としては、冬眠から覚めた妖怪の相手や元気を取り戻した妖怪の相手や頭も春になる妖怪の相手に忙しい。
毎年度のことだが、今年も弥生の下旬の頃からやたらと活気づく環境変化に多少はまごつく。
というのも、冬の間は異変も妖怪退治も頻度が少なく身体がなまる傾向にあるからだった。
なまりつつある身体を雑魚を蹴散らしながら温める日々というのもささやかな春の楽しみではあったが、今は心に咎めることがあった。
「あふ…」
幻想卿の上空を急ぎもせず、穏やかに滑空しながら欠伸をかみ殺す。
春の日は季節の中で最も客人が多い季節だが、午前中はその限りではない。
春眠暁を覚えず
諺どおりに予定も目的もない気ままな連中はほぼ一日の半分を睡眠で食いつぶす。
幻想卿の春の日の午前はどこへ行こうとも人影を見かけることがない。
極上の無駄寝に匹敵する娯楽など、ここにはそうそうないのだから。
かといって神社の巫女はそうもいかない。
習慣どおりの生活をしなければ気持ち悪くて一日中腑に落ちない気分で過ごすことになる。
春夏秋冬を通して巫女は六時には目を覚まし、日課をこなす。
宴会が前の日にあっても起床時間に狂いはない。
春の日を怠惰にまかせて無為に過ごしはしないのだ。
かといって有意義なことをしているわけではないが、早起きはそれだけで三文程度は徳となる。
ちらりと下を見やる。
かなりの上空にいるせいで様々なものが目に入る。
毎年この世界になにかしらくだらないことを仕掛けては遊んでいる妖怪が、まだ戻ってこない。
冬眠というあいつ特有の行事から。
年ばかりくってろくなことをしない境界の妖怪、八雲紫。
「あのばか…」
午前中は春眠を貪る連中ばかりで来訪者もなく暇だったし、時間の有効活用を考えているだけだ。
普段は追い払う立場の自分がこちらから訪れるというのも癪にさわるが、暇つぶしだ。
他意などない。
しかし、心に巣食うのは二つの事象だった。
一つは暦である。
あの妖怪は早ければ弥生の上旬、遅くても中旬には神社に顔を出していた。
気紛れに見えてわりと正確に起きてくる。
冬眠に入るのはまず師走になる前である。
つまり最低三ヶ月は冬眠に入っていることになる。
そして、これは推量だが、冬眠から起きて最初に訪れるのは神社…だと思う。
少なくとも、起きた次の日には来るだろう。
それが今年は、もう卯月に入ってしまった。
桜の蕾もいまかいまかと咲くのを待っている。
自分より長寿の妖怪を心配するなど、くだらない児戯なのだろうがとりあえず暇つぶしだ。
他意はない。
二つ目は去年の冬眠に入る前の最後の会合。
あれが、奥歯にはさまった魚の骨のように心にひっかかっていた。
いつものように茶を飲みつつ畳の目の数を数えていた冬の日。
境界の妖怪、紫はこたつに入りながら顔をテーブルに押しつけて涎を垂らしていた。
もう雪が降ってきてもおかしくないという寒空の下の神社。
どれだけ着込んでも熱気が奪われていく。
そんな冬のことだった。
霊夢は頬杖をつきながら目の前の妖怪を眺める。
すやすやと気持ちよさそうに寝ているが、いかんせん目にはいるのは涎だ。
親しき仲にも礼儀ありという言葉は妖怪の辞書にはないらしい。
霊夢はテーブルのみかんの皮を紫の頭に投げつける。
ぽさりと紫の頭の上に見事に乗って帽子を被っているような格好になった。
「んに?」
紫が寝ぼけ眼を薄く開く。
霊夢はぼそりとつぶやいた。
「下品な妖怪って生きてる価値あるのかしら。」
紫は霊夢に視線を向けて涎をすすった。
「ううん…下品なだけで生存権を否定しては駄目よ霊夢…私みたいに上品な妖怪ばかりじゃないんだから…」
テーブルの上に広がった小さな水溜りにも似た円形の涎溜まりを見ながら、霊夢はため息をついた。
「あんたさ。そろそろ冬眠しないの?」
「まだ早いと思うわ。」
「早くはないわよ。さっさと寝ないと凍死するんじゃない?」
「霊夢。私に冬眠して欲しいの?」
「わりと…」
「ならまだいいわね」
「ううん。結構…」
「まだ起きてるわね」
「ごめんさっさと寝て下さい。」
紫は目元に手を当てて欠伸をした。
「さみしいわあ」
霊夢は答えず、紫が持ってきた酒で口を湿らす。
上玉の酒だ。
里で売っているものではない。
いつもどこから持ってくるのだろうといまさらながら思う。
結構な時間が経った。
紫は動こうとしない。
霊夢もこたつに入ったまま外の景色を眺めているだけだった。
正直意外だった。
寝て欲しいと言えば例年素直に帰っていくのだが、今年の紫はこたつから動こうとしない。
複数人で利用するこたつというのはとにかく相手の足の配置に気を遣わなければならず、リラックスできない。
どうにか今日は帰って欲しかった。
いつも帰って欲しいと思うときには帰るお手軽妖怪だっただけに、不満が溜まっていく。
「あんた泊まる気じゃあないわよね」
「そんなことしないわ」
また沈黙が続く。なんなのだろうこいつは。
「なんだかなあ」
霊夢は伸びをする。
「あんた。最近変じゃない?動きも鈍いし。ここにくるとやたらと長く居座るし。
頭まで鈍くなっちゃってるの?
私は自分ちで寝ろって言ってるんだけど」
「…」
黙り込む紫。ますますこいつらしくない。
まるでここから離れたくないかのようだ。
「霊夢。私が死んだら悲しい?」
なんの前触れもなくそんなことを言う。
一瞬頭に空白ができるが、すぐに理性が埋め尽くして、にらみつけてやる。
「悲しむように見える?」
紫は微笑んで外に目をやった。
「そうよねえ…」
「あんたの式神は悲しんでくれるんじゃないかしらね。
ほら、そんなことよりもうあんたが帰ってこなくて式神も悲しんでるわよ。」
しっしっと手で払いのけるしぐさをする。
紫はそれでも何か言い足りないかのように立ち去ろうとしない。
「なんなの?今日のあんた。こっちまで気が滅入るから欝になるなら帰ってからにしてよ。」
「ごめんね…」
紫は名残惜しそうに腰を浮かせるとしばらくその場に立ったまま、スキマを開けて動かなかった。
「病気には気をつけるのよ。霊夢。」
霊夢はため息をついた。
いいかげんにして欲しい。
相手が嫌がっているときは空気を読んでくれる妖怪だったと思ったのだが、
今日はご機嫌斜めというのが分からないらしい。
「もうずっと寝てなさい。永久にでも。」
紫はぴくりと肩を震わせたかと思うと、すばやい動作でスキマに入り消え去った。
いつもはどれほど悪口を言おうともニコニコと余裕の笑みを浮かべている妖怪だったが、今日はどうも様子が変だ。
別に来年の春まで会わない相手のことなど考えていてもしょうがないのだが。
霊夢はなんとも思わずにその日も安眠だった。
やはり気になるのはあの時のことだ。
明らかにいつもと違う調子だった紫。
何か問題でもあったのか。
言いかけた言葉はなんだったのか。
それが分からない。
今年もいつもと変わらずやってくるかと思ったら、この遅刻だ。
いや、遅刻というのも可笑しいか。
あいつが冬眠に入るのは、出会ってから三回目だ。
イレギュラーを発見するには日にちが浅い。
もしかしたら五月頃まで寝るということもあるのかもしれない。
しばらくほっておいても結界には異常はないし、問題はない。
だが、こちらの胸のうちに一方的に溜まった鬱積は消えることはない。
あんなことを言わなければ、五月まで待っていたとしても平気だったかもしれないのに。
口は災いの元だ。
吐いた言葉は取り消せない。
ーずっと寝てなさい。永久にでもー
まさかとは思うが、あの言葉を受け取って本当に永久の眠りについたのではないだろうか。
霊夢は笑い出しそうになった。
子供じゃあるまいし、そんな心配は無用だ。
誰もが分かっている。
そんなはずはないと。
けれどー
紫の冬眠につく前の暗い雰囲気と言葉。
別れの言葉にも似た台詞を聞かされ、今となってこの不気味な寝坊と符合してあらぬ想像を掻き立てる。
とりあえず、一度紫の住まいを訪ねていて助かった。
紫の家は結界に防御されており、一般の視力にはまず捕らえられることはない。
結界の専門家の霊夢ですら、教えられなければ見ぬけはしなかったろう。
あっさりと紫の住居にはたどり着いた。
閑静な日本風の住居。
言われなければ、人間達の住まいと見分けはつかない。
華奢にも見える玄関を手で開ける。
がらがらと大袈裟な音を立てて来訪者を出迎える古びた入り口に少し顔をしかめながら、そうっと中へ入る。
「こんにちは…」
自分らしからぬ謙虚な挨拶に不自然さを感じつつ中へと入る。
不気味なほど静まり返った住居は、返事を返すこともなく、ただ霊夢の声は木製の壁に吸い込まれていく。
「ゆかりぃ…いる?…」
友人の家に遊びに来た童女が返事がなかったからと言って不法侵入する状況に似ていると思いつつ、きしむ床を踏みしめて奥へと進む。
紫がどこに寝ているかなどということまで把握しているわけではないが、おおよそ最深部あたりの和室に寝てるんだろうと当て込む。
多分奥だ。主なわけだし。
「ゆかりー。もう春よー。おきなさーい。」
やはり返ってくるのは静寂だけだ。
式神の姿も無ければ、気配も感じられない。
本当にここは八雲の家だったろうか。
不安に感じて記憶を辿ってみる。
だが、何度思い返しても間違いない。
間取りだって覚えている。
どこか外界とは境界線が引かれているかのように寒々しい。
霊夢は身体を震わせながら襖を開けていく。
どこを開けても猫の子一匹いないばかりか、生き物の気配自体が感じられない。
自然と動悸が高鳴ってくる。
不意の訪問者に対しては、特別な結界でも張っているのだろうか。
辺りを見回しながら名前を呼んでみるが、変化はない。
仕方なしに式神の名前でも呼んでみることにする。
「らーん。ちぇーん。」
あいつが自分の式神を呼ぶ時そのままに気の抜けた声をあげてみるが、返る言葉はない。
気味が悪くなってきた。
神隠しにでも遭っている気分になり、どことなく空間に引きづりこまれそうな気がしてきた。
あいつのことだから誰の声も届かない静寂に包まれた快適な空間でぐうすか寝ているんだろう。
こっちが薄ら寒い家まで訪ねてやったというのに、今頃温かい布団で寝坊中ということだ。
胃がかすかにむかついてくるとともに、腹が立ってきた。
別にここまで来てやる義理はない。
下らない時間つぶしだ。
あと少しして見つからなかったら帰ろう。
前来た時ははあいつのぬるぬるした明るさのせいで、不気味さは緩和されていたが、改めて来てみると幽霊屋敷のように見えなくもない。
どこか妖怪めいた埃っぽい臭いも鼻をついてくるし、長居は肺にも健康にもよろしくないだろう。
「紫ー。せっかく来てやったんだから顔くらいみせなさい。もう帰るわよー。」
「お前は…?」
唐突な声に身体を180度反転させて身構える。
何の気配もなかった。自分の後ろを取れる妖怪はそう多くない。
これだけでそこそこの実力者であることが分かる。
しかし、どれほど唐突な出会いにも面食らうことなく立ち回れるのが巫女の嗜みである。
それが予期しない者だった場合は、即効の攻撃をするか、しばらく話した後攻撃すれば事足りる。
見知っていた者の場合は、話し込んでテンションが上がってきたら攻撃すれば上々。
今回は後者だったので、驚くこともなかった。
「藍…居るなら声くらいかけなさいよ。」
「居たから声をかけたんだ。さっきから不法侵入したかと思えば、我々の名前を連呼して何か用事か?」
紫の第一の式神、八雲藍。
紫について来ることが多かったので、顔を合わせる回数こそ重ねてきたが、会話の多さはそれに比例していなかった。
スキマ妖怪のことは苦手だが、こいつは主人とは真逆の正直系妖怪だったので、これはこれで苦手だった。
「あんたの主人を起こしに来たのよ。別に起きてこないならそれでもいいんだけどね。」
藍は目を見開いたかと思うと視線を外してきまり悪そうに言った。
「そうか…まだ…うん…知らせていなかったしな…」
「はあ?」
煮え切らない返事にいらつく。
「霊夢…」
自分の名を呼んで藍は表情を曇らせる。
何だ。自分を疫病神みたいに。
不幸の呪文みたいに人の名を唱えないでほしい。
「何?」
「落ち着いて聞いて…いやそうだな、見たほうが早いだろう。お前には遅かれ早かれ伝えなくてはならなかったしな。
私も事後処理に追われて忙しかったのだ。」
「全然何言ってるか意味不明なんだけど。主人の支離滅裂さが移っちゃったの?」
「まあいい。ついて来てほしい。そして何を見ても驚かないでほしい。」
そう言うと藍は背中を向けて歩き出す。
びっくり箱でも見せるつもりだろうか。
だが、おとなしくついて行くのが、あいつに会うのに一番の近道なのは間違いなさそうだ。
藍は長い廊下を歩く過程でときおりこちらを振り返りながら、一定のペースで進んでいく。
こちらをちらちら見やる視線がうっとおしかったが、口に出しても藍が歩くのを止めそうだったので黙っていた。
裏口まで辿り着いた。
藍は外行きの草履に履き替えた。
そして霊夢の方にスリッパを置く。
「こっちだ。」
命令口調に少し怯みながら、出されたスリッパを履いた。
どうも外に連れて行くつもりのようだ。
通常の家の構造を考えればこちらは裏庭に当たると思うが、そんなところで何を見せようと言うのか。
「ねえ。蟻の巣の観察とかなら一人でもできるからね?」
「…」
藍は黙って裏口の戸を開けて外へ出た。
おっくうになりつつ霊夢も後を追う。
ほんの10分前に入ってきたばかりだというのに、明るい日差しが目に痛い。
藍の行く手の左側に目をやる。
藍はそこで止まった。そして俯いたまま唇を噛み締めている。
なんの変哲もない裏庭…の中に明らかに異質な物質が広くない敷地の面積を陣取っていた。
石質の直方体。
どんな人間でも妖怪でもそれを見て何だか分からないという者はいないだろう。
生を受けし者、いづれ必ず世話になる黄泉の家。
石質の物体の前に置かれた線香…もう短くなっていた…から出ている煙を見ても死者を弔うそれであることは明白だった。
「新しいオブジェ?」
沈黙が面倒くさかったので適当に声をだしたが、藍はまたしても答えない。
客人に対して沈黙の多い奴だ。
誰が見たって墓石でしかないそれには文字が書いてあった。
とりあえず案内人が見せたいものというのはこれで間違いないようだったので、近づいてみる。
そして少しかがんで墓石に彫られた文字を目にとめる。
ー八雲紫之墓ー
「…」
「…」
霊夢は藍に白けた視線を向けるが藍は動かない。
「あんたさあ。こういうジョークやるようになったのはギャップあっていいかもしんなんけどさ、
さすがに怒られるんじゃない?大して面白くないし。」
「…」
また黙り込み…さすがに辟易してくる。
「もう帰っていい?」
「本当だ。」
「なにが」
「そこに書いてある文字。」
霊夢は再び墓を見るがこれは…
「やくもゆかりのはかーでいいのよね?」
「そうだ」
霊夢はため息をついた。
この妖怪。気でもおかしくなったのか。
少し乗ってやったほうがよかったのだろうか。
「もう少し冗談の形式から勉強しなおした方がいいわよ。
ごっそり抜け落ちてるからさ。主にセンスが。」
霊夢は帰ろうとしたが、そこに藍が走って回り込んできた。
罵倒の一言でも浴びせてやろうかとした霊夢より早く、藍が口を開いた。
「話を聞いてくれ。霊夢。冗談でもなんでもない。紫様はお亡くなりになった。」
霊夢は式神の脇を抜けようとしたが、袖をつかまれた。
それも決して逃すまいとする強さで握られていた。
「お前は妖怪が人間より早く死ぬなどと思いもしなかったのだろう?
気持ちは分かる。妖怪は人間より遥かに長く寿命を持つが、不死ではない。
しかもそれは、唐突にやってくるものなのだ。
人間は病気になったり、寝たきりになって、死の影を認めるのはそう難しくないかもしれんが、妖怪は違う。
死期の兆候が見えてから死までの長さは、人間の体感からしても短い。
お前は最近の紫様がおかしいとは思わなかったか?」
こいつは何を言ってるんだ。
おかしいもなにも日ごろ常におかしかったではないか。
まともな時があいつに一時でもあったのか?
「紫様が境界もうまく操れなくなり始めたのは昨年の師走の頃からだ。
お前は知らないかもしれないが、紫様は隠そうとしていた。
新年からは、そう、冬眠に入っても時折軽食などを摂られるのだが、今年はそれもなかった。
亡くなられたのは如月に入ってからすぐのことだった。」
おかしい態度。
もみ消そうとしても浮かんでくる昨年の最後に会った時のこと。
いつもの冬眠とは違う、あいつの心残りのあるような仕草。
病気に気をつけろだなんて言われたことはない。
心当たりがないと言ったら嘘になる。
口を開こうとするが、かすかに震えているのが自分でも分かった。
「…なの?」
「ん?」
「死ぬのって…そんなに急なの?」
「そうだな。妖怪の場合は死の2ヶ月前には行動に著しい制限が加わってきて一週間前には動くことも難しくなる。
紫様が強大な力を持っていたとしても例外ではなかった。」
霊夢は一点を見つめつつ、藍の手を外しにかかった。
藍も止めようとはしなかった。
霊夢はもう一度墓石に近づくと、紫の名が書いてある場所にそっと指を這わせる。
「本当なの?」
藍は答えなかったがそれが肯定であることは明らかだった。
「嘘でしょ…」
信じられない、あの馬鹿な妖怪がもうこの世にいないというのか。
ほんの数ヶ月前まではうっとおしいくらいにまとわりついてきたというのに。
だとしたら…あの別れが今生の別れになってしまったということだ。
「ばっかじゃない…死んでんじゃないわよ…」
霊夢は墓石の角を指で掴んだ。
指先が真っ白になっても力を緩めなかった。
心の準備もない。
ぽっかりと幻想卿に穴が空いてしまった。
雑言を言ってやりかったが、どうしても自分の言葉が思い出されて、ためらわれた。
ーずっと寝てなさい。永久にでもー
自分があんなことを言ったが為に紫は帰らぬ人になってしまったのではないか。
関係ないと思いつつも、後味の悪さは相当のものだった。
胃のものが逆流しそうになりながら堪えて立ち上がった。
藍の方を向こうとしたが足がもつれてその場に尻餅をついてしまった。
「ったく」
はき捨てながら泥を払ってもう一度立ち上がる。
下らない。
自分と紫の死は関係ない。
当然だ。
言葉で死ぬわけがない。
もう一度墓石に向き合った。
供えられた線香は今にも消えようとしていた。
思い出される思い出。
ろくな事を考えずに余計な暇つぶしに躍起になっている。
そんな奴だった。
いつも帰れって言っても帰らなくて。
どんなに馬鹿にしてもニコニコ笑ってて。
知ったかぶりで、他の誰よりも自分にまとわりついてこようとする奴だった。
「…」
考えてみれば紫は霊夢を否定する言葉は絶対に吐かない妖怪だった。
いくらこっちがあいつを否定しても、認めてくれていた。
じゃあ何であんなにうっとおしかったんだろう。
あんなに邪険にする必要はあったんだろうか。
追い払う必要はあっただろうか。
霊夢はその場に膝をついた。
いつまでも墓石の文字を見つめつづける。
そんなことをしていても何も変わらないと分かっていても、身体が動いてくれない。
「紫」
言うほど目障りじゃなかった。
本当はいっつも来てくれて嬉しかったのに
一度だって歓迎したことはなかった。
こっちがここに来た時は凄いご馳走で歓迎してくれた。
なのにこちらは茶を出すのがせいぜいだった。
霊夢は地面に膝をついたそのまま両手を地面についた。
「ごめんなさい」
自分にしか聞こえないように小さく呟く。
時間を戻したい。
今、神社に来てくれれば温かく迎えてやるのに、それも不可能だ。
水滴が地面に一つ二つと落ちていく。
顔を拭おうともしないで地面の砂利を握り締める。
ぐっと目を瞑っても涙は止まってくれない。
酷いことばかり言ってしまった。
「帰ってきて…紫…」
世界は何も変わることなく、霊夢の声に答える主もなく、
ただ、ちっぽけな裏庭に霊夢の嗚咽が響いていた。
藍は霊夢の背後にいた。
四つん這いになっている霊夢の背後からじりじりと後ずさりして、霊夢がこちらにまったく意識を向けていないことを確認し、
可及的速やかに屋敷の中に戻った。
そして一呼吸置いて、内履きのスリッパに履き替えるとクラウチングスタートを切った。
迷うことなく、走りながら数多い襖を開けていく。
一度来ただけでは絶対に把握できないであろう八雲家の構造を、当然ながら藍は把握していた。
息が切れても構わない。少しでも霊夢から離れたかった。
5分も走ろうかという時に最後の襖に辿り着く。
そして息を正して勢いよく襖を豪快にオープンした。
案の定、部屋の主がびくっと身体を震わせてこちらを怯える目で見ている。
藍はその部屋に唯一居るこたつに座っている妖怪に抱きついた。
「紫様!見てましたか?どどどどどうしましょう!」
「みみみみ見てたわよ!よよ良くやってくれたわね!」
「いやいやいや。見てたなら分かるでしょう?どうするんですか?」
こたつのテーブルの上には紫が見ていたであろうスキマから裏庭の様子が見えていた。
いまだ、霊夢は泣き崩れたままだ。
「まままだよ!まだ霊夢が見抜いていない可能性がないわけではない!」
「いやいや。100%信じてますって!いいんですか?収集つくんですか?」
「つくわよ。当然よ。私を誰だと思って?」
「私知りませんよ?私紫様に言われたとおりに喋っただけですからね!」
「ちょ!そうはいかないわよ!実行犯と企画犯は同罪なんだから!」
「知りません!まったくあなたが下らない事思いついたせいで…とんだことですよ」
「何よ!見てればあなたノリノリだったじゃない!あれじゃ誰でも引っかかるわ!」
「引っかかりませんよ。大体妖怪がすぐ死ぬって設定が危ういし、裏庭に墓地なんかあること事態突っ込みどころ満載じゃないですか!
家の敷地に墓作るとかどんな変人ですか?私だってあんなにもろにかかると思いませんでしたよ!」
「そうね。浮世離れしてるとは思ったけど、あの子予想以上だわ。あなたの演技とあの子の世間知らずが重なって起こった悲劇だったのね。」
「いやいや一番の責任はあなたでしょ!第三者ぶらないで下さい!」
紫は扇子でぱたぱたと己を扇いだ。
「あ、あなただって断ろうと思ったら断れたのよ…。」
「そ、そりゃあ。あの墓石作るのだって相当手間だったですからね。無駄にはしたくなかったというか。」
「作るときも結構ノリノリだったわよ。」
「それは…紫様が命令が聞けないなら式神を解雇するとか言うから。脅迫じゃないですか。」
紫は藍の言葉が聞こえなかったかのようにスキマに視線を戻した。
「でも嬉しいわあ!霊夢!私のこと心配してくれたのね!正直、霊夢が私を愛してくれていると信じてはいたけれど、
最近はさすがの私も疑わしくなってきていたから。
度重なるメンタルへのダメージの蓄積は相当なものだったわ。
どんなことを言われても諦めないことが肝要ね。
たまに本当に辛くて心が折れそうだった…というか折れたけど。
折れた心を何度も修理してツギハギだらけになってるけど、生きてきたかいがあったわ!」
「いやあ。もう死んでた方がいいんじゃないですかね?もうタイミング逃しましたよ。出て行ける空気じゃないですし。」
「いえ。ここまで待っていて行かないのはノーよ。多分、恐らく、いえ、あるいは大丈夫なことも…ある。」
紫は立ち上がった。無言で藍に立ち上がりを促す紫。
藍も嫌々ながら立ち上がった。
「ゆがりぃ…死ぬなあ…」
紫は迷っていた。背後から話しかけていいのかを。
霊夢はこちらにまったく気づいていない。
隣に寄り添うのが正解だろうか。
軽くチョップするか。
話しかける台詞。これが最も大事だ。
ー霊夢ー元気?ーおはよー
何事も無かったかのように声をかける。
無理だ。正気を取り戻した霊夢に裏拳を喰らって顔面陥没する未来が見える。
ー落ち込まないでー全部冗談だからー
即効のネタばらし。
これもきつい。いいところ下段の回し蹴りをみぞおちに喰らう未来だ。
ーいい人ーだったわねー
他人のフリ。
しかし、振り返った霊夢に自分であることがばれれば、彼女は目を突いてくる。恐らく正確に。
この先独眼で生きていくのは辛い。両眼潰しもあり得る。
ーごめんねー紫はたくさんいるのーだから寂しくないわよー
紫。量産化説。
無難な嘘なだけに無難にばれて無難に喉笛あたりをつぶされるだろう。
厳しい。どの選択肢も。
こちらからのアクティブな行動はすべて裏目に出る。
ここは姿を見せて、霊夢に判断をゆだねるとしよう。
こちらも冗談が過ぎた。
少々の肉体破壊は甘受しなくてはならない。
大事な娘を悲しませてしまった。
落ち度は自分にある。
さっさと行けという式神の無言のプレッシャーが痛いので迅速に動く。
泣いている霊夢の横に立った。
まだ霊夢は気づかない。
仕方なしに墓石の隣に立つ。
しかし、霊夢は地面に手をついたまま俯いていてこちらを見ようとはしない。
紫はちらりと藍を見るが藍は黙って頷いた。
ここに立っているのが正解なのだろう。多分。
しばらくして霊夢は顔を上げた。
しばらくボーっと涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で墓石を見つめていたが、隣の紫に気づいた。
二人の視線がぶつかる。
紫は引きつった笑いを浮かべる。
霊夢は表情を変えないまま、紫から視線を外さなかった。
「あえ?」
霊夢は墓石と紫を交互に見る。
そして墓石と紫を交互に指差した。
「あ、あれ?ん?え?なんで?」
「お、おはよう霊夢。」
「これ?あれ?生きてる?生き返って?あれ?」
霊夢は立ち上がって頭に手を当てる。まだ飲み込めていないようだ。
「ごめんなさい。霊夢。嘘です。死んでません。元気です。健康体です。」
霊夢は再びボーっと紫を見つめている。
「じゃ、じゃあなんで?この墓石?」
もっともな疑問だ。
恥ずかしいが、冗談の為だけに作ったのである。
「お、驚かせようとして…作ったのよ。あのね?今日何の日だか知ってる?」
霊夢は何秒かしてふるふると頭を振る。
「今日はね。外界ではエイプリルフールって言って、嘘をついてもいい日なのよ。
だから、その、ね…こんな冗談も許され…いえ、許してね?霊夢。」
霊夢は無言で俯いたまま紫の前に立った。
紫も直立不動になる。
くる。
致命打にも近い無慈悲な攻撃がこの至近距離から繰り出されるだろう。
一体どんな攻撃か。
まず、みぞおちにストレート。顎に昇拳を浴びせてからの夢想封印か。
それともいきなりの夢想封印からの夢想転生か。
地味に首の骨を折ってきたりするのだろうか。
どちらにせよ、しばらく行動不能になるのは覚悟しなくては。
紫はぎゅっと目を瞑った。
注射をされる前の子供のように。
しかし、紫が想像していたどんな攻撃も飛んでこなかった。
代わりに細く柔らかい腕に胴が包まれる感触があった。
「霊夢?」
霊夢は紫の腰に両手を回して胸に顔を埋めていた。
いきなり抱きしめられ、混乱と歓喜の中にあった紫の耳に小さく声が届く。
「…してるから…」
「え?」
「あんた多分勘違いしてるから。そのえいぷ…なんとかいう嘘つきのイベントのこと。」
霊夢は涙や鼻水を紫の胸元の布でふき取ると顔を上げる。
赤い目と鼻。
こんなに泣かせたかと思うと、改めて紫は申し訳なく思った。
「そのイベントさ…多分愉快な嘘をついて人を楽しませるお祭りなんでしょ。
あんたの嘘、全然、ぜんっぜん面白くないからね。」
ああ、その通りだ。
こんなことしなければ良かった。
紫は後悔しつつ必死に霊夢の頭を撫でた。
「ごめんね?本当にごめんね?許して霊夢。」
「ったく。嘘つきの日って日にちに幅があるの?」
「え?卯月の一日だけよ?」
「じゃあ、今日私が来なかったらどうするつもりだったの?」
「あ、明日辺りに顔を見せようかと。」
「じゃああんた。これまで起きてたくせに顔を見せないで、今日私が来るのに賭けてたのね。」
「はい…」
「来るかどうかも分かんないのに、あんな墓を作ってたの?無駄になるかもしれないのに?」
「はい…」
霊夢は呆れてものが言えないという表情を浮かべる。
「見事にはまちゃったのね。とんだ道化だわ。私」
「ごめんなさい。」
藍は我関せずという顔をしている。
霊夢もどうせ紫に脅迫されたんだと思い、藍のことは問い詰めなかった。
霊夢は紫から離れるとふうっと息をついた。
「本当にごめんね?ごめんね霊夢。」
「分かったわよ。私も疲れたし、もう謝らないで。それに、私も、今まで…」
「?」
「あんたさ。去年冬眠する前元気なかったじゃない?あれはなんか関係あったの?」
「あ、ああそうよ。4月1日の布石よ。霊夢があんまり冷たいから、それっぽく別れてみました。」
「あっそ」
霊夢は空を仰いだ。
かき乱された心とは裏腹に、空は澄み渡っている。
なんだか生き返った気分だ。
騙されたというのにどこか心地良かった。
「紫。これから神社に来る?」
「え、ええ。行きたいけど…いいの?」
「いいわよ。今日はご馳走したげる。」
紫が見せた驚愕の表情に一瞬霊夢はしかめっ面をしそうになったが、どうにか我慢しつつ顔を背ける。
「これから食材調達に里に行くわよ。当然材料費はあんた持ちよ。」
「うん。いいけど、それは、その、嘘じゃないわよね?」
「嘘じゃないわよ。あんたみたいに、イベントだからって羽目を外したりしないから。」
「うう、本当に今日はごめんね?」
「もういいって。こ…」
こっちこそ、といいかけて止めた。
それは癪に障る。
霊夢の頭にさっきから浮かんでいた言葉は、親孝行したい時には親はなし、という諺だった。
空に浮かび上がり、霊夢は紫に手を差し出した。
紫は笑顔でその手を掴もうと浮き上がる。
「そう言えば、挨拶がまだだったわね。」
「?」
霊夢はぐいっと紫の手を掴んで上空に引き寄せた。
「おはよう。紫。今年もよろしく。」
紫は、きょとんとした顔になったかと思うと湯沸かし器のように瞬時に赤くなって、こくこくと頷いた。
「こ、こちらこそ。」
藍は霊夢が全く紫に対して暴力を振るわなかったことに驚きを隠せなかった。
少なくとも怒りの感情は持ち合わせていないようだ。
どんな心境だったか知る由もないが、
二人の後をついて行くことにした。
藍は墓石の隣にあった桜の木にふと目をやった。
桜の蕾は今にも咲こうとしていた。
紫は意味もなくこの類の言葉の意味を間違えるキャラではないです。
冬眠明けか?しっかりしてくれ
もし自分が霊夢でも確実に引っかかる自信ありますね。