竹林の中に、古い家が建っていた。
大分年季の入った、貫録すら感じられる日本家屋だ。その雰囲気は見るものに、周りの空気が澄んでいるかのように思わせる。
積み重ねた年月のせいか、柱などの木材の部分は黒に近いこげ茶色になっていた。
背の高い竹の葉が、屋根の上に影を落としている。
その家に入っていく人間がいた。腰まで伸びた白髪と、赤いモンペが特徴的な少女だ。
「ただいま」
人気の感じられないその建物の奥から、おかえり、と声が聞こえた気がした。
世界の終わりとババァとオババ
「ここはどこ?」
私は誰、とお決まりの台詞が続くことはなかった。
彼女は自分がマエリベリー・ハーンであることをちゃんと分かっていたし、断じて記憶喪失などではない。
しかし自分が何処にいるのかということと、自分が何故こんな所にいるのかが分からなかった。
さっきまで自分は、蓮子の家に押しかけて〆切間際のレポートを仕上げていたはずだ。一人でやっていたら眠気に負ける、だとか適当な理由をつけて。
中々に奇妙な状況なのだが、メリーはあまり動揺していなかった。ファンタジーな事態は割と日常茶飯事なので、もう慣れっこなのだろう。
「にしても随分とまあ、人気のない町ね」
彼女は大通りの真ん中に立っていた。
道の両側には歴史の教科書や大河ドラマの中でしか見られないような、古い木造建築が立ち並んでいる。花屋、八百屋、家具屋、豆腐屋、銭湯、髪結い処、お茶所と沢山の店が立ち並ぶこの通りを見る限り、普通ならここは活気で満ち溢れた場所なのだと察せられた。
徹夜でカラオケをして始発で帰ったときみたいだな、とメリーは思った。普段なら人が大勢いるはずの町に、自分以外は通行人一人すらいない、あの雰囲気。あのときにはいつも煩わしいものにしか感じない繁華街が、何か情緒あるもののように見えたものだ。
「どうやらまた結界を超えてしまったみたいね」
メリーは頭の中で状況を整理する。何故私はこの江戸時代のような街並みにいるのだろうか。
一つにタイムスリップ。結界の先に過去が無いとは言い切れない。
二つに映画村。ここが撮影用の映画村とする説だ。
三つに夢オチ。ただそれにしては雰囲気がリアルすぎる。
「ま、今は何でもいいわ」
メリーは歩き始めた。その場でじっとしていても埒があかない。
空は灰色で、小雨が地面にいくつもの点を描いていた。
雨が本格的に降り始める前に元の世界へ戻る手段を探さなければ、中々面倒くさいことになる。
もっとも彼女は無事に帰ることよりも、この妙な古い町並みを冒険することを考えているのだが。流石は秘封倶楽部の片割れである。
この不思議な誰もいない町に、メリーは自分の胸が高鳴るのを感じていた。
モヘンジョダロのように核兵器で一夜にして滅んだ町なのか。ポンペイのように火山の噴火の灰で往時のまま保存された町なのか。
挙げた二つの例と同様のケースということはないだろうが、この町に何かあったのは確実だ。
何も災害の形跡が見られないのに滅んでいるということは、何かしら超常的現象が絡んでいる可能性も考えられる。
例えば、村人全員が神隠しにあっただとか。
「いや、誰もいないと決めつけるのは早計ね」
独り言が多いのは、こういうとき相棒がいつも近くにいたせいかもしれない。というよりも、きっとこのミステリアスな展開に興奮しているのだろう。
蓮子と一緒に来られなかったのは残念ね、とメリーは心の中でぼやいた。
「とりあえず家の中も調べさせてもらおうかしら」
そう呟くと彼女は、一番近くにあった霧雨道具店と看板の掲げられた建物に足を踏み入れた。
もし住人に見つかろうものなら、泥棒と勘違いされても仕方ない。そう考えると少し心臓の鼓動が早くなり、首筋を冷や汗が伝う。
しかしその心配はなさそうだった。
大分床にほこりが積もっているところを見ると、今現在ここに住んでいる人間はいないだろう。
「道具店を名乗っている割に、一つも商品がないとは商売根性に欠けるわね……」
店内にはほとんど物が無かった。風化して用途を果たせそうもない棚が、二三程あるだけだ。
あまりに調べる場所もないので、仕方なく彼女は建物の奥へと進む。
「この柱……」
一本の古びた柱に目が行く。そこにはナイフか何かで、いくつかの傷がつけられていた。メリーの腰より少し上くらいの辺りの高さだ。
傷の横には八歳、九歳など年齢が墨で記されていた。
「そういえば蓮子の実家にも同じものがあったわね」
その柱からは子を可愛がる親の愛情が感じられた。子供の成長を喜ぶ、親の愛が。
住人はもうどこにもいないのかもしれないが、そこに確かに生きていた人がいたのだ。人が居なくなっても、作られた建築物はその記録を留めている。
メリーの口元が僅かに緩んだ。
「うん。ここには手掛かりになりそうなものはないわね」
柱に刻まれた傷は彼女を暖かい気持ちにするものだったが、その一方で自分は人の家に勝手に侵入しているのだという罪悪感を強く意識させるものでもあった。彼女は少し落ち着かないものを感じ、その場を後にしようとした。
外に出ようとすると、雨が先程よりも強くなっていた。八割くらいの人が傘を差し始めるくらいだ。
「ん?」
足元を見やると一部が破れてしまっている番傘があった。ほこりを払ってから恐る恐るそれを開いてみると、見た目はみっともないが、傘としての機能は十分果たせそうだった。
その傘をさして、彼女は再び大通りを歩き始めた。
「さて、どうしたものか……」
傘の上を跳ねる雨の音が、少女のつぶやきを掻き消そうとする。紫色のスカートの下の方が濡れてしまっている。
多分他の店や家を闇雲に探したとしても、この町に何があったかを知る手掛かりを見つけるのは大変だろう。まったくとは言わないが、どの建物も先刻の道具店と同じようにモノ自体がほとんどないかもしれない。
寄合場や図書館のような公的な資料がある場所でもあれば話は早いのだが。しかしそこに文書が残っている保証はない。
「どうしたものか……あれ?」
メリーはとある家の前で立ち止まった。その周りより大きめな建物だけ、明らかに雰囲気が違うのだ。
近寄ってみて彼女はその違和感の正体に気付いた。
この家だけほこりをかぶっていない。
つまり人が住んでいる、もしくはごく最近まで人が住んでいたのかもしれないのだ。
彼女の期待が膨らむ。
「誰かいませんかー」
呼びかてみるものの、返ってくるのは雨の音だけだった。
傘を畳んでその辺に立てかけて、彼女はその建物に足を踏み入れた。
慎重に奥へと進み、廊下を通って先へ行く。
床は別段綺麗なわけではないが、さっきまでの長年放置されたような家よりかは汚くない。人の生活の気配がするのだ。
「これは……」
妙な建物の一室、その部屋の中心にはちゃぶ台があって、上にはお茶とお煎餅が置かれていた。
そっと湯呑に触れてみると、少し暖かいような気がする。
少しのためらいの後、お煎餅の方を両手で持って力を入れると、小気味よい音をたてて割れた。湿気ってはいないようだ。
「私が来るほんの少し前まで、ここに誰か居たのは確実ね……」
いや、ここにまだ隠れているだけかもしれない。
そう考えた瞬間だった。
部屋の外の廊下から、足音が聞こえてきたのだ。
「誰っ!?」
メリーは即座に振り返って部屋の外に出る。すると隣の部屋に入っていく、小さな人影が一瞬見えた。
すぐに彼女はそれを追いかけて、隣の部屋のふすまを開け放つ。
「……いない」
部屋には窓に向かう机と、本棚と箪笥が一つずつあるだけだった。書斎のようなものだろうか。
しかしさっき部屋に入って行った誰かが隠れられるような場所は、どこにもなかった。
窓から出ていったのだろうか、と彼女が考えていると、背中から声をかけられた。
「人影を見たんなら家神だろうね。あれは人見知りで、すぐに姿を隠してしまうから」
「――――――!」
メリーが後ろを振り返ると、妙な風体をした少女がいた。
お札が何枚も張ってある赤いモンペに両手を突っ込んでいる。肌は今まで一度も日に当たったことのないのでは、と疑うほど白い。
しかしそれよりも異様に白いのはその髪だ。脱色したものとは明らかに違う、生命力の感じられない老婆のもののような白髪だ。
「ええと……どちら様ですか?」
「私は妹紅。アンタは?」
「め、メリーです」
メリーは動揺していた。誰も居ないと勝手に思い込んでいた町に、人が居たことにも驚いていたが、今の自分は空き巣扱いされてもおかしくないからだ。
それにこの人物が野蛮な人種だとしたら、この場で殺される可能性すらある。いや、少なくとも会話は成り立っているし、それはないはずだ。
というようにメリーの頭蓋の中で様々な情報と思考が交錯する。
彼女の緊張を察したのか、妹紅は軽く両手を挙げて敵意が無いことを示した。
「ああ、危害を加えたりとか、そういうのはしないよ。それよりあんた、外来人か?」
「がいらい……じん?」
身の安全が保証されて胸を撫で下ろすのと同時に、余り馴染みのない言葉にメリーは首をかしげる。
妹紅は右手で頭を掻いて、ああそうか、と続けた。
「そんな言い方じゃわかんないよね。ええと、ケータイって知ってる?」
「え、ええ。前時代の連絡手段の一つですよね。近代史の教科書でしか見たことないですけど」
メリーの時代ではすでにケータイもスマートフォンも骨董品と化していた。今では腕輪状の多機能空間拡張媒体がその役目を負っている。
「うん。何言ってるかよくわからないから、あんた外来人だね」
恐ろしく適当な理由で妹紅はそう断じた。
こんな難しくてわけの分からない単語を並び立てるのは河童と外来人くらいで、彼女は河童には見えない、と考えればあながち筋の通っていない推測ではないが。
「えっと、外来人ってなんですか? あとさっき言った家神というのは……」
「外来人ってのはまあ、余所者ってことだよ。あと家神は座敷童みたいなものだ」
一気に疑問をぶつけてくるメリーに、妹紅は一つ一つ丁寧に答えていく。
「ざ、座敷童ってあの座敷童ですか?!」
オカルトサークルとして放っておけない単語にメリーは食いついた。
いきなり声を荒げた彼女に少し驚いた後、妹紅は手をひらひらと振って答える。
「いや、あくまでみたいなものだけどね。屋敷神のような存在とも言えるけど、どちらかと言えば家の付喪神みたいなものかな」
「家の付喪神?」
「この家はとかく古くてね。人里……この集落ができたころからずっとあるんだ。その結果村人たちはこの家を神聖視し始めたのかな? 昔から残ってるものは、もうそれだけで価値があるから。気付けば家神とでも言うべき神様が生まれてたのさ」
その話を聞いてメリーの目が輝く。妹紅という少女の口ぶりを見る限り、自分の世界では空想とされているものが日常として扱われているのだ。
オカルトサークルとしては最高の体験だ。
「それが、さっき私が見た人影なわけですか……ちなみに他にも妖怪がいたりするんですか?」
「まあそう質問攻めにしないでよ。とりあえず座って落ち着きなって」
妹紅は心の中で少しだけ呆れた。大抵の外来人は「これは夢なんだ」とか言い出すのに、この子は明らかに好奇心が先行してしまっている。
言われるままに、メリーは畳の上に正座で腰をおろし、妹紅はあぐらをかいて座った。
彼女は一言断ってから、キセルを取り出して吸い始める。
「というかアンタさ、他にもっと聞くこととかあるんじゃないかな」
「え、どういうことですか?」
「元の世界に帰る方法とかさ」
「あっ、確かにそうですね」
メリーは口元を手のひらで隠して驚き、妹紅は額を手のひらで抑えた。きょうびの外の世界の人間はこんなのばかりになっているのか、と頭を抱える。
「帰る手段は後でいいです。それより何でここには妹紅さん以外、誰もいないんですか?」
呆れまじりのため息のように彼女は煙を吐き、眉間に僅かに皺を寄せる。
それから少し目を細めてから語った。
「さっきアンタ……えっと、メリーか。ここに他に妖怪はいるのかと聞いたよな」
「はい」
「答えはハイ、だ。その中にリュウグウノツガイという妖怪がいてさ。そいつが数年ほど前、ある予言をもたらしたんだ」
顔を上げ天井に視線を向けて、彼女は続ける。しかしその目は天井を見ているわけではなく、もっと遠くの何かを見つめていた。
「人里が、この町が水害で滅ぶと」
「――――――!」
雨が屋根を穿つ音がさっきよりも強くなっている。その雨音はメリーの気分をいやに不安にさせた。
妹紅はどこか寂しげな声で語り続ける。
「ここのすぐ近くに川があるんだけどね、それが決壊して濁流となって町を飲み込むんだそうだ」
運命を見ることの出来る吸血鬼なども同様のことを示唆した。
人里の滅亡は不可避なものだった。
「不幸中の幸い、と言うんだろうね。その水害の予言は数年先の話だった。だから住人たちはここから離れた場所に、また新しく町を作ってそっちに避難したんだ」
「それでこの町には誰もいなかったんですね……」
この里は何かの災害に巻き込まれて滅んだわけではなく、災害から逃れるために人々に捨てられたのだ。蓋を開ければなんということはない。ただの町単位の引越しなのだから。
だから家の中に物がほとんどなかったのだ。必要なものは新しい人里まで運ばれ、不必要なものだけがこの町には取り残されている。
「ちなみにその予言の日って……」
「今日のことだよ。ああ、アンタ一人の命くらいなら私が保証するから安心しなよ」
そう言いながら彼女はペン回しの要領でキセルを回して弄ぶ。
どこか憂いを含んだ彼女の姿に、メリーの声のトーンも自然と低くなる。
「……妹紅さんは何故この町に残っているんですか?」
「残ったわけじゃないさ。この家の持ち主がどうしてもこの人里から離れたくないって言ってね。ついさっきようやく説得して新しい人里まで連れて行ったんだけど、妻の形見をここに忘れてきちゃったらしくて、それを私が取りに来たってわけ」
妹紅は肩をすくめて呆れたもんだ、と言うがその顔はどこか嬉しそうでもあった。
説得には大分手間取ったが、結局孫のことを引き合いに出して、何とか無理矢理新しい人里に連れて行くことができた。気難しい爺さんではあったが、そういう頑固さが妹紅は嫌いではなかった。
「この家の持ち主は……どうしてそこまで……」
「いい年したおじいちゃんなんだけどね、この家で産声をあげて、育てられ、家を誇りとして生きてきたって言ってたよ。この世に生まれて七十余年、共にあったこの家が壊されるのは忍びないって」
先刻誰もいなくなった町を見たメリーには、その老人の気持ちがわかるような気がした。
物がほとんど無くたって、あの家屋たちには人々が確かに生きていた証が刻まれていたのだ。享受されていた日常の息遣いを感じることができたのだ。
家は住んでいる人をそのままに表す。それは写真よりも雄弁に、人間の内面を映すものかもしれなかった。
「なんて言うか……寂しいですね」
「寂しい?」
メリーは膝の上に乗せた両の拳をぎゅっと握り締めた。
「ずっと一緒にあった住処なんですよ。それが取り残されて、誰にも看取られないで死を迎えていくだなんて……どうにかできないんでしょうか」
「……優しいな、メリーは」
妹紅は手元のキセルに視線を落とした。
「けれど、それはそういうものなんだよ。変われないものは置き去りにされていくのが道理なんだろう」
キセルを片づけながら、彼女は「変なこと言ってごめんな」と謝った。
妙に湿っぽい雰囲気だ。それを誤魔化すように妹紅は膝を叩いて立ち上がった。
「さて! このままここにいちゃ危ないし、そろそろ移動しようか」
「あ、はい」
メリーも立ち上がろうとするのだが、足が痺れてしまっていたのか、ふらついて倒れかけて地面に手を付きそうになったその瞬間――――――
「え?」
――――――彼女は消えてしまった。
マエリベリー・ハーンはソファーから転げ落ちていた。
見慣れた天井だな、と彼女はぼんやりと考える。ここは蓮子の家だ。
「……」
「随分とアクロバティックな寝相ね。どんな夢を見てたのかしら?」
皮肉っぽく蓮子は言う。彼女は特注の安楽椅子に座って、薄汚れた文庫本をめくっていた。膝にかけられたベージュの毛布と老眼鏡のようなメガネがどうにもババ臭い。
メリーは今まで自分がソファーで寝ていたことをようやく理解した。そして、自分の見ていた夢のことを思い出した。
「そうよ、夢を見ていたのよ!」
「でしょうね。レポート書かなきゃいけないのに、メリーったらぐっすりと眠ってるんだもの」
蓮子の皮肉も気にせずに、メリーは息を荒くして語る。
「違うの! 私は夢を見てたのよ!」
「はぁ……?」
興奮してまくしたてるメリーに対し、蓮子は怪訝そうに眉をひそめる。
「私、夢の中で境界を越えたみたいなのよ」
「ほほう?」
その一言は蓮子の興味を惹くのには十分だった。彼女は文庫本をわざとらしく音をたてて閉じ、安楽椅子ごとメリーの方に体を向けて身を乗り出した。
メリーは真剣な表情で話し始めた。
「蓮子にも話してあげる。小さな世界の終わりの話を」
妹紅の首筋を汗が伝う。目を閉じて周囲の霊力を探ってみるも人一人っ子いない。
あの娘は忽然と姿を消してしまったのだ。焦りで心臓が早鐘のように鳴る。
自分に気づかれないように、何処かに隠れられたとすると不味い。これから町を覆う激流に、あの娘が殺されてしまう。
しかし何の前兆もなく消えてしまうとはどういうことなのだろうか。あの胡散臭い妖怪のスキマや胡散臭い邪仙の壁抜けならば、それ相応の力が感知されるはずである。
「どういうことだ……?」
「勝手に帰っただけだよ」
「……ッ! 何だ、オババか」
部屋にはいつの間にか、二頭身くらいの小さな老婆がいた。薄紫色の着物を着て、手を後ろに組んで立っている。ちんまり、という擬音のよく似合う体型だ。
明らかに人間ではない。座敷童のお婆さん、と言った方がしっくりくる。
彼女がこの屋敷の化身、家神である。
「気づかなかったのかい? あの小娘は生霊だよ」
「そんな馬鹿な……どう見ても生きた人間にしか見えなかったぞ」
信じられない、といった表情で妹紅は、家神の老婆の顔を見つめる。
老婆は少し呆れたように言う。
「触れればすぐわかったはずだがね。まぁあの子は珍しい気を持った子だから、鈍感なアンタがきづかないのも無理はない」
「鈍感なのは長生きしたせいだよ。それより、なんで外来人の生霊がここに来たんだ?」
「さぁね。この里が一人で死ぬには寂しかったから、誰かに看取って欲しくて呼び寄せてしまったとか」
そう見立てる背の低い老婆を、妹紅は真っ直ぐに見ることができなかった。人里が水害で滅ぶということは、この家とその家神の老婆も一緒に死ぬということだ。
アンタも一人で死にゆくのが寂しいんじゃないか、と妹紅は思ったが口に出すことはできるわけがない。
土砂降りの雨の音が、やたらと妹紅にはうざったく聞こえた。
「さて、そろそろ里に膨大な量の水が流れ込む頃だ。不老不死とはいえ、わざわざ好き好んで土左衛門になることもないだろう。お前も早く新しい人里へ帰るんだね」
背中を向けてそう諭す彼女に、妹紅は拳をギュッと握り締めた。
この家は人里が作られたときからある建物だ。ひょっとしたらこの老婆は慧音よりも長く、人間たちを見守ってきたのかもしれない。
産婆に取り上げられて、母の乳を飲み、自分の足で初めて立ち、友達と遊ぶようになり、恋を覚え、嫁をもらい、家業を継ぎ、また新たに子を産み、その成長を見守って、最期は家族に看取られて死んでいく。
そういった繰り返しを、この老婆は何度も見てきたのだろう。妹紅と同じように何人もの友人に先立たれて、それでも人間を見守ってきた。
そういう家なのだ、ここは。
「……」
「どうした。ここは危ないから、早く帰んなさいよ」
振り返り、心配そうに告げる老婆を見て、妹紅は覚悟を決めた。
「この家、私が貰ってもい良いかな?」
「は?」
目を丸くする家神にむかって、妹紅は悪戯を思いついた子供のように歯を見せて笑った。
普段だったらこんな馬鹿げたことは言いださない。それはきっと、あのメリーとかいう少女のせいだろう。
人里が、家が滅んでいくという話に彼女が心を痛めるのを見て、妹紅もそれに影響されてしまったのだ。
「私がこの家を水害から守れたら、ここを私の家にしてもいいか、って聞いているんだ」
老婆は惚けたようにただ彼女を見た。明らかに彼女の目は本気だった。
しばしの間呆気にとられた家神だったが、「できるわけがないッ!」としわがれた声で叫んだ。
「そんなことができるものか! お前よりもはるかに強い大妖でさえも、水害相手には何もできないんだッ!」
自然の力は生半可なものではない。人里を災害から守れる妖怪がいるのならそうしている。
しかし天狗の風でも、鬼の怪力でも、大妖の結界でも、魔女の術をもってしても止めることはできない。それほどまでに水害における水の質量とは凄まじい。
あの馬鹿げた質量に立ち向かうくらいなら、ミサイルのシャワーにでも立ち向かう方が、まだやりようがある。
そもそも自然から生まれ、自然に寄り添って生きる妖怪たちが、それに歯向かおうというのがちゃんちゃらおかしい話だ。
「人里全てを救うのはむりだ。けれどせめて一件の家くらいなら、私程度でもどうにかなるかもしれないじゃないか」
ぎらついた瞳で不敵に笑う妹紅を見て、老婆はそれ以上強く言う事ができなくなってしまった。
半分諦め混じりに、もう半分はため息混じりに彼女は話す。
「この家から頑として動かなかったジジイが、それを認めなかったとしたらどうするんだい」
「そんときはジジイが家族に囲まれて幸せそうに大往生するまで待ってやるさ」
もう彼女を説得する事はできないな、と家神の老婆は完全に諦めた。
つまるところ妹紅はこの家が気に入ってしまったのだ。何人もの人間に先立たれながらも、ずっと人と共にあったこの古い家のことを。
永遠を生きる自分の住処としては、これ以上に相応しい場所はない。
「まあ、出来なくっても一緒に一回死んでやるから」
「随分と安い殉死があったもんだね」
皮肉っぽく老婆が言っても、妹紅はヒヒヒ、と笑うだけだった。
「な。私が住んでもいいだろ?」
「勝手にしな!」
背を向けて、家神は屋敷の奥の方へすっこんでしまった。
その肩がどこか嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「……ありがとう」
老婆の背中に向かって、妹紅はそう呟いた。
「よし、行くか」
妹紅はすぐさま外をへ出ようとする。
戸を開けると、風と雨が暴れ狂いながら家の中に入ってきた。人々が自然を神と崇めてきた理由がよくわかる。超常的な力が関わっているとしか思えぬない程の嵐だ。
これほどの豪雨は何年ぶりであろうか。比較的高い場所にある人里ですら、既に十数センチの洪水となっていた。
外に出たあと、一応戸をきっちりと閉めておく。
「いよっと」
飛沫を撒き散らして、妹紅は屋根の上に飛び乗った。川のある方向の端まで歩いて立ち止まる。
叩きつけられる風雨に目を細めながら、仁王立ちで妹紅はまっすぐ前を見た。気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな嵐だ。
屋根の上からは人里の様子が良く見える。この豪雨さえなければさぞ良い眺めであっただろう。
「慧音に見つかったらなんていわれるかな……」
きっとまたいつも通りの長々しい説教を喰らうのだろう。それでも紅妹は一切逃げる気はなかった。
もし彼女が妖怪であったのなら、こんな自然に歯向かうような愚行を犯そうとは思わなかったのだろう。
しかし妹紅は不老不死とはいえ、人間なのだ。外の世界では科学を振りかざして、自然と真っ向勝負を挑んで滅茶苦茶をしている愚かな人間なのだ。
彼女は幻想郷の中の住人ではあったが、自然を改変しようとする点は、程度の差はあれ中でも外でも同じだ。品種改良は大昔から行われていたことだし、森を拓き畑を作るのもある種の自然破壊だ。
そんな人間であるから、妹紅はこんな馬鹿ができるのだろう。
「お」
土砂降りの中で轟音が鳴り響くのが、何処か遠くから聞こえた気がした。
とうとう川が決壊したのだろう。
その証左に、人里へと膨大な量の水が流れ込んできた。ほぼ黒に近い濁流は家をぐしゃぐしゃにしながら此方の方へ突き進んでくる。
妹紅にはそれが涎をまき散らして半狂乱で突っ込んでくる怪物の群れのように思えた。質量という暴力は、普段慣れ親しんだ水を凶悪な大量破壊兵器へと変えてしまうのだ。
その光景は、世界の終わりを思わせるほどだ。
「来いよ……」
それに喧嘩を挑む阿呆が一人いた。
妹紅は札を構えて、真っ向から災害をにらみつける。迫りくる濁流に彼女は唾をのみ込む。
怪物や神といった言葉こそがあれにはふさわしい。あれは逆らってはならぬものだ、と本能が警鐘を鳴らすのを無視する。不思議と負ける気はしなかった。
メリーという少女がここに来た理由を妹紅は勝手に推測する。
きっと私をこの対決の場に引きずり出すことだったのだろう、と。そのためにあの娘はここに来たのだ。
濁流と妹紅の彼我が凄まじい速度で縮んでいく。勿論、里の建物を飲み込み、なぎ倒しながらだ。
札を持って振りかぶる彼女の体が、高められた霊力の影響で発光し始める。冷や汗と雨で体はすかり濡れてしまっていたが、彼女はぎらついた目は、まっすぐ前だけをにらみつけていた。
そして遂に、天災の魔の手が妹紅と古い家の寸前にまで迫る。
「――――――――――――ッ!」
暴れ狂う水が衝突する寸前、叩きつけたスペルカードがさく裂し、まばゆい光が視界を白く染め上げた。
竹林の中に、古い家が建っていた。
大分年季の入った、貫録すら感じられる日本家屋だ。その雰囲気は見るものに、周りの空気が澄んでいるかのように思わせる。
積み重ねた年月のせいか、柱などの木材の部分は黒に近いこげ茶色になっていた。
背の高い竹の葉が、その屋根に影を落としている。
その家に入っていく人間がいた。腰まで伸びた白髪と、赤いモンペが特徴的な少女だ。
「ただいま」
人気の感じられないその建物の奥から、おかえり、と声が聞こえた気がした。
「なんだ。オババも起きてきたのか。流石に年寄りは早起きだね」
「妹紅、お前も中々ババァだがね」
廊下を軋ませながら、随分とこじんまりした老婆がゆっくり歩いて出てきた。家神の老婆である。人気が無かったが、神の気配はあったようだ。
彼女の指摘に、妹紅は頭の後ろを掻いた。
「はは。確かにそうだね」
「どうせ朝ご飯食べないまま散歩に行ってたんだろう? 用意しといたから早く食べな」
妹紅はヒヒヒ、と笑って礼を告げる。
それを見て、老婆も呆れまじりに微笑む。
「ありがとう、オババ」
「どういたしまして、ババァ」
大分年季の入った、貫録すら感じられる日本家屋だ。その雰囲気は見るものに、周りの空気が澄んでいるかのように思わせる。
積み重ねた年月のせいか、柱などの木材の部分は黒に近いこげ茶色になっていた。
背の高い竹の葉が、屋根の上に影を落としている。
その家に入っていく人間がいた。腰まで伸びた白髪と、赤いモンペが特徴的な少女だ。
「ただいま」
人気の感じられないその建物の奥から、おかえり、と声が聞こえた気がした。
世界の終わりとババァとオババ
「ここはどこ?」
私は誰、とお決まりの台詞が続くことはなかった。
彼女は自分がマエリベリー・ハーンであることをちゃんと分かっていたし、断じて記憶喪失などではない。
しかし自分が何処にいるのかということと、自分が何故こんな所にいるのかが分からなかった。
さっきまで自分は、蓮子の家に押しかけて〆切間際のレポートを仕上げていたはずだ。一人でやっていたら眠気に負ける、だとか適当な理由をつけて。
中々に奇妙な状況なのだが、メリーはあまり動揺していなかった。ファンタジーな事態は割と日常茶飯事なので、もう慣れっこなのだろう。
「にしても随分とまあ、人気のない町ね」
彼女は大通りの真ん中に立っていた。
道の両側には歴史の教科書や大河ドラマの中でしか見られないような、古い木造建築が立ち並んでいる。花屋、八百屋、家具屋、豆腐屋、銭湯、髪結い処、お茶所と沢山の店が立ち並ぶこの通りを見る限り、普通ならここは活気で満ち溢れた場所なのだと察せられた。
徹夜でカラオケをして始発で帰ったときみたいだな、とメリーは思った。普段なら人が大勢いるはずの町に、自分以外は通行人一人すらいない、あの雰囲気。あのときにはいつも煩わしいものにしか感じない繁華街が、何か情緒あるもののように見えたものだ。
「どうやらまた結界を超えてしまったみたいね」
メリーは頭の中で状況を整理する。何故私はこの江戸時代のような街並みにいるのだろうか。
一つにタイムスリップ。結界の先に過去が無いとは言い切れない。
二つに映画村。ここが撮影用の映画村とする説だ。
三つに夢オチ。ただそれにしては雰囲気がリアルすぎる。
「ま、今は何でもいいわ」
メリーは歩き始めた。その場でじっとしていても埒があかない。
空は灰色で、小雨が地面にいくつもの点を描いていた。
雨が本格的に降り始める前に元の世界へ戻る手段を探さなければ、中々面倒くさいことになる。
もっとも彼女は無事に帰ることよりも、この妙な古い町並みを冒険することを考えているのだが。流石は秘封倶楽部の片割れである。
この不思議な誰もいない町に、メリーは自分の胸が高鳴るのを感じていた。
モヘンジョダロのように核兵器で一夜にして滅んだ町なのか。ポンペイのように火山の噴火の灰で往時のまま保存された町なのか。
挙げた二つの例と同様のケースということはないだろうが、この町に何かあったのは確実だ。
何も災害の形跡が見られないのに滅んでいるということは、何かしら超常的現象が絡んでいる可能性も考えられる。
例えば、村人全員が神隠しにあっただとか。
「いや、誰もいないと決めつけるのは早計ね」
独り言が多いのは、こういうとき相棒がいつも近くにいたせいかもしれない。というよりも、きっとこのミステリアスな展開に興奮しているのだろう。
蓮子と一緒に来られなかったのは残念ね、とメリーは心の中でぼやいた。
「とりあえず家の中も調べさせてもらおうかしら」
そう呟くと彼女は、一番近くにあった霧雨道具店と看板の掲げられた建物に足を踏み入れた。
もし住人に見つかろうものなら、泥棒と勘違いされても仕方ない。そう考えると少し心臓の鼓動が早くなり、首筋を冷や汗が伝う。
しかしその心配はなさそうだった。
大分床にほこりが積もっているところを見ると、今現在ここに住んでいる人間はいないだろう。
「道具店を名乗っている割に、一つも商品がないとは商売根性に欠けるわね……」
店内にはほとんど物が無かった。風化して用途を果たせそうもない棚が、二三程あるだけだ。
あまりに調べる場所もないので、仕方なく彼女は建物の奥へと進む。
「この柱……」
一本の古びた柱に目が行く。そこにはナイフか何かで、いくつかの傷がつけられていた。メリーの腰より少し上くらいの辺りの高さだ。
傷の横には八歳、九歳など年齢が墨で記されていた。
「そういえば蓮子の実家にも同じものがあったわね」
その柱からは子を可愛がる親の愛情が感じられた。子供の成長を喜ぶ、親の愛が。
住人はもうどこにもいないのかもしれないが、そこに確かに生きていた人がいたのだ。人が居なくなっても、作られた建築物はその記録を留めている。
メリーの口元が僅かに緩んだ。
「うん。ここには手掛かりになりそうなものはないわね」
柱に刻まれた傷は彼女を暖かい気持ちにするものだったが、その一方で自分は人の家に勝手に侵入しているのだという罪悪感を強く意識させるものでもあった。彼女は少し落ち着かないものを感じ、その場を後にしようとした。
外に出ようとすると、雨が先程よりも強くなっていた。八割くらいの人が傘を差し始めるくらいだ。
「ん?」
足元を見やると一部が破れてしまっている番傘があった。ほこりを払ってから恐る恐るそれを開いてみると、見た目はみっともないが、傘としての機能は十分果たせそうだった。
その傘をさして、彼女は再び大通りを歩き始めた。
「さて、どうしたものか……」
傘の上を跳ねる雨の音が、少女のつぶやきを掻き消そうとする。紫色のスカートの下の方が濡れてしまっている。
多分他の店や家を闇雲に探したとしても、この町に何があったかを知る手掛かりを見つけるのは大変だろう。まったくとは言わないが、どの建物も先刻の道具店と同じようにモノ自体がほとんどないかもしれない。
寄合場や図書館のような公的な資料がある場所でもあれば話は早いのだが。しかしそこに文書が残っている保証はない。
「どうしたものか……あれ?」
メリーはとある家の前で立ち止まった。その周りより大きめな建物だけ、明らかに雰囲気が違うのだ。
近寄ってみて彼女はその違和感の正体に気付いた。
この家だけほこりをかぶっていない。
つまり人が住んでいる、もしくはごく最近まで人が住んでいたのかもしれないのだ。
彼女の期待が膨らむ。
「誰かいませんかー」
呼びかてみるものの、返ってくるのは雨の音だけだった。
傘を畳んでその辺に立てかけて、彼女はその建物に足を踏み入れた。
慎重に奥へと進み、廊下を通って先へ行く。
床は別段綺麗なわけではないが、さっきまでの長年放置されたような家よりかは汚くない。人の生活の気配がするのだ。
「これは……」
妙な建物の一室、その部屋の中心にはちゃぶ台があって、上にはお茶とお煎餅が置かれていた。
そっと湯呑に触れてみると、少し暖かいような気がする。
少しのためらいの後、お煎餅の方を両手で持って力を入れると、小気味よい音をたてて割れた。湿気ってはいないようだ。
「私が来るほんの少し前まで、ここに誰か居たのは確実ね……」
いや、ここにまだ隠れているだけかもしれない。
そう考えた瞬間だった。
部屋の外の廊下から、足音が聞こえてきたのだ。
「誰っ!?」
メリーは即座に振り返って部屋の外に出る。すると隣の部屋に入っていく、小さな人影が一瞬見えた。
すぐに彼女はそれを追いかけて、隣の部屋のふすまを開け放つ。
「……いない」
部屋には窓に向かう机と、本棚と箪笥が一つずつあるだけだった。書斎のようなものだろうか。
しかしさっき部屋に入って行った誰かが隠れられるような場所は、どこにもなかった。
窓から出ていったのだろうか、と彼女が考えていると、背中から声をかけられた。
「人影を見たんなら家神だろうね。あれは人見知りで、すぐに姿を隠してしまうから」
「――――――!」
メリーが後ろを振り返ると、妙な風体をした少女がいた。
お札が何枚も張ってある赤いモンペに両手を突っ込んでいる。肌は今まで一度も日に当たったことのないのでは、と疑うほど白い。
しかしそれよりも異様に白いのはその髪だ。脱色したものとは明らかに違う、生命力の感じられない老婆のもののような白髪だ。
「ええと……どちら様ですか?」
「私は妹紅。アンタは?」
「め、メリーです」
メリーは動揺していた。誰も居ないと勝手に思い込んでいた町に、人が居たことにも驚いていたが、今の自分は空き巣扱いされてもおかしくないからだ。
それにこの人物が野蛮な人種だとしたら、この場で殺される可能性すらある。いや、少なくとも会話は成り立っているし、それはないはずだ。
というようにメリーの頭蓋の中で様々な情報と思考が交錯する。
彼女の緊張を察したのか、妹紅は軽く両手を挙げて敵意が無いことを示した。
「ああ、危害を加えたりとか、そういうのはしないよ。それよりあんた、外来人か?」
「がいらい……じん?」
身の安全が保証されて胸を撫で下ろすのと同時に、余り馴染みのない言葉にメリーは首をかしげる。
妹紅は右手で頭を掻いて、ああそうか、と続けた。
「そんな言い方じゃわかんないよね。ええと、ケータイって知ってる?」
「え、ええ。前時代の連絡手段の一つですよね。近代史の教科書でしか見たことないですけど」
メリーの時代ではすでにケータイもスマートフォンも骨董品と化していた。今では腕輪状の多機能空間拡張媒体がその役目を負っている。
「うん。何言ってるかよくわからないから、あんた外来人だね」
恐ろしく適当な理由で妹紅はそう断じた。
こんな難しくてわけの分からない単語を並び立てるのは河童と外来人くらいで、彼女は河童には見えない、と考えればあながち筋の通っていない推測ではないが。
「えっと、外来人ってなんですか? あとさっき言った家神というのは……」
「外来人ってのはまあ、余所者ってことだよ。あと家神は座敷童みたいなものだ」
一気に疑問をぶつけてくるメリーに、妹紅は一つ一つ丁寧に答えていく。
「ざ、座敷童ってあの座敷童ですか?!」
オカルトサークルとして放っておけない単語にメリーは食いついた。
いきなり声を荒げた彼女に少し驚いた後、妹紅は手をひらひらと振って答える。
「いや、あくまでみたいなものだけどね。屋敷神のような存在とも言えるけど、どちらかと言えば家の付喪神みたいなものかな」
「家の付喪神?」
「この家はとかく古くてね。人里……この集落ができたころからずっとあるんだ。その結果村人たちはこの家を神聖視し始めたのかな? 昔から残ってるものは、もうそれだけで価値があるから。気付けば家神とでも言うべき神様が生まれてたのさ」
その話を聞いてメリーの目が輝く。妹紅という少女の口ぶりを見る限り、自分の世界では空想とされているものが日常として扱われているのだ。
オカルトサークルとしては最高の体験だ。
「それが、さっき私が見た人影なわけですか……ちなみに他にも妖怪がいたりするんですか?」
「まあそう質問攻めにしないでよ。とりあえず座って落ち着きなって」
妹紅は心の中で少しだけ呆れた。大抵の外来人は「これは夢なんだ」とか言い出すのに、この子は明らかに好奇心が先行してしまっている。
言われるままに、メリーは畳の上に正座で腰をおろし、妹紅はあぐらをかいて座った。
彼女は一言断ってから、キセルを取り出して吸い始める。
「というかアンタさ、他にもっと聞くこととかあるんじゃないかな」
「え、どういうことですか?」
「元の世界に帰る方法とかさ」
「あっ、確かにそうですね」
メリーは口元を手のひらで隠して驚き、妹紅は額を手のひらで抑えた。きょうびの外の世界の人間はこんなのばかりになっているのか、と頭を抱える。
「帰る手段は後でいいです。それより何でここには妹紅さん以外、誰もいないんですか?」
呆れまじりのため息のように彼女は煙を吐き、眉間に僅かに皺を寄せる。
それから少し目を細めてから語った。
「さっきアンタ……えっと、メリーか。ここに他に妖怪はいるのかと聞いたよな」
「はい」
「答えはハイ、だ。その中にリュウグウノツガイという妖怪がいてさ。そいつが数年ほど前、ある予言をもたらしたんだ」
顔を上げ天井に視線を向けて、彼女は続ける。しかしその目は天井を見ているわけではなく、もっと遠くの何かを見つめていた。
「人里が、この町が水害で滅ぶと」
「――――――!」
雨が屋根を穿つ音がさっきよりも強くなっている。その雨音はメリーの気分をいやに不安にさせた。
妹紅はどこか寂しげな声で語り続ける。
「ここのすぐ近くに川があるんだけどね、それが決壊して濁流となって町を飲み込むんだそうだ」
運命を見ることの出来る吸血鬼なども同様のことを示唆した。
人里の滅亡は不可避なものだった。
「不幸中の幸い、と言うんだろうね。その水害の予言は数年先の話だった。だから住人たちはここから離れた場所に、また新しく町を作ってそっちに避難したんだ」
「それでこの町には誰もいなかったんですね……」
この里は何かの災害に巻き込まれて滅んだわけではなく、災害から逃れるために人々に捨てられたのだ。蓋を開ければなんということはない。ただの町単位の引越しなのだから。
だから家の中に物がほとんどなかったのだ。必要なものは新しい人里まで運ばれ、不必要なものだけがこの町には取り残されている。
「ちなみにその予言の日って……」
「今日のことだよ。ああ、アンタ一人の命くらいなら私が保証するから安心しなよ」
そう言いながら彼女はペン回しの要領でキセルを回して弄ぶ。
どこか憂いを含んだ彼女の姿に、メリーの声のトーンも自然と低くなる。
「……妹紅さんは何故この町に残っているんですか?」
「残ったわけじゃないさ。この家の持ち主がどうしてもこの人里から離れたくないって言ってね。ついさっきようやく説得して新しい人里まで連れて行ったんだけど、妻の形見をここに忘れてきちゃったらしくて、それを私が取りに来たってわけ」
妹紅は肩をすくめて呆れたもんだ、と言うがその顔はどこか嬉しそうでもあった。
説得には大分手間取ったが、結局孫のことを引き合いに出して、何とか無理矢理新しい人里に連れて行くことができた。気難しい爺さんではあったが、そういう頑固さが妹紅は嫌いではなかった。
「この家の持ち主は……どうしてそこまで……」
「いい年したおじいちゃんなんだけどね、この家で産声をあげて、育てられ、家を誇りとして生きてきたって言ってたよ。この世に生まれて七十余年、共にあったこの家が壊されるのは忍びないって」
先刻誰もいなくなった町を見たメリーには、その老人の気持ちがわかるような気がした。
物がほとんど無くたって、あの家屋たちには人々が確かに生きていた証が刻まれていたのだ。享受されていた日常の息遣いを感じることができたのだ。
家は住んでいる人をそのままに表す。それは写真よりも雄弁に、人間の内面を映すものかもしれなかった。
「なんて言うか……寂しいですね」
「寂しい?」
メリーは膝の上に乗せた両の拳をぎゅっと握り締めた。
「ずっと一緒にあった住処なんですよ。それが取り残されて、誰にも看取られないで死を迎えていくだなんて……どうにかできないんでしょうか」
「……優しいな、メリーは」
妹紅は手元のキセルに視線を落とした。
「けれど、それはそういうものなんだよ。変われないものは置き去りにされていくのが道理なんだろう」
キセルを片づけながら、彼女は「変なこと言ってごめんな」と謝った。
妙に湿っぽい雰囲気だ。それを誤魔化すように妹紅は膝を叩いて立ち上がった。
「さて! このままここにいちゃ危ないし、そろそろ移動しようか」
「あ、はい」
メリーも立ち上がろうとするのだが、足が痺れてしまっていたのか、ふらついて倒れかけて地面に手を付きそうになったその瞬間――――――
「え?」
――――――彼女は消えてしまった。
マエリベリー・ハーンはソファーから転げ落ちていた。
見慣れた天井だな、と彼女はぼんやりと考える。ここは蓮子の家だ。
「……」
「随分とアクロバティックな寝相ね。どんな夢を見てたのかしら?」
皮肉っぽく蓮子は言う。彼女は特注の安楽椅子に座って、薄汚れた文庫本をめくっていた。膝にかけられたベージュの毛布と老眼鏡のようなメガネがどうにもババ臭い。
メリーは今まで自分がソファーで寝ていたことをようやく理解した。そして、自分の見ていた夢のことを思い出した。
「そうよ、夢を見ていたのよ!」
「でしょうね。レポート書かなきゃいけないのに、メリーったらぐっすりと眠ってるんだもの」
蓮子の皮肉も気にせずに、メリーは息を荒くして語る。
「違うの! 私は夢を見てたのよ!」
「はぁ……?」
興奮してまくしたてるメリーに対し、蓮子は怪訝そうに眉をひそめる。
「私、夢の中で境界を越えたみたいなのよ」
「ほほう?」
その一言は蓮子の興味を惹くのには十分だった。彼女は文庫本をわざとらしく音をたてて閉じ、安楽椅子ごとメリーの方に体を向けて身を乗り出した。
メリーは真剣な表情で話し始めた。
「蓮子にも話してあげる。小さな世界の終わりの話を」
妹紅の首筋を汗が伝う。目を閉じて周囲の霊力を探ってみるも人一人っ子いない。
あの娘は忽然と姿を消してしまったのだ。焦りで心臓が早鐘のように鳴る。
自分に気づかれないように、何処かに隠れられたとすると不味い。これから町を覆う激流に、あの娘が殺されてしまう。
しかし何の前兆もなく消えてしまうとはどういうことなのだろうか。あの胡散臭い妖怪のスキマや胡散臭い邪仙の壁抜けならば、それ相応の力が感知されるはずである。
「どういうことだ……?」
「勝手に帰っただけだよ」
「……ッ! 何だ、オババか」
部屋にはいつの間にか、二頭身くらいの小さな老婆がいた。薄紫色の着物を着て、手を後ろに組んで立っている。ちんまり、という擬音のよく似合う体型だ。
明らかに人間ではない。座敷童のお婆さん、と言った方がしっくりくる。
彼女がこの屋敷の化身、家神である。
「気づかなかったのかい? あの小娘は生霊だよ」
「そんな馬鹿な……どう見ても生きた人間にしか見えなかったぞ」
信じられない、といった表情で妹紅は、家神の老婆の顔を見つめる。
老婆は少し呆れたように言う。
「触れればすぐわかったはずだがね。まぁあの子は珍しい気を持った子だから、鈍感なアンタがきづかないのも無理はない」
「鈍感なのは長生きしたせいだよ。それより、なんで外来人の生霊がここに来たんだ?」
「さぁね。この里が一人で死ぬには寂しかったから、誰かに看取って欲しくて呼び寄せてしまったとか」
そう見立てる背の低い老婆を、妹紅は真っ直ぐに見ることができなかった。人里が水害で滅ぶということは、この家とその家神の老婆も一緒に死ぬということだ。
アンタも一人で死にゆくのが寂しいんじゃないか、と妹紅は思ったが口に出すことはできるわけがない。
土砂降りの雨の音が、やたらと妹紅にはうざったく聞こえた。
「さて、そろそろ里に膨大な量の水が流れ込む頃だ。不老不死とはいえ、わざわざ好き好んで土左衛門になることもないだろう。お前も早く新しい人里へ帰るんだね」
背中を向けてそう諭す彼女に、妹紅は拳をギュッと握り締めた。
この家は人里が作られたときからある建物だ。ひょっとしたらこの老婆は慧音よりも長く、人間たちを見守ってきたのかもしれない。
産婆に取り上げられて、母の乳を飲み、自分の足で初めて立ち、友達と遊ぶようになり、恋を覚え、嫁をもらい、家業を継ぎ、また新たに子を産み、その成長を見守って、最期は家族に看取られて死んでいく。
そういった繰り返しを、この老婆は何度も見てきたのだろう。妹紅と同じように何人もの友人に先立たれて、それでも人間を見守ってきた。
そういう家なのだ、ここは。
「……」
「どうした。ここは危ないから、早く帰んなさいよ」
振り返り、心配そうに告げる老婆を見て、妹紅は覚悟を決めた。
「この家、私が貰ってもい良いかな?」
「は?」
目を丸くする家神にむかって、妹紅は悪戯を思いついた子供のように歯を見せて笑った。
普段だったらこんな馬鹿げたことは言いださない。それはきっと、あのメリーとかいう少女のせいだろう。
人里が、家が滅んでいくという話に彼女が心を痛めるのを見て、妹紅もそれに影響されてしまったのだ。
「私がこの家を水害から守れたら、ここを私の家にしてもいいか、って聞いているんだ」
老婆は惚けたようにただ彼女を見た。明らかに彼女の目は本気だった。
しばしの間呆気にとられた家神だったが、「できるわけがないッ!」としわがれた声で叫んだ。
「そんなことができるものか! お前よりもはるかに強い大妖でさえも、水害相手には何もできないんだッ!」
自然の力は生半可なものではない。人里を災害から守れる妖怪がいるのならそうしている。
しかし天狗の風でも、鬼の怪力でも、大妖の結界でも、魔女の術をもってしても止めることはできない。それほどまでに水害における水の質量とは凄まじい。
あの馬鹿げた質量に立ち向かうくらいなら、ミサイルのシャワーにでも立ち向かう方が、まだやりようがある。
そもそも自然から生まれ、自然に寄り添って生きる妖怪たちが、それに歯向かおうというのがちゃんちゃらおかしい話だ。
「人里全てを救うのはむりだ。けれどせめて一件の家くらいなら、私程度でもどうにかなるかもしれないじゃないか」
ぎらついた瞳で不敵に笑う妹紅を見て、老婆はそれ以上強く言う事ができなくなってしまった。
半分諦め混じりに、もう半分はため息混じりに彼女は話す。
「この家から頑として動かなかったジジイが、それを認めなかったとしたらどうするんだい」
「そんときはジジイが家族に囲まれて幸せそうに大往生するまで待ってやるさ」
もう彼女を説得する事はできないな、と家神の老婆は完全に諦めた。
つまるところ妹紅はこの家が気に入ってしまったのだ。何人もの人間に先立たれながらも、ずっと人と共にあったこの古い家のことを。
永遠を生きる自分の住処としては、これ以上に相応しい場所はない。
「まあ、出来なくっても一緒に一回死んでやるから」
「随分と安い殉死があったもんだね」
皮肉っぽく老婆が言っても、妹紅はヒヒヒ、と笑うだけだった。
「な。私が住んでもいいだろ?」
「勝手にしな!」
背を向けて、家神は屋敷の奥の方へすっこんでしまった。
その肩がどこか嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「……ありがとう」
老婆の背中に向かって、妹紅はそう呟いた。
「よし、行くか」
妹紅はすぐさま外をへ出ようとする。
戸を開けると、風と雨が暴れ狂いながら家の中に入ってきた。人々が自然を神と崇めてきた理由がよくわかる。超常的な力が関わっているとしか思えぬない程の嵐だ。
これほどの豪雨は何年ぶりであろうか。比較的高い場所にある人里ですら、既に十数センチの洪水となっていた。
外に出たあと、一応戸をきっちりと閉めておく。
「いよっと」
飛沫を撒き散らして、妹紅は屋根の上に飛び乗った。川のある方向の端まで歩いて立ち止まる。
叩きつけられる風雨に目を細めながら、仁王立ちで妹紅はまっすぐ前を見た。気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな嵐だ。
屋根の上からは人里の様子が良く見える。この豪雨さえなければさぞ良い眺めであっただろう。
「慧音に見つかったらなんていわれるかな……」
きっとまたいつも通りの長々しい説教を喰らうのだろう。それでも紅妹は一切逃げる気はなかった。
もし彼女が妖怪であったのなら、こんな自然に歯向かうような愚行を犯そうとは思わなかったのだろう。
しかし妹紅は不老不死とはいえ、人間なのだ。外の世界では科学を振りかざして、自然と真っ向勝負を挑んで滅茶苦茶をしている愚かな人間なのだ。
彼女は幻想郷の中の住人ではあったが、自然を改変しようとする点は、程度の差はあれ中でも外でも同じだ。品種改良は大昔から行われていたことだし、森を拓き畑を作るのもある種の自然破壊だ。
そんな人間であるから、妹紅はこんな馬鹿ができるのだろう。
「お」
土砂降りの中で轟音が鳴り響くのが、何処か遠くから聞こえた気がした。
とうとう川が決壊したのだろう。
その証左に、人里へと膨大な量の水が流れ込んできた。ほぼ黒に近い濁流は家をぐしゃぐしゃにしながら此方の方へ突き進んでくる。
妹紅にはそれが涎をまき散らして半狂乱で突っ込んでくる怪物の群れのように思えた。質量という暴力は、普段慣れ親しんだ水を凶悪な大量破壊兵器へと変えてしまうのだ。
その光景は、世界の終わりを思わせるほどだ。
「来いよ……」
それに喧嘩を挑む阿呆が一人いた。
妹紅は札を構えて、真っ向から災害をにらみつける。迫りくる濁流に彼女は唾をのみ込む。
怪物や神といった言葉こそがあれにはふさわしい。あれは逆らってはならぬものだ、と本能が警鐘を鳴らすのを無視する。不思議と負ける気はしなかった。
メリーという少女がここに来た理由を妹紅は勝手に推測する。
きっと私をこの対決の場に引きずり出すことだったのだろう、と。そのためにあの娘はここに来たのだ。
濁流と妹紅の彼我が凄まじい速度で縮んでいく。勿論、里の建物を飲み込み、なぎ倒しながらだ。
札を持って振りかぶる彼女の体が、高められた霊力の影響で発光し始める。冷や汗と雨で体はすかり濡れてしまっていたが、彼女はぎらついた目は、まっすぐ前だけをにらみつけていた。
そして遂に、天災の魔の手が妹紅と古い家の寸前にまで迫る。
「――――――――――――ッ!」
暴れ狂う水が衝突する寸前、叩きつけたスペルカードがさく裂し、まばゆい光が視界を白く染め上げた。
竹林の中に、古い家が建っていた。
大分年季の入った、貫録すら感じられる日本家屋だ。その雰囲気は見るものに、周りの空気が澄んでいるかのように思わせる。
積み重ねた年月のせいか、柱などの木材の部分は黒に近いこげ茶色になっていた。
背の高い竹の葉が、その屋根に影を落としている。
その家に入っていく人間がいた。腰まで伸びた白髪と、赤いモンペが特徴的な少女だ。
「ただいま」
人気の感じられないその建物の奥から、おかえり、と声が聞こえた気がした。
「なんだ。オババも起きてきたのか。流石に年寄りは早起きだね」
「妹紅、お前も中々ババァだがね」
廊下を軋ませながら、随分とこじんまりした老婆がゆっくり歩いて出てきた。家神の老婆である。人気が無かったが、神の気配はあったようだ。
彼女の指摘に、妹紅は頭の後ろを掻いた。
「はは。確かにそうだね」
「どうせ朝ご飯食べないまま散歩に行ってたんだろう? 用意しといたから早く食べな」
妹紅はヒヒヒ、と笑って礼を告げる。
それを見て、老婆も呆れまじりに微笑む。
「ありがとう、オババ」
「どういたしまして、ババァ」
でも紅妹じゃないから。妹紅だから。
でも、メリーの出てきた訳がよくわからない
何かの伏線かな?って思ったけどそうでもなかったし
ただ、メリーの扱いがちょっと半端かなあ、と。
前半と後半、メリーと妹紅、現在と未来。それらをつなぐ、一点掘り下げられた要素があれば……と思いました。
秘封メインで終わるのかと思いきや、実はスポットが当たっていたのは妹紅の方だった、と。
なるほどそうきましたか。
メリーが消えてからの盛り上がり方は流石でした。
ただそれまでの全ての描写がそこのために描かれているのだろうということを考慮しても
少し前半部分がだれていたように感じました。