ご注意。以下引っかかる点がある場合は読まない方がいいと思います。
・この物語には、公式ではない二次創作設定がいくつも散りばめられています。っていうか話全体が二次設定です。詳細に切り分けは記載しません。
・神霊廟、豪族たちの創作過去話です。すごく何番煎じ感半端ないです。
・中途半端に百合です。基本軸はふとじこですが、みこふとでもあり、みことじでもあります。甘くもないですし、辛くもなく、ふんわりしていながら一般向けではなさそうな描写はあります。
・歴史上の人物の名前を拝借しましたが、兄弟関係など創作です。東方公式でもなく、史実でもありません。
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1.出会い
夏に差し掛かった春のある日。
木々が青々と繁り、葉の隙間から陽光が柔らかく降り注ぐ。
そんな爽やかな日、太子の屋敷の庭で二人は初めて出会った。
「物部のくせに。裏切り者か」
紹介された少女に向かって、屠自古は、小さな声で吐き捨てるように言い放った。
一瞬、周囲の人々に緊張が走る。
太子と、その少女を除いて。
「これはご挨拶だな。蘇我の」
物部の少女は、にやりと笑って流した。
物部の家と蘇我の家の対立関係は、都で知らぬ者はいなかった。
この時、両家の対立は頂点に達していた。
その両家から一人ずつ従者を取るなど、平等と和を貴ぶ太子にしかできないと、周囲の豪族達はこの日も感嘆の意を示していた。
その矢先に、この会話。
「お主は政には向かぬな」
「何?」
物部の少女はまたにやりと、人を食ったような笑みを浮かべた。
「感情を押し殺すことも知らぬ。もし我が、そのような安い挑発に乗る愚鈍であったなら、お主は即座にこの屋敷を去ることになっていたぞ」
「偉そうに……お前に、私を立ち去らせる権限などない。お前こそ、いつかその本性を暴いてやろうか?」
正に一触即発だった。
その時、二人の間に僅かに手が割って入った。
二人は同時に手の主を見る。
「まぁまぁ、落ち着いて。皆怯えているよ」
柔和な笑みを浮かべて、二人より少し背の高いその人は言った。
「はっ、申し訳ございません」
屠自古は慌てて一歩下がり、礼をする。
「これは。ご無礼を、太子様」
物部の少女もまた、笑みを隠して礼をした。
「まだ二人は出会ったばかりだし、せっかくだからいろいろ3人で話がしたい。私の部屋へ行きましょう」
にこにこと、太子、豊聡耳神子は歩き出した。
すぐに後を追おうとする屠自古の目の前に、すっと手が差し出される。
「そういうわけで、物部布都だ。よろしく頼む」
屠自古はその手を睨み、次に布都の顔を睨みつけて、そのまま歩き出した。
数日後、屠自古が神子の部屋に行くと、そこには布都だけがいた。
神子よりそのことを聞いていた屠自古は特に驚きもせず、当たり前のように布都から距離をおいて座った。
「物部がいよいよ仏教に異を唱えているそうだな」
「あぁ、そうだな」
布都は、読んでいる書より顔を上げず答えた。
「太子様は仏教を歓迎しておられる。お前、よくここにいられるな」
「関係ないな」
「……貴様、己の身を弁えているのか」
屠自古は思わず立ち上がった。
布都は書から目を離すと、不気味な笑みを湛えて屠自古を見上げる。
屠自古はその不敵さに怯みかけるが、奥歯をかみしめて怒鳴った。
「お前とて私にとっては物部、打つべき敵だ!」
「悪いがお主の意見など聞いておらぬ。我の命は太子様のものぞ。滅ぼすも、生かすも、それは我のものでもお主のものでもない」
布都の声は静かに耳に響いた。
屠自古は目を見開いた。
布都の言葉には、きっと嘘の心はない。布都の答えには己の命の心配は微塵もない。
あまりに真っ直ぐな姿勢に、ぞくりと背筋が寒くなった。
屠自古にとって、布都の在り方はまるで信じがたかった。
「……したたかなやつ。貴様は物部であるとかないとか関係なく、腹が立つ」
「そうか」
布都はふんと鼻で笑う。
屠自古はもはや怒りを隠さず顔を歪めた。
どん、と布都に背を向けて座り直すと、微かにくすりと笑う音が聞こえて、ますます腹が煮えた。
「我はお主が嫌いではないがな」
屠自古は床を睨みつけたまま答えなかった。
「あら?太子様はお留守?」
突然、部屋に二人以外の声が響く。
屠自古はびくりと振り返った。そこには、開かずの襖から女性がにこりと顔を出したところだった。
「これは青娥殿」
「頼むから、襖を開けて入ってきてください……」
「あらあら、これは失礼」
青娥、と呼ばれた女性は、にっこり笑ったまま、するりと襖を通り抜けた。
屠自古は立ち上がった。
「すり抜け生活に慣れてしまったもので」
「太子様は今は留守ですよ。もうしばらく待てばお戻りになられるでしょうが」
「ありがとう。ところで、不老不死の件、太子様はお考えくださったかしら?」
屠自古はぴくりと眉を動かすと、黙って青娥を見た。
「……方法はともかく、興味はおありだと思いますぞ」
代わりに答えたのは布都だった。
「あら、嬉しい。方法はいくつかありますからね。合うものを選んでいただければいいわ」
ふふふ、と楽しそうに笑う青娥を、屠自古は不気味な心地で見ていた。
「あら、蘇我様、そんなに睨まれては怖いですわ」
「はっ、ご冗談を。仙人様に怖いものなどありはしないでしょう?」
「こら、蘇我」
布都はたしなめるように屠自古に声をかける。
屠自古は視線を変えて布都を睨んだ。布都の態度すらも屠自古には気に入らなかった。
なぜ、この胡散臭い仙人に気を遣うのか、敬うのか。
神子も、布都も。
「心配なさらずに、物部様」
青娥は浮いているようにふわりと屠自古に近付くと、布都に見えぬ位置でその頬に触れた。
「蘇我様は随分と警戒心が強い。気が強いのも結構ですけど、身を滅ぼしても知りませんよ?」
「っ……!」
怒りを露わにする屠自古をからかうように、くすり、と妖艶に微笑むと、青娥は屠自古から離れた。
「では、また後程改めて参りますね」
「そうですか。では、また」
布都が見送る中、青娥はまた元来た通り、襖をすり抜けて外へ出て行った。
「……お主、あまり青娥殿につっかかるでないぞ。気を害したら何をされるかわからん」
「わかっている!」
「我らが道教を奉じ道術を会得せねば、表で蘇我が仏教を広める意味があるまい?」
「……わかっている」
屠自古は、開かない襖を睨んだ。
2.桜井寺、炎上
神子の屋敷の中も、どこかぴりぴりとし始めていた。
仏教を奉じるか否かで、豪族も大王家も真っ二つに割れようとしている。
そんな中、屠自古は静かに廊下を歩んでいた。
蘇我と、太子の利害は一致している。
屠自古はただ、神子の補佐をいつも通りしていれば良かった。
ただ、不穏なのはもう一人の従者のこと。
「……どういう神経をしている、あいつは」
もはや知らぬ者はいないというのに。物部が仏教に反対していると。
苛立ち気味に屠自古はしゃがみ、襖に手をかけた。
神子の私室であるそこには、すでに布都がいた。が、それは立ち去る寸前のところだった。
「頼んだよ」
「はい、お任せを」
短く、二人はそれだけ言葉を交わすと、布都は一礼して屠自古の横を過ぎた。
「我はしばらく空ける。太子様を頼む」
「あ、あぁ……」
突然のことに、屠自古は上手く返事できなかった。
入れ違いで部屋へ入った屠自古は、口元に笑みさえ浮かべている神子を見て、背筋がざわつくのを覚える。
「物部は、何の用でしょう?」
「秘密」
「秘密ですか……」
「すぐにわかるよ」
屠自古は眉を顰めながら、勧められるまま神子の前に座る。
布都が座っていた座布団。かすかに温かい。
「布都のことが心配?」
屠自古はびくりと肩を震わせ、
「ま、まさか!」
否定する。
神子はくすくす笑うと、
「屠自古は少しひねくれ屋ね」
そう言った。
神子は自らの心臓に手を当てて、目を閉じる。
屠自古はそれを複雑な表情のまま見つめていた。
* * *
数週間前から疫病の噂が聞こえていたが、ついに都にも到達したとの報はすぐに神子の耳にも届いた。
大王の謁見の間に神子が踏み入れると、大王は人払いをした。
「あなたに、聞きたいことが」
「はい」
神子は大王に近付く。
あと数歩のところで歩みを止めると、深々と礼をした。
「神子よ、仏教は悪しき教えだと思いますか?この流行り病は……神々の祟りというのは本当なのでしょうか」
神子は、神妙な面持ちで顔を上げると。
「大王様は、仏教の教えをどのようにお考えでしょう?貧しき者を憂い、衆生を救いたいと願う釈迦の姿は、悪しきものでしょうか?」
「とても、そのようには……」
「それに、民の平安を思う教えに我らが神々が怒られることがあるでしょうか」
「しかし、私達には、神々のご意志を計る手段がありません」
神子は顔を崩して、にっこりと笑う。
「私に考えがあります。流行り病の原因が、仏教のせいであるか否かを、神々に問うてみましょう」
* * *
蘇我が仏像を奉じた寺は、にわかに物騒な気配に包まれた。
警備に置かれていた蘇我の軍は、わらわらと慌てて正面へ集う。
「我らには大王の勅命あり!仏寺を焼き払い、祟りを鎮めるのだ!」
寺を囲んだ物部の軍から、大きな声が上がる。
それを聞いた蘇我の兵は、顔を見合わせる。
「ど、どういうことだ?」
「大王様が焼き討ちをお許しになったのか?」
「馬鹿な!物部の虚言であろう!」
迫りくる物部の兵を迎え撃つべく、蘇我の兵は慌てて鬨の声を上げた。
寺の裏手の林の中から、人目を避けるように寺へ進んでくる者があった。
正面の軍に気を取られて手薄な警備の目を盗み、寺へ近付いていく。
ちょうど死角となった場所で、小柄な影は立ち止まった。
「やれやれ、兄上は派手な戦が好きだな」
表の合戦の音を聞きながら、布都は懐から札を数枚取り出す。
呪術の言葉を唱えると、たちまち札は真っ赤に輝きだした。
「ゆけ、焼き払え」
布都の声に応じて、札は散り散りに飛んでいく。
すぐに、方々で火事の音が聞こえ始めた。
突然の火の手に、中から慌てふためく声も聞こえてくる。
寺の表は、火の手に気付いた蘇我の軍と、中からの脱出者とで大混乱となっていた。
容赦ない物部の攻め手に、戦意を失った蘇我軍はただ必死に逃げ惑うのみ。
少し離れ、すでに燃え盛る火の御殿と化した堂を、布都は見上げていた。
そこに。
「そこで何をしておる!?」
布都が振り返ると、蘇我の兵が槍を構えていた。
「貴様、物部の者か!?」
布都は答えない。
「まさか貴様が火を……許さぬ!」
兵は槍を構えて突進してくる。
布都は踊るようにふわりと交わすと、懐から兵の首元まで剣を振り抜いた。
「ぎゃあ!」
鮮血が舞う。
首を切られた兵がごとりと倒れ動かなくなったのを確認すると、布都は兵の着衣で剣の血をぬぐう。
袖と胴には返り血がついていた。
静かになったその場で、布都はまた燃え盛る寺を見上げる。
顔には安らかな笑みさえ浮かんでいた。
「……形あるものになど、意味はない」
「本当に、大丈夫でしょうか?」
寺からは離れた、大王の屋敷。
そわそわと落ち着きない大王とは対照的に、神子はゆったりと湯呑みに口をつけていた。
「心配いりません。この戦いは物部の勝ちでしょう」
大王は驚いたように目を見開く。
「では、寺は……」
「元々、我らの神々は、異教の全てに目くじら立てて病など広める方々ではない。さらに言えば、釈迦様は、貧しい人々と共にありたいと願った方です。そんな方が、誤った者達によって寺が焼かれたことに腹を立てて、八つ当たりなどまさか行いますまい」
神子は立ち上がると、寺があるであろう方角を窓から眺める。
「神々と我らの願いはいつも同じ。民が安らかに、国が安らかに、そして、大王家が栄えんことを」
そして、大王を振り返り、にっこりと笑った。
「病など偶然でしょう。神の祟りなどと、威を狩る狐の虚言です」
大王は、目を見開いた。そこには恐れの色すら浮かんでいた。
「あなたは、最初から……」
「本当に怖いのは、やはり人の子ですね」
* * *
寺の焼き討ち事件から数日が経った。
一向にやむ気配のない病の広がりに、豪族の中でも仏教と疫病との関係性を疑う意見が主流となっていた。
神子は私室で、屠自古が茶を淹れるのを眺めながら愉快そうに笑う。
「約束だからね。病が静まらなかったら、責任は物部が取ってくれるんだそうだ」
「全てを見越した上で、物部に許しを与えたのですか?」
「そうだよ。まぁ仏寺の一つや二つはまた建てれば良いからね」
屠自古は茶に集中するふりをして、下を向いた。
聞きはしなかったが、何となく察していた。布都を解放したのは、寺を焼くためだと。
あれだけ短時間での決着、そして全焼する程の火力。
布都の術の力があったことは明白だった。
そして、神子の筋書きはまだ終わっていない。
「仕上げだ。蘇我殿を呼ぼう」
「……伝令の手配をして参ります」
屠自古はすっと湯呑みを差し出すと、立ち上がり廊下へ出た。
神子の様子には、緊張は微塵も感じられない。
まるで、全て上手くいくことを確信しているよう。
「……どこまで、見通しておられるというのか」
屠自古は己が震えていることに気が付いた。
ぎゅっと拳を握ると、伝令係の待機する部屋へ向かって行った。
3.物部落つ
物部本家の屋敷は、あっという間に蘇我の軍に囲まれた。
神子が蘇我の頭領を呼んでから3日と経っていない。
鼠一匹逃がさぬ完全な包囲網を、じわじわと縮めていった。
陣中、屠自古は遠く見える蘇我の先陣と屋敷を、静かに見守っていた。
布都は結局神子の下に戻っては来なかった。布都は物部本家の頭領の妹君である。あの屋敷にいる可能性は高い。
「……お見捨てになるというのか……」
屠自古はつぶやき、それからうつむいて首を横に振った。
* * *
道中、神子は輿の中から全軍を止めさせる。
外へ出てみれば、すでに遠くには厚く長大な蘇我軍の包囲陣が見えている。
「随分と動きが早い……さては蘇我殿、気付いておられたか」
そう言って、側の者に急ぎ進むようにと指示した神子は、笑顔だった。
* * *
物部の屋敷は内外で騒然としていた。
不幸中の幸いは、先日の寺焼きのために集めた軍兵の一部が、まだ屋敷周囲に仮の陣を張っていたことだ。
だが、相手は一族郎党総出の規模。
屋敷の最奥の間で、頭領の守屋は苛々と歩き回っていた。
「早すぎる……早すぎる!太子と蘇我が共謀したのは明らかだ!」
傍らに控えた布都は、黙ったまま静かに腰を下ろしている。
すでに守りの指示は終えている。あとは、この包囲網を抜ける策を考えなければいけない。
守屋はふと足を止め、姿勢を崩さない布都を見た。
そして、思いついたようににやりと笑った。
「そうか、そうだ。あのように密集しておるのだから、さぞよく燃えるだろう」
布都は顔を上げ、守屋の意図がわからず首を傾げた。
「お主に頼もう」
「何でしょうか?」
「お主の術で、蘇我の軍を焼き払うのだ。崩れたところを一気に叩き、包囲網を切り抜ける。ここで真正面から戦えば、我らは確実に滅びる。抜けて形勢を立て直さねばなるまい」
布都は、無表情のまま兄を見上げていた。
守屋はくつくつと笑うと、しゃがみ、布都の頭をそっとなでた。
「父上には感謝せねばな。お主を神に仕えさせたのは正解であった」
布都は動かない。眉一つ動かさず、兄を見つめていた。
「そして、その異形の力は我のものだ。誰がお主を蔑み畏れ憐れの目で見ようとも、我は決してお主を見捨てぬ。なぁ、そうだろう?布都よ」
その瞬間、布都は腰の剣を引き抜き、守屋に向けて切りかかった。
守屋は床を蹴って後ろに跳び、その一撃を避ける。
顔には驚愕の表情が浮かび、さらに怒りへと歪んだ。
「……貴様、裏切るかぁ!」
布都は答えなかった。
守屋ははっとして、奥歯をぎりと噛み締めた。
「そうか、父上は正しかったが我は間違えたか。あの太子の下へやったのが間違いであったか!?」
「違う。兄上、あなたの誤りはとうの昔からです。……太子様は、関係ない」
守屋の顔が怒りに染まっていく。
「我が妹とて容赦はせぬぞ!裏切りは決して許さぬ!」
守屋は同じく腰の剣を抜き払い、布都に斬りかかった。
がちん、と金属のぶつかる音が響く。
自らよりはるかに大柄な兄の一撃に、布都の体は浮く。
「ぐっ……!」
「ていやぁ!」
守屋の突きが布都の右腕をかすめる。
布都は床を蹴って距離を取ろうとするが、守屋の歩幅ははるかに大きく逃げ切れない。
避けた刃は床を傷つけていく。
的確な狙いは体をかすり、切り傷の痛みと血の臭いが増えていく。
布都は歯を食いしばり、兄の剣を剣で受け流す。そして、急ぎ懐から札を取り出し兄に突き付けた。
「やらせぬ!」
「……!」
守屋は札を薙ぎ払う。
布都は一瞬、困ったように顔を歪める。
「終わりだな」
守屋は笑った。
しかし、次の瞬間、布都も笑っていた。
「そうですな」
どずり、と鈍い音が響いた。
守屋が目を見開く。布都の立ち位置は先刻と変わっていない。
だが布都の右手から、愛用の短剣が消えている。そして、それは赤い光をまとって守屋の腹を突き抜いていた。
「な……?」
守屋はがたがたと後ろへ後ずさる。そして、突き刺さった剣を引き抜きがらんと落とすように捨てた。
傷跡から血が流れる。
腹を押さえてがくりと膝をつく。しかし、自らの剣は強く握りしめたままだった。
「まだ、だ……」
そんな兄に対して布都は無言で札を投げた。
「ぎゃあ!」
守屋の口から悲鳴が上がる。札は守屋の腕に、足に、胴に張り付き、真っ赤に光る。そこからはずぶずぶと焼ける音と、煙が立ち上る。
守屋はしばらくのた打ち回っていたが、次第に床に転がったままになり、虫の息となった。布都はそれまでただ見下ろしていた。
動かなくなった守屋の側まで歩くと、血の海の中仰向けで目を見開いている兄を見下ろし、布都は口を開く。
「先に裏切ったのは、兄上ですよ」
「……」
守屋の口からはひゅうひゅうと息だけが漏れている。
布都はうつむく。握りしめた拳を震わせて、肩を震わせて。
「あなたにはわからぬでしょう。神々に捧げられた人間を待ち受けるものなど。人には触れられず、ただひとり暗闇の中、神々の声ともつかぬ声に怯え、体を勝手に這い回る感触に耐え忍び、変わっていく己の力を前に呆然と座り込む……そんな毎日が!」
次第に布都の声は激しさを帯びていく。そして、体の周囲に黒い気の渦がまとわりついていく。
「兄上、この布都の姿は、父上の選択は、正しいと思われるか?」
「……」
返事はない。布都は自嘲の笑みを浮かべる。
ぼん、と守屋の体が燃え上がった。
* * *
蘇我から見た火は、中から外から物部の屋敷を蹂躙していった。
外へほうほうの体で逃げてくる物部の者は、残らず斬られ、打たれ、捕えられる。
鎮まっていく火を遠くに眺める屠自古の耳に、ふと父への伝令が漏れ聞こえてきた。
「物部の屋敷から出た者は全て捕えました!争った者は斬りました」
「うむ。本家の生き残りはおるか?」
「はい。一人、守屋殿の妹君が」
屠自古は目を見開き息を飲んだ。
遠くからでもよくわかる、あの業火の中で。
生き残って捕えられたという。布都が。
屠自古はぎゅっと拳を握った。安堵とも戦慄ともつかぬ心地を押し込めるように。
屠自古は、つれてこられた部屋の襖を静かに開いた。
狭い部屋の中央に座す布都は、伏せていた瞳をわずかに開いた。
「……下がっていてくれ」
付き人を払うと、屠自古は中へ入り襖を閉じる。
そして、懐から札を4枚取り出すと、術を唱え部屋の四隅へ放った。
くすり、と布都が音だけで笑う。屠自古はそれを一瞥した。
「何が可笑しい」
「我とて、蘇我の腹の中から生きて逃げられるとは思わぬ。そこまで警戒するのか?」
「……私は、一応目付役だからね」
屠自古は眉をひそめたが、いつものようにやり合う気は起こらず、布都の目の前に腰を下ろした。
布都の両手は、後ろで一つに括られている。
本気を出せば解けないことはないだろう、と、屠自古は布都の顔を見つめる。
何を考えているのか、計りかねる。言葉の通り、敵陣の中央から逃げ出すのは厳しいと考えているのか。それとも、隙を狙っているだけなのか。
「貴様、実の兄が死んでいるのに、随分と平静なものだな」
布都の口元はにやりと笑みを浮かべる。
「兄上は太子様のご意志に反した。それも、自らの意志を貫くでもなく、ただ先祖の霊と父上の意志に流されただけ……当然の報い。あのような愚か者に、政はできぬ」
そう言うと、布都は顔を上げた。
屠自古は戦慄し、思わず身を引く。
布都の眼は虚ろだった。ただ、奥に暗く冷たい生気ではないものを湛えている。
くつくつと笑う姿に感情はない。
屠自古ははっとした。
「貴様っ!やらかしたな!」
がっと布都の首元を掴む。布都は抵抗せず、糸の切れた人形のようにかくりと持ち上がる。
「その手で、貴様はっ!実の兄を……!」
「……あぁ、いい目だ。お主のその目が我は好きだ」
屠自古は言葉を詰まらせた。
虚ろに笑う布都は、屠自古の眼を見つめて逸らさない。
「お主がそのように自らの奥から湧き出る憎悪を、隠しもせぬ憎しみの刃を我に向けてくれると、我は……生きている心地がする」
布都の声は穏やかだった。
「なぁ、屠自古。我は、まだ人の形をしておるか?」
「ふざっ……!」
屠自古の掴んだ手は震えた。
何を返すべきか、言葉が上手く紡げない。噛み締めた奥歯がぎりと音を立てる。
「ふざけるな!人でなければ何だというの!?思い上がるな!」
布都は虚ろな笑みを消す。
「お前は人だ!主のために兄を手にかけ心壊れる程度の弱く脆い人間だ!そうでしょう!?」
屠自古の声と気迫に、襖がびりびりと震えた。
つ、と屠自古の頬に涙が伝う。
布都は目を見開いた。押し殺した声で忠告する。
「……落ち着け……外に漏れるぞ」
「音は結界で塞いでいる!」
「なるほど……抜け目ないな」
「馬鹿にするな!」
「馬鹿になどしていない……」
屠自古は布都を掴んだまま、止まらぬ涙を振り払うように首を横に振った。
だが、涙は止まらない。
「なんだ……なんだ……なに、なによ……なんで止まらないの!?」
「我に聞くな……」
屠自古にはわからなかった。自分が涙を流す理由も、虚ろになった布都に腹が立つ理由も。
ただ、瞳から溢れる涙はどうしようもなく、その後しばらく、結界に守られた部屋で泣き続けた。
4.黒幕
動乱の日から数週間が経った。
政情は安定し、大王と蘇我氏に表だって逆らう者はいなくなった。
そして、変わらず大王の側に仕え続ける神子の後ろには、変わらず布都の姿があった。
あの日から屠自古は真実を口外してはいないが、噂はすぐに広まってしまうもの。
皆ひそひそと、目を盗んでは尾かヒレかも知れぬ噂に興じる。
布都が、一族を裏切って兄を手にかけ生き残ったということは、もはや周知の事実だった。
しかし、当人がそれを気にする様子は微塵もない。
布都は今日も、姿勢よく神子の後ろを静かに歩いている。
* * *
都の郊外に、神子は別宅を設けた。
道教との癒着が進むにつれ、都は何かと不便だったのだ。
別宅には、最低限の僅かな使用人しか置かない。
訪れても中に入るのは、神子当人と青娥、それから布都と屠自古だけだった。
屠自古は、目の前で書に目を通す神子をそれとなく観察しながら、隙を覗っていた。
なぜだか、布都は今日に限っていない。
屠自古にとっては願ってもいないチャンスだった。
神子が僅かに書から興味を逸らした時を見計らい、言葉をかける。
「……太子様は、まだ布都を信用しておられるのですか?」
神子は、特に動じた様子もなく、静かに書から目を上げた。
「そうだけど?」
神子の眼はいつものように透き通っていて、飲み込まれそうだった。
抗うように、屠自古は慎重に言葉を選ぶ。
「あの者は自らの一族を滅ぼしたのですよ。太子様のことさえ、いつ裏切るやも知れぬ……」
「私は布都の中身を買ってるの。皆が騒ぎ立てるような表層の出来事など、どうでもいいわ」
つまらない、といったように、神子は屠自古から目を逸らした。
噂を信じた愚かしさを指摘するような声色。
だが、屠自古は知っている。それが真実であり、まだ暴かれていない闇があることを。
「話はそれだけ?」
「……兄殺しなど、到底正常な精神でできるものではありません。あいつは狂っている」
「さぁ、どうかな」
「はぐらかさないでください!」
神子は、もう一度ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、屠自古は空気が張り詰めたのを察して、ぶるりと震えた。
普段の太子の柔らかい空気は、どこにもない。
屠自古はずっと感じていた違和感の正体に気が付いた。
この国の、真の王は。
この人の、真の姿は。
「あなたでしょう、布都に裏切りを命じたのは」
半分ははったりだった。確証は何もない。ただ、屠自古には、あれ程に布都を追い詰めるもは他にはないと思えた。
垣間見てきた布都の忠誠心は自分のそれとは違う。加えて、一族を離れて仕える覚悟の意味を屠自古は理解しているつもりだった。
「試したのですか、布都を」
「……いいえ。布都の忠誠心を疑ったことはない。ただ、もっとも有効な作戦を命じただけだよ」
神子は淡々と答えた。そこに感情は一切なかった。
屠自古は目を見開いた。
膝の上で握りしめた拳が、限界まで固くなっていた。
びり、と部屋が揺れる。
どこかで冷静な頭が、感情に流れるな、止めろと悲鳴を上げているが、屠自古はもう止まれなかった。
「あなたが!」
屠自古は立ち上がりざまに、懐に忍ばせた札を神子めがけて放った。
手を伸ばせば届くような距離。
しかし、暗い気を纏った札は宙を切って、奥の壁にどすんと叩きつけられた。
「!?」
「そう、それが君の本性?」
背中の中央に鈍い衝撃、それから首をがっと掴む冷たい手。
屠自古はうつ伏せで床に叩きつけられた。
首が縁側を向いて、はっとする。
立ち上がった時には確かに開いていた障子が、閉まっている。部屋は薄暗くなり、気温までも急激に下がったように、寒い。
くすくすと笑い声が背中に降る。
「ただの娘ではないと思っていたけれど……いい動きだ、布都にも負けないだろう。随分仕込まれていたんだね。全く、蘇我殿も恐ろしい方だ。自分の娘を暗殺者にするとはね」
「っつ!」
ぐり、と背の中央が押される。固いそれは、神子の腰に常に下がる剣の柄だろうか。
抑えられているのはそこと、首だけだった。しかし、屠自古は指の先一つ動かすことができない。
神子の発する気が、体中を縛り付けているかのようだった。
「あっ……あなたこそ……っ」
奇妙な仙人に帰依しているかと思えば、既に自らが仙人のような術の使いようではないか。
「ん?そっか、屠自古には見せたことなかったね」
「それが……あなたの信ずる道教のなれの果てですか……」
「半分正解、半分間違い。この異形の力は、生まれつき」
ぐ、とさらに背が押され、屠自古は思わず急き込んだ。
穏やかで優しい太子はどこにもいない。
殺される。屠自古は瞬間的に力を込めた。
ぱきん、と拘束が解けるような音が頭の中で鳴り響く。
屠自古は床に手を付き、体をひねった。
「っと」
勢いのまま入れた蹴りは、がつりと硬いものに弾かれる。
立ち上がり体勢を立て直した屠自古は、右手を神子に突き出した。
ばちりと音が鳴る程の電流が放たれる。
それは部屋中に駆け巡り、距離を取っていた神子に襲いかかる。
神子は、しっかりとそこに立ったまま剣を抜き放った。
電流は剣に触れた途端、霧散し消える。
屠自古は息を飲んだ。
神子は床を蹴る。人ならざる速度で迫る剣を眼前に、屠自古は避け切れない。
「っ!」
覚悟を決め、目を伏せた。
ちり、と咄嗟に守りに出した右腕に刃の焼けるような痛みが走る。
それから、また背に鈍い衝撃、床に叩きつけられる痛みが屠自古を襲った。
「太子様!」
たん、と勢いよく、廊下側の障子が開く音。
「こっ……これは……!」
紛れもない、布都の声だった。
屠自古は朦朧とする頭を向けた。
うつ伏せに押さえつけられる自分と、その上で剣を構えているであろう神子を見比べ、布都は目を見開いている。
「な……何が……」
「あぁ、いいところに来たね、布都」
神子は明るく言う。
「反逆者を、私はどうしたらいいと思う?」
「……こっ……殺すべきです。生かして蘇我へ戻せば……下手をすれば太子様の名に傷がつきます……それより、殺して、見せしめにすべきです!」
己の命を奪う提案をしている布都に、屠自古は怒りを覚えなかった。
それよりも、歯切れ悪く絞り出すように口にする布都に違和感を覚えた。
「そうだね、正解」
かち、と音が鳴る。
「でも、私は殺さない」
神子が剣を納めたことに気付き、屠自古ははっとした。
「元々、君は人質で、蘇我の間者で、使い捨ての駒だ。殺したところで蘇我殿には痛くもかゆくもないだろうね」
屠自古は黙ったまま、ぎりと奥歯を噛み締めた。神子の言葉は全て正しかった。
「それに、」
神子は一瞬、言い澱んだ。その一瞬は屠自古にも布都にも疑問を抱かせるには、短すぎた。
「君がいなくなると、私は結構困るんだ。これでも、君の力を買っているんだよ、屠自古」
ふ、と拘束する圧力がなくなる。
命を覚悟していた屠自古は呆気に取られたまま、床から動けないでいた。
そして、生き延びたことに気付くと、体中に張り詰めた気が抜ける。
そのまま、意識を失った。
5.裁く者
「我らの悲願のため、太子を監視しろ」
父と思しき男の難しい言葉に、幼い少女は深くうなずいた。
少女の周辺には、少女にふさわしいものは何一つ与えられなかった。
広い部屋の中には、大量の政治や歴史神話の書物、遥か太古より密かに伝えられてきた秘術の書、そして生活に必要な最低限な道具。
外から呼びに来るのは、身体術の訓練の師。
少女は一日中、それらを相手に閉じた世界を生きていた。
黙々と書物を読む姿を見守る者はいない。
時折外へ出ると、兄達の不躾な視線が待っていた。
「暗い」
「可哀想なやつめ」
「優秀なのだろうが……女でなければな……」
「使えるのか?」
蔑み、憐憫、乱暴な言葉。
突き刺す言葉。少女は苦痛を表には出さなかった。
ただ凛と背筋を伸ばして、父の元へ歩いていく。
ある日、書に目を落としながら、襖の向こう側で父と兄の一人が話しているのを聞き流していた。
「……まさか大王が女性、補佐の太子様も女性とは……目論見外れたのではないですか……」
「構わん。いや、むしろ好都合かもしれん」
低く淡泊ないつもの父の声に、少女は顔を上げた。
時が来た。
少女は笑った。笑顔の中で眼だけが鋭く暗かった。
少女は、この国の実質的な頂点に、世話役として送られた。
この日、すれ違う人々は皆一様に少女を驚きの顔で振り返った。
少女は笑顔だった。絶えず静かな笑みを浮かべ、父の元へ向かう。
兄の一人が、そんな少女に声をかけた。
「……お前、そんな顔ができたのか。できるなら、いつもしていれば良いものを」
兄の皮肉交じりな言葉を、少女は振り向きもせず答えた。
「兄上に向ける必要がないでしょう?」
「くくっ……ははっ!つくづくかわいくない!我が妹よ」
「……」
「精々懸命に働いてみせよ」
歩き去る足音に、少女は舌打ちを送った。
彼は父の跡を継ぐことを疑いもしない。
兄達の中でももっとも父に近く、次に自分を使うであろう人物。
「……今に見てろ。私は、誰よりも……」
少女は屋敷から出た。
外は快晴、少女は陽光の眩しさに目を伏せる。
出掛けるのではない、出ていくのだ。
目の前に広がる世界の広さに落ちていく感覚。
けれども少女は辺りをきょろきょろ見渡すことなどしない。
用意された輿に乗る。
少女はわかっている。
箱庭を出て、次に入るのは神の家。
輿は静かに動き出す。
新しい箱庭は、前の箱庭とよく似ていた。
ただ、空気は違った。少女は無意識に小さな深呼吸をした。
従者と共に静々と進み、奥の間で迎えた人は想像していたよりずっと小さかった。
年の変わらない少女が、背を伸ばして座していた。
少女は誰に言われるでもなく進み出で、畏まった。
「蘇我屠自古と申します。これからお世話をさせていただきます。行き届かないところもありますが、よろしくお願いいたします、太子様」
「屠自古、か……うん、よろしく」
太子はそっと微笑んだ。自らに向けられた柔らかく優しい笑顔。少女は少し戸惑いつつも、張り付けた笑みを崩さない。
少女は、屠自古は、柔らかい笑顔の奥にある欲に気付くことはなかった。
* * *
屠自古は布団から体を起こした。
まだ重い体。右に目を落とせば、布に巻かれた右腕。
ぼーっとそれを眺めて、先程の出来事を思い出す。
奥の間に寝かされていたらしい。数十分か数時間か、経った時間を計ることはできなかった。
「生きてる……」
ぽつりと落ちた。布団に染みたそれを、屠自古は呆然と眺めた。
安堵か、不安か、絶望か。はかり知ることはできなかった。
「入るよ」
外から声がした。
屠自古が答える前に、襖は静かに開き神子が姿を見せる。
「あぁ、起きたのね。加減はどうかな?……って、私が聞くのはおかしいね」
「まったくです。……どなたのせいですか」
「はは、ごめんね。少しやり過ぎちゃった」
神子は笑いながら、屠自古の近くへ座した。
主君が見舞ってくれているという無礼を考えられない程、屠自古は混乱していた。
目を合わせることができない。
体が震える。右手の傷がうずく。見せつけられた力、殺気、何よりも神子の隠し持つ闇に、体が反応を示す。
かつての父の言葉が、頭の中に木霊する。
『我らの悲願のため、太子を監視しろ』
その真の意味を理解していなかったのではないか。
父は知っていたのか、この人の正体を。
大王ではなく、この人に送ったということは。
―――私は、太子を消すべきだったの?それとも、懐柔して蘇我と共に歩ませるべきだったの?
―――けれども真実は逆だったじゃない。懐柔され筋書き通りに歩かされているのは、我らの方だった……
―――何にせよ、私は間違えた。私は父の言葉よりも己の感情に従った……
「私が、怖い?」
神子の声に、屠自古は我に返った。
顔を上げれば、真剣な神子の顔。思った以上に近い瞳に、屠自古は目が離せなくなる。
「君は信じていないね、君の力を買っていると言った私の言葉を」
「……わかりません。もう、何を信ずるべきか、私にはわかりません」
「……そうか」
神子は傷ついた屠自古の手を取る。
「本心なんだ。屠自古は、とても公平で澄んだものの見方ができる。家も、身分も関係なく、悪に対し怒ることができる。それはとても難しいことなんだよ。布都にだってできない。あの子は、私に刃を向ける事なんてできないだろうからね」
語りながら神子は、屠自古の右手にそっと口づけた。
「それは君の心にとても重い負担を強いている。重い選択を強い続ける。君は生まれた家も、主君も、神すらも、無条件に信じることはできないだろう。けれども、どうか失くさないでほしい。これは私の我儘だけれどもね」
神子は顔を上げる。その顔は悲しそうに笑っていた。
屠自古は、かつて聞きし噂話を思い出した。
―――太子は十人の願いを一度に聞き届けられた。
そんなまさか、と一蹴していたが、屠自古は気が付いた。
太子は、十人の声を聞き分けたのではない。
「……あなたの、生まれながらの力というのは、それですか?」
「!」
「私の考えていることを、読むことができるのですか?」
「……少し当たってる、けど少し違う」
神子が右手を握る力が少し強くなったように思えた。
布越しに伝わるぬくもりに、屠自古は胸の奥から込み上げるものを感じる。
「私には、人の欲が聞こえる。魂の声と言えばいいのかな。今考えていることを読めはしないよ」
屠自古の中で欠片がぴたりとはまっていく。違和感の正体、謎の答え。
「この力はうってつけだと思ったよ。私のような若輩が人を動かすなんて、そうでなければできやしない」
神子は両手で屠自古の手を握った。
「私は、強い国をつくりたい。強い国は王だけではつくれない。君達や蘇我殿のような有能な家臣が必要だ。それに、民が心安らかに主君を信じることも必要だ。でも、そんな国を維持するのには、とてつもない力が必要だと知ってしまったんだ」
神子は包んだ両手に頭を下げる。
屠自古は目を見開いた。
「……そのためにどれだけ手が汚れようとも、私はそれをなしたい。でももし、その道に反することを私がしていたら、君が私を裁いてほしい……屠自古」
ぱたぱたと布団に滴が落ちる。
神子が顔を上げると、屠自古の瞳から涙が溢れていた。
必要とされたくて走ってきた道のりを思う。
全てが崩れ去った、終わったと思った。
何を信じても、最後には自分で手をかけてしまう。
寄りかかることができなかった。
それが己を滅ぼしてしまうことになっても。
凶つ存在、いつも一人。
数々の葛藤と押し込めた刃を全て抱き締められたような気がした。
「だから、君はそのままでいてよ、屠自古」
6.腹の中
静かに雪が降り行く最中。障子に映る影を横目に、神子は廊下を静々と進んでいく。
少し後ろには、音もなく布都が控え歩いていた。
背後から聞こえる声は、皆二人よりも二回り以上も年上の男性ばかり。
大王と神子が退室した後のそれは、神子にだけいつも聞こえていた。
「この国を動かしているのは、誰だと思う?」
神子は徐に口を開いた。
布都は、わずかに首を傾げたが、間髪入れずに答える。
「大王様と、蘇我様でしょう」
神子はそれを聞いて、含みのある笑みを浮かべる。
ちらりと目を滑らせる。重さのまま降り続ける雪。
「そう。それでいい」
段々と、男達の声が聞こえなくなっていく。
静かな廊下、微かに聞こえてくるのは、後ろを守る部下の鼓動だけになった。
癖になってしまったのか、よくよく集中しないことには聞き逃してしまう、微かな声。
布都のそれは、神子にとって心地よいものだった。
布都は一途に自分のために働いてくれる。そこには一点の嘘も、混じり気もない。
なかった、はずだった。
「布都、屠自古は?」
「外の屋敷におりますよ」
「そう。もう体はいいのかな?」
「さぁ……あやつは強がりですから。上辺はどうともなさそうです」
「そう。屠自古らしいわね」
「あやつはもう少し、愛想というものを学んでも良いかと思いますが」
「あれ?外では愛想よくしているよ?」
「む!?……では、太子様や我にだけ……むむ、無礼なやつめ……」
「素直に喜怒哀楽を出してくれている、嬉しいじゃない。布都は、屠自古が嫌い?」
他愛もない会話の中に投じた一石。布都の答えが初めて止まった。
欲の声が、小さく小さく軋んでいくのに、神子は耳を澄ます。
「……嫌いではありませぬ……が、不安になります……」
「屠自古が、蘇我だから?」
「いえ、それよりも……あやつ自身の気質です。あやつは聡すぎる上に、素直すぎる。またいつ太子様に牙を剥くやもしれません……」
ぎしぎしと噛み合わない音に、神子は微笑む。布都には見えぬ角度で、悲しそうに。
「そうね……次にああなったら、布都に始末してもらおうかな」
「……ご命令とあらば」
ぎしり。
神子は嘆息した。
7.酒盛り
季節は過ぎ、春を越えて夏になった。
ある蒸し暑い夜更け、神子は仙人と共に闇の中へ消えて行った。
そう遠くはない、しかし見えぬ主に、布都と屠自古はまんじりともせず屋敷で帰りを待っていた。
お互い同じ部屋へ詰めて無干渉。少なくとも屠自古は、そのまま夜が更けると思っていた。
神子に許しを得て借りた書を読み進める。
ふ、と、布都が部屋を出て行ったことを気配で感じた。
顔を上げると、襖を開ける後ろ姿が目に入る。
「おい、どこへ行く?」
布都は振り返り、にやりと笑う。
「少し小腹が減った」
屠自古は嘆息した。
部屋へ戻ってきた布都は、片手に酒の瓶、もう片手に軽いつまみと猪口を持っていた。
「器用なものね」
「指先だけはな」
布都は時々、屠自古に対してだけ自嘲のような言葉を吐くようになっていた。
いつも屠自古は黙ってかわした。
「夜は長い。まぁ、一杯やろうじゃないか」
布都が差し出した猪口を、屠自古は諦めたように笑って受け取った。
とくとくと、酒が猪口を満たしていく。
少し白く濁った酒に、無表情な顔が映る。
「お主は本当に陰気じゃな。酒持ってそんな陰気くさい顔をするものなのか?蘇我殿は」
「うるさい。お前が能天気すぎるのだ」
「ふふん。自信に満ち溢れた我に嫉妬するなよ」
「するか」
布都は楽しそうに笑うと、自ら手酌で酒を注ごうとした。
すかさず、屠自古がそれを奪う。
「……貸はつくらない」
布都は一瞬、呆気に取られたが、すぐにくつくつと笑った。
この日、布都はいつになく饒舌だった。だが、酒が進むにつれて口数が減っていく。
ついに、二人の間に会話が途切れた時。ふと、屠自古は気になっていたことを漏らした。
「……なぁ、布都」
「なんだ?」
「お前は……私がまた太子様に逆らったら、お前は、私を殺すか?」
布都は目を見開いた。
屠自古ははっとして、思わず猪口を取り落す。空になったそれは畳の上にことんと小さな音を立てただけだった。
緊張が流れる。
屠自古は猪口を拾いながら、うつむいて唇を噛み締めた。
「……すまない」
酔っている、と屠自古は思った。あの日以来ずっと抱いて来た問をなぜ今、うわ言のように漏らしてしまったのか、自分でもわからず戸惑っていた。
久方ぶりの酒のせいに違いないとかぶりを振った。
顔を上げると、布都が猪口に口を付けて、ゆっくりと酒を流し込んでいた。
ひどく緩慢な動作に思えた。手が震えているように見えたのは、気のせいだろうかと屠自古は思わず布都を凝視した。
「……そう、だな」
酒を飲みほした布都は、それだけ固く答えた。
「……太子様の行く道を阻む者は、我は、全て斬る」
「そうね……くだらない質問だった、忘れて」
「だが、その後どうなるかは我にもわからぬ」
今度は屠自古が目を見開いた。
布都は斜め下を見やりながら、か細く続ける。
「我も、時々迷う。……だが、そういう時はいつも立ち返る。己の真の願望に……」
手元が危うい、と屠自古は感じた。
酒の瓶に伸びた布都の手を、咄嗟に掴んで制する。
「もうその辺でやめておけ。……お互い、飲み過ぎた」
気付けば空の瓶が二本転がっていた。三本目に伸ばした手。思わず身を乗り出して掴んだことで、二人の距離が縮まった。
屠自古は思わず息を飲んだ。これ程布都に近付いたのは、物部が滅びたあの晩以来だろうか。
あの晩。虚ろな布都の笑いを、意味も解らず泣き続けた己を、思い出す。
布都はあの日以来、自嘲気味に笑うことはあっても、常に目には生気を湛えていた。
あの日が嘘のように。
「嘘であれば……よかったのに……」
屠自古は布都の手を掴んだまま、ぽつりと呟いた。
布都がそれをどう解釈したのかは計り知れなかった。しかし、布都のゆっくりとした動きをただ見つめていた屠自古は、次の瞬間固まった。
掴まれたのと逆の手で、掴んでいるのとは逆の屠自古の手を布都は取った。
そして、手の甲にそっと口づけた。
酒に酔い熱くなった手に、ひやりとした柔らかい感触が残って離れる。
屠自古は呆然とそれを見ていた。
布都は顔を上げると、いつものにやにや笑いもせず、真面目な顔で言った。
「なぜ拒まぬ」
その言葉に、屠自古ははっと我に返る。
「い……ち、ちがう!不意打ちに戸惑っただけだ!」
咄嗟に出た言葉に、また何を言っているのだと頭を抱えたくなる。だが、振り払う気にもなれず、じっと離してくれる時を待った。
「は、離して……」
「それを言うならお主が先に離せ」
「もう飲まないと誓え」
「いや、まだ足りぬ」
「ばっ……お前、その様子、強くないでしょ!?もうやめておきなさい!」
「ならば……お主が救ってくれるか……?」
ほとんど掠れるような声は、屠自古の耳にはっきりと届いた。
そして、掴んだ手をぐいと引かれて、そのまま倒れ込む。
「ちょっ……」
咄嗟に己が掴んでいた手を離して、布都の肩につく。
布都との顔の距離が、息遣いを感じられる程に近付く。
心臓がばくばくと音を立てているのが自分でもわかった。
「な、何を……」
屠自古は布都の眼を覗き込んで、背筋をぞっと震わせた。
虚ろで暗く、あの晩を思い出させる深さでありながら、どこか悲しげで必死に何かを押し殺しているような、深い鳶色。
落ちる感覚に囚われる。
耐え切れず、焦ったように屠自古は目を逸らした。
瞬間、布都の気配が変わった。
屠自古ははっとして布都をもう一度見たが、もうその瞳には暗く深い色は見当たらなかった。
「すまぬ。やはり呑み過ぎたようだ」
「あ、あぁ……」
「忘れてくれ」
布都は屠自古の手を、ゆっくりと放した。
放された屠自古の手が微かに宙を掻く。
先程の、熱すらも奪われそうな距離が嘘のように、布都との間に埋まらない空白ができる。
―――あぁ。閉ざされてしまった。
それは、屠自古にとって悲しいことのように思えた。
なぜ悲しいのかわからなかった。
8.異形の子、異形の手
屠自古がそこに座っているだけで、そこはまるで鳥かごのように思えた。
自らが座している時には、そのようなことは微塵も思わない。
彼女が、蘇我からの人質のようなものだからだろうか。一見、権力に流される儚い少女のように見えるからだろうか。
神子のいない部屋で、静かに座して書を読み耽る姿を、布都は襖の向こうからそっと盗み見た。
嘆息する。
彼女の心配など、する必要はないのだ。
布都は襖から音もなく離れた。
「……お主は、太子様の下で働くべきではない」
自然と口をついて出た言葉に、また嘆息する。
「なぜ逃げぬ」
それは、己に語りかけたのか、それとも彼女に語りかけたのか。
聞く者のいない言葉は廊下に消えて、布都はただじっと自らの手のひらを見つめた。
あの晩のことが、蘇る。
兄の剣をへし折り、この手でその膝を床につかせ、火を放った。
血と、木材と、人の焼ける臭い。
そして、断末魔の叫び声。
どれも鮮明にこびりついて離れない。
「……だが、我は人の形をしている」
布都は自嘲の笑みを浮かべて、手のひらを握った。
「いっそこの手が異形ならば、苦しまずに済むかもしれぬな」
救いを求める声はひどく震えていた。
* * *
白装束に身を包んだ少女は、がらんと広い堂の真ん中に一人座していた。
堂にあるのは、わずかな生活用品と、捧げものの農作物、酒。
少女は目を閉じた。ただ時を待った。
不意に堂の空気が変わる。部屋の隅に置かれた火が、ひとつ、またひとつと消えていく。
少女は身を震わせた。
堂の中におどろおどろしい声のような音が駆け抜ける。
中に木霊し、外から呼びかけるように。
次に、どんどんどん、と堂の扉や壁を叩く音が響いた。
少女は震えたまま、動かない。
何かが堂の中でうごめいていた。やがて、迫ってくる気配は感触に変わり、少女の肩に生暖かい何かが触れる。
「ひっ……」
少女は必死で奥歯を食いしばる。隙間から漏れ出る悲鳴。
耳元で何かぼそぼそと呟く声が聞こえる。少女はがたがたと震え、歯を食いしばり、膝の上の握りこぶしを強く強く握った。
聞き取れない声は終わらない。
やがて体中を包み込まれるような感触に、耐え切れず少女の意識は闇に落ちた。
少女が目を覚ますと、堂は元の空気に戻っていた。
ただ、火が消えたまま。やがて目が慣れてくると、周囲の捧げものがいくつか消えているのがわかった。
ほっと息をついて、いつの間にか流れていた涙の後をぐいと拭い、よろよろと立ち上がると、布都は堂の扉をそっと引き開けた。
少し時は経ち、布都は兄と共に神子の前に立っていた。
怯えた目つきを隠すこともなく、兄の後ろで、兄の服の裾を掴んだまま硬直していた。
「先日まで神に仕える身だったもので、世間知らずの怖がりなのですよ」
兄の声が、少し困ったように、また申し訳なさそうに、そう説明する。
「そう。よく、がんばったんだね」
顔を上げると、少し背の高い神子ににこ、と微笑まれた。
それを見た布都の肩の力が少し抜けた。
神子は立ち上がると、布都の目の前まで近付く。
布都は、畏れるように少し後ずさった。
「私は豊聡耳神子。これから君は私の従者になるんだよ。よろしくね、布都」
「……は、はい、よろしくお願いします……」
小さな声だった。
神子は布都の手を、そっと握った。
瞬間、布都は弾かれたように顔を上げ、神子の顔を見つめ、また手を見つめた。
神子は、ただただにこやかに微笑んでいた。
守屋が去り、二人きりになる。
「すごいね。手を握っただけでわかっちゃったの」
「あ、あの……!」
「そう。私には特別な力がある。君と同じように」
神子はそっと、布都の頭に手を乗せて、優しく撫でる。
「苦しかったでしょう。辛かったでしょう。一族全ての平安の代償に、神々と触れ合うのは。大丈夫、もうあの場所には戻させはしないよ」
布都は目を丸くした。そして、徐々に顔がくしゃりと歪んでいく。
「代わりに、」
神子は撫でる手を止め、布都の耳元でそっと囁く。
「その力、これからは私のために使うんだ」
何も聞かず、布都はただ黙って無抵抗にこくりとうなずいた。
9.背中
その日は、屠自古はいなかった。珍しく蘇我の家に戻っていた。
外は雨。ここ数日ずっと続いている。
こう、続かれると、嫌でも気分が落ちる。
ただ、それとは関係なく。
「太子様、お疲れですか?」
書を整理する手を止めて、布都は振り向きざま尋ねた。
「……そうだね、少しばかり」
書の中身に目を通していた神子も、顔を上げて答えた。
「蘇我がうるさくてね……さすがの私も少し辟易しているよ」
「そうですか……我の力は必要ですかな?」
「いや、大丈夫。屠自古が少し動いてくれている」
「屠自古ですか……」
布都は顔をしかめた。
「あやつの言葉を聞きはしないでしょう、蘇我の者どもは」
「直接はね。大丈夫、屠自古は賢い子だ。策を持ってるよ」
神子は立ち上がると、おもむろに布都に背中を向け。
「よっと」
寄りかかった。
布都はそれを難なく受け止めると、はにかんで。
「少しお休みになりますか?」
「ううん。いい。これがいい」
「我の背中では、心地悪くないでしょうか?」
「そんなことないよ。暖かくて、気持ちがいいよ」
「……有難きお言葉」
「ねぇ、布都」
「はい?」
神子の視線の先を追う。
しとしとと降り続く雨の中、紫陽花が庭に咲き乱れている。
「千年後も、ああして紫陽花は綺麗に咲いているのかな」
「どうでしょう。我には難しい問です」
「咲いていてほしいなぁ。紫陽花。綺麗なものは、綺麗なままでいてほしい」
「そうですな」
「ねぇ、布都」
「はい」
寄りかかる背中が重くなった。
いつになく弱い声、気配に、布都の顔にも少し緊張が走る。
「ずっと傍にいてくれるよね?」
「もちろんです」
布都は即答した。この手の問は、初めてではない。
初めてではないし、聞かれるまでもないが、いつ聞かれても布都は一点の曇りなく答えるつもりだった。
「約束だよ?」
「どうしたのですか。今日は、いつになくお言葉が弱いですな」
「怖いんだ」
苦笑しかけた布都は、息を飲む。
「怖いんだ。どうしようもなく、怖くなる、時々。全て聞こえてしまう耳も、全て思い通りになってしまう手のひらも、異形の力も。本当に私はまだ人間なのかなって、孤独になる」
布都は視線を床に落とした。
整理しかけた書が散らばる床。
どれだけの知識を詰め込んでも、消し去ることができない傷がある。
初めて出会った日のことを思う。
握られた瞬間、全て悟った。この人は自分と同じだと。
そして、それでもなお崇高な使命を全うしようとしているのだと。
その手を自ら離すことなど、決して考えられない。
「大丈夫です。布都がおります。ずっとずっと」
「うん」
神子は答えたが、その真意は布都にはわからなかった。
外を見ると、変わらずしとしとと降り続く雨。
「ずっとこうしてたいな」
「太子様がお望みならば、いつまでも」
「布都、疲れない?」
「なんの。半端な鍛え方はしておりません」
神子が声を上げて笑った。振動が背中を伝う。
布都も自然と笑みを浮かべて笑った。
10.ひと時
夏と秋の境目。暑い日差しが陰りを見せてきた、晴れの日。
神子の別宅は静まり返っていた。ただ、一部の部屋を除いて。
この日、神子は布都と屠自古以外の人間に暇を出した。
夕食の時間が近づき、屠自古が並べた料理は3人にはやや余りある量だった。
「おぉ……すごいね」
それを目にした神子は、ごくりを唾を飲み込んだ。
「屠自古は料理までできるの……」
「大したものではありません……その、お口に合えばよいのですが……」
「見るからにおいしそうだよ。君はどれだけ器量がいいんだ……」
「そっそんな」
「私が男なら、喜んで嫁に迎えたのに」
「なっ何をおっしゃってるんです!?」
慌てて真っ赤になる屠自古に、神子は声を上げて笑った。
夕食を食べ、酒を少し飲み、夜が緩やかに過ぎていく。
外から聞こえる虫の音に秋を感じながら、屠自古はふと横を見やり。
手酌で酒を注ぎ足す布都に、呆れたように目を細めた。
「おい、布都、飲み過ぎだ」
「そんなことはない」
「太子様の前で失態犯しても知らないぞ」
「何を!?我はこう見えても強い!失態など犯すものか!」
「へぇ……」
いかにも胡散臭いものを見るような屠自古の視線を受けて、なお布都は胸を張って言った。
「おいしいよねぇ、これ」
そんな二人を見守りながら、神子は盃を空ける。
「屠自古、これどこで手に入れたの?」
「あ、はい、兄上の蔵から拝借しました」
「お主、器量は良いが手癖は悪いの……」
「うっうるさいわね!」
屠自古はぐいと盃を空ける。
「いいんだ、散々私を馬鹿にしてきたやつらにこれくらい。かわいい仕返しだ」
「あはは、いいねぇ、そういうの好き!よくやった、屠自古!」
「あ、ありがとうございます……?私は褒められていますか……?」
「褒めてるよ?」
「……」
「疑ってる?」
「いえ……」
「顔に書いておるぞ?」
「うん」
二人から口々に言われ、屠自古は顔を逸らした。
「お主は本当にわかりやすいの。まるで雷のようなやつじゃ」
「ど、どういう意味よ」
布都はからからと笑うと、屠自古を指さしさらに笑う。
「盛大に光るくせに、音は数刻後」
「全くわからない」
「つまりな、感情が顔から先に表れる、そのくせそれを表に出して良いか悩むから、口に出すまで数刻ずれる!もう遅いわ、ばればれじゃ!」
布都の言葉に、屠自古の顔は徐々に怒りを帯びて行った。
「う……うるさいなぁ!」
「ほんとだ!」
「太子様!?」
「あ、ごめん。ごめん。睨まないで!」
「……もうっ!」
屠自古はむくれて顔を逸らし、笑い声を横顔に受けながらふと思う。
かつて、このような輪に己が混ざる光景を思い描いたことがあっただろうか、と。
まるで、普通の友のように、酒を酌み交わし、笑い合う日など、自分には来ないと思っていた。
ましてやこの二人と。
ふ、と、密かな願いが首をもたげる。
この日々がこのまま永遠に続けばいいのに、と。
それが叶わぬことも、よくわかっていた。
11.別れ道
紅葉の舞い散る道を、屠自古は脇目も振らずに疾走していた。
都の郊外の、人気のない地区へ向かう。
そこには、布都の自宅があった。
「永遠の命を得るために、一度、死ぬよ」
神子は、淡々と、微笑すら浮かべ屠自古にそう告げた。
微笑の奥を読み取ろうと、屠自古は必死にその目を見た。
見たが、それよりも先に手段への疑問と怒りが噴出してしまった。
がっと、屠自古は神子の首元に掴みかかる。
神子は抵抗しなかった。首元を掴まれたまま、静かに屠自古を見下ろしていた。
ぎり、と奥歯を噛み締めながら、屠自古は押し殺すように小さく言葉を発した。
「保障は、あるのですか……」
「保障は、ないね」
「布都は……」
「……布都は、私について来てくれると、言ってくれた」
「っ……!」
屠自古は、神子を掴む手を震わせた。
「……それが、あなたが目指す、平安を保つための、力を得る手段ですか……?」
「そうだね」
「そう、ですか……」
屠自古は神子から、震える手を離した。
神子の顔から笑みが消えた。
「屠自古?」
屠自古はうつむいて拳を強く握った。
「私は、その方法に賛同することはできない……けれども、ここであなたと口論することに意味がないことを、知っています。だから」
息を切らして、門の戸を押し開けた。
一人で住むには大きく、名のある豪族としては小さな家は、ただ一人の気配しかしない。
屠自古は断りもなく踏み込んだ。
ここに来るのは初めてだった。
それでも、隠しもしない気配をたどって真っ直ぐに庭を、廊下を進んでいく。
「……不躾だな。蘇我は、人の家に入るに許可を取らぬのか?」
部屋の中央で背を伸ばし胡坐をかく姿は、一点の曇りもなく。
澄んだ目でこちらを見た布都に、屠自古は札を投げつける。
ばちりと放電の音と共に、それは布都がいた床を焦がした。
「その上言葉もなく襲いかかるか……まったく、お主はいつもそうだな!」
背後から聞こえた声に驚きもせず、屠自古は振り向いて抜き放たれた剣をかわす。
「先に言葉で言うてみよ。お主と今戦うのは、本意ではない」
布都は剣を構えたまま、屠自古に語りかけた。
屠自古は怒りを隠さず顔に出したまま、しかし静かに答えた。
「太子様の計画を、なぜ止めない?」
「……聞いたか」
「なぜ、止めないの?」
「止める必要があろうか……太子様は、真の王になられるお方だ。その一歩をようやく踏み出せるというのに」
「では、なぜお前は止まらない!」
屠自古の手には次の札が幾重も現れる。
周囲にはばちばちと光が走った。
「お前が止まれば太子様は止まった!」
「……だから、我は止まらぬのだ」
布都は隙なく剣を構え直して。
「太子様をひとりにするわけにはいかぬだろう?」
布都はこの場に似つかわしくなく、にっこりと笑った。
どん、と地を揺るがす音と共に、布都の体が襖を突き破った。
とんと身軽に降り立った体に、雷が迫る。
布都が剣を振るうと、雷はばちりと火花を散らして消えた。
「ちっ……」
しかし、布都は舌打ちする。雷を切り裂いた反動が、小さな体を宙に浮かせる。
布都は動きを止めない。宙で体勢を整えるとすぐに地面に降り立ち、また次々と場所を変えながら向かい来る札を掻い潜り剣で切り裂く。
ひゅん、と耳元を風切る音が過る。音と同時に、手足に痛みが走った。
鮮血が、舞う。
「まったく、容赦ないな……」
布都は諦めたように笑った。
屠自古は庭に降り立つと、懐から小剣を取り出した。
「容赦などするものか。お前の力は……よく知っているのだから」
屠自古の脳裏に、遠くから眺めた燃え落ちる寺が過る。
ずっと、疑問だった。あのようなことを、なぜ表情一つ変えずにやってのけたのか。
本当に、この少女にそのような非情さが備わっているのか。
「ははっ。悲しそうな顔をするな。これから殺そうという相手に」
「殺す……」
布都の言葉に、屠自古は一瞬ためらいを覚えた。
布都は目を細める。
「……だから、お主は向かないのだ」
屠自古ははっとして、動き出した布都に小剣を投げた。
1本、2本、3本。布都の周囲に円を描くように、地面に刺さっていく。
そして、札を構え。
「私には私のやり方がある!」
じり、と鼓膜を震わせ雷が庭を駆け巡った。光は庭の木々を焼き切りながら、地面の剣と剣の間を、屠自古の構えた札と剣の間を、縦横無尽に駆ける。
「くっ……!」
ちり、と飛散した力が屠自古の頬をかすめて傷を作った。稲光が、聴覚と視覚を埋め尽くす。
ばちり、手ごたえを感じた。
「やっ……!?」
しかし屠自古の視界に入ったのは、稲光の中地面に刺さった一刀の剣だけだった。
ばちりと剣に雷が攻撃を加えている。
その時、頭上に熱量を感じて、屠自古はそのままの体勢で空を見上げた。
布都と、その手に掲げられた巨大な火炎球。
脳裏に浮かんだのは、焼け落ちる物部邸。
「……あぁ」
諦めたような声を上げた屠自古に、布都が手を振り下ろした。
轟音と共に、庭の全てが吹き飛ぶ。
木々は焼け落ち、地面は大きくえぐられた。屋敷の縁側も崩れ落ちた。
中央で防護の札を構えた屠自古は、辛うじて耐えた体の痛みに顔を歪め、札が焼き消えると共に焦土に倒れた。
意識はあった。
ざり、と近くに立った布都の気配がした。重い体を仰向けにする。
視界が霞む。布都が何かぶつぶつと念じているのが聞き取れない。
無抵抗に横たわっていると、布都の放った札が屠自古を囲んで四つ角を形作った。
布都の声は次第に大きくなり、屠自古の耳にも判別ができるようになる。
それがどういった類のものか、屠自古には理解できた。しかし、抵抗する力も意志も湧き上っては来なかった。
悔しいとも、憎いとも思わなかった。
屠自古を橙色の光が包み込む。眩しさに屠自古は目を閉じた。
布都の声が一際大きく響いた後、屠自古は体の中に強い衝撃を感じた。
「あっ……ぐあっ……!」
屠自古は胸を掴んだ。何かに心臓をわしづかみにされるような感覚。
そして、光は屠自古の中に吸収されるように収束した。
屠自古は苦しい呼吸で布都をもう一度、見た。
布都の顔は今まで見たことがない程、苦しげに歪んでいた。
「お主に呪を刻んだ。我が死のうとも、お主はそれから逃れることはできぬ」
「何の呪だ……」
「……お主も、共に来てもらう。我と、太子様と共に。永遠の時を生きるのだ」
「そういう……ことか……」
屠自古は悟った。ここに来たのは己の意志ではなかった、と。
太子に操られたのか、はたまた布都にはめられたのか。
今となってはどちらでも良い事だった。
「……恨むなら我を恨め。恨み殺すほどにな」
そんな屠自古の思考を遮るように、布都は膝をつきそう呟いた。
握った拳が震えている。
「……お前は、どこまで馬鹿なのよ」
屠自古は手を上げる。残りの力を振り絞り、布都の顔を抱き寄せ。
「……!?」
一瞬、唇が重なった。
「……おい」
屠自古は力なく笑った。
「いつかの、お返しだ……言ったでしょ?貸は作らないんだ……」
布都はますます顔を歪めた。
「お主こそ馬鹿者だ。これでは……これでは、この世に未練ができてしまうではないか。我もお主も、これから死ぬのだぞ?」
「いいじゃない。生き返りやすくなるかもしれない」
その時、屠自古の頬に雫が落ちた。
一つ、二つ、それは止め処なく、屠自古の頬を濡らし続ける。
次第に嗚咽が大きくなり、押し殺せなくなり、涙に呼応していく。
「屠自古、済まなかった」
しゃくり上げる布都の言葉は堰を切って溢れ出す。
「我にはどうしようもなかった。お主だけは汚したくなかった。汚れるのは我だけで十分だったのに……だから、許さなくてよい、永遠に我を恨めばよい!」
布都は嗚咽しながら地面を叩いた。屠自古はただ、力なくそれを見ていることしかできなかった。
どん、どんと地面を叩く音が体に響く。
屠自古は地面を叩き続ける布都の手を取った。
布都が驚いて顔を上げる。
地面にこすり付けた拳は、血と土とで赤黒くなっていた。
屠自古は、布都の拳と泣き濡れた顔を見て、ふっと笑った。
「……少しは、自分の命のことも嘆いたらいいのに。やっぱりお前は馬鹿だ。一途で、馬鹿で、優しすぎて、どうしようもない」
屠自古の指先が布都の頬を拭う。
「お前のことは最初から気に食わなかったけど。演じるなら、最期まで汚れ役を演じなさいよ、物部布都」
布都は信じられないように目を見開いた。
「お前だけ先に辞めるなんて許さない」
屠自古の手は、言葉とは対照的に優しく布都の頬を撫でていく。
「私は最期まで、太子様の監視者を演じ続けるのだから」
* * *
澄み切った空を、神子は見上げた。
小鳥が舞い、雲が行き、優しい風が頬を撫でる。
「なぜ、人は死を受け入れなければならないのか」
その問いかけに、少し離れて立つ屠自古は無表情のまま答えなかった。
「君達といたことで、少しわかった気がするよ」
「……と言いますと?」
神子は振り向いた。
「人は、変わらずにはいられない。不変で在ることはできない。どんなに強い想いがあっても、変質してしまうものだ」
屠自古はそれには答えず、足を神子の方へ踏み出した。
「それでも私は、変わることはできない。この国の……守り手だから」
「あなたがそう在ることを、布都は望んでいました」
「……行こうか」
「はい」
歩き出した神子の一方後ろを、屠自古はついて行く。
生涯神子を追い、追い越して行った布都の気持ちが少しだけわかった気がしていた。
12.神霊廟
屠自古は目を覚ました。
冷たい棺の上。
ぼやけた思考と記憶は、見覚えのない廟の中で戸惑う。
これは、一体誰の棺だろうか。
屠自古は棺にそっと触れる。
その瞬間、全てを悟った。
この棺の主。この廟の主。そして、呪の意味と己の存在、そして役目を。
「……物部め。やったな」
己の体が、ささやかな抵抗の結果なのか、それとも本当に呪いなのか、屠自古にはわからなかった。
ただ、目覚めたらまず殴りつけてやる必要があると思った。
どこからともなく、壁をすり抜け仙女がやってくる。
「安定して存在するには、もう少し慣れが必要ですわ」
屠自古は手を握っては開いてを繰り返す。感覚がない。
肉体を奪われたという実感が湧いた。
憎たらしい笑顔が浮かぶ。
しばらく握っては開いてを繰り返していると、急激に眠気に襲われた。
自然と棺に背を預け、目蓋を閉じる。
まんまとはまったか、正直者め、と、無邪気な笑顔が脳裏に浮かんだ。
「おやすみ……」
屠自古は小さくつぶやくと、意識を手放した。
終。
・この物語には、公式ではない二次創作設定がいくつも散りばめられています。っていうか話全体が二次設定です。詳細に切り分けは記載しません。
・神霊廟、豪族たちの創作過去話です。すごく何番煎じ感半端ないです。
・中途半端に百合です。基本軸はふとじこですが、みこふとでもあり、みことじでもあります。甘くもないですし、辛くもなく、ふんわりしていながら一般向けではなさそうな描写はあります。
・歴史上の人物の名前を拝借しましたが、兄弟関係など創作です。東方公式でもなく、史実でもありません。
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1.出会い
夏に差し掛かった春のある日。
木々が青々と繁り、葉の隙間から陽光が柔らかく降り注ぐ。
そんな爽やかな日、太子の屋敷の庭で二人は初めて出会った。
「物部のくせに。裏切り者か」
紹介された少女に向かって、屠自古は、小さな声で吐き捨てるように言い放った。
一瞬、周囲の人々に緊張が走る。
太子と、その少女を除いて。
「これはご挨拶だな。蘇我の」
物部の少女は、にやりと笑って流した。
物部の家と蘇我の家の対立関係は、都で知らぬ者はいなかった。
この時、両家の対立は頂点に達していた。
その両家から一人ずつ従者を取るなど、平等と和を貴ぶ太子にしかできないと、周囲の豪族達はこの日も感嘆の意を示していた。
その矢先に、この会話。
「お主は政には向かぬな」
「何?」
物部の少女はまたにやりと、人を食ったような笑みを浮かべた。
「感情を押し殺すことも知らぬ。もし我が、そのような安い挑発に乗る愚鈍であったなら、お主は即座にこの屋敷を去ることになっていたぞ」
「偉そうに……お前に、私を立ち去らせる権限などない。お前こそ、いつかその本性を暴いてやろうか?」
正に一触即発だった。
その時、二人の間に僅かに手が割って入った。
二人は同時に手の主を見る。
「まぁまぁ、落ち着いて。皆怯えているよ」
柔和な笑みを浮かべて、二人より少し背の高いその人は言った。
「はっ、申し訳ございません」
屠自古は慌てて一歩下がり、礼をする。
「これは。ご無礼を、太子様」
物部の少女もまた、笑みを隠して礼をした。
「まだ二人は出会ったばかりだし、せっかくだからいろいろ3人で話がしたい。私の部屋へ行きましょう」
にこにこと、太子、豊聡耳神子は歩き出した。
すぐに後を追おうとする屠自古の目の前に、すっと手が差し出される。
「そういうわけで、物部布都だ。よろしく頼む」
屠自古はその手を睨み、次に布都の顔を睨みつけて、そのまま歩き出した。
数日後、屠自古が神子の部屋に行くと、そこには布都だけがいた。
神子よりそのことを聞いていた屠自古は特に驚きもせず、当たり前のように布都から距離をおいて座った。
「物部がいよいよ仏教に異を唱えているそうだな」
「あぁ、そうだな」
布都は、読んでいる書より顔を上げず答えた。
「太子様は仏教を歓迎しておられる。お前、よくここにいられるな」
「関係ないな」
「……貴様、己の身を弁えているのか」
屠自古は思わず立ち上がった。
布都は書から目を離すと、不気味な笑みを湛えて屠自古を見上げる。
屠自古はその不敵さに怯みかけるが、奥歯をかみしめて怒鳴った。
「お前とて私にとっては物部、打つべき敵だ!」
「悪いがお主の意見など聞いておらぬ。我の命は太子様のものぞ。滅ぼすも、生かすも、それは我のものでもお主のものでもない」
布都の声は静かに耳に響いた。
屠自古は目を見開いた。
布都の言葉には、きっと嘘の心はない。布都の答えには己の命の心配は微塵もない。
あまりに真っ直ぐな姿勢に、ぞくりと背筋が寒くなった。
屠自古にとって、布都の在り方はまるで信じがたかった。
「……したたかなやつ。貴様は物部であるとかないとか関係なく、腹が立つ」
「そうか」
布都はふんと鼻で笑う。
屠自古はもはや怒りを隠さず顔を歪めた。
どん、と布都に背を向けて座り直すと、微かにくすりと笑う音が聞こえて、ますます腹が煮えた。
「我はお主が嫌いではないがな」
屠自古は床を睨みつけたまま答えなかった。
「あら?太子様はお留守?」
突然、部屋に二人以外の声が響く。
屠自古はびくりと振り返った。そこには、開かずの襖から女性がにこりと顔を出したところだった。
「これは青娥殿」
「頼むから、襖を開けて入ってきてください……」
「あらあら、これは失礼」
青娥、と呼ばれた女性は、にっこり笑ったまま、するりと襖を通り抜けた。
屠自古は立ち上がった。
「すり抜け生活に慣れてしまったもので」
「太子様は今は留守ですよ。もうしばらく待てばお戻りになられるでしょうが」
「ありがとう。ところで、不老不死の件、太子様はお考えくださったかしら?」
屠自古はぴくりと眉を動かすと、黙って青娥を見た。
「……方法はともかく、興味はおありだと思いますぞ」
代わりに答えたのは布都だった。
「あら、嬉しい。方法はいくつかありますからね。合うものを選んでいただければいいわ」
ふふふ、と楽しそうに笑う青娥を、屠自古は不気味な心地で見ていた。
「あら、蘇我様、そんなに睨まれては怖いですわ」
「はっ、ご冗談を。仙人様に怖いものなどありはしないでしょう?」
「こら、蘇我」
布都はたしなめるように屠自古に声をかける。
屠自古は視線を変えて布都を睨んだ。布都の態度すらも屠自古には気に入らなかった。
なぜ、この胡散臭い仙人に気を遣うのか、敬うのか。
神子も、布都も。
「心配なさらずに、物部様」
青娥は浮いているようにふわりと屠自古に近付くと、布都に見えぬ位置でその頬に触れた。
「蘇我様は随分と警戒心が強い。気が強いのも結構ですけど、身を滅ぼしても知りませんよ?」
「っ……!」
怒りを露わにする屠自古をからかうように、くすり、と妖艶に微笑むと、青娥は屠自古から離れた。
「では、また後程改めて参りますね」
「そうですか。では、また」
布都が見送る中、青娥はまた元来た通り、襖をすり抜けて外へ出て行った。
「……お主、あまり青娥殿につっかかるでないぞ。気を害したら何をされるかわからん」
「わかっている!」
「我らが道教を奉じ道術を会得せねば、表で蘇我が仏教を広める意味があるまい?」
「……わかっている」
屠自古は、開かない襖を睨んだ。
2.桜井寺、炎上
神子の屋敷の中も、どこかぴりぴりとし始めていた。
仏教を奉じるか否かで、豪族も大王家も真っ二つに割れようとしている。
そんな中、屠自古は静かに廊下を歩んでいた。
蘇我と、太子の利害は一致している。
屠自古はただ、神子の補佐をいつも通りしていれば良かった。
ただ、不穏なのはもう一人の従者のこと。
「……どういう神経をしている、あいつは」
もはや知らぬ者はいないというのに。物部が仏教に反対していると。
苛立ち気味に屠自古はしゃがみ、襖に手をかけた。
神子の私室であるそこには、すでに布都がいた。が、それは立ち去る寸前のところだった。
「頼んだよ」
「はい、お任せを」
短く、二人はそれだけ言葉を交わすと、布都は一礼して屠自古の横を過ぎた。
「我はしばらく空ける。太子様を頼む」
「あ、あぁ……」
突然のことに、屠自古は上手く返事できなかった。
入れ違いで部屋へ入った屠自古は、口元に笑みさえ浮かべている神子を見て、背筋がざわつくのを覚える。
「物部は、何の用でしょう?」
「秘密」
「秘密ですか……」
「すぐにわかるよ」
屠自古は眉を顰めながら、勧められるまま神子の前に座る。
布都が座っていた座布団。かすかに温かい。
「布都のことが心配?」
屠自古はびくりと肩を震わせ、
「ま、まさか!」
否定する。
神子はくすくす笑うと、
「屠自古は少しひねくれ屋ね」
そう言った。
神子は自らの心臓に手を当てて、目を閉じる。
屠自古はそれを複雑な表情のまま見つめていた。
* * *
数週間前から疫病の噂が聞こえていたが、ついに都にも到達したとの報はすぐに神子の耳にも届いた。
大王の謁見の間に神子が踏み入れると、大王は人払いをした。
「あなたに、聞きたいことが」
「はい」
神子は大王に近付く。
あと数歩のところで歩みを止めると、深々と礼をした。
「神子よ、仏教は悪しき教えだと思いますか?この流行り病は……神々の祟りというのは本当なのでしょうか」
神子は、神妙な面持ちで顔を上げると。
「大王様は、仏教の教えをどのようにお考えでしょう?貧しき者を憂い、衆生を救いたいと願う釈迦の姿は、悪しきものでしょうか?」
「とても、そのようには……」
「それに、民の平安を思う教えに我らが神々が怒られることがあるでしょうか」
「しかし、私達には、神々のご意志を計る手段がありません」
神子は顔を崩して、にっこりと笑う。
「私に考えがあります。流行り病の原因が、仏教のせいであるか否かを、神々に問うてみましょう」
* * *
蘇我が仏像を奉じた寺は、にわかに物騒な気配に包まれた。
警備に置かれていた蘇我の軍は、わらわらと慌てて正面へ集う。
「我らには大王の勅命あり!仏寺を焼き払い、祟りを鎮めるのだ!」
寺を囲んだ物部の軍から、大きな声が上がる。
それを聞いた蘇我の兵は、顔を見合わせる。
「ど、どういうことだ?」
「大王様が焼き討ちをお許しになったのか?」
「馬鹿な!物部の虚言であろう!」
迫りくる物部の兵を迎え撃つべく、蘇我の兵は慌てて鬨の声を上げた。
寺の裏手の林の中から、人目を避けるように寺へ進んでくる者があった。
正面の軍に気を取られて手薄な警備の目を盗み、寺へ近付いていく。
ちょうど死角となった場所で、小柄な影は立ち止まった。
「やれやれ、兄上は派手な戦が好きだな」
表の合戦の音を聞きながら、布都は懐から札を数枚取り出す。
呪術の言葉を唱えると、たちまち札は真っ赤に輝きだした。
「ゆけ、焼き払え」
布都の声に応じて、札は散り散りに飛んでいく。
すぐに、方々で火事の音が聞こえ始めた。
突然の火の手に、中から慌てふためく声も聞こえてくる。
寺の表は、火の手に気付いた蘇我の軍と、中からの脱出者とで大混乱となっていた。
容赦ない物部の攻め手に、戦意を失った蘇我軍はただ必死に逃げ惑うのみ。
少し離れ、すでに燃え盛る火の御殿と化した堂を、布都は見上げていた。
そこに。
「そこで何をしておる!?」
布都が振り返ると、蘇我の兵が槍を構えていた。
「貴様、物部の者か!?」
布都は答えない。
「まさか貴様が火を……許さぬ!」
兵は槍を構えて突進してくる。
布都は踊るようにふわりと交わすと、懐から兵の首元まで剣を振り抜いた。
「ぎゃあ!」
鮮血が舞う。
首を切られた兵がごとりと倒れ動かなくなったのを確認すると、布都は兵の着衣で剣の血をぬぐう。
袖と胴には返り血がついていた。
静かになったその場で、布都はまた燃え盛る寺を見上げる。
顔には安らかな笑みさえ浮かんでいた。
「……形あるものになど、意味はない」
「本当に、大丈夫でしょうか?」
寺からは離れた、大王の屋敷。
そわそわと落ち着きない大王とは対照的に、神子はゆったりと湯呑みに口をつけていた。
「心配いりません。この戦いは物部の勝ちでしょう」
大王は驚いたように目を見開く。
「では、寺は……」
「元々、我らの神々は、異教の全てに目くじら立てて病など広める方々ではない。さらに言えば、釈迦様は、貧しい人々と共にありたいと願った方です。そんな方が、誤った者達によって寺が焼かれたことに腹を立てて、八つ当たりなどまさか行いますまい」
神子は立ち上がると、寺があるであろう方角を窓から眺める。
「神々と我らの願いはいつも同じ。民が安らかに、国が安らかに、そして、大王家が栄えんことを」
そして、大王を振り返り、にっこりと笑った。
「病など偶然でしょう。神の祟りなどと、威を狩る狐の虚言です」
大王は、目を見開いた。そこには恐れの色すら浮かんでいた。
「あなたは、最初から……」
「本当に怖いのは、やはり人の子ですね」
* * *
寺の焼き討ち事件から数日が経った。
一向にやむ気配のない病の広がりに、豪族の中でも仏教と疫病との関係性を疑う意見が主流となっていた。
神子は私室で、屠自古が茶を淹れるのを眺めながら愉快そうに笑う。
「約束だからね。病が静まらなかったら、責任は物部が取ってくれるんだそうだ」
「全てを見越した上で、物部に許しを与えたのですか?」
「そうだよ。まぁ仏寺の一つや二つはまた建てれば良いからね」
屠自古は茶に集中するふりをして、下を向いた。
聞きはしなかったが、何となく察していた。布都を解放したのは、寺を焼くためだと。
あれだけ短時間での決着、そして全焼する程の火力。
布都の術の力があったことは明白だった。
そして、神子の筋書きはまだ終わっていない。
「仕上げだ。蘇我殿を呼ぼう」
「……伝令の手配をして参ります」
屠自古はすっと湯呑みを差し出すと、立ち上がり廊下へ出た。
神子の様子には、緊張は微塵も感じられない。
まるで、全て上手くいくことを確信しているよう。
「……どこまで、見通しておられるというのか」
屠自古は己が震えていることに気が付いた。
ぎゅっと拳を握ると、伝令係の待機する部屋へ向かって行った。
3.物部落つ
物部本家の屋敷は、あっという間に蘇我の軍に囲まれた。
神子が蘇我の頭領を呼んでから3日と経っていない。
鼠一匹逃がさぬ完全な包囲網を、じわじわと縮めていった。
陣中、屠自古は遠く見える蘇我の先陣と屋敷を、静かに見守っていた。
布都は結局神子の下に戻っては来なかった。布都は物部本家の頭領の妹君である。あの屋敷にいる可能性は高い。
「……お見捨てになるというのか……」
屠自古はつぶやき、それからうつむいて首を横に振った。
* * *
道中、神子は輿の中から全軍を止めさせる。
外へ出てみれば、すでに遠くには厚く長大な蘇我軍の包囲陣が見えている。
「随分と動きが早い……さては蘇我殿、気付いておられたか」
そう言って、側の者に急ぎ進むようにと指示した神子は、笑顔だった。
* * *
物部の屋敷は内外で騒然としていた。
不幸中の幸いは、先日の寺焼きのために集めた軍兵の一部が、まだ屋敷周囲に仮の陣を張っていたことだ。
だが、相手は一族郎党総出の規模。
屋敷の最奥の間で、頭領の守屋は苛々と歩き回っていた。
「早すぎる……早すぎる!太子と蘇我が共謀したのは明らかだ!」
傍らに控えた布都は、黙ったまま静かに腰を下ろしている。
すでに守りの指示は終えている。あとは、この包囲網を抜ける策を考えなければいけない。
守屋はふと足を止め、姿勢を崩さない布都を見た。
そして、思いついたようににやりと笑った。
「そうか、そうだ。あのように密集しておるのだから、さぞよく燃えるだろう」
布都は顔を上げ、守屋の意図がわからず首を傾げた。
「お主に頼もう」
「何でしょうか?」
「お主の術で、蘇我の軍を焼き払うのだ。崩れたところを一気に叩き、包囲網を切り抜ける。ここで真正面から戦えば、我らは確実に滅びる。抜けて形勢を立て直さねばなるまい」
布都は、無表情のまま兄を見上げていた。
守屋はくつくつと笑うと、しゃがみ、布都の頭をそっとなでた。
「父上には感謝せねばな。お主を神に仕えさせたのは正解であった」
布都は動かない。眉一つ動かさず、兄を見つめていた。
「そして、その異形の力は我のものだ。誰がお主を蔑み畏れ憐れの目で見ようとも、我は決してお主を見捨てぬ。なぁ、そうだろう?布都よ」
その瞬間、布都は腰の剣を引き抜き、守屋に向けて切りかかった。
守屋は床を蹴って後ろに跳び、その一撃を避ける。
顔には驚愕の表情が浮かび、さらに怒りへと歪んだ。
「……貴様、裏切るかぁ!」
布都は答えなかった。
守屋ははっとして、奥歯をぎりと噛み締めた。
「そうか、父上は正しかったが我は間違えたか。あの太子の下へやったのが間違いであったか!?」
「違う。兄上、あなたの誤りはとうの昔からです。……太子様は、関係ない」
守屋の顔が怒りに染まっていく。
「我が妹とて容赦はせぬぞ!裏切りは決して許さぬ!」
守屋は同じく腰の剣を抜き払い、布都に斬りかかった。
がちん、と金属のぶつかる音が響く。
自らよりはるかに大柄な兄の一撃に、布都の体は浮く。
「ぐっ……!」
「ていやぁ!」
守屋の突きが布都の右腕をかすめる。
布都は床を蹴って距離を取ろうとするが、守屋の歩幅ははるかに大きく逃げ切れない。
避けた刃は床を傷つけていく。
的確な狙いは体をかすり、切り傷の痛みと血の臭いが増えていく。
布都は歯を食いしばり、兄の剣を剣で受け流す。そして、急ぎ懐から札を取り出し兄に突き付けた。
「やらせぬ!」
「……!」
守屋は札を薙ぎ払う。
布都は一瞬、困ったように顔を歪める。
「終わりだな」
守屋は笑った。
しかし、次の瞬間、布都も笑っていた。
「そうですな」
どずり、と鈍い音が響いた。
守屋が目を見開く。布都の立ち位置は先刻と変わっていない。
だが布都の右手から、愛用の短剣が消えている。そして、それは赤い光をまとって守屋の腹を突き抜いていた。
「な……?」
守屋はがたがたと後ろへ後ずさる。そして、突き刺さった剣を引き抜きがらんと落とすように捨てた。
傷跡から血が流れる。
腹を押さえてがくりと膝をつく。しかし、自らの剣は強く握りしめたままだった。
「まだ、だ……」
そんな兄に対して布都は無言で札を投げた。
「ぎゃあ!」
守屋の口から悲鳴が上がる。札は守屋の腕に、足に、胴に張り付き、真っ赤に光る。そこからはずぶずぶと焼ける音と、煙が立ち上る。
守屋はしばらくのた打ち回っていたが、次第に床に転がったままになり、虫の息となった。布都はそれまでただ見下ろしていた。
動かなくなった守屋の側まで歩くと、血の海の中仰向けで目を見開いている兄を見下ろし、布都は口を開く。
「先に裏切ったのは、兄上ですよ」
「……」
守屋の口からはひゅうひゅうと息だけが漏れている。
布都はうつむく。握りしめた拳を震わせて、肩を震わせて。
「あなたにはわからぬでしょう。神々に捧げられた人間を待ち受けるものなど。人には触れられず、ただひとり暗闇の中、神々の声ともつかぬ声に怯え、体を勝手に這い回る感触に耐え忍び、変わっていく己の力を前に呆然と座り込む……そんな毎日が!」
次第に布都の声は激しさを帯びていく。そして、体の周囲に黒い気の渦がまとわりついていく。
「兄上、この布都の姿は、父上の選択は、正しいと思われるか?」
「……」
返事はない。布都は自嘲の笑みを浮かべる。
ぼん、と守屋の体が燃え上がった。
* * *
蘇我から見た火は、中から外から物部の屋敷を蹂躙していった。
外へほうほうの体で逃げてくる物部の者は、残らず斬られ、打たれ、捕えられる。
鎮まっていく火を遠くに眺める屠自古の耳に、ふと父への伝令が漏れ聞こえてきた。
「物部の屋敷から出た者は全て捕えました!争った者は斬りました」
「うむ。本家の生き残りはおるか?」
「はい。一人、守屋殿の妹君が」
屠自古は目を見開き息を飲んだ。
遠くからでもよくわかる、あの業火の中で。
生き残って捕えられたという。布都が。
屠自古はぎゅっと拳を握った。安堵とも戦慄ともつかぬ心地を押し込めるように。
屠自古は、つれてこられた部屋の襖を静かに開いた。
狭い部屋の中央に座す布都は、伏せていた瞳をわずかに開いた。
「……下がっていてくれ」
付き人を払うと、屠自古は中へ入り襖を閉じる。
そして、懐から札を4枚取り出すと、術を唱え部屋の四隅へ放った。
くすり、と布都が音だけで笑う。屠自古はそれを一瞥した。
「何が可笑しい」
「我とて、蘇我の腹の中から生きて逃げられるとは思わぬ。そこまで警戒するのか?」
「……私は、一応目付役だからね」
屠自古は眉をひそめたが、いつものようにやり合う気は起こらず、布都の目の前に腰を下ろした。
布都の両手は、後ろで一つに括られている。
本気を出せば解けないことはないだろう、と、屠自古は布都の顔を見つめる。
何を考えているのか、計りかねる。言葉の通り、敵陣の中央から逃げ出すのは厳しいと考えているのか。それとも、隙を狙っているだけなのか。
「貴様、実の兄が死んでいるのに、随分と平静なものだな」
布都の口元はにやりと笑みを浮かべる。
「兄上は太子様のご意志に反した。それも、自らの意志を貫くでもなく、ただ先祖の霊と父上の意志に流されただけ……当然の報い。あのような愚か者に、政はできぬ」
そう言うと、布都は顔を上げた。
屠自古は戦慄し、思わず身を引く。
布都の眼は虚ろだった。ただ、奥に暗く冷たい生気ではないものを湛えている。
くつくつと笑う姿に感情はない。
屠自古ははっとした。
「貴様っ!やらかしたな!」
がっと布都の首元を掴む。布都は抵抗せず、糸の切れた人形のようにかくりと持ち上がる。
「その手で、貴様はっ!実の兄を……!」
「……あぁ、いい目だ。お主のその目が我は好きだ」
屠自古は言葉を詰まらせた。
虚ろに笑う布都は、屠自古の眼を見つめて逸らさない。
「お主がそのように自らの奥から湧き出る憎悪を、隠しもせぬ憎しみの刃を我に向けてくれると、我は……生きている心地がする」
布都の声は穏やかだった。
「なぁ、屠自古。我は、まだ人の形をしておるか?」
「ふざっ……!」
屠自古の掴んだ手は震えた。
何を返すべきか、言葉が上手く紡げない。噛み締めた奥歯がぎりと音を立てる。
「ふざけるな!人でなければ何だというの!?思い上がるな!」
布都は虚ろな笑みを消す。
「お前は人だ!主のために兄を手にかけ心壊れる程度の弱く脆い人間だ!そうでしょう!?」
屠自古の声と気迫に、襖がびりびりと震えた。
つ、と屠自古の頬に涙が伝う。
布都は目を見開いた。押し殺した声で忠告する。
「……落ち着け……外に漏れるぞ」
「音は結界で塞いでいる!」
「なるほど……抜け目ないな」
「馬鹿にするな!」
「馬鹿になどしていない……」
屠自古は布都を掴んだまま、止まらぬ涙を振り払うように首を横に振った。
だが、涙は止まらない。
「なんだ……なんだ……なに、なによ……なんで止まらないの!?」
「我に聞くな……」
屠自古にはわからなかった。自分が涙を流す理由も、虚ろになった布都に腹が立つ理由も。
ただ、瞳から溢れる涙はどうしようもなく、その後しばらく、結界に守られた部屋で泣き続けた。
4.黒幕
動乱の日から数週間が経った。
政情は安定し、大王と蘇我氏に表だって逆らう者はいなくなった。
そして、変わらず大王の側に仕え続ける神子の後ろには、変わらず布都の姿があった。
あの日から屠自古は真実を口外してはいないが、噂はすぐに広まってしまうもの。
皆ひそひそと、目を盗んでは尾かヒレかも知れぬ噂に興じる。
布都が、一族を裏切って兄を手にかけ生き残ったということは、もはや周知の事実だった。
しかし、当人がそれを気にする様子は微塵もない。
布都は今日も、姿勢よく神子の後ろを静かに歩いている。
* * *
都の郊外に、神子は別宅を設けた。
道教との癒着が進むにつれ、都は何かと不便だったのだ。
別宅には、最低限の僅かな使用人しか置かない。
訪れても中に入るのは、神子当人と青娥、それから布都と屠自古だけだった。
屠自古は、目の前で書に目を通す神子をそれとなく観察しながら、隙を覗っていた。
なぜだか、布都は今日に限っていない。
屠自古にとっては願ってもいないチャンスだった。
神子が僅かに書から興味を逸らした時を見計らい、言葉をかける。
「……太子様は、まだ布都を信用しておられるのですか?」
神子は、特に動じた様子もなく、静かに書から目を上げた。
「そうだけど?」
神子の眼はいつものように透き通っていて、飲み込まれそうだった。
抗うように、屠自古は慎重に言葉を選ぶ。
「あの者は自らの一族を滅ぼしたのですよ。太子様のことさえ、いつ裏切るやも知れぬ……」
「私は布都の中身を買ってるの。皆が騒ぎ立てるような表層の出来事など、どうでもいいわ」
つまらない、といったように、神子は屠自古から目を逸らした。
噂を信じた愚かしさを指摘するような声色。
だが、屠自古は知っている。それが真実であり、まだ暴かれていない闇があることを。
「話はそれだけ?」
「……兄殺しなど、到底正常な精神でできるものではありません。あいつは狂っている」
「さぁ、どうかな」
「はぐらかさないでください!」
神子は、もう一度ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、屠自古は空気が張り詰めたのを察して、ぶるりと震えた。
普段の太子の柔らかい空気は、どこにもない。
屠自古はずっと感じていた違和感の正体に気が付いた。
この国の、真の王は。
この人の、真の姿は。
「あなたでしょう、布都に裏切りを命じたのは」
半分ははったりだった。確証は何もない。ただ、屠自古には、あれ程に布都を追い詰めるもは他にはないと思えた。
垣間見てきた布都の忠誠心は自分のそれとは違う。加えて、一族を離れて仕える覚悟の意味を屠自古は理解しているつもりだった。
「試したのですか、布都を」
「……いいえ。布都の忠誠心を疑ったことはない。ただ、もっとも有効な作戦を命じただけだよ」
神子は淡々と答えた。そこに感情は一切なかった。
屠自古は目を見開いた。
膝の上で握りしめた拳が、限界まで固くなっていた。
びり、と部屋が揺れる。
どこかで冷静な頭が、感情に流れるな、止めろと悲鳴を上げているが、屠自古はもう止まれなかった。
「あなたが!」
屠自古は立ち上がりざまに、懐に忍ばせた札を神子めがけて放った。
手を伸ばせば届くような距離。
しかし、暗い気を纏った札は宙を切って、奥の壁にどすんと叩きつけられた。
「!?」
「そう、それが君の本性?」
背中の中央に鈍い衝撃、それから首をがっと掴む冷たい手。
屠自古はうつ伏せで床に叩きつけられた。
首が縁側を向いて、はっとする。
立ち上がった時には確かに開いていた障子が、閉まっている。部屋は薄暗くなり、気温までも急激に下がったように、寒い。
くすくすと笑い声が背中に降る。
「ただの娘ではないと思っていたけれど……いい動きだ、布都にも負けないだろう。随分仕込まれていたんだね。全く、蘇我殿も恐ろしい方だ。自分の娘を暗殺者にするとはね」
「っつ!」
ぐり、と背の中央が押される。固いそれは、神子の腰に常に下がる剣の柄だろうか。
抑えられているのはそこと、首だけだった。しかし、屠自古は指の先一つ動かすことができない。
神子の発する気が、体中を縛り付けているかのようだった。
「あっ……あなたこそ……っ」
奇妙な仙人に帰依しているかと思えば、既に自らが仙人のような術の使いようではないか。
「ん?そっか、屠自古には見せたことなかったね」
「それが……あなたの信ずる道教のなれの果てですか……」
「半分正解、半分間違い。この異形の力は、生まれつき」
ぐ、とさらに背が押され、屠自古は思わず急き込んだ。
穏やかで優しい太子はどこにもいない。
殺される。屠自古は瞬間的に力を込めた。
ぱきん、と拘束が解けるような音が頭の中で鳴り響く。
屠自古は床に手を付き、体をひねった。
「っと」
勢いのまま入れた蹴りは、がつりと硬いものに弾かれる。
立ち上がり体勢を立て直した屠自古は、右手を神子に突き出した。
ばちりと音が鳴る程の電流が放たれる。
それは部屋中に駆け巡り、距離を取っていた神子に襲いかかる。
神子は、しっかりとそこに立ったまま剣を抜き放った。
電流は剣に触れた途端、霧散し消える。
屠自古は息を飲んだ。
神子は床を蹴る。人ならざる速度で迫る剣を眼前に、屠自古は避け切れない。
「っ!」
覚悟を決め、目を伏せた。
ちり、と咄嗟に守りに出した右腕に刃の焼けるような痛みが走る。
それから、また背に鈍い衝撃、床に叩きつけられる痛みが屠自古を襲った。
「太子様!」
たん、と勢いよく、廊下側の障子が開く音。
「こっ……これは……!」
紛れもない、布都の声だった。
屠自古は朦朧とする頭を向けた。
うつ伏せに押さえつけられる自分と、その上で剣を構えているであろう神子を見比べ、布都は目を見開いている。
「な……何が……」
「あぁ、いいところに来たね、布都」
神子は明るく言う。
「反逆者を、私はどうしたらいいと思う?」
「……こっ……殺すべきです。生かして蘇我へ戻せば……下手をすれば太子様の名に傷がつきます……それより、殺して、見せしめにすべきです!」
己の命を奪う提案をしている布都に、屠自古は怒りを覚えなかった。
それよりも、歯切れ悪く絞り出すように口にする布都に違和感を覚えた。
「そうだね、正解」
かち、と音が鳴る。
「でも、私は殺さない」
神子が剣を納めたことに気付き、屠自古ははっとした。
「元々、君は人質で、蘇我の間者で、使い捨ての駒だ。殺したところで蘇我殿には痛くもかゆくもないだろうね」
屠自古は黙ったまま、ぎりと奥歯を噛み締めた。神子の言葉は全て正しかった。
「それに、」
神子は一瞬、言い澱んだ。その一瞬は屠自古にも布都にも疑問を抱かせるには、短すぎた。
「君がいなくなると、私は結構困るんだ。これでも、君の力を買っているんだよ、屠自古」
ふ、と拘束する圧力がなくなる。
命を覚悟していた屠自古は呆気に取られたまま、床から動けないでいた。
そして、生き延びたことに気付くと、体中に張り詰めた気が抜ける。
そのまま、意識を失った。
5.裁く者
「我らの悲願のため、太子を監視しろ」
父と思しき男の難しい言葉に、幼い少女は深くうなずいた。
少女の周辺には、少女にふさわしいものは何一つ与えられなかった。
広い部屋の中には、大量の政治や歴史神話の書物、遥か太古より密かに伝えられてきた秘術の書、そして生活に必要な最低限な道具。
外から呼びに来るのは、身体術の訓練の師。
少女は一日中、それらを相手に閉じた世界を生きていた。
黙々と書物を読む姿を見守る者はいない。
時折外へ出ると、兄達の不躾な視線が待っていた。
「暗い」
「可哀想なやつめ」
「優秀なのだろうが……女でなければな……」
「使えるのか?」
蔑み、憐憫、乱暴な言葉。
突き刺す言葉。少女は苦痛を表には出さなかった。
ただ凛と背筋を伸ばして、父の元へ歩いていく。
ある日、書に目を落としながら、襖の向こう側で父と兄の一人が話しているのを聞き流していた。
「……まさか大王が女性、補佐の太子様も女性とは……目論見外れたのではないですか……」
「構わん。いや、むしろ好都合かもしれん」
低く淡泊ないつもの父の声に、少女は顔を上げた。
時が来た。
少女は笑った。笑顔の中で眼だけが鋭く暗かった。
少女は、この国の実質的な頂点に、世話役として送られた。
この日、すれ違う人々は皆一様に少女を驚きの顔で振り返った。
少女は笑顔だった。絶えず静かな笑みを浮かべ、父の元へ向かう。
兄の一人が、そんな少女に声をかけた。
「……お前、そんな顔ができたのか。できるなら、いつもしていれば良いものを」
兄の皮肉交じりな言葉を、少女は振り向きもせず答えた。
「兄上に向ける必要がないでしょう?」
「くくっ……ははっ!つくづくかわいくない!我が妹よ」
「……」
「精々懸命に働いてみせよ」
歩き去る足音に、少女は舌打ちを送った。
彼は父の跡を継ぐことを疑いもしない。
兄達の中でももっとも父に近く、次に自分を使うであろう人物。
「……今に見てろ。私は、誰よりも……」
少女は屋敷から出た。
外は快晴、少女は陽光の眩しさに目を伏せる。
出掛けるのではない、出ていくのだ。
目の前に広がる世界の広さに落ちていく感覚。
けれども少女は辺りをきょろきょろ見渡すことなどしない。
用意された輿に乗る。
少女はわかっている。
箱庭を出て、次に入るのは神の家。
輿は静かに動き出す。
新しい箱庭は、前の箱庭とよく似ていた。
ただ、空気は違った。少女は無意識に小さな深呼吸をした。
従者と共に静々と進み、奥の間で迎えた人は想像していたよりずっと小さかった。
年の変わらない少女が、背を伸ばして座していた。
少女は誰に言われるでもなく進み出で、畏まった。
「蘇我屠自古と申します。これからお世話をさせていただきます。行き届かないところもありますが、よろしくお願いいたします、太子様」
「屠自古、か……うん、よろしく」
太子はそっと微笑んだ。自らに向けられた柔らかく優しい笑顔。少女は少し戸惑いつつも、張り付けた笑みを崩さない。
少女は、屠自古は、柔らかい笑顔の奥にある欲に気付くことはなかった。
* * *
屠自古は布団から体を起こした。
まだ重い体。右に目を落とせば、布に巻かれた右腕。
ぼーっとそれを眺めて、先程の出来事を思い出す。
奥の間に寝かされていたらしい。数十分か数時間か、経った時間を計ることはできなかった。
「生きてる……」
ぽつりと落ちた。布団に染みたそれを、屠自古は呆然と眺めた。
安堵か、不安か、絶望か。はかり知ることはできなかった。
「入るよ」
外から声がした。
屠自古が答える前に、襖は静かに開き神子が姿を見せる。
「あぁ、起きたのね。加減はどうかな?……って、私が聞くのはおかしいね」
「まったくです。……どなたのせいですか」
「はは、ごめんね。少しやり過ぎちゃった」
神子は笑いながら、屠自古の近くへ座した。
主君が見舞ってくれているという無礼を考えられない程、屠自古は混乱していた。
目を合わせることができない。
体が震える。右手の傷がうずく。見せつけられた力、殺気、何よりも神子の隠し持つ闇に、体が反応を示す。
かつての父の言葉が、頭の中に木霊する。
『我らの悲願のため、太子を監視しろ』
その真の意味を理解していなかったのではないか。
父は知っていたのか、この人の正体を。
大王ではなく、この人に送ったということは。
―――私は、太子を消すべきだったの?それとも、懐柔して蘇我と共に歩ませるべきだったの?
―――けれども真実は逆だったじゃない。懐柔され筋書き通りに歩かされているのは、我らの方だった……
―――何にせよ、私は間違えた。私は父の言葉よりも己の感情に従った……
「私が、怖い?」
神子の声に、屠自古は我に返った。
顔を上げれば、真剣な神子の顔。思った以上に近い瞳に、屠自古は目が離せなくなる。
「君は信じていないね、君の力を買っていると言った私の言葉を」
「……わかりません。もう、何を信ずるべきか、私にはわかりません」
「……そうか」
神子は傷ついた屠自古の手を取る。
「本心なんだ。屠自古は、とても公平で澄んだものの見方ができる。家も、身分も関係なく、悪に対し怒ることができる。それはとても難しいことなんだよ。布都にだってできない。あの子は、私に刃を向ける事なんてできないだろうからね」
語りながら神子は、屠自古の右手にそっと口づけた。
「それは君の心にとても重い負担を強いている。重い選択を強い続ける。君は生まれた家も、主君も、神すらも、無条件に信じることはできないだろう。けれども、どうか失くさないでほしい。これは私の我儘だけれどもね」
神子は顔を上げる。その顔は悲しそうに笑っていた。
屠自古は、かつて聞きし噂話を思い出した。
―――太子は十人の願いを一度に聞き届けられた。
そんなまさか、と一蹴していたが、屠自古は気が付いた。
太子は、十人の声を聞き分けたのではない。
「……あなたの、生まれながらの力というのは、それですか?」
「!」
「私の考えていることを、読むことができるのですか?」
「……少し当たってる、けど少し違う」
神子が右手を握る力が少し強くなったように思えた。
布越しに伝わるぬくもりに、屠自古は胸の奥から込み上げるものを感じる。
「私には、人の欲が聞こえる。魂の声と言えばいいのかな。今考えていることを読めはしないよ」
屠自古の中で欠片がぴたりとはまっていく。違和感の正体、謎の答え。
「この力はうってつけだと思ったよ。私のような若輩が人を動かすなんて、そうでなければできやしない」
神子は両手で屠自古の手を握った。
「私は、強い国をつくりたい。強い国は王だけではつくれない。君達や蘇我殿のような有能な家臣が必要だ。それに、民が心安らかに主君を信じることも必要だ。でも、そんな国を維持するのには、とてつもない力が必要だと知ってしまったんだ」
神子は包んだ両手に頭を下げる。
屠自古は目を見開いた。
「……そのためにどれだけ手が汚れようとも、私はそれをなしたい。でももし、その道に反することを私がしていたら、君が私を裁いてほしい……屠自古」
ぱたぱたと布団に滴が落ちる。
神子が顔を上げると、屠自古の瞳から涙が溢れていた。
必要とされたくて走ってきた道のりを思う。
全てが崩れ去った、終わったと思った。
何を信じても、最後には自分で手をかけてしまう。
寄りかかることができなかった。
それが己を滅ぼしてしまうことになっても。
凶つ存在、いつも一人。
数々の葛藤と押し込めた刃を全て抱き締められたような気がした。
「だから、君はそのままでいてよ、屠自古」
6.腹の中
静かに雪が降り行く最中。障子に映る影を横目に、神子は廊下を静々と進んでいく。
少し後ろには、音もなく布都が控え歩いていた。
背後から聞こえる声は、皆二人よりも二回り以上も年上の男性ばかり。
大王と神子が退室した後のそれは、神子にだけいつも聞こえていた。
「この国を動かしているのは、誰だと思う?」
神子は徐に口を開いた。
布都は、わずかに首を傾げたが、間髪入れずに答える。
「大王様と、蘇我様でしょう」
神子はそれを聞いて、含みのある笑みを浮かべる。
ちらりと目を滑らせる。重さのまま降り続ける雪。
「そう。それでいい」
段々と、男達の声が聞こえなくなっていく。
静かな廊下、微かに聞こえてくるのは、後ろを守る部下の鼓動だけになった。
癖になってしまったのか、よくよく集中しないことには聞き逃してしまう、微かな声。
布都のそれは、神子にとって心地よいものだった。
布都は一途に自分のために働いてくれる。そこには一点の嘘も、混じり気もない。
なかった、はずだった。
「布都、屠自古は?」
「外の屋敷におりますよ」
「そう。もう体はいいのかな?」
「さぁ……あやつは強がりですから。上辺はどうともなさそうです」
「そう。屠自古らしいわね」
「あやつはもう少し、愛想というものを学んでも良いかと思いますが」
「あれ?外では愛想よくしているよ?」
「む!?……では、太子様や我にだけ……むむ、無礼なやつめ……」
「素直に喜怒哀楽を出してくれている、嬉しいじゃない。布都は、屠自古が嫌い?」
他愛もない会話の中に投じた一石。布都の答えが初めて止まった。
欲の声が、小さく小さく軋んでいくのに、神子は耳を澄ます。
「……嫌いではありませぬ……が、不安になります……」
「屠自古が、蘇我だから?」
「いえ、それよりも……あやつ自身の気質です。あやつは聡すぎる上に、素直すぎる。またいつ太子様に牙を剥くやもしれません……」
ぎしぎしと噛み合わない音に、神子は微笑む。布都には見えぬ角度で、悲しそうに。
「そうね……次にああなったら、布都に始末してもらおうかな」
「……ご命令とあらば」
ぎしり。
神子は嘆息した。
7.酒盛り
季節は過ぎ、春を越えて夏になった。
ある蒸し暑い夜更け、神子は仙人と共に闇の中へ消えて行った。
そう遠くはない、しかし見えぬ主に、布都と屠自古はまんじりともせず屋敷で帰りを待っていた。
お互い同じ部屋へ詰めて無干渉。少なくとも屠自古は、そのまま夜が更けると思っていた。
神子に許しを得て借りた書を読み進める。
ふ、と、布都が部屋を出て行ったことを気配で感じた。
顔を上げると、襖を開ける後ろ姿が目に入る。
「おい、どこへ行く?」
布都は振り返り、にやりと笑う。
「少し小腹が減った」
屠自古は嘆息した。
部屋へ戻ってきた布都は、片手に酒の瓶、もう片手に軽いつまみと猪口を持っていた。
「器用なものね」
「指先だけはな」
布都は時々、屠自古に対してだけ自嘲のような言葉を吐くようになっていた。
いつも屠自古は黙ってかわした。
「夜は長い。まぁ、一杯やろうじゃないか」
布都が差し出した猪口を、屠自古は諦めたように笑って受け取った。
とくとくと、酒が猪口を満たしていく。
少し白く濁った酒に、無表情な顔が映る。
「お主は本当に陰気じゃな。酒持ってそんな陰気くさい顔をするものなのか?蘇我殿は」
「うるさい。お前が能天気すぎるのだ」
「ふふん。自信に満ち溢れた我に嫉妬するなよ」
「するか」
布都は楽しそうに笑うと、自ら手酌で酒を注ごうとした。
すかさず、屠自古がそれを奪う。
「……貸はつくらない」
布都は一瞬、呆気に取られたが、すぐにくつくつと笑った。
この日、布都はいつになく饒舌だった。だが、酒が進むにつれて口数が減っていく。
ついに、二人の間に会話が途切れた時。ふと、屠自古は気になっていたことを漏らした。
「……なぁ、布都」
「なんだ?」
「お前は……私がまた太子様に逆らったら、お前は、私を殺すか?」
布都は目を見開いた。
屠自古ははっとして、思わず猪口を取り落す。空になったそれは畳の上にことんと小さな音を立てただけだった。
緊張が流れる。
屠自古は猪口を拾いながら、うつむいて唇を噛み締めた。
「……すまない」
酔っている、と屠自古は思った。あの日以来ずっと抱いて来た問をなぜ今、うわ言のように漏らしてしまったのか、自分でもわからず戸惑っていた。
久方ぶりの酒のせいに違いないとかぶりを振った。
顔を上げると、布都が猪口に口を付けて、ゆっくりと酒を流し込んでいた。
ひどく緩慢な動作に思えた。手が震えているように見えたのは、気のせいだろうかと屠自古は思わず布都を凝視した。
「……そう、だな」
酒を飲みほした布都は、それだけ固く答えた。
「……太子様の行く道を阻む者は、我は、全て斬る」
「そうね……くだらない質問だった、忘れて」
「だが、その後どうなるかは我にもわからぬ」
今度は屠自古が目を見開いた。
布都は斜め下を見やりながら、か細く続ける。
「我も、時々迷う。……だが、そういう時はいつも立ち返る。己の真の願望に……」
手元が危うい、と屠自古は感じた。
酒の瓶に伸びた布都の手を、咄嗟に掴んで制する。
「もうその辺でやめておけ。……お互い、飲み過ぎた」
気付けば空の瓶が二本転がっていた。三本目に伸ばした手。思わず身を乗り出して掴んだことで、二人の距離が縮まった。
屠自古は思わず息を飲んだ。これ程布都に近付いたのは、物部が滅びたあの晩以来だろうか。
あの晩。虚ろな布都の笑いを、意味も解らず泣き続けた己を、思い出す。
布都はあの日以来、自嘲気味に笑うことはあっても、常に目には生気を湛えていた。
あの日が嘘のように。
「嘘であれば……よかったのに……」
屠自古は布都の手を掴んだまま、ぽつりと呟いた。
布都がそれをどう解釈したのかは計り知れなかった。しかし、布都のゆっくりとした動きをただ見つめていた屠自古は、次の瞬間固まった。
掴まれたのと逆の手で、掴んでいるのとは逆の屠自古の手を布都は取った。
そして、手の甲にそっと口づけた。
酒に酔い熱くなった手に、ひやりとした柔らかい感触が残って離れる。
屠自古は呆然とそれを見ていた。
布都は顔を上げると、いつものにやにや笑いもせず、真面目な顔で言った。
「なぜ拒まぬ」
その言葉に、屠自古ははっと我に返る。
「い……ち、ちがう!不意打ちに戸惑っただけだ!」
咄嗟に出た言葉に、また何を言っているのだと頭を抱えたくなる。だが、振り払う気にもなれず、じっと離してくれる時を待った。
「は、離して……」
「それを言うならお主が先に離せ」
「もう飲まないと誓え」
「いや、まだ足りぬ」
「ばっ……お前、その様子、強くないでしょ!?もうやめておきなさい!」
「ならば……お主が救ってくれるか……?」
ほとんど掠れるような声は、屠自古の耳にはっきりと届いた。
そして、掴んだ手をぐいと引かれて、そのまま倒れ込む。
「ちょっ……」
咄嗟に己が掴んでいた手を離して、布都の肩につく。
布都との顔の距離が、息遣いを感じられる程に近付く。
心臓がばくばくと音を立てているのが自分でもわかった。
「な、何を……」
屠自古は布都の眼を覗き込んで、背筋をぞっと震わせた。
虚ろで暗く、あの晩を思い出させる深さでありながら、どこか悲しげで必死に何かを押し殺しているような、深い鳶色。
落ちる感覚に囚われる。
耐え切れず、焦ったように屠自古は目を逸らした。
瞬間、布都の気配が変わった。
屠自古ははっとして布都をもう一度見たが、もうその瞳には暗く深い色は見当たらなかった。
「すまぬ。やはり呑み過ぎたようだ」
「あ、あぁ……」
「忘れてくれ」
布都は屠自古の手を、ゆっくりと放した。
放された屠自古の手が微かに宙を掻く。
先程の、熱すらも奪われそうな距離が嘘のように、布都との間に埋まらない空白ができる。
―――あぁ。閉ざされてしまった。
それは、屠自古にとって悲しいことのように思えた。
なぜ悲しいのかわからなかった。
8.異形の子、異形の手
屠自古がそこに座っているだけで、そこはまるで鳥かごのように思えた。
自らが座している時には、そのようなことは微塵も思わない。
彼女が、蘇我からの人質のようなものだからだろうか。一見、権力に流される儚い少女のように見えるからだろうか。
神子のいない部屋で、静かに座して書を読み耽る姿を、布都は襖の向こうからそっと盗み見た。
嘆息する。
彼女の心配など、する必要はないのだ。
布都は襖から音もなく離れた。
「……お主は、太子様の下で働くべきではない」
自然と口をついて出た言葉に、また嘆息する。
「なぜ逃げぬ」
それは、己に語りかけたのか、それとも彼女に語りかけたのか。
聞く者のいない言葉は廊下に消えて、布都はただじっと自らの手のひらを見つめた。
あの晩のことが、蘇る。
兄の剣をへし折り、この手でその膝を床につかせ、火を放った。
血と、木材と、人の焼ける臭い。
そして、断末魔の叫び声。
どれも鮮明にこびりついて離れない。
「……だが、我は人の形をしている」
布都は自嘲の笑みを浮かべて、手のひらを握った。
「いっそこの手が異形ならば、苦しまずに済むかもしれぬな」
救いを求める声はひどく震えていた。
* * *
白装束に身を包んだ少女は、がらんと広い堂の真ん中に一人座していた。
堂にあるのは、わずかな生活用品と、捧げものの農作物、酒。
少女は目を閉じた。ただ時を待った。
不意に堂の空気が変わる。部屋の隅に置かれた火が、ひとつ、またひとつと消えていく。
少女は身を震わせた。
堂の中におどろおどろしい声のような音が駆け抜ける。
中に木霊し、外から呼びかけるように。
次に、どんどんどん、と堂の扉や壁を叩く音が響いた。
少女は震えたまま、動かない。
何かが堂の中でうごめいていた。やがて、迫ってくる気配は感触に変わり、少女の肩に生暖かい何かが触れる。
「ひっ……」
少女は必死で奥歯を食いしばる。隙間から漏れ出る悲鳴。
耳元で何かぼそぼそと呟く声が聞こえる。少女はがたがたと震え、歯を食いしばり、膝の上の握りこぶしを強く強く握った。
聞き取れない声は終わらない。
やがて体中を包み込まれるような感触に、耐え切れず少女の意識は闇に落ちた。
少女が目を覚ますと、堂は元の空気に戻っていた。
ただ、火が消えたまま。やがて目が慣れてくると、周囲の捧げものがいくつか消えているのがわかった。
ほっと息をついて、いつの間にか流れていた涙の後をぐいと拭い、よろよろと立ち上がると、布都は堂の扉をそっと引き開けた。
少し時は経ち、布都は兄と共に神子の前に立っていた。
怯えた目つきを隠すこともなく、兄の後ろで、兄の服の裾を掴んだまま硬直していた。
「先日まで神に仕える身だったもので、世間知らずの怖がりなのですよ」
兄の声が、少し困ったように、また申し訳なさそうに、そう説明する。
「そう。よく、がんばったんだね」
顔を上げると、少し背の高い神子ににこ、と微笑まれた。
それを見た布都の肩の力が少し抜けた。
神子は立ち上がると、布都の目の前まで近付く。
布都は、畏れるように少し後ずさった。
「私は豊聡耳神子。これから君は私の従者になるんだよ。よろしくね、布都」
「……は、はい、よろしくお願いします……」
小さな声だった。
神子は布都の手を、そっと握った。
瞬間、布都は弾かれたように顔を上げ、神子の顔を見つめ、また手を見つめた。
神子は、ただただにこやかに微笑んでいた。
守屋が去り、二人きりになる。
「すごいね。手を握っただけでわかっちゃったの」
「あ、あの……!」
「そう。私には特別な力がある。君と同じように」
神子はそっと、布都の頭に手を乗せて、優しく撫でる。
「苦しかったでしょう。辛かったでしょう。一族全ての平安の代償に、神々と触れ合うのは。大丈夫、もうあの場所には戻させはしないよ」
布都は目を丸くした。そして、徐々に顔がくしゃりと歪んでいく。
「代わりに、」
神子は撫でる手を止め、布都の耳元でそっと囁く。
「その力、これからは私のために使うんだ」
何も聞かず、布都はただ黙って無抵抗にこくりとうなずいた。
9.背中
その日は、屠自古はいなかった。珍しく蘇我の家に戻っていた。
外は雨。ここ数日ずっと続いている。
こう、続かれると、嫌でも気分が落ちる。
ただ、それとは関係なく。
「太子様、お疲れですか?」
書を整理する手を止めて、布都は振り向きざま尋ねた。
「……そうだね、少しばかり」
書の中身に目を通していた神子も、顔を上げて答えた。
「蘇我がうるさくてね……さすがの私も少し辟易しているよ」
「そうですか……我の力は必要ですかな?」
「いや、大丈夫。屠自古が少し動いてくれている」
「屠自古ですか……」
布都は顔をしかめた。
「あやつの言葉を聞きはしないでしょう、蘇我の者どもは」
「直接はね。大丈夫、屠自古は賢い子だ。策を持ってるよ」
神子は立ち上がると、おもむろに布都に背中を向け。
「よっと」
寄りかかった。
布都はそれを難なく受け止めると、はにかんで。
「少しお休みになりますか?」
「ううん。いい。これがいい」
「我の背中では、心地悪くないでしょうか?」
「そんなことないよ。暖かくて、気持ちがいいよ」
「……有難きお言葉」
「ねぇ、布都」
「はい?」
神子の視線の先を追う。
しとしとと降り続く雨の中、紫陽花が庭に咲き乱れている。
「千年後も、ああして紫陽花は綺麗に咲いているのかな」
「どうでしょう。我には難しい問です」
「咲いていてほしいなぁ。紫陽花。綺麗なものは、綺麗なままでいてほしい」
「そうですな」
「ねぇ、布都」
「はい」
寄りかかる背中が重くなった。
いつになく弱い声、気配に、布都の顔にも少し緊張が走る。
「ずっと傍にいてくれるよね?」
「もちろんです」
布都は即答した。この手の問は、初めてではない。
初めてではないし、聞かれるまでもないが、いつ聞かれても布都は一点の曇りなく答えるつもりだった。
「約束だよ?」
「どうしたのですか。今日は、いつになくお言葉が弱いですな」
「怖いんだ」
苦笑しかけた布都は、息を飲む。
「怖いんだ。どうしようもなく、怖くなる、時々。全て聞こえてしまう耳も、全て思い通りになってしまう手のひらも、異形の力も。本当に私はまだ人間なのかなって、孤独になる」
布都は視線を床に落とした。
整理しかけた書が散らばる床。
どれだけの知識を詰め込んでも、消し去ることができない傷がある。
初めて出会った日のことを思う。
握られた瞬間、全て悟った。この人は自分と同じだと。
そして、それでもなお崇高な使命を全うしようとしているのだと。
その手を自ら離すことなど、決して考えられない。
「大丈夫です。布都がおります。ずっとずっと」
「うん」
神子は答えたが、その真意は布都にはわからなかった。
外を見ると、変わらずしとしとと降り続く雨。
「ずっとこうしてたいな」
「太子様がお望みならば、いつまでも」
「布都、疲れない?」
「なんの。半端な鍛え方はしておりません」
神子が声を上げて笑った。振動が背中を伝う。
布都も自然と笑みを浮かべて笑った。
10.ひと時
夏と秋の境目。暑い日差しが陰りを見せてきた、晴れの日。
神子の別宅は静まり返っていた。ただ、一部の部屋を除いて。
この日、神子は布都と屠自古以外の人間に暇を出した。
夕食の時間が近づき、屠自古が並べた料理は3人にはやや余りある量だった。
「おぉ……すごいね」
それを目にした神子は、ごくりを唾を飲み込んだ。
「屠自古は料理までできるの……」
「大したものではありません……その、お口に合えばよいのですが……」
「見るからにおいしそうだよ。君はどれだけ器量がいいんだ……」
「そっそんな」
「私が男なら、喜んで嫁に迎えたのに」
「なっ何をおっしゃってるんです!?」
慌てて真っ赤になる屠自古に、神子は声を上げて笑った。
夕食を食べ、酒を少し飲み、夜が緩やかに過ぎていく。
外から聞こえる虫の音に秋を感じながら、屠自古はふと横を見やり。
手酌で酒を注ぎ足す布都に、呆れたように目を細めた。
「おい、布都、飲み過ぎだ」
「そんなことはない」
「太子様の前で失態犯しても知らないぞ」
「何を!?我はこう見えても強い!失態など犯すものか!」
「へぇ……」
いかにも胡散臭いものを見るような屠自古の視線を受けて、なお布都は胸を張って言った。
「おいしいよねぇ、これ」
そんな二人を見守りながら、神子は盃を空ける。
「屠自古、これどこで手に入れたの?」
「あ、はい、兄上の蔵から拝借しました」
「お主、器量は良いが手癖は悪いの……」
「うっうるさいわね!」
屠自古はぐいと盃を空ける。
「いいんだ、散々私を馬鹿にしてきたやつらにこれくらい。かわいい仕返しだ」
「あはは、いいねぇ、そういうの好き!よくやった、屠自古!」
「あ、ありがとうございます……?私は褒められていますか……?」
「褒めてるよ?」
「……」
「疑ってる?」
「いえ……」
「顔に書いておるぞ?」
「うん」
二人から口々に言われ、屠自古は顔を逸らした。
「お主は本当にわかりやすいの。まるで雷のようなやつじゃ」
「ど、どういう意味よ」
布都はからからと笑うと、屠自古を指さしさらに笑う。
「盛大に光るくせに、音は数刻後」
「全くわからない」
「つまりな、感情が顔から先に表れる、そのくせそれを表に出して良いか悩むから、口に出すまで数刻ずれる!もう遅いわ、ばればれじゃ!」
布都の言葉に、屠自古の顔は徐々に怒りを帯びて行った。
「う……うるさいなぁ!」
「ほんとだ!」
「太子様!?」
「あ、ごめん。ごめん。睨まないで!」
「……もうっ!」
屠自古はむくれて顔を逸らし、笑い声を横顔に受けながらふと思う。
かつて、このような輪に己が混ざる光景を思い描いたことがあっただろうか、と。
まるで、普通の友のように、酒を酌み交わし、笑い合う日など、自分には来ないと思っていた。
ましてやこの二人と。
ふ、と、密かな願いが首をもたげる。
この日々がこのまま永遠に続けばいいのに、と。
それが叶わぬことも、よくわかっていた。
11.別れ道
紅葉の舞い散る道を、屠自古は脇目も振らずに疾走していた。
都の郊外の、人気のない地区へ向かう。
そこには、布都の自宅があった。
「永遠の命を得るために、一度、死ぬよ」
神子は、淡々と、微笑すら浮かべ屠自古にそう告げた。
微笑の奥を読み取ろうと、屠自古は必死にその目を見た。
見たが、それよりも先に手段への疑問と怒りが噴出してしまった。
がっと、屠自古は神子の首元に掴みかかる。
神子は抵抗しなかった。首元を掴まれたまま、静かに屠自古を見下ろしていた。
ぎり、と奥歯を噛み締めながら、屠自古は押し殺すように小さく言葉を発した。
「保障は、あるのですか……」
「保障は、ないね」
「布都は……」
「……布都は、私について来てくれると、言ってくれた」
「っ……!」
屠自古は、神子を掴む手を震わせた。
「……それが、あなたが目指す、平安を保つための、力を得る手段ですか……?」
「そうだね」
「そう、ですか……」
屠自古は神子から、震える手を離した。
神子の顔から笑みが消えた。
「屠自古?」
屠自古はうつむいて拳を強く握った。
「私は、その方法に賛同することはできない……けれども、ここであなたと口論することに意味がないことを、知っています。だから」
息を切らして、門の戸を押し開けた。
一人で住むには大きく、名のある豪族としては小さな家は、ただ一人の気配しかしない。
屠自古は断りもなく踏み込んだ。
ここに来るのは初めてだった。
それでも、隠しもしない気配をたどって真っ直ぐに庭を、廊下を進んでいく。
「……不躾だな。蘇我は、人の家に入るに許可を取らぬのか?」
部屋の中央で背を伸ばし胡坐をかく姿は、一点の曇りもなく。
澄んだ目でこちらを見た布都に、屠自古は札を投げつける。
ばちりと放電の音と共に、それは布都がいた床を焦がした。
「その上言葉もなく襲いかかるか……まったく、お主はいつもそうだな!」
背後から聞こえた声に驚きもせず、屠自古は振り向いて抜き放たれた剣をかわす。
「先に言葉で言うてみよ。お主と今戦うのは、本意ではない」
布都は剣を構えたまま、屠自古に語りかけた。
屠自古は怒りを隠さず顔に出したまま、しかし静かに答えた。
「太子様の計画を、なぜ止めない?」
「……聞いたか」
「なぜ、止めないの?」
「止める必要があろうか……太子様は、真の王になられるお方だ。その一歩をようやく踏み出せるというのに」
「では、なぜお前は止まらない!」
屠自古の手には次の札が幾重も現れる。
周囲にはばちばちと光が走った。
「お前が止まれば太子様は止まった!」
「……だから、我は止まらぬのだ」
布都は隙なく剣を構え直して。
「太子様をひとりにするわけにはいかぬだろう?」
布都はこの場に似つかわしくなく、にっこりと笑った。
どん、と地を揺るがす音と共に、布都の体が襖を突き破った。
とんと身軽に降り立った体に、雷が迫る。
布都が剣を振るうと、雷はばちりと火花を散らして消えた。
「ちっ……」
しかし、布都は舌打ちする。雷を切り裂いた反動が、小さな体を宙に浮かせる。
布都は動きを止めない。宙で体勢を整えるとすぐに地面に降り立ち、また次々と場所を変えながら向かい来る札を掻い潜り剣で切り裂く。
ひゅん、と耳元を風切る音が過る。音と同時に、手足に痛みが走った。
鮮血が、舞う。
「まったく、容赦ないな……」
布都は諦めたように笑った。
屠自古は庭に降り立つと、懐から小剣を取り出した。
「容赦などするものか。お前の力は……よく知っているのだから」
屠自古の脳裏に、遠くから眺めた燃え落ちる寺が過る。
ずっと、疑問だった。あのようなことを、なぜ表情一つ変えずにやってのけたのか。
本当に、この少女にそのような非情さが備わっているのか。
「ははっ。悲しそうな顔をするな。これから殺そうという相手に」
「殺す……」
布都の言葉に、屠自古は一瞬ためらいを覚えた。
布都は目を細める。
「……だから、お主は向かないのだ」
屠自古ははっとして、動き出した布都に小剣を投げた。
1本、2本、3本。布都の周囲に円を描くように、地面に刺さっていく。
そして、札を構え。
「私には私のやり方がある!」
じり、と鼓膜を震わせ雷が庭を駆け巡った。光は庭の木々を焼き切りながら、地面の剣と剣の間を、屠自古の構えた札と剣の間を、縦横無尽に駆ける。
「くっ……!」
ちり、と飛散した力が屠自古の頬をかすめて傷を作った。稲光が、聴覚と視覚を埋め尽くす。
ばちり、手ごたえを感じた。
「やっ……!?」
しかし屠自古の視界に入ったのは、稲光の中地面に刺さった一刀の剣だけだった。
ばちりと剣に雷が攻撃を加えている。
その時、頭上に熱量を感じて、屠自古はそのままの体勢で空を見上げた。
布都と、その手に掲げられた巨大な火炎球。
脳裏に浮かんだのは、焼け落ちる物部邸。
「……あぁ」
諦めたような声を上げた屠自古に、布都が手を振り下ろした。
轟音と共に、庭の全てが吹き飛ぶ。
木々は焼け落ち、地面は大きくえぐられた。屋敷の縁側も崩れ落ちた。
中央で防護の札を構えた屠自古は、辛うじて耐えた体の痛みに顔を歪め、札が焼き消えると共に焦土に倒れた。
意識はあった。
ざり、と近くに立った布都の気配がした。重い体を仰向けにする。
視界が霞む。布都が何かぶつぶつと念じているのが聞き取れない。
無抵抗に横たわっていると、布都の放った札が屠自古を囲んで四つ角を形作った。
布都の声は次第に大きくなり、屠自古の耳にも判別ができるようになる。
それがどういった類のものか、屠自古には理解できた。しかし、抵抗する力も意志も湧き上っては来なかった。
悔しいとも、憎いとも思わなかった。
屠自古を橙色の光が包み込む。眩しさに屠自古は目を閉じた。
布都の声が一際大きく響いた後、屠自古は体の中に強い衝撃を感じた。
「あっ……ぐあっ……!」
屠自古は胸を掴んだ。何かに心臓をわしづかみにされるような感覚。
そして、光は屠自古の中に吸収されるように収束した。
屠自古は苦しい呼吸で布都をもう一度、見た。
布都の顔は今まで見たことがない程、苦しげに歪んでいた。
「お主に呪を刻んだ。我が死のうとも、お主はそれから逃れることはできぬ」
「何の呪だ……」
「……お主も、共に来てもらう。我と、太子様と共に。永遠の時を生きるのだ」
「そういう……ことか……」
屠自古は悟った。ここに来たのは己の意志ではなかった、と。
太子に操られたのか、はたまた布都にはめられたのか。
今となってはどちらでも良い事だった。
「……恨むなら我を恨め。恨み殺すほどにな」
そんな屠自古の思考を遮るように、布都は膝をつきそう呟いた。
握った拳が震えている。
「……お前は、どこまで馬鹿なのよ」
屠自古は手を上げる。残りの力を振り絞り、布都の顔を抱き寄せ。
「……!?」
一瞬、唇が重なった。
「……おい」
屠自古は力なく笑った。
「いつかの、お返しだ……言ったでしょ?貸は作らないんだ……」
布都はますます顔を歪めた。
「お主こそ馬鹿者だ。これでは……これでは、この世に未練ができてしまうではないか。我もお主も、これから死ぬのだぞ?」
「いいじゃない。生き返りやすくなるかもしれない」
その時、屠自古の頬に雫が落ちた。
一つ、二つ、それは止め処なく、屠自古の頬を濡らし続ける。
次第に嗚咽が大きくなり、押し殺せなくなり、涙に呼応していく。
「屠自古、済まなかった」
しゃくり上げる布都の言葉は堰を切って溢れ出す。
「我にはどうしようもなかった。お主だけは汚したくなかった。汚れるのは我だけで十分だったのに……だから、許さなくてよい、永遠に我を恨めばよい!」
布都は嗚咽しながら地面を叩いた。屠自古はただ、力なくそれを見ていることしかできなかった。
どん、どんと地面を叩く音が体に響く。
屠自古は地面を叩き続ける布都の手を取った。
布都が驚いて顔を上げる。
地面にこすり付けた拳は、血と土とで赤黒くなっていた。
屠自古は、布都の拳と泣き濡れた顔を見て、ふっと笑った。
「……少しは、自分の命のことも嘆いたらいいのに。やっぱりお前は馬鹿だ。一途で、馬鹿で、優しすぎて、どうしようもない」
屠自古の指先が布都の頬を拭う。
「お前のことは最初から気に食わなかったけど。演じるなら、最期まで汚れ役を演じなさいよ、物部布都」
布都は信じられないように目を見開いた。
「お前だけ先に辞めるなんて許さない」
屠自古の手は、言葉とは対照的に優しく布都の頬を撫でていく。
「私は最期まで、太子様の監視者を演じ続けるのだから」
* * *
澄み切った空を、神子は見上げた。
小鳥が舞い、雲が行き、優しい風が頬を撫でる。
「なぜ、人は死を受け入れなければならないのか」
その問いかけに、少し離れて立つ屠自古は無表情のまま答えなかった。
「君達といたことで、少しわかった気がするよ」
「……と言いますと?」
神子は振り向いた。
「人は、変わらずにはいられない。不変で在ることはできない。どんなに強い想いがあっても、変質してしまうものだ」
屠自古はそれには答えず、足を神子の方へ踏み出した。
「それでも私は、変わることはできない。この国の……守り手だから」
「あなたがそう在ることを、布都は望んでいました」
「……行こうか」
「はい」
歩き出した神子の一方後ろを、屠自古はついて行く。
生涯神子を追い、追い越して行った布都の気持ちが少しだけわかった気がしていた。
12.神霊廟
屠自古は目を覚ました。
冷たい棺の上。
ぼやけた思考と記憶は、見覚えのない廟の中で戸惑う。
これは、一体誰の棺だろうか。
屠自古は棺にそっと触れる。
その瞬間、全てを悟った。
この棺の主。この廟の主。そして、呪の意味と己の存在、そして役目を。
「……物部め。やったな」
己の体が、ささやかな抵抗の結果なのか、それとも本当に呪いなのか、屠自古にはわからなかった。
ただ、目覚めたらまず殴りつけてやる必要があると思った。
どこからともなく、壁をすり抜け仙女がやってくる。
「安定して存在するには、もう少し慣れが必要ですわ」
屠自古は手を握っては開いてを繰り返す。感覚がない。
肉体を奪われたという実感が湧いた。
憎たらしい笑顔が浮かぶ。
しばらく握っては開いてを繰り返していると、急激に眠気に襲われた。
自然と棺に背を預け、目蓋を閉じる。
まんまとはまったか、正直者め、と、無邪気な笑顔が脳裏に浮かんだ。
「おやすみ……」
屠自古は小さくつぶやくと、意識を手放した。
終。
この物語をこの長さに収めたこともすごい。
キャラの所作が若干芝居がかっているようにも思えましたが(息をのむ、驚いて○○する、目を見開く、嘆息するなどがちょっと多い)些細なことかと。
時代補正と思えば納得です。
史実どうこうは気になりません。話としての筋が面白いのでそちら優先でいいと思います。
ナチュラルに人外なのはそういうものだと割り切りました。
その方が楽しめますし、楽しみたいと思わせられる作品。
神霊廟ものの作品を思い出すとき、最初に浮かぶ作品になりそうです。
誤字らしきもの
歩き出した神子の一方後ろを、屠自古はついて行く。
↑一歩後ろ?
ダイジェストみたいに矢継ぎ早ですが、三人の立ち位置にブレがないから、読む方も集中できますね。
屠自古も、布都も、神子も……それぞれ、三様に純粋さを希求したのだと思うと、なんとも切ないですね。
ですが申し訳ない、面白そうな雰囲気も伝わったのですが
肝心の「面白かった」というところまでは至りませんでした。