雉が鳴くのが聞こえた。
季節は桃香る春の頃。ひとり川辺に腰を降ろし、水のせせらぎに耳を澄ませていた彼女――鍵山雛は、裏手にある森の中から、彼の鳥の鳴き声を聞いた。
彼女はすくりと立ち上がる。何処にいるのだろうと目を凝らしていると、またその鳥の声が聞こえてきた。
何か楽しい事でもあったのだろうか。
何か嬉しい事でもあったのだろうか。
雉が何を想って鳴くかは知れないが、景気の良い彼の鳴き声は、沈んでいた彼女の心を僅かばかりも慰めた。
彼女のいる反対側の岸、川向うの人里からは、賑やかな祭囃子の調子が聞こえてくる。稗田のところに九代目御阿礼の子が生まれたのだそうだ。
此度の冬は長かった。例年よりも長く厳しい冬の終わりに授かった阿礼の御子は、里人にとり、まるで天から与えられた褒美の様にも感ぜられた。
今年は良い年になるだろう。
今年は恵み多い年になるだろう。
彼らにとっては希望の灯とも言える慶事に、それを寿ぐ祝いの催しが連日のように開かれた。
当然、そこに厄などあってはならない。
ならばこそ、彼女の居場所は川向うの岸辺なのだった。
鍵山雛は厄を集める厄神であった。人や物から厄を取り除き、彼らの幸福をただ祈る、大変徳の高い神であった。
しかし厄は、除けば除くほど彼女の周りに満ちていくものだった。彼女は自ら厄を纏うことでそれを取り除く。そして、人々から集めた厄は、彼女の傍を旋回するように漂い、近付く者を不幸にせんと油断なく狙っている。
そのため彼女は、誰からも遠避かり、遠避けられる存在になっていった。
(それが不満な訳ではないのだけれど……)
喜びに参加出来ない彼女は、せめて川向うから眺めている。
また、雉が鳴いた。幾ら目を凝らせども、彼の姿は相変わらず見えない。しかし、遠くに鳴くその雉は、確かに自己を主張して、否が応にもその存在を意識させられた。
彼女にはそれが愛おしく思える。
独りの彼女は、知らず知らずの内に歌を唄う。誰に教わった訳でもない、ただ自然と出てくる音律をそのまま口にした。
人と触れ合えぬ寂しさを紛らわせんと口をついた歌だが、幾年も続けている内に、何時しかそれは彼女自身の曲となった。
何か想うことあれば、彼女はその曲を唄う。
誰か私を知って下さい、と。
言葉に出せぬ言葉を乗せた。
唄いながら河岸を歩いていると、彼女は目の前に横たわった流木を見つけた。
雪解けの増水に流されたのだろうか、それは上流の山間にある桃の木だった。根元から流された桃の木は、最早己の力で生きる術はなく、ただ朽ち果つるを待つのみとなっていた。
彼女はそっと桃の枝に手を触れる。冷たくなったそれは、厄に満ちた生涯をまさに閉じようとしていた。
此度の冬は死を誘う冬だった。少し山の中を覗くと、今でも冬の爪痕がしっかり残っている。
死の穢れは広く郷を覆い、降り続く雪と冬の冷気は人身から体力を奪い、資源を奪い、活路を奪った。
年若い子供たちや年老いた老人たち、弱いものから順に死んでいった。
結局、何人がこの冬の犠牲になったかは知れない。だが、決して少なくないとだけは、彼女もよく承知していた。
きっとこの桃も冬を超えられなかった犠牲者なのだろう。
彼女は桃の枝を視線で辿っていく。すると、厄にまみれたその桃に、ひとつばかりの蕾を見つけた。
懸命に生きようとした桃の最後の悪あがきなのかも知れない。だが、余りの多くの厄に覆われた蕾は、花開く前に潰えてしまうだろうことが彼女には分かった。
(例え払ったところで、開いた瞬間に散ってしまうだろうけれど……)
それも厄神の彼女には分かっていた。
だけど折角の祝いの日だ。この桃の花とて、せめて一時、喜びを分かち合いたいだろう。
彼女はそう思い、蕾にそっと手を翳す。
蕾の先から、彼女にしか見えない何かが吸い上げられていく……。
暫らくして桃の花が開いた。
弱々しく、されど気高く。一瞬の生を生きたその花は、しかし、すぐにその首を刈られてしまった。
ぽとりと落ちた花弁は、ゆっくり川下に流れていく。花には吸い上げきれなかった厄が纏わりついているようだ。
(やはり無駄なのだろうか……)
そう思いつつも、彼女は流れていく花弁を見送っていった。どのみちこの世にある厄を全て払い切ることはできない。
ならばこそ、また唄を歌おうと思った。
彼女は歩きながら歌を唄う。もしかすると自分が見送ったあの花の厄が誰かを傷つけるかもしれない、そう思ったから。
自分を知ってほしくて歌い始めた唄を、今の人々を遠ざけるために使っているのだ。
なぜなら彼女の唄を聞いた者たちは、口を揃えてこう言うのだから。
厄神様のお通りじゃ、厄が怖けりゃそら逃げろ――、と。
最早その歌は、人々にとり、不吉を知らせる警笛でしかなかった。
彼女は唄うことで、自分はここに居るのだと知らしめる。自分にはこういう役割があるのだと知ってもらおうとする。
しかし彼女の唄が聴こえてくると、人々は早々にその場から立ち去ってしまうのだ。
彼女の傍は厄に満ちているから。
彼女の傍に近付くとその厄に祟られるから。
何時しか彼女こそが、厄をもたらす厄病神と思われるようになった。
(ああ。こんなつもりではなかったのに。私は人間の幸せを願っているだけなのに……)
そんな彼女の嘆きは誰にも届かない。
虚しさと寂しさと、少しばかりの後悔を胸に、だが、それでも言祝ぎの歌を彼女は唄った。
森の中では、まだ雉が鳴いている。彼もどうやら春を祝っているらしい。
この声ならきっと川向うまで届くだろう。賑やかな祭囃子の調子に混ざり、宴に色を添えることだろう。
だが彼女には、それが自分に対して向けられている声にも思えた。
遠くから声を伝える手段を持つ彼だからこそ、誰も近付けぬ自分に声を掛けてくれているのではないかと、そうしてささやかな慈悲を与えてくれているのではないかと、そんなふうに思えた。
そして彼女はまた歩く。どこかに災いがないだろうか。厄に祟られ困っている人はいないだろうか。彼女は己の役割を果すため、厄を探して歩みを進めた。
雉は、雉だけが、そんな彼女に合わせるように声を発していた。彼女と共に、川向うからの唄を歌い続けていた……。
だが。
「――ッ」
雷鳴の様な破裂音がした。驚いた山鳥たちが一斉に羽ばたいていく。
――あれは猟師の使う鉄砲の音だ。
ひととき騒然とした森は、しかしすぐに静まり、また何事もなかったように日常を取り戻していった。
彼女は森の中へ耳を傾ける。
だが、いくら待てども雉の鳴く声は聞こえてこなかった。
誰か彼女に救いの手を……