空ばかり飛んでいるから、足が退化してるんじゃない。そう言われた。
「使わない部分は突然変異でなくなっちゃうかもしれないね」
「神奈子さま……怖いことを仰らないでください」
「あながち冗談じゃあないかもしれないじゃないか。早苗のことだし、奇跡が起こるかも」
「そんな奇跡はこちらから願い下げです」
奇妙な会話をしながら、神奈子さまは私のひざに絆創膏を貼ってくれている。
神奈子さまにお昼ごはんを届けようと、間欠泉地下センターまで空路で向かったのだった。ところがいざ着地というタイミングで、岩地に足を引っかけて盛大にこけた。神奈子さまの目の前で。はずかちい。
「はい、これで大丈夫ね」ひざのすり傷を手当てし終え、神奈子さまは絆創膏の上から平手ではたく。「あとはつばでも付けておけば治るさ」
「絆創膏の上からですか?」
「そりゃあんた、傷口に直接つばなんて塗ったら汚いじゃないか」この会話なにかがおかしい。
それじゃあね、と神奈子さまはセンターの中へ引き返していく。その背中に大きな声でお礼を言うと、左手をあげて応えてくれた。
さあ私も帰ろう。間欠泉地下センターの周辺はどうにも空気が良くないのだ。ちらほらとではあるけれど、目視で確認できる程度には、怨霊がふよふよと空中を泳いでいる。妖怪ですら怨霊は危険なのだから、人間がいつまでもうろうろしているのは良くない。
「……あ、お弁当」
ちょうど神社に帰ってきたあたりで、今更それに気づいた。けがの手当てばかりに気を取られ、本命の用事をすっぽかしてしまったのだった。
もういちどセンターへ行こうか。二度手間だけど仕方がない。ああ、なにをバカなことしてるんだか。
「あ、早苗。帰ってきてたなら言ってよ」
背中に声がかけられた。ふり向くと、視界の下の方にケロちゃん帽子が見える。
「諏訪子さま」
「ただいまの挨拶は国民の三大義務なんだからさ」そんなのありましたっけ。「そんなことよりお腹空いたよ、早苗」
「あ、すみません。その、実は――」
神奈子さまにお弁当を持っていかないといけないものですから。そう言おうとしたところで、悪知恵がピンと電球を照らした。
「――もう作ってあるんです、諏訪子さま。ほらっ」
「んー? おお、お弁当」
「諏訪子さまの分に、と思って。作っておきました」
手に持ったお弁当を持ち上げて、にっこり笑った。あいにく詐欺は得意なのだ。諏訪子さまも喜んでくれているようで、なによりである。
しかしこのままだと神奈子さまは昼飯ぬきになってしまう。ジレンマだ。どうして解決したものか。
「……まあ、お夕飯でアユの塩焼きとか作って差し上げれば、赦してくれるよね」
「え、今日の夜はアユなの?」
「そうですよ諏訪子さま」
「やったあ、さなちゃん大好き」
諏訪子さまも喜んでくれたようだ。これでひとまずは何とかなるだろうと黒い考えが頭をめぐる。
実際、その日の夜、神奈子さまはとくに怒っている様子もなく、ただアユの塩焼きが食卓に並んでいることを喜んでいた。曰く、午後はちょっとしたトラブル(霊烏路空氏が色々とやらかしたらしい)の処理で忙殺され、昼飯を食べる暇すらなかったのだとか。
幸運が重なって、私はおとがめを受けることなく一日を終えることが出来た。意外となんとかなるものなのだな、とサボタージュの甘い蜜を吸っていた。
今から思えば、こういう自分本位な考えが、つけ入られる隙を作ってしまったのだろうか。
◇
夢を見たのだ。それも普通の夢じゃない。なんだかとてもしあわせな夢だった。
その内容がなんともひどいのだけど、お花畑のような場所で、私と神奈子さま、そして諏訪子さまが駆け回っている、そういう夢だった。
これがリアル版『頭のなかがお花畑』かあ、と起きた瞬間はさばさば考えていて、同時に覚めてしまったことがなんとなく惜しいような気持ちになった。
「それはもう、そろそろ死ぬんじゃない。早苗」
お二人に夢のことを話すと、朝食のおみそ汁をすすりながら、神奈子さまはまたろくでもないことを仰る。
「どうしてそうなるんですか」
「早苗がいたのは多分天国だよ。お花はぜんぶ彼岸花だね」
「そんなむちゃくちゃな」
「あ、わかった、あれだよ」諏訪子さまが横やりを入れてくる。「きっと引っ越しの下見に行ったんだよ、早苗は」
「なんで天国に引っ越ししなきゃいけないんですかっ」
「まあ地獄じゃないからいいじゃないか。早苗は善行をたくさん積んだんだね。いい子だ」
「さなちゃんいい子いい子」
「神奈子さまも諏訪子さまも今日は昼飯ぬきです」
お二人が畳に頭を擦りつけたところで朝のてんやわんやも終わりを告げた。お花畑もいいけれど、みんなでわいわいやる方が、私は好きだなあ。
それは偽りのない本心だった。でも、その日の夜もまた、私は夢を見た。
次の日の晩も。その次の晩も。また更に翌日の晩にまで。もともと夢をまったく見ない、という訳ではなかったけれど、毎日はっきりと夢の記憶があるのも珍しいなと思ったし、なにより違和を感じたのは、その夢の内容が変わらないことだった。
お花畑を、私と神奈子さま、諏訪子さまが一緒に走り回っている。
変わらず、しあわせな気持ちになれる夢だった。連日の夢にいぶかしむ気持ちはあった。でも実害はなかったし、むしろしあわせになれるのならラッキーだなと、そんな程度に思っていた。
「早苗、ちょっと」
そんな日々のなかで、その出来事はふいに訪れた。
神奈子さまがお茶をちょうだいというから、すこし出涸らし気味の葉を使って入れたのだけれど、これが良くなかったらしい。疲れている者に出涸らしのお茶を出すのは非礼だぞ、早苗。こんな具合に、私は説教されてしまった。
私はそれをまじめに聴いて、反省もしていたけれど、反面「今日はご機嫌ななめの日なのだな」と心のなかで苦笑いもしていた。神奈子さまが用を足しに席を外したとき「災難だね早苗」と諏訪子さまが茶化してきたのもそれを手伝っていた。
だからそんな、のちに遺恨が残るとか、そういう重大な出来事などではなかった。実際私も、反省しつつ「神奈子さまのご機嫌取りに今度何か買ってこなきゃ」などと楽観的な考えを巡らせていたのだ。
ところが、その日の晩は、いつもとは夢の内容が違っていた。
すこしいざこざがあった分、夢の中でしあわせな気持ちになろう。そういうやましい気持ちがあったからこそ、それに気づいたのだろう。その日、夢のなかの私は、お花畑ではなく守矢神社の境内に立っていた。
ほうきを両手に持ち、境内中のごみやちりを掃いている。いつも通りの日常。現実と変わりのないいつも通りの日常に、あれと思った。今までのように、お花畑で楽しく駆けまわっていたような、あからさまな虚構の世界とはかけ離れているものだった。
「早苗、お腹空いたよ」
諏訪子さまの声が聞こえてくると、私は掃除を切りあげて台所に向かった。正午をすこし過ぎた時間で、とくに手の込んだというわけでもない昼食を諏訪子さまに作ってあげる。すると諏訪子さまは、どうしてか、たいそうお喜びになる。
「さなちゃんの料理はいつもおいしいね。大好き」
ぱくぱくと諏訪子さまは昼食を口にほうり込む。その度においしいおいしいと、私のことをべた褒めしてくれる。
なんだかよく分からなかったけれど、褒めてもらえることは、純粋に嬉しかった。諏訪子さまのやさしい言葉が心にじんと染みて、しあわせな気持ちになった。
前触れもなく、あのお花畑が脳裏をよぎる。お花畑、それはしあわせになれる場所。そう思っていたけれど、今しあわせを感じているこの場所は、お花畑じゃない。
「お花畑じゃないのに、こんなにしあわせでいいのでしょうか」
私の質問に、まるで諏訪子さまは、待っていましたとばかりに答えた。「いいの。だって、ゆめだから」
その言葉にはっとした瞬間、私は布団のなかに身体をうずめていた。
夢と現実の境界線は、はっきりと認識することができた。これまでのは夢で、これからが現実。
しあわせな世界が夢で、じゃあ現実は。一瞬でもそんなことを考えて、私は頭をぶんぶん振りまわす。
◇
あいかわらず夢に実害はないと思っていた。毎日のように夢は見るけれど、一日頑張ったことへのご褒美なのだと考えると、こういうのも悪くないな。そう思うようになった。
それでもひとつ、嫌だなと感じることはあった。朝の目覚めがあまり良くないのだ。しあわせな夢から現実へ引き戻されたことで、ひどく残念に思うのは前からのことだったけれど。そのときどうしても、夢の世界と現実の世界を対比してしまうのが私は嫌で仕方なかった。
「……早苗、だいじょうぶ?」
自己嫌悪に似た気持ちで居間へ向かうと、ふいに諏訪子さまは、私の顔を見て言う。
自分の心中を見透かされたように思えて、ほんのすこしだけ焦って、でも冷静に考えれば、そんなはずはないのだ。
なんのお話ですか? 問い返すと、案の定私の心配は取り越し苦労だった。
「目の下。くまがすごいよ」
え。まばたきを一回二回とくり返して、その間思考は固まっていた。
そんな私の挙動を、諏訪子さまは変わらず心配そうに見上げている。
「寝不足?」
「え、あ、いや……そんなことないと思うんですけど……」
「まあ、若いし、夜更かしもしたくなるよね。でもほどほどに。わかった?」
めずらしく諏訪子さまが説教したと思ったら、すぐに人懐っこい笑顔を見せてくれる。
私は愛想笑いを浮かべて、生返事をしつつ、内心では疑問に思っていた。宴会でもないというのに、夜更かしなんてする理由がない。生活リズムにはとても自信がある、はずなのに。
ところが、身体もそれに同調しているようだった。昼間から妙にあくびが止まらない。しっかり眠りはとっているはずなのに、どうしてか、私の身体は睡眠を欲しているように思える。
そんな状態が何日も続くようになると、流石の私もまいってくる。変わらず、例の夢は見る。舞台はやっぱり守矢神社で、しかしシチュエイションは少しずつ変わっているようだった。
料理を褒められたり、掃除が熱心だねと褒められたり。勿論、諏訪子さまだけでなく神奈子さまからも褒められる。べた褒めだ。
私はしあわせな気持ちになる。しあわせな気持ちで夢の世界を過ごして、朝になるとそれが覚めて、残念な気持ちになる。最近ではくだんの寝不足もあって、夢の世界にずっといられればいいのにとか、そういう考え方が私のなかで台頭し始めていた。
そんなとき、私はまた、やらかした。
言い訳になるけれど、確実に寝不足が原因だった。神奈子さまのお部屋を掃除しているとき、誤って花瓶を割ってしまったのだ。
その日の晩、神奈子さまにひどく怒られた。花瓶を割ったことではなくて、寝不足をなんとかしなさい、と。元より神奈子さまは、骨董とかそういうものに愛着があるわけでもない。だから、怒りの矛先がそちらへ向くのは必然的なことではあったけれど、私はその説教を受け入れられない。
だって私は、きちんと寝ているのに。夜更かしなんてしてないのに。
「早苗」神奈子さまから怒られている間は心配そうに見ているだけだった諏訪子さまは、神奈子さまが居間から出ていってすぐ声をかけてくれる。
「悪いけど、神奈子の言うとおりだよ。……なにか悩み事があるなら言ってよ。なんでも聞くよ? 私とか神奈子の悪口だっていいんだ」
諏訪子さまは優しいお方だ。でも、分かってない。そういうんじゃないんです。
「私に問題があるみたいな言い方がいやです」
私はなにもしてない。お二人にきちんと尽くして、規則正しい生活だってして、交友関係だってなんら問題はない。
それをどうして、原因は私にあるみたいに言うの。そういうの私はおかしいと思う。
「早苗……」
はっと気付いたときには、ひどく驚いた様子で、目を見開く諏訪子さまの姿が、目の前にあった。
もしかして、私。今思ってたこと、全部口に出していたのか。
すぐに弁明しようと思った。でも駄目だ。弁明するって、なにを弁明するのか。本心じゃないか。それに、諏訪子さまの泣きそうな顔をこれ以上見ていられなかった。私は居間を飛び出して、自分の部屋に駆けこみ、布団へもぐり込む。
さまざまな自己嫌悪が入り混じって、心のなかがぐしゃぐしゃになっていた。瞳を固くとじて、現実から目をそむけた。心の混沌はやがて意識にも侵食してきて、私は夢の世界へ落とされていく。
◇
「早苗。お腹が空いたよ」
また、守矢神社の境内に立っていた。耳に届くのは諏訪子さまの声だ。
私は元気よく挨拶を返して、それから掃除を切りあげる。時間は正午過ぎで、簡単な食事を作ってさし上げると、諏訪子さまはやっぱり喜ぶ。
「やっぱり、早苗の作る料理はおいしい」
「ありがとうございます」
「あ、そうだ。今日はお夕飯は、アユの塩焼きが食べたいな。きっと神奈子も喜ぶよ」
「ふふ、そうですね。分かりました」
しあわせだ。ただ過ごしているだけなのに、しあわせな気持ちになる。使い終えた食器をもって台所に向かう。台所におかれた鏡には、血色のいい自分の顔が映っていた。今日もすごく気分が良い。
午後はアユを買いに人里まで出た。人里では何人かの知り合いに会った。みんながそれぞれの生活を過ごしているのだと思うと、私も生きる活力がわく思いがして、しあわせだ。
守矢神社に戻ってから、諏訪子さまの要望どおりアユの塩焼きを作った。神奈子さまも間欠泉地下センターから戻ってきて、アユの塩焼きを見るなり、とてもうれしそうに笑った。分かってるじゃない、早苗。褒められた私は誇らしげに笑って、それから諏訪子さまと目配せすると、もう一度笑った。しあわせだ。
「どうしてこんなにしあわせなんでしょうか」
いつか夢のなかで訊いた質問を、私はまた口にしていた。
神奈子さまと諏訪子さまは、またもや待ってましたとばかりに、口をそろえて言う。
「いいの。ゆめだから」
「いいんだよ、だってゆめだもの」
そうか、夢だもんね。夢だから、何でもアリか。夢オチって言葉だって、夢だから成り立つ無理矢理な展開のことを言うんだもの。
夢だから。夢だもの。夢ですから。
「さあ、そろそろ寝ようか」
神奈子さまがそんなことを仰った。寝る? 夢なのに。
夢のなかでまた眠るのですか。訊ねると、いいじゃないと諏訪子さまが笑う。
「だって、ね?」
諏訪子さまの悪戯めいた笑顔に、ああ、そっか、と納得する。夢だからいいんだ。夢ですから。夢ですもの。
「それじゃあ今日は、みんなで一緒に寝ようか」
「え、神奈子さまそれは」
「いいねえ。早苗を真ん中にして、川の字になって寝よっか」
「諏訪子を真ん中にしないと川の字にならないんじゃない?」
「なにおう」
しあわせだ。私たちは仲良く一緒に神奈子さまの寝室へ向かう。今日はみんなここで一緒に。
二人分の布団を敷き、そこに三人が寄りそって寝ころんだ。いつも住んでいる場所なのに、修学旅行にでも行っているような心地になる。
「神奈子さま、諏訪子さま。私しあわせです」
「よかったじゃない」
「よかったね」
「これも夢だから、なんですよね?」
「そうねえ」
「夢だから、こんなにしあわせでもいいんだよ、早苗」
だから。
「夢から覚めなければ、ずっとしあわせになれるんですね」
ずっと夢のなかにいれば。
「そうだよ早苗」神奈子さまは笑う。
「夢のなかにいればずっとしあわせ」諏訪子さまは笑う。
「ずっと夢のなかなら、覚めるときの悲しみは感じない」神奈子さまは笑う。
「ぐっすり眠ることが出来るよ」諏訪子さまは笑う。
「辛い現実にいるより、こっちのほうがしあわせでしょう?」
その言葉が、神奈子さまの発したその言葉が、私の心にいちばん、重く響く。
辛いのか。現実って、辛かったっけ。なにが辛いの。現実は。
現実と夢の、神奈子さまと諏訪子さま。夢のお二人はとても優しい。一緒にいると、しあわせな気持ちになる。一緒に過ごしているだけなのに、お花畑をみんなで駆けまわっているような、そんな気持ちになれる。
「現実の私たちは」
「しょせんはやっぱり現実だから」
「夢の私たちには及ばない」
「夢の私たちだけが、早苗を本当に、本当にしあわせに出来る」
私の心を読んでいるかの如く、神奈子さまと諏訪子さまが語りかけてくる。夢だから、心を読まれても仕方ない。
現実のお二人は、夢に及ばないのか。夢のお二人はそう仰る。夢ならなんでも出来るから、現実の何倍もいいってこと?
そっか。そうだよ。だって夢だもの。夢だからしあわせになれる。何度も、何度も、考えてきたことだ。別に、おかしな話じゃあ、ない。
「けれど早苗には」
「現実に帰ってきてほしい」
お二人がまた声をかけてくれる。夢のなかのお二人が。
あいかわらず、にこにことしあわせそうな笑顔で。口角をつり上げて、上唇と下唇をむすんで。
あれ、おかしい。夢のお二人の口は、動かない。けれど声が聞こえる。確かに、神奈子さまと諏訪子さまの声が、聞こえる。
「私たちには、早苗が必要だから」
「早苗がいないと、駄目だから」
「もし現実に帰ってきてくれるなら」
「私たちの手を握って……早苗っ!」
突然のことだった。天井がゆがんだと思うと、そこから二本の腕が伸びてくる。
B級ホラーのような光景だった。たくましくて震えている腕と、細いけれど力強い腕。私のひざがうずいた。痛みに気付いてひざを見下ろすと、いつかけがをしたひざが、神奈子さまに貼ってもらった絆創膏が、染みるように痛んだ。
「さあ、早苗。いっしょに眠ろう」
「ゆめの世界は、とってもしあわせ」
夢のお二人がささやく。愛想のある笑顔を浮かべた、神奈子さまと諏訪子さま。しあわせそうな笑いが、顔に貼りついている。
そのはずなのに、私から見えるお二人の笑顔が、突然、能面のように無機質なものに思えた。ただただしあわせに笑い、それ以外の表情を見せてくれない。
それって、しあわせ?
「早苗ぇ」
「しあわせになろうよ、いっしょにさあ」
突然、糸を引くように粘ついた声が聞こえた。目の前の二人から、それは聞こえる。笑顔は一瞬にして崩れ去り、生ゴミを寄せ集めたような、異形の物体に変貌する。二つの異形は、一気に、私との距離を詰めてくる。
咄嗟の判断だった。天井から降りていた二本の腕に、ほとんど同時に飛びついた。二本の腕は、がっしりと私の手のひらをつかむ。
そして、周りの世界がぐるぐると廻りはじめたと思えば、異形はその混沌に呑み込まれた。ほとんど同時に、私の視界はブラックアウトした。
◇
楽しければ笑って、辛かったら泣いて、嫌なことがあれば怒って。
ときには無礼講に茶化しあって、思ったことを正直に言いあって、結局楽しくなって、やっぱり笑って。
しあわせってそういうものでしょう? そう説いてくれたのは神奈子さまだった。
「どれだけしあわせそうに見えても、しあわせなだけの世界なんて、やっぱり虚構だよ」
夢から覚めて、もう一度意識を失って、私はどれだけ眠っていたのだろう。
夢を見ないで眠ることが久しぶりだった。それでも眠りから覚めたときは、目の奥がずんと重たいような、気だるい頭痛を感じた。
布団のそばには諏訪子さまがいて、目を開けた私の姿を見るなり、諏訪子さまはのしかかる様に抱きついて来た。しばらくそのままでいて、それから神奈子さまを呼びに部屋から去っていく。数十秒ほどして部屋に入ってきた神奈子さまは、諏訪子さまとまったく同じアクションをして、すこしおかしかった。
お二人が落ち着いたところで、私は夢のなかでのことを語った。すると、神奈子さまと諏訪子さまは、そういう話をしてくれる。
「夢だから、楽しいことばかり。それでしあわせ、って、そんなことはないよ。早苗」諏訪子さまは言う。「いくら楽しくても、楽しいだけじゃただの平坦な道だから。山と谷があって、やっとしあわせって感じられるんだって、そう思うよ」
「……はい」
「まあ、見るからに幼女の諏訪子がそんなこと言っても、あんまり説得力ないんだけど」
「おばさんより幼女のほうが未来の希望があっていいじゃんねえ」
「なにおう」
「やるかこの野郎」
布団のわきで乱闘が始まった。思えば、現実では、こういうのが日常茶飯事だった。夢の世界では決して見られない光景。
これが煽り合いとか、茶化しあいとか、そういうことなのだと私は思った。同時に、お二人の乱闘がとても面白くて、たくさん笑った。
「ところで」
乱闘が一段落つき、私の敷き布団がぐっちゃぐちゃになったところで、神奈子さまは改めて話を始めた。
どうして、こんなことが起きたのだろう。その話だった。私は改まって、きちんと正座をして、長い話になることを覚悟した。
ところがどっこい、結論はおよそ数秒で、神奈子さまの口から放たれることとなる。
「これ。これが原因」
神奈子さまはそう告げて、同時に、私の右ひざをポンとはたいた。
パジャマの上からはたかれたので、一瞬なんの話をしているか分からなくて、けれどすぐに神奈子さまの言いたいことが分かった。
「前に、間欠泉地下センターの近くで、けがしたところ……」
「怨霊には疫病ふぜいを装ってるヤツも、ときにはいるんだ」神奈子さまは気味悪そうに首を振る。「その傷に、怨霊が憑りついたんだろう。早苗に起きたような、そういうタイプの怨霊が、さ」
まあ、詳しくは調べてみないと分からないけれど。神奈子さまは苦笑して言う。
でも、そういうことだったのだ。もし、長年蓄積されたお二人へのうっぷんが~……とか、そういう話だったら嫌だった。でも、怨霊の仕業だって聞いて、すこしほっとした。
「ほっとした、じゃないでしょ」神奈子さまが厳しく目を細める。「これはどう考えても、あんたの不注意が原因」
「そうだよ早苗。神奈子の言う通り」
ふええ。怒られてしまった。しかもお二人が息を合わせてお説教してくる。これは辛い。
恐縮しながらそんなことを思っていると、お二人は突然、息ぴったりに笑って、すっくと立ち上がった。
「まあ、早苗が無事に帰ってきたわけだし」
「今日はおいしいものでも作ってくれれば、それで許してあげましょう」
笑顔のお二人の語りは、私の耳を抜けて、心にじんと染みこんだ。
それは夢のなかでも体験したことだったけれど、夢とは大きく違って、有機的な温かさが感じられる。それは高い山を乗り越えてきたから。苦を乗り越えてきたから。それでこそ得られる、しあわせなのだろう。
「それじゃあ、今日のお夕飯はアユの塩焼きにしましょう」
そう告げると、神奈子さまも諏訪子さまも飛び上がって喜んだ。
と思いきや、突然アユ争奪指スマ大会が始まって、この辺はもう少し仲が良くても良いかなあと、思わないでもない。
「使わない部分は突然変異でなくなっちゃうかもしれないね」
「神奈子さま……怖いことを仰らないでください」
「あながち冗談じゃあないかもしれないじゃないか。早苗のことだし、奇跡が起こるかも」
「そんな奇跡はこちらから願い下げです」
奇妙な会話をしながら、神奈子さまは私のひざに絆創膏を貼ってくれている。
神奈子さまにお昼ごはんを届けようと、間欠泉地下センターまで空路で向かったのだった。ところがいざ着地というタイミングで、岩地に足を引っかけて盛大にこけた。神奈子さまの目の前で。はずかちい。
「はい、これで大丈夫ね」ひざのすり傷を手当てし終え、神奈子さまは絆創膏の上から平手ではたく。「あとはつばでも付けておけば治るさ」
「絆創膏の上からですか?」
「そりゃあんた、傷口に直接つばなんて塗ったら汚いじゃないか」この会話なにかがおかしい。
それじゃあね、と神奈子さまはセンターの中へ引き返していく。その背中に大きな声でお礼を言うと、左手をあげて応えてくれた。
さあ私も帰ろう。間欠泉地下センターの周辺はどうにも空気が良くないのだ。ちらほらとではあるけれど、目視で確認できる程度には、怨霊がふよふよと空中を泳いでいる。妖怪ですら怨霊は危険なのだから、人間がいつまでもうろうろしているのは良くない。
「……あ、お弁当」
ちょうど神社に帰ってきたあたりで、今更それに気づいた。けがの手当てばかりに気を取られ、本命の用事をすっぽかしてしまったのだった。
もういちどセンターへ行こうか。二度手間だけど仕方がない。ああ、なにをバカなことしてるんだか。
「あ、早苗。帰ってきてたなら言ってよ」
背中に声がかけられた。ふり向くと、視界の下の方にケロちゃん帽子が見える。
「諏訪子さま」
「ただいまの挨拶は国民の三大義務なんだからさ」そんなのありましたっけ。「そんなことよりお腹空いたよ、早苗」
「あ、すみません。その、実は――」
神奈子さまにお弁当を持っていかないといけないものですから。そう言おうとしたところで、悪知恵がピンと電球を照らした。
「――もう作ってあるんです、諏訪子さま。ほらっ」
「んー? おお、お弁当」
「諏訪子さまの分に、と思って。作っておきました」
手に持ったお弁当を持ち上げて、にっこり笑った。あいにく詐欺は得意なのだ。諏訪子さまも喜んでくれているようで、なによりである。
しかしこのままだと神奈子さまは昼飯ぬきになってしまう。ジレンマだ。どうして解決したものか。
「……まあ、お夕飯でアユの塩焼きとか作って差し上げれば、赦してくれるよね」
「え、今日の夜はアユなの?」
「そうですよ諏訪子さま」
「やったあ、さなちゃん大好き」
諏訪子さまも喜んでくれたようだ。これでひとまずは何とかなるだろうと黒い考えが頭をめぐる。
実際、その日の夜、神奈子さまはとくに怒っている様子もなく、ただアユの塩焼きが食卓に並んでいることを喜んでいた。曰く、午後はちょっとしたトラブル(霊烏路空氏が色々とやらかしたらしい)の処理で忙殺され、昼飯を食べる暇すらなかったのだとか。
幸運が重なって、私はおとがめを受けることなく一日を終えることが出来た。意外となんとかなるものなのだな、とサボタージュの甘い蜜を吸っていた。
今から思えば、こういう自分本位な考えが、つけ入られる隙を作ってしまったのだろうか。
◇
夢を見たのだ。それも普通の夢じゃない。なんだかとてもしあわせな夢だった。
その内容がなんともひどいのだけど、お花畑のような場所で、私と神奈子さま、そして諏訪子さまが駆け回っている、そういう夢だった。
これがリアル版『頭のなかがお花畑』かあ、と起きた瞬間はさばさば考えていて、同時に覚めてしまったことがなんとなく惜しいような気持ちになった。
「それはもう、そろそろ死ぬんじゃない。早苗」
お二人に夢のことを話すと、朝食のおみそ汁をすすりながら、神奈子さまはまたろくでもないことを仰る。
「どうしてそうなるんですか」
「早苗がいたのは多分天国だよ。お花はぜんぶ彼岸花だね」
「そんなむちゃくちゃな」
「あ、わかった、あれだよ」諏訪子さまが横やりを入れてくる。「きっと引っ越しの下見に行ったんだよ、早苗は」
「なんで天国に引っ越ししなきゃいけないんですかっ」
「まあ地獄じゃないからいいじゃないか。早苗は善行をたくさん積んだんだね。いい子だ」
「さなちゃんいい子いい子」
「神奈子さまも諏訪子さまも今日は昼飯ぬきです」
お二人が畳に頭を擦りつけたところで朝のてんやわんやも終わりを告げた。お花畑もいいけれど、みんなでわいわいやる方が、私は好きだなあ。
それは偽りのない本心だった。でも、その日の夜もまた、私は夢を見た。
次の日の晩も。その次の晩も。また更に翌日の晩にまで。もともと夢をまったく見ない、という訳ではなかったけれど、毎日はっきりと夢の記憶があるのも珍しいなと思ったし、なにより違和を感じたのは、その夢の内容が変わらないことだった。
お花畑を、私と神奈子さま、諏訪子さまが一緒に走り回っている。
変わらず、しあわせな気持ちになれる夢だった。連日の夢にいぶかしむ気持ちはあった。でも実害はなかったし、むしろしあわせになれるのならラッキーだなと、そんな程度に思っていた。
「早苗、ちょっと」
そんな日々のなかで、その出来事はふいに訪れた。
神奈子さまがお茶をちょうだいというから、すこし出涸らし気味の葉を使って入れたのだけれど、これが良くなかったらしい。疲れている者に出涸らしのお茶を出すのは非礼だぞ、早苗。こんな具合に、私は説教されてしまった。
私はそれをまじめに聴いて、反省もしていたけれど、反面「今日はご機嫌ななめの日なのだな」と心のなかで苦笑いもしていた。神奈子さまが用を足しに席を外したとき「災難だね早苗」と諏訪子さまが茶化してきたのもそれを手伝っていた。
だからそんな、のちに遺恨が残るとか、そういう重大な出来事などではなかった。実際私も、反省しつつ「神奈子さまのご機嫌取りに今度何か買ってこなきゃ」などと楽観的な考えを巡らせていたのだ。
ところが、その日の晩は、いつもとは夢の内容が違っていた。
すこしいざこざがあった分、夢の中でしあわせな気持ちになろう。そういうやましい気持ちがあったからこそ、それに気づいたのだろう。その日、夢のなかの私は、お花畑ではなく守矢神社の境内に立っていた。
ほうきを両手に持ち、境内中のごみやちりを掃いている。いつも通りの日常。現実と変わりのないいつも通りの日常に、あれと思った。今までのように、お花畑で楽しく駆けまわっていたような、あからさまな虚構の世界とはかけ離れているものだった。
「早苗、お腹空いたよ」
諏訪子さまの声が聞こえてくると、私は掃除を切りあげて台所に向かった。正午をすこし過ぎた時間で、とくに手の込んだというわけでもない昼食を諏訪子さまに作ってあげる。すると諏訪子さまは、どうしてか、たいそうお喜びになる。
「さなちゃんの料理はいつもおいしいね。大好き」
ぱくぱくと諏訪子さまは昼食を口にほうり込む。その度においしいおいしいと、私のことをべた褒めしてくれる。
なんだかよく分からなかったけれど、褒めてもらえることは、純粋に嬉しかった。諏訪子さまのやさしい言葉が心にじんと染みて、しあわせな気持ちになった。
前触れもなく、あのお花畑が脳裏をよぎる。お花畑、それはしあわせになれる場所。そう思っていたけれど、今しあわせを感じているこの場所は、お花畑じゃない。
「お花畑じゃないのに、こんなにしあわせでいいのでしょうか」
私の質問に、まるで諏訪子さまは、待っていましたとばかりに答えた。「いいの。だって、ゆめだから」
その言葉にはっとした瞬間、私は布団のなかに身体をうずめていた。
夢と現実の境界線は、はっきりと認識することができた。これまでのは夢で、これからが現実。
しあわせな世界が夢で、じゃあ現実は。一瞬でもそんなことを考えて、私は頭をぶんぶん振りまわす。
◇
あいかわらず夢に実害はないと思っていた。毎日のように夢は見るけれど、一日頑張ったことへのご褒美なのだと考えると、こういうのも悪くないな。そう思うようになった。
それでもひとつ、嫌だなと感じることはあった。朝の目覚めがあまり良くないのだ。しあわせな夢から現実へ引き戻されたことで、ひどく残念に思うのは前からのことだったけれど。そのときどうしても、夢の世界と現実の世界を対比してしまうのが私は嫌で仕方なかった。
「……早苗、だいじょうぶ?」
自己嫌悪に似た気持ちで居間へ向かうと、ふいに諏訪子さまは、私の顔を見て言う。
自分の心中を見透かされたように思えて、ほんのすこしだけ焦って、でも冷静に考えれば、そんなはずはないのだ。
なんのお話ですか? 問い返すと、案の定私の心配は取り越し苦労だった。
「目の下。くまがすごいよ」
え。まばたきを一回二回とくり返して、その間思考は固まっていた。
そんな私の挙動を、諏訪子さまは変わらず心配そうに見上げている。
「寝不足?」
「え、あ、いや……そんなことないと思うんですけど……」
「まあ、若いし、夜更かしもしたくなるよね。でもほどほどに。わかった?」
めずらしく諏訪子さまが説教したと思ったら、すぐに人懐っこい笑顔を見せてくれる。
私は愛想笑いを浮かべて、生返事をしつつ、内心では疑問に思っていた。宴会でもないというのに、夜更かしなんてする理由がない。生活リズムにはとても自信がある、はずなのに。
ところが、身体もそれに同調しているようだった。昼間から妙にあくびが止まらない。しっかり眠りはとっているはずなのに、どうしてか、私の身体は睡眠を欲しているように思える。
そんな状態が何日も続くようになると、流石の私もまいってくる。変わらず、例の夢は見る。舞台はやっぱり守矢神社で、しかしシチュエイションは少しずつ変わっているようだった。
料理を褒められたり、掃除が熱心だねと褒められたり。勿論、諏訪子さまだけでなく神奈子さまからも褒められる。べた褒めだ。
私はしあわせな気持ちになる。しあわせな気持ちで夢の世界を過ごして、朝になるとそれが覚めて、残念な気持ちになる。最近ではくだんの寝不足もあって、夢の世界にずっといられればいいのにとか、そういう考え方が私のなかで台頭し始めていた。
そんなとき、私はまた、やらかした。
言い訳になるけれど、確実に寝不足が原因だった。神奈子さまのお部屋を掃除しているとき、誤って花瓶を割ってしまったのだ。
その日の晩、神奈子さまにひどく怒られた。花瓶を割ったことではなくて、寝不足をなんとかしなさい、と。元より神奈子さまは、骨董とかそういうものに愛着があるわけでもない。だから、怒りの矛先がそちらへ向くのは必然的なことではあったけれど、私はその説教を受け入れられない。
だって私は、きちんと寝ているのに。夜更かしなんてしてないのに。
「早苗」神奈子さまから怒られている間は心配そうに見ているだけだった諏訪子さまは、神奈子さまが居間から出ていってすぐ声をかけてくれる。
「悪いけど、神奈子の言うとおりだよ。……なにか悩み事があるなら言ってよ。なんでも聞くよ? 私とか神奈子の悪口だっていいんだ」
諏訪子さまは優しいお方だ。でも、分かってない。そういうんじゃないんです。
「私に問題があるみたいな言い方がいやです」
私はなにもしてない。お二人にきちんと尽くして、規則正しい生活だってして、交友関係だってなんら問題はない。
それをどうして、原因は私にあるみたいに言うの。そういうの私はおかしいと思う。
「早苗……」
はっと気付いたときには、ひどく驚いた様子で、目を見開く諏訪子さまの姿が、目の前にあった。
もしかして、私。今思ってたこと、全部口に出していたのか。
すぐに弁明しようと思った。でも駄目だ。弁明するって、なにを弁明するのか。本心じゃないか。それに、諏訪子さまの泣きそうな顔をこれ以上見ていられなかった。私は居間を飛び出して、自分の部屋に駆けこみ、布団へもぐり込む。
さまざまな自己嫌悪が入り混じって、心のなかがぐしゃぐしゃになっていた。瞳を固くとじて、現実から目をそむけた。心の混沌はやがて意識にも侵食してきて、私は夢の世界へ落とされていく。
◇
「早苗。お腹が空いたよ」
また、守矢神社の境内に立っていた。耳に届くのは諏訪子さまの声だ。
私は元気よく挨拶を返して、それから掃除を切りあげる。時間は正午過ぎで、簡単な食事を作ってさし上げると、諏訪子さまはやっぱり喜ぶ。
「やっぱり、早苗の作る料理はおいしい」
「ありがとうございます」
「あ、そうだ。今日はお夕飯は、アユの塩焼きが食べたいな。きっと神奈子も喜ぶよ」
「ふふ、そうですね。分かりました」
しあわせだ。ただ過ごしているだけなのに、しあわせな気持ちになる。使い終えた食器をもって台所に向かう。台所におかれた鏡には、血色のいい自分の顔が映っていた。今日もすごく気分が良い。
午後はアユを買いに人里まで出た。人里では何人かの知り合いに会った。みんながそれぞれの生活を過ごしているのだと思うと、私も生きる活力がわく思いがして、しあわせだ。
守矢神社に戻ってから、諏訪子さまの要望どおりアユの塩焼きを作った。神奈子さまも間欠泉地下センターから戻ってきて、アユの塩焼きを見るなり、とてもうれしそうに笑った。分かってるじゃない、早苗。褒められた私は誇らしげに笑って、それから諏訪子さまと目配せすると、もう一度笑った。しあわせだ。
「どうしてこんなにしあわせなんでしょうか」
いつか夢のなかで訊いた質問を、私はまた口にしていた。
神奈子さまと諏訪子さまは、またもや待ってましたとばかりに、口をそろえて言う。
「いいの。ゆめだから」
「いいんだよ、だってゆめだもの」
そうか、夢だもんね。夢だから、何でもアリか。夢オチって言葉だって、夢だから成り立つ無理矢理な展開のことを言うんだもの。
夢だから。夢だもの。夢ですから。
「さあ、そろそろ寝ようか」
神奈子さまがそんなことを仰った。寝る? 夢なのに。
夢のなかでまた眠るのですか。訊ねると、いいじゃないと諏訪子さまが笑う。
「だって、ね?」
諏訪子さまの悪戯めいた笑顔に、ああ、そっか、と納得する。夢だからいいんだ。夢ですから。夢ですもの。
「それじゃあ今日は、みんなで一緒に寝ようか」
「え、神奈子さまそれは」
「いいねえ。早苗を真ん中にして、川の字になって寝よっか」
「諏訪子を真ん中にしないと川の字にならないんじゃない?」
「なにおう」
しあわせだ。私たちは仲良く一緒に神奈子さまの寝室へ向かう。今日はみんなここで一緒に。
二人分の布団を敷き、そこに三人が寄りそって寝ころんだ。いつも住んでいる場所なのに、修学旅行にでも行っているような心地になる。
「神奈子さま、諏訪子さま。私しあわせです」
「よかったじゃない」
「よかったね」
「これも夢だから、なんですよね?」
「そうねえ」
「夢だから、こんなにしあわせでもいいんだよ、早苗」
だから。
「夢から覚めなければ、ずっとしあわせになれるんですね」
ずっと夢のなかにいれば。
「そうだよ早苗」神奈子さまは笑う。
「夢のなかにいればずっとしあわせ」諏訪子さまは笑う。
「ずっと夢のなかなら、覚めるときの悲しみは感じない」神奈子さまは笑う。
「ぐっすり眠ることが出来るよ」諏訪子さまは笑う。
「辛い現実にいるより、こっちのほうがしあわせでしょう?」
その言葉が、神奈子さまの発したその言葉が、私の心にいちばん、重く響く。
辛いのか。現実って、辛かったっけ。なにが辛いの。現実は。
現実と夢の、神奈子さまと諏訪子さま。夢のお二人はとても優しい。一緒にいると、しあわせな気持ちになる。一緒に過ごしているだけなのに、お花畑をみんなで駆けまわっているような、そんな気持ちになれる。
「現実の私たちは」
「しょせんはやっぱり現実だから」
「夢の私たちには及ばない」
「夢の私たちだけが、早苗を本当に、本当にしあわせに出来る」
私の心を読んでいるかの如く、神奈子さまと諏訪子さまが語りかけてくる。夢だから、心を読まれても仕方ない。
現実のお二人は、夢に及ばないのか。夢のお二人はそう仰る。夢ならなんでも出来るから、現実の何倍もいいってこと?
そっか。そうだよ。だって夢だもの。夢だからしあわせになれる。何度も、何度も、考えてきたことだ。別に、おかしな話じゃあ、ない。
「けれど早苗には」
「現実に帰ってきてほしい」
お二人がまた声をかけてくれる。夢のなかのお二人が。
あいかわらず、にこにことしあわせそうな笑顔で。口角をつり上げて、上唇と下唇をむすんで。
あれ、おかしい。夢のお二人の口は、動かない。けれど声が聞こえる。確かに、神奈子さまと諏訪子さまの声が、聞こえる。
「私たちには、早苗が必要だから」
「早苗がいないと、駄目だから」
「もし現実に帰ってきてくれるなら」
「私たちの手を握って……早苗っ!」
突然のことだった。天井がゆがんだと思うと、そこから二本の腕が伸びてくる。
B級ホラーのような光景だった。たくましくて震えている腕と、細いけれど力強い腕。私のひざがうずいた。痛みに気付いてひざを見下ろすと、いつかけがをしたひざが、神奈子さまに貼ってもらった絆創膏が、染みるように痛んだ。
「さあ、早苗。いっしょに眠ろう」
「ゆめの世界は、とってもしあわせ」
夢のお二人がささやく。愛想のある笑顔を浮かべた、神奈子さまと諏訪子さま。しあわせそうな笑いが、顔に貼りついている。
そのはずなのに、私から見えるお二人の笑顔が、突然、能面のように無機質なものに思えた。ただただしあわせに笑い、それ以外の表情を見せてくれない。
それって、しあわせ?
「早苗ぇ」
「しあわせになろうよ、いっしょにさあ」
突然、糸を引くように粘ついた声が聞こえた。目の前の二人から、それは聞こえる。笑顔は一瞬にして崩れ去り、生ゴミを寄せ集めたような、異形の物体に変貌する。二つの異形は、一気に、私との距離を詰めてくる。
咄嗟の判断だった。天井から降りていた二本の腕に、ほとんど同時に飛びついた。二本の腕は、がっしりと私の手のひらをつかむ。
そして、周りの世界がぐるぐると廻りはじめたと思えば、異形はその混沌に呑み込まれた。ほとんど同時に、私の視界はブラックアウトした。
◇
楽しければ笑って、辛かったら泣いて、嫌なことがあれば怒って。
ときには無礼講に茶化しあって、思ったことを正直に言いあって、結局楽しくなって、やっぱり笑って。
しあわせってそういうものでしょう? そう説いてくれたのは神奈子さまだった。
「どれだけしあわせそうに見えても、しあわせなだけの世界なんて、やっぱり虚構だよ」
夢から覚めて、もう一度意識を失って、私はどれだけ眠っていたのだろう。
夢を見ないで眠ることが久しぶりだった。それでも眠りから覚めたときは、目の奥がずんと重たいような、気だるい頭痛を感じた。
布団のそばには諏訪子さまがいて、目を開けた私の姿を見るなり、諏訪子さまはのしかかる様に抱きついて来た。しばらくそのままでいて、それから神奈子さまを呼びに部屋から去っていく。数十秒ほどして部屋に入ってきた神奈子さまは、諏訪子さまとまったく同じアクションをして、すこしおかしかった。
お二人が落ち着いたところで、私は夢のなかでのことを語った。すると、神奈子さまと諏訪子さまは、そういう話をしてくれる。
「夢だから、楽しいことばかり。それでしあわせ、って、そんなことはないよ。早苗」諏訪子さまは言う。「いくら楽しくても、楽しいだけじゃただの平坦な道だから。山と谷があって、やっとしあわせって感じられるんだって、そう思うよ」
「……はい」
「まあ、見るからに幼女の諏訪子がそんなこと言っても、あんまり説得力ないんだけど」
「おばさんより幼女のほうが未来の希望があっていいじゃんねえ」
「なにおう」
「やるかこの野郎」
布団のわきで乱闘が始まった。思えば、現実では、こういうのが日常茶飯事だった。夢の世界では決して見られない光景。
これが煽り合いとか、茶化しあいとか、そういうことなのだと私は思った。同時に、お二人の乱闘がとても面白くて、たくさん笑った。
「ところで」
乱闘が一段落つき、私の敷き布団がぐっちゃぐちゃになったところで、神奈子さまは改めて話を始めた。
どうして、こんなことが起きたのだろう。その話だった。私は改まって、きちんと正座をして、長い話になることを覚悟した。
ところがどっこい、結論はおよそ数秒で、神奈子さまの口から放たれることとなる。
「これ。これが原因」
神奈子さまはそう告げて、同時に、私の右ひざをポンとはたいた。
パジャマの上からはたかれたので、一瞬なんの話をしているか分からなくて、けれどすぐに神奈子さまの言いたいことが分かった。
「前に、間欠泉地下センターの近くで、けがしたところ……」
「怨霊には疫病ふぜいを装ってるヤツも、ときにはいるんだ」神奈子さまは気味悪そうに首を振る。「その傷に、怨霊が憑りついたんだろう。早苗に起きたような、そういうタイプの怨霊が、さ」
まあ、詳しくは調べてみないと分からないけれど。神奈子さまは苦笑して言う。
でも、そういうことだったのだ。もし、長年蓄積されたお二人へのうっぷんが~……とか、そういう話だったら嫌だった。でも、怨霊の仕業だって聞いて、すこしほっとした。
「ほっとした、じゃないでしょ」神奈子さまが厳しく目を細める。「これはどう考えても、あんたの不注意が原因」
「そうだよ早苗。神奈子の言う通り」
ふええ。怒られてしまった。しかもお二人が息を合わせてお説教してくる。これは辛い。
恐縮しながらそんなことを思っていると、お二人は突然、息ぴったりに笑って、すっくと立ち上がった。
「まあ、早苗が無事に帰ってきたわけだし」
「今日はおいしいものでも作ってくれれば、それで許してあげましょう」
笑顔のお二人の語りは、私の耳を抜けて、心にじんと染みこんだ。
それは夢のなかでも体験したことだったけれど、夢とは大きく違って、有機的な温かさが感じられる。それは高い山を乗り越えてきたから。苦を乗り越えてきたから。それでこそ得られる、しあわせなのだろう。
「それじゃあ、今日のお夕飯はアユの塩焼きにしましょう」
そう告げると、神奈子さまも諏訪子さまも飛び上がって喜んだ。
と思いきや、突然アユ争奪指スマ大会が始まって、この辺はもう少し仲が良くても良いかなあと、思わないでもない。
やっぱり守矢一家は家族ものが良く合うね!
良い雰囲気の作品だぁ
暖かいお話でした。
貰ってくぞ
帰って来られなかったらどうしようかと。