人の心には、たくさんの形のあんかーが付いていて、重くても、引き摺ってでも生きて行かなくちゃいけないんだ……
永遠の大海原へ、青い水平線目指して
帆には風を捲いて、残照を打ちならそう。
向かい風はあなたの髪を乱して、水面は細波(さざなみ)立つ
暗い海の其処で私を待っている。
何時だって魂は其処にある。
遠くで見える人の声に私は憎悪する。
笑顔を握り潰し、絶望を叩きつけ、深く深くに堕としたいのだ。
空に舞う鴎(かもめ)に分かれを告げて、おどろおどろしい生物達の仲間入りをさせたいのだ。
“生きている”ただそれだけで無性に憎くて、振り上げた拳で、目一杯の殺意で、私は全てを否定したかった。
根底で永遠に渇き、何も満たされないまま、私は八つ当たりを続けていくのだ。
脳裏に焼きつくのは風の吹いたあの日、目の前に灯台を見つけ、灯りを目の前にしながらも死んでいったあの日。
仲間が沈んで、船も沈んで、私も沈んで、大嫌いだった現実が怒涛の勢いで押し寄せてきた。
沈む海の中で皆が、私達の船が、波にのまれてゆっくりゆっくり沈んでいくあの瞬間。
もう二度と、航海の旅も、仲間との酒盛りも、永遠に出来ないのだと。
自分が死ぬこととか、助かろうとするとか、そんなことよりも、頭をよぎったのはそんなことだった。
自分が死ぬ事よりも、自分の大切なものがなくなってしまうことの方が恐かった。
沈みいく船に手を伸ばしたけれど、愛しの船は私の手から離れ、仲間たちは波に呑まれて姿さへ見えなかった。
覚悟くらいあると思っていたけれど、覚悟くらいしていたつもりだったけれど、私は後悔していた。
“私の大切なものを奪うな!!”と叫びだしたくなった。
皆を、全てを、私の現実を奪うなと、私は願った。
―――――――――――――
意識が戻った時には私は何処とも知らない砂浜にいた。
意味が分からず立ち竦む私。
とりあえず此処が何処か知るためにも歩こうとして、足がつっかえて進まない事に気付く。
重い、重い。
後ろから誰かに引っ張られている様な重みに振り返ると――
其処には大きな黒い黒いアンカーが砂浜に突き立っていた。
伸びた鎖は私の心臓の場所まで伸び、体に溶ける様に根元から入り込んでいた。
「……なんだこりゃ」
呟くけれど現実は何も変わらなくて、砂浜に突き立った大きな大きなアンカーはいくら動かしてもびくともしなかった。
私はそんな現実に呆れたけれど、不思議とお腹もすかないし、打ち上げられたばかりのはずなのに体の何処も不調は訴えていなかった。
「みんなが無事ならいいけれど…………」
私の関心は目の前のこの馬鹿でかいアンカーよりも嵐に呑みこまれた他の船員達に向けられていた。
しかし現実問題身動きがとれないし、見渡す限りでは誰も見当たらない。
「ハァ~、どうしようかね」
海は嵐が嘘の様に凪いでいた。
空には鴎(かもめ)たちが餌を探して飛んでいる。
砂浜に寝そべって考え込む私はふと気付けばまどろんでいたようで、私の意識は深い所に溶け込んで、一つの夢を見た。
深い深い海の底。
誰も見た事がない様な深い底。
何が何だかは分からなかったけれど、其処が海だという事はなんとなく分かった。
灯りはなく、真っ暗で、此処が何処かなんて分かったもんじゃなかったけれど、遠くに淡く光る何かを見つけて私はそこへ導かれる様に進んで行った。
ゴツゴツした岩肌を、まるで歩くみたいに進んで、不思議と息は苦しくなかった。
灯りのある場所以外に目を向けなかった訳ではない。
でも、辺りは完全に闇の中で、あれほど親しんだ世界のはずなのに、薄皮一枚捲っただけで世界はこうも変わるのかと恐くなった。
得体のしれない闇の向こうには何かが蠢いていて、ここは人間が棲む世界とは別の世界なのだという印象を強く受けた。
導かれたのではない、竦んで其処に向かうことで精一杯だったのだと気付いたのは少し後になってからで、私は救いを求めるかのようにその光を目指した。
海底の丘を一つ越えやっと光の元が私の目に触れようとしていた。
同時に私の限界が近いことも頭の中で分かっていた。
気付いてしまったのだ、誰かが暗闇の向こうからこっちを見ていることを。
その視線は粘着質に私を追いかけ、視線をとっかえひっかえしながらたくさんの何かがこっちを見ていた。
無防備な私は恐怖に駆られ必死に光を目指す。
追いかけてくるわけではないその視線の重圧は、しかしそれだけで私の全てを押しつぶしそうだった。
息が出来なくなる。
物理的な要因とは別の何かが私を動けなくさせる。
なんとか進み、私の目に入った光の源は私達の沈没した船だった――――
「……なんだったんだよ今の夢はチクショー」
目を覚まし起き上がる。
辺りはすっかり夜になっていた。
胸糞の悪い夢をみてすっかり気分が悪い。
「そうだよ、船は沈没したんだよ……」
分かり切ったことではあったけれど、口からでたその言葉は何処か寒々しくて、胸にぽっかりと穴があいたようだったけれど、でもその事実は何故か心の中に落ち着いた。
ざざぁんざざぁんと星空に照らされながら波打つその音はよく聞き慣れているはずなのにどこか懐かしかった。
「そろそろ宿とか探したいんだけどなぁ」
起き上がり、体の砂を払う。
「やっぱりこれは夢じゃないんだね」
ジャラジャラと鉄の擦れる音を立てながら大きなアンカーは雄々しく其処にあった。
幸いまだ夏の陽気が残っている今の季節ならば、そのまま死んでしまう事もないだろうが、流石にこのままじゃいけないのは分かっているので動こうとしてみる。
「せぇ、、、の!!」
渾身の力を込めてアンカーを引っ張る。
すると、ズルズルと少しづつではあるものの、昼間どれだけやってもびくともしなかったこのアンカーは、なんとか動いたのである。
そこに或ることを固定された様に頑なだったアンカーは、如何言うわけか知らないが少し見ない間に頑張ってダイエットをしたようで、ほんの少しだけれど、私にとりつく島をあたえてくれたのだった。
「でもさ、、、ぜぇ、、、はぁ、、、」
少しづつ、少しづつ、重いアンカーを引き摺って歩いていく。
「これ引きずりながら、、ぜぇ、ずっと、、、歩いてくって、、、はぁはぁ、、、まじ?」
ふと振り返ると歩き出してからまだ十歩も進んでいないという事実が目に入り、早くも現実逃避したくなるが、何も見ていなかったと言い聞かせ、振り返れば死ぬ(精神的に)ということを言い聞かせながら私は向かう場所も知らずに歩き始めた。
―――――――――――――――
「とおいよぉ~、つかれたよぉ~、、、、はぁはぁ」
砂の地面を抜けてどれくらいたっただろうか。
もしかしたら殆ど進んでいなくて振り返ったらすぐそこにまだ砂浜があるのかもしれないが、振り返ってそれを確かめると精神的によくない場合が考えられるのでやめる事にする。
目覚めたのは夜だったが、既に少しずつ日は昇りはじめ、山の向こう側から日が白んできている。
真っ暗な中で進む道のりだったが月が照っていたし、不思議と夜道はよく見えた。
草っぱらに紛れながら、踏みならされた道を少しづつ少しづつ進んでいく。
とにかく、誰か人のいる所に行かなければならない。
もしかしたら船員の誰かが私と同じように打ち上げられたかもしれないし、このアンカーも如何にかしたい。
夏の草むらは虫たちも大忙しで、至る所から彼らの声が聞こえてきて、退屈はしないのだけど、いい加減如何にかしたいしして欲しい。
私が荒れ果てた御堂についたのはそんな道行きの中だった。
「もういい、、、疲れたし、、夜通し歩いたし、もう疲れた!一回寝る、御堂で一回寝る!!」
一生懸命アンカーを引きずって、木が傷んで階段も崩れ去り、土壁も一部剥がれている様なこのボロボロな御堂で、私は一度休むことにした。
入口に辿りつき、息も絶え絶えになりながら扉に手をかけた其の時―
「それ以上近寄んじゃねぇよ化物」
御堂の奥から声がかかった。
「ひぇぇ!?」
驚きで飛びのく私。
どうやら中には先客がいたらしかった。
「その声、女か」
よく聞くと相手の声も女性のようだった。
「は、ハイ、あ、あの、此処で休ませてほしいんですけど……」
扉越しに声をかける。
何か考えているのだろう。
少しの沈黙の後で返事が返ってきた。
「いいよ、入んな」
「あ、ありがとうございますぅ」
お礼を言いながら恐る恐る扉を開ける。
月明かりに照らされて映った相手は、ゆったりゆったりと自身の周りに霧を纏い、鋭く此方を睨んでいた。
淡い青の髪を隙間から差し込む月の光に照らされながら、中に何か荒れ狂うものを宿したような瞳は強く此方を見ている。
「お、おじゃましまぁ~す」
相手からのマジの威圧に私は声を震わせる事なく今の台詞を言えたかどうか不安になる。
「なんでそんなゆっくりゆっくり入ってくんだよ」
それは彼女のあまりにもあんまりな感じに怖気づいたからというのも少しはなくはないけれど、なによりも私には重い重い碇(いかり)がついている訳で
「いやぁ、重いもん引き摺っちゃってるもんで……」
そう笑いながら言った言葉に
「はぁ?別に何も引き摺ってやしないじゃないか」
疑わしそうに私の後ろをみる彼女をみて―
「あの、もしかして……お見えでない?」
「だから何が?」
そうやって煩わしそうに私をみる彼女に
「いや、何でもないです、ハイ」
それだけ返してなんとかアンカーを御堂の中に入れて扉を閉じる。
困ったことになったぞこれは……
「あんた名は?」
「む、村紗水蜜」
どうやら今まで引っ張ってきたこの重い重い鉄の碇は―
「私は雲居一輪、なんかしたらすぐここから叩き出す」
「はい、なにもしねぇです、はい」
私以外には見えないようだった。
――――――――――――――
夢をみた。
深海の夢、海の底の夢。
深い深い、別の世界の夢。
夢はあの時のまま続いていた。
苦しみながら、見えた私達の船に一目散に進んでいく私。
追いかけてくる粘っこい視線。
時々思い出したかのようにあがっていく気泡。
深海の世界では全てがグロテスクな様で、船の光に照らされながら時々私の前を横切っていく魚も、地面に所々生える海藻の様な生物も細長かったり、目玉が飛び出していたり、私の知っている様な魚の体(てい)をなしていなかった。
水の中の筈なのに、所々では火が飛沫をあげ、思い出したかのように時々地面が震える。
陸の上でなら空を飛ぶ私より小さな何かしかいなかったのに、この世界には私の頭上にたくさんの何かが蠢いていて、逆に私のように地面を這うものの方がこの世界では珍しいようだった。
まるであべこべの世界だ。
私はそう思う。
空と陸がこの世界では逆さまになって、私より大きな何かが私の上を泳ぎ回っている。
泳いでいるといつの間にかその大きな怪物の懐の中にいて、取り囲まれもう逃げ道がなくなって、怪物の餌になってしまうのかもしれない。
海の厳しさ、優しさ、恵み、恐ろしさ、たくさんの側面を私は分かっていたつもりだったけれど、ここに広がるもう一つの世界は私の知る海という物とはまた全く違うもので
平面を気にすればよかったあの世界から、上も、下も、四方八方何処からも何かに襲われる危険に怯えて、終始真っ暗な朝のない世界で生きていくこの世界が、私にはたまらなく恐ろしく映った。
完全なる個人として、何かを見渡す事も出来ない此の世界では誰かを見つけて安心するということもできない。
誰かと繋がることも容易ではない。
そんな激しく、苛烈な世界に私は肉体的にも精神的にも耐えられそうになかった。
今すぐ逃げ出したい。
身を包むこの闇は優しく私に休息を促す優しげな闇ではなく。
一寸先に何があるのか分からない、自分すらも信じられない、化物を内包した絶対的強者たる闇だった。
恐い、恐怖という感情が思考の殆どを塗り潰し、逃げ道を必死に思考する。
想像の中で未知という種が果実を実らせ、肺を迫り上げ、手足を痺れさせる。
救いを求め一心で船に辿りついたその時、船の光の先で私を恨めしげに見る骸(むくろ)達が見えた―
「随分な魘(うな)され様だったな」
目が覚めたのは太陽が頭上に燦々(さんさん)と輝く頃。
彼女、雲居一輪はそんな陽気の中でも、旅立つこともせずここにいたようだった。
「最悪な夢でした、もう眠るのが嫌になる位に……」
未だに克明に浮かび上がる夢の世界
「本当に……最悪だ……」
私は体を抱え込みうずくまる。
私の体から感じられる温もりが、此処があの温もりを失った冷え切った世界ではないのだと唯一教えてくれるようで、確かめるように強く強く体を抱え込んだ。
「体を冷やすと夢見も悪くなるさ、ほら、すっかり体が冷え込んじまってる。夏なのによくこれだけ逆に冷えたもんだ」
見かねたのか彼女は私の体を擦りながら後ろからそっと自分の使っていた毛布をかけてくれた。
昨日より彼女の声からは少し険が取れていた。
「ありがとう、ございます」
彼女の手は私のそれよりも一層暖かくて、何故か涙が出そうな程ありがたかった。
顔をあげると其処には昨日と同じ様にアンカーが佇んでいる。
重い重い、鈍色(にびいろ)に光るアンカーが。
まるでそこにあるのが当たり前の様に。
ジャラジャラと音をさせながら、私の胸から鎖を垂らして伸びていた。
私の手をさする彼女、昨日の夜の暗がりでも相当のものだと察する事は出来たが、空に溶かしこんだかの様な淡い青色。
よく見ると少しくすんだ黒い目、何処かの集落の娘さんなのだろうか肩まででざっくばらんに揃えられた髪と意思の強そうな瞳はそれらを合わせて彼女の気性の強さを現しているようだった。
そして、不思議な事にやはり彼女の周りには薄い靄(もや)の様なものが彼女を守るかの様に漂っていた。
「あんた、こっから何処にいくつもりなの?」
「えっと、近くの村に行きたいんですけど……」
「あんた、その格好船乗りだろ?」
「……船が、難破しちゃいまして」
「……そう」
十分あったまったと思ったのか。
はたまたあきてしまったのか、それは分からないけれど彼女は腰をあげて荷物を片づけ始める。
「あたしも村に用があるんだ、道分かんないんだろ?案内してやるよ」
「あ、ありがとうございます」
降ってわいた幸運を運が良かったと、私は素直に喜べただろうか。
なぜ希望通りに進んでいるはずなのにこんなに喜べないのか。
私は自分で言っておきながら心の奥底ではそれを望んでいないようだった。
「ほら、行くよ」
「はい」
腰をあげ、進む彼女を追いかける。
「すいません、ゆっくりお願いします」
アンカーの着いた私は早く動けないけれど、
「ほら、これでも食っときな」
「あ、ありがとうございます」
けれど
「どんくさいな、もっとさっさと歩けよ」
「は、はい!」
彼女を追う足は前へと進み、アンカーは夢をみる前よりもまた少し軽くなった気がした。
―――――――――――
「大変な目におうて、苦労なさったのに申し訳ないなぁ」
「いえ、いいんです。ありがとうございました」
村についたはいいものの、状況は芳しくはなかった。
「最近で船の難破は聞かんよ、それも地元じゃない方はね」
「そうですか、どうも」
村長の家を訪ね挨拶をし、許可を得て知っているものはいないか聞いて回った。
幸い村長もいい方で、すぐに許可をもらう事が出来た。
「知らないよ、あんたみたいなのの話しを聞いたら伝えるさ」
「ありがとうございます」
そこまでは良かったのだけど。
そこから、私の願いという物は一向に進まなかった。
私の打ち上げられた砂浜から一番近い村は、どうやら私の進んでいた道のりとは反対の方向にあったようで、元来た道のりを辿り、そこから反対の方向に進んで行った。
少しだけ嬉しかったのは、自分でも不安だった元来た道のりが思いの外浜から遠くて、自分は夜通しかけながら、あの重いものを引きずって遠くの距離を歩けていたのだと言うこと。
少しだけ不思議だったのは、あれだけ重いものを引き摺って歩いたのに地面には引き摺ったあとなんてなくて、私の目の前に昨日見た通りの道が続いていた事。
少しだけ、何故か少しだけ軽くなっていたこのアンカーは、昨日の道のり程苦労をかけることなく、村への道のりを踏破させた。
それでも案内をしてくれる一輪さんには“のろま”だのなんだの散々言われてしまった。
だけど、そののろまな私を彼女は置いていくことなく、悪口を私にくれながらも歩調を合わせ。
ゆっくりゆっくり私と歩いてくれた。
「こりゃ無理だ、あんた、もう諦めた方がいいかもしれない」
そうやって一輪さんがいったのはもう村の人にも粗方聞きつくして、日も暮れようとした頃だった。
「そうですね、聞く人自体もういなさそうですしね……」
村長のご好意で借り受けた一間に腰を落ちつけながら会話を始める。
彼女は自身が言っていた用というものを済ますことなく、今日一日私に付き合ってくれた。
「大体あたしもこの近くの村からこっちに歩いてきたけども、一切そんな話し聞きゃしない」
「そうですか……」
夕焼けに照らされながらのこの空間は、パチパチという火の爆ぜる音以外にあまり聞こえるものはなくて。
本当に遠くから蜩(ひぐらし)の鳴く物悲しい声だけが聞こえていた。
「一輪さん、もうよろしいんです、ご自分の用向きを済まされてください」
私は此処まで世話を焼いてくれた一時の隣人にお礼を述べた。
「用?……あぁ、あれ嘘」
「は?」
この人は此処に至るまで私に用があるからこの村にくると言っていたのも忘れていたようで。
いまさら思い出したように“あぁ”と手拍子を打つとあっからけんと言ってのけたのだった。
「用なんてないよ、あんたさん、随分疲れてるようだったからさ、気紛れについて行っただけ」
別にあてのある旅でもないし。
彼女はよう続けながら胡座を組み換え、どっこいしょと荷物の中から煙管を取り出した。
「一服、いいかい?」
「……どうぞ、ありがとうございます」
葉を詰め煙を燻(くゆ)らす彼女に、迷惑をかけていたことへのお礼を告げる。
強い意思の瞳や攻撃的な言動ではあるものの、彼女は存外に世話焼きというか、お人よしであるようだった。
「礼なんていらない。それよりも―」
会話が続きながら、少しづつ帳が落ちてくる。
外は残照を残しながら少しづつ日が落ち、段々と夜になりつつあった。
「あんたは覚悟しないといけないかもしれない」
「……はい」
何がとは言わない。
その答えなんて分かりきっているからだ。
沈んだ船。
沈んだ仲間たち。
「あんたは一人きりになったのかもしれない」
「……はい」
たくさんの仲間たちを置いて。
私は此処に取り残されたのかもしれない。
蒸し暑い程の暑さのなか、何処か肌寒いものを感じて私は自身の体を抱きしめた。
ゆっくり、ゆっくり、意志を込めながら話しているかの様な一輪さんのその言葉は、ゆっくり、ゆっくり時間をおいて、一つづつ、一つづつ話され、そのたびに私は相槌を打った。
気がつけば外はすっかり闇の中。
蝋燭の照らすぼんやりとした灯りと、一輪さんの吸うたび赤く燃える煙管だけが、その空間唯一の光景だった。
一輪さんの問い掛けは、私に届いていたのだろうか。
分からない、素通りしていた部分もあるかもしれないし、話し半分で自分の中に潜って聞いていなかった部分もあったかもしれない。
けれど、今は彼女の話しかける声がとてもありがたかった。
「ありがとうございます」
私は再び彼女にお礼を言った。
「だから、別にお礼を言われるような事はしてない。もしかしたら私はあんたの希望みたいなものを奪っているだけなのかもしれない」
そう言って笑う彼女の顔には少し自嘲の色が強い様に見えた。
「それでも、……いや、だからこそ、あなたにお礼を言いたいんです」
淡い期待に縋りつこうとした自分。
どうしようもないものを諦めきれなかった自分。
「自分の中では例え分かっていても言葉にできない、したくなかった思いをあなたが言葉にしてくれたから」
それは簡単なことではないと思う。
誰かに恨まれるかもしれない。
誰かを傷つけてしまうかもしれない。
強い言葉というものは、それだけで誰かを守る強い力にもなるけれど、人を深く傷つけもするから。
そうやって誰かに強い言葉を使うことは、自分もその強い言葉に縛られてしまうことを意味するのだから。
彼女は、あえて強い言葉を使って私に教えてくれた。
受け入れがたい現実かもしれないその風景を、私一人では頭では考えながらも、心の中までストンと落とす事は出来なかったかもしれない。
自分の身を考えるならば、適当に慰めの言葉を投げかけ、ご愁傷様でしたと道を違えることが一番の近道の中で、それでもこうして声をかけてくれた彼女に感謝したい。
「ありがとうございました」
そうやって頭を下げる。
彼女は―
「……なら受け取っとく」
今まで拒んでいた私のお礼を、そこでようやく受け取ってくれたのだった。
――――――――――――――――――――
また夢をみる。
深く、深く、体が沈んでいく。
海の底に意識が潜っていく。
光の届くギリギリの所で、得体のしれない骸(むくろ)たちがじっとこっちを見ていた。
一度休憩をはさんだおかげか、以前の限界を少しだけ我慢出来るようだった私は、彼の骸骨たちを視界に納めながら手をかけていた船の船体に浮かび上がり甲板に辿りついた。
海底に座礁してしまった船は、竜骨がばっきりと折れており、再起不能であることを否応なしに私に実感させた。
甲板は荒れ放題あれ、当然のことながら誰もいない。
号令の元、みんなと一緒になってたわしでこすって回った船板も、風を受け大きく膨らんで私達を運んでくれた帆も全てがぼろぼろで、ミズンのマストは落下の衝撃からか完全に折れてしまっていた。
そんな甲板から足を進め船内にはいる。
これが陸ならば、すこし建てつけの悪くなったこの扉は軋む音を立てたことであろうが、海底にある今はぎぃという音もたてずに、僅かばかりの気泡を頭上にあげるのみだった。
私は船に辿りついてからも、自分の進む道のりは分かっているようで、船内に入り、階段を降りながらも一直線に其処に進んでいるようだった。
誰もいない客室は海底にある今でも埃っぽそうだったし、料理場では今から料理でも始まるかの様に、残っていた食材だったのだろう玉ねぎやら人参が空中ならぬ海中を舞っていた。
通り過ぎる。
通り過ぎる。
船員のいる船室には、眠る様にして、私の仲間達がベットについていた。
不思議と体が浮き上がることも無く。
水死体にありがちなふくれっ面でもなく。
彼らは静かに、本当にちょっかいをだしたらすぐ目が覚めそうな位生々しく、眠るようにそこにいた。
複数ある船室を全て抜けて、何処にも空いている場所がない事を確認して、何故か私は安心するのだ。
一人もかけることなくここに居られることが、私には涙が出そうな位嬉しいのだった。
外に視える骸骨たちにお前たちに渡すものは何もないのだと、大声で啖呵をきってやりたくなった。
最後に私は辿りつく。
船の主が居るべき場所へ。
コンパスも、海図も、海を渡るために大切なもの全てを内包した船長室へ。
扉を開け、掛けていた帽子をかぶる。
私は何物も奪わせない、みんな、何もかもを守ってみせる。
席に着いた其の時に
“帰れ”というその声と何か包まれているような優しい光を見た気がした―
「やっと起きた」
体を起こすと昨日からよく聞いている声が私を迎えた。
日は既に昇っているようで、荷支度を既に終わらせていた一輪さんはそれでも最後まで私を眠らせていてくれたようだった。
「今日は魘されてはなかったみたいだね」
「……はい」
夢で見た光景をもう一度脳裏に描く。
答えは恐らくもう出ているのだろうと自覚があった。
「船員を探すのはやめようと思います。」
思いついたそのままを彼女には伝えた。
「……分かった」
彼女は何も言わずにただそれに頷いてくれた。
「本当に、迷惑をおかけしました」
「はいよ」
これが最後とばかりにペコリと頭を下げる私に、彼女はしっかりとその礼を受け取ってくれたのだった。
「これから、どうする?」
「……一つ、やらなければならない事ができたので」
「そうかい」
それだけ告げると彼女は荷物を持って部屋をでた。
「そろそろ出よう。村長にお礼を言って、それで私達もお別れだ」
「はい」
体を起こして布団を簡単に直す。
ジャラジャラと鎖の音を立てながら、アンカーはずっと目の前にあった。
「ま、まってください!!」
そうやって力を入れて動かしたアンカーは、昨日よりもまた少しだけ軽くなっていた。
―――――――――――――――――――
再び夜がくる。
夜の静寂の中、聞こえるのは波の音だけ。
一輪さんとは道中で別れを告げ、私は最初に流れ着いたこの海に戻ってきた。
夢で見た光景を私は現実のものとしたかった。
「私達が死んだのはいつだったんだろうね……」
足元を眺める。
寄せて返す波に足を浸す。
「あの嵐はいつおきたのかな……」
不思議な程にお腹の減らないこの体。
あれだけの嵐のあとで傷一つない私の体。
自分の手の温もりは、私がそう思い込んでいただけで、自覚した途端に消え去り。
冷え切った体温でここにあった。
激しい嵐の中、灯台の光を目指して航海したあの日は何時の出来事だったのだろう。
「失いたくないと願ったんだ」
海底に沈み、薄れ行く意識の中で。
「まだ、あんた達と航海をしていたいと願っちまったんだ」
思い出すのは昔読んだ御伽噺
「覚悟なんかしてたつもりだったんだけどね」
満月の空に船を浮かべ、帆はパンパンに風を孕んで。
カンテラを揺らしながら波を捲き、お盆のような海をすべるように進んでいくんだ。
「誰も知らない世界を皆でみたかったんだ」
私は海に身を進める。
ゆっくり、ゆっくりと引き摺りながら進んでいく。
「でもあんな世界のつもりじゃなかったんだけどなぁ……」
私が夢見たのは、寝物語の様に美しい景色。
ちゃぷちゃぷと私の足までが海に浸かる。
アンカーは私が進む事を拒むかのようにそこにいた。
「でも仕方ないよね、船長のあたしが、あんたたちをそこに導いちまったなら」
あれが全部私のせいだとは思わないし、おこがましくて思えないけれど。
でも、その航海に旅立ったのは紛れもなく私の性で。
ならば―
「其処にいようよ、たとえ誰もいない、グロテスクな世界だって、あんたたちといれるなら私はそれでいい」
永遠に海の底で揺蕩うことになっても、私はそれでいい。
こうして、人の形を持って、もう一度動ける事は、みんなを守り続けろとそういうことなのだろう。
「大丈夫、私にはアンカーがあるんだ。重い重いアンカーが、きっと一度潜ってしまったら、重くて二度と丘にはあがってこれないさ」
私の胸から伸びるアンカーは、私が引き摺るのか、私を引き摺るのか。
水は私の胸に届こうとしていた。
皆の思いを吸い取ったこのアンカーは、さぞ重いだろう。
こんな目にあわせた怒りで、この碇は永遠の海底へ私を誘うのだ。
「ねぇ、あんた消えんの?」
その声が聞こえてきたのは私がもう少しで頭まで沈みそうになるそんな時だった。
「えぇ、いなくなりますよ。暗い海の底、此処とは違う別の世界にいくんです」
何故か私には驚きがなくて、彼女が声をかけてきた事を何処か当たり前の様に返していた。
「それって楽しい?」
何が楽しいのか、彼女は楽しそうに笑っていた。
「楽しくはないですね、ただ、みんなと一緒にいたいから」
「ふぅん、じゃあそう、わたしそれとめるわ」
どういう訳か彼女は海から浮いていて、彼女の足元には以前から見えていた雲の塊がみえた。
「……は?」
ジャラジャラと、海中にありながらも鎖の音が響いた。
「だから、あんたがそうするのをやめさせるの」
またもやあっさりという彼女に少しだけ怒りが湧いた。
「そんな適当に私の選んだ道を止めないでください」
「だって、あんたが自分で、その選んだ道を楽しくないといった」
海に沈みかけている私と彼女では自然に彼女が私を見下す形となり、そういって笑う彼女が如何にも腹立たしくなった。
「楽しければいいのですか、私はどうしたいか真剣に考えました」
「それで、真剣に考えた挙句この世界からいなくなったんじゃ世話ないと思わない?」
彼女は今だにクスクスと笑う事を止めなかった。
「あんたが死人なのは知ってたんだよ、最初にあった時私があんたをなんと言ったのか憶えてるかい?」
そうだ、この人はあの時私の事を化物と言っていた。
「あんたが害のないものならそのまんま放置にしようと思っててね」
私が、悩みながら、あの夜一輪さんに諭されながら真剣に考えた決断を、彼女は笑った。
「わかりました、ならば何で邪魔をするんですか?」
とりあえず彼女の話しを聞こうと思った。
今からこの世界からいなくなろうとしている私を何故彼女は止めたのか。
これだけの事をいうのなら、彼女にもさぞ大層な理由があるのだと思ったから。
「別に」
返事は即答だった。
「……は?」
「特に理由はない」
一拍の空白の後、頭が沸騰した。
「なら、消えてください、早く、そうしないと私はあなたを道連れにしてしまいそうです」
一生懸命頭を冷静にしながら言葉を紡ぐ。
「大層な理由もなく、私の決めた道を阻まないでください」
「じゃあ、あんたが決めた道にはどんな大層な理由があるの?」
その時の彼女の目は最初に会った時の様に狂おしい程の意志を携えていた。
「私は、誰かにそうあれかしと言われてからじゃないと人を助けてはいけないの?」
「私は、私の気に喰わないものを殴るし、私は、私の決めた道を歩くよ」
浮かべていた笑みはなりを潜め、獣の様な本能、欲に忠実な何かが姿をあらわす。
「あんたが決めたその道が気に入らない、理由なんて他にないよ」
その瞬間、たくさんの水が彼女を襲った。
「ならいいですよ、私も、私の我を通します。私もあんたが、気に入らない!!」
しかし、水しぶきが終わり、波間には、何もなかったかの様に彼女がたっていた。
「調子でてきたじゃん。ムラサの亡霊、子供みたいに癇癪おこしな!」
彼女の前には今までの雲が形をなし。
それは大きな男の形となった。
「雲山、やっちまおうか」
その声かけと共に、質量を伴った拳が私に襲いかかる。
慣れない怨霊としての私の力は、しかしその使い道を或る程度体が知っていたようで、私の目の前に水の壁を作り、咄嗟に創ったにしては上出来の力だったといえた。
しかし、なれない力に私は完全には馴染めなかったようで、水は全て防がれ、私は拳を防いだ余波を受け、波の力でどんどん砂浜の方に戻されていく。
幸いアンカーに引っ掛かって大きくは動かなかったけれど、それでも少しづつ、少しづつ、私は海から遠ざかって行った。
「どうした、もうちょっとで陸に逆戻りだけど?」
気付けば海が私の腰の所までに戻されていた。
「くそ、ふざけんな、ふざけんなあああぁぁぁ!!」
波の力は全て防がれる。
それならばと私はアンカーを掴んだ。
認識をずらす。
そう、今まで私は自身を人間と思いこんでいたから。
アンカーはそれなりの重さをもって私の前にいたけれど、今の私ならば。
肉体が死を迎え、思い込みが少しでも力になる私ならば。
「お前も、私と一緒に、沈没しろおおおおおおぉぉぉぉぉ!!」
この見えないアンカーは私の最強の武器になるのではないかと思った。
信じる。
このアンカーを持ち上げられる自分をイメージする。
アンカーは、今まで引き摺ることしかできなかった重い重いアンカーは。
私の頭上高々とあがり、勢いをつけて彼女に投擲された。
ついでそれにつられてついていく私の体。
「は?なんで?」
疑問符を口にしながら冷や汗を流す彼女の表情が少しづつ近付く。
「お前も一緒に死ねええええぇぇぇぇぇぇ!!」
「そんなつもりは毛頭ねえぇぇぇぇぇぇぇ!!」
投擲されたアンカーは彼女には見えないながらも見事顔面にぶち当たり、その流れに任せるまま、距離を稼いだ私は海の底まで落ちていくのだ。
静かに目をつぶる。
気絶したであろう彼女に心の中で謝りながら、私は勢いのまま海に沈む―
「うんざあああああああぁぁぁぁぁぁあん!!!」
甲高い声が聞こえて、沈みかけた私の手が掴まれた。
「だから、あんたを、いかしゃしないっていってんだろ!!」
彼女の顔はそれはもう酷いあり様で、顔を真っ赤にしながら、目に涙を滲ませながら。
鼻血もそれはもう垂らしながら。
それでもキツク私の手を握っていた。
「いったああああああぁぁぁぁ!!あんた、りくにあがったらころぉぉぉぉす!!」
「ヒイイイイイィィィィィィィ!!」
思わずの迫力とあんまりな彼女の表情にびびる。
「ならさっさと離して、元々海の藻屑になる予定だったんだからああぁぁ!!」
「ことわあぁる!!」
「なぜ!?」
アンカーがカラカラと音を立てながら海に沈んでいく。
直に私の体は海に呑みこまれるだろう。
「あんたが、しんで、それでもみんなといたいとのぞんで、あんたはこのすなはまにきた」
「……」
「あんたがうみにかえるなら、りくにあんたがもういちどよみがえったいみはなんなんだ!!」
「しらない、そんなのしらないよ!!」
深く、深く、アンカーが沈んでいく。
「かんがえろ!!どうしてそうなったのか、こたえをみつけてから、うみにはかえれえええぇぇぇ!!」
体が軋む。
アンカーに引っ張られて、私の体は沈みそうになる。
それでも―
「そうなってからでも、おそくはないだろ?」
彼女の細腕は軋みながらも私を離すことなく。
「えいえんに、まってるんだろ?」
私を震えながらも支えて
「なら、たったすうじゅうねん、すうひゃくねん、すうせんねん、まってられないほどあんたのなかまはどりょうはせまくないだろぉ!!」
私を離すまいとしてくれた。
「……さすがに、数千年は待たせすぎだと思うんですけどねぇ」
「なら、さっさとこたえをみつけるためにあんたががんばれ」
私を離さまいと必死に掴むこの手はとても暖かくて
「あああああぁぁぁもう!!分かりましたよ、探して見せます。どんな地の果て、海の果て、はたまた次元の果てだって、それでいいんでしょうがぁ!!」
その手に縋りついて泣きだしそうな程嬉しかったのは内緒である。
それを聞いて彼女はニヤリとなんともあくどい笑顔を浮かべた。
「いいさ、ただぁし!!りくにあがったらいっぺんころおおおぉぉす!!」
「もはや私にどうしろってんですか!!」
その後またお決まりの“雲山!!”という声が聞こえて私は引き揚げられた。
夜空にはキラキラ輝く星々とお月さま。
「あぁそうか、今日は満月だったんだね」
いつか読んだ御伽噺。
満月の夜に船を浮かべ、帆はパンパンに風を孕ませ。
カンテラを揺らしながら波を捲き、お盆のような海をすべるように進んでいくんだ。
「いいよ、航海を続けよう。あんたたちと見るはずだった景色を私は船に持って帰るから」
私の胸から伸びるこの長い長いアンカーを、あんたたち全員が込めたもっと生きたいという願いだと信じて。
雲山さんの背中から垂らされた私の重い重い、大きなアンカーは、月明かりに照らされて大きく揺れながら、ジャラジャラと大きな音を立てていた。
気のせいかもしれないけれど。
私にはそれが私の門出を祝うみんなの声に聞こえたんだよ
永遠の大海原へ、青い水平線目指して
帆には風を捲いて、残照を打ちならそう。
向かい風はあなたの髪を乱して、水面は細波(さざなみ)立つ
暗い海の其処で私を待っている。
何時だって魂は其処にある。
遠くで見える人の声に私は憎悪する。
笑顔を握り潰し、絶望を叩きつけ、深く深くに堕としたいのだ。
空に舞う鴎(かもめ)に分かれを告げて、おどろおどろしい生物達の仲間入りをさせたいのだ。
“生きている”ただそれだけで無性に憎くて、振り上げた拳で、目一杯の殺意で、私は全てを否定したかった。
根底で永遠に渇き、何も満たされないまま、私は八つ当たりを続けていくのだ。
脳裏に焼きつくのは風の吹いたあの日、目の前に灯台を見つけ、灯りを目の前にしながらも死んでいったあの日。
仲間が沈んで、船も沈んで、私も沈んで、大嫌いだった現実が怒涛の勢いで押し寄せてきた。
沈む海の中で皆が、私達の船が、波にのまれてゆっくりゆっくり沈んでいくあの瞬間。
もう二度と、航海の旅も、仲間との酒盛りも、永遠に出来ないのだと。
自分が死ぬこととか、助かろうとするとか、そんなことよりも、頭をよぎったのはそんなことだった。
自分が死ぬ事よりも、自分の大切なものがなくなってしまうことの方が恐かった。
沈みいく船に手を伸ばしたけれど、愛しの船は私の手から離れ、仲間たちは波に呑まれて姿さへ見えなかった。
覚悟くらいあると思っていたけれど、覚悟くらいしていたつもりだったけれど、私は後悔していた。
“私の大切なものを奪うな!!”と叫びだしたくなった。
皆を、全てを、私の現実を奪うなと、私は願った。
―――――――――――――
意識が戻った時には私は何処とも知らない砂浜にいた。
意味が分からず立ち竦む私。
とりあえず此処が何処か知るためにも歩こうとして、足がつっかえて進まない事に気付く。
重い、重い。
後ろから誰かに引っ張られている様な重みに振り返ると――
其処には大きな黒い黒いアンカーが砂浜に突き立っていた。
伸びた鎖は私の心臓の場所まで伸び、体に溶ける様に根元から入り込んでいた。
「……なんだこりゃ」
呟くけれど現実は何も変わらなくて、砂浜に突き立った大きな大きなアンカーはいくら動かしてもびくともしなかった。
私はそんな現実に呆れたけれど、不思議とお腹もすかないし、打ち上げられたばかりのはずなのに体の何処も不調は訴えていなかった。
「みんなが無事ならいいけれど…………」
私の関心は目の前のこの馬鹿でかいアンカーよりも嵐に呑みこまれた他の船員達に向けられていた。
しかし現実問題身動きがとれないし、見渡す限りでは誰も見当たらない。
「ハァ~、どうしようかね」
海は嵐が嘘の様に凪いでいた。
空には鴎(かもめ)たちが餌を探して飛んでいる。
砂浜に寝そべって考え込む私はふと気付けばまどろんでいたようで、私の意識は深い所に溶け込んで、一つの夢を見た。
深い深い海の底。
誰も見た事がない様な深い底。
何が何だかは分からなかったけれど、其処が海だという事はなんとなく分かった。
灯りはなく、真っ暗で、此処が何処かなんて分かったもんじゃなかったけれど、遠くに淡く光る何かを見つけて私はそこへ導かれる様に進んで行った。
ゴツゴツした岩肌を、まるで歩くみたいに進んで、不思議と息は苦しくなかった。
灯りのある場所以外に目を向けなかった訳ではない。
でも、辺りは完全に闇の中で、あれほど親しんだ世界のはずなのに、薄皮一枚捲っただけで世界はこうも変わるのかと恐くなった。
得体のしれない闇の向こうには何かが蠢いていて、ここは人間が棲む世界とは別の世界なのだという印象を強く受けた。
導かれたのではない、竦んで其処に向かうことで精一杯だったのだと気付いたのは少し後になってからで、私は救いを求めるかのようにその光を目指した。
海底の丘を一つ越えやっと光の元が私の目に触れようとしていた。
同時に私の限界が近いことも頭の中で分かっていた。
気付いてしまったのだ、誰かが暗闇の向こうからこっちを見ていることを。
その視線は粘着質に私を追いかけ、視線をとっかえひっかえしながらたくさんの何かがこっちを見ていた。
無防備な私は恐怖に駆られ必死に光を目指す。
追いかけてくるわけではないその視線の重圧は、しかしそれだけで私の全てを押しつぶしそうだった。
息が出来なくなる。
物理的な要因とは別の何かが私を動けなくさせる。
なんとか進み、私の目に入った光の源は私達の沈没した船だった――――
「……なんだったんだよ今の夢はチクショー」
目を覚まし起き上がる。
辺りはすっかり夜になっていた。
胸糞の悪い夢をみてすっかり気分が悪い。
「そうだよ、船は沈没したんだよ……」
分かり切ったことではあったけれど、口からでたその言葉は何処か寒々しくて、胸にぽっかりと穴があいたようだったけれど、でもその事実は何故か心の中に落ち着いた。
ざざぁんざざぁんと星空に照らされながら波打つその音はよく聞き慣れているはずなのにどこか懐かしかった。
「そろそろ宿とか探したいんだけどなぁ」
起き上がり、体の砂を払う。
「やっぱりこれは夢じゃないんだね」
ジャラジャラと鉄の擦れる音を立てながら大きなアンカーは雄々しく其処にあった。
幸いまだ夏の陽気が残っている今の季節ならば、そのまま死んでしまう事もないだろうが、流石にこのままじゃいけないのは分かっているので動こうとしてみる。
「せぇ、、、の!!」
渾身の力を込めてアンカーを引っ張る。
すると、ズルズルと少しづつではあるものの、昼間どれだけやってもびくともしなかったこのアンカーは、なんとか動いたのである。
そこに或ることを固定された様に頑なだったアンカーは、如何言うわけか知らないが少し見ない間に頑張ってダイエットをしたようで、ほんの少しだけれど、私にとりつく島をあたえてくれたのだった。
「でもさ、、、ぜぇ、、、はぁ、、、」
少しづつ、少しづつ、重いアンカーを引き摺って歩いていく。
「これ引きずりながら、、ぜぇ、ずっと、、、歩いてくって、、、はぁはぁ、、、まじ?」
ふと振り返ると歩き出してからまだ十歩も進んでいないという事実が目に入り、早くも現実逃避したくなるが、何も見ていなかったと言い聞かせ、振り返れば死ぬ(精神的に)ということを言い聞かせながら私は向かう場所も知らずに歩き始めた。
―――――――――――――――
「とおいよぉ~、つかれたよぉ~、、、、はぁはぁ」
砂の地面を抜けてどれくらいたっただろうか。
もしかしたら殆ど進んでいなくて振り返ったらすぐそこにまだ砂浜があるのかもしれないが、振り返ってそれを確かめると精神的によくない場合が考えられるのでやめる事にする。
目覚めたのは夜だったが、既に少しずつ日は昇りはじめ、山の向こう側から日が白んできている。
真っ暗な中で進む道のりだったが月が照っていたし、不思議と夜道はよく見えた。
草っぱらに紛れながら、踏みならされた道を少しづつ少しづつ進んでいく。
とにかく、誰か人のいる所に行かなければならない。
もしかしたら船員の誰かが私と同じように打ち上げられたかもしれないし、このアンカーも如何にかしたい。
夏の草むらは虫たちも大忙しで、至る所から彼らの声が聞こえてきて、退屈はしないのだけど、いい加減如何にかしたいしして欲しい。
私が荒れ果てた御堂についたのはそんな道行きの中だった。
「もういい、、、疲れたし、、夜通し歩いたし、もう疲れた!一回寝る、御堂で一回寝る!!」
一生懸命アンカーを引きずって、木が傷んで階段も崩れ去り、土壁も一部剥がれている様なこのボロボロな御堂で、私は一度休むことにした。
入口に辿りつき、息も絶え絶えになりながら扉に手をかけた其の時―
「それ以上近寄んじゃねぇよ化物」
御堂の奥から声がかかった。
「ひぇぇ!?」
驚きで飛びのく私。
どうやら中には先客がいたらしかった。
「その声、女か」
よく聞くと相手の声も女性のようだった。
「は、ハイ、あ、あの、此処で休ませてほしいんですけど……」
扉越しに声をかける。
何か考えているのだろう。
少しの沈黙の後で返事が返ってきた。
「いいよ、入んな」
「あ、ありがとうございますぅ」
お礼を言いながら恐る恐る扉を開ける。
月明かりに照らされて映った相手は、ゆったりゆったりと自身の周りに霧を纏い、鋭く此方を睨んでいた。
淡い青の髪を隙間から差し込む月の光に照らされながら、中に何か荒れ狂うものを宿したような瞳は強く此方を見ている。
「お、おじゃましまぁ~す」
相手からのマジの威圧に私は声を震わせる事なく今の台詞を言えたかどうか不安になる。
「なんでそんなゆっくりゆっくり入ってくんだよ」
それは彼女のあまりにもあんまりな感じに怖気づいたからというのも少しはなくはないけれど、なによりも私には重い重い碇(いかり)がついている訳で
「いやぁ、重いもん引き摺っちゃってるもんで……」
そう笑いながら言った言葉に
「はぁ?別に何も引き摺ってやしないじゃないか」
疑わしそうに私の後ろをみる彼女をみて―
「あの、もしかして……お見えでない?」
「だから何が?」
そうやって煩わしそうに私をみる彼女に
「いや、何でもないです、ハイ」
それだけ返してなんとかアンカーを御堂の中に入れて扉を閉じる。
困ったことになったぞこれは……
「あんた名は?」
「む、村紗水蜜」
どうやら今まで引っ張ってきたこの重い重い鉄の碇は―
「私は雲居一輪、なんかしたらすぐここから叩き出す」
「はい、なにもしねぇです、はい」
私以外には見えないようだった。
――――――――――――――
夢をみた。
深海の夢、海の底の夢。
深い深い、別の世界の夢。
夢はあの時のまま続いていた。
苦しみながら、見えた私達の船に一目散に進んでいく私。
追いかけてくる粘っこい視線。
時々思い出したかのようにあがっていく気泡。
深海の世界では全てがグロテスクな様で、船の光に照らされながら時々私の前を横切っていく魚も、地面に所々生える海藻の様な生物も細長かったり、目玉が飛び出していたり、私の知っている様な魚の体(てい)をなしていなかった。
水の中の筈なのに、所々では火が飛沫をあげ、思い出したかのように時々地面が震える。
陸の上でなら空を飛ぶ私より小さな何かしかいなかったのに、この世界には私の頭上にたくさんの何かが蠢いていて、逆に私のように地面を這うものの方がこの世界では珍しいようだった。
まるであべこべの世界だ。
私はそう思う。
空と陸がこの世界では逆さまになって、私より大きな何かが私の上を泳ぎ回っている。
泳いでいるといつの間にかその大きな怪物の懐の中にいて、取り囲まれもう逃げ道がなくなって、怪物の餌になってしまうのかもしれない。
海の厳しさ、優しさ、恵み、恐ろしさ、たくさんの側面を私は分かっていたつもりだったけれど、ここに広がるもう一つの世界は私の知る海という物とはまた全く違うもので
平面を気にすればよかったあの世界から、上も、下も、四方八方何処からも何かに襲われる危険に怯えて、終始真っ暗な朝のない世界で生きていくこの世界が、私にはたまらなく恐ろしく映った。
完全なる個人として、何かを見渡す事も出来ない此の世界では誰かを見つけて安心するということもできない。
誰かと繋がることも容易ではない。
そんな激しく、苛烈な世界に私は肉体的にも精神的にも耐えられそうになかった。
今すぐ逃げ出したい。
身を包むこの闇は優しく私に休息を促す優しげな闇ではなく。
一寸先に何があるのか分からない、自分すらも信じられない、化物を内包した絶対的強者たる闇だった。
恐い、恐怖という感情が思考の殆どを塗り潰し、逃げ道を必死に思考する。
想像の中で未知という種が果実を実らせ、肺を迫り上げ、手足を痺れさせる。
救いを求め一心で船に辿りついたその時、船の光の先で私を恨めしげに見る骸(むくろ)達が見えた―
「随分な魘(うな)され様だったな」
目が覚めたのは太陽が頭上に燦々(さんさん)と輝く頃。
彼女、雲居一輪はそんな陽気の中でも、旅立つこともせずここにいたようだった。
「最悪な夢でした、もう眠るのが嫌になる位に……」
未だに克明に浮かび上がる夢の世界
「本当に……最悪だ……」
私は体を抱え込みうずくまる。
私の体から感じられる温もりが、此処があの温もりを失った冷え切った世界ではないのだと唯一教えてくれるようで、確かめるように強く強く体を抱え込んだ。
「体を冷やすと夢見も悪くなるさ、ほら、すっかり体が冷え込んじまってる。夏なのによくこれだけ逆に冷えたもんだ」
見かねたのか彼女は私の体を擦りながら後ろからそっと自分の使っていた毛布をかけてくれた。
昨日より彼女の声からは少し険が取れていた。
「ありがとう、ございます」
彼女の手は私のそれよりも一層暖かくて、何故か涙が出そうな程ありがたかった。
顔をあげると其処には昨日と同じ様にアンカーが佇んでいる。
重い重い、鈍色(にびいろ)に光るアンカーが。
まるでそこにあるのが当たり前の様に。
ジャラジャラと音をさせながら、私の胸から鎖を垂らして伸びていた。
私の手をさする彼女、昨日の夜の暗がりでも相当のものだと察する事は出来たが、空に溶かしこんだかの様な淡い青色。
よく見ると少しくすんだ黒い目、何処かの集落の娘さんなのだろうか肩まででざっくばらんに揃えられた髪と意思の強そうな瞳はそれらを合わせて彼女の気性の強さを現しているようだった。
そして、不思議な事にやはり彼女の周りには薄い靄(もや)の様なものが彼女を守るかの様に漂っていた。
「あんた、こっから何処にいくつもりなの?」
「えっと、近くの村に行きたいんですけど……」
「あんた、その格好船乗りだろ?」
「……船が、難破しちゃいまして」
「……そう」
十分あったまったと思ったのか。
はたまたあきてしまったのか、それは分からないけれど彼女は腰をあげて荷物を片づけ始める。
「あたしも村に用があるんだ、道分かんないんだろ?案内してやるよ」
「あ、ありがとうございます」
降ってわいた幸運を運が良かったと、私は素直に喜べただろうか。
なぜ希望通りに進んでいるはずなのにこんなに喜べないのか。
私は自分で言っておきながら心の奥底ではそれを望んでいないようだった。
「ほら、行くよ」
「はい」
腰をあげ、進む彼女を追いかける。
「すいません、ゆっくりお願いします」
アンカーの着いた私は早く動けないけれど、
「ほら、これでも食っときな」
「あ、ありがとうございます」
けれど
「どんくさいな、もっとさっさと歩けよ」
「は、はい!」
彼女を追う足は前へと進み、アンカーは夢をみる前よりもまた少し軽くなった気がした。
―――――――――――
「大変な目におうて、苦労なさったのに申し訳ないなぁ」
「いえ、いいんです。ありがとうございました」
村についたはいいものの、状況は芳しくはなかった。
「最近で船の難破は聞かんよ、それも地元じゃない方はね」
「そうですか、どうも」
村長の家を訪ね挨拶をし、許可を得て知っているものはいないか聞いて回った。
幸い村長もいい方で、すぐに許可をもらう事が出来た。
「知らないよ、あんたみたいなのの話しを聞いたら伝えるさ」
「ありがとうございます」
そこまでは良かったのだけど。
そこから、私の願いという物は一向に進まなかった。
私の打ち上げられた砂浜から一番近い村は、どうやら私の進んでいた道のりとは反対の方向にあったようで、元来た道のりを辿り、そこから反対の方向に進んで行った。
少しだけ嬉しかったのは、自分でも不安だった元来た道のりが思いの外浜から遠くて、自分は夜通しかけながら、あの重いものを引きずって遠くの距離を歩けていたのだと言うこと。
少しだけ不思議だったのは、あれだけ重いものを引き摺って歩いたのに地面には引き摺ったあとなんてなくて、私の目の前に昨日見た通りの道が続いていた事。
少しだけ、何故か少しだけ軽くなっていたこのアンカーは、昨日の道のり程苦労をかけることなく、村への道のりを踏破させた。
それでも案内をしてくれる一輪さんには“のろま”だのなんだの散々言われてしまった。
だけど、そののろまな私を彼女は置いていくことなく、悪口を私にくれながらも歩調を合わせ。
ゆっくりゆっくり私と歩いてくれた。
「こりゃ無理だ、あんた、もう諦めた方がいいかもしれない」
そうやって一輪さんがいったのはもう村の人にも粗方聞きつくして、日も暮れようとした頃だった。
「そうですね、聞く人自体もういなさそうですしね……」
村長のご好意で借り受けた一間に腰を落ちつけながら会話を始める。
彼女は自身が言っていた用というものを済ますことなく、今日一日私に付き合ってくれた。
「大体あたしもこの近くの村からこっちに歩いてきたけども、一切そんな話し聞きゃしない」
「そうですか……」
夕焼けに照らされながらのこの空間は、パチパチという火の爆ぜる音以外にあまり聞こえるものはなくて。
本当に遠くから蜩(ひぐらし)の鳴く物悲しい声だけが聞こえていた。
「一輪さん、もうよろしいんです、ご自分の用向きを済まされてください」
私は此処まで世話を焼いてくれた一時の隣人にお礼を述べた。
「用?……あぁ、あれ嘘」
「は?」
この人は此処に至るまで私に用があるからこの村にくると言っていたのも忘れていたようで。
いまさら思い出したように“あぁ”と手拍子を打つとあっからけんと言ってのけたのだった。
「用なんてないよ、あんたさん、随分疲れてるようだったからさ、気紛れについて行っただけ」
別にあてのある旅でもないし。
彼女はよう続けながら胡座を組み換え、どっこいしょと荷物の中から煙管を取り出した。
「一服、いいかい?」
「……どうぞ、ありがとうございます」
葉を詰め煙を燻(くゆ)らす彼女に、迷惑をかけていたことへのお礼を告げる。
強い意思の瞳や攻撃的な言動ではあるものの、彼女は存外に世話焼きというか、お人よしであるようだった。
「礼なんていらない。それよりも―」
会話が続きながら、少しづつ帳が落ちてくる。
外は残照を残しながら少しづつ日が落ち、段々と夜になりつつあった。
「あんたは覚悟しないといけないかもしれない」
「……はい」
何がとは言わない。
その答えなんて分かりきっているからだ。
沈んだ船。
沈んだ仲間たち。
「あんたは一人きりになったのかもしれない」
「……はい」
たくさんの仲間たちを置いて。
私は此処に取り残されたのかもしれない。
蒸し暑い程の暑さのなか、何処か肌寒いものを感じて私は自身の体を抱きしめた。
ゆっくり、ゆっくり、意志を込めながら話しているかの様な一輪さんのその言葉は、ゆっくり、ゆっくり時間をおいて、一つづつ、一つづつ話され、そのたびに私は相槌を打った。
気がつけば外はすっかり闇の中。
蝋燭の照らすぼんやりとした灯りと、一輪さんの吸うたび赤く燃える煙管だけが、その空間唯一の光景だった。
一輪さんの問い掛けは、私に届いていたのだろうか。
分からない、素通りしていた部分もあるかもしれないし、話し半分で自分の中に潜って聞いていなかった部分もあったかもしれない。
けれど、今は彼女の話しかける声がとてもありがたかった。
「ありがとうございます」
私は再び彼女にお礼を言った。
「だから、別にお礼を言われるような事はしてない。もしかしたら私はあんたの希望みたいなものを奪っているだけなのかもしれない」
そう言って笑う彼女の顔には少し自嘲の色が強い様に見えた。
「それでも、……いや、だからこそ、あなたにお礼を言いたいんです」
淡い期待に縋りつこうとした自分。
どうしようもないものを諦めきれなかった自分。
「自分の中では例え分かっていても言葉にできない、したくなかった思いをあなたが言葉にしてくれたから」
それは簡単なことではないと思う。
誰かに恨まれるかもしれない。
誰かを傷つけてしまうかもしれない。
強い言葉というものは、それだけで誰かを守る強い力にもなるけれど、人を深く傷つけもするから。
そうやって誰かに強い言葉を使うことは、自分もその強い言葉に縛られてしまうことを意味するのだから。
彼女は、あえて強い言葉を使って私に教えてくれた。
受け入れがたい現実かもしれないその風景を、私一人では頭では考えながらも、心の中までストンと落とす事は出来なかったかもしれない。
自分の身を考えるならば、適当に慰めの言葉を投げかけ、ご愁傷様でしたと道を違えることが一番の近道の中で、それでもこうして声をかけてくれた彼女に感謝したい。
「ありがとうございました」
そうやって頭を下げる。
彼女は―
「……なら受け取っとく」
今まで拒んでいた私のお礼を、そこでようやく受け取ってくれたのだった。
――――――――――――――――――――
また夢をみる。
深く、深く、体が沈んでいく。
海の底に意識が潜っていく。
光の届くギリギリの所で、得体のしれない骸(むくろ)たちがじっとこっちを見ていた。
一度休憩をはさんだおかげか、以前の限界を少しだけ我慢出来るようだった私は、彼の骸骨たちを視界に納めながら手をかけていた船の船体に浮かび上がり甲板に辿りついた。
海底に座礁してしまった船は、竜骨がばっきりと折れており、再起不能であることを否応なしに私に実感させた。
甲板は荒れ放題あれ、当然のことながら誰もいない。
号令の元、みんなと一緒になってたわしでこすって回った船板も、風を受け大きく膨らんで私達を運んでくれた帆も全てがぼろぼろで、ミズンのマストは落下の衝撃からか完全に折れてしまっていた。
そんな甲板から足を進め船内にはいる。
これが陸ならば、すこし建てつけの悪くなったこの扉は軋む音を立てたことであろうが、海底にある今はぎぃという音もたてずに、僅かばかりの気泡を頭上にあげるのみだった。
私は船に辿りついてからも、自分の進む道のりは分かっているようで、船内に入り、階段を降りながらも一直線に其処に進んでいるようだった。
誰もいない客室は海底にある今でも埃っぽそうだったし、料理場では今から料理でも始まるかの様に、残っていた食材だったのだろう玉ねぎやら人参が空中ならぬ海中を舞っていた。
通り過ぎる。
通り過ぎる。
船員のいる船室には、眠る様にして、私の仲間達がベットについていた。
不思議と体が浮き上がることも無く。
水死体にありがちなふくれっ面でもなく。
彼らは静かに、本当にちょっかいをだしたらすぐ目が覚めそうな位生々しく、眠るようにそこにいた。
複数ある船室を全て抜けて、何処にも空いている場所がない事を確認して、何故か私は安心するのだ。
一人もかけることなくここに居られることが、私には涙が出そうな位嬉しいのだった。
外に視える骸骨たちにお前たちに渡すものは何もないのだと、大声で啖呵をきってやりたくなった。
最後に私は辿りつく。
船の主が居るべき場所へ。
コンパスも、海図も、海を渡るために大切なもの全てを内包した船長室へ。
扉を開け、掛けていた帽子をかぶる。
私は何物も奪わせない、みんな、何もかもを守ってみせる。
席に着いた其の時に
“帰れ”というその声と何か包まれているような優しい光を見た気がした―
「やっと起きた」
体を起こすと昨日からよく聞いている声が私を迎えた。
日は既に昇っているようで、荷支度を既に終わらせていた一輪さんはそれでも最後まで私を眠らせていてくれたようだった。
「今日は魘されてはなかったみたいだね」
「……はい」
夢で見た光景をもう一度脳裏に描く。
答えは恐らくもう出ているのだろうと自覚があった。
「船員を探すのはやめようと思います。」
思いついたそのままを彼女には伝えた。
「……分かった」
彼女は何も言わずにただそれに頷いてくれた。
「本当に、迷惑をおかけしました」
「はいよ」
これが最後とばかりにペコリと頭を下げる私に、彼女はしっかりとその礼を受け取ってくれたのだった。
「これから、どうする?」
「……一つ、やらなければならない事ができたので」
「そうかい」
それだけ告げると彼女は荷物を持って部屋をでた。
「そろそろ出よう。村長にお礼を言って、それで私達もお別れだ」
「はい」
体を起こして布団を簡単に直す。
ジャラジャラと鎖の音を立てながら、アンカーはずっと目の前にあった。
「ま、まってください!!」
そうやって力を入れて動かしたアンカーは、昨日よりもまた少しだけ軽くなっていた。
―――――――――――――――――――
再び夜がくる。
夜の静寂の中、聞こえるのは波の音だけ。
一輪さんとは道中で別れを告げ、私は最初に流れ着いたこの海に戻ってきた。
夢で見た光景を私は現実のものとしたかった。
「私達が死んだのはいつだったんだろうね……」
足元を眺める。
寄せて返す波に足を浸す。
「あの嵐はいつおきたのかな……」
不思議な程にお腹の減らないこの体。
あれだけの嵐のあとで傷一つない私の体。
自分の手の温もりは、私がそう思い込んでいただけで、自覚した途端に消え去り。
冷え切った体温でここにあった。
激しい嵐の中、灯台の光を目指して航海したあの日は何時の出来事だったのだろう。
「失いたくないと願ったんだ」
海底に沈み、薄れ行く意識の中で。
「まだ、あんた達と航海をしていたいと願っちまったんだ」
思い出すのは昔読んだ御伽噺
「覚悟なんかしてたつもりだったんだけどね」
満月の空に船を浮かべ、帆はパンパンに風を孕んで。
カンテラを揺らしながら波を捲き、お盆のような海をすべるように進んでいくんだ。
「誰も知らない世界を皆でみたかったんだ」
私は海に身を進める。
ゆっくり、ゆっくりと引き摺りながら進んでいく。
「でもあんな世界のつもりじゃなかったんだけどなぁ……」
私が夢見たのは、寝物語の様に美しい景色。
ちゃぷちゃぷと私の足までが海に浸かる。
アンカーは私が進む事を拒むかのようにそこにいた。
「でも仕方ないよね、船長のあたしが、あんたたちをそこに導いちまったなら」
あれが全部私のせいだとは思わないし、おこがましくて思えないけれど。
でも、その航海に旅立ったのは紛れもなく私の性で。
ならば―
「其処にいようよ、たとえ誰もいない、グロテスクな世界だって、あんたたちといれるなら私はそれでいい」
永遠に海の底で揺蕩うことになっても、私はそれでいい。
こうして、人の形を持って、もう一度動ける事は、みんなを守り続けろとそういうことなのだろう。
「大丈夫、私にはアンカーがあるんだ。重い重いアンカーが、きっと一度潜ってしまったら、重くて二度と丘にはあがってこれないさ」
私の胸から伸びるアンカーは、私が引き摺るのか、私を引き摺るのか。
水は私の胸に届こうとしていた。
皆の思いを吸い取ったこのアンカーは、さぞ重いだろう。
こんな目にあわせた怒りで、この碇は永遠の海底へ私を誘うのだ。
「ねぇ、あんた消えんの?」
その声が聞こえてきたのは私がもう少しで頭まで沈みそうになるそんな時だった。
「えぇ、いなくなりますよ。暗い海の底、此処とは違う別の世界にいくんです」
何故か私には驚きがなくて、彼女が声をかけてきた事を何処か当たり前の様に返していた。
「それって楽しい?」
何が楽しいのか、彼女は楽しそうに笑っていた。
「楽しくはないですね、ただ、みんなと一緒にいたいから」
「ふぅん、じゃあそう、わたしそれとめるわ」
どういう訳か彼女は海から浮いていて、彼女の足元には以前から見えていた雲の塊がみえた。
「……は?」
ジャラジャラと、海中にありながらも鎖の音が響いた。
「だから、あんたがそうするのをやめさせるの」
またもやあっさりという彼女に少しだけ怒りが湧いた。
「そんな適当に私の選んだ道を止めないでください」
「だって、あんたが自分で、その選んだ道を楽しくないといった」
海に沈みかけている私と彼女では自然に彼女が私を見下す形となり、そういって笑う彼女が如何にも腹立たしくなった。
「楽しければいいのですか、私はどうしたいか真剣に考えました」
「それで、真剣に考えた挙句この世界からいなくなったんじゃ世話ないと思わない?」
彼女は今だにクスクスと笑う事を止めなかった。
「あんたが死人なのは知ってたんだよ、最初にあった時私があんたをなんと言ったのか憶えてるかい?」
そうだ、この人はあの時私の事を化物と言っていた。
「あんたが害のないものならそのまんま放置にしようと思っててね」
私が、悩みながら、あの夜一輪さんに諭されながら真剣に考えた決断を、彼女は笑った。
「わかりました、ならば何で邪魔をするんですか?」
とりあえず彼女の話しを聞こうと思った。
今からこの世界からいなくなろうとしている私を何故彼女は止めたのか。
これだけの事をいうのなら、彼女にもさぞ大層な理由があるのだと思ったから。
「別に」
返事は即答だった。
「……は?」
「特に理由はない」
一拍の空白の後、頭が沸騰した。
「なら、消えてください、早く、そうしないと私はあなたを道連れにしてしまいそうです」
一生懸命頭を冷静にしながら言葉を紡ぐ。
「大層な理由もなく、私の決めた道を阻まないでください」
「じゃあ、あんたが決めた道にはどんな大層な理由があるの?」
その時の彼女の目は最初に会った時の様に狂おしい程の意志を携えていた。
「私は、誰かにそうあれかしと言われてからじゃないと人を助けてはいけないの?」
「私は、私の気に喰わないものを殴るし、私は、私の決めた道を歩くよ」
浮かべていた笑みはなりを潜め、獣の様な本能、欲に忠実な何かが姿をあらわす。
「あんたが決めたその道が気に入らない、理由なんて他にないよ」
その瞬間、たくさんの水が彼女を襲った。
「ならいいですよ、私も、私の我を通します。私もあんたが、気に入らない!!」
しかし、水しぶきが終わり、波間には、何もなかったかの様に彼女がたっていた。
「調子でてきたじゃん。ムラサの亡霊、子供みたいに癇癪おこしな!」
彼女の前には今までの雲が形をなし。
それは大きな男の形となった。
「雲山、やっちまおうか」
その声かけと共に、質量を伴った拳が私に襲いかかる。
慣れない怨霊としての私の力は、しかしその使い道を或る程度体が知っていたようで、私の目の前に水の壁を作り、咄嗟に創ったにしては上出来の力だったといえた。
しかし、なれない力に私は完全には馴染めなかったようで、水は全て防がれ、私は拳を防いだ余波を受け、波の力でどんどん砂浜の方に戻されていく。
幸いアンカーに引っ掛かって大きくは動かなかったけれど、それでも少しづつ、少しづつ、私は海から遠ざかって行った。
「どうした、もうちょっとで陸に逆戻りだけど?」
気付けば海が私の腰の所までに戻されていた。
「くそ、ふざけんな、ふざけんなあああぁぁぁ!!」
波の力は全て防がれる。
それならばと私はアンカーを掴んだ。
認識をずらす。
そう、今まで私は自身を人間と思いこんでいたから。
アンカーはそれなりの重さをもって私の前にいたけれど、今の私ならば。
肉体が死を迎え、思い込みが少しでも力になる私ならば。
「お前も、私と一緒に、沈没しろおおおおおおぉぉぉぉぉ!!」
この見えないアンカーは私の最強の武器になるのではないかと思った。
信じる。
このアンカーを持ち上げられる自分をイメージする。
アンカーは、今まで引き摺ることしかできなかった重い重いアンカーは。
私の頭上高々とあがり、勢いをつけて彼女に投擲された。
ついでそれにつられてついていく私の体。
「は?なんで?」
疑問符を口にしながら冷や汗を流す彼女の表情が少しづつ近付く。
「お前も一緒に死ねええええぇぇぇぇぇぇ!!」
「そんなつもりは毛頭ねえぇぇぇぇぇぇぇ!!」
投擲されたアンカーは彼女には見えないながらも見事顔面にぶち当たり、その流れに任せるまま、距離を稼いだ私は海の底まで落ちていくのだ。
静かに目をつぶる。
気絶したであろう彼女に心の中で謝りながら、私は勢いのまま海に沈む―
「うんざあああああああぁぁぁぁぁぁあん!!!」
甲高い声が聞こえて、沈みかけた私の手が掴まれた。
「だから、あんたを、いかしゃしないっていってんだろ!!」
彼女の顔はそれはもう酷いあり様で、顔を真っ赤にしながら、目に涙を滲ませながら。
鼻血もそれはもう垂らしながら。
それでもキツク私の手を握っていた。
「いったああああああぁぁぁぁ!!あんた、りくにあがったらころぉぉぉぉす!!」
「ヒイイイイイィィィィィィィ!!」
思わずの迫力とあんまりな彼女の表情にびびる。
「ならさっさと離して、元々海の藻屑になる予定だったんだからああぁぁ!!」
「ことわあぁる!!」
「なぜ!?」
アンカーがカラカラと音を立てながら海に沈んでいく。
直に私の体は海に呑みこまれるだろう。
「あんたが、しんで、それでもみんなといたいとのぞんで、あんたはこのすなはまにきた」
「……」
「あんたがうみにかえるなら、りくにあんたがもういちどよみがえったいみはなんなんだ!!」
「しらない、そんなのしらないよ!!」
深く、深く、アンカーが沈んでいく。
「かんがえろ!!どうしてそうなったのか、こたえをみつけてから、うみにはかえれえええぇぇぇ!!」
体が軋む。
アンカーに引っ張られて、私の体は沈みそうになる。
それでも―
「そうなってからでも、おそくはないだろ?」
彼女の細腕は軋みながらも私を離すことなく。
「えいえんに、まってるんだろ?」
私を震えながらも支えて
「なら、たったすうじゅうねん、すうひゃくねん、すうせんねん、まってられないほどあんたのなかまはどりょうはせまくないだろぉ!!」
私を離すまいとしてくれた。
「……さすがに、数千年は待たせすぎだと思うんですけどねぇ」
「なら、さっさとこたえをみつけるためにあんたががんばれ」
私を離さまいと必死に掴むこの手はとても暖かくて
「あああああぁぁぁもう!!分かりましたよ、探して見せます。どんな地の果て、海の果て、はたまた次元の果てだって、それでいいんでしょうがぁ!!」
その手に縋りついて泣きだしそうな程嬉しかったのは内緒である。
それを聞いて彼女はニヤリとなんともあくどい笑顔を浮かべた。
「いいさ、ただぁし!!りくにあがったらいっぺんころおおおぉぉす!!」
「もはや私にどうしろってんですか!!」
その後またお決まりの“雲山!!”という声が聞こえて私は引き揚げられた。
夜空にはキラキラ輝く星々とお月さま。
「あぁそうか、今日は満月だったんだね」
いつか読んだ御伽噺。
満月の夜に船を浮かべ、帆はパンパンに風を孕ませ。
カンテラを揺らしながら波を捲き、お盆のような海をすべるように進んでいくんだ。
「いいよ、航海を続けよう。あんたたちと見るはずだった景色を私は船に持って帰るから」
私の胸から伸びるこの長い長いアンカーを、あんたたち全員が込めたもっと生きたいという願いだと信じて。
雲山さんの背中から垂らされた私の重い重い、大きなアンカーは、月明かりに照らされて大きく揺れながら、ジャラジャラと大きな音を立てていた。
気のせいかもしれないけれど。
私にはそれが私の門出を祝うみんなの声に聞こえたんだよ
砂浜に突き立っていたということはそういうことなのでしょうけれど
アンカーが重かったのはきっと仲間のおかげなんでしょうね
感想下手ですが匿名評価で終わりたくなかったので。
作者様の書きたい世界を完全に書ききったSSだと。