霊夢が伸びをしながら空を見上げると、灰色に染まっていた。紛うことなき曇りだ。
けれど嫌な感じがするという程ではない、雨も振らなさそうだ。今日は特にやることもないし、普段やらないことでもしてみようか。
そんな風に考えだしたは良いが大してやりたい事も見つからず、いつしか昼時になって霊夢はお腹が空いて来た。
腹の虫が疼いた頃、霊夢はひらめいた。
「魚釣りでもしようかしら」
魚釣りは曇りのほうが良いというのを何処かで聞いた事がある。今日なんて絶好の天気かもしれない。
善は急げとばかりに霊夢は川へと向かうために空に飛び上がった。
しかし、直ぐに道具が無い事に気づいた。霊夢は魚釣りの道具は持ち合わせていない。
そうなると行く所はまずは香霖堂だろうか。ついでにやり方も教えてもらおう。霊夢は大漁になるだろうと見込んで口元を緩ませた。
─カランカラン─
霊夢が扉を開けると霖之助は座って本を読んでいた。霖之助は誰か来た事を察するとパタンと本を閉じて入り口を見た。
「霖之助さん、こんにちは」
なんだ霊夢か、と霖之助はため息混じりに言うと立ち上がって奥へ入った。
「溜息すると幸せが逃げるのよー?」
霊夢が奥に向かって言うと、誰がさせてるんだと返って来た。少しすると霖之助は手に柄杓を持って出てきた。
「今日は釣竿を借りようと思ったんだけど……なにそれ」
「そうなのか?てっきりこの間無くしたお祓い棒を取りに来たのかと思ったよ」
「あ、そういえば作ってって頼んでたような……でもそれどう見てもお祓い棒じゃないんだけど」
霊夢は思い返してみる、そういえば頼んだ。自分でもすっかり忘れていた。ところが霖之助の持っているのは間違いなく柄杓だった。
「ただの柄杓じゃないぞ」
霖之助は指の腹を使って柄杓をくるくる回転させた。
「あれ、底が無いのね。その柄杓」
霊夢が回転している先端の合の部分を見ると向こうの棚がよく見えた。
「その通り、最近川には妖かしが出るみたいだからな。それを退治する為に必要と思って僕が底を抜いた」
「川に何か出るの?」
その言葉を聞き、霖之助は思い返すように目を閉じながら喋り始めた。
「それも知らないのか。最近川でチッチッという音が聞こるんだ。更に霧の湖や川に引きずり込まれたり、突き落とされたり、具合が悪くなったり、漁が振るわなかったりすると最近噂らしい、現に僕も引きずり込まれた。けしからん。僕の予想だとこれは最近出てきたという船幽霊のしわざだ」
霖之助は目を開けると続けて言う。
「とにかく、そいつの退治もしてくれ」
「まあ釣竿貸してくれたら考えるけど。今日は釣りしたい気分なの、天気もこんな日が良いのでしょう」
「川釣りは雨降ってる位が丁度良いんだが……まあいいよ。普通の釣竿で良かったら余ってるし」
そう言うと再び奥に入っていった。
「沢山釣ったら霖之助さんにも分けてあげるから待っててね」
「坊主になることだって有るんだぞ、さっき言ったじゃないか」
霖之助は今度は釣竿片手に出てきた。
「髪はちゃんとあるけど」
霊夢は後髪を自分で引っ張って見せた。霖之助は呆れながら釣竿と底無し柄杓を手渡した。
早速霊夢は川へとやって来た。霧の湖より少しだけ登った地点だ。
「ここなら誰も文句言ってこないだろうし」
霊夢は適当に穴を掘ってミミズを見つけると針につけて川に投げ込んだ。
しばらくしたら上げてみて、また投げて、偶にミミズを交換して、もっと偶に場所を移動したりして……。
「……釣れない!」
それでも一向に霊夢の釣竿は揺れない。西の空にオレンジが感じられる様な時間になってもぴくりともしなかった。
結局川に引きずり込まれたりする怪異も起きない。漁が奮わないという噂は本当なのかもしれないが……。
霊夢はその日は帰ることにした。
後日、霊夢は霖之助に竿を返しに行った。何も釣れなかったというと霖之助はやっぱり、と言ってお茶をすすっていた。
一連の怪異についても翌日から霊夢は警戒するようにしたが、船幽霊は現れなかった。
川や湖自体、人間が多い場所でも無いのが幸か不幸か、あまりに被害が無いので釈然としない。
それでも霖之助は早く退治しろという。
「こんなもん持ってても、意味ない気がするんだけどなぁ」
霊夢はやるせ無く座卓の上を見た。座卓の上にある、底の無い柄杓を。
結局、あれから正体が掴めないままだ。こうなったら船幽霊に直接聞きに行こうか……。
霊夢が伸びをしながら空を見上げると、雲ひとつ無い青空が広がる。
何にも例えられない空色の元、霊夢は深呼吸すると命蓮寺に向かった。
人里近い命蓮寺近くをまで来ると、ネズミが見えた。灰色の服に丸い耳。ナズーリンだ
「ちょっとそこの灰色のネズミ。聞きたいことが有るんだけど」
「やあこんにちは──ってあれ、君も船幽霊になっちゃったんだ」
ナズーリンは少し難しい顔をした。
「は?」
「そんな柄杓持ってるし。あー、皆まで言わなくても大丈夫大丈夫。命蓮寺ならきっと受け入れて貰えるから……」
今度は笑顔を見せる。
「勝手に死んだことにしないでよね。おたくの船長探してるの!」
「あはは、冗談だよ。船長は出かけてたと思う、最近よく出かけてるみたいだ」
「あらそう。やっぱり怪しいわね、どこに居るのかしら……」
霊夢はその場で腕を組んで考える。
「さっき霧の湖の近くで見かけたよ」
「なんだ知ってたの、じゃそっち行ってみるわ」
霊夢は挨拶も適当に、霧の湖に向かった。
「妖怪でも挨拶できるのになあ」
ナズーリンが霊夢の後ろ姿を見て呟いた。霊夢は勘づいたのか後ろを向いたまま柄杓を振ってバイバイする。
霧の湖に着くと霊夢は一先ず辺りを見回した、相変わらず昼間に霧があって何か探すには非常に鬱陶しい。
歩きまわって調べてみると今日は心なしか霧が薄く見えたが、特に誰も居なかった。
仕方ないから湖に注ぐ妖怪の山からの川を辿って見ようとと思い霊夢は歩き出した。
「いた」
歩き初めて少し、霧っぽさが無くなった所で、霊夢は同じように底なし柄杓を持っている人物を見た。
短い丈の白い服を揺らす、目的だった村紗水蜜だ。
「うん?」
ムラサの方も霊夢の存在に気づくと振り向き、目をこらして霊夢を観察すると、不思議そうに尋ねた。
「いつぞやの巫女さんじゃないですか、いつの間に船幽霊に?」
「いつぞやの船長ね、それ二度目だから。というか船幽霊は普通コレ持ってないでしょう」
霊夢は柄杓をブンブンと振って否定した。そのまま手を伸ばし柄杓をムラサの方に向けると、少し強めの口調で聞き返す。
「それよりさ、最近あんた悪さしてない?」
言われたムラサは少しきょとんしたが、やがて察して応えた。
「……してません、少なくとも最近のは私じゃないです。私は具合を悪くさせたりはできないし」
「本当かなあ、船幽霊って柄杓を貸せって言って貸したら沈めたりするんでしょ。言うこと聞けないわ」
「やだなあ、私は柄杓借りたりしません。注げない奴もう持ってますし、貸せなんて言わなくても沈められます」
「それは余計たちが悪いような」
霊夢は向けていた柄杓を下ろした。
「とにかく、最近は聖にも何かと言われたりして、私も犯人扱いされて困ってるんです」
「普段の行いが悪いからでなくて?」
「そりゃ善行に励んでるかと言われると微妙ですけど」
「やっぱり信用ならないじゃない」
「だったら着いて来て下さいよ、私も名誉の為に犯人探してたんです。渡りに船ですよ?」
ムラサは自信満々に言い切ると、帽子のつばを摘んで弄りながら笑った。
「うーん、あんたの船は厄介そうだからなぁ」
そう言いながらもムラサの妙な自信が気になり、霊夢は取り敢えず付いて行くことにした。
「ところでそれは安産祈願の御守でしょうか、神社の底抜け柄杓と言えばそっちですよね」
川に沿って四半刻歩いた頃、村紗は霊夢の持っている柄杓を見ながら聞いた。
「私が妊娠してるように見えるの?」
むしろ減ってると、霊夢はお腹を撫でながら応えた。
「奉納でもされたのかと思って」
「これは船幽霊退治用に渡されたんだけど、効果無さそうだから御守にして誰かに上げようかしら」
「なんだ、よっぽど時代錯誤な奴に貰ったんでしょう。でも死んだ奴に上げる物が一方では安産祈願に使われるなんて不思議ですね」
「元々杓子の種類違うんでしょ、柄杓が女性の象徴になるのは取り分けに使うお玉や杓文字みたいな奴らしいし」
「へえ。船幽霊に渡すのも元々は大柄杓だったりもしたんですけど、いつの間にか小さいのばっかりに」
「そういう魔除けとか呪いの道具を扱うのは神社や寺が多いし、統一しちゃったのかもね。あれ?量産すればどっちの御利益も謳える……」
「巫女ってそういう事よく考えてるんですか」
「ちょっと思っただけだって、それより何処に向かってるのよ?」
「上流ですよ、犯人の目星は付いてます、ずっと調べていて残りはこの辺り……ほら、見つけました」
そう言うとムラサは小走りで、川から少し離れた所にあるちょっとした草むらの方に向かった。
霊夢も続くように草むらまで走った。
─チッチッチッ─
霊夢が草むらの前に着くと茂った草の中から音が聞こえて来る。
これが噂の音だろうか。と霊夢は確かめるように村紗の方を向いた。
ムラサは霊夢の方を見ると無言で頷き、草を掻き分けた。
「これが犯人?」
「犯人。です」
そこにあったのは古びれた小さな木箱だった。ちょっとした化粧箱の様なそれは、四方掛けで十字に紐が掛かっていた。
「いかにも開けちゃ駄目っぽいけど、何これ」
「開ければ分かります、悪い物の様には感じて無いんじゃないですか?」
ムラサは軽妙な口調で言った。
確かに物凄い危険な物、という気はしない。しかしこの箱の中身が犯人というなら何も無いという保証も無い。
少し悩んだが、見ないと犯人かそうで無いかすら決められないと霊夢は紐を解く。
一息ついてから、思い切って蓋を取った。
中に入っていたのは、紙で出来た人形。サイコロが二つ。髪の毛の束。紐が通されている銭。鏡。練口紅。米や小豆の様なものだった。
「これって……船霊(フナダマ)様?」
二人は木箱を持って神社に戻った。今度はムラサが霊夢に付いて神社に行くことになる。
ムラサは神社の境内を興味深そうに見回していたが、ひと通り見ると面白い物も無いんですねと言いながら座敷に上がった。
霊夢は木箱は再び開け、座卓の上に丁寧に置いた。
「あんたが居ると私も普段より面白くないけどね、妖怪が来る神社なんて笑えないのに」
「そうでしょうか、私は中々楽しいと思いますよ。命蓮寺も妖怪が居るお寺ですしね、似たもの同士です」
「一緒にしないで頂戴」
不満気な顔で応えると、霊夢は続けて本題に入った。
「これって船霊でしょ?悪さするようには思えないんだけど」
「船霊なんて崇高な物じゃあ無いです……幻想郷って海がないのに船霊を知っているんですね」
「前に住吉さん喚んだのよ。民間信仰だけど船霊も住吉さんと並ぶくらい有名な航海や水難除けの神よね。確か船の帆柱の下にこの木箱みたいに祭具を入れた箱を埋めておくって奴」
「結構物知りなんですね。確かに知名度は結構あるようですけど、こいつの正体は……」
ムラサは箱の中からおもむろに人形を取り出すとじっと見た。
「……?」
「ただの船幽霊です」
「船幽霊?まさか。知名度があるんだからそれだけ信仰のある神なんでしょ」
呆れつつ霊夢もじっと人形を見る。
「知名度があり過ぎます。これは狸から聞いたんですけど……外の世界では全国的に船霊の信仰があるそうで」
「ふーん、狸って最近来たあいつ?どうでもいいか。信仰がそれだけ有るってだけで羨ましいわね。何が言いたいのよ?」
「分霊もしてないのに、実態のない神が全国に広がるはずがありません」
「そう言われると確かにちょっと不思議だけど……実態がこの箱の中身なんじゃないの?」
霊夢は箱の中と人形とムラサの顔を順に見た。
「その通りです。じゃあこの中で何が一番重要だったのか分かりますか?」
「人形じゃないの、依り代だし」
「残念、重要ですが本来は一番じゃないです」
「じゃあ鏡かしら、これもご神体になるし」
「それは船霊様が女性だから入れるだけです、口紅も」
「銭?地獄の沙汰もなんとやら」
「銭は焼火信仰から来ているので違います」
「じゃあ。髪の毛?」
「あたり」
ムラサはニッコリ笑うと手に持っていた人形を箱のなかに放り投げた。
「もしかしてこの髪の毛って……船霊本人の毛なの?」
「そうです。正確には元々は、でしょうけどね」
霊夢は腕を組んで、頭の中を整理しようと考え込んだ。
「えーっと、つまり船霊っていうのは元々祖霊を祀っていたってこと?」
考え終わると霊夢は腕を解いて言った。
「流石巫女ですね、そういうの詳しいですか」
「神道は死んだ人をその家の守護神として祀ったりするし。船霊はそれと似た物って事だったのね」
「船霊は船霊という名前の神じゃなくて、海で死んだ人を船の守り神として祀ったものを言うんです。それなら其々の地域に元々居た霊の正式な祀り方、として受けいられやすいんですよね」
「この髪の毛が元々はって言ったのは、新たに死んだ人の髪とかを船霊として祀ったんじゃなくて、形だけ取り繕って昔の奴を祀り続けてるって事かしら」
「そうです。本当は船霊自体、代替わりみたく別の人になってもいいはずですが……」
「そこまでちゃんとした作法は無くなっちゃったのかしらね、それでこいつが犯人だってのはどういうことなの」
「船霊は船を粗末にしたり、禁忌を犯したりすると祟るんです」
「禁忌?」
「船霊は一般的に女の霊を祀ってあります、口紅と鏡が有るからこの船霊も女かと。嫉妬深く女の人が居ると海を荒らしたり突き落としたり」
「急に人間染みた話ねえ。この船霊も嫉妬して荒らしていたかしら。被害者もそういう時だけいじめる」
「たかが船幽霊に毛の生えた程度のクセに、祟れば思い通りに成ると思ってる。船霊なんてそんなもんです」
「ふーん」
「しかも、幻想郷に来たのもきっと信仰が無くなったからに違いないです。狸情報その二ですが、最近は船霊を祀らない所も多いとか、ざまあみろです」
─聞いてれば、好き勝手言ってくれますね─
ムラサが悪たれ口を叩いていると、急に声が聞こえた。声にムラサと霊夢は思わず無言で互いの顔を見つめる。
声の主は明らかに二人では無かった。二人は間にあった木箱に視線を落とす。
─……嫉妬したのは事実だけど─
声は紙の人形から発せられているようだった。穏やかなその声は確かに女性のようだった。
「あんた喋れたの?」
霊夢は身を乗り出して箱を覗きこみ、人形に向かって話しかけた。
─あまりに勝手なこと言うので、物申したいんですけど。あ、巫の方じゃなくてそっちの船幽霊に─
「さっき言った事が癇に障ったんですかね、でも別に悪いこと言ったつもりは無いです」
─船霊が船幽霊に毛の生えたものというのは許せません─
「字は似てるけどね」
「元は同じ死んだ人間でしょう。祟りを起こせる時点で船幽霊と大した違いは無いって、分からないんですか?」
村紗は霊夢を無視して食って掛かる様に言った。
─祀る船を守る船霊と、見境無く船を沈めようとする船幽霊と、どうして比べられましょう─
「でも忘れられそうになってるなんて、神様として駄目な奴だったって事ですよね」
「ちょっとあんた言い過ぎじゃないの?あとそれこの神社にも喧嘩売ってるから」
─……見たところ貴方、念縛霊でしょう。恐れられて畏れられて、それで忘れて貰えなくなって、幸せですか?─
忘れて貰えない。確かに人間から妖怪になった奴は、そういう事なのかもしれない。
霊夢は会話に上手く入れないので少し黙って聞くことにした。
「妖怪としては、幸せものでしたね。今はまた事情も違いますが、それも忘れて貰えなかったからこその今です」
─そうですか、貴方は先ほど船霊は祀られなくなったと言いましたが……─
「でなきゃこんな所に居るわけがありません、」
─何で祀られなくなったのか、分かってないです─
「力が無くて、忘れられた以外に考えられませんが」
霊夢は暇だったので柄杓の柄を両手のひらで挟むと、手を前後に滑らせて回してみた。
─その理由です。ここは特殊な環境のようですけど、外は技術も人も日進月歩しています。事故が少ないのも勿論、まず帆船がかなり減りました、帆柱がありません─
船霊の声に少し寂しそうな色が含まれているのを霊夢は感じた。
「それは私も聞きました。船霊は本来船に埋め込む形じゃないといけないから、今は手間とお金が異常に掛かると。結局の手間やらに見合わないんじゃないですか」
─船を作る人と乗る人が別になってしまいましたんでね……それでも機関室等に備え付けてくれたりしました、最近はそれもなくなりましたが─
「やっぱり。負け惜しみなんてしなくていいです」
ムラサは頬杖をついて人形を見下ろした。
─でもですよ、考えたら私なんて居ないほうが良いんですよ─
船霊は一転してとても嬉しそうに話しだした。
「む?」
ムラサは頬杖のままぽかんとした。霊夢も柄杓いじりをやめて人形の方を見る。
─だってですよ、それだけ水難事故が減って、私を必要としなくなったんですから。代替わりしないなんて話もしていましたが、人が死ななければそんな事はできません─
「え?あんたはそれでいいの?消えちゃうじゃない」
霊夢は当然の事の様に言う船霊に驚いて聞いた。
─幸い私の居た所では死人が全くといって良いほど出なくなりました。私自身、海で死にましたし。水難避けの船霊として必要とされなくなることは、喜び以外の何物でもありません。元々私も死んだ身なれば、在るべき所に行くだけでしょう─
「……そりゃ一緒にされたら怒るわね」
霊夢は村紗の方をニヤニヤしながら見た。
「民間信仰の神は何考えてるか分かったもんじゃないですね……」
ムラサは頬杖を解くと頭を掻いた。
─それに私は完全に信仰が無くなったわけではありません、今は簡易的な御札として船に乗っています。貴方達の前にある一式を乗せる事が無くなったから箱だけ此処に来たんでしょう─
「なんだ、信仰自体は外で生きてるのね」
霊夢が言うと船霊は黙った。霊夢は何となく船霊が笑っている気がして釣られて笑ってみた。
「勝手に笑って気色悪いですね……」
「うるさい」
ムラサは茶化す様に笑った後、一息ついて船霊に向かって喋りかける。
「変なこと言って悪かったです、でも私は今も不幸とは思ってません。やるべき事がありますからね」
─やるべきこと……それもまた、良いものですね。私こそ少々不躾な物言いですみません─
霊夢は会話を聞いて思う。何だかんだ二人は似ているのだろうか。
─そうだ、この箱は丸ごと燃やして灰を川にでも流してくだされば結構ですので─
船霊が言いたいことは言い尽くしたという感じで言った。
─巫の方、頼めます?─
「はいはい、分かったわよ」
返事をすると、船霊はもう一言も喋らなくなった。
霊夢は元あったように箱を閉じて、再び紐を掛ける。
早速庭で箱に火をつけて燃やすと、船霊はあっけないほど簡単に灰と化した。銭と鏡は燃えなかったがムラサが言うには一緒に捨てれば良いらしい。
何処から流せばいいか霊夢が考えていると、それもムラサが見つけた所から流すのが良いと言うので、灰を紙に包んで拾った場所に戻った。
「川は海に繋がります、いつかこの灰達も船霊の故郷にたどり着くでしょう」
ムラサは言いながら灰を川に流した。霊夢も続けて銭の束を川に投げ入れる。
「あんたも今の船霊も。元は唯の死人だったのかしら、どう間違ったらあんたみたいになるの」
「十人十色という言葉もあります。私だって色々考えて、今は命蓮寺に居るんですよ」
ムラサは底なし柄杓で軽く己の肩を叩いた。
「迷惑かけ無いなら良いけどさ。じゃあ私は帰る」
「今度は命蓮寺にも来ていいですよ、船長が許可します」
そう言うとムラサは更に川下の方へ向かっていった。
霊夢は神社に戻る道中、少し船霊のことを思い返していた。
船幽霊は妖怪だ、妖怪は恐れられていないと存在できない。無論消え無いように人を襲い続けるだろう。
でも人間が妖怪になる最初の理由なんて、恐れられすぎてしまった結果で、恐怖の信仰みたいな物だ……。
船霊は神様だ、神様は信仰がないと存在できない。これまた普通は消えないようにするはずだ。幻想郷でも神奈子とかはかなりアグレッシブに信仰を集めている。
でもあの船霊は忘れられることも是非という感じだった。簡略化されて信仰されているとは言っていたが、恐らく厚く信仰している人間が後が無い船霊をちょっとでも信仰して貰おうと考えた策だ。
本当は簡略化という名の衰退に違いない。あの船霊もきっとそのうち実際に……。
忘れられてしまう事と、忘れて貰えない事。どっちが人として、幸せなのだろうか。
霊夢が神社に戻ると座卓の上に底の無い柄杓が在った。
船霊を川に流しに行く前に置いたままだ。
「結局役立たずだったわねこれ、返してこようかしら……」
霊夢は柄杓を手に取り縁側に出た。
思えば、この柄杓も船幽霊と船霊のように、ただの物以外に全く違った二つの信仰がある。安産祈願と船幽霊避けと。
どっちが幸せなのか。底がない時点でもう普通には使えないし。
本質というのもあるけど、どういう風に信じるかでも人も神も物も違う物になるのかもしれない。
安産祈願や船幽霊避けに拘る必要もない、霊夢は試しに柄杓を天に掲げて抜けた底を見てみる。
雲ひとつ無い空は、青く深く穏やかな海のようにも見えた。
けれど嫌な感じがするという程ではない、雨も振らなさそうだ。今日は特にやることもないし、普段やらないことでもしてみようか。
そんな風に考えだしたは良いが大してやりたい事も見つからず、いつしか昼時になって霊夢はお腹が空いて来た。
腹の虫が疼いた頃、霊夢はひらめいた。
「魚釣りでもしようかしら」
魚釣りは曇りのほうが良いというのを何処かで聞いた事がある。今日なんて絶好の天気かもしれない。
善は急げとばかりに霊夢は川へと向かうために空に飛び上がった。
しかし、直ぐに道具が無い事に気づいた。霊夢は魚釣りの道具は持ち合わせていない。
そうなると行く所はまずは香霖堂だろうか。ついでにやり方も教えてもらおう。霊夢は大漁になるだろうと見込んで口元を緩ませた。
─カランカラン─
霊夢が扉を開けると霖之助は座って本を読んでいた。霖之助は誰か来た事を察するとパタンと本を閉じて入り口を見た。
「霖之助さん、こんにちは」
なんだ霊夢か、と霖之助はため息混じりに言うと立ち上がって奥へ入った。
「溜息すると幸せが逃げるのよー?」
霊夢が奥に向かって言うと、誰がさせてるんだと返って来た。少しすると霖之助は手に柄杓を持って出てきた。
「今日は釣竿を借りようと思ったんだけど……なにそれ」
「そうなのか?てっきりこの間無くしたお祓い棒を取りに来たのかと思ったよ」
「あ、そういえば作ってって頼んでたような……でもそれどう見てもお祓い棒じゃないんだけど」
霊夢は思い返してみる、そういえば頼んだ。自分でもすっかり忘れていた。ところが霖之助の持っているのは間違いなく柄杓だった。
「ただの柄杓じゃないぞ」
霖之助は指の腹を使って柄杓をくるくる回転させた。
「あれ、底が無いのね。その柄杓」
霊夢が回転している先端の合の部分を見ると向こうの棚がよく見えた。
「その通り、最近川には妖かしが出るみたいだからな。それを退治する為に必要と思って僕が底を抜いた」
「川に何か出るの?」
その言葉を聞き、霖之助は思い返すように目を閉じながら喋り始めた。
「それも知らないのか。最近川でチッチッという音が聞こるんだ。更に霧の湖や川に引きずり込まれたり、突き落とされたり、具合が悪くなったり、漁が振るわなかったりすると最近噂らしい、現に僕も引きずり込まれた。けしからん。僕の予想だとこれは最近出てきたという船幽霊のしわざだ」
霖之助は目を開けると続けて言う。
「とにかく、そいつの退治もしてくれ」
「まあ釣竿貸してくれたら考えるけど。今日は釣りしたい気分なの、天気もこんな日が良いのでしょう」
「川釣りは雨降ってる位が丁度良いんだが……まあいいよ。普通の釣竿で良かったら余ってるし」
そう言うと再び奥に入っていった。
「沢山釣ったら霖之助さんにも分けてあげるから待っててね」
「坊主になることだって有るんだぞ、さっき言ったじゃないか」
霖之助は今度は釣竿片手に出てきた。
「髪はちゃんとあるけど」
霊夢は後髪を自分で引っ張って見せた。霖之助は呆れながら釣竿と底無し柄杓を手渡した。
早速霊夢は川へとやって来た。霧の湖より少しだけ登った地点だ。
「ここなら誰も文句言ってこないだろうし」
霊夢は適当に穴を掘ってミミズを見つけると針につけて川に投げ込んだ。
しばらくしたら上げてみて、また投げて、偶にミミズを交換して、もっと偶に場所を移動したりして……。
「……釣れない!」
それでも一向に霊夢の釣竿は揺れない。西の空にオレンジが感じられる様な時間になってもぴくりともしなかった。
結局川に引きずり込まれたりする怪異も起きない。漁が奮わないという噂は本当なのかもしれないが……。
霊夢はその日は帰ることにした。
後日、霊夢は霖之助に竿を返しに行った。何も釣れなかったというと霖之助はやっぱり、と言ってお茶をすすっていた。
一連の怪異についても翌日から霊夢は警戒するようにしたが、船幽霊は現れなかった。
川や湖自体、人間が多い場所でも無いのが幸か不幸か、あまりに被害が無いので釈然としない。
それでも霖之助は早く退治しろという。
「こんなもん持ってても、意味ない気がするんだけどなぁ」
霊夢はやるせ無く座卓の上を見た。座卓の上にある、底の無い柄杓を。
結局、あれから正体が掴めないままだ。こうなったら船幽霊に直接聞きに行こうか……。
霊夢が伸びをしながら空を見上げると、雲ひとつ無い青空が広がる。
何にも例えられない空色の元、霊夢は深呼吸すると命蓮寺に向かった。
人里近い命蓮寺近くをまで来ると、ネズミが見えた。灰色の服に丸い耳。ナズーリンだ
「ちょっとそこの灰色のネズミ。聞きたいことが有るんだけど」
「やあこんにちは──ってあれ、君も船幽霊になっちゃったんだ」
ナズーリンは少し難しい顔をした。
「は?」
「そんな柄杓持ってるし。あー、皆まで言わなくても大丈夫大丈夫。命蓮寺ならきっと受け入れて貰えるから……」
今度は笑顔を見せる。
「勝手に死んだことにしないでよね。おたくの船長探してるの!」
「あはは、冗談だよ。船長は出かけてたと思う、最近よく出かけてるみたいだ」
「あらそう。やっぱり怪しいわね、どこに居るのかしら……」
霊夢はその場で腕を組んで考える。
「さっき霧の湖の近くで見かけたよ」
「なんだ知ってたの、じゃそっち行ってみるわ」
霊夢は挨拶も適当に、霧の湖に向かった。
「妖怪でも挨拶できるのになあ」
ナズーリンが霊夢の後ろ姿を見て呟いた。霊夢は勘づいたのか後ろを向いたまま柄杓を振ってバイバイする。
霧の湖に着くと霊夢は一先ず辺りを見回した、相変わらず昼間に霧があって何か探すには非常に鬱陶しい。
歩きまわって調べてみると今日は心なしか霧が薄く見えたが、特に誰も居なかった。
仕方ないから湖に注ぐ妖怪の山からの川を辿って見ようとと思い霊夢は歩き出した。
「いた」
歩き初めて少し、霧っぽさが無くなった所で、霊夢は同じように底なし柄杓を持っている人物を見た。
短い丈の白い服を揺らす、目的だった村紗水蜜だ。
「うん?」
ムラサの方も霊夢の存在に気づくと振り向き、目をこらして霊夢を観察すると、不思議そうに尋ねた。
「いつぞやの巫女さんじゃないですか、いつの間に船幽霊に?」
「いつぞやの船長ね、それ二度目だから。というか船幽霊は普通コレ持ってないでしょう」
霊夢は柄杓をブンブンと振って否定した。そのまま手を伸ばし柄杓をムラサの方に向けると、少し強めの口調で聞き返す。
「それよりさ、最近あんた悪さしてない?」
言われたムラサは少しきょとんしたが、やがて察して応えた。
「……してません、少なくとも最近のは私じゃないです。私は具合を悪くさせたりはできないし」
「本当かなあ、船幽霊って柄杓を貸せって言って貸したら沈めたりするんでしょ。言うこと聞けないわ」
「やだなあ、私は柄杓借りたりしません。注げない奴もう持ってますし、貸せなんて言わなくても沈められます」
「それは余計たちが悪いような」
霊夢は向けていた柄杓を下ろした。
「とにかく、最近は聖にも何かと言われたりして、私も犯人扱いされて困ってるんです」
「普段の行いが悪いからでなくて?」
「そりゃ善行に励んでるかと言われると微妙ですけど」
「やっぱり信用ならないじゃない」
「だったら着いて来て下さいよ、私も名誉の為に犯人探してたんです。渡りに船ですよ?」
ムラサは自信満々に言い切ると、帽子のつばを摘んで弄りながら笑った。
「うーん、あんたの船は厄介そうだからなぁ」
そう言いながらもムラサの妙な自信が気になり、霊夢は取り敢えず付いて行くことにした。
「ところでそれは安産祈願の御守でしょうか、神社の底抜け柄杓と言えばそっちですよね」
川に沿って四半刻歩いた頃、村紗は霊夢の持っている柄杓を見ながら聞いた。
「私が妊娠してるように見えるの?」
むしろ減ってると、霊夢はお腹を撫でながら応えた。
「奉納でもされたのかと思って」
「これは船幽霊退治用に渡されたんだけど、効果無さそうだから御守にして誰かに上げようかしら」
「なんだ、よっぽど時代錯誤な奴に貰ったんでしょう。でも死んだ奴に上げる物が一方では安産祈願に使われるなんて不思議ですね」
「元々杓子の種類違うんでしょ、柄杓が女性の象徴になるのは取り分けに使うお玉や杓文字みたいな奴らしいし」
「へえ。船幽霊に渡すのも元々は大柄杓だったりもしたんですけど、いつの間にか小さいのばっかりに」
「そういう魔除けとか呪いの道具を扱うのは神社や寺が多いし、統一しちゃったのかもね。あれ?量産すればどっちの御利益も謳える……」
「巫女ってそういう事よく考えてるんですか」
「ちょっと思っただけだって、それより何処に向かってるのよ?」
「上流ですよ、犯人の目星は付いてます、ずっと調べていて残りはこの辺り……ほら、見つけました」
そう言うとムラサは小走りで、川から少し離れた所にあるちょっとした草むらの方に向かった。
霊夢も続くように草むらまで走った。
─チッチッチッ─
霊夢が草むらの前に着くと茂った草の中から音が聞こえて来る。
これが噂の音だろうか。と霊夢は確かめるように村紗の方を向いた。
ムラサは霊夢の方を見ると無言で頷き、草を掻き分けた。
「これが犯人?」
「犯人。です」
そこにあったのは古びれた小さな木箱だった。ちょっとした化粧箱の様なそれは、四方掛けで十字に紐が掛かっていた。
「いかにも開けちゃ駄目っぽいけど、何これ」
「開ければ分かります、悪い物の様には感じて無いんじゃないですか?」
ムラサは軽妙な口調で言った。
確かに物凄い危険な物、という気はしない。しかしこの箱の中身が犯人というなら何も無いという保証も無い。
少し悩んだが、見ないと犯人かそうで無いかすら決められないと霊夢は紐を解く。
一息ついてから、思い切って蓋を取った。
中に入っていたのは、紙で出来た人形。サイコロが二つ。髪の毛の束。紐が通されている銭。鏡。練口紅。米や小豆の様なものだった。
「これって……船霊(フナダマ)様?」
二人は木箱を持って神社に戻った。今度はムラサが霊夢に付いて神社に行くことになる。
ムラサは神社の境内を興味深そうに見回していたが、ひと通り見ると面白い物も無いんですねと言いながら座敷に上がった。
霊夢は木箱は再び開け、座卓の上に丁寧に置いた。
「あんたが居ると私も普段より面白くないけどね、妖怪が来る神社なんて笑えないのに」
「そうでしょうか、私は中々楽しいと思いますよ。命蓮寺も妖怪が居るお寺ですしね、似たもの同士です」
「一緒にしないで頂戴」
不満気な顔で応えると、霊夢は続けて本題に入った。
「これって船霊でしょ?悪さするようには思えないんだけど」
「船霊なんて崇高な物じゃあ無いです……幻想郷って海がないのに船霊を知っているんですね」
「前に住吉さん喚んだのよ。民間信仰だけど船霊も住吉さんと並ぶくらい有名な航海や水難除けの神よね。確か船の帆柱の下にこの木箱みたいに祭具を入れた箱を埋めておくって奴」
「結構物知りなんですね。確かに知名度は結構あるようですけど、こいつの正体は……」
ムラサは箱の中からおもむろに人形を取り出すとじっと見た。
「……?」
「ただの船幽霊です」
「船幽霊?まさか。知名度があるんだからそれだけ信仰のある神なんでしょ」
呆れつつ霊夢もじっと人形を見る。
「知名度があり過ぎます。これは狸から聞いたんですけど……外の世界では全国的に船霊の信仰があるそうで」
「ふーん、狸って最近来たあいつ?どうでもいいか。信仰がそれだけ有るってだけで羨ましいわね。何が言いたいのよ?」
「分霊もしてないのに、実態のない神が全国に広がるはずがありません」
「そう言われると確かにちょっと不思議だけど……実態がこの箱の中身なんじゃないの?」
霊夢は箱の中と人形とムラサの顔を順に見た。
「その通りです。じゃあこの中で何が一番重要だったのか分かりますか?」
「人形じゃないの、依り代だし」
「残念、重要ですが本来は一番じゃないです」
「じゃあ鏡かしら、これもご神体になるし」
「それは船霊様が女性だから入れるだけです、口紅も」
「銭?地獄の沙汰もなんとやら」
「銭は焼火信仰から来ているので違います」
「じゃあ。髪の毛?」
「あたり」
ムラサはニッコリ笑うと手に持っていた人形を箱のなかに放り投げた。
「もしかしてこの髪の毛って……船霊本人の毛なの?」
「そうです。正確には元々は、でしょうけどね」
霊夢は腕を組んで、頭の中を整理しようと考え込んだ。
「えーっと、つまり船霊っていうのは元々祖霊を祀っていたってこと?」
考え終わると霊夢は腕を解いて言った。
「流石巫女ですね、そういうの詳しいですか」
「神道は死んだ人をその家の守護神として祀ったりするし。船霊はそれと似た物って事だったのね」
「船霊は船霊という名前の神じゃなくて、海で死んだ人を船の守り神として祀ったものを言うんです。それなら其々の地域に元々居た霊の正式な祀り方、として受けいられやすいんですよね」
「この髪の毛が元々はって言ったのは、新たに死んだ人の髪とかを船霊として祀ったんじゃなくて、形だけ取り繕って昔の奴を祀り続けてるって事かしら」
「そうです。本当は船霊自体、代替わりみたく別の人になってもいいはずですが……」
「そこまでちゃんとした作法は無くなっちゃったのかしらね、それでこいつが犯人だってのはどういうことなの」
「船霊は船を粗末にしたり、禁忌を犯したりすると祟るんです」
「禁忌?」
「船霊は一般的に女の霊を祀ってあります、口紅と鏡が有るからこの船霊も女かと。嫉妬深く女の人が居ると海を荒らしたり突き落としたり」
「急に人間染みた話ねえ。この船霊も嫉妬して荒らしていたかしら。被害者もそういう時だけいじめる」
「たかが船幽霊に毛の生えた程度のクセに、祟れば思い通りに成ると思ってる。船霊なんてそんなもんです」
「ふーん」
「しかも、幻想郷に来たのもきっと信仰が無くなったからに違いないです。狸情報その二ですが、最近は船霊を祀らない所も多いとか、ざまあみろです」
─聞いてれば、好き勝手言ってくれますね─
ムラサが悪たれ口を叩いていると、急に声が聞こえた。声にムラサと霊夢は思わず無言で互いの顔を見つめる。
声の主は明らかに二人では無かった。二人は間にあった木箱に視線を落とす。
─……嫉妬したのは事実だけど─
声は紙の人形から発せられているようだった。穏やかなその声は確かに女性のようだった。
「あんた喋れたの?」
霊夢は身を乗り出して箱を覗きこみ、人形に向かって話しかけた。
─あまりに勝手なこと言うので、物申したいんですけど。あ、巫の方じゃなくてそっちの船幽霊に─
「さっき言った事が癇に障ったんですかね、でも別に悪いこと言ったつもりは無いです」
─船霊が船幽霊に毛の生えたものというのは許せません─
「字は似てるけどね」
「元は同じ死んだ人間でしょう。祟りを起こせる時点で船幽霊と大した違いは無いって、分からないんですか?」
村紗は霊夢を無視して食って掛かる様に言った。
─祀る船を守る船霊と、見境無く船を沈めようとする船幽霊と、どうして比べられましょう─
「でも忘れられそうになってるなんて、神様として駄目な奴だったって事ですよね」
「ちょっとあんた言い過ぎじゃないの?あとそれこの神社にも喧嘩売ってるから」
─……見たところ貴方、念縛霊でしょう。恐れられて畏れられて、それで忘れて貰えなくなって、幸せですか?─
忘れて貰えない。確かに人間から妖怪になった奴は、そういう事なのかもしれない。
霊夢は会話に上手く入れないので少し黙って聞くことにした。
「妖怪としては、幸せものでしたね。今はまた事情も違いますが、それも忘れて貰えなかったからこその今です」
─そうですか、貴方は先ほど船霊は祀られなくなったと言いましたが……─
「でなきゃこんな所に居るわけがありません、」
─何で祀られなくなったのか、分かってないです─
「力が無くて、忘れられた以外に考えられませんが」
霊夢は暇だったので柄杓の柄を両手のひらで挟むと、手を前後に滑らせて回してみた。
─その理由です。ここは特殊な環境のようですけど、外は技術も人も日進月歩しています。事故が少ないのも勿論、まず帆船がかなり減りました、帆柱がありません─
船霊の声に少し寂しそうな色が含まれているのを霊夢は感じた。
「それは私も聞きました。船霊は本来船に埋め込む形じゃないといけないから、今は手間とお金が異常に掛かると。結局の手間やらに見合わないんじゃないですか」
─船を作る人と乗る人が別になってしまいましたんでね……それでも機関室等に備え付けてくれたりしました、最近はそれもなくなりましたが─
「やっぱり。負け惜しみなんてしなくていいです」
ムラサは頬杖をついて人形を見下ろした。
─でもですよ、考えたら私なんて居ないほうが良いんですよ─
船霊は一転してとても嬉しそうに話しだした。
「む?」
ムラサは頬杖のままぽかんとした。霊夢も柄杓いじりをやめて人形の方を見る。
─だってですよ、それだけ水難事故が減って、私を必要としなくなったんですから。代替わりしないなんて話もしていましたが、人が死ななければそんな事はできません─
「え?あんたはそれでいいの?消えちゃうじゃない」
霊夢は当然の事の様に言う船霊に驚いて聞いた。
─幸い私の居た所では死人が全くといって良いほど出なくなりました。私自身、海で死にましたし。水難避けの船霊として必要とされなくなることは、喜び以外の何物でもありません。元々私も死んだ身なれば、在るべき所に行くだけでしょう─
「……そりゃ一緒にされたら怒るわね」
霊夢は村紗の方をニヤニヤしながら見た。
「民間信仰の神は何考えてるか分かったもんじゃないですね……」
ムラサは頬杖を解くと頭を掻いた。
─それに私は完全に信仰が無くなったわけではありません、今は簡易的な御札として船に乗っています。貴方達の前にある一式を乗せる事が無くなったから箱だけ此処に来たんでしょう─
「なんだ、信仰自体は外で生きてるのね」
霊夢が言うと船霊は黙った。霊夢は何となく船霊が笑っている気がして釣られて笑ってみた。
「勝手に笑って気色悪いですね……」
「うるさい」
ムラサは茶化す様に笑った後、一息ついて船霊に向かって喋りかける。
「変なこと言って悪かったです、でも私は今も不幸とは思ってません。やるべき事がありますからね」
─やるべきこと……それもまた、良いものですね。私こそ少々不躾な物言いですみません─
霊夢は会話を聞いて思う。何だかんだ二人は似ているのだろうか。
─そうだ、この箱は丸ごと燃やして灰を川にでも流してくだされば結構ですので─
船霊が言いたいことは言い尽くしたという感じで言った。
─巫の方、頼めます?─
「はいはい、分かったわよ」
返事をすると、船霊はもう一言も喋らなくなった。
霊夢は元あったように箱を閉じて、再び紐を掛ける。
早速庭で箱に火をつけて燃やすと、船霊はあっけないほど簡単に灰と化した。銭と鏡は燃えなかったがムラサが言うには一緒に捨てれば良いらしい。
何処から流せばいいか霊夢が考えていると、それもムラサが見つけた所から流すのが良いと言うので、灰を紙に包んで拾った場所に戻った。
「川は海に繋がります、いつかこの灰達も船霊の故郷にたどり着くでしょう」
ムラサは言いながら灰を川に流した。霊夢も続けて銭の束を川に投げ入れる。
「あんたも今の船霊も。元は唯の死人だったのかしら、どう間違ったらあんたみたいになるの」
「十人十色という言葉もあります。私だって色々考えて、今は命蓮寺に居るんですよ」
ムラサは底なし柄杓で軽く己の肩を叩いた。
「迷惑かけ無いなら良いけどさ。じゃあ私は帰る」
「今度は命蓮寺にも来ていいですよ、船長が許可します」
そう言うとムラサは更に川下の方へ向かっていった。
霊夢は神社に戻る道中、少し船霊のことを思い返していた。
船幽霊は妖怪だ、妖怪は恐れられていないと存在できない。無論消え無いように人を襲い続けるだろう。
でも人間が妖怪になる最初の理由なんて、恐れられすぎてしまった結果で、恐怖の信仰みたいな物だ……。
船霊は神様だ、神様は信仰がないと存在できない。これまた普通は消えないようにするはずだ。幻想郷でも神奈子とかはかなりアグレッシブに信仰を集めている。
でもあの船霊は忘れられることも是非という感じだった。簡略化されて信仰されているとは言っていたが、恐らく厚く信仰している人間が後が無い船霊をちょっとでも信仰して貰おうと考えた策だ。
本当は簡略化という名の衰退に違いない。あの船霊もきっとそのうち実際に……。
忘れられてしまう事と、忘れて貰えない事。どっちが人として、幸せなのだろうか。
霊夢が神社に戻ると座卓の上に底の無い柄杓が在った。
船霊を川に流しに行く前に置いたままだ。
「結局役立たずだったわねこれ、返してこようかしら……」
霊夢は柄杓を手に取り縁側に出た。
思えば、この柄杓も船幽霊と船霊のように、ただの物以外に全く違った二つの信仰がある。安産祈願と船幽霊避けと。
どっちが幸せなのか。底がない時点でもう普通には使えないし。
本質というのもあるけど、どういう風に信じるかでも人も神も物も違う物になるのかもしれない。
安産祈願や船幽霊避けに拘る必要もない、霊夢は試しに柄杓を天に掲げて抜けた底を見てみる。
雲ひとつ無い空は、青く深く穏やかな海のようにも見えた。
本文中に魔理沙はいない気がするのですが、タグの魔理沙はミスでしょうかしら?(こちらが見逃していたならごめんなさい)
蘊蓄や考え方の対比は面白かったんですが、結局船霊がなんで祟ってたのかわからなかったのは私の読解不足なんでしょうか。
嫉妬したのは確かってセリフがありましたが、その後その話題に触れられることなく終わったような。
見落としならすみません。
ありがとうございました
薀蓄は大好物です。
ただ小説として見ると、なんだか事実をつらつらと述べているだけみたいな感じが少しあるような気がします。
民間信仰を混ぜるあたり実に好みです。船霊様ってめっきり聞かなくなりましたねぇ。