「ねえ、『噂の〇〇さん』って知ってる?」
「知ってるわよ。それで、『噂の〇〇さん』がどうかしたの?」
「うん、噂で聴いたんだけど、『噂の〇〇さん』がね・・」
《噂の〇〇さん》
季節は夏真っ盛りで、青い空には太陽が微塵の遠慮も容赦も掛けず、下界にはジリジリと太陽の光をこれでもかと降り注がせている。
うだる様な気温に包まれる外を、クールビズとはいえガッチリとしたスーツを着熟しながら、西へ東へと奔走するサラリーマンを眺めていると、彼等の底知れぬガッツには感服させられる。
まあ、勤勉なサラリーマン以上にガッツに溢れ、子供以上に行動力に溢れる人物が、すぐ傍に居るのだが。
程よくクーラーの効いた秘封倶楽部の部室の窓から外を眺めていたマエリベリー・ハーンだが、彼女は甘いアイスティーを口に運びながら、視線をチラリと横に向ける。
そこには、トレードマークの黒い中折れ帽子を被り、白と黒のツートーンカラーの服装の少女、宇佐見蓮子が洒落たデザインの木製のイスに背中を預け、汗だくでぐったりとしている。
赤いネクタイを緩め、シャツの胸元のボタンも外している為、彼女の健康的な肌が顕になっているどころか、後もう少しで宇佐見蓮子の慎ましいながらも形の整った乳房が見えてしまう事だろう。
悟られない様に気を配りつつ、マエリベリー・ハーンは横目で宇佐見蓮子の胸元を観察しながら、ぐったりとしている彼女に労いの言葉を掛ける。
「お疲れ様、蓮子。新聞部からお目当ての写真は借りられた?」
マエリベリー・ハーンの問い掛けに、宇佐見蓮子は背もたれに背中を預けたまま、胸ポケットから一枚の写真を取り出し、フリフリと左右に振ってみせた。
マエリベリー・ハーンが手を伸ばすと、宇佐見蓮子が件の写真を差し出す。
受け取ってみると、その写真は妙に水分を含んでいる様で、湿った手触りが指先から伝わる。
マエリベリー・ハーンは苦笑いで宇佐見蓮子に笑い掛けると、件の写真に目線を落とした。
「…此処が噂の?」
ティーカップを置いて写真に映された風景をまじまじと見つめながら、マエリベリー・ハーンは問う。
彼女の質問に、宇佐見蓮子は重たそうに体を起こし、額の汗を拭いながら言った。
「ええ、『噂の〇〇さん』が、最近はそこに出没するんですって」
「ふぅん…だから、以前にも増して、噂が耳に入って来るのね」
『噂の〇〇さん』とは、最近になって産まれた新しい都市伝説だ。
亡くなった筈の自分の肉親や恋人といった最愛の人が、突然目の前に現れて話し掛けて来るのだという。
目撃例は全国に及び、出現場所に決まりや共通点は一切無く、どうしたら目撃出来るかも一切不明。
「噂では」「噂では」と、人々が沢山の尾鰭を付けていく事から『噂の〇〇さん』という名前になったそうだ……噂では。
しかし、この『噂の〇〇さん』には厄介な面もある。
『噂の〇〇さん』は、出会ってしまった者に暫くついて行き、まるで存在している事が当たり前の様に振る舞うのだという。
ソレは当事者だけでなく、周囲の人間も『噂の〇〇さん』が実在していると認識してしまい、その人が既に亡くなっている存在である事すら忘れてしまう程、日常に深く溶け込む。
そして、いつかその存在を疑わなくなってしまうと……『噂の〇〇さん』は、何の前触れも無く、跡形も無く掻き消えてしまうそうだ。
無論、あくまでも都市伝説の範疇の話ではあるが。
「しかし、あの新聞部も大したものね。『噂の〇〇さん』の居場所を突き止めるなんて」
マエリベリー・ハーンは、もう一度写真の風景を注視する。
その風景は、秘封倶楽部の2人が通う大学の構内が写し出されている。
普段ならば誰も気にも止めず、談笑しながら素通りしてしまうであろう構内の一室。
その部屋は、2人にも見覚えと馴染みのある場所であった。
「ええ、本当に…。まさか、『噂の〇〇さん』がこんな近場まで来ているなんてね。新聞部の手伝い、する必要無かったわ」
宇佐見蓮子は、木製のテーブルの上に雑多に置かれている雑誌の1つを手に取り、パタパタとウチワ代わりに扇ぎ始めた。
クーラーの冷風で冷えた空気は、宇佐見蓮子の火照った体から心地好く熱を奪っていく。
文明の利器の素晴らしさを再認識しつつ、宇佐見蓮子は満足感に浸る様に目を細めて脱力する。
真偽の怪しい紙っぺら一枚の為に、真夏の炎天下の中で新聞部のサークル活動を手伝った苦労も、そよぐ風と共に何処かへ吹き飛んでいくようだった。
宇佐見蓮子は部室の白い天井を見上げながら、忌々しそうにポツリと呟く。
「よりによって“私達の部室の前”なんてねぇ」
宇佐見蓮子に同調し、マエリベリー・ハーンもため息混じりに呟く。
「…本当にね」
そう、件の写真は『秘封倶楽部』と書かれた札を掛けてある、簡素なドアをしっかりと写していたのだ。
構内でも「噂の〇〇さんを見た!」と、うそぶく者は多々居るが、実在するというのならば場所を考えて欲しい物だ。
只でさえ不良サークルと色眼鏡で見られているのだから、『噂の〇〇さん』が出た等と噂されたらどうなる事やら。
「ま、あの連中の出任せってのも、視野に入れておきましょ」
いつの間にかすっかり体は冷えていた様で、宇佐見蓮子は雑誌を投げ遣りにテーブルの上に放り投げると、胸元のボタンとネクタイを締め直す。
その時、マエリベリー・ハーンが残念そうな表情を浮かべたのは、気のせいだろう。
しかしこの部屋、冷房が利き過ぎていないだろうか。
全身を包み込む寒気に宇佐見蓮子はブルリと体を震わせ、グワングワンと低い唸り声を上げながら冷たい荒い息を吐き出しているクーラーにチラリと目を遣る。
部屋は大分冷えているのだが、クーラーは一向に休む気配を見せない。
不審に思った宇佐見蓮子は、雑誌やら何かのプリントやらの上に我が物顔で鎮座するクーラーのリモコンを何気なく手に取り、そして驚愕した。
設定温度『20℃』という表記が、デジタル文字で大きな顔をして写っていたからだ。
ふと、マエリベリー・ハーンを見てみると、あろう事か彼女はアイスティーを啜りながら不思議そうに首を傾げて宇佐見蓮子を見返している。
寒くないのか、マエリベリー・ハーン。
宇佐見蓮子はやれやれと言った表情でガリガリと後頭部を掻きながら、リモコンのボタンを操作してクーラーの設定温度を上げる。
それに連れて、低い唸り声を上げていたクーラーも静かになった。
静寂と冷気が立ち込める秘封倶楽部の部室の中に、クスクスと悪戯っぽい響きを含んだ笑い声が木霊する。
其方の方に視線を向けると、キラキラと輝く金色の前髪を掻き揚げながら、マエリベリー・ハーンがニヤニヤと此方をじっと見ていた。
「あら、寒かった?」
そう言うマエリベリー・ハーンの手には、赤いアイスティーの入った白い陶器のコーヒーカップが握られている。
見せ付ける様に彼女がわざとらしく口元へと運んでいったが、その手が微かに震えているのを、宇佐見蓮子は見逃さなかった。
宇佐見蓮子は雑多に散らかったテーブルの上に身を乗り出し、ズイッとマエリベリー・ハーンの顔を覗き込む様にして言う。
「メリーは寒くなかったの?」
からかう調子でそう言い返してやると、マエリベリー・ハーンは音も立てずにカップを置き、済ました顔で柔らかい唇を動かす。
生暖かい吐息が宇佐見蓮子の鼻に掛かり、微かに甘い匂いがした。
「蓮子の為に、部屋を冷やしておいたのよ」
「じゃあ次は、草履でも温めておいてもらえるかしら」
マエリベリー・ハーンに冗談で返し、お互いにそのまま、暫くじっと見つめ合う。
紫色をした透き通るようなマエリベリー・ハーンの瞳の中に、何かを期待して僅かに頬を紅潮させている、宇佐見蓮子の
小さな姿がまるで鏡の様に写り込んでいる。
息が艶かしく絡み合い、薄い桃色の唇は物欲しそうにプルプルと震えていた。
宇佐見蓮子が、唇を重ね合わせようとした瞬間、彼女の口にマエリベリー・ハーンが細くしなやかな人差し指を当てて、ソレを阻止する。
思う様にいかなかった子供の様に頬を膨らませた宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンはクスリと軽やかな笑い声を一つ立てた。
「また後でね。今は、『噂の〇〇さん』をどうするか、決めましょう?」
宇佐見蓮子は渋々といった風にマエリベリー・ハーンから顔を離し、ドカッと大きな音を立てて椅子に座り直した。
背凭れにこれでもかと体重を掛けながら、彼女は得意気な顔で手振りを交えながら言う。
「・・そうね、メリーの言う通りね。『噂の〇〇さん』の真偽、秘封倶楽部が暴いてみせましょう」
そう言って宇佐見蓮子は、秘封倶楽部の部室のドアに首を巡らせた。
廊下と室内を繫ぐ四角い境界が、今はまるで怪異への入り口の様に見える。
ドアを開けた先に待ち構えているのは、最愛の人を亡くし、悲しみに暮れる者を弄ぶ『噂の〇〇さん』か。
それとも、何処かの誰かが悪戯に口ずさみ「見た」「居た」「会った」と大法螺を吹いて回っているに過ぎないのか。
その謎も、もうじき秘封倶楽部の手で暴かれることだろう。
『噂の〇〇さん』の正体は、目と鼻の先に居るのだから。
宇佐見蓮子は何時の間にかに、唇の端を吊り上げて不敵を浮かべていた。
「あまり待たせるのも、『噂の〇〇さん』に失礼じゃないかしら?」
横目遣いで秘封倶楽部のドアを見つめながら、宇佐見蓮子を急かす様にマエリベリー・ハーンが言う。
しかし宇佐見蓮子は、両手を後頭部で組み、背凭れに背を預けながら手振りを交えて返した。
「分かってないわね、メリー。この手の噂は、夜に暴くべきよ」
宇佐見蓮子の返答に、マエリベリー・ハーンは片肘を付いて冗談めかしく尋ねる。
「真夏の怪談にでも加えるつもり?」
「そんな所ね」
間髪を入れずに即答した宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンは思わず噴出してしまう。
何故か得意気な表情を浮かべながら、宇佐見蓮子は「何か?」と言いたげにマエリベリー・ハーンを見つめる。
そんな宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンは口元に手を当てながら柔らかく微笑んだ。
「蓮子らしいわね」
と、その時だ。
秘封倶楽部の部室のドアが「コン、コン、コン」と、リズム良くノックされた。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンはお互いに素早く顔を見合わせ「まさか」と呟き、期待を込めてドアを見る。
その瞬間、ドアが遠慮無く大きく開け放たれると同時に、2人の淡い期待はものの見事に裏切られたのであった。
何故ならば。
「あやややや!失礼しますよ、宇佐見さん!」
開け放たれた四角い境界の先に立っていたのは、作り物の笑顔をまるで仮面の様に満面に貼り付け、『新聞部』という腕章を掲げる、両手に小さなデジタルカメラを抱えた少女だったからだ。
思わず立ち上がりかけていた宇佐見蓮子は、その少女の姿を認めた途端、露骨に失望した表情を浮かべながら中腰の姿勢から大人しく椅子に腰掛けなおす。
宇佐見蓮子の反応に、その少女は苦笑いを浮かべていた。
「そんな露骨な反応しなくてもいいじゃないですか~。確かに我々新聞部は嫌われ者ですが、流石に傷付きますよ?」
おどけた仕草で大げさに肩を竦めて見せた新聞部の少女に、宇佐見蓮子は額に手を当てながら言い訳した。
「あー、違うの違うの。別に、貴方が来たからって反応じゃないわ。ただ、空気は読んで欲しかった」
宇佐見蓮子の言い草に、新聞部の少女は右手の人差し指で右目を指差しながら、ニコニコと営業スマイルを振りまきつつ言う。
「透視でもしろと言うのですか?大変残念ながら、私は超能力者でもなければ、不思議な眼も持ち合わせていないので」
「不思議な眼」という部分を強調して言った新聞部の少女に、宇佐見蓮子は椅子ごと体を其方に向け、頬杖を付いてニヤリと笑う。
「嫌味?」
「まさか」
暫くじっとねめつけてやったが、相変わらず作り笑いを崩さない新聞部の少女に、宇佐見蓮子は彼女にもよく聞こえるように、わざと大きなため息を1つ吐く。
これでもかと言う程「うんざりだ」という響きを含ませて。
「で、何の用?」
「おっと、そうでした。蓮子さんに『噂の〇〇さん』についての新情報をお届けに来たんですよ」
新聞部の少女はそう言いながら、胸ポケットから数枚の写真を取り出し、宇佐見蓮子に手渡す。
受け取って見て見ると、どれも大学の見慣れた構内が写されていた。
『噂の〇〇さん』の目撃場所だろうか。
宇佐見蓮子は写真を何度か見比べながら、傍らのマエリベリー・ハーンに言う。
「メリー、どうやら『噂の〇〇さん』は、放浪癖があるみたいね・・って、どうしたの?」
ふと気が付けば、新聞部の少女が青ざめた顔で宇佐見蓮子をじっと見ていた。
その体は小刻みに震え、見た限りでも肌の露出がある部分には汗が伝っている。
新聞部の少女はやっとの思いで搾り出したと言う様に、今にも消え入りそうな声音で言った。
「・・・宇佐見さん。今・・なんと?」
彼女の質問の意図が理解できず、宇佐見蓮子は首を傾げる。
だが新聞部の少女は、宇佐見蓮子の何気ないその行動にも大きく震え上がった。
だらだらと冷や汗を垂らしながら、新聞部の少女は二つの目玉を世話しなく動かす。
まるで、この秘封倶楽部の部室の中に居る『見えない誰か』を探す様に。
「なにって・・・『噂の〇〇さん』は、放浪癖が・・」
「あるみたいね、って所?」と、宇佐見蓮子が最後まで言い切る前に、新聞部の少女が強引に割って入る。
気の毒な程に声も体も震わせながらも、新聞部の少女は言葉を紡いだ。
「ち、違います・・貴方、言ったじゃ・・ないですか。今・・呼んだじゃないですか・・」
酷く嫌な予感がした。
それ以上先の言葉を聴いてはいけないと、それ以上先を喋らせてはいけないと。
だが、宇佐見蓮子が目の前の少女を黙らせるよりも、彼女が口を開くほうが速かった。
「先月に行方不明になった・・・ハーンさんの名前を!」
新聞部の少女の言葉が鼓膜を震わせ、ソレがどんな意味を持っているのか脳が理解した瞬間、宇佐見蓮子は心臓がドクンと大きく波打ったのを感じた。
嫌な汗が背中を煩わしく這っていくのを感じながらも、宇佐見蓮子は新聞部の少女に呆れた表情を見せつけ、先程彼女がそうしていた様に、大きく肩を竦めてみせる。
頭に纏わり付く最悪の予想を振り払う様に、宇佐見連子はすぐ隣を指差して、言う。
「は、はあ?メリーが行方不明ぃ?なに言ってんのよ、メリーならここに・・・」
――そこには、誰も居なかった。
初めから誰も居なかったと言う風に、ただ何も無い空間が広がっている。
妙に冷えた室内の気温に、宇佐見蓮子は全身を絡め取られる様な錯覚に陥った。
「・・・メリー?」
その呼び掛けに、答える者は誰も居ない。
ただ、一口も口を付けられていない、白い陶器に並々と注がれたアイスティーの水面が、宇佐見蓮子の顔を写して、大きくグニャリと波打った。
―――――
「『噂の〇〇さん』が、秘封倶楽部の部室に出たんだって」
「ふうん。でも、誰かが流した噂なんでしょ?」
「うん、その筈なんだけど・・」
「けど?」
「私、見ちゃったの。宇佐見さんが、行方不明になったハーンさんと、楽しそうに歩いている所を・・」
「知ってるわよ。それで、『噂の〇〇さん』がどうかしたの?」
「うん、噂で聴いたんだけど、『噂の〇〇さん』がね・・」
《噂の〇〇さん》
季節は夏真っ盛りで、青い空には太陽が微塵の遠慮も容赦も掛けず、下界にはジリジリと太陽の光をこれでもかと降り注がせている。
うだる様な気温に包まれる外を、クールビズとはいえガッチリとしたスーツを着熟しながら、西へ東へと奔走するサラリーマンを眺めていると、彼等の底知れぬガッツには感服させられる。
まあ、勤勉なサラリーマン以上にガッツに溢れ、子供以上に行動力に溢れる人物が、すぐ傍に居るのだが。
程よくクーラーの効いた秘封倶楽部の部室の窓から外を眺めていたマエリベリー・ハーンだが、彼女は甘いアイスティーを口に運びながら、視線をチラリと横に向ける。
そこには、トレードマークの黒い中折れ帽子を被り、白と黒のツートーンカラーの服装の少女、宇佐見蓮子が洒落たデザインの木製のイスに背中を預け、汗だくでぐったりとしている。
赤いネクタイを緩め、シャツの胸元のボタンも外している為、彼女の健康的な肌が顕になっているどころか、後もう少しで宇佐見蓮子の慎ましいながらも形の整った乳房が見えてしまう事だろう。
悟られない様に気を配りつつ、マエリベリー・ハーンは横目で宇佐見蓮子の胸元を観察しながら、ぐったりとしている彼女に労いの言葉を掛ける。
「お疲れ様、蓮子。新聞部からお目当ての写真は借りられた?」
マエリベリー・ハーンの問い掛けに、宇佐見蓮子は背もたれに背中を預けたまま、胸ポケットから一枚の写真を取り出し、フリフリと左右に振ってみせた。
マエリベリー・ハーンが手を伸ばすと、宇佐見蓮子が件の写真を差し出す。
受け取ってみると、その写真は妙に水分を含んでいる様で、湿った手触りが指先から伝わる。
マエリベリー・ハーンは苦笑いで宇佐見蓮子に笑い掛けると、件の写真に目線を落とした。
「…此処が噂の?」
ティーカップを置いて写真に映された風景をまじまじと見つめながら、マエリベリー・ハーンは問う。
彼女の質問に、宇佐見蓮子は重たそうに体を起こし、額の汗を拭いながら言った。
「ええ、『噂の〇〇さん』が、最近はそこに出没するんですって」
「ふぅん…だから、以前にも増して、噂が耳に入って来るのね」
『噂の〇〇さん』とは、最近になって産まれた新しい都市伝説だ。
亡くなった筈の自分の肉親や恋人といった最愛の人が、突然目の前に現れて話し掛けて来るのだという。
目撃例は全国に及び、出現場所に決まりや共通点は一切無く、どうしたら目撃出来るかも一切不明。
「噂では」「噂では」と、人々が沢山の尾鰭を付けていく事から『噂の〇〇さん』という名前になったそうだ……噂では。
しかし、この『噂の〇〇さん』には厄介な面もある。
『噂の〇〇さん』は、出会ってしまった者に暫くついて行き、まるで存在している事が当たり前の様に振る舞うのだという。
ソレは当事者だけでなく、周囲の人間も『噂の〇〇さん』が実在していると認識してしまい、その人が既に亡くなっている存在である事すら忘れてしまう程、日常に深く溶け込む。
そして、いつかその存在を疑わなくなってしまうと……『噂の〇〇さん』は、何の前触れも無く、跡形も無く掻き消えてしまうそうだ。
無論、あくまでも都市伝説の範疇の話ではあるが。
「しかし、あの新聞部も大したものね。『噂の〇〇さん』の居場所を突き止めるなんて」
マエリベリー・ハーンは、もう一度写真の風景を注視する。
その風景は、秘封倶楽部の2人が通う大学の構内が写し出されている。
普段ならば誰も気にも止めず、談笑しながら素通りしてしまうであろう構内の一室。
その部屋は、2人にも見覚えと馴染みのある場所であった。
「ええ、本当に…。まさか、『噂の〇〇さん』がこんな近場まで来ているなんてね。新聞部の手伝い、する必要無かったわ」
宇佐見蓮子は、木製のテーブルの上に雑多に置かれている雑誌の1つを手に取り、パタパタとウチワ代わりに扇ぎ始めた。
クーラーの冷風で冷えた空気は、宇佐見蓮子の火照った体から心地好く熱を奪っていく。
文明の利器の素晴らしさを再認識しつつ、宇佐見蓮子は満足感に浸る様に目を細めて脱力する。
真偽の怪しい紙っぺら一枚の為に、真夏の炎天下の中で新聞部のサークル活動を手伝った苦労も、そよぐ風と共に何処かへ吹き飛んでいくようだった。
宇佐見蓮子は部室の白い天井を見上げながら、忌々しそうにポツリと呟く。
「よりによって“私達の部室の前”なんてねぇ」
宇佐見蓮子に同調し、マエリベリー・ハーンもため息混じりに呟く。
「…本当にね」
そう、件の写真は『秘封倶楽部』と書かれた札を掛けてある、簡素なドアをしっかりと写していたのだ。
構内でも「噂の〇〇さんを見た!」と、うそぶく者は多々居るが、実在するというのならば場所を考えて欲しい物だ。
只でさえ不良サークルと色眼鏡で見られているのだから、『噂の〇〇さん』が出た等と噂されたらどうなる事やら。
「ま、あの連中の出任せってのも、視野に入れておきましょ」
いつの間にかすっかり体は冷えていた様で、宇佐見蓮子は雑誌を投げ遣りにテーブルの上に放り投げると、胸元のボタンとネクタイを締め直す。
その時、マエリベリー・ハーンが残念そうな表情を浮かべたのは、気のせいだろう。
しかしこの部屋、冷房が利き過ぎていないだろうか。
全身を包み込む寒気に宇佐見蓮子はブルリと体を震わせ、グワングワンと低い唸り声を上げながら冷たい荒い息を吐き出しているクーラーにチラリと目を遣る。
部屋は大分冷えているのだが、クーラーは一向に休む気配を見せない。
不審に思った宇佐見蓮子は、雑誌やら何かのプリントやらの上に我が物顔で鎮座するクーラーのリモコンを何気なく手に取り、そして驚愕した。
設定温度『20℃』という表記が、デジタル文字で大きな顔をして写っていたからだ。
ふと、マエリベリー・ハーンを見てみると、あろう事か彼女はアイスティーを啜りながら不思議そうに首を傾げて宇佐見蓮子を見返している。
寒くないのか、マエリベリー・ハーン。
宇佐見蓮子はやれやれと言った表情でガリガリと後頭部を掻きながら、リモコンのボタンを操作してクーラーの設定温度を上げる。
それに連れて、低い唸り声を上げていたクーラーも静かになった。
静寂と冷気が立ち込める秘封倶楽部の部室の中に、クスクスと悪戯っぽい響きを含んだ笑い声が木霊する。
其方の方に視線を向けると、キラキラと輝く金色の前髪を掻き揚げながら、マエリベリー・ハーンがニヤニヤと此方をじっと見ていた。
「あら、寒かった?」
そう言うマエリベリー・ハーンの手には、赤いアイスティーの入った白い陶器のコーヒーカップが握られている。
見せ付ける様に彼女がわざとらしく口元へと運んでいったが、その手が微かに震えているのを、宇佐見蓮子は見逃さなかった。
宇佐見蓮子は雑多に散らかったテーブルの上に身を乗り出し、ズイッとマエリベリー・ハーンの顔を覗き込む様にして言う。
「メリーは寒くなかったの?」
からかう調子でそう言い返してやると、マエリベリー・ハーンは音も立てずにカップを置き、済ました顔で柔らかい唇を動かす。
生暖かい吐息が宇佐見蓮子の鼻に掛かり、微かに甘い匂いがした。
「蓮子の為に、部屋を冷やしておいたのよ」
「じゃあ次は、草履でも温めておいてもらえるかしら」
マエリベリー・ハーンに冗談で返し、お互いにそのまま、暫くじっと見つめ合う。
紫色をした透き通るようなマエリベリー・ハーンの瞳の中に、何かを期待して僅かに頬を紅潮させている、宇佐見蓮子の
小さな姿がまるで鏡の様に写り込んでいる。
息が艶かしく絡み合い、薄い桃色の唇は物欲しそうにプルプルと震えていた。
宇佐見蓮子が、唇を重ね合わせようとした瞬間、彼女の口にマエリベリー・ハーンが細くしなやかな人差し指を当てて、ソレを阻止する。
思う様にいかなかった子供の様に頬を膨らませた宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンはクスリと軽やかな笑い声を一つ立てた。
「また後でね。今は、『噂の〇〇さん』をどうするか、決めましょう?」
宇佐見蓮子は渋々といった風にマエリベリー・ハーンから顔を離し、ドカッと大きな音を立てて椅子に座り直した。
背凭れにこれでもかと体重を掛けながら、彼女は得意気な顔で手振りを交えながら言う。
「・・そうね、メリーの言う通りね。『噂の〇〇さん』の真偽、秘封倶楽部が暴いてみせましょう」
そう言って宇佐見蓮子は、秘封倶楽部の部室のドアに首を巡らせた。
廊下と室内を繫ぐ四角い境界が、今はまるで怪異への入り口の様に見える。
ドアを開けた先に待ち構えているのは、最愛の人を亡くし、悲しみに暮れる者を弄ぶ『噂の〇〇さん』か。
それとも、何処かの誰かが悪戯に口ずさみ「見た」「居た」「会った」と大法螺を吹いて回っているに過ぎないのか。
その謎も、もうじき秘封倶楽部の手で暴かれることだろう。
『噂の〇〇さん』の正体は、目と鼻の先に居るのだから。
宇佐見蓮子は何時の間にかに、唇の端を吊り上げて不敵を浮かべていた。
「あまり待たせるのも、『噂の〇〇さん』に失礼じゃないかしら?」
横目遣いで秘封倶楽部のドアを見つめながら、宇佐見蓮子を急かす様にマエリベリー・ハーンが言う。
しかし宇佐見蓮子は、両手を後頭部で組み、背凭れに背を預けながら手振りを交えて返した。
「分かってないわね、メリー。この手の噂は、夜に暴くべきよ」
宇佐見蓮子の返答に、マエリベリー・ハーンは片肘を付いて冗談めかしく尋ねる。
「真夏の怪談にでも加えるつもり?」
「そんな所ね」
間髪を入れずに即答した宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンは思わず噴出してしまう。
何故か得意気な表情を浮かべながら、宇佐見蓮子は「何か?」と言いたげにマエリベリー・ハーンを見つめる。
そんな宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンは口元に手を当てながら柔らかく微笑んだ。
「蓮子らしいわね」
と、その時だ。
秘封倶楽部の部室のドアが「コン、コン、コン」と、リズム良くノックされた。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンはお互いに素早く顔を見合わせ「まさか」と呟き、期待を込めてドアを見る。
その瞬間、ドアが遠慮無く大きく開け放たれると同時に、2人の淡い期待はものの見事に裏切られたのであった。
何故ならば。
「あやややや!失礼しますよ、宇佐見さん!」
開け放たれた四角い境界の先に立っていたのは、作り物の笑顔をまるで仮面の様に満面に貼り付け、『新聞部』という腕章を掲げる、両手に小さなデジタルカメラを抱えた少女だったからだ。
思わず立ち上がりかけていた宇佐見蓮子は、その少女の姿を認めた途端、露骨に失望した表情を浮かべながら中腰の姿勢から大人しく椅子に腰掛けなおす。
宇佐見蓮子の反応に、その少女は苦笑いを浮かべていた。
「そんな露骨な反応しなくてもいいじゃないですか~。確かに我々新聞部は嫌われ者ですが、流石に傷付きますよ?」
おどけた仕草で大げさに肩を竦めて見せた新聞部の少女に、宇佐見蓮子は額に手を当てながら言い訳した。
「あー、違うの違うの。別に、貴方が来たからって反応じゃないわ。ただ、空気は読んで欲しかった」
宇佐見蓮子の言い草に、新聞部の少女は右手の人差し指で右目を指差しながら、ニコニコと営業スマイルを振りまきつつ言う。
「透視でもしろと言うのですか?大変残念ながら、私は超能力者でもなければ、不思議な眼も持ち合わせていないので」
「不思議な眼」という部分を強調して言った新聞部の少女に、宇佐見蓮子は椅子ごと体を其方に向け、頬杖を付いてニヤリと笑う。
「嫌味?」
「まさか」
暫くじっとねめつけてやったが、相変わらず作り笑いを崩さない新聞部の少女に、宇佐見蓮子は彼女にもよく聞こえるように、わざと大きなため息を1つ吐く。
これでもかと言う程「うんざりだ」という響きを含ませて。
「で、何の用?」
「おっと、そうでした。蓮子さんに『噂の〇〇さん』についての新情報をお届けに来たんですよ」
新聞部の少女はそう言いながら、胸ポケットから数枚の写真を取り出し、宇佐見蓮子に手渡す。
受け取って見て見ると、どれも大学の見慣れた構内が写されていた。
『噂の〇〇さん』の目撃場所だろうか。
宇佐見蓮子は写真を何度か見比べながら、傍らのマエリベリー・ハーンに言う。
「メリー、どうやら『噂の〇〇さん』は、放浪癖があるみたいね・・って、どうしたの?」
ふと気が付けば、新聞部の少女が青ざめた顔で宇佐見蓮子をじっと見ていた。
その体は小刻みに震え、見た限りでも肌の露出がある部分には汗が伝っている。
新聞部の少女はやっとの思いで搾り出したと言う様に、今にも消え入りそうな声音で言った。
「・・・宇佐見さん。今・・なんと?」
彼女の質問の意図が理解できず、宇佐見蓮子は首を傾げる。
だが新聞部の少女は、宇佐見蓮子の何気ないその行動にも大きく震え上がった。
だらだらと冷や汗を垂らしながら、新聞部の少女は二つの目玉を世話しなく動かす。
まるで、この秘封倶楽部の部室の中に居る『見えない誰か』を探す様に。
「なにって・・・『噂の〇〇さん』は、放浪癖が・・」
「あるみたいね、って所?」と、宇佐見蓮子が最後まで言い切る前に、新聞部の少女が強引に割って入る。
気の毒な程に声も体も震わせながらも、新聞部の少女は言葉を紡いだ。
「ち、違います・・貴方、言ったじゃ・・ないですか。今・・呼んだじゃないですか・・」
酷く嫌な予感がした。
それ以上先の言葉を聴いてはいけないと、それ以上先を喋らせてはいけないと。
だが、宇佐見蓮子が目の前の少女を黙らせるよりも、彼女が口を開くほうが速かった。
「先月に行方不明になった・・・ハーンさんの名前を!」
新聞部の少女の言葉が鼓膜を震わせ、ソレがどんな意味を持っているのか脳が理解した瞬間、宇佐見蓮子は心臓がドクンと大きく波打ったのを感じた。
嫌な汗が背中を煩わしく這っていくのを感じながらも、宇佐見蓮子は新聞部の少女に呆れた表情を見せつけ、先程彼女がそうしていた様に、大きく肩を竦めてみせる。
頭に纏わり付く最悪の予想を振り払う様に、宇佐見連子はすぐ隣を指差して、言う。
「は、はあ?メリーが行方不明ぃ?なに言ってんのよ、メリーならここに・・・」
――そこには、誰も居なかった。
初めから誰も居なかったと言う風に、ただ何も無い空間が広がっている。
妙に冷えた室内の気温に、宇佐見蓮子は全身を絡め取られる様な錯覚に陥った。
「・・・メリー?」
その呼び掛けに、答える者は誰も居ない。
ただ、一口も口を付けられていない、白い陶器に並々と注がれたアイスティーの水面が、宇佐見蓮子の顔を写して、大きくグニャリと波打った。
―――――
「『噂の〇〇さん』が、秘封倶楽部の部室に出たんだって」
「ふうん。でも、誰かが流した噂なんでしょ?」
「うん、その筈なんだけど・・」
「けど?」
「私、見ちゃったの。宇佐見さんが、行方不明になったハーンさんと、楽しそうに歩いている所を・・」
脈絡無く唐突過ぎて恐怖とかより疑問符が浮かんでしまった。
余り書き慣れていない方でしょうか? と云うのは、いちいち細かく描写しようとする事と、宇佐見蓮子マエリベリー・ハーン宇佐見蓮子マエリベリー・ハーン宇佐見蓮子マエリベリー・ハーン……と大変にしつこい事と、逐一改行される事と、行の頭にスペースが空かない事と、後書きの見苦しい言い訳等からの推測です。勿論それらは否定される事ではありませんし、地の文がくどいのもその内何となく分かって来ると思いますから、ご自由に書いて、何かを掴む事を期待しています。
確かに、その通りですね。
いきなり「メリーは幻でした」と言われても、反応に困ってしまいますよね。
ご指摘、ありがとうございました。
>>桜花さん
確かに2人の名前を何度も繰り返していますが、言い訳がましいですが、細かく描写しようとするのが私の癖でして。
台詞の部分の改行は自分なりに読み易さを意識したのですが、かえって裏目に出てしまった様ですね。
色々とご指摘、ありがとうございました。
何だか境界が曖昧になっていそうな世界でしたね。