私の数少ない楽しみの一つであり、また怠惰の象徴でもあった寝煙草が出来なくなってしまった。
木造の小屋の外面は7年分の風雨を受けてすっかり黒ずんでいたし、内面もまた同じだけの期間煙草の煙に燻されて汚くくすんでいた。
およそ家財道具なんてものは存在しなくて、殺風景な部屋の中に申し訳程度に散らばっているのは少し歩いて人里まで降りていけばすぐに都合のつくものばかり。
そもそも部屋の中にはヤニの臭いが宿命的に立ちこめていて、それについてもいい加減うんざりし始めていたところだった。
だからいつ燃えてもいいようなもので、私も半ばある種の期待を込めて毎晩寝煙草をふかしていたのだ。
自分で燃やすのは気が引けるけれど、過失で燃えてしまったのならば仕方がない。
私は何度も鏡の前で練習した、誰に見せるわけでもない困り顔を作り、内心は嬉々として、新しい小屋を建てただろう。
しかし、残念ながら私はその奥ゆかしい放火願望を放棄せざるを得なくなった。
小屋に猫が棲み着いたのだ。
§
その猫がどこからやってきたのかとんと見当もつかない。
何しろ周りは鬱蒼とした竹林だし、小屋の場所は人里から随分離れていた。
少し開けた場所(私が周りの竹をある程度切った)であるとはいえ、土地勘がなければなかなかここまで辿り着けない。
道に迷ったというのも考えにくい。
すらりとした体躯は猫が野生の生活に充分耐えうることを示していたし、深い色の瞳は思慮深さを物語っていた。
少なくとも私よりはずっと賢そうだった。
ともあれ、ある日私が人里から戻ると、その猫は既に当たり前のような顔をして私の座布団に座っていた。
私がぽかんと口を開けて戸口に突っ立っていると、猫は大儀そうにこちらを見やり、うなあと一声鳴いた。
仰る通りだった。
とにかく、火には気をつけるようになった。
小屋の中で煙草を吸うのを止めたし、寝る前にもきちんと火の始末をするようになった。
猫は、人でなく家に懐く。
私がもはや執着心を抱いていない家に猫が懐いているのならば、家はもう猫のものだと思った。
私なら幾ら死んでも構わないが、家を燃やしてしまったり猫を死なせてしまったりするとかわいそうだ。
私よりは猫の方が価値がある。
燃えないゴミよりは燃えるゴミの方が幾らかマシだ。
うん……いや、どうだろう?でも少なくとも後腐れはない。
それからそういう風に考える私自身がとても惨めに思えた。
放っておくとがりがりと小屋の木の壁をひっかくので(猫が)、爪切りを買ってきて週に一度は爪を切ってやった(私が)。
私も今までは歯で噛みきっていた爪をその爪切りで切るようになったので、私の爪もずいぶん綺麗になった。
掃除もするようになった。
毛のたくさん抜けたみすぼらしい箒となんとか原形を留めている程度のちりとりを持ってきて、猫の毛やら私の髪の毛やら埃やら名前も知らない何かの甲虫(知りたくもない)の足やらをちりとりにまとめ、外に出て少し離れたところに捨てた。
猫はそうした作業を座布団の上にちょこんと座ってじっと見ていた。
時折あくびをして、それから私が力を入れすぎて箒で埃を立ててしまったときにはぶひゅんとくしゃみをした。
「ごめん」
猫は呆れたような顔をしてうやあと鳴いた。
§
春の雨が暖かく降り注いでいた。
小屋の中に。
私と猫は二人でぽとりぽとりと垂れる雨粒を見ていた。
私がさっき置いた金だらいがそれを分け隔てなく受け止め、かあんかあんと甲高い音を立てていた。
猫の髭は、その金属音を聞く度に少しずつ震えた。
私は髭と金だらいを交互に見ながら雨音を数えていた。
時々私が耳の後ろを掻いてやると、猫は前足を揃えてゆっくりを背筋を伸ばした。
ある時点からは聞こえるのはぽちょりぽちょりという水だけの音になった。
もう猫の髭は震えなかった。
3029まで数えたところで眠くなってきたので私は灯りを消して、毛布を被って眠った。
猫はずっと金だらいを見つめていた、と思う。
暗かったのではっきりとしたことは分からない。
翌朝、私は板やら藁やらを持って屋根の上に登った。
昨日雨漏りしていたところをほじくり返してどこに穴が空いているのかを見極める。
これには少しコツがいる。
それからありあわせの資材でうまく埋め合わせる。
私にはそういうことがそれなりに要領良くできる。
長く生きてきたせいだ。
大して自慢にはならない。
特に誰も褒めてくれない。
でも少しは役に立つ。
新しい板を被せ、藁を被せる。
少々不格好だったが、とにかくもう雨は漏らない。
それでいい。
猫はどこかに遊びに行っていた。
私は刃物を持ち、以前竹で作ったしょいこを背負って外に出た。
タケノコを採る。
雨の後でタケノコは好奇心いっぱいに地上に顔を出していた。
周りの土を丁寧に取り除いて根本に刃を押し当てて採る。
すぐにしょいこはいっぱいになり、ずっしりと重くなった。
それと同時に私はタケノコでない、背の低い緑の竹を根本まで注意深く切って回った。
猫がこの辺りを駆け回る。
どこかでふとジャンプする。
着地すべき場所には竹が鋭い切っ先を無慈悲に上を向けて待っている。
竹はもちろん猫の腹を突き破り、腸やら肝臓やらを貫通して背中から飛び出る。
血が飛び散って、長い間苦しんで、やがて死ぬ。
そんな無意味な結末はごめんだった。
たとえいつか必ず何らかの形で終わりがやってくるとしてもだ。
だから私は何時間もかけて小屋の周りの竹を剪定してまわった。
作業を終えて一休みしているとどこからか猫はやってきて、しょいこの中に飛び込んだ。
「おかえり」
うなあ、と猫は眠そうな声で鳴いた。
タケノコと猫の入ったしょいこを背負って小屋に戻ると見覚えのある人影が立っていた。
私の姿を認めると手を振った。
「やあ」と彼女が言った。
「にゃあ」と私は言った。
「なんだ、それは」
「挨拶」
猫がしょいこから飛び出してきて私の頭に乗り、本当に「にゃあ」と言った。
「ああ、なるほど」
慧音はおかしそうに笑った。
「学校は良いの」
「今は春休みだよ」
「そうか」
私は猫を落とさないように注意深く頷いた。
「タケノコがたくさん採れたよ。一緒に食べよう」
「うん。私は鶏と酒を持ってきた」
慧音の抱える紙袋からは確かに鶏の足が覗いていた。
私は戸を開けて慧音を迎え入れた。
小屋の中に入った慧音は驚いたような表情でしばらく周りを見渡していた。
「ずいぶん綺麗になった」
「あ、私?」
「はいはい」
私も改めて小屋の中を見た。
確かに。
「猫が掃除をしてくれるんだ」
「そうか。じゃあ夕飯も作ってもらおう」
「だってさ」
頭から降りて私の座布団の上に寝転んでいた猫は、こちらに向いて面倒くさそうに欠伸をした。
私と慧音は顔を見合わせて笑った。
§
春の夜はどことなく現実感が薄くて、少し気を抜けばどこかに飛んでいってしまいそうだ。
昨日の雨でまだ少しだけ濡れている草の上に座って、空の星を数える。
星は時々私の呼吸に合わせて煙草の煙で霞んだ。
するとたちまち、どれを数えてどれを数えていないのか分からなくなってしまう。
私は諦めて寝転がり、欠伸をした。
首だけを動かして月を見る。
西の空で檸檬のように歪に膨れていた。
満月まであと四日というところか。
ゆっくりと煙を吸い込み、吐く。
私の口から放たれる白煙が、綺麗な空気をほんの少しだけ汚していった。
それは幾らか私の自虐的な快感を満たすものではあったけれど、横に座っている慧音が良い顔をしていないのが雰囲気で分かったので、折を見て地面で捻った。
彼女は煙草を吸わない。
酒だって美味しいから飲むという程度だ。
だからいつも私の喫煙癖を不思議がる。
煙草なんか吸っても惨めになるだけじゃないか、と。
確かにそうだ。
しかしそれと共に、その惨めさこそが自分を辛うじて現実に繋ぎとめてくれるのだということを、何かに依存することでしか得られない絶望的な安心感を、彼女に幾ら説明しても分かってはもらえないのだろう。
強い人なのだ。
自分が世界と結びついている証として、彼女は中毒症状など必要とはしないのだ。
少しだけ、眩しい。
その時慧音の言葉がぼんやりと遠くで聞こえた。
何を言ったのか聞き取れなかった。
慌てて訊き返す。
「え、なに?」
「里には下りてこないのか」
座っている彼女の顔は向こう側を向いていて、月の光に淡く照らされた彼女の髪の毛だけが見えていた。
「うん、とりあえず、今は」
「そうか」
慧音はしばらく黙っていた。
「いつでも良い、言ってくれ。もちろん妹紅がその気になればだが……」
「……うん。ありがとう」
本当はもっと気の利いたことが言えれば良かったけれど、もちろんそんな言葉は私のどこを探しても出てこなかった。
私らしい。
溜め息をつく。
温かな風が私たちを柔らかく撫でるように吹いた。
しばらくして、慧音が口を開いた。
「猫はどこに行ったかな」
「小屋の中にいない?」
「どうだろう。見てくるよ」
「ついでにお酒を取ってきてよ」
「はいはい」
彼女が行ってしまって独りになると考えることは何もなかった。
わざわざ煙草を吸うつもりもなかった。
もうそんなに惨めにならなくても時間をやり過ごせそうだったからだ。
本当は酒も要らないくらい。
澄んだ星空は煙に燻されることもなく、幾つでもいつまででも星の数を数えられそうだった。
そのうち、ぼんやりとした私の意識を春の夜が柔らかに包んでいった。
§
猫はどこかに遊びに行っていたようで、朝になって小屋の中に帰ってきた。
まだ生きた鼠を誇らしげに咥えて。
しかも私にどうだと言わんばかりに見せ付ける。
「うん、すごいね」
他に言いようがない。
あえて付け加えるとすれば、せめて私たちが朝ごはんを食べ終わった後にして欲しかった。
慧音は茶碗を取り落として割ってしまい、今は部屋の隅で震えている。
猫はそれを咥えたまま歩いてきて、鼠を私の足元に置いた。
キーと鳴いて鼠が逃げようとすると、少し泳がせてからばしりと手で押さえつける。
その度に私の方を得意気に見る。
「わあすごいな。すごいよ。うん、すごいから、ね。もう、早く食べて」
その哀れな鼠が猫の胃袋に収まるまでまるまる15分はかかった。
慧音が食欲を取り戻すまでには30分かかった。
§
慧音が里に下りていくのを途中まで見送って、私は作物の世話をしに畑へ向かった。
土は先日の雨にしっとりと濡れていて、どれも問題なく育っていた。
先週辺りから勢いづいてきた雑草をすべて抜いてしまうと、それ以上やるべきことは何もなかった。
私は力なく小屋へと戻った。
§
二週間ほどが音もなく過ぎ去った。
私は毎日掃除をし、猫の毛づくろいと自分の枝毛の処理をそれぞれ一日毎に繰り返した。
晴れた日には外に出て竹を刈り、畑の雑草を抜いた。
そして雨が降る日には綺麗に磨いた硝子の窓を濡らすそれを、膝の上に抱えた猫と二人でいつまでも眺めた。
煙草はほとんど吸わなかった。
唸りを上げるはずの禁断症状は春の雨の底にすっぽりと落ち込んでしまい、何の音沙汰もなかった。
少しくらい太るのではないかというささやかな期待があったが、これは当然のごとく裏切られた。
むしろ猫の肢体が少し丸みを帯びてきた。
猫は、羨む私を呆れたような表情でちらりと見てから、自分の座布団に座って欠伸をした。
猫とは毎日たくさんの話をした。
私の要領の得ない話を嫌がりもせずに聞いて、すべてを聞き終わった後には必ず含蓄と示唆に満ちた言葉をかけてくれた。
残念だったのは私が浅学にしてその言語を解さないことだ。
毎日色々なことが頭の中を巡ったけれど、枕を抱いて眠る頃には何もかもが溶けていって意識の底に沈んでいった。
そして深く温かな眠りがやってきた。
夢の中で私は猫で猫も猫だった。
「ねえ」と私は言った。
「なんだい?」と猫は言った。
「話せる」
口にしてみてから、その言葉は実際かなり馬鹿げたものに聞こえた。
「それは良かった」
猫は真面目な表情で頷いた。
猫も夢を見るのだろうか?
きっと見るだろう。
どんな夢だろうか。
もしかすると人になった夢かもしれない。
§
目が覚めた時から微かな予感があった。
空気が僅かに綻びていて、それは僅かではあっても決定的なものだった。
寝転んだまま、私は思わず左手で顔を覆った。
溜め息をつく。
しばらくそうしたままでいて、しかしやがては諦めてゆっくりと上体を起こし、それを見る。
座布団の上には黒い何本かの毛と微かなへこみだけが残されていて、その上に寝ていた誰かはもうここにはいないことを示していた。
戸はいつもの通りちょうど猫の通れる分だけ開いていた。
土間には大きな鼠の死骸が残されていた。
礼のつもりなのか。
「ばか……」
名前の知らない感情が突如として押し寄せてきて、私の胸と喉の奥を微かに震わせた。
目を瞑ってそれを何とかやりすごそうとしたけれど、大して上手くはいかなかった。
私は首を振ってもう一度溜め息をついた。
身体にかかっている布団を引き剥がしてゆっくりと立ち上がる。
猫を失った小屋の内側の空間は、ところどころが伸びたり縮んだりしてやたらと歪に見えた。
寝起きだというのに頭は奇妙に冴え渡っている。
時折耳の辺りできしりと何かが軋む音が聞こえた。
布団を畳んだ。
部屋の端に三つ折にして天辺に枕を乗せる。
ボロボロの箒とちりとりで丹念に掃き掃除をした。
それから去年の秋に畑で採って残してあったさつまいもの最後の二つを新聞紙に包んで畳の上に置く。
そして、小屋の隅の畳と床の間の秘密の場所から舶来のウイスキー壜を取り出す。
下に向けて壜の開け口を捻ると、琥珀色の液体は芳香を放ちながら滑り落ち、容赦なく畳を濡らした。
深呼吸をする。
最後に一度だけ中を見渡してから、私は小屋に火を放った。
§
「妹紅!」
遠くから私を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、慧音が血相を変えてこちらに走ってくるのが見えた。
「慧音」
「なんだ?どうした?大丈夫か?何をしている?」
ぜえぜえと息をつきながら慧音は絶え絶えにそれだけを言った。
「小屋を焼いているんだ」
「なに?」
慧音は天高く煙をあげて燃える小屋と私とをしばらく見比べてから、大きく溜め息をついた。
「朝っぱらからあんまり突飛なことをしないでくれないか。寿命が縮む」
「ごめんなさい」
「起きたらこっちから黒い煙が上がっていて……心配したんだぞ」
「私は死なないよ」と私は笑って言った。
「馬鹿。そういう問題じゃない」
慧音は真面目な顔で私を睨んだ。
「悪かったよ。ところで慧音、朝ごはん食べた?」
「お前のお陰でばっちり食い損ねたよ」
「それについてもごめん。ねえ、せっかくだから一緒に食べようよ」
私は小屋の燃えカスの中から新聞紙に包まれてこんがり焼きあがった芋を二つ見つけ出して、片方を慧音に差し出した。
近くに見覚えのない猫車が打ち捨てられていたので、それにバケツを乗せて近くの水源まで走って水を汲んできた。
竹のコップに二人分を汲んで、残りをまるまる小屋にぶっかけた。
それから二人で地面に座り、時間をかけてゆっくりと芋を齧った。
「そういえばさ……」
「なんだ?」
慧音は芋の欠片を口の端につけたまま答えた。
「一つお願いがあるんだけど」
「うん」
「住む家がなくなっちゃったんだ。悪いけれど、しばらく泊めてくれないかな」
慧音はぽかんと口を開けたまま、まるまる五秒は私を見ていた。
それから不意に笑い出した。
「構わないよ。おいで」
そして私たちは春の朝の日の中を連れ立って歩いた。
§
猫の行き先はもちろん分からずじまいだったし、私も特に知りたいとは思わなかった。
ただ慧音の家に移ってからも時々私は竹林に赴き、背の低い尖った竹を刈ってまわった。
眠れない夜に、私はいつも猫の黒い身体と二つに分かれた長い尻尾を思い出す。
あとどれだけ、どこで生きるのかは分からないが、やがて来る終わりの日まで猫が幸せな日々を送ることを私は望んでいる。
木造の小屋の外面は7年分の風雨を受けてすっかり黒ずんでいたし、内面もまた同じだけの期間煙草の煙に燻されて汚くくすんでいた。
およそ家財道具なんてものは存在しなくて、殺風景な部屋の中に申し訳程度に散らばっているのは少し歩いて人里まで降りていけばすぐに都合のつくものばかり。
そもそも部屋の中にはヤニの臭いが宿命的に立ちこめていて、それについてもいい加減うんざりし始めていたところだった。
だからいつ燃えてもいいようなもので、私も半ばある種の期待を込めて毎晩寝煙草をふかしていたのだ。
自分で燃やすのは気が引けるけれど、過失で燃えてしまったのならば仕方がない。
私は何度も鏡の前で練習した、誰に見せるわけでもない困り顔を作り、内心は嬉々として、新しい小屋を建てただろう。
しかし、残念ながら私はその奥ゆかしい放火願望を放棄せざるを得なくなった。
小屋に猫が棲み着いたのだ。
§
その猫がどこからやってきたのかとんと見当もつかない。
何しろ周りは鬱蒼とした竹林だし、小屋の場所は人里から随分離れていた。
少し開けた場所(私が周りの竹をある程度切った)であるとはいえ、土地勘がなければなかなかここまで辿り着けない。
道に迷ったというのも考えにくい。
すらりとした体躯は猫が野生の生活に充分耐えうることを示していたし、深い色の瞳は思慮深さを物語っていた。
少なくとも私よりはずっと賢そうだった。
ともあれ、ある日私が人里から戻ると、その猫は既に当たり前のような顔をして私の座布団に座っていた。
私がぽかんと口を開けて戸口に突っ立っていると、猫は大儀そうにこちらを見やり、うなあと一声鳴いた。
仰る通りだった。
とにかく、火には気をつけるようになった。
小屋の中で煙草を吸うのを止めたし、寝る前にもきちんと火の始末をするようになった。
猫は、人でなく家に懐く。
私がもはや執着心を抱いていない家に猫が懐いているのならば、家はもう猫のものだと思った。
私なら幾ら死んでも構わないが、家を燃やしてしまったり猫を死なせてしまったりするとかわいそうだ。
私よりは猫の方が価値がある。
燃えないゴミよりは燃えるゴミの方が幾らかマシだ。
うん……いや、どうだろう?でも少なくとも後腐れはない。
それからそういう風に考える私自身がとても惨めに思えた。
放っておくとがりがりと小屋の木の壁をひっかくので(猫が)、爪切りを買ってきて週に一度は爪を切ってやった(私が)。
私も今までは歯で噛みきっていた爪をその爪切りで切るようになったので、私の爪もずいぶん綺麗になった。
掃除もするようになった。
毛のたくさん抜けたみすぼらしい箒となんとか原形を留めている程度のちりとりを持ってきて、猫の毛やら私の髪の毛やら埃やら名前も知らない何かの甲虫(知りたくもない)の足やらをちりとりにまとめ、外に出て少し離れたところに捨てた。
猫はそうした作業を座布団の上にちょこんと座ってじっと見ていた。
時折あくびをして、それから私が力を入れすぎて箒で埃を立ててしまったときにはぶひゅんとくしゃみをした。
「ごめん」
猫は呆れたような顔をしてうやあと鳴いた。
§
春の雨が暖かく降り注いでいた。
小屋の中に。
私と猫は二人でぽとりぽとりと垂れる雨粒を見ていた。
私がさっき置いた金だらいがそれを分け隔てなく受け止め、かあんかあんと甲高い音を立てていた。
猫の髭は、その金属音を聞く度に少しずつ震えた。
私は髭と金だらいを交互に見ながら雨音を数えていた。
時々私が耳の後ろを掻いてやると、猫は前足を揃えてゆっくりを背筋を伸ばした。
ある時点からは聞こえるのはぽちょりぽちょりという水だけの音になった。
もう猫の髭は震えなかった。
3029まで数えたところで眠くなってきたので私は灯りを消して、毛布を被って眠った。
猫はずっと金だらいを見つめていた、と思う。
暗かったのではっきりとしたことは分からない。
翌朝、私は板やら藁やらを持って屋根の上に登った。
昨日雨漏りしていたところをほじくり返してどこに穴が空いているのかを見極める。
これには少しコツがいる。
それからありあわせの資材でうまく埋め合わせる。
私にはそういうことがそれなりに要領良くできる。
長く生きてきたせいだ。
大して自慢にはならない。
特に誰も褒めてくれない。
でも少しは役に立つ。
新しい板を被せ、藁を被せる。
少々不格好だったが、とにかくもう雨は漏らない。
それでいい。
猫はどこかに遊びに行っていた。
私は刃物を持ち、以前竹で作ったしょいこを背負って外に出た。
タケノコを採る。
雨の後でタケノコは好奇心いっぱいに地上に顔を出していた。
周りの土を丁寧に取り除いて根本に刃を押し当てて採る。
すぐにしょいこはいっぱいになり、ずっしりと重くなった。
それと同時に私はタケノコでない、背の低い緑の竹を根本まで注意深く切って回った。
猫がこの辺りを駆け回る。
どこかでふとジャンプする。
着地すべき場所には竹が鋭い切っ先を無慈悲に上を向けて待っている。
竹はもちろん猫の腹を突き破り、腸やら肝臓やらを貫通して背中から飛び出る。
血が飛び散って、長い間苦しんで、やがて死ぬ。
そんな無意味な結末はごめんだった。
たとえいつか必ず何らかの形で終わりがやってくるとしてもだ。
だから私は何時間もかけて小屋の周りの竹を剪定してまわった。
作業を終えて一休みしているとどこからか猫はやってきて、しょいこの中に飛び込んだ。
「おかえり」
うなあ、と猫は眠そうな声で鳴いた。
タケノコと猫の入ったしょいこを背負って小屋に戻ると見覚えのある人影が立っていた。
私の姿を認めると手を振った。
「やあ」と彼女が言った。
「にゃあ」と私は言った。
「なんだ、それは」
「挨拶」
猫がしょいこから飛び出してきて私の頭に乗り、本当に「にゃあ」と言った。
「ああ、なるほど」
慧音はおかしそうに笑った。
「学校は良いの」
「今は春休みだよ」
「そうか」
私は猫を落とさないように注意深く頷いた。
「タケノコがたくさん採れたよ。一緒に食べよう」
「うん。私は鶏と酒を持ってきた」
慧音の抱える紙袋からは確かに鶏の足が覗いていた。
私は戸を開けて慧音を迎え入れた。
小屋の中に入った慧音は驚いたような表情でしばらく周りを見渡していた。
「ずいぶん綺麗になった」
「あ、私?」
「はいはい」
私も改めて小屋の中を見た。
確かに。
「猫が掃除をしてくれるんだ」
「そうか。じゃあ夕飯も作ってもらおう」
「だってさ」
頭から降りて私の座布団の上に寝転んでいた猫は、こちらに向いて面倒くさそうに欠伸をした。
私と慧音は顔を見合わせて笑った。
§
春の夜はどことなく現実感が薄くて、少し気を抜けばどこかに飛んでいってしまいそうだ。
昨日の雨でまだ少しだけ濡れている草の上に座って、空の星を数える。
星は時々私の呼吸に合わせて煙草の煙で霞んだ。
するとたちまち、どれを数えてどれを数えていないのか分からなくなってしまう。
私は諦めて寝転がり、欠伸をした。
首だけを動かして月を見る。
西の空で檸檬のように歪に膨れていた。
満月まであと四日というところか。
ゆっくりと煙を吸い込み、吐く。
私の口から放たれる白煙が、綺麗な空気をほんの少しだけ汚していった。
それは幾らか私の自虐的な快感を満たすものではあったけれど、横に座っている慧音が良い顔をしていないのが雰囲気で分かったので、折を見て地面で捻った。
彼女は煙草を吸わない。
酒だって美味しいから飲むという程度だ。
だからいつも私の喫煙癖を不思議がる。
煙草なんか吸っても惨めになるだけじゃないか、と。
確かにそうだ。
しかしそれと共に、その惨めさこそが自分を辛うじて現実に繋ぎとめてくれるのだということを、何かに依存することでしか得られない絶望的な安心感を、彼女に幾ら説明しても分かってはもらえないのだろう。
強い人なのだ。
自分が世界と結びついている証として、彼女は中毒症状など必要とはしないのだ。
少しだけ、眩しい。
その時慧音の言葉がぼんやりと遠くで聞こえた。
何を言ったのか聞き取れなかった。
慌てて訊き返す。
「え、なに?」
「里には下りてこないのか」
座っている彼女の顔は向こう側を向いていて、月の光に淡く照らされた彼女の髪の毛だけが見えていた。
「うん、とりあえず、今は」
「そうか」
慧音はしばらく黙っていた。
「いつでも良い、言ってくれ。もちろん妹紅がその気になればだが……」
「……うん。ありがとう」
本当はもっと気の利いたことが言えれば良かったけれど、もちろんそんな言葉は私のどこを探しても出てこなかった。
私らしい。
溜め息をつく。
温かな風が私たちを柔らかく撫でるように吹いた。
しばらくして、慧音が口を開いた。
「猫はどこに行ったかな」
「小屋の中にいない?」
「どうだろう。見てくるよ」
「ついでにお酒を取ってきてよ」
「はいはい」
彼女が行ってしまって独りになると考えることは何もなかった。
わざわざ煙草を吸うつもりもなかった。
もうそんなに惨めにならなくても時間をやり過ごせそうだったからだ。
本当は酒も要らないくらい。
澄んだ星空は煙に燻されることもなく、幾つでもいつまででも星の数を数えられそうだった。
そのうち、ぼんやりとした私の意識を春の夜が柔らかに包んでいった。
§
猫はどこかに遊びに行っていたようで、朝になって小屋の中に帰ってきた。
まだ生きた鼠を誇らしげに咥えて。
しかも私にどうだと言わんばかりに見せ付ける。
「うん、すごいね」
他に言いようがない。
あえて付け加えるとすれば、せめて私たちが朝ごはんを食べ終わった後にして欲しかった。
慧音は茶碗を取り落として割ってしまい、今は部屋の隅で震えている。
猫はそれを咥えたまま歩いてきて、鼠を私の足元に置いた。
キーと鳴いて鼠が逃げようとすると、少し泳がせてからばしりと手で押さえつける。
その度に私の方を得意気に見る。
「わあすごいな。すごいよ。うん、すごいから、ね。もう、早く食べて」
その哀れな鼠が猫の胃袋に収まるまでまるまる15分はかかった。
慧音が食欲を取り戻すまでには30分かかった。
§
慧音が里に下りていくのを途中まで見送って、私は作物の世話をしに畑へ向かった。
土は先日の雨にしっとりと濡れていて、どれも問題なく育っていた。
先週辺りから勢いづいてきた雑草をすべて抜いてしまうと、それ以上やるべきことは何もなかった。
私は力なく小屋へと戻った。
§
二週間ほどが音もなく過ぎ去った。
私は毎日掃除をし、猫の毛づくろいと自分の枝毛の処理をそれぞれ一日毎に繰り返した。
晴れた日には外に出て竹を刈り、畑の雑草を抜いた。
そして雨が降る日には綺麗に磨いた硝子の窓を濡らすそれを、膝の上に抱えた猫と二人でいつまでも眺めた。
煙草はほとんど吸わなかった。
唸りを上げるはずの禁断症状は春の雨の底にすっぽりと落ち込んでしまい、何の音沙汰もなかった。
少しくらい太るのではないかというささやかな期待があったが、これは当然のごとく裏切られた。
むしろ猫の肢体が少し丸みを帯びてきた。
猫は、羨む私を呆れたような表情でちらりと見てから、自分の座布団に座って欠伸をした。
猫とは毎日たくさんの話をした。
私の要領の得ない話を嫌がりもせずに聞いて、すべてを聞き終わった後には必ず含蓄と示唆に満ちた言葉をかけてくれた。
残念だったのは私が浅学にしてその言語を解さないことだ。
毎日色々なことが頭の中を巡ったけれど、枕を抱いて眠る頃には何もかもが溶けていって意識の底に沈んでいった。
そして深く温かな眠りがやってきた。
夢の中で私は猫で猫も猫だった。
「ねえ」と私は言った。
「なんだい?」と猫は言った。
「話せる」
口にしてみてから、その言葉は実際かなり馬鹿げたものに聞こえた。
「それは良かった」
猫は真面目な表情で頷いた。
猫も夢を見るのだろうか?
きっと見るだろう。
どんな夢だろうか。
もしかすると人になった夢かもしれない。
§
目が覚めた時から微かな予感があった。
空気が僅かに綻びていて、それは僅かではあっても決定的なものだった。
寝転んだまま、私は思わず左手で顔を覆った。
溜め息をつく。
しばらくそうしたままでいて、しかしやがては諦めてゆっくりと上体を起こし、それを見る。
座布団の上には黒い何本かの毛と微かなへこみだけが残されていて、その上に寝ていた誰かはもうここにはいないことを示していた。
戸はいつもの通りちょうど猫の通れる分だけ開いていた。
土間には大きな鼠の死骸が残されていた。
礼のつもりなのか。
「ばか……」
名前の知らない感情が突如として押し寄せてきて、私の胸と喉の奥を微かに震わせた。
目を瞑ってそれを何とかやりすごそうとしたけれど、大して上手くはいかなかった。
私は首を振ってもう一度溜め息をついた。
身体にかかっている布団を引き剥がしてゆっくりと立ち上がる。
猫を失った小屋の内側の空間は、ところどころが伸びたり縮んだりしてやたらと歪に見えた。
寝起きだというのに頭は奇妙に冴え渡っている。
時折耳の辺りできしりと何かが軋む音が聞こえた。
布団を畳んだ。
部屋の端に三つ折にして天辺に枕を乗せる。
ボロボロの箒とちりとりで丹念に掃き掃除をした。
それから去年の秋に畑で採って残してあったさつまいもの最後の二つを新聞紙に包んで畳の上に置く。
そして、小屋の隅の畳と床の間の秘密の場所から舶来のウイスキー壜を取り出す。
下に向けて壜の開け口を捻ると、琥珀色の液体は芳香を放ちながら滑り落ち、容赦なく畳を濡らした。
深呼吸をする。
最後に一度だけ中を見渡してから、私は小屋に火を放った。
§
「妹紅!」
遠くから私を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、慧音が血相を変えてこちらに走ってくるのが見えた。
「慧音」
「なんだ?どうした?大丈夫か?何をしている?」
ぜえぜえと息をつきながら慧音は絶え絶えにそれだけを言った。
「小屋を焼いているんだ」
「なに?」
慧音は天高く煙をあげて燃える小屋と私とをしばらく見比べてから、大きく溜め息をついた。
「朝っぱらからあんまり突飛なことをしないでくれないか。寿命が縮む」
「ごめんなさい」
「起きたらこっちから黒い煙が上がっていて……心配したんだぞ」
「私は死なないよ」と私は笑って言った。
「馬鹿。そういう問題じゃない」
慧音は真面目な顔で私を睨んだ。
「悪かったよ。ところで慧音、朝ごはん食べた?」
「お前のお陰でばっちり食い損ねたよ」
「それについてもごめん。ねえ、せっかくだから一緒に食べようよ」
私は小屋の燃えカスの中から新聞紙に包まれてこんがり焼きあがった芋を二つ見つけ出して、片方を慧音に差し出した。
近くに見覚えのない猫車が打ち捨てられていたので、それにバケツを乗せて近くの水源まで走って水を汲んできた。
竹のコップに二人分を汲んで、残りをまるまる小屋にぶっかけた。
それから二人で地面に座り、時間をかけてゆっくりと芋を齧った。
「そういえばさ……」
「なんだ?」
慧音は芋の欠片を口の端につけたまま答えた。
「一つお願いがあるんだけど」
「うん」
「住む家がなくなっちゃったんだ。悪いけれど、しばらく泊めてくれないかな」
慧音はぽかんと口を開けたまま、まるまる五秒は私を見ていた。
それから不意に笑い出した。
「構わないよ。おいで」
そして私たちは春の朝の日の中を連れ立って歩いた。
§
猫の行き先はもちろん分からずじまいだったし、私も特に知りたいとは思わなかった。
ただ慧音の家に移ってからも時々私は竹林に赴き、背の低い尖った竹を刈ってまわった。
眠れない夜に、私はいつも猫の黒い身体と二つに分かれた長い尻尾を思い出す。
あとどれだけ、どこで生きるのかは分からないが、やがて来る終わりの日まで猫が幸せな日々を送ることを私は望んでいる。
うまく言葉に出来ないですが、素敵なお話でした。
破滅主義じみていた妹紅の目的が、猫がクッションになるように前進するためのものに少しだけかわったような……。そんな優しいお話でした。
妹紅と猫ののんびりとしたやり取りに、とても和みました。
妹紅の乾きっぷりが心地よかった
この作品に上手い言葉を当てはめられないのですが、でもゆったりとした気持ちになったのは確かです。
主人公が家を燃やしたのに、なんででしょうね。
文章も話も味があって非常に良かった。
こんな感じの文章の話がもっと増えるといいなあ。
細かいですが気になる点を二つほど。
改行後の文頭は1文字下げた方が読みやすい。
満月の十日前の月は半月より欠けた状態のはずです。檸檬型にはならないのでは。
猫をお燐と考えてみると、さらに味わい深いです。
素敵なお話をありがとうございます
文章も非常に読みやすかったです
あっさり小屋を焼いてしまう辺り、過去にも同じような事があったのでしょうね。
その感情を制御する術を知っている事の憂鬱が日々の怠状に繋がっているのでしょうか。
やはり妹紅の話は、こういうのを避けて通れませんね・・・
素敵な作品でした。
お見事でした。
短くてシンプルな内容だけど、良いな、と思える話でした
素敵な作品をありがとう。
貴方の描く優しくて切なくて偶にエゲツなくて不思議な世界観が大好きです
猫が来てからの妹紅の変化、これがテーマだと思うのですがよく書けています。
また三ヶ月後くらいに読みたくなるような、そんな