四角い窓ガラスの中を、まるで引きちぎられた様に次々と外の世界が流れていく。
灰色と黒と、それから時折緑の混じった、退屈な景色は何時まで続くのか。
マエリベリー・ハーンは東京直通の卯酉新幹線「ヒロシゲ」に静かに揺られながら、向かいの席に腰掛けている少女に視線だけを向ける。
「くー…くー……うんん…んー…」
腕を組み、小さな寝息を立てながら時々寝苦しそうに唸る少女の姿に、マエリベリー・ハーンはため息を吐く。
車内の温度は、常に快適に保たれている。
何処からか聞こえてくる話し声と、「暇潰しにどうぞ」と一席に1つ備え付けられた小型テレビに映された、目のチカチカするニュース番組にさえ我慢出来れば、電車の揺れが子守唄代わりに、夢の世界へと連れていってくれる事だろう。
つまり、目の前の少女は連れていかれてしまった訳だ。
「ねえ、蓮子。退屈に退屈を足すと、何に変わるか知っているかしら?」
窓の外のつまらない景色に視線を戻して、マエリベリー・ハーンは睡眠中の少女に問う。
「うーん…」という寝言は、分からないと言いたかったのだろうか。
少女はゆらゆらと左右に揺れながら、眉根を寄せて唸っている。
マエリベリー・ハーンは、窓ガラスに映る、紫色の眼で此方を静かに睨み付けている少女に向かって呟いた。
「答えは、苦痛よ。耐え難い苦痛。退屈はね、不死者ですら殺せる劇薬なの」
窓ガラスに映る少女の退屈そうな表情は、まるで「目の前の貴方が答えね」と言いたげだ。
退屈しのぎに付けているニュース番組からは、無味乾燥な言葉の羅列が垂れ流されている。
今日も何処かで誰かが死んだそうだが、だからどうしたという話だ。私には何の関係も無い、誰かさんの悲報を伝えられた所で、慰めの言葉の1つも送る気にならない。
天気予報でも流している方が、よっぽど大衆の興味を引くだろう。
小さな四角形の箱の中に居るニュースキャスターは、手元の薄っぺらい紙と私達を何度も交互に見比べながら、早口ながらも饒舌かつ事務的に淡々と悲報を語っている。
興味は無いが、自然と耳の中に入り込んで来る言葉を聞く限り「飛び下り自殺」と「轢死」があったらしい。
「…奇妙な話ね」
目の前から聞こえて来た友人の声に、マエリベリー・ハーンはハッとして其方に向き直る。
そこには寝呆け眼を擦りながら、ニュースキャスターが淡白に伝える言葉に真剣に耳を傾けている、宇佐見蓮子の姿があった。
「おはよう蓮子。よく眠れたかしら?」
「あー、ええ、お陰様で。快眠よ、メリー」
にこやかに宇佐見蓮子を見つめるマエリベリー・ハーンは、表情こそ笑顔だが眼はこれっぽっちも笑っていない。
ソレは自分の過失からだとは分かってはいるが、言い訳の仕様が無い。
宇佐見蓮子は、ただ苦笑いを浮かべてながら、座席に備え付けられているテレビを指差した。
「ま、まあそれよりさ、メリー。このニュースの内容、違和感を感じない?」
「違和感?」
宇佐見蓮子の指先の指し示す方向を視線でなぞると、ニュースキャスターは既に「続いてのニュースです」と早口で紡ぎ、画面を切り替えてしまう。
カメラは、何処だかの観光地の魅力を興奮気味に語るレポーターを、これでもかと言う程に映していた。
横目遣いで宇佐見蓮子を見ると、彼女は額に汗を滲ませながら軽い咳払いをしてから、真剣な表情で此方に向き直る。
その様子に、マエリベリー・ハーンも体の向きを直し、宇佐見蓮子と正しく真っ正面で向かい合う。
彼女の瞳の中には、結界暴きをしている時と同じ、謎への探求心がキラキラと輝いていた。
「メリー、今のニュースの内容、どれくらい聞いてた?」
宇佐見蓮子の質問に、マエリベリー・ハーンは言葉を詰まらせた。
正直、殆んど聞き流していたからだ。
まさか「貴方が気になって、聞いていなかった」なんて、責任転嫁する様なみっともない言い訳を吐く訳にもいかない。
マエリベリー・ハーンは意味もなく宇佐見蓮子の帽子に目を遣りながら、言いにくそうに答える。
「轢死と飛び降り、って所は聞いていたわ」
マエリベリー・ハーンの言葉に、宇佐見蓮子はウンウンと満足気に頷き、人差し指と中指を立てた。
「そうね、飛び降りと轢死。この2つ自体は可笑しくも何とも無いわ。けどね、コレにちょっと付け足してあげると…」
宇佐見蓮子はそう言いながら、胸ポケットからやや古い携帯端末を取り出す。傷だらけであちこち塗装が剥げているが、まだまだ現役だ。
秘封倶楽部のサークル活動に大半の費用を当てているので、買い替える余裕が無いとも言えるが。
とにかく、宇佐見蓮子は暫く画面を見ながら端末を操作していたと思うと、その端末をマエリベリー・ハーンの目の前に突き付けた。
携帯端末の画面には、先程のニュースを文面化した物がつらつらと綴られており、宇佐見蓮子はその文面の一部を指差す。
「ほら、ここを読んでみて?」
「えっと……事故現場から、被害者の物と思われる、遺体の一部が発見された。警察は事故、事件の2つを視野に入れ、遺体の身元の確認を急いでいる…コレがどうかした?」
宇佐見蓮子に言われるがまま、文面を口に出して読んでみたものの、特に不審な点は無い様に思える。
意外な秘密を発見した様に得意満面な宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンは怪訝な表情を返す。
すると宇佐見蓮子は「やれやれ」と大袈裟に肩を竦めて、余裕を含んだ溜め息混じりに言った。
「遺体の一部、とは言っているけれど、遺体その物は見付かっていないのよ」
何故だか宇佐見蓮子に小馬鹿にされた様な気がして、マエリベリー・ハーンは声色に刺を含ませて返す。
「死体その物が無くても、千切れた半身が見付かるとか、致死量の血痕が見付かるとか。判断材料はあるじゃない」
噛み付く様に言うマエリベリー・ハーンに、宇佐見蓮子はどうどうと宥める様な手振りをしながら、まるで切り札でも切るかの様に声を細めて言った。
「違う、違うのよメリー。そうじゃないの。遺体の一部は、有り得ない場所で発見されたのよ」
宇佐見蓮子の言葉に、マエリベリー・ハーンは一瞬、虚を突かれた様な表情をする。
そこを切り口に、宇佐見蓮子はニヤリと唇の端を吊り上げて、マエリベリー・ハーンと顔を近付ける。
お互いの息が絡み合う程の距離にマエリベリー・ハーンの胸は心知らず高鳴ったが、宇佐見蓮子は口を小さく動かして、秘密を打ち明ける様な声音で言った。
「轢死は環状線で、飛び降りは東京タワーで起きたのよ」
宇佐見蓮子の言葉を耳にした瞬間、マエリベリー・ハーンの脳内には「有り得ない」という言葉と同時に、不可解な謎への探求心が沸々と沸き上がった。
現在の東京では環状線に電車は走っていないどころか、青々とした草と名も知れぬ奇妙な赤い花の咲き乱れる草原と化してしまっている。
東京タワーは重要文化財に指定されており、少なくとも一般人の立ち入りは禁止されているのだから、どちらも遺体が見付かるというのは、些か奇妙な話だ。
尤、何処かで殺害した後、放り捨ててしまえばこの不可解な遺体の出来上がりではあるが。
「しかし、その2人の最期を目撃した者がいらっしゃるそうで。不思議なお話でしょう?」
突如、横から声を掛けられた2人は、反射的にそちらに顔を向ける。
そして、傍らに立つ人物の姿を認めた瞬間、マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子は、間の抜けた阿呆の様な面で、驚嘆の声を漏らした。
「えっ?」
「なっ…」
何故ならば、座席に腰掛けている二人の目の前に現われたのは、二人がよく知る人物と瓜二つだったからだ。
中華風だが、行き過ぎた少女趣味の様にフリルの沢山付いたドレスには、太極拳と思わしき図形が編み込まれている。
ナイトキャップの様な帽子には赤いリボンに、長髪なのだろう、金色の髪を詰めてある様だ。
正直、理解しがたい風変わりな服装をしている女性だが、その点を除けば容姿や雰囲気はマエリベリー・ハーンそっくりである。
「同席してもよろしいかしら?」
余りにもマエリベリー・ハーンに似通った女性が現れた事で、二人はポカンと口を開けたままその女性を眺めていたが、その女性から発せられた一言で、2人は我に返った。
「えっ、あっ、は、はい、どうぞどうぞ」
慌てて宇佐見蓮子が席を詰めるも、女性は「ありがとう」と柔らかく微笑んでわざわざマエリベリー・ハーンの隣に腰掛けた。
ふわりと女性の金色の髪がなびき、二人のマエリベリー・ハーンが宇佐見蓮子の目の前に座っている。
その様子は、奇怪と言う他ない。
「お二人は、東京に旅行へ?」
何の脈絡も無い女性の問い掛けに、宇佐見蓮子は一瞬言葉を詰まらせたが、質問に答えた…いや、答えようとした所で、また言葉を詰まらせた。
何故なら、マエリベリー・ハーンの異常に、宇佐見蓮子は今更ながらに気が付いたからだ。
額には汗を流し、細く華奢な彼女の体は小刻みに震えている。
マエリベリー・ハーンは不思議な雰囲気を漂わせる女性を、目を見開いてジッと睨み付けているが、その瞳には形容し難い恐怖の色が伺える。
まるで、この世成らざる怪物を見てしまったかの様に。
「…メリー?」
恐る恐るといった風の宇佐見蓮子からの呼び掛けに、マエリベリー・ハーンはハッとする。
気が付けば、紫色の眼をした女性が不気味な程の笑顔で、此方を見つめ返していた。
「私の顔に、何か?」
女性は表情こそ穏やかだが、その裏には底知れぬ何かが蠢いている。
マエリベリー・ハーンはそそくさと女性から視線を逸らし、曖昧な返事を返した。
「い、いえ…何でも…」
「そう。ならいいの」
女性はニッコリとマエリベリー・ハーンに微笑み掛け、宇佐見蓮子の方に向き直る。
その動作の一つ一つの、まるで掴み所の無い雲の様な緩やかな流れは、目の前に存在する女性は幻ではないかと錯角させる程だ。
さりげなく、宇佐見蓮子は帽子を深く被り直す。
「ところで」
女性が、またも滑らかな唇を滑らせて鈴を鳴らす。
重々しい沈黙を保つ二人の鼓膜には、その鈴の声音が恐ろしい化け物の唸り声に聞こえてしまったが。
「お二人は『神隠し』を信じますか?」
女性の質問に、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンは顔を見合わせる。
何故かは分からないが、その質問には答えてはいけない気がしたからだ。
暫し紫色と茶色の瞳が重なり、お互いの瞳の中には怯え切った少女の姿が映っていた。
「その前に、1つ…良いかしら?」
戦々恐々としながらも、宇佐見蓮子はマエリベリー・ハーンに似た女性を真っ向から見つめ、問い掛ける。
その女性は不思議と満足そうに、しかし胡散臭い笑みを浮かべて宇佐見蓮子を見返した。
「何かしら?」
「貴女は…誰なの?」
--静かに揺れる電車の音が、急に騒々しくなった様な気がする。
小窓の外を流れる景色はいつの間にか消え失せ、無数の目玉にねめ付けられている様な、不快な視線を感じる。
目の前の女性の笑顔は、相も変わらず仮面を張り付けた様な、気持ちの悪いものだ。
ふと、宇佐見蓮子は自分が現実感を喪失しつつある事に気が付いた。
例えるならば、夢の中で夢を見ていると気が付くような、非現実と認識しながらもそれを当然だと受け入れてしまう、不可思議極まりない感覚。
そこまで思考が達した時、宇佐見蓮子は言い様の無い恐怖に襲われた。
これ以上、目の前の浮世離れした女性と関わってはいけないと、無意識の内にマエリベリー・ハーンに手を伸ばし、席を立とうとした、その時だ。
女性の唇が、歪に開いた。
「私の名は、八雲紫」
その瞬間、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの視界が不気味にグニャリと歪む。
多種多様な絵の具を悪戯に混ぜた様に何もかもが一点に集中し、吐き気が込み上げる程の気味の悪い景色が、2人の視界を食い潰した。
もはや自分が立っているのか浮いているのかの判別すら出来ない感覚に襲われながらも、マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子はお互いへ手を伸ばし、しっかりとその手を握る。
固く固く、彼女の手を繫いでおかなければ、何処かへ消え去ってしまいそうだったからだ。
その手から伝わる温もりに安堵しつつも、宇佐見蓮子は気の毒な程に体を震わせるマエリベリー・ハーンの体を引き寄せ、力一杯抱きしめる。
この異常事態を引き起こしたのは、あの八雲紫と名乗った女性である事は明らかだった。
せめてもの抵抗だと、宇佐見蓮子は仇敵とばかりに、八雲紫を厳しい表情で睨み付ける。
しかし、八雲紫は現実から切り離された異空間の中で、蓮子に涼しい表情で微笑みを向けていた。
「神隠しの主犯にして、境目に潜む妖怪ですわ」
「よ、妖怪・・・ッ!?」
宇佐見蓮子は、驚愕の表情で八雲紫の言葉を再度繰り返す。
その言葉に、八雲紫は「その通り」と深く頷きながら何処からか扇子を取り出すと、ソレを口元に当てながら静かに語り始めた。
「ご安心を。取って喰うつもりはありませんから」
警戒心を解こうと試みたのか、それとも単に彼女の常套句なのか、八雲紫はクスクスと小さく笑いながら宇佐見蓮子と傍らのマエリベリー・ハーンに視線を向ける。
一瞬、透き通るような紫色の瞳を持つ、二人の目が合う。
マエリベリー・ハーンは、かろうじて繫ぎ止めている意識の中で、彼女の瞳から自分に近しいモノを感じた。
だが、それが何なのか理解する前に八雲紫は視線を逸らしてしまう。
「今回、貴方達の前に私が姿を現した理由。それは、たった一言を伝える為」
「・・何よ」
ぐるぐると目まぐるしく変わり続ける安定しない世界の中で、宇佐見蓮子は厳しい口調でそう言った。
八雲紫は静かに目を伏せると宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの2人に、口調こそ淡々としているが、叩きつける様に言う。
「結界暴きを、二度としてはなりません。私達の為にも。貴方達の為にも」
それは何処か、懇願する様でもあった。
大きな失敗を経験した者が、二度と自分と同じ存在を生み出さない為の忠告の様に、宇佐見連子は聞こえた。
だがしかし、突然現れたかと思えば自分は妖怪だと名乗り、非現実極まりない空間に連れてこられて「二度とするな」と忠告されようとも、宇佐見蓮子も「分かりました」などと答えるつもりは毛頭ない。
秘封倶楽部の、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの「夢」を叶える為の結界暴きなのだ。
例え相手が神だろうと妖怪だろうと、宇佐見蓮子は従うつもりなどこれっぽっちもない。
宇佐見蓮子はマエリベリー・ハーンを強く抱きしめると、人差し指を八雲紫に勢い良く突き付け、言い放つ。
「悪いけれど、絶対にお断りよ。私達は、必ずメリーと2人で『向こうの世界』に行くんだから!」
「蓮子・・」
宇佐見蓮子の揺るがない決意に、八雲紫はすうっと目を細め、やがて諦めの小さなため息を吐いた。
その端麗な美貌は、失望したように暗く陰っていた。
「・・そう。貴方達もなのね」
誰に向けての言葉なのか、八雲紫は独り言のように呟くと、くるりと2人に背を向けた。
もう語る事は無いと言う様に、その後姿からは憂愁さえ漂っている。
八雲紫は2人に背を向けたまま、パチンと指を鳴らした。
「「ッ!?」」
その瞬間、グニャグニャと蠢いていた周囲の景色が急速に引いていき、代わって無数の目玉が世界を覆っていく。
それは何もかもを飲み込んでいき、秘封倶楽部の2人も例外ではなかった。
「め、メリー!」
「蓮子っ・・!」
ずぶずぶと体を飲み込んでいく不気味な目玉の空間が、少しずつ視界を、意識を奪っていく。
それでも2人は、決して離れ離れになる事の無い様に、お互いの手を強く握り締めた。
奇怪な空間が全身を飲み込まんとする所で、2人の耳に八雲紫の声が届く。
その声は、酷く悲しそうで。
「一度だけ、チャンスを与えます。貴方達の求めるモノなど何処にも無いと、気が付いてくれるといいのだけど」
視界が暗転し、意識が断ち切られるその瞬間。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンは、確かに八雲紫の声を聴いた。
「越えてしまってからでは、遅いのよ」
《境の界》
空は抜ける様な青空で、白雲の一つさえ見当たらない。
弾む様な陽気な日差しを全身に浴びられるオープンカフェで、秘封倶楽部の2人は贅沢にもその日差しの下で注文した飲み物を啜りながら、神妙な面持ちで時代遅れの携帯端末に視線を落としていた。
「ねえ蓮子、これって・・」
「ええ、あの人・・私達を助けてくれたみたい」
2人が注目している携帯端末には、画面いっぱいに『卯酉新幹線ヒロシゲ』が原因不明の事故を起こしたという旨のニュースが書かれている。
ご丁寧に、本来ならば宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンが乗っていた時間に起きたという、知りたいような知りたくないような複雑な心境の事実まで添えて。
宇佐見蓮子は冷たいコーヒーを啜って喉を潤しながら、携帯端末の画面を閉じる。
待ち受け画面には秘封倶楽部の写真と共に、何故か東京旅行を決行した「翌日」の日付が映し出されている。
宇佐見蓮子は、未だに信じられないと言う様に狐につままれた様な顔でマエリベリー・ハーンに言う。
「しっかし、あの人は結局何が言いたかったのかしら。プチタイムスリップ経験に、助けてくれたのは感謝するけど。結界暴きで、あの人が不利益を被るから?いやでも、お互いの為って言ってたし・・う~ん」
洒落たテーブルに肘を突きながら、宇佐見蓮子は難問だらけのテスト用紙を前にした様にうんうん唸る。
そんな彼女に対し、マエリベリー・ハーンは甘ったるいカフェオレの入ったカップをストローでかき混ぜながら、からかう調子で言う。
「あら、私はなんとなく分かったけれど。蓮子ちゃんには難しいようね?」
「悪かったわね。私は容姿端麗、頭脳明晰なメリーさんとは違うのよ」
本気で気を悪くしたわけではないのだろう、宇佐見蓮子は口を尖らせながらも軽い口調でそう言った。
無論、それはマエリベリー・ハーンも分かっている。
普段通りの秘封倶楽部の日常が、そこにはあった。
「ま、あの人には色々言われたけどさ、私はサークル活動やめるつもりなんてないし。メリーもそうでしょ?」
宇佐見蓮子に同意を求められたマエリベリー・ハーンだが、彼女は「言うまでも無い」と言う様に柔らかく微笑んで、宇佐見蓮子の茶色の瞳を見つめながら言う。
「当然よ。秘封倶楽部からサークル活動を取ったら、ただのオカルトサークルだもの」
宇佐見蓮子と、マエリベリー・ハーンはお互いに笑顔を浮かべる。
そこには確かな信頼と絆で結ばれた、奇妙なオカルトサークルの少女達が居た。
宇佐見蓮子はコーヒーカップに残ったコーヒーを一気に飲み込むと、マエリベリー・ハーンの手を引いて立ち上がる。
「そうと分かれば、さっそく活動開始よ、メリー!」
「はあ・・仕方ないわねぇ、蓮子」
ぐいぐいと元気に手を引っ張る宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンは静かに微笑む。
そして、彼女の手から伝わる温もりをしっかりと受け取りながら、マエリベリー・ハーンは静かに独白した。
「そう・・貴方に『また』逢えたんだもの。最期まで一緒よ、蓮子」
まだ日は高く、空は何処までも広がる青色を見せている。
マエリベリー・ハーンは、宇佐見蓮子と共に歩む未来を青いキャンバスに思い描き、人知れず妖しく微笑んだ――
終。
灰色と黒と、それから時折緑の混じった、退屈な景色は何時まで続くのか。
マエリベリー・ハーンは東京直通の卯酉新幹線「ヒロシゲ」に静かに揺られながら、向かいの席に腰掛けている少女に視線だけを向ける。
「くー…くー……うんん…んー…」
腕を組み、小さな寝息を立てながら時々寝苦しそうに唸る少女の姿に、マエリベリー・ハーンはため息を吐く。
車内の温度は、常に快適に保たれている。
何処からか聞こえてくる話し声と、「暇潰しにどうぞ」と一席に1つ備え付けられた小型テレビに映された、目のチカチカするニュース番組にさえ我慢出来れば、電車の揺れが子守唄代わりに、夢の世界へと連れていってくれる事だろう。
つまり、目の前の少女は連れていかれてしまった訳だ。
「ねえ、蓮子。退屈に退屈を足すと、何に変わるか知っているかしら?」
窓の外のつまらない景色に視線を戻して、マエリベリー・ハーンは睡眠中の少女に問う。
「うーん…」という寝言は、分からないと言いたかったのだろうか。
少女はゆらゆらと左右に揺れながら、眉根を寄せて唸っている。
マエリベリー・ハーンは、窓ガラスに映る、紫色の眼で此方を静かに睨み付けている少女に向かって呟いた。
「答えは、苦痛よ。耐え難い苦痛。退屈はね、不死者ですら殺せる劇薬なの」
窓ガラスに映る少女の退屈そうな表情は、まるで「目の前の貴方が答えね」と言いたげだ。
退屈しのぎに付けているニュース番組からは、無味乾燥な言葉の羅列が垂れ流されている。
今日も何処かで誰かが死んだそうだが、だからどうしたという話だ。私には何の関係も無い、誰かさんの悲報を伝えられた所で、慰めの言葉の1つも送る気にならない。
天気予報でも流している方が、よっぽど大衆の興味を引くだろう。
小さな四角形の箱の中に居るニュースキャスターは、手元の薄っぺらい紙と私達を何度も交互に見比べながら、早口ながらも饒舌かつ事務的に淡々と悲報を語っている。
興味は無いが、自然と耳の中に入り込んで来る言葉を聞く限り「飛び下り自殺」と「轢死」があったらしい。
「…奇妙な話ね」
目の前から聞こえて来た友人の声に、マエリベリー・ハーンはハッとして其方に向き直る。
そこには寝呆け眼を擦りながら、ニュースキャスターが淡白に伝える言葉に真剣に耳を傾けている、宇佐見蓮子の姿があった。
「おはよう蓮子。よく眠れたかしら?」
「あー、ええ、お陰様で。快眠よ、メリー」
にこやかに宇佐見蓮子を見つめるマエリベリー・ハーンは、表情こそ笑顔だが眼はこれっぽっちも笑っていない。
ソレは自分の過失からだとは分かってはいるが、言い訳の仕様が無い。
宇佐見蓮子は、ただ苦笑いを浮かべてながら、座席に備え付けられているテレビを指差した。
「ま、まあそれよりさ、メリー。このニュースの内容、違和感を感じない?」
「違和感?」
宇佐見蓮子の指先の指し示す方向を視線でなぞると、ニュースキャスターは既に「続いてのニュースです」と早口で紡ぎ、画面を切り替えてしまう。
カメラは、何処だかの観光地の魅力を興奮気味に語るレポーターを、これでもかと言う程に映していた。
横目遣いで宇佐見蓮子を見ると、彼女は額に汗を滲ませながら軽い咳払いをしてから、真剣な表情で此方に向き直る。
その様子に、マエリベリー・ハーンも体の向きを直し、宇佐見蓮子と正しく真っ正面で向かい合う。
彼女の瞳の中には、結界暴きをしている時と同じ、謎への探求心がキラキラと輝いていた。
「メリー、今のニュースの内容、どれくらい聞いてた?」
宇佐見蓮子の質問に、マエリベリー・ハーンは言葉を詰まらせた。
正直、殆んど聞き流していたからだ。
まさか「貴方が気になって、聞いていなかった」なんて、責任転嫁する様なみっともない言い訳を吐く訳にもいかない。
マエリベリー・ハーンは意味もなく宇佐見蓮子の帽子に目を遣りながら、言いにくそうに答える。
「轢死と飛び降り、って所は聞いていたわ」
マエリベリー・ハーンの言葉に、宇佐見蓮子はウンウンと満足気に頷き、人差し指と中指を立てた。
「そうね、飛び降りと轢死。この2つ自体は可笑しくも何とも無いわ。けどね、コレにちょっと付け足してあげると…」
宇佐見蓮子はそう言いながら、胸ポケットからやや古い携帯端末を取り出す。傷だらけであちこち塗装が剥げているが、まだまだ現役だ。
秘封倶楽部のサークル活動に大半の費用を当てているので、買い替える余裕が無いとも言えるが。
とにかく、宇佐見蓮子は暫く画面を見ながら端末を操作していたと思うと、その端末をマエリベリー・ハーンの目の前に突き付けた。
携帯端末の画面には、先程のニュースを文面化した物がつらつらと綴られており、宇佐見蓮子はその文面の一部を指差す。
「ほら、ここを読んでみて?」
「えっと……事故現場から、被害者の物と思われる、遺体の一部が発見された。警察は事故、事件の2つを視野に入れ、遺体の身元の確認を急いでいる…コレがどうかした?」
宇佐見蓮子に言われるがまま、文面を口に出して読んでみたものの、特に不審な点は無い様に思える。
意外な秘密を発見した様に得意満面な宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンは怪訝な表情を返す。
すると宇佐見蓮子は「やれやれ」と大袈裟に肩を竦めて、余裕を含んだ溜め息混じりに言った。
「遺体の一部、とは言っているけれど、遺体その物は見付かっていないのよ」
何故だか宇佐見蓮子に小馬鹿にされた様な気がして、マエリベリー・ハーンは声色に刺を含ませて返す。
「死体その物が無くても、千切れた半身が見付かるとか、致死量の血痕が見付かるとか。判断材料はあるじゃない」
噛み付く様に言うマエリベリー・ハーンに、宇佐見蓮子はどうどうと宥める様な手振りをしながら、まるで切り札でも切るかの様に声を細めて言った。
「違う、違うのよメリー。そうじゃないの。遺体の一部は、有り得ない場所で発見されたのよ」
宇佐見蓮子の言葉に、マエリベリー・ハーンは一瞬、虚を突かれた様な表情をする。
そこを切り口に、宇佐見蓮子はニヤリと唇の端を吊り上げて、マエリベリー・ハーンと顔を近付ける。
お互いの息が絡み合う程の距離にマエリベリー・ハーンの胸は心知らず高鳴ったが、宇佐見蓮子は口を小さく動かして、秘密を打ち明ける様な声音で言った。
「轢死は環状線で、飛び降りは東京タワーで起きたのよ」
宇佐見蓮子の言葉を耳にした瞬間、マエリベリー・ハーンの脳内には「有り得ない」という言葉と同時に、不可解な謎への探求心が沸々と沸き上がった。
現在の東京では環状線に電車は走っていないどころか、青々とした草と名も知れぬ奇妙な赤い花の咲き乱れる草原と化してしまっている。
東京タワーは重要文化財に指定されており、少なくとも一般人の立ち入りは禁止されているのだから、どちらも遺体が見付かるというのは、些か奇妙な話だ。
尤、何処かで殺害した後、放り捨ててしまえばこの不可解な遺体の出来上がりではあるが。
「しかし、その2人の最期を目撃した者がいらっしゃるそうで。不思議なお話でしょう?」
突如、横から声を掛けられた2人は、反射的にそちらに顔を向ける。
そして、傍らに立つ人物の姿を認めた瞬間、マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子は、間の抜けた阿呆の様な面で、驚嘆の声を漏らした。
「えっ?」
「なっ…」
何故ならば、座席に腰掛けている二人の目の前に現われたのは、二人がよく知る人物と瓜二つだったからだ。
中華風だが、行き過ぎた少女趣味の様にフリルの沢山付いたドレスには、太極拳と思わしき図形が編み込まれている。
ナイトキャップの様な帽子には赤いリボンに、長髪なのだろう、金色の髪を詰めてある様だ。
正直、理解しがたい風変わりな服装をしている女性だが、その点を除けば容姿や雰囲気はマエリベリー・ハーンそっくりである。
「同席してもよろしいかしら?」
余りにもマエリベリー・ハーンに似通った女性が現れた事で、二人はポカンと口を開けたままその女性を眺めていたが、その女性から発せられた一言で、2人は我に返った。
「えっ、あっ、は、はい、どうぞどうぞ」
慌てて宇佐見蓮子が席を詰めるも、女性は「ありがとう」と柔らかく微笑んでわざわざマエリベリー・ハーンの隣に腰掛けた。
ふわりと女性の金色の髪がなびき、二人のマエリベリー・ハーンが宇佐見蓮子の目の前に座っている。
その様子は、奇怪と言う他ない。
「お二人は、東京に旅行へ?」
何の脈絡も無い女性の問い掛けに、宇佐見蓮子は一瞬言葉を詰まらせたが、質問に答えた…いや、答えようとした所で、また言葉を詰まらせた。
何故なら、マエリベリー・ハーンの異常に、宇佐見蓮子は今更ながらに気が付いたからだ。
額には汗を流し、細く華奢な彼女の体は小刻みに震えている。
マエリベリー・ハーンは不思議な雰囲気を漂わせる女性を、目を見開いてジッと睨み付けているが、その瞳には形容し難い恐怖の色が伺える。
まるで、この世成らざる怪物を見てしまったかの様に。
「…メリー?」
恐る恐るといった風の宇佐見蓮子からの呼び掛けに、マエリベリー・ハーンはハッとする。
気が付けば、紫色の眼をした女性が不気味な程の笑顔で、此方を見つめ返していた。
「私の顔に、何か?」
女性は表情こそ穏やかだが、その裏には底知れぬ何かが蠢いている。
マエリベリー・ハーンはそそくさと女性から視線を逸らし、曖昧な返事を返した。
「い、いえ…何でも…」
「そう。ならいいの」
女性はニッコリとマエリベリー・ハーンに微笑み掛け、宇佐見蓮子の方に向き直る。
その動作の一つ一つの、まるで掴み所の無い雲の様な緩やかな流れは、目の前に存在する女性は幻ではないかと錯角させる程だ。
さりげなく、宇佐見蓮子は帽子を深く被り直す。
「ところで」
女性が、またも滑らかな唇を滑らせて鈴を鳴らす。
重々しい沈黙を保つ二人の鼓膜には、その鈴の声音が恐ろしい化け物の唸り声に聞こえてしまったが。
「お二人は『神隠し』を信じますか?」
女性の質問に、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンは顔を見合わせる。
何故かは分からないが、その質問には答えてはいけない気がしたからだ。
暫し紫色と茶色の瞳が重なり、お互いの瞳の中には怯え切った少女の姿が映っていた。
「その前に、1つ…良いかしら?」
戦々恐々としながらも、宇佐見蓮子はマエリベリー・ハーンに似た女性を真っ向から見つめ、問い掛ける。
その女性は不思議と満足そうに、しかし胡散臭い笑みを浮かべて宇佐見蓮子を見返した。
「何かしら?」
「貴女は…誰なの?」
--静かに揺れる電車の音が、急に騒々しくなった様な気がする。
小窓の外を流れる景色はいつの間にか消え失せ、無数の目玉にねめ付けられている様な、不快な視線を感じる。
目の前の女性の笑顔は、相も変わらず仮面を張り付けた様な、気持ちの悪いものだ。
ふと、宇佐見蓮子は自分が現実感を喪失しつつある事に気が付いた。
例えるならば、夢の中で夢を見ていると気が付くような、非現実と認識しながらもそれを当然だと受け入れてしまう、不可思議極まりない感覚。
そこまで思考が達した時、宇佐見蓮子は言い様の無い恐怖に襲われた。
これ以上、目の前の浮世離れした女性と関わってはいけないと、無意識の内にマエリベリー・ハーンに手を伸ばし、席を立とうとした、その時だ。
女性の唇が、歪に開いた。
「私の名は、八雲紫」
その瞬間、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの視界が不気味にグニャリと歪む。
多種多様な絵の具を悪戯に混ぜた様に何もかもが一点に集中し、吐き気が込み上げる程の気味の悪い景色が、2人の視界を食い潰した。
もはや自分が立っているのか浮いているのかの判別すら出来ない感覚に襲われながらも、マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子はお互いへ手を伸ばし、しっかりとその手を握る。
固く固く、彼女の手を繫いでおかなければ、何処かへ消え去ってしまいそうだったからだ。
その手から伝わる温もりに安堵しつつも、宇佐見蓮子は気の毒な程に体を震わせるマエリベリー・ハーンの体を引き寄せ、力一杯抱きしめる。
この異常事態を引き起こしたのは、あの八雲紫と名乗った女性である事は明らかだった。
せめてもの抵抗だと、宇佐見蓮子は仇敵とばかりに、八雲紫を厳しい表情で睨み付ける。
しかし、八雲紫は現実から切り離された異空間の中で、蓮子に涼しい表情で微笑みを向けていた。
「神隠しの主犯にして、境目に潜む妖怪ですわ」
「よ、妖怪・・・ッ!?」
宇佐見蓮子は、驚愕の表情で八雲紫の言葉を再度繰り返す。
その言葉に、八雲紫は「その通り」と深く頷きながら何処からか扇子を取り出すと、ソレを口元に当てながら静かに語り始めた。
「ご安心を。取って喰うつもりはありませんから」
警戒心を解こうと試みたのか、それとも単に彼女の常套句なのか、八雲紫はクスクスと小さく笑いながら宇佐見蓮子と傍らのマエリベリー・ハーンに視線を向ける。
一瞬、透き通るような紫色の瞳を持つ、二人の目が合う。
マエリベリー・ハーンは、かろうじて繫ぎ止めている意識の中で、彼女の瞳から自分に近しいモノを感じた。
だが、それが何なのか理解する前に八雲紫は視線を逸らしてしまう。
「今回、貴方達の前に私が姿を現した理由。それは、たった一言を伝える為」
「・・何よ」
ぐるぐると目まぐるしく変わり続ける安定しない世界の中で、宇佐見蓮子は厳しい口調でそう言った。
八雲紫は静かに目を伏せると宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの2人に、口調こそ淡々としているが、叩きつける様に言う。
「結界暴きを、二度としてはなりません。私達の為にも。貴方達の為にも」
それは何処か、懇願する様でもあった。
大きな失敗を経験した者が、二度と自分と同じ存在を生み出さない為の忠告の様に、宇佐見連子は聞こえた。
だがしかし、突然現れたかと思えば自分は妖怪だと名乗り、非現実極まりない空間に連れてこられて「二度とするな」と忠告されようとも、宇佐見蓮子も「分かりました」などと答えるつもりは毛頭ない。
秘封倶楽部の、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの「夢」を叶える為の結界暴きなのだ。
例え相手が神だろうと妖怪だろうと、宇佐見蓮子は従うつもりなどこれっぽっちもない。
宇佐見蓮子はマエリベリー・ハーンを強く抱きしめると、人差し指を八雲紫に勢い良く突き付け、言い放つ。
「悪いけれど、絶対にお断りよ。私達は、必ずメリーと2人で『向こうの世界』に行くんだから!」
「蓮子・・」
宇佐見蓮子の揺るがない決意に、八雲紫はすうっと目を細め、やがて諦めの小さなため息を吐いた。
その端麗な美貌は、失望したように暗く陰っていた。
「・・そう。貴方達もなのね」
誰に向けての言葉なのか、八雲紫は独り言のように呟くと、くるりと2人に背を向けた。
もう語る事は無いと言う様に、その後姿からは憂愁さえ漂っている。
八雲紫は2人に背を向けたまま、パチンと指を鳴らした。
「「ッ!?」」
その瞬間、グニャグニャと蠢いていた周囲の景色が急速に引いていき、代わって無数の目玉が世界を覆っていく。
それは何もかもを飲み込んでいき、秘封倶楽部の2人も例外ではなかった。
「め、メリー!」
「蓮子っ・・!」
ずぶずぶと体を飲み込んでいく不気味な目玉の空間が、少しずつ視界を、意識を奪っていく。
それでも2人は、決して離れ離れになる事の無い様に、お互いの手を強く握り締めた。
奇怪な空間が全身を飲み込まんとする所で、2人の耳に八雲紫の声が届く。
その声は、酷く悲しそうで。
「一度だけ、チャンスを与えます。貴方達の求めるモノなど何処にも無いと、気が付いてくれるといいのだけど」
視界が暗転し、意識が断ち切られるその瞬間。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンは、確かに八雲紫の声を聴いた。
「越えてしまってからでは、遅いのよ」
《境の界》
空は抜ける様な青空で、白雲の一つさえ見当たらない。
弾む様な陽気な日差しを全身に浴びられるオープンカフェで、秘封倶楽部の2人は贅沢にもその日差しの下で注文した飲み物を啜りながら、神妙な面持ちで時代遅れの携帯端末に視線を落としていた。
「ねえ蓮子、これって・・」
「ええ、あの人・・私達を助けてくれたみたい」
2人が注目している携帯端末には、画面いっぱいに『卯酉新幹線ヒロシゲ』が原因不明の事故を起こしたという旨のニュースが書かれている。
ご丁寧に、本来ならば宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンが乗っていた時間に起きたという、知りたいような知りたくないような複雑な心境の事実まで添えて。
宇佐見蓮子は冷たいコーヒーを啜って喉を潤しながら、携帯端末の画面を閉じる。
待ち受け画面には秘封倶楽部の写真と共に、何故か東京旅行を決行した「翌日」の日付が映し出されている。
宇佐見蓮子は、未だに信じられないと言う様に狐につままれた様な顔でマエリベリー・ハーンに言う。
「しっかし、あの人は結局何が言いたかったのかしら。プチタイムスリップ経験に、助けてくれたのは感謝するけど。結界暴きで、あの人が不利益を被るから?いやでも、お互いの為って言ってたし・・う~ん」
洒落たテーブルに肘を突きながら、宇佐見蓮子は難問だらけのテスト用紙を前にした様にうんうん唸る。
そんな彼女に対し、マエリベリー・ハーンは甘ったるいカフェオレの入ったカップをストローでかき混ぜながら、からかう調子で言う。
「あら、私はなんとなく分かったけれど。蓮子ちゃんには難しいようね?」
「悪かったわね。私は容姿端麗、頭脳明晰なメリーさんとは違うのよ」
本気で気を悪くしたわけではないのだろう、宇佐見蓮子は口を尖らせながらも軽い口調でそう言った。
無論、それはマエリベリー・ハーンも分かっている。
普段通りの秘封倶楽部の日常が、そこにはあった。
「ま、あの人には色々言われたけどさ、私はサークル活動やめるつもりなんてないし。メリーもそうでしょ?」
宇佐見蓮子に同意を求められたマエリベリー・ハーンだが、彼女は「言うまでも無い」と言う様に柔らかく微笑んで、宇佐見蓮子の茶色の瞳を見つめながら言う。
「当然よ。秘封倶楽部からサークル活動を取ったら、ただのオカルトサークルだもの」
宇佐見蓮子と、マエリベリー・ハーンはお互いに笑顔を浮かべる。
そこには確かな信頼と絆で結ばれた、奇妙なオカルトサークルの少女達が居た。
宇佐見蓮子はコーヒーカップに残ったコーヒーを一気に飲み込むと、マエリベリー・ハーンの手を引いて立ち上がる。
「そうと分かれば、さっそく活動開始よ、メリー!」
「はあ・・仕方ないわねぇ、蓮子」
ぐいぐいと元気に手を引っ張る宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーンは静かに微笑む。
そして、彼女の手から伝わる温もりをしっかりと受け取りながら、マエリベリー・ハーンは静かに独白した。
「そう・・貴方に『また』逢えたんだもの。最期まで一緒よ、蓮子」
まだ日は高く、空は何処までも広がる青色を見せている。
マエリベリー・ハーンは、宇佐見蓮子と共に歩む未来を青いキャンバスに思い描き、人知れず妖しく微笑んだ――
終。
コメント、ありがとうございます。
そうですね、解釈は皆様にお任せしていますが・・少なくとも、越えてしまった者は居る、とだけ。
もっと点数入ってもいい思うんだけどなぁ。