螺旋階段の下から漂ってくるのは、言うなれば、風化の臭いであった。
薄暗いし、かび臭い。空気が淀んでいる。だがそれ以上に、風化を感じるのだ。もうこの建物が出来てどれほど経っているのか知れなかった。こうも匂ってくるでは相当なものだろうと思う。またどれほど放置されているのかも知れない。
階段を降りきると本棚が並んでいる。昔々の、新鮮味などとうに失われてしまった書庫群。風化の正体はこれだ。品質は保たれている筈なのに、染み出る臭いは鼻をつく。
果てしなく続く本棚の隙間、向こう側にぼんやりと明かりが見える。幾分の懐かしさを覚えながら足を向けた。最後に会ってから、もう随分と顔を見せていない。
「やあ、久しぶりじゃないか。元気してたか?」
少し大きな机と明かり、背を向ける人物に努めて明るく声をかけた。書庫の主が顔を向ける。見た目があまり変わっていない事にまた、口の端が持ち上がった。
「あら本当に珍しい顔。今までほったらかしにして、一体何処でなにをやっていたのかしら。私なんてもう出かける所だったのよ? ここを離れて、どこか知らない場所へ。そうしたら幾らあなたでも見付けるのは困難だったでしょうね」
「その頃を見計らってやって来たのさ。私のこの眼は、全てを視通すからね。一番面倒のないタイミングで、ちょちょっと」
「勝手に言ってなさい」
彼女が苦笑を浮かべる。私の言葉が、半分以上は偽りでない事を知っているのだ。彼女が腰を上げ、奥から小包を持ち出してくる。背負うにも提げるにも不格好な大きさの包み。机の上に置かれる。
「本当は昨日出発する予定だったのよ。準備だって万端で。でもね、何でしょう。勘かしらね。覚えたての占いは今日を示していた。ほんの手慰み程度のものだったのに、そしたら貴女が来たわ」
「良い判断だ。中々様になっている。なら、私が来た理由も分かっているんじゃないか?」
「さあ、ね。路銀でも恵んでくれるのかしら。私の出立のお祝いに」
「阿呆ぬかせ。……それで。次、どこ行くんだ。ナリを見るに一人前にはなったようだけど」
「街から街への根無し草……も悪くないと思ったけど、まずは東かしらね。これ以上西に行っても意味は無いと思うし、少し見たいものもあるの」
「東か。東は、広いぞ」
「そうね。でももうここに居ても始まらないから。行くだけ行ってみるわ」
「そうかい、なら――」
――
――
古代図書館、という駅がある。勿論駅自体が図書館になっているわけではないが、敷地としてはすぐ傍の、いわゆる何々前とそういった意味の駅名で、専らアクセス的には同じよう扱われる。欧州のとある地方に建てられた、古式ゆかしい駅である。
降りると乗客はまず、窓が無いことに気付く。そう広くもない駅である。なのに降りて周りを見渡すとすぐ壁が見える。それまでの開放的な車窓を思うとどうにも窮屈な感じが残るものだが、実はこれは細工である。敢えて情報を遮断しているのだ。事実駅に入る少し前からトンネルや木々などで視界が遮られ、確かに窓の外を見てはいるのだがその実殆ど情報は入らないようになる。
そして多少首を傾げながら駅の外に出たとき、乗客は一様に声を上げるのだった。
眼前に広くそびえる、巨大な建築物に。
「ここが古代図書館――」
連れ立った旅行者の一人が呟いた。駅を出た所から脚が動いていない。どの時代をモチーフにしたものであろう、威圧する外観、贅を凝らした豪壮な道。半ば呑まれている形だ。実際周りにも、同じ観光客なのだろうが、呆然としている者がちらほらと見受けられる。
「蓮子、ちょっと、早くしてよ。恥ずかしいよ」
相方が袖を引っ張る。それにつられるようにして、蓮子と呼ばれた少女も歩き出した。
秘封倶楽部の二人が主に活動場所としているのは日本だが、この古代図書館、前述の通り欧州のものである。それも割と端の、東欧と中東の中間辺りの、おおよそ旧イスタンブールの周辺であると思ってもらいたい。
何故二人が普段の活動圏である日本を離れこんな遠くまで来ているのか。理由はあるが、割愛する。長くなりすぎる。所謂倶楽部活動の一環だと思ってくれれば良い。彼女達は怪事フリークスであるからして、大抵それで説明は付くのだ。あるいはただの旅行だ。たまには広く海外に足を運ぶのもそれは学生、夢の一つであるだろう。
道は、少なくとも短くはないようであった。距離感が掴みにくいのは、例えば道脇に建てられた謎の柱だとか、周囲に散在する生垣だとかが影響しているのだろうか。すぐさま、蓮子がカメラのシャッターを切った。右に一枚左に一枚、後ろから歩く人を避けつつ相方に一枚。正面図、そびえ立ち、紋章をかたどった正門に今度は二枚。
写真に気を取られているあいだ、いつの間にか道の先に着いていたらしい。門は広く開け放たれている。くぐり、入り口。おそらく一貫したテーマがあるのだろう建物の外観は、見上げるほどに大きかった。目測にして五、あるいは六層程度はあるだろう。
当然のように、図書館の中もやはり、外面でパッと見ただけでも分かるほどに広かった。受付、いや案内所が少しばかり奥へ行ったところに見える。入口からほど遠い場所である。ただ入口は入り口で壁に案内板が取り付けてあり、それで十分に用を足すことが出来る。二人は食い入るように壁を見つめた。そしてため息を吐いた。
「うーん、想像以上に、動きに迷うわねこれ……」
「一応実用性も考えて造られてるのがにくいわね。流石、国家主導は話が違う」
二人で頭を抱えつつ入り口近くをうろつく。周りにも、やはりそんな人間がちらほらと散見される。膨大な蔵書と膨大な来客、それを効率的に収めるにはどうしても単純さを犠牲にせざるを得なかったのだろう。蓮子が手近の棚からパンフレットを抜き取った。
パンフレット頼りにとりあえず足を進める。中央には行き来のための螺旋階段とエレベータがある。最初は一階から回ろうとしたが、後々疲れそうなので最上階から回る事にした。五階である。一フロアが大きいので、全五階層でも相当に時間がかかる。
本棚の中には、全体的に革張りの装丁が目に付いた。どれもそれなりの厚さがあり、手にとってみると紙の重みが感じられる。必要な握力、腕の力。それがどうにも日常離れしていて、蓮子は何やら不思議な感慨を覚えた。
勿論、というのも何だが、全て雰囲気を出すための代物である。このご時世、代替手段は幾らでもある。ここの本は、ある事にこそ価値がある類のものだ。
欧州の図書を一手に集める空間に二人は居た。古代図書館とはその意味で付けられた名だった。偉大なる古代の英知を保存する場所。オリジナル。
集められた古代資産は、地下の、誰が入れるとも知れぬ機密室に厳重に保管されている。そこから幾つかのレプリカを作り出し上層に置く。図書館として不必要なほど外観が整備されているのもこのためであった。この建物、古代図書館は空間を提供する。欧州観光地ランキング堂々の二位は伊達じゃない。
ちなみに、少し離れた別館は製本博物館となっている。
五階に上がると、ここは図鑑の層なようで、古いものから新しいものまで各種の図鑑が取り揃えてある。勿論表紙は革である。
蓮子が一つ抜き取って、ぱらぱらとめくってみた。挿絵にも時代を感じる……と思いきや、すぐ傍には解説書のコーナーがあった。勿論そちらも革装丁なのだが、中身は幾分、現代に近付いたものであった。
蓮子が棚の一つ一つを半ば感心の眼差しで眺めている間、メリーは何処かふらりと行ってしまっていた。次の場所へ移るからと蓮子が探し始めた所で、
「蓮子、ちょっと」
メリーは後ろから、蓮子の腰を小突いてきた。
「な、なによいきなり」
メリーは答えない。口ごもりつつちらりと蓮子の方を見る。その意図をはかりかねて首をかしげ、ようやく一つ思い当たる事がある。
「えっ。……なに、結界? ここ結構新しいけど、そんな所にもあるの?」
それは確かに蓮子達が生まれる前からあるとはいえ、それでも五十年に満たない筈である。メリーが顔を近づけ、心なしか小さい声で話す。
「うん、割と。一人で視るのもあれだからまだ触ってないけど、そこら中にあるわ」
辺りを見回す。早速一つ見つけたようで、その方向に近付く。本棚だった。本棚の、中ほどをメリーは注視している。
「これとか……」
本の一つに手を触れる。光のすじが揺らめいて、おぼろげな光景を形作る。
それはメリーにだけ視えている。すじの向こう、重なった視界の先には二人の男が居た。ローブを身に纏い、薄暗い部屋の中、机に対面して座っている。
眼を凝らす。よく視えない。明かりに乏しいその室内では二人が何をしているのか。話しているのかどうかさえ、分からなかった。
男達は微動だにしない。二人とも。部屋の外が騒がしい、気がした。
「ひっ」
メリーが後ずさった。蓮子が近寄る。
「どうしたの? この本?」
「あっ、待って、触らないで。その方がいい」
――
男が二人、座っている。机をはさみ、対面する形で。部屋は薄暗い。明かりが点されていないのだ。扉に付いた覗き窓から、かすかに外の光が入り込むのみで、後は何も。
部屋にはいくつかの書物と、研究道具。大掛かりな物ではない。特に使用された形跡も無いことから、あまり重要ではないのだろう。
男は動かない。ただ座っている。じきに、遠くで喧騒が聞こえてきた。それは徐々に近くなっていく。
その内の一つが先走ってこちらに近付いてきた。近く、近く。いきなり大きく扉が開け放たれ、慌てた様子で誰かが入ってきた。
「導師! 導師、ご無事で!」
男の下に駆け寄る。明かりを点そうとした時、二人の男は、そのまま椅子から崩れ落ちた。
――
メリーの制止に、すかさず蓮子が万年筆を取り出した。それと手帳。手馴れていて、素早い。
「なにか、視えた?」
「うん、どこか、場所みたいなのが視えた。あと人」
「他には?」
メリーが言いよどむ。蓮子の眼の色が変わった。
「当ててみせましょうか。ズバリ、変な物を見た。怖いものとか、気持ちの悪いもの。でもメリー自身には影響しない。すると……向こうで何かあったわね。悪い所だと誰か死んだとか。今言ってた人?」
そのものを言い当てられた。絶句したメリーを見て、蓮子は満足そうに微笑んでいる。
「そりゃ、あんな反応したらねえ。大丈夫、言いにくい所は適当に補完かけておくから、どんどん話して?」
「うん……。ただ、あまり分からなかったのよ。薄暗かったし、特に動きも無くて。気付いたら二人倒れてたわ」
それでも構わないと蓮子は言った。伝えられた詳細は、やはり少ない。ただ、思うに、あの壁は石造りではないかとメリーは言った。記憶にあるそれと質感が似ていたのだ。
それ以上は何とも言えない。死んだ人間は、ただ死んだとだけ伝えた。倒れただけで、実は死んでいないのかもしれない。そうとも言った。
時折相槌をはさみながら、蓮子がそれを書き加えていく。
「それ、さ」
書き終え、蓮子が顔を上げる。
「他でも視れるんじゃないの?」
触れれば視える奇妙な結界。先ほどメリーは複数の存在をほのめかした。同じものが視えるか他の何かが視えるか。続きか、過去か、別世界か。期待値は高い。
すぐにメリーが周囲を見回した。こういった時の判断はさすがに早い。一周を待たずして見つけたと言った。遠く、机を挟んだ向こう岸。メリーが指差す。書架の上の方。蓮子が目を凝らすも、それは細かな本の集合体にしか見えない。
だが、メリーの瞳には、その中心、背表紙に沿う形で確かに結界が映っていた。
――
いきなり、宙から逆さまに落下してくる形で、それは現れた。
机の上に、本が数段重ねて置いてある。周りには本棚が幾つも並べられており、そこから取って来たのだろう。光量は少ない。机の上に蝋燭が、数本。
狭いような、広いような。天井は高い。だがそこかしこにある本棚の圧迫感もあり、決して広々とした印象をその空間は与えなかった。
その空間には主が居た。正確には、居るように見えた。机の前の、未だ幼さの残る少女。淡白な表情は、その内向的であろう事を感じさせる。少女は少々ばかり上等に見える椅子に腰掛け、その本の小山の間で、読書に耽っていた。
そこに突然、落ちてきたのだ。
人、ではない。人は空から降ってこない。逆さのまま目の前に浮かんでいるそれを少女はじっと眺めている。
身体的な特徴は人と良く似ていた。手があり脚があり、その位置や形を列挙すれば限りなく人間に近い物が出来上がるだろう。それも小さな子供のものだ。可愛らしい小さな女の子が、部屋の主の前に浮かんでいる。ただ、いかんせん。
人と決定的に違う特徴。幾らかある。たとえば、背中に翼が生えている事とか。コウモリのそれを模した物だろうか、それが小さな身体と不釣合いなほど大きく、身体を二つ合わせたよりも尚大きく、その存在を際立たせている。
もっと近付けば、おそらく眼が挙げられるのだろう。獰猛な光をたたえた獣の眼。それに比べれば、背中に付いた翼など些細な事なのだ。その視線は人の出せるものではない。少女はいまだ年若かったが、それは本能的な部分で察した筈だ。
つまり、総じて人ではない。
「あなた、悪魔?」
少女は物怖じせず問いかける。このような超自然的存在にここまで接近を許し、今更恐れ慌てふためいた所で確かにどうしようもないのだが、それでもこの行動を取れる所、少女もまた、ただの人の身ではないのかもしれなかった。
「そうだよお嬢さん。お前ごとき指の一つで粉にできる、こわい悪魔だ。畏れろ、敬えよ?」
それは口の端を持ち上げ、鋭く尖った牙を誇示する。ますます、人ではない。だが少女はそれにも臆する事はなかった。
「それにしては随分可愛らしい姿をしているけど」
「人を、いや魔物を見た目で判断しちゃいけないよ。君も魔女の端くれなら、それくらい弁えたらどうだ」
言葉を反芻するようにその可愛らしい悪魔は目を閉じ、喉の底からくぐもった笑みを漏らした。
「……私を、知っているの」
「お噂はかねがね。齢十四にして天才と謳われた、人間? だそうじゃあないか。尤も人間には見えないがね。誰に謳われたのか。誰に謳われたんだい? 近頃はとんと同族も見なくなったが――」
反転し、悪魔が隣へと降り立った。眺める視線が突き刺さる。ため息をつきながら少女が話に付き合う。
「自称よ」
「自称か。それは良い。あんな凡俗どもに何を認められた所で、価値は無いからな」
そう言って悪魔が大笑する。
「お前、名前は何て言うんだよ?」
「教えると思って? 悪魔さん。それに、そこまで分かってるなら調べられるでしょう」
「お前の口から聞く事に意味があるんだ。だが、そうだな、でも呼び名が無いと困るだろう?」
「あら、私にはそれほど長く付き合うつもりは無いんだけど」
「こっちにはあるんだよ。ほれ、なんか言え」
悪魔が促す。少女は嫌そうに顔をしかめた後、少し間をおいてこう言った。
「なら、ノーレッジとでも呼んで頂戴」
「それって天才だから?」
「そ、天才だから」
ついに、悪魔が大口を開けて笑い出した。吸い込まれた空気が、変な音を立てて口から漏れる。仰け反って、後ろに倒れるような勢いで。それを、冷ややかな様子で少女は見ていた。
「中々楽しい奴じゃないかお前。おっと私の紹介がまだだった。私の名は、そうだな、レミィとでも呼んでくれ。勿論偽名だが、まあ、愛称のようなものと捉えてもらって良い。今回は顔見せ程度のつもりだったんだがね、くく、また来るよ」
悪魔が少し後ろへ飛んだ。ほんの少し。見る間に身長を越えるほど広がった翼が鈍く風を切り、一度後ろ向きに回転すると、そのまま垂直に飛び立って去っていった。
少女は再び本を開く。すぐに、静寂が戻ってきた。本を捲る音。何事も無かったかのように、空間はその姿を取り戻した。
――
映像が終わったあとも、メリーは目を閉じ続けていた。
蓮子の荒い鼻息と、筆を走らせる音が聞こえてくる。目が覚めて、すぐに手を動かしたのだ。メリーはそんな事はしない。余韻に浸っている。
情景が浮かんでくる。あれは、図書館だろうか。ここと同じく。本の大量にある光景。そうだ、あれだけの本が並べられる場所は、書庫か、あるいはそれに通ずる物しかないだろう。
今居るこの図書館も、そういった場所だった。読むために、机が置かれている。椅子も置かれている。それだけで、後は全て本で埋められていた。
そうだよな、と確認するために首を向けると、目の前に興奮で染まった蓮子の顔が現れた。
「うわっ」
「はい、メリー。さあ、メリー。さあ!」
蓮子が何やら分からぬ事をまくし立てる。袖を引っ張り、相方を立たせようとする。伸ばされては敵わないと、メリーがそのまま蓮子の腕を掴む。
「お、落ち着いてよ蓮子」
「いやいや、これが落ち着いてられますかってんだ。直に悪魔だの魔女だのの単語が飛び出してるのよ!? これは、私達に活動せよとの図書館の」
「いいから落ち着いて。図書館なんだから静かにして」
メリーが勘弁してくれといった風に押し留める。蓮子の声のトーンは、それは大きかった。既に周りからは幾つか視線が注がれている。蓮子は少し静止すると恥ずかしいやら何やら微妙な表情を作り、そのまま席に戻った。
軽く、咳払い。
「ええ、とにかく、これは活動するべきですね。テンション上がりますね、と」
「そんなの、最初から活動するつもりでこっち来たんでしょ? 日々これ活動なりなんて、蓮子が言ってたんじゃない」
「お、おう」
歯切れが悪い。それは確かに蓮子が言った言葉だ。洒落で作った倶楽部規則の、たしか三条あたりにあった。勿論ノリノリで作ったのは蓮子で、メリーも、三割くらいは関わっている。
だが実の所蓮子も、相方がそこまで律儀に守っているとは思わなかったのだ。何せ作ったのは自分だし。だから変な声が出た。それを聞いてメリーが嘆息する。
「はあ、いつもそうなんだから。そうやって私は振り回されていくのね」
「いや、もちろん! 私だってちゃんとやってるよ!?」
「いいわよ、もう。ほらあそこ」
言ってメリーが指差す。前方二十メートル、右列上から二段目。探せば、中々早く見つかるものだ。
「新しいのよ。とっとと視ちゃいましょう」
――
奇妙な部屋であった。室内である。廊下でも、屋外でもない。長方形の、およそ十数人は入れるだろう部屋に、幾つかの人影とその何割を占める長机。上には大小の実験具が無造作ながらもどこか整然と置かれている。また実験具というだけでも何やら怪しげな香りを漂わせているというのに、部屋の隅には方陣等々描かれた紙が箱に詰め込まれているのだ。そのどれも、縮尺が微妙に大きい。
配置も奇妙であった。唯一の特徴であろう長机は部屋の端にやられ、入り口と、奥にある扉との間に大きな隙間が作ってある。まるで何かを通すように。扉も、それぞれ通常の二倍程度は大きかった。
そう、通すのだ。奥の扉の中を窺い知ることはできない。だが、絶えず、その向こうからは得体の知れぬ唸り声が鳴り響いている。扉から扉へ。入ってくるのだ、その扉の向こうから。
異音をものともせず人影は動き続ける。例によって、中に居る人物は皆目深にフードを被っていた。誰も顔も、表情も窺い知る事はできない。個などは、まるで必要ないとでも言いたげに。
「導師、採集隊が戻りました」
声のしない方の扉が開いた。外から一人入ってくる。やはり、フードだ。声の調子から男性だと分かる。年齢までは定かではないが、そう若くもないだろう。導師と呼ばれた人物が中央の椅子から大儀そうに腰を上げた。
「獲物はどうだった」
「小物が一匹。今回はあまり捕れなかったようです。そろそろ数も減ってきているようで――」
「まあいい、回せ。足りなければこちらで補強する」
「分かりました」
獲物、である。
伝えに来た男が返事を残し、部屋を出て行く。その間も、唸り声は、防音加工等してあるのだろう幾らか軽減されてはいるが、響き渡っている。
採集された獲物が来るのも待たず。導師は部屋を回り何事か指示を与えると、奥の部屋へと向かった。研究は滞りなく進んでいるようで、フード達の動きは活発である。
扉を開けると、一層声が大きくなった。鳴り続ける唸り声は、少なくとも、草食動物や、家畜のそれではない。
猛獣のそれは……尤も、ある程度の体格を越えると必然声は低くなる。鳴くだけならば猛獣である必要は無いのだろうが……いや、しかしそれは猛獣なのであった。分けるのは本能に刻まれた、何か。自らの肉体で獲物を喰らう。攻撃性を持つ獣でなければこの声は出せないだろう。
入り口が開き、檻が入ってくる。なるほど、小さい。檻の中の獲物は、よくて人間の腰くらいしかない。弱ったか眠ったか、抵抗は見せなかった。
檻が部屋を駆け抜ける。獲物は、犬に似ていた。黒い犬。四足で、尻尾があって、毛深い。ならば犬だろう。羊も条件に合致するが、これは犬だ。
そう、目が三つあり、開いた口の中が全く濃い黄色に染まっている以外は、犬であった。
檻は奥の部屋へと消える。それとほぼ同じくして鐘が鳴った。重い鐘の音が。気付いた一人が奥の部屋に入ろうとするも止められる。止めた一人が首を振る。そして二人、各々の作業へと戻っていく。
異音が、扉の中から聞こえてきた。
――
「ノーレッジ、お前はまだ、この図書館に入り浸っているのだね」
コウモリが囁いた。一匹のコウモリが。どこからともなく飛来して、少女の周りを旋回する。そして数を二つ四つと増やしていく。
見る間に、それはおびただしい量となって空間を埋め尽くした。風きり音がこだまする。静寂を旨とする筈の図書館が、騒音に包まれる。
包まれたものは当然少女も例外ではない。いつもの通り椅子に座っていたのが、すぐに見えなくなってしまった。コウモリはいつまでもわらわらと少女を覆っている。
ついにたまりかねたか、少女が読んでいた本ごと思い切り腕を振り回した。腕は空を切り、コウモリは瞬く間に霧消し。少女の傍ら、悪魔が姿を現していた。
「……あらレミィさん、こんにちは」
「レミィは愛称だ。さんなんて付けるな、むず痒い」
振りぬいた姿勢のまま、少女がもう一度悪魔を狙う。それを難なくかわして、悪魔は反対側へと降り立った。忌々しげに少女は椅子へ戻る。
悪魔はふてぶてしい笑みを崩さない。
「つれないね。つれない態度だ。折角私自ら出向いているというのに。まあ実のところ用と呼べるものも無いんだが、そこは運命の導きかな。ノーレッジ、君に会いに行けと、運命の」
「まあ、まるで口説き文句。他の誰かに言ってあげたら」
意にも介せず少女がそっぽを向く。態度はますます硬化して取りつく島を見せない。悪魔が少女の持つ本に目をやる。
「前とは違う本を読んでいるね」
「当たり前よ。一つの本に一月もかける愚か者は居ない」
「つまり解読は済んでいるわけだ。偉いものじゃないか」
目を合わせず顔も合わせず、あらぬ方向を向いていた少女がぴくりと動いた。少し顔を向ける。悪魔の表情は、いまいち読みにくい。
「お前は生まれ付いての魔女だ。だが正規の教育を受けてないな。他と違う力、慢心しなかった事は褒めてやって良い」
「それはどうも。何、あなたは私に説教をしに来たの?」
「そんなご大層なものじゃないさ。私はただ、そうだな、見物に来ただけだ。遊びに来たといった方が正しいかな。口を出すのもその一環だよ」
そしてそう、と区切り、
「私と契約しないか、ノーレッジ」
「最近の悪魔は押し売りに来るようになったの? 世も末ね」
「押し売りするのが悪魔の常さ。誘惑されるのが術者の常だ。まあ、私が勝手に押しかけてるだけなんだが。でも私も、中々高位な方だぞ。もっとありがたがってくれて構わないんだけどな」
「まさにありがた迷惑ね。お断りよ。私は魔女だけど、悪魔崇拝者ではないもの」
「力を貸してやって良い、と言っても?」
「それでも、よ。頼むとして、精々役に立ちそうな本でも探してもらうくらいかしらね。私の道に、あなたの力は借りない」
「本の力は借りるのに」
「違うわ。本は意思を表層に出さないもの。明確な違いよ。なんなら紙に書いて渡しましょうか? はじめてのおつかい、お似合いだわ。……それにあなた」
少女の瞳が悪魔を捉える。その身体を。幼い身体と、コウモリ状の翼。
「本当は違うでしょう」
一瞬、空気が張り詰めた。暫しの沈黙が場を包む。舐めるように確認した末の、その言葉の響きはとても冷たい。先に折れたのは、コウモリの方だった。舌打ちを残し、翼をはばたかせ本の間に消える。
「お気をつけて。……機嫌、悪くさせちゃったかしらね」
そしてコウモリは姿を現さなかった。本棚の闇に眼を通し、少し気にするそぶりを見せた後、少女は椅子に深く座りなおした。
――
全体的に、明かりが少ない。この建物の光景は、いつも薄暗いものだ。明かりを取る必要が無いのか、はたまた点ける技術が無いのか。
前者、なのだろう。人が居る。それも数人。少々の装飾が施された卓を囲み、誰一人言葉を発する事は無く無言でいる。その出で立ちは、やはりローブと、そしてフード。
ただ、一般のローブとは少し造りが違うようだ。上等、に見える。薄暗いが、その程度の判別は出来た。よく見れば、胸元には飾りが。
少なくとも、この集団の中での位は高いようだった。おそらくは、導師と呼ばれていたそれ。
一人が口を開いた。
「……もはやこれまででしょう。これはあちらからの、いわば宣戦布告だ」
重い口調。表情は窺えないが、場には沈んだ空気が流れている。誰も口を開きたがらない。しばらくのち、ため息をついて、別の一人が発言した。
「それよりも悪い。わざわざあんな所まで入り込んで、誰も姿を見ていない。我々などいつでも殺せるという意思表示だよ」
場が暖まってきたからか、今度はもう少し早く、別の一人が言葉を発した。
「強硬派の暴走、という線は?」
「無いな。防護陣は破られた。何の犠牲も出さずにだ。これは準備無しではできんよ。我々の術法に奴らも追いついたのだ……と考えると感慨深くもあるが」
「控えろ、二人死んでいる」
「それは失礼」
「あちらは――」
声が若い。おそらくは一番の若年であろう者が口を挟む。
「まだ少し前の分裂も収まっていないと聞いていました。何故こうも手早く、迅速に……」
喋り方は落ち着いているが、焦りを隠しきれていない。
「内部で何処か纏め上げたのだろう。よくある事だ。それに、奴らが仕えているのは土地であって、人でも権力でもない。少々の分裂で動じはしないよ」
「そんな……」
「それで、どうするのです。逃げるか、戦うか」
その一言に、また座は静まり返ってしまった。沈痛な面持ち――尤も表情は見えないが、それを浮かべているのだろう。長机を囲んだ六人の導師が顔を見合わせた。
観念したように、また一人が口を開く。
「逃げる、しかありますまい。我々の目的は戦闘ではない。彼らを倒して得るものも無い。研究が続けられる途を選ぶべきです」
「私も同意見だ。というより、この座に居る者は皆同意見なのではないかね? 尻尾を巻いて、逃げ出したがっている」
「だが、ここを離れては我々とて立ち行かぬ。それも皆分かっている筈ではないか。そこを突かれれば一たまりも無いだろうし、それを見越して、今攻めてこないのだとも取れる。ならばまだここに留まっていた方が安全とも言えまいか」
「なら――」
場の紛糾。今まで黙っていた一人、奥座に座っていた一人が声を出した。全員の目がそちらへ向く。
「我々も誰かの庇護を受ければよい。取り入りましょう、彼らと同じく」
それはいい、と誰かが言った。
――
映像が終わった。二人がまぶたを開き、繋いでいた手を離す。媒介であるメリーは椅子に深く腰掛け、大きく息を吐いた。連続で視る行為はそれなりに負担がある。
本はこれで七冊目だった。棚の前で立ち往生する事も憚られ、適当な席を見繕って座っている。時間の感覚は曖昧だ。分単位で過ぎたのか、あるいは一時間も経ったか。時計を出すのも面倒だった。
蓮子は忘れないうちにと手帳を開いた。平行して電子媒体にもメモを複写している。手は忙しなく動いているが、不思議と絡まったり、滞ったりはしない。習練の賜物だ。元より、この類の作業が得意なのかもしれなかった。
「というかさ」
蓮子の両手は素早く動き続ける。
「実際、言葉分かるのね。何語話してるのか知らないけど」
この時代の翻訳機は優れているが、それでもあくまで入力を前提としている。感じた物を自動で翻訳できるほど都合のいいものではない。
「覗いた時点で何か変換されてる、リンクしてるのかな、私と」
「それは、また随分ね?」
ならばそれは、単純に視覚というだけでなく、もっと深い所で繋がっている事になる。覗いているのではなく視えているのだ。いつ起きたとも知れぬ出来事を、まるで自らの事のように感じて。
二人での感覚の同期ならば今までにもやっているが、無生物の、結界そのものとの同期は初めてのことだ。少々の仮説を生ませつつ情報を勘案する。
大切なことは二つある。まず、視た結界は消える。映像が流れ、目が覚める。するとまるで役目を終えたかのようにふっと無くなってしまうのだ。後には何の変哲もない本が一冊残る。
そして、これこそ大切なのであるが、蓮子はこの映像を過去のものだと見ていた。結界の向こうの異次元ではない、過去の、ある点に存在したものである。何故と言えば、それは感覚と答えるしかないのだが、一つに違和感の少なさが挙げられると思った。
異次元と見るには差異が少な過ぎる。服といい建物といいその挙動といい、あくまで地続きと思える文化様式をしている。
「少し、休憩にしましょう」
メリーが席を立つ。手早い動作で蓮子が筆記具をしまい、後に続く。
休憩室は、入り口の脇にある。窓際、他から一つテーブルを離し、蓮子が荷物を置いた。空は快晴、いい天気だ。日差しが庭の緑を照らす。
「何か、飲み物でも。蓮子は何にする?」
「コーヒー」
即答、である。蓮子は特段カフェイン中毒者という訳ではないが、それでも旅行先では殆どコーヒーを頼む。土地毎の味の違いを楽しみたい事もあるが、どんなに不味くなってもあくまでコーヒーではあるという酷く消極的な理由でもある。
メリーが取りに行っている間蓮子は再び手帳を取り出した。手帳にはおよそ普段の活動内容、章ごとのまとめ、それについての感想などが雑多に記されている。ぱらぱらと捲りながら、少し蓮子には気にかかる所があった。
メリーが両手に飲み物を抱え帰ってくる。
「はい、どうぞ」
「うん。さて、本題だけど」
受け取りつ、蓮子が切り出す。テーブルの上にはいつの間にか手帳が開かれ、ここだよと言わんばかりにページの中ほどを筆の柄で叩いている。
ぐえ、メリーが変な声を出した。心なしか体も後ろへ傾いている。
「まだするのお? ちょっと休憩しようよ」
「重大なんだってば。メリーさんはこの結界が何を媒介にしていると思われますか」
「ええ? そりゃあ、本でしょう。視た感じ、本の記憶とか」
答えるのも嫌そうに、メリーがカップの中身を啜った。紅茶だ。
確かに、視る際には本に表出した結界を用いている。視界が定点的なのも根拠に挙げられるだろう。見えはしないだろうが、きっと向かい合えば、その位置には本棚があるのだ。実際蓮子も、それには同意見だった。
そして同意見であるがゆえ。得たりと言わんばかりに蓮子が笑みを浮かべる。
「でもね、ここにある本、全部今世紀中に刷られたものなのよ」
貴重な紙媒体を、こんな表に置いておくわけが無いのだった。事実本棚に飾り手に取れる本は全てレプリカで、本物は地下の書庫に収められている。
何昔か前であればそれは重版と呼ばれたのだろうが、今はレプリカである。由来も出自もはっきりしているこの新参たちが、記憶している筈がなかった。メリーもその意味するところに気付いたようで、小さく声を上げる。
「えっ? あっ」
「なのにあの光景は、明らかに年代が違う。だから何処かに本物がある筈なのよ。あれを見た、オリジナルが。勿論何処にあるかは分からないけどね。もしかしたら結界の向こうかもしれないし」
メリーの傾きが、前へと戻ってきた。口の端を持ち上げ、蓮子もそちらによる。
「俄然興味出てきたでしょ」
メリーが頷く。ますます蓮子は笑みを深くする。そして勢いよくコーヒーを飲み干すと
「うっし、探すわよ!」
手早く手帳をしまい込み立ち上がった。あまりに勢いが付いて椅子が音を立てる。だがメリーは動かない。若干の苦笑を浮かべ相方の様を眺めている。
「盛り上がってる所悪いけど蓮子、私は動かないわよ。まだ疲れてる、休憩してたいもの」
「え、ええー?」
出鼻をくじかれた蓮子が相方に目を向ける。メリーは取り合わない。至極緩慢な動作で、紅茶に口を付けた。
所在無さ気に立ち尽くしていた蓮子であったが、数秒後、観念したように二杯目のコーヒーを取りに行った。結局、メリーが居なければ何も出来ないのである。そのまま静かに、二人暫しの休息を楽しんだのであった。
――
「急げ、夜が明ける前に出る。感付かれる前にだ、急げ!」
慌しく人が動く。部屋の中からあらゆる物が掻き出される。部屋の端に追いやられた長机の上にはもはや何も残ってはいない。破砕音が時折石に反響している。ある大きさ以上のもの、持ち運びに不便なものは破壊されているようだった。
同じ部屋だった。あの、唸り声の鳴り響いていた部屋と。今や聞こえるのは人の声、足音。獣達は息を潜め気配を感じさせない。置く物のなくなった長机が断ち割られようとするとき、一人老境に入った男が血相を変えて飛び込んできた。
「おい、止めろ! どういう事だこれは、私は聞いていないぞ……おい貴様、その手をどけろ!」
ローブも満足に羽織らず、素顔が見えている。その作りから導師と分かる。老境の導師が、今にも資料を抜き取ろうとした男に掴みかかった。男の喉から情けない悲鳴が上がった。
導師の顔は憤怒に歪んでいた。歳に合わぬほど、眼に力を湛えて。尤も、この外見に何の意味があろう。悪魔の記憶、魔女の記憶、その中に出てくる彼らが、また人間でないとも限らないのだから。
「見苦しい、黙れ。聞いていないだと? 出席もせず、片腹痛いわ」
先ほどから指揮を取っていた導師が割って入る。作業を続けるよう促し、老境の導師と正対した。両者とも引く様子はない。睨みつける老境の導師を、冷ややかな目で受け流している。
「これは私の研究だ、お前達が軽々しく触れて良いものではない」
「終わりだ。我々は無駄な犠牲を払わない。全ての研究成果は次へと持ち越される事となった」
取り付く島も見せない。未だ手近にあった長机が大きく叩かれた。
「私の研究は、おいそれと動かせるようなものじゃない!」
「ならば破棄するしかないな。奴らに渡す事はできない。貴様の研究などは特にだ。……既に、他の破棄は終わっている。残っているのは、お前のだけだよ」
「なにを」
「選べ。自らの手で棄てるか、私に委ねるか」
言い放つ。手をわななかせ、老境の導師が俯いた。周りでは、資料の搬出が続いている。
「……私が、やる」
「そうか」
吐き捨てるよう絞り出された言葉の後、会話は終わった。老境の導師が奥の部屋へと帰っていく。それを横目に見つつ、指揮を執っていた導師もまた元のように声を張りだした。
資料は、全て運び出された。
――
「随分と久しぶりな気がするな」
「ええ、そうね。久しぶり。その間私はせいせいしていたものだけど」
いきなり降ってきた声。少女は向きもせずに言い放つ。夜の図書館、二人のほかには誰も居ない。悪魔は、いつも突然に少女の隣へ現れた。
「近頃は私も忙しくてね、中々会いに来てやれなかった。随分ご無沙汰だった気もするが……さて、どうだったかな。一月も経ってないかもしれない」
「二週よ。前に来てから、二週。何が一月なものですか」
まあ、そんな所だろうな。悪魔は残し、それきり話を終えた。少女もこれ以上話を振らない。横の闖入者を無視し、本に視線を戻す。
静かに時は過ぎていく。悪魔も読書の邪魔をせず、かといって何を読むでもなく、暇そうに足をぶらつかせていた。少女が読み終えるまで、ずっと。
「実際、邪魔しないでいてくれるなら別に文句は無いんだけど」
静かに少女が声を出した。最後のページが閉じられる。少女の少し上を浮遊していた悪魔が顔を向ける。
「なにやってんの?」
「うん、その疑問は尤もだと自分でも思う」
体勢を整え、ふわりとした動作で少女の真横に降り立つ。妙に品のある所作は、彼女の生まれが決して卑しくない事を暗に示しているのか。
「何もやってないんだよ。暇でさ。帰っても特段やること無いし。面倒事をすべて片付けたらこの様だ。次からは少しくらい残しておきたいね」
「それで暇潰しのために暇な事してるの。呆れた、恐ろしい時間の無駄遣いね」
「なに、茶飯事さ。ようやく私にも分かってきたんだ、暇ってやつの恐ろしさが。色んな奴がそれで死んだ」
少女が珍妙な物でも見るように眉根をゆがめた。悪魔は意に介せず、あらぬ方を向いている。
「まあ、そんな事は気にしないで、どーぞお勉強を続けてくれて良いよ。かまってくれるんならそれも良いけど」
「気になるわよ、そんな真横に居座られて、こっちじろじろ見て。何もしないなら別にここじゃなくたって良いじゃない、気が散るから出てってよ」
少し、言葉に刺々しいものが混じった。悪魔は多少面食らったような顔をしたかと思うと俯き、苦笑いを浮かべて首を振った。
「ああ、そうだな……。語弊があったかもしれない。お前も、じきに年を取れば分かるようになるよ。若いのの頑張ってるのを見るのが、無性に楽しくなってくるのさ。だから勘弁して欲しい」
そして一息おき、
「今はお前が何をしているのか、が見たいのさ」
と言った。バツが悪そうに少女が目をそらす。悪魔はそれを見て満足げにしている。
「馬鹿じゃないの。口説き文句は、他でやって頂戴」
「中々、良いものだろ。ちょっと練習してるんだ。お前にはこの間すげなく断られてしまったからね、そのリベンジということで」
「馬鹿じゃない……それに、私はただ趣味でやっているだけよ。貴女の言うとおり私に師は居ない、だからここの本を使うしかない。それだけで、他に目的と呼べるようなものなんて」
「ふ、それでいいよ。今はそれで。魔法使いなんて種は、その内嫌でも何かを始めだすものさ。そのために生きているんだ。……受け売りだがね」
誰からの受け売りなのか、悪魔は言わなかった。そうしてまた、どこかを向いてしまった。機嫌が良さそうに。こうしていると、全く子供のようにしか見えない。
「昔、そういう奴らが居た」
おもむろに、悪魔が口を開いた。
「今も居るのかは分からない。お前みたいなのが集まってな、どっかの僻地に、ひっそりと暮らしてたんだ。いや、ひっそりと言えたかどうか。人間どもとは距離を置いていたが、所詮奴らも知識欲、研究欲の権化のようなものだ。中で何をしてたか、知れたものじゃない。そして時たま離散と集合を繰り返して……最後には、行方が知れなくなってしまった。もう大分前の話だ。細々と、生き残りは居るかも知れんが私は聞いた事が無い。研究は途絶したんだよ。だがその成果、途上は残り続ける。奴らは周到にもその成果を各所に保管していた。私はその足跡を追った。辿り着いたのが、ここだ。あいつらが研究していたものが分かるか。その分野は多岐に渡ったが、最終的には一つ、賢者の石に集約される。お前もその概念は知っている筈だ。賢者の石の生成こそが、奴らの至上命題だった」
そして、悪魔は口を閉ざした。少女はその横顔を見つめている。悪魔が再び語りだす気配は無い。沈黙が場を覆った。
「それで」
破ったのは、少女だった。
「石は、造れたの?」
悪魔が小首をかしげる。手近にあった本を一冊掴んで、弄んで。
「無理だった。言ったろう? 途絶したのさ。奴らはその長い研究の間にも、終ぞ石一つ、造れないで終わってしまったんだ。だが……」
「遺産は、残る……」
「ああ。奴らの離散の最後の一区切り。ここの蔵書はその時に奴らが寄進した物だ。中々上手い案だと思うよ。お陰でこいつらは、今もなお丁重に保管されている。誰も読める奴など居ないのに、国の宝だと言って、丁重にな」
本の壁は延々と続いている。高くそびえて、それがどれほどの量なのか、一目に把握しきる事は難しい。
「ここにあるのは、賢者の石の基礎理論なのさ。そして、万物の魔法の入門書でもある。有用だぞ。いくら天才と言って、お前はまだ駆け出しの魔術師に過ぎないのだからね」
「なにを、えらそうに……」
少女がじとりと横目で睨む。それに応えて悪魔が笑う。そのうち、少女もまた、苦笑をこぼした。
――
「偏ってきたわね」
片っ端から結界の視える本を探し、持って来て。ついに二人は二階にまで下ってきていた。吹き抜けから一階が見える。もう二階は漁り尽くした。後は下、一階で全て見終わることが出来るだろう。
この数冊、映像は少女と悪魔のものに終始していた。思う所が正しければ、おそらく両者の時間軸は違う。あの怪しげな男達の行く末は資料が運び出された時点で終わったのだ。だから残るは、他に無いとも言い切れないがあの少女達が主となる。
「蓮子、見付けたわ。右手に二つと左手に一つ」
メリーが吹き抜けから階下の結界を捉えた。頷き、近くの階段から一階へと降りる。中央螺旋階段。吹き抜けの傍、柱に埋もれるようにして五階までを貫いている。歩きながらメリーが口を開く。
「もう、きっと残りも少ないよね。この先は結局どうなるんだろう」
「分からない。見れば何かわかるものだと思ってたから。とにかく最後まで見てみよう、話はそれからよ」
降りてすぐ、目立たなさそうな席を探しに行った。確認していた数冊を持ってきて、向かい合わせに座った。
――
「あー、この辺りが怪しい。今度は大丈夫、多分」
「本当かしらね、どれ」
本棚から少し離れた壁の際、歩み寄った少女が壁にしるしを付ける。一、二、三。四つ目を付けると同時に、口の中で呪文を呟いた。
「私の運命視って自分に関係ない事には効果が薄いんだよ。まあ、三度目の正直とも言うし」
「二度ある事は三度ある、とも言うわね。さて」
暫く待って、壁に反応が現れた。印の場所に淡い光。それ以外にも数個、色の付いた箇所がある。
少女が舌なめずりをした。
「正直の方だったみたいね。じゃ、これから解呪に取り掛かるわ」
「出来るのか?」
「そう難しい物じゃないし、見た感じ大体は読めるから大丈夫、だと思う」
「ふーんそうかい。ま、出来たら呼んでくれよ」
そう言って悪魔が身を翻す。次の瞬間、その姿は闇へと溶けていた。少女はそれを見送り、壁の方へと向き直る。
そして少しの間、動かなくなった。ただ壁を見ている。おもむろに、光の無く、色だけが付いた所を触り顔を近づける。指で軽く叩くと、印が揺らめいた。
「まだ、まだかな……」
ため息をつき首を振る。
もう一度壁を調べ、何事か手を加えると全ての印が輝きだした。そのまま懐から怪しげな薬剤や粉末などを取出し床に並べる。印の間に薄く線を引いた。
時折かがみこんでは、二言三言何かを呟いているようだった。そして時折、思い出したように動いてはまた壁の前でじっとする。どれほどそうしていただろう。薬瓶の蓋を閉め終えた少女がおもむろに立ち上がった。
「レミィ、出来たわよ。何処に居るの」
呼ばわると羽ばたく音が聞こえ、一拍の後に上方から悪魔が姿を現す。
「意外とかかるじゃないか」
「一刻。まあまあの範囲よ」
壁のあった場所にはぽっかりと穴が開いている。中は空洞、下へ続く階段が見える。穴の横には、小さな魔法図が描かれていた。
「これは?」
「閉じる用のやつ。穴、このままにもしておけないでしょ」
「なるほど」
悪魔が穴を覗き込む。風の吹き上げてきそうな暗い中を眺め、何を考えているのか。すぐに振り向いた。
「ノーレッジ、悪いが先に行かせて貰う。お前はゆっくり降りて来るといい」
言うやいなや悪魔が階下に飛び降りた。滑るように、階段を下って行った。少女の返事も聞かずに。
少女は何も言わなかった。ただ目で追い、少しばかり待った後に、光源を取り出し歩を進めた。少女の体が見えなくなる。数瞬の間を置き、偽壁が構築され始めた。
―
一番下、おそらくは図書館の真下。階段の終わりから少女が出てくる。石の壁、決して高くはない天井。棚は縦横に配置し列が作られている。
手近な棚を物色する。当然のように、本棚である。この劣悪な環境下にもそれほど本は傷んでいないようだった。分類を見る。薬草学。
少女が首をかしげた。反対側の棚を見る。こちらも、薬草学とある。少女はまた首をかしげた。
明かりを置き、適当な方向へ向けて散策する。暫くすると棚に囲まれる形で大きめの、木で出来た机が姿を現した。距離からするにここがこの地下の中心と思われる。上の図書館と、同じ広さであるならばと仮定して。
すぐ近くの呪(まじない)文字と書かれた棚から一冊取り出し、椅子の強度を確認してから腰掛ける。そして施された術の有無を調べ始めた。
危険は無い。ここの本にかけられているのは、みな品質保持の魔法だけだ。なおも少女は本を裏返したり、棒で叩いたりしていたが、その内おもむろに本を開いた。
熟読している。自前の光源の、その乏しい光量も気にかけずに手は素早くページを捲っている。一冊を読み終え、まだ連れが来ていない事を確認すると、また周囲の棚から一冊机の上へと持ってきた。
その一冊も読み終わろうかという頃、向かいの棚から声がした。
「どうだい、ノーレッジ。収穫の程は」
珍しく、棚の間を歩いている。悪魔はそのまま歩み寄ると、少女の隣に腰を降ろした。
「興味深いわ。流石上よりは高度な内容が並んでいる。けど」
「けど?」
「ううん、ちょっと、ね。それより……」
少女がちらと横を見る。悪魔が首を振る。
「そう……」
「碌な物じゃなかったよ。だから、燃やした。読みたかったか?」
「いえ、いいわ。碌な物じゃないんでしょう。見てもしょうがないもの」
「そうか」
悪魔が天井を仰ぐ。
「残っている、ものなんだな。こんな昔の物。もう見付からないと思っていたのに」
「そのためにここはあるんじゃないの? そしてあなたは目的を達した。何の目的かは知らないけどね……よくも利用してくれたわね」
「お前だってここを見つける事が出来たんだ、お相子さ。それに最初からそんなつもりだったわけでもない。私はただ、運命の導かれるままここへ来たに過ぎないのだからね」
「よく言うわ、ただの勘でしょうに」
「勘と言えど、当たる勘は凄い勘なんだよ……」
暫しの沈黙の後、悪魔が立ち上がって背筋を伸ばした。翼も一緒になって伸ばされる。
「さて。私はもう用も無くなってしまったが、お前はどうするんだ? 私は館に帰るが」
「まあ、暫くはここに篭る事になるかしらね。ある程度解読が済んだら、同族を探すのは……レミィ、どう思う?」
「無理だろうな。あいつら、随分前から姿を見ない。秘境にでも入ったかあるいは全滅したか、どちらにせよ今更見付けるのは難しいだろう。ところで」
「何?」
「お前、ここに篭るのか」
手入れもされず、換気も出来ない空間。日の光も差さない地下深く。およそ人の住むのに適した環境とは言い難い。
「仕方ないでしょう、文句は先人に言ってよ。ま、気が向いたら遊びに来て。多分死んではないだろうから」
「お前、意外と根性あるなあ」
「でなきゃ魔女なんてやってられないわよ」
――
「終わった……」
手を繋いだまま、メリーが呟く。その言葉に反応し、蓮子も目を覚ました。
視界が戻る。向かい合って重ねた手。その下のレプリカ。メリーは未だ俯いていた。
「本当に終わった……?」
蓮子もまた、小さく呟いた。元の視界がぼやけている。馴染むまでは暫くかかるだろう。手をほどき、蓮子が頭を掻いた。
「これ以上、無かったよね」
他には無かった。断言できる。散々探し回った挙句、隅でひっそりとぼやけていたのを見つけたのだ。上にも下にも、一度通った所まで含めて探したのだから、間違いは無いだろう。
煮え切らない思いがする。記憶はまだ、むしろ始まるだろう部分で終わっている。次があるはずだ。あの時期から今に続く、空白の時間が。
だが二人は辿り着いただけで終わってしまった。本はそれ以上の記憶を見せなかったのだ。出し惜しみをしたか、あるいは本当に無かったのか。
「本体を視ないと、駄目なのかしらね」
俯いたまま、メリーがぼそりと言った。その手は未だ伸ばされたままで、机の上のレプリカに乗せられている。
それどころか未だ顔も上げずにいた。もしかすれば、蓮子が目を覚ました時からずっと。
「メリー?」
蓮子が呼びかけると同時、いきなりメリーが立ち上がった。そのまま二、三歩進む。顔は下を向いたままで、机の上の本もほったらかして。
メリーはそのまま蓮子の横も過ぎ去って、その後方数歩の位置でぴたりと止まった。相方が隣を通るとき、蓮子はその眼が何処か別の所を視ているのに気付いた。焦点が目の前の床面に合わさっていない。もっと、遥か遠くを視ている。
「下。視えたわ。多分ずっと下の方、何か感じる。これが本体じゃないかしら」
「下って、床の? 地下?」
「ええ、この真下よ。距離は、どれくらいだろう、凄く遠い。多分この五階よりも遠いんじゃないかな。でも視えるの。何でだか分からないけど、場所だけがはっきりと分かる」
そしてまた、何かを探すようおもむろに辺りを見回したかと思うと、ふらり、何処かへ向けて歩きだした。
些かの当惑の中、追いつ、蓮子が思考を巡らせる。何が起きたかは知らないが、とかくメリーは何かを察知したのだ。相方が眼を使っている間、思考判断は蓮子の仕事だった。
メリーが歩く。何にせよ、続きがあるのは良い。それは蓮子としても望む所だ。だが、それは五階層もの下だとメリーは言った。
遠い。遠すぎると言っても良い。地下にレプリカの置いてある筈もなく、まずそこが本体の場所である事は間違いない。だがそれは、当然ながら書庫の奥という事でもある。
そんな奥にどうやって行くのか。出自も考えるに相当な奥なのだろう。きっと発掘等なされて、厳重な警備のもと保管されているに違いない。二人は未だ学生で、行動するに足る身分も地位も備えてはいなかった。忍び込むなど、それこそ論外と言っていい。
その葛藤を気にもかけずメリーが立ち止まる。蓮子もつられて立ち止まる。もう図書館の随分端の方に来ていた。壁際で、人通りも少ない。
「蓮子、行こう。道は……こっちだよ」
メリーが仕草で促す。先には関係者用の扉がある。扉には勿論立ち入り禁止と書かれている。一瞬、蓮子は呆気にとられた。まさか、この相方は、本気で直接地下へ行こうと言うのか。
少しの間だけ、蓮子は何を答えれば良いのか分からなかった。行くとメリーは言った。それは普段蓮子の使う言葉だった。メリーはむしろ、こういった事は避ける傾向にある。そして言う側であるはずの蓮子はその判断を否定したのだ。
なのにメリーの方が、積極的にも侵入を示唆しようとしている。もしや何か考えがあるのかもしれないと思う。それならば蓮子も、協力することにやぶさかではなかったが。
だが蓮子が何を言う前、メリーは殆ど迷わず扉へ手をかけていた。
咄嗟の判断、蓮子はその腕を掴んだ。ノブは回らない。回らないまま、メリーの腕に力が入る。無理矢理にでも扉を開けようとする。蓮子は譲らず、一層その手に力を込めた。
「メリー、何やってんの? 随分無茶するじゃない……」
咄嗟にしては良い判断だったかと蓮子は自問した。
腕は離れなかった。この細腕のどこにそんな力があったのかと思うほどに、徐々にメリーは蓮子の抑止を振り払っていく。ノブの付け根が、みしりと音を立てる。掴んでいた手がずれ、メリーの腕に赤いすじが見えた。
蓮子の内心に冷たいものがよぎる。明らかに様子がおかしい。少なくとも正気の沙汰ではない。その皮膚が破れても、メリーが掴んだ力を緩める事はない気がする。勢いをつけ無理矢理扉から相方の腕を引き剥がす。メリーが顔を上げた。
「……蓮子、何するの? 見つかっちゃうよ。見つかったら面倒だよ」
メリーはまるで不思議そうにしていた。気の違ったような行動をしているのは、蓮子の方だとでも言いたげに。その正否を問うつもりは蓮子にはない。
一目でわかる。この期に及んで、メリーの眼は、全く焦点を合わせることを放棄していたのだ。顔を向けた間も眼前の蓮子にすら焦点を合わせていない。像を結ぶことも必要としないで、視界でも結界でもない、一体何をその眼に映しているのか。
背筋が凍る思いがする。本体か。唯一メリーが反応していた地下の本体、あれだけを視て行動しているのか。あの場所に辿り着くために。辿り着いて何をするかも定かではないのに。ただ不乱にメリーは動いている。
再びメリーがノブを回そうとした。同時に蓮子も力を込める。相方に顔を近づけ、眼で、眼を合わせる。うつろな眼。力強く、蓮子がそれに応える。腕を掴んだまま、三秒、四秒。
「帰ろう、メリー。妄執に取り憑かれる前に」
彼らを縛る妄執に。その言葉を聞いた途端、ふ、とメリーの腕から力が抜けた。見詰め合った焦点が、眼前の蓮子に合わさる。
「……ま、まあ、蓮子がそう言うなら。でも良いの? こんなスポット、滅多に無いわよ?」
「ああ、いいのよいいの。どうせ逃げるもんでもなし、不法侵入なんてして異国で御用になるよかマシだわ」
メリーは自身の変貌にすら気付いていない様子だった。背を向けて手で撤収の指示を出す。内心に流れる汗を隠すように。
まさに失策だった。メリーの変貌。自分達はただ、こぼれ出た表出を覗き込んでいるだけと思い込んでいた。映像が流れるだけでこちらからは干渉もできない、ただ視ているだけだと。
それこそが間違いだった、考えが甘かったのだ。媒介はレプリカでも、その記憶は地下深く、本体のものになる。あの結界を覗いている間、常に二人は記憶を通して本物の前に繋がっていた。
そしてゆっくりと、される当人も気付かぬほどゆっくりと、本体は干渉を進めていたのだ。蓮子の力で解くことができたのは不幸中の幸いと言うほかない。どれだけ繋がっていただろう、人一人を催眠にかけるには十分すぎる時間な気もする。あの、散発していた結界は撒き餌であったのだ。最終的にメリーは手足にされた。伝えられた意に添うように、地下深くの本体まで辿り着かせるように。蓮子にまでそれが及ばなかったのは……。
運が、良かったのだろうか。何か特別な、護られるような理由があるとは、蓮子は思っていなかった。自分はそういったものとは違う。だからたまたま蓮子にまでは手が届かなかった、それが一番筋の通る理由だ。
本当にそうなのだろうか。同時に蓮子はこうも思う。ただ単純に、蓮子を催眠にかけるだけの力が無かったのではないか、と。
「はあ、ここもこれで撤収か……なんか半端な感じがするね。あの本も、もう少し視させてくれて良かったのに」
歩きながら呑気なことをメリーが口走る。蓮子は俯いた。心の中で、きっとこれ以上の映像は無いことを確信していた。
この図書館は比較的新しく作られたものだ。蔵書は全て出自がはっきりしている。どこで得たかどこから贈られたか、全て記録として残っている。
ならばあの本はいつ、何処からここへ持って来られたのだろう。まさか湧いて出ることはない。誰かからの寄贈、あるいは発掘。人の手に容易く捕獲されるようなものが、何の価値を持ち合わせよう。
あの少女たちは最後まで本を所持しなかった。それが答えなのだ。
門を出て駅の手前まで来たところで事の顛末と自説を伝えた。列車はまだ来ない。メリーは少し考えた後それはおかしいと言った。
「だって、蓮子の言ってる事には理由が含まれてないじゃない。まあ、私が変だったってのは認めてもいいわよ。確かになんか記憶も曖昧だし、言われてみれば気分も悪いかなって気もするし。でも、なら何で私はそうなったの? その説明が無いんじゃ片手落ちだわ」
「それは……でも怪しげな魔道具ってそういう物じゃないの? 古今東西、人を惑わせるためにあるのが相場でしょ」
「私はそうは思わない。だって、その古今東西って所詮はおとぎ話の中の出来事でしょう? 道具が持ち主をいざなうなんて、単純に考えて使わせるために決まってるじゃない。私はそのために呼ばれた。つまり、私はあの本の次の持ち主に認定されたのよ。その証拠にほら」
メリーの指が地をすべる。駅と反対、図書館の方へ向く。
「あの地下、視えるものが増えてるもの。二つ、三つ。今四つに増えたわね。まだまだ増えそう」
げ。蓮子が喉から変な声を出す。同時に、列車がホームに到着した。蓮子は相方の手を引っ掴み、一目散、その車両へと乗り込んだ。
薄暗いし、かび臭い。空気が淀んでいる。だがそれ以上に、風化を感じるのだ。もうこの建物が出来てどれほど経っているのか知れなかった。こうも匂ってくるでは相当なものだろうと思う。またどれほど放置されているのかも知れない。
階段を降りきると本棚が並んでいる。昔々の、新鮮味などとうに失われてしまった書庫群。風化の正体はこれだ。品質は保たれている筈なのに、染み出る臭いは鼻をつく。
果てしなく続く本棚の隙間、向こう側にぼんやりと明かりが見える。幾分の懐かしさを覚えながら足を向けた。最後に会ってから、もう随分と顔を見せていない。
「やあ、久しぶりじゃないか。元気してたか?」
少し大きな机と明かり、背を向ける人物に努めて明るく声をかけた。書庫の主が顔を向ける。見た目があまり変わっていない事にまた、口の端が持ち上がった。
「あら本当に珍しい顔。今までほったらかしにして、一体何処でなにをやっていたのかしら。私なんてもう出かける所だったのよ? ここを離れて、どこか知らない場所へ。そうしたら幾らあなたでも見付けるのは困難だったでしょうね」
「その頃を見計らってやって来たのさ。私のこの眼は、全てを視通すからね。一番面倒のないタイミングで、ちょちょっと」
「勝手に言ってなさい」
彼女が苦笑を浮かべる。私の言葉が、半分以上は偽りでない事を知っているのだ。彼女が腰を上げ、奥から小包を持ち出してくる。背負うにも提げるにも不格好な大きさの包み。机の上に置かれる。
「本当は昨日出発する予定だったのよ。準備だって万端で。でもね、何でしょう。勘かしらね。覚えたての占いは今日を示していた。ほんの手慰み程度のものだったのに、そしたら貴女が来たわ」
「良い判断だ。中々様になっている。なら、私が来た理由も分かっているんじゃないか?」
「さあ、ね。路銀でも恵んでくれるのかしら。私の出立のお祝いに」
「阿呆ぬかせ。……それで。次、どこ行くんだ。ナリを見るに一人前にはなったようだけど」
「街から街への根無し草……も悪くないと思ったけど、まずは東かしらね。これ以上西に行っても意味は無いと思うし、少し見たいものもあるの」
「東か。東は、広いぞ」
「そうね。でももうここに居ても始まらないから。行くだけ行ってみるわ」
「そうかい、なら――」
――
――
古代図書館、という駅がある。勿論駅自体が図書館になっているわけではないが、敷地としてはすぐ傍の、いわゆる何々前とそういった意味の駅名で、専らアクセス的には同じよう扱われる。欧州のとある地方に建てられた、古式ゆかしい駅である。
降りると乗客はまず、窓が無いことに気付く。そう広くもない駅である。なのに降りて周りを見渡すとすぐ壁が見える。それまでの開放的な車窓を思うとどうにも窮屈な感じが残るものだが、実はこれは細工である。敢えて情報を遮断しているのだ。事実駅に入る少し前からトンネルや木々などで視界が遮られ、確かに窓の外を見てはいるのだがその実殆ど情報は入らないようになる。
そして多少首を傾げながら駅の外に出たとき、乗客は一様に声を上げるのだった。
眼前に広くそびえる、巨大な建築物に。
「ここが古代図書館――」
連れ立った旅行者の一人が呟いた。駅を出た所から脚が動いていない。どの時代をモチーフにしたものであろう、威圧する外観、贅を凝らした豪壮な道。半ば呑まれている形だ。実際周りにも、同じ観光客なのだろうが、呆然としている者がちらほらと見受けられる。
「蓮子、ちょっと、早くしてよ。恥ずかしいよ」
相方が袖を引っ張る。それにつられるようにして、蓮子と呼ばれた少女も歩き出した。
秘封倶楽部の二人が主に活動場所としているのは日本だが、この古代図書館、前述の通り欧州のものである。それも割と端の、東欧と中東の中間辺りの、おおよそ旧イスタンブールの周辺であると思ってもらいたい。
何故二人が普段の活動圏である日本を離れこんな遠くまで来ているのか。理由はあるが、割愛する。長くなりすぎる。所謂倶楽部活動の一環だと思ってくれれば良い。彼女達は怪事フリークスであるからして、大抵それで説明は付くのだ。あるいはただの旅行だ。たまには広く海外に足を運ぶのもそれは学生、夢の一つであるだろう。
道は、少なくとも短くはないようであった。距離感が掴みにくいのは、例えば道脇に建てられた謎の柱だとか、周囲に散在する生垣だとかが影響しているのだろうか。すぐさま、蓮子がカメラのシャッターを切った。右に一枚左に一枚、後ろから歩く人を避けつつ相方に一枚。正面図、そびえ立ち、紋章をかたどった正門に今度は二枚。
写真に気を取られているあいだ、いつの間にか道の先に着いていたらしい。門は広く開け放たれている。くぐり、入り口。おそらく一貫したテーマがあるのだろう建物の外観は、見上げるほどに大きかった。目測にして五、あるいは六層程度はあるだろう。
当然のように、図書館の中もやはり、外面でパッと見ただけでも分かるほどに広かった。受付、いや案内所が少しばかり奥へ行ったところに見える。入口からほど遠い場所である。ただ入口は入り口で壁に案内板が取り付けてあり、それで十分に用を足すことが出来る。二人は食い入るように壁を見つめた。そしてため息を吐いた。
「うーん、想像以上に、動きに迷うわねこれ……」
「一応実用性も考えて造られてるのがにくいわね。流石、国家主導は話が違う」
二人で頭を抱えつつ入り口近くをうろつく。周りにも、やはりそんな人間がちらほらと散見される。膨大な蔵書と膨大な来客、それを効率的に収めるにはどうしても単純さを犠牲にせざるを得なかったのだろう。蓮子が手近の棚からパンフレットを抜き取った。
パンフレット頼りにとりあえず足を進める。中央には行き来のための螺旋階段とエレベータがある。最初は一階から回ろうとしたが、後々疲れそうなので最上階から回る事にした。五階である。一フロアが大きいので、全五階層でも相当に時間がかかる。
本棚の中には、全体的に革張りの装丁が目に付いた。どれもそれなりの厚さがあり、手にとってみると紙の重みが感じられる。必要な握力、腕の力。それがどうにも日常離れしていて、蓮子は何やら不思議な感慨を覚えた。
勿論、というのも何だが、全て雰囲気を出すための代物である。このご時世、代替手段は幾らでもある。ここの本は、ある事にこそ価値がある類のものだ。
欧州の図書を一手に集める空間に二人は居た。古代図書館とはその意味で付けられた名だった。偉大なる古代の英知を保存する場所。オリジナル。
集められた古代資産は、地下の、誰が入れるとも知れぬ機密室に厳重に保管されている。そこから幾つかのレプリカを作り出し上層に置く。図書館として不必要なほど外観が整備されているのもこのためであった。この建物、古代図書館は空間を提供する。欧州観光地ランキング堂々の二位は伊達じゃない。
ちなみに、少し離れた別館は製本博物館となっている。
五階に上がると、ここは図鑑の層なようで、古いものから新しいものまで各種の図鑑が取り揃えてある。勿論表紙は革である。
蓮子が一つ抜き取って、ぱらぱらとめくってみた。挿絵にも時代を感じる……と思いきや、すぐ傍には解説書のコーナーがあった。勿論そちらも革装丁なのだが、中身は幾分、現代に近付いたものであった。
蓮子が棚の一つ一つを半ば感心の眼差しで眺めている間、メリーは何処かふらりと行ってしまっていた。次の場所へ移るからと蓮子が探し始めた所で、
「蓮子、ちょっと」
メリーは後ろから、蓮子の腰を小突いてきた。
「な、なによいきなり」
メリーは答えない。口ごもりつつちらりと蓮子の方を見る。その意図をはかりかねて首をかしげ、ようやく一つ思い当たる事がある。
「えっ。……なに、結界? ここ結構新しいけど、そんな所にもあるの?」
それは確かに蓮子達が生まれる前からあるとはいえ、それでも五十年に満たない筈である。メリーが顔を近づけ、心なしか小さい声で話す。
「うん、割と。一人で視るのもあれだからまだ触ってないけど、そこら中にあるわ」
辺りを見回す。早速一つ見つけたようで、その方向に近付く。本棚だった。本棚の、中ほどをメリーは注視している。
「これとか……」
本の一つに手を触れる。光のすじが揺らめいて、おぼろげな光景を形作る。
それはメリーにだけ視えている。すじの向こう、重なった視界の先には二人の男が居た。ローブを身に纏い、薄暗い部屋の中、机に対面して座っている。
眼を凝らす。よく視えない。明かりに乏しいその室内では二人が何をしているのか。話しているのかどうかさえ、分からなかった。
男達は微動だにしない。二人とも。部屋の外が騒がしい、気がした。
「ひっ」
メリーが後ずさった。蓮子が近寄る。
「どうしたの? この本?」
「あっ、待って、触らないで。その方がいい」
――
男が二人、座っている。机をはさみ、対面する形で。部屋は薄暗い。明かりが点されていないのだ。扉に付いた覗き窓から、かすかに外の光が入り込むのみで、後は何も。
部屋にはいくつかの書物と、研究道具。大掛かりな物ではない。特に使用された形跡も無いことから、あまり重要ではないのだろう。
男は動かない。ただ座っている。じきに、遠くで喧騒が聞こえてきた。それは徐々に近くなっていく。
その内の一つが先走ってこちらに近付いてきた。近く、近く。いきなり大きく扉が開け放たれ、慌てた様子で誰かが入ってきた。
「導師! 導師、ご無事で!」
男の下に駆け寄る。明かりを点そうとした時、二人の男は、そのまま椅子から崩れ落ちた。
――
メリーの制止に、すかさず蓮子が万年筆を取り出した。それと手帳。手馴れていて、素早い。
「なにか、視えた?」
「うん、どこか、場所みたいなのが視えた。あと人」
「他には?」
メリーが言いよどむ。蓮子の眼の色が変わった。
「当ててみせましょうか。ズバリ、変な物を見た。怖いものとか、気持ちの悪いもの。でもメリー自身には影響しない。すると……向こうで何かあったわね。悪い所だと誰か死んだとか。今言ってた人?」
そのものを言い当てられた。絶句したメリーを見て、蓮子は満足そうに微笑んでいる。
「そりゃ、あんな反応したらねえ。大丈夫、言いにくい所は適当に補完かけておくから、どんどん話して?」
「うん……。ただ、あまり分からなかったのよ。薄暗かったし、特に動きも無くて。気付いたら二人倒れてたわ」
それでも構わないと蓮子は言った。伝えられた詳細は、やはり少ない。ただ、思うに、あの壁は石造りではないかとメリーは言った。記憶にあるそれと質感が似ていたのだ。
それ以上は何とも言えない。死んだ人間は、ただ死んだとだけ伝えた。倒れただけで、実は死んでいないのかもしれない。そうとも言った。
時折相槌をはさみながら、蓮子がそれを書き加えていく。
「それ、さ」
書き終え、蓮子が顔を上げる。
「他でも視れるんじゃないの?」
触れれば視える奇妙な結界。先ほどメリーは複数の存在をほのめかした。同じものが視えるか他の何かが視えるか。続きか、過去か、別世界か。期待値は高い。
すぐにメリーが周囲を見回した。こういった時の判断はさすがに早い。一周を待たずして見つけたと言った。遠く、机を挟んだ向こう岸。メリーが指差す。書架の上の方。蓮子が目を凝らすも、それは細かな本の集合体にしか見えない。
だが、メリーの瞳には、その中心、背表紙に沿う形で確かに結界が映っていた。
――
いきなり、宙から逆さまに落下してくる形で、それは現れた。
机の上に、本が数段重ねて置いてある。周りには本棚が幾つも並べられており、そこから取って来たのだろう。光量は少ない。机の上に蝋燭が、数本。
狭いような、広いような。天井は高い。だがそこかしこにある本棚の圧迫感もあり、決して広々とした印象をその空間は与えなかった。
その空間には主が居た。正確には、居るように見えた。机の前の、未だ幼さの残る少女。淡白な表情は、その内向的であろう事を感じさせる。少女は少々ばかり上等に見える椅子に腰掛け、その本の小山の間で、読書に耽っていた。
そこに突然、落ちてきたのだ。
人、ではない。人は空から降ってこない。逆さのまま目の前に浮かんでいるそれを少女はじっと眺めている。
身体的な特徴は人と良く似ていた。手があり脚があり、その位置や形を列挙すれば限りなく人間に近い物が出来上がるだろう。それも小さな子供のものだ。可愛らしい小さな女の子が、部屋の主の前に浮かんでいる。ただ、いかんせん。
人と決定的に違う特徴。幾らかある。たとえば、背中に翼が生えている事とか。コウモリのそれを模した物だろうか、それが小さな身体と不釣合いなほど大きく、身体を二つ合わせたよりも尚大きく、その存在を際立たせている。
もっと近付けば、おそらく眼が挙げられるのだろう。獰猛な光をたたえた獣の眼。それに比べれば、背中に付いた翼など些細な事なのだ。その視線は人の出せるものではない。少女はいまだ年若かったが、それは本能的な部分で察した筈だ。
つまり、総じて人ではない。
「あなた、悪魔?」
少女は物怖じせず問いかける。このような超自然的存在にここまで接近を許し、今更恐れ慌てふためいた所で確かにどうしようもないのだが、それでもこの行動を取れる所、少女もまた、ただの人の身ではないのかもしれなかった。
「そうだよお嬢さん。お前ごとき指の一つで粉にできる、こわい悪魔だ。畏れろ、敬えよ?」
それは口の端を持ち上げ、鋭く尖った牙を誇示する。ますます、人ではない。だが少女はそれにも臆する事はなかった。
「それにしては随分可愛らしい姿をしているけど」
「人を、いや魔物を見た目で判断しちゃいけないよ。君も魔女の端くれなら、それくらい弁えたらどうだ」
言葉を反芻するようにその可愛らしい悪魔は目を閉じ、喉の底からくぐもった笑みを漏らした。
「……私を、知っているの」
「お噂はかねがね。齢十四にして天才と謳われた、人間? だそうじゃあないか。尤も人間には見えないがね。誰に謳われたのか。誰に謳われたんだい? 近頃はとんと同族も見なくなったが――」
反転し、悪魔が隣へと降り立った。眺める視線が突き刺さる。ため息をつきながら少女が話に付き合う。
「自称よ」
「自称か。それは良い。あんな凡俗どもに何を認められた所で、価値は無いからな」
そう言って悪魔が大笑する。
「お前、名前は何て言うんだよ?」
「教えると思って? 悪魔さん。それに、そこまで分かってるなら調べられるでしょう」
「お前の口から聞く事に意味があるんだ。だが、そうだな、でも呼び名が無いと困るだろう?」
「あら、私にはそれほど長く付き合うつもりは無いんだけど」
「こっちにはあるんだよ。ほれ、なんか言え」
悪魔が促す。少女は嫌そうに顔をしかめた後、少し間をおいてこう言った。
「なら、ノーレッジとでも呼んで頂戴」
「それって天才だから?」
「そ、天才だから」
ついに、悪魔が大口を開けて笑い出した。吸い込まれた空気が、変な音を立てて口から漏れる。仰け反って、後ろに倒れるような勢いで。それを、冷ややかな様子で少女は見ていた。
「中々楽しい奴じゃないかお前。おっと私の紹介がまだだった。私の名は、そうだな、レミィとでも呼んでくれ。勿論偽名だが、まあ、愛称のようなものと捉えてもらって良い。今回は顔見せ程度のつもりだったんだがね、くく、また来るよ」
悪魔が少し後ろへ飛んだ。ほんの少し。見る間に身長を越えるほど広がった翼が鈍く風を切り、一度後ろ向きに回転すると、そのまま垂直に飛び立って去っていった。
少女は再び本を開く。すぐに、静寂が戻ってきた。本を捲る音。何事も無かったかのように、空間はその姿を取り戻した。
――
映像が終わったあとも、メリーは目を閉じ続けていた。
蓮子の荒い鼻息と、筆を走らせる音が聞こえてくる。目が覚めて、すぐに手を動かしたのだ。メリーはそんな事はしない。余韻に浸っている。
情景が浮かんでくる。あれは、図書館だろうか。ここと同じく。本の大量にある光景。そうだ、あれだけの本が並べられる場所は、書庫か、あるいはそれに通ずる物しかないだろう。
今居るこの図書館も、そういった場所だった。読むために、机が置かれている。椅子も置かれている。それだけで、後は全て本で埋められていた。
そうだよな、と確認するために首を向けると、目の前に興奮で染まった蓮子の顔が現れた。
「うわっ」
「はい、メリー。さあ、メリー。さあ!」
蓮子が何やら分からぬ事をまくし立てる。袖を引っ張り、相方を立たせようとする。伸ばされては敵わないと、メリーがそのまま蓮子の腕を掴む。
「お、落ち着いてよ蓮子」
「いやいや、これが落ち着いてられますかってんだ。直に悪魔だの魔女だのの単語が飛び出してるのよ!? これは、私達に活動せよとの図書館の」
「いいから落ち着いて。図書館なんだから静かにして」
メリーが勘弁してくれといった風に押し留める。蓮子の声のトーンは、それは大きかった。既に周りからは幾つか視線が注がれている。蓮子は少し静止すると恥ずかしいやら何やら微妙な表情を作り、そのまま席に戻った。
軽く、咳払い。
「ええ、とにかく、これは活動するべきですね。テンション上がりますね、と」
「そんなの、最初から活動するつもりでこっち来たんでしょ? 日々これ活動なりなんて、蓮子が言ってたんじゃない」
「お、おう」
歯切れが悪い。それは確かに蓮子が言った言葉だ。洒落で作った倶楽部規則の、たしか三条あたりにあった。勿論ノリノリで作ったのは蓮子で、メリーも、三割くらいは関わっている。
だが実の所蓮子も、相方がそこまで律儀に守っているとは思わなかったのだ。何せ作ったのは自分だし。だから変な声が出た。それを聞いてメリーが嘆息する。
「はあ、いつもそうなんだから。そうやって私は振り回されていくのね」
「いや、もちろん! 私だってちゃんとやってるよ!?」
「いいわよ、もう。ほらあそこ」
言ってメリーが指差す。前方二十メートル、右列上から二段目。探せば、中々早く見つかるものだ。
「新しいのよ。とっとと視ちゃいましょう」
――
奇妙な部屋であった。室内である。廊下でも、屋外でもない。長方形の、およそ十数人は入れるだろう部屋に、幾つかの人影とその何割を占める長机。上には大小の実験具が無造作ながらもどこか整然と置かれている。また実験具というだけでも何やら怪しげな香りを漂わせているというのに、部屋の隅には方陣等々描かれた紙が箱に詰め込まれているのだ。そのどれも、縮尺が微妙に大きい。
配置も奇妙であった。唯一の特徴であろう長机は部屋の端にやられ、入り口と、奥にある扉との間に大きな隙間が作ってある。まるで何かを通すように。扉も、それぞれ通常の二倍程度は大きかった。
そう、通すのだ。奥の扉の中を窺い知ることはできない。だが、絶えず、その向こうからは得体の知れぬ唸り声が鳴り響いている。扉から扉へ。入ってくるのだ、その扉の向こうから。
異音をものともせず人影は動き続ける。例によって、中に居る人物は皆目深にフードを被っていた。誰も顔も、表情も窺い知る事はできない。個などは、まるで必要ないとでも言いたげに。
「導師、採集隊が戻りました」
声のしない方の扉が開いた。外から一人入ってくる。やはり、フードだ。声の調子から男性だと分かる。年齢までは定かではないが、そう若くもないだろう。導師と呼ばれた人物が中央の椅子から大儀そうに腰を上げた。
「獲物はどうだった」
「小物が一匹。今回はあまり捕れなかったようです。そろそろ数も減ってきているようで――」
「まあいい、回せ。足りなければこちらで補強する」
「分かりました」
獲物、である。
伝えに来た男が返事を残し、部屋を出て行く。その間も、唸り声は、防音加工等してあるのだろう幾らか軽減されてはいるが、響き渡っている。
採集された獲物が来るのも待たず。導師は部屋を回り何事か指示を与えると、奥の部屋へと向かった。研究は滞りなく進んでいるようで、フード達の動きは活発である。
扉を開けると、一層声が大きくなった。鳴り続ける唸り声は、少なくとも、草食動物や、家畜のそれではない。
猛獣のそれは……尤も、ある程度の体格を越えると必然声は低くなる。鳴くだけならば猛獣である必要は無いのだろうが……いや、しかしそれは猛獣なのであった。分けるのは本能に刻まれた、何か。自らの肉体で獲物を喰らう。攻撃性を持つ獣でなければこの声は出せないだろう。
入り口が開き、檻が入ってくる。なるほど、小さい。檻の中の獲物は、よくて人間の腰くらいしかない。弱ったか眠ったか、抵抗は見せなかった。
檻が部屋を駆け抜ける。獲物は、犬に似ていた。黒い犬。四足で、尻尾があって、毛深い。ならば犬だろう。羊も条件に合致するが、これは犬だ。
そう、目が三つあり、開いた口の中が全く濃い黄色に染まっている以外は、犬であった。
檻は奥の部屋へと消える。それとほぼ同じくして鐘が鳴った。重い鐘の音が。気付いた一人が奥の部屋に入ろうとするも止められる。止めた一人が首を振る。そして二人、各々の作業へと戻っていく。
異音が、扉の中から聞こえてきた。
――
「ノーレッジ、お前はまだ、この図書館に入り浸っているのだね」
コウモリが囁いた。一匹のコウモリが。どこからともなく飛来して、少女の周りを旋回する。そして数を二つ四つと増やしていく。
見る間に、それはおびただしい量となって空間を埋め尽くした。風きり音がこだまする。静寂を旨とする筈の図書館が、騒音に包まれる。
包まれたものは当然少女も例外ではない。いつもの通り椅子に座っていたのが、すぐに見えなくなってしまった。コウモリはいつまでもわらわらと少女を覆っている。
ついにたまりかねたか、少女が読んでいた本ごと思い切り腕を振り回した。腕は空を切り、コウモリは瞬く間に霧消し。少女の傍ら、悪魔が姿を現していた。
「……あらレミィさん、こんにちは」
「レミィは愛称だ。さんなんて付けるな、むず痒い」
振りぬいた姿勢のまま、少女がもう一度悪魔を狙う。それを難なくかわして、悪魔は反対側へと降り立った。忌々しげに少女は椅子へ戻る。
悪魔はふてぶてしい笑みを崩さない。
「つれないね。つれない態度だ。折角私自ら出向いているというのに。まあ実のところ用と呼べるものも無いんだが、そこは運命の導きかな。ノーレッジ、君に会いに行けと、運命の」
「まあ、まるで口説き文句。他の誰かに言ってあげたら」
意にも介せず少女がそっぽを向く。態度はますます硬化して取りつく島を見せない。悪魔が少女の持つ本に目をやる。
「前とは違う本を読んでいるね」
「当たり前よ。一つの本に一月もかける愚か者は居ない」
「つまり解読は済んでいるわけだ。偉いものじゃないか」
目を合わせず顔も合わせず、あらぬ方向を向いていた少女がぴくりと動いた。少し顔を向ける。悪魔の表情は、いまいち読みにくい。
「お前は生まれ付いての魔女だ。だが正規の教育を受けてないな。他と違う力、慢心しなかった事は褒めてやって良い」
「それはどうも。何、あなたは私に説教をしに来たの?」
「そんなご大層なものじゃないさ。私はただ、そうだな、見物に来ただけだ。遊びに来たといった方が正しいかな。口を出すのもその一環だよ」
そしてそう、と区切り、
「私と契約しないか、ノーレッジ」
「最近の悪魔は押し売りに来るようになったの? 世も末ね」
「押し売りするのが悪魔の常さ。誘惑されるのが術者の常だ。まあ、私が勝手に押しかけてるだけなんだが。でも私も、中々高位な方だぞ。もっとありがたがってくれて構わないんだけどな」
「まさにありがた迷惑ね。お断りよ。私は魔女だけど、悪魔崇拝者ではないもの」
「力を貸してやって良い、と言っても?」
「それでも、よ。頼むとして、精々役に立ちそうな本でも探してもらうくらいかしらね。私の道に、あなたの力は借りない」
「本の力は借りるのに」
「違うわ。本は意思を表層に出さないもの。明確な違いよ。なんなら紙に書いて渡しましょうか? はじめてのおつかい、お似合いだわ。……それにあなた」
少女の瞳が悪魔を捉える。その身体を。幼い身体と、コウモリ状の翼。
「本当は違うでしょう」
一瞬、空気が張り詰めた。暫しの沈黙が場を包む。舐めるように確認した末の、その言葉の響きはとても冷たい。先に折れたのは、コウモリの方だった。舌打ちを残し、翼をはばたかせ本の間に消える。
「お気をつけて。……機嫌、悪くさせちゃったかしらね」
そしてコウモリは姿を現さなかった。本棚の闇に眼を通し、少し気にするそぶりを見せた後、少女は椅子に深く座りなおした。
――
全体的に、明かりが少ない。この建物の光景は、いつも薄暗いものだ。明かりを取る必要が無いのか、はたまた点ける技術が無いのか。
前者、なのだろう。人が居る。それも数人。少々の装飾が施された卓を囲み、誰一人言葉を発する事は無く無言でいる。その出で立ちは、やはりローブと、そしてフード。
ただ、一般のローブとは少し造りが違うようだ。上等、に見える。薄暗いが、その程度の判別は出来た。よく見れば、胸元には飾りが。
少なくとも、この集団の中での位は高いようだった。おそらくは、導師と呼ばれていたそれ。
一人が口を開いた。
「……もはやこれまででしょう。これはあちらからの、いわば宣戦布告だ」
重い口調。表情は窺えないが、場には沈んだ空気が流れている。誰も口を開きたがらない。しばらくのち、ため息をついて、別の一人が発言した。
「それよりも悪い。わざわざあんな所まで入り込んで、誰も姿を見ていない。我々などいつでも殺せるという意思表示だよ」
場が暖まってきたからか、今度はもう少し早く、別の一人が言葉を発した。
「強硬派の暴走、という線は?」
「無いな。防護陣は破られた。何の犠牲も出さずにだ。これは準備無しではできんよ。我々の術法に奴らも追いついたのだ……と考えると感慨深くもあるが」
「控えろ、二人死んでいる」
「それは失礼」
「あちらは――」
声が若い。おそらくは一番の若年であろう者が口を挟む。
「まだ少し前の分裂も収まっていないと聞いていました。何故こうも手早く、迅速に……」
喋り方は落ち着いているが、焦りを隠しきれていない。
「内部で何処か纏め上げたのだろう。よくある事だ。それに、奴らが仕えているのは土地であって、人でも権力でもない。少々の分裂で動じはしないよ」
「そんな……」
「それで、どうするのです。逃げるか、戦うか」
その一言に、また座は静まり返ってしまった。沈痛な面持ち――尤も表情は見えないが、それを浮かべているのだろう。長机を囲んだ六人の導師が顔を見合わせた。
観念したように、また一人が口を開く。
「逃げる、しかありますまい。我々の目的は戦闘ではない。彼らを倒して得るものも無い。研究が続けられる途を選ぶべきです」
「私も同意見だ。というより、この座に居る者は皆同意見なのではないかね? 尻尾を巻いて、逃げ出したがっている」
「だが、ここを離れては我々とて立ち行かぬ。それも皆分かっている筈ではないか。そこを突かれれば一たまりも無いだろうし、それを見越して、今攻めてこないのだとも取れる。ならばまだここに留まっていた方が安全とも言えまいか」
「なら――」
場の紛糾。今まで黙っていた一人、奥座に座っていた一人が声を出した。全員の目がそちらへ向く。
「我々も誰かの庇護を受ければよい。取り入りましょう、彼らと同じく」
それはいい、と誰かが言った。
――
映像が終わった。二人がまぶたを開き、繋いでいた手を離す。媒介であるメリーは椅子に深く腰掛け、大きく息を吐いた。連続で視る行為はそれなりに負担がある。
本はこれで七冊目だった。棚の前で立ち往生する事も憚られ、適当な席を見繕って座っている。時間の感覚は曖昧だ。分単位で過ぎたのか、あるいは一時間も経ったか。時計を出すのも面倒だった。
蓮子は忘れないうちにと手帳を開いた。平行して電子媒体にもメモを複写している。手は忙しなく動いているが、不思議と絡まったり、滞ったりはしない。習練の賜物だ。元より、この類の作業が得意なのかもしれなかった。
「というかさ」
蓮子の両手は素早く動き続ける。
「実際、言葉分かるのね。何語話してるのか知らないけど」
この時代の翻訳機は優れているが、それでもあくまで入力を前提としている。感じた物を自動で翻訳できるほど都合のいいものではない。
「覗いた時点で何か変換されてる、リンクしてるのかな、私と」
「それは、また随分ね?」
ならばそれは、単純に視覚というだけでなく、もっと深い所で繋がっている事になる。覗いているのではなく視えているのだ。いつ起きたとも知れぬ出来事を、まるで自らの事のように感じて。
二人での感覚の同期ならば今までにもやっているが、無生物の、結界そのものとの同期は初めてのことだ。少々の仮説を生ませつつ情報を勘案する。
大切なことは二つある。まず、視た結界は消える。映像が流れ、目が覚める。するとまるで役目を終えたかのようにふっと無くなってしまうのだ。後には何の変哲もない本が一冊残る。
そして、これこそ大切なのであるが、蓮子はこの映像を過去のものだと見ていた。結界の向こうの異次元ではない、過去の、ある点に存在したものである。何故と言えば、それは感覚と答えるしかないのだが、一つに違和感の少なさが挙げられると思った。
異次元と見るには差異が少な過ぎる。服といい建物といいその挙動といい、あくまで地続きと思える文化様式をしている。
「少し、休憩にしましょう」
メリーが席を立つ。手早い動作で蓮子が筆記具をしまい、後に続く。
休憩室は、入り口の脇にある。窓際、他から一つテーブルを離し、蓮子が荷物を置いた。空は快晴、いい天気だ。日差しが庭の緑を照らす。
「何か、飲み物でも。蓮子は何にする?」
「コーヒー」
即答、である。蓮子は特段カフェイン中毒者という訳ではないが、それでも旅行先では殆どコーヒーを頼む。土地毎の味の違いを楽しみたい事もあるが、どんなに不味くなってもあくまでコーヒーではあるという酷く消極的な理由でもある。
メリーが取りに行っている間蓮子は再び手帳を取り出した。手帳にはおよそ普段の活動内容、章ごとのまとめ、それについての感想などが雑多に記されている。ぱらぱらと捲りながら、少し蓮子には気にかかる所があった。
メリーが両手に飲み物を抱え帰ってくる。
「はい、どうぞ」
「うん。さて、本題だけど」
受け取りつ、蓮子が切り出す。テーブルの上にはいつの間にか手帳が開かれ、ここだよと言わんばかりにページの中ほどを筆の柄で叩いている。
ぐえ、メリーが変な声を出した。心なしか体も後ろへ傾いている。
「まだするのお? ちょっと休憩しようよ」
「重大なんだってば。メリーさんはこの結界が何を媒介にしていると思われますか」
「ええ? そりゃあ、本でしょう。視た感じ、本の記憶とか」
答えるのも嫌そうに、メリーがカップの中身を啜った。紅茶だ。
確かに、視る際には本に表出した結界を用いている。視界が定点的なのも根拠に挙げられるだろう。見えはしないだろうが、きっと向かい合えば、その位置には本棚があるのだ。実際蓮子も、それには同意見だった。
そして同意見であるがゆえ。得たりと言わんばかりに蓮子が笑みを浮かべる。
「でもね、ここにある本、全部今世紀中に刷られたものなのよ」
貴重な紙媒体を、こんな表に置いておくわけが無いのだった。事実本棚に飾り手に取れる本は全てレプリカで、本物は地下の書庫に収められている。
何昔か前であればそれは重版と呼ばれたのだろうが、今はレプリカである。由来も出自もはっきりしているこの新参たちが、記憶している筈がなかった。メリーもその意味するところに気付いたようで、小さく声を上げる。
「えっ? あっ」
「なのにあの光景は、明らかに年代が違う。だから何処かに本物がある筈なのよ。あれを見た、オリジナルが。勿論何処にあるかは分からないけどね。もしかしたら結界の向こうかもしれないし」
メリーの傾きが、前へと戻ってきた。口の端を持ち上げ、蓮子もそちらによる。
「俄然興味出てきたでしょ」
メリーが頷く。ますます蓮子は笑みを深くする。そして勢いよくコーヒーを飲み干すと
「うっし、探すわよ!」
手早く手帳をしまい込み立ち上がった。あまりに勢いが付いて椅子が音を立てる。だがメリーは動かない。若干の苦笑を浮かべ相方の様を眺めている。
「盛り上がってる所悪いけど蓮子、私は動かないわよ。まだ疲れてる、休憩してたいもの」
「え、ええー?」
出鼻をくじかれた蓮子が相方に目を向ける。メリーは取り合わない。至極緩慢な動作で、紅茶に口を付けた。
所在無さ気に立ち尽くしていた蓮子であったが、数秒後、観念したように二杯目のコーヒーを取りに行った。結局、メリーが居なければ何も出来ないのである。そのまま静かに、二人暫しの休息を楽しんだのであった。
――
「急げ、夜が明ける前に出る。感付かれる前にだ、急げ!」
慌しく人が動く。部屋の中からあらゆる物が掻き出される。部屋の端に追いやられた長机の上にはもはや何も残ってはいない。破砕音が時折石に反響している。ある大きさ以上のもの、持ち運びに不便なものは破壊されているようだった。
同じ部屋だった。あの、唸り声の鳴り響いていた部屋と。今や聞こえるのは人の声、足音。獣達は息を潜め気配を感じさせない。置く物のなくなった長机が断ち割られようとするとき、一人老境に入った男が血相を変えて飛び込んできた。
「おい、止めろ! どういう事だこれは、私は聞いていないぞ……おい貴様、その手をどけろ!」
ローブも満足に羽織らず、素顔が見えている。その作りから導師と分かる。老境の導師が、今にも資料を抜き取ろうとした男に掴みかかった。男の喉から情けない悲鳴が上がった。
導師の顔は憤怒に歪んでいた。歳に合わぬほど、眼に力を湛えて。尤も、この外見に何の意味があろう。悪魔の記憶、魔女の記憶、その中に出てくる彼らが、また人間でないとも限らないのだから。
「見苦しい、黙れ。聞いていないだと? 出席もせず、片腹痛いわ」
先ほどから指揮を取っていた導師が割って入る。作業を続けるよう促し、老境の導師と正対した。両者とも引く様子はない。睨みつける老境の導師を、冷ややかな目で受け流している。
「これは私の研究だ、お前達が軽々しく触れて良いものではない」
「終わりだ。我々は無駄な犠牲を払わない。全ての研究成果は次へと持ち越される事となった」
取り付く島も見せない。未だ手近にあった長机が大きく叩かれた。
「私の研究は、おいそれと動かせるようなものじゃない!」
「ならば破棄するしかないな。奴らに渡す事はできない。貴様の研究などは特にだ。……既に、他の破棄は終わっている。残っているのは、お前のだけだよ」
「なにを」
「選べ。自らの手で棄てるか、私に委ねるか」
言い放つ。手をわななかせ、老境の導師が俯いた。周りでは、資料の搬出が続いている。
「……私が、やる」
「そうか」
吐き捨てるよう絞り出された言葉の後、会話は終わった。老境の導師が奥の部屋へと帰っていく。それを横目に見つつ、指揮を執っていた導師もまた元のように声を張りだした。
資料は、全て運び出された。
――
「随分と久しぶりな気がするな」
「ええ、そうね。久しぶり。その間私はせいせいしていたものだけど」
いきなり降ってきた声。少女は向きもせずに言い放つ。夜の図書館、二人のほかには誰も居ない。悪魔は、いつも突然に少女の隣へ現れた。
「近頃は私も忙しくてね、中々会いに来てやれなかった。随分ご無沙汰だった気もするが……さて、どうだったかな。一月も経ってないかもしれない」
「二週よ。前に来てから、二週。何が一月なものですか」
まあ、そんな所だろうな。悪魔は残し、それきり話を終えた。少女もこれ以上話を振らない。横の闖入者を無視し、本に視線を戻す。
静かに時は過ぎていく。悪魔も読書の邪魔をせず、かといって何を読むでもなく、暇そうに足をぶらつかせていた。少女が読み終えるまで、ずっと。
「実際、邪魔しないでいてくれるなら別に文句は無いんだけど」
静かに少女が声を出した。最後のページが閉じられる。少女の少し上を浮遊していた悪魔が顔を向ける。
「なにやってんの?」
「うん、その疑問は尤もだと自分でも思う」
体勢を整え、ふわりとした動作で少女の真横に降り立つ。妙に品のある所作は、彼女の生まれが決して卑しくない事を暗に示しているのか。
「何もやってないんだよ。暇でさ。帰っても特段やること無いし。面倒事をすべて片付けたらこの様だ。次からは少しくらい残しておきたいね」
「それで暇潰しのために暇な事してるの。呆れた、恐ろしい時間の無駄遣いね」
「なに、茶飯事さ。ようやく私にも分かってきたんだ、暇ってやつの恐ろしさが。色んな奴がそれで死んだ」
少女が珍妙な物でも見るように眉根をゆがめた。悪魔は意に介せず、あらぬ方を向いている。
「まあ、そんな事は気にしないで、どーぞお勉強を続けてくれて良いよ。かまってくれるんならそれも良いけど」
「気になるわよ、そんな真横に居座られて、こっちじろじろ見て。何もしないなら別にここじゃなくたって良いじゃない、気が散るから出てってよ」
少し、言葉に刺々しいものが混じった。悪魔は多少面食らったような顔をしたかと思うと俯き、苦笑いを浮かべて首を振った。
「ああ、そうだな……。語弊があったかもしれない。お前も、じきに年を取れば分かるようになるよ。若いのの頑張ってるのを見るのが、無性に楽しくなってくるのさ。だから勘弁して欲しい」
そして一息おき、
「今はお前が何をしているのか、が見たいのさ」
と言った。バツが悪そうに少女が目をそらす。悪魔はそれを見て満足げにしている。
「馬鹿じゃないの。口説き文句は、他でやって頂戴」
「中々、良いものだろ。ちょっと練習してるんだ。お前にはこの間すげなく断られてしまったからね、そのリベンジということで」
「馬鹿じゃない……それに、私はただ趣味でやっているだけよ。貴女の言うとおり私に師は居ない、だからここの本を使うしかない。それだけで、他に目的と呼べるようなものなんて」
「ふ、それでいいよ。今はそれで。魔法使いなんて種は、その内嫌でも何かを始めだすものさ。そのために生きているんだ。……受け売りだがね」
誰からの受け売りなのか、悪魔は言わなかった。そうしてまた、どこかを向いてしまった。機嫌が良さそうに。こうしていると、全く子供のようにしか見えない。
「昔、そういう奴らが居た」
おもむろに、悪魔が口を開いた。
「今も居るのかは分からない。お前みたいなのが集まってな、どっかの僻地に、ひっそりと暮らしてたんだ。いや、ひっそりと言えたかどうか。人間どもとは距離を置いていたが、所詮奴らも知識欲、研究欲の権化のようなものだ。中で何をしてたか、知れたものじゃない。そして時たま離散と集合を繰り返して……最後には、行方が知れなくなってしまった。もう大分前の話だ。細々と、生き残りは居るかも知れんが私は聞いた事が無い。研究は途絶したんだよ。だがその成果、途上は残り続ける。奴らは周到にもその成果を各所に保管していた。私はその足跡を追った。辿り着いたのが、ここだ。あいつらが研究していたものが分かるか。その分野は多岐に渡ったが、最終的には一つ、賢者の石に集約される。お前もその概念は知っている筈だ。賢者の石の生成こそが、奴らの至上命題だった」
そして、悪魔は口を閉ざした。少女はその横顔を見つめている。悪魔が再び語りだす気配は無い。沈黙が場を覆った。
「それで」
破ったのは、少女だった。
「石は、造れたの?」
悪魔が小首をかしげる。手近にあった本を一冊掴んで、弄んで。
「無理だった。言ったろう? 途絶したのさ。奴らはその長い研究の間にも、終ぞ石一つ、造れないで終わってしまったんだ。だが……」
「遺産は、残る……」
「ああ。奴らの離散の最後の一区切り。ここの蔵書はその時に奴らが寄進した物だ。中々上手い案だと思うよ。お陰でこいつらは、今もなお丁重に保管されている。誰も読める奴など居ないのに、国の宝だと言って、丁重にな」
本の壁は延々と続いている。高くそびえて、それがどれほどの量なのか、一目に把握しきる事は難しい。
「ここにあるのは、賢者の石の基礎理論なのさ。そして、万物の魔法の入門書でもある。有用だぞ。いくら天才と言って、お前はまだ駆け出しの魔術師に過ぎないのだからね」
「なにを、えらそうに……」
少女がじとりと横目で睨む。それに応えて悪魔が笑う。そのうち、少女もまた、苦笑をこぼした。
――
「偏ってきたわね」
片っ端から結界の視える本を探し、持って来て。ついに二人は二階にまで下ってきていた。吹き抜けから一階が見える。もう二階は漁り尽くした。後は下、一階で全て見終わることが出来るだろう。
この数冊、映像は少女と悪魔のものに終始していた。思う所が正しければ、おそらく両者の時間軸は違う。あの怪しげな男達の行く末は資料が運び出された時点で終わったのだ。だから残るは、他に無いとも言い切れないがあの少女達が主となる。
「蓮子、見付けたわ。右手に二つと左手に一つ」
メリーが吹き抜けから階下の結界を捉えた。頷き、近くの階段から一階へと降りる。中央螺旋階段。吹き抜けの傍、柱に埋もれるようにして五階までを貫いている。歩きながらメリーが口を開く。
「もう、きっと残りも少ないよね。この先は結局どうなるんだろう」
「分からない。見れば何かわかるものだと思ってたから。とにかく最後まで見てみよう、話はそれからよ」
降りてすぐ、目立たなさそうな席を探しに行った。確認していた数冊を持ってきて、向かい合わせに座った。
――
「あー、この辺りが怪しい。今度は大丈夫、多分」
「本当かしらね、どれ」
本棚から少し離れた壁の際、歩み寄った少女が壁にしるしを付ける。一、二、三。四つ目を付けると同時に、口の中で呪文を呟いた。
「私の運命視って自分に関係ない事には効果が薄いんだよ。まあ、三度目の正直とも言うし」
「二度ある事は三度ある、とも言うわね。さて」
暫く待って、壁に反応が現れた。印の場所に淡い光。それ以外にも数個、色の付いた箇所がある。
少女が舌なめずりをした。
「正直の方だったみたいね。じゃ、これから解呪に取り掛かるわ」
「出来るのか?」
「そう難しい物じゃないし、見た感じ大体は読めるから大丈夫、だと思う」
「ふーんそうかい。ま、出来たら呼んでくれよ」
そう言って悪魔が身を翻す。次の瞬間、その姿は闇へと溶けていた。少女はそれを見送り、壁の方へと向き直る。
そして少しの間、動かなくなった。ただ壁を見ている。おもむろに、光の無く、色だけが付いた所を触り顔を近づける。指で軽く叩くと、印が揺らめいた。
「まだ、まだかな……」
ため息をつき首を振る。
もう一度壁を調べ、何事か手を加えると全ての印が輝きだした。そのまま懐から怪しげな薬剤や粉末などを取出し床に並べる。印の間に薄く線を引いた。
時折かがみこんでは、二言三言何かを呟いているようだった。そして時折、思い出したように動いてはまた壁の前でじっとする。どれほどそうしていただろう。薬瓶の蓋を閉め終えた少女がおもむろに立ち上がった。
「レミィ、出来たわよ。何処に居るの」
呼ばわると羽ばたく音が聞こえ、一拍の後に上方から悪魔が姿を現す。
「意外とかかるじゃないか」
「一刻。まあまあの範囲よ」
壁のあった場所にはぽっかりと穴が開いている。中は空洞、下へ続く階段が見える。穴の横には、小さな魔法図が描かれていた。
「これは?」
「閉じる用のやつ。穴、このままにもしておけないでしょ」
「なるほど」
悪魔が穴を覗き込む。風の吹き上げてきそうな暗い中を眺め、何を考えているのか。すぐに振り向いた。
「ノーレッジ、悪いが先に行かせて貰う。お前はゆっくり降りて来るといい」
言うやいなや悪魔が階下に飛び降りた。滑るように、階段を下って行った。少女の返事も聞かずに。
少女は何も言わなかった。ただ目で追い、少しばかり待った後に、光源を取り出し歩を進めた。少女の体が見えなくなる。数瞬の間を置き、偽壁が構築され始めた。
―
一番下、おそらくは図書館の真下。階段の終わりから少女が出てくる。石の壁、決して高くはない天井。棚は縦横に配置し列が作られている。
手近な棚を物色する。当然のように、本棚である。この劣悪な環境下にもそれほど本は傷んでいないようだった。分類を見る。薬草学。
少女が首をかしげた。反対側の棚を見る。こちらも、薬草学とある。少女はまた首をかしげた。
明かりを置き、適当な方向へ向けて散策する。暫くすると棚に囲まれる形で大きめの、木で出来た机が姿を現した。距離からするにここがこの地下の中心と思われる。上の図書館と、同じ広さであるならばと仮定して。
すぐ近くの呪(まじない)文字と書かれた棚から一冊取り出し、椅子の強度を確認してから腰掛ける。そして施された術の有無を調べ始めた。
危険は無い。ここの本にかけられているのは、みな品質保持の魔法だけだ。なおも少女は本を裏返したり、棒で叩いたりしていたが、その内おもむろに本を開いた。
熟読している。自前の光源の、その乏しい光量も気にかけずに手は素早くページを捲っている。一冊を読み終え、まだ連れが来ていない事を確認すると、また周囲の棚から一冊机の上へと持ってきた。
その一冊も読み終わろうかという頃、向かいの棚から声がした。
「どうだい、ノーレッジ。収穫の程は」
珍しく、棚の間を歩いている。悪魔はそのまま歩み寄ると、少女の隣に腰を降ろした。
「興味深いわ。流石上よりは高度な内容が並んでいる。けど」
「けど?」
「ううん、ちょっと、ね。それより……」
少女がちらと横を見る。悪魔が首を振る。
「そう……」
「碌な物じゃなかったよ。だから、燃やした。読みたかったか?」
「いえ、いいわ。碌な物じゃないんでしょう。見てもしょうがないもの」
「そうか」
悪魔が天井を仰ぐ。
「残っている、ものなんだな。こんな昔の物。もう見付からないと思っていたのに」
「そのためにここはあるんじゃないの? そしてあなたは目的を達した。何の目的かは知らないけどね……よくも利用してくれたわね」
「お前だってここを見つける事が出来たんだ、お相子さ。それに最初からそんなつもりだったわけでもない。私はただ、運命の導かれるままここへ来たに過ぎないのだからね」
「よく言うわ、ただの勘でしょうに」
「勘と言えど、当たる勘は凄い勘なんだよ……」
暫しの沈黙の後、悪魔が立ち上がって背筋を伸ばした。翼も一緒になって伸ばされる。
「さて。私はもう用も無くなってしまったが、お前はどうするんだ? 私は館に帰るが」
「まあ、暫くはここに篭る事になるかしらね。ある程度解読が済んだら、同族を探すのは……レミィ、どう思う?」
「無理だろうな。あいつら、随分前から姿を見ない。秘境にでも入ったかあるいは全滅したか、どちらにせよ今更見付けるのは難しいだろう。ところで」
「何?」
「お前、ここに篭るのか」
手入れもされず、換気も出来ない空間。日の光も差さない地下深く。およそ人の住むのに適した環境とは言い難い。
「仕方ないでしょう、文句は先人に言ってよ。ま、気が向いたら遊びに来て。多分死んではないだろうから」
「お前、意外と根性あるなあ」
「でなきゃ魔女なんてやってられないわよ」
――
「終わった……」
手を繋いだまま、メリーが呟く。その言葉に反応し、蓮子も目を覚ました。
視界が戻る。向かい合って重ねた手。その下のレプリカ。メリーは未だ俯いていた。
「本当に終わった……?」
蓮子もまた、小さく呟いた。元の視界がぼやけている。馴染むまでは暫くかかるだろう。手をほどき、蓮子が頭を掻いた。
「これ以上、無かったよね」
他には無かった。断言できる。散々探し回った挙句、隅でひっそりとぼやけていたのを見つけたのだ。上にも下にも、一度通った所まで含めて探したのだから、間違いは無いだろう。
煮え切らない思いがする。記憶はまだ、むしろ始まるだろう部分で終わっている。次があるはずだ。あの時期から今に続く、空白の時間が。
だが二人は辿り着いただけで終わってしまった。本はそれ以上の記憶を見せなかったのだ。出し惜しみをしたか、あるいは本当に無かったのか。
「本体を視ないと、駄目なのかしらね」
俯いたまま、メリーがぼそりと言った。その手は未だ伸ばされたままで、机の上のレプリカに乗せられている。
それどころか未だ顔も上げずにいた。もしかすれば、蓮子が目を覚ました時からずっと。
「メリー?」
蓮子が呼びかけると同時、いきなりメリーが立ち上がった。そのまま二、三歩進む。顔は下を向いたままで、机の上の本もほったらかして。
メリーはそのまま蓮子の横も過ぎ去って、その後方数歩の位置でぴたりと止まった。相方が隣を通るとき、蓮子はその眼が何処か別の所を視ているのに気付いた。焦点が目の前の床面に合わさっていない。もっと、遥か遠くを視ている。
「下。視えたわ。多分ずっと下の方、何か感じる。これが本体じゃないかしら」
「下って、床の? 地下?」
「ええ、この真下よ。距離は、どれくらいだろう、凄く遠い。多分この五階よりも遠いんじゃないかな。でも視えるの。何でだか分からないけど、場所だけがはっきりと分かる」
そしてまた、何かを探すようおもむろに辺りを見回したかと思うと、ふらり、何処かへ向けて歩きだした。
些かの当惑の中、追いつ、蓮子が思考を巡らせる。何が起きたかは知らないが、とかくメリーは何かを察知したのだ。相方が眼を使っている間、思考判断は蓮子の仕事だった。
メリーが歩く。何にせよ、続きがあるのは良い。それは蓮子としても望む所だ。だが、それは五階層もの下だとメリーは言った。
遠い。遠すぎると言っても良い。地下にレプリカの置いてある筈もなく、まずそこが本体の場所である事は間違いない。だがそれは、当然ながら書庫の奥という事でもある。
そんな奥にどうやって行くのか。出自も考えるに相当な奥なのだろう。きっと発掘等なされて、厳重な警備のもと保管されているに違いない。二人は未だ学生で、行動するに足る身分も地位も備えてはいなかった。忍び込むなど、それこそ論外と言っていい。
その葛藤を気にもかけずメリーが立ち止まる。蓮子もつられて立ち止まる。もう図書館の随分端の方に来ていた。壁際で、人通りも少ない。
「蓮子、行こう。道は……こっちだよ」
メリーが仕草で促す。先には関係者用の扉がある。扉には勿論立ち入り禁止と書かれている。一瞬、蓮子は呆気にとられた。まさか、この相方は、本気で直接地下へ行こうと言うのか。
少しの間だけ、蓮子は何を答えれば良いのか分からなかった。行くとメリーは言った。それは普段蓮子の使う言葉だった。メリーはむしろ、こういった事は避ける傾向にある。そして言う側であるはずの蓮子はその判断を否定したのだ。
なのにメリーの方が、積極的にも侵入を示唆しようとしている。もしや何か考えがあるのかもしれないと思う。それならば蓮子も、協力することにやぶさかではなかったが。
だが蓮子が何を言う前、メリーは殆ど迷わず扉へ手をかけていた。
咄嗟の判断、蓮子はその腕を掴んだ。ノブは回らない。回らないまま、メリーの腕に力が入る。無理矢理にでも扉を開けようとする。蓮子は譲らず、一層その手に力を込めた。
「メリー、何やってんの? 随分無茶するじゃない……」
咄嗟にしては良い判断だったかと蓮子は自問した。
腕は離れなかった。この細腕のどこにそんな力があったのかと思うほどに、徐々にメリーは蓮子の抑止を振り払っていく。ノブの付け根が、みしりと音を立てる。掴んでいた手がずれ、メリーの腕に赤いすじが見えた。
蓮子の内心に冷たいものがよぎる。明らかに様子がおかしい。少なくとも正気の沙汰ではない。その皮膚が破れても、メリーが掴んだ力を緩める事はない気がする。勢いをつけ無理矢理扉から相方の腕を引き剥がす。メリーが顔を上げた。
「……蓮子、何するの? 見つかっちゃうよ。見つかったら面倒だよ」
メリーはまるで不思議そうにしていた。気の違ったような行動をしているのは、蓮子の方だとでも言いたげに。その正否を問うつもりは蓮子にはない。
一目でわかる。この期に及んで、メリーの眼は、全く焦点を合わせることを放棄していたのだ。顔を向けた間も眼前の蓮子にすら焦点を合わせていない。像を結ぶことも必要としないで、視界でも結界でもない、一体何をその眼に映しているのか。
背筋が凍る思いがする。本体か。唯一メリーが反応していた地下の本体、あれだけを視て行動しているのか。あの場所に辿り着くために。辿り着いて何をするかも定かではないのに。ただ不乱にメリーは動いている。
再びメリーがノブを回そうとした。同時に蓮子も力を込める。相方に顔を近づけ、眼で、眼を合わせる。うつろな眼。力強く、蓮子がそれに応える。腕を掴んだまま、三秒、四秒。
「帰ろう、メリー。妄執に取り憑かれる前に」
彼らを縛る妄執に。その言葉を聞いた途端、ふ、とメリーの腕から力が抜けた。見詰め合った焦点が、眼前の蓮子に合わさる。
「……ま、まあ、蓮子がそう言うなら。でも良いの? こんなスポット、滅多に無いわよ?」
「ああ、いいのよいいの。どうせ逃げるもんでもなし、不法侵入なんてして異国で御用になるよかマシだわ」
メリーは自身の変貌にすら気付いていない様子だった。背を向けて手で撤収の指示を出す。内心に流れる汗を隠すように。
まさに失策だった。メリーの変貌。自分達はただ、こぼれ出た表出を覗き込んでいるだけと思い込んでいた。映像が流れるだけでこちらからは干渉もできない、ただ視ているだけだと。
それこそが間違いだった、考えが甘かったのだ。媒介はレプリカでも、その記憶は地下深く、本体のものになる。あの結界を覗いている間、常に二人は記憶を通して本物の前に繋がっていた。
そしてゆっくりと、される当人も気付かぬほどゆっくりと、本体は干渉を進めていたのだ。蓮子の力で解くことができたのは不幸中の幸いと言うほかない。どれだけ繋がっていただろう、人一人を催眠にかけるには十分すぎる時間な気もする。あの、散発していた結界は撒き餌であったのだ。最終的にメリーは手足にされた。伝えられた意に添うように、地下深くの本体まで辿り着かせるように。蓮子にまでそれが及ばなかったのは……。
運が、良かったのだろうか。何か特別な、護られるような理由があるとは、蓮子は思っていなかった。自分はそういったものとは違う。だからたまたま蓮子にまでは手が届かなかった、それが一番筋の通る理由だ。
本当にそうなのだろうか。同時に蓮子はこうも思う。ただ単純に、蓮子を催眠にかけるだけの力が無かったのではないか、と。
「はあ、ここもこれで撤収か……なんか半端な感じがするね。あの本も、もう少し視させてくれて良かったのに」
歩きながら呑気なことをメリーが口走る。蓮子は俯いた。心の中で、きっとこれ以上の映像は無いことを確信していた。
この図書館は比較的新しく作られたものだ。蔵書は全て出自がはっきりしている。どこで得たかどこから贈られたか、全て記録として残っている。
ならばあの本はいつ、何処からここへ持って来られたのだろう。まさか湧いて出ることはない。誰かからの寄贈、あるいは発掘。人の手に容易く捕獲されるようなものが、何の価値を持ち合わせよう。
あの少女たちは最後まで本を所持しなかった。それが答えなのだ。
門を出て駅の手前まで来たところで事の顛末と自説を伝えた。列車はまだ来ない。メリーは少し考えた後それはおかしいと言った。
「だって、蓮子の言ってる事には理由が含まれてないじゃない。まあ、私が変だったってのは認めてもいいわよ。確かになんか記憶も曖昧だし、言われてみれば気分も悪いかなって気もするし。でも、なら何で私はそうなったの? その説明が無いんじゃ片手落ちだわ」
「それは……でも怪しげな魔道具ってそういう物じゃないの? 古今東西、人を惑わせるためにあるのが相場でしょ」
「私はそうは思わない。だって、その古今東西って所詮はおとぎ話の中の出来事でしょう? 道具が持ち主をいざなうなんて、単純に考えて使わせるために決まってるじゃない。私はそのために呼ばれた。つまり、私はあの本の次の持ち主に認定されたのよ。その証拠にほら」
メリーの指が地をすべる。駅と反対、図書館の方へ向く。
「あの地下、視えるものが増えてるもの。二つ、三つ。今四つに増えたわね。まだまだ増えそう」
げ。蓮子が喉から変な声を出す。同時に、列車がホームに到着した。蓮子は相方の手を引っ掴み、一目散、その車両へと乗り込んだ。
これからも待ってます。
だから早く続きを書くんだ!
ところで今回のNo.33は、40話あったら33話くらいってことでおk?
なるほど確かに偽名っぽい空気がプンプンしていますね。そこに目をつけるとは。