――初めて報道部隊である私達に写真機が配備されてから一週間後、同僚達の中で私だけが新聞を作成できていなかった。
――今でも新たな鴉天狗達が報道部隊としてデビューする時に「あの射命丸も最初は」なんてネタにされるから、その事実だけは今でも忘れることはない。
――でも何故、その時の私は新聞を発行できなかったのか。その理由が、思い出せないでいる。
ハンディ・ホウライ ~~ Imperishable Shooting ~~
木枯らしすさぶ冬の幻想郷。
黒衣の魔女、霧雨魔理沙の記憶が正しければ紅魔館の門番には翼なんぞ生えていなかったはずである。
もしかしたら愛を知らぬまま死んだ少女が変生すると言われる凶鳥モー・ショボーと化してしまっただけかもしれないが、まぁそんなはずはないだろう。
「なぁ文、どうしてお前が紅魔館の門前でスタンバってんだ?」
「紅美鈴は犠牲になったのだ……」
「OK。もうどうでもいいからそこをどきな……って、どうやらどく気はないみたいだな」
転進した先に即座に回りまれた魔理沙は溜息をついた。文を軽く睨んでオプションスレイブを生成、脳内でスペカの取捨選択を開始する。
「とりあえず貴女の侵入を阻止する毎に十号、今後の文々。新聞を購読いただけるようパチュリーさんと交渉が済んでおりますので」
「けっ、記事の内容じゃなくてサービスで購読を取り付けるなんて恥ずかしいと思わないのか?」
「まずは一度目を通していただかなくては定期購読に繋がらないでしょう? 最初の一歩は手段を選ばず。これ勧誘の鉄則です!」
「号外ばら撒いて定期購読に繋がらないんだから諦めろよ……」
言葉と目線で呆れを返してみて、はて。文のいでたちに違和感を覚える。その違和感の正体に気付いた魔理沙は内心で首をかしげた。
魔理沙の頭の内にある射命丸文は写真と(自他問わず)命を秤にかけて写真を撮る、ごくナチュラルに道を踏み外した非道徳者であったはずだが……
その彼女の手の内には今、なぜかカメラがないのである。妖怪の山の番人として現れたその時以外、魔理沙は手帳もカメラも持たぬ文など見たことがないというのに。
だが、魔理沙にはそれ以上物思いに沈む時間は与えられなかった。
死角から放たれる扇弾、それを紙一重でやりすごす。
「おいおい、弾幕ごっこで奇襲はルール違反だぜ?」
「前口上はもう交わしたじゃないですか。さぁさっさと私の新聞になっちゃってくださいな」
「やなこった! 購読者は地道に脚で稼ぐんだな。努力なくして結果を出すのはチート巫女だけで十分だ!」
軽口を叩きつつ魔理沙は意識を切り替える。身のこなしに自信のある二人の弾幕ごっこは、自然と速度重視になるだろう。
と、なれば人間の魔理沙は若干不利であるが、それで退くようなら魔理沙は今も箒で空を飛んではいない。
内心の不利認識などおくびにも出さずに魔理沙は悠然たる微笑を浮かべた。相手が向けてくる表情も似たようなものだ。
違うのはお互いを支える自負の強さだけ。
「美鈴さんにならってカードアタックは四回、さぁいきますよ?」
「ふん、まあいい。一応言っておくが、私が紅魔館の敷地に入った時点で門番であるお前は負け。ケツにナイフが飛んでくるぜ? 気を付けるんだな」
「そのナイフを貴女に投げればその時点で侵入を阻止できるんじゃないですかね? 歪んでるなぁ…… ま、私はそんな歪んだ愛は真っ平御免なので、いざ尋常に……」
「「勝負!!」」
言葉と同時に炸裂音が響く。
魔理沙の脳がそれを認識するよりも早く右手の八卦炉が星屑の渦を形成する。
その星屑の海へ両者は主導権を握らん、とばかりに先を争うように飛び込んでいった。
◆ ◆ ◆
射命丸文はもうゴールは諦めてリタイヤしてもいいよね? なんて思いを己のデスクで日々、密にしていた。
「班長、『人里における術師と武士の推移 九十季~』が見当たらないんですが」
「あーそれたしか『仁班』のみっちゃんが持ってってたはずよ。持ち出し記録忘れないように言っといて」
「班長、『河童の人里への過干渉に対する公式回答案』草稿上げたので確認と承認お願いします」
「あー机の上置いといて。明日見て印が押してなかったら悪いけどもう一回催促して」
「班長、架空索道敷設対策会議が十八時から始まるわよ」
「あーごめんはたて、それ貴女にうっちゃっていい?」
「いいわきゃないでしょ? 班長以上は全員参加。あんたじゃなきゃ駄目に決まってるじゃない」
視線にこそ哀れみが篭ってはいるものの、口調そのものは咎めるような姫海棠はたての叱咤に文は溜息を返して立ち上がる。
「班長、その、大丈夫ですか?」
「あー? 駄目。もう駄目。皆には悪いけど私そろそろ過労死するわ。墓には世界一美しい鴉天狗、妬みにより謀殺さるって彫っといて」
体調を気遣う部下にひらひらと手を振りながら冗談を返すと、文は資料を片手にデスクを後にする。
バタン、と。「波班」の札が下げられた共同作業室の扉が閉じられた後、はたては空席になった文のデスクを眺めて首をすくめた。
「あの、はたてさん」
「言いたいことは分かるわよ新入り。なんでうちの班はこんなに仕事が多いのか、でしょ?」
背後からおずおずと声をかけてきた新米の鴉天狗に振り向いて、大仰に頷いてみせる。
確かにはたてが属している、射命丸文を班長とした鴉天狗報道部隊「波班」の激務たるや他班のそれとは比較にならなかった。
本来鴉天狗の仕事は報道。幻想郷内を飛び回って各地の情報を写真ないしは文章で収集、記録することと、妖怪の山の意向を各地の妖怪に触れて回ること。その合間に趣味で各々自分の新聞を書く。
前二つが主任務であって、書類整理など鴉天狗の本分ではないというのに。
「ええ。明らかに『以班』や『呂班』に比べて倍近いじゃないですか。本来なら鼻高がやるような事務まで普通に回ってきますし……」
「しゃーないわよ。文が大天狗様に目を付けられてんだもん」
「班長が、ですか?」
「そ、わかんない?」
問われた若い鴉天狗はしばし思考の海にダイブしていたが、結局海底からは何も拾い上げられなかったようで小さく首を振った。
「じゃあヒント。うちの上司の大天狗様ってお幾つだったっけ?」
「えーと、およそ七百歳でしたっけ?」
「そ、四捨五入したら八百歳だけど七百って言っといたほうがウケはいいわね。で、文は幾つだっけ?」
「えーと、射命丸班長は千歳オーバー……ああ!」
閃いた、とばかりに若い鴉天狗は小さな声をあげた。
「そういうこと。文ってばもうとっくに大天狗になっててもおかしくないのに未だ鴉天狗のままでしょ? 文が無能だったら別に問題なかったんだけど、あいつってほら、割と優秀じゃん?」
「あー確かにそれはやりづらいですね」
「そう、だから大天狗様はとっとと文を班長の座から追い出したいわけ」
「辞めさせたい、と?」
「多分その逆じゃない? 大天狗になればそんな苦労しなくてすむよー、ってね。出世欲があまりない優秀な管理職なら大歓迎だもん。出世争いを気にせず、自分の負担を減らせるんだから」
成る程、とその鴉天狗は頷いたが、すぐに次の疑問に頭を悩ませる。
「何で班長は大天狗にならないんでしょうかね?」
「さあ? そっから先はプライベートだしね、私もよく知らない。ただ文はこれから先も多分鴉天狗のままだろうから、うちの班の仕事が減ることはないわ」
「そうですか……はたてさんは大丈夫なんですか?」
「ん? ……私は事務得意だし。もう体がヤバイ、って思ったら早めに転属願いを出しときなさい。珍しいことじゃないから多分受理されるわよ」
なにせはたて自身、「波班」に配属されてせいぜい三十年余といったところであるのに、数年前に二百年に及ぶ「波班」生活を寿退職にて閉じたベテランの先輩が抜けて以降、在班歴は文に次ぐ、といった有様である。
在班三十年の若輩が先輩面するはおろか、次席を務める班なんて「波班」以外にあったもんじゃない。
「……分かりました」
はぁ、と気の抜けたような返事を返す新入りに作業に戻るよう手振りで合図すると、はたても自分のデスクに腰を下ろす。
引き篭もり気味のはたてにとってはデスクワークはさほど苦ではない……どころか手の届く範囲だけでの作業は得意中の得意。
同僚達が撮影してきた写真の中から使えそうな物と使えない物とを選り分けつつ、はたては頭をよぎる思考に流されていく。
はてさて、なぜ射命丸文は千年も鴉天狗のままでいるのだろうか?
一般的な天狗が人や動物から変生した種族であるならば、大天狗とは天狗が天狗に変生した種。
それ即ち天狗として更に上をいく、ということだ。文にはもう十分にその資質がある。
大天狗になって困ることなんてない。権力も地位も向上するし、妖気だって底上げされる。
飛行速度は流石に鴉天狗よりかは若干劣るものの、妖術のバリエーションだって増えるし、何より今みたいに業務に忙殺されることもなくなる。
鴉天狗でいることにメリットがあるとすれば、報道業務で各地を飛び回る合間に自分の新聞のネタを捜せるくらいか。
いや、文にとってそれは「くらい」じゃないのかもしれないな、とはたては文が撮影した写真を思い出して嘆息した。
並んで蒼穹の空を往く巫女と魔法使いの笑顔。
紅魔館の窓から雨天の中庭に目線を投じているメイド長。
桜花の元で、さて庭の造形を如何にせんと長考に沈む庭師の横顔。
ドヤ顔で鵺を捕まえて、お花畑でダブルピースしている友人の風祝。
内輪の報道ばかりで目を引くところのないほかの新聞と比べて、文の新聞は躍動感と目新しさに満ちていた。
彼女の写真にはほかの天狗達のそれにはない不思議な魅力がある――とは悔しながらもはたても認めるところである。
そもそもはたてが「波班」に留まっている理由の一つが文の写真に直に触れてノウハウを奪うため、というのは他人には言えないちょっとした秘密だ。
「でも、大衆ウケはいまいち」
幻想郷中の情報を随時収集し、処理している天狗達にとって各個に発行する新聞などはただの娯楽のネタである。
真実なんぞには業務で触れているのだから今更記事にする必要などありはしない。
ゆえに新聞に求められるのはただのエンターテイメントだけ。面白可笑しいことが最上である。
そんな中で一人、真実に可能な限りこだわった新聞ばかり書く文は、やはり足を封じられたくないのだろうか?
「ああ、やめやめ。そもそも文が大天狗にならない理由がそれとは限らないじゃない」
思考を振り払うように首を振って気がついたが、いつの間にかはたての周囲には誰もいなくなっていた。
時計に目を向けてみれば、成る程もう皆とっくに帰っている時間だ。多分後輩達に声をかけられてはいたのだろうが、なにせはたてのスルー能力は伊達じゃない。イージーシューターではお目にかかることすら能わないし、産みの親ですら気がつけば忘れるほどのスニークっぷりだ。
ちょっと頑張りすぎちゃったかな、とはたては苦笑して机の上を確認する。
無心に作業してしまったが、選別とファイリングは概ね終了しているようだ。残った不要な写真を廃棄するべく立ち上がったところ、
「あー、疲れた」
「お疲れ。会議長かったのね」
「会議の後に個人的に大天狗に捕まってね。そっからが長かったわ……」
文が会議から帰ってきて、やつれたような表情で自分のデスクに腰を下ろした。
会議の資料を放り投げる文に苦笑いしつつ、はたては不要となった写真を裁断機にかけていく。
最近から色々とぷらいばしーとかが厳しくなったため、使わない写真は処分するようにと上の方針で義務付けられたのである。実にめんどくさい。
「……はたて」
「なに?」
「え? ……なんでもない。まだ長いの?」
「まさか、今日はもう帰るわよ」
「そ」
「あんたも早めに上がりなさいよ?」
「これ仕上げたら帰るわよ……労わってくれるってーなら休みとってもいい?」
はたてと会話しながらもデスクの書類に筆を走らせている様を見れば、流石にはたても哀れに思うが……
「あんたと同じ位働ける奴を連れてきてくれりゃ、いくらでも休んでいいわよ」
「大天狗と同じことを言うのね……」
「そりゃ大天狗様の意図はともかく、私はそう言わざるを得ないでしょ? そうじゃなきゃ業務が滞っちゃうし」
とはいえ、あまり根を詰めすぎなければよいのだが。
どこか痛むような笑顔を浮かべながらはたてもデスクを後にする。
「じゃ、先に失礼するわ」
「あーお疲れー」
「お疲れ様」
そしてただ一人、部屋に取り残された射命丸文は黙々と作業を続け、今後一ヶ月の作業見積もりをまとめ終えると一言、
「よろしい、ならば私は自由を手に入れるわ」
呟いた。
「というわけで、こちらの方が今後二週間ほど私の代理をしてくれます龍・美星さんです」
「あーえー、右も左も分かりませんのでご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
文の横、日溜まりのような笑顔で腰を折って会釈する美鈴にどう対処すればよいのだろうか。はたてを始めとする「波班」の面々と、「以班」~「止班」までを統括する大天狗は上下の区別なく皆一様に互いの顔を見やって、なんとも言いがたい表情を浮かべていた。
「ではすみませんがメイシンさん、今月の業務予定はこちらに、各作業毎の注意点はこちらにリストアップしてありますので」
「ふむふむ、成る程。これなら何とかなりそうです……あ、ここ。これどういう意味ですか?」
「あー、これはですね。棚と草紙に記号が振ってありまして」
「ああ、成る程。そちらを参照すればいいんですね」
「ちょ、ちょっと待ちなさい射命丸君!!」
動揺を隠し切れないまま、大天狗は声を震わせる。
「なんでしょうか大天狗様。見ての通りメイシンさんは優秀ですので問題ないと思うのですが」
「問題大ありでしょう!? 彼女は紅魔館の一員じゃないですか!?」
「やだなぁ人違いですよ。彼女はロン・メイシンさんですってば」
「……ああもう! じゃあそれは置いておいて! いずれにせよ部外者を山に入れるなんて、一体君はなにを考えているんですか!」
「はて、大天狗様にも既にご承認いただいてるはずですが。私が休暇をとるために出された条件は『私と同程度の作業ができる代理を連れて来る』だけだったと記憶しておりますが? 種族所属を指定されましたっけ?」
当然、大天狗は「天狗の中から」というつもりでその条件を出したのだろう。
天狗は仲間意識が強い妖怪だ。加えて天狗こそが一大勢力として幻想郷発足時からこれまで郷を見守ってきたのだという本分と誇りがある。
だから他種族に助力を請うなど論外。それが天狗の共通認識であり、常識であるはずだった。
それを承知の上で、文は河童印のボイスレコーダーを片手に平然と嘯いている。
「で、ですが、他勢力を山に入れるなどと……」
「では承認を撤回なさると?」
「……」
管理職の承認がそんな軽いもので良いのか? と言外に責め立てる文に対し、大天狗はわなわなと拳を震わせつつも沈黙を維持するに留まった。
それを目にして「あちゃー、文ちょっと吹っ切れすぎじゃない?」 なんてはたては眉根を寄せる。が、ここではたてが何かを口にしたとて事態はもう何も変わるまい。
ほかの班員はと言えば、文の余りにも大胆な行動に言葉もなく突っ立っているのみだ。
平然としているのは当の射命丸文と紅美鈴の二人だけで、態度はそわそわ、されど口は沈黙を守る天狗達を尻目に両者は再び作業のチェックに移っている。
そして天狗達が呆然から復帰し始めた頃には、文は風のような早さで作業室を後にしてしまっていた。
◆ ◆ ◆
「と、いうのが一週間前のお話。私は自由を手に入れたのよ。ふぅーははは! 体が軽いわ! こんな幸せな気持ちで戦うなんて初めて!」
「ふーん、お前も無茶苦茶やるなぁ。帰ったら居場所がなくなっているかも知れんぞ?」
世に言われる吸血鬼異変ぐらいは魔理沙だって知っている。幻想郷妖怪の中枢たる山と吸血鬼は、過去の話とはいえ血で血を洗った間柄。
ゆえに吸血鬼の一派を天狗が平然と己の代理に据える、というのは豪胆にも程があるというものだ。
天狗という種の面に泥を塗った、と言ってもよさそうな文の所業に、魔理沙は若干の心配を覚えたのだが……
が、射命丸文は何処吹く風だ。ニッと笑ってティーカップを傾け、ジャスミン茶をその小さな口に流し込む。
「あやや、ずいぶんと優しいのね。その反応はちょっと以外だったわ」
「……まぁ、あんなポカミスを見せられちゃあなぁ、流石に心配にもなる。とても幸せな気持ちで戦っていたようには見えなかったが」
門前で繰り広げられた弾幕ごっこは終始、文が主導権を握っていた。
ゆえに最終的には文の勝利という運びにはなったのだが、その一方で文はイベントホライズンやスターダストレヴァリエといった、いつものスペルカードにあっさり被弾するという凡ミスを重ねていたのである。
避けそこなった、というよりも何か別の思考に囚われて弾が目に入らなかった、とでも言った方が正しいその挙動は魔理沙に不信を抱かせるに十分であった。
だがまぁ、結果だけ見れば魔理沙の敗北。紅魔館内に進入ができなくなったため、今は中庭のオープンテラスでティータイムだ。
山颪も厳しい冬の屋外ではあるが、文の能力によってテラスは無風。日差しのある今日ならばそこそこの快適さは維持できる。
「大丈夫よー、あれ多分そういう意味で避け損ねたんじゃないし。それに天狗は仲間意識が強い種族だから、そうそう追放とかはありえないもの」
「ま、それにお前なら万が一、一人になっても十分やってけるもんな。……で、何で美鈴なんだ?」
「えー? 私と同じ位に事務作業ができて、かつ暇そうな方なんて彼女と人形遣いくらいしか思い浮かばなかったしー」
「命蓮寺の連中とかは割と優秀だぜ?」
「窮屈なお寺暮らしなんて私がイヤ」
「……成る程な。そういう意味じゃ美鈴に勝るやつはいないか」
空になったカップをソーサーに戻し、魔理沙は人在らぬ門を見やって苦笑する。
人当たりがよく不得手がない万能タイプで、ついでにいつも暇している美鈴なら概ね誰の代打としても十分に機能するだろう。しかし……
「美鈴の奴は何で引き受けたんだ? 気位の高い天狗の性格からしてあいつの行き先は針のむしろだろうに」
「たまには敵意の中に身を置いておかないと、いざという時に実戦の勘が鈍るそうよ」
隣の椅子に突如現れ、平然と紅茶を啜っている、
「咲夜、出てくる時は出てくるって言ってくれよ。心臓が縮みあがるぜ」
「いいじゃない。どうせ剛毛と脂肪に覆われて肥大化してるんでしょ? その心臓」
咲夜にさしたる非難も篭らない口調で文句を言った後、魔理沙もまた紅茶で満たされたカップを傾ける。
「アッサムだな?」
「祁門。混同しようがないわよ、この二つ」
キノコマニアの舌はそんなに上等ではないようだ。
「……それでお前はこんなところで油を売ってていいのか、文?」
「門番の仕事は『昼の間に紅魔館を訪れる者には必ず対面すること。通す通さないは自己判断で、それさえ守れば後は自由』。で、いいんでしょ?」
「ええ。それを遵守するならば何をしていてもいいわ。新聞を書いていようがいびきをかいていようが。でも勤務中は敬語でお願いね。くだらないけど、一応」
「はいはい」
一応現在は上司にあたる咲夜に慇懃に頷いて見せたのち、文はぼうっと冬の空へと視線を投じる。
と、その横顔に四つの瞳が向けられていることに気がついた文は首をかしげた。
「どうしました?」
「いや、自由を得た割にはつまらなそうにしているな、と思ってね」
「やはり移動が制限される職は貴女には向いてないのではなくて?」
「いや、そんなことはないですよ? だって夜の間は完全にフリーになった訳ですし、昼だってこれ、ある意味ノー業務じゃないですか」
そもそも平時に悪魔の館を訪れる連中などせいぜいチルノ、魔理沙、文ぐらいのものである。
時折、道理も分からぬ下級妖怪が現れることもあるが、そんな妖気を隠すことも知らない連中の襲来なんぞ文の速さなら何処に居たって嗅ぎ付けて門前に戻ってこれる。
つまるところ今の文は昼の間は霧の湖周辺から離れられないだけで、後はほぼやりたい放題できるのである。
だが……
「そんなに私はつまらなそうにしていますか?」
「まぁな。辛そうに見えるわけでもないが……なんというか満たされているって感じはしないな」
「貴女、休息の為じゃなくて何か思うところがあったから休暇を取ったんじゃないの? 今のままじゃ無為徒食に時間を費やすだけよ?」
「うぐ……お二人とも鋭いですね。流石人類における対妖怪戦線最前衛」
若干、人間達を甘く見ていたかもしれないな、と文は心中で見識を改める。
頭脳明晰で知られる文ではあるが、ちょっとした仕草から感情を読み取る分野に関しては刹那を生きる人間達には劣る部分もあるのだろうか。
……ならば、相談してみるのもいいかもしれない。
「「写真が撮れない!?」」
文に向けられる二人の表情は今や金星人の強襲を受けた火星人のそれである。
「そこまで驚かなくてもいいんじゃないですか?」
「いや、そこは驚くところでしょう?」
「お前から写真を取ったらもう安産型のヒップしか残らないじゃないか」
「それお褒めの言葉? それとも貶してるの?」
好きに解釈しろ、と毒づく魔理沙も未だ驚愕から自由になれていないようだ。
「写真が撮れないって、一体どんな感じに?」
「ピントも合わせられるし露出も調節できるのですが、シャッターに指をかけると指が動かなくなるんですよ」
「それはまた……」
「重症だな……」
魔理沙と咲夜は揃って腕を組む。まるで双子の姉妹のようなタイミングで同じ動作を取った二人を前にして、今ならば写真を取れるかも、と文は素早くカメラを構えるが、やはり指が動かない。シャッターを切れない。
「駄目か……」
「本当に撮れないんだな……撮りたくないのか?」
「だったらそもそもカメラを構えませんよ」
「違いないわね」
そうは言っても己の身体を制御するのは己の意識にほかならない。シャッターが切れないというなら、文はやはり写真を撮りたくないのだろう。
「で、これだといずれ職務にもさし障るので、とりあえず休暇でも取っておこうかなー、っと」
「うん? なんだかんだでちゃんと周囲にも配慮してるんだな、お前」
意外だな、なんて感服している魔理沙にバーカ、と文は軽く腰を浮かしてデコピンを食らわす。
「その逆。正直職務とかはどうでもいいけど、だからこそ後ろ指刺されるような仕事はできないでしょ?」
「義務に関しては何者にもいちゃもんをつける余地を差し挟ませない、ということね」
「……疲れる奴だなぁお前」
「違うわ。組織ってもんが疲れるの」
はぁ、と文は溜息をついて再び椅子に座りなおす。
いずれにせよ、残り一週間。それまでに文は写真を撮れるようにならなければいけないのだが……
「まあ、あれだ。そういう時は原点回帰だな。原点に立ち返って、己が真に望むことを再確認するのが一番だろう」
「……新聞」
「「え?」」
咲夜の呟きは小さかったものの、一瞬でその場を支配する。
「貴女の原点といったら新聞でしょ? 紅魔館に来てから貴女新聞を書いていないじゃない。とりあえず何か書いてみてはいかが?」
「そうは言いましても、写真も撮れないですし……」
「何言ってんだよ、べつに写真がなけりゃ新聞にならないって訳でもないだろうが。それに写真なら咲夜にでも撮ってもらえばいいじゃないか」
「それとも毎日新聞作りに励んでいたわけだし、それから解放されたいってことなのかしら?」
問われて文は首をかしげる。ネタを集めるために各地を飛び回るのは楽しいし、新聞を苦痛に思ったことはない。
ではなぜ今現在、文は自ずから新聞作成に取り組んでいないのだろうか。
紅魔館にネタがない? 否。射命丸文はどこからだって楽しげなネタを拾い集めることができるし、なければ自作することもできる。
ましてやここは紅魔館、和洋中折衷のカオスな館である。ネタに困ったら巫女か紅魔館、というのは既に文の中では基本中の基本だ。
ほかに何もすることがない以上、新聞を作成することで不利益が生じるわけでもない。
では写真が撮れないからか? 否。写真はあくまで新聞を構成する一要素なわけだし、記事優先の新聞を発行したことも一度や二度ではない。
写真と見出しこそが重要、とうそぶく文とて写真がなければ新聞じゃない、という程に画像だけに頼った記事を書いているつもりもない。
もっとも姫海棠はたてに言わせれば「写真のない文の新聞なんて飛ばない豚」とのことではあるのだが……
「ふむ、確かに。それでは一つ紅魔館新聞の作成にでも取り組んでみましょうかね。咲夜さん、カメラマンお願いできますか?」
「いいわよ。ただしスキャンダルとゴシップに関する記事は上司命令で禁止させていただきますが」
「言論統制反対!! 表現は自由であるべきであります!」
「プライバシーの保護が正しく表現の自由よりも優先されるのが文化的な秩序でしょう。あと貴女も今は紅魔館の一員なんだから、少しは役に立って頂戴ね」
そう言い残すと咲夜は現れた時と同じく、立つ鳥よりも跡を濁さずにオープンテラスから姿を消した。
どうやらカメラマンはメイド業務を片付けてからのようだ。
「役に立って、ねぇ」
普段門前で黙々と暗黒太極拳にうちこむか午睡任務にあたっているか、の門番を思い浮かべた文は怪訝そうだ。
「こう言っちゃなんですが、美鈴さんって紅魔館の役に立ってるんですかね?」
キングオブオールワークス。
秀でた点はないが、あらゆる作業をそつなく大過なくこなせる美鈴を存在意義がほとんどない門番なんぞに回すなど、リソースの無駄遣いなんじゃないかと文は思うのだが。
「立ってるだろ? ほれそこ。お前だって一度新聞に書いたじゃないか」
言われるがままに眼をやった先にあるのは鮮やかで、かつ芳しい花々が並ぶ紅魔館中庭の花畑だ。
「美しく咲く花の前ではあらゆるものが無力、ってのは幽香の受け売りだがな。館の庭を美しく彩るのはまぁ、いいことなんじゃないか? こういう芸術的活動ってゆとりのある奴にしかできないだろうしな」
「……」
「おい、文?」
「……結構、奇麗ですね」
「ん? ああ、奇麗だな、確かに。あいつの留守の間はこれどうするんだろうな? 幽香……を呼んでくると色々面動だし、メディスンでも呼んできて世話させるか。枯らすには勿体ないもんな」
「メディスン・メランコリーですか? 彼女に花を育てるスキルなんてありましたっけ?」
「さあ? 鈴蘭畑在住なんだからできるんじゃないか?」
「適当かい……」
魔理沙に返事をしつつも、文はどこかしら呆けたような表情で花壇を眺めている。
そんな文に一言、
「今日は負けた、だが次は勝つぜ。じゃ、また今度だ」
言葉を投げかけると黒衣の魔女はニヤリと笑って箒に跨り、矢のような速さで紅魔館を後にする。
門番は去る影に言葉をかけもせず、ただ黙したまま赤い紅い花壇から視線を外せないでいた。
◆ ◆ ◆
「ん? なにやら人だかりができてるな」
いや妖精だかりか、等とつまらない訂正を心の中で付け加えたレミリアの視線の先にあるは、メイド妖精たちに直近の連絡を伝えるための掲示板である。
はて? 昨今に掲示板に張り出さねばならないような予定などなかったはず、といぶかしむレミリアに一体の妖精が気がついた。
「あ、お嬢様!」
だがそんな声が上がっても、大半の妖精はレミリアの存在など何処吹く風。古参と思しき数体のメイドが頭を垂れたのは上出来、といったところか。
「よい、面を上げよ。で、これは何の騒ぎだ? おいそこの黄色いの、説明しろ」
会釈をした妖精の中から土属性と思われるメイドを選んで説明を促す。基礎と不動を司る土属性がこういった解説役には最適であるとはパチュリーの言であった。
「はい。新聞です、お嬢様。門番代理の射命丸さんが掲示板に新聞を掲載されまして」
「新聞を掲載って……まあいいや。しかし、お前達は新聞なんかに興味を持っていたか?」
「ええと、内容が私達の活躍と失態に関することなんですよ」
「ああ、それであいつらは一喜一憂してるって訳か」
ざっとその新聞に、続いて明暗はっきり分かれている妖精達の表情にと視線を移して、心得たかのようにレミリアは頷いてみせる。
「その、粗相をした皆に対してはお手柔らかにお願いいたします」
「構わん。お前らにそこまでの期待を込めているわけでもないしな」
「うぐ……そ、それでですね。厚かましいのですが」
「なら言うな」
機先を制されて縮こまったメイド妖精だったが、妖精にしては肝が座っているようで決意を胸に再度口を開いた。
「あの、新聞で活躍を讃えられている子達に簡単でいいんです、何かご褒美をあげられないでしょうか?」
「ほう?」
改めて活躍側の写真に目をやるが、パッと見では目の前のメイド妖精はそこに写ってはいないようだ。
それが我欲からの要請ではなかったがゆえに、レミリアは若干感心を覚えた。流石は五行で中央に位置する土属性だけのことはあるか、と。
領民が気持ちよく働ける環境を構築することは領主にして貴族たる者の義務の一つ、と心の中で己に課しているレミリアである。で、あるならば。
「まぁいい、検討しておこう。だが信賞必罰が世の基本だ。優秀な者を讃えるということはその逆もあるということを忘れるなよ?」
「あ、ありがとうございます!!」
パッと顔を輝かせ深く頭を下げるメイドに顔を上げさせ、ある程度時間が経ったらこの場に群がっている連中を職場に戻すよう指示するとレミリアは掲示板に背を向けた。
メイド妖精は基本失敗のほうが多い。さてこの状況でどうやれば信賞必罰を上手く回していけるのだろうか? 悩ましい命題だ。
「ま、あとはパチェと咲夜に任せればいいか」
トップは大まかな指示だけしてればいいのである。そのほうが職場は上手く回るものだ、と己に言い訳しながら、レミリアはその場を後にする。
歩み去る際にちらりと横目で見てみれば、頭を垂れているメイド妖精はレミリアが現れた時より更に少ないようだった。
――やれやれ、困ったものだ。
◆ ◆ ◆
「お嬢様からメイド妖精の信賞必罰について軽く検討するように指示があったわ。メイド妖精の実態を目にしたからかしらね?」
「あやや、それは何より。私の新聞がお役に立ったということでしょうか」
背後に現れた気配を一顧だにすることなく、文は割り当てられた客室にて、自身が撮影を依頼した写真とにらめっこを続けている。
掲示板に張り出すという今の新聞の構成上、一度に掲載できる写真は1、2枚といったところだ。それ以上貼り付けると記事を書くスペースがなくなる。ならば写真は最も人目を引くものを選ばなくてはならない。
「流石紅魔館ですね、一面のみであれば館内だけで十分に新聞になるほどのネタが溢れています」
「それって褒めているのかしら? それとも貶しているのかしら?」
「どうでしょう。新聞記者としては褒めているつもりですが、門番としては苦言になるのかも」
メイド妖精の実態はわりと酷いものであった。基本的に各個の判断で行動し、協力して作業することなどほとんどない。
あの妖精達が一致団結できるとしたらそれは、明確かつ共通した敵がいる場合くらいだろう。そして時に有能な上司というのは、その敵になりうるのだ。
成る程、美鈴が魔理沙をあまり真剣に迎撃する気がないのはそういった一面もあるのかもしれないな、と文は苦い笑顔を浮かべる。
館内の平和を維持するために外敵を招き入れるとは何たる本末転倒。だが移り気が激しい妖精に、よい職場の雰囲気を維持したまま協力というものを学ばせるにはそれがベストかもしれない。
写真を取捨選択しながら文が思ったままをつらつらと垂れ流すと、咲夜は一瞬鼻白んだ。
妖精メイドの失態は己が全てカバーしていたため問題ないと思っていたが、美鈴が仮にそのようなことを考えていたとするなら話は別だ。
「成る程、耳の痛い忠告ね。美鈴に少し気を使わせすぎていたかしら」
「本人が提言しないなら別にいいんじゃないでしょうか。それにその美鈴さんの行動によって不利益を被る方もいるでしょうし」
主にパッチェさんとかノーレッジさんとか。
「そう思うんなら尻ナイフはやめてあげてはいかがです?」
「ちゃんと美鈴に教わった経絡秘孔を狙ってるから問題ないわよ。それに美鈴の硬気功は皮下数ミリで私のナイフを受け止められるし、その気になれば天人みたいに皮膚表面ではじけるもの」
「貴女達才能の無駄遣いって言葉知ってます?」
これぞ紅魔館。能力の使い道を華麗に誤った連中が集う狂気の館は伊達じゃあない。
「ま、いずれにせよ私はそんなに気を使って門番するつもりはないので、そこら辺は咲夜さんで上手く遣り繰りしてください。あ、あと撮影係ありがとうございました」
「どういたしまして。……ちょっと質問なんだけど、メイド妖精達を記事に選んだのは私が役に立て、と言ったから?」
「え? いえ、粗相を隠しきれていると勘違いしている子らに対するちょっとした悪戯心ですけど」
「……そう、なら良かったわ。別にプレッシャーを感じていたゆえではない、と。 ……じゃあ、私の撮影技術ではやはり不満が残るのね」
「え? いや、そんなことないですよ、よく撮れています。天狗だってこれより下手な連中のほうが多いくらいですもん、不満はないですよ。どうして、そう思ったんです?」
パーフェクトメイドはそれを教えるべきか否か逡巡した。だが文の意見で自身が気付かされた点もあるわけだし、ここは己も正直に言っておいた方が良いと考えたのだろう。
卓上にあったポラロイドカメラをこっそりと手に取ると、それに気づかず未だ写真とにらめっこしている文をファインダーに収め、カシャリとシャッターを切る。
フラッシュがさして広くない室内を一瞬、白く染め上げた。
「やや、一体何なんですか!?」
「だって、写真を取捨選択している時の貴女は少しも楽しそうにしていないんだもの」
そんな回答と共に咲夜は文にカメラを返すと、音もなくその場から掻き消える。
果たしてカメラから吐き出された写真に題をつけるとしたら「苦悩」か、「憔悴」か。
……その写真を眺める文に題をつけるとしたら「呆然」か「驚愕」が最もふさわしいであろう。
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――ああ、だめだ。これ以上は高く舞い上がることができない。これ以上遠くまで飛んで行くことはできない。
――もっと自由に。もっと高く、遠くへ行けるだけの身体が欲しい。
――間延びするような鳴き声しか出せず、木の実や小動物を漁り貪るだけが全ての身体を捨てて、賢く、強靭な身体を手に入れるんだ。
――そうすれば、私はもっと……
「いらっしゃい。今日のおすすめはヤツメ鍋ね。身体がポッカポカになるよ!」
屋台の長椅子に並ぶ二者の後姿を一瞥して悩んだ末、結局のれんを潜った文に女将の元気な声が投げかけられる。
「じゃあそれ一人前。それと月世界」
「月世界なら純米吟醸の本生がちょうど手に入ってるけど、どうする?」
「あ、じゃあそっちで」
「はいはーい」
割烹着姿のミスティアは額にうっすら浮かんだ汗を軽く拭ったのち、文の前に筍の土佐煮を置く。
続いて河童印のクーラーボックスから酒瓶を取り出すと、文の目の前でそれをコップに注ぐ。
芳しい冷酒がコップを満たし、溢れて枡へと流れ落ちる。
どうぞ、と微笑んで鍋を攪拌しはじめた女将に軽くコップを掲げ、然る後に酒を胃の腑へと流し込む。
鼻と口腔を満たす本生酒の香りと喉ごしは実に素晴らしいものだったが、そう簡単にはこの苦い不快感を洗い流してはくれないようだ。
「そんなに睨まなくてもいいじゃない、先客さん」
「勝手に二週間も休みを入れたお馬鹿がそうも不快げな面差しじゃあね。私達は何のために苦労してんのよ」
「仕方ないでしょ。自由な時間が増えると悩みも増えるものよ」
はたての隣に腰掛けていた風祝の瞳が、改めて文の顔を覗きこんでほぅ、と揺れる。
文に注がれるその視線はまるで火星人の思わぬ反撃を受けた金星人のそれだ。
「珍しいですよね、いつも快活な文さんがお悩みとは。明日は雨でも降らしてみましょうか」
「珍しいのはお酒が飲めない貴女がここにいることだと思うけどね」
あんたが降らすんかい、と酒ある場には出没しないはずの東風谷早苗に門番代理は肩をすくめてみせる。
「私が誘ったの。ま、ちょっとグチを聞いてもらってたってわけ」
「乙女のお茶会ってやつです」
「貴女達繋がりあったのね。うんまぁ、確かに気が合いそうだけど……茶会ねぇ」
うら若き乙女が八目鰻片手に赤提灯でお茶会とは世も末だ。
まぁ多少は外に出るようになったとはいえ、元妖怪の山引き篭もりのはたてに付き合うとそうなってしまうのだろうが。
「で、渦中の人である文さんは一体何をお悩みなんですか?」
「ちょ、ちょっと早苗!」
「こういうのは私達であれこれこねくり回すよりも本人から聞いちゃったほうが早いですって!」
「あやや、はたてってもしかして心配してくれていた?」
「ぶっちゃけ先輩の情緒不安定って後輩からするとマジ億劫なんですよ。私も部活では生理直前の先輩方に散々苦労させられましたし」
「……」
要するにウザいから戻ってくる時はちゃんとご機嫌になってろよと、そういうことであるようだ。
部外者なのに、いや部外者だからか早苗ちゃんは割と容赦ないです。
「……というわけ」
「原点回帰ねぇ……にしても話からすると文の原点が新聞じゃなさそう、ってことなのよね? ちょっと信じられない」
「確かに。文さんといえば私達からすれば新聞とイコールですからねぇ……あれ? でも文さん撮影している時は凄く楽しそうですよ?」
「じゃ、カメラが原点ってことかしらね。撮ってもらった写真に満足がいかないとか」
「んー、ですが、それならやはり写真を選ぶ時に気がついて咲夜さんにそういうんじゃないでしょうか?」
シャッターを切れないことは隠したままで。
文が咲夜の写真で新聞を作成した経緯を二人に説明をしてみれば、早苗とはたては喧々諤々。若い二人はよく喋る。
もう自分が口を開く必要もないかな、と文は少し冷めてしまったヤツメ鍋に箸を伸ばした。
「でもさ、もう文っていうとそれぐらいしか思い浮かばないんだけど」
「確かに文さんからカメラと新聞を取ったらもう太股しか残らないですね」
「魔理沙といい……あんた達が私をどう見てるのかよく分かったわ」
「……烏が残ると思うよ?」
空になったコップに酒を注いでいた女将の突然の発言に、六つの瞳が集中する。
「どういうことですか? みすちーさん」
「ん? だって文さんは烏から鴉天狗になったんじゃないの?」
「ええ、私を含め古い鴉天狗は概ね。もっとも烏から鴉天狗に成った者達の大部分が既に死んだか、大天狗にクラスチェンジしちゃってるけど」
「じゃあ、文さんの根底にあるのは「鴉天狗になりたかった」理由じゃないかなぁ」
あ、鍋のおかわりお願いしますという早苗に応えて、再び女将は大鍋の前に向かう。
「…… あんまり昔のことって覚えてないのよ。それに種族を違えた時点で思考とかも変わってきちゃうし」
「古典的な妖怪って割とイメージに左右されると神奈子様が仰ってましたが、やっぱりそういう影響もあるんですかね?」
「結構あると思うわ。私も多分何かから夜雀になったんだけど、その前のことってあまり覚えていないんだ」
一人ぶんのヤツメ鍋を器によそって早苗の前に置いた後、ミスティアは懐かしむように目を細める。
鍋に蓋をすると、
「でもね。『歌いたい』って気持ちは多分、妖怪になる前からあったんだって、そう思ってる」
―― ねぇ貴女 ほら、いじけてないで私と一緒に歌いましょう?
―― 声を重ね合わせて歌えば ちょっとくらいは幸せになれるわ
―― ねぇ貴女 ほら、引篭もりなんてやめて一緒に歌いましょう?
―― 声を重ね合わせて歌えば ちょっとくらいは幸せになれるわ
―― 孤独に肩を震わせる前に思い出して 隣には私がいるんだって
―― 歌わぬ馬鹿よりも歌う馬鹿のほうがずっと素敵だと思わない?
―― どうしてそうやって一人 冷たい世界に閉じ篭ってしまうの?
―― ねぇ貴女 ほら、へこんでないで私と一緒に歌いましょう?
―― 声を重ね合わせて歌えば ちょっとくらいは幸せになれるわ
ぱちぱちぱち、と早苗が惜しみない拍手を送る。
ミスティアはほんの少しだけ頬を紅くしてはにかんだ後、「おまけ」と言って早苗の前に卯の花の小鉢をコトン、と置いた。
「鴉天狗に、なる前か」
文は疲れたように溜息をついた。種族云々を抜きにしたって千年以上も前のこと。そう簡単に思い出せる話でもない。
「それって、あんたが大天狗に成りたくない理由とイコールなんじゃない?」
「……」
「ん? やっぱあまり言いたくない内容?」
「……言いたくないというか、考えると不機嫌になるだけ」
「そーですよはーたん。あまりぷらいばしーにつっこんじゃいけません!」
「ちょ、早苗、もしかしてあんた、酔ってる?」
「よってません! よってませんとも! だっておさけなんてのんでないんですから!」
そのアルコールに腰どころか頭の先までドップリ漬かったような声にはたては顔をしかめた。どうして、
「……呑まれるって分かってて 、飲むかなぁ」
「あ、ごめん。そっちの人飲めないんだっけ? さっきつい注いじゃったかも」
「女将が犯人かい!」
っていうか味で分かんなさいよ早苗ぇ、なんて叫びはとりあえず押し込める。
しなだれかかってくる早苗をさて、どう処分するかとはたてが思案していると、すっと反対隣の文が声もなく立ち上がった。
「ん? なに?」
「送ってくる。ツケで。……ほら早苗、守矢神社に帰るわよ」
「だーいじょうぶですってぶんちゃん。ちょっとなめたぐらいですし、なによりほら、おかわりをたべてないし」
「酒に呑まれた連中は皆そう言うのよ。神としてみっともない姿をさらしたくないなら言うとおりにしなさい。ほら、鍋ははたてが始末するから。あとぶんちゃん言うな」
「うー。そうですね、神様は皆の心の拠り所ですもんねー。みすちーさんおかわりたべられなくてすみません。はーたんがぜんぶたべますからばけてでないでー……」
お大事に、と笑うミスティアにひらひらと手を振って、文は正体を失いかけている早苗の腕を己の肩に回すと、
「ご馳走さま」
翼を羽ばたかせ、守矢神社へ向けて飛び立っていった。
「逃げられたか……ねぇ女将。何であいつ大天狗に成らないんだと思う?」
「大天狗になるってどういうこと?」
む、と早苗の残していったヤツメ鍋を頬張りながらはたては首をひねる。さて、どう説明すれば分かりやすい?
「えーっとね、女将がもし『人里とか妖怪の山に立派な店舗を構えないか?』って誘われたらどうするって話。従業員を雇って、お店を回すの。今よりもいっぱい客も来るし、焼き鳥根絶にもちょっと近づくと思う」
「ああ、そういうことかぁ……多分、お断りするかなぁ」
「どうして?」
「従業員を雇うっていうのは私には重過ぎるし、そんなものは背負いたくないな。私は自由でいたい」
はたてはその回答に素直には同意できなかった。
不服を誇示するかのようにコップをぐいっと勢い良く傾ける。
「お店のボスになるっていうことは従業員に全て任せちゃってもいいってことでしょ? 自由な時間だっていくらでも増やせるじゃない」
「かーかきんきん……」なんて歌い始めた女将にとがめるような視線を向けて、コップをとん、と屋台に戻す。が、
「増えないよ。いくら店を他人に任せるっていっても完全に無視できるわけじゃないと思う。どんな時だって店はどうなっているだろう、って考えちゃうよ。思考が、囚われるんだ」
空になったコップに、酒を注ぐと、
「店舗が固定になる以上、行動範囲はそこを中心としたものになるだろうし、結果として余計に一箇所に縛られちゃう。それにね」
ミスティアは屋台の注文台に両肘を乗せ、腰を折って頬杖をつく。正面のはたての目を覗きこんで、
「さあ今日はどこへ店を出そうか、って。そんなことを考えながら下ごしらえをする時間はね、自由なんだ。今日は誰が来るんだろう、今日はどんな歌を歌おうか、って。身体はここから一歩も動いていなくても、私の心は幻想郷中を飛び回っているのよ」
ふわりと、笑う。
「おいしい?」
「……美味しいわ」
「そう。ありがとう」
なんか負けた、とはたては妖怪としては格下の夜雀に心の中でバンザイする。
今この瞬間も、ミスティアの心は自由だ。何も彼女を縛るものなど存在しない。
自分のために消費した時間で、他人から感謝され、自分の喜びを生産し、他者に礼を返す。これ以上の自由がどこにあろう?
「女将は自由に生きてるのね」
「そうでもないよ? 私だって、縛られてる」
「何に?」
「屋台じゃ、ロックは叫べない」
違いない。屋台の雰囲気にロックはそぐわない。互いにクスッ、と。
「文も、そうなのかな?」
「どうだろう? 自由では、いたいんだろうね。でも根源にあるものが違うだろうから、同じじゃ、ない」
「そっか」
「うん」
はたては視線を酒に落とす。
天狗社会は束縛だらけだ。方向性は全く異なれど、妖怪の中では未だ人との繋がりを渇望する鬼と並ぶほどにがんじがらめな種族。
自由を愛する天狗は、天狗社会の中でどう生きればいいのだろうか?
天狗という組織に、集団に寄りかかって生きてきたはたてには、社会に閉塞感よりもありがたみを強く感じているはたてには、分からない。
でも、文は仲間だし。同僚だし。
それに口が裂けても言ったりするつもりはないが、おなじブン屋としてちょっぴり尊敬していたりもするから。
理解したいって、そう思う。
「女将」
「うん?」
知りたいの。
「歌ってよ」
自由を。
「喜んで」
頬杖をついたままミスティアは目を閉じて息を吸うと、夢見るような面持ちでさえずるように詩を紡ぐ。
―― 天津風が翼を羽ばたかせて 新しい世界を私に伝えにきてくれるの
―― 移りゆくものをその風へと乗せて 私の元へと運んできてくれるの
―― 今日も私は星空に願うの 明日も貴女が私の元へ来てくれることを
―― 貴女が来てくれるだけで 私の心は全て満たされてしまうのだから
―― 貴女が私を誘い出してくれたから 私は世界へ羽ばたいていけるの
―― 貴女と思いを重ね合わせられるから 世界はこんなにも美しいのね
「悪くない……同じ洋楽なら、ロックでもよかったのよ?」
「歌える時に歌わないことを選ぶのも、また、ね」
自由である、ということか。
◆ ◆ ◆
正面には囲炉裏、その奥に和箪笥と押入れ。左右を見回せば後付けされた暗室への入り口と、土間に小さな竈。端の文机上には書きかけの草稿。
古めかしく、奢侈贅沢さを感じさせない質素な造りは早苗にとっては少々意外だったようだ。
「へー、これがぶんちゃんのおへやですかー。へー、はぁーーーー」
「おのれ、どうしてこうなった」
どうもこうもない。守矢の二柱が育児放棄をしてるからだ。
酔っ払った早苗を担いで守矢神社を訪れてみればそこはもぬけの殻。早苗に理由を聞いてみれば天狗幹部と急遽飲み会とのこと。
そういうのは早く言ってほしいものだが、成る程ニ柱の世話をしているはずの早苗がはたてと共に外食をしていたのだから、それぐらいは思い至るべきであったのかもしれない。
いや、いつもの文なら思い至っていたであろう。混迷の渦に捉われていない普段の頭脳明晰才色兼備な文ちゃんであれば。
「へー、やっぱりしゃしんばっかなんですねー」
「ちょっと、勝手に押入れ開けないでよ! ……言っても無駄か」
現在天狗と守矢神社は架空索道の是非を問うて抗争、とは言わないまでも意見対立中である。今日の飲み会もおそらくは宴会とは名ばかりの討論の場に違いない。
そんな状況であるのだから、喧嘩っ早い若い天狗の中には守矢を既に仮想敵として認識しているものも少なくない。
ゆえに無人の神社に泥酔状態で無抵抗の早苗を放置して何か間違いがあってはまずい、と考えた文は仕方なしに自分の家に早苗を運び込んだのだが……
「あ、むかしのぶんかちょうはっけーん!」
「……そろそろ大人しくしないと無理やり落とすわよ? 意識を」
「りょーかい。おとなしくしますです」
酔っ払いの相手というのは兎にも角にも面倒なものだ。
もとより好奇心旺盛な早苗さんである。常識に囚われない早苗さんである。
思うがままに文の押入れを漁ってそこに保存されていた昔の文花帖を取り出すと、パラパラーっと流し読みを始める。
勝手に物を持ち出されるのは不快であるが、せっかく大人しくなったのだ。このまま放置しておくべきであろう、と文は首肯して囲炉裏のそばに腰を下ろした。
……匙を投げた、とも言うが。
「ぶんちゃーん。ほうえいっていつですかぁ?」
「江戸時代、って言えば分かる?」
「はー、そんなむかしからぶんちゃんはしんぶんのねたをさがしてたんですねー」
本当はそれよりも昔からだけどね、と文は心の中で付け加えた。
そう、そんな昔から。囲炉裏に驚いてるような早苗からすれば、その生活が想像できないであろうほどの昔。
「あ、さしえがある。ぶんちゃんえもかけるんですね。うまいですねー」
「……昔はカメラなんてなかったからね。文字だけで表現しようとすると何百文字って必要なものも絵を交えれば短くできるから練習したのよ。今はもう描けないけど」
「ふむふむなるほど。うまいですよー! せいみつさではしゃしんにはおよびませんが、だいなみっくさがつたわってきます」
文花帖に画かれた挿絵に早苗が喝采の声を上げるが、所詮挿絵など天狗社会では過去の文化である。そんなものを褒められたって嬉しくも何ともない。
その、はずだが。文は若干己の頬が緩んだのを自覚した。
「……っと、こっからしゃしんですかー。お、はくれいじんじゃだ。ふむふむ。あ、これどこですか?」
「ああ、青龍鱗沼群ね。九天の滝から分流した先の一つよ。最近見に行ったらその湖沼の一つが潰れちゃってたのよねー。こういう自然の芸術ができるには長い時間が必要だってのに、一体何処の馬鹿がやったんだか……」
「へー、たしかにうろこみたいできれーですねー。あ、こっちは?」
「それは玄武の沢の鎮護の洞窟ね。我ながら上手くコケが輝いている瞬間をシュートできてるわね」
「ふむふむ……」
問いを重ねる早苗に滔々と答えていた文の内心にふと、冷笑が翻った。まったく、自分は一体何をやっているのだ、と。
どうせ説明したところで相手は泥酔状態である。説明した内容なんて明日目が覚めた時には忘れているに違いないのだから。
……それでもなぜか文は問う早苗に対する応答をやめよう、とは思わなかった。写真を指差して楽しげに笑う早苗に応えて、言葉を紡ぎ続ける。
だんだんと、早苗が写真について問う声が間延びして、緩やかになってきた。そろそろ意識を保つのも限界に近いのだろう。
「わかったようなきがします」
ふいに、文花帖を閉じた早苗がポツリと呟いた。
「何が?」
「ぶんちゃんの、こんげんですよ。しゃしん、すごいすてきでした」
トロンとした目でそう言うと、早苗は寄りかかっていたふすまをズルズルと滑るように崩れ落ちて、押入れの前で横になった。
「ぶんちゃんはやっぱりだいてんぐになっちゃだめですよ。じゆうでないと」
「何で?」
「じゆうに、どこまでもとんでいくべきです。かぜみたいに」
「何故?」
「りょこう、いきましょうよ。そとあんないしますから……」
……このまま、今日の東風谷早苗は死ぬのだろう。
明日生まれた東風谷早苗は今日のことなどもう覚えてはいない。
今、早苗の入眠を阻止すれば、文は自身の疑問について解答を得られるのかもしれない。
「この寝顔と引き換えに、か」
幸せそうに眠る早苗の横顔を見やって、ふいに文は自身の手の内にカメラがないことが残念に思えてきた。
どうせ撮れないのだから、と紅魔館に置いてきたカメラ。それが手の内にあれば。
――今ならば、写真が取れたかもしれない。
和箪笥から予備のカメラを取り出してフィルムを装填しよう、という思考は文の中には生まれなかった。
多分そういうものではないのだ、この感情は。今が撮るべき時であり、その時に撮れないならば撮る意味はないのだろうから。
日の出前。しどけない様相で目を覚ました早苗は、酒が入っていた時よりも顔を真っ赤にしながら文に謝罪を繰り返した後、守矢神社へと帰っていった。
文もまた早苗に背を向けると、日が昇る前に己の職場へ帰還するべく黒翼を翻し、圧倒的な速度で妖怪の山を後にする。
たぶん、そう遠くないうちに文の門番生活は終わりを告げるだろう。
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ただ一羽の烏であった頃のことなど、もう十数回と六十年の周期を迎えた文には思い出せない。その頃の記憶が完全に消え去ってしまったわけではないだろうが、烏のイドは増築された鴉天狗という建築物に完全にうずめられてしまったようだ。
なにせ地霊殿のサトリに訪ねれば一発で解決するだろう、と分かっているのにそうする気にはなれない。天狗としての気位の高さがそれを阻害する。己の内面全てをさらけ出されることに嫌悪しか覚えない。
文は、どうしようもなく天狗という種族に囚われている。
「とは言え、なにも、問題は、ない」
それでもミスティアの言うとおり、底の底から今も湧き出し続けて、鴉天狗という土台を揺るがしている何かがある。
文自身が忘れてしまったそれを思い出せ、と。激務の毎日に押しつぶされそうになった文の感性が悲鳴を上げたから、文はシャッターを切れなくなったのだろう。
原因は未だに不明。されどヒントはある。
少なくとも文は自由にはなりたかったし、自由に生きていたい。それは、間違いない。
ミスティアが推測したように、早苗がそうあれかしと言ったように、文が大天狗にならないのは束縛を嫌うからだ。
「全く、私も昔は若かった」
力を得て、のし上がればそれだけ自由を得られると、そう思っていた時期が文にもあった。ただひたすらに力を求めていた時が。
しかし力を得て自由を得られるというのは一人一種族だけの話。天狗としてのし上がるということは全くの逆。それに気がついてからはあまり「天狗らしくなく」なるように生きてきた。
そう、天狗らしくなく。
群れるということにほとんど価値を見出さない文は、天狗としては明らかに異端だった。
「やはり、人と過ごす時間は、悪くない」
大半の天狗にとっては路傍の石にも等しい人間。もしくはただの襲う対象。
されど文は天狗仲間といる時よりも、人間やほかの妖怪と共にある時の方がずっと居心地が良かった。
だがそれはどこかの鬼や河童のように人間が好き、というわけではない。群体に寄りかかっている人間など見下してすらいる。
それでも己の感情を四捨五入すれば人間寄りとなるのは、おそらく感性が妖怪よりも人間に近いからなのだろう。
ゆえに最も共にあって居心地が良いのは、群れることに興味がない人間、すなわち感情の赴くままに生きている人間達である。
咲夜に己が仮面をつけていることを気づかされ、早苗に仮面の下の表情を見透かされた。これから来る人間は多分、文の仮面を砕いてくれるのだろう。
「準備に一体どれだけかけているの? 疾く……疾くと」
だから、こんなくそ寒い冬の夜に。門前で。
門番である必要がない時間帯であるのに、射命丸文は待っているのだ。
風よりも速く空を飛ぶ人間を。
おそらくは自分に最も近い人間を。
群れることに意味を見出さない人間を。
誰よりもふてぶてしい笑みが似合う人間を。
他者にどう思われるかなんて興味がない人間を。
やりたいことだけやっている迷惑極まりない人間を!
彼女は絶対に来る。やられっぱなしで文を妖怪の山に返したりはしない。
文が休みを取ったこの二週間の間に、必ず。本を奪うために。
いや既に目的を履き違え、負けず嫌いの性根に拠りて文を地に落とすためにやってくる。
さあ、当主もワインを片手に見物しているぞ。
瀟洒なメイドがナイフを研いでいるぞ。
小さな悪魔が戦々恐々としているぞ。
知識の魔女が溜息をついているぞ。
紅の妹は、多分興味がない。
遠方にきらりと、流れ星が光る。
「来た!」
黒翼で風を切って、空に舞い上がる。
始めようじゃないか。
射命丸文の、射命丸文による、射命丸文のための弾問答を。
◆ ◆ ◆
ぴちゅーん。
「よっしゃ! ラス1だぜ! 文ぁあ!」
「っ! やるわね!」
強い、と。
文は内心、改めての感嘆を禁じえなかった。
こと実戦であれば魔理沙など数分も経たずにねじ伏せられる。幻想郷において比類なき機動を誇る文のその判断は自惚れでもなんでもない。
だが被弾したら負け、という弾幕ごっこにおいては速さは必ずしも優位を保障してくれるものではない。
――本当に、よくできたルールだ。
圧倒的な腕力も、速度も、絶対的な有利をもたらしてはくれない。人妖の不平等を可能な限り平等へと引きずりおろすこの勝負。
目の前の人間はその勝負における第一人者である。弱いはずがない。
――それにしても、強い。
その強さが才能によるものではないことを文は理解している。目の前の魔女は敵対する相手の性格、癖、好みを正確に分析し、大技小技を織り交ぜて少しずつ袋小路に追い詰めてくる。
弾幕はパワー。そう嘯きながらも工夫を重ね、あとは力を解放するだけ、といった詰みに状況をもっていく手管はつまるところ分析と解析と、何度も繰り返されたエミュレートによる賜物である。
「とは言えども……何故、ここまで」
文は押されているのだ?
よりにもよってこんな視認性の高いきらきら星に!
上空から数多の流星が降り注ぐ。
「スーパーペルセイド」という名を冠したそれらの流星が群を成して夜空を切り裂くたびに、今は遥か下方に位置する紅魔館から妖精メイド達の歓声があがる。
それはつまり、遠方の妖精達からも視認できるほどにド派手で荒々しい弾幕だということである。
軌道見てから回避余裕でした。そんな弾幕に鴉天狗が四苦八苦しているのはさぞ滑稽に違いない、なんて天狗特有のプライドが更に文を追い詰めていく。
「あと、八つ」
先程魔理沙が十六の流星を打ち上げたのを確認している。
一度上空まで舞い上がって、得た位置エネルギーを速度に変えて降り注ぐ、という手順を踏むこの弾幕は、その特性ゆえにあと幾つ流星が降り注ぐかを簡単に把握できる。
既に八つの流星をやり過ごした文は再び上空を見上げた。
正面の魔理沙が放つミサイルとショットも躱さねばならないから上空に意識を向けるのは一瞬。その一瞬で流星の位置取りとベクトルを把握して、あとは正面の魔理沙に傾注すればいい。
だと、いうのに。
空を見上げると、文の身体が硬直するのだ。
「どうした文、動きが硬いぜ!?」
挑発するような、笑み。多分答えを知っているであろうはずなのに魔理沙は文へ疑問と共にミサイルを投じる。
このミサイルを横に躱していくと流星雨の真下に誘導される。さっきはその方法で被弾に追い込まれたのだ。
翼を畳んで揚力を減らし急降下。反転して翼を広げて急制動。狙いをつけずに上方に扇弾をばら撒く。
「何やってんだ。こっちを見ろよ」
小馬鹿にしたような声を投げかけられれば天狗のプライドが刺激される。反射的に睨んでしまいそうになるが、ここで見上げたら多分また文の動きは鈍くなる。
「見ろってんだよ。当てずっぽうで当たるわきゃないだろ。……ほら、もう一ループ行くぜ? 今度は二十四発上げるぞ。しっかり避けろよ!」
心の中で舌打ち一つ。弾幕が疎かになって魔理沙に流星を撃ち上げる隙を与えてしまった上に、文は撃ち上げられたそれを視認していない。
魔理沙は二十四発と言ったがそれが真実とは限らない、ブラフかもしれない。回避するにはきちんと状況を把握しなければ。
「っ!!」
天を見上げた鴉天狗の視界に映るは、高きに佇む霧雨魔理沙。そしてその背後には二十四の光芒が織り成す絢爛豪華な天体ショウ。
されど光の尾を引き、閃光となって降り注ぐその流星は文を地に叩き落すためのもの。見とれているわけにはいかないのだ。
編隊を組むかのように飛来する四つの流星を身をひねって躱す。
――今、何を思った?
「お見事だ! じゃあ次は六つだ。今ならおまけに魚雷もつけちゃうぜ」
言葉と共に放たれるは淡青色に輝く空中魚雷。
時間差をもって降り注ぐ流星を矢継ぎ早に躱しつつ、一直線に文に向かって飛来する魚雷を一つずつ烈風弾で破壊する。
「よくやるじゃないか。……しかしお前、流星は迎撃しないのか?」
言われて気がつく。さっきから文が迎撃しているのはミサイルや魚雷ばかりだ。
反復動作で余裕綽々。よどみない所作で撃ち落せている。
「ふん、私の魚雷は不純物扱いかよ。まあいいさ、ならお望みどおり流星だけで相対してやる」
魔理沙が文を挑発するような笑みを浮かべて右手を振り上げる。
残数十四。天高く舞い上がったそれらの流星が魔理沙の右手に呼応して、まるで超新星の如くに輝きを増す。
スペルカードは己の魂の発露。煮えたぎるような熱と光の乱舞は霧雨魔理沙の分身にして生き方の体現だ。
「来いよ文、楽しませてやるぜ!」
呑まれているな、と思う。
状況は完全に魔理沙の思いのままに支配されていて、文はそれに踊らされているだけ。
だが、その魔理沙が勝利を引き寄せられる小細工をあっさり放棄した。小技小細工を抜きにして、大技だけで勝負する、と。
手加減された、とは感じなかった。多分今の魔理沙にとって、勝利という結果よりも重要な何かがあるのだろう。
それはロジックに基づく思考ではなくて、おそらくは感情に従った結果。
だから文もそれに乗っかった。未だ身体は文の意思に従順たり得ないものの、ここで退くという選択肢はありえなかった。
天を見据える文の表情。それを確認した魔理沙が、
「さあ、最後のカードも重ねて切ったぜ! 避けきったならお前の勝ちだ! 箒星『ブレイジング・ペルセイド』!!!」
掲げた右手を、振り下ろす!!
一つ、二つと、鈍い動作で流星を躱して空を行く。
――ならばこちらも、ノーショットだ。近づいて至近からのボム、人呼んで「輪符『ポン・デ・風靡』」をあの勝ち誇ったような笑顔に叩きつけてやろう。
三つ、四つと、拙い動作で流星を躱して空を行く。
――魔理沙はまだまだ遥か上空。随分と距離をあけられたものだ。
五つ、六つと、危なげな動作で流星を躱して空を行く。
――そういえば、何のしがらみもなく弾幕ごっこをするのは初めてかもしれない。
七つ、八つと、ぎこちない動作で流星を躱して空を行く。
――記事のネタを探すでもなく、山を守るためでもなく。
九つ、十と、やっとのことで流星を躱して空を行く。
――何も背負わず、世界にただ一人のまっさらな射命丸文となって、星空に挑むのは。
さあ、もう魔理沙は目と鼻の先だ。されど残る流星もまた至近。いまいち己の意思通りに追従してくれない身体で、躱しきれるか?
これが最後、とばかりに天を睨めば。
四つの流星をバックに、箒に腰掛け足を組む魔理沙がエセ外国人のような表情で、
「アーユーハッピー? 楽シんでまスか?」
笑う姿が、とても絵になっていて。
――ああ、何故、手元にカメラが……
「やれやれ、見てられないわね」
――ある?
それを理解した後に振るわれる手は神速だ。手の内に忽然と現れたカメラを構えると、ファインダーを覗き込む。
ピントを合わせ、シャッタースピードと絞りを調整。フィルムを入れたのは完璧なメイド。フィルム感度は適切だろう。
――己に問う。この被写体を撮りたいか?
カシャリ、と。
シャッターが下りる音が文の脳裏に響く。
――無論。この一瞬を永遠に。
そして。
カメラのシャッターを切らなかった文は、流星に撃たれて大地へと落下していった。
残機0。射命丸文の敗北だ。
◆ ◆ ◆
「なんだお前、未だ写真は撮れないままなのか?」
「いえ、もう大丈夫。……少し、付き合ってくれない?」
紅魔館の門前に舞い降りてきた星の魔法使いに、文は手元のカメラを弄繰り回しながら尋ねる。
「うん? 何処までだ?」
「行けるところまで。私の原点を振り返りに行きたいの」
「私はこれから勝者の特権として図書館を漁らなきゃいかんのだが……一人じゃだめなのか?」
「ええ、できれば同道してほしいのよ」
隣に現れた咲夜にも文は視線を向けるが、メイドは「鴉天狗の速度についていくのは無理」とばかりに小さく首を横に振った。
「まぁ乗りかかった船ではあるが、ほかに適任が……っておいこら、ちょっと待てって!」
「あはは、先に行くわ。ついて来てごらんなさい……ついて来れるのであれば」
「! 言ってくれるじゃないか。見てやがれ!」
挑発するように言い捨てて空へと舞い上がる鴉天狗の後を、魔理沙もまた負けじとばかりに追いすがる。
速度を誇る二者の加速は凄まじく、あっという間に地上で手を振る咲夜の姿が豆粒のように小さくなった。
空へと飛び出した両者はただひたすらに天を駆けあがる。
だが疾風のように空を行く文に、明らかに魔理沙はついて行けてない。
さもあらん、人間は一直線に空へ飛び上がるようにはできていないのだ。
「遅い、遅いわよ魔理沙!」
「ちっ、言わせておけば。なら奥の手を見せてやるぜ!」
水を得た魚の如くいつも通りの、否、いつも以上に活溌溌地な笑みを取り戻した文に舌打ちを返すと、魔理沙は帽子の中から筒状の何かを取り出した。
それを箒の下に取り付けてから三秒後に、
「フェアリング形成完了。MSB、イグニッション!!」
燃料に点火。MSBと呼ばれたそれ――キノコ燃料補助ロケットが火を噴いて、あっという間に魔理沙を文のすぐ横に押し上げる。
「うぉ、やるわね」
「こいつを組上げるのは易くないんだ。つまらないところに連れてくつもりなら金取るからな!」
「お代は文々。新聞でお支払いいたしましょう」
当然のように現物支給はノーサンキュー、とか学級新聞に興味はない、とかいう返事が返ってくると思ったのだが。
「……マシな記事を書けよ」
「お約束いたしましょう」
ほう、と文は喜びを吐息に乗せた。
期待されているのであれば、期待に応えなければなるまい。それができなければプロじゃない。
内心でそんな決意を固めていると、今度は文がジリジリと魔理沙に遅れをとりはじめている。
さもあらん、鴉天狗は一直線に空へ打ち上がるようにはできていないのだ。
「ほれどうした! グズグズしていると置いて行くぞ?」
「……言ってくれるわね。所詮道具の性能に頼っているだけじゃない」
「はっ! んなこと言うならお前、写真機を使わずに写真を撮ってみろよ」
「撮れるわよ」
子供っぽい口調で切り返す魔理沙に返される文の表情は真剣そのものだ。
「ほう?」
「撮った写真を人には見せられないけどね」
「ああ? なんだそりゃ。そりゃ私にだってできるじゃないか」
「そうね。でも、それができないものもいるのよ」
悲しげに呟くと、文は箒にしがみつくような体勢の魔理沙に気遣わしげな視線を向ける。
ロケットは現在も激しい火勢と煙を吐き出しながら魔理沙を天へ天へと運んでいる。
鴉天狗に匹敵、いや凌駕する勢いで飛翔している彼女の身体にはとんでもない負担がかかっているはずだが……
「身体、大丈夫?」
「ああ、試作品の丹を服用してるんでな。身体強化、と言えるレベルじゃぁないが対G性能と呼吸、循環機能は向上中だ。単調な直線移動だけなら問題ない」
「へぇ、凄いわね」
単純な筋力、魔力の強化よりもそれらのほうが遥かに困難なのだ、本来は。だが、
「ロケットは褒めんのに出来損ないの丹は褒めるのか。お前の凄いの基準が分からん」
この黒衣の魔女はそれに気がついていない。まっこと、馬鹿であると。
お互いに顔を見合わせて、呆れたように笑う。
どれくらい、そうやって上昇していただろう。
丹で強化した魔理沙の肉体がそろそろ限界、という高度まで到達してようやく、二人は加速を止める。
「ここで弾幕ごっこをやったら気持ちよさそうだが、あっという間に息が切れそうだな」
「正気の沙汰じゃないわね」
無手で臨めば凍死か酸素欠乏、終いはフリーズドライと化すか。ここは生物を拒絶する静寂の空。
防風結界と丹の効果、そして鴉天狗の肉体があればこそかろうじて生を紡げるような世界。
そんな世界で魔理沙と文は、
「で、これからどうするんだ?」
「何もしないわ。分かってるんでしょう?」
「まあ、な」
揃って東の水平線、いや雲平線とでも言えばいいだろうか? に視線を向ける。
もう、そろそろのはずだ。
空と雲の狭間が暗赤色に染まり、雲平線に紅の線が走る。その紅の一線は少しずつ色濃さを増していって、漆黒の夜空を蒼と白と紅のグラデーションに変えていく。
眼下に広がる、幾重にも折り重なっているであろう雲の絨毯は、黄金と紅の斑模様へと織り直されていく。
時を得ずして世界を二つに分かつ紅の一部が烈火のごとく燃え上がり、そこを起点として放射状に世界が目覚め始める。
世界を燃やし尽くした紅は黄金の輝きへと変わり、
全ての存在が、少しずつ本来の色を取り戻す。
空はだんだんと白く青く、
雲は少しずつ灰に白に。
この光景をなんと記事で表せばよいのか。
この光景をどう一枚の画像で表せばよいのか。
ただただ、口を突いて出る言葉は。口にできる言葉は、
「ふむ、奇麗だな」
「ええ」
それだけだ。
◆ ◆ ◆
「私は、鴉天狗になる必要なんてなかったんだ」
光に彩られていく世界に目をやったまま、文がポツリと呟く。
「何故だ?」
「烏のままでも、雲の上まで舞い上がれた。烏の時の高度限界から見た光景も、これと同じ位美しかった。更なる高度であるここと同じ位に」
「それでも多少はお前が鴉天狗になった意味はあるさ。今この瞬間の私にとってはな」
「何故?」
「会話できるじゃんか。『奇麗だな』っつって『カァ』って返されても嬉しくないし。何よりお前が誘わなきゃ私はこんな所にいないだろうに」
――でもね。「歌いたい」って気持ちは多分、妖怪になる前からあったんだって、そう思ってる。
ふと、文はあの夜のミスティアの言葉を思い出した。
そう、ミスティアと文は違うけど、同じだ。
「これが、私の根源」
「ふむ?」
「私は、広い世界を見たかった。今よりもさらに美しい世界を見に行きたかった。何よりも、この感動を、誰かと分かち合いたかったんだ」
ミスティア・ローレライが歌いたい、聞かせたいと思っているように。
射命丸文は見たい、魅せたいと。だから世界の美しさなんて気にもとめない烏の身体を捨てて、両手と言語を手に入れた。
「それが、新聞か」
そう、その通りだ。
それは四季映姫・ヤマザナドゥが指摘した通りの世界を変えるための力であり、そしてかつての文はそのために新聞を書いていた。
射命丸文の書く新聞は全て、己の心の発露であったはずなのに。
「大事なことなのに、気付けば順番が入れ替わって、それを疑問にも思わなくなっていた」
「いや、そんなこともないだろう。時々、ほんの時々だがお前の新聞に感動することも、ある……はずだ」
「慰めるのが下手なのね、魔理沙は」
「……すまんな。こういう時、正直者ってのはわりと融通がきかなくてな」
魔理沙は困ったような表情を浮かべ、所在なさげにコンコンと箒の柄を指で叩く。
「だからさ、交代だ。多分あいつは私より遥かにお前の言うことを理解しようとしてくれるはずさ。なにしろ、私達が弾幕ごっこをしてる時からずっとお前だけを見てたんだからな」
「文!」
魔理沙のものでも、当然文のものでもない声が響き渡る。
流れるように両者が下に目を向けると、そこにいたのは幻想郷において「幼い」ではなく「若い」という表現が最も似合う二人。
市松チェックのスカートに白のブラウスの少女。そしてその少女の腰にしがみついている青い改造袴に白い改造単の風祝。
「はたて、そして早苗。……何故?」
「何故って……そんなの、あんたに用があるに決まってんでしょうが!」
「ひっきーなはたてさんの付き添いです!」
「ふぅん。で、早苗は気圧と気温は大丈夫なのか?」
「これでも乾を司る八坂様にお仕えする風祝でありますれば。気圧の制御だってバッチコーイですよ!」
興味本意で首を突っ込んだだけであろうデッドウェイトは誇らしい笑顔でVサイン。
「……とりあえずお前はこっち来い。そして私と一緒に黙っとこうな」
「むーん、そのほうがよさそうですね」
己がこの空域において脇役になったであろうことを悟った二者は、口をつぐんで少しだけ高度を下げた。
後に残るは、二人の鴉天狗。
両者は対面する相手がなぜこんなとこにいるのか分からない、といった様相で互いを見つめている。
「文」
先に口を開いたのは姫海棠はたてだった。
「何?」
「教えてよ」
「何を?」
「どうして、鴉天狗じゃないの?」
――どうして、私じゃないの?
「さっきメイドに聞いたわ。写真が撮れなくなってたんだって? ……どうして、私達には何も言ってくれないの?」
「貴女には、分からない。分かる必要もない」
「どうして! そうやって決め付けるのよ!? 私が理解するかしないか、決めるのは私でしょう? あんたじゃない!」
「その言を是とするならば、貴女に語るか語らないか決めるのも貴女じゃない。私でしょうに」
射命丸文は冷酷だった。はたての言を受け入れるくせに、はたて自身を拒絶する。
いや、それはもしかしたら姫海棠はたて個人ではなくて、鴉天狗という種を拒絶しているのかもしれない。
「納得できない! どうしてあんたは私に語るのを無意味だと思うのよ!」
「貴女が、若い鴉天狗だから」
「それを言うならあっちの人間なんて私より遥かに若いじゃないの! なのにどうして!」
「私が、カメラを持ってないからじゃないか?」
そう差し挟まれた魔理沙の言にはたては眉を吊り上げるが、対する文は流石とばかりに首肯してみせる。
「そう、貴女はカメラのない時代を知らない鴉天狗。ゆえに私の言うことに耳を貸さないほうがいい」
「何故!?」
「私の言うことを万が一にも理解してしまったら、鴉天狗として生きてく上で、要らない棘が残る。貴女は今新聞作成を楽しんでいるみたいだし、そこに横槍は入れたくない」
「それが横槍かを判断するのも私だって言ってんの!」
「横槍ってのは問答無用で刺さるから横槍なのよ。……逆に問うわ。貴女はどうして私の心中を知りたいと思うの?」
本当に、わからないといった表情で文は言葉を紡ぐ。一瞬、はたての表情が打ちのめされたように歪んだ。
「それは……」
「鴉天狗としての仲間意識なんて真っ平御免。種族が同じだったら誰でも大事なんて理解できない。群れとしての規則は守るけどそれ以上は御免なの、私は」
種族が同じだから助ける? 同じ種なら相手のことを知らなくても助ける? 個ではなくて、群れだから助ける?
射命丸文はそんなものにはあまり興味が持てないのだ。それを是としてしまったら、我等の目は、心は、個性は何のためにあるのだ? と。
だが、
「…うわよ」
「何?」
「違うっつってんのよ! あんたが、私のライバルだから! 私が追うべき目標だから知りたいって言ってんのよ! 射命丸文だから、知りたいのよ!! どうだ! 文句あっか!!!」
「……」
語気も荒くはたては捲し立てる。顔が赤いのは照れているからではなく、仮にもライバルであるはずの己に何の興味も持たない相手への怒りのためだ。
「群れるのが嫌!? 大いに結構、なら文こそまず私を見なさいよ! ふざけんな!! 射命丸文にとって私はただのカラステングAか? 答えろ! ババア!」
「……貴女、私が思っていたより熱い鴉天狗だったのね……」
火がついたはたては止まらない。目をしばたかせている文の胸倉を掴んでガクガクと揺さぶり始める。
「ごちゃごちゃうるせー! 答えろババア!」
「……はたて。自分で撮った写真を捨てる時、私達は何を考えてると思う?」
「ぐだぐだ……え?」
いきなり返された問いかけに含まれる文の意図が分からず、はたては面食らった。
怒りをいなされたようにも感じたが、多分、ここで嘘をついたら真実にはたどり着けないのだろう、とも思う。文の服から手を離し、腕を組んで小考する。
「う、うーん。こんなに撮ったのに使えるのはたったこれだけか、っていう反省かな?……って! それが何だって言うのよ!」
その答えを予想していたかのように、
「そう、そうでしょうね。でも、私は違ったのよ」
はたての怒りを受け流しつつ頷く文の表情は重い。声もまた、肺腑をえぐられているかの如くに苦しげだ。
「何故、私は撮影した写真を廃棄しているの? 私は、その一瞬を永遠にしたかったから、シャッターを切ったのではないの? そんな風に、はたては思ったことはない?」
「それは……」
「思わないわよね。だって、はたてのカメラは私のより遥かに多くの写真を撮れるのだから。数を撮って、その中から出来の良いものだけを選べばいいんだから」
そう、画像の美しさと手調整の即応性で勝る文のカメラ。
手軽さと撮影枚数に優れるはたてのカメラ。
その違いが、全てを物語っている。
「初めて報道部隊用として鴉天狗に写真機が配布された時はまだ試験運用でね。めいめいに撮りたいものを撮って、新聞にしたの。……って言っても、当時の写真は銀板の一点ものだから、壁に掲載する形だったけどね」
「文は、新聞を書けなかったんだっけ?」
「……あるものは人里の俯瞰写真を撮り、あるものは家族を撮り、あるものは宴会の様子を撮って、新聞にした。銀板もごく少数しかなかったから、それぞれ皆撮りたいもの、撮ったものが違って、そこに己の望むものが見えて、面白かった。今の新聞なんかよりも、ずっと。……分かる? 当時のカメラって露光時間が分単位だから、宴会写真取った奴なんてそいつらに金縛りの術かけて撮影したのよ? そういう撮影の裏話も含めて、面白かった。……新鮮さも、あったんだろうけどね。皆がそこに、全身全霊を込めた」
「……」
「私は空を撮った。でもね、当時の写真はまだ感度? なにそれってものだから。ぜんっぜん奇麗な写真にはならなかったの。空だけをひたすら撮って、現像して、思わず床に手を付いたわ。どうしてこうなった、って」
そう語り、今現在の空を眺めている文の瞳にはしかし、その当時の空もまた映っているのだろう、と。
何とはなしにはたてには、それが確信できた。
「貴女の言うとおり、私は記事が弱いからね。どうやればこの写真の元となった風景の美しさを説明できるか悩んで、結局写真しか掲示しなかったの」
文の写真を目にした当時の同僚達はしかし、苦笑しつつも納得を湛えた面持ちで軽く文の肩を叩く事で、感想を示してくれた。
そんな過去の日を、思い出して。文は少しだけ懐かしさに埋没した。
「……それじゃ、何も撮れなかったわけじゃなかったんだ」
「まぁね。でも新聞にならなかったことは事実。今でもいい笑い話よ」
そう自嘲する文の表情はしかし柔らかく、己の魂に染み込んだ幸福を紡ぎだしているかのようで。
しかしその表情もすぐに消え去ってしまって、
「私は、カメラというものは『残したい』今を永遠にするものなんだって、そう思ってる。でもはたては違うわよね」
「……うん」
「永遠にしたいから、私はシャッターを切るのに。シャッターを切った私達の胸中に浮かぶのはその一瞬に対する感動じゃなくて、それをカメラに収められた、っていう一介の時間泥棒としての喜びなのよ」
「それは」
「違う、って言いたい? 言いたいわよね? でも私は問うわ。貴女、この一ヶ月何回シャッターを切った?」
「……分からない」
「それらが何を撮った物か、今どれだけ口にできる?」
「……三、四枚かな」
「そう、そうでしょうね。でもそれって、おそらくは昨日今日で撮った写真でしょ?」
「……」
「私達は、あまりにも容易く永遠を作り上げる手段を手にしてしまった。その手段を介した光景を眼にする私達の心には、一体どれだけのものが残るというの?」
まるで己の魂に染み込んだ毒を撒き散らすかのように、文は語る。
対するはたては、文に返す言葉を持たなかった。
「写真が撮れなくなってから紅魔館の花壇を見て、『ああ、奇麗だな』って思ったの。一度記事にしたことはあったのに。魔理沙の弾幕もそう。奇麗だった。どっちも、何度も取材中に目にしたことがあるというのに。写真だって、何枚も撮ったはずなんだ」
そう語る文の声は苦悩に満ち溢れていた。その苦悩の正体が今のはたてには、なんとなく分かる。
美しいと思ったからシャッターを切った。切って、満足した。だがカメラを持たぬ時に再び目にしたその光景に「驚いた」のだ。美しさを「再確認した」のではなくて。
「はたて、私は何を見ていたの? 私の中には何が残ったの? 私の感情は全てシャッターと共に写真に記録されて、私の中には何も残らなかったってことなの?」
「で、でも! あんたの感動はあんたの脳じゃなくて写真に記録されたってことでしょ!? ならその写真を見返せばいいだけのことじゃない!」
「それはつまり、写真がなくなってしまったら私の感動も消えてしまうってことでしょう?」
「記憶の方が絶対じゃないじゃない! どんなに忘れたくないって思ってたって、私達は忘れるわ! それを補うことが悪いことなの!?」
「『想い』の保存先を己の外に全て依存してしまったら、私は何のためにここにいるの?」
そのなんでもないはずの問いかけに、はたては返す言葉を失った。
はたてが徹底したリアリストなら「情報を何処に保存しても差分はない」と返せただろう。保存する場所が違うだけだ、と。それは感傷にすぎないと。
写真こそがもっとも確実に、風景を保存することができるのだと。お前だって、残したいから写真を撮るのだと、今言ったではないかと。
「分かるような、気がします」
代わりに答えたのは、最新の撮影技術を知る現代人、東風谷早苗だ。
「運動会って言って分かりますかね? ええと、一年に一回、子供達が大人に自分達の活躍を見せる場だと思っていただければいいんですけど」
「分かるわ」「知ってるぜ」「な、なんとなく」
「その運動会でもっとも頑張るのは子供達じゃなくてお父さん方なんですよ。準備からしてフライングが禁止されているから朝八時の開門にダッシュして、いい場所をとって」
幻想郷に来る前、親戚と会うのもこれが最後とばかりに。
遠縁の親戚の子の運動会を応援に行った、その時の光景を思い出しつつ苦笑しながら、
「子供の一瞬の雄姿を収めるために、必死でビデオカメラを構えるんですよ。雑音たる自分の声が録音されないように、押し黙ったままで」
「なんか、ショットを撃たない文みたいだな」
「それを見た神奈子様はこう仰ったんですよ『馬鹿だな。目の前で子供が頑張ってるんだから応援の一つでもしてやるべきではないのか?』って」
「……正論ね」
「それを聞いた私はこう思ったんですよ『でも、これが後々役に立つこともあるんですよね、披露宴とかで』って。あ、披露宴ってのは『結婚に際して過去を振り返る為の宴会』とこの場では思っといてください」
「正論じゃない」
「ま、世の中一方的に正しかったり間違ってたりするものなんて確かにそうないよな。で?」
続きを促す魔理沙にあくまでこれは私の意見ですが、と前置きした上で、早苗は苦笑に悲痛をも加味したような表情で言葉を紡ぐ。
「子供達って自分を大人びて見せることに執着しますから、親の声援を受けてる子供をマンモーニって見下す傾向がありますし、そういう意味で言えば私のほうが正しいと言えるのかもしれません。 ……イジメを避ける意味では」
「趣旨が変わってきてるわね」
「すみません、今のは撮られる側の意見です。で、話を戻しますと、私が気になったのはカメラを構える以上、絶対に操作に意識を向ける必要がありますよね、ってことなんです。子供が全力を尽くしている時に、応援する気持ちを一瞬も絶やさずにいられているのか、ってことなんですよ」
「ああ……」「それは」「あるかもしれんな」
「永遠は、やはり禁忌だと思います。気づけば振り回されていて、今を大切にすることを忘れてしまうんですよ。掌に乗ってしまうような、小さい永遠にすら。私達学生と携帯とかも、まさにそうでした」
「……掌の上の永遠にも、か」
魔理沙が、溜息混じりに早苗の言を締めくくった。
成る程、射命丸文の心境を理解することは、姫海棠はたてにとって知るの喜びだけをもたらすものではなかった。
姫海棠はたては今時の鴉天狗だ。書きたいものがあるから新聞を書いているのではなく、周囲がそうだから己も新聞を書いているだけ。
カメラは手ブレ補正つきフルオートのバカチョンで。メモリだってギガバイト。写真を撮るのもあっという間だ。
似たような写真を撮りたいだけ撮って、その中から好きな一枚をチョイスすればよく、それでも駄目なら念写でGO。
そしてそれが、念写を除けば今の天狗新聞の主流でもある。伝える為に書くんじゃなく、書く為にネタを探すのだ。
「烏だった時、滞空しながら色を変えていく世界を一日中眺めていた。鴉天狗になって筆を持つようになった後は、目に留まった風景を描写するために半日をかけた。湿板カメラを手に入れてからは準備を含めて一時間。フィルムカメラで1分。今の私は、それだけしか世界を見ていなかった。これじゃ心には何も残らないわよね」
成層圏の大気にではなく、心中の空白に凍えたかのように文は身を震わせた。
だが、時代が既に変わっているのだ。天狗社会ではもう写真は貴重なものでも、珍しいものでも、ましてや記念でもなんでもない。
大量に生産して、大量に消費する。それが当たり前だ。
「ゆとりを持てるように道具が発達しているのに、便利になっているのに。その道具が心を知らず知らずのうちにそぎ落としていく、ってのは皮肉なものね」
「文は、もう写真を撮りたくないの?」
恐る恐る、はたてはそう口にした。
これまでの会話の内容からして、文はもうカメラを持たないのではないか。ふと、そんな恐怖に襲われたのだ。
だが、
「何言ってんの。撮りたいに決まってるじゃない」
「わけわかんない」
このお馬鹿、と笑う文の表情は穏やかで、こんこんと湧き出る清水のような瑞々しさを湛えている。
「あくせくするのはやめる、ってことよ。今までずっと私は道具に踊らされてきた。だからもう一度写真と向き合って……いや、もう十分に向き合った。撮りたいものだけを撮るわ。それがどんなに貴重な一瞬でも、撮る必要のないものは無理には撮らない。のんびり、焦らず」
自分の中に収めたい光景は己の内へ。そのうえで他者に知らしめたい、共有したい光景はフィルムの中へ。
「なんだ、私は撮る価値がないってことか?」
先程の弾幕ごっこを思い出して、魔理沙がちょっと膨れてみせる。
しかし文は小さく首を振った。撮るべき価値がないのではない。撮る必要がないのだ。
「魔理沙と私はいつでも弾り合えるじゃない。だから見たくなったら、いつでも見に行く。弾幕ごっこは、絵で見るものじゃなくて飛び込んで行くもの、でしょ?」
「む、そ、そうか」
「でも、いつか記念に撮りましょうか。やっぱり新聞は書きたいし。だからとっておきの弾幕を用意しておいてね」
笑いかける文にサムズアップ。任せろと笑う魔理沙の横で早苗がポン、と思い出したように手を叩いた。
「トーキョーにですね。おいしいドーナッツ屋ができたっていうんで、友達と一回行って来たことがあるんですよ」
「いきなりどうした? 早苗」と魔理沙が首をかしげる。茸マニアはあまり食には興味がない。
「いやそのドーナッツなんですけど、アツアツの出来たては凄く美味しいんですけど、お土産で買って帰って神奈子様と一緒に食べるとやっぱりちょっと違うんですよねー」
「ああ」と文は早苗の言わんとすることを理解した。文も神奈子もポンデ大好きだ。
「でも出来たては凄く美味しかったんですよ、って神奈子様に力説したら、じゃあ今度一緒に行こうかって話になりまして。……結局行けなかったんですけど」
「それで?」と未だにはたては分からない。でもはたてもスイーツは大好きだ。
「現地に行って美味しいもの食べて、ちょっと劣っても少しだけお土産にして、人に配って、その気にさせて、今度は一緒に行けたらいいな、って。そういうことです」
「そうね。それが理想だわ」
微笑む文に、ですよねーと早苗の笑みが重なった。
その微笑を中断させたのは、空腹を訴える早苗の腹の虫だ。早苗が顔を紅く染めるが、自業自得。徹夜明けにドーナッツの話なんぞをするのが悪いのである。
「さ、もうすっかり朝になっちゃったし、そろそろ帰りましょ?」
「そうですね。ここUVが燦々と降り注いでますし、お肌によろしくないです」
「あーさっきから目を閉じてもなんか瞼の裏が光ってるもんなぁ」
「あ、ちょっと待ってよ! 一枚だけ、写真を撮るから」
そう言うとはたてはポケットからカメラを取り出して、成層圏に佇む三人に向ける。
「ならせっかくだからはたてさんも入りましょうよ! セルフタイマーありますか?」
「あるけど……どうやってカメラ固定するのよ?」
「見ててください、ふんっ! ……あ、もう離して大丈夫ですよ」
早苗が小さく印を結んだのちに、はたてにカメラを放すように促す。
恐々とはたてが手を離すと、成る程。カメラが空中に固定されている。
「乾を操る能力のちょっとした応用です。さ、セルフタイマーを作動させてくださいな」
「ん、ポチッとな」
キーを押下して、はたてもまた文の横へと移動する。
「おい早苗、さりげなく真ん中寄ってくるなよ!」
「何言ってるんですか! 場所取りは熾烈なんですよ!」
裏面のパイロットランプが点滅を始めた。あと五秒だ。
「ところでこれ、全員ファインダーの中に入ってるんでしょうか?」
四。
「さぁ? 駄目だったら駄目で運がなかったってことだろ。一発勝負も悪くないさ」
三。
「はたて」
「なに?」
二。
「この被写体を、カメラに収めたい?」
一。
――勿論。こんな場所での撮影なんて、滅多にないもん。
ピロリーン、なんて。
気が抜けるような音と共に成層圏の風景が一つ、小さな永遠になった。
◆ ◆ ◆
「文ってさ、私のこと嫌いだよね」
地上を目指しながら何気ない風を装って、はたては尋ねる。
念写、という他人の写真をかっぱらう能力は、今日知った射命丸文の本心から見ればもっとも忌むべきものであるはずだ。
だけど、
「昔はそんなに好きじゃなかった。でも、今は割と好き」
「え!?」
その返答ははたてにとってちょっと予想外だった。何気ない装いが一瞬にして剥ぎ取られる。
「貴女が何でうちの班を辞めないのか、分かったから。私の写真を好きになってくれてありがと、はたて。今日からは、もっといい写真を見せてあげられるはず」
「な、何の話よ!?」
後ろから抱き付かれ、耳元でそうささやかれれば否が応にもはたての動揺は増す。心臓が早鐘と化してしまう。
「貴女、私の写真を見たいから『波班』に今もいるんでしょ? 才色兼備な文ちゃんにはすべてマルッとお見通しよ」
「……さっきまで何も分かってなかったくせに」
「おっとそれは私の発言の正しさを肯定するってことね」
はたては俯いたまま、何も答えない。
そんなはたての心へと、透すように。
「はたて。いつか貴女の写真が見てみたい。貴女が撮りたいと、他人と共有したいと思ったものを私に見せてはくれないかしら?」
「……気が、向いたらね」
ちょっと考えて、はたてはそう、返す。
「文の考えは理解したけど私には私の意見がある。私は写真をそんなに重いものにしたくないの。だからまぁ、気が向いたらね」
文の写真は好きだ。それは認めよう。だけど、己が新聞を書くという観点から見れば話は別だ。
現場に出て己が撮りたいものを取るべき、という意見には共感できるが、絶景や稀有な一瞬を前にして写真を撮らないなんて馬鹿らしい、とはたては思うのである。
人を惹きつけるために新聞を書くならば、最高の素材を用意する努力をすべきだ。
それこそ連写だって、何枚写真を撮ったって。撮らないことに意味がある、なんて馬鹿らしい。レンズ越しになったからって、見える景色に変わりはないだろうに。
要は、振り回されないように注意すればいいだけじゃないか、と。
無言の内にそう返された文の表情は、残念の中にも安堵を含むものだった。文には文の、はたてにははたての道がある。だから、
「やっぱ若い鴉天狗には私の崇高な悩みは理解できなかったのね。可哀想に」
「うわー、自分が時代に取り残されてることにも気付けないで、かっわいそー!」
互いにムッとした表情を浮かべようとして、
「若造が時を得顔で」「老害が偉そうに」
失敗した。自然と顔が綻んでくる。
「で、さっきの写真はどうしたい? セピアにする? それともデコる?」
「そのままで」
「つまんない奴」
口を尖らせるはたてに目をやって、本当に変わってないな、と文は軽く胸をなでおろした。
やりたいようにやればいいのだ。ただ新聞を書くのが楽しいというなら、それはそれでありなのだから。
「あー、帰ったら何を記事にしようかなー。さっきの写真は記事にはなんないだろうし」
多分、己には文のような写真は取れないのだろう、とはたては思う。
文にはまず己が目にしたい光景があって、次に写真がある。
はたてにはまず新聞があって、次に写真がある。
だから技術云々はともかく、人を惹きつける写真、という意味でははたては文には絶対にかなわないのかもしれない。
だが新聞となれば話は別だ。はたてにとっては新聞あっての写真。
総合的な完成度を鑑みれば、写真に囚われすぎている文々。新聞を花果子念報が追い抜くのは時間の問題である!
そう気炎を上げたというのに、
「しばらくは妄想念写新聞しか書けないと思うけどね」
「だろうな」
魔理沙と文が顔を見合せて苦笑するのを見咎めたはたては首をかしげる。
「? どういうことよ?」
遅れて早苗もしたり顔になったこともあって、はたてはちょっとイラッときた。
「分からない?」
つまりは。
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「班長、『人里における術師と武士の推移 百季~』が見当たらないんですが」
「それ『仁班』のみっちゃんが持ってってたはずよ。次持ち出し記録忘れたらヤクジントルネードって言っといて」
「班長、『山における人間進入許容範囲改定要望に対する公式回答』上げたので確認と承認お願いします」
「机の上置いといて。明日見て印が押してなかったらここの引き出しから印出して自分で押印して」
「班長、架空索道敷設対策会議が十八時から始まるわよ」
「もぉー無理だってばぁ! 文、それ前後関係知ってるあんたが出てよ!」
「駄目よ。班長以上は全員参加。貴女じゃなきゃ駄目に決まってるじゃない」
こういうことだ。
休暇から帰ってきてみれば文は降格。
まぁ、天狗の体面に泥を塗ったのだから当然であろう。
そうなれば在班暦が二番目に長い者が新たなトップになるのはごく自然な流れであると言える。
「わけ、ねーだろ! つーかさ、普通ベテランをよそから引っ張ってくるでしょ?」
「激務で知られるうちの班長なんて誰がやりたがるのよ? いいじゃないの、異例のスピード出世なんだから」
ぱちぱちと軽い拍手。文の祝福は九割の揶揄と一割の賞賛を湛えた笑顔である。デスクで悶絶するはたてからすれば全く嬉しくない。
「……つーかさ、何で仕事量減らないわけ?」
元々は文を班長の座から追い出してとっとと大天狗になるように仕向けるため、「波班」には膨大な仕事量が割り振られていたはずなのに。
「事務作業が多いうちの仕事をいきなりドンと他班に回したって、どこもかしこも火を吹くだけでしょうが。少しずつ分散されて減っていくだろうからそれまで頑張りなさい」
「……冗談じゃないわ」
とてもじゃないが新聞なんて書いている余裕がない。
書類整理と会議の繰り返しにスケジュールが埋め尽くされ、取材に出ていける時間がない。
こんな状況でどうやって目の前の鴉天狗は新聞を書いていたのだろうか?
――こいつマジでできる奴だったんだなー。
悔しながらもはたては認めざるを得ない。目の前の鴉天狗は化け物だ。
ついでに突然やって来て華麗に仕事をこなして帰ったあの中華怪人も化け物だ。外見からして絶対体育会系だと思っていたのに、まさかのメギドラオンだったとは。
「あ、そうだはたて。会議行く前にここに印を頂戴」
「はいはいポンっと。で、それなに?」
「ん? 休暇申請」
……はーたん、そのことばのいみがわかりません。
晴れやかな笑みを浮かべる部下の鴉天狗をはたてはじろり、と睨む。
「……あんた、この状況で一人だけまだ休み取ろうっての?」
「うん。だって最近有給使う機会がなかったらめっちゃ余ってるのよ。二週間ほど旅に出るから後よろしく」
「文ぁあああああああ!!!」
「はて、既にご承認頂いたはずですが? ……はたて、承認印っていうのはね、そんな軽い気持ちで押しちゃ駄目。それは責任を負うってことなんだから」
言ってることは正しいが、これでもかと言わんばかりに正しいが! ならそのニヤニヤ笑いをやめろぉ! とはたては猛り狂う。
今回は代打もいない。人手が一人分足りなくなる、完全なデスマーチだってのに。
だがもうそんなはたてなど視界に入ってすらいないのだろう。
既に心ここに在らずといった表情で、文はてきぱきと自分のデスクを整頓している。
「よく分からないけど魔理沙が今なら博麗大結界の外に出れる、って言うんでね。ちょっと早苗や魔理沙と外界を満喫してくるわ。あ、早苗が女将も誘ったって言ってたからしばらく屋台はお休みみたい」
「あ、あ、あんたねぇ……」
――ヒッキーはーたん唯一の安らぎ空間まで奪うってのかあんたって奴はぁー!
「ちなみにそこの一角の書類、全部片付けといたから」
「このババ……え? マジで? ……うわ、ホントだ、終わってる」
はたては己のデスクに山となっていた書類にパラパラと目を通してみるが、成る程全て後は承認するだけのようだ。
さり気にはたての苦手な河童との交渉や会議の進行調整等、他人との検討が必要な物を優先して片付けてあるのが心憎い。
これならば、うん、まぁ。文が抜けても何とかなるだろう、とはたては内心で胸をなでおろした。
「ま、いいや。いってらっしゃい。フィルムはどんだけ持ってくの?」
「四本。お土産買ってくるけど、何がいい?」
「何処に行くのかも分からないのにこれって言えるわけないでしょ? だから」
四本か。ならば撮影できるのは一日十枚程度。記者としてはとても多いとは言えないが。
はたてはミスティアを真似てデスクにトン、と頬杖をつく。
「帰ってきたら、さ」
知りたいの。
「写真、見せて」
文が奇麗だと思った光景を。
「喜んで」
自信満々の笑みを一つはたてに残し、文は颯爽と身を翻して作業室を去る。
バタン、と扉が閉まり。
自由な風が窮屈な作業室から旅立っていく。
これで、いいのだろう。
群れで生きることに窮屈さを感じないはたてが此処にいて、自由を求める文が其処にいない。
多分、落ち着くところに落ち着いたのだろうと思う。
若干、文と共に世界を回ってみたいという気もないではないが、
「私も、旅に出てみようかな」
「「「「「やめてください。あんな奔放なのは一人で十分です」」」」」
「違いない」
口をそろえる後輩達に目をやって、苦笑する。
それに初めて、はたては文に『甘えられた』のだから。
口では色々言いつつも自分のことは自分でやる、と言わんばかりに部下に頼ることなかった射命丸文が。
文の本心を知りたいと望み、正面からメンチ切って、その胸中を理解した姫海棠はたてに。
代打も用意せずに、後をよろしくと頼んだのだから。共に旅に出るわけにも行くまい。
――あー、惚れた側って一方的に不利ね……
悔しいから文が帰ってきたら昇進祝いをやろう。
「波班」全員分の飲み食い代をあいつに支払わせてやる。
文が撮ってきた写真を肴に皆で酒を飲みまくってやる。
これで写真がつまんなかったら全班員で文をフルボッコだ。
期待を裏切るようならこの姫海棠容赦せん!
「ま、頑張れー。伝統の幻想ブン屋」
一言、呟いて。
鴉天狗報道部隊「波班」班長、姫海棠はたては。
己の職務を全うすべく必要な書類をまとめると、不毛な会議へと挑んでいくのであった。
おしまい。
途中で文を上げるためにはたてが割を食っちゃうかなと不安でしたが、文には文の。
はたてにははたての道があり魅力があったので良かったです。
あと早苗さんがかわいい!
文とはたての対比が非常に興味深いですね。
あと早苗さんのドヤ顔ダブルピース写真ください
ツアーに参加すると、必ずカメラを通して景色を見る」という国語の小論があったのを思い出しました。
各キャラ魅力的なんですが、おかみすちーが特に表現しがたい良いキャラしてました。
ありがとうございました。
あと、登場キャラ多いので、もっと長くなっても作者さんの実力ならできるはず
写真に対する考えを文の苦悩から語るのは上手いと思いました
キャラの立て方も素晴らしかったです
また内容もさることながら、無駄がなく実に洗練された文章だと思いました。
ありがとう
文魔理モノって結構少ないんですよね……。
キャラクター全員が『生きている』作品だと感じました。
良い作品でした。
……パスポート持ってない。
はたての方の苦労を偲んでしまう俺は自由だと安定しない人間なんだろうなぁ。
面白かったです。
あと早苗さんは文より自由だと思う
少なくともこのSSでは
過去や未来なんて存在しない物で、写真の様な「記録」でしか確認できない以上は、文の思考はちょっとドン詰まりの状況だったんでしょうがそれを言うのは野暮かな
人間勢が格好いい。ミスティアはもっと格好いい。文の悩みは趣味人が趣味を仕事にしてしまった後に感じる優先順位の矛盾に似ているような気がしました。世代間の認識の不可解とか、自由の了見とか。兎に角、読んで良かったと思えました。
コレしか言えない口下手な自分が恥ずかしくもありますが、とても面白かったです。
面白かったー
すごく引き込まれました。
最初は綺麗な写真を目指す白黒フィルムで
それがいつしか記録写真ををデジカメで連写
撮りたい物は写らない物だったんだよなー
なんて思い出してました
苦悩の理由とか、少しの笑いできちんと引っ張りつつ
各人への考えや主張をきっちり対比させ鮮やかに描き出されているように感じました。
キャラクタみんなとても丁寧に書かれていて、共感出来ました。
良いお話を有難うございます。
写真に対するやりとりは思う所がいくつもあったり。
世代や撮る対象でスタンス全く違ってきますよね。
そんなのはどうでもいいけど時の流れに身をまかせ、されど私はかわらない
おもしろかった!
本当に面白かったです!!!!!
地味に重要なミスティアが特に気に入りました。
文の根源に関わることをテーマに、魅力的な展開を見せたSSだと思います。ごちそうさまです。
ほんの少しだけでしたけど、鴉天狗と魔法使いと現人神と夜雀によるアマゾン旅行、良かったです。
次作に出てきた写真の事を思うと、涙が出るほどジーンと来ました。
あの永遠の一瞬が四人にとっての大切な思い出なんですね...。
素敵な作品でした。
あややの写真に対する情熱がよかったです
そして美鈴がそこまで有能だったとは・・・
面白かったです!
勿論自分の目で。