私達のサークル活動の打ち合わせは、大概カフェだとかファミレスだとか、片手間に舌と胃を満足させられる場所で行う事が多い。
だから、別に此処を指定した彼女に文句を言うつもりはないけれど。
待ち合わせの時間の10分前には待ち合わせ場所で待っているのが、日本人だというのに。相も変わらず時間にルーズな彼女は、平気な顔で30分も遅刻して来るのだから笑えない。
けれど、百歩譲って遅刻ならまだ許せる範囲。いつもの事だ、普段通りだと自分に言い聞かせて、彼女に嫌味たらしい小言を浴びせてやれば、私の気も済む。
しかし、今回ばかりは許せない。
先程から、彼女は私ではなく空ばかり眺めている。
空は抜ける様な青空で、雲の一つも見当たらない。まさか、空模様が心配という訳でもないだろうに。日差しが心配なら、折り畳み傘の一つでも貸してあげるつもりだ。
自分に構って貰えない寂しさからだろうか、私、マエリベリー・ハーンは、向かいの座席の背もたれに寄りかかり、空をボーッと眺めている彼女、宇佐見蓮子に皮肉を飛ばした。
「どうしたのよ蓮子、空なんて見て。まだ昼よ。貴方の眼は、夜にしか役に立たないでしょう?」
お互いの仲を信じているからこそ言える、鋭い軽口に叩かれた蓮子は空を見上げたまま、目線だけを動かして私の方をチラリと見た。
それから、彼女の口がぱっくりと開いたと思うと、蓮子は何かを思案する様にまた口を閉じてから、まるで甲羅から首を覗かせる亀の様な愚鈍な動きで、首を起こした。私と蓮子の茶色い瞳が合わさる。
無垢な子供の瞳と同じ彼女のソレの中に、甘ったるいカフェオレの入ったカップの中身を、白いストローで不機嫌に掻き混ぜている私が、小さく映り込んでいた。
「貴方の眼は良いわよね~、四六時中、不思議なモノがいっぱい見えてさぁ~」
不意に口を開いた蓮子は、私への羨望の気を呑気にぶつけると、青いペンキをぶちまけたキャンバスに目を向けてしまった。
一方の私と言えば、蓮子の言葉に思わず「はぁ?」と、苛立ち混じりに返していた。確かに蓮子はマイペースだけれど、唐突に私の眼を羨ましがられても、反応に困る。貴方は貴方で、奇妙な眼を持っているでしょうに。
堂々巡りだ。蓮子は青空の観察を再開して、私が不満を募らせていく。このオープンカフェに来た直後と、全く状況が変わっていない。
私はいつも通りの蓮子に呆れ、彼女に聞こえない程の小さなため息を吐きながら、洒落た装飾の施された白いテーブルに両肘を付き、手を組む。
そして、私は精一杯の作り笑いを満面に浮かべながら、努めて優しい声音で蓮子に問い掛けた。
「…答えになっていないのだけれど?」
1+1=2。誰でも分かる至極単純な数式だ。私の問い掛けが『1+1=?』だとしたら、蓮子は『2』ではなく『3』と答えた様なものだ。
無論、言葉のやり取りに決まった解は存在しない。けれど、答え方というものは有るだろう。
自分でも知らず知らずの内に、目付きを鋭くしていたのだろうか。蓮子はお気に入りの帽子を深く被り、まるで仮面の様に表情を隠してしまった。
暫くじぃっと彼女をねめ付けていたけれど、蓮子はせっかく注文したアイスコーヒーにも口を付けず、眠気を誘う日和りを贅沢にも全身に浴びている。その内、寝息でも聞こえてきそうだ。
私は小さなため息を吐くと、プラスチックのカップから伸びるストローに口を付けて、頬杖を付く。
すっかり温くなってしまった所為か、只でさえ甘ったるいカフェオレはくどい甘味を更に強めている。啜る度に舌にベッタリと残る甘さが、どろどろと私の喉を通って不快な潤いを与えてくれた。それが妙に腹立たしく感じるのは、何故だろうか。
むくれっ面でカフェオレを啜りながら、私は道路を忙しなく走っている色とりどりの車を目で追っていく。
目の前を過ぎていったと思えば、また誰かが走らせる車が通り過ぎていく。あんなに急いで、何処へ行くのだろう。
目に焼き付く様な、自己主張の強い塗料を塗ったくられた鉄の馬を観察していた私の耳に、他の客の喧騒や何処から垂れ流されている聞き覚えのあるメロディーとは違う、聞き慣れた友人の大きなため息が鼓膜を擽る。
頬杖を付いたまま、ふと、そちらの方を見てみると、並々と注がれたコーヒーのカップを脇に押し遣り、蓮子がテーブルから身を乗り出していた。
底の方に残ったカフェオレをストローで吸い上げている私に、蓮子は唐突に口火を切る。
「鉄塔をね、見なくなったと思ってね」
先程の質問の答えだろうか。随分と待たせてくれたものだ。
ズズッという汚い音を立てたのを最後に、私はカップの中身を全て飲み干すと、ストローから口を放して、抜け切らない甘味にうんざりしながらポツリと返す。
「確かに、見ないわね。というか、貴方の地元の紅白の鉄塔くらいしか、見た事ないわ」
彼女、宇佐見蓮子の地元はかつて日本の首都であったという『東京』だ。その東京のシンボルであったという『東京タワー』は、今でも脳裏に焼き付いている。私も何度か訪れた事があるけれど、あの紅と白で彩られたおめでたい配色の、レトロな鉄塔のインパクトは凄まじいものだった。今では、ただの置物になってしまっているらしいけれど。
天に近付こうと高い高い塔を建てた人々の末路を知らない無知からか、はたまた恐れを知らない無謀故か、今では大気圏を目指しているのかと思ってしまう程、高層ビルがあちらこちらに立ち並んでいる。あの墓標の様な無機質さを掻き消そうとする過度な光が、私は嫌いだ。
「んでさ、突然だけど私から提案があるのよ」
ボンヤリと東京タワーの姿を記憶の波の上に浮かべていた私は、蓮子の口から発せられた「提案」という言葉を聞き取った瞬間、我に帰ると同時に、私は眉根を寄せて顔を顰めていた。
蓮子が唐突に『提案』だとか『考えがある』だとか言い出した時は、子供が思い付きで言う様な事をそっくり言い出す。
何だかんだで宇佐見蓮子という人間と、私、マエリベリー・ハーンの付き合いは長いのだ。それくらいは瞬時に理解出来る。
私は小さく鼻を鳴らすと、前髪を掻き上げながら得意げな表情を浮かべて、こう言ってやった。
「次に貴方は『東京に旅行に行きましょう』と言うわ」
「東京に旅行に行きましょう……ハッ!?」
蓮子は「何故分かった?」と顔いっぱいに疑問と驚きを浮かべた、愉快な表情を私に見せ付けてきた。さっき迄の彼女への不満は何処へやら。思わず私は、クスクスと笑い声を上げていた。
だが、笑われたのが気に食わなかったのか、仕返しだと言わんばかりに、蓮子は唇の端を吊り上げてニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながら、ずいっと私の顔を覗き込んできた。お互いの鼻先が触れ合う程の距離だ。蓮子の茶色い瞳の中に、頬を真っ赤にして目を見開いている私の姿が、滑稽に映り込んでいた。
気恥ずかしさから、私は蓮子の詰めた距離の分だけ間隔を開ける。周囲の視線が集まっている様な気がするが、気のせいだと思いたい。
少しでも自分の気を紛らわせる為、私はプラスチック製のカップを手に取り、そこから伸びる白いストローに口を付けて中身を啜る。カフェオレはさっき飲み干したというのに。
次に蓮子は、何をするつもりだろうか。世間話か。旅行の計画を練るのか。それとも――
不安と期待とが奇妙に入り混じった感情に後押しされ、私は蓮子の方を注視する。ただし、なるべく目は合わせない様に。けれど、彼女の顔はよく見える様に。
よく動く桃色の唇。私の出っ張った顔とは違う、愛らしい平らな顔。健康的な色の肌。純粋な輝きを放つ、奇妙な茶色い瞳。
いつの間にかジッと蓮子の顔を見ていた私の名前を口にしつつ、不意に蓮子が立ち上がった。
「メリー」
一瞬、名前を呼ばれてドキリと心臓が大きく跳ねたけれど、私は深く息を吸い込んでから、蓮子の行動を真似る。
「何かしら、蓮子」
まだ日は高く、空は何処までも広がる青色を見せている。
蓮子はポケットから財布を取り出して、悪戯を企んだ子供の様な無垢な笑顔で、私に向かってこう言った。
「夜が待ち遠しいわね」
《線の路》
『結界の境目が見える。』
それが私、マエリベリー・ハーンに神様から押し付けられた奇妙な力。蓮子は羨ましいと言うけれど、『境』が見える辛さを知らないから蓮子はあんな暢気な事が言えるんだろう。一体何度、あちら側に引き込まれそうになった事か。
マエリベリー・ハーンは、見渡す限り緑と赤の花々しか見当たらない草原に敷かれた、何処かへ続いている腐ったレールの上をのんびりと歩いていた。それはまるで、かつてそのレールの上を規則正しく走っていた乗り物のように。
空は黒が埋め尽くし、闇が世界中を漂っている、静寂が支配する時間帯。遠くに目を向ければ、かつて繁華を極めた東京のビル群のまばゆい光が見えるが、マエリベリー・ハーンは目を細めて苦々しく吐き捨てる様に言う。
「明るければ、闇が立ち入る隙間が無くなると思っているのかしら」
マエリベリー・ハーンの言葉に同調したのか、はたまた異義を唱えたのか、冷たいそよ風が草花をサアサアと撫でていき、緑と赤の海が波打つ。
風がまた何処かへ旅立って行くと、こぞって集まりだした耳が痛くなる様な静けさの中を歩きながら、マエリベリー・ハーンはふと、過去の記憶と今の景色を重ね合わせてみた。
――宇佐見蓮子。彼女に振り回されるのは、今も昔も変わらない。
何時だったか。まだ私達が幼い頃、今の秘封倶楽部の様な活動をしていた事がある。子供心から来る探求心と好奇心が、私達を突き動かしていたからだ。
蓮子に手を引かれて、私は見知らぬ遠い異国の地を駆け回っていた。怪物が潜んで居そうな路地裏を、勇ましく踏み締めていく蓮子。そんな彼女の後ろを、怯えながら付いていく私。
何を目指していたのかも分からない。何処に向かっていたのかも分からない。いつの間にか、迷宮の様に入り組んだ路地裏で迷子になった私達を、寂れた街灯が頼りなく照らしてくれていた。
暗闇が怖くて。静寂が怖くて。泣き出しそうな私に、蓮子も今にも泣きそうな顔をしている癖に、私の手を強く掴んでこう言ってくれた。
「大丈夫、私が一緒だから。帰ろう、メリー」
……それから何処をどう通ったのかは覚えていないけれど、無事に帰れたのは確かだ。最後まで、蓮子は私と手を繋いでくれていた。
「…蓮子」
ポツリと、マエリベリー・ハーンは愛しい人の名前を呼ぶ。いつもなら返って来る返事の変わりは、何も語らない静寂の闇だった。それが、マエリベリー・ハーンの胸を強く締め付ける。
沈痛な面持ちで土と草に埋もれた腐ったレールを目で追いながら、まるで誰かに後押しされる様に歩き続けていたマエリベリー・ハーンの足下から、不意に闇が一目散に逃げていった。
その柔らかな光に、マエリベリー・ハーンは覚えがあった。頭上を見上げると、錆だらけの街灯から垂れている、今にも消え入りそうな頼りない弱々しい光がマエリベリー・ハーンを包み込んでいる。しかし、その小さな光が、今はとても心地好い。あの時と同じ光に、酷く安心した。
マエリベリー・ハーンは錆びた街灯に背を預け、ポケットから携帯端末を取り出す。発光する四角い画面の左上には「23:55」と無機質な数字の羅列が浮かんでいる。
マエリベリー・ハーンは暫く携帯端末の画面に視線を落としていたが、何処かから静寂を掻き乱す「カン、カン、カン」という音が闇夜に響き渡っていくと、何処かへ続いている腐ったレールの上にまた戻る。
しばらく待っていると、黒い壁の向こう側から、2つの目玉をギラギラと輝かせる鉄の蛇がやって来た。それは、マエリベリー・ハーンの様に腐ったレールの上から外れる事なく走っている。
カン、カン、カンという耳障りな音が、どんどん大きくなっていく。ギラギラ光る目玉が、どんどん近付いてくる。「境目」がマエリベリー・ハーンを飲み込もうと、大きな冥い口を開けている。だがしかし、とてつもない勢いで迫って来るソレに、マエリベリー・ハーンは笑顔すら浮かべて、こう呟いた。
「帰ろう、蓮子」
――その瞬間。
マエリベリー・ハーンの視界が、真っ黒に塗り潰された。
そして、葉の無い奇妙な赤い花が、また一輪。
とある少女の帽子の影から、東京の大地に咲き誇った。
《境の界》に続く...
だから、別に此処を指定した彼女に文句を言うつもりはないけれど。
待ち合わせの時間の10分前には待ち合わせ場所で待っているのが、日本人だというのに。相も変わらず時間にルーズな彼女は、平気な顔で30分も遅刻して来るのだから笑えない。
けれど、百歩譲って遅刻ならまだ許せる範囲。いつもの事だ、普段通りだと自分に言い聞かせて、彼女に嫌味たらしい小言を浴びせてやれば、私の気も済む。
しかし、今回ばかりは許せない。
先程から、彼女は私ではなく空ばかり眺めている。
空は抜ける様な青空で、雲の一つも見当たらない。まさか、空模様が心配という訳でもないだろうに。日差しが心配なら、折り畳み傘の一つでも貸してあげるつもりだ。
自分に構って貰えない寂しさからだろうか、私、マエリベリー・ハーンは、向かいの座席の背もたれに寄りかかり、空をボーッと眺めている彼女、宇佐見蓮子に皮肉を飛ばした。
「どうしたのよ蓮子、空なんて見て。まだ昼よ。貴方の眼は、夜にしか役に立たないでしょう?」
お互いの仲を信じているからこそ言える、鋭い軽口に叩かれた蓮子は空を見上げたまま、目線だけを動かして私の方をチラリと見た。
それから、彼女の口がぱっくりと開いたと思うと、蓮子は何かを思案する様にまた口を閉じてから、まるで甲羅から首を覗かせる亀の様な愚鈍な動きで、首を起こした。私と蓮子の茶色い瞳が合わさる。
無垢な子供の瞳と同じ彼女のソレの中に、甘ったるいカフェオレの入ったカップの中身を、白いストローで不機嫌に掻き混ぜている私が、小さく映り込んでいた。
「貴方の眼は良いわよね~、四六時中、不思議なモノがいっぱい見えてさぁ~」
不意に口を開いた蓮子は、私への羨望の気を呑気にぶつけると、青いペンキをぶちまけたキャンバスに目を向けてしまった。
一方の私と言えば、蓮子の言葉に思わず「はぁ?」と、苛立ち混じりに返していた。確かに蓮子はマイペースだけれど、唐突に私の眼を羨ましがられても、反応に困る。貴方は貴方で、奇妙な眼を持っているでしょうに。
堂々巡りだ。蓮子は青空の観察を再開して、私が不満を募らせていく。このオープンカフェに来た直後と、全く状況が変わっていない。
私はいつも通りの蓮子に呆れ、彼女に聞こえない程の小さなため息を吐きながら、洒落た装飾の施された白いテーブルに両肘を付き、手を組む。
そして、私は精一杯の作り笑いを満面に浮かべながら、努めて優しい声音で蓮子に問い掛けた。
「…答えになっていないのだけれど?」
1+1=2。誰でも分かる至極単純な数式だ。私の問い掛けが『1+1=?』だとしたら、蓮子は『2』ではなく『3』と答えた様なものだ。
無論、言葉のやり取りに決まった解は存在しない。けれど、答え方というものは有るだろう。
自分でも知らず知らずの内に、目付きを鋭くしていたのだろうか。蓮子はお気に入りの帽子を深く被り、まるで仮面の様に表情を隠してしまった。
暫くじぃっと彼女をねめ付けていたけれど、蓮子はせっかく注文したアイスコーヒーにも口を付けず、眠気を誘う日和りを贅沢にも全身に浴びている。その内、寝息でも聞こえてきそうだ。
私は小さなため息を吐くと、プラスチックのカップから伸びるストローに口を付けて、頬杖を付く。
すっかり温くなってしまった所為か、只でさえ甘ったるいカフェオレはくどい甘味を更に強めている。啜る度に舌にベッタリと残る甘さが、どろどろと私の喉を通って不快な潤いを与えてくれた。それが妙に腹立たしく感じるのは、何故だろうか。
むくれっ面でカフェオレを啜りながら、私は道路を忙しなく走っている色とりどりの車を目で追っていく。
目の前を過ぎていったと思えば、また誰かが走らせる車が通り過ぎていく。あんなに急いで、何処へ行くのだろう。
目に焼き付く様な、自己主張の強い塗料を塗ったくられた鉄の馬を観察していた私の耳に、他の客の喧騒や何処から垂れ流されている聞き覚えのあるメロディーとは違う、聞き慣れた友人の大きなため息が鼓膜を擽る。
頬杖を付いたまま、ふと、そちらの方を見てみると、並々と注がれたコーヒーのカップを脇に押し遣り、蓮子がテーブルから身を乗り出していた。
底の方に残ったカフェオレをストローで吸い上げている私に、蓮子は唐突に口火を切る。
「鉄塔をね、見なくなったと思ってね」
先程の質問の答えだろうか。随分と待たせてくれたものだ。
ズズッという汚い音を立てたのを最後に、私はカップの中身を全て飲み干すと、ストローから口を放して、抜け切らない甘味にうんざりしながらポツリと返す。
「確かに、見ないわね。というか、貴方の地元の紅白の鉄塔くらいしか、見た事ないわ」
彼女、宇佐見蓮子の地元はかつて日本の首都であったという『東京』だ。その東京のシンボルであったという『東京タワー』は、今でも脳裏に焼き付いている。私も何度か訪れた事があるけれど、あの紅と白で彩られたおめでたい配色の、レトロな鉄塔のインパクトは凄まじいものだった。今では、ただの置物になってしまっているらしいけれど。
天に近付こうと高い高い塔を建てた人々の末路を知らない無知からか、はたまた恐れを知らない無謀故か、今では大気圏を目指しているのかと思ってしまう程、高層ビルがあちらこちらに立ち並んでいる。あの墓標の様な無機質さを掻き消そうとする過度な光が、私は嫌いだ。
「んでさ、突然だけど私から提案があるのよ」
ボンヤリと東京タワーの姿を記憶の波の上に浮かべていた私は、蓮子の口から発せられた「提案」という言葉を聞き取った瞬間、我に帰ると同時に、私は眉根を寄せて顔を顰めていた。
蓮子が唐突に『提案』だとか『考えがある』だとか言い出した時は、子供が思い付きで言う様な事をそっくり言い出す。
何だかんだで宇佐見蓮子という人間と、私、マエリベリー・ハーンの付き合いは長いのだ。それくらいは瞬時に理解出来る。
私は小さく鼻を鳴らすと、前髪を掻き上げながら得意げな表情を浮かべて、こう言ってやった。
「次に貴方は『東京に旅行に行きましょう』と言うわ」
「東京に旅行に行きましょう……ハッ!?」
蓮子は「何故分かった?」と顔いっぱいに疑問と驚きを浮かべた、愉快な表情を私に見せ付けてきた。さっき迄の彼女への不満は何処へやら。思わず私は、クスクスと笑い声を上げていた。
だが、笑われたのが気に食わなかったのか、仕返しだと言わんばかりに、蓮子は唇の端を吊り上げてニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながら、ずいっと私の顔を覗き込んできた。お互いの鼻先が触れ合う程の距離だ。蓮子の茶色い瞳の中に、頬を真っ赤にして目を見開いている私の姿が、滑稽に映り込んでいた。
気恥ずかしさから、私は蓮子の詰めた距離の分だけ間隔を開ける。周囲の視線が集まっている様な気がするが、気のせいだと思いたい。
少しでも自分の気を紛らわせる為、私はプラスチック製のカップを手に取り、そこから伸びる白いストローに口を付けて中身を啜る。カフェオレはさっき飲み干したというのに。
次に蓮子は、何をするつもりだろうか。世間話か。旅行の計画を練るのか。それとも――
不安と期待とが奇妙に入り混じった感情に後押しされ、私は蓮子の方を注視する。ただし、なるべく目は合わせない様に。けれど、彼女の顔はよく見える様に。
よく動く桃色の唇。私の出っ張った顔とは違う、愛らしい平らな顔。健康的な色の肌。純粋な輝きを放つ、奇妙な茶色い瞳。
いつの間にかジッと蓮子の顔を見ていた私の名前を口にしつつ、不意に蓮子が立ち上がった。
「メリー」
一瞬、名前を呼ばれてドキリと心臓が大きく跳ねたけれど、私は深く息を吸い込んでから、蓮子の行動を真似る。
「何かしら、蓮子」
まだ日は高く、空は何処までも広がる青色を見せている。
蓮子はポケットから財布を取り出して、悪戯を企んだ子供の様な無垢な笑顔で、私に向かってこう言った。
「夜が待ち遠しいわね」
《線の路》
『結界の境目が見える。』
それが私、マエリベリー・ハーンに神様から押し付けられた奇妙な力。蓮子は羨ましいと言うけれど、『境』が見える辛さを知らないから蓮子はあんな暢気な事が言えるんだろう。一体何度、あちら側に引き込まれそうになった事か。
マエリベリー・ハーンは、見渡す限り緑と赤の花々しか見当たらない草原に敷かれた、何処かへ続いている腐ったレールの上をのんびりと歩いていた。それはまるで、かつてそのレールの上を規則正しく走っていた乗り物のように。
空は黒が埋め尽くし、闇が世界中を漂っている、静寂が支配する時間帯。遠くに目を向ければ、かつて繁華を極めた東京のビル群のまばゆい光が見えるが、マエリベリー・ハーンは目を細めて苦々しく吐き捨てる様に言う。
「明るければ、闇が立ち入る隙間が無くなると思っているのかしら」
マエリベリー・ハーンの言葉に同調したのか、はたまた異義を唱えたのか、冷たいそよ風が草花をサアサアと撫でていき、緑と赤の海が波打つ。
風がまた何処かへ旅立って行くと、こぞって集まりだした耳が痛くなる様な静けさの中を歩きながら、マエリベリー・ハーンはふと、過去の記憶と今の景色を重ね合わせてみた。
――宇佐見蓮子。彼女に振り回されるのは、今も昔も変わらない。
何時だったか。まだ私達が幼い頃、今の秘封倶楽部の様な活動をしていた事がある。子供心から来る探求心と好奇心が、私達を突き動かしていたからだ。
蓮子に手を引かれて、私は見知らぬ遠い異国の地を駆け回っていた。怪物が潜んで居そうな路地裏を、勇ましく踏み締めていく蓮子。そんな彼女の後ろを、怯えながら付いていく私。
何を目指していたのかも分からない。何処に向かっていたのかも分からない。いつの間にか、迷宮の様に入り組んだ路地裏で迷子になった私達を、寂れた街灯が頼りなく照らしてくれていた。
暗闇が怖くて。静寂が怖くて。泣き出しそうな私に、蓮子も今にも泣きそうな顔をしている癖に、私の手を強く掴んでこう言ってくれた。
「大丈夫、私が一緒だから。帰ろう、メリー」
……それから何処をどう通ったのかは覚えていないけれど、無事に帰れたのは確かだ。最後まで、蓮子は私と手を繋いでくれていた。
「…蓮子」
ポツリと、マエリベリー・ハーンは愛しい人の名前を呼ぶ。いつもなら返って来る返事の変わりは、何も語らない静寂の闇だった。それが、マエリベリー・ハーンの胸を強く締め付ける。
沈痛な面持ちで土と草に埋もれた腐ったレールを目で追いながら、まるで誰かに後押しされる様に歩き続けていたマエリベリー・ハーンの足下から、不意に闇が一目散に逃げていった。
その柔らかな光に、マエリベリー・ハーンは覚えがあった。頭上を見上げると、錆だらけの街灯から垂れている、今にも消え入りそうな頼りない弱々しい光がマエリベリー・ハーンを包み込んでいる。しかし、その小さな光が、今はとても心地好い。あの時と同じ光に、酷く安心した。
マエリベリー・ハーンは錆びた街灯に背を預け、ポケットから携帯端末を取り出す。発光する四角い画面の左上には「23:55」と無機質な数字の羅列が浮かんでいる。
マエリベリー・ハーンは暫く携帯端末の画面に視線を落としていたが、何処かから静寂を掻き乱す「カン、カン、カン」という音が闇夜に響き渡っていくと、何処かへ続いている腐ったレールの上にまた戻る。
しばらく待っていると、黒い壁の向こう側から、2つの目玉をギラギラと輝かせる鉄の蛇がやって来た。それは、マエリベリー・ハーンの様に腐ったレールの上から外れる事なく走っている。
カン、カン、カンという耳障りな音が、どんどん大きくなっていく。ギラギラ光る目玉が、どんどん近付いてくる。「境目」がマエリベリー・ハーンを飲み込もうと、大きな冥い口を開けている。だがしかし、とてつもない勢いで迫って来るソレに、マエリベリー・ハーンは笑顔すら浮かべて、こう呟いた。
「帰ろう、蓮子」
――その瞬間。
マエリベリー・ハーンの視界が、真っ黒に塗り潰された。
そして、葉の無い奇妙な赤い花が、また一輪。
とある少女の帽子の影から、東京の大地に咲き誇った。
《境の界》に続く...
コメ返しはそこで大丈夫ですが、長くなる事を嫌ってここに書く人もいます。ご自由に
しかし、どう展開するのか全く読めないですね。