「どうしたのよ蓮子、空なんて見て。まだ昼よ。貴方の眼は、夜にしか役に立たないでしょう?」
日曜日の昼時、雲一つ無く真っ青な色を展開する空をぼんやりと眺めていた私に、秘封倶楽部のメンバーにして私の恋人である、マエリベリー・ハーンことメリーは不思議な物を見る表情で、私にそう言ってきた。
気心の知れた仲だからこそ叩ける軽口に、私も何か一つ言い返してやろうかと頭を回転させたが、何処までも広がる青空と、心地好い太陽の日差しに曝されていたら、そんな気も削がれてしまった。
いつまで経っても問い掛けの答えを返さない私に、メリーは甘いカフェオレの入ったプラスチックのカップに差し込んである、白いストローを回す速度を段々と速めていった。このまま放って置いたら、極々小規模かつ極めて局地的なブラックホールが誕生するかもしれないが、その前に目の前の活火山が大噴火を起こす方が先だろう。そうなる前に、私はゆっくりと首を起こし、メリーの紫色の瞳と目を合わせ、亀の歩調を意識してゆっくりと答える。
「貴方の眼は良いわよね~、四六時中、不思議なモノがいっぱい見えてさぁ~」
そう言いながら、私は怪訝な顔のメリーから視線を外し、また青空に目を向ける。
ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうな、あの青色に混ざって溶けて無くなってしまう様な錯覚に陥るのは、私の気のせいだろうか。
空模様の観察を再開した私に、視界の外から呆れと苛立ちの混ざった、鈴を思わせる響きの声音が私の鼓膜を突く。
「…答えになっていないのだけれど?」
青空を眺めている私には見えないが、きっとわざとらしい笑顔を浮かべて私の方をじっと見ているに違いない。そういう時のメリーは、恐ろしくもあり、どこか可愛らしくもあるのだが。
きっと、メリーは不満なのだ、メリーではなく青空ばかり見ている私に、腹を立てているのだ。
ああ、分かっているよ、マエリベリー・ハーン君。君の気持ちは、よく分かっている。だから、もう少しからかっていたくなった。見えないけれど、彼女の膨れっ面が拝めるまでは、からかっていたい。
私はお気に入りの白いリボンを付けた中折れ帽子に手を掛け、日光を遮る様に目深に被る。
こうする事で、メリーからは私の表情は見極めにくいだろうが、私からはメリーの表情がよく見える。
暫くの間、メリーは私の方をじっと注目していた(私の次のアクションに、期待していたのだろう)が、やがて小さなため息を1つ吐くと、カフェオレの入ったカップから伸びているストローに口を付け、頬杖を付いて私から顔を背けた。
その表情は、親に構って貰えない子供を彷彿とさせるもので、彼女が時折見せる子供っぽい仕草や表情が、私はいとおしくて堪らない。
不満げにむくれっ面でカフェオレを啜るメリーに聞こえるよう、私はわざと大きなため息を吐き、中折れの帽子を手に取って被り直すと、飲み物を脇に押し遣り、テーブルに身を乗り出して言う。
「鉄塔をね、見なくなったなと思ってね」
私の一言に、メリーは紫掛かった綺麗な瞳で視線をチラッと此方に向けると、ポツリと言った。
「確かに、見ないわね。というか、貴方の地元の紅白の鉄塔くらいしか、見た事ないわ」
彼女の言う紅白の鉄塔とは、まだ東京が首都であった頃のシンボルの『東京タワー』の事だろう。最近では、撤去するか保存するかで、色々と揉めているそうだが。
今は、バベルの塔の末路を知りながらも、都会にはひたすらに高層ビルが立ち並んでいる。流石の神様も、手に負えなくなってきているのだろうか。
「んでさ、突然だけど私から提案があるのよ」
私が「提案」という言葉を口にした瞬間、メリーは露骨に顔を顰めた。きっと、次に私が何を言うか瞬時に理解したのだろう。伊達に長い付き合いではない、という事か。
そして案の定、メリーは得意げな表情を浮かべながら、サラサラの金色の髪を掻き上げながらこう言った。
「次に貴方は『東京に旅行に行きましょう』と言うわ」
「東京に旅行に行きましょう……ハッ!?」
私の驚いた表情を見て、メリーは口元を押さえながらクスクスと笑う。
淑やかだが、愉快そうな笑い声をあげるメリーに癒されながら、私はニヤニヤと気味の悪い笑顔で彼女の顔を覗き込んでみた。お互いの鼻がくっ付きそうな距離まで、私は顔を無意識に近付けていた。メリーの笑顔を間近で眺めたいと、心理的な作用が働いた故の行動かもしれないが。
当のメリーはといえば、私が顔を近付けると可愛らしく頬を赤らめて、私が詰めた距離に比例してそっと距離を離す。
普段ならば、ここから更に距離を縮めて彼女の逃げ場をじわりじわりと潰していく所なのだが、残念な事に此処はオープンカフェ。追い詰める為の壁も無ければ、往来を忙しなく過ぎて行く人々の視線が気になって仕方がない。
まさか、私がキスでもするのかと恐れ、あるいは期待しているのだろうか、メリーの眼があちこち彷徨っては、時折私という宿り木に止まっていく。
艶のある小さな唇。東洋人の平らな顔とは違う、筋の通った鼻。長い睫毛。仄かに紫色の混ざった、不思議で素敵な眼。紅潮した頬をより魅力的に見せる、白い肌。
此処が誰の邪魔も入らない世界だったなら、今すぐにでもキスしているのに。残念でならない。
私は目を伏せて一呼吸吐くと、彼女の名前を呼びながら立ち上がった。
「メリー」
まるで鏡の様に、メリーも私の行動をそっくり真似た。
「何かしら、蓮子」
まだ日は高く、空は抜ける様に青い。
私は財布の中身が注文した飲み物と釣り合う事を祈りながら、悪戯を企んだ子供の様な笑顔でこう言った。
「夜が待ち遠しいわね」
《鉄の塔》
星を見る。すると時間が分かる。
月を見る。すると場所が分かる。
それが私、何の変哲も無い人間として産まれた宇佐見蓮子に、神様が気紛れに与えてくれた奇妙な能力。
メリー曰く、私の能力は只の引き算だという。だとしたら、私の頭の回転は恐ろしく速いに違いない。
そうでなくても、私が今何処に立っているのかは、自分の眼で見た風景と記憶された地理を重ね合わせれば特定出来るし、時間は腕時計でも携帯端末でも開いて確認すれば良い。
他人とは違う眼を持って産まれて来たけれど、どうせならメリーの様に不思議な物が沢山見える眼が良かった。私の眼は、忘年会で披露する芸の一つにもならない。
宇佐見蓮子は、赤いペンキの剥げた、冷たい鉄細工の床に腰を下ろす。
此処が地上よりも高所だからだろう、時々体を撫でていく風にお気に入りの帽子が飛ばされない様に注意を払いながら、宇佐見蓮子は夜空を見上げた。
黒の絵の具で塗り潰されたキャンバスに、適当に金の欠片を振り掛けた、子供の美的感覚に任せた様な景色が視界一杯に広がっている。だがどうしてか、このシンプルな景色に人々は心奪われてしまうのだ。
その人々の一人である宇佐見蓮子は、夜空に瞬く星々の中でも一際強く輝く球体に注目した。
私がメリーと共に旅した遺跡『衛星トリフネ』は、未だにあの月と同じ空間を漂っているのだろうか。
冷たい夜風に吹かれながら、宇佐見蓮子はあの夜空の様に黒い記憶の海に、身を投げだしてみた。
――幼い頃、メリーと出会った。本当に小さな頃だ。
確か両親に連れられて、曾祖父の歴史だかを探りに来た、なんて言っていた。曽祖父は日本の歴史に名を刻む程の人物だったそうだが、名前は何て言っていたか。
わざわざギリシャから、こんな東の果ての小さな島国にやって来たと聞いた時、私は酷く興奮していたと思う。
地元の、それも小さな小さな範囲でしか世界を知らなかった私にとって、海の向こうからやって来た外国人は、冒険家の様に見えたからだ。
その日は、メリーと幼いながらに色々な話をした。殆ど私がまくし立てて、メリーが時々相槌を打っていただけの様な気もするけれど。
何時しか日も暮れて来て、鴉が鳴いたら帰ろうなんて時間もとっくに過ぎた頃、別れの時間がやって来た。
その別れは、友達同士で交わす軽い別れなんかじゃなくって。此処でさよならを告げたら、二度と会えない気がする別れで。言いようの無い不安に襲われたのは、今でもよく覚えている。
確か、メリーの小さな手を掴んで、こう言ったんだっけ。
「いつか、また。絶対、会おう」
子供騙しな約束。守れる訳も無い、身勝手な約束。
けれど、メリーは凄く嬉しそうな顔で、こう言ってくれたんだっけ。
「『うん。また、絶対に会おうね』……だったっけな」
だから、今。まさかこうして再会を果たして、秘封倶楽部なんてオカルトサークルまで立ち上げて、彼女が私の恋人だなんて言うのが、未だに信じられなかったりする。
幼心から口を突いて出た約束を果たすなんて、まるでフィクションではないか。『事実は小説よりも奇なり』とは、よく言ったものだ。
宇佐見蓮子は夜空から視線を外し、自分の手元に目線を戻す。彼女の温もりが、まだ手の中に残っている様な気がしてならない。
決して離れ離れにならない様に、固く固く繋ぎ合った手。
彼女と絡めた指から伝わる暖かさが、宇佐見蓮子は大好きだった。1人ではない安心感が、彼女が傍に居るという安らぎが、とても心地好かった。
「……メリー」
ポツリ、と愛しい人の名前を呼び、宇佐見蓮子は拳を握る。
握り締めた拳の中に、彼女の柔らかく暖かな手は無い。決して放すまいとして強く握っていた筈が、スルリと手の中を滑り落ちていってしまった。もう一度掴もうとした時には、彼女の姿は煙に巻いたように掻き消えてしまっていた。
握り締めた拳に力を入れてみる。爪が皮膚に食い込んでいき、赤い血が指の隙間から流れ出ると共に痛みが走るが、宇佐見蓮子は痛みなどまるで感じていない様に、どんどん爪を肉の中に潜り込ませていく。
(これくらい強く握っていたなら、あの時、メリーと離れ離れになる事は無かった筈よ)
心の中で呟きつつ、宇佐見蓮子は手を開く。
爪には趣味の悪い赤いマニキュアが、手の平から垂れる生暖かい血液は、剥げた赤色のペンキを上塗りしていく。ズキズキと手が痛み、傷口は熱を帯びている。
宇佐見蓮子は暫し赤く染まった手の平を眺めていたが、ドクドクと溢れる血に顔を顰めた。流れていく血液が彼女の『あの時』の姿と重なったからだ。
ふと、宇佐見蓮子は街中に目を向けてみる。
元とはいえ、かつては日本国の首都であった東京は、今は自然に呑まれつつある。繁華を極めたあの東京が、だ。
しかし、廃れてなお都会特有の耳障りな喧騒や、目が痛くなる光の彩りは健在だ。
夜の闇を打ち砕く人工的な光の数々は、尾を引いて走り去って行ったり、過度なライトアップで照らされた自己主張の激しい建物が殆んどだ。
だが不思議と、夜を飲み込むこの風景が、宇佐見蓮子は嫌いではなかった。もしもメリーが隣に居たら「明るいのは結構だけど、加減というものを知って欲しいわね」なんて、毒づいていた事だろう。
宇佐見蓮子は暫く都会の光景を眺めて、小さく鼻を鳴らし、勢いよく立ち上がった。そしてその勢いのまま、首を上に向けて夜空を眺める。
宇佐見蓮子の小さな瞳の中を、夜空の黒と満月がいっぱいに満たした。
「現在地、東京港区芝公園4―2―8。時刻、23時55分29秒…30秒…『境界』まで、あと5分足らずか」
独り言を呟き、宇佐見蓮子は自分でも知らない内に、笑っていた。愉快だからではない。その笑顔は、喜びから来るものだった。
宇佐見蓮子は一歩を踏み出す。鉄の板と靴が触れ合い、カツンと甲高い音を立てた。
宇佐見蓮子は下界を見下ろす。下から吹き上げられた風が、帽子を吹き飛ばそうと躍起になった。
――心臓の鼓動が高鳴っていくのが分かる。興奮から宇佐見蓮子の頬は紅潮し、早く早くと心が急かす。
……何処かで時計の針が、1つに重なった瞬間。
宇佐見蓮子は、何もない空に大きな一歩を踏み出した。
安定した静止の世界から一転、宇佐見蓮子の視界が目まぐるしく変わっていく。
まるで写真をスライドしている様に景色が次々と流れていき、都会の光が長い尾を引いて落ちていく。
先程とは比べ物にならない突風が、頬を容赦なく殴っていく。それでも宇佐見蓮子は、帽子が飛んでいってしまわない様に、確りと手で押さえ付けた。
近付いていく大地。視界を圧迫する緑。轟々と唸る風。力強く体を引っ張る重力。激しく鳴る鼓動。
確実な死がとてつもない勢いで迫ってくるというのに、笑っていた。宇佐見蓮子は、大声で笑っていた。
楽しそうに、楽しそうに。無邪気な子供のソレで、宇佐見蓮子は満面の笑みを浮かべて笑い声を上げていた。
いや、何を恐れる事があろうか。宇佐見蓮子は、置き去りにした大切な人を迎えに行くのだ。あの宇宙に置き去りにした、彼女に。秘封倶楽部のサークル活動は、まだ終わっていない。
「メリィィィイイーー!今!あの時の約束、果たしにいくわああああ!」
――その瞬間。
宇佐見蓮子の視界が、真っ黒に塗り潰された。
そして、葉の無い奇妙な赤い花が、また一輪。
とある少女の帽子の影から、東京の大地に咲き誇った。
《線の路》に続く...
日曜日の昼時、雲一つ無く真っ青な色を展開する空をぼんやりと眺めていた私に、秘封倶楽部のメンバーにして私の恋人である、マエリベリー・ハーンことメリーは不思議な物を見る表情で、私にそう言ってきた。
気心の知れた仲だからこそ叩ける軽口に、私も何か一つ言い返してやろうかと頭を回転させたが、何処までも広がる青空と、心地好い太陽の日差しに曝されていたら、そんな気も削がれてしまった。
いつまで経っても問い掛けの答えを返さない私に、メリーは甘いカフェオレの入ったプラスチックのカップに差し込んである、白いストローを回す速度を段々と速めていった。このまま放って置いたら、極々小規模かつ極めて局地的なブラックホールが誕生するかもしれないが、その前に目の前の活火山が大噴火を起こす方が先だろう。そうなる前に、私はゆっくりと首を起こし、メリーの紫色の瞳と目を合わせ、亀の歩調を意識してゆっくりと答える。
「貴方の眼は良いわよね~、四六時中、不思議なモノがいっぱい見えてさぁ~」
そう言いながら、私は怪訝な顔のメリーから視線を外し、また青空に目を向ける。
ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうな、あの青色に混ざって溶けて無くなってしまう様な錯覚に陥るのは、私の気のせいだろうか。
空模様の観察を再開した私に、視界の外から呆れと苛立ちの混ざった、鈴を思わせる響きの声音が私の鼓膜を突く。
「…答えになっていないのだけれど?」
青空を眺めている私には見えないが、きっとわざとらしい笑顔を浮かべて私の方をじっと見ているに違いない。そういう時のメリーは、恐ろしくもあり、どこか可愛らしくもあるのだが。
きっと、メリーは不満なのだ、メリーではなく青空ばかり見ている私に、腹を立てているのだ。
ああ、分かっているよ、マエリベリー・ハーン君。君の気持ちは、よく分かっている。だから、もう少しからかっていたくなった。見えないけれど、彼女の膨れっ面が拝めるまでは、からかっていたい。
私はお気に入りの白いリボンを付けた中折れ帽子に手を掛け、日光を遮る様に目深に被る。
こうする事で、メリーからは私の表情は見極めにくいだろうが、私からはメリーの表情がよく見える。
暫くの間、メリーは私の方をじっと注目していた(私の次のアクションに、期待していたのだろう)が、やがて小さなため息を1つ吐くと、カフェオレの入ったカップから伸びているストローに口を付け、頬杖を付いて私から顔を背けた。
その表情は、親に構って貰えない子供を彷彿とさせるもので、彼女が時折見せる子供っぽい仕草や表情が、私はいとおしくて堪らない。
不満げにむくれっ面でカフェオレを啜るメリーに聞こえるよう、私はわざと大きなため息を吐き、中折れの帽子を手に取って被り直すと、飲み物を脇に押し遣り、テーブルに身を乗り出して言う。
「鉄塔をね、見なくなったなと思ってね」
私の一言に、メリーは紫掛かった綺麗な瞳で視線をチラッと此方に向けると、ポツリと言った。
「確かに、見ないわね。というか、貴方の地元の紅白の鉄塔くらいしか、見た事ないわ」
彼女の言う紅白の鉄塔とは、まだ東京が首都であった頃のシンボルの『東京タワー』の事だろう。最近では、撤去するか保存するかで、色々と揉めているそうだが。
今は、バベルの塔の末路を知りながらも、都会にはひたすらに高層ビルが立ち並んでいる。流石の神様も、手に負えなくなってきているのだろうか。
「んでさ、突然だけど私から提案があるのよ」
私が「提案」という言葉を口にした瞬間、メリーは露骨に顔を顰めた。きっと、次に私が何を言うか瞬時に理解したのだろう。伊達に長い付き合いではない、という事か。
そして案の定、メリーは得意げな表情を浮かべながら、サラサラの金色の髪を掻き上げながらこう言った。
「次に貴方は『東京に旅行に行きましょう』と言うわ」
「東京に旅行に行きましょう……ハッ!?」
私の驚いた表情を見て、メリーは口元を押さえながらクスクスと笑う。
淑やかだが、愉快そうな笑い声をあげるメリーに癒されながら、私はニヤニヤと気味の悪い笑顔で彼女の顔を覗き込んでみた。お互いの鼻がくっ付きそうな距離まで、私は顔を無意識に近付けていた。メリーの笑顔を間近で眺めたいと、心理的な作用が働いた故の行動かもしれないが。
当のメリーはといえば、私が顔を近付けると可愛らしく頬を赤らめて、私が詰めた距離に比例してそっと距離を離す。
普段ならば、ここから更に距離を縮めて彼女の逃げ場をじわりじわりと潰していく所なのだが、残念な事に此処はオープンカフェ。追い詰める為の壁も無ければ、往来を忙しなく過ぎて行く人々の視線が気になって仕方がない。
まさか、私がキスでもするのかと恐れ、あるいは期待しているのだろうか、メリーの眼があちこち彷徨っては、時折私という宿り木に止まっていく。
艶のある小さな唇。東洋人の平らな顔とは違う、筋の通った鼻。長い睫毛。仄かに紫色の混ざった、不思議で素敵な眼。紅潮した頬をより魅力的に見せる、白い肌。
此処が誰の邪魔も入らない世界だったなら、今すぐにでもキスしているのに。残念でならない。
私は目を伏せて一呼吸吐くと、彼女の名前を呼びながら立ち上がった。
「メリー」
まるで鏡の様に、メリーも私の行動をそっくり真似た。
「何かしら、蓮子」
まだ日は高く、空は抜ける様に青い。
私は財布の中身が注文した飲み物と釣り合う事を祈りながら、悪戯を企んだ子供の様な笑顔でこう言った。
「夜が待ち遠しいわね」
《鉄の塔》
星を見る。すると時間が分かる。
月を見る。すると場所が分かる。
それが私、何の変哲も無い人間として産まれた宇佐見蓮子に、神様が気紛れに与えてくれた奇妙な能力。
メリー曰く、私の能力は只の引き算だという。だとしたら、私の頭の回転は恐ろしく速いに違いない。
そうでなくても、私が今何処に立っているのかは、自分の眼で見た風景と記憶された地理を重ね合わせれば特定出来るし、時間は腕時計でも携帯端末でも開いて確認すれば良い。
他人とは違う眼を持って産まれて来たけれど、どうせならメリーの様に不思議な物が沢山見える眼が良かった。私の眼は、忘年会で披露する芸の一つにもならない。
宇佐見蓮子は、赤いペンキの剥げた、冷たい鉄細工の床に腰を下ろす。
此処が地上よりも高所だからだろう、時々体を撫でていく風にお気に入りの帽子が飛ばされない様に注意を払いながら、宇佐見蓮子は夜空を見上げた。
黒の絵の具で塗り潰されたキャンバスに、適当に金の欠片を振り掛けた、子供の美的感覚に任せた様な景色が視界一杯に広がっている。だがどうしてか、このシンプルな景色に人々は心奪われてしまうのだ。
その人々の一人である宇佐見蓮子は、夜空に瞬く星々の中でも一際強く輝く球体に注目した。
私がメリーと共に旅した遺跡『衛星トリフネ』は、未だにあの月と同じ空間を漂っているのだろうか。
冷たい夜風に吹かれながら、宇佐見蓮子はあの夜空の様に黒い記憶の海に、身を投げだしてみた。
――幼い頃、メリーと出会った。本当に小さな頃だ。
確か両親に連れられて、曾祖父の歴史だかを探りに来た、なんて言っていた。曽祖父は日本の歴史に名を刻む程の人物だったそうだが、名前は何て言っていたか。
わざわざギリシャから、こんな東の果ての小さな島国にやって来たと聞いた時、私は酷く興奮していたと思う。
地元の、それも小さな小さな範囲でしか世界を知らなかった私にとって、海の向こうからやって来た外国人は、冒険家の様に見えたからだ。
その日は、メリーと幼いながらに色々な話をした。殆ど私がまくし立てて、メリーが時々相槌を打っていただけの様な気もするけれど。
何時しか日も暮れて来て、鴉が鳴いたら帰ろうなんて時間もとっくに過ぎた頃、別れの時間がやって来た。
その別れは、友達同士で交わす軽い別れなんかじゃなくって。此処でさよならを告げたら、二度と会えない気がする別れで。言いようの無い不安に襲われたのは、今でもよく覚えている。
確か、メリーの小さな手を掴んで、こう言ったんだっけ。
「いつか、また。絶対、会おう」
子供騙しな約束。守れる訳も無い、身勝手な約束。
けれど、メリーは凄く嬉しそうな顔で、こう言ってくれたんだっけ。
「『うん。また、絶対に会おうね』……だったっけな」
だから、今。まさかこうして再会を果たして、秘封倶楽部なんてオカルトサークルまで立ち上げて、彼女が私の恋人だなんて言うのが、未だに信じられなかったりする。
幼心から口を突いて出た約束を果たすなんて、まるでフィクションではないか。『事実は小説よりも奇なり』とは、よく言ったものだ。
宇佐見蓮子は夜空から視線を外し、自分の手元に目線を戻す。彼女の温もりが、まだ手の中に残っている様な気がしてならない。
決して離れ離れにならない様に、固く固く繋ぎ合った手。
彼女と絡めた指から伝わる暖かさが、宇佐見蓮子は大好きだった。1人ではない安心感が、彼女が傍に居るという安らぎが、とても心地好かった。
「……メリー」
ポツリ、と愛しい人の名前を呼び、宇佐見蓮子は拳を握る。
握り締めた拳の中に、彼女の柔らかく暖かな手は無い。決して放すまいとして強く握っていた筈が、スルリと手の中を滑り落ちていってしまった。もう一度掴もうとした時には、彼女の姿は煙に巻いたように掻き消えてしまっていた。
握り締めた拳に力を入れてみる。爪が皮膚に食い込んでいき、赤い血が指の隙間から流れ出ると共に痛みが走るが、宇佐見蓮子は痛みなどまるで感じていない様に、どんどん爪を肉の中に潜り込ませていく。
(これくらい強く握っていたなら、あの時、メリーと離れ離れになる事は無かった筈よ)
心の中で呟きつつ、宇佐見蓮子は手を開く。
爪には趣味の悪い赤いマニキュアが、手の平から垂れる生暖かい血液は、剥げた赤色のペンキを上塗りしていく。ズキズキと手が痛み、傷口は熱を帯びている。
宇佐見蓮子は暫し赤く染まった手の平を眺めていたが、ドクドクと溢れる血に顔を顰めた。流れていく血液が彼女の『あの時』の姿と重なったからだ。
ふと、宇佐見蓮子は街中に目を向けてみる。
元とはいえ、かつては日本国の首都であった東京は、今は自然に呑まれつつある。繁華を極めたあの東京が、だ。
しかし、廃れてなお都会特有の耳障りな喧騒や、目が痛くなる光の彩りは健在だ。
夜の闇を打ち砕く人工的な光の数々は、尾を引いて走り去って行ったり、過度なライトアップで照らされた自己主張の激しい建物が殆んどだ。
だが不思議と、夜を飲み込むこの風景が、宇佐見蓮子は嫌いではなかった。もしもメリーが隣に居たら「明るいのは結構だけど、加減というものを知って欲しいわね」なんて、毒づいていた事だろう。
宇佐見蓮子は暫く都会の光景を眺めて、小さく鼻を鳴らし、勢いよく立ち上がった。そしてその勢いのまま、首を上に向けて夜空を眺める。
宇佐見蓮子の小さな瞳の中を、夜空の黒と満月がいっぱいに満たした。
「現在地、東京港区芝公園4―2―8。時刻、23時55分29秒…30秒…『境界』まで、あと5分足らずか」
独り言を呟き、宇佐見蓮子は自分でも知らない内に、笑っていた。愉快だからではない。その笑顔は、喜びから来るものだった。
宇佐見蓮子は一歩を踏み出す。鉄の板と靴が触れ合い、カツンと甲高い音を立てた。
宇佐見蓮子は下界を見下ろす。下から吹き上げられた風が、帽子を吹き飛ばそうと躍起になった。
――心臓の鼓動が高鳴っていくのが分かる。興奮から宇佐見蓮子の頬は紅潮し、早く早くと心が急かす。
……何処かで時計の針が、1つに重なった瞬間。
宇佐見蓮子は、何もない空に大きな一歩を踏み出した。
安定した静止の世界から一転、宇佐見蓮子の視界が目まぐるしく変わっていく。
まるで写真をスライドしている様に景色が次々と流れていき、都会の光が長い尾を引いて落ちていく。
先程とは比べ物にならない突風が、頬を容赦なく殴っていく。それでも宇佐見蓮子は、帽子が飛んでいってしまわない様に、確りと手で押さえ付けた。
近付いていく大地。視界を圧迫する緑。轟々と唸る風。力強く体を引っ張る重力。激しく鳴る鼓動。
確実な死がとてつもない勢いで迫ってくるというのに、笑っていた。宇佐見蓮子は、大声で笑っていた。
楽しそうに、楽しそうに。無邪気な子供のソレで、宇佐見蓮子は満面の笑みを浮かべて笑い声を上げていた。
いや、何を恐れる事があろうか。宇佐見蓮子は、置き去りにした大切な人を迎えに行くのだ。あの宇宙に置き去りにした、彼女に。秘封倶楽部のサークル活動は、まだ終わっていない。
「メリィィィイイーー!今!あの時の約束、果たしにいくわああああ!」
――その瞬間。
宇佐見蓮子の視界が、真っ黒に塗り潰された。
そして、葉の無い奇妙な赤い花が、また一輪。
とある少女の帽子の影から、東京の大地に咲き誇った。
《線の路》に続く...
改行が多くて、以前の私の作風と似ていますね。
あなたの方が、とても丁寧ですが。
雰囲気も良いし文章もしっかりとしていて続きが楽しみです
ただ、蓮子の能力と引き算の件ですが、大空魔術の天空のグリニッジのページでの発言
JSTは分かるけどUTCは分からない(要約)
に対するツッコミなのではないかなぁ、と
しkっかりした文章と鉄塔の歌詞のような雰囲気が伝わってきてとても素晴らしかったです。
ぜひ続きが読みたいです。
ただ、SSを他人に見せるときは完結しているのが普通だと思います。
(たしかこのサイトの注意事項にも書いてあったような)
完結していないと、見た側の気持ちは「……で?」ってなっちゃいますよね。
あと、複数話に跨ってしまうと同じネタで複数スレッドが立ってしまうので
これもネットでは普通は歓迎されません。
SS自体は素晴らしいので、その辺も参考にしてもらえたらと思います。
続きがあるというのなら、是非未完のままで終わらないように頑張ってください。(もしかしたら書き溜めた方が色々いいかもしれませんよ)